【私論概要】 邪馬臺国の位置と倭(わ)国と日本(やまと)国の関係

「邪馬台国」と書く国は中国史書には存在しない
  中国正史『三国志』の『魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称『魏志』倭人伝)に、『日本書紀』とは全く異なる日本列島の歴史が書かれていた。
  3世紀中葉、日本列島には中国の魏に遣使朝貢していた国・倭国があり、邪馬壹(臺)国を都とし卑弥呼という女性を王としていた。その国を「邪馬台国」と書く人がいるが、中国史書には「邪馬台国」と書く国は存在しない。したがって、中国史書による研究において、「邪馬台国」も「やまと」という国も存在しないことを理解しておく必要がある「やまと」の語源は「山東」 の項 参照)


歴史は時間の流れで捉えなければならない
  倭国、邪馬壹(臺)国がどこにあったのかがわかれば、古代の日本の歴史がわかる。『魏志』は同時代史料で、ほかの史書より詳細な描写があることから、誰もがこぞって、その研究の中心史料としてきた。しかし、未だ邪馬壹(臺)国の在処は確定できていない。なぜか。それは、歴史は時間の流れであるのに、中国文献の研究が『魏志』一本やりになってしまったからである。 研究者は、古代の日本列島の歴史を記録した中国史書は『魏志』だけではないということを、そしてまた、それらの史書を軽視したり、無視したりしてはならないということを肝に銘じておかなければならない。


〈参考 邪馬台国研究史 概要〉
※ここでは、研究者・主張者の使用している「邪馬台」をそのまま使用した。

初期の研究は、邪馬壹を邪馬臺の誤りとし、さらに邪馬臺=邪馬台とし、「やまと」と読み、『日本書紀』の記述と邪馬台・卑弥呼を比較したものが多い。
卜部兼方 『釈日本紀』(鎌倉時代) 邪馬台は倭(ヤマト)の音から 「日本紀私記」からの引用あり
北畠親房 『神皇正統記』(南北朝時代) 卑弥呼は神功皇后
松下見林 『異称日本伝』(1688年) 倭・日本の海外史書収録
新井白石 『古史通或門』(1716年)で近畿大和説  晩年『外国之事調書』で九州山門説
本居宣長 『馭戎概言』(1778年) 熊襲の卑弥呼が神功皇后を偽称
伴 信友  『中外経緯伝草稿』(1838年) 卑弥呼は神功皇后

徐々に、「やまと」の音だけではなく、『魏志』倭人伝の記録、考古遺物からの研究が中心となっていく、
近藤芳樹 『征韓起源』(1846年) 邪馬台国熊襲説
那珂通世 『上古年代考』(1878年) 邪馬台女王は熊襲の女酋
吉田東吾 『日韓古史談』(1893年) 卑弥呼は熊襲の女酋
白鳥庫吉 『倭女王卑弥呼考』(1910年) 邪馬台国筑後山門説 『魏志』倭人伝の行路 「陸行一月」は「陸行一日」の間違い
内藤湖南 『卑弥呼考』(1910年) 邪馬台国畿内説 『魏志』倭人伝の行路 「南」は「東」のこと
津田左右吉 記紀批判
○太田 亮  邪馬台国東征説
和辻哲郎  邪馬台国東征説(1920年)
○高橋健自  前方後円墳は日本独自の墳墓
○笠井新也 箸墓古墳は卑弥呼の墓
橋本増吉  考古学重視 批判
榎 一雄  『魏志』倭人伝の行路の読み方 伊都国からは伊都国を起点として放射線状に読む 放射線説(1947年)
○水野 祐 『日本古代の国家形成』(1967年) 九州大和併存説
○王 金林  九州大和併存説(1981年)
古田武彦  「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」 邪馬壹国博多湾周辺説
安本美典  甘木朝倉地方にあった邪馬台国が東遷

主要3説
1 近畿大和説
  邪馬壹は邪馬臺の間違い。「邪馬臺=邪馬台」→畿内大和である。(原文改定)
  畿内大和は不弥国から東の方角にある。「南」は「東」のことである。(原文改定)
  纏向遺跡から日本全国の土器が出土する。纒向に邪馬台があった証拠である。
  箸墓古墳は卑弥呼の墓である。
  纏向遺跡から水銀が出土した。『魏志』倭人伝には、卑弥呼が魏に献上したものに水銀があり、ここからしか出土していない。
  近畿説は、文献上では原文改定しないと成立しない説であるが、「南」を「東」に原文改定しなくても近畿大和に行きつくとした説がある(大和岩雄説)。九州を北、近畿大和を南に描いた「混一疆理歴代国都之図(龍谷図)」から、「南」に行っても近畿大和に行くとするものである。しかし、これはもう一つの「混一疆理歴代国都地図(本光寺図)」によって覆される。これら二つの図は、李氏朝鮮の廷臣権近による1402年の題跋がある。3世紀には中国の人たちは龍谷図のように理解していたというのは当たらないのである。それに、魏使は実際に「南」に行って邪馬壹国に到っている。地図は龍谷図のようであったとしても、実際の地形で「南」へ行けば、近畿大和には決して行き着かないのは物理上の動かない事実。大和氏はこの地図の発見で思わずこの事実を見誤ってしまったのかもしれない。

龍谷図


本光寺図


2 九州説
 『魏志』の、不弥国から南へ「水行二十日」で投馬国、投馬国から南へ「水行十日陸行一月」で邪馬壹国では、九州島を通り抜けはるか南海上に行ってしまう。
 「陸行一月」は「陸行一日」の間違い。邪馬台国は筑後山門にあった。(白鳥庫吉)
 魏使は伊都国止まりで、邪馬台国には行かなかった。伊都国からは放射線条に読む。邪馬台国は筑後山門にあった。(榎一雄)
 「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」である。韓国内を陸行した(道行読法)。邪馬壹国は博多湾周辺にあった。(古田武彦)
 楼閣の跡や硯などが発見された吉野ケ里遺跡は、最近の九州説の有力候補地である。

3 東遷説
 考古遺物等による説。
 九州北部から多く出土した鉄器などが時代が下がり近畿から出土するようになる。これは邪馬台国が九州から畿内大和に移動したからである。
 甘木・朝倉地方の地名・山の名が近畿大和と同じ位置関係になっている。甘木・地方にあった邪馬台国が畿内大和に東遷したからである。(安本美典)
 中国史書には邪馬臺国の東遷の記録はない。記録がない以上、九州勢力が畿内大和に移った事実があったとしても、それが邪馬台国だと確定することはできない。『隋書』によれば7世紀初めには、邪馬臺は九州内に存在していた。
 日本の史料で東征あるいは東遷らしき記事があるのは、磐余彦(のちの神武天皇)と神功皇后のときだけである。

 鎌倉時代の卜部兼方、江戸時代の新井白石などによる「邪馬臺=邪馬台=倭=やまと→近畿大和」という、日本の古代史研究(研究と言えるかどうかわからないが)黎明期の説を根底に置いた非学問的な思考から抜け出せない研究者の多いことが、日本古代史を混迷させ、不可思議な世界を創出している要因の一つだと私は思っている「やまと」の語源は「山東」 の項 参照)


『魏志』倭人伝には邪馬壹(臺)国を特定できる要素はない


『魏志』 不弥国までの行路(通説によるもの)


  多くの先人たちが、『魏志』倭人伝から邪馬壹(臺)国を探そうとしてきた。しかし、依然として邪馬壹(臺)国を探し当てることができない。それは、不弥国から先の記述が曖昧で、そこには邪馬壹(臺)国を決定する要素が存在しないからである。このことはこれまでの研究史がはっきりと教えてくれている。
  それではどうしたらよいのか。これまでの研究で欠けていたことは何か。それをすればよいのではないか。これが私の答えだった。
  これまでの研究で欠けていたこととは、
①『魏志』以外の中国正史全体の中から、邪馬壹(臺)国への行路を記録した史書を探す。
②中国史書全体の時間の流れ(複数史書)の中で、日本列島の歴史を考える。

ことだと、私には映った
 日本国だけの記録となる『新唐書』まで、オリジナルな記事を載せている正史は、『後漢書』『魏志』『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』の六史である。少なくともこれらの史書に整合するものでなければ、歴史とは言えない。これがすべての基本であり、これは当然の考え方だと私は思う。
  邪馬壹(邪馬臺=邪靡堆)への行路記事は『隋書』にもある。それを無視することは真摯な研究を放棄したのと同じであり、これを採用しないのであれば、その理由を誰もが納得いくように説明する必要がある。


倭人・倭国の登場

  弥生時代は水稲耕作と共に訪れた。
  水稲が中国江南から伝わったルートは倭人の渡来ルートでもある。『漢書』地理志以来、中国史書は日本列島に倭人の国があったことを伝える。
  57年倭奴国王は倭を代表する王として後漢光武帝から印綬を授かり、107年には帥升が倭国王としてはじめて後漢に遣使した。(『後漢書』)


倭奴国圏


倭奴国奉貢朝賀・・・倭国之極南界也 光武賜以印綬(『後漢書』)

  金印「漢委奴国王」は志賀島から出土した。倭奴国は博多湾周辺にあった国だと考えられる。その倭奴国は倭諸国の一番南にあった。『魏志』の狗邪韓国を考えると、倭諸国は博多湾周辺から北の韓国南部南端にかけてあったことになる。


鍵は『隋書』俀国伝の「東」「海岸」「十日」

  倭国女王の都するところ(卑弥呼が居た国)・邪馬壹(臺)国はどこにあったのか。それを解く鍵は『隋書』俀国伝の行路記事の中にあった。「東」「海岸」「十日」である。
『魏志』倭人伝だけでは卑弥呼の国・邪馬壹(臺)国に辿り着くことはできない。それは『魏志』倭人伝自身そして邪馬台国研究史が証明している。『魏志』倭人伝は我田引水の道具にされてしまったが、『隋書』と併せて考えるとその行程が見えてくる。

『隋書』の「東」


度百済 行至竹島 南望耽羅国 経都斯麻国 迥在大海中 又一支国 又至竹斯国 又秦王国・・・又十余国 達於海岸 自竹斯国以 皆附庸於俀・・・後十日 又遣大礼哥多毘 従二百余騎郊労 既至彼都 其王與清相見 大悦曰・・・我夷人 僻在海隅 不聞礼義 是以稽留境内 不即相見

 俀国王自ら「私は夷人で礼儀を知らないので、境内に留まり、すぐに使者とは会わなかった」と言っている。使者は「十日」間、海岸の近くにいて、移動しなかったことがわかる。

『隋書』の行路


  邪靡堆は有明海北東部海岸近くへと導かれる。当時の海岸線はもう少し内陸部に入り込んでいたと考えられているから、邪靡堆の候補地としては吉野ケ里遺跡や筑後市、八女市、山門郡内の一部地域などが挙げられるかもしれない。
  八女市及び山門は「邪靡堆」の音に似ているという一点から、ここが邪馬台(正しくは邪馬臺)だとする研究者もいるが、これらは図らずも、『隋書』俀国伝の行路から導かれたその推定地域内にあり、結果的に資料的裏付けはあったことになる。

倭奴国圏と邪馬壹(臺)国圏


  『隋書』から邪馬臺は有明海北東部海岸近くにあったことがわかる。したがって、2世紀末の倭国乱後、倭国の覇権は博多湾周辺の倭奴国から、有明海北東部海岸近くの邪馬臺(邪靡堆)に移ったことになる。倭国乱以前は、邪馬壹(臺)国圏なるものが倭奴国圏の南にあった可能性がある。

景行天皇の熊襲征討経路 拙著『日本書紀10の秘密』より


  『日本書紀』の景行天皇の熊襲征討ルート内に含まれる熊襲諸国は邪馬壹(臺)国圏と重なる(景行天皇は娑麼から九州に渡り、九州内を1~18の順に征討・巡視した)。近藤芳樹、那珂通世吉田東吾の邪馬台国熊襲説や卑弥呼は熊襲の女酋だとする説は案外正しいのかもしれない。
  『日本書紀』によれば、景行天皇の在位は71~130年(倭国王帥升の時代)、仲哀天皇の在位は192~200年である(実年ではなく紀年)。『後漢書』『魏志』には、3世紀末倭国が乱れたが邪馬臺国を都とし卑弥呼を女王に共立すると乱はおさまったとある。『日本書紀』の景行天皇の熊襲征討と仲哀天皇の熊襲征討での死は、景行天皇とされる人物が倭奴国王として熊襲諸国を征討し、仲哀天皇とされる人物の時代に熊襲諸国による反乱が起きて、その王が亡くなった、ということを反映したものだったのではないか(『日本書紀』は、紀年で景行天皇・仲哀天皇の時代に当たる九州での事件をヤマトの歴史に取り入れた。九州はすでにヤマトの勢力圏内にあったとするため)。

古代船野生号 航行図


  昭和50年、古代船野生号により『魏志』倭人伝の水行について実験が行われた。平野邦雄氏の『邪馬台国の原像』にその様子が書かれている。野生号は釜山から呼子まで53時間、志賀島までは15日かかったという。釜山から呼子までの53時間は、1日6~7時間の航行で8~9日となり、釜山から志賀島までの15日と併せて考えると、『魏志』倭人伝の水行10日は狗邪韓国から末盧国(唐津)までの日数だったのではないかとみることが可能である。そうすると、陸行1月は末盧国から不弥国経由で邪馬壹国までの日数となる。
  『隋書』の行路により、『魏志』の不弥国からの行路が決定する。

『魏志』の行路


従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里

  古田武彦さんは、上の文を韓国内陸行の根拠としている。韓国内陸行がないと古田説は成立しない。しかし、古田さん自身が言っているように、「水(陸)行・・・到」は実際に行ったことを意味している、とするならば、この文は、狗邪韓国へは「郡から海岸に沿って船で行き到った」ことを表現していることになる。「歴韓国・・・」は水行した経路・方法を説明した挿入句に過ぎない。古田さんは自分でつくった法則を、一番最初の一番大事な文で破ってしまった。この「水(陸)行・・・到」の法則は、「到」「至」の区別をしなければ、正しい、と私は思っている。だからこそ、韓国内陸行はあり得なくなるのである。
※野生号が釜山から志賀島まで15日かかったことを考えると、投馬国はもう少し北の行橋市辺りの可能性もある。

『魏志』と『隋書』の行路比較フロー図


倭国は九州島

  『隋書』の行路は
俀国の都・邪靡堆(邪馬臺)を有明海北東部沿岸へと導く。 「其國境東西五月行南北三月行各至於海」「有阿蘇山」は、俀国が九州島であることを示し、『隋書』の「東」が『魏志』の「南」であることを裏付けている。


『旧唐書』『新唐書』の「小国日本」の真相

  『旧唐書』と『新唐書』の「二つの小国日本」は、「畿内日本の成り立ち」と「九州倭国と畿内日本の関係」を映し出している。

『旧唐書』『新唐書』の記録の違いからみた倭国と日本国の関係(時系列)


『先代旧事本紀』を加えた倭国と日本国の関係(時系列)


倭国と日本国の関係 概念図


「やまと」の語源は「山東」

 
「邪馬台」と書く国は史書には存在しない。「邪馬壹」「邪馬臺」あるいは「邪靡堆」である。「臺」と「台」は別字であり、「臺」を「台」に置き換えることはできない。
  『日本書紀』は「臺」と「台」を使い分け、しかも「臺」を「ト」とは読まない。『万葉集』も「臺」を「ト」とは読まない。
「邪馬臺→邪馬台→ヤマト」は成立しないことになる。
  臺は「ト」と読む、としたのは国語学者の橋本進吉である。『橋本進吉 著作集3』の刊行委員附記に「ここに掲げられた假名は、主として古事記、日本書紀、萬葉集に見られるものである。橋本博士は後に增訂した一覧表を『古代国語の音韻に就いて』の巻末に附けられた。今、增補せられた部分を括弧にくくって追加する」とあり、「と」の「登の類」の( )内に「臺」が入っている。しかもそこにあったはずの「台」が消えている。『古代国語の音韻に就いて』で、「臺」が「台」に入れ替えられたことがわかる。同じ国語学者の有坂秀世は『上代音韻攷』で仮名の分類表を載せているが、その中に「臺」を「と」と読む例は見つからなかった。私も、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の「臺」をすべて調べたが、「と」と読む例は見つからなかった。橋本進吉はなぜ、「と」の「登の類」から「と」と読む「台」を消し、別字であり、「と」とは読まない「臺」に入れ替えたのか。その真意は永遠にわからないが、「臺」は「台」とは別字であり、「と」とは読まないことは、明白な事実である。
  「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は「やまと」を「山東」と記し、「かわち」を「山西」と記す。
  饒速日(ニギハヤヒ)が最初に治めた河内の日下(ひのもと)と、次に遷った山東〔日下の「山の東」にあったことから「山東(やまと)」と呼ばれた〕は、東進してきた別の倭種(彦火火出見=イワレヒコ=神武天皇)の治める国となり、その国はやがて倭人の国を意味する「倭」をもって「やまと」と呼ばれるようになった(拙著『倭と山東・倭・日本』参照)。

  『釈日本紀』巻第十六秘訓一には、『日本書紀』の講義記録である「日本紀私記」が引用され、〔日本を「やまと」と読むのは音訓によっていない。これを字のごとく「ひのもと」と読ませるのはどうか〕という生徒の問いに対し、師は〔地がぬかっていたので人は山に住み、足跡がたくさんついたので「山跡(やまと)」というのであり、「やまと」と読む理由はあり「ひのもと」とは読まない〕と答えた、とある。
 子供だましのような師の答えに驚きを感じるが、これを信じている研究者がいることが、私にはさらに大きな驚きである。師の答えには 「ひのもと」と読ませたくない強い思いが感じられてならない。
  「ひのもと」は饒速日が最初に移り住んだところであり、その次に移り住みつくった国がやまと(山東)だった。「ひのもと」と「やまと」は饒速日の国であり、「ひのもと」と「饒速日」を消すことが、「やまと」の創始者を磐余彦とする『日本書紀』に課せられた重要な役目だった。箸墓の伝承には大物主が大きな役割を持っているが、大物主は饒速日であり、箸墓は、饒速日の祟りを鎮めるために崇神天皇がつくらせた饒速日の祭祀場ったのではないか、と私は考えている(拙著『日本書紀10の秘密』参照)。

山東(やまと)と山西(かわち)の位置関係図


日本国と日本人の誕生

  最新の遺伝子等の研究によれば、
現代日本人は北東アジア系である。
  「山東」にやってきて「やまと」となったもう一つの倭人の国は、北東アジア系渡来人の増加により、倭人の国から北東アジア系の血を濃く引く国となった。
 
九州倭国の白村江敗戦後、畿内の「倭(やまと)」は「倭」という字を避け、饒速日の国「小国日本(ひのもと)」の名(字)をとり「日本(やまと)」と改名(改字)し、ここに日本そして日本人が誕生した。


『日本書紀』は百済人が書いた

  「上代特殊仮名遣い」という現象、百済滅亡、白村江敗戦、統一新羅誕生という半島情勢、現代日本人は北東アジア系であるという事実は、『日本書紀』が日本人となった亡国の民・百済人によって書かれたものであることを示唆する。
そうであれば、白村江敗戦の相手国・新羅より優位に立つ日本を描く『日本書紀』の目的も理解できる。


詳しくは、拙著『倭と山東・倭・日本』『日本書紀10の秘密』をご参照ください。


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