「倭」と「日本」の読み方について

2022.01.11

 『旧唐書』『新唐書』にみる「日本」

  「日本」と漢字で書く国名はいつできたのか。中国正史の『旧唐書』『新唐書』には、「日本」という国名が生まれた理由らしきことが書かれている。
『旧唐書』には

日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。 

とあり、『新唐書』には

咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云日本乃小国、為倭所幷、故冒其号。

とある。
  『旧唐書』は、①日本国は倭国とは別の存在で、日の方にあるので「日本」と名付けた ②倭国自身が、「倭」という名は良くないとして「日本」と改めた ③日本は昔は小国だったが、倭国の地を併せた という。
  一方『新唐書』は、①670年に、高麗を平定したことを賀すため遣使し、後に夏音を習い、「倭」という名は良くないことを知り、国名を「日本」と改めた ②使者が言うには、国が日の出るところに近いので国名とした ③日本は小国だったので「倭」に併合され、「日本」という名を奪われた という。

  『旧唐書』では、①で日本国は倭国とは別の存在だと言っておきながら、②は倭国自身が日本と改名した、とあり、倭国と日本国は別の存在であることを示している③とも矛盾している。『旧唐書』では、「日本国は倭国とは別の存在」という見方が勝っている。
  『新唐書』では、『旧唐書』の①の「日本国は倭国とは別の存在」は削除されており、①「倭が日本と改名した」とする。しかし③で、倭と日本は別の存在であることを表明してしまっている。②の「日の出るところに近いので国名とした」というのは、『旧唐書』の①にもあり、そこには「日本国は倭国とは別の存在」とあり、この②は「倭国が日本と改名した」ことの証明にはならない。③は、「倭」が「日本」を併合し、その名を奪い「日本」と改名した、と言っているので、倭と日本は別の存在であることを証明している。この③によれば、①の「倭が日本と改名した」も、実は「倭と日本は別の存在」だったとみることもできる。
  『新唐書』はまず、『旧唐書』にあった「日本国は倭国とは別の存在」を削除し、「日本国は倭国が改名したものである」という姿勢を全面的に打ち出したが、よくみると、どれも空振りに終わっているようにみえる。「小国日本」の「日本」を「ひのもと」とし、「倭」を「やまと」とすれば、『新唐書』の目論見(正しくは日本[やまと]の歴史操作)は虚しく終わる。
  『新唐書』では、「小国日本」はその名を倭に奪われてしまったのであり、「小国日本」は「やまと」ではありえない。『旧唐書』の「小国日本」とは別物なのである。饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が最初に河内につくった国は「日下(ひのもと)」と呼ばれ、「小国日本」はこの「日下(ひのもと)」だったと考えられる。それでは「小国日本」を併合した「倭」とはいったい何者なのか。それは、のちに「日本」と改名した畿内の「倭(やまと)」にほかならない。
  『新唐書』がそのように考えられるとすると、『旧唐書』はどうなのか。①③は倭国と日本国は別の存在だとしているから、②の「倭国自身が日本と改名した」の「倭国」をどう考えればよいか、ということになる。日本の前身は「やまと」である。「日本国は倭国とは別の存在」であり、「日本」と改名したのが「倭」であるというのであれば、その「倭」は当然、 『新唐書』同様、畿内の「やまと」である「倭」ということになる。『旧唐書』には「日本国者倭国之別種也」とあり、「別国」ではなく「別種」とある。「別種」には「別倭種」の意味があると私は以前から思っており、「日本」と改名した「倭」は、九州の「倭国」ではなく、「やまと」にいる「倭種」だと考えることにより、『旧唐書』『新唐書』の「日本国者倭国之別種也」「倭国自悪其名不雅、改為日本」「日本旧小国、併倭国之地」「日本乃小国、為倭所幷、故冒其号」は何を意味しているのかがわかってくる。【このことについては拙著「『隋書俀国伝』の証明」 『縄文から「やまと」へ』 (現『倭と山東・倭・日本』)に詳しく書いた。】

  『釈日本紀』の「日本」

  『釈日本紀』は、鎌倉時代末期に卜部兼方により書かれた『日本書紀』の注釈書である。その「巻第十六秘訓一」には次のようなことが書かれている。

問 日本両字夜末止読之 不依音訓 若如字比乃毛止令読如何
日本を「やまと」と読むのは音訓によっていない。これを字のごとく「ひのもと」と読ませるのはどうか。

答 是尤叶其義事也 然而先師之説 以山跡之義読之 不可輙改 又此書中大日本訓謂大夜末止 然則雖為音訓之外 猶存心可読夜末止
それはもっともなことではあるが、山跡(昔、地が湿っていたので人は山に住み、その跡がたくさんついた。それで山跡といった)の意味で「やまと」と読むのでこれを改めることはできない、と先師はいっている。またこの書にある「大日本」は「おおやまと」と読む。音訓では読めないが、なお「やまと」と読む理由はあるのである。

  これは、「日本」という二字の読み方ついての問答となっている。質問者は「日本」を「ひのもと」ではなく「やまと」と読むことに疑問を持っている。この当然の疑問に対する答えは、あっと驚く「山跡」である。「やまと」と読むにはちゃんと「山跡」という理由がある、というのである。これがこじつけであることは誰にもわかる。この説に納得がいかない人、現代の研究者は、その理由を「邪馬台(やまと)」だというかもしれない。しかし「邪馬台」という国は中国史書には存在しないのだから(邪馬壹、邪馬臺、邪靡堆である)、「邪馬台」のはずはない。しかし、 いずれにしても「やまと」と読めないまま、「日本」は「やまと」と読むのだと強制されているのである。(なぜ「ひのもと」ではなく「やまと」なのかについては『日本書紀10の秘密』に書いた。) このような問題はあるにしても、『釈日本紀』は、【「日本」という二字は「やまと」と読む】ということを教えてくれている。

  前項でみたように、『旧唐書』も『新唐書』も「倭自身が日本と改名した」と書いている。そしてその「日本」は「やまと」と読む。「日本」になる前の「倭」は「やまと」であり、読み方はともに「やまと」である。しかし中国正史では、「倭」は「わ」であり「やまと」ではない。ここが日本古代史に対する考え方の分かれ目になる、といってもよいかもしれない。「わ」と「やまと」がごちゃ混ぜになると、「山跡」のように、「足跡」で思考がぐちゃぐちゃになってしまう。このことについては、「山跡」思考の人がだいぶ多いようであるが・・・。

 日本古代史を研究するときの「倭」と「日本」

  ここまで、史料の原文を引用して理屈っぽいことを述べてきたが、日本古代史においては、「倭」と「日本」には読み方が二つずつあるということである。「倭」は「わ」と「やまと」、「日本」は「ひのもと」と「やまと」である。現代を交えると「日本」には「にほん」「にっぽん」などの読み方が加わる。日本古代史の説明でよく聞くのは、「日本(にほん)は古代には倭国(わこく)と呼ばれていた」という言い方である。これは「日本=倭国」を意味していることになり、倭について書かれている『新唐書』までの中国正史を全否定することになる。「日本の歴史」とは「日本列島の歴史」であり、「やまと」であった「日本」の歴史ではない。古代に限れば、主に「倭(わ)国と日本(やまと)国の歴史」ということになる。
  倭(わ)国は九州にあり、日本(やまと)は畿内にあった。日本列島の歴史をややこしくしているのは、倭には「わ」と「やまと(倭国の別種である「倭」)があったことである。しかし、この違いを正確に使い分けできれば、思考も説明もぐちゃぐちゃにならずに済むということにもなる。
  倭は「わ」なのか「やまと」なのか、日本は「ひのもと」なのか「やまと」なのか。日本古代史を語るときは、史料に基づいた字を正しく使い、正しく読むことが要求される。「邪馬台国」もしかり。中国史料には「邪馬台国」という国は存在しない。存在しないのだから、「やまと」と呼ばれた卑弥呼の国は存在しない。真実は単純明快なのである。

  日本古代史の研究には、史料を偽らない姿勢が重要であり、最優先されなければならないだろう。まず「倭」と「日本」を、読み方を含め、史料に基づき正しく認識すること、そして卑弥呼の国は「邪馬台」と書いても、「やまと」と言ってもいけないこと、これらのことを肝に銘じておく必要がある。


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