元興寺伽藍縁起并流記資財帳(訳文)

 楷井等由羅宮(桜井豊浦宮)で天下を治めた豊御食炊屋姫命(推古天皇)の生誕百年、癸酉(613年)正月九日に、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)が天皇の命を受け、元興寺などのいわれと豊御食炊屋姫命の発願、ならびに諸臣たちの発願を記すものである。

 大倭国(やまとのくに)の仏法は、斯帰嶋宮に天下を治めた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の世、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていた時、天皇在位七年(『日本書紀』によると546年になる)戊午(538年)十二月に伝わった。

 百済国の聖明王の時、太子像と灌佛会に使用する器一揃及び仏の教えを説いた書物一式を携えて来て、そして言った。仏法は既に世間無上の法であり、その国(百済)もまた仏の教えを身につけようと励んでいると。天皇はこれを受け諸臣たちに言った。「これは他国より送られ渡ってきたものであるが、用いるべきかどうか。良い考えを聞かせてくれ」と。他の臣たちは、「私たちの国は天つ神社、国つ神社あわせて百八の神を一堂に礼奉しており、私たちの国の神の御心を恐れるゆえ他国の神は礼拝すべきではないと思います」と答えたが、ただ、蘇我大臣稲目宿禰ひとりは次のように答えた。「他国が貴きものとするものは、私たちの国もまた貴きものとするのがよいのではないでしょうか」。すると天皇は「どこに安置したらよいか」と大臣に訊いた。大臣は「大々王(豊御食炊屋姫命=稲目の孫=後の推古天皇)の後宮を他の殿舎から分けて、奉るのがよいでしょう」と答えた。

 天皇は大王を呼び、「おまえの牟久原の後宮を他国の神の宮にしたい」と言った。大々王は「御心にしたがいそのようにします」と答えた。それからその殿舎に安置し礼拝を始めた。その後、百済人、高麗人、漢人に広まり、少しずつ修行するようになった。

 それから一年経ったころ、たびたび神の怒りが現れた。他の臣たちは言った。「このように神の怒りがたびたび現れるのは他国の神を礼拝したからだ」。その時稲目大臣は言った。「それは他国の神を礼拝しなかったからだ」。他の臣たちは言った。「神の子である私たちの言うことを聞かないから国内が乱れたのではないか」。その時天王(天皇)がこのことに聞き及んで大臣に言った。「国内がたびたび乱れ、病死する人が多いのは他国の神を礼拝した罪だという。もう許可するわけにはいかない」。大臣はしばらく考えて言った。「外面では他の臣たちにしたがいますが、内心は他国の神を捨てません」。天王(天皇)は、「私もまたそのように思う」と言った。

 このようなことがあってから三十数年が経ち、稲目大臣が病気になり、危険な状態になった時、池辺皇子(後の用明天皇)と大々王(豊御食炊屋姫尊=池辺皇子の妹=後の推古天皇)の二人を前に遺言した。「仏法を修行すべきですと私が申し上げてから、天皇は修行をされた。しかしながら、他の臣たちがなお滅し捨てようと計ったため、仏神宮官が祀っている牟久原の後宮は滅んでしまった。物主大命(欽明天皇)にしたがいなさい。ただ天皇と私の心は同じであり、皇子たちもまた心の底では同じように思っている。仏法を忌み捨てることのないように」。その時大々王は日並田皇子(田は四ではないかと研究者のチェックが入っているが、日並は訳語の間違いで、訳語田=敏達天皇ではないか)の嫡后と並んで座り、池辺皇子(後の用明天皇)は他田皇子(後の敏達天皇)の次に座っていた。このように遺言をしたのである。

 しかし己丑(569)年に稲目大臣が亡くなった後、他の臣たちは共謀して、庚寅(570)年に、堂舎を焼き仏像経教を難波江に流そうとはかった。二人の皇子(池辺皇子と大々王)は「この殿は仏神の宮ではなく、仏神はただここを借りているだけである。これは大々王の後宮である」と言って、焼かせなかった。しかし大変惜しまれるが、太子像は持ち出されてしまった。灌仏用の器は隠して持ち出されなかった。今元興寺に在るのがこれである。

 その後、辛夘(571)年、神の怒りがますます溢れ、国内に病死する人が多数あり、大旱魃また天からの雨、大雨があり、ついに大宮から出火し焼失した。天皇は驚きのあまり、病気になり、危険な状態になった時、池辺皇子と大々王の二人を呼び言った。「仏神は恐ろしいものであると大父(義理の父である蘇我稲目)は遺言した。忌むではならない。充分慎み、仏神を憎み捨ててはならない。大々王の牟久原の後宮には、けっして(自分のものにしようという)欲望を持たず、ずっと仏を祀り、お互いに奪って自分のものにしてはならない。その代わりとして耳无宮氣弁田をすでに後宮として確保してある」。池辺皇子と大々王は、このように命を受け賜った。しかしながら、その同年辛夘(571)天皇(欽明天皇)は亡くなった。

 天皇(欽明天皇)が亡くなって十一年目の辛丑(581)年、他田天皇(敏達天皇)の前で、大后の大々王が言った。「先の己丑(569)年に大父祖の大臣(蘇我稲目、推古天皇の祖父にあたる)は、仏法は憎んではならない、捨ててはならない、とこのように遺言されました。しかしながら、庚寅(570)年に仏法は諫められ、禁止されました。また辛夘(571)年に父天皇(欽明天皇)から遺言を承りました。池辺皇子と私の二人を呼んで申されました。仏法は憎み捨ててはならない、また大々王のその牟久原の後宮には、けっして欲望を持たず、ずっと仏を祀り、お互いに奪って自分のものにしてはならない、と。このように二回遺言を承りました。しかしながら、仏法は諫められ禁止されてから十余年もの時間が経ってしまいました」。

 これを聞き、他田天王(天皇)は言った。「なお今も他の臣たちは同じ心ではない。もし事をなそうとするのならば密かに行うのがよい」と。このような言葉を受け、壬寅(582)年には、大后の大々王と池辺皇子の二人は同じ想いを抱き、癸夘(583)、牟久原殿の楷井にはじめて桜井道場を作り、灌仏の時に使う器を隠し納めた。

 その後癸夘(583)、稲目大臣の子の馬子足禰が、国内に災いがあり占わせた。「これは父の世に祀った神の心である」。大臣は恐れて仏法が広まることを願った。そこで仏門に入り修行をする人を求めたがそれに応える者はいなかった。ただこの時、針間(播磨)国に脱衣の高麗老比丘、名は惠便と老比丘尼、名は法明というものがいた。その時、按師首達等の娘の斯末賣、十七歳と、阿野師保斯の娘の等己賣、錦師都瓶善の娘の伊志賣、合せて三人の娘が法明に就いて仏法を学んでいた。三人は共に、私たちは出家し仏法を学びたい、と言った。大臣は喜んですぐに出家させた【嶋売は法名を善信、等己売は法名を禅蔵、伊志売は法名を惠善という】。大臣それに大々王と池邊皇子の2人は大いに喜んで、桜井道場に住まわせた。
 次に、甲賀臣が百済から石の弥勒菩薩像三体を持ってきて尼たちの家の入口に置いた。あるとき、按師首が飯食している時、舎利を得たので大臣に差し上げた。

  大臣は乙巳(585)年二月十五日、止由良佐岐に刹柱(仏骨を入れた塔)を立て、多くの人が集まる場所を作った。この時、他田天皇(敏達天皇)は仏法を破滅させようと、この二月十五日、刹柱を切り倒し、強く大臣をとがめ、仏法に依っていた人々の家や、仏像殿を皆破壊し焼きつくした。佐俾岐彌牟留古造が三人の尼たちを呼び、泣いて出て往く時、大臣が来て三人の尼たちを連れて行った。都波岐市の長屋に着いた時、その法依を脱ぎ仏法を破り棄てた。桜井道場は大后の大々王の命により、犯されなかった。私の後宮である、と言って焼かせなかった。

 佛法を破壊しきった時、国内には悪い瘡がはやり、多くの民が病死した。病気の者は自ら言った。「私は焼いた。私はたたき切った。私も切った」と。その時三人の尼は外出せず、堅く身を守った。

 大臣がまた病気になった。そのため他田天皇に、また三宝(仏・仏の教え・僧、すなわち仏教のこと)を敬いたいと申し出た。天皇はただ大臣だけを許した。大臣はこれを受け、三人の尼たちに三宝を敬い礼拝するよう頼んだ。

 他田天皇が同じ年、乙巳(585)年に亡くなった。次に池辺皇子が天皇(用明天皇)となった。馬屋門皇子は言った。「仏法の破滅は、怪しくも災いをますます増やします。それゆえ三人の尼たちを桜井道場に置き供養すべきです」と。天皇はこれを許し、桜井寺に住まわせ供養させた。

 三人の尼たちは官に言った。「出家する人は戒をもって本となすと伝え聞きます。しかし戒を教える師がいません。そこで百済国に渡り教えをうけたいのですが」と。しかし間もなくして、丁未(587)年百済から客が来た。官が訊いた。「この三人の尼たちは百済国に渡り戒律の教えを受けたいと言っています。これに何と答えればよいのでしょうか」。蕃客(百済の客)は答えて言った。「尼たちが戒を受けるのは尼寺の法です。まず十人の尼の師を請うて本戒を受け、法師寺に詣でて、十人の法師を請うて、先の尼師十人と合せて二十人の師によって本戒を受けるのです。しかしこの国には尼寺はありますが法師寺と僧がいません。尼たちがもし仏法に従ってそのとおりにするのであれば、法師寺を設け、百済国の僧、尼たちにお願いし戒を受けさせるのがよいでしょう」。

 そこで池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。その時百済の客は言った。「私たちの国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が互いに聞こえ、その間に災いもなく、半月ごと午前中に往き来できる所に作ってあります」。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた。

  丁未(587)年、百済の客が本国に還った。その時池辺天皇が言った。「仏法の教えを広めたい。そのためには法師たちと寺を造る工人たちが欲しい。私は病気なので急いで使者を送る必要がある」。しかし使者が到着しないうちに天皇は亡くなった。

 次の椋攝天皇(崇峻天皇)の時、戊申(588)年に六人の僧、名は令照律師、弟子の惠忩、令威法師、弟子の惠勳、道厳法師、弟子の令契、それに恩卒首眞等四人の工人を送ってよこし、あわせて金堂の基本様式(模型)を奉った。今この寺にあるのがこれである。

 聡耳皇子が大々王に申し上げた。「昔、百済国に法師と工人を遣わすよう乞いました。これにはどう答えたらよいでしょうか」と。大后大々王は言った。「先程のいろいろのことは今の帝にお話しましょう」。聡耳皇子は詳しく先程のことを話した。その時天皇が言った。「先の帝の時にしようと思っていたようにしなさい」。

  時に三人の尼たちが官に言った。「来たのは六人の僧だけでした。二十人の師は一緒に来ませんでした。ですから百済国に渡り戒を受けたいと思います」と。そこで官が法師たちに「この三人の尼たちは百済に渡り戒を受けたいと言っているが、どうしたらよいだろうか」と訊いた。法師たちの答は前の百済の客と同じだった。それでも尼たちは、強く百済に渡りたいと言った。官は行くことを許した。弟子の信善、一善妙を含めて五人の尼を遣った。戊申(588)年に百済に渡った。

  聡耳皇子は大后大々王に申し上げた。「仏法を広めることは官にすでに許しています。今は何をしたらよいでしょうか」。大后大々皇は聡耳皇子と馬子大臣の二人に言った。「今は、百済の工人たちによって二つの寺を作ることです。しかし尼寺はすでにあるので、今は法師寺を作ることです」と。

  聡耳皇子と馬子大臣の二人はともに法師寺を起こす(作る)場所に、戊申年(588)、仮の垣根と仮の僧房を作り、六人の法師を住まわせた。また桜井寺の中に家を作り、工人たちを住まわせ、二つの寺を作るため、寺木(寺院建築特有の木組み?)を作らせた。

  庚戌(590)年、百済国から尼たちが還ってきて、官に言った。「戊申(588)年に行って六つの戒を受け、己酉(589)年三月に大戒を受け、今庚戌(590)年に還ってきました」。尼たちは本の桜井寺に住んだ。そして言った。「礼仏堂をとにかく速くお作りください。また半月ごとの白羯磨のために、あわせて法師寺も速くお作りください」。このようにして桜井寺内の堂は大略作られたのである。

 大々王天皇命(推古天皇)が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。「この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇(欽明天皇)のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子(実際は甥)よ、すぐにことにあたってください。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください」。そして癸丑(593)年、宮内に遷り入った。先に金堂礼仏堂などがほぼ出来上がり、等由良宮(豊浦宮)が寺となった。それで等由良寺(豊浦寺)と名付けられた。

 また大々王天皇が天下を治めていた時、聡耳皇子が言った(聡耳皇子の前に「天皇」という文字があるが、文脈からすると不自然なので、聡耳皇子の言葉として解釈した)。

 「今私たちは長生きをし、生年を数えると、百の位(百歳)になり、道俗(僧侶と俗人)の法では、世は建興、建通である。ひそかに思うが、どうして徳に至らないことがあるだろうか。
 仏法を最初に受け入れた時、後宮は破らせず楷井(桜井)に遷し道場(桜井道場)を作った。その時三人の女性が出家した。そこで大喜びしその道場に住まわせた。こうして仏法の芽が生え、それで名を元興寺とした。経に、比丘(僧)の身で得度(悟りをひらく)した者は比丘の身で現れ説法を行うというが、その三人の尼たちは、まさにこのことをいうのではないか。
  今またさらに仏法が盛んになり、世に広まり、元興寺を建てた。それで、もとの名を建興寺(桜井寺、のちの豊浦寺のことか)と称した。法師寺は、高麗・百済より法師たちがたびたび来て申し上げ、仏法寺が建てられ建通寺(元興寺の仏法上の名か)と名付けられた。今は皇后帝の世に当り、また仏法でいう建興、(建)通の世であり、それで皇后帝は大聖人が現実に現れたお姿であることを知るのである。経に、王の後宮において女の身となって仏法を説くとあるが、それはこのことをいうのではないか。すなわち、この国の機(状況)に、この適切な対応をとったことをもって、その徳義にしたがい、法興皇と称することにする。三つの名(元興寺、建通寺、法興皇)はずっとのちの世まで広く知られるであろう」。

 これをもって諸臣たちを同志となし、このように言い終わると、発願して言った。「三宝のご加護を皇帝陛下と共に受け、そして天地四海安楽、正法(仏法)はますます溢れ、聖人の感化が永遠であらんことを」。

 その時、天皇は立ち上がり合掌し、天を仰ぎ、心極まり懺悔して言った。

 「私の現世に父母、六親族、愚かにも道理を無視する間違った考えをする人が、三宝を破壊し滅して、焼き流しました。奉納したものを取り返し滅しました。しかし今、私は等由良後宮を尼寺とし、山林・田畑・水路・領民・奴婢などを更に奉納し、また敬って法師寺を造り、田畑・領民・奴婢などを奉納しました。また敬って丈六二体を造り、また自ら種々の善い行いをしました。この功徳をもって、私の現世に父母、六親族らが仏法を焼き流した罪、そして奉納したものを取り返し滅した罪を、ことごとく除きなくしてあがないたいと思います。彌勒に向かい奉り、正法(仏法)を聴き、生きて耐え忍ぶことなきを悟り、速やかに正覚(迷いを絶ち仏法を覚る)を成し、十方諸仏、四天などに、真心をもって誓願し、建造した二つの寺と二体丈六を、これ以上破らず、流さず、切らず、焼かず、二つの寺に種々諸物を納め、さらに摂らず滅さず、犯さず、進むべき道を間違いません。もし私自身、私の後嗣子孫たちが、他人を疎んじ、この二体丈六が納められたところのものを侵入し取るなど、このように道を間違えることがあれば、必ずやさまざまの大災大羞を受けるでしょう。もし仰ぎ信じ、尊び、供養し、慎み敬い、豊かな食物を修めるならば、三宝のご加護を受けるでしょう。身命は長く安楽を得、種々の福を得、万事は思いのままになり、万世絶えることはないでしょう。
 私はすでに定めを知りました。尊きを誹謗し、施しを奪えば、それぞれその災いを受けます。私はすでにこれをみてとっています。慎むことです。三宝を軽んぜず、三宝の物を犯さず、修行に堪え、善く捧げることにより、後々まで導き給い、ご加護が続き、ご加護を受け、現在未来、最勝安楽を得られることを願うものです。信心を絶やさず、この法を修行すれば、永世窮する者はいないでしょう。一切の命あるもの、形あるものがともにあまねく同じように、この福をもって、速やかに正覚が成されることを願うものです」。

 このように誓い終わると、大地は揺れ動き、地は震え雷が鳴り、突然の雨、大雨が降り、悉く国内を浄化した。

 その時、聡耳皇子が諸臣たちに語った。「伝え聞くところによれば、君が正法(仏法)を行えば、それに隨っていき、君が邪法を行えば諫めると。今、私たちの天皇が行い願うところを見聞きしていると、まさに正しい行い願いであり、天下のすべての人々は皆、それに応えしたがっていくべきでしょう」。

 中臣連、物部連らをはじめとし、諸臣たちは同じ心で言った。「今より三宝を、これ以上破らず、焼いたり流したりせず、軽んぜず、三宝の物を取ったり犯したりしません。今より以後、左肩には三宝を座し、右肩には私の神を座し、並んで礼拝・尊重・供養をします。もしこの願いを破りあやまちを犯せば、天皇が願ったように、種々の大きな災い、羞を受けるでしょう。この善願功徳をもって、皇帝陛下とともに、日月天下は安楽となり、後嗣のご加護を受け、世の時が移り変わっても、変わらずに益を得ることを仰ぎ願います」。

  聡耳皇子はこのようにいうのを聞き、つぶさに天皇に申し上げた。天王(天皇)はほめて言った。「善いことです。うれしく思います」。そして聡耳皇子を呼んで言った。「その事の委細を知り、私が治めていた時、仏法が渡り来て起こった様子、あわせて元興寺、建通寺などができたいきさつ、そして私が発願したことの委細を記すように」。そしてまた言った。「刹柱を立てた所、そして二体の丈六を作り奉った所は、けがしたり汚したりすることのないように。また人が住んで汚すことのないように。また諫めを聞かず法を犯す者は、前に願ったとおり、大災羞を受けるでしょう」。

  刹柱を立てたところとは、宝欄の東仏門のところで、いわゆる二体丈六を作ったところは、物見岡の北方にあたろうか。その地の東には十一丈大殿があり、銅の丈六を作り奉った。西に八角円殿があるのは、繡(細い糸で色模様を縫いとりした像)を奉ったからである。

  池辺列槻宮治天下橘豐日命皇子(用明天皇)、馬屋門豊聡耳皇子(聖徳太子)、桜井等由良治天下豊彌気賀斯岐夜比賣命(推古天皇)の生誕百年、歳次癸酉(613)正月元日、吉事を聞く日に、天皇の命を受け賜り諸事を記したものを上申する。大々王天皇は私に勅をもって、沙彌善貴と称された。

  前の二寺に伝わるもの、衆物を力づくで取ろうとする悪人に、この文を授け写し開示してはならない。もしこの文をなくし、間違え乱すことは、まさに二寺の散滅を意味することを知らなければならない。厳順法師、妙朗法師、義観法師。おまえたち三法師に堅く受け持たせるものである。

 難波天皇(孝徳天皇)の世、辛亥(651)正月五日、塔の露盤に銘を授けた。

 大和国の天皇斯歸斯麻宮治天下名阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等(欽明天皇)の世に、奉り仕えていた伊那米(稲目)大臣の時、百済国の正明(聖明)王が申し上げた。万法の中で仏法は最上であると。ここに、天皇そして大臣(稲目)が聞き及んで言った。「善いことである」。そうしてすぐに仏法を受け入れ、倭国に造った。しかし天皇と大臣たちは報いを受け尽きてしまわれた。
 それで天皇の娘佐久羅韋等由良宮治天下名等己彌居加斯夜比彌乃彌己等(推古天皇)の世、甥の有麻移刀等刀彌々乃彌己等(聖徳太子)の時、奉り仕えていた有相明子(馬子)大臣を筆頭に諸臣たちが讃えて言った。「すごく善いことだ、善いことだ」と。
 仏法を造立したのは父天皇(欽明天皇)と父大臣(蘇我稲目)である。菩提心を発し、十方諸仏に、化度衆生、国家大平を誓願し、塔廟を敬って造立した。この福による力は、天皇、大臣そして諸臣たちの過去七世父母、広く六道四生(六つの世界と四つの生分類)、四生のいたるところ、十方浄土に及び、あまねくこの願いによって、みな成仏を果たし、もって子孫が代々忌むことなく、綱紀を絶やすことがないようにと、建通寺(元興寺のこと)と名付けられた。
 戊申(588)、はじめて百済王、名は昌王に法師と諸仏などを求めた。改めて釈令照律師・惠聡法師、鏤盤師将徳自昧淳、寺師丈羅未大・文賈古子、瓦師麻那文奴・陽貴文・布陵貴・昔麻帝彌を遣わしてきた。作り奉った長は山東漢大費直、名は麻高垢鬼、意等加斯費直である。文を書いた人は百加博士、陽古博士である。丙辰(596)年十一月に出来上がった。この時金を作らせた人は意奴彌首、名は辰星、阿沙都麻首、名は未沙乃、鞍部首、名は加羅爾、山西首、名は都鬼である。四部の首を将とし、もろもろの技術者を使い作り奉った。

  丈六光銘にいう。

 天皇、名は広庭(欽明天皇)が、斯歸斯麻宮にいた時、百済の明王が申し上げた。「臣(明王)は、いわゆる仏法はすでに世間無上の法となっていると聞いています。天皇もまた修行をなされてはどうでしょうか」と。そして仏像、経典、法師を奉った。天皇は巷哥名伊奈米(蘇我稲目)大臣に命令しこの法を修行させ、仏法をはじめて大倭に建てた。 広庭天皇の子、多知波奈土與比天皇(用明天皇)が夷波礼瀆辺宮にいたとき、任性(耐える心)廣慈(寛大ないつくしみ)で、深く三宝を信じ、人を迷わせる眼を棄て、仏法を受け継ぎ興した。
 そして妹の止与彌擧哥斯岐移比彌天皇(推古天皇)が楷井等由羅宮にいたとき、瀆邊天皇(用明天皇)の志を受け継ぎ盛んにし、また三宝の理を重んじた。
  揖命瀆邊天皇の子・等與刀彌々大王(聖徳太子)、そして巷哥伊奈米(蘇我稲目)大臣の子・有明子(馬子)大臣は、道理を理解しようとする諸王子に緇素(僧と世俗の人)を教え、そして百済の惠聡法師、高麗の惠慈法師、巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた。
 十三年、歳次乙丑(605)四月八日戊辰、銅二万三千斤、金七百五十九両をもって尺迦丈六像を敬造し、銅と繡(細い糸で色模様を縫いとりした像)の二体をその左右に控え立たせた。

 高麗大興王(『三国史記』「高句麗本紀」によれば、この時の高句麗王は嬰陽王である)は大倭に友好の意を示した。三宝を尊重し、遠くから喜びを表し、黄金三百二十両を助成した。同じ心を持つ血縁者として、この福の力によって、亡くなった諸天皇、また命あるものすべてに対し、信心を絶やすことなく、諸仏に向かい奉り、共に菩薩の岸に登り、速やかに正覚(迷いを絶ち仏法を覚る)を成すことを願った。

 歳次戊辰(608)、大隨国の使者・主鴻艫寺掌客裴世淸、副尚書祠部主事遍光高等がこれを奉るために来た。明くる年、己巳(609)四月八日甲辰、元興寺に座った(入った)。


牒 以去る天平十八年(746)十月十四日被僧綱所牒称 寺家の縁起あわせて資財などの物 を子細勘録 早可牒上者 依牒旨 勘録如前今具事状 謹以牒上

  天平十九年(747)二月十一日 三綱【三人】

 可信五人 位所皆在署

 僧綱依三綱牒検件事訖 仍爲恒式以伝遠代 謹請紹隆佛法 將護天朝者矣

天平二十年(748)六月十七日佐官業了僧【次佐官兼薬寺 佐官興福寺師位二人 佐官業了僧一人】

大僧都行信

合賤口一千七百十三人【定九百八十九人 三百廿七人 有名無償 訴良口七百廿四人 見定口六十二奴婢 奴二百九十一人 婢三百七十人】

合通分水田四百五十三町七段三百四十三歩

定田四百卅八町四段三百四十三歩未定五十町三反

在七ヶ国 大和 河内 攝津 山背 近江 吉備 紀伊

合食封一千七百戸 在七ヶ国 伊勢百 越前百五十

信乃三百廿五 上総五百 下総二百 常陸二百 武蔵三百 温室分田 安居分 三論衆 攝論衆 成実衆 一切経分 燈分 通分 園地并陸地 并塩屋 御井 山寺 各有其員分 皆略之


※元興寺、桜井寺、豊浦寺、建興寺、建通寺の説明を一部訂正した。2011.04.25


原文に戻る    ■ホーム