「光あるうち、光の中を歩め」 |
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一同は席にいる人、いない人の誰彼についてさまざまに話しあった。 |
が、自分の生活に満足している人物を、一人も見いだすことができなかった。 |
誰一人自分の幸福を誇ることができなかったばかりでなく、自分は真の |
キリスト教徒にふさわしい生活をしていると思っている者さえ、一人もいなかった。 |
誰も彼もが世俗的な生活をいとなんで、自分自身の問題や家族のことばかり |
思い煩い、隣人のことはもちろん、神についてさえ、考えようとしていないと 告白しあった。 |
(中略) |
われわれを滅ぼすものは奢侈(しゃし)です、遊惰です、富です、 |
とりわけ慢心と、同胞たちからの孤立とがいけないのです。(p.7) |
家族のために汲々としても、家族はいっこうによくなりません。 |
というわけは、家族のために尽くすのが善でないからにほかなりません。(p.9) |
「実に不思議ですなあ! 誰もが、やれ神様の御心にかなうように生活をするのは |
結構なことだとか、やれわれわれはよくない生活をしているとか、やれ精神的にも |
肉体的にも苦しんでいるとかいっているが、そのくせいざ実行という具体的な問題に |
なると、子供に打撃を与えてはならないから、神の御心にそむいて、従来のままに |
教育しなければならないということになってしまう。 |
若い者はどうかというと、これまた両親の命にそむくことなく、神様の御心に |
そぐわない今までどおりの生活をしなくてはならないという。 |
さらに、世帯を持った男もまた、妻子に心配をかけないために、神の御心にそわない、 |
今までどおりの生活をしなくてはならないといい、また老人は、長い間の因襲が |
どうだとか、余命いくばくもないとか、なんとかいってからに、どこにも |
新しい一歩を踏み出してはいけないっていうしまつだ。 |
結局、誰一人心にかなった正しい生活をすることはできないので、 |
ただ口先でとやかく論じあうだけが関の山ってわけなんだ」(p.13) |
すべての肉体的満足は、必ずこうしたものである。満足を枯渇させまいと思ったら、 |
絶えずそれを強化してゆかねばならない。 |
が、満足を強化し増大するには、他人にいっそう多くのものを要求しなければならぬ。 |
そして他人に自分の欲することを行わせるには、権力者でない普通人の場合、 |
昔も今も変わりなく、手段は一つ、ただただ金のみである。(p.31) |
いったい俺は何者だろう? 幸福を求める人間だ。 |
俺はそれを地上の諸々の欲望のうちに求めて見出しえなかった。 |
俺と同じような生き方に終始している人間は、みんな発見しえないのだ。 |
みんな邪悪にひきゆがみ、みんな苦悩に濡れしょぼたれている。(p.38) |
肉の愛も、人間同士の尊敬と愛とが根底となる時に、はじめて正しい、 |
合理的な、牢固たるものになります。(p.56) |
それ自身美しいものと認められて、多くの詩人に謳歌されている愛情、 |
−−一人の女に対する特定の愛情は、それが万人への愛に基づいていないかぎり、 |
愛と呼ばれる権利を持っておりません。 |
そんなのは獣欲で、きわめてしばしば憎悪に豹変する代物です。(p.56) |
自分一個の幸福を土台にした結婚はみな、不和の原因たらざるをえません。(p.57) |
ひとびとが悪をなすことを望まず、善をしようと欲するようにしむけるには、 |
法律による予防、阻止、および刑罰では功を奏さないでしょう。 |
この目的を達成しうるのは、人間の内部に根を張っている悪に |
打ち克った時のみです。(p.96) |
悪が消滅するのは、そこから必然的に生ずる自他の不幸を、 |
すべてのひとびとが理解した時にほかならない。(p.99) |
不幸−−それは単に黄金を試みる火にすぎないのです。(p.111) |
神のもとには大きいもの小さいものもありはしませぬ、また人生においても |
大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと |
曲がったものばかりじゃ。 |
人生のまっすぐな道に入りなさい、そうすればあんたは神と共にあるようになるだろう。 |
そしてあんたの仕事は大きくも小さくもならない、ただ神の仕事となるだろう。(p.115) |
この作品は、表面だけを素通りするような読み方をすれば、 ただの宣教のようにしか見えないかもしれない。 また、あまり現実的でないアナーキズムに違和感を覚える方も多いのではないかと思う。 しかし、この作品の一番の意図は、「キリスト教」という一宗教を信仰しろ、 というところにあるのではなく、 「よりよい、より正しい、より豊かな人生の道を歩め」 というところにあるように感じる。 冒頭の人々の告白ではないが、「よりよい、より正しい生き方」を 模索することを、避けていてはいけないと思う。 物質的・肉体的満足のみを追求していては、本当の「幸福」はつかめないからである。 それなのに、人々は日常の瑣末な出来事に一喜一憂し、 うつろいやすい流行に乗ろうと必死になっているように見える。 インターネットの普及などによって、情報が巷に氾濫している一方で、 人生について考え、議論する機会などほとんどなく、人々は人生について 思索する力を、いたずらに弱体化させている。 その先にあるものは、果たしてなんだろうか。 その場限りの、はかない満足かもしれない。 一時しのぎの、楽しい気分、快楽かもしれない。 しかしいずれにせよ、それは崩れない幸福、深い人生にはつながっていないと思う。 この作品は、問答形式で進む場面が多いので、トルストイと議論をする くらいの気持ちで読んでみてもいいのではないかと思う。 いたるところに文豪の透徹した目によって導き出された、人生のエキスが ちりばめられており、自分の人生をより深くするのを助けてくれるだろう。 今までがどうだったかではなく、これからどうすることが、 よりよい人生につながっていくのか。 その思索と行動こそが、人生をより深くするものと信じる。 昨日より今日。今日より明日へ。 死んでしまってからでは遅いのだ。 「光あるうち、光の中を歩め」 |