これは僕が中学生の頃、祖父にインタビューして書いた作文です。(一部改変)

僕のおじいさん

 僕のおじいさんは、明治38年、ちょうど日露戦争の終わり頃、和歌山県で生まれました。
小さい頃から、悪知恵の働く悪ガキだったそうですが、父親の本好きが遺伝したのか、
読書好きで、父親の集めた本を読みあさったと話していました。
たとえば、悪さをして倉に閉じこめられても、中にある本を読んで楽しんでいたので、
まったく苦にならなかったのだそうです。
この「読書」がおじいさんの感性を育て、後の俳人としての土台となったのでは
ないかと思います。
 その後、おじいさんは京都大学に入り、俳句を始めました。
学生時代、おじいさんは湯川秀樹と同級生で、とても親しい仲であったと、
と懐かしそうに話していました。
もしかすると、この時湯川秀樹博士の影響も受けていたのかもしれません。
 さて、「京大俳句」の主力同人となったおじいさんは、特高に言いがかりを
つけられ、牢獄に入れられてしまいました。
 後に軍医となり、おじいさんは戦地へも行ったそうです。
しかし、幸いなことに、戦闘には参加していないので、人を直接傷つけたりは
しなかったということでした。
そして、南京で捕虜になりました。
 終戦後、おじいさんは再び精神科医になりました。現在も精神病院の院長です。
僕は、おじいさんのここが一番偉いと思います。
普通の人は、精神病患者をどうしても避けてしまいがちですが、精神科医は、
その人たちの心を大切にし、あたたかく包んでいかなくてはならない、
とても難しい仕事だと思います。それができるのは、大きくて優しい
心の持ち主だからだと思います。
 また、尊敬する人は、ときいてみたところ、亡くなった人なら、たくさんいる、
と答えてくれました。
 さらに、おじいさんに「人生観を聞かせてください」ときくと、
「モットーのようなものだが、無理をしない、ということ」と答えてくれました。
あれこれ欲を出して無理をしない、ということだそうです。
いろいろなことで無理をしたくなるけれども、それをしない、ということは、
自分を見失わない、ということにも通じると思います。
(今思えば、俳句雑誌を主宰せず、一生「私の仕事は医者です。俳人ではありません。」
と言い続けた祖父の姿勢も、ここからきたのかもしれない−−注)
 また、僕は今の若い世代の人に対して何か言いたいことは、ときいたら、
「今の若い人は、平和憲法の有り難さを知らない」と言っていました。
また、
「手を広げれば広げるほど分からなくなるのに、いろんなものに手を出しすぎる」
とも語っていました。
僕は、いろいろな物事の浅い部分しか学ばず、中途半端でいる散漫な
生き方に対して、忠告してくれているのではないかと思います。
 僕は、おじいさんのような広くて優しい心の持ち主を目指し、一歩一歩
マイペースで前進していきたいと思います。
ホームへ