倭国と日本国-通史

 日本古代史の定説といわれているものは、『日本書紀』などの日本史料と中国史書などの海外史料の相互補完によって構築されている、といってよい。これは歴史を構築する上で正しい方法のようにみえるが、しかし本当にそうなのだろうか。もしそれぞれの記録対象としている国がまったく別の国であったとしたらどうだろう。そこには歴史事実ではない歴史が誕生してしまうことになる。
 この方法で歴史を構築するのなら、ヤマト=倭国が検証されていなければならないはずである。しかし私の知るところ、それはまったくない。逆に妙な理由をつけて、異なる記録を無理やり一致させようとする研究者の姿勢だけが目につく。検証しないのであれば、中国史書は中国史書、『日本書紀』は『日本書紀』で、なぜそれぞれの歴史を最初に構築しないのだろうか。いつも不思議に思う。『日本書紀』と中国史書の相互補完による歴史構築は、それぞれの歴史をはっきりさせてからでも遅くはない。少なくとも間違った歴史を公表するよりはよいはずだ。

 私は『日本書紀』を何度か読んで、そこに誇張や作為があるものの、それは明らかに倭(わ)国ではなくヤマトの歴史である、という確信を持つようになった(ただそこには倭国の歴史も紛れ込んでいる可能性はある)。また以前より、中国正史を『漢書』地理志から『新唐書』東夷伝までを通して読むことにより、倭国はヤマトではなく日本でもない、ということにも確信を持つようになっていた。
 『日本書紀』がヤマトの歴史であるなら、倭国の歴史は『日本書紀』からはわからない。倭国と日本国の歴史は、詳細にではなくても中国史書にある。それならば中国史書によって、わかる範囲で倭国と日本国の歴史を構築する。これは正当な考え方、というより普通の考え方であると私は思う。しかし不思議なことに、これまでの日本古代史の研究にはこのような考え方はまったくといってよいほどなかった。

 たとえ詳細はわからなくても、まず中国史書を中心とした『日本書紀』以外の資料によって日本列島の歴史の流れをとらえること、これが最重要事である。私のこの考え方に基づく通史は、すでに拙著「『隋書俀国伝』の証明」(近代文芸社 1998.07)で発表しているが、ここではその対象を歴史の流れに直接関係する事件に絞り込み、より簡潔な通史として掲載することにした。
 事件・記事などの詳細については、拙著やこのホームページの論考・資料を参照していただければと思う。
 


倭国

倭人の国は楽浪海中に百余国あり、定期的に中国に朝貢していた。

 『漢書』地理志。

倭国の南限にあたる博多湾周辺にあった倭奴国は、57年後漢に遣使朝貢し、光武帝から印綬を賜った。

 『後漢書』東夷伝。
 倭奴国は倭国の極南界にあったと書かれている。 志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、光武帝から賜ったものとみて間違いなく、この時代、倭人の国は博多湾周辺から朝鮮半島南部にかけてあったことがわかる。また倭奴国は倭人諸国を代表する国として中国に認められたことになる。

107年倭国王帥升が後漢に遣使朝貢した。

 『後漢書』東夷伝。
 このときにはすでに、倭国というまとまりが誕生していたことを意味する。それまでは倭奴国が倭諸国の代表であったことを考えると、倭国王を輩出した国も倭奴国だった可能性が高い。

2世紀後半倭国に戦乱が起こり、その結果、倭国の中心は博多湾周辺の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移った。

 『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝。
 7、80年男王の時代が続いた後、2世紀後半に戦乱が起きたが、邪馬壹国の卑弥呼が倭国王に共立され、戦乱はおさまった。
 倭国王帥升の後漢への遣使は、倭国乱のちょうど7、80年前にあたる。帥升は倭国最初の王であり男王だったと考えられる。帥升が倭奴国から出た王だったとすると、倭国乱の当事者も倭奴国王だった可能性は高い。
 『隋書』東夷伝の邪靡堆(邪馬壹、邪馬臺)の位置から考えると、倭国の中心は博多湾周辺の倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移ったことになる。

邪馬壹国の女王卑弥呼は、代々邪馬壹国の属国だった伊都国に一大率を置き、女王国より北にある諸国を検察させた。

 『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝。
 なぜ卑弥呼は女王国より北にある諸国を検察させたのか。それは、新しく邪馬壹国勢力圏に入った倭奴国勢力圏の国々を支配・監視するするためだった、と考えれば理解できる。

4世紀末倭国は百済と友好関係を結び新羅に進駐したが、400年新羅を臣民とする高句麗によって任那加羅に追いやられた。

 「高句麗広開土王碑」。
  この任那加羅に関係するのは倭(わ)国である。倭国は300年代後半には、朝鮮半島南部に進出していたことがわかる。
  また、『翰苑』「新羅-地惣任那」は、任那加羅は辰韓・弁辰・慕韓とは別に存在してように記録する。
  ※この部分の説明を一部訂正した。2014.07.01

倭国は5世紀に入ると宋に遣使し冊封を受けた。

 『宋書』夷蛮伝。
 讃、珍、斉、興、武の倭国の五王は、421年から478年までの間、宋に遣使し冊封を受けていた。
 478年の武の上表文には、武の父の代に、東は毛人の国を55、西は衆夷の国を66征服し、海を渡っては海北の国を95制したとある。また高句麗と抗争を続けていたことも書かれている。
 順帝は武を「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に除した。
 倭国は高句麗広開土王によって一時任那加羅に追いやられながらも、再び新羅・秦韓・慕韓に進出して行った、ということになる。

倭国は九州島であり、その都・邪靡堆(邪馬臺)は卑弥呼の時代からずっと有明海北東部沿岸にあった。

 『隋書』東夷伝。
 倭国は東西五月行、南北三月行で海に囲まれ、そこには阿蘇山がある。その都は邪靡堆と呼ばれ、『魏志』にいうところの邪馬臺である。
 「東西五月行南北三月行」から、倭国は長辺対短辺の比が5:3の長方形をした国であることがわかるが、邪靡堆へ至る行路の途中にある対馬から壱岐の方位が、『魏志』倭人伝では「南」とあるところが「東」となっていることから、倭国の形は実は「東西三月行南北五月行」であることがわかる。したがって倭国とは、「東西三月行南北五月行」の長方形をし、周囲は海で、さらに阿蘇山があるところということになる。この条件を満たすところ、それは九州しかない。
 その都は当然九州内にあるが、『隋書』の邪靡堆までの行路により、有明海北東部沿岸にあったことがわかる。それは『魏志』にいう邪馬臺(邪馬壹)であるというから、卑弥呼の時代から阿毎多利思北孤の時代まで、倭国の中心は変わらず有明海北東部沿岸にあったことになる。
 隋代の倭国が九州島であることを考えると、
の95の海北の国とは、壱岐・対馬などを含んだ、それより北の諸国(新羅任那加羅秦韓慕韓)だったと考えられる。

倭国は魏の時代から斉、梁、そして隋と代々中国と通交してきた。

 『隋書』東夷伝。
 この記事により、倭国は魏の時代、すなわち卑弥呼が倭国の女王になったときから、斉、梁、そして隋の時代まで中国と通交していたことがわかる。

倭国は古の倭奴国である。

 『旧唐書』東夷伝「倭国」。
 『後漢書』東夷伝によれば、倭奴国は倭諸国の一番南に位置する国である。つまり倭奴国は倭国そのものではなく、あくまでも倭諸国の中の一国なのである。
 倭国は倭奴国ではないから、この記事は、倭国は倭奴国からはじまった、ということの意味であると思われる。そうすると最初の倭国王となった帥升は倭奴国から出た王である可能性が断然高くなる。

唐代には九州島だけではなく、周りの小島50余国も倭国に属するようになった。

 『旧唐書』東夷伝「倭国」。
 唐代には九州の周りの小島50余国も倭国に属するようになった。隋代より領土が少し拡大したことを示している。

倭国は唐代まで世々中国と通交してきた。

 『旧唐書』東夷伝「倭国」。
 『隋書』東夷伝の記事(
)と合わせると、倭国は魏の時代から唐の時代までずっと中国と通交してきたことがわかる。

倭国は百済の要請に応え水軍を派遣するが、663年白村江で唐の劉仁軌率いる水軍と会戦し大敗する。

  『旧唐書』列伝「劉仁軌」
 ここでは倭国、倭兵、倭が使われている。中国側は何のことわりもなしに「倭」の字を使用しており、このことは、これらの倭がこれまでに中国正史で使用されてきた倭と同じ倭であることを示している。つまり白村江で唐に大敗したのは九州の倭国だったということである。


日本国

日本国は倭国の別種である。

 『旧唐書』東夷伝「日本国」。
 日本国は倭国ではないことを明記している。

日本は昔は小国だったが、倭国を併合した。

 『旧唐書』東夷伝「日本国」。
  の国は日辺にあったので日本を名とした。倭国自らその名が雅でないので日本と改めたという。また、日本はもと小国だったが倭国の地を併せたともいう。
 『旧唐書』はこのように書くが、日本は倭国ではないので、「倭国自らその名が雅でないので日本と改めた」は矛盾する。だから中国側は「其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉」と、日本国使者のいうことを疑ったのである。これは中国側が日本国は倭国ではないことを認識していた証拠である。『旧唐書』は「倭国≠日本国」の姿勢で貫かれている。
 日本は昔は小国だったが、この時代になって倭国を併合したのである。また「倭国自らその名が雅でないので日本と改めた」は、「倭国」を「ヤマトのくに」とすれば矛盾は起きない。

日本国は東西南北が各数千里で、西と南は大海に接し、東と北には大きな山があり境界となり、その外側は毛人の国である。

 『旧唐書』東夷伝「日本国」。
 『隋書』東夷伝、『旧唐書』東夷伝の倭国の地理地形とこの日本国の地理地形はまったく異なっている。「日本国は倭国の別種である」の正しいことが、この記事によっても証明される。


『新唐書』東夷伝における日本

(1) 日本は古の倭奴国である。

 『旧唐書』東夷伝の「倭国は古の倭奴国である」の倭国が日本にすりかわっている。
 倭奴国は九州博多湾周辺にあった国であるが、日本の出自が倭奴国である可能性はある。しかしここでは「倭=日本」とするため、単純に倭を日本にすりかえただけのものと考えたほうがよさそうである。

(2) 日本は東西が五月行、南北が三月行あり、左右の小島50余も日本に属している。日本の都は方数千里で、南と西は海で、東と北は大きな山が境界をつくり、その外は毛人の国である。

 『旧唐書』東夷伝の倭国の地形「東西五月行南北三月行」が日本全体の地形となり、日本の地形だったものが日本の都の地形とされている。
 「東西五月行南北三月行」は九州の地形であるにもかかわらず、日本の地形にされてしまっている。日本が近畿地方から九州地方をその勢力範囲としていたとしても、「東西五月行南北三月行」という表現は事実とはまったくかけ離れたものであり、周りには小島があるという表現にも合わない。
 倭を単に日本と書き換ただけのものであることは明白であるが、日本が倭国の範囲まで勢力範囲を拡大したという新しい状況が表現されている、という見方もできる。日本が日本の都になったところにも、それが現われている。
 この書き換えによって、『旧唐書』の「日本はもと小国だったが倭国の地を併せた」の正しいことが、逆に証明されたともいえる。

(3) 用明はまた「目多利思比孤」といい、隋の開皇(581~600)末になってはじめて中国と通交した。

 倭国は魏の時代からずっと中国と通交しているのに対し、日本は中国と通交したのは開皇(581~600)末になってからだという。
 日本は倭国ではないことを自供している。

(4) 日本は小国だったので倭に併合され、倭がその名を奪い日本となった。

 その国は夏音を知り、倭という名を嫌い、日本と改名した。日の出るところに近いので名とした、と日本使者はいう。また、日本は小国だったので倭に併合され、倭がその名を奪ったともいう。
 『旧唐書』の「日本はもと小国だったが倭国の地を併せた」という記事は「倭国≠日本国」の場合だからこそ成立したのであり、『新唐書』のように「倭国=日本国」とした場合、これは本来書き換えようがない。削除するしかないのである。しかし『新唐書』は「日本は小国だったので倭に併合され、倭がその名を奪った」と書いた。なぜか。そこにはそういう事実があったからなのではないか。日本国は実際は倭国ではないから、倭国とは別の倭が畿内に来て小国日本を併合し日本を名乗った、という事実である。
 日本の使者はかつての自国の歴史をもとに、『旧唐書』の内容に似た表現を使い、「倭国=日本国」を主張したのである。この記録は神武東遷と重なる。なおここでいう小国日本は、『旧唐書』とは異なり日本(ヤマト)となった倭に併合されているから、ヤマトではない。また神武東遷に重なるならば、この小国は饒速日の国・日本(ひのもと)だったことになる。

 『新唐書』東夷伝は『旧唐書』東夷伝の倭を日本に書き換えたもの、あるいは日本とみなして書いたものである。したがって、『新唐書』の「倭国=日本国」を採用して日本古代史を論じている人は、方法論上、「倭国≠日本国」としている『旧唐書』までの中国正史をその史料証拠として使用することはできないことになる。このことは非常に重要である。


倭国と日本国(参考)

 ここまでの史料と『日本書紀』などの日本史料を比較整合した日本列島の古代史は、一言でいえば次のようになる。

 中国と古来通交していた倭国は、白村江敗戦後の7世紀末頃日本に併合され、その歴史も日本に奪われた。しかし倭国の歴史は日本の歴史の中に生き続け、日本はブランドである倭国の歴史をもって、日本列島を統一し、中国・統一新羅に対抗しうる国をつくるに至った。


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