TAQ'S WRITINGS


 


 

 

 「ドラァグする前の日は、ヒゲは全部抜くし、水分なんかほとんど採らないようにするの」
                                  ───マーガレット


 最近はドラァグ・シーンが元気いっぱい。ちょっとしたパーティでも、クラブのゲイナイトでもドラァグ・クイーンが多く見られるようになってきた。10年ほど前ならドラァグするのは、かなり心が自由なタイプしかいなかったけど、今は軽い気分で始めるゲイが多くなってきたようだ。僕の知り合いのゲイにもドラァグにはまっているのがたくさんいる。

 先月はゲイの自己表現についてかなり悲観的な話をしたが、実は、今の日本で一番生き生きとしているゲイの文化と言ったらドラァグ・シーンだと言っても過言ではない。そこでは大勢のゲイが、実に楽しそうに自己表現をしている。「楽しいからやる」という最もシンプルな理由がドラァグ・シーンをこれほど生き生きさせているのだ。そしてドラァグは、その人をも生き生きとさせる自己実現でもある。

 ドラァグは、もともとゲイが生み出した文化だし、今でもゲイがこの文化の最も重要な担い手だ。

 ゲイの文化として生まれたドラァグは、いわゆる女装とは違う。これはけっこう重要なポイントだ。女装が「女になること」を目指しているのに対して、ドラァグは「女を遊ぶこと」を目標にしているからだ。女という様式を借りながら、女を越えて、女でも男でもない何かになること。これこそがドラァグなのだ。

 ドラァグ=dragとはもともと「引きずる」と言う意味の英語だ。(薬を表すドラッグ=drugと区別するためにドラァグと表記している。)ドレスの裾をズリズリと引きずっている様子をドラァグと表現したもので、そこにドラァグの指向していたものが見えている。dragには、この他に「うんざりすること」といった意味もあるので、それもドラァグの要素としては大切かもしれない。

 要するに、できれば何メートルも裾を引くようなゴーカなドレスを、うんざりするほどコテコテに飾りたてて着たいわ!というのがドラァグの出発点なのだ。そして、どうせそんなドレスを着るんだったら、男たち(いつもゲイを蔑んでいるノンケの男よ!)がひれ伏すようなイメージの女になってやろうじゃないの! これこそが、いわゆるドラァグ・クイーンの基本様式となったのだ。

 日頃「女の腐ったような」とバカにされてきたゲイが、その押しつけられたイメージを逆手にとった「徹底した遊び」。それはノンケの男たちが女たちに押しつけたイメージのパロディであり、ブラックジョークでもある。だからこそドラァグはノンケの男たちに媚びたところがないし、攻撃的ですらある。

 ごくごく最近では、そんな部分を敏感に感じとり、ドラァグする女たちも出てきた。女がドラァグをするのは、女が今までの文脈で化粧をしたり、自分を飾りたてていくのとは根本的に違う。化粧したり、着飾ったりという、男から見た女の商品価値を高める行為を拒否するとなると、化粧をしない、着飾らないという形を採るしかなかったが、それでは何かがやせ細ってしまう。誰だってゴーカに着飾ってみたくなるときはある。そんな時に彼女たちは、ゲイが楽しそうにやっているドラァグを再発見したというワケだ。

 ここでも分かるようにドラァグは女になることではなく、「ドラァグ・クイーン」という、自分にとっての新しい価値を創り出すことなのだ。

 いつの間にかドラァグは、ゲイだけのものではなく、人間が全体性を取り戻すための重要な文化にまで育っていたのですね。

 今、ゲイの世界はますますマッチョ指向を強めている。欲望の対象が「男」なのだから「より男らしさ」を求めるのは仕方のないことかも知れないけど、「男らしさ=ノンケ」と勘違いして、頭の中身までノンケ男になっては元も子もない。

 うんと男っぽくすることで「男の様式」楽しんでいる人ほど、自分の内側にある「女の部分」の発露も確保しておかないと、自分の全体性のバランスを失ってしまうことになる。自分がバランスを欠いているなと感じたら思い切ってドラァグしてみるのもいいでしょう。

 でも、バランスのことでいったら、今一番ドラァグ文化が必要なのはノンケの男なんだけどね…。
 


「バディ」1997年7月号掲載


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