TAQ'S WRITINGS


 


 

 

 

 最近、ストレートの友人が欲しいと思いはじめた。

 気が付けば、毎日基本的にゲイとしか関わらない生活を送っている。気持ちのよい人間関係を求め、ゲイであることを隠さないでいい環境を求めてきたら、結果的にこうなってしまった。ストレスの少ない生活ではあるが、どこかゲットーで暮らしているような気もしないでもない。

 ストレートの友人を持っている人は僕のまわりでもそんなには多くない。こんなことを書くと「僕なんか友人はストレートの方が多いくらいですよ」とか誰かに言われてしまいそうだが、僕はカミングアウトもしていない人間を友人とは呼ばない。カミングアウトがそれほど重要かということではなく、友人がそれほど重要なものだと思っているからだ。友情の基盤は相互理解でしょ?

 今年のレズビアン&ゲイ映画祭で公開された「It's elementary!」(そんなの簡単!)というドキュメンタリー映画を見た時に、ストレートの友人を持つことの意味を改めて考えさせられた。

 このドキュメンタリー映画は、ゲイやレズビアンの生活を授業で取り上げ、偏見を無くしていこうというカリキュラムを持つアメリカの小学校での授業風景を記録したものだ。アメリカでは義務教育においても、それぞれの学校の独自性が確保されており、進化論を教えないという方針を採る学校がある一方、このようなリベラルな教育方針を貫く学校もあるのだ。

 偏見を無くしていくには、できるだけ早い時期に公平な情報を与えていくことが大事なのだという考え方に支えられた授業の中で、大人たちから受け取った偏見に縛られていた子供たちが自分たちの頭で考えながら、人には色々な生き方があるのだと学んでいく様は感動的だった。

 もちろん、このようなリベラルな教育に不快感を持っている親たちも多いので、この特別授業を続けていくには校長を始めとして教師たちが一丸となって様々な圧力に対処していかなくてはならない。こういった局面ではストレートの教師たちの理解と協力が不可欠なのだ。映画の中で、ストレートの男性教師がこう話していた。「こういうプロジェクトを進めていく上で、私が異性愛者であるということにとても大きな意味があります。もしゲイやレズビアンの教師だけで進めていたなら、自分たちの宣伝に子供たちを利用しているとして反感を買い、攻撃されるだけでしょうから」

 アメリカの小学校でこういった授業が行われるのは、ゲイやレズビアンの家庭で育つ子供たちが実際にクラスの中で勉強しており、その子たちをどうやって守っていくかという切実な問題が存在しているからだが、ゲイやレズビアンの教師たちが職場でカミングアウトし、ストレートの同僚たちとの間に信頼関係を作っていなければプロジェクト自体が発想されもしなかっただろう。

 結局、当たり前のことだがゲイもレズビアンも、ストレートを含んだ社会で生きていくしかない。その意味では、ゲイやレズビアンはもっと積極的に彼らと関わり合わなければ、この社会の中で自分たちの居心地の良い場所を手に入れられないということだ。ストレートを疎んじたり、避けているだけでは僕たちの状況は決してよくならない。

 社会を変えていこうとする時、ストレートの人たちの理解と協力は欠かせない。そして、その理解は、ゲイとストレートの一つ一つの個人的な小さな友情が育んでいくのだ。

 ゲイの社会はストレートの社会に対して「もっと多様性を!」と訴え続けてきた。これはゲイやレズビアンだけが多様性に富んでいるという意味ではない。ゲイやレズビアン、そしてストレートなどを含む全体のありようが多様ということなのだ。その意味では、ゲイやレズビアンは自分たちだけで閉じてしまうと、自分たちが非難してきた、多様性を認めない硬直的な社会を作ってしまう危険性も十分にあるのだ。

 ストレート側から考えれば、彼らが僕たちと関わることで、彼らの多様性を引き出していくことも十分考えられるのだ。平等互恵だわ。 
  
 ゲイの中にはストレートの女の子の仲良しを持っている人も少なくない。そのあたりを突破口に、ストレートの友人作りを本格的にトライしてみてはいかがかな?



「バディ」1997年9月号掲載


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