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方言について

どーもっす。ウッキーです。今回は「方言」について、日頃考えていることを
書くので、読んでけろなす。(山形弁)


ワシは東北が大好きである


ワシは東北が大好きである。なぜならおねえさんたちが綺麗だからである。(爆)
ホントはもうちょっとちゃんとした理由がある。


東北の魅力
・山が綺麗
・四季がハッキリしている、だから四季折々の食べ物がおいしい、見どころ満載
・なにより人が温かい


ワシは雪の日でもチャリンコ(関西弁では「チャリキ」とも。朝鮮語が元になっているという)
を必死にコギコギしてるわけだが、そんなとき、おばちゃんやおばぁちゃんが
「がんばれー」とか「少し休んでけー」とか言ってくれるんである。

ワシはその言葉にメチャメチャ感動しながら、しかしゆっくりもしていられないので
「どーもーっす!」とか言いながら、こぎ抜けるわけである。

しかし、たった一言でワシが感動してしまうのはなぜだろうか。

ワシはその東北独特のイントネーションにこもった、自然な感情の発露としての「優しさ」に
感動したんだと思う。別の言い方をすれば、「優しさ」が「東北独特のイントネーション」に
乗って、ワシの心のダイレクトに飛んできた、そんな感じがする。
(クサイ言い方だけど、ちょっとマジ。)


方言が開く心の扉


方言は、心の隔壁を取り去ってくれる役割を持っているといえるかもしれない。
ビクトル・ユゴーのレ・ミゼラブルにこういう一節がある。

「プロヴァンスの生まれであったので彼はたやすく南方の方言に親しむことが
できた。(中略)それはひじょうに人民を喜ばせ、あらゆる人たちと近づきに
なることを少なからず助けた。彼は茅屋(ぼうおく)の中においても山中に
おいても親しく振る舞った。きわめて卑俗な語法できわめて高遠なことを
言うことができた。あらゆる方言を話しながらあらゆる人の心の中に入り込んだ。」
(岩波文庫、豊島与志雄訳「レ・ミゼラブル<1>」より)


また方言は、ギクシャクした場、険悪なムードに効果絶大である。
それは、方言が一種の余裕を感じさせてくれるものだからだと思う。
方言が潤滑油になるんである。


(注:男の人の東北弁は、他の地方では「怒っている」という誤解を招きやすい
特性を持っています。東北の男の人は、いくつかの心がけをすると良いでしょう
  1. できるだけたくさん話すようにする
    (つまり、鬱憤を内にためないということ。黙っていては、
    相手もあなたの不満に気づくことが出来ません)

  2. にこやかに話す
    (これだけで印象が全く変わり、方言があなたの個性、魅力となるはずです)
 など。田中義竹やダニエル・カールなんかが参考になるかもしれません。)


方言は恥ずくなんてない!(恥ずい:福島弁)


東北の人に聞くと、やはり「なまりは恥ずかしい」という。方言大好き人間のワシが、
方言を聞いて素直に喜んでいると、ややもすれば「バカにされている」「イヤミだ」
とか思われてしまう。

だが、

方言を話す女の人は絶対かわいい。

それは東北弁だろうと関西弁だろうと九州弁だろうと同じである。いや、超マジで。
これは世の男の大半が認める事実ではなかろうか。

また、男の方言も、女の人にとっては「親しみやすさ」につながるものと思う。


視野が広がる「ちむぐりさ」


方言から学ぶこともある。ここでは例として、琉球(今の沖縄)の「ちむぐりさ」
という言葉を紹介したい。

「かわいそう」という言葉がある。岩波国語辞典によれば「みじめな状態にある人に
対して、同情せずにいられない気持であること。ふびんなさま。」という意味である
という。この言葉の裏には、大げさに言えば「自分が上で、相手が下」「私は相手に
同情してやっている」という心が隠れている場合がある。

しかし、「ちむぐりさ」は違う。「相手が苦しい。だから私も苦しい。」というような
意味だという。仏法でいう「同苦」の精神にも通じるかとも思われる、高い精神性の
現れである。その沖縄が、戦中・戦後を通して本土に犠牲を強いられてきた、ということに、
何とも言いようのないものを感じる。(余談になってしまいました。)


方言という文化を尊重しよう


ともあれ、方言は、いうまでもなく文化の多様性の現れの一つである。だから、方言を
認められる寛容性は、他の文化を認められる寛容性と同じであると思う。方言を認められず、
バカにしてしまうのは、自分の文化にのみ固執して、他の文化の歴史と伝統と誇りを
認められないからとも言えるだろう。

それは自分の世界を狭めてしまうことにもなりかねない。


21世紀は方言文化の花開く世紀だ!?


「吉本新喜劇」も東京や東北のテレビで放映されるようになり、関西弁はますます市民権を
得てきていると言える。また、つぶやきシロー(彼が話しているのは、おそらく何弁でもなく、
「つぶやき弁」である)が流行ったのも、方言文化の開花を予感させる、好材料である。

家庭の日常会話の中で、日本各地の方言が飛び交う日も、案外近いのかもしれない。

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