TAQ'S WRITINGS


 


 

 

 

もしそれに見えるなら、僕は多分それだよ。
            ───70年代のゲイ向けTシャツ・スローガン



 ゲイであることを誰に対しても明らかにしていることを表すのにオープンリー・ゲイという言い方がある。「ゲイ」の前に「公然と」「率直に」「包み隠さず」という意味の「オープンリー」を付けたことばだ。6月号の、北丸雄二さんのN.Y.日記の中でも「バービー人形のケンはクローゼットで、このビリーはオープンリー・ゲイだという触れ込み。」という文章があったけど、こんな風に使うワケね。

 自分のセクシュアリティを他人に明らかにすることをカミングアウトと言うけど、このことばは日本でもかなりポピュラーになってきた。だけどオープンリー・ゲイということばはまだ日本では新しいことばだ。日本で実際オープンリー・ゲイしてる人ってまだほんの一握りの人たちだし、その人たちのことを表すことばはこれから必要になっていくのだろう。

 カミングアウトはその都度乗り越えなければならないやっかいなハードルがあるし、かなりのエネルギーのいる行為だ。一つ一つのカミングアウトは小さなバトルとも言える。カミングアウトには、自分の人生を戦闘状態に陥れてしまうという、ちょっとユーウツなイメージが付いて回る。

 僕の店でもカミングアウトの話をし始めると、だいたい「カミングアウト是か非か」みたいな話になっていってしまうことが多い。そんな必要はないとか、なぜ自分がゲイだと宣伝しなければならないだとか、親を悲しませたくないとか…。そのうち、だいたいゲイというアイデンティティに縛られるのはウンヌンカンヌンと話が面倒くさい方向へとずれていく。これはカミングアウトの向こう側にあるもののイメージがはっきりしていないから、そんな行為そのものの是非を問う話になってしまうのかも知れない。

 オープンリー・ゲイとはカミングアウトの完成した状態を表していることばだ。では、オープンリー・ゲイという状態はどんなものなのだろうか? 毎日がカミングアウトの連続といったような戦闘状態なのだろうか。

 オープンリー・ゲイというのは、実は、落ちついた静かな状態だ。そこでは、ゲイであることを隠す必要がないので、小さなバトルであるカミングアウトも必要ないからだ。
 自分の回りで自分と関わりのある人たちはほとんど自分がゲイだと分かっている。だから、ことさら色々と取り繕う必要もなく、自分のままでいられる。新しく知り合った人たちには、わざわざ「僕はゲイなんだ!」と宣言する必要もない。いずれ誰かから耳に入るだろうし、日常会話の中で「僕の彼が…」と話したりする中で分かっていくはずだ。

 要するに、いつでもいつもの自分でいられる。自分が自分の生きたいように生き、それを知られたらどうしようという恐れの感覚からフリーなだけ。それがオープンリー・ゲイという状態なのだ。

 オープンリー・ゲイとは自分を100%ゲイにするということではなく、逆にゲイであることを人生の中で特別扱いしないということだ。オープンリー・ゲイになって初めて「ゲイというアイデンティティに縛られずに生きていく」ことが可能になるとも言えるのだ。

 このようなリラックスした気分で生きていける状態を自分の人生に作り出すための一つの手段としてカミングアウトを考えていくべきだろう。「ゲイであることを言うか言わないか」が重要なのではなく、自分を素直に出して生きていけるかどうかが重要なのだ。しかし、小さなカミングアウトを積み重ねていくやり方以外でそんな状態にたどり着けるのかは疑問だが…。
 
 アメリカでも社会的にアウトしている人は増えてはきているだろうが、まだ少数派であることは変わらないようだ。こんな風にゲイということばの前に限定条件を付けて表さなければならないのだから。

 こんな風にオープンリーなんてことばをつけるのが意味をなくすような日が早く来ないかしらね。オープンリー・ストレートってことばが意味のないように…。


「バディ」1997年8月号掲載


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