TAQ'S WRITINGS


 


 

 

 

 visibility [名詞]/目に見えること。目に見える状態。


 アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパのゲイ・パレードは年々その規模を拡大している。シドニーのマルディグラは、いつの間にか、オーストラリアで最も大きなお祭りになってしまったほどだ。

 来年は我々のためのオリンピックとも言えるゲイ・ゲームスがアムステルダムで開催される。このゲイ・ゲームスも回を重ねるごとに参加人員と参加国を増やし続けているので、そのうち真の意味での国際的なスポーツ・イベントとして成熟していくはずだ。

 こういったイベントには、それぞれ個々のゲイ&レズビアンが、楽しみのために、自己実現のためにと、様々な目的で参加するわけだが、その結果は、個々の思いを越えた形で、ゲイ&レズビアン全体の問題解決に大きく寄与する意義を持っている。

 それはゲイ&レズビアンを無視したり、否定しようとする社会に対して、我々をはっきり目に見える存在として表現することになるからだ。これが、社会の中でvisibilityを持つということだ。

 何万人というゲイ&レズビアンが集まりイベントを開けば、それは社会的にも大きな事件になり、様々なメディアは、肯定的にしろ否定的にしろ、そのニュースを伝えることになる。その積み重ねが我々のvisibilityを高めていく結果をもたらす。visibilityが高まれば、自分たちが生きやすいような社会を作っていくための要求もはっきり打ち出せるし、またそのためのパワーもあることを社会にアピールすることもできるのだ。もちろん、我々自身が自信とプライドを持てるようになることも大きなメリットだ。

 ゲイ&レズビアンがもともと抱えている大きな問題の一つは、我々の姿が目に見えにくいことだ。肌の色や性別のようなハッキリとした外見的な特徴がないため、存在が認識されにくく、それゆえ、我々の社会への要求も無視されがちだという側面があるのだ。

 言い換えると、自分たちの実体を隠してさえおけば、また自分たちの要求を主張さえしなければ、ノンケ社会の一員として無事に生きていけてしまうということでもある。自分たちの問題を下半身だけのものとして捉えている人にとっては隠していることなど大した問題ではないし、日本などでは実際そのように生きている人も多いのが現状だ。

 しかし、ゲイ&レズビアンをライフスタイルの問題として捉えようとする人にとっては、カミングアウトをしない限り不快な二重生活を強いられてしまう。

 こここそが一番やっかいな部分なのだが、実体を隠しているうちは問題も隠れているのに、ゲイ&レズビアンとして生きるためには、わざわざその問題を自分の身の上に引き起こさせてから、その問題解決のための戦いを挑まなければならない。そんなジレンマを、我々は抱えているのだ。

 ゲイリブの先輩国では、このジレンマを克服するのにずいぶん長い時間が必要だった。そういった国々では、自分たちがvisibilityを持たない限り根本的な問題解決はないという共通認識が生まれ、多くの人が個人的にも社会的にもカミングアウトしていくことの重要性が強く訴え続けられてきた。

 できる人からどんどん社会的にアウトしていく。その数が多くなればなるほど、新しくアウトする人たちがやりやすくなっていく。その積み重ねの中で社会的に visibilityを高めるイベントを重ね、ようやく現在の状況が獲得されてきたのだ。

 今や65万人もの観光客を集めるシドニーのマルディグラも20年前の初回にはたった2千人の参加者で始まったという。因みに、去年紛糾して今年の開催が危ぶまれている東京のゲイ&レズビアン・パレードも2千人は集めている。今はバカバカしいことのように思えることでも、続けることでシドニーのように大きなうねりを作り出すことも可能なのだ。

  日本でも少しずつだが社会的にアウトする人たちが出てきている。今、自分が社会的にアウトするなど想像さえできない人も、そういった動きが自分と全く関係のない事柄だなどとは思わないで欲しい。そんな個人個人の小さな行動が、実は我々日本のゲイ&レズビアンのvisibilityを高めていくことと、どこかでつながっているのだから…



「バディ」1997年5月号掲載


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