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「光あるうち、光の中を歩め」
トルストイ著

作品からの引用
一同は席にいる人、いない人の誰彼についてさまざまに話しあった。
が、自分の生活に満足している人物を、一人も見いだすことができなかった。
 誰一人自分の幸福を誇ることができなかったばかりでなく、自分は真の
キリスト教徒にふさわしい生活をしていると思っている者さえ、一人もいなかった。
誰も彼もが世俗的な生活をいとなんで、自分自身の問題や家族のことばかり
思い煩い、隣人のことはもちろん、神についてさえ、考えようとしていないと 告白しあった。
(中略)
われわれを滅ぼすものは奢侈(しゃし)です、遊惰です、富です、
とりわけ慢心と、同胞たちからの孤立とがいけないのです。(p.7)
家族のために汲々としても、家族はいっこうによくなりません。
というわけは、家族のために尽くすのが善でないからにほかなりません。(p.9)
「実に不思議ですなあ! 誰もが、やれ神様の御心にかなうように生活をするのは
結構なことだとか、やれわれわれはよくない生活をしているとか、やれ精神的にも
肉体的にも苦しんでいるとかいっているが、そのくせいざ実行という具体的な問題に
なると、子供に打撃を与えてはならないから、神の御心にそむいて、従来のままに
教育しなければならないということになってしまう。
若い者はどうかというと、これまた両親の命にそむくことなく、神様の御心に
そぐわない今までどおりの生活をしなくてはならないという。
さらに、世帯を持った男もまた、妻子に心配をかけないために、神の御心にそわない、
今までどおりの生活をしなくてはならないといい、また老人は、長い間の因襲が
どうだとか、余命いくばくもないとか、なんとかいってからに、どこにも
新しい一歩を踏み出してはいけないっていうしまつだ。
結局、誰一人心にかなった正しい生活をすることはできないので、
ただ口先でとやかく論じあうだけが関の山ってわけなんだ」(p.13)
すべての肉体的満足は、必ずこうしたものである。満足を枯渇させまいと思ったら、
絶えずそれを強化してゆかねばならない。
が、満足を強化し増大するには、他人にいっそう多くのものを要求しなければならぬ。
そして他人に自分の欲することを行わせるには、権力者でない普通人の場合、
昔も今も変わりなく、手段は一つ、ただただ金のみである。(p.31)
いったい俺は何者だろう? 幸福を求める人間だ。
俺はそれを地上の諸々の欲望のうちに求めて見出しえなかった。
俺と同じような生き方に終始している人間は、みんな発見しえないのだ。
みんな邪悪にひきゆがみ、みんな苦悩に濡れしょぼたれている。(p.38)
肉の愛も、人間同士の尊敬と愛とが根底となる時に、はじめて正しい、
合理的な、牢固たるものになります。(p.56)
それ自身美しいものと認められて、多くの詩人に謳歌されている愛情、
−−一人の女に対する特定の愛情は、それが万人への愛に基づいていないかぎり、
愛と呼ばれる権利を持っておりません。
そんなのは獣欲で、きわめてしばしば憎悪に豹変する代物です。(p.56)
自分一個の幸福を土台にした結婚はみな、不和の原因たらざるをえません。(p.57)
ひとびとが悪をなすことを望まず、善をしようと欲するようにしむけるには、
法律による予防、阻止、および刑罰では功を奏さないでしょう。
この目的を達成しうるのは、人間の内部に根を張っている悪に
打ち克った時のみです。(p.96)
悪が消滅するのは、そこから必然的に生ずる自他の不幸を、
すべてのひとびとが理解した時にほかならない。(p.99)
不幸−−それは単に黄金を試みる火にすぎないのです。(p.111)
神のもとには大きいもの小さいものもありはしませぬ、また人生においても
大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと
曲がったものばかりじゃ。
人生のまっすぐな道に入りなさい、そうすればあんたは神と共にあるようになるだろう。
そしてあんたの仕事は大きくも小さくもならない、ただ神の仕事となるだろう。(p.115)


感想&思ったこと
 この作品は、表面だけを素通りするような読み方をすれば、
ただの宣教のようにしか見えないかもしれない。
また、あまり現実的でないアナーキズムに違和感を覚える方も多いのではないかと思う。
しかし、この作品の一番の意図は、「キリスト教」という一宗教を信仰しろ、
というところにあるのではなく、
「よりよい、より正しい、より豊かな人生の道を歩め」
というところにあるように感じる。




 冒頭の人々の告白ではないが、「よりよい、より正しい生き方」を
模索することを、避けていてはいけないと思う。
物質的・肉体的満足のみを追求していては、本当の「幸福」はつかめないからである。
それなのに、人々は日常の瑣末な出来事に一喜一憂し、
うつろいやすい流行に乗ろうと必死になっているように見える。
インターネットの普及などによって、情報が巷に氾濫している一方で、
人生について考え、議論する機会などほとんどなく、人々は人生について
思索する力を、いたずらに弱体化させている。
その先にあるものは、果たしてなんだろうか。
その場限りの、はかない満足かもしれない。
一時しのぎの、楽しい気分、快楽かもしれない。
しかしいずれにせよ、それは崩れない幸福、深い人生にはつながっていないと思う。




 この作品は、問答形式で進む場面が多いので、トルストイと議論をする
くらいの気持ちで読んでみてもいいのではないかと思う。
いたるところに文豪の透徹した目によって導き出された、人生のエキスが
ちりばめられており、自分の人生をより深くするのを助けてくれるだろう。
今までがどうだったかではなく、これからどうすることが、
よりよい人生につながっていくのか。
その思索と行動こそが、人生をより深くするものと信じる。
昨日より今日。今日より明日へ。
死んでしまってからでは遅いのだ。
「光あるうち、光の中を歩め」
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