雑誌「バディ」に掲載されたものから


特集「アブノのすすめ」

パートナーシップというアブノーマル

1995年1月号に掲載

 

 精神的にも肉体的にもそのままの自分を受け入れてくれ、自分の自己実現を助けてもらえる人間がそばにいて欲しい。人間は心のどこかでそういった他者の存在を求めているのではないだろうか。だからこそ人は人を求めて止まないのだ。もちろん、相手が自分にとってそういう人間だったとしても、相手にとっても自分がそういう人間でなければ関係としては基本的に成り立たない。双方が相手を一番大事だと思えるような平等互恵の関係を、ここでは仮に真のパートナーシップとして話を進めよう。

 さて、こんな都合のいいパートナーがレディメイドで見つかるわけがないから、もし本当に欲しいと思ったら一から手作りするしかないワケだ。結局、永い付き合いの中で、お互いにとっての最高のパートナーになるべく努力していくしか方法はない。そこで、いつか真のパートナーシップを築き上げようという意志を二人が持ち合っている関係が、通常の意味でパートナーシップということになる。

 僕たちゲイの場合は、文鮮明さんに選んでいただくということはあり得ないから、やっぱり自由な恋愛をきっかけに相手を選ぶしかない。この恋愛をパートナーシップの出発点にしていることが、パートナーシップを続けていく上で問題になることが多い。これはほんとに悲しいパラドックスだ。

 恋愛は、基本的には相手に性的に引かれていることをベースに成り立っている。それは自分の性的でロマンティックなファンタジーを相手に投影して、それに引かれてしまうという一種の魔法のようなものだからだ。魔法だからこそ、あばたもエクボに見えてしまうわけだし、魔法が効いているうちはどんなことでも良く解釈したくなってしまうのだ。逆に魔法が効いているうちはリアルな相手の姿は見えにくいとも言える。

 魔法が消えると見えてくるのは、全てが素敵だった姿とは違うリアルな相手のありようだ。パートナーシップというのは、もともとそのリアルな相手を受け入れていく関係作りのはずだったのに、あまりのギャップに、つい減点法での採点をし始めてしまう。そうなると結婚制度や、とにかく子育てといったノンケの男女が寄り掛かったり、気を逸らすといったものを持たない僕たちには、最初の終焉の危険が訪れることになる。(経済的にも、精神的にも自立している人間同士のパートナーシップは本当に難しいのだ)

 だからこそ、なんでも好意的に判断し易い魔法の時期に、できるだけリアルな自分を見てもらい、リアルな相手を見て、魔法が消えた後に備えておくしかない。でも、最も楽しい時期にそんなことをするのはシンドイことだ。しかしパートナーシップを求めるなら、こんなことで大変がっていては何も始まらない。

 魔法が消えた頃から、いよいよパートナーシップは正念場を迎える。まずはお互いにたいする性的な関心が薄れていく。そうすると第三者に性的に引かれてしまうことから生まれる問題を、どう乗り越えるかという問題がして浮上してくる。それと同時に、自分を受け入れてもらい、相手を受け入れていくということが、思ったよりずっと困難なことだと思い知らされるのもこの頃だ。

 自分にとって当たり前のことが相手にとっては信じられないようなことであったり、自分にとって些細なことが相手には天下の一大事であったりするのは日常茶飯だ。友人関係や社会での付き合いなら、合わない奴だで適当に済ませられるところでも、パートナーシップではいちいち対応しなければならない。また自分を受け入れてもらうためには、今の自分にとってそれがどうしても譲れないところだということを相手に理解させなければならない。忍耐力や寛容さ、そしてコミュニケーションの能力と、ありとあらゆるものが試されるのだ。

 居心地のいい相手を得ようとして、付き合いを始めたのではなかったか? しかしこれでは苦痛の連続だ。やはり相手の選択を間違えたのではないか? やはり男同士ではパートナーシップは無理なのではないか? こんな疑心暗鬼とも戦わなくてはならない。

 こんなうんざりするようなシンドイことをなぜ求めるのかって? ひとつひとつのシンドさを潜り抜けた向こうで、ひとつひとつ自分の欲しかったものを手に入れていく喜びを知ってしまったからだろう。通常の感覚では単なる苦痛としか思えないそのプロセスから大きな喜びを紡ぎ出せることを知った人間は、もっと先を求めていくのだ。たとえ、その喜びを理解できない人からは信じ難いアブノーマルに見えようとも…。

 


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