著書(全文) 親鸞 道元 日蓮

             三人の反逆者にみる動乱期の思想

 

          <目 次>

まえがき

序 章 三人の反逆者

1 反逆者とはなにか   2 親鸞道元日蓮との出会い

第1章 親鸞

1 出家   2 反逆   3 法然   4 妻帯   5 流罪   6 念仏
7 智慧   8 三願転入   9 悪人正機   10 晩年   11 永眠

第2章 道元

1 素姓   2 修行   3 念仏への絶望   4 宋(中国)  5 曹洞宗 
6 坐禅   7 布教   8 真理   9 仏性  10 行持   11 礼拝 
12 永平寺   13 政治権力   14 死   15 道元と親鸞

第3章 日蓮

1 若き日   2 遊学   3 辻説法    4 守護国家論   5 弾圧 
6 禅への批判   7 佐渡流罪 その1   8 佐渡流罪 その2      
9 佐渡流罪 その3   10 法華経   11 漂泊の思い   12 最期   
13 人間平等の思想家

終 章 釈迦とマルクス

親鸞日蓮書簡抄 

略年表

              <目 次>(池田諭) 

 

    まえがき

 この本のテーマは、私の卒業論文のテーマであり、それ以後、二十数年間、私のなかに温めていたテーマである。それというのも、著述業者として出発して、約十年になるが、その間、広く一般の人々にむかって、発表したいという決心のつかないままに持ちこしていたからである。                                       
 しかし、さきごろ、たまたま、死にかけるほどの大病を患い、いまなお歩けないような体験のなかで、やっと書く決心がついたのである。それに、病気のなかで、さらに思索を深めることができたのが、なによりも発表の決心をつけさせた理由である。           
 親鸞、道元、日蓮といえば、従来は卓越した宗教家としてとらえるのがほとんどで、思想家としてとらえたものはほとんどない。もしあったとしても、それは宗教家兼思想家であり、思想家というのはあくまで従属的なものであった。しかし、私はいま、彼らをいわゆる宗教家としてとらえるのは誤りで、むしろ思想家そのものとしてとらえなくてはならないという立場をとる。                                      
 仏法そのものは本来智恵の教えとしてあったものが、いつか、祈祷中心となり、信仰中心となり、さらに、偶像中心となり、今日では、いわゆる宗教の一部門としての仏教という狭い位置におしやられて、その真骨頂をゆがめ、多くの人から無縁なものとして存在するようになった。じじつ、それはある特定の人たちの信仰するものとなり、それ以外の人は無関係にあるばかりか、時として、人間の自由と価値を束縛するものとして、みられるようになったのである。 
 人間が人間として生き、行動するかぎり、だれにも自分の拠りどころとなる人生観、世界観がある。それなしには、一日も生き、行動することはできない。その人生観、世界観を教えようとしたのが、仏法であった。それがいつか、いわゆる宗教の一部門としての仏教の位置に堕し、政治、経済、教育、文学などと併存するものとなったのである。しかし、人生観、世界観としての仏法は政治、経済、教育、文学などの根底となり、基礎になるものである。あってもなくてもよいものではない。仏法を否定することは、人間としての「生」を否定することである。私はいわゆる宗教家を否定しても生きられるような立場から、人間として否定できない普遍的、根源的なものを追求するものとして、思想家そのものとして彼ら三人を考えたいのである。                                       
 それに、当時の仏法は、宗教の一部門としての仏教であるよりは、思想そのものであり、学問そのものであった。仏教としてのみとらえられたのは後世のことである。       
 こうして、私は思想家としての彼らの生がすべての人に探くかかわりあいのあるものとしてとらえなおしてみたかったのである。多くの人々に無縁であった、従来のいわゆる宗教家としての彼らから、思想家として、じつは法・真理を追い求めた者として、すべての人々にもっとも身近かにあった人間であることを示したいのである。彼らの生き方こそ、人の生きるべき典型である。                                   
 今日、公害によって、人間の危機がさけばれ、地球の破滅が強調されている。その時こそ、彼らの生を通して、私たちがいかに生きるべきかを考えなおす時である。彼らの師釈迦は地球が永遠かという問いになんの答えもしていない。科学者のように、冷静であった。
 いま一つは、彼らを反逆者としてとらえなおしてみたいのである。従来そういうとらえかたはまったくといっていいほどなかったが、彼らが思想家として、あくまで、真理にたちむかう人であれば、彼らがその時代に生きるということは、既成の価値、倫理、秩序に抵抗して、新しい価値、倫理、秩序を創造することであった。それ以外に生きるということはなかった。
 じじつ親驚は、その師法然の思想をおしすすめて行ずることによって、法然を断乎としてのりこえたし、日蓮は前世代の法然の思想すらも、否定し、考えられるかぎりのその時代の思想を創造したのである。
 彼らは釈迦の思想の継承者たらんとしたのではなく、彼らの「生」を生きることによって、仏法そのものを発展させ、釈迦の思想をその時代にあうよう再生させたのである。
 生きるということのなんときびしいことか。しかも、今日、彼らの思想は生かされるどころか、多くは退歩したまま、彼らをのりこえようとする者はいない。彼らのように、反逆者となって生きることにより、彼らをのりこえようとする者はほとんどいない。
 仏法が時代とともに発展せず、いわゆる宗教の一部門におしやられたのも当然である。もちろん今日、仏法の復活をさけぶ人々はいる。しかし、それは、仏法的知識で、彼らの時代に対決した「生」そのものではない。大事なのは、彼らの生き方そのものである。思想はその「生」が生みだしたものである。私も残りの生を彼らの「生」を生き、本当の意味での仏法を復活させ、発展させたいと決意している。

   昭和四十七年十月

                     <目次>(親鸞道元日蓮)           

 

     序 章 三人の反逆者

   1 反逆者とはなにか

 生」そのものの仏法

 私が少年の頃は、よく教師たちから、「日本は革命というものがない、すばらしい国だ」といわれた。その理由として彼らは、易姓革命ということを強調している中国の『孟子』という本を日本に運ぼうとすると、途中で船が必ずといってよいほど、てんぷくしたというのである。当時、私は子供ながらにそんなものか、と思ったものである。
 しかし、しだいに大きくなるにつれて、私は教師たちのその言葉に疑問をいだき始めた。私はその後、革命運動の盛んなときは、国民の間に緊張がたかまり、進取と向上の気がみなぎり、最も好ましい時代であるが、反対に、平和にみえ、なにもおこらない時は、最も国民が退廃し、よどんでいた時代であることを知った。大学で歴史の研究をするようになって、いよいよ、この思いは強くなった。
 ここでとりあげようとする親鸞・道元・日蓮にしても、彼らはなによりも前の時代に対して、最も激しい反逆者であることを知った。彼らは反逆者であることによって、はじめてその後の時代の指導者となり得たのである。反逆者でなければ、その後の時代の指導者とはなり得なかったであろう。彼らがすぐれた反逆者であっただけ、それだけ長い間、指導者であり得たということができる。
 だが、今日まで何人も、三人を反逆者という視点からとりあげない。そればかりか、彼らを宗教家の位置におしやって、多くの人たちに彼らの生とは無縁であるかのように思わせている。しかし、彼らは全存在をもって、その時代に通用していた真理を否定して、新たなる真理を模索し、その実現に生きた人々である。その時代の理想を追い求めた人々といってもいい。その意味では、彼らは今日に生きる、すべての人々の手本といえる。
 政治、経済、教育、文学などと併存する宗教を、三人は追い求めたのではない。また、生命をかけたのでもない。宗教、政治、経済、教育、文学などを支え、それらの根底にある、「生」の根本と思ったから、それに生命をかけたのである。
 「まえがき」にも書いたが、三人はいわゆる宗教家でなくて、思想家であり、「生」の哲人である。彼らの求めた仏法も宗教でなく、人々が生きていくために必要なぎりぎりのもの、それは思想といっていいし、信念といっていい。また、人生観、世界観といってもいいし、「生」そのものだといってもよい。その点で、私もこの本では、「生」の達人としての彼らをえがきたいと思う。
 三人は「生」の達人であったが、同時に彼らは反逆者となることによって、「生」の達人となった。
 反逆者とは、前時代の価値、秩序、倫理を否定して、新しい価値、秩序、倫理を待望し、実現をはかるものであると考えられている。たしかにそういうことはいえよう。しかし、私はその説明だけでは不満なのである。人々が生きるということを考えたばあい、意識すると否とにかかわらず、人はすべて、その時代の課題とむかいあって、その解決にとりくむものである。それが人間として生きるということであって、単に存在していることとは、はっきり異なる。しかも、時代の課題は刻々変化している。思想、信念、人生観、世界観が時代とともに発展し、豊かになるのも、そのゆえである。だから、人間が生きるということは、前世代の思想なり、信念なりを克服して生きるといぅことである。前世代の思想、信念そのままに流され、それを踏襲しているということは、単に存在しているだけで、人間として生きてきたとは決していえない。反逆者でなければならない理由である。
 これまでは、人間として生きた者よりも、単に存在した者があまりにも多かった。反逆者とは、ともすれば、特別の人に名づけられるものと思われているが、じつは、人間が人間として生きることであり、本来、人間とは反逆者でなければならないのである。
 私は、反逆者という特別の名称を、あらゆる人のものにもしたいのである。すべての人が反逆者を志さなくてはならないと、強調したいのである。いままでは、あまりにも反逆者でないことがあたりまえと思われすぎてきた。

 宗教家か反逆者か

 だが、ここでいま一つ考えなくてはならないことがある。本来、反逆者であった親鸞、道元、日蓮の三人が、逆にその後、反逆者であった部分を除かれて、歴史上にその位置を与えられていることである。もちろん、彼らから反逆者としての多くの点を除いてなお、彼らは多くの人々より卓越していた。だから、彼らは今日もなお理想的な存在としてある。もし、彼らの意図した「生」がもっと全体的に描かれるなら、彼らはさらに生き生きしてくるはずである。         親鸞は大胆に自分の生きてきた時代を否定したし、道元は新しい真理をいのちがけで中国に求めた。
 また、日蓮は前世代の法然の思想を克服することによって、生きるということのありようを示したのである。まことに生きるということの厳しさを、最も厳しい形でしめしたのが三人であった。だが、今日、彼らの生そのものに最もふさわしいものが取り除かれている。三人は反逆者の諸点をなくしたまま、市民権をえたのである。いうなれば、三人は彼ららしい本質をなくして、今日偉大な宗教家として存在している。それは、なによりも、三人を軽蔑することである。この事実をもっと率直に認めなくてはならない。彼ららしい本質を失って、どうして彼らをたたえることになるかということである。おそらく、今日三人を全的に生かしたなら、彼らをたたえている人たちから最も忌避されることになろう。
 それこそ、三人は後の世の人々によって克服され、歴史のなかに消滅しなくてはならないのである。にもかかわらず三人が今日も生きているということは、後の世の人たちの怠慢である。まして、彼ららしい本質を失って、彼らを生きつづけさせているということは、彼らが最も不満とするところであろう。
 このように、三人は、反逆者の面をなくして存在しているが、それが、今日、人々に反逆者をみる眼を狂わすことになっている。このために、ともすれば、今日、偽反逆者が横行している。偽反逆者とは、自分自身が反逆者を求めて生きるのでなく、人々のために、他人のために反逆者たらんとする人々である。
 初め仏法が小乗仏法として、誤解されたのもそのためである。人間が人間として生きるために、まず大事なことは、自分を十二分に生かすことであり、十二分に生かすためには、反逆者となることであったが、今日、大乗経典がとりあげられ、人々のためといわれるあまり、自分の心にもないことがいわれるし、あたかもなにかのために反逆することが必要だという人が多くなっている。自分自身の生を忘れすぎている。偽ものが多くなりすぎている。大事なことは、自分のために生き、自分のために存在することである。その意味では、反逆者とは自分のために生きた結果といっていい。しかし、反逆者となることが生きることであり、自分のためだと知る者には転向ということはない。転向は死である。戦前も今日も転向者が続出しているのは他のなにかのために反逆者になったためである。彼らは転向者として、今日を生かされているが、彼らが今日、生をいきていることは、だから最も恥多きことである。

 転向を拒否する心

 反逆者として生きるということは、時代をこえて、共通してある課題にむかって生きるということと、その時代の課題にむきあって生きるということの二つがある。三人は微妙にその二つの課題が重なり、一つになったものとむきあっている。三人が今日生きていると私がいうのも、時代をこえて、共通してある課題にむきあっている面をとらえているからである。だが、同時に、その時代の課題にむきあって生きた三人の生をもみなくてはならない。その時こそ、三人を全体的にとらえたということができる。
 大切なことは、私たちが反逆者になるために、最も人間らしく生きるために、反逆者の典型でもあった三人の生を追想し、その反逆的「生」を追体験するということである。三人の生がいかに反逆的であったかということを知ること以外にはない。
 転向ということは、反逆者にとって最大の退廃である。いつの時代にも転向が多いのは、私のための生を生ききろうとしないためである。幸福を求める自分の生を大事にしないからである。転向を拒否する心は自分を大事にし、あくまで反逆者として、その生を尊ぷ心である。今日、いわゆる宗教といって、それがあってもなくても、生きられるようなものとして、三人をゆがめてとらえたことに誤りがある。三人を「生」の達人としてとらえ、哲人と考えるなら、こんな誤ちはおこらなかったはずである。
 三人の「生」は、マルクス、エンゲルスのように、その「生」を最もすばちしく生きぬいた者として、同じ線上にあるものである。また、三人を反逆者として、その「生」を生きぬいた者たちとしてとらえていたなら、今日のように、三人を固定化し、絶対化することもなく、仏法を葬式仏教として死滅させることもなく、時代とともに生々発展させたであろう。
 仏法にいうところの正・像・未の時機観にしても、時代を経るにつれて、世の中が悪くなるというが、実際には、釈迦の教えを固定化するから、時代がたつにつれて、その教えが遠ざかり、次第に縁遠くなったのである。仏法を時代とともに発展するものとして、それを発展させていたなら、仏法はむしろ今日、いよいよすぐれたものとなったはずである。むしろ、正・像・末の思想はいましめとしてあったことを知るべきであろう。

 歴史を拓く反逆の思想

 人間が人間として生きるということは、絶えず時代の課題に直面して生きることであり、時代を刻々に超克していくところにあること、いいかえれば、反逆者として生きるところにあることを知るならば、今日、私たちの考え方は大いに変わってくるであろう。反逆者たることによって、私たちは歴史をおし進め、時代を刻々に前進させることができるのである。
 そのばあい、私たちはなにが前進であり、なにが進歩であるかということを本当に知らねばならない。早急に思いこむことは恐ろしい。後になって、あれは若気のせいだったとか、あの時は無知であったとかいって弁解することは許されない。そのため、ただ一回かぎりの「生」が狂ってしまうのである。
 親鸞・道元・日蓮にしても、それゆえに長い間かかって模索し、これにまちがいないと思うまで行動はおこしていないのである。それは時に十数年であり、二十数年であった。しかも生命がけで追求して、なおそうであったのである。
 普通、人間の行動力なり、情熱なりは、無知にして、一つのことを思いこんだときに、激しいものとなる。しかし、すべてを知りつくした後に、なお生まれてくる行動力なり、情熱なりが本物である。三人の行動力、情熱は三十数歳、四十数歳にして、いよいよ激しくなったのである。
 人々はすべて、かくあらねばならない。人が生きるということは、反逆者こそ自然の道であることを知りぬいて、初めて本当である。人は歴史をおし進める人間になる道、すなわち反逆者の道を選ぶか、歴史をおしとどめる道を選ぶか、二者択一の道を迫られている。しかも、すべての人がその前にたたされている。
 その時、三人は私たちの前にたって、その道を教えてくれるであろう。
 日本に革命の伝統がないなんて、あまりも皮相の見解である。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   2 親鸞道元日蓮との出会い

 “戦後”という時代

 私は最初十八歳頃に、親鸞・道元・日達に関心をもち、彼らの書いたものを少しずつ読みはじめたが、それはあくまで宗教改革者としての彼らであった。その後、本格的に彼らに関心をもち、研究しはじめたのは戦後のことである。
 戦後的情況は、いままでの価値、秩序、倫理が敗戦とともに一挙になくなり、戦勝国アメリカによって、民主主義的価値、秩序、倫理が移入され、日本人の大多数はほとんど疑うことなしに、それらをとりいれた時代であった。その点で、親鸞・道元・日蓮の生きた時代と非常によく似た乱世にあたっていた。ただ違うのは、彼らが新しい価値、秩序、倫理を自ら長い間かかって模索し、模索したものにもとづいて、つぎの時代を創造したのに対して、戦後の日本人はアメリカ人の与えるままに、そこになんらの疑いなしにそれらをうけいれたということである。
 早呑みこみがいかに恐ろしいかを戦争中、政府のいぅままに早呑みこみしたことで散々体験したはずであるのに、性こりもなく、戦後の日本人はいともたやすく同じことをくり返したのである。一つの主義、思想に没入することでくり返しのできないほどの誤りをおかした日本人は、敗戦の時点で、民主主義的価値、秩序、倫理にまったをかけ、自分自身の力で新しい価値、秩序、倫理を一人ひとり発見すべきであった。そうして初めて日本人は、二度と誤らない人間として生まれかわることができたし、本当に自分自身に責任をもつ、真の主体的人間にもなることができたはずである。敗戦はまさに日本人を再生させる最大の好機であった。だが、その好機をにがしてしまったのである。だから、二十年余を経て、あらためて、戦後民主主義は虚妄ではなかったかという問題を大学闘争のなかでつきつけられて、多くの大人たちがあわてふためくことにもなったのである。今日、いぜんとして、戦後民主主義は虚妄であったか、なかったかをめぐっての論争が果てるともしれないままに続けられている。
 敗戦当時、私は一学生として生きていたが、同時に生そのものに疑問をいだき、自分の行動の拠り所がわからないままに、苦悶をつづける一青年でもあった。そんな私の前に、あらわれたのが、三人であった。当時の私には、民主主義はもちろん、実存主義も共産主義も無縁であった。
 だが、その時の親鸞・道元・日蓮はもはや宗教改革者としての彼らでなく、十年、二十年と「生」のありようを、世の中のありようを、生命をかけて模索した「生」の達人として、また哲人として、私の前にそびえたった巨人であった。ある時は私に語りかける先輩であり、ある時は私を導いてくれる師でもあった。
 私は彼らのように時間をかけて、新しい価値、秩序、倫理を模索して、しかる後に、ゆっくりと民主主義、実存主義、共産主義をとことん学ぼうと考えた。
 こうして、私は、学生時代を通じて、また、その後も一貰して、彼らの生そのものを追求する人間の一人となったのである。彼らを知れば知るほど、私もまた、彼らがその時代に生きたように、”現代”と対決して生きたいと思う心がかたまったのである。卒業論文に、「親驚・道元・日蓮を通してみた現代の課題とその解決」というテーマを選び、中間報告としたが、「まえがき」にも書いたように、このテーマを、広く一般に発表する気にはどうしてもなれなかった。
 たまたま大病を契機にして、やっと不自由な手で、いまなら書きうると思ったのである。

 三人の存在した意味

 先述したように、私のとりくんだ三人は、宗教改革者としてでなく、「生」のありよう、世の中のありようを一生をかけて追求し、その追求したものを全存在をかけて実現した人間である。その時代よりみれば、反逆者であり、哲人であるかわからないが、人間だれしも当面している課題を生きてみせた、ごく普通の人間であった。だれにも身近かにある人であった。そのような人間をいわゆる宗教家として、多くの人に無縁である位置におしやっているのは、なんとしても惜しい。
 敗戦当時こそ、彼らの生を見なおすべきときであったと思う。つまり、彼らの思想でなく、その思想に支えられた「生」そのものを見なおすべきであった。彼らはおそらく、現代人が彼らをのりこえることによって、彼らに反逆することによって、彼らの役割をすみやかにおわらせてほしいと思っているにちがいない。
 反逆者になることはむずかしい。その時代の価値、秩序、倫理を知りぬいた後に、きたるべき時代の価値、秩序、倫理を知らなくてはならない。ただ一度の「生」しかない人々の「生」を本当に生かすだけの価値、秩序、倫理でなくてはならない。もちろんだれしも、無知のままに存在できる。しかし、無知のままにおわらせてはいけない。
 だから、真に人々の生を生かす価値、秩序、倫理はむずかしい。だが、それらをこそ今日は必要としている。彼らはそれらをどのようにして模索していったのであろうか。
 その時代の課題に生きるとはどういうことであろうか。
 私はここで、彼らができうるかぎりのぎりぎりまで新しい価値というか、理想を追求して生きた「生」そのものと、学問との関係について一言しておきたい。普通、人々は彼らの生きたものを宗教と名づけているが、それが、いわゆる宗教といえるものでないことはすでに述べた。それと学問とはどういう関係にあるのであろうか。彼らの生きた「生」そのものは、政治、経済、教育、文学などと併存するものでなく、それらの基礎になるものだが、学問とは対象についての科学的・客観的真理を求めるものであって、直接には生そのものとはかかわりないものである。だから、いかにすぐれた学者といえども、彼がそのままですぐれた「生」の哲人とはいえない。しかし、人々はともすれば、学問的業績を出すには、すぐれた能力が必要であることから、これらを混同しがちである。
 これに対して、彼らの生きたものは、主体的・主観的真理を求めている。科学的・客観的真理は主体的・主観的真理への道程にあるもので、主体的・主観的真理は科学的・客観的真理をうちに包含するものでなくてはならない。客観的・科学的真理に裏づけられていないものは、盲信であり、狂信であって、とうてい主体的・主観的真理とはいい得ないものである。
 彼らのように生きた人は学者以上の人であるが、学者は必ずしも彼らのようになれるとはかぎらない。「生」のありよう、世の中のありようについて全存在で追求し、その追求したものによって生きることは大変むずかしい。学問はだれにも必要とはかぎらないが、彼らのような「生」は、だれにも必要でなくてはならないものである。しかし必要でありながら、それと無縁で生きられる者があまりにも多い。また無縁なように、人々に思わせたところに、この世が乱れたままに放置されることにもなった真因があるのである。
 彼らがあくまで、あるがままの現実を否定して、理想を追求したように、いまこそ現代に生きる私たちみんなも生きなくてはならないときである。そうしないと、この地球に人間は生存できなくなろう。たとえ、生存できても、地獄のような苦しみであろう。

     

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

     第一章 親鸞

   1 出家

 反逆者への第一歩

 親鸞が出家したのは九歳のときといわれている。普通、出家とは仏門に入り、釈迦の弟子になることだといわれている。しかし、ここに誤りがある。出家とは、既成の価値、秩序、倫理にあきたらないで、自らの力で、新しい価値、秩序、倫理の追求者、創造者への道を歩みはじめることである。いいかえれば、現代の反逆者となり、未来にむかっての求道者になることである。現代に通用している常識を拒否して、まったく新しい理想の追求者になることである。それがいつか、出家とは僧侶になることだと思われるようになったのである。だから、出家するということを、もう一度再検討することを迫られたのが、親鸞の時代であったということができる。
 ともすれば、昔から親鸞の出生とか、その父母とかをいろいろと詮索する傾向にあるが、実際にはそのようなことは無意味で、また、彼が理想を追求する人間になったこととは無関係といえる。ただ人間として精一杯に生きていれば、人間はいつか、現状にあきたらないで理想にめざめ、それを追い求めるようになる。どんな人間でもそうなるということが、人間に仏性があるということである。
 そのばあい、どういう人から生まれ、どんな環境に育ったかということは、その人を正確に理解する上でひじょうに重要であるとしても、理想を追い求める上で決定的なことにはならない。それこそ、どんな人間にも理想にめざめ、それを追い求める道は開かれているし、理想の内容にしても、その出生、環境とは無関係に成立するものである。
 だから、親鸞の出生、父母を躍起になって詮索することには肯定できないものがある。むしろ、九歳で求道者の世界にはいったことが疑問であるともいえる。だが、彼が当時、出家することによって、漠然とながら、“現代”はおかしいと思いはじめる人間、現状を否定して理想を追いはじめる人間になったということはいえよう。いいかえれば、現状のままにそれをうけいれて生きる人間から、それに疑問をもちはじめる人間の仲間入りをしたということである。出家することで、逆に、現状をそのままみてはいけないのだと知りはじめたといえる。親鸞における出家の意味は、そんなものであったのではなかろうか。
 もちろんその意味で、彼が出家したことには重大な意味があるし、彼を考える人、物思う人にしたことは大きい。
 では、彼が物心ついて、まわりをみたとき、その時代と人々はどのようなものであったろうか。
 藤原氏の摂関政治にはじまって、院政となった当時の堂上人たちが考えたことは、すべて朝廷における地位の向上ということで、そこには人間らしい豊かなものを求めるものは、まったくといってよいほどになかった。藤原氏一門の独占的位置ははなはだしく、その栄耀栄華を求めて、一門で争うという状態であった。
 つづいて、朝廷に力を得た平家一門の繁栄ぶりは、平時忠の言葉にもあるとおり「此の一門にあらざらん人は皆人非人なるべし」というほどのものであった。その平家もわずか十年で亡んでしまうというありさまであった。
 これと並んで、源義仲、義経の一時的繁栄があった。まことに、平家物語の著者をして、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけきものも終には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ」と欺かしめるように、最高の権力者とそれにつらなる人々ははかない運命にあった。       
 また、藤原氏一門とともに、世の中の支配階級の位置をしめていた公卿たちは、『玉葉集』にも書いているように「朝廷にある王侯、緇素、貴賎しかしながら私を省みて、公にあらず、実にこれ愚にして愚なり。国に非ずんば家を建つことなく、君に非ずんば親をたつることなし。身の安全を思わんより国家静謚の籌策を廻らすべきところ、各々左右を恐れてあえて
トウ言せず、またみな重事をはかる量りなし。悲しむべし悲しむべし」というありさまであった。さらにその公卿たちにかわって台頭してきた武士たちも、単に功名手柄をたてて、荘園を賜り、国の知行をうけることに専心する状態であった。

 飢饉、盗賊、火災

 一方、世俗を否定して、法・真理を求めるはずの僧侶たちは、法・真理を求めることもなく、摂関政治とともに極度に退廃し、その門閥、富力のみが大きく浮かびあがり、経済の安定のみを求める傾向は政治的能力をもつ僧侶を上位にたたせることになった。ついには、その要職を皇族、権門の子弟が独占するようになったのである。それにつれて、僧侶たちは単に法力を争い、虚栄をきそい、金襴仏教、甲冑仏教の名まで出る始末。失恋して出家するのが、当時の常道であったことを思えば、そうなるのも当然であった。
 当時の支配階級がこんなありさまであったから、人災ともいうべき天災地変がつぎつぎにおこったのである。
 すなわち、当時の価値観を支えていた諸大寺…清水寺、善光寺、三井寺、東大寺、興福寺などが炎上した。これら大寺の炎上は、支配階級の人々はもちろん、それまでそういうものと無縁におかれた人々にも、少なからずその心に微妙な影響を与えたはずである。
 善光寺が炎上したときには、当時第一の霊場として、朝廷の尊敬をうけていただけに、天下滅亡の前兆とうけとられた。また、東大寺、興福寺の炎上は平家の放火によるものであったが、猛火のなかで、歩行の思うにまかせぬ老僧たち、稚児たち三千五百人が焼死するというありさまであった。
 『玉葉集』は、そのようすを「凡そ仏寺堂宇、日域にみつと雖も、東大、輿福、延暦、園城、これを以て宗とす。而して天台の両寺に於ては、度々その災にあう。南都の諸寺に至ては未だかくの如き事あるを開かず。…破滅の期をあらわす」と記している。
 加えて、養和の飢饉は言語に絶するほどの激しいものであった。翌年に望みを托した人々も、うちつづく飢饉になんともできなかった。しかも、それに追いうちをかけるように伝染病が流行したのである。街という街は、死骸がみちあふれていた。それが全国にまたがったのである。このときは人の肉まで食したということである。
 飢饉が盗賊を誘発したことはいうまでもない。しかし、だれも生きんがために、それを否定することはできなかったのである。庶民はこの事実をそのままうけとめるしかなかったのである。
 しかも、当時の聖なるものである仏法そのものは、人々に無縁なものとしてあり、貴族たちに独占されたまま功徳とか、積善というばあい、造寺、造仏とかにかぎられていたのである。   貧しい人々にとって、造寺、造仏などはまったく無縁であった。彼らには忍従の生活しかなかった。しかも、彼らは自分たちに無縁である立身出世と、栄耀栄華をかすかに夢み、それをうらやむというありさまでもあったのである。
 親鸞がこういう現実をみて、それをどうにかしなくてならないと思ったとしても、不思議ではない。立身出世や栄耀栄華を人間最上の価値とみ、藤原氏と公卿たち、平家と武士たち、源家とその武士たちが傲然と支配する秩序に疑問をいだいたとしても当然である。さらにまた、親孝行とか、長幼序ありとか、絶対服従とかの倫理をおかしいと思いはじめたのもむりはない。
 こうして、彼はその時代と人々を支配していた価値と秩序と倫理に対して、反逆者になったのである。彼が本当に人間として生きるとはどういうことなのか、ただ一度しかないこの人生を、後悔もなく生きるとはどういうことなのかと思いはじめたのも自然であった。そこには、釈迦すらなかったのである。大事なのは、自分自身の「生」であった。人間が人間として救われるとはどういうことなのか。彼はそれを追求したのである。それが、彼にとって、出家するということであった。それ以外に、いかなる意味もなかったのである。彼にとっての新しい価値と秩序と倫理とは、どういうことであったのであろうか。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   2 反 逆

 支配階級からの離反

 親驚は伝統と知識人に反逆したともいえるが、果たして、伝統のなにに対し、知識人のどういう面に反逆したのであろうか。智慧というものをこよなく愛した親鸞として、知識人の知識に反逆するわけはない。もし知識に反逆したとしても、それは知識そのものでなく、反逆しないではいられないような知識があったはずである。
 すなわち、親鸞はひとにぎりの貴族や知識人だけが、救いの対象になっているような伝統ががまんならなかったのである。そのような伝統をなんの懐疑ももたずにうけいれているような知識人に承知できなかったのである。
 当時は貴族をのぞいて、知識人といわれる者のほとんどは僧侶であったといっていい。学問をする者は僧侶であったし、思想の名でよばれるものには、当時、仏法がその大勢をしめていた。もちろん仏法以外に、外道の名をもってよばれていたものがあったにしても、それは微々たるものであった。
 知識人の名にふさわしいのは、自分自身で疑問をもち、それを追求する人間のことである。伝統について、自分自身の見解をもたずに、それをそのままうけいれるような人間は単なる普通の人であって、知識人の名に価しない。                     
 当時は、知識人の名のみあって、真の知識人はほとんどいなかったのである。しかも、知識人の名のもとに、その特権だけはうけていたのである。それはなにかといえば、当時の仏教は造寺造仏のほかに、智恵のあるもの、多聞多識のものは救われると見做していたのである。反対に、愚純なもの、少聞少識のものは、造寺・造仏のできない貧しきものとともに救われないものとしたのである。
 親鸞はこのような常識というか、伝統にがまんならなかった。愚純なもの、少聞少識のもの、さらに造寺・造仏できない貧しきものも、なんとかならないかと考えるようになったのである。とくに、金襴仏教、甲冑仏教といわれて、かえって、とくとくとしている仏教者には、心の底からの憎悪を感じたのである。ここに、彼はその時代と人々に対して、反逆者にならなければならなかったのである。彼はその解決を求めて、一応比叡山に学び、二十年間の長きにわたって、修業につとめたということができる。
 その間、あらゆる仏典をよんで、その解決につとめたことであろう。二十年間という年月は決して短くないし、当時の比叡山が堕落しているとはいえ、比叡山はその頃の仏法の聖地であるのみか、最澄以来の修学の伝統がのこっている所でもあった。
 その最澄は二十一年間、山にこもって専一に修学することを定めた人である。親鸞の二十年間は、最澄の二十一年におよばなかったにせよ、あれほど激しい伝統否定に根ざしていたから、その間の修業は本当に充実していたに違いない。なかには、証真のような、一切経をよむこと十七回におよぶという篤学の僧もいた。親鸞と証真との交わりはあきらかでないが、彼の十四歳のとき、証真を中心に大原談義がもたれており、彼が二十九歳のとき、証其は権少僧都になっていることから、証真の影響をうけたものと思われる。
 しかし、親鸞は伝統、それの支配する現実に絶望して、反逆者として、求道者の道を歩みはじめたが、比叡山にいる問に、次第に内省の人となり、現実への絶望以上に自分自身に絶望する人間として成長したのである。彼は自分自身を直視したとき、自分自身のなかにある、強い愛欲、煩悩を発見したばかりでなく、その愛欲、煩悩をどうにもすることのできない自分自身をも発見したのである。自己に絶望して、どうすることもできない自分を発見したのである。

 自己の救いを求める

 そうなると、親驚は、自分が貴族や知識人よりも、生きることだけに迷い、苦しんでる庶民、それすらも感じない庶民に近いことを発見したのである。世の中の人々をどうにかしなくてはならないという課題も、自分自身の問題に重なりあって訪れたのであるが、自分自身の生き方、その生き方をきめることこそ、彼には先決の問題であったのである。
 このような自覚にたったとき、親鸞の学習はいよいよ熱のこもったものになっていった。人々のためにやる学習にしろ、行動にしろ、大きな壁にぶちあたれば、挫折し、転向することもあるが、自分自身の問題には挫折や転向はない。その人にとっては、その問題を解決することが生きることであり、それ以外の生は考えられない。自分が他者になるときのみ、挫折や転向がある。
 こうして、親鸞は自分自身の生を求めて、苦悩する人間となっていったのである。人々の救いでなくて、自分自身の救いを真剣に問わざるを得ない人になったのである。このことはひじょうに重要なことである。
 今日、革命家を自称し、他称している者は、多くのばあい、自分自身の生のありようをそっちのけにして、他人のために革命をいう者である。そういう人間こそ、自分のために、革命を必要とする者でなく、また大きな壁にあうと挫折してしまう。ともすれば、自分の考えた革命を人々におしつけたりする。
 大事なのは、自分のために革命を必要とする人である。
 親驚は自分自身のために、好ましい生、あるべき生を求めたので、人々の師となることを考えなかった。ただ彼のような人々に、自分の生をしめしたにすぎない。それはあくまで、結果としてあったことにすぎない。
 だから、自分の救いについて、比叡山で求めに求めたが、求めることができないと知ると、さっさと比叡山をおりたし、六角堂に百日参籠したのも、すべて自分自身のためであった。
 そして、参籠九十五日目に聖徳太子のご示現で、吉水の法然を訪ねることになったのも、すべてに行き詰まって、わらでもつかみたいという気持ちになっていた親鸞の追いつめられた気持ちからであろう。仏法の聖地比叡山に絶望した彼。彼にはもうどこもたよることはできなかった。六角堂にとじこもったのもそのためであろうし、夢告にたよろうとしたのも、それ以外になかったからであろう。
 おそらく、親鸞は六角堂のなかで、時代と人間に絶望する自分、自分自身に絶望する自分をのろったにちがいない。それらは誤っているのかと自問自答したであろう。自分のゆくべき道は果たしてあるのかと問わざるを得なかったであろう。法然を訪れた彼がぎりぎりの気持ちであったように、六角堂にこもった彼はすでに生命がけであった。二十一年間修学せよといったのは最澄だが、親鸞は二十年間修学して、比叡山に学ぷものなしと捨てなければならなかったのである。彼の心中を思うとき、悲壮の二字しか浮かばない。
 では、親鸞をこれほど苦しめた彼自身の問題とはなにか。一つは、自分自身のうちにある愛欲の問題をどう考えたらよいかということであり、いま一つは、生きていくということで、生きている魚の生命を奪い、生きている植物の生命を奪わずには生きてゆかれない自分。隣人に対して善かれと思ったことが必ずしも隣人に善いとはかぎらないような自分。悪かれと思ったことが必ずしも悪いとはかぎらないようなことしかできない自分。そのように、煩悩熾烈で破戒無慙の自分をどうしたらよいのかということであった。
 これら二つのこと以外に、法然にぷっつけることはなかった。

    

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   3 法 然

 放浪のはての師

  親鸞は自分が生きていくとき、悪いと一般にいわれていることをしないでは、一刻も生きていられないことを知り、本当に万事窮したと考えた。生きているそのことが悪に連なっていると知ったとき、彼はどうしてよいのかと思わないではいられなかった。それこそ、死以外にないのではないかと思うほどに深く絶望した。それに、伝統と知識人への絶望がかさなり、彼の絶望は底しれないほどの深いものとなった。そのときの彼は、きっとどうなってもよいと考えるほどであったに違いない。彼が法然を訪ねたときの心境は、そういうものであったろう。 親鸞は雨の降る日も太陽の照りつける日も、法然のもとに通いつづけ、法然の説くところを、全身全霊を傾けて聞いたのである。法然は親鸞にむかってなにを語ったのであろうか。
 法然は一心に説いた。
 「中国、日本にも、たくさんの智者たちが申す観念の思いでもなく、学者たちのいう、念の心をさとっていう念仏でもない。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏といって、疑いなく往生すると思えばよいので、そのほかのことはないのである。……念仏をいう人は、仏典をよく学んでも、愚純の身だと思うて、智者の風をしないで、専心念仏すべきである」(一放起請文)
 「この世をおくるには、念仏を申しておくるべきである。念仏のさまたげになることは、嫌って捨てたらよい。一つの所で念仏がいえないなら、修業していえばよい。修業してもいえないなら、一つ所にとどまっていうようにすればよい。僧侶でいえなければ在家でいえばよい。一人でいえないときは、皆でいったらよい。皆とともにいえなければ、一人でいったらよい。自分の力でいえないときは、人に助けられていえばよい。念仏の第一に役にたつものは米といってよい。衣食住は念仏の助である。妻をめとるのは、妻に助けられて、念仏申さんがためである。念仏を申す邪魔になるなら、妻をめとらない方がいい。
 勤めをもつのも、念仏のためである。念仏にさまたげになるなら、もたないがいい。すべて、念仏申すことがすべてに優先している。往生極楽をしようとどんなに欲ばってもよい。それはすべて往生のためである」(法然上人伝記)
 「いまの世は末法のはじめである。一念弥陀を思うてどうして往生をとげないことがあろうか。たとえ、私たちでも、いまの世では、念仏によって救われるはずである」(西方指南抄) 「釈迦が無上の浄土を捨てて、このみにくい世の中に出で給うたことは、元来、浄土の教えを説いて、人々を浄土に生まれしめんとしたからである。弥陀如来がこの世にいでましたのは、この世の人々を導いて浄土にせんがためである」(無量寿経釈)
 「念仏は易きが故に、一切に通じている。諸行はむずかしさが故に、諸々の機根に通じていない。だから、人々を同じように往生させて、すばらしい生を歩ませようとすれば、勤めを捨てて、易きにつかせようとする。もしいままでのように、造仏・造塔をもって第一とすれば、貧しい者たちはどうすることもできない。しかも、富んだ者は少なく、貧しい者は多い。それに知識のある者は少なく、愚純な者は多い。持戒持律の生をおくる者は少なく、破戒無戒の生をおくる者は多い。そうすれば、ほとんどの人がすばらしい生ということから無縁になる。真にすばらしい生とはどういうことか。この辺で考えなおしてみなくてはならない」(選択本願念仏集)

 これらの意見をきいたとき、親鸞の心には法然の意見がにじむように深くしみていったのである。彼はこれこそ、長い間、求めに求めた自分のような、どうにもならない人間のための教えであると思った。彼はそこに、救いを発見して、欣喜した。彼はこれまであちこちと放浪したことがよかったと思った。放浪し、真剣に求めたために法然の説くところが、その重さをもって、理解できるのである。法然がどんなにすぐれたことをいっても、自分にそれをすぐれたものと理解する能力がなければ、無縁である。彼は自分自身に感謝した。その感謝は法然に対するそれと変わらなかった。
 だから、親鸞は、
 「法然のいかれるところには、人がどのようにいうとも、私はたとえ悪道であっても、いくつもり、代々迷いぬいてどうしようもない自分と思い定めている身であるからと、人々がいろいろと申されるときにいわれたのである」(恵信尼書状)とも、また、
 「たとい、法然師にうまいことをいわれて、念仏を申して、地獄のようなところに落ちても、さらに後悔はしないであろう。その理由は、修業して、仏になりえたものが、念仏を申して地獄に落ちたというなら、うまいことをいわれてという後悔もあろうが、どういう修行もできない者には、地獄にいくしかない」
 という信念にもなったのである。彼の絶望が深かっただけに、法然の教えに接したときの、喜びは一層大きかったのであろう。
 『浄土高僧和讃』にも、それゆえに、法然を讃美して、つぎのように歌っている。

  真の知識にあうことは
  かたきがなかになおかたし
  流転輪廻のきれなきは
  疑情のさわりにしくぞなき。

  阿弥陀如来化してこそ
  本師源空(法然)としめしけれ
  化縁すでにつきぬれば
  浄土にかえりたまいにき。

 さらに、つぎのようにいったのである。
 「親鸞においては、ただ念仏して生きるようにと、法然のいわれるのをそのまま信ずる外に理由はないのである」

 真理に心をつなぐ師弟

 このような親鸞の切実な求道が、その師法然の眼に映じないはずはない。早速、法然の主著である『選択本願念仏集』の書写を許されている。この本は、九条兼実の要請をいれて、浄土教の要点を書きしるしたものだが、法然自身この本に対する誤解をおそれて「ねがわくば、一度読んだ後は、本箱の下にいれて、机の上に忘れてはならない。というのは、この本は愚かにして読解力のない者を悪の道におとす恐れがあるからである」といって、いましめたほどの本。それゆえに、この本の書写を許されたものも、多くない。それなのに、親鸞は入門して日も浅いのに、先輩たちをのりこえて、その書写を許されたのである。そのときの彼の感動が、いかに大きかったか想像される。
 『教行信証』の後序に、その感激をつぎのように書いている。
 「元久二年、お許しを得て『選択本願念仏集』を写した。…法然今年七十三歳。『選択本願念仏集』は九条兼実の命によってかかれたものである。真宗の要点、念仏の奥義がおさめられている。読む者は理解しやすい。まことにすぐれた文章、このうえもない書物である。その教えをうける者は多数だが、この書物の書写を許されるものは非常に少ない。私はすでにこの本を写し、師の写真をうつした。これは、専修念仏のおかげである。人間として最もすぐれた生き方のできたしるしである。よって、喜びの涙をこめて、その次第を記述するものである」
 一方、親鸞がいかに深く法然に傾倒したかということは、法然の言葉や行動を集めたものが、三巻六冊にもおよんでいることで、明らかである。文字どおり、彼はその全存在をあげて、その身を法然にあずけたのである。
 知識人のすべてに絶望したとみえた親鸞にも、法然という例外があったのである。全知識人に反逆して、新しい価値と秩序と倫理を求めた親鸞であったが、逆に法然にたいしては、子供が母親にたいするように、まったく従順で、法然のいうままに、なんらの疑問をさしはさまず、そのままを生きたのである。
 真理を求め、真理に生きるとは、こういうことかもしれない。親鸞は法然にあうまで、死人のように生きており、行動もできない人間であったが、法然にあうことで、はじめて生きかえったのである。充実しきった生と誇りある生にみたされるようになったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   4 妻 帯

 性欲との戦い

 親鸞は自分のなかにある激しい性にたいする欲望をどうするかで悩んだ。少なくとも、いままでの仏法では性欲を断つことを求めている。また、厳しくいましめている。だが彼は、どうみてもそれを断つことはできない。
 なるほど、当時の僧侶の世界では、妻帯するものが普通になり、それをかくす傾向さえなくなっていた。それにもかかわらず、妻をもつことは否定され、性欲をみたすことは禁じられていたのである。
 僧侶たちはこのいましめを平気で破りながら、口では性欲をみたしてはいけないといっていた。表面は賢そうによそおいながら、裏ではそのいましめを破っていたのである。親鸞はまともにそのいましめをいましめとしてうけ取り、実践しようとしたために、自分の性欲をどうするかで悩んだのである。彼が比叡山からおりたのも、また六角堂にこもったのも、このいましめをどうしても守れない自分を発見したからであり、そういういましめを守るように求める教義についていけなかったからである。
 親鸞には、そういうことをいっている知識人ともいうべき僧侶たちがすべて、いんちきに見えたのである。激しい性欲に十年余も苦しんだ者だけが、性欲を禁じ、断つことが無理であり、不自然であることを知る。
 明恵のような僧侶でも、自分の性欲を禁ずることに悩んだし、彼が幸いにも童貞のままに終わることができたのは、偶然の妨害があったためと告白している。あくまで自律的に処理したのでなく、他律的に処理されたことにすぎなかった。
 親鸞は性欲を人間らしく処理することは、性欲を禁じ、断つことでなく、適当に性欲をみたすことではないかと思った。しかし、それを口に出していうことは、いままでの仏法に対して反逆するることだとも考えた。
 いままでの仏法の説くままに従って、いんちきの生活をするか、あるいはその仏法にそむいて性欲のままに生きるか、この二者択一を迫られたのが、比叡山をおりた頃の親鸞の心境である。だから法然に性欲のままに生きることが、まことの人生であり、性欲をみたしているような者こそ、本当に浄土にいくものであるといわれたとき、驚くとともに、喜ばずにはいられなかったのである。
 法燃は声を大にして、生きることに忙しくて、無知なままにおわっている人間、造寺・造仏をやる余裕のない人間こそ、本当のものであるといいきったのである。性欲のままに生きる者こそ最も人間らしい生き方である。
 だが、法然自身妻帯にふみきる人ではなかった。いままでどおり、禁欲の生活をつづけたし、ほかの門人たちも進んで、これまでのいましめであった常識を破る勇気はなかったのである。そのなかでただ一人、親鸞は、その言葉どおり、妻帯にふみきったのである。その言葉の誤りでないことを行動でしめしたのである。そこに、求道者、反逆者の真面目がある。
 だからといって、親鸞にもそれをすぐに実践するということはできなかった。なんといっても、名目上のことといえ、真正面からいままで全知識人、全僧侶がいけないと強調していたことにそむくのである。全国民が常識としていたことに、まともに逆くのである。なにが正しいかというだけの問題ではなくて、そこには、非常の決断が、万人を敵とする覚悟がいった。
 親鸞は夢のなかで
  行者宿報にて、設い女犯すとも
  我、王女の身となりて犯されん
  一生の間、能く荘厳して
  臨終に引導して極楽に生ぜしめんと。
 というものを見たのである。この道こそ、人間として、まともに生きていることになり、そのことをすべての人々にむかって、説かなくてはならないと考えたのである。
 親鸞はこのようにして、女犯に、妻帯にふみきる準備をととのえた。もっとも、女犯、妻帯が人間として生きるのには本当の姿であり、性欲を禁じて生きることがうそであると思い始めてから、実際に妻をめとるまでには、二、三年を要している。

 求道者の生き方

 昔より親鸞の妻が一人であったか、それとも二人か三人であったかは、議論のわかれるところであったが、そんなことはどちらでもよいことである。問題は女犯にふみきり、それが人間として正しい生であるとしたことである。ごまかして生きるよりも、ずっと人間らしいことであり、むしろその方がまともであると考えたのである。
 ここに、いままでの出家の意味はくずれて、結婚して生きることが正しいとされたのである。それは、釈迦の生き方を否定したことになる。結婚するかどうかではなく、求道者として生きることは特別の生き方でないことをしめしたのである。無理なく、自然に生きるのが本当であることを、その行動でしめしたのである。
 結婚した親鸞がその妻から、非常にすぐれた求道者であるばかりでなく、すべての人々が理想建設に邁進するように、自覚をもたらす人間と思われていたことは、その妻が娘にあたえた手紙にも、はっきりでている。妻は娘にのろけるほどに、その夫を信頼し、尊敬していたのである。
 これによって、初めて、親鸞は師法然の説くところをそのままに実践したということができるし、法然の弟子にもなれたということができる。
 だが、ここで問題なのは、女犯にふみきって得た妻との間にどのような生活をいとなんだかということである。その妻がその夫を非常に尊敬し、信頼していたことはすでにのべたが、それだけでなく、妻もまた、その夫と同じように思い、考え、生きたということである。
 親鸞はだれよりもまず、その妻を彼の信者にしたし、彼の考える人間としてのすばらしい生き方のできる人間に、その妻をつくりかえたのである。その妻は彼にとって同朋であり、すぐれた仲間であったのである。しかも、彼らの間には多くの子供がいた。二人がいかにむつみあったかという証しである。
 それと同時に、自分の激しい性欲のままに妻をめとり、そういう生き方を正しいとしたが、その子供を年老いて義絶しなければならなくなったときに、改めて、親鸞はその煩悩の激しさを思ったことであろう。一度は性欲から解放されたものの、性欲の所産である子供のために苦しむ自分をみたとき、人間はその煩悩のために生涯苦しむものと考えたであろう。このことは後のことであるが、その意味で、彼という人間は、生涯安定のなかったものといえよう。不幸な人間であったということがいえる。
 中国に浄土教のおこる契機をつくった羅汁という人は女犯の人であった。女犯ゆえに、浄土教をつくる因をつくったといえよう。反対に、中国の浄土教で主要な位置をしめた善導は一生の間、眼をあげて女性をみなかったということである。性欲の恐しさを知っていたともいえる。
 親驚はその性欲で、一生の聞苦しむ人となったのである。初めは性欲そのもので、後には性欲の結果で…。こうなると、人間は生きているかぎり、悩み、苦しみつづけるということが本当なのだろうか。                          
 そのなかで、人間はなにをしたらよいのであろうか。親驚は後に述べるように、三願転入、悪人正機などの思想の面で、法然の思想をおしすすめた。しかし、なんといっても、彼の真骨頂は、その思想を行ずることによって、その思想を徹底させたことである。それは、法然に対してすら、求道者、反逆者であったということである。妻帯したという意味はあまりにも大きい。その重さのわかる者は思想を継承する者でなく、ただ生をいきようとする者だけである。

      

                    <目次>(親鸞道元日蓮) 

   5 流 罪

 −念義か多念義か

 法然は専修念仏の生き方を説いたが、その門弟の間ではいつか、一念義、多念義の問題をめぐって鋭く対立するようになり、ついには両者が同席するのを拒むほどに、お互いに自分たちの主義を主張するようになった。
 一念義というのは、ただ一度念仏するだけで、人間としてはすばらしい生き方ができるということで、一度念仏したら、後はなにをしてもよいというものであった。これに対して、多念義は間断なく、念仏をとなえることが必要であるというものであった。ただ毎日、数万遍の念仏をとなえることは、僧侶には可能であっても、日々の生活に追われている一般の人々には大変なことであった。法然はそれゆえに、一般の人々のために、専修念仏の生き方をしめしたのである。だが、門弟のなかには一念義に反発して、多念義にとらわれる者がでたのである。法然自身もいつか、僧侶の立場から、念仏をくりかえして唱えることになっていた。
 親鸞もこの対立にまきこまれたが、彼自身は無智・貧窮の一般の人々を考えて、一念義の立場に同調した。ただ一度の念仏でいいと考えたし、それでなくてはならないと思った。しかし同時に法然が念仏をくりかえすのも理解ができた。要は一念義、多念義に執着することでなく、人々が精一杯に生きることであり、ただ一度の念仏しかできない者はそれでいいし、多念のできる者は念仏をくりかえせばよいと思ったのである。
 だが、人々はそうは考えなかった。ことに一念義の立場にたつ者は、ただ一度の念仏をとなえた後は、念仏をとなえることを否定したばかりか、悪いことをしてもいいという極端な考えには同調できなかったのである。
 その動きの先頭にたったのは、将軍源頼家であり、そして延暦寺、興福寺であった。まず源頼家であるが、彼は念仏僧をきらい、鎌倉にいた念仏僧十四人の袈裟を奪い、焼かせている。また延暦寺は一念義も認める法然の教えに対して、朝廷に抗議した。それに対して、法然は『七ヶ条起請』を書いて、それをみとめるとともに、門人たちを厳重にいましめた。
 『七ヶ条起請』というのは、第一に、阿弥陀仏以外の仏をそしらぬこと。第二は、別解、別業の人にたいして、その本業を捨てよといわぬこと。第三は念仏には戒律がないといって、飲酒、食肉をすすめてはいけないということ。第四は、無智の者が勝手に自説をたてて、人々を誤らしてはならないこと…などが書かれていた。延暦寺は一応それでおさまったが、門弟のなかには、法然の態度にあきたらず、「師の気持ちは別にある」といいたてる者もでてきて、法然のことを怒る者も多く、ついに興福寺は九ヶ条の奏上文を提出し、朝廷に法然の専修念仏の教えを禁止するように強く求めたのである。
 その九ヶ条で、法然の説くところを厳しく攻撃したのは、つぎのような諸点であった。
 第一は、日本に新宗をたてるには、朝廷の許しがいるのに、それをうけていないこと。
 第二は、阿弥陀仏の救済をうけるのは、ただ念仏者だけで、それ以外の者には救済がないといっていること。
 第三は、阿弥陀仏を認めて、釈迦そのほかの仏を認めていないこと。
 第四は、念仏以外の諸業を悪として、仏法を非難している。
 第五は、神々を祀ることを非難していること。
 第六は、仏法を王法をこえるものと主張して、この国土を崩壊にみちびいていること。
 第七は、念仏者は女犯・肉食などを認めていること。
 興福寺のこの奏上をもとにして、法然一門と興福寺を代表する人たちとの間で、徹底的に議論をすべきであったが、それをしないで一挙に権力者の手で、それを解決しようとした。ここに、興福寺一派の退廃があった。法然一門には、大変であったがむしろそれによって鍛えられたといってもいい。
 興福寺側の強い抗議をうけた朝廷では、両者の板ばさみにあって苦慮した末一応、「現在法然一門に加えられている批難は門弟一部に対するもので、法然の真意ではない」との宣示でごまかした。おさまらないのは興福寺側。それならというので、行空と遵西の二僧が、それに当るといって、二人の流罪を要求した。

 流罪から、求道者そして反逆者へ

 やむなく、法然は行空一人を追放した。これによって、なんとなく、この事件はうやむやに終わるかと思われたが、偶々、後鳥羽上皇の熊野参詣の留守に、上皇の愛をうけていた女房たちが、東山、鹿ヶ谷で催された別時念仏に関係し、外泊したのみでなく、髪をおろして尼となった。この別時念仏を主催したのが、先述の遵西たちであった。
 怒った後鳥羽上皇は、その翌年になると、念仏の禁止を命じ、法然以下その主だった者たちを流罪にしたのである。つまり、一枚の政令が上皇一人の怒りから出たのである。そのために断罪をうけた者こそ、まったくいい迷惑である。
 このとき、流罪になったのは、法然、親鸞、浄円、澄西、好覚、行空、幸西、善恵の八人。死罪になったのは、西意善綽、性願、住蓮、安楽の四人であった。
 法然が僧籍をうばわれて、藤井元彦として、土佐国に流されることがきまったのに対し、親鸞は同じく、僧籍をうばわれて、北陸の地に流されることにきまったのである。はじめ、彼は女犯の罪で死罪になることがきまっていたが、運よく途中から流罪にかわったのである。
 だが、親鸞にとっては、それすら不満で、その怒りを、『教行信証』の終わりに、つぎのように記している。
 「ひそかに考えると、聖道の諸教は行いがたく、そのために大いにすたれ、いまは浄土の教えのみ盛んである。それなのに、諸寺の僧侶たちは教えにくらくして、いずれが本当の生き方であるかということを知らない。すべての人たちが迷うている。そのために、興福寺の一門は上皇、天皇に手紙を出し、我らが迷っていると告げ口する。上皇、天皇はもちろん、臣下の者まで、何が正しいかを知らず、迷いに迷って、法然およびその弟子たちをみだりに罪におとしいれた。私もその一人である。だから、もう、私は僧でもないし、だからとて俗でもなく、唯求道者、反逆者である。この理由で、僧でもない、俗でもない禿の字をもって、以後姓とするつもりである。法然ならびにその弟子たちは、各地に流され、五年の年月がたった」
 まことに、わけのわからぬ流罪であった。だが、まえにも記したように、これによって、法然一門は鍛えられ、真に求道者として、また反逆者として生きる栄光をになったのである。歴史に永遠に生きつづける者になることもできたのである。
 彼らははっきりと、王法というか、常識の世界が仏法に従属するものであり、人々はその王法をのりこえて、仏法のいうままに、仏法を求めて生きなければならないと知るのである。いいかえれば、王法は不十分であるというのである。そればかりか、古き仏法も王法に吸収されたものとして誤まっているのだと、思いきって宣言したのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   6 念 仏

 僧にあらず、俗にあらず

 親鸞は藤井善信という名で、北陸の越後国に流された。年老いた師法然と遠く東西に別れなくてはならなかった彼の悲しみと怒りはどんなに激しかったことであろう。これを最後として、二人はついにあうことはなかった。永遠の別離であった。
 親鸞が流罪地でどのような生活を送ったかは明らかではないが、法然が土佐国から讃岐国にかわったように、それほど苦しかったとは思えない。それに、北陸は早くから、念仏の盛んな所でもあった。なにかと便宜があったにちがいない。
 四年あまりの流罪の生活のなかで、それにとりくむ親鸞の姿勢はすさまじいものがあった。というのは、「法然も流罪にならなければ、私がどうして流罪地におもむくことがあろう。もし流地におもむかなかったら、どうして、辺鄙の人々に教えることになろう。これは師恩である」といって、彼は逆に流罪になったことを喜んだのである。悲しみを変じて福にする積極的生き方ができるのが彼であった。辺郡の人々に親しく接することのできた自分自身をこのうえなく喜んだ。
 だが、それほどに苦しくはなかったといっても、流罪地のことである。親鸞とともに佐渡に流された行空はその地で病死したし、法然や隆寛も流罪地で身体をそこねている。それに、自ら生産に従い、自らの手で自らを養っていかなくてはならなかったであろう。実際に、なれない土地で、自分で土地を耕し、種子をまき、草をかり、肥料をやる生活は、想像以上に苦しかったに違いない。彼はそのなかで、働くという意味をあらためて考えるようになった。これまで、人々の寄生虫にすぎなかった僧侶の生活について、深く反省するとともに、人々がいかに忙しいかも実際に体験した。彼はこの生活をしていくことによって、自分の信じた生き方がいよいよ本物であると思わないではいられなかったのである。
 親鸞はこの北陸時代、ほとんど伝道をやらなかったらしい。もちろんそれが禁止されていたとはいえ、あんなに喜んだはずの彼である。だが、彼は忙しくてできなかったのである。
 それに、これまで法然につきしたがっていればよかった彼が、ただ一人越後の国に放りだされたのである。そうなれば、法然をよりどころとしたそれまでの生活をやめて、自分を拠りどころとするしかない。自分を拠りどころにするには、あまりに貧弱な自分しかなかった。彼は、自分自身に沈潜した。北陸時代はその意味で、自己に沈潜し、自己をみつめた時代といえる。こうして、彼は一人立ちした人間となるのである。北陸流罪は、彼が自立するために、ぜひとも必要なことであった。
 親鸞が教信沙弥を終生の理想像とするようになったのも、この北陸生活があったためである。教信沙弥は一塊の土地ももたない貧しい生活であったが、妻子のために、荷役に従事する日雇人夫であった。しかし、そのなかで生涯念仏を忘れない人であった。教信沙弥の生活はそのまま北陸時代の親鸞の生活であった。この北陸時代こそ、彼が彼自身のために、念仏を唱えながら、生きていく時代であった。人々よりも、自分自身を教えるにいそがしい時代であったともいえる。
 教信沙弥は当時、「僧にもあらず、俗にもあらぬ形」といわれていたが、親驚もまた、彼にならって、「僧にあらず、俗にあらず。この故に禿の字を以て姓とす」といって、この北陸以後は愚禿と称した。愚禿とは、いわゆる知識人の“智”に対する誇りを捨てて、人間の原点にかえったことを意味する。人間にはともすると、智とか、財産、地位とか、あまりにも粉飾が多すぎる。生まれたままの人間の姿、死んでいくときの人間の姿、すなわちあるがままの人間の姿から、あまりにも遠ざかりすぎている。彼は唯一人の求道者、反逆者であることを求めたのである。

 念仏に生きる

 親鸞が許されたのは、建暦元年十一月(1211年)のこと。このとき同時に、法然も許され、京都東山大谷に帰った。彼は赦免状手にしたとき、おそらく、法然の言葉「遺弟同朋たちは、一力所に群生すべきでない」を思い出したにちがいない。それに、妻は身重の身であった。動くのには決心がいる。彼はそのままの状態で時をまった。
 そんなところに、法然が死んだという知らせがとどいた。法然のいない京都の地には、あわてて帰る気持ちもしない。そこで、師の死を悲しみつつ、なおしばらく、その地にとどまった。それは、足かけ四年であった。とすれば、十年近く、越後にいたことになる。この間、彼の心のなかでは、徐々に、念仏の教え、いうなれば、人間が凡愚のままに、凡愚を生きることが人間として最もあたりまえの生き方であることを人々にむかって説こうとする思いが熟していた。妻子をともなった非僧非俗の愚禿親鸞が念仏の教えを説くには、かなりの勇気のいることであったが、その勇気が自分のなかに湧いてきたのである。そのためには、まずなによりも、自分が念仏の教えに生きることに、無上の喜びをいだく人間でなければならなかった。その喜びの確信がそのまま他人にも確信をもって、進めうるのである。念仏を唱えることによって、地獄に落ちるなら、それもいいではないかという確信が、人々をもその道にみちびくことができるのであった。それが地獄であっても、彼にとっては、天国であったのである。
 ともあれ、親鸞は妻子をつれて、建保二年(1214年)頃、越後をあとにして、関東にむかった。彼の四十二歳のときであり、心身ともに充実しきった頃である。はじめて、人々にむかって、念仏の教えを説こうという思いで、彼の心はたかぷっていた。だが、目的地を前にして、上野の国までやってきたとき、彼はもう一度不安になるのであった。
 そこで、その思いをかためるために三部経千部読誦にとりかかった。いわゆる三部経とは、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経三部のことであり、それを千回よみなおそうとしたのである。だが、それをやっている途中で、彼ははたと気づいて、それをやめてしまった。気がついたからである。すなわち、彼はそれまで十七、八年も前から、念仏に生きることが人間至上の生き方と思いながら、いま衆のためにといって、三部経を千回よもうとすることは、全く念仏に生きることが人間として最上であるという点を、不十分にしか信じていないことに気づいたのである。なにをいまさらに、三部経を千回よむということが、念仏に生きようとする者に必要かと思いいたったのである。すべての行が及びがたい人間のためにこそある念仏でありながら、いま、彼が賢人ぶって、経をよむという誤りにおちいろうとしていたのである。
 親鸞はいまさらのように、念仏を信じ、念仏に生きることのむずかしさを思わないでいられなかった。彼の念仏に生きようとする心は、これによって、いよいよ激しいものとなったといえる。彼は生命をかけて、関東ゆきにとりくむことになった。
 こうして、親鸞が関東にいたのは約二十年。その間、稲田の草席を中心に、南西にあたる小島、飯沼のあたり、南東にあたる行方、鹿島のあたり、北西にあたる高田のあたり、北東にあたる大部のあたりの人々を教化した。その数は、僧侶で数十名、在家の者をいれると百数十名になったであろう。
 これらの人々を対象に、それこそ、二十年間、親鸞は心血をそそいで、人間としてあるべき姿を、人々のつくる世の中のあるべき姿を説いたのである。それはあるがままの人間と社会の状態を否定して、真実を求める人間と社会のありようを示したといっていい。彼は人々とともに自己の信ずる道を必死に生きたのである。それによって、この地上を楽園につくりかえようとする烈烈たる闘志に満ちあふれていた。

 『教行信証』に着手

 しかし、親鸞は一方で、人々の教化に心血をそそぐとともに、他方では、浄土真宗の立宗宣言となった『教行信証』の著作にもとりかかった。くわしくは、『顕浄土真実教行証文類』といい、念仏がいまの時代において、最もすぐれた生き方であることを論証したものである。彼はこの本を書くとき、あらためて、現実の世の中を深くみつめた。源氏は平氏のあとをおって、権力者の位置についたが、将軍、重臣たちの間には、常に争いがたえず、それのみか、朝廷と幕府との間には、決定的対立が生じ、それは“承久の乱”となって爆発した。この間にあって、武士たちは殺戮をこととし、商人、農民は利を追い、生きた物の生命を奪うことなしに一日も生存できなかった。そうなれば、彼がますます、念仏を信じ、念仏に生きるしかないと思い定めたのもむりはない。人は生きているということで、そのまま悪人となり、罪人となるしかなかったのである。善人といえる者は一人もいないというのが、彼の意見であった。その悪人が悪人なりに可能のかぎり、精一杯生きる道をしめしたのがこの本であった。だが、彼はその悪人も善人に対してのみあると消極的にのべるにとどまっている。こうして、親鸞はこの現実の世の中そのもののなかに、人間の可能なかぎりの生をみつめたのであって、世の中の外にすばらしい生を求めたのではない。では、彼の説いたものはなんであったのであろうか。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   7 智 恵

 易行道

 親鸞は信について、『教行信証』のなかに、「信にまた二種の信あり。一には道ありと信ず。二には得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜらん。これを名づけて信不具足となすといえり」と書いて、信にいたるためには、法を信ずるだけでなく、同時に法を明らかにした人をも信じなくてはならないといっている。彼はそのように、人として最もすぐれた生き方をしめす法とともに、その法を明らかにした法然を信じたのである。では、どのように信じたのであろうか。
 まず、親鸞は時代をみては、
 「釈迦がなくなって、二千余年もすぎた。正法、像法の時代はすぎた。釈迦の弟子たちは現代を悲しむべきである。今日の人々は修行も悟りもかなわぬときで、すべて人々のおよばぬことになってしまった。いまでは、人々がともに争うて、念仏を唱えて生きる人をさして、釈迦の教えにそむく人であるという。いまの世の悲しみは、延暦寺や興福寺の僧侶たちのように、求道者であることを忘れて、徒らに、高い地位ばかりを求めていることである。この世のすぐれた求道者といっても、まったくその名だけで、実がなく、情ないことである」といわなくてはならなかったし、また、人々をみては、
 「あるがままの人間は、まったく、真実の心なく、清浄の心もない」とか、人々は「穢れにみちており、表面のみ清浄で、その実、まったく、にごっている」と断言せずにいられなかった。それゆえに、親鸞は、人間というものは地獄が一定のすみかであると信じたのである。
 「煩悩というか、いろいろの欲望や思念が私たちの身体にいっばいあって、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心が強く、死ぬるまで終わることがない」ともいっている。
 親鸞はこうして、法然のいうことを信じたのである。法然の言葉をうけて、彼はいう。「親鸞においては、ただ念仏を唱えて生きることが、人間として生きるうえで最上のことであり、そうした生き方をすることが阿弥陀仏の御心にかなうことであると、法然が申されたことをそのまま信ずるほかにはないのです。念仏を唱えながら生きることは、この世を浄土にすることかもしれません。反対に、この世を穢土にすることかもしれません。私には、そのことはわかりません。たとえ、法然にうまいことをいわれて、念仏を唱えて、この世を穢土にしたからとて、後悔は決して申しません」
 親鸞には法然の言葉をそのまま信ずる以外にほかの生き方はなかったのである。彼は善悪についても、つぎのようにみきわめていたから、法然の言葉をそのまま信ずる以外になかったのである。
 「善悪の二つは、どうして善といい、悪というか知らない。その理由は、覚者の御心にあうほどの絶対的善というものはこの世にはない。また覚者の御心にそむくような絶対的悪もない。人もこの世もすべて一時的のこと、常住なものは一つもない」
 「善き心の起こるも、宿善があったがために起こり、悪しき心の起こるのも悪業のためである。何事も心の動きにまかせるなら、浄土をつくるために、千人殺せといえば殺すだろう。けれども、一人にても因縁がないなら、殺さないであろう。自分の心が善くて、殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、因縁があれば殺すであろう」
 親鸞は人間は生きている限り、善悪二つのなかで、立ち往生する以外にないとみたのである。人間が容易にこれこそ絶対的善であるといっている殺さない行為にしても、人々は自分が生きるために日々殺すという行ないをくりかえしているのである。人々は善かれと思いながら、他人に悪をなしている。人々が悪をなさないためには、死する以外にない。法然にあうまえの彼は、まったく絶望の人であった。そのままでよいといわれたときの彼の喜び。そこから、彼の信が生まれた。
 親鸞はこの信を易行道とみた。たしかに、その結論だけを信ずることは、多くの戒律をなしながら、そのなかで自分自身、結論をみちびきだすことにくらべると、たやすいようにみえるけれども、その実、信ずることは大変むずかしい。
 そのゆえに、親鸞は、
   善知識にあうことも
   教うることもまたかたし
   よく聞くこともかたければ
   信ずることもなおかたし

   一代諸教の信よりも
   弘願の信楽なおかたし
   難中の難とときたまい
   無過此難とのべたまう
 と、晩年においてのべている。晩年においても、なお難中の難と説かねばならなかった信を強調しなければならなかった彼。しかし、生きることにいそがしいうえに、殺しを離れて一日も生きることのできない自分のことを思ったとき、結論だけを信ずればいいという方をえらばずにはいられなかったのである。

 悟りではない、悩みである

 親鸞は人間が生きることは、念仏を唱えて、生きることであり、南無阿弥陀仏と可能なかぎり唱えていれば、次第に善を志向するようになるばかりでなく、阿弥陀仏の御心にもかなう慈悲の生活をするようになると断言した。そういう信の人間はそのまま、阿弥陀仏の心と同じであるとか、必ず、覚者になれるとはいったが、悟りをうるとは決していわなかった。阿弥陀仏の心になり、覚者になるとは慈悲の心をもつということで、平和を願う心になりえても、悩みがなくなることをさしていない。
 悟りとは悩みのなくなる状態をさし、悩みの根源である欲望や思念をたつことをいう。それは人間が人間をやめることを意味する。後述するように、親鸞は死の瞬間まで悩み、悩みの多い人間であった。悩みを悩みつづけた人といっていい。悟りを人間として、求めることはやめなくてはならないし、人間としての悟りはこの世には実在しないのである。ただ法といって、宇宙を支配する法則、人間を支配する法則をどこまでも追求することはできる。人間が人間としてある限りは、それを追求すべきであるし、昔より、その法則をかねそなえたものとして、便宜的に仏の名をあたえたにすぎない。その意味で、仏も法則も人間の想像の産物であり、仏も法則もたえず未知の部分をのこしているし、いわゆる仏教が時代とともに発展していかなくてはならないと、いう意味である。
 むしろ、釈迦の教え、親鸞の教えとして、固定化し、今日の時機観を作ったところにこそ問題があるのである。親鸞はあれほど、信を強調しながら、学び、知るということを強調した。学び、知るということにはかぎりがないと思っていたし、信のもとになるのは、学びだと考えていた。法則すなわち法そのものは、学び追求しても、これでいいということがないと思っていた。だから、そのことを、「学問すれば、いよいよ、覚者の御本意を知り、その心の広大であることを知り、いやしい身で浄土をつくることに疑問をもつ者にも、覚者の御心にはそんなことを考えていないことを知らせることができる」といって、学問することを極力すすめている。
 学問のともなわない信を考えることのできなかった親鸞であった。しかし、ここで注意しなくてならないのは、彼のいう学問とは、いわゆる近代の学問のように、科学的客観的真理を追求するものでなく、あくまで、主体的主観的真理を追求するものであった。
 宇宙を支配する法則、人間を支配する法則を限りなく追求したとき、人間の主体的主観的真理は宇宙そのもの、人間そのものとなって、真の自由を得て、悟りそのものに至るかもしれない。悟りとはそのときはじめて訪れるもの。欲望や思念を断つかにみえて、人間が人間であるかぎりは、そういうことはあり得ないし、不自由であり、執われることはあるものである。
 僧侶が昔より、この世を捨て、この世のことを考えないことをたてまえにしたのも、なるべく、にせものの悟りを本物にみせようとした姿勢から出たことであった。
 今日、浄土真宗の信者が多いのも、蓮如たちの布教活動のためもあるが、現実に、親鸞のように、生きるのに忙しく、しかも、殺戮なしには生きられない人が多いということを意味している。彼はそのような人々にむかって、人が生きるとはどういうことであるかを説いた人であり、はじめて、人々に理想を追求するとはどういうことかを明らかにしたのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   8 三願転入

  親鸞はまた信について、十九願を主に説いた観無量寿経、二十願を主に説いている阿弥陀経は仮の信であるのに対して、十八願を主に説いている無量寿経の信こそ、真の信であるとも説明している。
 というのは、十九願は至心発願の願ともいいうるもので、この十九願は自分の行によって善をつむという聖道門にみきりをつけて、信を主眼とする易行門に人間のありようを求めたが、あくまで、それは理想を求め、真理を実現しようとする者の決断に対して開かれたものであるというのである。人間があらゆるものの常住でないこと、地位や財産はもちろん自分の生命まで、いつ失われるかもしれないと思うとき、そのことにおびえ、せめてなりとも自分が善をなしたことで、理想、真理に近づこうという願いがそれである。
 しかし、その願いに対して、人間はなかなか思うようにならない。理想や真理といっているときはよいが、なにが理想であり、なにが真理かと問い、自分が果たして、理想や真理を追い求める人間であるかとなると、わからなくなってしまう。
 こうして、人々は十九願に絶望して、二十願を求めはじめると親鸞はいうのである。だが、その二十願で、果たして人間のありようを掴むことができるか、ここでも人間は、はたとこまるのである。二十願は至心廻向の願ともいって、一心に念仏を唱えればよいというのである。しかし、一心に念仏するということは南無阿弥陀仏と一心に唱えることであり、それは、人々を救いたいという行をいわれるままに一生懸命に唱えるということである。そこには、なお自分の力をたのむ心がはたらいている。自分を否定しているようで、自分を否定しきらない自分をみて、どうしてよいかわからなくなる。
 そのとき、人々ははじめて十八願によって、人間のありようを知ることができるのである。十八願は至心信楽の願ともいって、人間の願がそのまま、仏の願であり、法のもつ力だというのである。あるのは、仏の願いであり、法のもつ力だというのである。そのように信ずることが、真の信だというのである。
 そのような信に到達することで、人間は次第に本当の私となり、生まれて後に、いろいろと付着した邪見、管見、妄見をなくして、人々を立派に生かしたいと願う心がはたらくようになると親鸞はいうのである。
 仏が私か、法が私かというような状態になるともいっている。しかし、同時に、ここで大切なのは、仏の内容、法の中味をこれこれであると見きわめることである。
 世の中には、似て非なる仏、似て非なる法と一体になり、それを行じている者がある。盲信、迷信のたぐいであり、そんな人は多い。人々がいわゆる宗教とて忌避し、宗教家といってうさんくさい限でみるようになるのはそのためである。
 宗教が真に人間のありよう、世の中のありようを追求し、追求したままに生きるなら、いやがるわけはない。
 親鸞はあくまで、このような信を彼自身のために追求したのである。人間のありよう、世の中のありようを見きわめたかったのは、彼自身であった。それを明らかにした後は、人々にも自分のように、考え、生きてほしいと望んだにせよ、それはあくまで結果である。だから、親鸞は弟子は一人ももたないといいきって、人々を自分の同朋とみたのである。
 人間我を観察した親鸞には、とても人々の師となることが気恥かしかったのである。この世で人々がいう智にしても、富にしても、地位にしても、みな限界のあることである。
 それらを誇りうるものは絶対にないのである。
 それらを見きわめながら、なお、この世に執着する自分をやりきれないと思えばこそ、親鸞はなおいっそう思いをつよめて、この世を浄土に、人々を妙好人につくりかえようとしたのである。
 常識に支配され、現実のままに流される人々の多いことを思ったとき、彼の情熱は燃えあがったし、それが生きている人間の責任だと考えたのである。
 死後は死後にまかせればよいというのが、親鸞の生き方である。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   9 悪人正機

 “悪”の自覚

 親鸞の思想を考えるとき、よく悪人正機の思想ということをきく。それは、どういうことなのであろうか。
 人間は一般に人間としてあるとき、すべての人が生命ある魚の生命をうばい、生命ある植物の生命を断つことによって、はじめて生きていくことができるということであり、その意味で、人間はすべて生きていくということで悪人であることを意識しないでは一日も生存できないということである。そればかりか、人間は往々にして虚言をはかねばならない。あらためて、悪いことをするというよりも、殺生し、虚言なしには生きられないということであり、それを人間としては、まず自覚しなければならないのである。造寺、造仏などのささやかな善では、どうにもならない悪をなしているのが人間である。
 親鸞はこの悪人としての人間が、悪を自覚するとき、人間としては最もすばらしい生き方をするものとなるというのである。世の中には、悪人を自覚することなく、自分を善人だと思いこんでいる者、あるいは、善人づらをしている者があまりにも多く、自分の悪を気づかない、どうしようもない者が多すぎる。ことに、地位ある者、財産のある者ほど、悪のおよぼす範囲は多大であるのに、そういう人達は、まったくそのことに気づいていない。それだけでなく、人々は悪のおよぼす範囲の大きい地位や財産を求めるか、それらのある人を非常にうらやんでいる。
 親鸞はこの事実を見たとき、声を大にして、人間がその悪を自覚し、その悪のなかに生きるしか、生きえない者であることを知って、せめて、少しでも、人々をまともに生かせようとする行為を行ずることしか、人間として最もすばらしい生き方はありえないといわずにはいられなかった。悪を背負うたまま、少しでも人々を平和にしようという善にとりくむことが、最も人間らしいことであるというのである。
 親鸞はそのことを、
 「善人づらをしている者でも、仏の御心にかなうことがあるのだから、まして、人間の本質である悪を自覚した者が仏の御心にかなわないはずはない。それなのに、世の中は、常識のままに、悪を自覚した者が救われるのだから、善人づらをした者が救われないことはないという。このことは、一応、道理のようにみえるけれども、仏の御心にそむいている。なぜかというに、自分の悪に気づかないで、自分で少しの善をなそうとする人は、自分の悪に涙する心がないから、仏の御心にそむく。それでも、自分の悪に気づき、苦しんでいるようになれば、人間らしく生きるようになって、浄土をつくる人間になろう。悪しか生きられない私たちは、どうしようもないのである。それを気の毒にお考えになって、悪人のままに生きるのもしかたないということを仰せられたのである。悪を気づいた者こそ、人間としてはまともなのである。それゆえに、善人づらをするより、悪を気づいた者が正しいといったのである」といっている。
 まことに、親鸞は善人づらをしている者より、悪にめざめた人間がまともであると、これまでの価値、倫理をひっくりかえし、新しい価値、倫理を創造したのである。人間が悪を知り、悪に気づいて、善を行なうなら、この世はずっと変わってこよう。
 多くの人は、自分の悪を思わず、悪である地位、財産を求めすぎ、そのために、この世を住みにくいものにしている。
 それとともに、悪人正機を強調した親鸞は、仏典解釈に独自の解釈をすることによって、彼自身の思想をつくりだしている。すなわち、彼は、これまで、「人間の生として、まともでないのは、五逆と正法をそしるものである」という一文を解釈して、五逆と謗法の者は最も重い罪であり、その罪の重いことを、とくに知らせるために、わざわざ書いたのであるというのである。
 まったく、奇妙な説明である。しかし、親鸞はあえてこう考えることによって、五逆や正法をそしる者も、人間としては、やむをえないのであるといいきったのである。
 このような重罪の者も「人々を救いたい行にはげみます」という意味の念仏を一心にいっている間に、だんだん、五逆をなしたり、正法をそしる心もうすれるというのである。

 広大な宇宙観

  日々、「人々を救いたい」と念仏を唱えながら、人々を苦しめる行為のできる者はよほどのことでないかぎりいない。「人々をまともに生きさせよう。自分も他人も一緒になって、まともに生きよう」と念仏を唱えはじめる者に、すすんで、自分の悪に悪を加える者はいない。 念仏を唱えることは、自分の悪を省みながら生きることである。ここに、念仏を唱える者の功徳がある。親鸞はこうして、独自の解釈をすることで、これまでの僧侶の考え方、生き方に反逆し、彼独自の考え方、生き方を創造したのである。彼こそ、反逆者である。そして、すべての人間の生きる道をきりひらいたのである。五逆や謗法の者にも道をきりひらいてみせたのである。彼こそ、生の意味を十二分に知り、生の重みを地球以上に感じた人である。動、植物の生命までも、人の生命と同じように、感じ、考える人であった。人の生命も動、植物の生命も同じものであるという考え方は、古からあったが、その生命をまえに、いかに行動すべきか、真剣に悩み、解決を見出したのは彼が最初である。
 常識の世の中では、五逆や謗法の者とそうでない者との差を考えるだけで、積極的に悪をなす者と、消極的に悪をなす者とは異なると考えている。そして、消極的に悪をなす者が積極的に悪をなす者を責め、裁くということを、当り前としているのである。
 大悪も小悪も悪という事実のまえには同じである。だから、自分の悪に気づいた者は、仏のまえに、おののき、悲泣しなくてはならなくなるのである。人間はすべて、そのようになって生きなければならないことを彼は強調したばかりでなく、人間は財や地位や智のない者こそまともであり、中心であるともいったのである。財や地位のある人間が中心となっているこの世がまちがっているともいうのである。
 そういう状態は今日もつづいている。親鸞の思想が今日も生きているしるしである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   10 晩 年

 京都へ

 二十年間、庶民のなかにあって、人間はいかに生きるべきかを説き、自らその生き方をしめしてきた親鸞が、いよいよ還暦を迎え、住みなれた関東の地をあとにして、京都の地に帰ったのは、1234年から1235年にかけてであった。
 その間の親鸞の布教活動は、法然門下のなかでも、最もすぐれたものであったということがいえよう。どうして、京都に帰ったかということについて、はっきりした理由をしめす史料がなく、そのために、いろいろと論議されている。なかには、幕府の念仏取締りが強化されたためであろうとか、晩年になって京都という故郷がなつかしくなったからではないかといわれている。
 私が思うには、一人も迎えてくれる者とてなかった関東の地に、捨身の心でのりこみ、二十年間、説教しつづけてきた親鸞、いまでは各地に念仏の仲間もでき、これ以上、関東にとどまる必要を感じなくなったことが第一の理由であろう。それに、いまは老境にいつのまにか達している自分をみたとき、彼は自分が念仏に生きる戦いをはじめた土地京都の人々に、もう一度念仏を説き、それを整理する必要を感じたのではないか。彼は、自分の仕事というか、自分の人生をそろそろ整理する必要を感じたであろう。
 閑東の人々が直接彼に聞きたければ、その道は開かれているのである。彼はいま一度、情熱をかきたてて、京都の人々に念仏に生きることを説きたかったのであろう。まがりなりにも、芽をまいてきた彼は、その芽を結実させたかったに違いない。それは、求道者としての願いでもあったろう。こうして、彼は京都に帰ったと思われる。
 京都に帰った親鸞は、覚如のいうように、「聖人故郷に帰って、往時をおもうに、年々歳々夢の如し、幻の如し。長安洛陽がすみかも跡をとどむるに、ものうしとて、右京、左京ところどころに移住したまいき。五条西洞院あたり、一つの勝地なりとて、しばらく居をしめたもう」という生活をはじめたのである。彼を知る者は、ほとんどいない。彼の生活は、彼の思った以上に、寂しいものであったにちがいない。だが、彼は寂しがってばかりはいられない。彼のなかには、老境に入っての静かな情熱がたぎっていたにちがいない。先述したように、彼は覚者でも、悟った人でもなく、生きているかぎり、悩みに悩む絶望と不安の人であった。平安の生活がないのが、彼の彼らしいところである。
 親鸞の考えていたように、関東からは、いろいろの人が訪ねてきて、問うた。そのことを、彼はつぎのようにいっている。
 「各々十余ヵ国の境をこえて、身命をかえりみずに、訪ね来る御志、ただ、悪人であることを気づいた者がいかにあるべきを問うためである。しかるに、念仏を唱える以外になにかあるのではないかと思うこと、まったく心憎いことであり、大きな誤りである」
 彼のいうように、彼には念仏を唱えることよりほかにはなかったのである。
 だが、門弟のなかに、疑問が生じた。
 それは、法然当時にもあり、ついに念仏停止ともなった「悪いこともしてもよい」という邪義であり、それに拍車をかけたのが親鸞の子善鸞である。はじめ、邪義を唱える側は、そうでない人々を幕府にうったえ、この問題が幕府の問題になった。このときは、性信が念仏を唱えるのは、「朝家のため、国民のため」といって、一応結着した。しかし、ここで考えねばならないのは、「国民のため、朝家のため」ということであり、それはあくまで、あるべき国民、あるべき朝家をいったのであり、常識のままに流されている国民、朝家をいったのではないということである。これで結着したといっても、幕府の問題としてすんだということであり、邪義そのものは解明されていない。
 当時、「国民のため、朝家のため」ということで結着をみたということは、念仏を唱え、念仏に生きることが、現政府からいかに危険視されていたかということでもある。そのことはおいて、邪義の問題はいよいよ盛んとなり、領家、地頭、名主の間にまで拡大し、ついに親驚自身その解決のために、その子善鸞を派遣しなければならなくなった。

 善鸞の義絶

 はじめ、善鸞は精力的に活躍し、邪義の根源について、親鸞に報告し、その指示を仰いでいる。善鸞は邪義を主張する者たちを攻撃するとき、「親鸞から直接聞いた自分の説くところがまともなので、邪義を主張している人々は誤っている」といい出したのである。この言葉は非常に効果的であった。善鸞の言葉はついに邪義を主張しない人にまで、動揺をあたえ、迷わせはじめたのである。
 それというのも善鸞はいつか、関東の人々を自分の支配下におくことを夢みはじめ、邪義を主張していない人々まで、今度は逆に邪義で攻撃しはじめたからである。そのとき、親鸞から直接きいたということは効果をもったのである。彼は段々と親鸞の説くところと反対のことをいいだしたのである。人々は迷い、驚き、そのことを直接に親驚に訴えた。善鸞は善鸞で親鸞に手紙を書いた。いまや親鸞は相異なる手紙を前にして、苦しむしかない。門弟たちの動揺は信がかたまっていないためだといって、門弟たちを叱咤するということもあった。同時に、善鸞を疑う気持ちもおこってくる。
 門弟の一人真浄が、「念仏をひろめるには、この地を去って他の地にいくべきか、それとも親鸞の教えだといっている善鸞にしたがうべきか」を聞いてきたとき、はじめて、善鸞がまちがっていることを、彼は確信した。彼は悩み、どうしようかと苦しんだ。その結果、善鸞を義絶しようと決心するのである。
 親鸞は善鸞にあてて、
 「人間が如何に生きるかという根本義について、常陸、下野の人々を迷わし、親にむかって、虚言を申すこと、まことに残念である。第十願をば曲解したこと、人々にその教えを捨てさせたこと、まったく謗法の罪。また五逆の罪を好んで人を背かせ、迷わせることは悲しいことである。とくに、僧侶に戒を破らせるということは五逆の罪の一つである。親鸞に虚言を申すのは、父を殺すことである。このことを聞くのは、非常にあさましいことである。今後は、親と思うことはないし、子と思うことも思いきった」と書き、弟子たちに向かっては、
 「さて、善鸞が説くことに迷わされて、人々が念仏を申されることが、すっかり変わっていると聞いて、まったく驚いています。以前から、人間として最もすばらしい生き方をしていたと思われる人々が、善鸞と同じように間違っていたとは、まったく、驚きです。なぜなら、つゆほどの疑いもないことを信心とはいうのです。…善鸞のような者に迷わされて、動揺し、ついに私が書いてあげた数多くの書物を皆捨ててしまったというに至っては、なにもいえません。まず、善鸞が申している教えをみますと、あのようなことは聞いたこともなく、また、習ったこともありませんから、わたしが善鸞にひそかに教えることもできません。また善鸞に夜も昼も人にかくして、教えたこともありません。もし善鸞に申しておりながら、いわないと嘘をいうとすれば、あらゆる罪を受けたいと思います。いまから後は、善鸞に対しては、子であるということを思いきりました。…」と書いて、親子の縁をきっている。
 親鸞においては、正しく念仏に生きることが大事であり、それがすべてに優先するのである。恐らくそのとき、欲望を断つことなく、欲望に方向をあたえるべく妻をめとり、子供をもうけたことが、このような苦しみ、悲しみとなって、自分にかえったことを強く感じたことであろう。自分が戒を破って生きた苦しみをあらためて思い、そのゆえに、いよいよ、浄土の教えが自分のように、破戒無慙の者のためにあることを思ったにちがいない。彼はそれにつけても、この世の多様であることを思わないではいられなかった。「人々同じ心ではない。だから、とやかく言うことはない。いまは他人のことをあれこれ、言う必要はない」というとき、彼は一種の絶望感にひたっているようでもある。そこから、「一切を仏天にまかすべし」という言葉も出たのであろうし、自分自身精一杯に、その必然に生きるしかなかったのであろう。ここには、どこまでも迷いつづける人親鸞だけがある。常識を否定しながらその常識に従わなくてはならない親鸞の苦悩がある。悟れない者、親鸞がある。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   11 永 眠

 絶望の哲学

  親鸞は永眠するまでの三十年間、京都の地でひたすら、念仏を唱え,念仏に生きた。念仏を唱えることは、人々にすぐれた生き方をさせようと覚者の御心のままに,その行為をなすことであり、念仏に生きるとはその行のなかに自分を没入して疑わないことである。
 年老いた親鸞であったが、筆力はいよいよ冴え、その内面性はますます深いものとなった。その頃の彼の生活を、「目もみえなくなりました。なにごとも皆忘れた上に、人々にもいろいろと言える私ではなくなりました。よくよく、この方面の学生にたずねて下さい」と書いている。
 善鸞を義絶した後は、親鸞には、娘覚信尼のことが老いの身に心配なことであった。それというのも、覚信尼は中年になって孤児をかかえて一人で生きていたからである。彼はそのために、娘のことを常陸の門弟たちに類んでいる。ここにも彼の安定のない、絶望の人としての晩年があった。
 そればかりではない。邪義をめぐって、新しい邪義が善鸞を義絶した後におこったのである。それも善鸞の当時より、もっとまぎらわしい邪義に苦しめられることになったのである。それは一言でいうと、知識をもつことによって人間として最もすばらしい生き方ができるという考え方である。最初にのべたように、いわばいわゆる学問的知識と彼のいう真の知識を混同したことからおきたもので、現在もいわゆる学問をした人がすべてすぐれた生き方をしている人であると、錯覚する人が多いのとにている。いわゆる学問と生き方とは無関係である。仏法的知識を沢山たくわえ、念仏を唱えることがどういうことであるかを正確に知ることと、念仏を唱え、念仏に生きることとは違うのである。そういう知識をもつことは、念仏に生きやすいと言えても、それは同じことではない。この邪義はずっと続き、いまも変わった形でつづいている。彼はこの邪義に死の瞬間まで苦しむことになったのである。その意味で、自分の生命を十二分に生きたが、終生、苦しみつづけた人といえる。
 親鸞は二十年間道を求めて苦しみ、法然のもとにいってもなお十年間は悩み苦しんで、自己の生き方を探求しつづけた。浄土も地獄も彼の想像であり、仏すらも想像から生まれたものである。法を見きわめたものが仏になり、いつかそれは実在のもののように感じたのである。仏はおそらく、彼の実在してほしいと切実に願うことがいつか実在するものになったのであろう。この世こそ、彼にとっての地獄であり、その地獄に片足をつっこんで、それゆえに、一心に浄土を求めたのである。地獄に片足をつっこむとは、地獄と背中あわせに生きているということであり、人間はすべて、その事を自覚しつつ、それゆえに浄土を待望するのである。地獄を知るゆえに、浄土のすばらしさも知ることができるのである。いわゆる浄土のみでは、浄土のよさを知ることはできないし、地獄あっての浄土ということを知っていたのである。地獄と刻々に格闘することが浄土であるといってもいい。悪人たる人間がその悪に気づいて、善人たらんとする所に浄土がある。
 私たち人間は普通常識のままに生きていて、この悪がみえない。だから、邪見、管見というのである。邪見・管見でない法眼をもてるようになることが、念仏に生きることである。地獄をみながら、その地獄に生きることを至上とみた親鸞、地獄のなかにこそ浄土があるといった親鸞の生き方はまことにすさまじいものであった。いわゆる悟りへの道を拒否して、絶望のままに、最も人間らしく生きた彼こそ、「生」の達人であったといえよう。
 親鸞が亡くなったのは、弘長二年(1262年)の十一月で、そのとき、彼の年齢は九十歳であった。覚如はそのようすをつぎのように書いている。
 「聖人は、弘長二年の十一月下旬から、いささか健康がすぐれぬようでした。それからは、世の中の事をいわず、ひたすら法恩の深きをとき、もっばら念仏を唱えていました。そして、おなじく、二十八日のひるごろ、頭を北に、顔を西に、左脇を下にふされ、ついに、念仏の声を終わりました。ときに年齢九十歳に達しておられました。
 住居は、京都の左京、押小路南、万里小路東でしたので、はるか、鴨川の東、東山の西のふもと、鳥辺野の南辺、延仁寺に、なきがらを葬りました。遺骨は、同じ東山のふもと、鳥辺野の北のあたり、大谷におさめました。臨終にあたった門弟たち、親鸞の説教をきいた老若の人たち、皆聖人が世にあったころをしのび、亡くなられたいまを悲しんで、泣かないものはありませんでした」
 覚如とは、親鸞の孫であり、覚信尼の子である。彼はそのことを親鸞の妻恵信尼に報告している。恵信尼が京都に住んだ夫と別れて、なぜ越後に住んだかは明らかでない。
 いずれにせよ、覚信尼、覚如は常陸の門弟たちに守られて、親鸞の墓を番したのである。のちに、門弟たちの寄付により、御影堂をつくり、その敷地、建物を門弟たちの共有にし、現在の東本願寺、西本願寺の基礎をつくったのである。
 親鸞が今日あれば、最初に否定するのが、今日の東本願寺、西本願寺であろう。彼は死後においてすら、悩まねばならないようなことをしたのである。そうしなければならなかった彼、しかしそのゆえに自分の悪は後々までもつづくのである。悪人であることを自覚したのもむりはない。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

     第2章 道 元

   1 素 姓

 道元は親鸞より約二十年おくれて、正治二年(1200年)に京都に生まれた。彼がだれの子であるかは、求道者となり、反逆者となって、新しい価値、秩序、倫理を模索し、生きる者になることとは関係はない。ただ、彼が求道者となり、反逆者となるうえで、どんな求道者となり、反逆者になったか、そして、その親からどんな血をうけつぎ、さらにどんな環境に育って、物心ついたかという点で、その父母とその環境はある程度意味がある。だからといって、それらに特別の意味をおく必要はない。人間だれしも、求道者となり、反逆者となって、親の時代に背くことにより、時代と社会を発展させることになり、はじめて人間らしく生きたということになるからである。兄弟姉妹が必ずしも同じように、反逆者、求道者になるとはきまっていないし、親が常識人だからとて、子供が常識人になるときまってもいない。反対に、親が求道者、反逆者だからといっても、その子は平凡に、常識人の道を歩むこともある。
 道元の父は、一生、政治的権力をほしいままにした源通親といわれ、最も世俗的な人間であった。母は、藤原基房の娘。はじめ、木曾義仲が勢力をふるったときには、基房は娘を義仲の妾とし、義仲が滅んだ後、源通親が勢力をもつと、その力をたよって世俗的出世をしようとして、通親の妾にした。通親の子は多いが、道元のように求道者、反逆者となった者はいない。
 ただ、通親は作文、詩歌にすぐれていたから、その資質はうけついだといえよう。後に道元自身「我れ幼少の時、外典(仏教以外の書物)に秀で」と書いていることからも察せられる。だが、その父も道元の三歳の時に亡くなり、母も八歳の時に亡くなっている。この事実はもの思う年頃にあった彼に深い影響をおよぼしたにちがいない。それに、世の中は、鴨長明が「立っても居ても、煩悩のあだのために繋縛せられたる事を悲しみ、ねてもさめても無常のつるぎの、忽ちに命をたたむこと恐るべきぞかし」と書いたように、平安の日とてなく、闘争を事とするような時代であった。朝廷と幕府の確執は、相変わらずつづき、朝廷の重臣の間、幕府の重臣の間の争いはたえることなく、ますます激しくなったのである。
 貴族社会の子として生まれた道元にとって、父や母は早く亡くなったとはいえ、この俗世間での立身出世は思いのままである。現に、母方の叔父松殿師家は摂政、内大臣の位置にあったが、道元を養子にして、彼を将来、朝廷の重臣にしようとしたことがあるらしい。しかし、彼はこれをことわり、夜中ひそかに、これまで住んでいた木幡の山荘をのがれて、比叡山の良観のもとに身をひそめたのである。彼の十三歳の時であるという。良観は同じく、母方の叔父で、当時は法印であった。母方の叔父で僧侶になった者は多く、彼が僧侶になったのも、そういう母方の雰囲気が影響したためといえよう。
 しかし、当時は失恋したといって僧侶になる者や、俗世間での出世にみきりをつけ、僧侶の世界での出世を夢みて、僧侶になる者が多くて、僧侶の世界も一般の俗世間と同じく俗化していたから、僧侶になることが必ずしも求道者、反逆者になることではなかった。
 道元が良観をたずね、出家したいといいだしたときも、道元のなかに、求道者、反逆者を深く意識したものがあったとも思えないし、軽い意味で、俗世間から逃げたいと考えていたにすぎないであろう。俗世間より別のところに、自分の「生」をみいだしたいと思ったとき、幼い彼には、僧侶となった叔父たちの世界が思われたにすぎないであろう。まだこのとき、出家することが求道者、反逆者になることであり、それによって、叔父たちに背くことであるとは、露ほども考えなかったにちがいない。彼がいっているように、「母の遺言で、出家して、その後世を弔おう」と考えたのかもしれない。
 いずれにせよ、道元は出家し、求道者、反逆者への道を大きくふみだしたのである。その地は横川六谷にある般若谷の千光房である。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   2 修 行

 めさめへの旅

 道元が比叡山にのぼったのが、建暦二年(1212年)、その時の天台座主は承円、その後、慈円となり、公円と変わっている。この公円の時、彼は髪をそって、一応、形式的に出家し、公円より菩薩戒をうけて、僧侶になっている。しかし、彼はこの時は、単に普通の意味での僧侶になったにすぎなかったのである。
 それでも、道元は公円について、僧侶としての修業を本格的に始めた。しかし、僧侶の世界は彼の要求するものをまったくといってよいほどもっていなかった。すなわち、彼が比叡山に登った建暦二年は、新制二十一ヵ条がでて、諸寺の濫訴、僧侶の濫行、兵杖を禁止し、僧侶が武装化するのをとめようとしている。
 このような僧兵の武装化に加えて、天台教団は、円仁を祖とする慈覚門徒と円診を祖とする智証門徒とに分れて対立し、天台座主の位置をめぐり、争いをつづけた。正暦四年(993年)には、天台教団は山門・寺門に分裂し,その後両寺ともに、門閥化が進み、庶民出身の者はしめだされて、仏法本来の姿は次第に影をひそめるようになったのである。いまや、僧侶の世界はまったく俗化し、出家が求道者であり、反逆者であると思う者はほとんどいなくなった。
 この影響のもとに、いまでは、まじめに僧侶としての修行をする者もいない。親鸞が比叡山における二十年の修学を捨てて、省みなかったのもそのためである。道元とて、その思いは同じであったろう。だが、彼には、一応そのことを身に感ずるまで徹底的に修学してみる必要があった。比叡山はくさっても鯛であり、そこを去っても、日本にはどこもゆくところがなかったのである。
 道元自らいうように、「天台の宗風、南天の祕教、大乗小乗の義理、顕密の奥旨」を一生懸命学んだし、学んでいる間に、いつしか人々が日本の名僧、知識といわれるようになりたいと思っているのに同化されていったのである。日本で名僧、知識といわれていたのは、必ずしも、人間として求道者、反逆者となり、一心に新しい価値、秩序、倫理を追求している人とは限らず、単に立身出世した人をさしていた。彼はいつか、このような修学態度を身につけていたのである。
 普通道元の出家の動機を無常観のようにいう者は多いが、実際には、その動機はこのように他人の態度に影響されるほどにあやふやなものであった。
 だが、その道元にも、彼らしい真面目にめざめる時がまもなくきたのである。それは中国の『高僧伝』、『統高僧伝』を読む機会にめぐまれ、心から、彼らがどうして出家したかについて、考えるようになったからである。そのことを、後年、
 「中国の高僧、仏法者といわれている人をみると、いまの私の接している先生の教えとは異なっている。……ひとしくありたいと思っても、この日本の人よりも、中国の先達、高僧のようになりたいと思う。あるいは、覚者のようになりたいと思うべきである。このことを考えるようになってからは、この日本の名僧、知識といわれている人は土瓦のように思われて、いままでの考えをあらためた」と書いている。
 道元はこれまでの学習態度を反省し、中国の高僧にあこがれはじめるとともに、やっと、自分が求道者、反逆者になることを、真剣に考えだしたのである。いずれにせよ、彼は名利の念をはなれて、あらためて、熱烈な求道心をもって、書をよみ、仏法を求めはじめたのである。

 修行はなぜ必要か

 こうして、道元がいだいた疑問は、「すべての人間は本来仏性をもっているというのに、なぜ発心して修行しなければならないか」ということであった。この疑問をいだいて、彼は転々とした。だが、誰一人として、比叡山では彼の納得できるように説明してくれる者はなかった。わかっているようでわかっていない、この問題にまともに取組む者は、対立、内紛にあけくれる比叡山には、もういなかったのである。彼は深くそのことに絶望した。
 たまたまこのとき、清水寺の所属をめぐって、延暦寺と興福寺が争い、また日吉の祭りのことから、比叡山と三井寺が争うというありさまで、いよいよ、道元の疑問に縁遠いのが、当時の寺のようすであった。比叡山を下ることが出家であると巷にささやかれているのが本当であると彼も思わないではいられなかった。
 かくて、道元はその疑問の解決を求めて、比叡山を去ることにきめ、諸国を流浪する旅にでたのである。最初にたずねたのが、三井寺の座主公胤である。三井寺は寺門派であり、山門である比叡山とは対立する間柄。しかし、彼にとって、その疑問を解決するためには、そんなことは関係がなかった。
 公胤は道元の問いを前にして、彼の満足のいく答えをすることはできなかったが、その時栄西に会うことをすすめている。彼がその言葉にしたがって、栄西に会ったかどうかは不明であるが、会ったとしても、彼は若輩であり、栄西は七十歳以上の老齢であり、果たしてどれほど栄西から吸収したかは疑問である。彼の諸国遍歴の旅は、建保五年(1217年)建仁寺の明全の弟子となるときまでつづいている。明全は栄西の弟子であるが、その師栄西は、二度宋にわたったほどの人物で、識見、智略のある人で、非常に卓越した人である。しかし、妥協的なところもある人物で、これが若い道元のあまり気にいらないところでも会ったろう。若いときは、なによりも妥協をきらうものである。彼が栄西と会ったとしても、なお旅をした理由もそこにあるかもしれない。 それに対して、明全という人は、師とちがって、妥協がなく、初一念を貫く人であった。一例をあげると、明全が入宋(入中国)するときになって、明全の師明融の病気が重くなり、明融も明全の入宋をやめて、病いを看護し、死後をとむらってほしいと要請した。明全の弟子たちは明全が幼少よりうけた養育の恩をのべ、明融の言葉に従うべきであると異口同音にのべた。
 このとき、「明全は、各々の意見は皆とどまるようにということである。私の考えはそうではない。この度、留まったとしても、死ぬときまった人は死ぬであろう。また私が留まって、看病したといって、苦痛がなくなるわけではない。ただ、師の心をなぐさめるだけである。これは求道にとってはすべて関係がない。あやまって、私の求道心を抑えるなら、これほどの罪はない。もし、入宋求道をなしとげて少しでも道を得るなら、世の中の常識にそむいても、人々を正しい道にひきいれることができる。師の恩もそれによって達せられよう。たとえ、途中で死んで本意をとげなくても、求道のために死するなら、思いのこすことはない」といって、入宋を敢行したのである。
 文字どおり、死をかけて、我が心に生きる人であった。

 宋へ

 だから、道元も、「ひとり無上の仏法を正伝せり。あえて私のような者の比ではない」といって、明全を非常に尊敬している。彼らが宋入りを決行するには、なお数年を要している。いまなら、中国ゆきも簡単であるし、安全であろうが、その当時の渡海は大変であった。まさに生命をかけた行動そのものであった。自分の全存在をかけ、生命がけで道を求めるということは、いい易くして、行なうことはむずかしい。
 明全にしても、道元にしても、その決心をかためるには、よほどのことが必要であったろう。到底、軽々しく決定できることではなかった。決心するまでに、数年を要したことも理解できる。だが時日だけでは、彼らの決心はかたまらない。この時、たまたま、承久の乱がおき、いよいよ日本に絶望する思いが強まったのである。彼らはこの戦いをみたとき、いよいよ真理に対する憧憬を強めたばかりか、その真理は日本にはなくて、宋にはあるらしいと思ったのである。それをさぐって日本にもちかえる以外に、日本に光明は訪れないというのが、その時の彼らの思いであったろう。人はともすれば、彼の俗縁にある人たちがこの戦いで地位を失ったことを考えるが、そんなことは彼には関心がなかったに違いない。自分が求道者、反逆者となる以外、日本はよくなるまいというのが、彼の思いであったろう。
 しかも、道元は若く、その情熱はもえたぎっていたといえよう。こうして、彼らは博多から船にのったのである。想像していたように、船はゆれつづけ、まったく生命がけの旅であった。道元二十四歳のときである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   3 念仏への絶望

 ここで、道元が宋の仏法に心からひかれるようになった、重要な契機のことを述べなくてはならない。彼が比叡山を含む旧仏教諸派に絶望し、『高僧伝』などをとおして、宋の仏法にひかれたことは先述したが、同時に、仏教改革運動をおこした法然の説くところにも満足できなかった、ということである。念仏を唱え、念仏に生きることを説いた法然、それは親鸞が人間は本来悪人であるから、仏の絶対慈悲を信じて、それにたよる以外にないと教えるものと違っていたが、法然の教えにも満足できなかった。
 なぜ満足できないかについて、道元は、「我が日本国には、昔からいままで、まだ本当に正しい生き方を教える師はでていません。…我が日本国で、昔から今日までの師といわれる人たちがまとめた書物で、この世の中や宇宙について説いたところをみると、その言葉は生半可であり、未熟そのものです。仏法を学ぶ者にとって最高ではありません。まして最高の法則をつかんでいません。ただ仏典の文句を教え、仏の名を唱えさせるだけで、夜も昼も、他人の財布の銭勘定するようなもので、自分には少しの取り分もないのです。昔の人が責任をとわれねばならないのはこの点です。またある者は、自分が悟りに生きることより外に仏の悟りを求めさせたり、ある者は人に西方浄土を求めさせます。惑と乱れはここから起こります」といい、また、
 「仏典をよんだり、念仏を唱えることの効果を君は知っているか。ただ舌を動かし、声をはりあげるのを人間のすぐれた生き方と思っているのは、実にたよりないことです。これを仏法だと思ったら、仏法はいよいよ遠く、はるかかなたのものになります。…おろかにも千遍、万遍の唱えをなし、ひっきりなしに口を動かすことによって、仏法を把握したように思うのは、丁度車の方向を北にむけて、南方の越の国に行こうとするようなものです。仏典をよみながら、修行の方法がわからないのは、丁度医書をよんだ人が調剤を忘れるようなもので、なんの益がありましょう。ひっきりなしに口を動かして念仏するのは、春の田の蛙が夜となく昼となく、鳴きたてるようなものです。いくらやっても到底益はありません。ましてや、名誉、利益を求める心で深く迷っている人々は、それを捨てられません、そもそも利益をむさぼる心が特別に深いからです」と書いている。
 法然は念仏を唱え、念仏に生きることにより、しだいに人間が悪いことをしなくなり、すぐれた生き方のできる人間になることができるといったが、道元にはそのように思えなかったのである。念仏に生きる人間をみても、相変わらず、名誉、利益を血眼になって追求しているし、殺生、虚言もいままでのようにおかし、いっている。法然がその教えを説きはじめて、相当の年月が経過しながら、世の中が少しも良くなったと、いうことがみられない。
 道元からみたとき、法然やその門弟は錯覚におちいっているとしか思えなかった。あるいは、自分だけがそれによって、救われると考えているとしか思えなかったのである。とても、念仏を唱えるだけでは、世の中は変わらないと思った。法然自身は念仏を唱えることで、人々が正しい生き方のできるように、人々と一緒に考えたいといって、徐々に正しい生き方をするようになっても、その教えをきく人々はそうなれない。そうだとすれば、この教えには欠陥があるといわなくてはならない。
 こうして、道元は法然にもついていけず、あらためて、自分でいかに生くべきかを模索しなければならなかったのである。その時、『高僧伝』や『続高僧伝』で、わずかに知り得た中国の人たちの生き方、修行のしかたを思わないでいられなかったし、直接自分の限でたしかめ、自分自身体得してみようという心は非常に熾烈になったということがいえる。
 道元にとって、新しい真理を体得し、理想に生きる自分自身となるためには、生命をかけてもいいことだった。生きるということは、求道者になり、反逆者となって生きることで、それ以外の「生」はなかったのである。妥協して生き、流されて生きることには、彼はがまんができなかったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   4 宋(中国)

 老僧との会話

 道元は貞応二年(1223年)四月、宋の慶元府の沿岸についた。同行した明全は、すぐさま上陸して、景福寺にゆき、ついで、太白山天童景徳寺に入門したが、道元は、上陸はできたものの、約三ヵ月間は船のなかにとどまらねばならなかった。その理由はあきらかでないが、彼にはよほどショックであったらしい。加えて、宋の仏法にあこがれて訪れながら、その地の仏法もそれほどではないらしいと感じたこともショックだった。とりわけ宋の僧侶はたえがたいほどに口臭を発して、漱口、刮舌などのしきたりをまったく知らないのには、期待が大きかっただけに、失望もまた大きかった。しかし、生命がけで宋にきた以上、このままかえることもできない。自分の眼で親しくみる以外にない。
 当時、中国は蒙古、金、西夏、南宋の四国が併存し、複雑な対立関係をつづけていた。中国に坐禅によって生きようとする思想がインドから伝わったのは、後漢の時代で、その後、紆余曲折があったが、この時代までに、禅は七つに分れて発展し、この時代は、とくに臨済宗大恵派が全盛期の時代であった。
 道元はだから、この時代に最も盛んで、自分が学ぷにたるものはどれであるかと見きわめるまで、かなりの日数を要している。彼は非常に慎重である。その間、こんなこともあった。
 六十歳ほどの一老僧が道元ののってきた船にやってきて、「自分は阿育王山の食事を司る役をしている者で、今年六十一歳だ」という。「今朝、阿育王山を出発したが、品物を買ったら、また二十粁の道を歩いて、かえるのだ」ともいう。道元は老僧がわざわざやってきたことに感じた。そこで、お茶をのみながら、なおも語りあった。
 道元が、「今日偶然にお会いした。今晩はぜひ語りあかしたい」というと、その老僧は、「それはできない。明日は私が食事の世話をしなくてはならない」と答えたのである。そこで、道元は、「あなた一人くらいいなくても、どうということはないのではないか」と思ったままをいった。すると老僧はきっとなって、
 「とんでもない。私にとってこれが大事な仏法修行である。人にまかせるなんてできない」と答えた。道元が、さらに、
 「あなたは、もうかなりの年である。静かに、勉学して、仏典をきわめたらよいのではないか。いつまでも、食事を司る役に恋々としている必要はないのでないか」といわざるを得なかった。その言葉に対して、老僧は、
 「あなたは勉学のなんたるかがわかっていない。文字のなんたるかもわかっていない。他日、阿育王山においで。勉学について話しあおう」と答えて去っていった。道元はその言葉にもう一度感動した。彼は短気をおこして、中国の仏法をみすてなかったことを喜んだ。あらためて、自分でじっくりとたしかめる必要があり、表面だけをみて、結論を出してはいけないと思った。
 こうして、道元は、大慧派の天童山景徳寺の無際了派をえらび、その下で修行することになった。当時、修行者の首席は知明という人で、寺務を総括する役にあったのは、師広という人であった。彼はそのなかの師広とはとくに親しかった。寺には、数千人がいて、みな必死に修行していた。船で会った阿育王山の一老僧はわざわざ天童山の道元をたずねてくれ、二人は勉学について語りあった。彼が、
 「どういうのが、勉学であるか」
と問うたのに対して、老僧は、
 「森羅万象そのものが真理である。すべてのものから勉学できるようにならなくてはならない」と答えるのであった。
 また、道元が法会を終わって、東廊を通ったとき、一人の老僧が苔をほしているのにぶつかった。たまたま夏の日で、灼熱の太陽がてりつけ、土地は焼けるほどに熱をもっていた。者僧は笠もかぶらず、流れる汗もかまわず、一心に苔をほしている。なかなか大変であるようにみえた。みるにみかねて、道元は、
 「どうして、あなたは人にやらせないのか」と問うと、「人は自分ではない」という答えがかえってきた。重ねて、彼が、
 「あなたの努力には感心します。しかし、この熱さに、どうしてそんなに苦しむのか」とたずねた。すると、かの老僧は、
 「他の時をどうしてまてましょう。今日ただいまが修行するときです」といったまま、働きつづけたのである。
 先の老僧といい、いまこの老僧といい、勉学のなんたるかを知っている。道元はいま、このような、名もなき老僧のなかに、仏法は生きていると思わないではいられなかった。彼は中国の仏法の底知れない深さを知って、感動をあらたにするのであった。
 さらに、粗末な衣服をまとい、一心に修行にはげむ僧にもであった。その僧は、「故郷が遠い。かえっていると、その間に月日が空しくすぎて、勉学がそれだけできない」といって、修行をつづけるのである。

 師をもとめて旅立つ

 このような事実をみて、道元の修行に熱のはいらぬ理由はない。彼の勉学も日に日に進んだ。そんなわけで、道元は一生懸命、古人の語録を読んで勉強していた。そこに、一人の僧がやってきて、彼に問答をしかけてきた。彼はそのことを『随聞記』につぎのように書いている。
 「私に問うていう。古人の語録をみて何の用にするのか。答えていう。古人の行動を知りたいためである。僧がいう。何のためか。私はそれに答えていう。故郷にかえって人々を教化するためである。僧がいう。何のためか。私は利生のためであると答えると、僧はさらに、畢竟して何の為であるかと問うのである」道元がともすれば、文字、知識にとらわれ、学問僧になろうとするのをいましめたのである。修行僧の目標は仏法をいろいろと知ることにあるのでなく、求道者、反逆者として、現代のあるべき仏法を行ずるところにある。僧はそのことを彼に教えようとしたのである。
 道元はそれによって、その境地をますます進める。それとともに、彼が異常に関心をしめしたのは、師から弟子に直接伝えるということであった。普通これを嗣書といったが、それによって初めて、釈迦の教えが今日に誤りなく伝わっていると考えたのである。彼は嗣書をみることによって、この厳粛な事実にふれ、自分の境地をたかめたいと考えたことである。 道元はその点で嗣書を閲覧することを日頃から心がけていたが、その念願をかなえる日は意外に早くやってきた。それは、楊岐宗の伝蔵主という者がもっていた同宗の嗣書をみることができたのである。
 ついで、道元がみたのは、雲門宗の嗣書である。それは智明に代わって、その位置についた宗月という者にみせてもらったものである。最後は、臨済宗大慧派の無際了派の嗣書で、そのときの感動を彼は「喜感いくばくぞ。すなわち仏祖の冥感なり」と書いている。
 道元はこの嗣書をみているうちに、自分も必ずすぐれた師に会い、その人から直接に仏法を正伝されるようになりたいと思ったにちがいない。すなわち自分もその嗣書に名をつらねるほどの人になりたいと切望するようになったということである。
 この後、まもなく、無際了派がなくなり、道元はこれを機に、真の師を求めて諸国遍歴の旅にたった。それというのも、当時の中国の禅は、いくつもの派に分れていたが、その派にとらわれず自由に師を訪ねて求道し、自分にぴったりしたとき、その師から正法をうけるならわしであったからである。だから、どの派を称するかは、その師の宗派によるのが常であった。また、師の伝授をうけた後も、師の寺に固執することなく、自由にふるまい、自分の禅をたかめるように努力したのである。しかも、いままで道元の師事してきた臨済宗大慧派は最も盛んであったが、それを学んでいく間に、この大慧派は権門との交流が強く、俗化の傾向も同時に盛んであることに気づいたのである。
 道元が大慧派をすてて、新しく師を求めて旅だったのもむりはない。

 

                    <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   5 曹洞宗

 如浄との出会い

 道元が無際了派を自分の正師にできなかったのには、いま一つの理由があった。彼は大慧派の始祖である大慧宋杲もその弟子拙庵徳行もともに口をきわめて、非難している。無際了派はその拙庵徳行の弟子であり、無際了派には教えをこうたということもあり、直接に非難はしていないが、親しく接しているうちに、前章に書いた事実を知るとともに、無際了派にもあきたりないものを感じはじめたのである。ただ彼は、一度教えをこうた以上、できるだけ無際了派からも吸収しようと考えていたに相違ない。だから、無際了派の死は、彼にとって、天童山を去るよい口実になったともいえよう。
 道元はまず杭州府の径山万寿寺にいたり、無際了派と仏法の兄弟である浙翁如
エンに会い、問答をかわしている。しかし、ここでも、彼は世俗に追随し、名誉や財産にあこがれる風潮にそまっているのをみた。いよいよ、大慧派に絶望して、山をおり、つぎに、天台山の万年寺に行く。当時この寺の住持は元サイで、彼は元サイと宗風について、いろいろと問答をかわし、その後、元サイに嗣書をみせられたのである。自分の弟子たちにもみせたことのないという嗣書をみたときの道元の感動がいかに大きかったかは想像できよう。それから、小翠岩の磐山思卓にも会い、鎮江の能仁寺を訪れる。彼の歴遊した土地はかなりの広さであった。だが彼はこれと思う師にめぐりあうことができず、一度は日本に帰ろうと考えたほどであった。
 しかし、たまたまそのとき、一老僧から、「如浄こそ、この中国では最高の具眼の達人である」と聞くのである。そこで、如浄のいる天童山にいそぐことになった。というのは、天童山の景徳寺の住持は無際了派のなくなった後に、曹洞宗の如浄があとをついだのである。先にも記したように、臨済宗の無際了派のあとを、曹洞宗の如浄がついだのみでなく、当時曹洞宗は世俗に近づかず、厳格な宗風を維持していた。彼が大変喜んだのもむりはない。
 道元が正式に如浄にまみえたのは、宝慶元年五月一日のことである。彼は如浄に会うまえに、一通の手紙をさしだし、どうして中国にきたか、仏法を求める心のいかに切実であるかを述べた。如浄はこれに対して「自由に入室して質問してよい」と答えたのである。非常に厳格そのものの如浄から、このようにいわれたということは、一目みて、如浄は彼の求道のなみなみでないことを感じとったためであろう。彼が求めつづけた真の師にめぐりあったという感激はどんなであったろう。
 如浄という人は、十九歳の時、求道の道を歩み始めて各地に真の師を求めて転々とした後に、やっと曹洞宗の足庵知鑑に会うことによって、いかに生きるべきかということを体得した人で、年とるにつれて、いよいよ弁道工夫の猛烈な修行をつづける人であった。その間、世俗に近よらず、皇帝から禅師号をおくられても、それを問題にすることなく、常に禅的真理を追求して、それに生ききろうと心がける僧であった。その点では、世俗化した当時の僧のなかで、珍しい存在であったといえよう。
 道元はその喜びを、「師の正邪によって、生き方にも真と偽がある。…正師に会わなければ、学ばない方がよいともいえる。一体、正師とは年齢をとわず、ただ正しい生き方を体得して、その先生から印授をうけたものである」と書いている。だからこそ、如浄も彼との出会いを釈迦と摩訶迦葉、達磨と慧可、弘忍と慧能、雲巌と洞山の出会いに比するほどに重視したし、法の授受は覚者である人から、直接、覚者である弟子に伝えたもので、なくてはならないともいったのである。
 そのゆえに、如浄の指導はとても厳しく、如浄が先頭にたって、夜は十一時半頃まで坐禅し、朝は二、三時頃より起きて坐禅をくむというありさまであった。その間、弟子たちのなかに、眠そうな者がいると、こぶしをもって打ったり、くつでたたいたり、さらには、鐘をうって、弟子たちの怠慢をいましめた。なかには、坐禅の時間を縮めてほしいと願いでる者もいた。そうすると、如浄は、「無道心の者は、たとい、僧堂にあっても、眠りたい時にはそのまま眠るといい。だが、道心のある者は、坐禅の長い程、喜びも大きいものである」ときまって、いったものである。また如浄は、「私はあなたたちを教え導く師として、あなたたちの愚見、戮見を正すために、住持となっているのです。そのために、ある時は叱り、ある時は竹の鞭でたたくときもありますが、それは大変なことである。しかし、これは仏にかわって、みな様に正しい生き方を学びとらせるための儀式にもあたるものです。あなたたちもこのことを知って、私の指導をうけいれてほしい」ともいった。

 坐禅の真髄

 道元もこうした雰囲気のなかにあって、捨身の修行をつづけたのである。その修行を後に「私は中国の如浄のもとで、禅的真理を求めて、日夜坐禅にとりくんだが、ほかの人たちは極熱には病気になるといって、しばらく坐禅をやめたものである。私はその時たとい病気になって死んでもいいから、修学しようと考えた。病気にもならないように、この身をいたわってもどうということはない。病気して死ねば本望であると考えたものである」と書いている。如浄も彼の修学の態度に感動し、いよいよ師弟の交わりを深めたのである。二人の間の温情もますます深まった。
 あるとき、如浄は道元に、
「釈迦の説くところは、たとい広く説いても略して説いても、法をきわめつくし、法を説かないことはない。また釈迦の坐禅も説法もみんな法をきわめた人のなすことで、そこに絶対の意味がある」と教え、坐禅については、
「釈迦の坐禅というのは、求道心をおこしてから、一切の法をきわめんとされたことである。ゆえに、坐禅する時は衆生のことを忘れず、衆生のことを捨てず、それだけでなく、昆虫の上にも慈悲の心をもち、それらすべてを生かしきろうと思うことである。このゆえに、仏たらんとする者は常にこの世にあって、修学する。常に修行して、心が自由であることを欲するからである」と教えたのである。如浄は釈迦の教えを絶対に信ずることであり、坐禅は自分と他人を同時に生かすものでなくてはならないというのである。
 さらに、如浄はつぎのようにも教えた。
「坐禅は身心脱落で自由そのものである。これは、焼香とか礼拝とか、看経でなくて、ひたすらに坐禅することである。また身心脱落とは五欲を離れ、五蓋を除いて、法そのものを体得して、真に自由になることである」と。すなわち法と一体になることが自由を得ることであり、それが身心脱落の状態になることであるというのである。
 あるとき、如浄は坐禅の最中に、眠っている僧をみつけて、「坐禅は身心脱落を求めるもの。それなのに、眠っていてどうなるのか」と叱咤した。その声を聞いた道元が法を体得して自由そのものの境地に到達したのである。彼はついに、法そのものにまで到達したのである。如浄は大変にそのことを喜び、かくて、彼は如浄から仏仏正伝の印授をうけることになったのである。彼はいまや釈迦の教えをそのまま伝授されるものになったのである。文字どおり、如浄の嫡嗣となったのである。
 だが、道元はなお天童山にとどまって、一度法そのものを体得して、自由になった境地をいよいよたしかなものにしていった。その後各地を歴遊して、宝慶三年(1227年)に、日本に帰ることになった。
 かつて、嗣書をみることを無上の喜びとした道元がいまでは嗣書そのものに名をつらねて、曹洞宗そのものを日本にもって帰ろうとするのである。如浄ははじめ、自分の志をつぐ者として、宋に長くとどまるようにと求めたが、彼の、日本に帰って衆生済度の願望のなみなみでないのを知って、帰ることを許した。
 道元は、中国に、生命をかけて道を求めた目的を達したのみでなく、いままで日本には本当にすぐれた生き方を人々に教える者はいなかったのに、いま自分がそのような人になったという誇りと自信をもったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   6 坐 禅

 『普勧坐禅儀』

  道元は五年間の宋旅行を終えて、日本に帰った。当時の日本の政治や、社会情勢は相変わらずひどいもので、天災地変は多く、世俗的権利は安定しないままに、動揺をくりかえしていた。僧侶の世界は依然として、対立抗争をつづけ、求道者、反逆者の真骨頂はどこにもないというありさまであった。法然の改革運動も光明のないままに、いよいよ対立抗争を深めるというのが当時の状態であった。
 道元ははじめ帰朝した当時、建仁寺にあって、旅行中天童山でなくなった明全のとむらいをしたり、亡き栄西に帰朝の報告をしたりしていたが、彼のなかでは、日本の現状を思うにつけ、いよいよ人々を正しく生かそうとの念願が強まっていくのをおぼえた。同時に自分のみが、釈迦の教えをそのまま受けついでいるという自信と誇りが大きくなっていくのをどうすることもできなかった。
 長い間、仏法をいろいろと説く者は数多くいるが,道元のように、直接釈迦の教えをきいて、釈迦の教えをそのままに行じてみせる者はこれまでにいなかったのだと思うとき、彼としては一刻も早く、釈迦の教えを人々に知らせたいと思うのであった。その思いが結集してできたのが『普勧坐禅儀』である。『普勧坐禅儀』は彼が人間はいかに生きるべきかを、初めてのべたものといってよい。
 そのなかで道元は、
 「そもそも、真理というか法というか真実の道は本来相対の世界を超えているから、あらゆる所にあるものです。あらたに修行してみきわめる必要のあるものではありません。私たちが従っている法は特別のものではありません。ただ知らないというか、気づかないだけです。このように、法はどこにもあるもので、私たちは常に法にしたがっているのです。しかし、私たちは生まれて以来、ずっと、管見、愚見、戮見などを身につけて、真理即法をみぬく力を失っているのです。私たちに必要なことはそれらを取去って、真理即法をみうるようになることです。そのためには坐禅することです。
 かの釈迦も六年間坐禅をしたし、達磨もその法をつかむために九年間坐禅にとりくんでいる。古聖人でもそうしたのである。どうしていまの人がしないでよかろう。所以に、言葉をたずね、知識を追求するなどの末梢的行為をやめて、坐禅に一心にとりくむことである。そうすれば、自然に法を会得して、自由になり、人間本来の姿になることができよう。坐禅は、静かな部屋で食事もほどほどにし、世俗の考えをたって、法そのものに全心身をゆだねること、法はしだいにわかってくるであろう」
 といっている。
 道元はなによりも、そのなかで、法そのものをつかめるようになるのは、坐禅をして、世俗的常識をたつことであると強調するとともに、この坐禅はどんな人間にもできる、たやすい行為であるから、人々がそれをやらなくてはならないといったことである。彼はおそらくその時法然の徒がただ念仏を唱えるだけで、少しも人間が変わらないことを考えていたことであろう。法然がいかに変わるといっても、現実には変わっていないことに、この上なく不満をいだいたのである。
 だから、後に、極楽寺あとに移ったとき、『弁道話』を書き、そのなかで、
 「この法は人々のうえに豊かにそなわっている。しかし、いまだ修行しない者には、法はみえないし、法を証明できない者にはつかめない」といっているのである。
 いずれにしても、道元は坐禅すなわち右の足をもって左の
の上にのせ、左の足を右のの上にのせる結跏趺坐と、ただ左の足をもって右のをおす半跏趺坐をすすめており、これが人間にとって、最も楽な姿勢であるといったのである。
 法然は念仏をただ唱えることを易行道としたが、道元も坐禅を易行道としたのである。男であろうと女であろうと、世俗的に賢い人であろうと愚かな人であろうと、だれでもとりくもうとすれば容易にとりくめるとしたのである。
 建仁寺で第一声を発した道元だが、その後まもなく、山城の深草に移っている。それというのも、当時の建仁寺は、彼も、
 「近来仏法の衰えいくさまは眼前にある。私が最近の建仁寺をみるとき、各々美服を好み、財物を貯え、みだらな言葉を好んでいる」といい、さらには、
 「世の中の男女は老いも若きも、すべて、性欲の事を好んで談じている。こうすれば、心をなぐさめるというのである。たしかに、一度は満足するようにみえるが、僧たる者は最もつつしむべきことである。…近頃の建仁寺の人々はこれらのことを語るのが普通である。まったく乱れているというほかない」ともいっているように、彼がいかに建仁寺の雰囲気を求道者、反逆者のそれにしようとしても、どうにもならないと考えたためである。それに建仁寺には、典坐職というものがありながら、名だけで、とてもこれによって、法をあきらめようと考える人はいないと知ったからである。一言でいえば、絶望したのである。

 比叡山からの迫害

  いま一つは、比叡山僧の道元に対する迫害であろう。法然は古き仏教に対して、新しい仏法を提唱することによって迫害をうけたが、彼もまた新しい生き方を提唱することによって迫害をうけたのである。安直に古いものに流されて、古いものをそのままにまもろうとする者は、それに疑いをいだき、新しい生き方をしようとする者を憎むのは、昔もいまも変わらない。
 道元が「仏法が衰えるのは世俗に従うためである。常識に従うときは、真の智慧に遠ざかる。常識が常識であることを知らせるのが、真の智者であり、常識に従うのは本当の馬鹿である」とか「権力者に近づかず、権力者にまみえない。また大臣と親しくせず、役人とも親しくせず」といったことは、まったく彼が求道者、反逆者に徹し、仏法に生きることは、世俗的常識を否定して生きることであると信じきったためである。比叡山僧の迫害はあるべくしてあったもので、むしろ彼の歓迎するところであった。
 深草に移った道元はいよいよ法を求め、法に生きることにつとめたが、他方では、ようやく、彼の教えをきこうとする者もしだいにふえていった。ここで先に記した『弁道話』を著わしたのである。
 道元は、そのなかで、
 「釈迦がまぎれもなく、法をみきわめる方法として、坐禅を伝えられ、過去から現在まで、仏といわれるほどの者は、みな坐禅によって法をつかんだのです。そういうわけで、坐禅が正しい方法であることが代々伝わってきたのです」
 「ただ、だまって、まっすぐに信ずることのできる聞法者だけが、法をつかむことができるのです。信じきることのできない者は、かりに教えたとしてもだめです」
 「また、仏法を伝えるには、必ず法を知り、法をみきわめた人を師とすべきです。文字の奴隷になり、知識のみに汲々としている仏教学者は師としては不十分です」
 「生まれて死ぬ。この事実がそのまま法です。よくよく知ることです。仏法では、生まれて死ぬという事実のほかに、法をとくことはないのです」
 「仏法では、正法、像法、末法という差別はありません。修行すれば、すべて法をつかめます」ということを説いている。
 ここに書いていることは、普通、道元の思想と思われているのと違って、私たち一般人の生き方に身近かなことを書いている。決して、道元という人は私たちに縁遠い人ではないということを知っていただきたい。彼のいう法そのものが、私たちがそのなかで生き、それに従って生きねばならぬもののことをいっているのである。ただその法を知らぬために、悩み、苦しみ、不自由を感じているにすぎない。法とは宇宙を支配している法則であり、人間を支配している政治的、経済的、社会的法則であり、それらに対して、あるべき法則を追求して、それらに従って生きるものが法なのである。だから法をみきわめることにより、人間は自由でもあるし、解放もされるのである。幸福な生活もできるのである。この法をみきわめたものが仏であり、覚者であり、真の知識人でもあるのである。それ以外に、仏も法もない。普通ともすれば、仏といい、法というとき、なにか特別のものであるかのごとく錯覚している。ここでもう一度、道元のいう仏、法を正確に知ることである。

 

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   7 布 教

 修学の心得

 道元は『弁道話』を書いた後、天福二年(1234年)に、今度は『学道用心集』を著わしている。これより先、彼は、興聖寺を建立し、安養院から移っている。それも、彼の教えを聞こうとする者がいよいよふえたためであろうし、その人々に「学道の用心」を説くために、『学道用心集』を書いたのである。
 道元はまずそのなかで、求道者、反逆者になるための第一の資格は、それを全身で求める心をおこすことであるといって、
 「この世の中で、地位も財産も生命さえも、常住でないと知ることです。そうすれば、真理を法を求める心がつよくおこります。…名誉や利益を追い求める心のあるうちは、真理や法を求める心はおこりません」といっている。そのような心をおこすことが第一だというのである。しかし、世の中には、求道者、反逆者たらんとして、実は地位や財産や生命の無常をみきわめないため、偽の求道者というか、常識と真理の両方に足をつっこんでいる。覚悟があまりにいい加減である。
 つぎに道元は、真理を求めるにあたり、
 「いまの世の人が、やさしい修行をしようといっていますが、この言葉は非常にいけない。法を求めるのに最も反しています。……釈迦ですら難行苦行して、やっと法をつかんだのです。法を求めることがやさしいわけはありません。(参考)…法を師にきくときは、我見をすてて、姿勢を正して、眼や耳の入るところから素直にうけいれるようにすることです。ただひたすら師の法をきくのです。一切ほかのことをきいてはいけません。生まれて以来、身についた常識をふりすてることがむずかしいのです」といって、法を求めることの困難を強調している。困難をさける者には、法を求める資格はないともいうのである。
 また、道元は、真理を求める者に、
 「法を求める者は、なにがなんでも法を信じなさい。法を信ずる者は、迷うことなく、妄想することなく、法が厳然とあることを知りなさい。そして、大事なことは、法を正しくみきわめた師について、法をきくことです。世の中には、法をみきわめないで、師づらをしている者が多いし、また法だといつわっている者も多いのです。…法をみきわめないで、不自由のまま、解放されないまま、人間は生きることができるのです。それは本当に生きたということになりません」
 とも教えている。
 それゆえに、道元が興聖寺に移った後、彼はあらためて、人々をして、法を求め、法に生きさせようとしているのである。その行動は非常に能動的となっている。

 釈迦の再来

 『正法眼蔵』の第一章現成公按を書きはじめたのもこの頃であり、懐弉が道元に弟子入りしたのもその前後である。懐弉は道元より二歳年上で、仏教学に精通していた僧である。それが彼に弟子入りして、門弟たちの中心となるのである。
 懐弉の入門とともに、道元は今度は、興聖寺のなかに、弟子たちの修行道場である僧堂を建立し、弟子の養成と仏法の普及にのりだすことになった。僧堂ができあがったのは、嘉禎二年(1236年)で、その中心に懐弉をすえて、その懐弉をつぎのようにいって激励した。
 「人の少ないのを憂えるな。自分が初心だとて悲しむな。汾陽は僅かに六、七人、薬山は十人にみたなかった。それでもみな真剣に仏法を探求した。それが盛んということである」 また、つぎのようにもいった。
 「いま心を一つにし、志を専一にして、法をきわめよ。玉をみがくことによって器となり、人は練磨することによって仁ともなるのである。どの玉が初めから光があろうか。だれが初めから悪いといえよう。必ず練磨すべきである。自ら卑下して修学をおろそかにしてはならない」
 当時の興聖寺は、道元の教えをきく者も多くなかったと思われるが、みな真剣に修行した。自然に、道元の存在、その教えのありようは、人々の注目するところとなっていった。ことに、道元その人が、これこそ釈迦の教えをそのまま伝えるもので、釈迦の教えを代々誤りなく伝え、それが今日にそのままおよんだものであると確信にみちた言葉でいうのに出会った人々は、その言葉を信じないではいられなかった。それに、道元の姿というか、坐禅したままにいう言葉は、ちようど釈迦の姿にも似ていたから、いよいよそう思わずにいられなかった。釈迦の坐禅する姿はそのまま道元の坐禅する姿でもあった。道元の姿に釈迦の再来を感じたのである。
 その後、道元は、『正法眼蔵』の「現成公按」についで、「仏性」、「身心学道」、「即心是仏」、「一顆明珠」、「行持」、「淡声山色」、「礼拝得髄」、「諸法実相」、「袈裟功徳」などをつぎつぎに書いていった。彼が北越に移るまでの約十年問に、この『正法眼蔵』はできあがった。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   8 真 理

 「諸事実が仏法そのものであり、諸事実のなかに、そのまま、迷いがあり、生死があり、人々があります。諸事実が自分というものでないときには、迷いもなく、生死もなく、人々もありません。仏法とは本来対立から超越しているもので、物の本質をみるものです。物の自然をみるものです。だから、花は人の愛惜のなかで散り、草は人にきらわれながら生えるのです。多くの戮見をもったままで、諸事実をみきわめようとするのが迷いであり、諸事実や諸々の法のなかで自分にしみついている戮見をとりはらっていくのが悟りです。迷いをなくするのが諸仏であり、迷いのままに生きているのが一般の人々です。さらに、悟りの上に悟りをひらく人もあり、迷いのなかでもっと迷う人もあります。諸仏が諸仏であるとき、自分が諸仏であると思うことはありません。戮見にとらわれた自分がそのまま仏ではなく、戮見のない自分が仏なのです。仏になっていくことが大切なのです。
 形あるもの、音あるものをみたり、聞いたりするとき、大切なのは、身体そのものでみ、聞くことです。そうして初めて、対象を理解するのです。そうでないときには、物そのものを理解せず、その影しか理解できません。
 仏法を理解するということは、自分の本当の姿をつかむことです。自分をつかむということは、戮見にみちた自分を捨てることです。その自分を捨てるとは、自分と万法が一体になっているということを知ることです。自分と万法が一体になっているということを知るとは、自分自身をなくして、万法そのものをみることです。
 人が初めて仏法を求めるとき、法そのものでなく、そのまわりを求めます。法が自分のなかに伝わっていると知る者は、自分自身になりきろうといたします。
 人が舟にのってゆくとき、目を岸の方へ向けてみるときは、岸が動いてゆくようにみえます。反対に、目を舟の方に近づけると、舟が進むのがみえます。そのように、自分自身をみきわめないで、法をみきわめようとすれば、法も自分も正確にみきわめることはできません。
 たき木が灰になることがあっても、逆に、灰がたき木になることはありません。それだからとて、灰はあとで、たき木はその前だとはみてはいけません。たき木はたき木としてあるのであって、あともあれば前もあります。しかし、あとはあと、前は前と、別々のものです。灰もまた同じです。たき木が灰となってから、ふたたびたき木になることがないように、死ののちに生になることはありません。生が死になると説かないのは、仏法がいつも説くところです。だからこそ、この生を不生というのです。死が生にならないのも仏法がきまって説くところです。生は生そのものであり、死も死そのものです。いってみれば、冬と春の関係で、決して冬が春になるとはいいません。
 人が法をみきわめるのは、水に月がやどるようなものです。月も水もそのままです。月は広く、大きなものですが、わずかの水にやどります。そのように、法と人の関係も同じです。法は人間の邪魔になりません。
 修行によって、法をみきわめないうちは、法に対して無関心であり、法は十分だと思います。だが、法がわかりはじめると、法が不十分だと感じはじめます。そこに、無限の探求があります。例えば、船にのって大海のまっただなかに出たようなもので、海を正確につかめません。このたとえのように、法とはそういうものです。修行のおよぶ範囲で、法を理解しているにすぎません。法そのものを知ろうとすれば、世界全体を知らなくてはなりません。と同時に、世界全体をみるだけでなく、すぐ足もとも、法そのものであることを知ることです。
 魚は水を泳ぎますが、水は果てしないし、鳥は空をとびますが、空は果てるということはありません。魚も鳥もそれから離れません。このようにして、その時その時に生きており、その所その所に生きているのです。水が魚の生命であり、空が鳥の生命です。生命とはそういうものです。このほかには、いいようもありません。生きているところに絶対の修行があり、そのほかのものではありません。生命が連続するということも、これ以外にありません。水や空を知ってから、水や空をゆこうとすれば、ゆくみちを発見できないでしょう。生きる所をみつけられないでしょう。
 この自分が生きているところが、そのまま、自分のものになるなら、それが、法そのものです。この道、この所、これは大でもなく、小でもなく、以前からあるのでもなく、いまはじめて現われたのでもなく、法そのものであるのです。人間が法をみようとしないだけです。この道、この所をゆがめているだけです。
 そういうように、人がもし仏法をみきわめ、つかもうとすれば、一法を体得して、しかるのちに一法を得るのです。一つの修行ののち、一つの修行をなすのです。そこに、自分の生きる所があるし、その道は全体の法に通じているので、修行して得られる法がどんなものか、はっきりしないのは、法そのものをつかみきることのむずかしさにもあるのです。修行して得たものが、ゆがんでいる自分がとらえたものと思ってはなりません。修行すれば、法はつかめますが、法は必ずしも自分自身でつかんだものとばかりはいえません。現前した法だけにとらわれてはいけません。
 法そのものが、すべての事実、事象のなかにあるし、人間もまたその事実、事象のなかの一つであるし、それをみきわめるには、管見、戮見のない、真の自分、それも、頭だけでなしに、全心身でみるようにしなくてはなりません。それがみえるようになることが修行であり、仏になることです。その時、この世のありようがこの世のままで違ったものになってくる」と、道元は真理を語る。
 こうして、道元はこの世であって、この世でない世界をみ、それを法といったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   9 仏 性

 ついで、道元は「仏性」について、
 「釈迦は一切は衆生であり、すべての物に仏への可能性がある。仏は常住であり、また、無でもあり、有でもある。変わり易いものでもある」といわれた。
 これは、私たちの釈迦が説かれたことですが、同時に仏法の真髄を説かれたものです。代々仏ともいわれる人が参学して、すでに、二千年余になります。仏法はそのままに伝わって、先師如浄にいたります。インドから中国へと代々伝わってきたものです。
 釈迦のいわれる「一切は衆生であり、すべての物に仏への可能性がある」とはどういうことでしょうか。あるいは、「衆生」といい、あるいは、「有情」といい、「群生」といい、「群類」ともいいますが、ここでいう「悉有」とは、衆生のことです。つまり、衆生は仏性なのです。すべての物に仏への可能性があるということです。それ自身完全である存在を衆生といい、衆生がそのまま仏性なのです。達磨大師もそのことを皮、肉、骨髄を得たといっています。
 いま仏性そのものである存在は、有る無しに関係はありません。「悉有」とは決していま初めて有る存在でもないし、うその存在でもありません。いまこのところにあるものです。自己そのものです。古今のなかにあって、しかも、古今を超越したものです。全体そのもので、決して別別のものではないのです。尊い存在です。屹立してあるものです。
 仏性ときくと、人はあたかも不変のたましいのように思い違いをしています。それは、真の法を体得した人に出会わないためです。わけもわからずに、人間の精神作用を本物だと思っているのです。人間が生きていることで、自然にある精神作用を人間の真の覚知だと思っている人が多いが、それはまだ真の覚知でもなんでもありません。坐禅のなかで作用する覚知が本物です。坐禅のなか以外には作用しないのです。
 昔から、古老、先徳といわれた人たち、すぐれた先達、僧侶といわれる人たちもこのことがわかっていないのです。大事なことは、人間の真の覚知を知ることです。仏性といわれるものも、坐禅のなかで初めて存在するということを知ることです。ただ衆生すべてに、慢然と仏性があるというのではありません。
 ある人は、「仏性は草木のたねのようなものだ」といっています。しかし、このように考えるのは誤りで、たねも花も実もそれぞれが絶対の存在だと考えるべきです。絶対の存在そのものに仏性は内在するのです。……
 おしなべて、仏性について、正確に把握した人は多くありません。普通の仏教学者の理解できるものでもありません。釈迦から直接伝えられた人々だけが把握しているものです。仏性は成仏以前に具足しているのでもなく、成仏とともに具足するのです。仏性があるとはこのような意味であるのです。このことをよくよく、修行のなかで知るべきです。三十年、二十年かけて、このことを知ることです。だから、衆生は無仏性ともいい、また有仏性ともいうのです。無仏性、有仏性の言葉にまどわされてはいけません。……
 また、仏性とは長いものは長いままで現前し、短いものは短いままに現前するものだともいいます。自然法爾とはそういうことです。国土、山河がそのまま仏性でもあるのです。しかし、仏性である国土、山河が、仏性でないのが、いまの国土、山河です。仏性そのものを殺しているのです。
 ほんとうに、法を説く言葉は、みたり、聞いたりの表面的なことに現われるものでもありません。本物の説法はきまりきった形のものでもありません。君たちがほんとうに仏性を知ろうとすれば、まず我見、邪見、戮見などを除かねばならないという言葉をよくよく知ることです。我見は種々様々であり、それをのぞくにも、いろいろの方法があります。その第一の方法は坐禅することによって、我見を去る方法です。坐禅は我見を捨てさるのに、一番よいのです。釈迦がいわれたように、『身に円月相を現じ、以て諸物をあらわす』をよく考えて下さい。いつ、どこでも、自分そのもの、自分以外のものはないのです。ちょうど釈迦が坐禅していたように、だれでも坐禅できるし、坐禅する姿以外にないのです。坐禅の姿のなかに、だれでも仏性を発見できるのです。なかでも、釈迦のままに坐禅した人が知るのです。だれでも知り易いものですが、同時に知りにくいことでもあるのです。ゆえに、真に法を体得した人の手助けが必要だし、真に法を体得した人は非常に少ないのです。法をみきわめたとその師からいわれる者も少ないのです。この世界が亡びるときにも、仏性は厳然とあるものです。
 私たちは釈迦と同じように、坐禅をしなくてはなりません、眉をあげ、端正でなくてはなりません。法をつかむには、どうあろうとも、不動の姿勢で坐禅するのです。釈迦の微笑にこたえて、摩訶迦葉が破顔微笑したように、坐禅のなかで、先師の法をつかむのです。私が仏になるのです。仏にならんと決意するのです。仏にならなければ、存在の意味がないと思いきるのです。そのためにこそ、自分のなかの仏性をみるのです。信ずるのです。…
 人はともすると、先にもいったように、現在の感覚や精神作用そのままで、仏性がみえると思っています。とんでもないことです。自分が自分でなくならないかぎり、だめです。自分を全否定したあとに生まれる自分でないかぎり、仏性はみえません。自分が別の自分になるとき、初めてみえるのです。
 教えをただ聞き、信ずるという人々にも仏性はみえません。あくまで修行し、法をみきわめんと行ずる人にしか、仏性はみえません。教えをただ聞くという人は、仏法にもそれゆえにまた仏性にも縁のない人です。
 いま仏法で、一切衆生といいます。一切衆生に仏性があるともいいます。しかし、ここでいう一切衆生とは、この世のままの一切衆生をさしていません。常識のままに流されている人たちをさしているのでもありません。あくまで常識を断って、仏になろうと決意した人々をいっているのです。その人たちには仏性があるような、ないようなものといっているのです。心があるといっているのです。
 いまの世のままに流されて生きている人、常識の世界に生きている者には心はありません。心はあっても、それは心として活動しないままです。眠ったままです。ないのと同じです。死んだままといってよいでしょう。どうして心が働いているといえましょう。…
 私たちはただ生を生きればよいし、死を死ねばよいのです。わけもなく、生を愛し、死を怖れる必要もないのです。生もまた苦しみであるのに、人がただそれを知らないだけです。生死のなかに仏性があるのです。生死のなかの仏性をみないだけです。生を愛し、死を怖れるのは常識人の考え方です。生を甘受し、死を甘受するのが、仏法です。生から、死から自由にしてくれるのが仏法です。生にも死にも仏性があると知るから、自由になるのです。大切なことは、死のなかにも仏性があるということを知ることです」といっている。
 あたかもいま仏性を人々はとりちがえているが、道元の当時にもとりちがえる者がほとんどであった。彼がとくにいわなくてはならなかった理由であろう。そのゆえに、真理は、法は、人々を見捨て、人々は単に生きるしかなかったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   10 行 持

 「釈迦の道には必ずこの上もない修行の体験がある。修行の体験は連続して絶えることはない。だから、自分自身が強いてなす行為でもないし、他人のなす行為でもなく、自然の行為である。
 この行為は自分をあるがままにし、他人をもあるがままにするものである。だから、みな、その行為のおかげをうけて、自分は自分らしく、他人は他人らしくあるのである。仏の行持をうけついで、私たちの行持も実現するのである。私たちの行持によって、行持の効果もでてくるのである。また、これにより、仏にもなるのである。行持そのものは私たちの好むところではないが、私たちが必ずかえるところである。行持の効果は絶大である。だから、行持にとりくむのである。行持にとりくんでいれば、その効果はなかなかでないとしても、効果がまったくないということはない。徐々にその効果はでてくるものである。
 私に効果のあらわれる行持というものは、行持が真に私のものとなり、行持につぐ行持の果てに私のものとなり、行持そのものとなるときである。私の行持といっても、必ずしも私の行持でなく、他人のものまねの行持もある。そんな行持では効果はあらわれない。ただいまの行持は行持するときにでてくるもので、行持以前にはないものである。行持の効果があらわれたとき、行持にとりくんだというのである。
 だから、一日の行持は仏の行持となり、この行持によって、仏にもなるのである。行持をしないということは仏を法を真理をいとうことでもある。だから、行持を怠けようというふりをするのも、仏、法、真理を否定することになる。行持こそ、仏、法、真理を求めようとする者にとって、一日もやすむことのできないものである。たとえ、生命をなげうつことがなくても、行持を捨てることは、生命を捨てるようなものである。行持のない生命はないのもおなじである。あまりにも、いまは行持のない人々の生命がありすぎる。生命は尊いが、それは行持する生命ゆえに尊いのである。行持のない生命が尊いのではない。
 釈迦は十九歳より、深山で行持し、三十歳になるまで、行持に没入した。そして、八十歳になるまで、山林で行持をつづけ、都に帰ることもなく、世俗的権威にわずらわされることもなく、生涯なにものも蓄えず、きたきり雀で押しとおした。しかも、集団生活を崩さず、法を求めつづけることを考えたのである。行持で始まり、行持で終わり、行持に生涯を捧げたのである。釈迦の行持とはそういうものであった。
 摩詞迦菓は釈迦の嫡嗣であるが、彼は生涯十二のいましめをかかげて、行持にとりくんだ。そのいましめとは、
 一には、人の招きを受けないで、毎日一飯のめぐみだけを受けた。
 二には、山上に宿っても、街の中に宿るということがなかった。
 三には、人にならって、衣服を受けるということがなく、ただ死人の捨てた衣服だけをうけとった。
 四には、田舎の、それも木の下に宿った。
 五には、昼も夜も床のなかでやすむということがなく、坐禅しながらやすんだ。
 六には、肉食とか魚食をしない。
 などというものであった。彼はそれらをまもって退転するということがなかった。そのために憔悴した。だが、やめなかった。そのゆえにこそ、釈迦の法をつたえるほどの人間になったのである。行持のもつ意味を知るべきである。
 波栗湿縛は、生涯を通じて、横腹を床につけるということもなく、行持にとりくんだ。八十歳になっての得法であるが、それはすみやかにみきわめたもので、わずか三ヵ年でつかんでいる。その間、日月を無駄にすることがなかったために得たのである。
 はじめ、波栗湿縛が八十歳近くになって求道者になったのをみて、ある少年がこのような老人になって求道者になることを笑ったとき、彼は法を真理を必ずつかんでみせる。そのためには、横になることもなく修行してみせると答え、それを実行したのである。
 だから、波栗湿縛は法をつかんだのである。八十歳近くになって、道を求めはじめたが、その願いが激しかったから、わずか三年で、道を得たのである。この生ははかりにくいし、老人とて、いわゆる老人ではない。志を一にして、ただ道を求めるのである。求める心の激しさにある。それこそ、血みどろで求めるのである。
 普通、人は五年、六年と修行しても、ただ修行の年月をかさねるだけで、血みどろになることがない。血みどろになり、生命がけになることがないなら、若いからとて、その若さはなににもならないし、老人といって悲しむこともない。すべからく、波栗湿縛のような行持をこそ行ずべきである。
 六祖は中国の樵夫で、学問があるというような人ではなかった。早く、父をうしない、老母に養われていた。樵を生活の手段にしていたが、たまたま、街のなかで道を求めることの大事さを知らされて、道を求めだした。母を捨てて、道を求めることに専心した。それは大変むずかしいことであるが、道を求めるということは、なによりも優先することであり、人間としての義務である。ただそれをしないのである。彼は休むこともなく、頼ることもなく、ただ一生懸命に道を求めつづけたのである。そのために行持を怠るということがなかったのである。生きるということがそのまま、行持であったのである。…
 このようなことは、特別のことでもなく、求道者にとってあたりまえのことである。このような行持を特別のことと考えるから、このような行持はむずかしいことだと考えるのである。
 釈迦の法を学ばんとする者は、勝劣を考えず、ただ名誉、地位、財産などの世俗的なものを捨てて、法だけを求めることである。世俗的なものは法の敵であることをよくよく知るべきである。法と世俗的なものは共存すると考えるのは誤りである。
 法を求める者は、家を捨て、故郷を捨て、恩愛をたちきり、名誉や財産を捨て、親類をも捨て、ありとあらゆるものを捨てて、ただ法のみを求める行持に徹すべきである。
 そのとき、人は尊いし、そういう自分を自分で尊敬し、信じ、愛すべきである。行持する人間が行持に徹する人を尊ぶのである。
 求道者たる者は行持とともに心中するほどの覚悟をもつべきである。しかし、いまの求道者をよそおう者のなかにほ、法そのもの、真理そのものを問うことさえしない者が多い。これはいろいろの書物をよんでも、法・真理にはまったく暗いというしかない。まったく、法、真理に縁のない人といわなくてはならない。それはどうしてなのか知らないが、今生にありながら、法にめざめるということがない。悲しむべき一生、憾むべき一生ということになる。このような人は中国にも多いし、日本にも多い。本当に、愚人が多い。残念というしかない。
 いたずらに、この日本の国に生まれて、世俗的なことに追いまわされて、ときには殉死などの壮烈な行為に走ることがあっても、人間として最も重要な法・真理を求めることがない。恩のためにつかわれるような生は愚というしかない。愚かな者に仕えて、昔から生命を捨てる者は多い。まったく惜しいことである。しかし、法のために生命を捨てるような行持をする者はほとんどいない。
 いまこそ、生命を捨てても、法・真理を求むべきである。徒らに、愚かな人のために、生命を捨てるべきでなく、捨てるなら、法・真理のためにすべきである。法が世にないときには、法のために生命を捨てようと思うこともないであろう。私たちがまず、法に生命をかけることである。法のために生命を捨てない自分たちをまず恥ずべきである。仏に感謝するなら、一日の行持にとりかかることである。自分の生命を愛着することなく、法・真理を愛着することである。塵芥のような家に心奪われてはいけない。真の求道者はすべて昔より、立派な屋敷を嫌悪したものである。人間でありながら、畜生におとる者がなんと多いことか。…
 大
山大円はひたすらに、仏法を求める行持に終始した。道場が立派であることを求めなかった。行持が立派であればよかったのである。生命を軽んじ、法だけを重しとしたのである。行持を重んずるのでなければ、法を知ることはできない。…
 先師如浄は十九歳で坐禅をはじめて、以後やめるということがなかった。帝王より、紫衣を賜わったが、これを受けなかった。ただ人々とともに、法を求めることだけを喜びとした。名利を求めることは法に反する。如浄は六十五歳になっても、法を求めることしか考えなかった。帝王に近づかず、大臣を否定した。帝王や大臣は常識そのもので、法に最も反するものだからである」と、行持について語っている。
 道元が行持を重視したことは、生命よりもはなはだしかった。それゆえに、彼は得道の人となりえたし、求道者として、また反逆者として、生きつづけることもできたのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   11 礼 拝

 道元はまた「礼拝得髄」の項目をたてて、礼拝の重要性と求道者になるには男女の違いはないことを論ずる。すなわち、彼は、
 「法・真理を求めるときには、指導をうけるに足る師を得ることがとくにむずかしいのを知らなくてはなりません。その師にふさわしい者は、男、女という形の問題でなく、真に人師たるにふさわしい者でなくてはなりません。昔の人、いまの人ということを考える必要はありません。真の善知識であれば、男でも女でもよいのです。法・真理を体得している人であればよいのです。人々を導き、真に人々の利益になる人であればよいのです。人間は本来平等でなくてはならないということを知った人であればよいのです。
 すでに、師に親しくお目にかかった者は、地位や財産、あるいは、この世の人間のかかわりあいのすべてを投げ捨てて、寸暇を惜しんで法・真理を求めることです。ただひたすらに、法・真理だけを求め、法・真理に生きることです。ですから、寸暇を惜しんで、法を求めた釈迦の例にならうべきです。このようにすれば、法を求めて生きることを変人扱いする一般の人々の悪口にも惑わされることはありませんし、常識をたって、法を得た先人のことも他人ごとではありません。法・真理を求め、生きようとするとき、その人は自然に、法・真理を求め、生きた人々の仲間になります。
 法・真理をみきわめ、それを後世に伝えるということは、絶対の喜びであり、人間としてあるべき真心そのものです。そのときの喜び、真心は外からきたものではありません。心からの喜びであり、消えることのない喜びであり、生成発展する喜びです。世俗的に地位や財産を得たときの喜びはいざというときに消える喜びであり、死ぬとき自分と一緒にもってゆけない喜びです。
 法、真理を重んじ、身を重んじないのです。身を重んずるとすれば、法・真理にめざめ、それを求める身を重んずるのです。いささかでも、法・真理よりも身を重いと思う者には、法・真理はつかめません。
 釈迦はいっています。『法を説いて下さる師にであったときは、その師の氏や素性をせんさくしてはいけません。その容貌をみてはいけません。その欠点をみてはいけません。行ないをあれこれいってはいけません。ただ法をたしかに得ているかどうかを問題にすればよいのです。日々に、朝に、昼に、夜に、礼拝し、うやまいを捧げて、疑う心をおこさなければよいのです。このようにすれば、法は必ずみきわめることができます』と。
 それなのに、法を得たと自分で思いこんでいるような、愚かな者は、『わたしはあれこれの資格のある人間だ。若くて、資格のない者には礼拝できない。わたしは長らく修行した者だ。法を得た者でも若ければ、その人を礼拝することはできない。わたしは禅士号や博士号をもっている。それらのない者を礼拝することはできない。わたしは地位のある者だ。法を得ているからとて、女性を礼拝することはできない』といいます。こんなことをいう者は永遠に法・真理に無縁です。
 昔中国の従
シンという人は、求道者、反逆者の道を志したとき『たとえ、七歳の子供でも、自分よりすぐれていれば、わたしはその人に道を聞こう。たとい、百歳の老人でも、自分より劣っていたら、その人に教えよう』といいました。七歳の子に法を聞くとき、この人は礼拝するはずです。実にたぐいまれな心がけです。法を得た女性に、法を得てない男性がその門下に入り、礼拝して法を聞くのは、当然の事です。…
 ですから、どんな重要な位置でも、それが空席のときは、女性でも法を得た人につとめてもらうことです。男性だからとて、法を得ていない者など用はないのです。法・真理の世界では、法・真理を得ているかどうかが問題なのです。若いとか年とっているとか、男か女かということには関係ないのです。
 であるのに、一般の人々はともすれば、年齢にとらわれ、男女の区別にとらわれます。年齢や男女の区別は法にはまったく関係がないし、なんのねうちもありません。法だけを礼拝する者は必ず法・真理を得るものです。やはり、礼拝という行ないには、まことがあり、誠意があり、感動という行ないがあるもの、法もそれに感動してあらわれるものです。
 法・真理を得れば、その人は昨日までの平凡人ではありません。そのことをその人も自覚すべきだし、他の人もそのことを知るべきです。その人は自分のなかの法そのものに対して、礼拝すべきだし、他の人もその人の法に礼拝すべきです。礼拝ということが法に対してでなくて、あまりにも世俗的価値である地位や富に対してなされています。もう一度、礼拝の意味を考えなおすときです。
 法・真理を得るのは、男にも女にもあります。法・真理に無縁なのは、男にも女にもあります。法を敬い、男女の区別をすべきではありません。 たとえ、百歳の男性でも法を得ていない男性は敬うべきではありません。反対に、七歳の女の子でも法を得ていたら、敬うべきです。地位や財産は法の前には、塵芥であると知るべきです。いなむしろ、邪魔になるものだと知るべきです」と説いている。
 道元には、法を礼拝する心だけが、尊かったのである。法や価値や地位や財産を一緒にしている世の中に我慢がならなかったのである。富は法のために必要なもの、地位はその富を生みだすためにこそ、必要なものにすぎないのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   12 永平寺

 北越入山

 道元は情熱をもって、法・真理の実現のために努力した。その生き方は求道者、反逆者の生そのものであった。そのために、旧い権威、古い価値の上にあぐらをかいたままの比叡山僧の攻撃をうけて、興聖寺が破却される始末であった。そこで、彼は京都での布教活動を中止して、如浄の例にならい、深山幽谷に退き、さらに徹底して、先人の思想をみきわめようと決心した。まだ、自分の思想をひろめるには、時機尚早だと考えたのである。布教の条件も十分にそろっていないと判断したのである。なによりも、彼の思想を体得して、無限に発展させていく弟子たちが十分でないと思い定めたのである。
 こうして、道元は北越の地に退くことになった。ときに、寛元元年(1243年)で、彼の四十四歳のときである。文字どおり、彼の円熟しきったときといえる。
 どうして、道元が北越の地をえらんだかは明らかでないが、京都の地は坐禅に適しないのに対して、北越の地は京都にも近く、坐禅に適しているという説、北越が先師如浄の中国越州を思いださせるという説、さらに、彼と親しい波多野義重のすすめにより、波多野の所領をえらんだという説、さまざまである。おそらく、そのいずれでもあったろう。
 それに、北越の地には、すでに天台禅を奉ずる人々もかなりいた。禅を本格的にやろうとする道元と彼らの間に、ある親しみがあったとしても不思議ではない。
 道元ははじめ、禅子峰にとどまり、そこで、「三界唯心」を説き、第一声をあげている。彼はそのなかで、釈迦の「いまこの三界は皆これ我が有なり、そのなかの衆生は悉くこれ我が子なり」をひき、「このように、悉く釈迦の令嗣である。この世にあるすべての衆生は仏になり得るものである」とのべて、法と衆生が別でないことを説いたのである。
 その後、道元は禅子峰から吉峰寺に移り、ここを根本道場として、つぎつぎに「仏道」、「密語」、「諸法実相」、「仏経」、「洗面」、「法性」、「梅華」などを説いている。この間、酷寒の地北越で、彼の修行はいかに徹底していたかということである。
 しかも、道元の思想は、この地でいよいよ純化したのである。たとえば、彼は、
 「法を得るのは、初めて志をたてたときに、得るもので、法を得たときにのみ、法を得たとはいえない」といい、あるいは、
 「法の生命は、ただ正伝している。それなのに、仏祖正伝をみだりに禅宗という。みだりに、禅宗というは、仏法をやぶる魔である」とか、「曹洞宗というのは、その祖といわれる洞山がいえといったものではない。ただ能なし奴が自分を権威づけるためにそういったにすぎない」といっている。彼は禅宗といい、曹洞宗といい、そうした言い方を極力否定した。彼には、法・真理というものしかなかったし、彼のいうところは法の法、真理のなかの真理であったのである。
 とくに、道元は「善知識の力を得んことを乞い願うべし。人を知らないのは最大の欠陥である。博学の人間は必要ではない。善知識と力量をこそ求むべきである」といって、識見高邁で、法をみきわめた人を手本として学べといっている。先師如浄の行為については、度々引例して、その行為を学ぶことを強調している。彼にとって、法を説くことも大事であるが、それよりも法を実践することがより大事であった。法の実践にまでゆかない説法は不十分であった。
 それとともに、道元には、自分の救済よりも他人の救済が先であった。もちろん自分の救済なくして、救済のなんたるかを知らないで、他人を救済することはできないが、志はあくまでも自分よりも他人が先であった。他人を救済せんとする志をおこすことが、永遠の生命を得ることであるともいうのである。
 だからこそ、道元はただ管に打坐して、法を得ることを強調するのである。そして、他方では、禅的真理に生きた道元が法華経のことをつぎのようにいうのである。
 「いまこの経典にあう。本当に喜ばしいことである。身心をはげまして、受持、読誦、修習、書写すべし」とも、また、
 「法華経は釈迦の説いた諸経のなかでは最もすぐれている。諸経はこの経の家来のようなものである。法華経に説くところは法そのものである」
 道元の法華経に対するうちこみようは尋常ではなかったが、このようなことは、すべて北越以後のことである。
 この後、道元は寛元二年(1244年)に大仏寺を建立し、その喜びを、
 「この一片の地、主山高く案山低し、実に弘法の地なり」といっている。翌年には、ここで、九十日間外出を禁止して、坐禅にとりくんでいる。

 唯我独尊

 大仏寺を永平寺と改称したのは、寛元四年(1246年)であるが、その時道元は、
 「天は法ありて清く、地は法ありてやすらかである。人は法ありて、はじめて平和である。ゆえに、釈迦は生まれて、天上天下、唯我独尊といった。釈迦には法があった。同時にいま、永平にも法がある。天上天下、当処が永平である」といって、自信のほどをしめしたのである。
 この永平寺という名は、後漢の永平十一年からとったもの。この年に仏法はfンドから中国に伝わったもので、そのように、いま中国から日本に真の仏法は伝わったという彼自身の自負であった。
 これと前後して、道元の永平寺内の整備と弟子の育成が超人的にはじまる。彼の真に仏法を体得した人を養成したいという願いは、従来在家、出家の別をあまり考えていなかったのに、これ以後、ついに、仏法を得るには出家した者でなくてはならないというにいたるのである。出家という形をとり、求道者、反逆者になることを決意した者でなければ、とても仏法は得られないというのである。
 さらに、「たとい衆多くとも、法を求めんと決意する者がいなければ、これを小寺といい、たとえ人が少なくとも、法を得んと決意する者がいれば、これを大寺ということができる」という自覚を人々にしめしたように、道元自身厳しい修行しただけでなく、人々にもそれを求めたのである。彼は人々がすべて、「衆生を渡す僧」になることを念願した。

 

                    <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   13 政治権力

 鎌倉教化

 道元は、四十八歳の宝治元年(1247年) に、永平寺を去って、鎌倉教化の旅にでている。彼は先に『護国正法義』を朝廷にたてまつって、朝廷の権力によって、彼の考える正法をひろめようと考えたことがあった。そのときは幸いに、彼の考えていることが朝廷より却下されて、誤ることがなかったが、のちに彼はそのことの誤りに気づいて赤面した。法を求めるということがそのまま、いまの政治的権力を否定することであり、法によって、いまの政治を正すということに気づいたのである。いいかえれば、法はどこまでも法であり、政治に優先することであり、いまの政治によりかからんとすることこそ法を否定することであった。
 道元はそのことに気づいたからこそ、北越の地に移り、法のみが尊いことをしめしたのである。
 にもかかわらず、どうして、鎌倉におもむき、将軍家に連なる人々に、法を説こうとしたのであろうか。このときの彼は以前の彼とはまったく違っていたに違いない。彼がだれにすすめられ、またどうして、執権に招かれるようになったか明らかでないが、執権が自分の方から法をきわめたいといいだしたとき、人々への影響力のある執権を教化することは、非常に好機であると考えたことは明らかである。
 そればかりか、教化によって、日本の政治が変わるという期待もあったに相違ない。いずれにしろ、道元は執権の教化にのりだしたのである。「若し、仏法に志あれば、山川江海を渡りても来て学ぶべし。その志なき人に、自分の方から出かけていって、法を説くも駄目であろう」といったほどの彼がわざわざでかけたということは、そのチャンスを逃がしたくないとの思いとともに、自分なら必ず教化して変えてみせるとの満々たる自信に裏づけられての行動であったろう。それは、権門に近づかずといった先師如浄の教えにも敢えて背く行為でもあったのである。
 鎌倉にとどまった半年問、道元は一生懸命法というものはどういうものかを率直に説いた。あるときは、執権時頼にむかって、法と政治の関係はいかなるものであるかを説いたし、時頼のまわりの人々にむかって、求道者、反逆者として生きるということと、武士として主君に仕えて生きるということの関係を具体的にのべたのである。そのときの彼の思いは、日本の政治を変えてみせようとの激しい情熱に支えられていたともいえよう。
 のちに、時頼に執権の地位を捨てよとまで極言したということがいわれるようになったのも、そのためであろう。時頼一人が執権の位置を去っても、日本の政治は悪くなっても、善くなることはない。法に裏づけられない政治を否定しても、政治そのものを否定するような、無知の彼ではない。政治を善くするも悪くするも、ただ法にめざめているかいないかによる。
 だから道元は執権時頼という、事実上、政治の最高権力者にむかって、つぎのような歌を書いて与えたのである。

   教外別伝
  あら磯の波もえよせぬ高岩に
   かきも付すべきのりならばこそ

   不立文字
  いい捨てしその言の葉の外なれば
   筆にも跡をとどめざりけり

   本来面目
  春は花夏ほととぎす秋の月
   冬雪さえて冷しかりけり

   即心即仏
  おし鳥やかもめともまた見えわかぬ
   立てる波間にうき沈むかな

   応無所住、而生其心
  水鳥のゆくもかえるも跡たえて
   されども道はわすれざりけり

   尽十方界真実人体
  世の中にまことの人やなかるらん
   かぎりも見えぬ大空の色

 いずれも、坐禅の根本を詠んだものである。道元に参ずる時頼の心境は相当なものであったことは、この歌からも察せられるが、しょせん時頼は権力者にすぎなかったし、政治権力以上に法を生命がけで求める人ではなかった。せいぜい、片手間に法を求める人、知らないより、知っていた方がよいと考えるにすぎなかった。それを知ったときの彼、時頼をひとすじに法を求め、法を実践する人に変えることのできないことを知ったときの彼は、どんなに深くそれを悲しんだことであろう。
 道元は時頼が寺を建て、彼を開山にしようというのを断わって、宝治二年(1248年)半年ぶりに、永平寺に帰った。その後、時頼が寺に寄進しようとするのまで、固辞している。彼にしてみれば、そんなことより、もっと生命がけで法を求めてほしかったのである。法の方が重要であったのである。

 再出発の決意

 玄明というある弟子が時頼のその寄進状をもち帰り、鬼の首でもとったように喜んでいるのをみた道元は、玄明を寺から追放するとともに、玄明が坐禅していた僧堂の床と、その下の土を掘り拾てさせたともいわれている。彼がいかに、時頼を教化することができなかったことに、深い悲しみをいだいていたかということと、僧たちが自分が求道者、反逆者であることを忘れて、権力者からの寄進を喜ぶという不徹底さを、いかに厳しく僧たちに教えようとしたかということをこのことはしめしている。
 法がなんであるかをわかっていない者があまりにも多い。それゆえに、この世はいよいよ乱れてきたともいえる。道元はあらためて、法・真理を求めることのむずかしさを感じたであろう。自分の弟子のなかにさえ、法を求めるということのなんたるかを知らない者がいるのをみて、ぞっとしたはずである。
 道元は鎌倉より帰って、ますます法を求め、法に生きることに精進しはじめたともいえる。そのときの彼は、もう一度やり直しだと思ったことであろう。それほどに、鎌倉教化一連の事実は彼に深い反省と新たなる決意を求めるものであった。
 道元を出家主義にますます徹底させるようになったのも、この鎌倉教化と無関係でない。人はすべからく、求道者、反逆者になることを、出家主義のなかで、自分にいい聞かせ、他人にも宣言する必要があった。そうでないと、生きていく上で、やむを得ないと自分にも他人にもいい聞かせて、逃避するからである。逃避できないもの、ごまかしのない立場を自分自身におしつけることが大事であった。
 また、法を求め、法に生きんとする人間がなぜかくも少ないのかを、もっと素直に直視することも必要であった。そうなると、道元の考えねばならないことは、老いていよいよ多くなるのであった。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   14 死

 道元の晩年は健康がすぐれなかったようである。それゆえに、後々のことを考えて、より一層精進しなくてはならなかったともいえる。『永平寺衆寮箴規』をつくったのも、門弟たちの修行のあり方を述べることによって、寺院の生活をひきしめるためであった。
 そこには細部にわたって、こまごまと注意したことがうかがえる。そのなかの主なものを列記すると、
 一、高い声で読経したり、吟詠してはならない。
 一、皆一緒になって談話し、ふざけてはいけない。
 一、他人の机の所にきて、その人の修学の邪魔をしてはいけない。
 一、机のそばで勝手にねそべってはいけない。
 一、説話は静かに。はきものをばたつかせたり、はなをやかましくかんではいけない。
 一、一切の武具をおいてはいけない。
 一、管絃、舞楽の道具をおいてはならない。
 一、洒肉、五辛をおいてはならない。
 とある。なかには禁止するのがどうかと思われるようなものがある。しかし、法・真理を求める者には、そのくらいの決心がいると考えていたのである。それこそ、捨身の修行を求めたのである。
 さらに、『永平寺住侶心得』を書いて、一切の政治的権力、既成の宗教的権威に屈従することを禁止した。道元にとっては、いよいよ、法だけが貴重になったのである。
 そして、道元は死期の近づいたのを感じたとき、釈迦の教えにならって、「八大人覚」を説くのであった。「八大人覚」とは、少欲、知足、楽寂静、観精進、不忘念、修禅定、修智恵、不戯論のことで、彼はそれらについて述べたあと、最後に、
 「このゆえに、仏の弟子は必ずこれらを修学しまつる。これらを修習せず、知らない者は仏の弟子ではない。しかるに、いま知らない者多く、見聞せる者少なし。仏法流布するとき、いま急ぎ習学すべきなり。怠ることなかれ。仏法にあうことはむつかしい。だが、いま、仏法にあい、修学する好機をつかむ。修学して、釈迦のようになり、衆生を救わん」といった。
 道元には、ただ一つ、釈迦のごとく、衆生を救うことが問題であった。いいかえれば、衆生を救われた状態にし、この世を理想社会にすることであった。しかし、彼の病はいよいよ重くなり、ついに、住持職を懐弉にゆずるほどであった。
 波多野義重は、それをみて、道元に京都にのぼって、療養するようにすすめた。彼はそのすすめにより、一生もう永平寺を去るまいとの誓いを破って、懐弉とともに京都にのばったのである。
 道元がどうして、永平寺を離れたかは、明らかでないが、おそらく死にさきだって、自分の故郷でもあり、日本の中心地でもある京都をしっかりと自分の限におさめたいと思ったのであろう。自分の死んだ後に、自分がのこす正法が果たしていつの日に京都の地を席捲できるかと考えたとき、彼にとっては、感無量であったろう。自分ののこす正法そのものがゆがめられることもなく、京都の人々のものになることが本当にあるのかと思わないではいられなかった。
 途中、木部山で、

  草の葉に首途せる身の木の目山
   空に道ある心地こそすれ

 と詠み、京都に到着している。
 京都では、

  また見んとおもいし時の秋だにも
   今宵の月にねられやはする

 などの歌を詠み、療養に専念したが、その甲斐もなく、建長五年(1253年)八月二十八日に入寂した。ときに五十四歳である。
 五十四歳という年齢でなくなったのは、きっと道元のなみはずれた刻苦修行の生活が彼の肉体を蝕ばんだためであろう。これからというとき、まったく惜しい。しかし、道元のように、法を求め、法に生きんとする者がほとんどない時代にしかも、彼のように非妥協の者には死するしかなかったのかもしれない。
 禅宗といわれ、曹洞宗といわれるのを、全心身で道元は否定したにもかかわらず、その後ずっと今日にまで、禅宗といわれ、曹洞宗といわれつづけている。彼の求めつづけたものがただ一 つの法であり、真理であることを知る者はほとんどいないのである。
 道元が恐れたように、彼の正法はついに、京都の人々の心をつかむことはなかった。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   15 道元と親鸞

 修行について

 道元はすでにのべたように、法然の教えにも絶望して、中国に新しく法を求め、自分がこれだと思う法を得て、それを日本に普及した。同時代人であり、法然の流れをひく親鸞を直接批判していないとはいえ、彼にとっては法然の教えに対する不満が同時に親鸞に対するそれでもあったといえよう。
 一言でいうと、道元の不満はなんであったか。それは、法の絶対的力を信じて、それに帰命することを説いて、人間自身が少しも努力しないこと、そのために法の絶対的力を信ずることはよいとして、それだけでは人間は変わらないことであり、理想社会は少しも生まれないことであった。
 もちろん、親鸞は法の絶対的力を信じ、念仏を唱えるなかで、徐々に人間は変わり得るものだし、変わらないような念仏の唱え方は、まだ本物の唱え方でないといいきった。それに、大事なことは、一般の庶民のように、生きていくことに忙しく、修行する時間のないものが、念仏を唱え始めることによって、悪人である自分にめざめ始め、精一杯人間として生きようとする以外にないことを感じだすためには、念仏以外にないということを明らかにしたのである。事実人間は忙しく、それすらも考えることなく生きている存在が多いし、それでも生きていられるのである。親鸞はこういう事実の前に、せめて念仏を唱えながら、善の道に生き得る方法を多くの人の前に開いたのである。悪人である人間が悪人のままに少しでも善人になっていく道をさししめした。さししめすことによって、この世を変えようとしたのである。
 だが、道元のみる限り、念仏を唱えても、唱えるだけで、少しも前進せず、理想にはほど遠いと思わざるを得なかったのである。たしかに念仏を唱えることは唱えないよりもいいようにみえて、その実、法を偽善化することによって、かえって悪いとさえ、いったのである。いってみれば、羊頭狗肉であるとさえ、いいきっている。
 道元はそれゆえに、法然の教えを否定した。否定したが、親鸞のいうように、法の修行はどんな人間でもでき、また、だれでも仏になれるといわなくてはならなかった。坐禅がだれにでも容易にできるものだと強調し、男女の別なく、可能だといったのも、法然、親鸞があったためである。法然、親鸞がなければ、果たしてそのことに気がついたかどうかあやしい。加えて、彼は親鸞がいったのとほとんど同じように、法の絶対的「力」を信ずることを強調し、自分が生後身につけた邪見、戮見などすべてを払い去って、ほんとうの自分をそれにまかせることをいっている。違いといえば、意識的に修行するかしないかどうかである。法然、親鸞は修行しなくとも、念仏を唱えるなかで変わるといい、道元は修行することによって初めて変わるというのである。親鸞にとっては念仏を唱えることがそのまま修行である。
 変わり得る者には、親鸞の教えは正しい。しかし、変わらない者には親鸞の教えは気休めであるし、実際にはそういう者が多いのである。道元は初め、男女の別なく、だれでも坐禅はできるといったものの、法を正確に把握し、覚者になることは非常にむずかしいと気づいたとき、出家主義のもとに、求道者、反逆者になることを後年いい始めるのである。それでも法を得ることはむずかしいのである。

 易行道と難行道

 たしかに、法を求め、法に生きることはむずかしい。すべての人間といってよいほど、人間は地位や財産をなんの疑いもなく、血限になって求め、それにひきずられている。それゆえに、道元は地位、財産に探く絶望し、世俗的親や故郷をのりこえることを説いたのである。絶望や失望を感じた者、それも心の奥底から、全心身で感じとった者でなくては、法を求め、法に生きる者にはなり得ないといいきったのである。
 この意味では、親鸞の説くところは易行道であり、道元の教えは難行道であるし、今日親鸞の信者が道元のそれよりも格段に多いのは、その人たちの伝導いかんというよりも、人間がもともとそのように分れているためである。問題はその多少でなく、親鸞の教えなり、道元の教えをどれだけ正確に継承し、発展させているかということである。それらがいかに少ないかは、今日の世の中をみれば明らかである。
 いまの世が、彼らの生きていた時代よりどれほどよくなっているかはまったくあやしい。道元は親鸞の弱点に気づき、それをのりこえようとしたが、世の中も世に住む人々も変えることはできなかった。ただそれまで、法を求めることがなかったのに、それをすべての人が法を求め得るような道をきりひらいたことは偉大である。それも、法というものが、一切に優先して、意義あるものであるということを教えたのである。
 それから数百年たったいま、彼らの説いたところを知る者は非常に少ない。知って実践する者はなお少ない。それ以上に大事なことは、彼らの説いたことでなく、彼らがその時代に生きたように、現代にとりくんで生きることであるが、そのような人が果たしていま、どれくらいいるだろうか、疑問である。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

     第3章 日 蓮

   1 若き日

 炎の人

 日蓮は道元より約二十年おくれて、貞応元年(1222年)に生をうけている。彼がだれを父として生まれ、どういう環境に育ったかということは、道元のところでも述べたように問題ではない。ただ問題だとすれば、漁師の子として生まれながら、立派に求道者、反逆者の道を歩みつづけたということである。漁師の子という条件にあって、求道者、反逆者の道を歩むということは非常に困難であったろう。
 道元のように貴族の子として生まれても、道元のような道をたどることは非常にむずかしい。それが日蓮のような環境にあれば、なおさらに、いろいろの重圧があろう。その重圧をはねのけるのは大変であったろう。
 だからこそ、日蓮のような炎の人が生まれたといえる。彼の炎のような魂は生まれながらというよりも、むしろ、彼が重圧と戦うなかで次第にその基礎を強めたともいえよう。いずれにしても、日蓮の特質ともいえる炎のような魂は彼自身がその戦闘的人生のなかそ、彼自身のものにしたものであるし、彼のような生まれの者でも、求道者、反逆者の道を歩み、時代の課題と精一杯に対決して、それを背負うて生き得るということを示している。漁師の子供でも覚者になり得るということである。
 普通、百姓の子豊臣秀吉が天下の権力をにぎり、足軽の子伊藤博文が総理大臣になったという者がいても、それが単に世俗的権威にすぎないという者はほとんどいない。まして、それと比べ、漁師の子日蓮が世俗的権威とは比較にならない法・真理を自分のものにし、覚者となり、永久に生きる者になったことをいう者はいない。世俗的権力を尊ぶことを知って、法的権威、真理的権威の尊ぶべきことを知らない、この国の国民性といいながら、まことに悲しむべきことである。
 漁師の子日蓮、それも当然のことながら、文化が低いといわれる田舎に生まれて、人間みなが意識するといなとにかかわらず、憧れ、求めるところの法・真理を把握し、人間第一の覚者になったのである。まことに、すばらしいことといわなくてはならない。
 では、漁師の子日蓮が、どのようにして覚者になったのであろうか。人間いかに生くべきかを人々に示し得る人間にまで成長したのであろうか。
 もちろん漁師といっても、清澄寺にのぼって、教育をうけたことを考えると、単に漁師の子というより、漁師を統率するような位置に、その父親はいたと思われる。だが、日蓮が漁にかかわりのある家に生まれたことはいうまでもない。
 日蓮は清澄寺で教育をうける間に、次第に法・真理にめざめはじめた。それははじめ漠然としたものであったろうが、人間として生まれて、法・真理を求め、それに生きることが最低の務めであると思うようになった。
 彼は長ずるに従って、この世が無常であり、人間の寿命までまったく不安定であることを知るに及んで、法・真理を明らかにすることを思いたった。それに、政治、経済、社会の影響をもろにうける漁師たちの生活を思うにつけ、彼は政治、経済、社会のありようを思わないではいられなかった。政治、経済、社会のなかでのたうつ漁師をみたとき、漁師はいかに生きるのがよいかと考えずにはいられなかった。
 こうして、日蓮は是聖房と名乗る僧侶として、求道者、反逆者への第一歩を歩みだしたのである。彼はこの頃、師道善房が念仏者であったことから、一心に浄土教的なものを学んでいる。といっても、道善房のそれは、円仁、源信の流れをひくもので、法然のように浄土宗として確立したものではなく、あくまで天台宗の一派であった。
 それとともに、この清澄寺はもともと、天台法華宗に属する寺であったから、日蓮は学んでいくうちに、天台法華宗と、師の浄土教的なものとの矛盾にぶつからねばならなかった。なぜ、浄土教的な道善房がこの寺にいたかということになるが、それをつきとめることなく、同居していたのである。それは昔もいまも同じである。だが、ひとすじに考えていこうとする日蓮にとってはがまんがならなかった。

 どう生きるか

 かくて、日蓮はより確かな法・真理を求めて旅に出るのである。求道者、反逆者として生きるには、さらに、その時代の課題に直接こたえて生きるには、どうすべきかということであった。それは、仏教諸派のなかでどれが最も正統派であるかということでもなければ、正統派を創造するということでもなかった。彼にとって問題であったのは、時代の子として、また人間として生きるということは、どう生きるのが、最もすばらしいかということであった。時代の子として生きる人間として、人生さらに地位、財産をいかに考え、政治、経済、社会といかに対決すればよいかということが重要であった。いわゆる宗教人として、宗教的問題といわれるような問題と取組んで生きることではなかった。また、僧侶として、この世から隠世して、清げに生きることでもなかった。あくまで、この世の人間として、最もすばらしく生きることであった。だから、日蓮の求めたものは、すべての人間がどこまでもさがしていかねばならないものであった。この点が、ややもすると、いままで誤解された所である。人たる道を求めたといってよい。
 日蓮はその解決を求めて、当時の文化の中心である鎌倉に行ったのである。鎌倉は清澄寺にも近い上に、将軍のいる所として、当時最も栄えた所である。そのとき彼は、十七歳である。ここでも彼が主として学んだのは、浄土教的なものであったといわれる。法然の浄土教を法然の弟子から学んだかもしれない。だが彼はそれに満足できず、一度清澄寺に帰っている。当時十七歳になったばかりの彼が、どこまで法然の教えを理解したかは別として、日蓮はあくまで日蓮の時代にまともにむきあって生きようとした。法然の思想は法然の時代のなかから生まれたものである。いうまでもなく、法然の思想のなかには、時代をこえて永遠に生きる思想もあるが、同時にその時代特有の思想もあり、その意味で日蓮のようにその時代に最もすぐれた者として生きようとすれば、当然、法然の思想をこえて、その時代特有の思想を見出さなくてはならない。
 大事なことは、百年前の法然の思想では、日蓮の時代には不十分であったということである。彼があくまで、法然の思想をのりこえて、その時代の思想をさがしつづけようとした理由である。彼が鎌倉から、さらに京都の地をさして、旅をつづけたのも理由のないことではなかった。
 日蓮は京都こそ、彼の求めるものを満たしてくれると思った。そのときの彼の期待はいかに大きかったかと想像される。彼の十九歳のときであり、親鸞六十八歳、道元四十一歳のときであった。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   2 遊 学

 はげしい学習

 日蓮は京都にのぼり、比叡山で参学した。彼がそこでどのように学んだかは明らかでない。ある者は俊範について学んだともいうが、当時俊範はすこぶる名高い僧であったが、後年日蓮のいかなる文書のなかにも、その名はない。彼の講義をきくことがあったにしても、その弟子と名のるほどの関係ではなかったのであろう。
 また俊範以外の名前もみあたらない。そうとしたら、彼は主として、事物を師として、自分で学んでいったと考えられる。親鸞、道元もはじめよき師に出会わなかったが、後に法然といい、如浄というよき師にめぐりあったのに比べ、彼は生涯師という人にめぐりあわず、書物、あるいは、世界の事象を師として学んだということが考えられる。彼は終始、世界の事象のなかに直接法そのもの、真理そのものを求めていくように運命づけられていたともいえよう。
 はじめ、日蓮は自分の田舎言葉に悩み、京言葉を習熟するようにつとめたことも考えられる。だが、彼は次第に、田舎言葉になじんだ者はそれでいいではないかと思うようになったのである。なにも京言葉に対して劣等感をもつ必要はないのではないか。そのような形式的なことに心をとらわれるのは、自分がほんとうに法を求めず、自分に自信がないしるしではないかと考えるようになった。
 ここには、日蓮のひらきなおりがあり、自分に徹しようという態度がある。それはそのまま、彼の学習のはげしさを示している。彼はこのような態度で彼の疑問にぶっつかっていった。その疑問とは、「人が最もすばらしく生きる道はただ一つであるにちがいない。それなのに、いま釈迦の教えといって、多くの宗派が争っている。ほんとうに釈迦の教えとは一体そのなかのどれであろうか」というのが、彼の問いであった。
 当時の仏教界には、まじめに法・真理を求めようとする者はほとんどいなかった。法・真理を求め、それに生きるはずの僧侶の世界は俗世間以上に乱れ、いたずらに地位や財産を求め、戦争にうつつをぬかしているような世界であった。俗世間で尊ばれる権力がそのまま通用していた。
 だが、こういうなかで、叡山は少なくとも法・真理を求めようとする者たちの中心地であり、その書庫は経典類でうずまっていた。日蓮はそのなかにうずまって、自分の疑問を自分で解決しようとしたのである。自分の疑問を解決できるような師にめぐりあわなければ、そうするほかはない。
 当時、日蓮が親鸞、道元に直接めぐりあっていたなら、その後の日蓮はどのようになっていたかわからないが、運命は彼らを引き会わせることもなく、日蓮はあくまで、彼の悩み、苦しみのなかに彼をたたきこんだままであった。それは十二年の長きにおよぶのである。その間のことは明らかでない。
 推量できることといえば、その間、叡山にとじこもりきりというのでなく、暇をみつけては、京都、奈良、大阪などの各地の寺にでかけて、直接、倶舎宗、成実宗、三論宗、華厳宗、禅宗などを学んだということである。そればかりか、漢学、国学、歌道、書道なども学んだ。すべて、それは、日蓮の疑問を明らかにするためであった。
 このように、十二年間の長い間、ただひたすらに、本を読むかたわら、山に住み、野を歩き、法・真理を求めつづけたのである。これこそ、釈迦が法・真理を求めつづけた態度を当時に再現したもので、すべてのものを前提にしながら、同時にすべてのものを否定し、ただ一つの法・真理を創造しようとつとめたのである。
 その生活が法・真理を生みだすためには、非常に重要なのである。その期間は長ければ長いほどよい。一見無駄のようにみえるこの生活に、価値がある。人はともすれば、そのような生活を軽視し、時代はそんなことを待ってくれないように思いがちである。
 しかし、時代はその間にそれほど悪化するものでもないし、問題はむしろ、早急な考えにもとづいて、なにかをやったとしても、全然よくならないことである。じっくりと考えて、時代をよくする方法を考えたらよいのである。
 日蓮はそれをやりとおした。その結果、彼は「法華経こそ、諸経にすぐれたものであり、諸経は法華経のためにあり、いまこそ、法華経を弘通する時である」ということを知ったのである。

 法華的真理

 では、日蓮はどのようにして、そういう結論に到達したのであろうか。彼は天台知ガイの諸教批判を知ったのである。それによると、釈迦は法・真理を把握したあとにまず華厳の教えをといたというのである。しかし、人々にわかりにくいため、やむなく、わかりやすく、阿含の教えを説き、つぎに、維摩の教えを説き、さらに磐若の教えを説いたのである。だが釈迦七十二歳のとき、ようやく、人々がその思想を理解するようになったので、はじめて、法華の教えを説いたもので、この法華の教えこそ、釈迦がほんとうに説きたかったものである、というのである。 この考えは、その後、最澄にもうけつがれ、長らく仏教界に通用していた。その考えに日蓮は到達したのである。今日、このような考えは通用せず、仏教文献学の立場から、法華経は紀元後一世紀の作ということになっている。しかし、今日、法華経がいかなるものにせよ、日蓮はここから、法華経こそ唯一絶対のものであり、仏教諸派は法華経によって統一されるべきであり、仏教諸派は本来の仏法として、一つになるべきだと考えたのである。人々はただ一つの法華的真理にたちむかって生きねばならないと考えたのである。
 それのみでなく、日本国内が平安でないのは、この法華経がひろまらず、種々の教えに人々がおどらされているためと日蓮は考えたのである。
 こうして、日蓮は長い間の疑問を解決したのみでなく、今後自分がいかに生きればよいかということも知ったのである。彼がいかに歓喜したかも容易に想像できよう。
 日蓮はその喜びをさっそく叡山の同僚、先輩にぶっつけた。しかし、だれも彼に反応をしめしてこない。そうなったら、山を下りて、自分でその難事業にとりくむしかない。長い間のうっくつしたエネルギーはそれゆえに激しかったともいえる。こうして、将軍の膝下である鎌倉での第一声となるのである。
 そのとき、日蓮は、自分しか知らないことを自分が知った以上、それをいうのは自分の義務だと考えたにちがいない。たしかに、天台知
ガイは法華経のすぐれていることをいったし、それに従う人々もいたが、自分のように、法華経を尊び、これを唯一の拠り所にしようという者はいない。法華経を信じて、他の一切を捨てよという者はいない。そう思ったとき、日蓮は誇りと自信で胸のおののくのを感じたことであろう。
 鎌倉の小路にたって、辻説法という大胆な方法で弘法活動にふみきったのも、日蓮のなかに生じた、この誇りと自信のせいであろう。彼の三十三歳のときである。

  

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   3 辻説法

 日昭との出会い

 日蓮が鎌倉で第一声をあげる前に、彼は山から下りて、まず伊勢神宮に詣でている。ここで、「われ、日本の柱とならん。われ、日本の眼目とならん。われ、日本の大船とならん」という三誓を奉ったともいわれる。それから、安房の清澄寺に帰り、そこで、第一声を発したのである。だから、鎌倉での第一声に先だつものが清澄寺で始まったのである。
 日蓮はまず、法華経の「ただ一つの法のみあって、二もなく、三もなく」という一節を読んだ後、「今流布している諸宗はすべて仮の教えである。そのため、国は乱れ、人は迷っているのである。これを解決するためには、ただ法華経を信ずる以外にない」といいきったのである。先にも記したとおり、清澄寺での師道善房は念仏者であったし、清澄寺の住持円智房も地頭の東條景信も念仏者であったので、日蓮の説くところを聞いて驚いた。しかし、他方では、義浄房や浄顕房たちは、彼の説くところにひかれていった。こうして、彼の説をめぐって、清澄寺では、時ならぬ論争がまきおこり、ついに日蓮を追放するということがきまるのである。
 もちろん日蓮の追放は単純にきまったものではない。はじめ、円智房たちは力で、清澄寺の諸僧を念仏者にしようとしたのである。それに対して、彼は裁判で争い、ついに勝っている。敗れた円智房たちは東條景信の武力をつかって、道善房に日蓮を勘当するように迫ったのである。
 やむなく、道善房は日蓮の身の安全のために破門し、彼を逃がすことになった。その後、義浄房や浄顕房はひそかに寺をぬけて、日蓮の後を追ったという。
 生命がけで清澄寺を脱した日蓮は、再び鎌倉にゆき、松葉ヶ谷に居を定めた。たった一人の彼にとって、法華経こそは、師であり、友であり、またかけがえのない妻であり、子供であったにちがいない。彼は自分一人を意識することなく、ここでもう一度、自分の思想の再検討と深化のために、思索と、瞑想の生活に没入した。そんな日蓮の所に、ある日、天台宗の僧が訪ねてきて、彼の弟子となった。それが日昭であり、彼より一歳年上であった。つづいて、日昭の妹の子が訪ねてきて、日朗と名のり、彼から愛されている。
 日蓮は日昭の資質と器量を、すぐに発見し、自分が倒れれば、日昭が継承者として、立派に仕事をしてくれると考えた。日昭は彼の最初の同志である。彼が辻説法にふみきったのは、日昭という後継者を得たためである。
 辻説法は享保(1716ー32)の頃、僧霊全によって始められたものだが、その後たえてないものであった。寺院をもたぬ日蓮としては、それによるしかなかったのであろう。
 だが、日蓮が辻説法を始めてから、彼の下には、四条金吾、進土善春、工藤吉隆、池上宗仲たちがつぎつぎに参加した。彼らの改宗の動機は明らかでないが、当時、当代第一の名僧といわれた建長寺の道隆に教えを受けていた人たちであることはたしかである。このようにして、彼の充実した布教活動はどんどん進み、世の中も、いまや彼の存在を無視できないまでになったのである。

 妥協なきたたかい

 しかも、日蓮が辻説法を始めた頃から、数年間というものは、目立って天災地変が多く、それも、あいつぐというありさまであった。そのために死者も多く、名執権といわれた時頼でさえ、その執権職を長時に譲るほどであった。だが、それによって、天災地変は下火になるどころか、いよいよ激しくなっていった。改元をしたがおさまらない。ついには、病気までおこって、やむときがなかった。
 日蓮はこれこそ、法華経を信じないばかりか、法華経をそしるために、おこったのだと解釈した。駿河国の実相寺にこもって、彼はそういうことを書いている文章が必ずあるはずだと一切経をひもとき、ついにその文章を発見したのである。それをみつけるために、二年間の長きをかけている。その過程にできたのが、『守護国家論』であり、あらためて、法然の教えを批判したものである。最後には、『立正安国論』を書きあげ、それを宿屋光則をとおして、時頼に上書したのである。
 これは、日蓮の二十年に近い研鑽と六年間におよぶ実践のなかから、生まれたものである。全文が闘魂そのもので貫かれており、政治の最高責任者に対する、断乎たる挑戦状であった。
 日蓮は、そのなかで、
 「旅客来りて嘆いて、曰く、『近年より此の方、天変、地妖、飢饉、疫病あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる。牛馬巷の仆れ、骸骨路に充てり、死を招くの輩既に大半にこえ、これを悲しまざるの族敢えて一人もなし。…是れ如何なる禍いにより、是れ如何なる誤りによるや』主人の曰く『独りこの事を愁えて胸に憤
す。…つらつら微官を傾け、聊か経文をひらきたるに、世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり、鬼来たり、炎起こり、難起こる。言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず』」という書き出しで始まって、「所詮、天下泰平、国土安穏は君臣の楽う所、土民の思う所なり。それ国は法に依りて栄え、人によって貴し」と書き、「すべからく、誘法の人を禁じて、正直の人を重んぜば、国中安穏にして、天下泰平ならん」というのである。
 つぎに、誘法の人とは妄語、悪口によって人々を迷わしている法然たちであり、正直とは法華経のことであり、すみやかに誘法の徒を退治せよ。そうでないと、外国からの侵略があり、内乱が起こるであろうといい、最後には、「すみやかに対治をめぐらして、早く泰平を致し、先ず生前を安んじ、更に没後を助けん。ただ我が信ずるのみにあらず、また他の誤りを誡めんのみ」と結ぶのである。
 時頼は日蓮のこの訴えを無視した。無視することで、逆に彼の身をかばったともいえる。日蓮のこの訴えをとりあげて、公の問題とすれば、日蓮の身は安全とは思えなかった。またそれほどに、この問題をめぐって、国中が対立するとも思われたのである。それゆえに、無視した。しかし無視された日蓮は、だから、駄目なのだと思う。事実、日本には、昔から黒白をはっきりさせず、うやむやにしてしまおうとする傾向があったし、そのために問題は少しも発展せず、解決もなかった。今度の場合もそうだった。
 日蓮の上書も対立が起こると思われるほど激しく、少しの妥協もなかった。しかも、彼は正法を広めるには、政治的権力、武力さえも使用してよいとそのなかでいいきるのである。それが果たしてよいか否かについては、なお論じる余地のあるものであるが、いずれにしても、彼は戦闘的であり、一分の妥協もなく、行動的であったのである。
 黙殺された日蓮はいよいよ戦闘的となる。その結果、彼に訪れたのが、彼の草庵松葉ヶ谷を襲撃されるという事件である。彼はそのときのことを数千人が押し寄せたと書いている。幸いに傷もうけずに、翌年にはもう鎌倉にかえって辻説法を始めている。彼の生命がけの説法への信念がいかに強烈であったかということを示している。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   4 守護国家論

 法然への批判

 日蓮は『立正安国論』に先だって、『守護国家論』を書いている。彼の三十九歳のときの著作で、彼はこれによって、法然の思想を批判した。前世代人である法然を批判することで、いまの時代に生きる人々の覚悟を促したのである。だが、それは前世代人を批判することによって、その誤りを指摘するというよりも、いまの時代からみると、法然の思想では不十分であるということであり、いまの時代に生きんとする者は、前世代人をのりこえなくてはならないということであった。法然の思想は、あくまでその時代の思想であり、いまの時代には、いまの思想があるということである。
 「私の思うのに、私はたまたま、この日本の国に生まれた。ところが、釈迦の思想がインドから中国、さらに日本に伝わる間に、いろいろとゆがめられたし、中国の情況、日本の情況も時代とともに変わってきた。そのために、いまの時代にふさわしい仏法を学ぷ者は非常に少ないのである。五十年ほど昔、法然というものがあり、『選択本願念仏集』を書き、人々のために生きる方向をしめした。この本は、中国の曇鸞、道綽、善導の教えを依り所として、浄土の教えを展開した。しかし、その場合、彼は方便の教えが真実の教えに至るものであることを悟らず、方便の教えをえらんで、真実の教えを捨てたのである。その結果、仏になる道を捨てて、俗人のままに終わる道をしめしたのである。そのことに気づかない間はよいが、いまそれに気づいた以上、そんなことは許されない。それなのに、世の中の人々は、相変わらず法然の教えに従ったままで、それを疑うということがない。
 この不十分な教えを破却するために、多くの書物がでた。その作者はみな有名な人々であるが、まだ十分に破却していない。ゆえに、この書を批判したつもりでも、逆にこの書の流布を助けることになっている。批判ということは非常にむずかしい。どうか、僧として僧本来の生に生きようと思っている者は、私のいうことをよくよく聞いてほしい。私のいうことは決して、思いつきのいいかげんのことではないのだから。
 第一章は、仏の教えには、権・実の二つがあるということ。そのためには、第一には、代表的教えの次第、順序のなかに、その他一切の枝葉の教えがふくまれていることを明らかにし、第二には、諸経の教えには深浅のあることを明らかにし、第三には、自他を救うことを考えるか、自分のことだけを考えるか、いずれであるかを明らかにし、第四には、方便の教えを捨てて、真実の教えをとるべきことを明らかにしたいと思う。
 すなわち、第一の理由であるが、仏がまず説かれたのは華厳の教えであり、つぎは、阿含の教えである。つぎは彼らの教えであり、つぎは磐若の教えであり、つぎは無量義経であり、最後は法華経である。
 第二の、諸経の教えには深浅があるということについてであるが、法華経を説く前の四十二年間は未だ真実を述べないということを書いている。そのことによって、法華経がすぐれているということがはっきりする。
 第四の方便の教えを捨てて、真実の教えをとるということについては、『法華経を弘めることはなかなかむつかしいことであるが、しばらくでも、この経をもつ者がいれば、感激する。それこそ、勇猛心のある人、精進の人といえよう。法華経を受持する人を持戒者ともいってよい』とあり、また、『仏がなくなってからはこの経がこの世に断絶しないようにする』とあることでもわかろう。
 すべからく、釈迦が『この法華経こそ、私の説いた経のなかでも最もすぐれたもの』といっている言葉を信ずることである。また釈迦が『人の言に左右されてはならない。ただ私の説いた所に従うべきです。法そのものが尊いのです』といった言葉を味わうべきである。 ともすると、人々は法然のことを智慧第一の人という言葉を無批判にうけいれているが、今日からみると、わずかに考えのあった人でしかない。釈迦の教えを信じさせようとはしない人である。いまの時代にはふさわしくない。その結果、人々に現世のことを真剣に考えさせず、来世のことばかりを考える人々にしてしまったのである。
 第二章は、仏滅後の仏法の興廃について、いま二つの点から論じようと思う。一つは、四十二年間に説いた諸経と浄土三部経のどちらがすぐれているかということであり、二つは、法華経と浄土三部経のいずれがすぐれているかということである。
 第一の諸経と浄土三部経のどちらがすぐれているかということであるが、私たちが法について考えるとき大事なことは、その法が今日にかなっているかどうかを考えてみることである。時代は刻々に推移し、発展している。その時代の法にあった方法で修行すれば、法をえて、その利益もうける。
 ところで、『大術』などの経によると、釈迦がなくなって、二千余年も経た後は、釈迦の時代の法はそのままでは通用しなくなり、その法を聞いて法をつかむことはむずかしいと書いている。だから法を聞いても法をつかむことは非常にむずかしい。だが、無量寿経によると、仏法はそのままでは亡んだに等しいが、仏は慈悲の心から、この経だけは、百年問、この世に通用するようにしておこう。そのときこのことを信ずる者には、希望どおり、救いがあろうと書いている。この経とは浄土三部経のことである。
 源信もこれをうけて浄土三部経によりて救われると書いている。ゆえに諸経より浄土三部経がすぐれているといえる。
 第二の法華経と浄土三部経のいずれがすぐれているかというと、浄土三部経の方が先に消滅しよう。なぜかというに、無量寿経に、四十二年間未だ真実を願わさずとあるし、百年間通用する浄土三部経という言葉はうそである。
 いかに修行しても、法華経にゆきつかねば、法をつかむことはできない。法華経はまさに今日にあうごとくに説かれているのである。それゆえ難信難解でもあったし、長い年月を経ないと理解もしにくかった。また、多くの仏たちが誓いをたて、この経を弘めますといったのである。
 曇鸞、道綽、善導、源信は法華を今日の人たちにはふさわしくないと教え、法然やその弟子たちも法華の教えに従う者を悪衆、悪見の人とののしったのである。
 だが、釈迦は真実の教えを説かんとして、法華経を説いたというのである。釈迦の言葉に従えば法華経はいいということになる。
 日本の源信も法華経を今日の人にふさわしくないといったが、それは浄土三部経が四十二年に説いたなかでは最もすぐれているといって、最後には法華経に導入するために、とくにいったことである。曇鸞、道綽、善導の真意も別にあった。
 しかし、法然やその弟子たちはこのことを知らないために、曇鸞、道綽、善導はもちろん源信まで、法華経をそしる人にしてしまい、法華経はいまの人々にあわないといったのである。あるいは、人々に法華経を信ずることをやめさせようとしたのである。
 法華経を信ずる人を悪衆、悪見の人とののしった罪はまぬがれることはできない。まして、書物を書いて、日本中の人々に罵らせる罪はどんなに重いことであろう。また、法華経の行者を退転させる罪はどんなに重いことであろう。
 法然が法華経を明らさまにそしった言葉というのは、彼が法華経を積極的に捨てさせようとしたことでもわかることであり、捨てさせようとすることは謗法と同じである。『選択集』には法華経の名をあげて攻撃する文章はないが、人に法華経を捨てさせている。
 要するに、『選択集』は法華経を捨てさせようと志して書かれた書物である。」

 法華経と釈迦

 「第三章 なにを証拠に、法然を謗法者としてきめつけるかというと、法然は浄土三部経では十人が十人、百人が百人、覚者となれるが、法華経では千人のうち、せいぜい一人覚者になれるだけというのである。これは法華経をそしっていることと同じである。
 はじめ、竜樹、曇鸞、道綽、善導は四十二年間に説いた諸経の難易をいったが、そのときは法華経をふくめていない。それなのに、法然になって、いつのまにか法華経をふくめての難易ということになったのである。
 法然は過失をおかしたが、その過失のままに、その過失を『選択集』で世の中にひろめたのである。日本中の人々はその過失を知らぬままに、それを正しいと思いこんだし、世の中の学者といわれる人々も利益をむさぼる心から人々におもねってしまったのである。邪義がひろがるのを助けることになったのである。
 法然の過失ということをあらためて考えてみると、法然は浄土三部経をいうあまり、法華経を駄目のようにいっている。しかし源信の言葉にも明らかなように、法華経を駄目といっているのではなく、私のような鈍根には法華経はむつかしいので、浄土三部経によったまでであるといっているのだ。それこそ、法華経を否定したのではないということである。それがいつのまにか法華経を否定してしまうようになったということである。
 もし、修め易いということが易行の意味ならば、法華経を修めることは浄土三部経よりももっと易いといえようし、功徳をもって易行というなら、法華経の功徳は浄土三部経の功徳にまさるとも劣らないのである。
 悪人、愚人を救うためには、ただ、易行を施せばよいというものではなく、実は教法の深浅さが問題である。法華経は五逆、謗法のためにこそあるものである。法然はいかにも、五逆、謗法、鈍根の者が善人の他にあるというようにいい、そういう人たちのためにといっているが、実は善人づらをしている悪人、賢人ぶっている劣者がおり、五逆、謗法の人々がいるだけである。その人たちを救わんとしている法華経がまさっているのである。善人づらをし、賢者ぶっているのも、俗世間での評価であり、すべての人が生まれかわる必要があるのである。
 法然は源信の『往生要集』をひいて、源信の罪を救おうとしているが、決して『往生要集』は『選択集』と同じものではない。源信は『往生要集』の後二十年も経て、『一乗要決』を書いているが、そのなかで、一乗真実の法に従うことを書いている。一乗真実の法とは法華経のことである。源信がもし法華経が念仏より難行というなら、とんでもない誤りを犯したことになる。法華経はどんな人をも救うとあるのである。このことを知らぬわけはないのである。
 第四章 謗法者を退治しなくてはならないという経文があるということについであるが、まず、法を国王、大臣、庶民に委嘱していることを明らかにし、ついで、国内に謗法の人を退治しなくてはならないということを明らかにしなくてはならないと思う。
 元来仏法というものは、あらゆるものに優先していることを知らなくてはならない。だから国王、大臣たる者、まず仏法を優先させて、国を治めなくてはならない。仏法を忘れたところに、ただ単に権力政治が、地位、財産を尊しとする生活が生まれるし、人間蔑視の生活が生まれるのである。
 仏法をまもり、実現するには、ときによりて、武力を用いることも必要である。がもっと大切なのは、どれが正しい仏法であるかとみきわめることである。正しくない仏法は国を亡ばすことさえある。正しくない仏法とは法然の教えである。
 法然はこの世を捨てて、西方浄土を求めている。現実のこの世を否定している。実は仏はこの世に築くべき理想社会にたまたま西方極楽と名をあたえたにすぎない。どこまでも、この世が問題なのである。法華経の行者はよそに浄土を求めてはならない。この経を信じているこの世に理想社会がある。
 法華経と釈迦は同一である。法華経を信じない者の前には、釈迦はなくなったまま、あらわれない。法華経を信ずる者の前には、釈迦はその時代の釈迦になって現われるのである。なによりもいまが法華経のあらわれるときであり、信ずるときである。
 このように、法華経を罵しる者があっても、それを放置しているときには、その人の罪も重い。断乎として、取り締まるべきである」と。
 日蓮は徹底して、法然を批判した。その批判はこのように鋭かった。彼はよく、曇鸞、道綽、善導、源信を読み、法然との違いを明らかにした。だが最も鋭いところは、あの世の浄土から、この世の浄土にひきもどし、善人、賢者に対して、悪人、劣者のための念仏から、彼は善人、賢者は一人もなく、単に善人ぶり、賢者ぶっている者にすぎないとしたことである。
 それのみでなく、法然の教えを逆手にして、法華経を信じ易く、行じ易いものとしたことである。法華経は日蓮によって再生したといってもよい。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   5 弾 圧

 予言者としての自覚

 日蓮の『守護国家論』と『立正安国論』は法然の教えを激しく攻撃したから、法然の徒は憤激した。法然の教えに生きる道教、能安たちといずれが正しいかということをめぐって争論した。結果は日蓮の勝ちであったという。そのためにますます彼らの憎しみは激しくなり、たびたび日蓮の草庵を襲撃したのみでなく、日蓮を謗法の人として、権力者に訴えたのである。
 弘長元年(1261年)幕府は日蓮を逮捕し、伊豆の伊東に流した。最初の国家権力による弾圧である。彼は約二年間の流罪生活を送っている。この間に、親鸞は京都でなくなっている。彼の法華経についての理解もその間にいよいよ深くなった。逆境を経ることによって、彼の確信は深められたといってもよい。
 弘長三年(1263年)許された日蓮は鎌倉に帰り、以前にまさる情熱をもって布教活動を展開した。このときの彼は自分を法華経の行者であるとする情熱にみちあふれていた。とくに、文永元年(1264年)に、一大異変がおきたときには、「これは世の中がわるくなる前兆である。だが学者はまったくそのことがわかっていない。日蓮一人いよいよその悲しみを探くする」と書いて自信のほどをしめした。その暮れに、東條景信一派に襲撃されたとき、多くの者が死に、日蓮は頭を切られてやっと助かるほどであったが、このことにより、さらに自信を深めている。
 そのときの日蓮はその感激を、
 「いかなる理由でか、私は討ちもらされて生きています。いよいよ法華経への信心を深めています。この経は仏のいらっした当時でも、怨みの多いものでした。ましてなくなったいまは一層多いということが書かれています。また怨みが多く、信じがたいともあります。日本中には法華経を読む人は多いが、法華経ゆえに傷をうけた者は一人もいない。だから、日本中の持経者はまだこの経文にあったとはいえません。ただ日蓮一人がよくこの法華経をよみとっているということがいえます。私は身命を捨てて、ただ法を愛するといえます。だから、日蓮は日本第一の法華経の行者です」と書いているほどで、生命が助かったことを不思議に思うとともに、法華経の第一の行者という確信と誇りが心の底から溝きあがったにちがいない。それは自信過剰といえるほどのものだった。まさに、狂気というに近かった。
 しかも、文永五年(1268年)には思いがけないことがおこったのである。蒙古から使いがきて、隷属を求めてきた。だめなら攻めるというのである。彼が『立正安国論』で予言したとおりになったのである。彼はその使いのことを聞いてふるいたつばかりでなく、感動した。自分が絶対者の子であることを瞬間に感じたし、これからはますます絶対者の子として自分の歴史的使命にむかって邁進しなくてはならないと決心した。ある者たちはそれを偶然の一致とみるかもしれないが、日蓮にとっては偶然でなく、あくまで予言であった。予言者の能力を持つ者として、自分を自覚したのである。彼はさっそく、執権北条時宗を始め十一人にむかって挑戦状をつきつけた。時宗にあてた手紙には、
 「謹んで言上致します。正月十八日、蒙古の使いがきたということですが、日蓮が先年、『立正安国論』に書いたとおりになりました。日蓮は未然にその事がわかったので、聖人のようなものです。ですから、もう一度申しあげます。直に建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺などの御帰依を中止して下さい。日蓮でないと蒙古を調伏することはむつかしい。諫臣国にあって初めて、その国は正しいし、争子家にあって初めて、その家は安全です。国家の安危は政道の成否にかかっていますし、仏法の邪正は経文にはっきりかいてあります。
 元来この国は神国であります。神はまちがったことをききいれない。いま日本国はすでに中国に侵略されようとしています。本当に歎かわしいことです。恐ろしいことです。日蓮のいうことをおとりあげにならないと、きっと後悔致します。日蓮は法華経のお使いです。一ヵ所に人々を集めて、いかに生きるのが人間として最もすばらしいかを争論させてほしい。ただひとえにまごころを持つゆえに、このことを申しあげるのです。神のため国のため、君のため、人々のため申しあげるのです」とあった。文字どおり、直言であり、激しい言葉がつらねられていた。神のためにという言葉があるとおり、日蓮は自分の信ずることを権力者にどう思われようといわなくてはならなかったのである。自分自身のためにいわなくてはならなかったのである。そのときの彼は、絶対者と彼だけがいて、その他のだれもいなかったのである。絶対にむかって語りかけるときの人間は非常に強い上に、まじりけがない。

 他宗への攻撃

  日蓮が手紙を出したなかには、建長寺の道隆、極楽寺の忍性の二人もいた。道隆は執権時頼の帰依をうけ、忍性はきびしい戒律と慈善に生き、ともに当時の人々の信頼をうけていた名僧である。だが、法華経信仰に生きる日蓮からみれば、しよせん謗法の人である。日蓮は彼らにむかって、「すみやかに、日蓮の弟子になりたまえ。いままでのように、人間を区別したり、衣食住のために、法を説いてはならない」ときめつけたのである。 しかし、日蓮にとってはいうべきことをいったという満足感よりも、そのために門弟たちの上に訪れる弾圧の方が心配であった。さっそく筆をとる。
 「蒙古の使いのことについて、各方面に私の意見を書いた。きっとその事で、日蓮の弟子に対して、流罪や死罪があるにちがいない。しかし、少しも驚くことはない。各方面への敢言はいうべくしていったのです。皆さんはよく注意して下さい。しかし、妻子のことは注意してほしい。ですが、権威を恐れないでほしい。もし罪過にあえば今度こそ仏果をつかんでほしい」 日蓮は自分に罪過のおよぶことを覚悟していたが、同様に、弟子たちにも罪過がおよぶことを心配して、激励せずにはいられなかった。だが、求道者、反逆者として生きようとする者はいうべきことをいって罪過にあうなら、それもやむえないことと日蓮は思っていた。それを自分はもちろん弟子たちにも求めたのである。生命がけで、法に生きることを弟子たちに求めたのである。日蓮の生きる態度は非常に厳しかった。
 それに対して、今度もまた、幕府は黙殺の態度にでた。しかし、人々のなかには、蒙古が改めてくるかもしれないという不安を前にして、日蓮の教えを聞こうとする者が急速に増えてきた。彼はこの人たちの教導につとめたが、他方で、その行動はいよいよ熾烈になっていった。 文永六年(1269年)再び蒙古からの使いがきたのをきっかけに、日蓮は『立正安国論』を読みなおし、自分の確信をさらに深めたので、あらためて各方面にむかって、『立正安国論』の写しをくばったものである。
 そのあと、日蓮は、
 「師にふさわしくない人を師にすることが多い。世の中の人はほとんどそうである。しかし、いま日蓮は法華経を師として、師にふさわしいものを師にしたが、そのためにかえって、流罪をうけている。死罪にならないのが不満なほどである。そこで、私は各方面に直言している。私はすでに五十歳に近い。余命いくばくもない。いたずらに曠野に捨てん身をいまこそ、法華経のために捨てんと思う」と書いて、ますます法華経の行者であるとの自覚を深めた。
 この頃から、日蓮は法然のみでなく、禅宗も真言宗も律宗も批判し始める。その意味で彼は彼一人だけよしとして、他のすべてを攻撃しだしたのである。
 文永八年(1271年)、さきの忍性は、幕府の命をうけて、極楽寺、多宝寺の僧を総動員して、雨乞いの祈りをした。日蓮は七日のうちに雨が降ればいままでの言をとりさげて、忍性の弟子になるが、もし降らなければ、法華経に帰依せよと申し送った。雨は降らず、忍性はさんざんのありさま。怒った忍性は良忠、道教とともに、日蓮を幕府に訴えた。日蓮は狂気じみているというのである。こうして、その年九月、幕府侍所の長官平左衛門頼網によって逮捕される。
 このとき日蓮は平頼綱にむかって、
 「私を失うのは日本の柱を倒すのと同じである。こうなっては、国に内乱がおこり、他国から攻められる以外にあるまい」といったという。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   6 禅の批判

 日蓮ははじめ、北条時頼にたいして、すみやかにその信仰をやめて法華経に帰依するように求めた。それは時頼が禅的真理に生きていたからである。だが、そのときは禅天魔という批判はなかった。彼が禅天魔といいはじめたのは後のことである。それに、彼の禅についての知識も道元の唱えた禅的真理はまったく知らず、とくに道元が法華経を最もすぐれたものといったことは知らなかった。せいぜい臨済禅について、少し知っていたにすぎない。だから、彼の禅的真理の批判は臨済禅、それも主として、道隆、能任らの行状に対してなしたものであった。 道隆は建長寺の開山であったが、時頼の帰依をうけるほど、ひたすら権力に近づく俗僧であり、求道者、反逆者の真面目のある者ではなかった。『吾妻鏡』によれば、道隆は単に皇帝の万歳をいのり、将軍の無窮をいのるのみで、そこには、仏法と世俗とを混乱し、僧としての配慮がない。
 日蓮が禅天魔といって、禅を攻撃したのは教外別伝ということをふりまわしている形骸化した臨済禅である。法華経までも教外として否定する臨済禅である。「常に坐禅を好み、閑かなる所にてその心をおさめよ」と説く臨済禅は日蓮の説くところと反していた。法華経あっての禅を認めるのが日蓮である。とすれば道元の禅を知っていたら認めたとも考えられる。道隆のように、皇帝や将軍がそのまま位置をしめるような坐禅なら、仏法の意味がなくなってくる。 それに臨済禅が不可説というのが気にいらない。この法は不可説といっているから、道隆のように、皇帝、将軍がそのままで入ってくるのである。
 その他、法によって、人によらざれと説く日蓮には、心を第一にしている臨済禅が満足できなかった。釈迦無視ともとれた。釈迦無視の上に、皇帝、将軍が入ってくるのである。
 ついで日蓮は、真言宗や律宗の批判をする。はじめ彼は真言宗を攻撃せず、『守護国家論』を書いた頃はむしろ弁護している。それが次第に真言宗の攻撃をしはじめるのである。彼が真言宗を攻撃しなかったのは、その頃はまだ彼のなかで、真言と法華が未分化のまま、一つのものとしてとらえられていたのが、次第に真言と法華が二つのもの、相反するものとして、みえてきたためである。
 その理由としては、第一に、真言宗は本尊として、大日如来をあがめて、釈迦をあがめていないことである。
 第二は、真言宗が拠り所としている経典は四十二年間、真実を説かなかったといわれるものに属しながら、法華経よりすぐれているとしていること。
 第三は、真言宗では大日如来を法そのものとし、釈尊を法の影としていること。
 第四は、空海は大日経を第一とし、法華経を第三としているが、これは空海の誤りである。
 第五は、真言宗を祈祷化し、その祈祷をもって真言はすぐれているというのは誤りであることなどをあげている。さらに彼は承久の変で、朝廷側が敗れ、幕府側が勝利したのは、朝廷側が真言宗などに加担したためであるという。
 律宗については、
 第一に律宗は小乗の教えであり、自分のことしか考えないから、自他の救済を考える法華経より劣っている。
 第二は、律的真理に生きる僧たちには、求道者、反逆者として生きるということがわからず、いたずらに賢善の態度をとっているにすぎない。
 第三は、律宗を奉ずる者は形式的に不殺生の戒を守ろうとして、人間が本来殺生の上に生きていることを知らない。まったく自己欺瞞も甚だしいということを知らない。
 第四は、忍性などの僧は慈善に名をかりて、実は自分の名声だけを考えて、慈善をなさなくてならないような人々を生みだしている政治そのものを放置しているなどをあげて攻撃している。
 日蓮の禅宗攻撃といい、真言宗、律宗の批判といい、十分とはいえないまでも、その核心の一端にふれて、少しも妥協しない態度であった。ともすれば、日本人の多くは、真理を考えるとき、あれもこれもといって、つきつめて考えようとしないのに対して、彼はどこまでもあれかこれかと考えた人間として珍しい存在であった。ヨーロッパ的知性を身につけた数少ない人であった。
 このゆえに、日蓮は親鸞、道元以上に、はっきりと世俗的なものと仏法とを対決させて、仏法が世俗的なものに優先するという立場をはっきりうち出したのである。単に優先するだけでなしに、世俗的なものは仏法があってはじめて成立するもの、仏法のないところには、世俗的なものも意味を失うといいきる立場に到達したのである。仏法なしに、ただ世俗的なものにのみ生きている人々をみたとき、日蓮の心は痛んだに違いない。少なくとも、浄土に生き、真言に生き、律に生きる人々は法にめざめているように思えるけれども、日蓮の眼よりみたときには、かえって法そのものにめざめているために悪いと考えないではいられなかった。そのゆえに、より激しく攻撃したともいえる。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   7 佐渡流罪 その1

 命よりも仏法

 逮捕された日蓮は鎌倉をひきまわされたあと、流罪ときまった。流罪地は佐渡である。だが彼は途中の竜の口で死罪になると思って覚悟していた。事実頼綱には彼を死刑にする権利が許されていた。幕府にとって、彼を佐渡に流すより途中で殺してしまうほうが都合がよい。死刑の暗黙の了解である。
 日蓮は八幡宮の前を通るとき、馬から降りて、大声で、「八幡大菩薩よ、汝はまことの神か。かつて汝は和気清麻呂が首をはねられようとしたとき、長さ一丈の月となってあらわれ、彼を救ったというではないか。いま日蓮という日本一の法華経の行者が殺されようとするとき、どうして助けないのか。汝は私を見殺しにしようとするのか。私が首をきられたら、釈迦にむかって、汝は虚の神であるいってやるぞ」といったという。いよいよ竜の口についてのようすを日蓮は『種々御振舞御書』のなかにつぎのように書いている。
 「これがよかろうと思う所に、思ったとおりに、兵士たちによって、日蓮の身はうちすえられた。頼綱は『いまこそ首斬るときだ』という。その時、江の島の方より、月のように光ったものがまりのように光った。十二日のあけがた、人の顔もみえなかったが、その光で人々の顔もみえた。太刀取りの目はくらみ、そのために、兵たちはおそれ、一町ほど退くほどであった。馬より下りる者、馬の上にうずくまる者もいた。日蓮が『皆さんはどうして、このように大過のある罪人を放りだして、退くのか。近くによったがよい』と声高らかに申したが、急ぎよる兵もいない。『夜が明けたらどうする。急ぎ首を斬ったらよい』といっても、兵たちは返事すらしない」
 こうして、一度は首を斬られる運命にあった日蓮の生命は助かって、あらためて佐渡へ流されることになった。彼は自分の生命をかけて、法に生きぬいたのである。その意味は大きい。彼は文字どおり、生命よりも法を重しとしたのである。そこから、彼の新生が始まる。彼のいままでからの脱皮が始まる。
 日蓮は、そのことを『開目抄』に、
 「日蓮といった者は去年九月十二日に首をはねられた。だから、魂魄が佐渡の国に至って、有緑の弟子とちぎりを結んでいるということで人々はおそれるが恐ろしいことともいえない。これは釈迦が日本国の今を写していることで、日蓮の魂塊が生きて、釈迦と同じようになることである」と書いている。彼は一度死んで生き返っている。彼は一度死ぬことによって、肉体に宿る生命から、永久に死することのない魂魄をかちとったのである。肉体をこえた生命そのものである魂魄を自分のものにしたのである。
 だからとて、それは急に日蓮のものになったのではない。義浄房、浄顕房にあてた手紙にもあるように、彼ははじめ死を覚悟していた。しかし、法華経のために死ぬことを喜んでいた。死んで後、彼らのためになろうと思っていた。要するに、依智にいる頃の彼の心境である。それが依智から寺泊が向かう頃には絶対死なぬと変わり、寺泊に到着する頃には、肉体は死んでも魂魄は永遠に生きつづけるというように変わるのである。彼のすさまじい前進がこのわずかの間におこるのである。死すべき人間日蓮から、永久に死することのない人間日蓮に転生するのである。死をくぐりぬけるような体験のなかで、それをなしとげたのである。それゆえに、昔より、佐渡に流される前と佐渡に流された後の彼の違いを問題にするのである。

 日蓮の雄叫び

 寺泊についた日蓮はこの北国の漁港で、便船をまったが、その問に、この地で『寺泊御書』を書いている。
 「ある人日蓮を批難していう。『教えを聞く者の能力もわからずに、粗雑な教えをたてるから災難にあうのだ』と。ある人は『折伏のごときは深い修行を積んだ人のすることである。他人の好悪長短を説くなという考えとは違っている』と。ある人はまた、『私も法華経のすぐれていることを知っているが、いわないだけである』という。
 そんなことは、日蓮もよく知っている。だが,中国の春秋時代の人がそうなることを十分に知りながら、玉をふくんだ石を王に献じたところ、王はその石の真価をみぬけないままに、その男の足をきった。和気清麻呂はいうべきことをいったため、道鏡によって殺されようとした。人々はこの事実をみて、笑う。けれども笑うた者は後世によき名を残していない。日蓮もこのようなものである。
 法華経には、『もろもろの無知の人が批難する』とある。日蓮のことはこの経文どおりである。お前たちはどうしてこの経文の意味を読みとろうとしないか。また、『つねに大衆のなかにあって、私たちの過ちをそしろうとするために、国王、大臣にむかって誹謗して』とか、『しばしはいうべきことをいって、追放される』という言葉が法華経にある。この経文にあるとおり、日蓮は二度までも流罪になっている。法華経は過去、現在、未来永遠の説法であり、私は不軽菩薩のようなすぐれたものである。
 いまの中国、日本に流通している法華経はインドの法華経の要約であり、とくに、人々のために説いたものである。この経文にいまの世とあるように、いまの世のために説いたものである。日蓮は沢山の仏にかわって、いまこのことを説くのである」と。
 日蓮は絶望のなかで、彼を生かしている永遠なものを感じとったのである。永遠なものと感応したといってもよい。絶望のはてに、自分が霊なるものであるということを知ったのである。それは錯覚であるかもしれない。錯覚にしろ、日蓮はそれを感じたのである。ここに、彼を彼独自の存在にしていった理由がある。
 そこから、日蓮の新たなる雄叫びが始まる。「汝らどうしてこの経文どおりに生きないのか」。あるいは「日蓮はこの経文を読んだ。汝らはどうして読もうとしないのか」と。彼のこの叱咤こそ、心ある者を真に法に生かそうとする彼の愛情でもあった。法に生きることは厳しく、生命がけのことであり、生命がけで、世俗的なことを全否定しなくてはならない。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   8 佐渡流罪 その2

 達人の境地

 これまで、支配される人間の側から、政治の問題を考えることのなかった時代情況のなかで、彼は政治の問題を考えることによって、人々の生きる世の中のありさまを変えようとしたのである。人々の生きるにふさわしい世の中にしようとしたのである。しかも単に世の中をよくしようとしたのでなく、あくまで、法・真理のかかわりのなかで世の中を正しくしようとした。
 人間はどう生きるのが正しいか、人間はどのように生きねばならないか、またどう生きるのが真に幸福であるかということをみきわめたとき、あるべき世の中をあきらかにする。彼はそれを考えるとき、仏法をみきわめようとしたし、求道者、反逆者の道を歩みはじめたのである。
 こうして、日蓮は佐渡に流された。船は佐渡の東南岸、松ヶ崎に着き、いったん新穂の本間六郎左衛門重連の邸に入り、それから、邸の後にある塚原の堂に連れてゆかれた。塚原とは墓原の意味で、そこは死人を捨てる所であった。
 日蓮は後に当時のことを思いだして、
 「十一月一日、六郎左衛門の家のうしろ、塚原と申す山野のなかに、みやこの蓮台野のように死人を捨てるところに、一間四方の堂があり、そこは仏像もないような所であった。板の間はあわず、壁はすきまだらけで、雪が降りつもって消えない所であった。ここに、持ってきた釈迦像をおいて、敷皮をひいて夜を明かしたものである。夜雪雹が常に降り、昼は日の光もささないありさまで、心細い住居であった。かの李陵が岩穴で責められ、法道三蔵が顔にこてをあてられて責められたのに似ている。でも檀王が阿私仙人に責められて、法華経の功徳をえたようにうれしい。いま日蓮はこの世に生まれて、妙法蓮華経の教えをひろめて、このような責苦をうけている。天台智者大師も一切世間多怨難信の経文を行じてはいない。このようにかえりみられなかった経文はただ日蓮のみが行じたところである。無上の悟りは疑いない。
 相模守殿は日蓮を無上の悟りに導いたし、頼綱こそ救いの神であるし、念仏者のような者も日蓮にとって導きの人である。だから、国王が仇にするのは、法を行じている証である。釈迦のためには、頼綱のような者こそ、いいのである。いまの世の中をみるに、人をまともに生きさせるのは、味方だといっている人よりもむしろ敵の方である。
 日蓮が仏になった第一の手助けは、忍性、道隆であり、念仏者であり、頼綱、時宗である。こうして過ごしているうちには、庭に雪がつもって人も通わない。堂には強い風が吹いて訪れる者もいない。日蓮はこのようななかでひたすら法華経をよみ、口に南無妙法蓮華経と唱えている」と書いている。
 日蓮はしんしんと降りつもる雪のなかでこのようなあばら屋で、ただひたすら、法華経を読みつづけたのである。彼はそうしたなかで、いまさらのように、法華経の行者が悪口をいわれるだけでなく、迫害され、追放されたことを知るのである。その点では天台智者大師でさえ彼に及ばぬのである。頼綱や時宗をなつかしみ、最大の師であるという彼の境地はまさに、達人のそれである。普通このような環境におかれれば、人は日ならずして、死ぬるであろう。彼の生命力がいかにおうせいであったかということであろう。

 阿仏房と千日尼

 それに日蓮を助けた人がいるのである。その人の名前は阿仏房といい、はじめ、順徳上皇についてきた武士であったが、上皇が亡くなったあとは、念仏者となり、その墓を守っていた。だから、日蓮を殺そうとして、彼を訪れた者であるが、日蓮に感化されて、逆に、彼の教えをきく者となったのである。
 そのとき、日蓮は五十歳、阿仏房八十三歳であったという。八十三歳の彼が果たして彼を殺そうとしたかどうかはわからぬ。ただそのように言い伝えられてはいる。いずれにせよ、なにかの理由で彼を訪ね、たちまち、彼の信者になったということである。そればかりか、彼は日蓮の保護者になろうとしたのである。
 それからの阿仏房は妻の千日尼とともに、くる日もくる日も遠い道をものともせずに、通いつづけたのである。ある意味で、日蓮の生命は阿仏房、千日尼のあることによって救われたといっていい。阿仏房と千日尼は、日蓮に近づいてはならないという掟を破った者として、所払いになり、罰金までもいい渡されている。それでも日蓮を捨てず通いつづけている。
 このように、日蓮は先に伊豆に流されたときも一漁師に生命を救われている。そんなことがたびたびあれば、自分の生命があるのは偶然でなく、神のおぼしめしと思うようになったとしても不思議ではない。
 日蓮がこのことを感謝して、阿仏房に書いたという一文がある。果たして、彼の書いたものかどうかは不明であるが、よく、彼の心情をあらわしている。
 「日蓮このたび赦免を得て、鎌倉に帰りました。あなたが育くんでくれなければ、私の生命はなかったであろう。またお許しをうけることもなかったであろう。私一代のなしたことはただあなたのなしたことである。御経に、『天のすべての童子がかしずき、刀杖を加ええない』とありますが、まったくありがたい御経と思う。そうすれば、あなたは神の御使いか。貴方がなくなるときは日蓮日蓮とお呼び下さい。そのとき必ず私が迎えにいきましょう」と。
 また日蓮が後に千日尼にあてて書いた手紙には、
 「しかしながら、日蓮が佐渡の国に流されたので、人々は国主に随って、私を敵視した。念仏者や真言師たちは佐渡に流されないように計って、忍性たちは北条宜時殿の手紙をもたせて、私を亡きものにせんとしたが、ふとしたことで生命が助かった。
 地頭や念仏者たちは日蓮の庵室にたちふさがって、人々が訪れないようにした。しかし、あなたは阿仏房に櫃をせおわして、夜中にたびたびきたこと、永久に忘れられない。ただお母さんの生まれ変わりのように思う。そのゆえにあなたたちは所払いになり、罰金までとられたが、いままでどおりに通ってくれた。
 法華経には、過去に多くの仏を供養した人は今生で退転することがないとある。あなたもきっとそういう女性であるにちがいない。その上に、近くにあるときは親しくても、遠くになったら縁遠くなるものである。それなのに、この五年間に三度まで佐渡よりここに夫をつかわしている。大地よりも厚く、大海よりも深い御心である」と書いて、その温い心を感謝している。
 この阿仏房や千日尼こそ、日蓮と同じように、求道者、反逆者の道をつらぬいた人というべきである。求道者、反逆者日蓮と行をともにすることによって、反逆者となったのである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮) 

 

   9 佐渡流罪 その3

 火と剣と死

 流罪後の日蓮に対して、弟子たちは彼の戦闘的態度をやわらげるように意見したが、それに対する返事として富木胤継にあてて書いたのがつぎの手紙である。四条頼基や妙一尼などにもみせるようにといっている。
 「世の中に人の恐れるものは、火と剣と死であろう。牛馬ですら死を恐れる。まして人が死をおそれるのは当然である。癩病をやむ人でも生命を惜しむ。まして、血気盛んな者はいうまでもない。
 昔雪山童子は法を聞くために、自分の身を投げ出し、楽法梵志という者は自分の皮をはぎ、自分の血で法を書きしるしたというように、生命以上のものはないのだから、これを捧げて法をならえば必ず覚者となる。生命を捨てるほどの人が法のために他の宝を惜しむようなことがあろうか。法のために財を惜しむ者が財にまさる生命をどうして捨てようか。一般の世の中でも、重い恩をうければ生命を投げだして報ゆるものである。主君のために生命を投げ出す人は少ないようでいて、実はその数は多いのだ。男性は恥のために生命を捨て、女性は男のために生命を捨てる。魚は生命を惜しむために池に棲んでいるが、わざわざ池の浅いのをなげいて、池の底に穴をほって棲むほどである。だが餌につられて釣り針を飲んでしまう。鳥は木に棲む。だが餌にたぷらかされて網にかかる。人もまたこのようなものである。世の中の財宝や地位のためには生命をささげるが、大事な法のために生命をささげる者はあまりいない。だから覚者になる者は少ないのである。
 仏法には摂受、折伏の二つの道があるが、それは時代による。たとえていえば文武二道のように、文を用いる時もあり、武を用いる時もある。されば昔の聖人は時によって、仏法を行じた。破戒無戒をそしり、持戒正法をまもる時代にはかたく諸戒をまもるとよい。法に生きることを喜ばないような時代には国王ととことん争って、法に生きるようにしなくてはならない。仏法がいろいろといり乱れてどれが正しい仏法かわからぬ時代には、正しい仏法を明らかにしなくてはならない。畜生の心は弱きを威し、強きをおそれる。いまの学者は畜生のようなものである。弱き智者を侮り、邪悪な権力者をおそれる。強敵を降伏させてはじめて、強い力士であるといわれるように、邪悪な権力者を破り、邪法を破る者が真に法に生きる者である。例えば日蓮のような者である。決しておごっていっているのではない。ただ正しい法を惜しむ心が強いからである。おごる者は強敵にあえば必ずおそれる。正しい法は時にあえば必ず生きるものだし、正しくない法は死んだも同然である。
 宝治の合戦以来、すでに二十六年、いままた合戦がおこっている。悪人が法を破り、仏弟子である者が逆に仏法を破っている。法に親しい者が法を破るのである。仁王経には『聖人去るとき、七難おこる』とあるが、聖人のいないためにおこったことである。
 日蓮は聖人ではないが、法華経に説くところを行じているから、聖人のようなものである。それに、世の中のことを知りつくしているから、私の説くところにも誤りはない。それだから、私の説くところを疑ってはならない。『日蓮はこの日本の頭であり、日月であり、鏡であり、また眼である。日蓮去るとき七難おこるであろう』と、去年流罪になるとき、大音声でいったのも、このことである。それからわずか数十日で、国内に謀反がおこっている。さらに、その上、他国から攻められるようなことがおきたら、ほんとうに嘆かわしいことである。
 しかし、世の中の人たちは、『日蓮が真の智者ならどうして流罪になるのか』という。これは日蓮がかねてから知っているところである。日蓮がほんとうに法を行じ、法を行じようとしない権力者を攻撃したからである。その日蓮を流罪にして、権力者たちが喜んでいるのは気の毒にも恥を知る心がないためである。正しい法を批難する人たちは自分たちが責められるのではないかと恐れているから、私が流罪になるのを一度は喜ぶであろうが、後にはきっとしまったと思うにちがいない。すでに、鎌倉一門を亡ぼす者がそのなかにいたのである。法華経に、『悪鬼その身に入る』とはこのことである。
 しかし、日蓮の方にも責められる理由がある。日蓮のいうことのわからない者は日蓮を批難するし、私には説得できない者があるという反省が足らない。愚者には侮られてもやむを得ないが、私の力が足らないことを反省しなくてはならない。
 日蓮はそれだけでなく、以前は私もまた謗法の徒であった。その罪は重いし、消えようがない。いま少し法に生きたとして、その罪はなくならない。
 般涅
オン経には、『過去にいろいろの罪をなし、いろいろの悪行をなせば、その罪のむくいとして、人々に軽んじられ、権力者から責められる』とある。
 これは、もし日蓮がいなかったら、うそということになる。この経の文は日蓮一人の上にあてはまっている。人を軽んずれば、必ず人より軽んじられるようになる。だが日蓮のいまの苦難はそんなものでなく、日蓮があまりに激しく、法の敵を攻めることによっておきたのである。苦難が一度におこったのである。国王、大臣でも法に生きない者はすべて法の敵であり、法に生きない人々も法の敵である。国王、大臣もそのことに気づこうとしないのである。黙っていると、それに加担することになる。そのためにいっているのである。日蓮の教えをきく者たちが、日蓮がこのように流罪になると、疑いをおこして、その教えを捨てるだけでなく、かえって日蓮を教えようとしている。このような馬鹿どもは、法を云々する資格のない者である。『日蓮御房はあまりに強情である。私たちはやわらかに法華経をひろめよう』という者はまったく笑止である。
 追伸
 佐渡の国には紙もないし、一人ひとりに手紙を出すのもわずらわしい。それに一人でももれてはうらまれることになろう。この手紙を志のある人たちでよく読んで、心の拠り所にしてほしい。生きていく上に、なにが一番重要かということがわかれば、枝葉末節のことはものの数ではないようになろう。」

 日蓮は吉田松陰が「私が権力者を激しく攻撃するから、権力者の弾圧も激しい。この弾圧は自分がひきだしたようなもの。私の攻撃がゆるめば弾圧もゆるくなろう」といったように、自分の攻撃がこの弾圧をみちびきだしたことを知っていた。知っていわなくてならなかったのが日蓮である。それが日蓮にとって生きるということであった。妥協して生きることは法に生きようとする者にとって、最大の恥であった。法に生きようとする者で、この世をみたすということしか考えないのが彼である。彼からみると、単に地位、財産だけを求めて生きている権力者、一般の人人こそ、なによりも人間らしくない者であった。この人間らしくない者が得々としているありさまをみたとき、日蓮は獅子吼えをせずにはおれなかったのである。
 だが、日蓮はそのように考えただけでなく、理解できない人、さらに理解しようとしない人に対しては、これまで以上に断乎として説かねばならなかった。ことに、そういう人々に対しては、文永十年(1273年)、「うれしきにつけても涙。つらきにも涙。涙はなにごとにつけても相通ずるものである。現在の大難を思うについても涙。未来の成仏を思うても涙。日蓮は泣かぬことはない。この涙は世間なみの涙でなく、ただ法のために流す涙である。それゆえに、うれし涙ということができる」と書いたように、日蓮は戻しつつ説いたのである。自分の足らないことに涙し、相手の無理解に対して涙しながら、ただ涙のうちに説くのである。相手がわかってくれたときにも当然涙する。要するに説得という行為はそれが摂受であろうと折伏であろうと、涙を流しつづけることでしかない。いってみれば、涙を流しつづける行為は説得してやむことがないということであり、神のために説得するということである。無私の行為である。このような姿勢を日蓮は佐渡流罪のなかでつかむのである。人間を相手にしながら、人間を相手にしない態度は非常に強い。これこそ、法に生きるだけでなく、法にむかいあった人の態度である。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   10 法華経

 すべての人が救われる

 日蓮は佐渡にいるとき、多くの手紙を書いた。おそらくは遺言のつもりであったろう。その手紙と並行して、彼の主著ともいえる『開目抄』と『観心本尊抄』も生まれる。彼は法華経に生きることをもって人間の唯一至上の生き方であると考えたが、では日蓮にとって、法華経に生きるとはどういうことであろうか。彼は主著のなかに、法華経に生きるということをどのようにみているのであろうか。
 一言にしていうと、二乗作仏と久遠成実ということであろう。
 二乗とは声聞であり、縁覚である。その声聞と縁覚も覚者になれるという思想である。声聞とは自分の救いだけを考えている者であり、縁覚とは釈迦の教えをきかず、自ら救いを発見した人のことである。
 法華経の出る前は二乗作仏ということはなかったが、法華経によって、声聞も縁覚も救われるようになったというのである。それだけでなく、どんな悪人でも、これまで救われることのないといわれた女性も、同様に救われると説くのが法華経である。日蓮は法華経において、人間は平等に救われる存在になったとみるのである。ある特定の人間だけが救われるのでは彼は不満であった。
 すべての者が救われると教える法華経こそ本物であった。そこで、二乗作仏ということを法華経の特徴であると考えた。
 もう一つの久遠成実とは、釈迦は歴史的人間であるばかりでなく、久遠すなわち遠い昔よりすでに法そのもの、真理そのものを体得した(成実)仏であるというのである。永遠の仏であり、不滅の仏であり、永住の仏であるというのである。このとき、釈迦はこの世の相対の上に存立するものから、相対をこえた絶対という、普通では考えられない存在になるのである。
 日蓮はこうして、釈迦を唯一無二、不滅常住の覚者にした。それを法華経が説いているとみた。
 この二乗作仏と久遠成実ということが法華経の真髄であり、他の経が絶対に説いていないところであると日蓮はみたのである。このように考えることで法華経はいよいよすぐれたものになった。

 唱題成仏

 日蓮はこのように法華経の真髄が二乗作仏と久遠成実であるということを明らかにして、信ずるとともに、他方では、南無妙法蓮華経と唱えることを人々にすすめている。
 日蓮には南無妙法蓮華経と唱えることが法華経の二乗作仏と久遠成実を信ずることと同じにみえたのである。彼は「これまで法華経を持することがあっても、口に南無妙法蓮華経と唱えず。これは信じているようであって信じていないしるしである」ともいっている。
 人前で唱えるということは信じているゆえにできるのであり、いいかげんな信心ではいえないというのが日蓮である。ここから、唱題成仏という考えにゆきつくことになる。
 日蓮がしばしば佐渡で高い山にのぼって、大声で叫んでいたと人々がみたのは、おそらく、この唱題であったのであろう。そのときの彼は涙を流しつづけていた彼のように、神と彼の間に介在するものはなく、ただ無心に神にむかって祈りつづける彼しかいなかったであろう。祈りという行為のなかに没入している彼だけがある。それはこの世を浄土にしたいという一念だけである。祈りだけである。
 南無妙法蓮華経と唱えることは、この世を永遠にしたい、浄土にしたいという一念だけである。南無妙法蓮華経と唱えることで逃避するのでもなく、自己満足にひたろうとするのでもなく、逆にあるがままの現実を直視し、あるがままの人間をみつめて、それらをどうかしようと考え始め、その考えにもとづいて実践しようとすることである。
 だから、『観心本尊抄』に、
 「いまここにある汚れたる世の中こそ、私たちが浄土にしなくてならないものである。仏というもの、法というものはただ今にある。ただこのときの仏と法が大事である」と書いたのである。
 この世を問題とし、ただこの世に生きつづけようとした日蓮こそ、まさに時代の子である。

 

                          

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   11 漂泊の思い

 権力者への絶望

 日蓮は文永十一年(1274年)二年余の佐渡流罪の後、鎌倉に帰ってきた。鎌倉についたのは三月二十六日。
 四月八日にはもう平頼綱に蒙古についての対策を献言している。とくにこれまでと異なるところはなかったが、二年余の苦しい流罪から帰ったばかりの日蓮が、わずか十日余りで先よりも激しい口調で献言したことは彼の生命力がいかにおうせいであるか、また法華経への信頼がいかに強いかというしるしであった。
 日蓮は自分の生命を超越して、発言したのである。まったく悲壮というしかない。だが、今度も平頼綱は彼のいうことをとりあげなかった。それから日ならずして、鎌倉に大風が吹いた。彼はこれを真言師定清の祈りのためといった。というのは、これより先、ひでりが続き、そのために雨が降るように定清は祈ったのである。雨のかわりに大風が吹いたのは真言師のせいだというのである。
 日蓮の絶望感はひどかった。加えて孤独感である。ひと月後、弟子たちのとめるのをふりきって漂泊の旅にでる。中国の侵略で鎌倉があぷないとみたためであるという人もいる。そういうこともあったかもしれないが、なにより日蓮を襲ったのは絶望であり、孤独であった。どんなに彼がいっても、権力者たちは彼の言葉に耳をかたむけない。
 たしかに、佐渡滞在中に、日蓮は神とむきあう者となり、ただ祈るだけで結果を問わない境地に到達していたが、それでも自分の心にわきおこる絶望をどうすることもできなかったのであろう。
 鎌倉をでた日蓮は相模酒匂、駿河竹ノ内を経て、身延に辿りついている。そこから、日蓮は富木胤継にあてて、つぎのような手紙を書いている。
 「いまださだまらずといっても、この山中、しばらくは居ろう。結局は一人になって日本中を流浪すべき私です」と。
 この身延にはその後、十年近くとどまるのであるが、彼にとってはあくまで一時の滞在で漂泊の思いは強いのである。わが身を流浪すべき人間とうけとめたことは、献言を用いられない所からきた流浪にせよ、実は求道者、反逆者として生きようとする者の宿命であった。なにものも自分の身にうけず、もたずの生活こそ、さらには、生命あらんかぎり、求めていく姿こそ、本物である。ただ日蓮の場合、流浪をつづけるかわりに、隠者の生活をえらんだ。隠者とて流浪する人間と変わらない。
 日蓮の漂泊の思いは、自分のつかんだ法・真理を自分のものにすることなく、全国津々浦々の人々に分かちあたえようとしたものである。いままでのように、権力者たちだけに向かい、その人たちに眼をつけていた自分が誤まりであった。彼はそのことを絶望のなかで発見したのである。権力者たちによって、自分の考えを達成せんとしたことが誤っていたのである。大事なことは、一人ひとりの人間に正しい生き方を教えて、ともに生きることであり、権力者たちはそんな民衆の意志を無視できなくなればよいのである。

 布教への情熱

 だから、日蓮の漂泊の思いは、新しい彼の出発でもあった。彼が権力者たちに断々乎として進言したことはいい。だが、そのことが誤りであることに気づき、全国の民衆とともに歩まんと決意したことである。人間如何に生くべきかを全国を歩んで、教えようとした日蓮の行はまったく壮というしかない。
 その思いは、わずか、ひと月でやんだことになる。しかし、身延にとどまった日蓮は、この地を根拠地として、多くの弟子たちを養成し、その弟子たちによって、日本中の人々を改造しようとしたのである。いままでの弟子たちの信仰や信条を深めるために、数多くの手紙を書いたことはいうまでもない。あたかも、吉田松陰がその手紙によって、弟子たちを教育したように、手紙を十年間にわたって、書きつづけた。手紙によって、一人ひとりの心のなかに、奥深く楔をうちこんだのである。これこそ、本当の隠遁である。人はともすれば、表面的な華々しい活動に心うばわれる。しかし、そんな活動では人間の心まで変えることはできない。人間の心を変えない教育はまだ本物ではない。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   12 最 期

 転向のいましめ

 日蓮が仮りの宿と思って立ちよった身延がとうとう彼の住みつくところとなった。身延は彼の信者波木井実長の所領である。おそらく波木井氏の待遇がよく、ずるずると居すわることになったのであろう。
 しかし、身延に居すわりはしたが、初一念が全国の人々に対して法、真理を説き、人々とともに生きることにあったから、それと同じような思いで日々を暮らした。
 日蓮が身延についた二ヵ月後には、南部兵衛七郎の子時光から手紙がきた。父兵衛七郎の縁で、その未亡人やその子と新しく結びつきができたことが彼にとって非常にうれしかった。それは彼の教えが次第に根をもって生きてきているしるしであった。
 また、妙一女という女性に、現在残っている手紙でも三通書きしるして、懇切丁寧に教えている。即身成仏ということについて、妙一女がわかるまでとことん書いている。
 さらに、弟子の三位房と当時鎌倉で人気のあった竜象房という者との間に論争があり、それに関係した四条金吾が讒言され、窮地にたったが、そのとき、四条金吾に対して、細かい注意の手紙を書き、池上宗仲が父親に勘当されたときには、これについて綿密な手紙を書いている。これらの手紙をみると、彼が一人ひとりの人間に対して、いかにその条件、能力に即して、ゆき届いた配慮と助言をなし、その人間を根底から変えようとしたかがわかる。細心な注意力、深い観察力、鋭い洞察力が常にその弟子を前進させている。
 「一度改宗したものは、再び真実の信仰をもちにくい」という手紙を書くときの日蓮は自分にも弟子にも厳しかった。それゆえに、そのときの彼は信仰を貫いてほしいという思いでいっばいだった。一度思想的に転向したものは、自分の転向を合理化するために、また敗北感や劣等感をごまかすために、反射的に転向前の立場を攻撃する。一度自分を売りわたした者はつぎには容易に自分を売りわたすものである。このような手紙をうけとった弟子たちが大いにいましめあったことはうなずける。

 元冠

 日蓮が身延に入った年の十月、すなわち文永十一年(1274年)、蒙古は大軍をもって、壱岐、対馬や博多湾に改めてきた。この地方の人々の受けた被害は大きく、日蓮の例の表現によると、「一人も助かるものがなかった」ほどである。
 日蓮は自分の予言をあらためて信じた。中国を隣国の聖人とまでいったが、大風のためにその中国が敗退したことは彼に意外であった。でも、その意外さをのりこえて、蒙古の襲来は彼の満足するところであった。
 さっそく筆をとって、「それ仏法を学せんと思わば、必ずまず時をなろうべし」ではじまる『撰時抄』を書きはじめた。そこには、「それだけの理解力のない場合、法をきかされると、きまって法を批難するものである」とか、「場合によっては批難されても説かなくてはならない。一人が信じても、ほかの者たちが批難するときは説いてはならない時もあるが、場合によっては、すべての人が批難しても、強いて説く必要がある時もある」という言葉もある。彼は『撰時抄』を書くことによって、自分はもちろん弟子たちに法のために死することを強く求めたのである。
 建治二年(1276年)師道善房がなくなったのをきっかけに、『報恩抄』を書き、師の墓前でこれを読んでいる。
 弘安二年(1279年)日蓮五十九歳のとき、またもや蒙古から使者がきた。執権時宗はその使者を斬って覚悟のほどを示したが、日蓮はかえって、「罪なき使者を斬り、罪ある念仏者たちを放置しているのはうなずけない」と批判している。彼のいう邪教の徒を罰すれば、蒙古来襲など自然になくなるというのである。
 翌弘安三年から四年にかけて、蒙古が来襲し、文永十一年のときにまさる人々の被害であった。日蓮にとっては、国政のあやまっているために庶民大衆がいわれなく苦しみ嘆いているので、まったく苦々しい限りであった。しかし、彼の予想に反して、このたびも暴風雨のために蒙古は敗退して、彼の予想をうらぎった。そうなると、彼の建言を用いて、世の中をよくするきっかけはいよいよ遠ざかった。彼の絶望はますます深まるばかりである。
 残念なことに、日蓮の予言に反して、蒙古が敗退したことについては彼がなにを思い、なにを考えたかについて、一行も見当たらない。沈黙する以外になかったともいえるが、彼のことゆえ、奇想天外の発言も決して考えられぬことではない。

 

 だが、そのまえから、時々、日蓮は身体の工合がわるかった。佐渡時代の無理に加えて、食物も時に欠くような生活と山中のきぴしい寒さがよほど身体にこたえたのであろう。その頃に、南条兵衛七郎夫人に送った手紙には、「年々身体も弱り、心も老いこんでしまい、今年はまた春から病気になり、秋をすぎ、冬になるまで、日毎に体力も衰え、病気も進み、この十日あまりというもの、食欲もほとんどなくなり、大変な寒さに弱りはてています。身体は石のようにひえきって、胸など氷のように冷たくなっています」とあり、彼の身体が非常に弱っているのがよくわかる。これでは蒙古の来襲に反応する力はないであろう。 
 翌弘安五年(1282年)には、十年近く一歩も外にでなかった日蓮が常陸の湯につかるために山を下り、池上まで辿りついたが、二度と旅にでることはできなかった。
 そこから、日蓮は絶筆ともなった手紙を波木井実長に書いている。それには、「いずれまたもどるつもりですが、病気の身でありますから、いつどうなるともわかりません。しかし、日本中に、身のおく所もない私を、九年もの長い間、なにくれとなくお世話下さった御心のほどは、お礼の申しあげようもありません。どこで死ぬことになろうとも、墓は身延の沢にして下さい」とあった。死を覚悟して、波木井氏に書いたものである。それからまもなく、彼は亡くなっている。六十一歳である。戦いに生き、戦いに死んだ日蓮の生涯はこのようにして閉じたのである。遺言どおり、遺骨は身延にまつられた。

   

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   13 人間平等の思想家

 日蓮と道元、親鸞

 日蓮は親鸞、道元に対して、直接批判はないが、親鸞の師法然の教えに対し、また禅宗の一派臨済の教えに対してはそれなりに鋭い批判を展開している。それらについてはすでにふれた。ここでは、親鸞におくれること約四十年、道元におくれること約二十年の彼がいかに生きることによって彼らとは違った法・真理を捨身の態度で生きぬいたかということである。
 一言にしていうと、親鸞の切り開いた易行道、道元の切り開いた難行道を日蓮は日蓮なりに、それらのいわんとするところをそれぞれに採用しながら、彼らの思想をのりこえて、みずからの思想を展開したということである。親鸞はそれまでかえりみられなかった人々、愚者、劣者として一顧もされなかった人々に、人間としてほんとうの生き方があるのだということを説いた。
 それに対して、道元は人間が修行しなければ、たとえ教えのとおりにしても効果があらわれたいと教えたのである。たしかに、生活におわれて、師の教えをそのまま聞くしかない者は多い。しかし、反対にその教えを自分でたしかめる以外、どうしようもない人間もいる。その意味で、親鸞的人間も道元的人間もいる。そのいずれであるかは、宿命のようなものである。ただ、世の中には、親鸞的人間が道元の道を辿り、道元的人間が親鸞の道を辿ろうとするところに悲劇がおこる。それこそ苦労して法・真理に到達しない。
 ここに第三の道がある。親鸞的人間は唱題によって救われ、道元的人間は法華経を行ずることによって救われるのである。日蓮のこの立場は、二人をふまえることではじめて可能だったのである。今日からみて、成立月日があやしいとされる法華経に彼が到達したことは問題でなく、ただ二人を止揚したところに価値があるのである。
 しかも、日蓮は親鸞が智者に対して愚者があり、勝者に対して劣者があり、その愚者、劣者にも救いがあるといったのに対して、彼は生存者すべて愚見、戮見の者であり、いわゆる智者とか愚者と区別しているものも、単に世俗的のことで、法・真理の前には同じであるといいきったのである。
 法・真理を求め、生きる者が尊く、価値があるのである。それ以外はまったく人間として、平等であるとみたところに、日蓮の真骨頂がある。彼が自分を漁夫の子と強調したのも、漁夫の子でも法に生きることはできると強調したのである。いわゆる貴族の子も漁夫の子も同じように、時代に真剣に生きようとすれば法にめざめ、法に生きようとせずにはいられないということである。

 時代の子として生きる

 親鸞が人間として生まれながら、まだ人間として認められていない人々に、人間としての誇りと自信をあたえたことは非常に尊い。そして、道元が法・真理というものを生命がけで中国に求め、それを伝えたことも尊い。二人によって、はじめて人々が人間らしく生き得ることを示したのである。
 日蓮ははじめて、法・真理に生きることが人間であり、法・真理の前にはどんな人間も平等であるといいきったのである。しかし、世の中には、法・真理にみむきもせず、ただ世俗的富や地位、人情をのみ求めて生きている者が多い。彼が主として、権力者たち、財産や地位の亡者にすぎない者に強く迫ったのもそのためである。彼らこそ、逆に人々への影響力を強くもち、害毒を流している人たちである。人々の生きている間の幸福ということをなによりも考えた彼は、まず彼らに求めずにはいられなかったのであろう。
 親鸞は庶民とともに生きて、庶民の生き方を示し、道元は主として政治する者が法・真理にめざめることを欲し、日蓮はすべての人間がそれなりに法・真理に生きるとき、この世は浄土になるといった。 
 彼らはともに、その時代の子らしく、求道者、反逆者として生きた。ことに日蓮は時代の子として、前世代の人間に満足できず、その時代の思想をさぐり、それに生きぬいた。三人はそれぞれに立派であるというしかない。前世代の人間に不満なところに、時代の子として、求道者、反逆者の道がひらかれている。それは三人に共通している。
 とりわけ、日蓮が法に生きながら、同時に、世俗のなかに生きている者を少しの妥協もなしに責めたことは特筆されてよい。そのような人々が法をゆがめ、法と世俗的なものとを同居させた唯一の人々である。謗法の最たる者といえよう。法が片隅におしやられ、世俗的なことが第一という風潮をつくったのである。
 日蓮はそれに対し、果敢に闘争を開始した。法あっての世俗であり、法のみが尊く、法に生きてはじめてほんとうの人間であるといったのである。仏法をいわゆる宗教のなかに押しやり、いわゆる宗教がなくても、人は少しも痛みを感じないようにしたのは、世俗的なものと共存する仏法にした者の責任である。日蓮のように、仏法あっての世俗的なものと問いつめる態度こそ大事である。日蓮において、はじめて、仏法が正しい位置をあたえられたといってもいい。
 その点では、親鸞、道元もともに日蓮の前に出現すべき人であった。とても、この大事業が日蓮一人の手でできたとは思えない。しかし、この大事業も彼なき後に、死んだままである。彼はあの世で涙を流しつづけているといっても過言ではあるまい。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

     終章 釈迦とマルクス

 現代に通じる三人の生き方

 親鸞、道元、日蓮の三人がいわゆる宗教家でないことは、明らかとなった。三人が追求してやまなかったものは、再三にわたって述べたように、人間として“今日”をいかに生きなければならないか、人間としてどうあらねばならないか、人間としてどう生きれば幸福なのか、という人間にとっての根本の問題であった。
 もちろん、この問題は、人間であればだれでも追求できるものだし、宗教に関わりのある特定の人たちだけのものでないことは当然である。人間が人間であるためには忘れてはならない問題である。その点でほ、彼ら三人は、人間としてぎりぎりのところでこの問題を追求したといえる。それなのに、これまで、彼らの追求してきたものを、いわゆる宗教のワクのなかにおしやり、多くの人々とは無縁であるかのように思わせてきたのは、いわゆる仏教学者の責任である。いま忘れてならないことは、彼らのとりくんできたものは、すべての人間が考えなくてはならないものを考えてきたということである。それを考えないものは人面獣心だということである。彼らの追求したものを、いま正しく位置づけることが、彼らを考えるにあたって、最も必要だということである。すなわち、彼らは単に宗教家や宗教に志す人の師であるばかりでなく、全人間の師であるということである。
 どうして、すべての人間の師であるかというと、人間が人間として生きるということは、時代の子として、時代そのものが生みだす課題と真正面から対決して生きるということであり、そのためには、前時代の思想というか、それを克服して、いまの時代的課題にとりくんで生きるということだからである。そのとき、はじめて人類社会は日々に進歩し、発展し、人間の幸福は深まり、広まっていく。前時代の思想、それを克服するとは、常に前時代、その前世代からみて反逆者として生きるということであり、いまの思想を見出すために求道者として生きるということである。だから、人間が人間として生きるということは、反逆者、求道者として生きるということであり、反逆者、求道者でないものは人間として生きていないということである。彼らは、反逆者、求道者であることで、すべての人間の「生」の師といえる。それほどに、彼らはすぐれた反逆者、求道者として生きたのである。いままでは反逆者、求道者として生きたものを特別視してきたが、あらためて、反逆者、求道者の道こそ、人間としてあたりまえであるということを、よくよく知るべきである。
 彼らが直接に意図したものはなにかといえば、親鸞は善人や賢人に対して、悪人や劣者も人間として救いがあるし、生き得るものがあると明言し、それまで一顧もされなかった人々の存在を広く人々に知らせたことである。道元は法・真理を求め、それに生きるためには生命がけになることが必要であり、法・真理あっての世俗的なことであるといいきったのである。法・真理に生きてはじめて、人間といえるといったのである。さらに日蓮は二人の思想をうけついで、この世に生きる者には善人、賢人といえる者は一人もなく、すべて悪人、劣者だといいきり、法・真理に生きるためには、すべて捨身の態度が必要だと強調した。ことに彼は人間を具体的にとらえることで、人間が政治的、経済的、社会的存在であることを知り、人間と深くかかわる政治、経済、社会の情況をよくすることを、人間の心の問題とかかわらせて、深く考えたということである。法・真理に裏づけられない政治のありようをそれゆえに全身で憎んだのが彼である。
 親鸞、道元があることにより、自分自身をつくりだした日蓮はまことにすぐれているといえようが、それはまさに、その時代の子として生ききった姿ともいえる。まったく新しい考えをうちだした親鸞、道元も立派だし、それらをのりこえた日蓮も立派である。
 彼らの思想はその時代情況、思想情況をふまえて、それぞれに生まれたものである。その点で、まったく、それぞれの時代に即応した思想といえる。だが、残念なことに、その思想の課題は、それから数百年たった現代でも解決されないままに終わっている。彼らが今日にも生きている理由である。
 カール・マルクスはその思想のなかで、キリスト教をのりこえたと思った。彼の後には、そう思う者もあるし、そう思わない者もいる。ひとつの思想を全的にのりこえることはむつかしい。とくにその思想の欠点をあげることはできても、その思想の長所を知って、全的にのりこえることはむつかしい。
 日蓮の思想が親鸞、道元の思想を知り、それをのりこえたと思っても、そう思わない人々もいる。今日、親鸞、道元の思想が生きているのも、そのためである。
 それに、その時代の課題は解決されないままに、つぎの課題と同居する。ゆえに、彼らの課題は、それ以後の幾十の課題と同居している。彼らの思想的課題が生きているということは、後世の人々が怠慢であったということである。とくに彼らの思想を絶対化し、固定化することで、彼らの思想をのりこえるものとしてとらえ、のりこえることをはからなかったのは、最大の怠慢である。

 人間として

 こうして、彼らの意図したものは、そのまま今日にも生きている。とくに、彼らが法・真理を求め、生きてこそはじめて人間といい得ると宣言して、数百年、依然として、法・真理に生きる者は非常に少ない。もっと悪いことは、仏法を追求する人たちのなかですら、これをいう者はほとんどいないということである。
 だから、敗戦時の乱世にも、彼らを再検討しようという風潮がおこらなかったのである。今日では、彼らの意図したものがますます遠くなっている。とくに、彼らの意図したものが、形を変えて、そのまま生きていると考える者は少ない。
 それはどういうことかというと、善人とか賢人といわれるものは一人もいないといったことである。なるほどその当時は殺生なしに生きられる者は一人もいないといったが、今日では生命ある動物、植物の生命をうばうことを、殺生していると考える者はほとんどいない。これははなはだしい退歩である。そればかりか、現代人は生きることによって、なんらかの公害をはきだしていると考える者はほとんどいない。いまでは子供をもつことさえ公害である。ということは、存在することは被害者であると同時に加害者であるということである。彼らが悪人だといった言葉を考えようともしない。賢人ぶった学者が先頭にたって公害をばらまいているということも考えない。これらを考えるなら、善人、賢人という者は一人もいないといった言葉はそのままに生きている。しかし、それを思う者はほとんどいない。
 また悪人正機の思想にしても、今日の言葉でいうなら、さしずめ、未解放の者ほど、疎外されている者ほど、強く解放を求めているということになるし、その人たちこそ、人類の主流にならなくてはならないということになる。彼らのいった言葉は多く死んでいると思われる。だからこそ、今日に、彼らの思想を生かしたいという言葉もあがるのである。
 だが、私が今日に再生したいのは、彼らの思想でなくて、彼らの生そのものである。思想は彼らの生そのものの所産であり、生を方向づけたものでも、あくまでその時代の所産であり、過去のものである。それに対して、時代に対決して生きた生そのものは常に生きているし、それはそのまま、釈迦の生であり、くだっては、カール・マルクスの生になったもの、吉田松陰の生に、牧口常三郎の生に通ずるものである。
 一言でいえば、前の時代の思想をのこりなく、批判的に摂取し、現代の課題に対応させることによって、新たなる思想を生みだすことである。親鸞、道元、日蓮の生はそのまま、釈迦の生であったし、カール・マルクスの生も釈迦の生そのものであった。吉田松陰、牧口常三郎の生は小釈迦であった。それゆえに、彼らの思想は非常にすぐれていた。
 今日、彼らの生を生きようとする者はほとんどなく、みな彼らの思想のみを生きようとする。もっと悪いことには、生きようとせず、彼らの思想を知ることに終わっている。これでは、彼らの思想を発展させるどころか、矮小化するのがせいぜいである。
 彼らの思想を正確に知ることはいい。しかし、それは、あくまで、自分自身の思想、現代の思想を生みだすために必要なものである。彼らの思想を知ることが目的でなく、彼らの思想をのりこえて、現代の思想を生みだすことが目的である。
 先に、彼らは人間としてどう生きるか、人間としてどうあらねばならないか、人間としてどう生きるのが幸福であるかを説いたと述べたが、それは生の思想を知ることで、仏教思想を知ることではない。その当時には仏教が思想そのものであり、自然、社会、人間の全部にまたがるものであった。自然、社会、人間の全部にまたがるものとしての仏法であり、その点では思想そのものであった。この意味からも、仏法を宗教の一部門としてとらえることには無理がある。
 曹洞宗といい、禅宗といわれることを極度に嫌って、ただ、釈迦の教えのみあるのだと道元はいったが、生の核になる仏法のみがあって、いわゆる宗教としての仏教はないのである。
 そして、三人が生きた生のみが、今日あるのである。思想ではない生そのものだけがあるのである。
 親鸞、道元、日蓮の生を生きるということは、彼らがその時代に対決し、人々の幸福を増進するように生きた生をおくるということである。彼らは釈迦の生をそれぞれの時代に再現したために、すばらしい思想を生みだしたのみでなく、すてきな生き方ができたのである。しかも、そのために、その時代にふさわしい仏法として、釈迦の思想を発展させ、再現できたのである。
 その思想でなく、その生を生きる者だけが、その思想を絶対化することもなく、その思想を固定化することもなく、その思想を深化させ発展させて再現できるのである。
 その思想を生みだすものは、生そのものであり、その生は時代のなかで、いくらでも弾力をもち、発展するものである。だから、その思想を生きる者はその思想を倭小化し、その生を生きる者はその思想を発展させる。学界の通念として、人々はともすれば、その思想を問題とし、その生をつけたしと考える傾向がある。そのために、時々刻々に、思想を発展させない結果に終わっている。思想史がその誤りを最も出している。
 人は、もし、釈迦の思想を最も正確に継承し、発展させているのは、カール・マルクスといえば奇異に感ずるというよりも、愚劣といって笑うであろう。しかし、その生き方において、釈迦とカール・マルクスほど似たものはいないのである。
 仏教徒が必ずしも釈迦の徒でなく、共産主義者が必ずしもカール・マルクスの徒とはいえない。人間として、最もすてきな生を生きるものは、必ず、自然、社会、人間をふまえた上にたって、それらを統一的に支配する法を追求するものである。
 釈迦もカール・マルクスもその法を求めたし、親鸞、道元、日蓮も、また吉田松陰も牧口常三郎もそれを問題とした。多くの人間の生はその道程にあるために、多様である。
 仏教史や共産主義史にとらわれているものは、形骸にとらわれて、いまだ、人間の生の歴史をみきわめられない人々である。親鸞、道元、日蓮を宗教家に追いやって、平然としている人たちである。これでは、彼らの真価はわからない。
 今日、自然科学は非常に進歩している。しかし、人間、社会が脱落することによつて、自然科学はいびつに発展しているともいえる。公害のために、人々が非常に苦しんでいるのも無理はない。すみやかに、自然、社会、人間を統一的に把握する法にめざめることが必要である。
 今日において、自然科学、社会科学、人間科学を統一して、唯一の法をみきわめることは非常に困難である。しかし、それはどうしても必要である。釈迦はその時代に努力したし、親鸞、道元、日蓮もそれなりに努力した。カール・マルクスが努力したこともいうまでもない。H・G・ウエルズもそのことを強調した。今日では、その困難のゆえに、だれもこの難事業に捨身に取り組もうとする者はいない。彼らの生を生きることの必要をいうのも、そのためである。
 彼らの思想は今日にそのまま生きて尊い。しかし、彼らの生はもっと尊い。地球の危機、人類の危機が叫ばれるいま、その生は一層の重さをもっている。地球を救いうる思想を生むのは、ただ彼らの生が今日的「生」になったときである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

     親鸞 日蓮 書簡抄

   親鸞 書簡

 親鸞の書簡は、京都時代のものが残っており、七十九歳から八十八歳の間にかかれたものが主で、今日は、『末燈砂』『親鸞上人御消息集』『御消息集』(善性本)『血脈文集』として、収められている。その数四十通あまり。そのほかに、親鸞の妻恵信尼の書簡もいくらかある。ここには、親鸞がその子善鸞を義絶した書簡と、恵信尼が末女の覚信尼に送った書簡をのせた。

 

 慈信房義絶状

 おほせられたることくはしくきゝてさふらう。なによりは、あいみむばうとかやと、まふすなる人の、京よりふみをえたるとかやとまふされさふらうなる、返々ふしぎにさふらう。いまだかたちおもみず、ふみ一度もたまはりさふらはず、これよりもまふすこともなきに、京よりふみをえたるとまふすなる、あさましきことなり。又、慈信房のほふもんのやう、みやうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房まふされてさふらうとて、これにも常陸・下野の人人は、みなしむらむが、そらごとをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえば、今は父子のぎはあるべからずさふらう。又、母のあまりにもふしぎのそらごとをいひつげられたること、まふすかぎりなきこと、あさましうさふらう。みぶの女房の、これえきたりてまふすこと、じしむぼうがたうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてさふらうめり。慈信房がふみとてこれにあり、そのふみつやつやいろはぬことゆえに、まゝはゝにいゐまどわされたるとかかれたること、ことにあさましきことなり。よりありけるを、まゝはゝのあまのいゐまどわせりといふこと、あさましきそらごとなり。又、この世に、いかにしてありけりともしらぬことを、みぶのによばうのもとえも、ふみのあること、こゝろもおよばぬほどのそらごと、こうきことなりとなげきさふらう。まことにかゝるそらごとどもをいひて、六波羅のへむ、かまくらなむどに、ひろうせられたること、こゝろうきことなり。これらほどのそらごとはこのよのことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり、いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもづけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふのとが、又五逆のつみをこのみて、人をそむじまどわさるゝこと、かなしきことなり。ことに破僧の罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり。五逆のその一なり。このことゞもつたえきくことあさましさまふすかぎりなければ、いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。三宝・神明にまふしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさむと、このまるゝときくこそ、こゝろうくさふらえ。しむらむがおしえにて、ひたちの念仏まふす人々を、そむぜよと慈信房におしえたると、かまくらにてきこえむこと、あさましく。

              五月廿九日       (在判)
               同六月廿七日到来
               建長八年六月廿七日註之
             慈信房御返事

 

 言われたことは、みんな聞きました。とくに哀愍房とか言われる人が、わたし(親鸞)から、手紙を受けとったというのは、まったく、不思議です。わたしはその人の顔を見たこともないし、その人から、手紙を受けとったことはない。だから、わたしが手紙を書いたこともないのに、わたしから手紙を受けとったというのは、まったく、意外なことです。それに、慈信房のいう法については、そんなことはわたしは聞いたこともありません。まったく、わたしの知らないことを慈信一人に夜教えたなど、人に言っているとか。そのために、常陸、下野の人々はみな、わたしがうそを言ったと話しあっているといいます。
 もう、父子の義理はないのと同じです。それに、母のことについても、想像もできないような虚言を言っているということ、まったくあさましいことです。壬生の女房がやってきて申すには、これは慈信房からもらった手紙だと、その手紙によると、まったく、つまらぬことのために、継母に言い惑わされたとある。生んでくれた母を継母だと言うこと、思いもよらないことである。どうして生まれたか知らないことを壬生の女房のもとに書き送るなど、想像のおよばない虚言で、ただなさけない。このような虚言を言って、六波羅や鎌倉までたぶらかしたことはひどい。これほどの虚言も、この世のことと思えば、すむことです。でも、嘘言を言うことは情ないことであります。まして、常陸、下野の人々を、往生極楽の大事で欺き、その上、親をだましたことはなさけない。第十八願の本願を、人々に捨てさせたという罪はおもい。自ら進んで、五逆の罪をおかし、人々を惑わすなど、もってのほかである。とりわけ、僧をまよわせる罪はおもい。わたしに虚言をおしつけるのは、父を殺すことである。このようなことを聞くのは、あさましいかぎりで、言うべき言葉もない。これからは、親ということもないし、子だとも思わない。神の前にこのことを誓った。悲しいことだ。私の法とは違うなどと言って、常陸の人々をまどわせようとしたことは、聞くも恥しいことであり、親鸞の命令で、常陸の念仏する人たちの信仰をつぶせと言われたと、鎌倉に申しでたこと、まったくあさましい。  

                    五月二十九日
                   慈信房 御返事

 

 

 恵信尼文書

 このもんぞ、殿のひへのやまにだうそうつとめておはしましけるが、やまをいでゝ六かくだうに百日こもらせ給て、ごせの事いのり申させ給ける、九十五日のあかつきの御じげんのもんなり。ごらん候へとて、かきしるしてまいらせ侯。
 こぞの十二月一日の御ふみ、同はつかあまりにたしかにみ侯ぬ。なによりも殿の御わうじやう、中々はじめて申におよばず候。
 やまをいでゝ、六かくだうに百日こもらせ給て、ごせをいのらせ給けるに、九十五日のあか月、しやうとくたいしのもんをむすぴて、じげんにあづからせ給て候ければ、やがてそのあか月いでさせ給て、ごせのたすからんずる上人にあいまいらせんとたづねまいらせて、ほうねん上人にあいまいらせて、又六かくだうに百日こもらせ給て候けるやうに、又百か日、ふるにもてるにもいかなるだい事にもまいりてありしに、ただごせの事はよき人にもあしきにも、おなじやうにしやうじいづべきみちをば、ただ一すぢにおほせられ候しを、うけ給はりさだめて候しかば、しやうにんのわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひあくだうにわたらせ給べしと申とも、せゝしやうじやうにもまよひければこそありけめとまで思まいらするみなればと、やうやうに人の申侯し時もおほせ候しなり。
 さてひたちのしもつまと申候ところにさかいのがうと申ところに候しとき、ゆめをみて候しやうは、だうくやうかとおぼへて、ひんがしむきに御だうはたちて候に、しんかくとおぼえて御だうのまへにはたてあかししろく候に、たてあかしのにしに御だうのまへにとりゐのやうなるに、よこさまにわたりたるものに、ほとけをかけまいらせて候が、一たいはたゞほとけの御かほにてはわたらせ給はで、たゞひかりのま中ほとけのづくわうのやうにて、まさしき御かたちはへさせ給はず、たゞひかりばかりにてわたらせ給。いま一たいはまさしき仏の御かほにてわたらせ給候しかば、これはなにほとけにてわたらせ給ぞと申候へば、申人はなに人ともおばえず、あのひかりばかりにてわたらせ給は、あれこそほうねん上人にてわたらせ給へ、せいしぼさつにてわたらせ給ぞかしと申せば、さて又いま一たいはと申せば、あれはくわんおんにてわたらせ給ぞかし、あれこそぜんしんの御房よ、と申とおばえて、うちおどろきて候しにこそ、ゆめにて候けりとは思て候しか。さは候へども、さやうの事をば人にも申さぬときゝ候しうへ、あまがさやうの事申候らむは、げにげにしく人も思まじく候へば、てんせい人にも申さで、上人の御事ばかりをばとのに申し候しかば、ゆめにはしなわいあまたある中に、これぞじちむにてある、上人をばしょしょにせいしぼさつのけしんとゆめにもみまいらする事あまたありと申うへ、せいしばさつはちゑのかぎりにて、しかしながら、ひかりにてわたらせ給と候しか。とんくわんおんの御事は申さず候しかども、心ばかりはそのゝちうちまかせては思まいらせず候しなり、かく御心へ候べし。されば御りんずはいかにもわたらせ給へ、うたがひ思まいらせぬうへ、おなじ事ながら、ますかたも御りむずにあいまいらせて候ける、おやこのちぎりと申ながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候。
 又このくには、こぞのつくりものことにそんじ候て、あさましき事にて、おほかたいのちいくべしともおぼえず侯。中にところどもかはり候ぬ。一ところならず、ますかたと申、又おほかたはたのみて候人のりやうどもみなかやに候うへ、おほかたのせけんもそんじて候あひだ、中々とかく申やるかたなく候也。かやうに候ほどに、としごろ候つるやつばらも、おとこ二人正月うせ候ぬ。なにとしてものをもつくるべきやうも候はねば、いよいよせけんたのみなく候へども、いくほどいくべきみにても候はぬに、せけんを心ぐるしく思べきにも候はねども、み一人にて候はねば、これらがあるいはおやも候はぬおぐろの女ぼうのおんなごおのこゞ、これに候うへ、ますかたが子どももたゞこれにこれ候へば、なにとなくはゝめきたるやうにてこそ候へ、いづれもいのちもありがたきやうにこそおぼえ候へ。

 

 去年の十二月一日の御手紙は、同じ月の二十日すぎに、たしかに拝見しました。なにはさておいても、親鸞の御往生のこと、申しようもないことです。親鸞が山をおりて、六角堂に百日の参籠をされ、後世のことを祈られると、九十五日の暁に、聖徳太子の御示現があったので、六角堂からでて、法然上人にあわれました。それから以後は、再び百日の間、降る日も照る日も、どんなことがあっても、通い続けられました。法然上人は、ただ一筋に、後世のことは、よき人にもあしき人にもおなじであって、生死を超越する道は唯一つと言われました。そのことを承わり、心にしっかりと思い定められてからは、いろいろの人と語るときにも、わたしは法然上人のおいでになるところに、たとえ悪道であったとしても、どこまでもついてゆきたいと思っていると言われました。
 さて、常陸国に下妻という所がありますが、そこに、境の郷というところがあり、そこで、こんな夢をみました。たしか堂供養の夢らしく、御堂は東向きに建っており、御堂の前には、立燭があり、その立燭の西には、鳥居のようなものがあり、そこに、仏の像がありました。その一体は、ただの仏の顔でなく、光のなかに仏らしいものがみえました。はっきりみえませんが、光のなかの仏です。もう一体は、まさしく、仏の御顔でした。これはなにかというと、法然上人だということでした。いま一体はと問うと、観音菩薩ということでした。それが親鸞だろうといぅので、驚いていましたが、それが夢であると知りました。そんなことがありましたが、そんなことは、人にいわぬものと教えられていた上に、わたしがそんなことをいったとしても、決して人は真実だと思うまいと思ったので、そのことを語らないで、唯法然上人の事を親鸞に言いました。すると、夢には、いろいろあるが、それこれ、それは実夢だと親鸞は言うのです。親鸞が観音菩薩であったとは言いませんでしたが、その後は、心のなかで、これは大変なことだと思うようになりました。よくよく考えて下さい。だから、親鸞の御臨終のようすがどんなものであっても、少しも疑うことはありません。それに、益方も御臨終に間にあったとのこと、親子の契りというものは深いものだなあと思われます。
 こちらでは、去年の作物の出来が非常に悪く、ほとんど、死ぬほどにひどいものでした。そのなかで転居しましたが、頼みにした益方や大方の所領も同じように不作で、それはひどいものでした。こんなありさまなので、長年つとめていた男が正月二人いなくなりました。とても、安心して、物を作っていることなどできません。ますます、世の中がたよりなくなりました。もう長くはないと思いますので、この世のことに気をつかうこともありませんが、いまはわたし一人ではなく、親もいない小黒の女房のおんなの子、おとこの子もいますし、そのうえ、益方の子どももいますので、なんとなく、母のような気持です。いずれにせよ、生きるということはうれしいことだと思います。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

   日蓮 書簡

 日蓮が一生の間に弟子や信者に送った手紙は尨大なものと思われる。現在残っているもの約三五〇通。そのうちには、真偽を問われているものもかなりあるが、いずれにしても、日蓮のすばらしさというか、かれの真骨頂はこれらの手紙のなかにあるといっていい。
 ここには、信者の中心的存在だった武士、四条金吾に送った書簡と、身延から下総の太田乗明に送った書簡を選んだ。
 前者は、正しい法を知っていながら、これを主君の耳に入れないのは、正しい法をそしるのと同罪(与同罪)だと説き、主人に圧迫されながら信をまげなかった金吾を激励している。
 後者「異体同心」とは、人々の心が完全に一つにまとまった状態、高度に結束したありさまをいう。異体同心ならば、なにごとをも成就できるし、他国から攻められる心配もない。逆に、形式的には“同体”でありながら“異心”であってはなにができようか。正しい法の行なわれていない国なら、亡びてもかまわないではないかといいきる日蓮。
 つまり、いまある国のことよりも、あるべき国の姿を考えている。まもるにあたいする国のことを考えているのである。

 

 主君の耳に法聞を入れ与同罪を免るる事

 銭二貫文給び畢んぬ。
 有情の第一の財は過ぎず。此れを奪う者は必ず三途に堕つ。されば、輪王は十善の始めに不殺生、仏の小乗経の始めに五戒、その始めには不殺生。大乗梵網経の十重禁の始めにも不殺生。法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生の功徳に当てし品なり。されば、殺生をなす者は三世の諸仏にも捨てられ、六欲天も是を守る事なし。此の由は世間の学者も知れり。日蓮もあらあらこころ得て候。但殺生にも子細あり。彼の殺す者の矢に軽重あり。我が父母、主君、我が師匠を殺せる者を害せば、同じ罪なれども、重罪かえりて軽罪となるべし。これ、世間の学者、知れる処なり。
 但し、法華経の御敵を、大慈悲の菩薩も供養すれば、必ず無間地獄に堕つ。五逆の罪人も彼を怨とせば、必ず人天に生をうく。仙予国王、有徳国王は五百無量の法華経の敵をうちて、今の釈迦仏となり給う。共の御弟子迦葉、阿難、舎利弗、目蓮等の無量の眷属は、彼の時に先をかけ、陣を破り、あるいは殺し、あるいは害し、あるいは随喜せし人々なり。覚徳比丘は迦葉仏なり。彼の時に、此の王を勧めて、法華経の敵を、父母宿世反逆の者の如くせし大慈悲の法華経の行者なり。
 今の世は彼の世に当れり。国主日蓮が申す事を用ゆるならば、彼がごとくなるべきに、用いざる上、かえりて彼が方人となり、一国こぞりて日蓮を責む。上一人より下万民に至るまで、皆五逆に過ぎたる謗法の人となりぬ。
 されば、各々も、彼が方ぞかし。 心は日蓮に同意なれども、身は別なれば、与同罪をのがれがたき事に候に、主君に此の法門を耳に触れさせまいらせけるこそ、ありがたく候え。今は御用いなくも、殿の御失は脱れ給いぬ。
 此れより後は、口をつつみておわすべし。天も一定殿を守らせ給うらん。此れよりも申すなり。かまえて、かまえて御用心候べし。いよいよ、憎む人々、狙い候らん。御酒もり、夜は一向にとどめ給え。只女房と酒うちのんで、何の御不足あるべき。他人の昼の御さかもり、おこたるべからず。酒を離れて、狙うひまあるべからず。返す返す。恐々謹言

                        日蓮    
               九月二十六日
              左衛門尉殿 御返事

 

 銭二貫ありがたく頂戴した.
 人間にとって、なによりの宝は生命である。これ以上に大切なものはない。だから、その生命を奪う者は、必ず悩み苦しみの境界におちる。輪王(須弥山の四洲の王)は十の善行のなかでも、生き物の生命を奪わぬ、つまり不殺生をまず第一においた。小乗経の教えで説く、五つの戒めの第一も不殺生とされている。大乗を説いた梵網経でも、十の重い戒の最初に不殺生をあげている。法華経の寿量品には、釈迦の生命が永遠のものだと述べているが、それは不殺生の功徳によるのである。だから、生き物を殺すものは、過去、現在、未来にわたって諸仏から見捨てられ、「六欲天」という天上界の神も守ってはくれない。このことは、世の中の普通の学問をする人の考えにもあり、日蓮もそれは大体知っている。しかし、生き物を殺すにも、それぞれ、いろいろないわれがある。殺される者によっても、殺生の罪に軽い重いの別がある。人殺しの罪は非常に重いのだが、自分の親、主君、師を殺した者を逆に殺した場合は、かえって軽い罪となる。このことは、世の中の一般の学者の常識である。
 しかし、法華経を妨げる者を供養したら、それがたとえどんなに愛情探い人であったとしても、必ず非常に重い苦しみと悩みを受けなければならない。父母、僧侶などを殺して五逆という大罪を犯した者でも、法華経の教えを妨げる者を敵として戦ったなら、その報いとして、人間界、天上界に生まれる幸いを受けるのである。釈迦の前身といわれる仙予国王、有徳国王も、法華経の教えを広める妨げとなる多勢の人たちをたおしたので、後にこの世に生まれて釈迦となられた(仙予国王、有徳国王は共に釈迦の過去世における姿とされている)。釈迦の弟子である迦葉、阿難、舎利弗、目蓮などの永遠の仲間たちは、釈迦がその妨害者と戦った時に、先頭に立って敵陣を破り、あるいは殺し、あるいは害し、あるいは釈迦の教えに感激して従った人たちである。覚徳比丘という人は、のちに釈迦の教えを体得して迦葉仏となったのだが、有徳国王を説いて法華経の教えを妨げる者を、前世からの父母の敵のように考えて攻撃した、心の優しい法華経の行者である。
 現在はまさにその時代に相当している。国の政治を預かる者が、日蓮の意見を採り上げていれば、仙予国王、有徳国王のようになるはずなのに、この意見を用いないばかりか、日蓮の迫害者の味方となって、国をあげて日蓮を攻撃している。上は最高の責任者から、下は一般大衆に至るまで、みな、五逆という大罪よりも大変な、正しい教えをそしる罪を犯しているのである。
 だから、そういう人たちに仕えているみなさんも、その味方なのだ。心では日蓮に同意していても、行動や態度は別であるから、「与同罪」といって、彼らと同じ罪を免れられないことになる(たとえ自分が罪を犯さなくても、罪を犯す者をとがめず、止めなければ、共犯者とみなす。これを与同罪という)。それをあなたは、主君に釈迦の正しい教えを説き、主君の耳に入れたとは、実に、この世の中に類いまれなことと、かたじけなく思う。こうなったいまでは、もしあなたの説いた教えに、主君が心を動かさず、採り入れようとしなくとも、あなたは「与同罪」という重い罪をのがれたのである。 諫言したあとは、よくよく口を慎んで、主君や同僚に憎まれぬよう注意されたい。天も必ずや、あなたを守って下さるであろう。用心に用心を重ねてほしい。あなたを憎む人々は、ますますあなたをつけ狙うに違いない。夜の酒盛りは、絶対におやめになることだ。奥さんと酒を飲めば、別に不足もあるまい。昼の酒の席は、やむを得なかろうが、油断をしてはならない。酒を飲んでいなければ、つけいるすきもないのである。かえすがえすも注意してほしい。

 

 

 異体同心事

 白小袖一、厚綿の小袖、伯耆房が便宜に鵞目一貫並びにうけ給れる。
 伯耆房、佐渡房が事、熱原の者ども御心ざし、異体同心なれば、万事を成じ、同体異心なれば、諸事叶う事なしと申す事は、外典三千余巻、内典五千余巻に定まって候。殷の紂王が七十余万騎なれども、同体異心なれば軍にまけぬ。周の武王は八百人なれども、異体同心なれば軍にかちぬ。
 一人の心なれども、二の心あれば、共の心たがいて成ずる事なし。百人千人なれども、一つの心なれば、必ず一事を成ず。日本国の人々は多人にして、異体異心なれば、諸事成じがたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々少なく候えども、大事を成じて、一定法華経弘まりなんと覚えて候。
 悪は多けれども、一善にかつことなし。譬えば、多くの火あつまるも、一水に消えぬ。此の一門もまたかくの如し。其の上、貴辺は多年奉公法華経に篤くおわする上、今度は古えにもすぐれて御心ざし見えさせ給う由、人々も申し候。また彼等も申し候。一一に承わりて日天にも、大神にも申しあげ候。御文は急ぎ御返事申すべく候いつれども、たしかたる便宜候わで、今まで申し候わず。弁の阿闍梨が便宜、あまり
ソウソウにて書き得ず候いき。
 さては、各々年のころ、いかがかと覚しつる蒙古国の事既に近づいて候か。
 我が国の亡びん事は、あさましけれども、これだにも虚言になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて、万人無間地獄に堕つべし。かれだにも、謗法はうすくなりなん。譬えば、灸治にて、病をいやすが如く、針治にて人をなおすが如し。当時は難くとも、後には悦びなり。
 日蓮は法華経の御使、日本国の人々は大族王の一閻浮提の仏法を失いしが如し。蒙古国は雪山下王の如し。天の御使いとして、法華経の行者を怨む人々を罰せらるるか。また現身に改悔してあるならば、阿闍世王の仏に帰して白癩をやめ、四十年の寿を延べ、無根信と申す位に登りて、現身に無上忍を得たりしが如し。
                         恐々謹言
             八月六日       日蓮 花押

 

 

 白小袖一つ、厚い綿入れの小袖、日興(伯耆房)が来るついでに預けて下さった銭一貫も受取った。
 日興と日向(佐渡房)が富士山麓の熱原地方に教えを広めようと努めたこと、この地方の人々が生命がけで教えを貫こうとしたお志は見事である。身体は異なっても、やろうとする心が同じなら、すべてのことを成し遂げることができ、形は一体でも、心がまちまちであったら、なにごとも成就できないとは、釈迦の教えを説いた経にはもちろん、釈迦の教え以外の書物でも、はっきりと言われていることである。中国の殷の国の紂王は、七十余万騎という大部隊を率いていたが、気持がばらばらで、協力一致して戦うことをしなかったので戦いに敗れた。紂王に攻め勝った周の武王は、わずかに八百人の部下しかいなかったが、全員が心あわせて勝利を握った。
 一人の人間の心でも、そのなかで二つの気持が働くと、二つの気持が争いあって統一できず、集中してことにあたることができないから、ことを成し遂げることはできない。百人、千人であっても、心を一つにすれば、必ずことを成就できる。日本の国の人々は多勢いるのだが、心がばらばらで統一されていないから、どんなことでも成就するのは難かしい。日蓮の弟子たち、檀那たちは、身体は別々でも、心は一致しているから、小人数ながら大事を成し遂げて、法華経は必ず広まると確信している。
 どんなに悪いことが多くても、一つの善事に勝つことはない。たとえば、どんなに大きな火でも、一度水にあえば消えてしまう。日蓮の一門も、大火を消し止める水のように広まり、盛んになっていくだろう。その上、あなたは長年法華経の教えを心から学び修めておられる上に、今度の熱原での事件では、人々を救うために、これまでにない立派な仕事をされ、その御心の深さが、はた目にもよくわかったと、世間の者も言っているし、無事に助けられて帰ってきた者たちも言っている。それらの話は、一つ一つよく聞いて、日天や大神にもよく報告しよう。お手紙のお返事は、すぐにも出したいところであったが、確実に渡してもらえるついでがないので、これまで出せなかった。日昭が下総に行く時の便もあったのだが、あまり急の出立だったので、書く暇がなかった。
 さて、この年頃、どうなることかと愁いていた蒙古の国の攻撃も、どうやら近づいてきたのではなかろうか。
 わが国が亡びることは実に情ないが、日蓮の言ったことがあたらずに嘘となるなら、日本国の人々は、ますます法華経をそしり憎んで、みな、苦しい迷いに入ることになるだろう。彼の国が強ければ国は亡ぶとしても、法華経をそしる罪は薄くなるだろう。それは灸をして病気を治すように、針の治療で人を治すようなものである。治療している時は苦しいが、後にはそれで快復するように、その時は嘆いても、後では喜びを得ることになろう。正しい教えが広まってこそ、この国ははじめてほんとうに栄えるのだ。
 日蓮は法華経の教えを広めるために、この世に送られてきた使者である。昔インドの大族王はバラモン教を学び修めて、釈迦の教えを失った。しかし雪山の下王に攻められて、いったんは捕りょとなったが、のちに許されてからは悔い改めて釈迦の教えを学び修めた。いま、日本国民に対する蒙古国は、大族王に対する雪山の下王のようなものである。蒙古国は天の使いとして、法華経に仇なす人々に反省をもたらすためにやってきたと考えるべきか。阿闍世王は現身に悔い改めて、釈迦の教えを学び修め、そのために彼の身体にできていた白癩が治り、四十年も長生きをした。どんな境遇にあっても、動揺しない、心安らかな生活を送れるようになったのと同じである。

 

                     <目次>(親鸞道元日蓮)

 

 

     年表

 年代

 年号

  親鸞・道元・日蓮関係

     一般の事項

1150

久安 六

法然、叡空に学ぶ

1156

保元 一

保元の乱

1159

平治 一

平治の乱

1163

長寛 一

延暦寺衆徒、園城寺を焼く

1165

永万 一

興福寺衆徒、強訴

1168

仁安 三

栄西、中国に入る

1169

嘉応 一

延暦寺衆徒、強訴

1173

承安 三

親鸞生まれる

1175

安元 一

この頃法然、専修念仏を説く

1177

治承 一

鹿ヶ谷の陰謀

1180

治承 四

平氏、南部焼打ち。源頼朝、挙兵

1185

文治 一

平氏滅亡

1190

建久 一

西行死す

1191

建久 三

鎌倉幕府成立

1198

建久 九

法然「選択本願念仏集」を著す

1199

正治 一

源頼朝死す

1200

正治 二

幕府、念仏宗を禁止。
道元生まれる

1202

建仁 二

親鸞、法然門下に入る

1204

元久 二

源頼家死す

1207

承元 一

幕府、専修念仏を禁じ、法然、親鸞流罪

1211

建暦 一

親鸞、赦免される

1212

建暦 二

法然死す

1215

建保 三

鴨長明「方丈記」を著わす

1220

承久 二

慈円「愚管抄」を著わす

1221

承久 三

承久の乱

1222

貞応 一

日蓮生まれる

1223

貞応 二

道元、中国に渡る

1224

元仁 一

親鸞「教行信証」を著わす

1227

安貞 一

道元、帰国する。
「普勧坐禅儀」を著わす

1231

寛喜 三

道元、「正法眼蔵」の執筆を始める

1232

貞永 一

「貞永式目」成る

1233

天福 一

道元、興聖寺を開く

1234

天福 二

文暦 一

道元「学道用心集」を著わす

この頃日蓮、清澄寺に入山する

1244

寛元 二

道元、永平寺を開く(当時は大仏寺という)

1248

宝治 二

親鸞「浄土和讃」「高僧和讃」を著わす

1253

建長 五

道元死す(54歳) 
日蓮、鎌倉に移る

鎌倉に大地震

1255

建長 七

興福寺衆徒、東大寺を焼く

1256

康元 一

親鸞、善鸞を義絶する

1259

正元 一

日蓮「守護国家論」を書く

1260

文応 一

日蓮、松葉ヶ谷焼打ちにあう
日蓮「立正安国論」を上書する

1261

弘長 一

日蓮、伊豆に流される

1262

弘長 二

親鸞死す(90歳)

1263

弘長 三

日蓮、許される

北条時頼死す

1264

文永 一

日蓮、小松原法難にあう

1267

文永 四

蒙古の使者来る

1268

文永 五

日蓮、十一通書状を時宗らに送る

北条時宗、執権となる

1271

文永 八

日蓮、佐渡に流罪となる。
「開目抄」を著わす

1272

文永 九

文永の役

1274

文永十一 

日蓮、許される

1275

建治 一

日蓮「撰時抄」を著わす

1276

建治 二

日蓮「報恩抄」を著わす

1279

弘安 二

日蓮、熱原の法難にあう

1281

弘安 四

弘安の役

1282

弘安 五

日蓮死す(61歳)

 

                    

                     (1972年 産報KK刊)  

 

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