雑誌「バディ」に掲載されたものから


恋愛について

1995年10月号に掲載


 

 二丁目のようにゲイがたくさん集まる場所では、毎晩のようにどこかで新しい恋愛が次から次へと生まれ、また次から次へと消えていく。こういう街に長く関わっていると、他人の恋愛の成行きを目撃するチャンスはうんざりするほどある。

 二丁目で海千山千と言われるようになる頃には、他人が恋愛でどんなに有頂天になっていようと、いつまで続くことやら…と、シニカルな目で見てしまうようになる。

 実際に恋愛ははかない命だ。恋愛が長く続かないのを嘆く人もいるが、それは恋愛がよく分かっていないからだろう。恋愛は、もともと長くは続かない宿命を持っているのだ。

 ゲイの恋愛が長く続かないことを理由に、ゲイのメンタリティをうんぬんする物言いも聞くけど、結婚のような、恋愛をきっかけに恋愛とは違う人間関係を作り上げる文化を育てる機会を奪われていれば、男女間でも恋愛は長くは続かないはずだ。

 恋愛そのものも人間が作り出した文化の一つだが、もともと、結婚のような長く続けていくのを前提にした人間関係とは相いれない性格を持っている。

 結婚は恋愛の帰結ではない。恋愛の方から言ったら、恋愛結婚などというのは、結婚というシステムを保つのに恋愛が利用されているに過ぎないのだ。

 恋愛至上主義ということばがあるが、そういう考え方からすれば、恋愛と結婚を一緒に考えるなどはクソもミソも一緒にしたようなものだ。安定を第一義に考える結婚には、恋愛ほど似合わないものはない。関係が安定したとたんに、恋愛はその命を終えるのだ。

 恋愛は基本的に勘違いによって成り立っている。勘違いというのが気に入らなければ、ファンタジーと言ってもいいだろう。

 人はそれぞれに恋愛のファンタジーを持っている。性的にも、人間的にも魅力的で、自分を理解してくれて、自分を助けてくれて、自分を知らない世界へ連れてってくれる、自分にとって都合のいい部分だけをパッチワークしたような、自分が恋愛するに足る「素晴らしい人」というファンタジーだ。「恋愛は素晴らしい」というメッセージが流れ続ける文化の中で、そのファンタジーはますます強固に育っていき、都合のいいパッチワークとの素敵な出会いを夢見ながら、人は恋愛のエネルギーを自分の内部に貯えていく。

 充分に貯えられたエネルギーが何かのきっかけで、二人の人間の間で放出されると、それぞれの人間は相手をスクリーンに見立てて自分の恋愛ファンタジーを投影する。「何て素晴らしい人と出会えたのだろう!」 人はそのスクリーンに映し出された自分のファンタジーの虜になる。素晴らしい人のはずだ。それは自分にとって都合のいい部分だけでできあがっているのだから。

「何としても自分だけのものにしたい」「この人ならなってくれそうだ」 こうして恋愛は始まる。

 初めのうちは、相手が何を言おうと、何をやろうと、自分のファンタジーを通して理解するから、あばたもエクボ、何でもよく解釈できる。そうやって恋愛はますます盛り上がっていく。しかし恋愛感情の中には、相手のことをもっと知りたい、自分のことをもっと知ってもらいたいという部分があるので、その内、さしもの恋愛もほころび始める。なにしろ実際に付き合っているのは生身の人間なのだ。ファンタジーを突き破って、その人の持つ本来の姿が見えてきてしまうのだ。

 初めは状況に酔っているから何でもよく解釈していたのに、関係が落ち着いてくるに従って、許せない部分がいくらでも見えてくる。こうなってくると恋愛感情が冷めていくのを止めることは難しい。

 ある日、自分が投影していたファンタジーは消え、いいところもあるが嫌なところも山ほどある、一人の何の変哲もない人間が目の前に存在するだけなのだ。こうして、あんなに素晴らしく見えた自分たちの関係も、かなりの努力をしなければ保てないものになってしまう。

 恋愛は終ったのだ。努力ほど恋愛に似合わないものはない。

 その関係が楽しくて素敵だったから続けてきたのだ。どうして努力までして続ける必要があるのだろうか。

 どんな恋愛もだいたいこんなプロセスを経て、終幕を迎える。

 恋愛感情の冷めるのが二人ほぼ同時なら、双方傷つくことなく「連絡ないから終ったんじゃない?」型の別れで、誰にも迷惑はかからず御同慶の至りだが、ほとんどの場合、どちらか片方に先にその冷却がやってくる(一ヶ月後か、一年後かの差はあれど)。そういった場合、残された方は精神的に不安定になり、自分のファンタジーにしがみつき、相手のリアルな姿を拒否してしまうので、状況はおおよそ悲劇的になってしまう。

 自分の経験も含めて、自分の回りにそんな例をいくつも見てきた人は決して少なくないだろう。

 恋愛では相手に先に冷められると、残された方がいたく傷ついてしまうのも宿命なのだ。もし恋愛で傷つかないのが勝つことだとしたら、相手に惚れないか、先に冷める方が常に勝者ということになる。辛い恋愛を重ねるうちに、いつも勝つことしか頭になくなってしまう人もたくさんいる。しかし悲しいことに、それはもはや恋愛ではない。

 そして気づくと、いつか恋愛ができない体質になってしまっていたりするのだ。(二丁目辺りには、いくらでもいる!)

 こんな書き方をすると身も蓋もないが、結局、恋愛を全うするというのはこういうことなのだ。歌の文句ではないが、「幸せな恋などない」。これが本当のところだろう。

 もし人が恋愛だけを目的にしているのなら、悲劇的な結末を迎えたとしても、それを良しとするしかないだろう。というより、終ってしまうことを悲劇だと考えることこそ間違いなのかも知れない。夢中だったから付き合っていた。それほど好きではなくなったから関係が終った。これはこれで完結した一つの形なのだ。

 しかし、あなたが恋愛感情だけを至上のものと考えていないのだとしたら、もしくは、恋愛をきっかけにもっと別の人間関係を築き上げていきたいと思っているのなら、自分のファンタジーに酔っているだけという恋愛のやり方を少し変えなければならない。

 そのためには、自分の欲しいと思っている関係がどんなものかというビジョンを恋愛より高い位置に置くしかないだろう。
 その高い位置にあるビジョンを現実化していくために、恋愛を一つの手段だと割り切る必要があるのだ。ここでは恋愛は目的ではなく、欲しいものを手に入れるまでの補助的な接着剤のようなものとして捉えるしかない。

 自分の欲しい関係がどんなものかは人によって違うだろう。パートナー、家族のようなもの、特別な友人、そして僕には考えられないような特別な関係もあるかも知れない。それがどんなものにしろ、多分恋愛とは違って、リアルな自分と相手を認め合い、その人本来の姿ゆえにその人を大切に思うという形をとるだろう。

 そして、それは、それを本当に自分が求めているのか、それを手に入れるためには何をしたらいいのか、そういったことを含めて考えたり、試行錯誤をしていく覚悟が常に問われていく行為になるはずだ。

 ゲイは、恋愛をきっかけに、何か別の特別な関係を作っていく土壌を与えられてこなかったので、個人個人で始めるそういった試みにはウンザリするほどのエネルギーが必要なると思う。

 恋愛を目的とするにしろ、ビジョン獲得のための手段にするにしろ、どちらにしてもシンドさには変わりはない。あまりシンドイことが得意でない人は気楽に恋愛には近付かないほうが身のためです!


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