「危険は承知/デレク・ジャーマンの遺言」より


あとがき

1995年5月

 

 僕が初めて見たデレク・ジャーマンの映画は「セバスチャン」だった。ロンドンに行った友人がお土産にくれたビデオが「セバスチャン」だったのだ。

 あれは今から12年ほど前だったと思うけど、「セバスチャン」については、それよりずいぶん前にアフターダークというアメリカの雑誌である程度の情報を得ていたので、見たくて見たくて仕方がなかった。お土産にもらった時は、これでやっと夢が叶うと小躍りして喜んだほどだ。

 実際、僕は「セバスチャン」を堪能した。そこには僕の見たかったものがギッシリ詰まっていたのだ。男たちの裸、男同士のキスシーン、そしてオチンチンまでしっかりと映っていた。

 特に、一人の兵士が風呂で体の毛を剃るシーンがお気に入りだった。三日月型の剃刀の動きに合わせて、カメラは厚い胸板からオチンチンも露な下半身までなめるように移って行く。正直に言うと、僕はこのシーンで何度もマスターベーションをした。

 イギリスにはこんな映画を作ってくれる監督がいるんだ…。羨ましいなぁ。
 僕にとって、デレク・ジャーマンという名前は特別のものになった。

 と同時に、この監督に対してちょっと後ろめたい感じも持ってしまった。僕がデレク・ジャーマンを気に入ったのは、その映像の質とか芸術的な側面からではなく、ホモセクシュアルのエロスを描いてくれる監督だったからだ。なんだか彼を正しく評価して好きになったのとは違うような気がして、後ろめたかったのだ。おまけにマスターベーションまでして…。

 その後、何本も彼の映画を見ても、基本的には、その気分は変わらなかった。世間では彼の実験的な映像作家としての評価が上がっていったのに、僕は彼がゲイのイメージを扱ってくれるから好きだったのだ。こういう気に入られ方は、芸術家としては不本意だろうなと勝手に思い込んでいたわけだ。

 今回、この本を訳して一番嬉しかったのは、デレク・ジャーマン自身のことばで、彼に対する後ろめたさが払拭できたことだ。
 何だ、僕ってデレク・ジャーマンの一番伝えたかったものを、ストレートに受け取っていたんだって。



「セバスチャン」は同性愛を悩みとしては扱わなかった。この点が、それ以前の英国映画と全く違うところだ。また、この作品はホモエロティシズムに溢れていた。それは、以前の長編映画が敢えて挑戦しなかった分野であり、その意味で、この映画は歴史的に重要なのだ。

 この映画の中心はケンの勃起シーンだった。長編映画で実際に勃起して見せた俳優は他にはいないのだ。

 ケンのペニスは画面の一番下に映っていて、検閲の際の1:1.85比率のスクリーンでは見えないようになっていた。ラブシーンは恍惚感に満ちたものに仕上がっていた。人々は、普通の映画館で普通の男が演じる9分間のシーンを見るために出かけたのだ。

 映画の中で、本当のセックスを描ければよかったのにと思っている。そうすれば私も興奮していたに違いない。大勢のティーンエイジャーがベッドの上で、ポータブルテレビに向かって、マスターベションをしているシーンを想像してみて欲しい。



 この本を読み終ると、愛や芸術ならいいがセックスにまつわることは次元が低いという考え方を、彼が拒否しているのがよくわかる。

 デレク・ジャーマンは「オカマ」であることに生涯こだわり続けた芸術家だ。「オカマ」であることの社会の中での意味、自分にとっての意味は何なのか。これが、常に彼の芸術表現の核になっているテーマだ。

 このこだわりこそ、僕が彼の作品に触れる際に最も共感する部分だ。僕自身もゲイであることにこだわり続けてきた経緯があり、彼には強い連帯意識を感じている。
 今まで翻訳の経験もない僕が、この仕事をお引き受けした理由には、少なくとも、デレク・ジャーマンの同性愛にこだわらざるを得ない気持ちの理解だけは、ストレートの翻訳家には負けないという自負があったからだ。

 そして、この本のテーマもまさにそこにある。彼の持つ「同性愛者であることへのこだわり」へのこだわりによって、この本は貫かれている。

 彼のこだわりは同性愛を表すことばにも表れていた。
 彼は基本的にクイア(queer)ということばを使っている。また、シチュエーションによってゲイ(gay)とかホモセクシュアルを使い分けている。
 クイアはもともと「ものすごく変わっている」とか「超変態」といった意味だが、同性愛者を表すことが多い。特に現代では、同性愛者に対して差別的、侮蔑的、攻撃的な意味を込めて使われている。

 この点で、本来医学用語であった「ホモセクシュアル」とか、楽しいとか陽気なという意味から転用された「ゲイ」とは根本的に成り立ちが違う。
 英語圏の同性愛者に向かって、不用意に「クイア」を使うと殴り倒されても不思議はないほど不快きわまりないことばだ。

 デレク・ジャーマンは、そのことばを自らを表すために選びとった。
 この選択は非常に政治的なものだ。社会に対するスタンスを明確に表しているからだ。 ヘテロ社会は同性愛者に「敵」という名前を与えた。彼は、その「敵」ということばを引き受ける代わりに、社会に取り込まれることを拒否しているのだ。

 要するに、彼が「クイア」と言う時には常に、異物を排斥しようとする社会に対する異議申し立てがなされていると解釈しなければならない。
 そういう意味を込めて、デレク・ジャーマンは「クイア」を書き表す際には、必ず頭文字を大文字にしている。キリスト教の神(God)とか国家元首としての女王(Queen)と同じように絶対的な意味を込めてQueerと表記している。

 同じ観点から、彼はゲイということばには懐疑的だ。



 「ゲイ」は20世紀後半の概念なのだ。私は常に、この言葉に居心地の悪さを感じてきた。この言葉からは、いつも誤った楽天主義がにじみ出ているような気がするのだ。



 この「クイア」をどういう日本語に置き換えるかは最後まで頭を悩ませる問題だった。

 最近では、「クイア・フィルム」という表現でそのままカタカナにした使い方もされているし、過去のデレク・ジャーマンの著作の翻訳でも「クイア」となっているものもある。そこで一度は「クイア」でいくことに決め、翻訳を終らせた。

 しかし読み返してみると、「クイア」では英語圏の同性愛者にとっての、胸に突き刺さってくるようなニュアンスは全く表せない。それどころか、どこかカッコいい新しいことばといった感じを与えてしまう可能性もある。そこで「変態」も考えてみたのだが、意味的には合っていてもどこか物足りない。



 私にとって、Queerという言葉を使うのは自己を解放する行為だ。なぜなら、今はもうそんなこともないが、この言葉は私を怯えさせてきたからだ。



 結局、僕はこのジャーマンの文章から「おかま」ということばを当てることにした。なぜなら、このことばによって僕も脅かされてきたからだ。そして今でも、自分をこのことばで呼ぶには抵抗がある(僕は彼ほどラディカルじゃない)。

 だからこそ「おかま」が彼の気持ちに一番ぴったりなのだと考えた。そして大文字にする代わりにカタカナで「オカマ」と書くことに決めた。

 今の日本でも自らをオカマと呼ぶ同性愛者がいる。これは異性愛者が同性愛者をおかまと呼ぶのとは全く意味が違う。デレク・ジャーマンが自分のことをオカマと呼んでいるのだから、同性愛者をオカマと呼んでいいと思ってしまうストレートの読者がいたとしたら、それは大きな勘違いなので、ここで念のため注意を喚起しておきたい。

 これだけ「クイア」にこだわっているデレク・ジャーマンだが、何箇所かでは「ゲイ」を使っている。ゲイリブ周辺の事情に関して述べた箇所に多いのだが、これは彼自身がリブの理念によって、それまでの呪縛から解放されたことへの感謝の気持ちが表れていると感じた。

 彼自身は現在のゲイリブ運動がかなり体制的になってしまったという判断から、引用にもある    通り、ゲイということばを使う考え方に対して懐疑的な態度をとっているが、少なくともある範囲のゲイリブには敬意を払っているように思う。(ゲイリブは自らをゲイと呼ぶことで自己肯定を図ってきたからだ)

 そこで、本文中でQueerと表記された部分は「オカマ」に、gayと表記された部分は「ゲイ」と訳してある(当然、引用文に関しても同様の使い分けをした)。興味のある方は、その部分に着目して読み返していただけば、彼のことばに対する微妙な揺れを感じられるかも知れない。

 意気込みは誰にも負けないつもりでも、実力が付いていかない現実の壁は厚かった。デレク・ジャーマンの西洋文化への造詣の深さと、掛けことばのようなダブルミーニングを含んだ独特の文章を活かした日本語訳はとてもできなかった。

 いろいろ勘違いも多いと思うので、どうかお気づきの点はご指摘ください。これから赤面するような思いをするだろうと覚悟はしています。

 最後に、忙しい中、翻訳を手伝ってくださった翻訳家の小林誠一さん、レッドリボン・インターナショナル・ジャパンの唐子由美さんに心からお礼を申し上げます。また、未経験の僕に翻訳を委せてくださった、デレク・ジャーマンの良き理解者であるアップリンクの浅井さん、注の作成に取り組んでくださった編集の星さんにも感謝します。

 ほかにもいろいろとご助言ご助力いただいた方がたくさんいました。本当に有難うございました。
 最後の最後に、仕事がやりやすいように僕を支えてくれたゲンに心からの「アリガトウ」を送ります。
                            



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