別冊宝島「ゲイの学園天国」より
1993年12月発売


ゲイと芸術表現

 

  
 ウンコは気持ち良く出そう!


 僕は作品を作りだしてから、二十年くらいになるけど、七、八年たった頃、いっぱしにスランプにかかったことがあった。いつのまにか「表現することとはどんなことか」とか「人に評価されることを求めてはいけないのか」とか考え始めてしまって、だんだん作れなくなってしまったのだ。作らなきゃ作らなきゃと思えば思うほど、手は動かない。まるで便秘の状態だった。

 じっさい僕は便秘症で、こんなに便秘していたら病気になっちゃうと、トイレで無理やり力みまくって、かえって痔になっちゃうなんてことがよくあった。そのスランプの最中も、やはりトイレで力みながら考えていた。便秘を治すには、こんなところで力んでいても何もならない。ちゃんと繊維質の多い食品を摂って、適度な運動をしていればこんなことにはならないはず。僕の体がうまく機能している結果がいいウンコなんだから、そのような結果の生まれる状態を体につくってあげればいいのだと。

 そんな風に考えたとたん、作品を作るってことも同じだとひらめいた。どうしたら作れるようになるかなんて、ウンウンうなって考えているからこそ作れないのだ。色んなものをバランスよく見、楽しい気分になるようにしていれば、作品なんて自然と出てきてしまうのだ。精神がうまく働いていれば、止めようとしたって出てきてしまうものだ。なあんだ、作品ってのは目的ではなく、単なる結果だったのだ。僕はトイレの中で何百枚ものウロコが目からこぼれる気持ちになった。トイレとは実に優れた思索の場だ。

 こんな風に考えられるようになったら、いつのまにかウンコがスルスル、じゃなかった、作品が気持ちよく生まれてくるようになった。ま、めでたしめでたしなんだけど、この論理的帰結として、芸術表現とはウンコということになってしまった。

 じゃ、テメーはウンコを人に見せているのかヨと言われてしまうけど、今は僕にはそうとしか言えない。

 ヒドイかしら。でも誰だって、実に見事なウンコが出た時は、人に見せたくなるでしょ。(あんただけよ!)



芸術というウンコを読み解く

 芸術はウンコだ! 人はウンコを見たがっている。こんな言い方は芸術を貶めていると思う人もいるかも知れない。オー、ノンノン! それはあなたの勘違い。

 例えば、野性動物を研究している人たちにとって、その動物のウンコは重要な資料だ。彼らは、そのウンコをじっくり観察することで、その健康状態から、何を食べているか、何時間前までそこにいたかまでの、さまざまな情報を得ることができるのだ。関心のない人にとっては単なる汚い排泄物でも、興味の持ち方ひとつですごい情報の詰まった貴重な存在になるわけだ。

 そこまでウンコを大切に扱っていれば、そのうちウンコそのものの「美」さえ感じられるようになるはず。(そう、ウンコにもオブジェとしての美はあるのよ!)

 芸術鑑賞だって同じ! 人がなぜ自己表現したいのかに興味がない人にとっては、コンテンポラリー・アートなんて単なるゴミの山でしょ。逆に、目を養っていけば、初めは表面的なものしか見えなかったものが、それを表現した人の物の考え方から、それこそ健康状態まで分かるようになる。 動物に興味があるからこそ、動物のウンコからたくさんの情報を引き出せるように、人間にどれだけ興味を持っているかによって芸術というウンコから何が引き出せるかが決ってくるのだ。

 芸術鑑賞とは、ウンコを通して、ウンコした人のさまざまな情報を掴むこと。そこから、人間そのものへの深い興味を満足させること。その人間像を鏡として、自分自身への理解を深めること。こんな営みなんだと思う。

 芸術をウンコに例えたせいか、少しウンチクだらけになってしまったわね。あしからず!オッホッホッホー。



下痢気味の評論家たち


 ゲイであるってことは、僕にとって、とても重要なことだ。 社会、家族、友人、いろんなことを考える出発点だったし、人を好きになったり、憎んだりとさまざまな感情の源にもなっている。こんなにあらゆることに関わっている僕の「要素」が、僕から気持ちよく出たウンコに表れていないはずがない。

 多分、他のゲイの表現者にとっても、同じことが言えると思う。もちろん人によっては、それが消化不良を起こしていたり、便秘のし過ぎでカラカラに乾いていたりすることはあるだろうけど、重要であることには変わりはない。状態はどうあれ、そのウンコにはラヴェンダー色のオーラが漂っているはずだ。

 それなのに、日本では、芸術を鑑賞するときには、その部分はほとんど無視され続けてきた。一般の芸術愛好家ならまだ許せるけど、表現されたものを「見る」専門家であるべき評論家さえ、多くがそんな態度をとり続けている。

 本来、芸術評論家というのは、ウンコから、ウンコをした人のありようを解き明かしていく研究者であり、一般の愛好家へのガイド役をする人のはず。そんな評論家たちが、こんなに重要なゲイであるというファクターを無視して、芸術や文化を語り続けているなんてやっぱりおかしい。

 外国で公にカミングアウトしてるアーティストの作品について語る時さえ、ゲイの部分にいっさい触れない評論なんかを読むと、職務怠慢で訴えてやりたくなる。もうプンプンよ! 
 評論もひとつのウンコだとすると、ゲイに関しては、消化不良の下痢便ばかり浴びせられてる僕としては、評論家たちの健康状態を危ぶんでしまうワ!



ゲイ・アーティストの便秘 


 健全な評論のないところに、健全な芸術が育ち難いのは確かだ。でも、ゲイの生活感や物の見方に即した形で表現されたものを、僕たちゲイが享受できないのは、やっぱり表現者側の方にまず問題があると言うべきだろう。はっきり表現されたものがあって、初めてそれに対する評論も存在し得るのだから。この状況突破は、まず作り手からやっていくしかない。さて誰が猫の首に鈴をつけるかだ。

 表現者はゲイだというレッテルを張られるのを非常に嫌う。いちどレッテルを張られると、次からはそういう枠組みの中だけでしか、判断されなくなってしまうことを恐れるからだ。その恐れは同じ表現者として、僕もよく理解できる。

 しかし、こうやって物分かりよく、事情が事情だけに仕方がないね、なんて言ってると、いつまでたっても受け手としての僕が欲しいと思う状況が手に入らないので、敢えて声高に言う。あんたらも芸術表現に関わっているんだから、ゲイならもう少しゲイに拘ったり、ストレートにゲイだってこと表現したっていいんじゃないっ!
 
 本来、芸術表現の世界では、世間では非常識でも、僕はこうなんだという叫びを評価してきたはずなのに、ゲイに拘った表現があまりにも少ないことに、僕は苛立ちさえ感じてしまう。

 何もゲイなら、誰でもゲイに拘って表現すべきだと言っているのではなく、いろんな人の中で、ゲイに拘る人もいれば、全く拘らない人もいる、という当たり前の状況がないことに不満を感じているだけだ。今の時代、ゲイには拘りたくないという拘りを持った表現者ばかりが多すぎるように思えてならない。便秘ばっかりしてると、大腸ガンになっちゃうよ。



下剤という手もあるぞ!


 レズビアンだと公言したk・d・ラングを見ると、なんてカッコいいんだと思ってしまう。カミングアウトした上で、レズビアンの世界に留まらず、より普遍的な世界を表現していく態度。ああいうのこそ、ゲイだとかレズビアンとかに拘らないことなんだと思う。

 日本でもカミングアウトしてくれたら、どんなに素敵だろうと思うアーティストは多い。たとえば今をときめく歌手のX君。 僕は彼の歌が好きだ。彼の描きだす、「君」と「僕」という人称代名詞によって歌われる世界は、男女の関係だけに留まらずゲイの関係にもあてはめて考えることができる。だから充分自分の感情を移入して聴くことができるのだ。詞を読んでいくと、これは男女と言うよりは、男同士の世界で考えた方がわかりやすいなとさえ思ったりする。僕の回りのゲイの男の子たちも、彼の歌を好きな理由としてそこを指摘する。

 そのうち流れてくる彼がゲイだという噂。ああ、やっぱりそうなんだ。いいよねぇ。あれって絶対男同士の世界だよね!とか仲間うちで話題になる。その段階では別に害はないけど、例えば僕がこういう活字媒体を使って、歌手のX君は「ゲイである自分の経験を活かして、男同士の世界さえ視野に入れた恋愛を表現したことで、より普遍的な世界を表現し得たのだ」と実名で語ったとすると、それは彼を評価したというより、彼をゴシップ的に扱ったということになってしまう。別に、僕は彼をアウティングしたいわけではなく、彼を誉め讃えたいのだ。しかし、本人が敢えて秘密にしていることを暴き出したことになってしまう。僕はラブコールを送りたいのであって、彼を傷つけたいと思っているワケではないので、あれこれ考えてやめざるを得ない。

 やはり本人が先にカミングアウトしていてくれてないと、ゲイとその表現なんて形では語れないよね。彼に下剤でも使って貰いたいなぁ。 



流線型のウンコ

 ある朝、目覚めるとすこぶる体調がいい。トイレに行く前から、なんだか嬉しい予感がする。果して、そんなに力みもしないのに見事な流線型のウンコが二本くらいスルリと出てくる。トイレットペーパーには染みひとつ付かない。年に何度あるかないかの至福の時。その日は一日気分がいい。気持ちよく出たウンコはそれだけで感動を呼ぶのだ。

 僕はゲイの表現者の、こんなウンコをたくさん見たい。自分がゲイだということを受け入れた人の、喜びや悲しみ、腹が立つことや気持ちのいいこと、そんなさまざまな感情や考え方を素直に表現したものに、もっと触れられたら、どんなに楽しいだろうかと想像する。それを欲しがっているゲイは僕一人ではなく(当然ながら)大勢いるはずだ。

 僕たちはいつもノンケの世界の出来事を、想像力を駆使しながら、自分たちの物語に翻訳して楽しんできた。そんな訓練のお蔭で、ゲイは想像力があるなんておだて上げられてきたけど、そろそろ当たり前なやり方に切り替えてもいい頃だと思う。

 若いゲイで、何か自己表現をしたいと思っている人たちに大声でエールを送りたい。どうか気持ちのいい「お通じ生活」を目指して頑張ってください。

 (ああ、この文章のお蔭で、これからはスカトロおじさんとか呼ばれちゃうんだわ。トホホホ。) 

 


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