雑誌掲載文(3) 

 

   <目次>

三代宰相論 田中義一 (人物往来)1964年12月号
日本の財界人<1>
近藤荒樹氏 (栄)1964年4月号
      <2>
松下幸之助氏 (栄)1964年5月号
      <3>
市村清氏 (栄)1964年6月号
      <4>
小川栄一氏 (栄)1964年7月号
      <5>
川鍋秋蔵氏 (栄)1964年8月号
      <6>
本田宗一郎氏 (栄)1964年9月号
      <7>
木川田一隆氏 (栄)1964年10月号
      <8>
犬丸徹三氏 (栄)1964年11月号
      <9>
河合良成氏 (栄)1964年12月号
      <10>
小佐野賢治氏 (栄)1965年1月号
      <11>
小田原大造 (栄)1965年2月号
      <12>
黒沢酉蔵氏 (栄)1965年3月号
      <13>
松田恒次氏 (栄)1965年4月号
      <14>
武藤絲治氏 (栄)1965年5月号
      <15>
石原広一郎氏 (栄)1965年6月号
      <16>
上原正吉氏 (栄)1965年7月号
現代虚人列伝 
松下幸之助 (現代の眼)1965年3月号
       
東竜太郎 (現代の眼)1965年7月号
       
内藤誉三郎(現代の眼)1965年10月号
五大出世男の共通点 (社会人)1966年6月号
明治100年の人物史<1>
大久保利通 (栄)1966年4月号
          <2>
伊藤博文 (栄)1966年5月号
          <3>
山県有朋 (栄)1966年6月号
          <4>
松方正義 (栄)1966年7月号
          <5>
星亨 (栄)1966年8月号
          <6>
板垣退助 (栄)1966年10月号
          <7>
桂太郎 (栄)1966年11月号
          <8>
西園寺公望 (栄)1966年12月号
          <9>
原敬 (栄)1967年1月号
          <10>
山本権兵衛 (栄)1967年2月号
          <11>
大隈重信 (栄)1967年3月号
          <12>
加藤高明 (栄)1967年4月号
          <13>
浜口雄幸 (栄)1967年5月号
          <14>
寺内正毅 (栄)1967年6月号
          <15>
斉藤実 (栄)1967年7月号
          <16>
高橋是清 (栄)1967年8月号
          <17>
犬養毅 (栄)1967年9月号
          <18>
加藤友三郎 (栄)1967年11月号
          <19>
若槻礼次郎 (栄)1967年12月号
          <20>
岡田啓介 (栄)1968年1月号
          <21>
近衛文麿 (栄)1968年2月号
          <22>
田中義一 (栄)1968年3月号
特集=教祖 
牧口常三郎・谷口雅春 (伝統と現代)1969年10月
明治維新と暗殺 (闇一族)1972年季刊第3号
勝海舟 (中3計画学習)1973年6〜9号・1974年10、11号

 

                     <目 次>

  

 

三代宰相論(5) 田中義一」

 

  堂々たる演説

 陸軍大将田中義一は、大正十四年五月十四日、政友会総裁に推され、その時、次のような就任の挨拶をした。
「我が国の現状を考察しますると、政治も教育も経済も軍備も総ての方面に於いて充実を欠いて居ります。此処に国民の不安が生じ、種々の憂慮すべき現象が生ずるのであります。即ち、欧州大戦は世界の国際関係を変動し、吾々は一等国の虚名を握ったまま、旧式政治の舞台に取り残されたと言うも過言ではあるまいと思います。今や欧州諸国は戦勝国たると敗戦国たるを問わず、斉しく戦争の惨禍を痛感して、政治経済の改造復興に絶大の努力を費して居ります。私は敢て、列国の前途を占って、改造復興の遅速を予想せんとするものではないが、侵略的軍国主義の悪夢から醒めた彼等が改造復興の絶対的必要に出立して、烈しい産業競争の経済戦を起すに従って、我が国の産業危機、経済危機が誘発さるることを憂慮せざるを得ませぬ。それでなくとも、吾々は今甚だ憂慮すべき環境に直面し、如何にして、之を匡救すべきかは、総て実際政治に当る吾々の手によって解決せざるを得ない。
 茲に於いて、私は産業立国を以て、吾が立憲政友会の主要なる政綱の一つに数えたいと思う。(略)
 国防は国家の絶対要件にして、大権を尊重し、組織の堅実を期すべきは勿論である。然し、国防は外敵を防禦する専門的事業ではなく、国民が国家の安泰を保障し、併せて、国民自身の生活を安定し、国際平和を支持する為、国民共同の事業である。この理解によって名実共に国民の国防たらしむる努力が、即ち軍備問題の正しき解決をもたらすことを確信致します。(略)
 今や普選実行の時代となり、議会政治の基礎も亦著しく拡張されたのであります。この機会を善用して吾々は、万機公論に決し、上下心を一にして、盛んに経綸を行う維新の宏謨を翼賛し、由て以て、更始一新の明るい政局を打開せんと欲するものであります。」
 まことに、堂々として、立派な意見であった。これは、政友会前総裁高橋是清が、政友会幹部の要求した四十万円の手形に裏書を書くことをこばんだため、党幹部は高橋を見捨て、田中が三百万円の持参金で総裁の椅子を買ったといううわさには似つかわしくない演説であった。総裁就任に当たって、田中は本当にそう思っていたのかもしれない。
 だが、三百万円の持参金で総裁の椅子を買ったといううわさを裏づけるかのように、大正十五年三月四日、元陸軍大臣官房付二等主計三瓶俊治が、大正九年当時の陸相田中義一、次官山梨半造の両将軍を背任横領で告発した。

  うやむやに終った田中の告発

 その時、憲政会の中野正剛が、議会で、田中政友会総裁の陛相時代の機密費事件と金塊事件をとりあげた。金塊事件というのは、シベリア出兵当時、分捕った砂金のその後の処置にからむ問題である。しかし、陸軍大臣宇垣一成はそれを議会で否定するとともに、陸軍の面目威信にかかわるものとして、憲政会内閣でも反撃に出たため、中野も腰くだけにならざるを得なかった。
 だが、三月八日になると、陸軍予備飛行中尉の川上親孝が、更に、田中、山梨に加えて、当時、軍務局長だった菅野尚一、高級副官の松木直亮の四人を告発した。問題は大きくなるかに見えたが、その年の十月三日になって、事件担当の石田検事が、田んぼの中で、変死体となって発見されるにおよんで、事件はうやむやのうちに葬られたのである。
 石田検事の死体は他殺と目されるに十分であったが、これまた、過失死として葬り去られた。勿論、機密費は陸軍大臣、陸軍次官の裁量にまかされていることであり、このやりとりも政党間の泥試合の観がしないでもなかったが、総裁田中義一の周辺には、なんとなくおかしな空気が漂うのである。

  私の統制に服従されたい

 総裁田中に対する疑惑を一挙にはねかえして、田中を首相の位置につけようとする計画が、政友会ではすすめられていた。
 おりもおり、翌年の昭和二年三月、金融恐慌が日本を襲った。
 若槻内閣は休業一歩手前まで、追いつめられた台湾銀行を救おうとして、二億円の救済緊急勅令案をだしたが、みごとに、枢密院で否定され、内閣をなげださなければならなかったのである。これは、政友会の鈴木喜三郎らが、枢密院の伊東己代治を動かして、うった芝居である。その証拠には、憲政の常道に従って、若槻内閣に変わって、四月二十日、登場した田中内閣は、モラトリアムを実施するとともに、若槻内閣をはるかに上まわる五債円もの特別融資をして、この危機を救っているし、それをやらせた枢密院での伊東己代治の演説が、なによりも、それを示している。
 即ち、伊東己代治は、
「若槻内閣の緊急勅令案は臨時議会を招集せずして、財政上の緊急処分をせんと企てしのみならず、当時の財界は未だ憲法第八条の要求する公共の災厄を避くる為、緊急の必要という要件を備えていなかった為に、枢密院は違憲として否決したのであるが、今日の財界は波瀾其の極に達せんとし、緊急に何等かの施設を要する。此の時に当り、新内閣は支払猶予令を公布して、緊急処分をなし、一面、臨時議会招集の手続きを執らんとするのであるから、若槻内閣の緊急勅令案とは、其の性質、事情に於いて、著しい相違がある。故に今回の緊急勅令案は憲法第八条の要求する公共の安定を保持し、又は共の災厄を避くるため、緊急必要という要件を十分備えている。本案は可決すべきである」
 と、苦しい賛成演説をしている。
 これによって、どうにか、財界はおちついた。これに先だって、四月十九日、組閣を前にして、田中が、
「私の統制に十分に服従して下さって、全党一致の御後援を願いたいと思う。私をして、後顧の憂なく、安んじて、国家の為に十分な御奉公をせしめらるる事が、やがて諸君が国家に対する御奉公であり、政友会が政党として、国家に尽す道であると信じます」と述べたところは、総裁就任にあたってのべたところとは大いに違っていた。服従を説く当り、軍人田中をまるだしにしていた。結局、田中は軍人以上の何者でもなかったのか。

  軍人田中の歩んだ道

 田中義一は文久三年六月二十二日、山口県萩市菊屋横町に、父信佑、母みよの三男として生まれた。
 父は藩主毛利公の駕篭かきをつとめる軽輩であったが、武術にはなかなか秀でており、藩公御自慢の家来の一人だった。明治維新になってから、多くの士族が辿ったように、雨傘の製造販売をした。
 義一は八才の時、桂太郎も学んだことがあるという岡田謙道の育英塾に学んだ。人一倍腕白であった彼は、余りの悪戯のために、師の岡田を怒らして、塾から逐いだされたこともあったという。
 十二才の時、役場の給仕となったが、十三才の時には、政府のやり方に反対して蜂起した前原一誠の乱に参加した。反乱は一敗地にまみれ、前原以下主だった人達は断罪にされたが、義一は少年の故に、その処罪からまぬがれた。それから、小学校の教員。ついで、長崎で、英語と支那語の勉強をした。
 明治十六年、二十一才の時、上京して、陸士に入学。明治二十二年には、陸大に入学して、田中の軍人としての道がはじまった。
 明治二十六年には第一師団の副官となり、翌二十七年、日清戦争に参加して大いに活躍。明治三十一年から、四年間、ロシアに留学して、ロシア陸軍について研究する。その結果は、ロシアと開戦した日本陸軍にあって、大いに武功をたてる。
 明治四十二年一月、陸軍省軍務課長に抜擢され、軍隊教育の改革にのりだす。なぐる教育の一掃に乗りだす。同時に、軍隊と国民は一体でなくてはならないという立場から、帝国在郷軍人会をつくる。国民の模範としての在郷軍人をつくろうというわけである。第二旅団長のとき、軍閥打倒を叫ぶ大隈重信から、軍閥と軍隊は違うという言質をとり、麻布三連隊に大隈を迎え、彼の軍隊に対する認識をあらためさせるようなこともやってのける。
 明治四十四年、軍務局長となった田中は、朝鮮警備のため、二コ師団増設が必要という案を以て闘い、ついに、軍隊増設に反対する西園寺内閣を倒すのである。二コ師団増設案は、大隈内閣になって成立する。軍隊に入る前の青年の教育という立場から、青年団の結成にのり出すのもこの頃である。
 大正七年には、全陸軍の期待をになって、原敬内閣の陸相になる。しかも、原とは、三浦梧楼を通じて、既にかたく結ばれていたから、事実上の副総理であった。
 陸相在任中の大正九年十月には、男爵となり、十年六月には大将に昇進。原首相が東京駅頭で兇刃に仆れる前に、陸相の位置を病気のためにやめていたが、大正十二年九月には、再び山本権兵衛内閣の陸相となるのである。しかし、これは、難波大助の皇太子狙撃事件がおこり、内閣が倒れたので、同時に陸相の地位を去る。
 長州閥のバックというか、山県有朋、桂太郎、寺内正毅などの応援はあったにしろ、このように、軍人として歩んだ田中の人生は、まことにあざやかであった。軍人として、有能すぎる程の軍人であった。そのポストを十分以上にこなして、充実しきっていた。
 おそらく、政友会の総裁になった時に演説したものは、彼の本音であったろう。だが、それは、軍人田中が軍隊という組織の中で考えたことであった。その組織からはみだし、政界という汚濁に満ちた世界に一人で棹さした時には、彼にはそれだけの信念も識見もなかった。そのため首相になった時の挨拶は、軍人田中のわるい面だけがあらわれたのである。
 そして、普通選挙から、治安維持法改正とゆがみにゆがむのである。

  弾圧につぐ弾圧の政治

「旧式政治の舞台に取り残されている」といい、「いまこそ、普選実行の時代である」といった田中総裁のかつての言葉はどこへいったのかと思われるように、いざ、待望の普選が行なわれた昭和三年二月の選挙には干渉と弾圧が荒れ狂ったのである。
 ことに、内務大臣鈴木喜三郎の選挙干渉は強引であった。彼は検事あがりの政治家で、無産政党への干渉はひどかった。
 長谷川如是閑が、
「これで、大山郁夫君が当選すれば、黙って突立っている琴平神社の石燈篭でも当選するだろう」といって、歎いたのはこの時である。「政府の選挙干渉の手は、相当露骨に無産政党をはじめ、在野党の言論文書に加わり、あるいは三百万円といい、機密費と言えば、演説を中止し、これに関するパンフレットを差し押え、その他ポスター、ビラにたいしても、安寧秩序の維持を名とし、治安警察法と出版法と選挙法とをもって、言論圧迫を加え、民心を激発せしむるものがあった。」(朝日新聞社編「普通総選挙大観」1928年)
 選挙投票の前日には、鈴木内相は議会否認の演説までする始末であった。
「わが憲法上、内閣の組織は、かしこくも、大権発動に職由し、政党員数の多寡をもって、ただちに、内閣が生まれるというがごとき、他外国の例と対比するを許されない。民政党はその政綱において、議会中心主義を徹底せしめんことを要望すと高唱しているが、これは極めて穏やかならざる思想であり、神聖なるわが帝国憲法の大精神を蹂躙するものといわねばならぬ。(略)
 議会中心主義などという思想は、民主主義の激流に棹した英米流のものであって、我が国体とは相容れないものである」と。
 二月二十日の開票の結果は、政友会218、民政216、中立17、革新3、実業同志会4、社会民衆党4、労農党2、日本労農党1、地方無産党1であった。
 選挙後の議会で、鈴木喜三郎はついに辞職においこまれる。だが、これより先、三月十五日には、共産党関係者一千余名が検挙されるのである。この検挙は一道三府二十七県にわたる大規模なものであった。
 ついで、四月二十七日には、田中内閣は治安維持法改正法律案を議会に提出した。これは、第一条の「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として、結社を組織し、又は情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」とある点を改正して、
「国体を変革することを目的として、結社を組織したる者、または結社の役員その他の指導者たる任務を担当したる者は死刑又は無期若は五年以上の懲役、若は禁錮に処し、情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行のためにする行為を為したる者は二年以上の有期の懲役または禁錮に処す。
 私有財産制度を否認することを目的として、結社を組識したる者又は、情を知りて結社に加入したる者若は結社の目的遂行の為にする行為をなしたる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す。
 前二項の未遂罪はこれを罰す」。
 となしたものである。この改正案は翌二十八日、本会議に上程せられたが、直に委員会附託となり、結局、委員会も開かず握りつぶしとなった。
 そこで、こんどは緊急勅令で政府案どおりに改正し、つづいて、特高警察網を全国的に整備した。
 こうしておいて翌昭和四年四月十六日には、またも、共産党の大検挙がおこなわれ、この時の検挙数は六百余名にのぼった。
 まさに、田中内閣は弾圧の内閣と化したのである。新しい政治はすっかりどこかへ消え去ってしまった。

  関東軍の謀略に泣く

 これと平行して進んだのが、外交における侵略的な立場である。かつては、侵略的軍国主義の立場を笑った田中であったのだが……。田中は組閣すると同時に外相を兼任した。
 組閣直後、田中は、
「もし、それ支那における共産党の活動に至りましては、その結果如何によっては直接もっとも影響を受くるおそれのある我が国の立場として、又東亜全局保持について重大なる責任を感じている日本として、全然これに対して無関心である訳にはまいらぬ」と、アジア政策についての所信をのべたのであるが、五月二十八日には、「居留民保護」という名目の下に、中国の内戦に対して、山東省に出兵した。六月には、東方会議を開いて、
「万一動乱満蒙に波及し、治安乱れて同地方に於ける我が特殊の地位権益に対する侵害起るのおそれあるに於いては、その何れの方面より来るを問わず、之を防護する」という対華政策を声明した。
 幸いに国民政府軍が北伐を中止したため、日華の衝突はなく、九月には、日本軍は山東から撤退した。
 翌昭和三年四月には、再び、国民革命軍は北伐を再開した。田中は再び山東省に出兵。
 そして、五月三日、済南を舞台にして、日華両軍が衝突。そのため、中国には、猛烈な排日運動がおこるのである。
 他方、田中内閣は国民政府軍の山海関以北への進撃は絶対に阻止することとし、張作霖の軍隊といえども、国民政府軍と戦って退却するときは、武装解除するという方針をきめるとともに、中国本土を国民政府に、満州を張作霖にそれぞれ統治させ、これと提携する方針で、張作霖を北京から奉天にひきあげるように説得した。
 だが、六月四日早朝、北京をひきあげてきた張作霖の列車は、奉天直前の京奉満鉄両線の交叉点で関東軍高級参謀の河本大作によって、爆破された。これは、田中内閣の立場とは、全く相異なるものであり、関東軍の一部の陰謀であった。
 陸軍省は六月十二日になって、一応、便衣隊員のしわざとして発表したものの、その後始末をめぐって、田中内閣は大ゆれにゆれたのである。
「白川陸相は日本軍人がやったことだという事実をなかなか信じようとしなかったが、自分でひそかに奉天へ人をやって関係者に尋問させ、その報告で、はじめてまちがいないことを確信したので、田中首相に報告した。それは事件後五ヵ月を経た十月の陸軍大演習のときだ。田中首相は、そこで事件の犯行者を軍法会議に附し、軍紀を粛正しようと決心したんだ。それには、西園寺さんの考えがたぶんに作用している。
 そのころ、西南寺さんは、たいへんに心配して、田中首相を呼び、
『この事件の真相をいくら日本人だけに隠したところで、舞台は満州であり、満人はもちろん、欧米人にまでこれを秘密にすることは不可能だ。いまのうちに責任者を厳罰に処してしまえば、張の息子の学良も親の敵を日本が討ってくれたと納得するだろうし、世界も日本の公正を認めることとなる。うやむやにすれば、必ず将来に禍根を残すことは明らかだ。どんな反対があっても、必ず決行するように』といわれたそうだ。
 田中はその意を体し、これほどの事件を陛下に奏上しないのはいけないと思い、参内して、陛下に事件の犯行者は日本人らしいこと、犯人は軍法会議に付する方針である旨を申しあげた。
『軍紀は特に厳粛にするように』との御言葉があり、田中首相は誓って仰せのとおりいたしますとお答へした。」(田中内閣の海相岡田啓介の回顧録より)
 しかし、「当時、この事件に関しては、政友会の幹部のほとんど全部は、もしこれが事実日本の軍人の所為であったとしたら、闇から闇に葬ってしまえという意見で、閣僚の有力者達も田中総理に、
『処罰するが如きことは断じてならぬ。日本の軍人がしたということが処罰したために明らかになれば、それは所謂陛下の軍人がかくの如きことをしたということになるので、そういう事が外国に知れたら、陛下のお顔に泥を塗るようなもので、何の面目あって、外国の大公使なんかにお会いになれよう。一体、西園寺公の言うようなことは間違っている』
 と言って、この犯罪を闇から闇に葬ろうとする運動がさかんであって、田中総理も思いきって処断することを非常に躊躇していた」(原敬日記)とあって、田中首相は天皇と与党の間の板ばさみになる。信念のない田中のゆれ動くさまが手にとるようである。

  天皇の勘気にふれる

「田中ははじめの志と違って途方にくれ、白川陸相のいう行政処分に同意しなければならなくなった。その案というのは、事件現場が日本の守備隊の守備区域であったのに、その晩は一人の守備兵もいなかったことを取りあげ、守備区域放棄の責任を問い村岡司令官、河本大佐等を行政処分することで解決し、あとはうやむやにしようというものだった。
 田中はさきに陛下に、取調べの上、厳重に処分しますと申しあげたてまえ、その後のことを御報告しなければならないので、参内し拝謁を願った。陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色を変えられ、読み終るやいなや、
『この前の言葉と矛盾するではないか』
とおっしゃった。田中は恐れいって、
『そのことについては、いろいろ御説明申しあげます』と申しあげると、御立腹の陛下は
『説明は聞く必要がない』
と奥へおはいりになったそうだ」(岡田啓介回顧録)
 ついに、田中は、出身の陸軍からも、ソッポをむかれ、はては、天皇の機嫌までそこねるのである。昭和四年六月二十七日のことである。
 ここまで追いこまれては、田中としても内閣をなげださないではいられない。七月二日、とうとう、総辞職する。
 そして、三ヵ月後の九月二十九日の暁、麹町の別宅で、持病の狭心症で急逝した。自決だといううわさがとんだほどである。
 もし、軍人田中が軍人として終わっていたなら、立派すぎる一生であったであろうが、疑惑につつまれた政友会総裁、そして信念のないままに、押し流されるままに押し流され、果ては天皇の勘気までうけてしまったのである。しかも、日本がアジアへの侵略を始める一番最初の時点にたつという、ぬぐいきれない汚点にその身をさらさなければならなかったのである。その身が汚点にさらされるのはよいとして、民族がその汚点にさらされることは許されない。その意味では、田中義一の罪は永遠にきえることがないのではあるまいか。

 

              <雑誌掲載文3 目次> 

 

私の会った財界人<1> 恐ろしい人 近藤荒樹」

 

 近藤荒樹といえば、今は誰知らぬものもないほどに有名になったが、この金融王の名前も数年前は殆んど一般には知られていなかった。彼の名がクローズ・アップされたのは、その息子が池田勇人の娘と結婚したのがきっかけであった。当時の池田は池田師団の総師として、次期首相候補と目されていたし、総裁公選には数億の金がいるとささやかれはじめていた時だけに、池田と近藤の縁結びはマス・コミの好材料になり、いろいろ推察しまちがいの記事が書かれたのである。
 少なくとも、その時の近藤を紹介する記事は好意的なものではなかった。故意に金を軽視してみせる傾向をもつジャーナリストに、金貸業の近藤が好意的にうけいれられるわけもなかった。彼の名は、多くの人達に記憶の中にとどめられたまま、まもなく、マス・コミの世界から消えていった。彼の名は、新聞社で発行するどの年鑑にも名前がのらないままに今日におよんでいる。
 高利貸近藤でかたづけられた以上、「金色夜叉」以来、庶民の中に育ってきた高利貸のイメージが、そのまま近藤のイメージと重ねあわされたのもむりはない。かつて、高利貸の世話になった者は、近藤とは無関係でありながら、彼を畏怖し、憎悪する言葉を吐いた。たまたま、雑談の中で、近藤の名を口にした私の友人達も例外なく、その名を口にするのさえいやらしいといわんばかりに、はきすてるようにいった。
 そんなとき、きまって私は彼を弁護する側にたっていた。私とはなんの利害もない、むしろ思想的には鋭く対立している彼であったが、私には時々初対面の人に変に感動し、その人にのめりこむクセがあり、彼もその一人で、その意味で懐しい人間の一人であったので、いつのまにか、彼を弁護しているのであった。
 同じ一橋大学出身で、風変わりなのは、ドアーマンや皿洗いをやりながら、各国のホテル業の勉強をした帝国ホテル社長の犬丸徹三だが、犬丸氏の方が、帝国ホテルの主導権をめぐる争い以来、何かと、マス・コミの話題になるのと違って、近藤老人の方は静そのものというところがある。
 地味で、自分を積極的に売りだすことを少しも考えていない。総理を利用して何かをやろうなどというケチな根性を全くもちあわせていない人であるだけに、マスコミの話題になりようがない。
 毎週日曜日はテニス、夜の会合は一切おことわり、たとえ総理の招待でもその方針を変えないという徹底した生活。ことに金銭問題で、池田総理の周辺に妙なウワサのおこらぬように細心の注意を払っているからなおさらである。
 私との初対面の夜、彼は老人とも思えぬ元気さで、私を相手に何時間もしゃべった。驚いたことには、その日も、いつものように、若い人達にまじって、一日中テニスをやったあとであった。その元気の秘密を尋ねると、近藤老人は、
「朝風呂は決してかかさない。会社へのゆきかえりには、雨の日も風の日も必ず途中で下車して一定距離を歩くし、お茶や間食は、朝夕の食事以外の時は決してやりません」と応えてくれた。日曜日のテニスを欠かしたことがないのはいうまでもない。
「夜の待合ほど、精神的にも肉体的にも消耗のはげしいものはない」というにいたっては全くスカッとしている。勿論、若き日から一度もいかなかったというのではない。体力の衰えを意識しはじめると、ピタッとやめたのである。やめたとなるとどんなことがあっても、その姿勢を崩さぬあたり、最も老人らしいところといえそうである。それでいて、老人の頑固さと違っている。
 その徹底ぶりは、社員待遇にもよくでている。数字であきらかにしたわけではないからあやしいといわれればそれまでだが、彼は、「日本一の賃金ペースである」と確信をもって断言する。「自己資本だけでやっているウチは他人の金を廻している銀行とは比較にならぬほどもうかる」というのである。もっともである。どんな好況の会社でも、利子のついた金を使っていないところはない。まして「税金にもっていかれるよりも、どこの銀行員よりも優秀な社員にわたした方が合理的である」と考えている彼である。
 かつて、ボーナスをだしすぎる、と税務署から文句をいわれたことがあったという。何ヵ月分か知らないが豪勢なことはまちがいがない。だが、この老人は、なんとなく寂しそうにみえた。どうも、今日の税制にしばられて、明治の岩崎のように無限に大きくなれないためらしい。自らの欲望を制御している老人ということになる。恐しい人である。

 

           <雑誌掲載文3 目次>

 

中小企業ほど強いものはない… 松下幸之助氏」

 

「とにかく考えてみること、工夫してみること、そしてやってみること。失敗すればやりなおせばいい。やりなおして駄目なら、もう一度工夫し、もう一度やりなおせばいい。
 同じことを同じままに、いくらくりかえしても、そこには何の進歩もない。先例におとなしく従うのもいいが、先例を破る新しい方法を工夫することの方が大切である。やってみれば、そこに新しい工夫の道もつく。失敗することを恐れるよりも、生活に工夫のないことを恐れた方がいい」
 この言葉は、「工夫する生活」と題して、松下氏が書いた文章の一節である。今日の松下王国も、彼がこの人生哲学を強力に、しかも大胆に実践し通してきた結果が生みだしたもの、松下氏を一言で批評するならば、最も深く考える人、最も効果的に考える人ということになるかもしれない。
 彼が、ある社員のために特別に時間を割いて話してやったことに対して、授業料を請求したという話やオランダのフィリップス社と合併会社をつくったとき、フィリップス社の特許料に対して、経営指導料を要求したという話など、彼がいかに深く考え、同じところには一日もとどまっていないという確信をよくあらわしている。松下氏は自ら深く考えたがそれを社員に対しても求めたし、それは誰にもできるという確信でもあった。それが、社員への信頼になってあらわれた。
 この信頼は、松下氏が病弱のために、陣頭指揮ができず、初めはしかたなく、まかしてやらせた結果がうまくいったことで、一層強化されることになったが、それは彼の事業哲学に次のようなプラスをもたらせることにもなったのである。
「自分の代理に仕事をやらせる。番頭を使えば十人でも百人でも使えるし、非常に多くの仕事ができる。自分が先頭に立つとなったら一人だ。一人のできる仕事なんてたかが知れている」
 松下氏のこういう考え方は「中小企業ほど強いものはない」といういい方にもよくあらわれている。即ち「中小企業の方々は、世間からおびやかされています。第一、新聞や雑誌からも、評論家からもおびやかされています。それは、中小企業は弱いといわれていることです。しかし、私の考えは正反対です。私は中小企業ほど強いものはないと思っています。なぜかといいますと、ある程度適性をもった経営者であれば、人を十分に生かすことができると思うのです。今日の大企業はだんだんと官僚的になってきて、百の力のある人を七十にしか使っていない。これは事実です。二、三十人から二、三百人という中小企業であれば、その主人公の一挙手一投足によって全部の人が動く。七十の力が百五十になって働くのです。だから、私は、中小企業が一番強い、ということを知っています。いちばん、よかったのは二、三百人のときでした。楽しいし、希望に満ちているし、従業員もいうことをよく聞いて、よく働いてくれます。大企業にも決して負けなかった。
 そのためには、大企業ではできない何かをつかんで徹底的にやることです」(昭和三十七年十月の講演)
 昭和四年の大不況にまきこまれたときがたまたま、松下電器の従業員450名という中小企業の段階にあった。
 その不況をのりきるには、従業員を半減するしかない、というのが、大方の判断と見透しであった。
 だが松下氏のとった解決策は違っていた。彼は病床から「生産は半減する。しかし、従員業は一人も解雇しない。その方法として、工場は半日勤務として生産を半分にする。しかし、月給は全額支給する。その代り、本社員は休日を廃して、全力をあげてストック品の販売に努力する。そうして、経済界の推移をみよう。将来ますます、発展を期さなければならない松下電器にとって、半日分の工賃の損失ぐらい問題ではない」という命令をだして、従業員と一緒になってこの危機をのりこえている。
 松下氏とはそういう男である。だが、大企業主となった彼は、戦後一万五千人の従業員を三千五百人に整理する立場に追いこまれている。
 そこから、彼の中に生まれたのが、繁栄を通して、平和と幸福をもたらそうという運動である。
 しかし、この「生産を高め、分配を豊かにして、すべての人の消費に不自由なからしめよう。貧困は罪悪である。われわれは、経済のしくみを向上させ、生産と消費を逐次たかめていこう」という彼の願いを、本当に生かしていくのは、これからであるといえそうである。

 

                <雑誌掲載文3 目次> 

 

考える人 市村清氏」

 

 三愛の市村清と云えば知らなくても、リコーの市村清と云えば思い出す人があり、市村学校の市村清として記憶している人もあろう。市村清の全貌を知らない人は多いが、たいていの人が、何らかの形で市村清の名をおぼえており、あるいはその製品名や社名とかかわりあっている。むしろ、記憶させられ、かかわりあわされているといった方がよいかもしれない。
 そこには、心憎いまでに緻密に計算された鋭さがある。そして、この鋭さこそ、市村が長い人生を、その全身で貪欲なまでに生きぬいてきた過程で、自然に身についたものであったといえよう。学歴や門閥をもたない彼が資本主義社会という、非情なまでに弱肉強食の論理が支配する環境の中で、自らの力だけで、貧しさと訣別するために武器とし得たものは、彼自身の頭脳であり、その頭脳から生み出されるアイディアだけだった。彼が彼として生きていくためには、考えなければならなかった。考えなければ、その生活を維持できないばかりか、悪くなるほかはなかった。考えることは、生きていくための至上命令であった。彼は考えに考え、その考えを煮つめていった。
 その煮つめた考えが、彼を東京へ、さらに北京へと追いやることになる。北京では、新しく設立された銀行に勤め、のちに上海へ転勤するのだが、この上海時代も最後になって、とんでもない事件にぶつかることになった。彼の勤めていた銀行は、昭和二年の金融恐慌のあおりを食って、あっさりと潰れてしまった。その直後、彼は横領罪の疑いをかけられて、逮捕されたのである。身に覚えのないことだった。市村は、何を調べられても、いっさい云わないことに決めこんだ。
 こうして彼は、百三十五日間にわたる監房生活を送るはめに追いこまれたのである。真夏をはさんで四ヵ月半の監房生活に耐え抜けたのは、彼が、考えるということを通して、その心身に複雑な変化を与えることができたためだといえよう。それがまた、彼を何時いかなる場合にも、考えぬくことのできる人間に育てあげた。釈放され、裁判を受けて帰国した後、熊本での保険外交に成功し、将来への道がひらけたのも、この基礎あればこそであろう。
 だが、本当の意味での、今日の市村清という経営者は、熊本時代のセールスマン生活から生まれたと云ってよい。彼はその激しいファイトを燃やしてぶつかったにもかかわらず、はじめの二ヵ月間というものは、一つの契約もとれなかった。今でこそ、セールスマンは、企業の第一線としての評価を受け、花形的存在でさえあるが、昭和初年の頃セールスマンといえば、最低の職業とみなされていた。人間的にも、能力的にも、信頼されることからほど遠いものだった。一度は兜を脱ぎそうになった市村が、その苦衷の中で考えたことは、まずこの職業を愛するということだった。次に考えたのは、セールスマンを軽視するばかりか、軽視する人達を愛することだった。人を愛することの難かしさを感じながら、いかに愛するかを考えつづけたのである。
 市村を支える三愛主義の、人を愛し、職業を愛するという考え方は、実にそこから生まれたものである。と同時に彼は、人々と共に歩み、人々とかかわりあって生きることの強固さと発展性をつかんだのである。
 現後、多くの経営者が、いたずらに右往左往している時、市村はいち早く、今後の日本で繁栄する道はサービス業であるという結論をだして、伝統のある老舗の立ち並ぶ銀座に、強引に割り込んで店を出す。店の名は“三愛”。長い戦争で、愛という言葉に遠ざかり、飢えていた人々に好まれそうな名前である。食料品店から出発した“三愛”がゆきづまりそうになると、市村はさっさと婦人オシャレ専門品店に変えてしまう。考える彼には、現状への執着もなく、だから停滞もあり得ない。あるのはただ、前に向かって考えつづけることだけである。三愛石油も、ホテル三愛も、日本リ−スも、市村の頭脳から生まれた。市村事業団の発展と市村ブームが何処まで続くかは、一寸想像もつかない。今の彼は、竜が雲に昇るほどの快調さである。
 だが、市村の三愛主義にしても、まだまだ計算された臭いを脱しきれない。そんなところに、彼を危ぶむ声もチラリと聞こえてくるのかもしれない。同時に、彼が財界の主流に乗り出すいとぐちも、そのへんの脱皮にあることを、考える市村清のことだから、じっくりと考えているに違いない。

 

                <雑誌掲載文3 目次> 

 

自由人 小川栄一氏」

 

 小川栄一氏には、「財界のフルドーザー」「財界の怪物的存在」「山師・水師」「傲慢無礼な男」「大衆主義者」など、いろいろな呼び名がある。だが私の見るところ、彼は財界には珍しい自由人であり、これらの呼び名も自由人小川の、それぞれある一面に冠せられた形容詞以上には出ないように思われる。資本主義社会の経営者ともなれば、もともと自由主義者であるはずのものだが、自由主義者である経営者が極めて少ないのが日本の特徴。まして、主義者の立場を超えて自由人となると、正にマレな存在となる。そして小川氏は、そのマレな存在の一人であるようだ。
 私が彼を自由人の仲間に入れたのは、彼が若き日に、作家、新聞記者を志したという事実によってではない。そんなことは別に珍しいことでも何んでもない。意味のあることでもない。それは、彼が安田信託に入社してから、今日の国土総合開発株式会社の社長になるまでの、彼の生き方の中を強烈に貫いている自由な精神と姿勢を発見したことによる。
 小川氏の自由な精神と姿勢が、まず現われたのは、彼の安田信託入社の際だといってよいようだ。大正十五年という不況時代、就職難の時に京都帝大を出た彼は、日本観行に勤めている叔父の世話で、安田信託に入った。いってみれば裏口就職である。このことでは、彼は縁故によって、やっと社会への足がかりをつかんだ人間にすぎない。だが、彼の彼らしいところ、他と違っているところは、この裏口就職への自己合理化のしかたである。
「就職できない皆には悪いが、おれは就職して、自分の出世よりも皆の職場をつくろう。職場をつくって、一つ一つ分けてやることがおれの仕事なんだ」
と考えたという。
 後に小川氏は、当時のことを回想して、「まことに世間知らずのうぬぼれであった」といっているが、就職できない不自由から、いろいろと派生する不自由の状態にある人々を、その状態から解放するには、新しい職場をつくるしかないと考えたところは、うぬぼれどころか、たいしたものである。
「貧困は罪悪である。すべての人の消費に不自由をなくそう」
といったのは松下幸之助氏である。小川氏は、もう一歩その根源につき進んで、すべての人々に消費できる自由、いいかえれば、すべての人に職場を与えようという姿勢をもったのである。
 これほどに意気込んで実社会入りした彼であったが、ひそかな毎夜の残業にもかかわらず、二年間、全く昇給をさせてもらえない。唯一の無能行員として、レッテルを貼られてしまう。無能行員は周囲から同情や慰めを受ける。
 その後、彼に対する上役の評価が変わると周囲の眼も一変した。同情は脱落者に対する優越感と喜びの現われに過ぎず、出世コースにのったとなれば、突端に、ねたみ、うらやみに変わってしまう。彼はサラリーマン根性のいやらしさ、奴隷根性のみじめさを、まざまざと見せつけられて、サラリーマン脱出を考える。
 さらに自由人小川の面目を現わしているのは、外国旅行を終えて帰国した一課長にすぎない彼が、オール安田の重役を前にして行なった講演の内容である。
「地球でさえ、無限にあらずして有限であったのです。果てしなき荒野とか、限りなき道ということは、単なる言葉で、人生はまさに有限であることを知らねばなりません。われわれは五十五才の停年になれば、いやでも二万円の退職金でこの財閥を去らねばなりません。しかるに財閥は天下の秀才を集め、しかも確実にして有利、有利にして確実な投資を求めて、無限の富をきずいています。大衆が火事や地震にあっているときでも、その投資した利息は日々にふえてゆきます。
 税金や寄付金も、財閥から百%の富を奪うことはできません。この結果、わずかな有限の富しか築けなかった大衆と無限の富を築いてゆく財閥との間には、おのずから、大きなギャップが生まれてくるのではないでしょうか。ギャップの末にくるものは大衆の恨みというか、思想というか、共産主義の如きものでしょう。
 そこで私が思いますのは、有限の財閥を志して、限度をこえた富は、やがての成長産業に融資する。そうしないと、おそらくは、財閥もまた大衆の恨みで滅びるでしょう」
 ここには、すべての人に職場をという彼の願いが、彼なりに精一杯現われている。その後、観光事業にうちこんだのも、それが大衆のためのオアシスづくりという社会事業だと考えたためだったし、昭和三十五年、日本ドレッジングKKの名で出発した国土開発KKにも、日本の国造りを通じて、すべての人に職場と同時に富を与えようとする彼の願いがある。自由人小川氏が、今後どれだけ新しい自由人を育てていくか、それは彼のこれからの課題といえよう。

 

                <雑誌掲載文3 目次> 

 

執念の男 川鍋秋蔵氏<日本交通社長>

 

 此の世で、その人らしい人生を生きたといわれるほどの人は、誰でも一度は自分の人生に対する深い“疑い”をいだいた過去をもっている。その疑いの深さと克服の程度如何がその人間のスケールを決定し、その仕事の性格を左右するといってもいい。川鍋秋蔵もその例外ではない。彼がとりくんだ疑問は努力ということであった。自分と社会にとって、努力が果してどんな意味をもち、どんな役割をもっているかということについて考えないではいられなかったのである。
 それというのも、九人兄姉の一人として生まれ小学校を終えた川鍋は、貧しい者のつねとして、すぐに実社会に出なければならなかった。そのことについて、何の疑問もいだかなかった川鍋も、国鉄の工機部二務めながら、六年間というもの、それこそ雨の日も風の日も毎夜、休むことなく夜間学校に通学した結果が、せいぜい職長にしかなれない事実を知ったときは、心底から悩まないではいられなかった。
 学歴がないということだけで、これというポストをあたえられることもないままに、いいかえれば、力一杯自分で仕事にとりくんでみるというチャンスもないままに終わるしかない自分の未来を考えたとき、努力するということの空しさ、無意味さを思いしらされたのである。報われることのない努力というものがあることも知ったのである。
 二十一才の川鍋がその頭脳の限りで考えたことはどんなにしても独立するということであった。独立以外に、自分の努力が実ることはないという確信であった。こうして、川鍋のその後の人生はすべて、この独立への執念に貫ぬかれるのである。
 とはいっても、何になるか、どうして生きていくかということで、すぐに妙案がうかぶわけもなかった。東京にでた彼は、毎日のように、適当な職、将来性のある職を求めて、市中をみて歩いた。その結果、彼の心をとらえたのが自動車である。
 しかし川鍋は運転手になってみて驚いた。酒と結婚したような、のんだくればかりである。一番厄介なのは、酒のさそいをうけてことわることであった。それは苦しいことではあったが、そんなことをしていては、独立できるはずはない。なんとしても自動車一台を買える資本をつくろうと更めて決心する。
 一台のハイヤー用の自動車を買って独立したのが昭和四年、念願かなって独立したのである。しかも、彼は、その時運転手一人、女事務員一人をやとって、同時に経営者としての第一歩もふみだすのである。彼は発展していくには、なによりもまず、自分自身が、業界全体の方向や景気の動向をしっかりと把握して、経営に専念しなくてはならないと考える。彼のこうした考えと姿勢が、年末にはもう一台を購入させ、翌年には八台にもふえていくのである。だが、この時期は浜口内閣の緊縮政策の時期にもあたっていた。自動車の利用者もへり、自動車会社もつぎつぎとつぶれていった。川鍋は創業まもなく、この試練にぶつかることになる。父親からは帰郷をすすめてくる。しかし、彼としては折角つかんだ独立を、その醍醐味をむざむざと捨てることはできなかった。その時、川鍋は、手持ちの高級車を売り払って、小型車にかえ、大衆車として、逆攻勢にでていく。それが成功であったことはいうまでもない。その車のシーツがつねに白く、シワがよっていないという評判をとりはじめるのもこの頃である。
 昭和十四年、政府の自動車業界整理の通告にあたって、現在の日本交通の前身である日東自動車株式会社設立に成功して、業界第一にのしあがる。だが、今度は、四社に統合しろという政府命令がでた。当時、業者は五十八、車は四千台であった。川鍋としては、三百台の車をもっていたが、生き残るためには千台にしなくてはならない。しかもこの時京成電鉄社長の後藤国彦が、自動車株の買占めをはかり、そのねらいを川鍋につけたのである。そのため、彼の独立は危くなった。一日、後藤を訪れた川鍋は、自分の意見がきかれないときには、後藤に熱湯をあびせ自分は死ぬつもりでいた。こうした、川鍋のすさまじいまでの独立への執念を前にして、後藤は退くほかなかったのである。だが、戦後になると、今度は東京急行の五島慶太から再びねらわれる。出資者である五島は、営業が十分でないときには、東京急行がひきうけるといいだしたのである。川鍋はそれにもうちかった。乗取り魔といわれた五島との勝負にうちかったものは、彼の独立への執念以外のなにものでもないといってもよかろう。

 

                   <雑誌掲載文3 目次> 

 

きかん気な男 本田宗一郎氏」

 

 未だ、飛行機がひどく珍しい頃のことである。ある時、浜松の連隊で飛行機を見せるというので、小学校二年生のその少年は、その日のために大枚二銭を用意した。当日は学校もサボッて飛行場に出かけるが、どうしたことか、入場料は十銭だった。やむなく松の木に登った彼は、心ゆくまで飛行機を見ることができる。本田技研社長、本田宗一郎氏の少年の日の一コマである。氏は、こんな頃から、自分に興味のあることには徹底的に興味をわかし、関心のないものには振り向きもしなかった。その為、学校の成績も、あまり香ばしいとはいえなかった。
 東洋精機株式会社をおこして、ピストンリングの製造を始めた時、その時氏は二十八才であったが、頼んで浜松商工の聴講生となる。その理論を習得する為だった。ピストンリングの研究と、仕事の成功とで頭が一杯の氏は、他の学生達が講義のノートをとるのにも無関心だったし、試験も受けない。そこで進級できないことになった。その時氏は、こう云っている。「免状なんかどうでもいいですよ。私は免状の為に来ているのではない。仕事の為に来ているのですから」
 氏はこうして、ピストンリングの製造を続けていたが、昭和二十年に浜松地方の地震と敗戦が一度にやってくる。敗戦を迎えて氏が考えたことは、「何をするか」であった。今迄のように自分を伸ばさない仕事は厭だ。思いきり自分を伸ばせる仕事をやりたいと考えた。一年間も考え続けた。
 周囲の人達が、戦争ボケ、敗戦ボケとなっている中で、一筋にその方法を考えた。そして考えたのが、戦時中に軍が使用していた通信機の小型エンジンを自転車に附けて走らせることだった。これが大評判になって売れた。月、二、三百台の生産が、たちまち千台になった。
 次はオートバイである。どうしても強力なフレームを持った、強い馬力のオートバイをつくりたい。衆知を集めて完成したのが“ドリーム”だった。スピードに夢を託するという意味である。
 氏が広く人材を集めることは、あまりにも有名だ。性格の違った人とはつき合わないような人、親類縁者に人を求めるような人は、下の下だと思っている。だから、本田技研の次期社長は、日本人であろうと、外国人だろうと構わんと考えている。しかも氏は万事自分流だ。自分のペースを乱すものには我慢できない。東京に仕事を移したのも、その為である。狭い部室では窒息してしまう。アイデアも浮かばない。氏の活躍はこうして、耐えず前進を続けていく。
 前進といえば、氏は、昭和二十九年三月、世界的オートレースであるTTレースに参加することを宣言した。その意味の一つは、TTレースで優秀な成績をあげ、オートバイ市場に輸出の念願を果すことであった。
 準備のためにマン島に出掛け、実際のレースを見て驚いた。そこで争われているオートバイは、実に本田の三倍の馬力を持っていたのである。メリコムようなショックであった。研究部から研究所へと発展するにつれて、研究は着々とすすめられ、遂に昭和三十四年に初出場、昭和三十六年には優勝を飾った。思えば、昭和二十九年に宣言して以来七年目、オートバイに賭ける執念。
 三重県鈴鹿に新工場を作った時、その設立の披露宴に招待したのは、県知事、市長など数人を除いて、あとは全部、オートバイに関心を持ちそうな人達ばかりであった。形式的なことは嫌いなのである。庶民と生きる、庶民と共に歩む人といえよう。
 ホンダは今や世界のホンダとなり、各国に出張所を持っている。これらの事業所では、現地の人を採用しているのが特徴である。それは本田氏の考え方、生き方からして、当然なことといえる。氏は「会社の為に働くなんて、およそナンセンスである。自由人として立派にすごせるために働くのだ」と云っている。また、「徳川家康」が実業人の間にもてはやされた時、これを笑って、「こんな時代錯誤の本を読むのはどうかしている。家康なんか、殺さず、生かさずに人を作った人ではないか。このような人に教えを乞わねばならないとすれば、その人の頭の程度が知れようというものだ。読物としては面白いが、完全に過去の人間になっている」という意味のことを語っている。
 たわむれに、「氏を通産大臣にしてみたい」といった人があるが、もし実際に頼まれたら多分氏は、「俺には興味がない」とあっさり断わるのではあるまいか。

 

                  <雑誌掲載文3 目次> 

 

企業の社会性を説く 木川田一隆氏<東京電力社長>

 

 大正十五年、東大経済学部を卒業した木川田一隆氏は、三菱鉱業の入社試験を受けて失敗した。試験委員と労働問題で激しく論じ合ったのが、不合格の原因らしい。やむなく知人の紹介で入社したのが、東京電灯(東京電力の前身)である。
 学閥、門閥など、背景となるべきものを何一つ持たずに、身体一つで波乱に富む半生を送って現在の地歩を確立した人たちに比べて木川田氏にはエピソードが少ない。その数少ないエピソードの中で、三菱鉱業に入りそこねて東京電灯に入ったという、このエピソードは、重大な意昧を持っている。
 氏はその後ずっと電力畑で育ち、電力界をリードすることになったのだが、それも、もとはといえば三菱鉱業をすべったためだし、すべった理由といえば、その労働問題への関心の深さに根ざしている。さらに付け加えるなら、戦後、関東配電の労務部長として、当時の電産を相手に、大いにたたかったことが電力業界での木川田氏の存在を大きくクローズアップさせることになったのである。その意味からいっても、たいそう象徴的な事件だったといえる。
 戦後の電力業界の最初の大きな課題であった、電力再編成問題で、官僚統制色の濃い日発の全国一社案と、私企業をたてまえとする松永安左ヱ門案が対立すると、氏は松永案を支持し、松永案の線に沿って電気事業再編成の実施機関である公益事業委員会では、日発と九配電の資産を、新しい九電力に公平に配分する仕事に取組み、これをみごとにやってのけた。それは、電力業界の長老松永安左ヱ門が、将来の電力業界を背負って立つ男と折紙をつけたほどのものであった。
 大学時代、氏は河合栄治郎から社会政策を学んで、資本主義経済に根本的に取り組んだ。大正末期の混乱した時代に生きて混乱のなかに一つの理想を描き、その達成に協力するところに人間的価値をみるという、河合栄治郎の立場に深く共鳴した木川田氏は大学卒業の際、労働問題研究所入りを希望したことさえある。その立場が、戦後の混乱した、個性と人間性を喪失した社会において、いかにして、人間を主人公の位置にもどすかということに取りくませることとなった。
 木川田氏の、経営者の社会的責任というテーマは、そこから生まれたともいえる。つまり、経済活動の主体は経済人であるということの自覚から資本主義経済の中に新しい秩序の概念を入れようとする。それは、戦前の自由放任主義の、競争一点ばりの考え方を改め、経済の共通の問題、技術の共用や国民的な教育訓練の問題を共に考える、いわゆる“協働”行為をやるということである。積極的意味をふくめて協働ということをうたって、その協働と自由競争の理念が調和した、秩序ある経営を考えるのである。
 今一つは、企業の社会性の問題である。自己の利潤を追求するとともに、社会における企業のウェイトを自覚することを考える。
 氏は、西ドイツの経済の基礎をつくったものも、協働と競争だとみる。それが社会進歩の基調になっているともみる。そして、それが日本経済のなかにとりいれられれば、新しい資本主義の方向をつくることにもなるとみるのである。協働を忘れた競争は、足を食うタコのようなもので自滅しかない。
「電気事業をやっていると、企業の社会性ということをつくづく考える。早い話が、九電力は地域的に独占的な動きをしている。そうした立場にある電気事業をみた場合、どうしても、社会的な、労働・資本というものの効率をあげ、コストを安く、またサービスをよくすることを考える。つまり、経営の社会的自覚が要請されてくる」ともいう。
 そしてそれは、私と公をどこでどうやって調和させていくか、言葉をかえていえば、生産者と消費者の利益をどこでどうやってマッチさせるかということでもある。両方の利益が一致するということ、それは両者の共通なものをつくろうとすることである。
 だが、日本の経営者の頭は古い。企業の社会性をいい、あるいは「協働」と「競争」の概念をいうことはむつかしい。経済同友会の代表幹事としてそれを説きながらも、それが具体化することは、むつかしいのである。だが、新しい資本主義に向かって進むためには、やらなくてはならない。そして木川田氏は、
「いかにして人間を主人公の位置にもどすかということ、そのためには経営者は経営技能者でなければならず、労働者は経営者のアシスタントなのだ」と考え「中間層の人達こそが、今後の社会を担う中核体である」と考えるのである。

 

                 <雑誌掲載文3 目次> 

 

意志の人 犬丸徹三氏<帝国ホテル社長>

 

 この文章がおおやけになる頃には、オリンピック選手村OA委員長としての大任を、犬丸氏が果たした頃かとも思われる。氏は御承知のように、帝国ホテルの社長であり、オリンピックにそなえて、浜松町から羽田空港にかけて建設されたモノレールの会社の社長でもある。それは、名実ともに、ホテル業界の大御所的存在である。だが、氏がここに辿りつくまでには、なみなみならぬ試練があった。それは、血を吐くような悪戦苦斗といってもよい。
 犬丸氏は明治二十年六月八日、石川県能美郡根上村に生まれた。生家は機織り工場を経営。尋常科を卒業した犬丸少年は、往復十六キロもある道を歩いて、小松町の高等科に通った。往復八キロの場所にも、高等科はあるにはあったが、所謂程度が高いという理由で、小松を選んだのである。それから小松中学へと、前後九年間も、往復十六キロを歩きつづけたのである。少年の根性も知らず知らずのうちに形成されたといえよう。雨の日も雪の日も無遅刻、無欠席だというから、驚くほかはない。
 東京高商(一橋大学の前身)に入学した犬丸氏をまっていたものは、ストライキであった。それは、本科を卒業した者が進学する専門部を文部省が廃止しようとしたことに端を発した。多感であった青年犬丸氏も、指導者の一人として活躍。ついに文部省は大学昇格を約束してケリがついた。だが、首謀者は退学になり、緒方竹虎もまた学校を去った。この事実を前にして、犬丸氏は悩まないではいられなかった。昨日までの優等生は、今日の劣等生となり、彼は、学業を放棄して、禅と読書にうちこむ月日がつづく。このために外交官への夢もどこかへ消しとんでしまった。
 明治四十三年七月、どうにか、学校は卒業したものの、就職という問題を前にして、犬丸氏の心は暗かった。どこへいくあてもない。心の安定も得られない。やっとみつけたのが、長春(満州)のヤマト・ホテルのボーイの職であった。やけのやんぱちに近い気持で掴んだ職業といってもよかろう。だが、いつのまにか、彼の中に、ホテル事業への興味が湧いてきた。
 ヤマト・ホテルに三年間つとめた彼は、次に新しい天地を上海に求めた。勿論コックである。此の時、上海在住の一橋出身によって「わが光輝ある一橋の気を汚すも甚しい。一つの理想を抱いて、コック修業をしているというなら、それをわれわれの前に説明しろ」という吃問状が提出された。だが、犬丸氏はそれにこたえることもなく、ひとすじに修業にうちこむ。ロンドンゆきの船に投じたのが大正三年七月。切符を買った後には、当時の英貨にして、わずか四ポンド半しか残らなかった。決意と節約をかねて、禁煙にふみきったのは此の時である。煙草は二度と口にしなかった。
 ロンドンでは、やっとホテルの雑用係のクチをみつけた。次は、窓ガラスふきである。「決意して、ホテル修業にきたものの、求める仕事を得られぬままに、ともすれば、心が空虚になるのを抑えることはできなかった」と後に犬丸氏は述懐している。しばらくして、待望のコック見習になり、一年間というもの、わきめもふらずに英国料理の研究をする。それから、包丁一本を片手に、フランス、アメリカと修行の旅をつづけ、大正八年一月、始めて故国の土をふんだ。長い修業の旅であったともいえるし、また、放浪の旅であったともいえるものである。
 日本での犬丸氏のポストは、帝国ホテルの副支配人。彼は存分に、長年にわたって得た知識をひれきした。
 大正十二年四月、支配人。
 この頃から、ホテル建設の話は、殆んどすべてと言っていい様に、犬丸氏のところに、相談がもちかけられるようになった。氏のてがけた仕事に、新大阪ホテル、名古屋観光ホテル、川奈ホテルなどがあった。折りも折り、昭和十五年には、オリンピックが東京で開催されると言うので、それをあてこんで、次々とホテルが建設された。そのいくつかに、氏の足跡がきざみこまれた。だが、戦争のため、オリンピックは中止。
 戦後、帝国ホテルの社長となり、再びやってきた東京オリンピックには、文字通り、ホテル業界の王として、その仕事に取りくんだのである。
「宵越しの金は使わないと自慢している奴がいるが、裏返しにすれば、独立心がなくて、依頼心だけが強いということだ。自分の金がなくなって、しかも金が必要になった時、他人になんとかしてもらうことになってしまうからだ」とは、犬丸氏の経済哲学である。

 

                 <雑誌掲載文3 目次>

 

老成の人 河合良成氏<小松製作所社長>

 

 共産圏貿易をいう場合、必ず、翌場してくるのが、小松製作所の社長河合良成氏である。一昨年は、ソビエトに経済使節団の団長として訪ソしたが、日中貿易でも欠かせぬ人である。たしかに、共産圏貿易になると、政治問題が複雑にからんできて、普通の財界人ではつとまらない。周囲をみながら、右顧左眄する人にはつとまらない。あくまで自己の信念にむかって、猪突猛進するぐらいの人でなくてはだめだ。その点、老境にはいって、意気益々盛んな河合氏の場合は、まさに適任というところか。高崎達之助氏のなくなった今、氏の存在は一層大きい。では、今日の河合氏はどのようにして生まれたのであろうか。
 河合良成氏は明治九年五月、富山県福光町に生まれた。同じく、日中貿易の打開に努力している松村謙三氏は、彼の隣家の生まれである。父親は、当時、汽船会社を経営していた関係で、小学校一年の時、一家をあげて、港町伏木に移り、そこで、小学校、中学校を終えた。
 金沢の四高時代は、哲学者西田幾太郎の主宰する三三塾にはいり、そこで、西田から、自覚と意志の力を学んだ。意志の弱さは罪悪だという思想を教えられたのである。富山という、雨と水田のなかで、泥土と戦う生活環境を自覚的にうけとめることによって、強い意志をいやがうえにも、強い意志に育てあげていったのである。
 東大を卒業したのが、明治四十四年、農商務省にはいった。そこで、とりくんだのが米価問題であった。外米課長のとき、米騒動がおきる。それがもとで、寺内内閣が仆れたが、此の時、一課長にすぎなかった彼が、その責任を感じて、その職を退いている。責任感の旺盛な男でもある。
 次に、郷誠之助が理事長をしている東京株式取引所にはいり、大正九年のパニック、大正十二年の関東大震災では、郷の片腕として活躍。しかし、ここも、郷が大正十三年東株をやめるのに伴って、彼もやめた。郷は彼を日華生命に世話した。日華生命というのは第百生命の前身で、河合氏はここで、八千代生命、万蔵生命、福徳生命の合併をやってのけた。彼の仕事は順調にすすむかにみえた所に、帝人事件がおきた。
 帝人事件というのは、鈴木商店がつぶれ、台湾銀行に担保としてはいって帝人株二十万株の買受をめぐる贈収賄容疑である。帝人株二十万株は保険会社で買ったが、其のとき、五千株の引受け手がないということで河合、長崎英造、小林中、永野譲の四人でひきうけた。百十二円で買ったのが、百八十円にはねあがり、彼等はボロ儲けした。そこであやしいということになったのである。たまたま、「番町会を暴く」という記事を十数回にわたって書いた時事新報の社長武藤山治が殺され、一層、問題は大きくなった。
 番町会というのは、郷誠之助を盟主に、河合、永野の外に、正力松太郎、伊藤忠兵衛、中野金次郎、渋沢正雄などが参加し、財界の一勢力となっていた。時事新報によると、「番町会は政財界の裏面に暗躍し、帝人乗取りを策し、その金力と権力を背景に策謀している」というのである。遂に、番町会の主なメンバーは捕われの身となった。河合も市ヶ谷の刑務所に二百日を送る身となったのである。結局、無罪の判決で出所したものの、世間の疑惑はとけない。満州にわたったが、そこも一年でひきあげざるを得なかった。こうした不遇の中で、彼は心身ともにきたえられた。
 内地にひきあげた彼は、鮎川義介を助けて、観光事業にのりだしたが、これもだめ。今度は、東京市の助役生活をはじめたが、ここも十ヵ月でやめる。
 次は、運輸省の船舶局長。
 戦後は農林次官、厚生大臣、そして追放。古巣の第百生命にかえり、小松製作所のストライキをきっかけにして、同所の再建をひきうける。それというのも、復興金融公庫から七千万ほど、小松製作所のために借りてやったのがきっかけである。その後、迂余曲折はあったものの、見事に小松製作所は再建した。河合氏は、その間、十五年余も社長をつづけている。一ヵ所に落着けなかった彼が、晩年になってはじめて落着いたのである。それも十五年余という長い年月にわたって。
 長い年月にわたって蓄えた実績をもとに、河合良成氏が本当に雄飛するのはこれからである。
 日中貿易は氏の活躍をまっている。

 

                   <雑誌掲載文3 目次> 

 

事業の鬼 小佐野賢治氏<国際興業KK社長>

 

 小佐野腎治は謎につつまれた男だというのが、世間一般の批評である。ことに、その前身は、誰にもわからないといわれている。おそらく、敗戦までの彼のことであろうが、大正六年二月十五日に山梨県勝沼町に生まれた彼の事故、敗戦の時はわずかに二十八才の青年であった事を思えば、それは当然であるともいえる。中学校から高校・大学へ、更に名ある大会社とその経路をはっきりしている人達に比して、水呑百姓の子として、高等小学校を終えて、鍬をふる生活から、人生の第一歩を始めた彼に、その経歴を求める方がどだい無理というものである。
 一見謎につつまれた過去は、彼の後半生のあの神秘なまでに、することなすことすべて成功してゆく彼の事業を理解する上で、むしろすてきでさえある。要するに、彼は事業の成功者である。
 彼の経営しているのは、バスの保有台数三千数百台、運行系統二百を超える国際興業をはじめとして、クライスラー社の日本総代理店、北海道いすず、札幌いすず、菱和オート、それにホテル・タクシーなど、数えあげていけばきりがない。個人資産も二百億をこえるという噂である。どこまで成功していくのかわからないというのが本当である。しかも、彼はまだ、五十才にみたない男である。
 敗戦のどさくさに乗じて「濡れ手に粟」の商売でためこんだともいわれているが、軍の物資で、そのような商売をしたのは、何も小佐野一人に限ったことではない。敗戦のどさくさに乗じて、国盗りという大事業までなそうとした人達もいることを思えば、小佐野の仕事はたかが知れている。
 二十才まで、田舎にくすぶっていた小佐野も、徴兵検査をうけ、兵隊となってから次第に道が開けてくる。二年間の軍隊生活を終えた彼は東京にでて、自動車の部品を販売している店につとめ、翌年には独立。ついで軍需省の民間嘱託となる。軍需景気で誰もが雪ダルマ式にふとったが、彼もその一人にすぎなかった。違っていたのは、敗戦のどさくさで、多くの人達が呆然自失しているときに、軍から、ただのような値段で、多量の自動車部品やガソリンを払いさげてもらったことである。小佐野はそれで、しこたま、もうけた。今一つは、「戦争は終った。これからは平和産業、観光事業がよくなる」ということに眼をつけたことである。
 昭和二十年に早くも根津嘉一郎の熱海ホテルを手にいれている。ついで、一万坪の敷地に、鉄筋五階建の強羅ホテル(箱根)を手にいれた。強羅ホテルは、五島慶太の所有であったが、越冬資金にこまって五島が売りに出したものである。彼はこの事が縁で、その後何かと五島の愛顧をうけるようになった。三番目に購入したのが山中湖ホテルである。
 ひょんなことから、小佐野はバス経営に乗りだすことになった。これより先、熱海ホテル、強羅ホテル、山中湖ホテルは占領軍に接収されて、家賃をもらっていたが、占領軍がバスがほしいといいだした。そこで、五島のところにバスを借りるためにでかけた所が、その彼に、五島がバス会社を経営してみないかといいだしたのである。東都乗合自動車の買収はこうしてきまったのである。
 昭和二十二年六月には、国際興業KKとして、すべての事業を包括して新発足した。だが、昭和二十三年にはMPから偽証罪および政令違反で拘留される事件もおきている。占領軍にプレゼントしながら、していないと答えたためである。加えて、バスのために配給されたガソリンを自分の乗用車につかったのがけしからんというのである。しかも、この拘留中に、脱税が摘発されている。おそらく、彼にとって最も手痛い体験であったろう。
 その後の彼は、すべてなす事があたり、順風満帆というところ。昭和二十五年には、元伯爵堀田正恒の次女英子と結婚して、水呑百姓の家柄にハクをつける。
 昭和二十八年には、中古外車三百台を日比谷公園で売りだして、またたくまに売りつくすという芸当もやってのける。
 山梨交通の株の入取に当っては、敵である西武鉄道の堤康次郎のどぎもをぬく一幕もあった。しかも、小佐野の夢はとどまるところを知らない。とうとうハワイのプリンセス・カイウラン・ホテルを買収するところまでいくのである。プリンセス・カイウランはハワイ一の高級ホテルである。
 頭をテラテラに光らした、全身これ精気のかたまりのような小男小佐野は、次に何をねらっているのであろうか。猛禽のような眼をして。

 

                   <雑誌掲載文3 目次>

 

平等を説く男 小田原大造<久保田鉄工社長> 

 

 大阪の経済的地盤の沈下をなんとか食いとめようと近畿経済圏の構想など、いろいろと取り組んでいるのが、大阪商工会議所会頭小田原大造氏である。氏は御承知のように久保田鉄工の社長でもあり、会頭就任にあたっては、土井正治住友化学社長と激しく争ったことはあまりにも有名である。それも、会頭の椅子をもぎとったという表現があてはまる強引さで、手にいれたのである。広島県人には珍しい強引な男といえるかもしれない。
 小田原氏は尾道の向島に明治二十五年に生まれた。父親は「先生」の名で通った漢学者で、家業は家族や雇い人に任せきりで、終日漢籍をひもといているような人だった。小学校にあがった大造少年は一年生を二度やるほどに身体が弱かった。尾道商業に進んでからも、一年休学している。この身体が弱いということが、上級学校への進学を断念させた。だが、学びたいという欲求は、その故にかえって強まった。
 代用教員をしながら、次々に、中等教員の検定試験をうけて合格した。この事は、情熱をもって自主的に学ぶ、という姿勢を身につけさせることにもなったのである。強い意志を身につけていったことも事実である。彼が後年、会頭の椅子を強引に自分のものにする素地はこの時にできたといってもよい。もちろんそれは、弱い身体をいたわりつつ、六年間の長い苦斗の生活でもあったのである。
 商業科の試験に合格し大造青年がその時に考えたことは、平安な教員生活よりも、もっと生き生きした生活、働きがいのある生活をしたいということであった。彼には、教員生活はなまぬるい生活に思われたのである。
 こうして、今の久保田鉄工尼崎工場の前身である関西鉄工にはいった。ここでも、彼の独学の姿勢は大いに役だった。てあたり次第に、書物を読んで、可能なかぎりの知識を頭につめこんだ。しかも、幸いだったことは、入社した翌年、関西鉄工は久保田鉄工に買収され、支配人として関西鉄工に乗りこんできたのが、向島とは目と鼻の位置にある因島出身の須山会三氏であった。
 須山氏は、氏を別室に呼んで
「実業界という所は、学校とは違って生存競争が激しい所である。事業で成功しようとすれば、実力のある社員を持たねばならない。したがって、会社の経営者は、実力のある社員を探している。君もそのつもりで勉強しなさい」
といった。彼はこの言葉に導かれて、ますます努力していった。
 大正十年、第一次世界大戦後の不況をうけて、労働争議は東京から名古屋、大阪、神戸とひろがり、久保田鉄工もはじめて、その渦にまきこまれた。小田原氏は当時、工場長代理の位置にあったが、この時の団体交渉には出席しなかった。しかし、大正十二年、二度目の争議の時は、全部を一任されて交渉した。
 彼は、争議による解雇は絶対にしないという条件の下に、徹底的に話しあい、労使が協力して、生産性をあげて、賃あげする約束をして、円満に解決したのである。工場はその後、能率が急に上昇したのである。
 それというのも、小田原氏は、金光教の信者として、自分たち人間は皆等しく神の氏子である。富める者も、貧しきものも、他位高きものも、低いものも、皆区別なく、神の前には平等な神の氏子である。労働者を奉公人として、金でどうにでもなるという考え方はおかしい。人生にこんな不公平な差別があることは、許されないと考えていたのである。神の氏子として、経営者も労働者も平等にしあわせにならなくてはならないという思想をもっていた。大正十年、工場長代理としてストライキを体験したとき、労働組合がムチャを言うこともあるが、だいたい、資本家の方が悪いことが多い。労働組合の方が筋が通っているということを感じ、大正十二年の争議にあたっては、それを生かしたのである。
 その後、労働問題に関する経験を積み重ねていくうちに、労働組合はなくてならぬもの、会社の発展に必要なものと思うようになっていく。すでに、戦前に「工場委員制度」という、今でいう労使協議会も開いていたのである。
 東京の隅田川製鉄所の汚職事件にまきこまれた氏は、その取調べにあたり、激しい拷問がなされたことを知り、東京控訴院に検事を告訴した。その陳述にあたっては
「忠良無垢な国民に対して、天人共に許されぬ悪逆無道の権力を悪用した罪は決して許されない」
とのべ、とうとう、主任検事を免職、他の検事を地方に左遷するということをやってのけている。
 これらは、若き日の小田原大造氏の面影であるが、老いて愈々盛んな氏のこと、一層、筋を通されるのではないかと思う。

 

                    <雑誌掲載文3 目次> 

 

闘魂の人 黒沢酉蔵氏<北海タイムス社長>

 

 黒沢酉蔵という名前をきいた人は、少ないかもしれない。たしかに、ポピュラーな名前ではない。だが、北海道の黒沢といえば、どこかできいたことのある名前だと思いだす人も多いのではないか。
 それほどに、黒沢氏は、北海道の発展と歩みを一にしてきた人であり、北海道の開発を語るうえに、欠かせぬ人である。しかも、現在、数え年八十一才の高令を以て、二十代、三十代のような情熱を傾けて北海道開発審議会の委員長をつとめるかたわら、北海タイムスの社長として、また、酪農大学の学長として、その先頭にたって活躍しているのである。
 二十才の時北海道にわたって牧夫となってから六十年、文字通り、斗魂の人として、人生を斗いぬき人生を勝ちぬき、そして、今もなお、斗いつづけている男、それが黒沢酉蔵という男である。
 黒沢氏は、明治十八年、茨城県久慈郡の農家に生まれた。その年は、後年、彼が師事した田中正造が、国会ではじめて、足尾銅山の鉱毒事件を訴えた年でもある。
 十五才のとき上京して、アルバイトをしながら中学に通ったが、田中正造が明治天皇に直訴したことをきいて、やもたてもたまらず、正造を新橋の旅館にたずねた。彼が十七才の時である。
 正造の話に深く感動した黒沢は、今後この事のために人生をささげようと決意し、それからは、学業を捨てて、鉱毒の村を歩きまわるのである。そのため、とうとう逮捕され、前橋監獄に未決拘留六ヵ月の生活を送ることになるのである。このとき、聖書を読む機会に恵まれるとともに、「まず生活の安定が先だ、世の中への奉仕はそれからだ」と考えるようになる。黒沢氏の挫折であり、同時に、第二の人生をあゆみはじめることになるのである。
 北海道にわたった黒沢氏は、当時、札幌を中心に有名だった宇都宮仙太郎の牧場をたずねた。
 それというのも、この宇都宮氏は「酪農には三つの徳がある。第一には、役人に頭をさげなくともよい。第二には、相手は牛だからウソをいわんでもよい。第三には、牛乳をいくらでものめる」ということを説いており、それに深く共鳴したためである。挫折したとはいえ、正造に対した姿勢は、その時も失われていなかったのである。
 明治四十二年、はじめて、家屋敷牧地つきの貸家に乳牛一頭を借りうけて、独立の第一歩をふみだした。それから五年、朝は三時に起きて、牛の乳をしぼり五時には、牛乳の配達にとびだすという刻苦勉励の結果、乳牛二十頭に十八町歩の山林畑地を持つ身の上になる。三十才の時、結婚したが、結婚の日も、新婚第一夜、も朝三時におきるということはかわらなかった。氏の力斗ぶりがうかがえるというものである。
 だが、黒沢氏の前途は平坦な道ばかりではなかった。それは、第一次大戦中、乳製品は海外からの輸入が絶えてどんどん売れたが、戦争が終わると、外国品がどっとはいってきた。そうなると、質も悪く、値段も高い国産品は競争にならない。煉乳会社は買いしぶり、乳価は暴落した。農家はその被害をもろにうけたのである。黒沢氏もその被害をうけた。しかも、本格的に乳牛をふやした時だから、たまったものではない。どこかに打開の道を求めねばならなかった。
 こうした危機の中から北海道製酪組合が誕生したのである。即ち、煉乳会社が買ってくれない牛乳を組合が買取り、バターをつくる計画である。勿論、その組合をつくるために、黒沢氏は、足を棒のようにして、一人一人説得してまわらねばならなかったのである。だが、製造したバターやチーズを売るのはもっと大変なことだった。東京で、宣伝に配ったバターは石けんに間違えられる始末だったから。
 が、とにもかくにも、黒沢氏の斗魂は北海道製酪組合を立派にみのらせ、戦後の雪印乳業の基礎をきずいた。その間には、札幌駅頭で、暴力団の襲撃をうけるというようなこともあった。
 北海道タイムスの社長となったのは、朝日・毎日・読売各紙が北海道にファクシミリ攻勢をかけた時である。北海道新聞は勿論だが、創刊して日も浅い北海タイムスは、その被害をもろにうけざるを得なかった。その時に、黒沢氏は北海タイムスの社長となったのである。ここにも、被害をうけてたつ、黒沢氏の共通の姿勢が発揮されたといってよい。それは、遠く、前橋監獄において、聖書を読み、そして洗礼を受けたキリスト者の精神であるといった方がよいかもしれない。
 社長に就任してから数年、四階の社長室にエレベーターを便わずにトコトコのぼっていく姿勢には、身体を鍛錬するということばかりでなしに、新聞経営というハデな経営を地味なものにしていこうとする氏の配慮がうかがえるのである。
 黒沢氏は生きているかぎり、その斗いをやめないであろう。

 

                  <雑誌掲載文3 目次> 

 

合理主義の人 松田恒次氏<東洋工業社長>

 

 最近十年間に、売上高は十倍、利益金は十四倍というふうに、確実に、それも非常な成長率をみせているのが東洋工業である。商売の神様といわれる松下幸之助氏を総帥とあおぐ松下電機にまさるともおとらぬ業績をしめしているが、その中心になって、この企業を推進しているのが松田恒次氏であることを知っている人も多かろう。
 松田氏は明治二十八年に大阪に生まれた。父親重次郎は機械の虫で、その技術を深めるために、大阪の藤孫という鍛冶屋をかわきりに、呉の造船所、神戸の造船所、大阪の砲兵工廠、長崎の造船所、佐世保の海軍工廠、更に呉の造船所、大阪の砲兵工廠と転々と職を変えていった変り者である。少年恒次の心にやきついたのは、どこまでも求めてあくことのない父親の生きる姿勢であったろう。しかも、父親重次郎は経営者になった後も、決して、エンジニアの立場を離れない人であった。青年恒次は、それを身近かに感じながら成長していった。
 二十一才の時、松田氏は大変な経験に直面しなければならなかった。それは、結核性の関節炎のために、左足を膝の上から切断しなければならないということである。「片足になる位なら、死んだ方がましだ」と思い悩むが、この冷厳な事実に直面する以外にない。松田氏のしんの強さ、運命を達観したような逞しさはこうした経験のなかから、次第に身についていったものであろう。
 だが、松田氏が一本立ちして、そのような心境に到達するまでには数年を要した。その間には、いろんな道草も経なければならなかった。長いつらい生活ではあったが、立ちなおった。立ちなおったら、そんな経験をもたない誰よりも、強かった。逞しかった。
 昭和二年七月に東洋工業に入社。ある日、使いに出た松田氏の眼に、横転した荷馬車がうつった。馬は脚を折ったらしく、もがきくるしんでいる。我が身をふりかえって、馬に対する同情が強くわいた。同時に荷車を馬にひかせなければよいのだがとも考えた。そこから生まれたのが三輪トラックのアイデアである。
 父親は双手をあげて賛成した。昭和五年三月に2サイクル、250ccの単車の試作に成功、昭和六年十月、待望の三輪トラックが完成した。これが非常に評判がよくて、飛ぶように売れた。そうなると工場も拡張しなければならない。
 彼の活躍につぐ活躍がはじまった。鹿児島ー東京縦断の大キャラバンという宣伝をしたのが昭和十一年、昭和十三年には取締投になった。
 だが、この頃から、しだいに、東洋工業も戦争の渦にまきこまれてゆき、銃などをつくりはじめ、ついには、三輪トラックの生産は完全にストップするところまでおいこまれた。
 戦後になって、父親の仕事を子供がつぐのは封建的だという社内の空気を察して、会社を辞職したが、昭和二十五年、労組などの要望もあって、取締役に就任、昭和二十六年には、社長になった。
 彼は早速、ムダをはぶいてゼイタクをしよう。公私の別をはっきりさせようという、二つの命令をだした。コスト・ダウンしてお客に喜ばれる車を作るには、これ以外にないと考えたのである。
 重役や部課長宅の電話料なども全部自分もちである。基本料金は会社が負担するが、奥さんがウドン屋にかける電話料は払えない、というのである。クルマも私用は絶対に許可しない。
 変っているのは、会社に赤電話が多いことである。これも公私の別をあきらかにすると共に、限られた電話線を私用のためにふさがないという配慮である。
 こういうことを数えあげたらきりがないが、要するに、すべてはコスト・ダウンに通じている。三十万円の乗用車「マツダR360クーペ」もこうした中から誕生した。
 現在は、西ドイツのNSU社、バンケル社と技術提携して、ロータリー・エンジンの開発に会社をあげてとりくんでいる。もし、ロータリー・エンジンが実用化される段階にはいれば、自動車業界は新しい時代に突入するだろう、といわれているものである。東洋工業が、トヨタ自動車、日産自動車の生産台数、販売台数に食いこんで、天下を三分できるかどうかは、一にロータリー・エンジンの開発如何にかかっているといってもいいすぎではない。
「みんなで同じに働こう」「みんなで分とう」ということをスローガンにした松田恒次氏、もし、本当に心からそう思い、それを実践していくなら、天下を三分することも夢ではあるまいが。

 

                   <雑誌掲載文3 目次> 

 

人間本位を地で行く 武藤絲治氏<鐘淵紡績社長>

 

 武藤絲治氏は昭和三十九年五月六日、創立七十七年の記念日を迎えて、大要つぎのように演説した。
「本年は、グレーター・カネボウ(より偉大なる鐘紡)建設計画の終了の年であります。いま静かに社中の戦友とともに、波乱にみちたグレーター・カネボウ建設発足以来の二年有余の歳月をふり返ってみますと、まさに戦いに明け、戦いに暮れた激戦の連続でありました。
 鐘紡七十七年の歴史は汗と脂の労働のそれでありますが、この輝かしい歴史を今後守りぬき、さらに輝かしい歴史たらしめるものは実に社中戦友の皆さんであります。社中戦友の皆さんこそは、鐘紡の宝であります。また鐘紡繁栄の担い手であります。私は従業員の繁栄を通じて、鐘紡の繁栄をはかりたいと思います。そのために、現行の定年制を廃止したいと思います」と。
 武藤氏は終身雇傭制の日本で、労働者が夢にまでみた定年制を廃止したのである。これが、社の内外に、異常な昂奮と反響をまきおこしたのも無理はない。それこそ、労働者が切望してやまなかったものであるからである。
 多くの問題をかかえながらも、武藤氏はそれをふみきり、自らパイオニアの道を歩みはじめたのである。この精神はどこから生まれたのであろうか。
 明治十六年四月二十五日、武藤山治氏の二男として生まれた絲治少年は生まれながらにして、絲に縁があったのかもしれない。
 山治氏とは、御承知のように、鐘紡を日本有数の会社に育てあげ、後、時事新報の社長として活躍中、昭和九年に兇弾に仆れた男である。絲治氏はこの父から、正義と考えたら、それを断固と実行することを学んだ。
 慶応普通部を四年で中途退学。学校にみきりをつけたか、それとも学校から追われたかのいずれかであろうが、福択諭吉のいない慶応には、それほど魅力を感じなかったことだけはいえそうである。
 二十一歳の時に渡英した彼は、私塾の教育を求めて、寺小屋式の小さな組織の学校に入学した。どこまでも、先生の人間教育に接したいという彼の切なる願いによるものであった。試験といえば、せいぜい記憶の試験でしかなかった日本の学校を離れて、思う存分、自分で思索する生活を送った。
 そこで求められたことは、とことん、自分で考える生活であった。そういう生活を五年間も送ったのである。馬鹿でないかぎり、自分で考え、自分で行動する姿勢を身につけようというものである。
 加えて、自由というものには、非常に厳しい責任というものがあることを教えこまれた。自由と責任を本でなく、生活の中から体得したのである。それは、責任をとるかぎり、どこまでも自由であるということをも意味した。知らず知らずのうちに、日本の教育の形式主義に対して批判的となり、本当の自由を身につけていったともいえる。
 昭和四年の春、日本に帰ってきた絲治青年にむかって、父親山治氏は「自分の道は自分で択びなさい。お前が択んだあとで、親としてなんらかの援助を与える必要があれば、援助してあげよう」といった。
 英国での教育は自分で考えることであったが、父親の言葉もそれを更に促すようなものであった。絲治氏が新聞記者になろうか、あるいは文筆家・学者になろうかとあれこれ考えたのもむりはない。
 その思考は一年間も続き、やっと、彼が択んだのは、製糸事業をやる昭和産業という会社であった。まもなく、昭和産業が鐘紡に吸収されることになって、結局、父が育てた鐘紡の、社員となったのであるが。
 京都の下京工場長になったのが、三十一才の時。「工場の食堂はレストランではない。働く人のカロリーを科学的に計算して、できるかぎり栄養のある、うまいものを食べさせるように、努力しなくてはならない。工場の食堂が黒字だなんて一つも感心したことではない」といって、赤字を出すように厳命したのはこの時である。
 また、当時の帰省者は45%もかえってこない。それというのも、工場側の都合でなかなか帰さない。まして、退社しますなどというと、余計帰してくれない。自然、ちょっと帰省するといって帰省するようになる。そのために45%が帰ってこないという数字になってあらわれていたのである。
 彼はこれを狂っていると診断した。相互の信頼のない所に会社が発展するわけもないと考えた。そこで帰りたい者にはすべて申し出させて、往復切符代と八つ橋(京都名産)をもたせてやったのである。この信頼には皆感激した。はじめて、相互の人間信頼は生まれたのである。
 今日の彼は、すべて、この下京時代が基礎になっている。それを導いたのは、英国での生活で身につけたものといえそうである。

 

                   <雑誌掲載文3 目次> 

 

使命感に生きる男 石原広一郎氏<石原産業社長>

 

 戦前・戦中にかけては、その殆んどの事業を南アジアの地域にもっていた石原産業であったが、終戦で当然のことながら、その全てを失ってしまいながら、二四ーD除草剤の製造販売を通して、見事、会社をたちなおらせた男が石原広一郎氏である。氏は現在七十六才の高令にありながら、会長兼社長という要職について、除草剤を通じて、日本の農業革命にとりくむパイオニアである。
 石原氏が生まれたのは、明治二十三年、農業に生きる長太郎の長男としてであった。
 十五才の時、京都の農林学校に入学した広一郎少年は、卒業とともに、父を助けて農業にはげむ。朝は六時に家を出、夕方は六時に家に帰るという毎日であった。農耕の出来ない雨の日には、わらじを作り、なわないに精を出した。
 土を相手の仕事には、人間関係のわずらわしさはなかったが、それがかえって、青年広一郎には不満でならなかった。
 彼は、つてを求めて、京都府庁の農業技手になった。勿論、農業技手の仕事に甘んずる彼ではなかった。役人になった以上、高等文官の試験に合格したいという一念で、立命館大学の専門部に入学した。
 だが、中学卒業程度のものは、英語の高文予備試験がある。しかも、語学は不得意ときている。いくら勉強しても自信が生まれてこない。そのため、どうしたものかと、日夜、煩悶する始末であった。
 たまたま、南方にいっていた弟新三郎から、独立して、ゴム栽培を始めるという便りがきた。彼はわたりに船と南方にいくことを決心。時に大正五年、石原氏が二十七才の時である。
 妻子をともなっての南方ゆきであった。そこで、ゴム栽培に従事するかたわら、鉄鉱石の調査にとりかかった。それというのも、シンガポールの植物園の丘で、無意識ににぎったバラストが褐鉄鉱であったということ、この土地には、必ず鉄鉱石の山があるという確信をもったためである。
 鉄の原料が殆んどない日本に、もしそれを運べるならどんなにすばらしいことかしれないと思った。
 石原氏は、それこそ、足を棒のようにして、一年間、山野をはいずりまわった。そこは人跡末踏であったし、虎や象のなまなましい足跡がある所でもあった。だが、石原氏の努力はなかなかみのらなかっった。しかし、それであきらめるような人ではない。
 彼の忍耐強い努力は、とうとう、大正八年になって鉄山を発見させた。しかも、その鉄山は宝の山というか、全部鉄鉱石で、石コロは一つもないというほどに、みごとな鉄山であった。
 鉄山を発見したが、次は、果して採掘許可が外国人におりるかという心配があったし、採掘して採算があうかどうかということも心配であった。だが、石原氏には、鉄鉱石のない日本に、どんなことをしても運ばなくてはならないという使命感があった。それが、発見したものの務めであるとも考えた。
 日本に帰った石原氏は文字通り、東奔西走した。紹介状もなく、八幡製鉄所長官の白仁武に面会を申しこんで協力も願ったし、立命館大学の関係で、台湾銀行頭取の中川小十郎にも尽力を乞うた。
 こうして、徐々に道は開けていった。出願中の採掘権も降りた。幾多の紆余曲折はあったにしろ、それからの石原氏の進む道は順風満帆であったといっていい。お金もどんどんもうかっていった。そうなると、欲もでてくる。違った使命感もわいてくる。いつか、石原氏は次第に政治に近づいていった。
 徳川義親をかわきりに、大川周明、橋本欣五郎という人達に交わり、昭和七年には、とうとう『神武会』を組織し、会長に大川周明が就任するとともにその顧問になった。一切の費用を石原氏がうけもったのである。
 昭和十一年の衆議院選挙には、京都二区から立候補したが落選、それから数日後に二・二六事件がおきた。石原氏は、蹶起将校に資金五千円を援助したということで、六月に東京憲兵隊本部に留置されたが、翌年一月には、無罪という判決をうけた。
 その後、昭和二十年まで、陰に陽に政治にかかわっていくが、結局これという決定的なことをなし得ないままに終わった。
 十数年間 政治運動に参加しながら、何もなし得なかったという反省、そこから、石原氏の戦後の人生がはじまる。彼は、自然の法則に反した政治運動であったから、実らなかったと思う。
 昭和二十四年二月、巣鴨を出所すると、その足で、石原産業のために南方でなくなった人達の冥福をいのって、日本中を歩きまわった。深い自責から出たものであった。
 今、石原氏は、若き日に、父を助けて農業をいとなんだ如く、使命感に支えられて、農業になくてはならぬ除草剤の生産にとりくんでいる。おそらく、彼の中では、そのことが一になってとらえられている筈である

 

                  <雑誌掲載文3 目次> 

 

商売ほど面白いものはない 上原正吉氏<大正製薬社長>

 

 毎年所得第一であった松下幸之助氏をぬいて、とうとう、昭和三十九年度の所得の王座についたのが上原正吉氏である。
 それを裏づけるように、昭和三十四年度の売上高35億円、利益高5億円が昭和三十八年度には売上高が171億円、利益高が44億円という異常な発展をしめしている。しかも、奥さんの小枝夫人も名目だけの副社長でなく、実際に経営にタッチして、その二人三脚ぶりを十二分に発揮しており、どこまで発展するか想像つかないというのが現在の大正製薬の実情である。
 上原氏は明治三十年十二月二十六日、埼玉県杉戸町に生まれた。父親は小学校の教師であったが、正吉少年が八才の時になくなった。母親もその前年になくなっている。そのため、お兄さん夫婦に育てられた。
 高等小学校を終えた正吉少年は、今度は東京に住んでいる兄さんをたよって上京。そこから、神田の錦城商業学校に入学した。大正三年に、そこを卒業した彼は、自分に相応しい、それでいて将来性のある職場を求めて、一年間さまよっている。
 彼は、人生はやり直しがきかない以上、就職先の選択は慎重でなくてはならないと考えたのである。毎日、新聞の求人広告を読み、職業紹介所も訪ねて、経営者と事業の二つに将来性のあるところをさがし求めた。これはと思われる就職先は、手あたり次第訪ねた。経営者の人物試験をやってまわったのである。こうして、一年目に、やっと、彼は大正製薬所の石井所長とめぐりあうことになった。
 経営者と仕事を択んで入社した彼に、仕事と職場がおもしろくないわけはない。仕事は自分から求めてやる。石井所長とは呼吸があうというぐあいで、会社も面白いほど発展した。
 彼の仕事は外回りの販売であったが、そのなかで「問屋をやめて、小売店直接に改めるべきである」という考えに到達した。「問屋や卸商は不況に弱い。倒産するものもでてくる。そうなると、その損害をもろにうける。それに、商売の基礎である製品の販売網が借りものではいけない。問屋が長年かかってつくった親近感や信頼を、大正製薬そのものでももつべきである。」と考えだしたのである。
 勿論、社長も同僚も始めは反対した。「問屋を敵にしてはまずい」といって。しかし、彼は忍耐強く説得していったのである。
 大正製薬の今日のチェーン店は、当時の小売店がかたまったものといえる。そうこうしているうち、大阪に進出することになった。勿論、上原氏が初代の大阪支店長である。
 大阪といえば、薬業界の本場であり、大正七年にも大阪支店をつくったが、その時は敗退している。
 だから石井社長(株式会社にあらためている)の決意もなみなみではない。だが、大正製薬が、日本の製薬会社となるためには、どうしても、大阪に地盤をもつ必要があった。
 支店長として上原氏が考えたことは、結局、誠実な努力を重ねていくということであった。商売はつねに対等で長続きする取引きでなければならないということであった。彼は、取引き先にムリをいったり、商品を押しつけることを厳禁した。
 当時のビラにはつぎのように書かれている。
「押売り防止に御協力下さい。押売りは返品の原因となり、返品は生産原価を高騰させ、経営を悪化させる最大の原因となりますので、つぎのとおり、御協力のほど願いあげます。お伺いした外商員に御注文下さるときは、必ず外商員が持参する注文用紙を用いさせ、品目数量をお確めの上、最後の行に『次下余白』と記入させ、あとから品目を追加できないようにして、それから、ご判を押して下さい。『以下余白』と記入してない注文書には、決してご判を押して下さらぬよう、くれぐれも願いあげます」と。
 総勢7名から出発した大阪支店は、五年目には140名になり、八年目には、東京本社の売上高をうわまわるまでに成長するのである。
 とうとう、昭和十三年には、東京本社の営業部長となり、東京本社の体質改善にのりだす。それまで140種類もあった紙箱の型が30種に、150種類ぐらいあったビン型が四分の一に整理される。直営の印刷工場をもつ。徹底的に合理化にとりくんだのである。
 昭和二十一年に社長になってからは、文字通り、順風満帆というところである。
 「昔は私も商売というものは、金もうけが目的であると考え、金もうけに一生懸命になったが、さっぱりもうからなかった。そのうち、製薬という商売そのものが、おもしろくて、おもしろくてたまらないようになってきた。そうしたら、事業はドンドン伸びていった」
というとき、上原社長の笑いはとまらないようにみえる。

 

                    <雑誌掲載文3 目次> 

 

「松下幸之助絶対無責任の“哲学者”

 

「松下幸吉という人の本にありませんか」
「松下幸之助とちがいますか」
「あ、そうでした。松下幸之助というんでした。その人の書いたものなら、何でもいいんですが、ありませんか」
 このやりとりは、偶然、ある本屋にたちよったとき、耳にしたものである。松下の書いたものなら、何でもよいというのである。それほど評判なのである。それを裏書きするかのように、鉄道弘済会の売店はどこでも松下幸之助の書いた書物を売っていないところはない。どの本か、必ずある。それほどに、松下の書いた書物は多い。しかも、その多くはベストセラーにまでなっている。今では、中高校生の理想の人物は松下幸之助が圧倒的に多いという。中学校の道徳教育のてびきにのったためでもあるまいが、その人気はたいしたものである。
 だが、松下がそういう人気を得たのも一面無理はないかもしれない。

   商売の神様から哲学者に

 松下幸之助が、昭和七年五月五日、
「……実業人の使命というものは貧乏人の克服である。社会全体を貧より救ってこれを富ましめるにある。商売や生産は、その商店や製作所を繁栄せしめるにあらずして、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。社会が富み栄えて行く原動力としてその商店、その製作所の働き、活動を必要とするのである。その意味においてのみ、その商店なり、製作所が盛大となり、繁栄して行くことが許されるのである。商店なり、製作所の繁栄ということはどこまでも第二義的である。しからば、実業人の使命たる貧之を克服し、富を増大するということは何によってなすべきか。これはいうまでもなく物質の生産に次ぐ生産をもってこれをなすことができるのである。いかなる社会状態の変化があっても、実業人の使命たる生産に次ぐ生産を寸刻を忽せにせず、これを増進せしめて行くところに産業人の真の使命があるのである。
 あの水道の水は加工され、価あるものである。今日、価あるものを盗めば、咎を受けるのが常識である。しかるに道端にある水道の水の栓を捻って、あまりの暑さに行人が喉を潤さんとて存分にこれを盗み飲んだとしても、その無作法さをこそ咎める場合はあっても、水そのものについての咎めだてはないのである。これはなぜであるか。それはその価があまりに廉いからである。何が故に価が廉いか、それはその生産量があまりに豊富であるからである。いわゆる無尽蔵に等しいがためである。ここだ。われわれ実業人、生産人の狙い所たる真の使命は、すべての物質の水のごとく無尽蔵たらしめよう。水道の水のごとく価を廉ならしめよう。ここにきて始めて貧は征服される。……」(「私の行き方、考え方」)と述べてから、三十余年、松下電器は生産に次ぐ生産で、新製品の開発に次ぐ新製品の開発で、日本の企業の中では、十指に数えられる所までこぎつけたのである。例えば、昭和三十年における総売上高二百二十一億円が昭和三十五年には一千億円をこえるという有様であった。五年間に五倍になったのである。池田前首相は十年間に所得が二倍になるといって物議をかもしたが、松下電機のそれははるかにそれを上まわっている。
 といっても、松下がどれだけ、現実の貧乏の克服と取りくんで貧乏をなくしたか、甚だ疑問だが、要するに、彼は一大の成功者となり得たのである。毎年所得第一位の位置をしめつづけているのである。この実績を前にして、いつしか、松下は商売の神様にまつりあげられていった。
 いろんな所から、講演をたのまれるようになり、頼まれればいやといえない彼はのこのことでかけていった。それは、彼の説く社会奉仕にも通じていた。そして、いつか、経営者というよりも、人生哲学を説く哲学者として、人間教育を説く教育学者として、演壇にたつようになっていた。その立場から、「物の見方、考え方」「仕事の夢、暮しの夢」「みんなで考えよう」「繁栄のための考え方」などの著書が書かれはじめ、前述のように非常な売れゆきをしめしているのである。
 だが、そうなると、松下には、人生哲学者として、また、人生の教師としての責任がかぶさってくることになる。読まれることが多ければ多いだけ、いよいよ、その責任は重大である。責任を説く松下に、果してそれに堪えうるだけのものがあるのであろうか。

   戦争協力の口をぬぐって

 電気業者の松下は、戦争中、軍の命令で船を造り、飛行機まで作った。全面的に戦争に協力したのである。それは多くの人が歩んだ道ではあるが、哲学者松下には、少なくとも戦争のすんだあとに、戦争そのものについての根本的な問いがなければならなかった。それが、人生の教師を志す者のぎりぎり最低の良識であり、姿勢である筈である。だが、数多くの著書のどこをさがしても、戦争に対する根本的問いもなければ、反省もない。あるのは、ただ「さあ、これから再建だ」という言葉だけである。勿論「無謀な戦争はしない方がいい、戦争よりも平和の方がいい。これからは平和でいこう」という程度の、誰でも持ったような意見は持ったであろうが、要するにそれだけである。
「戦争下、国家に御奉公するのは当然である」という自分の考えに一度も疑問を懐いたことのない、おめでたい男である。国家が正しい方向に歩んでいるか、間違っている方向に歩んでいるか、ついに問うてみることはなかったのである。
 そのために、松下が著書の各所で「祖国を愛そう、社会秩序を守ろう、義務を果そう」と訴えても、それはうつろにしかひびかないのである。祖国を愛することに反対なものはいない。だが、どんな祖国かが問題なのである。どんな社会秩序かが問題なのである。義務についても同じことがいえる。それも、結局、戦争をめぐって、二つの祖国が生まれ、二つの秩序があり、そこから、異なった義務が生ずることを学ばなかったためである。戦争を思想的にうけとめ、そこから学びとっていくことは、戦後に生きる日本人の当然のつとめであるが、哲学者を志す者であればなおさらである。
 戦争から、何も学びとらなかった人間は、哲学者として、人間の教師として落第である。資格を欠いているといってもいいすぎではない。松下もまたその一人であると私は断じたいのである。

   お粗末な信念哲学

 このこととは別に、松下の考え方のいいかげんなところを次にのべてみたい。
 松下は「仕事の夢、暮しの夢」の中で、
「社長の月給はやすすぎる」と題して、
「私はアメリカに行ったときに、RCAの会社を訪ねて、そこの人たちと話をしたが、その時に、
“ミスター松下、あなたの国は、各会社または役人の収入の上下の格差はどのぐらいありますか”と聞かれた。私が、
“あなたのところはなんぼあるのですか”と聞いたら、
“私のところは五十三倍です。ところがソビエトでは三百倍だ”という話だった。ソビエトのことは調べたわけじゃないけれども、聞くところによると、どうもひじょうに格差が多いようだ。
 私は他の会社では、どうか知らないけれども、日本では大学を卒業した人が一万二千円だとすれば、その五十三倍といえば六十五万近いことになる。いま、社長や専務の収入がそんなにあるところはほとんどないのではないか。官史の場合は総理大臣の収入は大学出たての者の十五倍くらいでしょう。そういうことを考えてみると、日本は収入の差がなさすぎるのではないか。これはどっちがいいかということになると、なかなか論議があると思うが、一番平等で差がないように考えていたソビエトが、三百倍だということは一大発見だった。この差がなんぼあることが適当かということは、むずかしい問題だけれども、われわれの常識から判断すると、少なくともアメリカあたりの差額は、まず許されていいのではないか。そこに経営者としての責任も十分に果せるだろうし、また新しく入った者にも、自己の努力によっては、五十三倍までいけるのだという希望をもって、仕事をはげむことができる。
 たかだか十五倍くらいでは、そういう意欲は湧いてこないのではないか」と書いている。
 ソビエトの場合、もし三百倍であったとしても、それは全収入の比較であり、最高と最低の比較である。とすれば、日本もアメりカも、その全収入を比較しなくてならない。日本に即して言えば、大学卒業生でなしに、中学卒業生、厳密には、中学を中退して働いている者の収入と高額所得者の収入と比較しなければならない。例えば、松下氏の昭和三十八年度の収入は四億八千四百三拾五万円ということになっているが、それを比較しなくてならない。最低十五万の収入とすれば、約三千五百倍である。十五倍でなくて、三千五百倍というのが本当である。アメリカの場合、年間収入が一千万ドル以上とすれば、三千五百倍どころではないであろう。到底。ソビエトの三百倍の比ではない。本来なら、比較できないものを比較してみせ、平等である筈のソビエトが最も格差があるという価値判断までしてみせるのである。
 松下がここでいわんとしたことは、社長の月給がやすすぎるということであるが、果してやすすぎるか。また、高かった場合、責任を果せるかどうか、検討の余地がありそうである。また、昭和三十七年、東北大学の学生二千名を前にして、「運と人生」と題し、松下は自分は運がつよいという信念をもつに至った経緯を一時間半にわたって、次のように講演している。
「……十七才のときに、私は奉公をやめましてセメント会社の工夫に入りました。その工場が大阪築港の出島にありましたから、毎日巡航船でかようのであります。ある日、仕事を終えて巡航船に乗って築港まで帰る時に、私は巡航船のふちに腰をかけて、ちょうど夏でありましたので涼んでいました。その時にその船べりを船員がやってきて、私をまたいで通ろうとした。その時にどういうものか踏みはずしまして、海の中へ落ちた。その落ちこむ時に思わず私を抱きこんだのであります。あっという間に、私はその船員とともに海の中へ落ちた。あまり泳ぎを知らなかったのですが、とにかく、もがいて水面まで上がった時は、もう船は大分向こうへ行っていました。無我夢中でした。幸いに夏でもありましたので、その船がもどってきて助け上げてくれましたが、その時に私はおれは運がつよいぞと思いました。これが冬であったら死んでいるな、幸い夏だったから助かったのだ。そうすると自分は運がつよいのだと思ったわけです。ここで、ああ助かったと思っただけならばそれだけの話です。しかし、私は、こういうようなことに直面して死なないということは、おれは非常に運が強いなと思いました。これほどに運が強ければ、私は容易に死なないぞと思いました。そして、ことに処して自分はある程度のことはできるぞというように何気なく考えたのであります。
 皆さんはさきほど申しましたように、いくたの関門を通ってこの名誉ある東北大学の学生になられた。そのことが皆さんについている運なのです。運のない人は、この大学へははいれなかった」(「みんなで考えよう」)
 松下には、夏であったから、船べりで涼んでいたのであり、冬であったら、涼んでいないことが考えられないのである。海には、夏には落ちても、冬には滅多に落ちることはないと思いつかないのである。こういう、たわいない体験をもとに、俺は運が強いという信念を持ったことを得々と語っている。
 成程、信念をもつことは良い。信念はもたねばならない。だが、東北大学生を前にして、信念を持つにいたった経緯を語るには、あまりにもお粗末であり、お手軽である。少くとも信念は思考にたえうるものであり、思考の極に到達するものである筈である。偶然の、それも盲目の思考から生まれるものは、到底、信念の名に価しない。知識人の信念にはなり難いものである。
 このような個所は、著書のいたる所に見える。長所を見ないで短所を見るのは、人間として最低だという松下の声がきこえてきそうなので、このぐらいにとどめたいが、要するに、松下の話は、この類である。なかには、ぴかっと光るところもないことはないが、それは体験に根ざした経営を説く限りにおいてである。人生哲学を説く哲学者、人間の教育を説く教育学者としては、お粗末というしかない。本が沢山売れることにおいて、お粗末といってすまされないものがある。責任を説く松下氏として、哲学者、教育学者としての重大な責任をどうしようというのであろうか。社会や人間に対しての責任をどうしようというのであろうか。それを考えきらないほどに、哲学者松下の頭は非哲学的なのであろうか……。

   崩れかけた偶像

 商売の神様はあくまで商売の神様に徹してこそ、その輝やきを増すのではないか。現に、哲学者、教育学者として、その体験を書き、話をしている間に、本家本元の経営は留守がちとなり、会長でありながら、営業本部長という職にカムバックする(?)という変則的なことまでおきたのである。それは、需要が頭うちして、在庫がどんどんたまってきたためであり、松下氏もついにがまんしきれなくなったのである。
「凡夫の浅ましさ、さっぱりワヤですわ。日本の企業は力もないのに設備ばかり広げると三年前の文芸春秋に苦言を書いて、読者賞をもらった。ところが、それを自分で忘れとった」(朝日新聞、昭和三十九年十二月二十一日)と、はずかしげな顔をしていわねばならなかったのも、哲学者ぶって、ウツツを抜かしていたからである。
 松下が本当に貧乏をなくすることに取り組むのはこれからである筈である。「水道のごとく物資を無尽蔵たらしめよう。水のごとく価を廉ならしめよう」と言ったが、物資は水道のごとくにならないうちに滞貨し、水のごとくに廉価にもならないうちに大きな璧にぶちあたってしまった。松下の素朴な経済論をあくまでつらぬこうとすれば、なにかを考えなくてならないし、その意見を捨ててしまうなら、また、何かを考えなくてなるまい。いずれにしても、松下はいま、その壁の前にたっている。崩れかけた偶像が再び復活するかどうか、すべてはこれからにかかっている。
 しかも、それは、哲学を通してではないことははっきりしている。

 

                   <雑誌掲載文3 目次> 

 

「東竜太郎無責任と非良識の転落一代

 

   政治的ロクデナシの出発

 昭和三十八年四月二十五日の読売新聞は、東竜太郎が東京都知事選に当選して、都民の前に第一声を放った時の様子を、
「真黒に日やけした東さんは、数寄屋橋前で、都民の前にたった。『私が皆さんの信任を得て、東京都知事になりました東竜太郎です』との第一声は本当にうれしくてうれしくてたまらないようにはずんだものだった」と報道している。
 当時、数寄屋橋前で、直接に、東知事の声をきいた者も、新聞でこれを読んだ者もオヤと首をかしげたものである。
 ここには、どうみても、十二年間にわたって都政を壟断して、腐敗の極になげこんだ安井都政をその泥沼からひきあげようとする東の決意というよりは、むしろ、名誉欲を最高度に満足させた東しかなかったからである。「なによりも名誉欲のつよい男」という風評をうらがきするような東の姿であった。
 東を支持した者は勿論、東を支持しないまでも、安井よりは、まだましと思っていた者も、東の喜びようがあまりにも手放しなので、こんなことで大丈夫かなと思ったものである。
 だが、多くの都民のこの不安は適中した。都知事になった東は、その日から、転落を始めたのである。転落するしかなかったのかもしれないが……。
 都知事選にでるまでの東について、ささやかれた言葉に「可もなし、不可もなし、金もなし、責任もなし、子分もなし、なしが五つつくので、もう一つつけば、ろくでないということになる」というのがあるが、東は、その最後の一つを良識をなくするということで、とうとう、ろくでなしとなったのである。
 おそらく、東大名誉教授で、茨城大学長という立場は、良識の持主という別名でさえあったろうが、東は都知事になることによってそれを捨ててしまう。そして、無責任と非良識を車の両輪にして転落していく。それは、文字通り、とどまるところを知らないというふうに……。

   都民への徹底的な面背腹背

 私はさきに、都知事になるとともに、良識をなくしたと書いたが、厳密には、都知事に立候補した時が、東の良識を失う第一歩であったといえる。
 東はずうずうしくも
「二月ごろ、自分を都知事候補にということであったが、政治にはしろうとではあるし、本気にしなかった。ところが、六月ごろから、話が再燃し、各方面からの大手、からめ手からの交渉があって、ことわることができなかった」(毎日新聞・三十三年九月二日)と言っている。
 東がいうように、もし、東が政治にしろうとであるなら、たとえ、各方面からの要請があったとしても、一千万都民の政治の責任者となることを、どのようにして、自分に納得させたのであろうか。
 東大教授を経て、茨城大学長にまでなった東に、それを考える能力がなかったと思えない。現に、都知事の職にふさわしくないと、始めは拒絶しているのである。だが、彼の名誉欲が、結局、その判断に優先したのであろう。彼の中の無責任野郎も動きだしたにちがいない。こうして、東は、都知事に立候補したのである。
 当時の自民党総裁岸信介から、どのような好餌をもって、さそわれたかを知るよしもないが、岸信介の誘いにのることによって、一千万都民をだましたということができる。彼は自民党の方にむかって立ち、都民に尻を向けた。そして、それによって、良識をまもるという立場、いいかえれば、良心を売りわたしたのである。
 この日から、政治にとらわれない、純粋なスポーツ界の大御所東竜太郎は、永久に姿を消したのである。
 良識を捨て、良心を売りわたした者の辿る道は、魂のないロボットでしかない。自民党のロボット東竜太郎しか存在しなくなったのである。
 だから、選挙に、
「政治や行政について、青年の信頼をうることがなによりの対策である。清潔な政治、正しい行政がいろいろな社会教育に先立って必要である」
と、まことに、もっともな政策をかかげて闘いながら、その選挙はいたって汚れていたというしかなかった。選挙告示前だというのに50万枚の年賀状、百万枚のポスターなど、数えあげたらきりがない(日経・三十四年一月四日)
「役票の三日ぐらい前から、江東の密集地帯に一億円近い金を区会議員に渡して、働きかけたといううわさもある。……なにしろ、資金の面でも、十億円とか、二十億円、衆議院戦につかう位の金を都知事選につぎこんだといううわさ……」(週刊朝日・五月十日号)
 対立候補有田八郎を誹謗するパンフレットも沢山印刷された。それは、到底、270万の法定選挙費用のなかで闘われた選挙ではなかった。
 青年の信頼をかちとる政治をかかげた東が青年を裏切るような、政治への不信を倍加するような選挙で、政治家への第一歩をふみだしたのである。
 しかも、東は「私は何も知らない」といって逃げたのである。だが、逃げることによって、自民党やそれに連る人達と共犯者になった。共犯者の位置に転落したのである。
 東が共犯者ではなく、弾劾者になる道は、汚れた手によって戦われ、そうして得た都知事の椅子を拒絶することであった。良識をもち、良心があるなら、都知事の椅子にはつけなかった筈である。
 だが、東は都知事になることによって、そのチャンスを捨ててしまった。昭和三十八年の都知事選の時はもっと甚しかったともいえる。
 この時の都知事選はもはやいかなる意味でも選挙といえるものではなかった。対立候補にまぎらわしい人物を幾人も立候補させ、得意でない東のために、立会演説会の演説時間は少なくする。演説会場では妨害する……。
 はては、ニセ証紙を沢山つくって、東のポスターをはる。選挙用ハガキは横流しするなど、無法街の選挙であった。
 問題は、法的にみて、東に責任があるかどうかではなく、また、東が知っていたかどうかでもない。こういう無法を東が認めるかどうか、こういう無法の上に、東があぐらをかけるかどうかという良識の問題、良心の問題である。
 法の不備は、良心や良識で補って、どうにか、かっこうのつくもの、もし、その不備につけこんで、それに乗ずるなら、もはや、法はあってなきが如きものである。
 だが、東は、
「選挙はフェアーにやってきたつもりだ」とうそぶいて、またも、都知事の椅子についてしまったのである。
 こうなると、法の不備につけこみ、“悪法のうえに居なおった東”というしか、他にいいようがない。
 少なくとも、東に良識があり、失われた自己の復権のチャンスをさがしていたなら、東にも復権のチャンスはあった筈である。昭和三十四年の都知事選の醜さを熟知した東は、昭和三十八年の都知事選では、絶対に不正をうけいれない決意ができた筈である。不正のうえに闘われる都知事の椅子は決してうけいれない。と前もって、自民党に通知することもできた筈である。
 それが、東の立場であり、選挙の立場でもあった、失われた自己の復権ばかりか、自民党を正す立場にも通じていた。共犯者であることをやめる道でもあった。だが、東は、その道を択ばないことで、もっともっと、ひどい奈落の世界におちこんでいくしかなかったのである。

   海軍司政長官の経歴

 この選挙に先だって、東は、ある雑誌の座談会で、
「僕は水についてはシロートで、水のことはあまり考えたことはないんですよ」と放言した。
 無神経というより、こうなると、ずうずうしいというしかない。要するに、東は、しろうとを売りものにしているのである。
 だが、果して、東は政治にしろうとなのであろうか。
 東は戦時中、セレベス、マカッサルで海軍司政長官をし、戦後は、厚生省医務局長をしていた。どんな司政長官であったかを知ることはできないが、その名誉心を満足させながら、何かをしたであろう。医務局長時代は、かなりの抵抗の中に、医療団解散をやってのけているし、ことに、昭和二十五年、ウィーンのIOC総会にオブザーバーとして出席した時など、IOC委員永井松三を引込めて、自分をIOC委員にするよう東京に要請し、その諾否をまたずに、永井と交代して出席し、日本が国際オリンピックに復帰できるよう運動している。
 たしかに、東は都政にはしろうとであろうが、政治には決してしろうとではなかったのである。
 かけひきを知っている男ということもできる。その東が、政治にしろうとだということは、しろうとであるポーズをとることは、二重の意味で、都民をだましていることになる。
 自民党は、東は政治にしろうとであるから、その手はよごれていないという印象を都民にうえつけようとし、東自身も積極的にそのポーズをとったのである。だが、東は戦犯にこそならなかったが、海軍司政長官であることによって、決定的にその白い手をよごしている。もしかすると、洗っても洗っても、きれいにならないほど、その手はよごれているかもしれない。
 決定的な形で、戦後を再出発することのなかった東は、容易に再び、政治のよごれに身をひたすこともできたといえるのかもしれない。学者でありながら、珍しく学者的潔癖さのないのもそのためかもしれない。
 だから、不正や汚職を正すポーズをとりながら、東が知事になって以後も、全然、汚職や腐敗がへらないのである。
 例えば、都が出資金・補助金を出している外郭団体はおよそ470団体。金額も300億をこす。これらの外廓団体を整理するというのが東知事のはじめの態度であったが、一向にそれが整理されず、毎年の監査では、その経理がルーズなこと、使途不明の金があることで監査の対象になったいくつかの団体が指摘されているのである。
 加えて、昭和三十七年十二月には「愛都運動協会」という新しい団体が発足した。都民に東京都を愛する気持をうえつけようというのである。会長は当時、都議会議長であった建部順で、その時の交付金は2500万円。ところが、建部が昭和三十八年五月汚職でつかまった。そうすると、建部はこの協会からも三百万円せしめていたことがわかった。経理がこんなにルーズだから、そのほかに、車代その他で、その出費は、非常に多額にのぼっている。この協会に、都は昭和三十八年度1900万円交付し、さらに昭和三十九年度には2000万円を交付しようとしたのである。
 東のいいぶんは「同協会は役員をかえ、組織を建直したので、目的を果たしうると思って、新年度も補助金をだすことにした」というのである。これでは、東も同罪どころか、同じ穴のむじなというしかいいようがない。外郭団体が整理されるどころか、その悪を助長さえしているようなものである。
 このほか、江東区有明町にある40万平方メートルの土地を、三・三平方メートル当たり、26円という、到底信じられないような値段で、昭和二十七年以来、貸していた例もある。もちろん、それを貸している相手は、元都長官松井春生、元港湾局長高橋登一が重役をしている会社である。こうしたものを数えあげたらきりがない。
 しかも、こうしたでたらめさが、都職員の不正や退廃を誘発するのである。都職員それも下級職員が汚職するのもむりはない。しかも、そのために迷惑をうけるのは都民である。

   腐臭に居直るウジ虫の末路

 議長の交際費数千万円、そのために、この椅子をめぐって現ナマがとぶ。現在、都民の怒りをかっているのも、此の議長の椅子のために、贈収賄がおこなわれ、十数名が逮捕され、起訴された。
 腐敗しきった自民党議員もさることながらそれには関係がないような顔をしているのが東である。
 しかも、その東都知事の交際費が、これまた、四千三百万円ときている(三十九年度)。最近、世論の攻撃で、昭和四十年度は、七百万円を削ったが、簡単に七百万円をけずる程に、いいかげんなのである。
 議会費のなかに、委託費、需要費という名目の金が、七千万円もあるが、これなど、ほとんどが、くいぶちであるのだから、驚くほかはない。
 外廓団体には無用の多額な金を出し、都の物品は安く貸し、議会や理事者は宴会にあけくれる。それでいて、東は東京都には金がないと二言目にいうのである。それで、各方面の値あげをされたら、都民はたまらない。
 ひどいのは水道の値あげ。さんざん、断水に苦しめられた上に、給水制限中の値あげである。しかも、議員を説得してまわるのに、二千円相当の手みやげを持参した。それが税金であることはいうまでもない。どこまで、腐敗しているというべきか。
 これなど、結局、東がさせているというしかないものである。
 池田首相もたまりかねてとうとう「東京都政には政治がない」というまでになった。逆説的に言えば、自民党に見捨てられるほどの東の政治力である。政治にしろうとではのないである。水道のねあげで、水道を敷設するというなら、誰にでも出来る。値あげによらないで、資金を作ってくるのが、都知事の政治力というものである。
 すべて、このように、東の政治力とは、つまりは何も出来ないということである。六年間唯一つ出来たオリンピックを除いて、何もしなかったというのが当っている。
 清潔な政治をかかげて、清潔な政治を何一つ出来なかった東。その東に多くの都民は同情さえしている。「東さんは清潔な人、だが、東さん一人に都庁の浄化を望んでも気の毒である」と。
 果して、そうだろうか。
 私には、東は都知事として、最限なく、汚職という共犯者の道を歩んでいると見えるのである。以上に見てきたどの一つを取ってみても、不正を正す東の姿勢は全然みあたらない。不正を助長さえしている。
 まして、公的地位にいて、なにもしないということは、最大の悪でさえある。たとえ、個人的には、どんなに善意であろうと、善意だけで、なにもしないということは、多くの人が悪におちいるのを防ぐことは出来ない。
 東自身が不正をはたらいて、私腹をこやすということはおそらくなかったであろう。東個人としては、それは立派なことかもしれないが、都知事東としては、少しも立派なことではない。
 東は二口目には、「私は知らなかった。私には関係がない」というが、知らなかったり、関係がないことで、都知事の職がつとまると錯覚しているところに、問題があるのではないか。「東は清潔だ」「東は気の毒だ」と都民に、思われること自身、都民をだましているのである。
 東を信じてきた都民ほど、みじめなものはないといえそうである。しかも、なお、今日東を信じているというに至っては……。
 よくもここまで、東は都民をだましたものである。東はこの六年間、良識を捨て、良心にそむいて、共犯者の道を歩んだ。しかし、此の辺で、良識と良心をとりかえして、自己復権をはかるときである。それが何によってか、聡明な東にわからぬ筈もなかろう。七十歳をこえた東は、そろそろ、清潔な人生にたちかえっても、よさそうである。罪ほろぼしをする必要がありそうである。

 自民党では、次期知事候補に某警視総監を予定だと聞く。都庁の腐敗を党内のコンチハ相撲で片づけるつもりか、政治の季節への配慮か、東の花道も多発である。

 

                 <雑誌掲載文3 目次>

 

「内藤誉三郎思想も節操もない官僚の典型

 

 内藤誉三郎という人物が、果して、此の欄で取りあげられるに価いするほどの男かどうかはわからないが、東京文理大を出た彼が、先輩の福田繁をおいぬいて、文部次官となったばかりでなく、文部官僚としては、まれにみる能吏として、戦後の文部行政を意欲的に手がけてきた男として、たしかに、戦後の彼を除いて、文部行政を語ることはできない。
 しかも、この七月には、参義院議員となり、文部行政に精通する者の少ない自民党議員の中にあって、今後は、そのチャンピオンとして、一層の活躍が期待されている。その意味では、優に、きょじんの名に値しよう。
 ただそれほどの彼ではあるが惜しいことには、同じきょじんでも、巨人ではなくて、虚人の部類に入るように見える。そうであれば、巨人でなくて、虚人を先頭におしたてていこうとする自民党もまた、悲劇というしかない。

   庶務課長・三十七歳の夢

 昭和二十四年八月に、内藤が「学校教育法について」と題して書いた論文には、
「人は生れながらにして平等であり、そこには支配する者と支配される者との特別な関係はなく、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されないのである。しかも、国民一人一人が個人の尊厳と価値の下に、永久に侵すことのできない権利として憲法において基本的人権が保障されているのである。
 帝国憲法におけるがごとく、法令によって信教の自由、言論集会結社等の基本的人権が如何ようにも制限されることはあり得ないのである。この基本的人権が、国内政治の面においては主権在国民の思想となって現われ、『そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、この福利は国民がこれを享受する』民主主義の政治原理が生れたのである。他面国際的には平和主義の思想となって現われ、戦争抛棄を中外に宣明して恒久平和の実現に努力せんとしたのである。従って新教育の目的もこの新憲法の線に沿って確立されたのであって、従来の、如き『皇国の道に則る皇国民の錬成』という劃一的形式主義の教育を排して、個人の尊厳と価値の誠識の下に、人格の宗成を目指し、真理と平和を希求する人間の育成に重点が指向されているのである。従って個性尊重の教育が行われなければならない。
 人格の尊厳、個性尊重の観点から従来の教育を見るとあまりにも中央集権的であって、教科書、教科内容授業時数に至るまで、細大もらさず規定され、その枠から一歩も出ることができなかった。従って教育は劃一的、形式的に陥り、地方の実情と個性の発達に適応することができなかった。教員も生徒も、創意、工夫研究により天分を十分に伸ばす、伸び伸びした教育が行われなかった。この度の改革においては、特に教育における地方分権の方向を明示して、高等学校以下は原則として教育委員会の監督に委ね、中央においては最低の基準を示すにとどまり、教員自ら地方の実情と個性の発達に即応できる余地が十分残されているのである。教育者は、政党や官僚の不当なる支配に服することなく、安んじて、人間育成の大業に精進されたいのである。ただ教育の自主性も、教育が直接国民に責任を負って行われなければならないのであって、教育者の独善は許されないのである。ここに、学校の経営を管理し、教育上の重要問題を審議する為の公選による教育委員会の設置が要望されるわけである」(「新教育基本資料と其の解説」学芸教育社刊)と、述べている。
 これは、彼が三十七歳の時の論文で、当時学校教育局の庶務課長のポストにあった。三十七歳といえば、もう、自分のいったことに責任をもたねばならないし、あの時は、若気の至りであったということが許されない年齢である。そればかりか、思想する者には、それなりの結論に到達する年齢でもある。
 もし、内藤が思想する人間なら、まさに、そういう年齢に達していたことになるし、その後は、その思想の深化とその実現に邁進した筈である。
 だが、内藤のその後は、それとは全く逆の道を歩んでいる。その立場を全くふりすてて省みようとしないばかりか、その立場を一歩一歩とつきくずす方向に進んでいる。内藤にとって、三十七歳の思想的立場とは、一体、如何なる意味をもっていたのだろうか。それは、彼のポーズにすぎなかったのであろうか。

   変わる、変わる、また変わる

 戦時内閣の内相であった大達茂雄が、長い追放生活の後、昭和二十八年五月、文相としてかえり咲いた。戦争というものを、如何なる意味からも反省した形跡の見えない、この男は、文相になると、早速、教員の政治活動を禁止する教育二法を成立させて、文部省と日教組の対立を決定的なものにした。此の時大達を助けたのは、内務官僚から文部省に移ってきた田中義男であり、緒方信一である。内藤は、文部行政に暗い彼等を補佐することで、その信用を深めたといわれている。教育二法が、国会が審議されている間は、大臣官房庶務課長というポストで、彼等とともに、常に国会に出席していた。
 教育二法の成立に、力があったかどうかはわからないが、何かで、その実力が大いに買われたことはたしかで、それからの内藤は、立身出世の道をひたばしりに走る。即ち、昭和三十年四月、調査局長、同年九月、社会教育局長、昭和三十一年十一月、初等中等局長、昭和三十七年一月、文部次官というふうに。しかも、その間、一貫して、一歩一歩と大達の文部行政をおしすすめる役割をになってきたのである。
 内藤が、初中局長として、あるいは、文部次官として、やってきたことは、どの一つをとって見ても、昭和二十四年に、彼がのべた立場とは全く相反する。
 かつて、帝国憲法の限界を鋭く指摘した彼が、文部次官になってからは、
「明治憲法があの時代にできたのは画期的のことであった」(家永三郎著「教科書検定」)というふうに変わっている。この立場の違いは決定的でさえあるが、すべてがこの調子である。
 文部省が、官僚がやる文部行政に対して、断乎と反対することを求めたのは、内藤であった。そして、教科書や教授内容を統一することの不可を説いたのも内藤であったし、皇国民の練成という形式主義を排したのも内藤ではなかったか。
 その内藤が、教授内容を規定する教科書法案を通し、形式主義的な錬成を考える道徳教育を設け、その教授の如何を見守る学力テストを実施する。
 そこには、地方の実情に即した教育が行われる余地は全くない。そういう教育を、画一的な教科書と学力テストが阻むということを賢明な内藤が知らない筈はない。
 教員の勤務評定にいたっては、全く最低である。内藤の考えるような「使命感に生きる教師」(選挙公報)が勤務評定のなかから生まれると考えているのであろうか。
 子供を信頼しない所に教育が成立しないことは、教育学の初歩であるが、同じように、教師を信頼できないところに、教育は成立しない。勤務評定でおいたてられる教師の教育が本物であるわけがない。本物でない教育を内藤は、求めているのであろうか。
 大学の管理問題についても、同じことがいえる。内藤は、昭和二十四年には、
「大学は法律に基かないで監督官庁から特別の指揮監督をうけることはない。ここに大学の自治が存在する訳である。この大学の自治を保障する機関として教授会をおき、重要事項を審議することとなっている」
 といっていたのを、昭和二十七年には、
「大学の自治と学問の自由とは勿論密接な関連があるが、その取扱いは一応別個に考えるべき問題であると思う。少くとも、国立大学については、文部大臣は大学に対して拒否権を持つことができる。即ち、国民に対してある程度責任を持ち得るという体制が必要である。国立及び公立の大学は、国民の税金によって維持されている以上、納税者の意志を反映しなければならないのであって、直接各大学が国会に対して責任を負うという立場がとれない以上は、文部大臣がある程度権限と責任を持たなければならない」(「日本教育の課題」三一書房刊)と変わっている。
 それも、大学管理法案が、国会に提出されたのをきっかけに変わっているのである。
 ということは、彼の意見とみえるものも、結局、文部官僚として、その時、その時にあった意見をのべているにすぎないということになりそうである。
 昭和二十四年の意見も、一見立派に見えるが、英語ができるということで、GHQへの連絡官となり、その立場から、そのような意見を持ったにすぎないとみる方が妥当であろう。時代が変わり、立場が変われば、その意見はどんどん変わるのである。変わるほどに、彼自身、思想といえるものは少しも持たないのである。そのために、無節操でもある。思想のない者に、果して、無節操ということがいえるかどうか疑問だが……。

   “道徳”とのあざやかな癒着

 このことは、今度の参議院議員の立候補のしかたにもよくあらわれている。
 内藤は、六十五万票をとって、第十二位で当選したが、始め、彼は危いということであった。危いと知るや、当選という目的のためには、恥も外聞もなく、どんなこともやってのける。それは、思想のない者のつねといえ、内藤はあざやかにも、それをやってのけたのである。
 というのは、彼はクリスチャンということであるが、(この事実を、内藤氏に質問しようとしたが、会見を拒否され、電話に出たものにもわかりませんといわれた。そこで、文部省内の有力すじからきいた事実による)、その彼が、立正佼成会の支持をとりつけたことである。思想を持たない内藤といえ、異教徒の票まで貰って、議員になろうとする無恥さかげん!
 ある者は、これを彼の弾力性といい、政治性というらしいが、それは、思想なき者、精神の純粋性のない者のそれでしかない。精神の純粋性なき者が、精神の昂揚を説くほど、滑稽なことはない。
 クリスチャン内藤にとって、このことは、堕落としかいいようのない者である。立正佼成会もこの事実を知っていたのであろうか。知って、応援したとは思えない。彼の票は、比較的に、西日本に多かったが、西日本の信者票とは無関係ではなかろう。
 そして、内藤と立正佼成会を結びつけたのは、教科書会社である教育出版株式会社社長北島織衛という話である。教育出版といえば、八年近くもつづいた宗像社会を、当時の内藤初等中等局長から、「宗像社会ではね」といわれて、宗像誠也を著者の位置からひきずりおろした会社である。
 かつては、教員の支持率が高いということで、無理矢理、宗像をひきだし、都合がわるくなると、さっさとひっこめる。そこには、教科書という公器を作っている自覚もなければ、良心もない。あるのは、唯、商売のうまみということだけである。そういう会社の社長によって、立正佼成会に結びつけられたということは、いかにも非良心的、非道徳的のようにみえる。
 非道徳的という言葉が出たが、道徳科学研究所も、今度の内藤の重要な票田であった。六十五万票のうち、四十万票は、ここから出たという説さえある。
 道徳数育をおしすすめたから、道徳科学研究所と結びついたように錯覚されるが、これとの結びつきも選挙を前にしてのものでしかない。その仲介をしたのが、国立教育研究所所長平塚益徳である。
 今一つ、内藤の大きな票田は、八千校もある各種学校総連合会である。会長は迫水久常で、六月には、全国大会が行われ、内藤は、そこで演説している。
「これからは、各種学校を充実すべきときであり、そのために努力したい」と。
 三十年の文部官僚の間、ただ一度も、各種学校のために尽力しなかった男が、選挙を前にして、急拠各種学校にくいつき、選挙公報にも各種学校の改善を堂々とかかげる。それにだまされて、票をいれた者こそ、気の毒というほかない。

   知らぬ顔の能史

 内藤の六十五万票は、立正佼成会、道徳科学研究所、各種学校連合会で三等分され、彼が手がけてきた教育界からの支持票は得られなかった所に、彼の票の性格があるようである。
 各地にある教育委員会は、内藤の支持票であったかもしれないが、それは、上層部だけで、下部には、侵透しなかったであろうし、まして、家族にはおよばなかったであろう。彼等にも、内藤のおしすすめた道徳教育や学力テストが、本当の教育でないぐらいはわかっていたのである。
 子供の躾にこまっている親たちも、道徳教育で子供がよくなると考えるほど無智ではない。それは、自分達がうけた修身教育を考えただけでもわかることである。
 修身に、甲や優をもらった人ほど、悪に汚職にうき身をやつしていることを知っている。たとえ、道徳教育を支持する者も、下策でしかない道徳教育を推進するような男を支持するわけにはいかないのである。
 学力テストにしても、内藤は、
「試験の弊害というお話がありましたが、そんな弊害があるなら、今日、希望参加で、60%もやるわけがない。
 このテストの結果が、学習指導の改善に役だったからこそ、60%が現在希望している」(国会答弁)とのべている。こんなことを平気で答える男に、誰が支持票をいれられるであろうか。試験にうちかつ強い子供を育てることを願っている親達も、それを試験でやるという策のなさには気づいている。弊害の方がもっと多いことをも知っている。指導上、試験が必要としても、文部省が、学習条件の違う所の子供達の一斉テストの意味はどうしても納得できない。文部省に必要なのは学習指導の改善に必要な資料よりも、学習環境、生活環境の改善ではないか。
 60%とあるということは、文部省がやっているということ。その強制力が60%の数字になってあらわれていることであるのを全然気づいていない。気づいていないというよりは、知らぬ顔をしているといった方が当たっているかもしれない。
 そういう内藤に、教育関係者も親達もついていけなかったのである。そういう人達がついてこないと見るや、彼は先述したように、その魂を異教徒にうりわたすことによって、参議院議員になるという目的には到達した。その意味では、政治家内藤の前途は容易ならないものがあるといえそうである。
 河野派といわれる内藤が、参議院議員になったとたんに、河野一郎を失なった。変り身の早いという評判の内藤は、これから、どんな変り身をみせることか。その点、無思想、無節操という武器がある以上、どんな変わり身をやってのけることもたやすいことであろう。
 内藤が、東京文理大という、まがりなりにも、教育を考える学校を卒業して、文部省に入り、文部行政を担当したことは、法学部出身で、教育を政治に従属させ、法律的にしか理解できないような人達に数段まさることはいえよう。
 しかし、内藤のように、東京文理大を出ながら、東京文理大の悪い一面、事大主義、形式主義、思想性のなさ、劣等感だけを持って卒業したというのもこまったものである。そんなところにも、東京文理大同窓会が一本になって、内藤をおさなかった理由がありそうである。
 こういう、思想も節操もない男を、文部行政のチャンピオンとして、おしたてねばならないところに、自民党の悲劇もありそうである。しかし、内藤にも、生きる活路はある。虚人でなくて、巨人になる道は開かれている。それは、今一度、昭和二十四年当時にかえって、その思想と立場を深くかみしめてみることである。

 

               <雑誌掲載文3 目次>

 

「五大出世男の共通点」 

 

 実業界における明治、大正、昭和三代の成功者を数えあげるとなると、まことに大変である。まして、何人かの人に、それら多数の成功者を代表させるとなると、もっと大変である。だが、私はあえて、そのことをやってのけ、そこから成功者というものに共通する内容、共通する条件をあきらかにしてみたいと思う。

 

  官を棄て、銀行を起した渋沢

 まず、明治の人というか、日本の資本主義の創設期の人として、渋沢栄一をみてみたい。栄一は天保十一年、農・商をかねる家に生まれ、十四・五歳の頃より、父に従って藍玉の買入れに従事していたが、十七歳の時、父の代理で、二、三の者と一緒に代官所に出頭した。そこで、彼は、御用金をたのむ代官から、かえって、不当に軽蔑されたのである。
 「このとき、始めて幕府の政治がよくないのだという感がおこったのであった。いま、領主は、年貢をとりながら、返済もせぬ金を用金とか何とか勝手な名をつけて取立て、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返すように命令するという道理は、そもそもどこから生じたのであろうか。
 察するところ、かの代官は言語といい、動作といい、けっして学問があり、知識のすぐれた人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、いったい、官をかさにするという徳川政治からそうなったので、もはや弊政の極度におちいったものであると憤慨した。尊卑はその人の才能によるもの、家柄をたのんで愚者の威張るはずはない。何故に武士と百姓とは人類に等差があるか。すでに、政記、外史、日本史等を読んでいた余は、王朝より武人の手に政権の移れることの有様を知っていたから、不思議と考えた念は、かえって不快の思いと変わり、さらに、わが身の上の先々をも考えられた」
と、その時の怒りをぶちまけている。
 やがて、彼はその怒り、その不満をいだいて、封建制の打破運動に参加していく。彼には、良い商品をつくり、組織的に販売していこうとする意欲を阻害するような封建制にはがまんがならなかったのである。
 明治新政府につかえた栄一は、大蔵省の役人として、種々の改革を進めてゆく。だが、その仕事に従事すればする程、日本の国民の中に、ただ、上からの改革についていくだけで、自ら日本の改革を下からおしすすめようという主体がないことに気がついた。上からの改革だけではどうにもならないと考えた。ことに、従来、商工業にたずさわってきた者には、長い封建制の中で培ってきた卑屈の風が一掃できないから、役人に唯々平身低頭するだけで、学問もなければ気力もない、新規の工夫とか、物事の改善とかに全く心を使わないという有様であった。これもまた、彼には、我慢のならないことであった。
 そこで、栄一は、心の底から、自分の力をふりしぼって商工業の発達にとりくもうと決心し、栄達を約束されていた役人の生活をやめてしまう。彼の中にある農民の血がさわぎだしたともいえるのであろう。
 こうして、明治六年八月、第一国立銀行を創設し、銀行業務をはじめる。といっても、英人を講師として、何から何まで教えてもらわなくてならなかったし、新聞・雑誌を通じて銀行というものを知らせることもしなければならなかったのである。同時に、王子製紙、東京鉄道などの会社もおこすのである。それだけでなく、海運、織物、製鋼、造船、電気、石油、セメントと、ありとあらゆる産業に関係し、その育成につとめるのである。文字通り、明治の産業をおこした巨人であり、成功者でもあったのである。

  ぞくぞくと世に出た福沢門下

 中上川彦次郎が、徳川時代からつづいている三井組に入社し、三井組の体質改善をやり三井財閥の基礎を確立したというのは、あまりにも有名な話である。それによって、彼も亦、成功者の第一人者に数えられる人になっているが、では、どのようにして、三井組の体質改善をやってのけたのであろうか。
 彦次郎は、福沢諭吉の甥として生まれ、福沢の慶応義塾で学び、始め、学校の教師をしていたが、福沢の世話でイギリスに留学。そこで、井上馨にみとめられる。そして、井上の推せんで役人生活をはじめるが、井上が退官するとともに、彼もまた退官し、井上の依頼をうけて今度は三井組に入社する。
 というのは、井上は三井組の最高顧問の位置にあったが、その頃、三井銀行は巨額の不良貸付のために四若八苦、それを彦次郎になんとかしてほしいという、井上の頼みであったのである。井上がいかに、彦次郎を信頼していたかということである。その時、彦次郎は三十七歳。
 彦次郎が調べてみると、東本願寺の百万円、第三十三銀行への七十五万円、角堅吉への三十六万円、堀田瑞松への二十万円、田中久重への十数万円が不良貸付として回収できないことがわかった。彼は早速厳しい談判を開始した。東本願寺には、枳殻殿を一年後に差押えると警告した。枳殻殿というのは豊臣秀吉が寄進したという宏壮なもの。寺は驚き、彦次郎を織田信長の再生で破戒無慙の仏敵とののしる始末。しかし、彦次郎は一歩も退かない。やむなく、東本願寺は寺をあげて遊説運動をおこし、信者に喜捨を求めた。喜捨は予想外に集まって、東本願寺は直に借金を払うことができたということもあった。第三十三銀行などから回収したのはいうまでもない。
 それは、そのまま、政府となれあっていたこれまでの三井組の性格をあらためて、三井組を三井独自の基礎の上に確立する第一歩でもあったのである。こうして、彦次郎は、三井銀行の合理化を断行するとともに、銀行内に工業部を置いて、抵当として回収した工場を中心に積極的に生産事業にのりだした。そして、各方面の事業を担当させるために、少壮の知識人をどんどんいれたのである。
 これまで、福沢は教え子たちに実業界に進出するように何度か強調してきた。賤商主義を克服して、知識人が実業界に入ることをすすめてきた。学問がなくては、実業は絶対に発展しないと考えたからであるが、学生たちは、それは町人の列に加わることであると考えて肯じない。官吏か学者になることを望むのである。実業界も一般には、知識人を必要としなかったし、商売にはむしろ学問はじゃまだと考える風があったのである。さすがの福沢もさじを投げる始末であった。
 だが、福沢のさじを投げた翌年に、彦次郎が三井組に入り、次々と若手の知識人を三井に入社させるのである。しかも、その知識人は、いずれも、新聞記者上りであり、覇気に富み優秀であった。それは鈴木梅次郎であり、柳荘太郎であり、藤山雷太であり、武藤山治であり、池田成彬であり、藤原銀次郎であった。福沢にできなかったことが、彦次郎にできた。それは、福沢が学者として実業界入りをすすめたのに対して、彦次郎は、自ら実業界に入り、その先頭にたって歩んだためであろう。

  合理的経営の先駆金子直吉

 この三井を相手に、どうどうと渡りあったのが鈴木商店の金子直吉である。直吉が入社したとき、鈴木商店は彼の外に、店員一名という小さな店であった。しかし、直吉の成長とともに、鈴木商店もまた大きくなり、大正八、九年頃には三井物産をぬく大商社となっていた。しかも、鈴木商店は一商社という所にとどまらず、製鋼、造船、化学、金属、繊維、製糖、製粉、製油、ビールなど各種の製造工業を支配していたのである。
 無数にある小商店から脱けだして、これほど大きな商店にしあげた直吉という人間は、どんな人間であったのであろうか。どんな実力をそなえた人であったのだろうか。
 まず、直吉は、樟脳、薄荷など、独占度の高い、それだけに高利潤の商品に眼をつけたということである。彼は、台湾が軍政時代に早くも大工に化けてのりこみ、樟脳製造にのりだしたが、製樟業者が濫立気味になると、官製樟脳に一役買い、その販売権を一手ににぎるという工合である。常に時代より一歩先じていく姿勢で貫ぬかれていたのである。次に、眼をつけたのは、製糖である。これもまた独占度の高いものである。しかも、当時、日糖が独占体制をとり、利益をひとりじめにしていたが、立地条件を考えて北九州に製糖会社を設立して日糖に挑戦。たまりかねて、日糖が合併を申しこむと、建設資金の数倍で買いとらせて、自分はさっと身をひく。変り身の早さも徹底していた。
 第一次大戦が始まると、三菱造船所に一度に一万トン級の貨物船を三隻注文し、鉄の買占めに出る。その思惑がまたあたるのである。あたるのが当然である。直吉は、勘にたよるというよりも、徹底的に調査したのである。彼は、早くから電信暗号を買い、思いきった電信料をつかって、世界の動きをキャッチしたのである。勿論、各方面に専門家を置くことも忘れない。
 彼の行動はすべて調査にもとづいたのである。その上、彼の行動を支えたものは、日本の金をふやすということであった。外国から金を獲得してくることであった。それを商人の生甲斐としていた。
 「お互いに、商人として、この大乱の真中に生まれ、しかも世界的商業に関係せる仕事に従事しうるは無上の光栄とせざるを得ず。即ちこの戦乱の変遷を利用し、大儲けをなし、三井、三菱を圧倒するか、然らざるも彼等と並んで天下を三分するか。これ鈴木商店員の理想とするところなり。小生、これがために、生命を五年、十年早くするも更に厭う所にあらず。要は成功如何にありと考え、日日奮戦まかりあり」
とも書いている。
 新商品の開発にも、直吉は徹底していた。無名の青年研究所にも惜しみなく研究費を出す。彼は、「ひとができないことをやるのが面白い」と若い研究員を激励する。できることをやるのはつまらないと歎く。こうして、次々に、新製品をつくりだし、それを工業化していく。工業化せずにはおれないのだ。
 「損しても得しても、そんなことはかまわない。大事なことは生産することだ」という直吉は、典型約な事業家ということがいえるのであろう。人間能力の限界き生きぬいた事業家ということがいえるのかもしれない。

  創意と努力の人、松下幸之助

 戦後の事業家となると、誰でも松下幸之助と本田宗一郎を第一にあげるのではあるまいか。二人はともに、高等小学校しか出ない。その意味では学歴もなく、徹頭徹尾、庶民の一人にすぎなかった青年である。そして、庶民の願いである生活の繁栄と充実につらなる商人を庶民に提供しながら、成功者となった今日も、庶民感覚を失わず、庶民とともに、庶民の先頭にたって歩んでいるという点で、まさに、庶民の英雄であり、現代の理想像でもあるといえる人達である。
 幸之助は、家の倒産もあり、小学校の四年生を卒業すると、すぐに、大阪にでて、丁稚奉公をした。当時は、それが普通であったとはいえ、親の保護の下に学校に通っていた者達も相当いたことを考えれば、厳しい生活であったということはいえよう。
 しかし、幸之助は、その下積み生活の中で、自分の仕事に習熟するために、必死になって勉強した。夜学にも通って研究した。その結果、二十四歳で、独立できる所までこぎつけた。自分の改良したソケットをもって独立したのである。
 苦心惨憺の末、ソケットは出来あがったが、全く売れない。そのために、折角集まった工員たちも散り散りになっていったが、どうすることもできない。次に、六ヵ月かかって、自転車ランプをつくったが、これも全然だめだった。幸之助のつくるものは、すべて、改良品か新しい品物なのだが、どうしても売れない。彼はしみじみとわかってもらうことのむつかしさ、信用というものの重要さを感じないではいられなかった。
 幸之助は、大阪市中の小売店に、二、三個のランプをあずけ、実験してもらうことにした。そして、いいとわかったら買ってほしいという戦術に出た。そうすると、面白いほどに売れだした。もともと、品物には絶対自信をもっていた彼も、これほど売れるとは予想もしていなかった。
 こうした中で、彼は、販売店をがっちりとかためていったのである。ことに、販売店組織は戦後になって確立され、松下電器の発展を支えたものであるが、それはすべて、幸之助が先頭になって作りだしたものである。しかも、その場合、彼の庶民性というか、大衆性というか、そういう人物が非常に幸いしたのである。インテリでない彼の人柄が、インテリ嫌いの商人にうけて、信用を得たのである。だからといって、彼がインテリでないということはいえない。むしろ、すぐれてインテリであったが、彼にはインテリ臭くもなく、インテリ的な用語もないのである。
 幸之助は、すべて、仕事と平行し、生産と平行して身につけ、学んでいった智慧であり、形式約な知識、解釈学的な知識をすべてふりすてた知識人であったのである。
 今一つ、幸之助の成功を助けたのは、財閥系がやろうとしなかった消費財部門の仕事に、彼の創意と努力を集中したことである。財閥系が生産財部門に集中していた間隙をぬって、大いに努力したということである。それはそのまま、戦後、消費財部門にのりだしてきた財閥系の大企業が、なかなか、販売活動の感覚と知識をもつことができずに、長い間、松下電器の独走を許さねばならなかったことでもある。その意味では、彼は運のいい男ということにもなろう。

  へこたれない本田宗一郎

 宗一郎が小学校をでて、はじめてつとめたのは、自動車の修理専門の工場であった。六年間の修行であった。独立して、浜松に修理工場を作ったのが二十二歳の時である。始めは、開店休業に近かった工場も、他の修理工場で直らなかったのが、彼の工場にくると、ピタリと直るという評判がたつと工場は繁昌しだした。勿論、宗一郎の技術である。よく遊びもしたが、研究熱心でもあった。その頃の車輪のスポークはすべて木製であったが、いもの製のスポークをつくって、海外に輸出するという離れ業をしたこともある。
 宗一郎は、だんだんと修理という仕事にあきたらなくなる。修理なんかは子供にもできるという不満である。自分の手でつくって、世の中に役立つものをと考えるようになった。
 こうして、ピストンリングを作る東海精機という会社を始めた。といっても、それを作る方法は知らない。しかも、修理工場時代からの工員は沢山かかえている。彼は、眠る間も惜しみ、工場にとまりこんで研究したがどうしてもできない。しばらくたって、始めて、自分に知識がないということに気づく有様であった。浜松工専の教授を訪ねてきいてもみた。ますます、自分の知識が不足していることにきづく。彼は早速たのんで、浜松工専の聴講生にしてもらう。必要に応じて学ぶ彼の知識がぐんぐんと進まぬわけがない。
 試験にせかれて勉強したり、いい成績が欲しくて勉強する学生とは違う。知りたくて学ぶ学生となったのである。
 ピストンリングもやっとできあがったものの、トヨタ精機に検査してもらうと、五十本のうち、たった三本しか合格しない。散々な目にあう。しかし、不屈不撓の男である宗一郎には、へこたれるということがない。そういう時に、益々元気がでるのが彼である。
 戦後一年間は、ぶらぶらと遊んでくらしていたが、友人が「これは何かに使えたいか」と通信機の小型エンジンをもってきたことから、それを自転車にとりつけて走らせることを思いつく。その小型エンジンというのは、焼けあとにゴロゴロしているという代物である。それに、人々は敗戦で足を欲しがっているということに気づいたのである。
 それからあとの宗一郎は、順風満帆で伸々と生き、伸々と機械の改良にとりくんでいる。どこまで発展するのかと思わせるほどに発展をつづけている。日本の本田から、世界の本田へと発展している。庶民のスピードという夢をのせて、どこまでもどこまでも走りつづけてゆく。

  歴史の進歩を信ずること

 以上、渋沢栄一、中上川彦次郎、金子直吉、松下幸之助、本田宗一郎をみてきた。栄一は、日本の商工業を発展させたいという切なる願いに導かれて、商工業者の意欲をかきたてるように仕事に取りくんだ。独立の精神に支えられた商工業者をつくることを考えた。それは、いいかえれば、意欲のある独立精神に満ち満ちた商工業者がいないということでもあり、そういう人達があれば、商工業はどんどん成長し、発展したということでもある。渋沢栄一はそこに眼をつけ、商工業者の先頭を歩んでいった。成功するのは当然ともいえる。
 彦次郎は三井家の古い組織をかえて近代的なものにしていった。新しい知性によってリードされている組織にしていった。すぐれた知性の協力関係ができあがると、いかにすばらしいものができあがるかという見本をしめしたようなものである。
 直吉は人間の欲望、執念がいかに強烈であるか、その欲望、執念を生ききる者には、不可能という文字はないかのようにみえる好見本である。すさまじい欲望は、人間を如何に聡明にし、賢くするかという例でもあろう。
 幸之助、宗一郎を見ていると、本当の正直者は最後には勝つという思いにさせてくれる。地味な努力をつみ重ねたものの勝利、最後の勝利、輝やける勝利を見る感じがする。ここには、庶民や大衆とともに歩むという姿勢を崩さない人の本当の勝利がある。
 このようにみてくると、彼等は一様にバカでもないし、ナマケモノでもない。きわめて研究熱心であり、気力も意志も充実しきっている。一つのことに集中する集中力は狂的なまでに近い。自信も時に傲慢不遜と見えるほどに強い。
 ということは、成功者といわれるほどの人は、すべて、歴史の進歩を確信し、自分の歩みは歴史の歩みと一つであるという確信にうらづけられているからである。富や金を異常に求めるにしても、それはつねに、庶民大衆に還元する金として、富として求めているという確信があるからである。そうしてこそ、始めて自分の中に平和や安心が生まれるし、本当の意味での成功者ともいえるのである。

 

                 <雑誌掲載文3 目次>

 

「大久保利通 現実をふまえた行動派 

 

 大久保利通(1830〜78)といえば、維新の三傑の一人として、西郷隆盛、木戸孝允とともに、幕藩体制を倒して、日本を近代的統一国家にしあげる基礎をきずいた人として、誰知らぬ人もなかろう。ことに、西郷と組んで、幕府権力を仆していった過程はまことにあざやかであった。その意味では、西郷とのコンビはこれ以上のものはないといえるほどにすばらしい。しかも、終始、西郷の女房役として、西郷の影のような存在として、表面になったことはなかった。その点では、幕府権力を仆すまでの利通は、よい意味でも、わるい意味でも、西郷の参謀にすぎなかったし、また、参謀の位置にあまんじていた。それは、利通が西郷より三才下ということもあって、常に、利通は、西郷を兄貴分として、みとめていたということもあるし、西郷自身太腹で、寡黙な男として、仲間の長たるにふさわしい人柄であったことも関係している。
 そのため、利通はいよいよ、参謀的素質をみがき、西郷は頭領としての素質をみがいていったともいえる。まことに、利通と西郷は形影相伴うというか、二人が一にくんだとき、最も大きな力を発揮できたのである。いずれの一人の力を欠いても、彼等は、十分にその能力を発揮することはなかった。しかし、明治になってからの二人の関係は、これまでのようにしっくりいかなかった。
 利通が、ただひたすらに、日本の未来をみつめて、現代を考えていこうとするのに対して、西郷は、日本の過去にひきずられながら、現代を考えることしかできなかったためである。自然、利通が革新的になるのに対して、西郷は保守的になった。当然、彼等は、たもとを分つしかなかった。悲劇であるといえばいえようが、それはしかたないことでもあった。

 「西郷」から「ビスマルク」へ……近代的政治家を育てた欧米旅行

 西郷と分れて、一人だちしたものの、利通には、どうもうまくいかなかった。自信も持てなかったし、自分自身が中心になって、強烈にみんなをリードしていくという姿勢もとれなかった。決断することは、なおさらできなかった。そういうことは、これまでは、西郷の仕事であった。そのために、利通はつねに、木戸孝允にひきずられていった。その木戸を助けたのは、大隈重信であり、井上馨であり、伊藤博文である。彼等は、一致して、明治二年に版籍奉還をやってのけ、明治四年には、廃藩置県を断行して、近代的統一国家の基礎をつくった。利通は、せいぜい、彼等にひきずられていったにすぎない。それというのも、利通は西郷とコンビを組めなかったということに加えて、彼が考える政治制度は、あくまで、天皇を中心とする正院に、権威を集中することであったのに対して、木戸、大隈は、政府を中心に思いきった近代化政策をすすめてゆきたいと考えていたからである。すべての点で、木戸、大隈がリードしていったのもむりはない。
 だが、明治四年十一月、岩倉具視を中心に、利通、木戸、伊藤たちは、条約改正準備と西欧の文明の調査にでかけた。それは、二年にのぼる長い調査旅行であった。その中で、利通はぐんぐんと成長していった。欧米先進諸国の工場、社会施設を親しく視察したが、どれ一つを見ても、心の底から驚歎しないではいられなかった。日本はおくれているということを骨の髄まで感じたのである。
 ことに、多くの小国に分裂していたドイツの統一をやってのけたばかりか、その勢いを駆って、ドイツを圧迫しつづけてきたフランスを破ったビスマルク首相との面会は印象的だったようである。「今の世界各国は、親睦をもって交わっているように見えるが、これは全く表面だけで、実際は、弱肉強食である、と語るビスマルクの面魂を、利通は、みいられたようにみつめていた。
 早速、利通は、西郷に書き送った。
「英、米、仏は開花登ること数層にして、及ばざること万才なり。依って、独、露の国には必ず、標準たるべき事多からん」と。
 そして、自分のゆくべき道は、ドイツにおけるビスマルクの道であると、胸に深くきざみこむ利通でもあった。それに、二年間の海外調査旅行で、徐々に、日本をどうすべきかということについても、腹案がかたまっていった。横浜にかえった時の利通は、もはや、昔の利通でなく、一個の独立した政治家に育っていたのである。二年間の海外旅行が、彼をすぐれた政治家に育てたといってもいい。

 盟友離反の『征韓論』……以来、鮮やかな政治手腕を発揮したが……

 帰朝後の利通は、盟友であり、先輩でもある西郷が中心になってすすめる征韓論に、正面から断乎として反対した。日本を独立国として、西洋列強の前にたたせるためには、内治を充実する以外にないという確信であり、その確信を貫くためには、自分の生命をかけてもいいという覚悟と自信である。
 腹をたてた西郷が、官職をなげすてて鹿児島へかえったことに、岩倉達が心を痛めたのに対して、利通は「放っておいたらいい」とつきはなすのである。自ら、難局にあたろうという決意と覚悟である。加えて、自信である。これまでの利通のどこに、そんな決断力がひそんでいたかと思わせるほどの変りようであった。
 利通は、行動を開始した。行動をおこした利通の前には、どんな難問も、テキパキと解決されていった。即ち、西郷が辞任したのが明治六年十月十四日、つづいて、板垣退助、江藤新平たちも辞職したが、かわって、勝海舟、寺島宗則たちを参議に起用する一方、十一月十六日には、国内政治の中枢としての内務省を設けて、自ら内務卿になった。その利通の前に、早速、江藤新平を中心に、反政府運動としての佐賀の乱がおきた。彼は、かつての同僚に、少しの同情をしめさず、江藤を処刑する。このへんに、非情の政治家という批評もでてくるのであろう。

 西郷の死から一年を経ず兇刃に仆れる

 つづいて、木戸の反対をおしきって推進し、征台の役がおこるや、その後始末には、全権となって、清国と交渉し、あざやかに、その交渉をまとめあげることに成功した。結局、利通が単独で決定して成功をおさめたものである。彼の念願である国内産業の育成、開拓に力をいれたことはいうまでもない。西南の役で、西郷以下が死んで、日本の中に、一大敵国の如くに、日本政府の権限外にあった鹿児島がなくなった時、おそらく、利通は、盟友の死をいたむ反面、これでなんとか、日本も一になってすすめると考えたに違いない。だが、その利通は、西郷の死から、一年もしない明治十一年五月十四日の朝、反対者の刃のもとに仆れ、その道を中途で投げださなければならなかった。
 そして、維新三傑の一人である木戸も、奇しくも、明治十年五月になくなっている。

 

                 <雑誌掲載文3 目次> 

 

「伊藤博文 進路をゆがめた明治の秀吉

 

 明治十年、十一年と、あいついで木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通が死んだことで、最も幸運にめぐまれた男が、ここでとりあげる伊藤博文であった。
 木戸孝允がなくなった時、博文は自然に、長州出身の人物群の頂点にたつようになった。それというのも、師の吉田松陰から、早くから、すぐれてまとめ役の能力があると言われただけあって、その人柄は、おだやかで、あっさりとしていた。誰とでも協調できた。それに反して、先輩格である井上馨は違っていた。馨には、強いくせがあったし、鋭どく自己を主張する姿勢があった。それに、彼にとって、運のわるいことには、明治六年から、九年にかけて、意見の不一致ということで、政府を辞任し、専ら実業界に専念していたということがある。
 今一人の先輩格山県有朋は、主に軍政に没頭していた。このことは、博文に非常に幸いした。しかも、利通が死んだとき、利通に最も近くいたことから、利通がしめていた内務卿の位置をそのままつぐことにもなったのである。利通と博文の関係は、薩摩出身の誰よりも近いところにいた。

 官有物払下げ事件を契機に政府の項点にたつ

 利通がなくなった時、黒田清隆が、薩摩出身の頂点にたったが、彼は、北海道開拓使長官として任地にあった。佐賀出身の大隈重信は、隆盛、利通、孝允につぐ実力者として、むしろ、博文を凌駕していた。博文にしても、馨にしても、利通の生存中は、重信に兄事する関係にあった。それだけの識見と力量をもっていた。
 その意味では、重信は別格でさえあった。当然、政府は、重信を中心として動いていく面をもっていた。だが、重信には、彼を押したてていく佐賀出身の人材が少なかったのに対して、博文と清隆は、彼等を押したててくれる人材に事欠かなかった。自然、博文と清隆は、それぞれ、長州閥、薩摩閥の頭領として重信と肩をならべるところまでいった。
 そこにたまたま、おきたのが、北海道官有物払下げ事件である。その払下げに、不正ありとみた重信は、鋭く攻撃したのである。にわかに、重信の人気は上昇し、政府には、重信しか人物がいないというような印象を強くあたえた。勿論、そのことで、清隆は人気をおとしていった。その時、博文は、薩摩の人々と手をくみ、中立派をだきこみ、重信を孤立においやり、とうとう辞任しなければならぬところまで追いつめていった。
 博文の完全な勝利である。こうして、博文は、官有物払下げ事件をきっかけにして、自分と競争的位置にあった重信・清隆をおいぬいて、政府の頂点にたつのである。明治十四年のことだった。

 国家主義国ドイツへの旅行……かつての“自在自由”の思想を失う

 しかし、この当時の博文には、いまだ、内政外交について、確固とした意見も自信もなかった。彼は、中心になってくれる人を必要とした。それは、洋行前の利通が隆盛を必要としたのに似ている。彼は、それを岩倉具視に見出し、そのまわりをぐるぐるとまわっていたのである。
 だが、利通が、明治四年から六年にかけての洋行、とくに、ビスマルクとの会見の中で、隆盛を必要としないまでに大きく成長したように、博文もまた、明治十五年から十六年にかけてドイツの旅行で、大きく成長する。彼は、ドイツの歩みかたに徹底的に魅せられるのである。骨の髄まで、ドイツに心酔するのである。
 いうまでもなく、君主主義国であり、国家主義国としてのドイツにおぼれたのである。かつて、明治元年、版籍奉還の建白をたてまつったときに、
「人々をして自在自由の権利を得せしむべし」
 とか、明治四年、アメリカで、
「数千年来、専制政治の下に、絶対服従して、我が人民は思想の自由を知らざりき」
とか言って、人民の自由の権利、思想の自由を主張した博文は、この時をかぎりとして、永遠になくなった。
 それからの博文は、唯、ひたすらに、日本を君主主義国、国家主義国にしたてあげようと一生懸命になる。華族制度という身分制度を確立したのも、そのためだし、天皇不可侵をうたいあげた明治憲法もそのためにつくった。
 せっかく開設した議会も、政府に従属するものでしかなかった。一町三反を耕す百姓出身の博文が、最高の権力者になった時、農民の自由と権利を伸張するかわりに、逆に、それを抑える立場になったのである。それは、丁度、百姓出身の秀吉が、天下をとったとたん、百姓をおさえつけたのと似ている。
 そればかりか、日本の人民を押えつけることだけで満足できないで、朝鮮の人民まで抑圧しようとしたことまで似ている。

 威圧による韓国併合……ハルピン駅頭で韓国人の手にかかる

 日露戦争のあと、博文は特派大使として、韓国におもむき、外交権を日本に委任するように強要した。さすがに、韓国帝もそれをうけいれることができない。反対を表明すると、彼は、韓国の立場は非常にわるくなろうといっておどしている。
 しかたなく韓国帝が、大臣にはかってと答えると、彼は今度は、韓国駐屯司令官を帯同して、その席につらなり、各大臣を威圧するという態度に出た。そのために、各大臣は卒直に意見が吐けない。だらしないといえばいえるが、博文は、強引に会議をリードして、韓国の外交権を奪ってしまう。
 当然、各地に、日本の韓国支配に対する反対ののろしがあがる。それに対して、博文は武力弾圧でのぞみ、明治四十二年になると、とうとう、韓国併合という段取りまでつけるのである。
 そうなると、さすがの博文も、常日頃、韓国の独立ということをいっていた手前、統監の位置にとどまっていることは、面映ゆかったと見えて、統監の位置を去り、ヨーロッパへの旅に出発した。
 博文が韓国人に殺されたのは、その旅先のハルピン駅であった。こうして、六十九才の博文は、韓国を併合し、それに反対する韓国人の手にかかって死んだ。
 いってみれば、博文は、日本の進路をゆがめた張本人であったし、たとえ、国内的には、いくつかの善政をしいたにせよ、日本の進路をゆがめた政治家として、見透しのない政治家といえる。そして、そのゆがみは、明治十六年からおこったということがいえよう。

 

                   <雑誌掲載文3 目次>

 

「山県有朋 近代化の敵……陸軍大将第二号

 

 このへんで、長州閥の頭領というよりも、山県閥の頭領として、内閣を二回組織し、そうでないときは、自ら内務大臣の地位に六年間もつき、その後は、直系の桂太郎、清浦奎吾に前後四回にわたって内閣を組織させ、内務大臣の要職はつねに品川弥二郎、芳川顕正、野村靖、児玉源太郎、平田東助、大浦兼武たちに歴任させ、殆んど四十年近くも日本の政治を壟断した男・山県有朋について述べる必要があるように思う。

 軍隊を整備拡充するために前半生をささげる

 戊辰戦争の時、敵襲をうけて、あわてふためいた有朋が軍のをおきわすれて、もっていた瓢箪だけをさげて逃げだした話はあまりに有名であるが、西南戦争、日清戦争と彼が指導する戦争はあまり香ばしくなかった。日清戦争のとき海域攻撃など、あきらかに作戦の失敗でさえある。だが、軍政家としての彼はまことに秀でていたようである。
 明治三年八月、外遊から帰国した有朋は兵部少輔になったが、前原一誠がやめて兵部大輔のポストは空席になったままなので、彼が事実上の中心となった。勿論、兵部卿はいるにはいたが、皇族の一人がそのポストをしめ、西郷隆盛も鹿児島にかえっていた。
 有朋は、早速、その年の十月、兵制を海軍は英式に、陸軍は仏式に統一することをきめ、翌年二月には、薩長土三藩の兵をもって国軍を組織。七月には、その威力を背景にして廃藩置県を断行した。木戸、伊藤の唱える廃藩置県も、彼の協力を得て始めてやれたのである。
 明治五年二月になると、兵部省を陸軍省と海軍省とし、有朋は陸軍大輔になる。翌六年一月には、周囲の反対をおしきって徴兵令を制定。六月には陸軍卿となる。西南戦争は徴兵制度の試金石であっだが、よくそれに堪え、徴兵制度の価値を国内にあきらかにし、彼の地位を不動なものにした。
 明治十一年には、陸軍省に独立した参謀本部をつくリ、さらに、明治十五年には、軍人勅諭をつくった。そこで、軍人の政治関与を禁じたことはいうまでもない。
 このようにみてくると、有朋は日本の軍隊を整備拡充するために、その前半生をささげたといっても過言ではない。それは、誰もがみとめるほどの業績であった。だが、そんな彼に、常に黒いうわさがつきまとっていたことも否定できない。

 軍人の政治関与を禁じみずから内閣総理大臣となる

 まず最初は、山城屋和助の事件である。和助は有朋との縁故をたよりに、兵部省や陸軍省から当時の金で六十四万円を借りだし、その金で生糸貿易をしたが、生糸相場の暴落で大損をした。払える見込のなくなった和助は視察と称してパリで豪遊していたが、おかしいというので呼びもどされた。観念した彼は、明治五年十一月二十九日、陸軍省の応接間で割腹自殺したのである。しかし、和助は、すべての関係文書を焼きすてていたので、有朋は、陸軍大輔の地位を失うところを助かっている。
 次は、陸軍における自分の地位を強化するために、自分の好敵手である西郷従道を海軍に追いやり、彼に批判的であった鳥尾小弥大、三浦梧棲、谷干城、曾我祐準の四将軍を予備役に編入してしまったことである。陸軍にとって、どんなに必要な有能な将軍でも、自分の地位をおびやかす人間は放逐してしまうというのが彼のやり方である。
 また、有朋は、軍人が政治に関与することを否定する勅諭を出し、政治関与を犯罪として陸軍刑法に明記しながら、自らは現役軍人のまま、明治十六年には内務卿となり、明治十八年以後内務大臣、明治二十二年十二月には内閣総理大臣となるほどの鉄面皮である。
 なお、彼が陸軍大将になったのは首相在任中の明治二十三年六月で、皇族以外では、西郷隆盛についで二番目となっている。大山巌が陸軍大将になったのは明治二十四年五月、大山の先輩である烏尾、谷、三浦などはすべて陸軍から放逐されたことはすでに述べたとおりである。
 有朋が保安条例を発令して、自由民権運動を弾圧したのが、伊藤内閣の時の内相時代であり、郡制をしいて、古手の警察官をあて、内相の勢力範囲に日本全体をおいたのが黒田内閣時代の内相時代である。そして、教育勅語の発令が、彼の首相時代、また、軍部大臣は現役軍人に限るという法制を定め、陸海軍が政党のために支配されることを防ごうとしたのも、やはり、彼の首相時代である。

 つねに黒い噂につつまれながら絶体主義の確立につとめる

 いってみれば、有朋は徹底的に政党内閣をきらい、日本の近代化をきらい、反動主法の制定に努力した。だから、明治三十一年六月に、進渉党の大隈重信、自由党の板垣退肋の連立内閣ができたとき、「本朝政海一大変動、遂に明治政府は落城して」と書くのである。そして「敗軍の老将再び兵を語らない、隠退あるのみ」ともいうのである。だが、その実、隠退するどころか、彼は力をふりしぼって、隈板内閣の攻撃にでた。
 即ち、陸海軍大臣は天皇がきめるという形をとって、大隈、板垣には陸相、海相の使命をやらせない。しかも、自分の一の子分の桂太郎を陸相として送りこむ。そのために、原敬からは、早速隈板内閣に対して批判がでる。
「隈板内閣は本当の意味で政党内閣ではない。進歩党や自由党が昨日まで攻撃していた人間を陸相・海相として迎えるということはとんでもないことである。陸相、海相は軍人でなくてならないということはないのである。軍人以外の者も任じてもよいのに、どうしたのか」と。
 有朋のまわし者桂太郎のために、隈板内閣はとことん、なぶりものにされて、わずか四ヵ月ともたない。一度は憲政党として合流した進歩党と自由党が、再び分裂するのは桂の策謀のためである。両党の人達が党利党略のために動いたこともあったが、あきらかに、彼の策謀によるものであった。
 そのあと、有朋が内閣を組織するが、この時早速、原敬の指摘どおりに、それまでは、文官でも軍部大臣をやれたのをやれないようにする。そして、その組閣中、彼は、宮内省から百万円近い金をひきだし、議員の買収費にあて、いくらかは彼自身の懐にいれる。
 山城屋和助の事件以来、つねに黒い噂の中にいた彼らしいやり方でもある。
 原敬は、「山県が生きている限り、政党政治の健全な発達は望むことができない」と書いているが、有朋はその生涯を通じて、絶対主義の確立に努力し、その軍隊発展策も絶対主義確立のための手段にすぎなかった。その意味では、彼の功績が大といわれる軍隊の充実そのものも怪しくなってくる。日本の近代化の敵、それが有朋の真髄、ということになりそうである。

 

                  <雑誌掲載文3 目次>

 

「松方正義 経済危機救う卓越した実務家

 

 明治十三年に、明治六年以来、大蔵卿の位置にあって、財政を担当していた大隈重信に変わって、大蔵卿のポストについた松方正義は、それ以後ずっと、大蔵卿の位置にあった。そればかりか、内閣制度がしかれてからも、伊藤・黒田・山県三内閣の蔵相をつとめ、山県のあとをついで、みずから首相になった時は、蔵相を兼務し、第二次伊藤内閣、第二次山県内閣の時には、かさねて、蔵相となっている。明治二十九年に、第二次松方内閣を組織した時は、当然ながら、また、蔵相をかねている。
 このようにみてくると、彼が蔵相の位置にあったのは、前後十六年間にもなり、いかに、長期間、そのポストを独占していたかということになる。 こんなに長く、そのポストにあった者は、彼以前になかったが、恐らく、彼以後にも、絶対ないのてはなかろうか。それは、そのまま、正義が、日本の財政を確立していく上に、いかに重要な位置をしめていたか、また、なくてならない人物であったかということにもなろう。
 勿論、そこには、大久保利通のなくなった後、薩摩閥の中心であった黒田清隆が、官物払下げ問題で疑惑の眼をむけられたことと、酒乱のために信用を失ったことも原因して、自然に、薩摩出身者の中心におしあげられたことにもよるが、彼が、当時、日本有数の財政家であったことは間違いない。

 幸運な薩摩出身者……山県のあとをうけて組閣する

 正義は、黒田清隆よりも5才年長であったが、清隆のように、才気渙発ともいえず、政治家的抱負もあまりもちあわせていなかった。そのために、明治維新の時にも、清隆のように、はでに立ち廻ることも出来なかったし、功績もたてなかった。自然、清隆にリードされ、清隆の風下にたつことになった。
 だから、既に述べた通りに、大久保利通がなくなった時に、薩摩出身者の頭領になったのは、正義でなくて、清隆であった。官物払下げ問題や酒乱気味で人気をおとしていた清隆が、博文についで、二番目に内閣を組織したのも、多分に、薩摩の中心的位置にいたことを意味したし、他方、正義には、政治家的識見と政治家としての人物に欠けるところがあったことを意味する。
 正義は、いうなれば、卓越した実務家ではあったが、政治家ではなかった。だが、薩摩の出身者は、結局、長く、清隆を中心として仰ぐことはできなかった。ことに、博文や有朋の競争相手としてふるまえる人物ではなかった。
 そうなると、三回目に内閣を組織した有朋のあとをうけて、薩摩出身者で、四回目の内閣を組織するとなると、正義以外になかったのである。こうして、正義は、第一次松方内閣を組織することになったのである。薩摩出身者でなければ、清隆か変でなければ、決して首相になることもない人物である。まして、二度も内閣を組織することは絶対になかった人物である。
 これほど、幸運な男はなかったといってもいい、だからといって、そのことで、財政家として、実務家として、優秀でなかったということには、すこしもならないのである。

 経済危機……政策で大隈と鋭く対立する

 正義は、大隈財政の批判者として登場してきた。ことに、明治十年の西南戦争で、政府は、その戦費調達のため、当時の歳入に近い金額の新紙幣を発行したため、従来、一貫して、インフレ的傾向であったのに、一層、拍車をかけることになったのである。その結果、諸物価はあがり、輪入はどんどん超過したために、日本経済は非常な危機に見舞われることになった。
 重信は、この危機的状況は、輸入の超過に原因があり、それは、国内産業が十分におこっていないためであると判断した。当然、積極的に殖産興業政策をおしすすめた。だが、それが、直に効果をあらわすわけではない。そこで、増税などのいろいろの対策をなしたが、一向に解決される見透しがなかった。
 正義は、この時に、この経済危機は不換紙幣の増発にあるとみ、政府の財政政策を根本的にあらためる必要がある、と強調して、鋭く、重信と対立した。
 たまたま、重信は、清隆の官物払下げに不正があると鋭く追求しすぎて、かえって、薩・長の連合をつよめ、逆に、政府から追われることになり、正義の登場となる。

 日銀設立など手腕発揮……日本の国際的発展につくす

 正義は、まず、不換紙幣の消却にのりだした。そのために、超均衡財政を強行し、正貨準準の資金をつくりだすように、極端な緊縮財政を実施した。
 また、輸出する貨物代金を外貨で国家財政に吸収するということもしたし、明治十五年に、日本銀行を設立し、徐々に、政府紙幣を銀行券にきりかえていくということもやった。
 この政策は明治十八年までつづけられ、とうとう、不換紙幣を、ほぼ、整理するところまでいく。十九年には、銀本位の兌換制度がとられ、経済危機は、徐々に克服されるのである。
 農民の犠牲で強行された政策とはいえ、経済危機をのりきったということは特筆されてよい。それに平行して、近代的な貨幣・信用体制も確立したのである。このことが、彼を薩摩出身の中心にのしあげることにもなったのである。
 さらに、明治三十年には、日清戦争のあと清国賠償金をもととして、金本位制を採用し、日本の国際的先験に大いにつくすことにもなる。こうして、正義は、明治政府にもっぱら、財政家としての手腕を発揮するのである。
 だが、同時代の政治家陸奥宗光は、この正義を、つぎのように批評する。
 嘗て、揆乱反正の武功あるなく、又典章制定の文勲あるなく、更に、大策偉謀の国を定むるに足るものなく、詮じ来れば、一の富翁のみ。その富を取り去れば、一の凡庸子に過ぎず。而して、再び内閣組織の任に当り、謹厚格直の名を博し、大隈伯と並びて大政治家なるかの如く誇称せらる。世に、もし不可思議なるものありとせば、松方伯の一身こそ、一大不可思議ならざるべからず。
 もし、宗光の批評があたっているとしたら、財政家としての業績も、あるいは、正義をとりかこむ側近の識見や経綸、ということになる。
 そうなると、いよいよもって、薩摩出身者の頭領として、つくられた存在、ということになるかもしれない。あらためて、もう一度仔細に検討してみる必要がありそうである。藩閥ということで、長州と薩挙が批難攻撃されるのも当然であるかもしれない。内閣の首班は、不思議なほどに、長州・薩摩・長州・薩摩と、それを繰返しているのである。

 

                  <雑誌掲載文3 目次>

 

「星亨 宰相の器だった左官屋の小伜

 

 歴代の宰相をとりあげていると、大久保、伊藤、山県、松方となり、鹿児島県出身二名、山口県出身二名となった。さすがに、藩閥といわれただけのことはあって、仲よく、二名づつとなっている。これでは、全く、その他の出身者には、この藩閥勢力の前に、何も出来なかったかのように見える。だが、決して、そうではなかったという証拠になるのが、今度ここでとりあげる星亨である。彼は、薩摩、長州に対抗して、十二分に、その力を発揮した男である。不幸にも、五十三才で、政敵の凶刃に仆れたが、そういうことがなかったなら、おそらく、宰相にもなれた男である。しかも、この男が、江戸の出身で、左官屋の小伜であったというのだから面白い。それも、父親に捨てられた子供であったというのだから、なおさら面白くなってくる。

 兵庫の英語教師となり県令陸奥宗光の目にとまる

 はじめ、亨の母親は、その夫に捨てられたとき、自殺しようと決心したが、思いなおして、漁師をしている実家にかえり、それから大道易者をしている星泰順と再婚した。亨が星姓を名乗るのは、そのためである。
 十二才になったとき、亨は蘭医渡辺禎庵の弟子になった。弟子といっても、玄関番をしながら、禎庵のお伴をするというにすぎなかったが、利発な彼は、それに満足せず、その立場を生かして、蘭学を学びはじめた。そればかりか、禎庵の孫が幕府の英学所で英語を学んでいるのにならって、亨もまた、英語を学んだのである。このとき英学所に入るには旗本、御家人などの身分のものでなくてはならなかったが、彼は、奉行つき蘭医の門人という名目で入学した。
 十七才の時には、幕府開成所の苦学生となり、英語は勿論、仏語も学ぶまでになり、まもなく海軍伝習所の英語教師となった。しかし、幕府が仆れ、彼も失職したが、明治二年になると、今度は、兵庫県の英語教師に採用される。このときの県令が陸奥宗光であり、彼は、このとき以来、宗光から非常に見込まれることになる。
 明治四年に、陸奥が神奈川県令となると、亨も、神奈川県英学校の教頭になり、ついで、陸奥の推薦で、大蔵省につとめ、横浜税関勤務になる。亨が結婚したのは、この時で、相手は、代々幕府の畳御用をつとめる棟梁の娘であった。妻の関係をたよって出世してゆこうとする者の多い中にあって、彼は、自分の出世とは全く無関係の者の娘を妻としている。だからこそ、明治政府のなかで、最も反骨のあった政治家といわれる陸奥宗光から愛されることにもなったのであろう。
 亨には、それを裏づけるような話もいくつか残っている。その一つは、大蔵小輔伊藤博文を陸奥宗光が、紀州屋敷に招待したときの話である。ところが、その紀州屋敷は、明治天皇の大阪行幸をむかえたということで、大玄関には「奏任官以下昇降を禁ず」という札がかかっている。これでは、奏任官以下の連中、まして、亨のように、明治政府の役人でない者は、裏玄関から入る以外にない。これをみた亨は、さっさと「他日参議になったら、この玄関からあがる」といって、かえったというのである。
 その次は、明治七年、亨が横浜税関長になっていたときの話である。税関公文書に、女王と訳したのを、英国領事から、皇帝と訂正するようにいってきた。しかし、亨は、その要求をつっぱねて、この訳語が正しいと強調した。当時、絶大な権力をふるっていた英国公使パークスと堂々とやりあったのである。明治政府は、パークスの怒りをおそれて、亨をやめさせ、罰金二円をかした。
 彼のきかんきな性格が眼にみえるようである。その後、大蔵省租税本寮の外事課長というポストにつき、かえって優遇されたが、彼は、政府に見きりをつけると共に、この機会に、法律研究をやってのけたいと考えて、英国に留学する。勿論、陸奥の世話である。留学中の三年間、なるべく、日本人との交際をさけ、英会話の習得につとめたことはいうまでもない。夜は一時頃まで読書し、朝は六時にもう、机にむかっていたともいう。亨が、この期間に集めた書物は、法律、経済、政治、地理、歴史、文学から音楽、美術にまでおよんでいた。

 名弁護士の人気高まり自由党の中心的位置につく

 日本にかえってきた亨は、早速、弁護士を開業した。官庁からの依頼には、高額の謝礼金を要求したが、一般人に対しては非常に安い謝礼金しかうけとらなかった。しかも、裁判は殆んど勝訴になった。当然、亨の人気はあがった。数年で、巨万の富を貯めたほどであった。
 その彼が、自由党に入党したのは、高島炭鉱訴訟事件で、後藤象二郎の窮状を救ったことも一因であったが、江戸っ子として、薩摩や長州の横暴、専制ががまんならなかったためである。イギリスで身につけた自由主義の思想と精神もあった。
 亨が入党したのは、明治十五年十二月六日、自由党党首板垣退助が、後藤象二郎の甘言で、洋行した直後である。当然、彼は、その才能、その学力、その財力からいって、自由党の中心的位置についた。そればかりか、その莫大な財産をみんななくしてしまったといわれるほどに、党活動に投入した。
 明治十六年春の自由党大会は、改進党を偽の党として撲滅すること、三菱、共同両社を攻撃することを決議した。亨の指導下に行われた大会であった。この議決が、当時の日本で、正しかったかどうかは別として、彼は戦斗的であった。明治十七年九月の新潟での演説会では「政治の限界」と題して、政府の専制を追求したため、罰金四十円、実禁固六ヵ月の官吏侮辱罪にとわれたほどである。弁護士の資格もとりあげられた。
 亨が保釈上告中に、自由党解党大会が開かれた。当然、彼は、解党反対の意志を打電したが、むだであった。板垣退助からは「バカユウナ デンポウノカネガ ムイギ」という返電があった。彼が板垣を心の底で信頼できないと思い始めたのは、おそらくこの時からであろう。
 新潟監獄からでてきた亨は、なんのためらいもなく、党再建の中心になって活躍する。しかも、彼のその後は、党の再建を、合同・分裂をくりかえすなかで、やっていこうとしたとさえいえる。だから、時には、絶対主義者であり、大の政党ぎらいである山県有朋とも手を組んだし、その政敵である伊藤博文とも、連合をやってのけた。しかし、その如何なる場合でも、山県や伊藤に利用されてしまうということは決してなかった男である。そして、彼は、一歩一歩と、宰相になる日の布石をきずいていたのである。彼ならば、おそらく、それをやってのけたであろう。
 左官屋の伜亨が、宰相になったとき、日本の政治をどのようにしようとしたかは、誠に興味あることである。

 

                 <雑誌掲載文3 目次>

 

「板垣退助 自由民権を唱える政治家の実態

 

 明治十五年四月六日、岐阜の遊説先で、兇漢におそわれたとき、
「板垣は死すとも、自由は死せず」
と言ったという板垣退助(1837〜1919)の言葉は、あまりにも輝やかしいが、それとは反対に、一見自由に生き、自由のために斗ったかのように見える彼の歴史は全く貧弱である。兇漢におそわれたにせよ、自由のために斗っているというポーズ以上には出なかったのではないかとさえ思われる。こういう評価は、彼には酷とも言えるが、私にはそう思えてならない。彼は所詮、政治屋であっても、政治家ではなかったのではないか。現実に押し流される政治家であっ ても、理想を追い、未来に生きる政治家ではなかったのではないか。

 征韓論に敗れて愛国公党を組織、自由民権運動の口火切る

 御承知のように、退助は明治維新を実現した土佐藩の中心的人物であった。だから、その功を認められて、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允、肥前の大隅重信とならんで、最高の地位である参議になっている。今日でいう集団指導体制である。勿論、その集団指導体制は、薩・長が土・肥の勢力を利用して、自らの政権を強化しようという深慮から為された統一政権であったから、実際には、土・肥は薩・長と同格ではなかったし、人材の面でも到底、薩・長と比べものにならなかった。藩意識にしばられていた当時のこととて、重信にしても、退助にしても、この事実は面白くなかった。
 明治六年、退助が征韓論を唱えたのも、そこには多分に、土佐出身の人々の勢力を伸張しようという意図が含まれていた。明治七年、征韓論に敗れて下野した退助は、同じ土佐出身の後藤象二郎たちと、愛国公党を組織し、四月には「民選議院設立建白書」を政府に提出した。こうして、自由民権の口火は花々しく切られたのであるが、考えてみると、これはいかにも、とうとつである。朝鮮を侵略し、朝鮮人民を苦しめようと主張していた彼が、その主張に敗れたからといって、それから半年もたたないうちに、一転して今度は、日本人民の自由民権を唱える。全く、おかしなことであるが、誰もそのおかしさ、奇妙さにきづかない。従うに、前参議退助によって唱導されたということに、多くの人達は柏手喝釆を送った。
 退助は、土佐派の勢力を伸ばすために征韓論を唱えたが、それと全く反正対のことを、政府攻撃のために、土佐派の勢力拡張のために述べたにすぎなかったのである。これは、政治家というよりも、政治屋として、自分のためになり、反対派を攻撃するためには、どんなことでも利用するという、最低の態度である。自由民権運動の総帥退助に対して、こんな見方をするのは、間違っているとも言えるが、明治八年二月に、再び参議になったことを見てもそのことは明かである。彼にしてみれば、参議となって、政府の専制を改革しようという意図があったとしても、政治的判断もあまいし、自分の能力についての判断も全くお粗末である。だから、その十月には、またも、政府を去っている。

 運動は全国的規模となり自身の政治生命も昂揚……そして裏切り

 彼には、自由民権というものについての本質的意義も、日本の国民の中に自由民権の思想と意識をうえつけるということは、どういうことであるかという透徹した見解もない。ただ、そこに、自由民権という、かっこうの政府批判の言葉があったから、それにとびついたにすぎないという感じさえする。しかも、退助が、再び参議になった時は、退助の自由民権運動の主唱に応じて、全国的規模の政治結社が生まれた翌月である。とすれば、彼は、第一回目の裏切り、自由民権への裏切り、仲間たちへの裏切りをやったことになる。
 だが、その裏切り行為は不問にふされたまま、退助は、もう一度自由民権運動の先頭にたつ。明治十年、十一年、十二年と、自由民権運動は昂揚していった。十三年には、国会開設を要求する運動となって、燃えあがった。自由党が結成されたのが翌十四年、彼は総理に就任。運動は、いよいよ盛んになっていった。
 冒頭の一句を叫んだのは、明治十五年で、この年は、退助の政治的生命が最も昂揚した年でもある。だからこそ、その一句も叫ぶことが出来たのであろうし、彼自身その運動の昂揚に酔うていたともいえる。本気に、自由民権の総帥と思っていたのかもしれない。だが、そのばけの皮は、意外に早く、はがされる時がきた。それが、錯覚だったと知らされるのに、そんなに時間はかからなかった。
 今度は、外遊という形で、自由民権の戦いの最中に、退助は、明治十五年十一月から、翌年六月まで、日本を留守にするのである。しかも、外遊資金は彼の攻撃する政府すじから出ている。たとえ、その金の出所を彼自身知らなかったにせよ、戦いを見捨てて、日本を去ったという行為は、自由民権への裏切り以外のものではない。政府すじの金でありながら、それを知らないで使用したということは、もう悲劇役者でなくて、喜劇役者でさえある。
 こうして、退助の二度目の裏切り行為が始まる。そして、シャッポのなくなった運動は、つぎつぎに弾圧されていく。福島事件、高田事件、群馬事件と。しかも、帰国した退助は、自由党までも解党する方向にもっていく。前回記した、星享が解党に反対する電報を刑務所から打電したのはこの時である。「電報代が損である」と返電した退助は、もう、おちるところまで落ちた。これ以後、自由民権運動が後退していったことは言うまでもない。
 こういう退助を自由民権運動の総帥に仰いだところに、自由民権運動の幼さがあり、自由民権運動の悲劇があったといえようか。

 伊藤内閣に内相として入閣、運動は出世の方便と化す

 その後、明治二十年、政府は、退助に伯爵を授けようとした。彼を徹底的に骨抜きにしようとしたのである。さすがに、彼は、平生の主義に反するといって一応辞退したが、結局、伯爵になっている。こうなると、戦った彼の自由民権は、いよいよ、方便であったという感が強くなる。そして、明治二十九年に、伊藤内閣の内相として入閣した時、彼の自由民権はうそであったということがはっきりする。閥族反対を叫んだ彼が、伊藤内閣に入閣。それも、自由民権運動を取締る内相の位置につくのである。ここで、完全に、彼の自由民権は、自分のために、自分の出世のために利用したカムフラージュにすぎなかったことがあきらかになる。だからこそ、明治三十一年に、折角、退助の自由党と大隅重信の進歩党との連立内閣をつくったものの、閣僚の椅子を争って対立し、わずか五ヵ月で、その内閣を崩壊させるのである。愚劣というしか言いようもない。
 理想に生き、理想を追う政治家であれば、決して考えられないことである。政治の理想をもっていたとも言われる数少ない政治家の一人退助の実態がこれである。そこに、明治以後の日本の政治の貧困がある。

 

                 <雑誌掲載文3 目次>

 

「桂太郎 勝敗不明……日露戦争の指導者

 

 明治三十四年六月二日、桂太郎が内閣を組織した時は、誰一人として四年八ヵ月の間も政権を担当するとは思わなかった。それこそ、三日天下と思ったものである。それなのに伊藤博文、山県有朋、松方正義などが組織したどの内閣よりも長期間つづいたのだから、人々は驚いたのである。それも、第四次伊藤内閣が、財政問題で行きづまり、内閣をなげだした時、誰一人として後継首相のひきうけ手がなく、一ヵ月間も、首相を誰にするかで、もめつづけたあとの桂内閣であったから、なおさらである。
 御承知のように、桂太郎は山口県の出身で、先輩格の山県有朋の一の子分である。だから、桂内閣は小山県内閣ともいわれたし、三日天下と占われたのもそのためである。だが、首相になった桂は、どうしてどうして、伊藤・山県に比して、一歩もひけをとらない首相であったのである。

 日英同盟で評価高まり、一方議会の操縦にも手腕をふるう

 軍人としての桂は、戊辰戦争時代と日清戦争に、直接、軍隊を指揮しただけで、それ以外は全部、陸軍省にあって、軍政の中心を歩いた男である。参謀本部諜報部長、対支作戦部長を八、九年、陸軍次官を六年間、陸軍大臣を四年間と、軍政家として成長してきた。いいかえれば、陸軍とともに成長し、国家予算の50%近くが軍事費によってしめられるようになった時、政治の表舞台におどりでたのである。
 その桂が最初にてがけた仕事は日英同盟の締結である。当時、国内では日英同盟をすすめようとする山県、桂、小村寿太郎の線と日露協商を唱える伊藤、井上馨の線が対立していた。伊藤は個人的資格で日露協商を押しすすめようとしたが、到底、内閣の首班の位置にある桂の敵ではなかった。フランス、ロシアと伊藤が日露協商の実現を志してかけまわっている間に、桂は明治三十五年一月、日英同盟をさっさと締結してしまった。これで、ロシアとの正面衝突は決定的となったが、桂内閣の評価は一挙にたかまったということができる。
 一方、桂は議会の操縦にも当然頭をつかった。なんといっても、伊藤のひきいる政友会が議会の過半数をしめている。政友会を敵にまわすか、内閣を支持させるかということは非常に重要だった。だから、日露協商を唱える伊藤に表面反対することもなく、また、その行動を制限することもなく、伊藤を思う通りに行動させた。それでいて、日英交渉のことでは、伊藤の同意をまえもってとりつけるという周到さであった。伊藤としても、せいぜい、条件をつけるだけで、反対もしない。それというのも、日露協商は必ず結んでみせるという自信がさせたことでもある。いうなれば、桂の力を過少に評価したのである。
 結極、伊藤は、桂の政治力、外交的手腕にしてやられることになるのであるが、政友会操縦でも、徹底的に伊藤の力を利用しにかかる。即ち、国家的危機という伊藤の泣き所を押えて、彼に政友会を押えさせるのである。こうして第十六議会(34・12・10〜35・3・10)を無事にきりぬける。しかし、第十七議会(35・12・9〜12・28) はそうはいかなかった。
 伊藤は政権担当の決意をもって、憲政本党の大隈重信とも提携した。自然、政府と政友会、憲政本党は増租案をめぐって、正面衝突した。政府は議会停会などによって時をかせぎ、台湾総督児玉源太郎などの調停をたのんで解決につとめたが、政府と政党との妥協は成立しない。だが、これはあくまでも桂のポーズにすぎなかった。彼は国民に、政党に、妥協の態度を印象つけようとしたにすぎぬ。内心では、とっくに議会解散をきめていたのである。
 こうして 議会は解散された。

 伊藤を手中に落し、全力あげて日露戦争にとりくむ

 だが、その間も、桂の伊藤工作は、時には辞職をほのめかし、時には妥協条件をしめしながら、執拗につづけられた。政友会内部の切り崩しも積極的にやった。伊藤はとうとう動揺して、内閣を組織することを断念したばかりか、政府の妥協案をのむという所まで後退した。こうなると、第十八議会(36・5・12〜6・4)は、政府と政友会の妥脇で、何の問題もおこらない。勿論、尾崎行雄たち二十数名は、伊藤に不満であると脱党したが、大勢には影響しない。しかも、四月二十一日には、山県邸で伊藤、桂、小村が会って日露戦争を決定してしまうのである。伊藤は完全に桂の手中に落ちてしまう。
 そればかりか、桂は、天皇を動かして、伊藤を政友会からきりはなして、枢密院議長におくりこむ筋書きをもつくるのである。今日でいうなら、さしずめ、会長あるいは相談役にまつりあげたことになる。こうして、伊藤は、再び、内閣首班になることのない他位においやられる。桂の完勝であり、伊藤の完敗である。
 もはや、桂にとっては、その頭を抑え、その心を思わせるものはなかった。この時の桂には、もう親分の山県でさえ、彼を押えきれる人間ではなかった。適当に奉っていさえすればよかった。自分の思う通りに、どうでも操縦できる人間に映ったのである。あとは、全力をあげて、対露戦争にとりくむだけであった。勿論、伊藤の去ったあとの政友会工作は政友会の実力者原敬を相手にしてすすめられる。
 桂は原に約束する。
「戦争がすんだら、政友会と一緒に内閣を組織しようと思う。もし自分が退くような場合には西園寺(公望)を総理に推せんするつもりである」
「西園寺推せんのことは伊藤や井上の内諾をとっている。まだ山県には話してないけれども、その時になったら、山県にも異論はないであろう。もし異論があっても、必ず自分が説得してみせる」と。
 桂の自信のほどがよく見える。その自信をもって、対露戦争を指導したともいえる。御承知のように、日露戦争は大変な戦争であり、実質的には、日本が勝ったのか、ロシアが勝ったのかわからないような戦争であった。その戦費もイギリスやアメリカで募集した公債によるものであったし、それすらも、後には、思う通りには集まらなかった。その意味では、全く危い戦争であったが、その中心にいたのが桂太郎である。
 戦争がすんだ時、桂内閣は辞職し、第一次西園寺内閣ができたことはいうまでもない。原敬は内務大臣になっていた。なお、桂が第二次、第三次の内閣を組織したことを記しておくのも蛇足ではあるまい。ある意味の実力を彼がもっていたことの証明である。

 

                   <雑誌掲載文3 目次>

 

「西園寺公望 敗れたパリ仕込みの夢と理想

 

 第一次西園寺内閤が誕生したのは、明治三十九年一月十四日のことであるが、この内閣は前内閣の政策を全部ひきつぎ、全く変りばえしなかった。それというのも、前内閣の主班桂太郎と政友会の原敬との間に、前後五回にわたる会談で、桂内閣の政策をすべて引きうける条件で、西園寺内閣が生まれたためである。すべては原敬のしくんだ筋書きであり、西園寺はそれにおどったにすぎない。だから、第一次も第二次も、いずれも内務大臣は原敬がつとめ、実質的には原内閣ともいえるものであった。そればかりか、桂と西園寺の間で政権のたらいまわしをして、七年間の長きにわたって政治を独占したのである。
 だが、西園寺は、原のシャッポとして、内閣の首姓になったばかりでなく、既に、政友会総裁として原にかつぎだされたときからそうである。というのは、明治三十六年、伊藤博文が政友会総裁の地位を退き、原にすすめられて、総裁の地位についたが、その時、彼は「資産供給の予猶がないこと、病躯ゆえに、できるだけやるつもりだが、その辺のことは理解してほしい」という条件を出して、総裁をひきうけている。
 病気だから、あまり期待しないでほしいとか、実弟を住友財閥の養子にしていながら、資産供給のことはかんべんしてほしいとか言うに至っては、一体どこまでやる気があるのかと問いたくなる。しかし、原は、それでもよかったのである。西園寺の名前が、明治天皇と気やすく話せる地位にある西園寺が欲しかったのである。それは、原が山県と、薩長閥と対抗するために欲しかったものである。シャッポに座ってくれればよかったのである。
 だが、岩倉具視が期待し、華族のホープと思われていた西園寺が、何故にやる気をなくしたのであろうか。どうでもいいという気になったのであろうか。

 十年間の徹底したパリ生活……自由思想を学ぶ

 三才で侍従になり、十三才のとき従三位右近衛中将となった公望は、十九才の時、明治新政府の参与となり、ついで、幕府討伐の総督となり、会津戦争などにも参加している。やがて、新潟県知事になったが、外国留学の志をたてて、明治三年の冬、パリについた。
 丁度、パリ・コンミューンの時である。しかし、その支配も二ヵ月で反革命のために葬り去られるわけだが、当時、西園寺は「政府の兵が四方に散じて賊を捕う。捕うればことごとくこれを殺し、その屍が道に横たわっている」と報告している。この時、彼はコンミューンを賊とみているのである。だが、コンミューンから、第三共和国憲法の成立をへて、王党派を共和派が制圧するまでの十年間、親しくフランスの国情をみてきた西園寺の思想はどんどん変っていった。
 まず、革命思想家ルソーの弟子であり、カール・マルクスの友人であるエミール・アコラスについて政治思想を深く学んだことである。そして、同じアコラスの門人クレマンソーとも親しく交わった。クレマンソーから頼まれて、スイスのジュネ一ブから発禁本を買ってかえるということもやった。後に、彼は「今はその時代ではないが、フランスがあまり武権政治にかたむくときは、今後とても、アコラスの流れをくむ者が復興するであろう」というほどに、アコラスを評価している。
 西園寺のパリにおける私的生活もそれにおとらぬほど徹底していた。彼はその下宿屋に女をつれこみ一方で猛勉しながらつかれてくると女とたわむれるという有様であった。ねむけさましでもあったのである。アルバイトなどして得た金は皆カフェにつぎこむという徹底さである。ある時など、レストランであやまって窓ガラスを友人がわった。ボーイの不機嫌さをみた西園寺は代価を払えばよいかという。ボーイは勿論いいという。それをきくや、窓グラスを全部ステッキでわるという出来事もおきている。要するに、西園寺は徹底した男であった。中江兆民と会ったのもこのパリである。

 “勅命”によって東洋自由新聞を辞職……夢と理想を捨てる

 明治十三年十月、西園寺は帰国した。先に帰っていた中江兆民は彼に大きな期待をかけていた。中江からパリにいる西園寺への手紙には次のように書かれていた。
「大兄は気力があり、智術がある。日本頑陋といえども、自由の精神を伸張しなければならない。僕は大兄に望みをかけるのでなければ、一体誰に望みを託したらいいのだろう」
 西園寺が帰国して半年後の明治十四年三月には『東洋自由新聞』が創刊されたのである。西園寺が社長、中江は主筆である。そのほかにも、光妙寺三郎、松田正久などのパリ仲間が名を連ねている。
 自由民権運動が非常な勢いで伸展しているとき、西園寺が東洋自由新聞の社長になったということは、政府にとってはとんでもないことであった。岩倉は早速人をやって辞職をすすめた。勿論、彼はきかない。すると、岩倉は今度は明治天皇の内勅によってとめようとしたのである。それも、西園寺の兄徳大寺宗則を通して内達させたのである。この時、宗則は宮内卿。
「先般東洋自由新聞発行につき、貴下その社長を担任せらるる趣、右は主上思しめしを以て退社いたさるべく、御内勅これあり。即ち宗則より御内達に及び候なり」
 さすがの西園寺も勅命をはねかえす力はなかった。しぶしぶ、社長をやめて、政府に妥協する。西園寺の徹底的な敗北であり、挫折である。一度挫折した者はなかなか、それから立直ることはできない。こうして、西園寺は三十三才で挫折し、十年間かかって掴んだ自由を捨ててしまうのである。夢と理想を捨てた人間がやる気をなくし、なげやりになるのもむりはない。
 明治二十九年文部大臣の時、国家主義的な教育方針に反対し、世界の大勢に応じた教育方針をとるべきだと説いたとしても、夢と理想をすてきれぬ西園寺が時に正論を吐くという程度のものでしかなかった。生命を賭けて、東洋自由新聞の社長の地位をまもらなかった西園寺に、あるべき教育方針を貫くために全精神をかたむけられる筈もない。
 原敬はそれを承知で西園寺を利用し、西園寺もそれを知りながらシャッポになることをひきうけたのである。「西園寺流の内閣をつくってみたい」という思いを胸に秘めたこともあるが、そのために努力するでもなく、つくった内閣は最も西園寺らしからぬものであった。しかも、七年間にわたって、桂太郎となれあうという最低のことをするのである。
 陸奥宗光は、西園寺を評して「余り単純にて不熱心且つ周到の意志なく、骨の折るること限りなし」という。こんな男が総理に、しかも二度までも総理をする。日本という国は奇妙な国である。

 

                  <雑誌掲載文3 目次>

 

「原敬 政治姿勢を誤った平民宰相

 

 大正十二年(1921)十一月四日午後七時二十五分、原敬は、東京駅で鉄道省大塚駅勤務の中岡良一(十八才)の兇刃に仆れ、再び起たなかった。中岡は、原を仆した理由として、アヘン密売事件、満鉄事件、東京市疑獄事件などをあげ、原を仆せば、世の中は少しはよくなると述べたが、この頃の彼は、平民宰相原の名前とは全く異なって、悪の根源である観を呈していたといっても過言ではなかった。
 即ち、原は、大正七年九月二十七日に内閣を組織して以来、一貫して、民主主義的潮流を抑圧する一方、原の腹心が次々と疑獄事件をおこした時、その権力を利用して、検察当局に圧力をかけるということをやってのけたのである。それは、東京大学助教授森戸辰男の論文が問題になったときに、彼は「近来大学教授ら非常識にも過激危険の論をなし、声名をてらうの風あるは如何にも国家のために好ましからざる事に付、厳重の措置を取る事可なりと思う」といって森戸が朝憲紊乱の理由で起訴されることを望んだことや、浦賀ドック争議には「いやしくも不穏の行動をなす者には、取締上仮借せず、而して資本家に於ても、一時の安きを求めんが為に、他に影響を及ぼすが如き処置をなす事は、政府に於ても好まざる所なり」と訓令していることでもあきらかである。原には普通選挙法を実施し、民主主義的方向に日本をもっていくことは、全くがまんならないことであったのである。そればかりか、原の腹心が関係した数多くの疑獄事件を議会で追求きれたとき、絶対多数をたのんで、事実無根とか、知らぬ存ぜぬと言い通したのである。
 摘発にのりだした検察当局への彼の言葉が、ふるっている。「元来、かくの如き事件は、選挙違反同様に、拡大すればする程、際限なき犯人見出すべし。犯人もとより宥恕すべきに非ざるも、他の一面より之を見れば、却て人心に好影響を及うべしとも思われず。……此回の事件には不幸にして、政友会系の者多き様子なるが、これ政友会系の者多く実権を握り居る為めに外ならざるも、之がために政友会一般に累を及ぼす次第なれば、公明正大なる処置を要する事必要なるも、只之が為、彼らに拡大するが如き事あっては、却て人心を悪化するが如き反動もあり」という頃の原の言葉は、今日の政治家と少しも変らない。全く奇妙な論理である。だからこそ、原暗殺を告げる号外売りは、万歳、万歳と叫んで売り歩いたとまでいわれるのである。
 たしかに、原は、始めての平民宰相であったし、政党政治の確立に巨歩を進めた。しかし、藩閥政府に対抗する内閣をつくろうとして、あまりに心を奪われすぎて、いつか、藩閥の巨頭山県有朋と野合して、なにがなんでも内閣を組織しようとした。それが、ついには、政治姿勢を誤り、その腹心たちを疑獄においやるのである。そういう点では、原は生きて恥をさらすよりは、むしろ死んだ方がましであったということもできよう。生きていれば、今日に残っている平民宰相というはなばなしい言葉もなかったのではあるまいか。

 家老の家に生まれて苦学……藩閥をにくむ

 だがそういう原も、始めはどこまでも山県に対抗し、藩閥勢力を駆逐しようとした。彼の全エネルギーはそれにむかって奔流した。
 御承知のように、原は南部藩の家老の家に生まれた。その南部藩は奥州列藩同盟に加わって、官軍に抵抗した。当然南部藩の状況は最悪となる。原も家老の息子という恵まれた条件を失い、衣食の心配までしなくてはならなくなる。原が上京して勉学するために、母親は、家屋敷を売払うという有様であった。藩閥勢力を憎んだのもよくわかる。
 だが、そうして作った学資も長く続かなかった。郷里の親戚が援助を申しでたが、彼はそれをことわっている。あくまで、独立独行しようという覚悟である。学校を退いた原は、フランス人の経営する伝導師養成所に入った。一切無料であったためである。ここで、藩閥憎しの心をいよいよ培ったのである。その後、家計が持ち直したこともあって、司法省法学校に入学した。だが、在学三年のとき、賄征代に関係して、退学させられる。官史になる道をとざされたのである。原はやむなく、報知新聞の記者になる。
 当時、報知は、福沢諭吉の門下でしめられ、政府枇判の先頭にたっていた。原の主張とも一致する。だが、わずかに三年で、報知をやめて、政府の御用新聞大東日報に移る。これは、彼の変節といえるのかどうか、非常に微妙なところであるが、要するに、原は日のあたるところが好きらしい。まもなく大東日報をやめて、次には、外務省に入る。それこそ、原が求めてやまなかった役人になれたのである。それも、藩閥の中心にいる井上馨の懐深く飛び込むことによって得た地位である。藩閥を仆すためには、藩閥の懐に深くくいこむ必要があるとでも考えたのであろうか。それ以後の原の道は、文字通り、順風満帆ということができる。

 黒紋付白足袋の内相……山県閥の一掃に力をそそぐ

 桂太郎と取引きし、西園寺公望をシャッポにかついで、徐々に首相への地盤をきずいていったことは、前号に述べた通りである。この頃の彼には、山県を仆そうという意欲も十分であったし、現に、内務省に巣食う山県閥の一掃には力をそそいでいる。
 まず、内相になった原は、黒紋付白足袋という姿で登庁した。それまでの大臣といえば、すべてフロックコートに勲章略綬着用である。そういう姿で、山県の本拠内務省にのりこんだのである。というのは、板垣内相時代をのぞいて、大臣か次官のうち、どちらかが山県直系でなかったことはないのである。その板垣もわずか百日の生命でしかなかった。いかに、山県の勢力が強固であったかということがわかる。原は就任と同時に、主要ポストを腹心でかためた。省内が、この人事を冷眼でむかえたのも無理はない。だが、原はそれを無視し、更に総理大臣と内相に両属ということになっていた警視総監を内相直属にあらため、警察権を完全に掌握した。総監が彼の腹心であったことは勿論である。
 次には、山県系の知事六名、事務官三十余名を休職にし、新進事務官を抜てきした。同時に、知事や事務官の年俸をふやし、巡査の俸給もあげた。そうなると、知事から巡査にいたるまで、原に従うようになる。
 山県の息がとくに強くかかっていた内務官僚の水野錬太郎や小橋一太まで、ついには忠実な子分になる。しかも、こういう改革を、すべて、原は山県の許可をとりつけてやってのけた。無能を有能にかえねばならないという山県の言質をとっておいて、あとは無能の材料を知事や事務官に発見すればよかったのである。さすがの山県も口をさしはさむことができなかったのである。こうして、一つ一つ、山県の情実人事をたちきっていったのである。

 

                  <雑誌掲載文3 目次>

 

「山本権兵衛 二度目もつまずいた海の猛将

 

 大正二年二月、第三次桂内閣が憲政擁護運動の攻撃をうけて、わずかに五十余日で政府を投げだした後に、政友会の協力を条件に内閣を組織したのが山本権兵衛である。権兵衛といえば、明治三十一年から明治三十九年の六年間も海軍大臣のポストに坐りつづけて、海軍の充実に努力し、日露戦争の勝利を日本にもたらした男であることは、御承知の通りである。その事実がしめすように、海軍軍人としての権兵衛は誠に卓越していたし、豪胆そのものであった。勿論、鹿児島に生まれたということは幸いしたが、彼が海軍大臣となり、首相になったのには、それだけの力倆が十二分にあったということがいえる。
 海軍少佐のころ、大臣伝令使という役になったときのことである。権兵衛は、ある日、海軍大臣西郷従通からある調査書を作成するように求められた。彼は苦心して作成し、大臣に提出した。大臣は一週間ぐらいして、それを権兵衛に返してきた。その時、彼は大臣に「わかりましたか」ときいたのである。大臣が「わかった」と答えると「そんなはずはない」ときりかえしたのである。大臣は、それならともう一週間あずかったのである。一週間して、その調査書をつきかえされたとき、権兵衛は「わからなかったでしょう」ということをいっている。彼が西郷従道の殊遇をうけるようになったのはこの時からである。
 明治二十八年、海軍少将となり、海軍省軍務局長になってからのちは、“権兵衛大臣”といわれるほどに、海軍の軍政は権兵衛を中心に転回しはじめた。明治三十一年中将に進むや、その暮には、次官を飛びこして、一きょに海軍大臣となる。それから彼は、唯一つ、日露戦争を目標に海軍部内の充実にあたるのである。日本海海戦の智将東郷平八郎を閑職から起用したのも彼である。
 だが、山県有朋が陸軍内部に山県閥をつくり、ついに、その閥は政界にまでおよんだのは、よく知られているが、権兵衛が海軍のなかに権兵衛閥をつくリ、海軍を独占したことは意外に知られていない。彼は、無能な将官を整理するということを積極的に推進したが、他方では、それが権兵衛閥をつくるという意図も十分にあったのである。彼は進んで、鹿児島出身以外の斉藤実、加藤友三郎なども起用し、その勢力の扶殖につとめたのである。それにつけても、明治時代に海軍大将になった者のうち、鹿児島出身者以外は一人にすぎなかったことを見ても、奇妙な形であったことが考えられよう。

 シーメンス事件……信用度高かった内閣を投げだす

 桂が護憲運動に追いつめられた二月十日、権兵衛は、桂の家におもむき、桂に辞職をすすめている。「山県と桂で、政治をゆがめている」とつめよるのである。しかも、彼は、その足で政友会本部を訪ね、西園寺公望を激励している。ここから、彼と政友会の関係も生まれるのである。だから、山本内閣ができたときには、原敬内相をはじめ、松田法相、元田逓相、高橋蔵相、山本農商相、奥田文相、すべて政友会という有様であった。これでは、政友会内閣と少しも変らない。政治家権兵衛は、何のために生まれたのか一寸わからない。それでも、政友会のシャッポとして、政友会のすすめる行政整理、財政整理をやってのけ、陸海軍大臣の現役制を廃止したりする。このために、山本内閣の信用度がたかまったことも事実である。
 しかし、思わぬところから山本内閣をゆさぶることがもちあがった。シーメンス事件といわれるものである。シーメンスの社員が、シーメンスが日本海軍の高官に贈賄したことをすっぱぬいたのである。このことがきっかけとなり、海軍の高官が次々に逮捕された。こうなると権兵衛閥で海軍をぎゅうじっていた権兵衛としては、当然責任を負わなくてはならなくなる。
 こうして、彼は内閣を投げだし、ついで、予備役に編入されたのである。わずか一年あまりの期間である。当時の汚職がいかに規模の大きいものであったかは、判決で、松本中将が懲役三年追徴金四十万九千八百円、藤井少将が懲役四年六月追徴金三十六万八千三百六円、沢崎大佐懲役一年追徴金一万一千五百円である。今の金額になおせば、約十憶になる金である。親分である権兵衛のところにいかなかったという保証は少しもない。

 大震災の最中に第二次山本内閣を組織、これも虎の門事件で挫折

 権兵衛は、もう再びたつこともないと思われたが、海の猛将は、再び大正十二年九月、大震災の最中に第二次山本内閣を組織する。第一次内閣といい、第二次内閣といい、非常の時に組閣したことを思えば、案外、彼は清廉の人であり、汚職には無縁であったのかもしれない。
 第二次内閣の内相は、政界のダークホースといわれた後藤新平であり、逓相は、革新倶楽部の犬養毅である。今度は、政友会を敵にまわしたのである。帝都復興にとりくんだ後藤内相の決意と抱負はなみなみならぬものがあった。基本方針として、遷都しない、復興費三十億円、欧米最新の都市計画を採用する、地主にたいして断乎たる処置をとることをきめた。
 しかし、政財界の長老を集めた帝都復興審議会がまず後藤案に反対し、復興費はついに十二億にけずられ、思いきった道路計画など次々に後退した。政友会が議会で、その計画に反対したことはいうまでもない。この時、アメリカの政治学者C・A・ビーアド博士は書いた。
「世界の眼は後藤の上にある。彼が失敗するならば、それは日本の失敗である。十年ないし五十年後に来るべき第二の危機は、さらに広汎にして戦慄すべき大災禍を誘発し、子孫たちは彼を一員とする内閣を呪うであろう。この危機にあたって、将来人命財産の喪失を防止すべき計画をたてることは、理想でなくて実際である。この事業は金銭に引き合う事業である。私は人類の友として、日本人の友として、また貴方の友として切に勧告する。……
 貴方の決断は、数百万民衆の運命と史上における貴方の地位とを決定するであろう」と。
 だが、後藤は、ビーアドの意見をいれず、政友会と妥協し、その計画は消滅した。同時に、山本内閣も、この直後におきた虎の門事件の責任をとって、内閣をなげ出した。虎の門事件とは、難波大助による摂政襲撃事件である。第一次山本内閣といい、第二次山本内閣のときといい、内相その他に有能な人を得ながらも、結局は、思わぬ事件のために挫折する以外になかったのである。その意味では、気の毒な政治家ということになるのかもしれない。
「我が経綸を十分に行なうことができなくて残念だ」というのが、第二次内閣をなげだした時の彼の言葉であるが、それは、恐らく、彼の衷心からの感想であったであろう。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「大隈重信 期待裏切った初の政党内閣

 

 明治三十一年六月、日本で始めての政党内閣を組織したとき、大隈重信によせる、国民の期待は大きかった。これで、日本の政治は大きく変るのではないか。藩閥政治にかわって、政党政治は大きく一歩前進するのではないかと。それというのも、明治十四年の政変以来、改進党あるいは進歩党の党首として、大隈が、一貫して、政党政治の樹立を叫んでいたからである。
 まして、同じ政党政治、世論政治の樹立をかかげて戦う自由党と合併し、憲政党を発足させての内閣首班である。人々が期待したのも無理はない。
 だが、伊藤博文から、次期政権を担当するように要請されたときに、大隈は、意外にも次のようにいっている。
「貴方のにわかの辞職はまことに意外であった。これまで、薩長が国家に対して尽してきたところは非常なものであって、時勢が移ったからといって、吾らが政権を担当して果してうまくゆくかどうか案ぜられる」
 旧自由党の党首板垣になると
「大隈伯がひきうけるというのであれば、私は旧自由党をあげて、伯の手にゆだねるつもりである。私自身はとても政権を担当する器ではない」
 と答えている。
 外交辞令としても、一寸自信がなさすぎる。政綱をかかげて、花々しく新発足した憲政党の両首脳の言葉としては寂しい。しかも、衆議員の半数以上をにぎる大政党の首脳としては。
 政党政治を毛嫌いし、折あらば、隈板内閣の崩解をねらっている山県有朋一派に、その弱点がかぎつけられぬわけはない。しかも、そのために、わざわざ、天皇の命令という形で、子分桂太郎を陸相として送りこんでいた山県一派である。こうして、隈板内閣の崩解は、桂を中心にすすめられる。
 きっかけとなったのは、外相のポストをめぐって、大隈と板垣が対立したことにある。大隈と板垣とは、そろいもそろって、隈板内閣の崩解をねらっている桂太郎に相談し、桂を味方にひきいれようとしたのである。策士桂が、それをにがすわけはない。結局、大隈は桂の手中におちて、わずか半年で、内閣を投げだすことになる。勿論、憲政党も半年で分裂する。
 あまりにも、準備不足のまま、政党政治は出発し、政党政治は大きな打撃をうける。だが、伊藤博文が、これからは、政党の時代であると考え、山県たちの反対をおしきって、政友会結成にのりだすのも、この直後である。

 政治権力から遠ざかり、党首の地位からも離れて早大総長に

 明治三十三年、政友会が結成されると、旧自由党系は、これに吸収され、その後は常に、政府与党として、陽のあたる道を歩きつづけた。勿論、そのときに、板垣は見捨てられた。だが、大隈は、憲政党から分裂した憲政本党をひきいて、政治権力から遠ざかりながらも、その余命を保ちつづけた。それは、文字通り、余命を保ちつづけたというに近かった。党員の中には、大隈にかわる党首による再建を考える者、伊藤博文の傘下に入ろうとする者までいた。
 だが、それも、結局は党員の大隈への不満にあった。それに輪をかけるように、大隈も党員を裏切るような言動をした。その一つに、憲政本党の意見を無視して、西園寺政友会内閣に賛意を表し、そのために、党幹部から、注意されたということがある。勿論党内はいよいよ、動揺する。その結果、明治四十年、大隈は、自ら、終に党首の地位を去るのである。
 その後、まもなく、早稲田大学総長に就任した彼は、就任の挨拶に
「本校は創立以来、一つの理想を有するのである。それは学問の独立ということである。学問の独立とは自由研究を意味し、また道徳上の意義を含蓄している。本校は二十五年来、実にこの理想の上にたってきたのである」
 と述べ、政治的実践で果さなかったものを更めて、大学教育の根本から、とりくむ意欲をみせた。しかも、彼が取りくんだのは、大学教育ばかりでなく、国民教育そのものでもあった。だから、各地への演説旅行は、党首時代よりも、かえって、多いという有様であった。

 大正三年再び組閣、勇将のもとに弱卒なし……と所信表明

 このように、平安な生活を送る大隈、七十七才の老大隈に、政権が再び、ころがりこむことになったのである。大正三年四月のことである。政界への野心が完全になくなっていない大隈につけこむように、その政権は彼のものになったというのだから、皮肉といえば皮肉である。勿論、大隈は、全国にもりあがった憲政運動で、桂内閣が崩解したあとに成立した山本内閣をも、桂内閣と同様に無為無策と攻撃している。そして、護憲運動の側に立って、参政権を拡張すべしと強調していたのである。
 元老の井上馨、山県有朋、松方正義たちは、シーメンス事件で責任をとって崩解した山本内閣、その与党であった政友会をこの機会に徹底的に追撃し、あわせて、護憲運動を抑えようとして、大隈を起用することにきめたのである。いってみれば、政友会に反感をいだく大隈、護憲運動に味方をする大隈を利用したにすぎない。勿論井上馨は、大隈に、政権担当にあたって注文することを忘れない。それは、世論の良否に影響されないで、大臣を選んでほしいということと、政友会を徹底的に打破してほしいということであった。そのためには、井上達も協力するというのである。
 そのために、大隈は、組閣にあたり、山本内閣の打倒に努力した尾崎行雄を起用しただけで、世論の圧倒的支持を得ていた島田三郎は起用できず、かわりに、山県の子分大浦兼武を起用する。大隈自身、そのことを気にしていたとみえて、組閣のとき、新聞記者連中を前にして「諸君、吾輩を信ぜよ。今回の内閣組織に関して、諸君の意に満たざるもの或はこれあらん。しかも、勇将のもとに弱卒なし。諸君は新に成立すべき内閣が、大隈内閣たることを忘るるなかれ。新内閣が、果して、如何なる経綸をさげて、如何なる手腕を示さんとするかをみよ」と語った。
 それは、いつわらぬ大隈の気持であったかもしれない。政治というものがむずかしいのか、政権への亡者として、準備もなく、唯もう政権の座についたためか、それをにわかに区別することはできないが、大隈内閣がなしたことといえば、大正四年の総選挙で、大浦内相の手で、選挙の大干渉が行われ、政友会は206名から、一挙に104名に減ったこと、その大浦は、更に政友会議員を買収し、その責任をとったことである。たしかに弱卒でなかったが、とんでもない強卒でった。今一つは、中国に対する「二十一ヵ条要求」である。それが後に、日支事変の導火線になったことはいうまでもない。全く、妙ちきりんな政策であったということになる。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「加藤高明 日本を前進させた普選法成立 

 

 苦節十年という言葉があるが、その十年の雌伏の後に、やっと、総理の地位についたのが加藤で、その内閣は、大正十三年六月から大正十五年一月まで、約一年八ヵ月間つづいている。
 その期間に、護憲運動を指導した政党の党首として、内閣を組織した加藤は、不完全ながらも、全国民が希望した普通選挙法を成立させる。これは、女性の選挙権ばかりか、多くの制限をうけて、すべての男性に選挙権を与えたものではなかったが、なんといっても、日本の大きな前進であった。
 だが、法案の趣旨説明にたった加藤が「広く国民をして、国家の義務を負担せしめ、固く国民をして政治上の責任に参加せしめ」と述べたように、加藤首相は、国民の権利の拡張を喜ぶというより、国民の義務と責任を強調した。その後に、普通選挙法とともに、治安維持法を同時に成立させたのである。新聞や国民の多くがこれに反対したことはいうまでもない。
 しかし、それにしても、普選法の通過は、日本にとって輝かしい勝利と前進であったということか出来る。
 今一つ、加藤内閣の業績の大きなものといえば、幣原喜重郎を外相に起用して、これまでの軍隊による干渉という中国に対する積極政策をやめて、アメリカ、イギリスとの友好関係を真剣に考えたということである。そのことは憲政会(与党)の幹部に「支那の前途は極めて困難である。これについて、我国の立場を確保するとともに列国との関係を十分考慮するつもリである。抜けがけの功名をする如きは、幾多の失敗の前列がある。非常な注意を要する」と語ったことにもよくあらわれている。そして、六年間、国交断絶状態にあったソ連とも国交を回復する。こうした政策は、加藤内閣への評価をたかめることになったが、当の加藤自身は総理の激務にたえられず、総理の地位についたまま、六十七才で病死してしまう。

 三菱から外務省へ……三十三才で大蔵省主税局長となる

その加藤が生まれたのは、安政七年(1860)。尾張藩士加藤の養子となって、明治六年には、単身上京して、東京外国語学校から東京大学へと進学。卒業と同時に三菱に入社。学士入社の第一号である。当時、神田の下宿から、茅場町にある三菱本社に、毎日前だれで通ったという。
 岩崎弥太郎の娘春治と結婚したのが明治十九年。こうなると、三菱における加藤の将来性はいよいよ確実になったとも言えるが、彼はそれがいやだったのかもしれない。結局、結婚した翌年に、三菱をやめて、外務省に入る。
 大隈重信外相のとき、秘書官兼政務課長になり、大隈を積極的にたすけるが、大隈が辞任するとともに、彼も外務省を去る。だが、まもなく、松方正義蔵相に招かれて、文書課長、つづいて、銀行局長、主税局長の要職を歴任する。その時、加藤はわずかに三十三才であった。
 明治二十七年、日清戦争がおこると、今度は陸奥宗光外相に迎えられ、再び、外務省にかえる。彼がとりくんだ問題は、政務局長として、朝鮮問題をどうするかということであったが、その後、まもなく、駐英公使となり、日英同盟の基礎をつくってゆく。
 加藤の能力と手腕、ことに、骨の太さは多くの人々が認めるところになった。こうして、第四次伊藤内閣の外相になる。四十二才の時である。彼は、若さにまかせて、いろいろのことに手をつける。アメリカが中国に対し福建省租借を要求しているのを妨害し、ロシアの南下政策にも強い態度で反対しているなどがそれである。
 明治三十七年には、東京日日新聞を経営している。世論を指導して政治をする、という姿勢は加藤から始まったといえる。
 その後、西園寺内閣の外相、第三次桂内閣の外相などをつとめた後、桂が総裁をしている立憲同志会に入党する。大正二年四月のことである。当時、後藤新平、河野広中などがいたが、その十月、桂が死ぬとともに、月末には、後藤が脱党する。党の再建案で、意見があわないというのが、後藤脱党の弁であるが、このことが、かえって、加藤を立憲同志会に深く結びつけるのである。

 政党内閣実現に向って行動開始、雌伏十年ののち護憲三派による連立内閣組織

 大正二年十二月、立憲同志会の党首となった加藤は、政党内閣の実現にむかって徐々に行動を開始する。まず、シーメンス事件の責任をおうて瓦解した山本内閣のあとをうけて、大隈内閣が成立すると、加藤は副総理格として入閣する。勿論、外相のポストである。そして元老山県達の勢力の削減をはかる。だが、大隈内閣が仆れるとともに、加藤と立憲同志会にとって、永遠に政権への夢は消えたかのようにみえた。
 その間、陸奥外相のもとに、ともに局長としての手腕をふるった原敬内閣も出来たが、立憲同志会改め憲政会に、政権がまわってくる気配は少しもなかった。 こうして寺内内閣、高橋内閣、加藤(友)内閣、第二次山本内閣、清浦内閣と十年間つづいたのである。だが加藤は、根気よく、まちつづけた。
 貴族院中心の清浦内閣が出来たとき、国民の護憲運動は、大正初年の護憲運動より、更に強力であったということが出来る。各新聞社は、普選即行の内閣を要求した。憲政会や政友会、それに、犬養毅のひきいる革新倶楽部は、そういう国民の声を背景にして清浦内閣成立直後に、三党代表者会議をひらき……
一、憲政を擁護し、議会政治の確立を期するために、将来一致の行動をとる。
一、当面の問題として、清浦特権内閣に反対し、これを倒して、政党内閣の樹立を期する。
 ということが決議された。
 そして、五月の選挙にむかって、三党は積極的に遊説活動を開始したのである。加藤も憲政会の総裁として、一日に数回から、十数回におよぶ精力的な演説をしてまわった。
 当時の彼の演説は、
「実は、私は加藤鯛一という人を平常から余り知らない。思うに、たいして偉い人ではなかろう。故に、私は諸君に対して“加藤鯛一氏個人に是非投票して下さい”と頼むことは欲しない。私の良心が許さないように思う。しかし、憲政会の一代議士候補加藤鯛一君にはぜひ御投票を願うと切言したい。なんとなれば、氏の当落は憲政会の得失に二人分の作用をするし、あるいは、その当落によって、憲政会が政権を得喪することもあり得る。これは、即ち、この加藤高明に政治をさせるかどうかを左右するものである」
 というようなものであった。正直といえばいえるが、その自信、その不遜は相当なものである。
 政党か人かという問いは、今日の問題でなく、すでに、大正時代から、鋭く問われていたといえる。選挙の結果は、政府与党の政友本党は149名から114名に減り、憲政会は103人から一挙に153人に増加し、護憲三派が勝ち、加藤が内閣を組織することになる。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「浜口雄幸 節約で命を失ったライオン首相

 

「ライオン首相」のニックネームで、国民に親しまれていた浜口雄幸が、東京駅頭で右翼のために撃たれたのが、昭和五年十一月十四日。撃たれた理由というのが、海軍軍縮であり、統帥権を干犯したというもの。それをきっかけとして、この頃から、日本中に血なまぐさい空気が急速にただよい始める。ちなみに、犬養毅首相が殺されたのが、その一年半後である。
 民政党の総裁として、出来得るかぎり、国民の政治をやろうとしていた浜口の死は、その意味で象徴的であったといえる。

 加藤護憲内閣の蔵相となり、財政たてなおしに異常な意気ごみを示す

 浜口は明治三年高知に生まれ、明治二十八年に、東大法科を卒業し、大蔵省に入った。しかし、大蔵省時代の浜口は、あまリパッとしない。後藤新平にみこまれて、その次官になった頃から、徐々に頭角を出し始める。
 衆議院議員になったのが四十五才。それからの浜口は、憲政会に属して、加藤高明とともに党人としての苦労をとことん積む。
 第二次護憲運動では、加藤とともに、その先頭にたって戦い、ついに、清浦内閣を倒し、加藤護憲内閣を誕生させ、浜口自身は、蔵相のポストにつく。十年間の苦節の後に、獲得したポストである。勿論、今日の大臣のように、浜口には大臣になることが終局の目標でなく、蔵相としての識見を具体化することがねらいであった。
 彼には「日清戦争以来三十年の増税の歴史は戦争と軍備拡張の歴史である」と思われたし、この悪循環をどこかで断ちきる必要があると思われたのである。だから、蔵相となった浜口は財政のたてなおしに、異常なほどの意気ごみをしめしたのである。
 即ち、浜口は就任早々、大正十三年度の予算の節減を実施するとともに、翌年の予算でも軍部の抵抗を排除して財政の整理をすすめる。ことに、これまで、時の権力者によって政略的に利用されていた大蔵省預金部の資金、それ故に、国民の前に、公表されることのなかったのをやめて、はじめて、国民の前に公表したのである。彼が、議会の権限の強化をねらったことはいうまでもない。
 だが、なんといっても、加藤護憲内閣は、憲政会、政友会、革新倶楽部の連立内閣である。清浦内閣を倒すために協力した三派も、加藤内閣を誕生させた頃から必ずしもうまくいかなかった。まして積極財政即ち戦争と軍備拡張をおしすすめる政友会をかかえていては、浜口の財政政策もうまくいかない。結局、政友会の策動にあって、加藤内閣、つづく若槻内閣も倒れるしかなかった。勿論、次期内閣首班は、田中義一政友会総裁である。

 民政党誕生、総裁に着任……鈴木喜三郎内相の激しい選挙干渉にあう

 野に下った憲政会は、態勢をたてなおそうとして、政友本党と合同し、党名も、政党と名づけ、総裁には、浜口を選出した。政党の危機がささやかれ出した時点で、まがりなりにも、国民の総意を議会に反映させようとする政党が誕生したのである。民政党は、これで、議席数が政友会をうわまわった。そうなると、田中内閣も選挙で民政党と斗う以外にない。こうして、国民待望の第一回普選が田中内閣のもとで実施されたのである。
 鈴木喜三郎内相が「民政党のとなえる議会中心主義はわが国体に反する」と言い「選挙干渉といわれても、ひるまずに取締れ」と指令を出したのは、この時である。いかに激しい選挙干渉が行なわれたかが想像される。
 その結果、政友会は第一党となり、民政党は二人差で、惜しくも第二党となった。民政党は中立諸派と協力して、鈴木内相選挙干渉弾劾案を提出し、政府を追いつめた。民政党は所属議員をかんづめにし、政府の停会による議員きりくずしに対抗するという戦術をとり、終に、鈴木を辞職においこむ。
 そして、悪名高い治安維持法の改正案なども審議未了にもちこんだ。最高刑も死刑にするという改正案である。結局、田中内閣は、この改正案を緊急勅令で公布するという暴挙をする。しかし、浜口を総裁とする民政党の急追に、田中も黙っていない。政友会の久原房之助をつかって、まず床次竹次郎を、ついで小寺謙吉を買収し、民政党から脱落させる。そのために三十数名が、床次、小寺と行をともにし、この結果、第五十六議会では、浜口は、田中を追いつめることができない。
 やっと、張爆死事件の責任をとって、田中首相が内閣をなげだして、浜口に首相のポストがまわってくる。しかし、それは、浜口自身、田中を倒して得たものでなく、転がりこんだ地位であった。いうなれば、彼の力で戦いとったものではない。そこに、私自身、浜口の姿勢に、日本の政治にとりくむ姿勢に、何か欠けるものをみるのである。

 東京駅頭の悲劇を呼んだ緊縮財政……民政のための海軍軍縮

 勿論、浜口は、蔵相時代につづいて、緊縮財政をとり、海軍軍縮をたてまえとした。浜口首相の署名入りのビラが全国にばらまかれた。緊縮節約は固より最終の目的ではない。これによって、国家財政の基礎を強固にし、国民経済の根底を培養して、他日大いに発展する素地をつくらんがためであります。明日伸びんがために今日縮むのであります。これに伴う目前の小苦痛は、前途の光明のためにしばらくこれを忍ぶ勇気がなければなりません」
 田中政友会内閣の放漫政策、積極政策に苦しんでいた国民は、民政党を支持した。第二回普選でも「浪費か節約か」をかかげて戦う民政党内閣を国民は圧倒的に支持した。
 しかし、一方で、国民の中には、アメリカ、イギリスの圧力をひしひしと身に感ずるものが増えていた。そうなると、なんといっても海軍であり、海軍の拡張である。しかも、浜口は、断乎たる海軍軍縮案の持主である。民政のために、海軍を犠牲にしてもやむを得ないという考えである。
 こうなると、海軍を拡張して、英、米に対抗しようとする人々と浜口は真向うから対立することになる。海軍を拡張しようと考える人々には、浜口ほど、邪魔になる存在はない。こうして、東京駅頭の悲劇がおとずれるのである。このために、浜口が精魂こめてとりくんだ労働組合法案や婦人公民権法案など、すべて、審議未了のままに終わる。
 浜口は、首相のポストを拾った、とさきに書いたが、浜口が日本の運命をかえ、その進路をのばすためには、何かが必要であったように思う。その何かを欠いたまま、首相になった。とすれば、ますます、日本の運命を行きづまらせる以外にないであろう。しかも、自分の生命までも犠牲にして。あわれというしかない。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「寺内正毅 左手一本でかためた軍閥政治

 

 山県有朋、桂太郎、田中義一とつづく、長州閥、山県軍閥の系列の中で、桂のあとをつぎ、そのバトンを田中にひきわたしたのが寺内正毅である。その意味では、軍人政治家として、代表的人間であったということもできる。
 桂は弘化四年(1847)乃木希典が嘉永二年(1849)寺内は、児玉源太郎とともに嘉永五年(1852) の生まれである。初め、山田顕義、品川弥二郎の指導をうけ、ついで、大村益次郎に認められる。
 西南戦争には、近衛連隊の中隊長として参加、田原坂の戦闘で、右手を負傷する。普通の大尉であったら、右手のつかえない軍人として、当然、廃兵になったろうが、寺内は長州出身として、先輩の保護の下に、左手で敬礼しながら累進したといわれている。しかし他方には、その才能を惜しまれて、現役にとどまることができたともいわれている。真相は、明かでないが、軍隊創設期のことで、人材を必要としたことはあきらかであるから、その才能を惜しんで、現役にとどめたということがあたっているかもしれない。極端にいえば、右手でなくても、陸軍の仕事は十分につとまるのである。

 日露戦争で陸相としての声価あがり、軍閥の中心的存在となる

 こうして、寺内の陸軍省中心の勤務がはじまる。彼が、頭角をあらわすのは、明治三十一年、初代の教育総監になった頃からで、明治三十三年、参謀総長大山巌の下で、参謀次長になった頃から、次第に、彼の存在が世人に知られはじめる。明治三十五年三月、桂内閣の陸相に就任してから、日露戦争をやってのけたことにより、彼の声価はますますあがる。
 九年五ヵ月も、陸相の位置に坐りつづけたということが、このことをよく物語っている。明治十八年の内閣制度実施以来、こんなに長く、一つのポストに坐りつづけた者はいない。
 児玉源太郎が、後任陸相として、寺内を推すとき「寺内は、私のように盲判を決しておさない。だから、事務は決して間違いない」と言ったそうであるが、寺内は、一見非常に能吏型である。だが、単に、能吏型の人間が九年余も、陸相という位置をしめることは、陸軍にとっても、彼自身にとっても、不幸であったということができる。
 寺内は、その間に何を為したか。単なる能吏型の役人は、何から何まで、自分の流儀にあわないと気にいらない。自然、自分の意見を忠実に実行する人間、忠実に服従する人間を歓迎する。そういう人間を重視し、自分に対立する意見をもつ人間を排除する。彼が、山県、桂のあとをつぐ長州出身の軍人であったから、いよいよ奇妙になる。
 こうして、寺内は、長州出身の軍閥をつくりあげ、その中心的存在になるのである。ことに、明治三十九年、児玉源太郎が、五十五才で突如、死んだことにより、彼の地位はいよいよ不動のものにかたまっていく。
 当時、師団長の要職についた者四十一名のうち、十二名は、長州出身であったという。約三分の一が長州出身でしめられていたのである。それに加えて、陸軍大将、中将をどんどん、現役から追いはらい、自分の意見に従う者で、陸軍をかためたということもある。

 初代朝鮮総督を兼務、多数の憲兵を派遣して恐怖政治しく

 明治四十三年五月、第二代韓国統監曾根荒助が病気で辞職すると、寺内は陸相のまま、第三代韓国統監の地位についた。第一代の伊藤博文、第二代の曾根が文官であったのに対して、陸軍大臣、陸軍大将が統監になったのである。
 寺内は、八月には、もう、韓国首相との間に、日韓合併条約を締結。九月には、韓国統監は朝鮮総督となり、現役軍人を任用する制度をきめたのである。彼が、初代の朝鮮総督になったことはいうまでもない。もちろん、陸軍大臣は兼務である。この間、彼はどうしたか。
 寺内が韓国統監として、まずやったことは、憲兵を派遣して、憲兵政治をしいたことである。当時、韓国に派遣した憲兵の総数は、日本にいる全憲兵に匹敵するほどであったという。いかに、恐怖政治であったか、想像にあまりがある。しかも彼は、日韓合併条約を結ぶにあたって、韓国首相に対して、問答無用であったともいう。強引におしつけたのである。その彼が、陸軍大臣をやめた後も、大正五年まで、数年の長期にわたって、朝鮮総督の位置につくのである。不思議といえば、不思議である。

 大戦……米騒動各地に波及、失政を追求されてなお強気のビリケン首相

 だから、大正五年十月、大隈内閣の仆れた後、寺内は内閣を組織し、超然内閣を標榜したが、世論は軍閥政治、非立憲政治といって攻撃した。寺内にごまかされるほど、世論はお粗末ではなかった。というのは、彼は、内閣を組織すると同時に、内閣とは別に、天皇直轄の外交調査委員会を設置したのである。当然、憲法違反であると世論は非難したし、これに参加した犬養毅も変節であると攻撃をうけた。勿論、寺内は、それで、外交調査会をやめるわけがない。とうとう「非立憲」をもじって、ビリケン首相と攻撃された。
 他方、第一次世界大戦の影響をうけて、米価が上昇しはじめた。それというのも、大戦の好況によって、産業労働者が増加し、農村の労働者は減り、収穫高も、大正六、七年には最低となった。しかも、農家の人は養蚕などの収入の増加のため、今迄、麦やひえを食べていたのが、米を食べられるようになった。その上、大戦で、外地米の輸入も大幅に減った。そうなると、米の絶対量はいよいよ不足する。そこに、地主や米穀商人が、米の買いしめや売りおしみをはじめた。米価が上昇したのも無理はない。
 寺内内閣は暴利取締令を発し、外米管理令を公布したが、その効果は少しもあがらない。効果があがらないために、寺内内閣が考えた対策は、警視庁の巡査を5300人から、8300人に増やすということであった。こうなると、国民は救われようがない。
 とうとう、富山県魚津町の漁民部落の主婦たちの米騒動をかわきりに、それは、全国にひろがっていった。京都、名古屋、大阪、神戸、東京というように、38市53町178村におよんだのである。そのために、軍隊も出動するほどであった。だが、寺内内閣はなお強気であった。新聞が誇大に報道するから事件が拡大するのだと、新聞を攻撃した反面、発売禁止とか、記事さしとめを通告してきた。
 各新聞を始めとする言論機関がたちあがったことはいうまでもない。寺内内閣の失政を追求した。寺内としても、内閣をなげだす以外にない。そこまで追いつめられる首相となると、もう、言うべき言葉もない。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「斉藤実 意欲に欠けた清廉潔白首相

 

 犬養毅内閣が五・一五事件で仆れた後の内閣を誰がやるかということは非常に問題であった。というのは、犬養政府のときに、日銀総裁、大蔵大臣を歴任した井上準之助、三井財閥の総帥団琢磨があいついで、右翼の兇刃に仆れ、犬養首相もまた右翼軍人のために、首相官邸で殺されるということがあっただけに、次期の内閣首班は、政治の行詰りを打開すると共に、軍紀を正せる人物である必要があった。
 こうして、海軍次官七年、海軍大臣八年、朝鮮総督十年。しかもその間、これという失敗もないばかりか、清廉潔白という定評のある斎藤実におちつくことになったのである。それは、当時としては、妥当な人選であったということができるであろうか。

 海軍兵学寮を卒業、米国留学中に実力者たちに認められる

 斎藤は、安政五年、東北水沢藩の藩士の家に生まれた。一年前に後藤新平が同じ水沢藩に生まれ、明治維新の原動力となった高野長英も、この地から生まれている。
 明治五年に上京、水沢県の東京出張所の給仕になり、明治六年、海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)に入学し、海軍々人の道を進むことになった。といっても、それは、陸軍兵学寮の入学に失敗し、次に受験した海軍兵学寮に合格したために、彼の人生航路は海軍にきまったにすぎない。今一つ、彼は海軍兵学寮の卒業を前にして、学友と一緒にある夜非常にさわぐという事件をおこしている。その時校長は激怒して、斎藤達を厳罰にしようとしたが、幸に、川村海軍卿が学校にきて、斎藤達は説諭だけで許されることになった。もしこの時、斎藤が海軍兵学寮を退学になっていれば、後の海軍大臣も内閣首班も出来なかったことになる。
 明治十七年、海軍中尉のとき、米国に留学。その滞在中に、米国にやってきた、西郷従道海軍大臣とか海軍少佐山本権兵衛達多くの海軍実力者に、彼等の案内をした関係で、その存在を知られるようになる。ことに、山本少佐からは、その識見、人格を、高く認められる。
 山本権兵衛については、既に記したように、日本海軍を文字どおり世界の烈強に伍するように育てた人であり、ワンマン的に海軍に君臨した人。その人に認められたということは、その後の斎藤の進む道を非常に恵まれたものにしたということができる。

 山本権兵衛に重用され、海相としては海軍の近代化に取組む

 明治二十四年、山本が、海軍省官房主事になると、斎藤を参謀本部づとめにし、山本が海軍大臣副官になると彼を侍従武官にし、二人の交渉はいよいよ深くなった。
 しかし、なんといっても、山本が海軍大臣になった時、当時大佐でしかなかった斎藤を海軍次官に抜擢したことである。話はそれるが美濃部東京都知事が橋本局長を副知事に抜擢しようとしたのと比較にならない。全く、思いきった人事、意表をつく人事であったということができる。
 こうして、斎藤は、山本海軍大臣の下で、七年間も海軍次官をつとめ、山本が海軍大臣をやめると、直に、彼のあとをついで、海軍大臣となり、十年間もその地位につくのである。
 普通、山本の功績であると評価されている海軍の充実策、整備策も、その実、斎藤という、よき補佐役があったからこそ出来たともいわれている。海相時代の斎藤がとりくんだのは、海軍をいかにして近代化するかということであった。ことに、日露戦争直後の海相として、軍艦の補充は至上命令であった。
 戦争で、軍艦の殆んどは、沈没もしくは傷んでいたからである。彼は、戦後の国内経済の行詰りを考えて、沈没した露鑑をひきあげて、急場しのぎにしようとした。勿論、反対する者は多い。しかし彼は、断然、その反対をおさえて、その方針を貫いた。斎藤には、日本あっての海軍、日本のための海軍ということしか考えられなかった。
 そういう姿勢、そういう考え方があればこそ、内閣首班になったといえるのかもしれない。近視眼でない所が、なによりも、まず、買われたということができるのかもしれない。

 事なかれ主義のスローモー内閣といわれ、軍部独走の基盤をつくる

 斎藤は、高橋是清を蔵相に、山本達雄を内相にすえて、その内閣を出発させるとともに、この二人を大いに重んじたが、高橋には、この頃すでに、政治への意欲を欠き、事ある毎に辞意をもらす有様であった。
 三人トリオの一角が、この有様では、どうにもならない。それに斎藤も七十五才の老体である。そうなると、無傷であるとか、日本的見地にたって考える人といっても、政治の行詰りを解決し、陸・海軍の軍紀を粛正するほどの気魄や実行力が、彼自身から、また、その政府から出てくるかどうかとなると、まったくあやしくなってこよう。
 ことに、若槻内閣時代、陸軍部内の若手によってひきおこされた満州事変、犬養内閣時代にひきおこされた上海事変を、どのように収拾するかという名案も具体策も出てこないのではないか。
 自然、斎藤内閣は事なかれ主義にならざるを得ない。せいぜい、スローモー内閣といわれたように、解決、結論を一寸先にのばしたにすぎない。しかし、結局は、日本の状態をいよいよ悪化させるに役だっただけである。
 それを裏書きするように、荒木陸相の主張によって首相、外相、陸相、海相、蔵相の合議制を採用し、政党出身の大臣の発言権を弱め、軍部を抑えるどころか、軍部の独走の基盤さえつくったし、満州国承認に、世界各国の反対を押しきって、ふみきるということをしたのである。そればかりか、京大の滝川事件が起きたのもこの時である。
 斎藤内閣の鳩山一郎文相は、赤化教授の名の下に、一方的に滝川を休職処分にしてしまった。大学の自由がどんどん失われていくのは、この事件からである。勿論、大学の自由を守ろうとしなかった大学人の責任は鋭くとわれなくてはならないが。
 重光葵は「斎藤新総理は、積極の人ではなくて、すべて受身の人であった。関東軍も、軍部も、満州建国で手一杯で、政府はむしろ放任政策に出たため、軍部方面は小康を得た。政府は満州問題を他人事のように扱ったが、満州問題からくる日本の責任問題は他人事ではなく、軍部の行動は日本の行動として、日本政府自身、責任をもって取扱わねばならなかったのである」
と評したが、こういう人物しか、当時、総理になる者はいなかったのであろうか。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「高橋是清 大財政家の名とその放漫財政

 

 高橋是清は、明治の財政家松方正義とならんで、近代日本が生んだ二大財政家としての名をほしいままにしている人物である。既に書いたように、松方は前後十六年間も蔵相の位置についた。この松方にくらべると、前後十年間蔵相の位置についた高橋の期間は短いともいえるが、大正、昭和の複雑な経済情勢の時に、十年間も、蔵相の位置についたということは普通ではない。その力量、その識見がよほど高く評価されていたということがいえる。では、そういう高橋は、どのように育ち、どのように蔵相の位置、更には、首相の位置を手にいれたのであろうか。

 奴隷に売られる苦労もあって、身につけた英語の力が尊重される

 是清は安政元年(1854)幕府付絵師川村庄右衛門の子として江戸に生まれた。といっても、その母は川村家の召使いであったから、彼は生まれた時から数奇な運命であったといっていい。まもなく、仙台藩の足軽高橋是忠の養子となる。
 十才の時、横浜にゆき、ヘボンについて英語の勉強をはじめ、後には、ボーイになって勉強した。それが認められて、十四才の時、藩の留学生としてアメリカに渡った。しかし運わるく、奴隷に売られるというめにあい、散々苦労し、やっと明治元年十二月、日本に逃げかえるということをやっている。そのために、英語の勉強は、短時日であったが、非常に進むという利益もあった。
 明治維新後、西欧化に拍車をかけていた日本として、是清の英語の力は、希少価値として尊重されたことはいうまでもない。東京大学の前身、大学南校の教官手伝いとなった。十六才の時である。だが、まもなく、彼は茶屋遊びをおぼえ、はては、それにおぼれてしまう始末。その結果は、とうとう、箱尾の手伝いをするところまで落ちた。
 しかし、何時までも、そんなことはしていられない。是清は、再出発を九州に求めて、唐津藩の英語教師となる。
 九州の生活一年で、東京にかえり、今度は大蔵省につとめた。その時、十九才。まもなく、そこをやめて文部省につとめたが、農商務省が出来たとき、彼はそこに招かれる。こうして、明治二十年、新設の特許局長になるまで、農商務省づとめがつづく。しかし、明治二十二年には、折角の局長の椅子を捨てて、ペルーの銀鉱に手を出す。これは、ものの見事に失敗し、屋敷まで売りわたすという有様である。

 日銀副総裁として外債募集を成功させ、地位をかためる

 元局長は、日銀の建築所事務主任という職についた。普通の人なら、もとのポストを考えて就職をしぶるが、彼は眼中にない。そこで精勤する。勿論それは、是清がアメリカで身につけた伸々とした生き方かもしれない。
 彼は正規の大学を出ていない。でていないことが逆に彼に幸いして、常に学びつづける姿勢、学ばなければならないと思う姿勢になった。そうなると、彼の語学力がものをいうことになる。新しい新聞・雑誌は勿論、新刊書も学んでいく。政治家というか財政家は、或る意味で、非常に現実主義者。それは、彼がアメリカで身につけたプラグマティックな姿勢にも通じていたといえる。
 そこに、彼が、どんどん頭角をあらわし、力量を発揮した理由もある。
 ことに、日銀副総裁として、日露戦争の時、外債募集を成功させたことは、高橋の地位を決定的なものにした。その成功も彼の語学力に負う所が多いといえよう。それが、大正二年の山本内閣のとき、蔵相のポストが廻ってきた理由である。既に述べたように、山本は日露戦争当時、海相として、最も苦労した男である。
 だが、この内閣のときの高橋蔵相としては余りみるべきものがない。短命内閣であったせいもあるが。

 政治家として失格……財政家として不況を慢性化させる

 大正七年の原内閣の蔵相、ついで、大正十年の高橋内閣の成立、その時の蔵相の兼任時代が、高橋の政治家として、また財政家として、何を為したかを問われるときである。政友会の総裁としての政治力はどうであったかと問われるときである。
 だが、その結果、高橋の政治家の能力、高橋の財政家としての能力には、いかんながら、余りいい点数をつけることが出来ない。
 まず、原敬からうけついだ政友会総裁のポストである。政友会総裁として、内閣首班になった高橋であるが、党内に改革派と非改革派の対立が生まれ、その収拾ができなくて、たった七カ月で内閣をなげだしたこと。清浦内閣のときには、とうとう、政友会が真二つに割れ、残った政友会も、300万円で田中義一にうりわたすということをやっている。
 これでは、どうみても、政治家是清は失格といわなくてならない。
 財政家としてはどうか。第一次大戦後の不況をのばなしにし、その不況を慢性化させた点で、放漫財政という非難をさけることができまい。昭和初年、田中内閣の蔵相として、金融恐慌にあざやかな手腕をみせ、財政の神様と崇められた彼であるが、元はといえば、彼の放漫財政のしりぬぐいをしたにすぎない。
 既に斎藤実のところで書いたように、やる気もなく、たってと頼まれて蔵相の椅子についたこともある是清である。蔵相の椅子を何と思っているのかと反問したくなる。

 蔵相として田中内閣の政策を支持、みずから<悲劇の芽>を育てる

 昭和十一年二月二十六日、是清は青年将校の凶弾に仆れた。その時八十一才である。それは、昭和十一年度の予算案で、軍事費の抑制に敢然と立ちむかったからであるといわれているが、是清が田中義一に安直に政友会総裁の椅子をゆずりわたし、田中内閣を作りだしたとき、この悲劇、この悲惨ははじまったといってもいい。田中内閣時代に軍の横暴は始まるのである。その芽は出来たのである。
 しかも、田中内閣の蔵相として、彼は田中の政策を支持する。殺されたことは悲惨というしかないが、彼を殺すような勢力の抬頭に力を貸したのは、外ならぬ高橋是清であったというと言いすぎであろうか。
 そればかりか、犬養内閣、斎藤内閣、岡田内閣の蔵相をも歴任するのである。私には、漫然と蔵相の椅子に坐りつづけた、としか思えないのである。それは酷な言い方であろうか。
 よく、晩年の是清は、円熟味があり、無欲恬淡としていたとか言われるが、蔵相の位置にあるものは貪欲でなくてはならないのではなかろうか。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「犬養毅 日本の運命を忘れた政党人

 

 昭和七年五月十五日の夕刻、海軍将校と陸軍士官候補生の一団は、首相官邸に乱入し、「話せばわかる」という犬養の言葉に耳を傾けず「問答無用」とばかり、ピストルを乱射して、彼を射殺した。その時、犬養は七十七才であった。これは、その年の二月の井上準之助、三月の団琢磨の暗殺の一連の中でおこった暗殺事件で、日本の改革を求める青年将校や民間右翼の手によるものであった。なぜ、犬養は井上や団とともに暗殺されたのか。また、暗殺されねばならなかったのか。

 自派の勢力拡張を考え、自由民権運動の発達に考え及ばず……

 毅が岡山県に生まれたのは、安政二年(1855)。十三才の時に父をなくし、県庁の写字生になって苦学していたが、英学を勉強したい一念で、二十才の時に上京して、慶応義塾に入学する。二十六才の時に、東洋経済新報を発刊し、自ら主幹となるとともに、福沢諭吉を中心におこった交詢社にも関係する。
 明治十四年の政変で、野に下った大隈重信は、板垣退助の自由党についで、明治十五年改進党を結成した。毅は大隈と福沢の関係から改進党に入党した。いうまでもなく、改進党は自由党とともに自由民権運動の先頭にたったが、政府の弾圧と分裂政策は徹底し、そのために、明治十七年十月、自由党は解党し、同年十二月には、改進党は解散しなかったものの、大隈たち幹部が脱党し、改進党は微々たる存在となってしまった。
 この間、毅は、大隈系の郵便報知、あるいは朝野新聞によって論陣をはりながら、解党反対派を支持して活躍した。つづいて、明治二十年、かつて、自由党の副総裁であった後藤象二郎が民党合同を提唱すると、尾崎行雄たちと一緒に毅も参加した。このときの毅のねらいは、後藤を板垣からきりはなし、大隈と手を結ばせることにあった。彼は、明治十七年、改進党を解党し、改進党や自由民権運動を弱めた大隈に恋々としていただけでなく、板垣と後藤の開係をたちきって、自派の勢力を拡張することだけを考えて、全体としての自由民権運動そのものの発達を考えなかった。
 ここに、毅の思想的政治的限界があった。彼の第一回目の妥協と挫折であったともいえる。それは政党人であっても、政治家でないことを示したものである。日本そのものの運命をかえようとしない政治屋の一面である。子分が子分なら、親分も親分のたとえ通り、明治二十一年には、伊藤内閣に大隈は入閣して、民党合同に水をさし、後藤まで、翌明治二十二年には入閣し、合同を消滅させてしまうのである。
 だが毅は、この時になっても、大隈や後藤をみかぎらなかった。その時、彼の第二回目の挫折と妥協がおこるとともに、彼は政治権力の亡者となって転落していくことにもなる。こうして、彼の政党屋、政治屋としての生活が決定的となる。

 第一回衆議院議員選に当選、大隈の参謀長として活躍をはじめる

 明治二十三年七月、最初の衆議院議員の選挙が行われた。毅は岡山県から立候補して当選。そのとき、三十五才である。衆議院の議席は、立憲自由党130、立憲改進党40、大成会79、国民自由党5、無所属42であった。そして、矢野文雄がこの年、宮内省入りするとともに、毅が大隈の参謀長として活躍しはじめる。勿論、政党の特権を第一と考える政党屋として。
 たしかに、はじめは、改進党・自由党などは、予算削減民力休養を旗じるしとして政府と対決していたが、党利党略を優先させる政党は、次第に、政府との癒着をはじめていった。こうして、自由党がまず、長派の伊藤博文にだきこまれ、次に薩派の松方正義に改進党がだきこまれる。政府との野合が始まるのである。即ち、第二次伊藤内閣に、自由党の板垣が入閣し、松方内閣には大隈(改進党は進歩党と改名し、大隈はその総裁)が入閣するのである。いうまでもなく、その演出者は毅である。
 このあとに、進歩党と自由党の大合同があるが、わずか半年で、また分裂したことは、星享のところで述べた通りである。この分裂の時点から、進歩党は憲政本党となり、自由党は憲政党から政友会と名称が変っていくだけでなく、伊藤の掌中に、にぎられるのである。その間、尾崎行雄、鳩山和夫などは、憲政本党から政友会に走っている。
 政友会と伊藤の結合をみてきた憲政本党にも、山県有朋、桂太郎との結合を考える動きがつよくなり、一時毅を除名するというところまで来たが、結局不成功に終り、憲政本党は国民党に脱皮する。

 憲政の神様とうたわれたが、「その後の状態は愚策又愚策」となる

 大正元年十二月、憲政を無視する桂内閣が出現すると、毅は、国民党をひきいて、政友会の尾崎とともに、憲政擁護をかかげて、鋭く、桂政府と対決した。この時が、毅の生涯の最も花々しいときであった。憲政の神様といわれたのもこの頃である。だが、桂首相は新党をつくって、国民党のきりくずしにかかり、そのために、国民党の半数以上が桂の同志会に参加するという有様であった。
 だが、毅はそれにもひるまず、運動をつづけたが、政友会が桂内閣に妥協したことにより、運動は急速に下火になる。尾崎たちは脱党して、政友倶楽部(中正会)をつくった。桂のあとをひきうけた加藤高明の同志会は、その後拡大して、大正四年には、153名の第一党になったのに対して、毅の国民党はわずかに27名という少数党の悲哀を味わった。それは、金権を求めて離合集散する政治屋の実態をしめしている。
 そのために大正六年、寺内内閣ができると、国民党の拡大をはかって積極的に寺内内閣に接近。選挙のときには、寺内から多額の金が流れだし、毅自身、大臣待遇で、外交調査会の委員になったのである。当時、彼は、次のように論じられている。
「国民党の如きは、已に少数党に属す。金あるは金なきに如かず。正義を以て終始し。青年後進の士をして、その方向する所を迷わしめざるべし。果して、然らば、生前赫々の功業なきも、その天下後生を裨益するもの、却て大なるものあらん。然るに退いて、その後の状態をみるに、愚策又愚策殆んど底止する所を知らず」
 その後大正十二年の山本内閣、翌年の加藤内閣に、逓相として入閣、国民党を拡大発展させようと努力するが、終に出来ないまま翌大正十四年、国民党は政友会に吸収合併され、毅は政界を引退した。
 だが、明治四年、田中義一政友会総裁の急死のあとをうけて、引退した毅は再びカムバックする。一度だけ、大政党の総裁になり、首相の位置につきたかったのかもしれない。勿論、首相としては何もしていない。唯、日本の政治を政党の利権のために利用した、その責任をとわれて殺されるために首相になったようである。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「加藤友三郎 世界平和と生活向上を希求する

 

 大正十年十一月十五日、ワシントン軍縮会議で、主席全権の加藤海相は、次のように演説した。
「日本ハ此ノ提案ガ物質的ニ各国民ヲシテ消費的大支出ヨリ免レシメ、旦ツ世界ノ平和ニ貢献スベキモノタルコトヲ信ズ。日本ハ此ノ計画ヲ企図スルニ至レル米国ノ高遠ナル目的ニ感動セザルヲ得ズ。即チ日本ハ主義ニ於テ欣然此ノ提案ヲ受諾シ、自国ノ海軍軍備ニ徹底的大削減ヲ加ウルノ決心ヲ以テ協議ニ応ズベク覚悟ナリ。……日本ニ現存スル計画ハ、日本ガ決シテ進撃的戦争ノ準備ヲ目的トスルモノニアラザルコトヲ明晰ニ立証スルニ足ルベシ」
 加藤は世界平和と国民支出の軽減のために、積極的に、アメリカの提案した軍縮案を支持した。これは、八年間も海相の位置にあって、大海軍建設の中心的位置にあった加藤としては、大きな転進であったといえよう。しかし、その結果、米、英、日、仏、伊の比率は、10・10・6・3・3ときまり、米、英に対し六割にすぎなかったが、世界三位の海軍国の地位と当時、世界の孤児となりかけていた好戦国日本の疑悪を一掃したのである。
 勿論、この決定に不満な人達は日本国内にも多かった。特に、海軍には多い。しかし、加藤は決然たる態度で、ワシントン軍縮会議を支持し、その成功のために努力した。彼は、なによりも、世界各国の無暴な建艦競争が各国民を苦しめ、ついには、破滅に導くことを、その最高責任者の一人として、誰よりも痛感していたために、此の決断、此の決意を生みだしたのかもしれない。とくに彼は、日本が他国を侵略しようとしないかぎり、これだけの防備があれば、決して攻撃をうける心配もないという確信があったのであろう。
 こうして、世界平和と国民の生活向上にとりくむ政治家加藤が誕生したのである。それは、帰国後すぐに、総理となったことによって、いよいよ、はっきりした。

 ワシントン会議後の難問をかかえ、軍縮にのりだす

 加藤は文久元年広島に生まれ、明治維新を八歳で迎え、海軍兵学寮予科に入学したのが十三歳のときである。日清戦争には「吉野」の砲術長として輝かしい武勲をたて、日露戦争のときは、連合艦隊参謀長として、よく東郷司令長官をたすけたことはあまりにも有名である。それは、彼の鋭い頭脳に支えられた沈着と果断が生みだしたものである。それがまた、八年間も、海相の位置にあって、海軍を一本にまとめあげることのできた理由である。
 こういう彼が、ワシントン会議の生みだした種々の条約を批准するという、難問をかかえた政府の首班についたのも当然であった。海軍部内にある強い反対を抑えうるのは、彼の外にはなかったのである。
 こうして、加藤内閣は、海軍軍備制限に関する条約を批准するとともに具体的に、海軍軍縮にのりだす。即ち、戦艦の安芸、薩摩、鹿島、香取、三笠、巡洋戦艦の生駒、鞍馬などは沈没もしくは解体し、計画中の戦艦土佐、紀伊、尾張、巡洋戦艦の天城、高雄、愛宕の建造を中止する。
 それこそ、この実施には、当時、涙をのみ、歯ぎしりしてくやしがった人々が多かったであろう。だが、加藤は、それを断行した。世界平和と国民の生活向上のために。このために、七千五百人の海軍軍人か整理されている。
 だが加藤は、海軍の軍縮のみでなく、陸軍の軍縮にものりだし、約六万人を整理し、当時の金で、三十万円余をうかしている。その金を民政安定に使ったことはいうまでもない。
 しかし、加藤がやったことはこれだけではなく、四年間の長い間意味もなく、シベリアに出兵していた兵隊を全部ひきあげたし、八年間も支那の山東地方を占領していた兵隊もひきあげた。その占領が、日支間の紛争のたねであったことは勿論である。
 加藤はいう。
「吾人は露国民に対しては、其の艱難に深く同情するとともに、速に、此を離脱するに至ることを希望す。……
 日本国民は隣邦支那が速に現在の不幸なる政情を脱し、該国民自身の努力によりて、平和統一の実をあげんことを切望す」と。世界平和と国民の生活向上を希求する彼の言葉としてみるとき、単なる外交辞令とは違う意味と重さをもってくる。彼は、露・支両国民がその力で、それぞれの問題を解決することを切望したし、これが出来ると確信した。だからこそ、また「余は普通選挙問題に対しても早晩、実行しなければならない」と日本における普通選挙の実施を考えたのである。
 なお、加藤が、行政・財政を整理して、約一割の予算削減に成功したことも記しておく必要がある。

 “世界の孤児”化を防ぎながら病死、惜しまれるその先見達識

 加藤内閣は、はじめ、中間内閣とか超然内閣、逆転内閣といわれた。たしかに、憲政の常道からするならば、政党内閣ではない。
 しかし、政友会が支持して誕生した内閣である。それに、政党内閣といっても、第一次隈板内閣のように、党利党略に狂奔して、わずか六ヵ月で崩壊したり、西園寺内閣のように、桂太郎との裏取引きで成立したり、第二次大隈内閣のように、山県有朋に利用されて、政敵を仆すために生まれたり、原内閣のように、汚職を当然とするような政党内閣とくらべるとき、加藤内閣の方が、ずっと、理想もあり、夢もある。
 腸癌のために、わずか、一年三ヵ月しか、加藤は、総理の地位にいなかったが、その間彼は、強力に、世界平和と国民生活の向上の道を歩んだ。ともすれば、侵略主義的方向を歩みだそうとする日本、そのために、世界の孤児となろうとする日本を救いだそうとしたのは彼である。その意味では、日本は、先見達識のすぐれた政治家をあまりにも早く失ったことになる。
 もし、加藤がもうすこし長生して、世界平和と国民生活向上の道を日本が確固として歩むような路線をしいていたら、日本のその後は、大東亜戦争にむかって、破滅の道をつき進むこともなかったのではあるまいか。軍国主義的になろうとする日本の進路に、彼ほど大胆にマッタをかけ、その進路をかえようとした者はないのではないか。それは、犬養毅や斎藤実、岡田啓介の比ではない。なによりも侵略主義的な田中内閣の出現をはばんだであろう。
 どう考えても、加藤の死は惜しまれてならない。そして、政治家加藤を考えるとき、すぐれた政治家にはすぐれた戦略家、すぐれた戦術家が始めてなれるということをしめしている。それなしには、世界各国を相手にし、日本の独立と国民の平和をまもることは出来ない。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「若槻礼次郎 羊頭狗肉に終わった“正義の人”

 

 大正十五年一月三十日、加藤高明内閣の内務大臣であった若槻礼次郎は、加藤が病気で仆れると次期内閣の首班となり、加藤内閣をひきついだばかりか、その政策までもひきついで、約一年三ヵ月内閣を組織した。そこには、彼が加藤を助けて、十年余、憲政会の天下がくることを忍耐強くまちつづけたということに加えて、当時の政界にあって彼がまれにみる正義の人であったということが、原因てあったということがいえよう。そのことは、首相になった若槻の所に、小学校五年生の女の子がよこした手紙に対する彼の返事でもあきらかであろう。
「特に小生の平日を御詳知下され、正義を以て終始することをお認め下され候ことは、小生の衷心より感激惜く能わざる所に御座候。人の世に立つは一に正義によらざるべからざることは申すまでもこれなくと存じ候」
 若槻は、自分を子供まで正義の人として認めてくれたことに感激し、いよいよ正義を貫ぬこうと決心したことであろう。勿論、彼は正義の人を標榜しただけでなく、実際に正義を実行しようとした。だからこそ、正義の人という評価を得たのである。それは、彼が、内相のときに発言した次のような言葉に、もっとも、よくあらわれている。
「近年、選挙の行なわれる毎に、必ず、選挙干渉の声をきくは、余の甚だ遺憾とすることころなり。即ち警察官その他の官吏が暗に政府与党の候補者に投票を促し、反対党に投票する意志を鈍らせ、あるいは、反対党の運動員を長時間警察署に留置し、運動の機会を失わせるなど、今後、かくの如き弊害は根絶せんことを期す」
 従来、内務大臣といえば、主に、警察官を動員し、反対党を抑圧するのが習わしであったのを、若槻は敢然とやめさせようとした。こういう奇怪なことが、平然と行なわれていた明治、大正という時代も全く、奇怪であったということができる。では、この奇怪な事実に、敢然とたちむかうという彼の姿勢は、どこから育ったのであろうか。

 卓越した指導者を得て、政界粛正の心をかためる

 若槻は慶応二年、松江藩の足軽の子として生まれた。足軽の子として軽蔑されたということが、彼にウソを許せぬ姿勢を養った。というのは、才能、才覚があっても、唯足軽の子ということで才能、才覚のない上級武士の子供達から馬鹿にされるということは、全くおかしいと気づいたのである。支配階級の横暴や偏見がそのまま通用していることに、強い疑問と嫌悪を感じたのである。
 それに、彼は沢野修輔という指導者を得たということも大変幸いした。沢野は卓越した学者であったが、足軽出身ということで、あまり、出世しなかった。しかし、沢野は、それ故に、足軽階級に、本当の実力、本当の社会的能力をつけさせようと努力した人物である。若槻は、十四才頃に、すでに、この沢野老の下で
「書を読む、これを学問というか、曰く然り。書を読む、必ずこれを学問というか、曰く然らず。これを読書に得てこれを実行に得る也。実行に得て後真の学問という。
 今、ここに一人あり。書において読まざるなく、而して行を修めず、事不善多し。人皆もって賢となすも、余は必ず、これを学ばず読まざるの人といわん。ああ、書を読まざる学問にあらず、書を読んでこれを行に得ざる、また、学問にあらず」
という見識と立場をもっていた。であるからこそ、政治家の政治的発言というもの、美辞麗句に最も強い反撥を感じ、政界粛正の心をかためていた。
 たしかに、若槻は、内相のとき、前述のような発見もし、普通選挙法も通過させた。足軽出身の彼がその足軽階級のために、選挙権と被選挙権の道をきりひらいた。ひろく、一般国民に、その道をきりひらいた。それは、全く、見事である。
 だが、首相としての若槻は一体何をなしたのであろうか。

 二事件で裏取引をし、金融恐慌で内閣を投げだす

 若槻内閣は昭和二年一月、朴烈事件と松島事件の二つの事件で、反対党の政友会と政友本党からつきあげられていた。朴烈事件というのは、その妻金子文子と共謀して、朴烈が天皇の暗殺計画をたてたのに対して、その朴烈が恩赦で、死刑から無期懲役になったのはけしからんと反対党が騒ぎだしたもの。松島事件というのは、大阪の松島遊廓の移転に憲政会の幹部箕浦勝人がからんでいるということから問題になったものである。
 政友会と政友本党は、この二事件で、内閣弾劾案を提出する構えをみせた。この時、若槻は、党の幹部にはからないで、政友会と政友本党の両党首と政治休戦を結んだのである。
 正義を標榜する彼が、朴烈事件、松島事件という些細な事件で、裏取引をしたのである。それも、党の幹部にはかることこともなく。勿論、この報告をきいて、浜口雄幸内相も安達謙蔵逓相もともに不満であった。当時、憲政会を支えていたのは、この二人であったが、彼等は、この機会に議会を解散し、普通選挙をやればいいと考えたのである。そうすれば、必ずかてるばかりでなく、現在の憲政会、政友会、政友本党の均衡を破って、憲政会単独の安定政権をつくることも出来ると考えたからである。それに、大正十四年、加藤内閣のとき通過した普通選挙法はまだ一度もつかわれていなかったのである。憲政会の連中は、自分達の通した選挙法で、どうどうと斗ってみたかったに違いない。
 しかし、若槻は、その方針をとらずに妥協の道をとった。しかもその三月目には、今度は、片岡直温蔵相の失言をきっかけとして、東京渡辺銀行、村井銀行、台湾銀行などの休業という金融恐慌が始まった。
 この時、若槻の友人は「臨時議会招集の手続きをとっておき、さしあたり、モラトリアムの緊急勅令案を出せばいい」と忠告した。だが、彼は友人の忠告に耳を傾けず、内閣をなげだしてしまった。次の田中内閣がこの友人の意見通りにして、その危機をのりきったことはつけくわえておくことが必要であろう。
 要するに、若槻は優柔不断で決断力に缺けていた。最も悪いことには、ものごとに徹底的に取り組む姿勢がなかった。生命をかけて、仕事に取り組むという責任感がなかったことである。大蔵官僚として日のあたる所をずっと歩いてきた、最も悪い意味の官僚の一人にすぎなかった。公正な選挙をいいながら、実際には、そういう選挙は一度もしたことがなかった。これでは、結局、羊頭狗肉ということになるしかない。最後に、彼が内相のとき、悪評高い治安維持法を作成したということを書いておく。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「岡田啓介 陸軍に敗けつづけた海軍の秀才

 

 昭和七年五月から昭和九年五月まで内閣を組織した斎藤実が帝人事件で仆れたあと、斎藤内閣の海相であった岡田啓介が次期内閣の首班になった。海軍出身では、山本、加藤、斎藤についで四人目の総理で、その意味ではきれものということになろう。しかし、加藤を除いて、山本、斎藤はともに海相としては合格であったが、総理としては失格者であった。(先述)岡田が総理になったとき、国民は、その斎藤の子分でしかない岡田に大きな期待をいだけなかった。それに、各閣僚がそろいもそろって、小つぶであるとみた。そうなると、いよいよ、岡田内閣に望みがもてなくなる。
 事実、約二年間の総理在任中、国民の期待を裏ぎるようなことを連続しておこした。ことに、国民生活の安定と向上の政策を強力におしすすめることができないままに、日本を戦争の方におしやってしまった。それは、他国民の犠牲において、日本の国民の生活の向上をはかろうと考える人達の勢力を非常につよめたということである。では、岡田は総理として、何をしたのか。いいかえれば、総理として、いかに、何もしなかったかということを次に書いていこう。

 満州の行政機構を改革、ワシントン条約破棄、ロンドン軍縮会議も脱退

 岡田内閣が成立すると、陸軍はまず、満州の行政機構改革をもちだした。これまで、外務省、拓務省、陸軍省の管轄であった満州を陸軍省だけの管轄にしようという陸軍の意図である。行政権を陸軍が独占しようという計画であり、更には、日本の行政権をも陸軍の手中にいれようとするものであった。
 岡田はたいした批判もせず、陸軍のこの案をのんでしまった。岡田くみしやすしとみた陸軍は今度は「国防の本議と其強化の提唱」という本を発表した。そこには「戦いは創造の力、文化の母である」という言葉があり、公然と戦いを讃美し、肯定するものであった。そればかりか、政府や政党をそっちのけにして、政治そのものを陸軍が支配しようとする文句もあった。
 さすがに、議会では、この本を問題にしたが、林陸相は、
「これは国防について国民の了解を深からしめるためのもので、ここにもられたことをいかに実行するかは、専門各省の仕事だ。軍が自分でやろうという意図は毛頭ない」
と答弁して、その追求をそらした。勿論、岡田は総理として、林陸相を追求するということもないままに、うやむやにした。
 そういう空気は、加藤海相がその政治生命をかけて、軍縮にもっていったワシントン条約の破棄を昭和九年十二月にとうとうやってのけ、昭和十年十二月にはロンドン軍縮会議を脱退し、軍備無制限時代に突入した。軍備拡張がいかに国民生活の犠牲のうえになりたつものかを痛感した先輩加藤の苦痛は、岡田には、全く継承されなかったのである。それどころか、加藤の折角の努力さえも駄目にしてしまう。海軍出身の岡田が海軍を制しきれない以上、陸軍を制しきれるわけがない。どんどん、陸軍にしめあげられてゆく。

 天皇機関説を排撃し国体明徴を声明、陸軍の暴走をゆるす

 たまたま、憲法学者美濃部達吉が陸軍の出した「国防の本義」を鋭く批判したことから、陸軍はまず、美濃部の攻撃、失墜をはかろうとした。それには、彼が天皇機関説を説いていたこともあって、攻撃しやすかった。陸軍と気脈を通じた菊池武夫が、昭和十年二月十九日貴族院本会議で、美濃部の機関説攻撃の口火をきった。ついで在郷軍人会や右翼がさわぎ始めた。
 それに追いうちをかけるように、二月二十八日には、衆議院で、江藤源九郎が美濃部を不不敬罪で告発し、三月一日になると、貴族院の中に有志懇談会ができて機関説排撃を決議した。
 三月五日、政友会の代議士まで、同じ決議をした。はじめ、岡田は美濃部を擁護する立場をとっていたが途中で態度をかえ、菊池たちに同調した。
 まっていたとばかり、陸軍は
「わが国体観念とあいいれざる学説はその存在を許すべからず」と声明し、陸相は政府に強い態度を求めたものである。ついに、八月になると、政府は国体明徴の声明を出し、機関説をとりのぞくことを誓う。その結果、陸軍は、天皇の絶対の統帥権の名の下に、わがまま勝手に、ふるまうことができるようになった。それは、政府の外壕ばかりでなく、内壕までをうずめたことになる。そうなると、政府はあっても、ないようなものである。まったく陸軍の傀儡政権にすぎない。
 それを決定的にしたのが、昭和十一年二月二十六日の陸軍のクーデターである。

 無為無策がよんだクーデター、責任をとらなかった最高責任者

 二月二十六日のクーデターは、陸軍大尉野中四郎以下中、小尉二十二名がおかしたものであった。
 その危機感は幼稚ではあったが、現状では、日本も国民も敗われないというところからきていた。それは、岡田内閣、斎藤内閣、犬養内閣、若槻内閣、浜口内閣、田中内閣の無為無策が惹起したものであると極論できるものであった。
 陸軍は、この二・二六事件を利用して、完全に政権を掌握した。当事、陸軍の首脳は、野中達のクーデターを知りながら、とめるどころか煽動さえしているという。
 本来なら岡田こそ、二・二六事件の最高責任者である筈である。しかし、斎藤実、渡辺錠太郎、高橋是清などの大臣が殺された中で、彼はその秘書官を殺しただけで助かり、その責任をとろうとしなかった。
 大東亜戦争の終結に、岡田は生命を賭して活躍したといい、その功績をたたえるものがあるが、その勇気と努力を何故、総理大臣の時にこそ発揮しなかったのであろうか。その時にこそ、彼のもてるかぎりの力を発揮すべき時ではなかったのか。先輩加藤の輝やかしい業績をうけつぎ、陸軍の横暴を抑えて、美濃部達吉をあくまで守ろうとしなかったのか。
 極論すれば、岡田は総理として、日本の総理として、日本のためには、何一つ、いいことをせず、悪いことばかりをしてきたということになりそうである。陸軍との攻防戦に、何一つ勝利せず、つねに攻められて、敗けてばかりいたことになる。こういう人間を海軍の中心に仰いでいたとすれば、アメリカに敗れる以外にあるまい。
 おそらく、岡田は海軍の中でのとびきり秀才であったろう。しかし、秀才ではあっても将に将たる器、一国の宰相としては最も必要なものが欠けていたのではなかろうか。それは、国民の平和な生活のために殉ずる精神である。彼には、それがなかったということになる。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「近衛文麿 英米本位の平和主義を排す……

 

 昭和二十年十二月十六日、
「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。これに対し、深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て裁判をうけることは、堪えがたいことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力をつくしたのである。その米国から今、犯罪人として指示をうけることは、誠に残念に思う。
 しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえ、そこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行きすぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と是等一切の世論なるものも、いつかは冷静をとりもどし、正常に復する時もこよう。
 その時初めて、神の法延に於て、正義の判決が下されよう」
という遺書をのこして、毒をのんで死んだ近衛の行動は、その遺書の通りであるならば、誠に立派であったといえる。ことに、大東亜戦争後、アメリカが勝者として、敗者である日本をさばこうとしたときに、それをはっきりと拒絶したということはほめられてよい。だが、果して、その遺書に書かれている通りであったのであろうか。

 支那事変を泥沼にもちこみ、独・伊とともに植民地再分割を強行

 昭和十二年六月、第一次近衛内閣が成立して一ヵ月後に、支那事変がおきている。これは、近衛が欲しなかった事であるかもしれないが、また、近衛には不可抗力な事であったかもしれないが、彼は総理として、その事変の拡大をくいとめることは出来なかった。そればかりか「蒋介石を相手にせず」と声明して、かえって、長期戦の態勢にもちこんだ。
 支那事変の解決に努力したどころか、逆に、泥沼にもちこんだ責任者である。勿論、そこには、彼の考える支那事変の解決方式があったことはたしかであるが。しかし、彼の考える支那事変の解決方式とは、蒋介石から「中国併呑の別名にすぎない」と非難されるようなものであった。いいかえれば、中国の民族問題を日本の民族エゴイズムの方向にそって解決しようとするものであった。そこには少しも、中国の民族問題を中国自身のために解決するという姿勢がなかった。
 これでは、日支事変は解決する見込みがない。ことに、百年におよぶ外国の支配に、中国の民衆は骨のずいまで嫌悪を感じていたから、なおさらである。近衛には、その認識が全くなかった。
 次に、昭和十五年七月、第二次近衛内閣を組織したときにはどうであったか。そのとき彼は、北進政策か南進政策かという重大な政策の決定にあたって南進政策を採用し、さらに、日・独・伊の三国軍事同盟を締結した。これは、米・英との対立を鋭くしていくものでしかなかった。
 第二次近衛内閣になると、日米交渉を進めながら、南進政策を強化し、対米決戦を強化し、ついには、日米戦争の開始を決定したのである。こういう歴史的事実と近衛の遺言とは全く違っている。彼の遺言通りに、彼は全然行動していない。
 しかし、それは当然である。近衛は既に大正七年に「英米本位の平和主義を排す」という論文を書き、つづいて、昭和八年には「世界の現状を改造せよ」という論文を書いているが、その論文で、彼は「歴史をひもどいて、世界各国の領土の消長と民族興亡の跡をみれば、今日の地球上における国家民族の分布状態というものは、決して、合理的なものでもなければ確定的なものでもない」と言いきっている。彼は、侵略者米・英が日本の南進政策を非難攻撃することは出来ないというのである。
 たしかに、近衛のいうように、侵略者米・英が日本の侵略を非難する権利も理由もないかもしれない。盗人たけだけしいとしか言いようのないものであるかもしれない。だからこそ、彼は、米・英と対決して、独・伊とともに、植民地再分割を強行しようとしたのである。彼には、彼なりの理由があったといえる。

 つねに支配者として位置し、戦後も国民の幸福より天皇制をまもる

 だが、近衛の論理は米・英に対しては通用しても、日本が侵略しようとした東亜諸民族に通用するかどうかということを彼は考えてみたことがあるかという問題が残る。まして、東亜諸民族の解放という美名にかくれて、それを侵略しようとした日本の国家エゴイズムを真剣に考えたかという問題がある。
 おそらく、その問題をまともに、彼は、自分自身に問うたことは一度もなかったのではないか。なぜか。私はそのことを近衛の社会的位置、天皇と近衛の関係から考える。彼は常に支配者の位置にいて、一度も被支配者の位置にいたことがないということである。
 日本の民衆を被支配者としかみなかった彼は、同じように、東亜諸民族の人々をも被支配者としかみなかったであろう。そして、おそらく、そういう彼には、天皇の支配領土をふやし、被支配者を増加させていくということしか考えられなかったのではないか。彼には、支配される者の悲しみと怒りは、本当には理解されなかったのではあるまいか。
 それが陸軍の侵略主義、征服の衝動とと結びつき、中国を支配し、東南アジアを侵略する理由となったのではあるまいか。そのことは近衛が、敗戦後、日本国民の幸福を考えるよりも、天皇制の護持をなによりも強く考えたことで明かである。彼には、国民の幸福よりも、天皇制の方が大事であったのである。自分の支配者としての位置が重要であったのである。
 勝者であるアメリカに裁かれることを拒否した近衛は立派であったといえる。神の法廷で裁かれることを欲した彼は見事であったともいえよう。しかし、以上のようにみてくると、彼が、アメリカに裁かれるということを拒否したことは、単なるポーズでしかない。天皇制をまもるために、戦争責任が天皇におよぶのを防ぐために、自殺したにすぎない。事実、彼はその死によって、立派に天皇制をまもった。その意味では、なかなか、見通しもたしかであり、行動力もある政治家といえよう。
 しかし、日本国民を戦争の泥沼につきおとし、最後には、ウソの遺書をのこして日本国民を瞞着しようとしたことは、国民の一人として決して忘れてはならないことでないだろうか。日支事変以来、多くの過誤を犯したというなら、その責任を中国国民と日本国民にこそ果すべきではないのか。責任を果す相手を間違えているのではないか。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「田中義一 侵略内閣を組織した陸軍大将

 

 陸軍大将田中義一は、大正十四年に政友会総裁になった時、次のような挨拶をした。
「わが国の現状を考察しますると、政治も教育も経済も軍備も総ての方面に於いて充実を欠いて居ります。此処に国民の不安が生じ、種々の憂慮すべき現象が生ずるのであります。即ち、欧州大戦は世界の国際関係を変動し、吾々は一等国の虚名を握ったまま、旧式政治の舞台に取残されたと言うも過言ではあるまいと思います。今や、欧州諸国は戦勝国たると敗戦国たるを問わず、斎しく戦争の惨禍を痛感して、政治、経済の改造復興に絶大の努力を費して居ります。(略)
 国防は国家の絶対要件にして、大権を尊重し、組織の堅実を期すべきは勿論である。しかし、国防は外敵を防禦する専門的事業ではなく、国民が国家の安泰を保障し、併せて、国民自身の生活を安定し、国際平和を支持する為の国民共同の事業である。この理解によって、名実共に国民の国防たらしむる努力が、即ち、軍備問題の正しき解決をもたらすことを確信致します。(略)
 今や、普選実行の時代となり、議会政治の基礎も亦著しく拡張されたのであります。この機会を善用して、吾々は、万機公論に決し、上下心を一にして、盛んに経綸を行う維新の宏謨を翼賛し、由て以て、更始一新の明るい政局を打開せんと欲するものであります」
 まことに立派な意見である。それは、田中が政友会総裁の椅子を三百万円で買ったといううわさに似つかわしくない程に、堂々としたものである。総裁就任にあたって、田中は、本当にそう思っていたのかもしれない。だが、こういう発言も、単に、彼の美辞麗句にすぎなかったということを暴露したのが、政治家田中義一のその後の姿であった。彼が政治家としてなしたことは、すべて、この言葉を裏ぎる以外の何ものでもなかったようである。

 疑惑につつまれたまま内閣を組織、暗黒の政治を展開する

 まず、三百万円で総裁の椅子を買ったといううわさを裏づけるかのように、元陸軍大臣官房付二等主計三瓶俊治が田中義一と陸軍次官山梨半造を背任横領で告発した。総裁の椅子を買った金は国家の金であるというのである。つづいて陸軍飛行中尉川上親孝も田中、山梨を同様、告発した。だが、この事件も、担当の石田検事が田んぼの中で、変死体となって発見されたことにより、結局うやむやになってしまったのである。
 しかも、疑惑につつまれたままの田中が若槻内閣のあとをうけて昭和二年四月、内閣を組織する。そういう田中内閣が国民に対してどんな政治をしたのか。
 昭和三年二月は、待望の普通選挙が始めて行なわれた年であるが、内相鈴木喜三郎の選挙干渉はとくに強引であった。ことに、無産政党への妨害はひどく、長谷川如是閑に「これで大山郁夫君が当選すれば、黙って突立っている琴平神社の石燈篭でも当選する」と歎かせた。
 選挙投票前日には、鈴木内相は議会否認の演説までやってのける有様であった。選挙後、とうとう、鈴木は内相をやめさせられたが、田中内閣は、性こりもなく、四月十五日には、共産党関係者一千余名を検挙したし、四月二十七日には、治安維持法改正法律案を議会に提出した。国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織した者は十年以下の懲役という項目を、死刑、無期、五年以上の懲役というように更めようとした。
 議会がこの政府案をにぎりつぶすと、緊急勅令で、政府案どおりに改正する。こうしておいて、翌昭和四年四月には、またも、共産党の大検挙をしたのである。かつて「旧式政治の舞台に取残されている」とか「いまこそ、普選実行の時代である」といった田中が、その言葉を忘れたかのように、この姿である。普選そのものを駄目にし、旧式の政治をいよいよ旧式の政治においやっていく。文字通り、田中内閣は暗黒の政治をする弾圧の内閣であった。

 天皇と与党・陸軍の間でゆれ動き、みじめに迎えた幕切れ

 次は、これと平行して、中国に対する侵略的立場をつよめていった。これも、田中が総裁就任のとき、米、英などを侵略的軍国主義と否定したのとは反対の道を進むものであった。
 それは「居留民保護」という名目の下に、昭和二年五月に第一回目の山東出兵をし、翌年の三月には、第二回目の山東出兵をやっていることでも明かである。このために、中国に激しい排日運動がおこったことはいうまでもない。
 しかし、関東軍高級参謀河本大作が張作霖を爆死させた時には、さすがの田中もどうしていいか判らなくなる。提携しようとしていた張を、かつての部下が殺してしまったのである。彼の威信も威令も、もう陸軍に通用しないのを知らされる。
 この時、天皇は「軍紀を粛正にするように」と、とくに、田中にいっている。彼もはじめは、事件の担当者を軍法会議にかけ、厳しく処分するつもりでおり、その決心を天皇にも報告していた。だが、政友会の幹部はそれに反対した。白川陸相も反対した。
 政治家田中の心は、天皇と与党・陸軍の間にたって、信念のないままにゆれ動いた。政治家田中の能力をみせるのは、この時であったが、何も出来なかった。とうとう、白川陸相におしきられて、事件関係者を行政処分にすることで、その事件をうやむやにしてしまう。
 田中は、天皇に報告した。天皇はそれを聞くと、みるみる顔の色を変えて、「この前の言葉と矛盾するではないか」という。あわてて彼が、そのことについて説明しようとすると、天皇は「聞く必要がない」といって、さっさと奥にはいってしまったという。
 天皇の機嫌をそこねた彼としては、もう内閣をなげだす以外になかった。七月二日のことである。その三月後の九月二十九日、彼は持病の狭心症で急逝したが、一時、自決したのだといううわさがとんだほどである。みじめな幕切れであり、最後であった。
 もしも、田中が軍人として終始していたなら、軍隊教育の改善、軍隊と国民の一体観の確立など、数多くのことをやってのけており、立派な一生であったであろう。彼が総裁になった時の演説、とくにその国防論など、軍人田中が、軍隊と言う組織の中で、軍隊のあり方について考えた結論であり、彼の本音でもあったろう。
 しかし、信念のないままに、識見と抱負のないままに、政治家となり、総裁となり、終には、首相にまでなった田中は、全くみじめであったというしかない。その結果が、弾圧の内閣、侵略の内閣という汚名を冠せられることになるのである。彼自身が汚点にさらされるのはよいとして、民族が日本が、彼のために汚点にさらされることは、決して、許されないことであろう。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「牧口常三郎・谷口雅春」

 

   (一)

 牧口の創った創価教育学会、谷口の始めた生長の家は、ともに、昭和五年のことであるが、まず、牧口のことから書いてみよう。
 牧口は、明治四年に、船乗り渡辺長松の子として新潟県荒浜村に生まれた。しかし、まもなく、母親が父親と離婚したために、彼は祖父母に養われた。しかも父親は、樺太にいったまま、殆んどかえるということがなかった。
 そのためもあってか、十歳の時に、叔母の嫁ぎ先、牧口家の養子になっている。小学校を終えた牧口が、北海道の小樽にいる叔父をたよって郷里を離れたのが十五、六歳の頃。ここで彼は、警察署の給仕になった。それというのも、彼の生まれた荒浜というところが、日本海に面した荒海の海岸で、耕す土地も少い上に、漁業にも適していなかった。自然、この地方の始んどの人は、出かせぎにいく運命にあった。牧口も、そういう一人であったということである。
 しかし、幸いなことに、牧口の強い向学心に感心した警察署長は、小樽から札幌に転勤になる時、彼を伴い、彼を北海道尋常師範学校に入学させた。その時、彼は二十一歳。在学中、牧口は、彼の生まれた環境、そこに住む人達のことが頭から離れなかった。彼が地理学という学問に異常にひきつけられるようになったのもそのためである。
 しかも、彼の関心と興味をひいた地理学は自然地理でなく、人文地理であった。自然と人間の関係を追求するものであった。しかし、明治二十年当時には、まだ、そういう地理学を志向する学者は殆んどいなかった。
 その意味では、牧口は、師範学校の一生徒として、独自な研究活動を始めたということができる。それも、自分の問題意識を書物の中から観念的に発見するのでなく、生きた生活の中から、それを掴み、それを究明しようとした。
 こうして、出来あがったのが「人生地理学」である。三十三歳の時である。これより先、彼はそれを書きあげるために、教職を退き、妻と一緒に上京して、三畳一間の生活を始める程のうちこみようであった。
「人生地理学」は、多くの人々の注目を集めたし、版を何度も重ねるほどに好評であった。ことに、新渡戸稲造、柳田国男などは、彼に手紙を書きおくって、その著書を激賞したばかりでなく、それをきっかけとして、彼との交友も始まったのである。
 しかし、牧口の生活は、それによって確立するということもなかったし、経済的な窮乏は相変わらず同じであった。いろいろの仕事を転々とした後に、三十九歳の時、再び、小学校の教師となった。そして、三年後には、「教授の統合中心としての郷土科研究」という書物を書いている。
 牧口が、その中で明らかにしようとしたものは、小学校の各教科は、全くバラバラで、相互に何の結びつきもないために、その学習は不経済なばかりでなく、その知識は生きてこない。それに、人間の観念や感覚は、学校教育の中で発達するというよりも、むしろ、生まれおちた幼年時代から、日々何回となく、郷土における自然と社会の中で、深化し、発展するものである以上、子供達のそういう基礎的観念や感覚をいかに拡大し、明確にし、発展させるかということが、学校教育の、各学科の課題であるといいきったのである。
 それは、郷土科が各教科の起点であり、教育の出発点であると同時に、各教科の終点であり、教育の到達点であるということであったし、更には、どんな子供も、どんなに記憶力や理解力がわるい子供でも、郷土科を中心とする教育をやっていくならば、すぐれた知識、知能を身につけうるということであった。
 事実、牧口の教育を実施していくとき、昨日までの劣等生や問題児はどんどん変わっていった。彼がいよいよ自信を深めたのも無理はないし、その教育理論を一層深化させながら、それにもとづいた教育実践に猶一層挺身していったのも当然である。

   (二)

 しかし、牧口の教育理論と教育実践は、文部省のそれと対立した。とくに、彼が勤める東京府の視学の見解・指導と鋭く対立した。制約と妨害がひどくなる中で、どこまでも、自らの教育理論を貫こうとすれば、彼にも、自らを支える信念のようなもの、自らを信じきる信仰のようなものが必要であった。とくに大正から昭和にかけての思想統制、思想弾圧の荒れくるう中では、自らの思想をもちつづけること、それを実践していくということは至難のことであった。
 加えて、牧口には、その子供達を次々に病死させるという家庭的不幸も重なった。そのために、彼が日蓮正宗に近づき、それを信仰していくようになったのも、また自然のことであった。昭和三年、五十八歳の時である。
 しかし、牧口は、日蓮正宗を信仰していく過程で、彼がそれまでに考えてきた教育思想を放棄することなく、逆に、その思想を彼の日蓮正宗の中に生かし、それを、統一していった。いいかえれば、日蓮正宗の信仰内容を牧口は発展させていった。昭和の日蓮正宗にふさわしく、新解釈をあたえ、日蓮以後、長い間、細々と続いてきた日蓮正宗に新しい生命を注入したということも出来る。
 そのことは、昭和五年に出発した創価教育学会、そこから出版した「創価教育学大系」の中にくわしい。牧口は、まず、その序論に、
「創価教育学とは、人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系を意味する。人間には物質を創造する力はない。われわれが創造しうるものは価値のみである。いわゆる価値ある人格とは、価値創造力の豊かなるものを意味する。この人格の価値を高めんとするのが教育の目的……」と書いて、彼の教育論、人間論の中心をなす「価値論」を展開した。彼にとって、「価値論」とは、人間として、どうしても解決しなければならないもの、また、どんな人々も解決しなければならないものであり、決して、学者とか哲学者、宗教家などに呑気にまかしておけないものであった。
 即ち、「真理とは、ありのままの実在を表現したもので、対象相互間の関係である。故に真理は人にも時代にも関係なく不変であり、ただ、われわれが見出すもの」である以上、真・善・美という従来の価値体系から、真をはずし、そのかわりに、利をいれるべきである、と彼はいいきった。ことに、価値という概念を導入し、考究してきたのは経済学者であり、彼等のいう経済的価値は結局利である以上、その利を価値から落とすのは全くナンセンスに近いということに気づいた。
 牧口は、それと同時に、「利と美と善とは、ある程度共通する概念である。この三者は相互間に混淆すべからざる個性を各々特有してはいるが、その裏に価値という概念に等しく包容せられてさしつかえない類似の性格をもっている」とも書いた。それは、利・美・善の価値は、価値として統一されなければならないし、その統一された利・美・善を追求し、創造することが人生の目的であるということであった。
 この結論にしたがって、彼は、これまで以上に、捨身の闘いを展開した。利・美・善の統一的価値の実現が彼の全てであった。創価教育学会をそういう行動をおこす人々の母胎と考えたことはいうまでもないが、彼にとって、最も必要なことは、「郷土科研究」にのべたように、会員一人一人が価値にめざめ、自ら選択して、自立的自主的に行動をおこすことであったし、どんな会員にもそういう能力がそなわっているということであった。それを可能にし、それをすべてのものにあたえるものが真に思想の名に値しうるものであった。その意味で、牧口のそれは、信仰というよりも、むしろ、思想であった。もし、信仰というなら、思想にうらづけられ、思想と表裏一体をなした信仰である。それは、彼が狂信・盲信を厳しく拒否したことでもあきらかである。だが、反面、信仰にゆきつかないような思想、確信のもてないような中途半端な思想も否定した。ここに、思想家兼宗教家牧口の独自性がある。真理を発見し、価値を無限に創造しようとした彼の厳しい姿勢がある。
 牧口のこうした生き方は、その後、いよいよ鋭く、且激しいものになってゆき、昭和十八年には、とうとう、国家権力と真正面から対決することになり、ついには、検挙され、翌十九年には、巣鴨拘置所で、未決のまま死亡するという運命を辿ることになる。

   (三)

 谷口は、明治二十六年、神戸の六甲山のふもとに生まれた。生家は農業であったが、牧口と同様に、叔母の家にもらわれて育った。しかし、牧口家と違って、谷口のもらわれた家は町工場を経営していたので、市岡中学から早稲田大学の英文科に入学した。
 英文科入学は、社会的な地位とか富をもって人生の成功と考えていた当時の常識に対する谷口の最初の抵抗であった。しかし、ここで、彼は、よい指導者を発見できないままに、いよいよその抵抗を強めて、彼の喜びを愛の耽溺の中に発見していくしかなかった。それは、近所に住む十七歳の少女への愛であった。彼女は、貧しい、それ故にまた、無智なままにおかれた少女であった。
 谷口には、彼女を守ってやるという喜びがあり、自分自身がそのことで、神に近づいているという満足があった。だが、彼の喜び、彼の満足とは反対に、養母はそのことを知ると学費を送るのをやめてしまった。そのために、大学は中退の形になったばかりでなく、早速、生活のために、職さがしをするという所に追いこまれた。適当な職がみつからないままに、この頃、彼は、何度も死を思いつめた。
 それは、彼が、少女の生活力と才覚によりかかるしかなく、彼自身、何も出来ないという自嘲からきたものであった。しかも彼は、そういう状況の中で、「もう一度、大学にかえりたい」ということだけを考えてくらすという有様であった。彼女が彼を捨てたのも無理はない。
 一人になった彼は、養母になきついたが、大学にかえしてくれない。しかたなく、大阪の紡績工場の労働者になった。仕事は非常につらい。彼は再び、遊女を愛することで、その苦しみから逃避していった。しかも、彼は今度もまた、遊女を憐むと思いこむことで、彼自身の心を満足させていた。
 だが、彼と遊女との関係は思わぬ方向に発展していった。即ち、彼は彼女から病気をうつされてしまい、その治療のために、催眠療法とか心霊療法にこりだした。とうとう、彼は「ばい菌の伝染という思想を否定しはじめた」のである。伝染の事実を否定して、伝染というのは思想にすぎないと思いこむ。「生長の家」の病気は心でなおせるという原理の萌芽は、この時に出来たといってもよい。
 一方、工場での彼の職場は、これまでの機械の保全係から、現場監督に移った。彼は、監督という仕事をのろわずにはいられなかった。彼はいう。「富豪の手先になって労働者をいじめ、富の分配を一層不公平ならしめつつ給料をもらう生活、ああ、何という醜い生活でしょう」と。そう考えた彼は、職場を去る以外にない。たとえ、彼が職場を去っても、資本主義的労働が存在する限り、労働者の苦しみと怒りは決してなくならないが、彼にはもはや一日もそこにいることは出来なかった。それは、少女に、遊女にしめした憐憫の情であった。だが、それが彼の生甲斐であったのである。
 谷口は工場を去った後、大本教に接近していった。彼の愛と和解と自由と正義を求める一すじの心を大本教が招きよせたといってもいい。ことに世の中の建てかえの時期は、大正十一年三月三日か五月五日にくるというお告げの前に、大本教の信者達は興奮していたが、谷口もまたこれを信じ神のさばきを予想した。ひたすらその実現を欲した。
 だが、その日はきたが、何もおこらなかった。神の審判はおこらなかったのである。彼はがっかりして、大本教を去り、同時に、大阪の生活を捨てた。

   (四)

 東京にきた谷口は、早速、「聖道へ」という一文を発表した。その時、彼は、三十歳であった。彼は、そこで、罪とさばきの宗教でなしに、和解的な救いの宗教でなければならないとのべた。つづいて書いたのが「神をさばく」という小説であった。それによって彼の思想は徐々に成熟していった。
 その彼を決定的な立場にやったのが娘の病気であった。金がないために、医者に見せることも出来ない。そこで、彼は、日頃研究していた触手療法をためしてみる以外になかった。その効果があったことは、いうまでもない。更めて、人間の病気に対する力ということについて考えた。しかも、多くの人間は、経済力がないために、病気のまえに苦しんでいるということであった。それこそ、人間の病気は革命をまってくれない。多くの人にとって、病気は、革命よりも切実であるということであった。
 これらが基礎となって、谷口の中に、「実相だけがある」という神示がひらめいた。早速、彼は雑誌を出した。昭和五年のことである。
 創刊号には、次のような趣旨がのっている。
 「自分はいま、生長の火をかざして人類の前にたつ。たたざるを得なくなったのである。人類は今危機に瀕している。生活苦が色々の形で押しよせて人類は将に波にさらわれて覆没しようとして小舟の如き観ではないか。……
 自分がかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分はこの火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば、境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば、運動を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服しうるか、また、如何にせば、貧困の真因を絶滅しうるか、如何にせば、家庭苦の悩みより脱しうるか……」
 こうして出発した生長の家は、「生命の実相」や「生長の家」誌などを発行して発展していった。ことに、創価教育学会が国家権力、とくに戦争勢力と次第に鋭く対決し、壊滅状態になったのに対して、生長の家は、逆に、それらと深く結びついて膨脹していった。一例をあげると、「軍の進むところ、宇宙の経倫が廻る」というように。そして、「国体の本義」に書かれた天皇絶対化は、まだ不十分であると文部大臣を攻撃するというほどであった。
 敗戦後になると、一転して、早速、「生長の家の教えほど平和愛好なものはない」という始末。はては、「仮面愛国者の恫喝を防ぐため、やむなくやったもの」と弁解する。しかも、再軍備が始まると、またも「戸締り論」で、賛成するという、変り身のはやさをみせた。
 谷口のいう和解とは、国家権力との和解であり、自由とは、国家権力に迎合する自由であり、正義とは、国家権力の正義に依存することであろうかという疑問がわいてくる。しかし、いずれにせよ、政府から放置され、日本経済から疎外されている人々の切実な願いをさきどりして、人々に生き甲斐を発見させ、生きる喜びを与えてきたことは大きい。文字通り、人々は、今日に、日々、生きる者であり、未来だけに生きるものではないからである。
 政府のやるべき仕事を、代って、谷口がやってきたといっても過言ではない。

   (五)

 谷口が牧口と違って、常に、国家権力と和合し、国家権力の変貌とともに、変貌していった原因はどこにあるのであろうか。それは、宗教が最も問題にする人間の心の内面・法則を直視しながら、その心が生き、存在し、活動する現実の世界を直視することを、ともすると忘れがちになり、更には軽視したからである。
 いいかえれば、人間の生きている政治の世界、経済の世界をみようとせず、政治の世界、経済の世界をリードする人々、国家権力を形成する人々に依存するしかなかったためである。更には、多くの宗教家、大抵の宗教団体が保守的となり、現体制支持の傾向をもつのもそのためである。それは、多くの宗教家が、本当には心の解放を求めず、心の喜びと満足が何であるかを徹底的に考えなかったためである。
 国家権力の奴隷として生きることを求められ、日本経済から疎外されて生きることを求められるということは、谷口のいうように、幸福になれないということである。境遇の桎梏から脱け出せないということである。谷口は幸福といい、桎梏から脱け出すといいながら、実際には、桎梏をそのままにし、運命に支配され、貧困の中に生きることを人々に求めているのである。こういうことが平気で通っているところに、谷口の世界の奇怪さがある。
 それに反して、牧口は、日蓮の教えをうけつぎ、その思想を発展させようとした者だけに、その政治と経済に鋭い洞察を働かせようした。それは、日蓮の基本的立場でもあった。しかも、日蓮は、正法をまもろうとしない国家は亡ぶといいきった。亡んだ方がいいとさえ断言した。彼にとって、国家は唯、何が何でも存続すればいいというものではなかった。正法をまもる国家であってこそ、国民を本当に救う国家であってこそ、始めて、存在するに価すると考えたのである。
 日蓮は、人間の救いは、心の中だけにあるとは少しも言わなかった。それを継承した故に、牧口は、利・美・善の価値実現を考えだし、利・美・善の統一した価値の実現を願ったのである。それは、直接的には、政治における美であり、経済における美であると同時に、政治の世界における利・美・善であり、経済の世界における利・美・善を実現するということであった。
 そこから、牧口は、戦争勢力を醜として批判した。批判しなければならなかった。利の追求をさまたげる資本主義も、早かれ、おそかれ、批判しなければならなかったものである。
 そこに、牧口の思想と谷口の思想の根本的相違がある。しかし、そのことは、牧口の思想を無条件に肯定し、谷口の思想を全て捨ててしまうことでもないし、否定し去ることでもない。
 今日、必要なことは、谷口の思想を内在的に批判し、発展させることである。彼がまともに考えているような国民の幸福と解放を、真に国民自身のものにできるように、彼の思想をつくっていくことである。そうでなければ、幸福といい、解放といっても、それは国民にやってこない。それは、生長の家会員のみでなく、私達現代人のつとめでもある。
 同時に、牧口の思想を更に、発展させなければならない。とくに、牧口が学問とは民衆のものであり、民衆自身がつくりうるもの、つくらなくてならないものといいきった言葉は今ようやく現実のものとなろうとするときにさしかかっている。私達は、その言葉の前に、感動するだけではすまされないのである。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「明治維新と暗殺」

 

   (一)

 古来より、日本の歴史は暗殺によって、その方向を変えることが多かったといってもよい。読者の皆さんの記憶の新しいところでは、昭和十年前後の日本の方向を大きく変えたのは暗殺であったということである。暗殺によって日本の方向をきめる位置にあった人々が殺されるとともに、その人々に影響を与える人々の口が暗殺の恐怖で閉じたということである。わずか数十の暗殺がその方向を変えたのである。
 明治維新という、日本史における一大変革も例外ではなかった。そこに日本史の特色があるといってもいいし、民衆の力がそれだけ弱かったということもできる。いずれにしても、暗殺が日本史変革の鍵をにぎっていたといっていい。今日再び、暗殺に近いことが行われている。それが民衆の地位向上から見た場合必ずしも好ましいということもできないが、民衆の力は歴史を決定するほどに向上せず、愚昧な民衆の上にたって、今日の指導階級は数多くの暴力を駆使している。それに対して、被支配階級の中のめざめた者が暗殺という暴力を日本歴史の中より学びとるのも、自衛上、やむを得ないといってもよい。それこそ、支配階級も被支配階級も日本人はあげて、明治維新の大変革を讃美する。しかし、これまで、何人が明治維新史は暗殺史であったことを知っていただろうか。明治維新史といえば、一見明るい歴史であるかの如く思いがちであるが、その実、いいようもないほどの暗黒史であったのである。人々は、とくに支配階級にぞくする人々は、故意に、その事実に眼をふさいでいたにすぎない。明治時代という、江戸時代に比べると、数段明るい時代は、暗殺という、最も暗く、残酷な時代を通りこして生まれてきたという事実を、今日見定める必要がある。だからとて、私は暗殺を讃美するものではない。しかし、くりかえすが、今日のように、沢山の愚昧な民衆の協力のもとに、支配階級が暴力を振う時代には、民衆の中の眼覚めた人々は、自衛上、暗殺という最下策を日本史の中から、とくに明治維新史から学ばなければならないということである。それは全く悲しいことであるがやむを得ないことである。支配階級にぞくする人々こそ、明治維新史は暗殺史であったことを知るべきである。では、どのように暗殺史であったのか、その事実を簡単に以下に述べてみたいと思う。

   (二)

 明治維新史がいつ頃より始まるかについては論者によって種々意見があろう。外国の到来を考える者、封建体制のゆきづまりを考える者、町人階級の抬頭を考える者、いろいろあろうが、江戸時代という体制に大きなひびができたのは、大老井伊直弼の暗殺によるものであることを否定する人はあるまい。それほどに、大老井伊の暗殺ということは、日本史の方向を考えるうえで、決定的な意味をもつ大事件であった。井伊暗殺によって、二百年余も不動であると信じられていた江戸幕府にも大きくゆらぐものがあるんだという気持を人々の胸深くにあたえたものは大きい。大きいと言うよりも決定的であった。そればかりか、この暗殺が第二第三の暗殺を誘発し、終には幕府を滅亡におとしこんでいったのである。明治維新は、この暗殺でできあがったと言っても過言ではない。その意味で、井伊暗殺にたちあがった金子孫二郎たち十数人の決意というか、決断は予想をうわまわるものであったろう。彼等が井伊を暗殺するという計画は長期にわたってなされたものだが、彼等が江戸幕府を支えていると思われる井伊を斬るということは、直接に江戸幕府そのものに斬りこむことであり、当時何人も予想しなかったことであろう。まして井伊を倒せるということは考えられないことであろう。しかし、彼等は見事にそれをなし得たのである。これを聞いた幕府の要人も一般の人々も恐らく初めは信じられないことであったろう。勿論、金子たちにしても、この暗殺が江戸幕府そのものを滅亡にみちびくものになるとは、全く予想していない。せいぜい、幕府の政策を変えるぐらいしか考えていなかった。だが井伊暗殺という快挙は彼らの頭脳をこえて、日本史を変革するというところまでつき進んだのである。このように考えてみると、暗殺という事件が歴史にもっている意味は非常に大きい。一暗殺が歴史の歩みすら変えるのである。
 その暗殺の事情は、先述したように、金子たち十数人によるものであったが、彼等が井伊大老の暗殺に強引にふみきった理由としては、井伊が幕政に批判的であった橋本左内、吉田松陰、梅田雲浜、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門とその子幸吉、水戸藩家老安島帯刀、水戸藩士茅根伊予之助たちを殺し、水戸前藩主徳川斉昭国許永蟄居、水戸藩主徳川慶篤差控、徳川慶喜隠居の処分にし、水戸藩士鮎沢伊太夫を遠島にしたためである。この他にも数多くの人間が処分になっている。西郷隆盛が憎月照と入水したのも、井伊の追求をさけられないと観念したためである。
 処分された人々というのは、大老井伊が、多くの人の期待であった将軍候補徳川慶喜を退けて、家茂を将軍にしたということ。不平等条約を外国に強制されるままに調印したということに対して、鋭く反対したことに対し、大老井伊が処分に出たのである。この事件で、前藩主を始め、藩主、慶喜、安島帯刀、茅根伊予之助、鵜飼吉左衛門、鮎沢伊太夫というように、主だった指導者を失った水戸藩士の怒りは、とくに甚しかったということである。水戸藩士の怒りが大老井伊に集中したといってもよい。
 大老井伊を暗殺するという計画は、安政五年秋から始まり、徐々に情況をたかめていったものである。彼等は三月一日、日本橋西河岸の待合茶屋に集まって、種々の打合わせをしている。三月三日に襲撃することは、此の日きまっている。その指針としては、
一、武鑑をもっていって、各大名行列の道具を鑑定するようなフリをしながら待機する。
二、四、五人ずつ組んで、助け合いながら敵に掛る。
三、はじめ、行列の先頭におそいかかり、かご脇の者が狼狽して、井伊の警固の隙ができるのを狙って打ち取る。
四、必ず井伊の首をあげる。
五、負傷した者は自殺するか、または老中の屋敷に訴える。その他の者は、京都に潜行する。
以上のことを申し合わせている。当日、此の行に参加したのは、先述の金子孫二郎を始めとして、関鉄之助、木村権三衛門、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、有村治左衛門、森五六郎、たちであった。暗殺が成功したことはいうまでもない。この暗殺計画と平行して、吉田松陰も老中間部の暗殺を計画している。此の方は失敗したのみでなく、当の松陰自身がこの計画のため、その生命を落している。
 暗殺という行為のもつ、他面の厳しさである。この井伊暗殺をきっかけとして、数多くの暗殺がおこっている。情況が厳しくなったためといえよう。しかし、井伊暗殺が日本の歩みを変えたほどの暗殺は殆んど此のあと、おこっていないが、此のあとにおこった暗殺にはそれなりの意味があった。

   (三)

 即ち、土佐藩で、武市瑞山の命令をうけて、那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の三人が吉田東洋を暗殺した事件など、一時的にせよ、藩の世論を変えるうえに、大きな出来事であった。少くとも藩の中に、幕府の批判派の力が定着するのである。
 吉田東洋とは、藩主に絶大の信用をもつ実力者であるばかりでなく、藩の執政でもあった。生前の大老井伊のように、彼によって、多くの人々が勇気づけられ、藩の体制が佐幕にがっちり、かためられていたのである。彼のいるかぎり、反幕派がつけいる隙もなかったのである。そのために、武市瑞山が彼を殺しさえすればと思ったのも無理はない。こうして、彼の暗殺計画はきまったのである。
 始め、武市は、岡本猪之助、岡本佐之助の第一組、島村衛吉、上村楠次、谷作七の第二組に吉田東洋をねらわせているが、成功しないので、那須たちの第三組を設けたのである。那須たちは東洋が城から下向するのを待ちかまえて成功したものである。だが、実際には那須たち三人の外に、宮田頼吉たち数人の助太刀がいて、多数の者が一人を殺したのである。
 晒首には、次のような斬奸状がつけられていた。
 「この元吉(東洋の名前)重き役儀に立ちながら、心侭なる政事を取り行ない、天下不安の時節をも顧ず、一日も安気に暮したき処存をもって、土佐藩次第に御窮乏の御勝手に相成り候籾、追々、存分にすりつくし、御国内御宝山等のこらず切りはぎ、何によらず下賤の者よりは金銀きびしく取りあげ、御国民上を親しみ候う心を相隔てさせ、自分においては賄賂を貪り、無類のおごりをきわめ、江戸表において軽薄の小役人へ申しつけ、御名をたばかり、結構なる銀の銚子を相調え、且つ己の作事、平常の食事、いよいよ華美をきわめ候うこと、このまま差し置き候うては、士民の心いよいよはなれ、御用に立ち候うもの一人もこれなきよう相成り、終には御国滅亡の場とも相成り候うにつき、不肖の我輩ども、よぎなく、堪忍なしがたく、上は国を患い、下は万民の難苦を救わんがため、おのが罪を忘れ、かくのごとく取り行い、なおまた晒しおき候うものなり」
 三人は、暗殺後走って、行野の町をすぎ、仁淀河原の渡場の男をだまして、河をわたった、夜があけると、女川村の旅館で朝食をたべ、大平村から御嶽をこえ、高瀬村の間道をぬけて、伊予の国岩川に一泊。翌日は久方町泊り。更に松山を通って三津ヶ浜から船にのった。長州が目的地である。
 下関に着いた三人は、白石正一郎から、薩摩の島津久光が上京するというので、長州の有志もみんな京都にのぼったときく。そこでまたすぐに上京、久坂玄瑞は三人を長州藩にかくまってくれた。しかし、すぐにそのことを土佐藩がかぎつけた。やむなく薩摩にたのむことになり、三人は京都の薩摩屋敷にはいった。土佐藩に政権交代がおこり、追求もあまり厳しくなくなったので、ここにおちつくことになる。
 東洋のなきあと、彼の意志をうけついで、反対派を圧えるだけの人物はいなかったのである。だから反対派にしてみれば、東洋さえいなくなればと思ったのもむりはない。丁度、幕府にとっての井伊の位置を吉田は土佐藩でしめていたのである。その点で、武市は最も攻撃の価値あるところに、攻撃をかけたことになる。

   (四)

 大老井伊の暗殺についで、老中安藤信正に対する暗殺未遂がつづく。これは、平山兵介、黒沢五郎、高畑総次郎、小田彦三郎、河野顕三、川本杜太郎の六人による老中安藤の襲撃で、わずか六人のため、安藤の背中に一太刀をあびせただけで、全員切死にして、その目的を達成しないまま終わった事件である。二年前の井伊暗殺によって、駕籠脇の警戒は厳重になったということを知悉しながら、彼等はわずか六人で決行している。それというのも、始め、その襲撃に参加する予定のうち、大橋訥庵とその子正寿、松本、菊地教中、松本太郎の五人が、事前に逮捕されたのである。残った者は少人数ということを知りながら態勢をととのえるのを待てなかったのである。いってみれば敗死を覚悟の上で、やむにやまれぬ境地から実行したのである。彼等は安藤という人間の存在を葬むるという、一見野蛮な行為を実行していく上に、彼等自身もまたその全存在をかけたのである。悲壮というしかいいようがない。相手を抹殺して、自分たちだけは生きようとするのとは全く違う。ともに生命を葬ったもの同志の死闘である。涙なしには、この事実を語ることはできない。彼等の斬奸状に、「先年井伊を倒したので、少しは幕政が改まるかと思ったのに、一向悔心の模様もみられない。それどころか、ますます暴政がつのっている。これについては安藤信正の罪が一番重い。」
とあるように、誰が幕政の中枢にすわろうとも、自分たちの信ずる理想に反する者は断乎として暗殺するという姿勢を示したことで、この暗殺未遂事件は非常に意味があった。これは、大老井伊暗殺を追いかけるものとして、もはや志士たちの考えに反する者は誰でも暗殺されるんだということを、天下に示したのである。ここには一つの威圧がある。暗殺を定式化したといってもいい。
 このあと、暗殺が日常化することによって、暗殺があいつぐことになる。即ち九条直忠の家臣島田左近、同じく九条家の諸大夫宇郷重国、目明かし文吉、更に長野主膳の妾村山加寿江、その子多田帯刀とつづく。島田左近は田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の三人に暗殺され、宇郷重国は岡田以蔵たちに暗殺され、目明かし文吉も同じく岡田以蔵たちに殺されている。村山加寿江を斬ったのは、千屋菊次郎、河野万寿弥、小畑孫三郎、依岡権吉たちである。暗殺されたのは、すべて、大老井伊を助けて暗躍した人々で、反幕の人たちより非常に嫌われていたのである。

   (五)

 田中新兵衛は当時二十二歳の青年武士で島田左近を斬ったことより、「人斬り新兵衛」の名前をもらうほどに有名になった。島田を斬った経緯は次の通りである。
 島田は、文久二年五月はじめより、京都祇園の芸者を身受けして、木屋町辺に住まわっていた。十七日から、ここに滞在しており、二十日には芸者三人を呼びよせている。彼は湯あがりのまま、涼んでいるところに武士三人が訪ねてきた。土足のまま上がりこんだので、島田も不審に思ったが、時すでにおそく、武士たちは島田を押えつけ、そばにあった島田の刀で背中を斬りつけた。そこで、島田は「人違いだ」と叫んだのである。すると、武士の一人が「島田左近なら九条家の家臣だから勝手に殺すわけにはいかないが左近でなければ遠慮なく斬る」といったという。島田はその言葉にひっかかり、自分が島田左近だと白状して、結局殺されてしまう。その三日後になって、島田左近の首が加茂の河原に晒首になったのである。そこには次のような罪状がしるされていた。
 「この島田左兵衛権大尉事、大逆賊長野主膳へ同腹致し、所謂奸曲を相巧み、天地容るべからざるの大奸賊なり。これによって、誅戮を加へ、梟首せしめ候なり。文久二年七月二十三日。」
 島田左近は大老井伊に協力しただけでなく、金貸し、恐喝、などをやってのけ、庶民の憎しみと怒りを一身に背負っていたから、彼の暗殺により、その理非はともかくとして、田中新兵衛が一躍かっさいをうけたのもむりはない。
 宇郷重国が殺られたのは、次の通り。
 彼は丸太町の加茂川西河原にある九条家の下屋敷に住んでいた。二十二日の夜八時ごろ、彼が子供とあそんでいるところに、勝手口から、数人の武士が土足のまま踏みこみ、やにわに、斬り掛ったのである。その中のある者は妻が病気でふせっているのをみて、彼女の頭にふとんをかぶせて、「声を立てるな」とどなったという。妻がしばらくして起きだしてみると、夫の胴体だけがあったという。
 この島田、宇郷、文吉、加寿江、多田のほかにも、対島藩家老佐須伊織、土佐藩横目付井上佐市郎、京都町奉行与力渡辺金三郎、同じく上田助之丞、森孫六、大河原重蔵、幕府の御用学者塙次郎、商人平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛、万里小路家の家屋小西直記、一橋家用人中根長十郎、赤穂藩家老森主税など数えあげたらきりがない。これらの暗殺は大老井伊の暗殺、老中安藤の暗殺未遂事件のように、歴史の方向を決定的に変えるものでなかったが、渡辺たちの暗殺により、残りの与力小寺仲蔵はもう逃げられないと思い定めて、自殺し、高屋助蔵は頭をそって姿をかくしている。だから、暗殺者たちの目的は十分に達したといってもいい。

   (六)

 これら数々の暗殺がその頂点に達したのは、木像梟首事件であろう。その内容というのは、伊予松山の浪人三輪田綱一郎、江戸の医師師岡節斉、下総出身の宮和田勇太郎、同じく建部健一郎、因州浪人竹内新八郎、同じく仙石佐多男、それに信州の高松長之助、京都の町人小室信男、中尾郁三郎、近江八幡の西川善六、会津の大庭泰平たちが加わって、洛西の等持院にある足利尊氏、義詮、義満の三代の木像の首を切り、それらを三条大橋に晒した事件である。その首には斬奸状があり、それには、「名分を正すべき今日に当たり、鎌倉以来の逆臣一一吟味をとげ、誅戮いたすべきところ、この三賊は巨魁たるにより、まずは醜像へ天誅を加うるものなり」、とあり、更に、三条大橋の上には捨札があり、それには、「賊魁鎌倉頼朝世に出て、朝廷を悩まし奉り、不臣の手はじめをいたし、ついで、北条、足利に至りては、その罪悪じつに容るべからず、天地神人ともに誅するところなり。(中略)それにより、爾来今世に至り、この奸賊に超過し候うもあり、その党あまたにして、その罪悪足利氏の右に出ず。もしそれらの輩ただちに旧悪を悔い、忠節をぬきんでて、鎌倉以来の悪幣を掃除し、朝廷を輔佐し奉り、古昔に返し、積悪を償うところなくんば、満天下の有志追々大挙して、罪料を糾すべきものなり。」とあった。明らかに誰が見ても、足利の首を現将軍に擬し、江戸幕府への挑戦状であることがわかった。暗殺はついに木像までにおよんだのである。その心理的効果は大きい。
 この事件に前後して、知恩院宮家士深尾式部、高槻藩士宇野八郎、京都町奉行所の輩下中座林助、更に池内大学、千種家家臣賀川肇、僧正惇、光惇、浪人神戸六郎、深野孫兵衛、家里真太郎、長州藩士中島名左衛門、浪人植村長兵衛、旧華頂宮家家士森田道意、徳大寺家家士滋賀右馬大允、町人八幡屋卯兵衛、五条代官鈴木源内、新撰組斎木又三郎、鈴木八五郎、中根一之函、黒江屋中兵衛、大阪町奉行所の北角源兵衛、佐久間象山、坂本竜馬、中岡慎太郎たちが次々に暗殺されている。
 池内大学の場合、彼は始め、安政の大獄のときまで、梁川星厳、梅田雲浜などと行をともにしていたが、自首してでて助かった者である。所謂転向者の一人である。その彼が、土佐藩主山内容堂に呼ばれ、その帰途に斬られ、その両耳は中山忠能と王親町三条実愛の家に、脅迫状つきで、それぞれ投げこまれたのである。二人はその脅迫状にあった文面、「御改心の上、今日より日数三日を限り、きっと御辞職御退陣なさるべく候。万一その儀なくば、衣冠の尊きといえども、国家の御為には替へ難く、推参仕り、この耳の如くに致すべく候」、とあったのを見て、あわてて退職している。
 賀川肇の場合は斬られて、首と両手を暗殺者たちに持っていかれている。そして、その首は脅迫状とともに、東本願寺に泊まっている将軍後見職一橋慶喜の所に投げ込まれ、両手の方はそれぞれ、これまた、脅迫状と一緒に、千種家と岩倉家に放りこまれた。ともに、三人を索制するためである。千種家と岩倉家はともに七日間の穢れ払いをやっている。
 また、佐久間象山は京都木屋町三条上るを一町ばかりいったところで、河上彦斎たちに斬られ、坂本竜馬と中岡慎太郎の二人は京都河原町四条上る二丁目の醤油屋近江屋新助方で、京都見廻組の佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥忠蔵、桜井大三郎たちに斬られたということになっている。竜馬は武力で幕府を打倒しようとする薩摩藩に対して、あくまで平和的に新しい日本を作ろうとした男で、彼を殺したのは薩摩藩の者でないかと一時うわさがたったし、私が竜馬を殺ったと名乗りあげる者が次々に出るほどに、彼は当時大物視されていたし、事実日本史の歩みを決定する人物であったのである。今日明治維新が不完全なまま終わったのも、彼が殺されたためという見方も強い。暗殺が歴史をゆがめた一例である。

   (七)

 今迄のところは、主として、反幕派の人々の暗殺をのべてきたが、それに対し、当然幕府側の反撃もでてきた。まず最初は、清河八郎が佐々木只三郎たちに斬られた。これによって、始め尊王攘夷の方向に歩もうとしていた浪士隊が新撰組に変貌するきっかけになった。元土佐藩士豊永良吉が暗殺になったのも幕府側の手によるものであった。しかし、なんといっても、先述の新撰組による大々的暗殺がその中の主なものであろう。その一つに池田屋事件がある。そこでは、宮部鼎蔵、松田重助、北添佶摩、望月亀弥太、吉田稔磨、杉山重助たちが殺されている。平野国臣が獄中で暗殺されたのも例外ではない。しかし、最も不思議なのは、反幕の中心公卿の一人である姉小路公知が暗殺された経緯であろう。
 彼は会議を終え、供四人をつれて、自宅への帰途に襲われたのである。だが、太刀もちの金輪勇がいち早く逃げたので、公知はやむなく、扇子で応戦したが、相手は三人、とうとう、斬り殺されてしまった。その時、現場には暗殺者の太刀と思われるものが落ちていた。そこで、田中新兵衛が逮捕され、東町奉行の永井尚志にしらべられることになったが、その取調中に、田中は一言の弁明もなしに、咽喉をついて死んでしまったのである。少くとも、田中が殺す筈はないし、その刀は数日前にすりかえられたということである。真偽はたしかめようがないが、自分の刀をすりかえられたことを恥じて死んだということも考えられる。一説には、真犯人は永井だともいわれているし、あるいは孝明天皇、中川宮ともいわれている。いずれにしろ、田中はその罪をきせられたと考えてよかろう。だが、この事件で、薩摩藩は田中を失ったばかりか、その信用も非常に下落するのである。公知暗殺の経緯は幕府側のしくんだ巧妙な手であった。激派公卿にあたえた心理的効果は大きかった。しかし、幕府の力が衰えた中で、新撰組だけは、なおも、土佐藩士大利県吉を暗殺した如くに、その猛威を逞しくしていた。だが、なんといっても、暗殺の中心は、反幕側にあったということができよう。

   (八)

 こうした情況の中で、悲惨なのは、暗殺が反幕派、幕府側それぞれの内部で、指導権争いのために、利用されたことであろう。
 中でも代表的なのは、寺田屋事件であり、本間精一郎暗殺であり、更に新撰組局長芹沢鴨暗殺、原市之進の暗殺である。
 寺田屋事件というのは、激派中の激派であった有馬新七たちを、同じ薩摩藩士が斬った事件である。島津久光が自分の統制権をまもるためであった。
 次の本間精一郎暗殺は、同じ反幕派の武市瑞山が田中新兵衛、岡田以蔵に命じて、やらせたものである。理由というのははっきりしないが、薩摩藩が武市に言い、武市が田中と岡田を動かしたもの。実は此の頃、薩摩藩は先述の寺田屋事件以来、非常に評判が悪い。それに比して、長州藩は一応激派一本にしぼられて、世間の評判がいい。本間はその中にあって長州びいきである。薩摩としては、直接不満を長州藩にむけることもできず、その不満を本間を殺ることではらそうとしたようである。だから、本間暗殺の理由が不明朗である。いってみれば、薩摩と長州の主導権争いの犠牲になったといってもいい。
 彼の斬奸状には、「本間精一郎、右の者罪状、いまさら申すまでもこれなく、第一虚喝を以て衆人をまどわし、その上、高貴の御方へ出入、侫弁を以て薩長土をさまざまに讒訴いたし、有志の間を離間し、姦謀を相巧み、或は非理の貸財を貪り、その外、いわれざる姦曲、筆上につくし難し。このままに差しおき候ては、無限の禍害を生ずべきにつき、かくの如く梟首せしむるものなり」、とあるが、この暗殺に当って、長州は何も相談をうけていない。
 新撰組局長芹沢鴨が、近藤勇の命をうけた新撰組隊士にきられたのも、近藤の統制権を確立するためであったし、一橋慶喜の家臣原市之進が、同じ幕臣鈴木豊次郎、依円雄太郎、鈴木恒太郎の三人に斬られたのは、単なる原に対するねたみであった。原は元来水戸藩士であったが、その後、慶喜につかえ、慶喜が将軍になるとともに、原の地位も発言力もまし、老中もおよばぬほどであった。そのために、原をねたむ者が幕臣に非常に多かった。とくに、旗本の間に多かった。前述の三人はともに旗本である。原を失った将軍慶喜はそれ以後、やる気持をなくし、大政奉還もそのためになったという位である。旗本たちのねたみが彼等の首をしめたのである。皮肉な事件であったといえる。

   (九)

 暗殺という行為は、以上見てきたところで明らかなように、やむにやまれぬところから生れた最底のものであるが、歴史を大きく変えるうえでは、最もすぐれた行為といえる。
 暗殺によらないで、歴史の方向を変えるにこしたことはないが、日本のように、その意識のおくれた人々が多数いるところでは、それが果している役割を今一度ここで認める必要がある。
 特に、今日の様に、理性のみが重視され、感覚の軽視される日本の社会では、更めて、暗殺のもつ意味を再検討してみる必要があろう。
 というのは、暗殺という行為にふみきるためには、相手の思想を固定化して考え、その思想が生成発展するものだと考える態度をもたないという幣害はあるにしても、その行動を生みだすものが情念であり、情念こそその行動をおこす原動力であるということをまがりなりに意識させている。
 暗殺という行為においては、少くとも、理性と感覚が統一されて、全人間的行為というか、全存在的行為となっている。いいかえれば、その思想に対して、全責任をおう行動であり、その思想を無責任に、言うだけのものと違う。今日あまりにも、青任をおわない思想が横行して、社会を混乱させている。
 責任ある思想こそ、今日最も求められている。暗殺者というものは、その思想に最も忠実であり、その情感に忠実なものといえる。暗殺という行為を生みだすものは、その人の意志力であり、決断力であり、行動力である。行動にふみきらない思想はにせものといっていい。そうなれば、暗殺という行為に出る思想こそ、本物ということが出来る。
 新しい社会を待望する心は暗殺という行為にでて、初めて、本物ともいえる。暗殺を正の行為と考える時代がきてもいいのではないか。
 しかし、ここで注意しなくてはならないことは、暗殺の行動にでるとき、自分が果して盲信から、この行動にでていないかどうかという反省である。盲信はあくまで不可で、相手にも自分にも悲惨以外のものはない。あくまで盲信かどうかを検討する必要がある。
 だからとて、間部老中の暗殺を計画した吉田松陰が好んで自分の行動を狂と名づけたのとは違う。彼の弟子の中にも、好んで狂と呼んだ人々は多いが、彼等はあくまでも、自分の行動を狂と名づけたが、盲信とは区別していた。それだけの自信をもっていた。常識の世界に住む人々からみたとき、彼等の行動は狂にみえただけである。暗殺はどこまでも、狂の行動である。歴史の変革には、この狂ともみえる暗殺が必要なのである。
 もし、暗殺がいけないという者は、もっと真剣に民衆の啓蒙にのりださなくてはならない。民衆の無智を放置、若くは助長していて、暗殺を否定することはできない。歴史の前進を阻む者はもはや人間たるの資格のないものである。

 

                    <雑誌掲載文3 目次>

 

「勝海舟」

 

   はじめに

 今日の時代ほど、勝海舟ような生き方を求める声が強い時代はないといえよう。
 それというのも、今日は幕末の時代にまさるとも劣らない時代の激動期にあるし、勝海舟とは、幕府の中核にあって、新しい時代をつくろうとする勤皇の人々と呼応して、幕府そのものをつくりかえた人だからである。
 勤皇の動きを一貫して押し進めることは、ひじょうにむずかしいが、それ以上に幕府の中心人物として、新しい時代をつくろうとすることはたいへんである。
 勤皇の運動も、幕府の中にあって、その動きに呼応する者を得たとき、はじめて効果的に実を結ぶ。
 だからとて、はじめから勤皇の心ざしをもったものが、故意に幕府側にはいるという小細工を弄してもだめである。幕府の中核にいる者が、誠心誠意、幕府のために最大限の努力をする者でなくてはならない。ひじょうのときに幕府側の人々がついていくのは、このような人である。
 だが、幕府のために、その存続を考え、実践の限りをつくしたとき、勝海舟にとっては、最後にゆきつくさきが、勤皇の人々の立場に立つ以外、しかたがなかったということである。
 今日は、その当時と比較にならないほど、人類の危機、地球の破滅に直面している。
 わたしは今、勝海舟を書こうとしている。しかし、わたしは、かれの思想を諸君に知らせようとしてはいない。かれは百年前の人。そのかれが時代の課題に全身で体当たりして生きた、その生き方を、今日の諸君に再現してほしいと思い書くのである。かれのように、今日の課題をみきわめて、それに全身でぶつかってもらいたいのである。行動人であり、実践家でもあったかれ、しかも同時に歴史を見通していた思想家でもあったかれのように生きてほしいのである。
 歴史を学ぶということは、われわれが今日に、いかに生きるべきかをみきわめるためにやるので、単にいろいろの歴史の事実を知るためでないことを知ってほしい。勝はあの世で諸君に、自分のように生きる者が誕生してくれることを望んでいるに違いない。

   修業時代 

  一、出生

 勝海舟は、旗本勝小吉の長男として、文政八年(1823年)の正月に生まれた。旗本といっても、四十俵取りの下級武士で、夫婦二人がやっと生活できるような貧しい家であった。それも、小吉は勝家の子ではなく、勝家の株を買って、その養子の形で勝家をついだものであった。
 海舟の曽祖父は越後小千谷出身の盲人であったが、のちに江戸にでて、たまたま奥医師の石坂宗哲の家の前で凍え苦しんでいたところを、宗哲に救われて、その中間部屋においてもらうことになったのである。それが運のつきはじめで、石坂の屋敷で賭博が行なわれたとき、曽祖父になる男は、自分のもっていた三百文の金をもとでにして、たちまち一両二分にふやしたのである。
 石坂はそれをみて、その利殖の才能に目をつけて、別に一両二分の金を与えたところ、たちまち成功して巨万の富をつくった。その金で、盲人最高位の検校の位を手に入れるとともに、旗本男谷家の株を買いとり、みずからは男谷検校と名のった。
 この男谷検校の子が男谷平蔵、その三男が小吉であり、海舟の父親である。平蔵はむすこのために、勝家の株を買って自立させたのである。だが、勝小吉は小普請組に属し、無役であった。はじめは小吉も役づきになることを求めて、しきりに運動したが、この当時はまだ平安の時代で、小吉のように能力ある者もなかなかその才能を発揮する機会もなく、認められるということもなかった。それに、小吉自身も、「おれほどばかな者は世の中にあんまりあるまいと思う。おれはめかけの子で、それをおふくろがひきとって、うばで育ててくれたが、がきのじぶんより、わるさばかりして、おふくろも困ったということだ。それに、おやじが留守がちのため、毎日毎日わがままばかりいうて、皆がもてあましたと用人の利平治がいっていた。」というように、かれは生来あばれ者で、それは終生なおらなかった。放浪の旅に出て、座敷牢にいれられたこともあった。それも結婚後である。それが原因して、役づきになれなかったのかもしれない。
 海舟は父の全身に充満する不平不満を継承し、その父親のような不平分子になるまいと深く決心したに違いない。父のように能力ある者は、自分でその能力をおとすような生活をするのでなく、どこまでもその能力を大事にし、その能力を生かせる日まで、きびしくわが身を持しなくてはならないというのが、父の生活をみることによって、深く心に決したことであろう。
 こうして、海舟は父親小吉の才能、とくに剣術に秀でた能力をうけつぎながら、その父親を批判的にのりこえて、当代一流の人物に自分を育てていったのである。父親を、さらに一般のおとなたちを批判的にのりこえるということが、人間にとって最も重要なことである。

  二、剣術修業

 海舟の剣術修業のことを述べる前に、かれが平凡な形での社会的出世の機会をのがしたことを述べなくてはならない。それというのは、勝家の親類筋にあたる者が大奥に勤めていて、その縁故で江戸城本丸の庭を海舟が見物していたとき、将軍家斉の目にとまり、家斉の孫初之丞のお相手として召しだされたということがある。海舟は当時七歳であったが、初之丞のたいへんな気に入りになった。その初之丞が一橋家をついで、一橋慶昌となったとき、海舟もそのおつきとして一橋家にはいった。そのままいけば、一橋家の重臣になり、慶昌が将軍になるようなことがあれば、その側用人になれたかもしれないようなコースにあったのである。だが、その慶昌が翌年死に、いっさいは御破算になったのである。もしそういうことがなければ、勝自身がつくりだしたあの波瀾にとんだかれの人生、かれ自身の実力でかちとった人生はなく、平凡な出世コースの道しかなかったであろう。そして、今書くようなかれの生もなかったにちがいない。
 海舟自身、「おれは若いとき、青雲の志をふみはずした。」といっているが、ふみはずしたからこそ、魅力あふれる生を送ることができたのである。人はともすれば、順調なコースを望むし、とくに、その親はその子のために、順調な出世コースを用意しようとするが、大事なことは、自分で自分の人生を苦斗して開拓することである。そしてはじめて、その人の人生は充実したものになるのである。
 海舟の剣術修行は、十三、四歳のときに始めて、二十歳すぎるごろまでつづいている。はじめ、親せきにあたる男谷信友に学んだが、のちに、島田虎之助のところに弟子入りしている。男谷と島田は、千葉周作とともに、幕末の三剣客として令名をはせた男である。
 海舟は、その島田虎之助のところの内弟子として、真剣に、その全情熱をかたむけて、剣術ひとすじにうちこんでいる。海舟のことばによると、「この人(島田)は世間なみの撃剣家ではなかった。始終、今どき皆がやる剣術でなく、せっかくの事に、あなたは真正の剣術をやりなさいといっていた。それからは島田の道場に寄宿して、自分で薪水の労をとって修行した。寒中になると、島田の指図にしたがって、毎日稽古が住むと、夕方からけいこ着一枚で王子権現に行って夜げいこした。いつもまず、拝殿の礎石に腰を掛けて心胆を練磨し、また起って木剣をふりまわし、さらにまたもとの礎石に腰を掛けて心胆を練磨し、また起って木剣をふりまわし、こういうふうに夜明けまで五、六回やって、それから帰って朝げいこをやり、夕方になると、また王子権現へ出かけて、一日も怠らなかった。」というありさまであった。海舟がいかに全精魂をかたむけて、自主的、主体的に剣術にうちこんだかわかる。
 今の学生のように、教師のいうことを単に受動的にうけいれる者が多いのとまったく違う。こうした自主的、主体的な学習がはじめて自分自身のものとなり、自分をつくるのである。しかも島田虎之助は海舟に、今どきの人のように形だけの剣術でなく、真の活人剣を学ぶことを求めたのである。こうして、かれは免許皆伝を受けただけでなく、終生一人も殺さず、最大限に人々を生かそうとする処世術を自分自身のものとしたのである。

  三、蘭学修業

 蘭学を学んだことを述べる前に、一応、剣と並行して禅をやったことを書かなくてはならない。それを勧めたのも島田虎之助である。江戸時代の初め、僧沢庵が剣禅一致を説いて以来、剣の極意に達するためには禅がぜひとも必要であると考えられてきた。禅によって、剣そのものが自在になるというのである。
 海舟は、十九歳から二十歳ころより、数年間必死に禅に取り組み、剣そのものを自分のものとしたのである。この修行があったればこそ、幕末の動乱期を生きぬけたし、天下がひっくりかえっても悠々としていることができたのである。
 さて、海舟の蘭学はいつのころか明らかでないし、その習学の理由も明らかでない。島田の勧めによるともいわれているし、城中でオランダの大砲を見たことからともいわれている。いずれにしても蘭学をやることなしには、その時代にじゅうにぶんに生きられないと思ったからに違いない。おとなたちが危険視したり、おっかながる思想を恐れることなく、積極的に学びはじめたいということである。
 かつては蘭学を学ぶ者を罪にしたこともある時代に、海舟の時代もあまりへだたっていない。ここに、自分の生命をかけて学ぶ者の真摯さと逞しさがある。自然、その成長もめざましい。はじめ、箕作阮甫に弟子入りしようとしたが、阮甫に拒絶されている。海舟の人物を見抜けなかった阮甫という人間には問題があろう。それはともかくとして、海舟は永井青涯に弟子入りしている。そのころのかれは剣術の修業をやめて、蘭学にのみうちこんでいる。永年住みなれた所をすてて、永井青涯の住む近くに引越しているのも、かれのうちこみようの激しさを示している。
 海舟の勉学ぶりを示すエピソードの三つをあげると、その一つは、日蘭辞書が当時六十両もした。貧しいかれにはとうてい買えない。そこで、オランダ医者某が持っているという、その辞書を一か年十両の損料を払うという条件で借りだすことに成功し、昼夜わかたず、机にもたれて寝るという状態でそれをうつしたのである。だが十両を払う金がない。やむなくもう一部うつし、それを売って代金にかえたということである。
 もう一つは、ある本屋で珍しい兵書を発見した。値段は五十両だという。でもぜひほしい。八方奔走して、やっとの思いで金をつくり、件の本屋に行ってみたが、売れたという。買った人を尋ねると与力の某だという。さっそくその人を尋ねて、譲ってほしいとたのんだが承知しない。それなら、貸してくれといったがそれもだめ。午後十時以後なら見せてもいいという。
 海舟の毎日某の家にかよう日課がはじまった。しかも、そのみちのりは一里半もあるというところである。だが海舟の一念は、半年ばかりかよって、その本を読みながらうつしとってしまった。与力にそのお礼をいったあとに、二、三の質問をしたら、与力は自分はまだ読みおわっていないといって、非常に感動し、その書物まで無理にくれたということがあった。
 海舟のそのころのうちこみようがいかに激しかったかということがわかる。さらに海舟がある本屋にたびたび出かけて行ったのがきっかけで、その本屋の主人に北海道の商人渋田利右衛門を紹介された。渋田は海舟に二百両の金をさしだし、これで好きな本を買ってくれということもあった。海舟の度を過ぎた熱心さが、ついに人の心を打ったのである。
 渋田と海舟の交渉はその後つづき、渋田は海舟に各地にいる豪商をたくさん紹介している。かくて、しぜん海舟のまわりには、かれを知り、かれを理解する人達が隼まったのである。後年かれの大事業もこのような人的つながりの中で、できたといってもいいすぎではない。人間と人間の出会いはひじょうにたいせつだが、それも結局その人の情熱が、情熱のある人を招くのである。
 こうして、海舟二十八歳のときには、蘭学塾を開くほどに、上達したのである。

   蘭学塾から海外渡航まで

  一 蘭学塾

 海舟が蘭学塾を開いたのは、かれの二十八歳のとき。発足当時の塾は、家の中も外もつっかい棒をしているような、みすぼらしいものであった。だが、そのような中にいて、海舟の抱負と自信はひじょうなもので、すでに天下をのむほどの気概をもっていた。
 このことは、自決前の高野長英が、この塾を尋ねたことでも明らかであろう。ご承知のように、高野は幕府を批判したことで罪になり、獄につながれていたが、獄の火災をきっかけにして逃亡し、各地を逃げまわっていたのである。そのかれが、命がけで訪問したということは、海舟の学識、人物が非凡であるという風評があったことを示している。
 海舟が二十八歳のときというのは嘉永三年で、ペリーの来航で、日本国中に衝撃をもたらした嘉永六年の三年前ということになる。その間かれは、諸藩の要求や依頼で、大砲や小銃の設計製作をやっている。ペリーの来航こそ、嘉永六年であったが、諸外国の船は、長崎をはじめ各地に出没し、通商を求める声も強く、幕府もこれまでどおり、鎖国をつづけるか、開港に踏み切るかをめぐって迷っていたし、しぜん国防の一環としての大砲や小銃は、鎖国、開港に関係なく必要であった。海舟は、時代の要求の上に大きく浮かびはじめたのである。しかも、かれは当代一流の蘭学者であり、大砲や小銃の設計、製作者であるとの評判をとったのである。それには理由がある。当時は、大砲や小銃の製作者は、わいろを取ることを普通とし、それによって、手をぬくことをやってのけたのである。海舟は、そのことを怒り、それだけの金があるなら、むしろ大砲を、すぐれたものにしろと命令したのである。文字どおり、かれは、すぐれた大砲をつくろうとする一念だけがあったのである。かれの名がたかまるのも当然である。
 このうわさが、当時、幕府の要職にあるだけでなく、開明派のひとりである大久保忠寛の耳にはいった。大久保は、さっそく海舟に会い、その人物を確かめている。そして、海舟が幕府に登用されることになるのも、その面談がきっかけになる。
 海舟が、実際、幕府に登用され、無役から役付になるのは、安政二年で、かれの三十三歳のときである。安政二年といえば、ペリー来航のあった嘉永六年より二年後である。
 ペリー来航の年、海舟は意見書を上申している。そこには、人材を登用して言論を活発にすること。船をつくって積極的に外国と貿易することなどが述べられている。かれの登用には、この意見書もなんらかの形で影響したと思われる。
 海舟が、正式に登用された職名は、下田取締掛手付であった。かつて、かれの入門をことわった箕作阮甫も、かれと同じ手付に任じられている。今や箕作と同格で、蘭書翻訳の仕事にたずさわることになったのである。まさに、士たるものは、三日たてば刮目してみなくてはならない、ということばを、海舟は地でいったのである。下田取締掛には、勘定奉行の川路聖謨。目付の岩瀬忠震がいずれも現職のまま兼務している。下田取締掛を当時、幕府がいかに重要視したかということがわかろう。
 こうして、海舟は、日本歴史そのものとかかわる世界におどりだしたことになる。蘭学を学びはじめてから十年、塾を開いてから五年、海舟の進歩が想像できる。まさに、時代につくられ、時代に教えられた時代の子といえよう。
 同時代の吉田松陰は、正月だとて遊んでいるときではない。今は、そんな暇はないはずだ、と子弟を叱咤したが、文字どおり、時代はその課題とむきあった人々を異常に育てる。今の世は、当時にまさる危機的時代である。そうとすれば、今日は、当時以上に人間を育てる時代である。時代の課題を全身で受けとめるか、いなかにかかっている。それを自覚するのは、中学二、三年のときであり、高校一、二年のときである。

  二 長崎遊学

 海舟が登用された安政二年以後は、日本中が鎖国か開国かをめぐって、大ゆれにゆれたときである。だが、かれは、江戸を離れて長崎に行っていたので、その渦中にはいることをまぬがれた。このことは、かれにとってよかったともいえるし、その間に徹底的に学問もできた。時代の空気から敏感に学ぶことも必要だが、往々にして、その渦中にある人間は、甲論乙駁にその心を奪われて、たいせつな学問を着実にやることを怠る傾向がある。とくに将来、大事業をなす者は、この時代の着実な勉強が大事である。
 というのは、海舟は、下田取締役手付として、伊勢、大阪方面の視察旅行のあと、長崎で蒸気船運用伝習に参加するように命じられて出かけ、安政六年まで江戸の地を去ったのである。
この蒸気船運用伝習というのは、幕府がさきに、オランダに軍艦、銃砲などを注文したのをきっかけとして、やっとこのころになって、日本人に船を動かす術を伝えようということになり、急に蒸気船運用伝習のことが実現することになったのである。
 海舟は、その伝習生の幹部として、派遣されることになったのである。責任者は、海防係の目付として、当時、長崎にいた永井尚志がなった。そして、伝習生には浦賀奉行組与力中島三郎たち四十五名が任命された。このほかに、薩摩藩から十六名、肥後藩から五名、筑前藩から二十八名、長州藩から十五名、肥前藩から四十七名、備後藩から四名、津藩から十二名、掛川藩から一名が参加した。
 主な学課目と教師は次のとおり
航海術、運用術はク・セセ・ベルスレイケン。造船学、砲術はア・ア・スガラウエン。船具学、測量学はセ・エーグ。算術はセ・ハ・ブ・デョング。機関学はセ・イ・ドールニキス。
 しかし、はじめて外国人から受けた集団訓練であったから、ずいぶん苦労も多かったと思われる。海舟は、そのことを次のように書いている。
 「其の教授の時間、朝八時にはじめ、十二時に終わる。午後は一時より四時に至る。これ陸上の教示なり。また、ときどき艦上に就て其の運転、諸帆の操作等、実地演習あり。悉く暗記せしめて、敢て書記せしめず、共の言語の不通なるを以て、通弁官数名を役す、彼我互に隔靴の思いあり、教官は大にその教示に苦しみ、生徒はまた暗唱に苦しみ、甚だ労苦す。矢田堀、塚本、永持氏の如きは、昌平学校に学び、早く学中少年才子の誉英敏の聞えありと雖も、猶今日暗誦に刻苦す。その才之に及ばざるの如きは困苦の甚しき亦宜なる哉。」と。
 海舟には蘭学の素養があったとはいえ、たいへんであったろう。だが、数か月たつと授業も軌道にのりはじめ、幕府からの臨時支出もあって、造船技術にものりだしている。この間、かれは長崎出張のとき、小普請組から小十人になったが、この長崎にいる間に、さらに大番へと出世している。
 一方、幕府は、長崎の蒸気船伝習が、軌道にのりだしたので、今度は、江戸に軍艦教授所をつくって、大がかりな訓練をはじめようと計画した。それとともに、長崎の伝習生は、江戸に帰って後輩の教育をせよ、と命令を受けたのである。
 初め、海舟も永井尚志とともに江戸に帰るつもりであったが、出発前にオランダから注文がでた。それというのは、皆が新しくなれば、また、はじめのような苦しみをくりかえすから、だれか適当な人に残ってほしいというのである。こうして、海舟は、長崎に残ることになったのである。しかし、残ったために、かれは遠洋航海を実施し、薩摩藩主島津斎彬に会うという事をやってのけている。
 斉彬は「今後、大いに国事に関係あるものは、書簡を以て足下に談ぜん。他人を知らしむるなかれ。是れ足下の為に猜忌をさくなり」というほどに、海舟が人物であることを認めた。斉彬はまもなく、没しているが、斎彬が西郷隆盛に海舟のことを語っていたために、後年、海舟と隆盛の会見が初対面であって、旧知のように互いに相許す仲でもあったのである。

  三 海外渡航

 幕府はふたたび、長崎の蒸気船伝習を縮少の方針を打ち出したので、海舟は、やむなく江戸に帰ることになった。大老井伊直弼が大の西洋ぎらいのうえに、海舟と縁の深かった川路聖謨、永井尚志、岩瀬忠震、大久保忠寛たちは、すべて左遷されたり、罷免されるという時代であった。海舟は、まだその風あたりを直接受ける地位にはいなかった。逆に、軍艦操錬所の教授方頭取に登用されている。
 だが、それと同時に、米国の圧力で締結した条約の批准使節を、米国に送ろうという話がもちあがった。いくら西洋ぎらいの井伊直弼とて、自分が締結した条約であったから、正面からそれに反対することはできない。
 正使、副使はアメリカの船で行くのだが、もし使節団に事故のおこったときは、日本の軍艦で行った奉行が代役をつとめるという計画を立てた。その船には、咸臨丸が使用されることになり、その応急修理にも取りかかった。
 アメリカ行きが正式にきまったのは、安政六年暮れで、通弁として中浜万次郎が乗り組み、福沢諭吉も参加して、総勢約九十名。品川出帆は、万廷元年の一月十三日。
 四十三日間をへて、二月二十六日、サンフランシスコに到着した。正使、副使を乗せた船よりも十二日間さきに着いている。
 サンフランシスコでは、ひじょうなもてなしである。かれらは、日本からやってきた最初の者である。滞在費もいっさい向こうもちである。福沢のことばによれば、「アメリカ人の身になってみれば、アメリカが日本にきて、はじめて国を開いたというその日本人が、ペリーの日本行より八年めに自分の国に航海してきた、という訳であるから、ちょうど、自分の学校からでた生徒が、実業について、自分と同じ事をすると同様、おれがその端緒を開いた、といわぬばかりの心地であったにちがいない。」ということになる。だから、歓迎攻めである。
 こうした中で、海舟はなにを見たのであろうか。いうまでもなく、海舟としては、海軍専門家の立場から、その方面に興味もあったにちがいない。だが、それ以上に、海舟の心をとらえたのは、社会制度そのものであった。
 「総、士、農、工、商の差別なく売買貿易を事とし、士は所謂ビユルケルにして、己れ官途にありと雖も、積材ある者は、その子弟をして商売交易をなさしむ。財多らざる者は、数人連合して一店或は二店を設け、倍利配分を事とす。また、致仕いんとんなせば、その好む所に応じ、高官の家と雖も妨げず、故に市中の官員等、皆貨物をひさぎ、或は大店数所を保ち、巨船をつくり、他邦に交易をなす等、其の績材の多少による。我邦士官員の絶えてなさざる所。」と書いているし、また、「おれがはじめて、アメリカへいって帰朝したときに、御老中から、“そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、なにか眼につけたことがあろう。詳しく言上せよ”とのことであった。そこでおれは、“人間のすることは古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません”と返答した。ところが、“さようではあるまい。なにかかわったことがあるだろう”といって再三再四問われるから、おれも“さよう、少し眼につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、皆その地位相応の知恵があるものです。この点ばかりは、まったく我が国と反対のように思いまする”といったら、御老中が目を丸くして、“この無礼もの、ひかえおろう”と叱っていたっけ。」
と書いている。海舟自身、その社会制度にはひどく感歎したようである。それにつけても、日本の社会制度がひじょうにおくれているし、人間を生かすための制度になっていないこと、逆に人を殺してしまう制度になっていることを感じたのである。幕臣でありながら、その幕府機構に疑問をもたずにはいられない人間として育ったのである。
 ここに、海舟の海外渡航の決定的意味がある。しかも、かれが帰ってみると、大老の井伊直弼は殺されていた。そこから、海舟の新しい道が開けはじめたといってもよい。幕臣でありながら、今の幕府機構のままでは、どうにもならない、という思いが湧然とおこってきたのである。

   疾風怒涛時代

  一 横井小楠と海舟

 アメリカから帰った勝海舟は、その年の万延元年六月には、蕃書調所頭取助となり、禄高も四百石に上がった。ついで、文久二年七月は、軍鑑操練所頭取になり、まもなく軍鑑奉行竝になった。役高も千石になった。
 こうして、徐々に政局に顔を出してきた海舟だが、それというのも危機の時代には、非常の人を必要としたのに対して、海舟は、剣術と禅、さらに蘭学を通して自分をみつめ、自分を徹底的にきたえぬいて、かれ自身非常の人として自分を確立していたからである。だから、このときにあたって、海舟その人が異例の選抜をうけたのも当然であった。
 海舟が政局の一端におどりだしたとき、日本の政局はどういう状態であったのであろうか。大老井伊直弼が殺され、老中安藤信正の傷ついたのちの政局は、いよいよ混乱して、それを収拾するような大英断、大決断の者も出ない。国内は外国より押しつけられた不平等条約のため、ますます混乱する。
 その混乱をのりきるために、一橋慶喜は、将軍後見職となり、松平春嶽は政治総裁職となった。かつて、家茂が将軍になるまでは、ともに連合した間がらであったが、時代の推移とともに、二人の間は大きくへだたっていた。すなわち、一橋慶喜は、あくまで幕府を中心に日本を支配するという立場をとっていた。いいかえれば、日本は幕府のために存在するものでしかなかった。それに対して、松平春嶽は幕府そのものよりも、日本そのものの立場を考えなくてはならないという立場をとっていた。だから、そのためには、幕府そのものを否定することもやむを得ないという立場にたっていた。
 この松平春嶽の意見をささえていたのが、かれの政治顧問横井小楠であった。小楠はこの考えを貫くために、諸大名の勢力を弱めるためにとられてい参勤交代をやめ、外様大名であろうと陪審であろうと、賢人を選んでその地位につかせなくてはならないと言って、挙国一致体制を強く述べ、今までのような徳川氏のための政治、譜代を中心にした政治に真正面より反対したのである。
 この意見は同時に、海舟の年来いだきつづけた意見でもあった。海舟の持論は幕府の海軍でなく、日本の海軍をつくって、日本そのものを統一しなくてはならないということであり、そのために広く賢人を採用しなくてはならないという考えであった。かれ自身能力をもちながら、やっとその能力を発揮できたのは、四十歳すぎであった。
 だから、文句もなしに、横井小楠の説に共鳴し、一橋慶喜に反対した。だが、どちらかというと、一橋慶喜を中心に、政局はより多く動いたところに、勝海舟の悩みと苦しみが会った。軍艦奉行竝から、軍艦奉行になった海舟だが、それゆえに、幕府中心に考える一橋慶喜とその一派、しかも、その勢力が強いだけに苦しいものがあった。

  二 坂本竜馬と勝海舟

 坂本竜馬が、海舟の門下生になったのもこのころである。ご承知の人もあるかと思うが、竜馬は少年のころ、塾から拒否されたようなできない子どもであった。かれは、棒読み、棒暗記のもっとも不得意な少年であったのである。
 今も昔も同じで、棒読み、棒暗記の得意でない少年は劣等生とみなした。だが、かれは、文章の真意、大意をつかむことにはすぐれていただけでなく、そのつかんだものを自分の全存在で実践するような少年であった。文字どおり、悟性と感性の統一した人であり、今の知識人のように、頭だけの人ではなかった。
 このころの竜馬は、命がけで藩を脱し、自由自在の眼で、日本の方向を模索していたときである。しかも、常に自分自身でたしかめつつ、一歩一歩と前進していくような青年であった。五・一五事件の青年のように、問答無用といって、相手の説明をきかず、切りかかるような無暴の青年、思いあがった青年ではなかった。
 たしかに、竜馬は海舟を訪れて、海舟の意見をきいた後に、その説が弁解であり、自分に納得できないときには、切るつもりであったかもしれない。海舟は、開国論者として、単純に風評されている人であり、竜馬は反対に単純な攘夷主義者であって、攘夷を最高とみる男である。
 竜馬が海舟を訪れたとき、海舟は、なんのためらいもなく竜馬に会い、開口一番、「君は俺を切りにきたのか。」といったという。しかも、かれは、「俺の言うことを聞いて、それから、殺してもいいではないか。」とまえおきして、とうとうと世界情勢を述べ、日本のあるべき道を論じだした。
 竜馬は、海舟のことばを聞いて、かれが単に外国の圧力に圧されて、開国するものでなく、いざというときには、命をかけて戦う者であり、開国は世界の勢いであることを知っただけでなく、逆に、攘夷攘夷と口にしている者が日本を滅ぼす者たちであることを知ったのである。
 そうなると、切りにきた自分の立場を忘れて、さっそく、海舟に弟子入りするように頼み込むのである。竜馬が竜馬なら、海舟も海舟で、すぐに入門を許可している。それによって、竜馬の見識がみがかれ、いっそうの光彩を放ちだした。
 竜馬がいなくて、あのような明治維新は断じてなく、竜馬が海舟に出会うことがなかったら、あのような維新を実現する男には、断じてならなかったであろう。人間の出会いの不思議さというか、意味というものを考えずにはいられない。
 海舟の考えをほんとうに継承し、実現したのは竜馬である。竜馬なくば、海舟の評判が今日のようにたかまったかは、疑問である。竜馬の師ということだけで、海舟にはかれの存在意義がある。

  三 海軍操練所と東奔西走

 かくするうちに、勝海舟は、軍艦奉行竝から軍艦奉行になり、役高も二千石にはね上がった。かれはいよいよ横井小楠と同調する意見をもって、その実現に本腰をいれはじめる。すなわち、軍艦奉行竝時代にまして、江戸と大阪の間をゆききして、海軍によって挙国一致の体制をつくろうと努力しはじめる。機会あるごとに、老中を軍艦にのせ、海軍に対する眼を開かせようとする。しかし、不思議と相異なる立場にある一橋慶喜とは、相会う機会も艦にのせる機会もない。そこに運命の皮肉を思う。
 将軍家茂を軍艦にのせたとき、勝海舟は、日ごろから抱懐している海軍操練所の開設のことを一挙にきめてしまい、その許可をとってしまう。同時に、海舟の私塾もそれに付設して、設立してもよいという許可をとる。かれの喜びは、どんなに大きかったであろう。
 海軍操練所には、幕府から年々三千両がおりることになった。海舟が家茂のことを手放しでほめ、もちあげたのもわかるような気がする。将軍家茂に対する信頼は限りないものがあったろう。
 勝海舟はすでに、述べたように、海軍によって挙国一致体制をつくろうとした。だから徳川幕府に仕える者として、幕府の主宰者である家茂の許可をとるとともに、他方では、京都政府の中心にいる者にもはたらきかけて、両者を協力させようとしたのである。そのころの海舟は、一幕臣でありながら、徳川幕府も京都政府もなく、真に日本そのものの立場にたって、日本を考え、行動する男になっていた。
 だから、国事参政姉小路公知を軍艦にのせ、海軍のことを吹き込んだのもそのためである。海舟にいわせると、海軍だけが日本をおこせるということになる。この日、姉小路に従う者百余人。激論の末、海舟の意見に従ったのである。海舟はその弁論で、単純な攘夷論者の考えをかえたのである。もちろんかれが、命をかけて説得したためである。
 だが、その勝海舟が、命をかけて説得した姉小路公知がある日、何者ともしれない人間によって殺されてしまったのである。それを聞いたときの海舟の落胆はあまりにも大きかった。やっと、道が開けたと思ったとき、その道がとざされたのである。海舟は、姉小路公知にかわる人物を物色したがついに発見できないであきらめている。
 坂本竜馬が海舟の使いで、松平春嶽に金の無心に行ったのはこのときである。姉小路公知の死で、挙国一致体制の下での海軍操練所はできなくなったが、まがりなりにも、操練所はでき、勝海舟は、諸藩の脱藩者を中心にして入学生を集めた。坂本竜馬がその中心にいたことはいうまでもない。ひと言でいえば、幕府の批判分子を幕府の金でやしなっているようなものである。いつ幕府の手を放れて、独立するかもしれないという不安があった。
 時勢の変化とともに、勝海舟は、軍艦奉行をくびになり、同時に、海軍操練所も閉鎖した。そのとき、勝海舟は、坂本竜馬の身がらを薩摩に預けることになる。

  四 幕府をみはなす

 これよりさき、蛤御門の変があり、それにより長州勢力は一掃された。しかし、これにより一時的には政局は、安定するかのようにみえた。二重政権でもめていた政局も一つになるかのようにみえた。
 それというのも、徳川幕府をささえる実力派の島津久光、松平春嶽、山内豊信、伊達宗城たち公武合体派の人たちが、京都政府から朝政参与を命じられて、そのために、二重政権は一つになるかのように思われたことである。こうして生まれたのが、参与会議である。この参与会議には、議長格として、一橋慶喜が参加することになった。
 しかし、他方には、将軍自身もこの会議に参加すべきだという声も強くある。海舟自身も日本全体のことを考えるなら、将軍も諸侯といっしょにこの会議に参如し、単に幕府のことを考えるべきではないという立場にたつ。そのために、将軍家茂が上洛するように努力する。その結果、上洛が決定し、家茂とともに軍艦で上洛した。だが、海舟はその足で長崎に行った。それは、長州藩の攘夷に対して、四国連合艦隊への攻撃を延期してほしいという交渉である。そのあと、急ぎ帰ってみると、参与会議はつぶれ、四散している。
 この参与会議をつぶしたのは、一橋慶喜であり、それによって、海舟の期待はみじんにもくだけたのである。もはや、二重政権が一つになる可能性もなく、日本が一つになるという可能性もなくなったのである。
 勝海舟が幕臣でありながら、幕府を見捨てたのはこのときである。その後、薩摩の西郷隆盛と海舟が会ったとき、海舟は、幕府の内情を具体的に例をあげて説明し、もはや幕府をたのむときではないと極論した。
 それまで、幕府側の立場で、ことごとに幕府と対立していた長州藩に敵対し、その力を弱めることに努力していた西郷隆盛が、その会見で幕府を見限り、逆に、長州藩こそわが藩の味方になるのではないかと思いはじめる。大久保利通にむかって、勝海舟の意見を率直に書いたのもこのときである。
 勝海舟ののひと言が西郷をかえ、大久保をかえたのであろ。幕府は勝に見放なされたのみか、最も恐ろしい西郷隆盛、大久保利通に見放されたのである。
 このころから、勝海舟は、だれをつかまえても、もう幕府はだめだと言いはじめる。かれが軍艦奉行をくびになったのは、そのことばのせいかどうかわからぬが、かれの態度からでたものであろう。それとともに、海軍操練所もとじられる。それは当然のことであったろう。
 しかし、海軍操練所は今なお生きて、歴史とともに発展している。海舟の洞察力はひいでていたということになる。

 

  一 長州征伐 

 元治元年(1864年)末に、軍艦奉行をやめさせられていた海舟が、突然慶応二年(1866年)五月江戸城に呼び出され、ふたたび軍艦奉行となり、大阪にいそいで行くように命じられた。海舟ほどの人物でなくては、当面する難問を解決することは、むずかしいと考えられていたからである。
 蛤御門の変で薩摩、会津に京都を追われた長州は、はじめその責めを問われて幕府への恭順派が勢いを占め、第一次長州征伐も幕府のいうなりの条件をのみこみ、幕府の前に屈する。しかし、その後、高杉晋作を中心とした人々がクーデターをおこし、藩論をかえてしまい、幕府と決戦する構えをみせたのである。
 これに対し、幕府側も江戸の守旧派老中たちを中心に、幕権を回復することを目的に、参勤交代を厳命し、一橋慶喜を京都から江戸につれてかえるとともに、京都守護職の松平容保をやめさせ、京都を直接幕府の指揮下におこうとした。この計画は、あまりにも時代の動きに逆行したので、実現をみなかったが、幕府には今一つの動きがあった。それは一橋慶喜や、小栗忠順たちの考えた幕権旧復策であった。かれらの考えたことは、さきの守旧派の老中たちと異なって、幕府を中心とした統一国家をつくるというもので、その障害になる藩はぶっつぶすというものであった。この案はフランスが支持し、フランスの援助で強行したのである。
 第二次長州征伐もこのために行なわれたものであった。だが、これよりさき、幕府の最も強力な協力者薩摩、その薩摩の実力者西郷隆盛は先号で記したように、勝海舟の意見をいれて、微妙にかわりつつあった。それというのも、今まで敵視してきた長州こそ、真の味方になるかもしれないし、幕府は今までのようにいっしょうけんめい助けても見込みはないということであった。それこそ、幕府の存在は、日本の統一国家にとって、ガンのようなものであることを知り始めたのである。それゆえにこそ、長州の恭順を利用して、長州を徹底的にたたくということを西郷隆盛はしなかったのである。
 この間に、海舟の門弟坂本竜馬が仲介者となって、長州と薩摩の同盟をなしとげたのである。長い間、仇敵視しあっていた両者をまとめるということは、至難中の至難事であったが、坂本は長州、薩摩両者の中にくいこんでいたわが力を最大限に活用して、両者の間をまとめたのである。もちろんそのためには、抽象的意見が一致するというだけでなく、当時、幕府からにらまれて、武器購入が自由にならない長州のために、薩摩がかわって購入してやるという条件であった。その武器を坂本竜馬が運ぶのである。反対に長州は薩摩のために米を提供するという約束であった。このような実があったればこそ、同盟は成立したのである。そればかりでなく、長州と薩摩の間にこの同盟をもとにして、攻守同盟まで結ばれるのである。
 この攻守同盟の締詰が、第一次長州征伐から第二次長州征伐の間にやってのけられたのである。しかもこのことを幕府側はまったく知らない。知らないから、薩摩が長州再征に頑強に反対していることも知らない。そればかりか、幕府と長州が広島で応接しているとき、長州の態度もにえきらない。長州はどこまでも時間をかせいで、体制をかためていたのである。このことも幕府側はしらない。
 いよいよ長州再征にふみきったとき、今度は薩摩が出兵しないという。薩摩が長州を攻められるわけはない。攻めこむ相手はむしろ長州でなくて、幕府である。そのために、これまで共同歩調をとってきた会津と薩摩の間もおかしくなって、収拾がつかない。その対策として、勝海舟がひきだされ、ふたたび軍艦奉行となるのである。

  二 海舟の調停

 命令をうけた勝海舟は、大阪にのりこんできた。老中板倉勝静の内意をうけたかれは、さっそく京都に行き、薩摩と会津の調停にのりだす。まず京都守護職の松平容保に会う。容保は自分はわかっているから、家来のほうを説いてくれるとよいというので、海舟は家来たちを説きにかかった。それが功を奏したのかどうかわからないが、ともかく薩摩屋敷を襲撃するということだけはとりやめになった。
 次は、薩摩のほうである。薩摩側としては、勝海舟が来たというので、勝海舟に一任するということで折れてしまった。だが、薩摩としては出兵しようというのでなく、出兵拒否の届け書を海舟があずかるということで、幕府のメンツを一応たてたのである。幕府は一応、勝海舟によって、メンツだけはたもてたのである。
 一日の京都滞在で、形だけの解決をみたので、勝海舟はかえって疑われることになった。一橋慶喜さえ、用が済んだら、さっさと江戸に海舟を追いかえそうとした。だが、海舟が京都で調停をしている間に、事実上、長州再征の火ぶたはきられていた。しかも、幕府軍は長州に攻めこみがら、敗北したのである。大村益次郎によって再編成された長州軍は、もう昔日の長州軍ではない。それに敵としての薩摩軍がいないどころか、逆に友軍としてひかえているというぐあいだから、長州軍の志気はいよいよあがる。九州方面の幕軍の責任者である老中小笠原長行まで逃げかえって来る始末。そこにたまたま将軍家茂が二十一歳の元気ざかりの年齢で、死去するという事件がおきた。
 そうなると、幕府軍はいちどに戦意を喪失してしまった。一橋慶喜はいちどは江戸に追いかえそうとした勝海舟に、急にこの戦いのあと始末をやらせようとした。慶喜は海舟をおだてて、「長州に行ってくれ、天朝でも是非にといっておまえに期待している。」といったのである。海舟はその役をばかばかしいと考えたし、殺されるかもしれないとも考えた。とくに、会談場に予定されている宮島には刺客がうようよいた。
 だが、滞京中の松平春嶽が一橋慶喜に幕府を廃止せよという意見を出している。それによると、徳川家を尾張藩、紀伊藩のごとくせよというのであり、すべての外交権は朝廷に返上せよという思いきった意見である。海舟はそれを耳にしたとき、自分の考えも、もしかすると実現するかもしれないと考えた。いずれにせよ、一橋慶喜、小栗忠順らの幕権伸張策がゆきづまってきた今、早晩松平春嶽の意見は採用されるにちがいないと考えた。そこで、このばかばかしい役をひきうけることに決心した。
 宮島に着いた勝海舟は、長州の代表をまった。到着した顔ぶれは、広沢真臣を団長とする面々であり、俗論派に攻撃されて、まだ傷ののこっている井上聞多もいる。会談は終始、わきあいあいの中に続けられた。海舟は松平春嶽の上申書のことを言い、おっつけ、世の中はそうなるにちがいないと言って、広沢を説いたと思われる。そうなることがわかって、今そのための戦いを続行することは、おろかであるとも言ったであろう。もちろん、長州側として、いま戦いに勝っているとはいえ、藩外に出て戦って勝つという見込みはない。むしろ、困難がみえている。調停は長州でも望むところである。
 こうして、両者の会談は海舟の切り札を出すことによって、簡単に合意に達した。だが、一橋慶喜の心中には、松平春嶽の意見をいれて、幕府を化すというものはなかった。海舟の見通しはまったく甘かったというしかない。慶喜は朝廷を動かして、戦争をやめるようにという勅書を出させたのである。いってみれば、海舟はそれまでの時間かせぎであり、まったくの道化にすぎなかったのである。
 おこった勝海舟は、辞表を出すが、老中板倉勝静のとりなしで、軍艦奉行のポストにはとどまることになったが、かれは怏々としてたのしまない。歴史に能動的に参加することは、しまいにいちどもなかったのである。歴史をつくる人間にはついにいちどもなれないのである。しかも、歴史の舞台から去ることができないのがかれの運命である。

  三 維新の前夜

 勝海舟の思惑をこえて、歴史はどんどん進行していた。その歴史の主役は西郷隆盛であった。西郷という人間は海舟その人がつくりあげたものであったが、今や勝海舟に対立できる人間として成長していた。
 勝海舟の大政奉還論というか、松平春嶽の大政奉還論というか、その奉還論がやぶれて一年後に、一橋慶喜は徳川慶喜として、体制を奉還しなければならないところまで追いつめられた。これは海舟、春嶽に無関係に、海舟の門弟坂本竜馬の意見にしたがって、土佐藩の献言をいれて、慶喜が実行したものであった。
 だが、その後、京都にクーデターが起こり、徳川家に連なるものはいっさい京都朝廷からしめだされ、西郷隆盛はあくまで武力で幕府を倒すという方向に動いていた。それが歴史の意志でもあった。海舟としては、おくればせながらも、慶喜が大政奉還したことを肯定したし、幕府の旧守派の者どもがこの慶喜の意図を無視してあくまで武力にたよることも極力否定した。否定したばかりでなく、もしそうなら、あくまで薩・長を迎えて、撃滅するという自信をどうどうと示した。だが、勝海舟はそこにつけこまれて、日本が中国、印度のようにならないためにも、そのような戦いを極力さけねばならないと覚悟した。勝てる戦いも日本のために放棄するというのが勝海舟の意見である。かれの偉大さはそこにある。
 そのころ、勝海舟は陸軍総裁になり、海軍総裁はかれの仲間の矢田堀鴻、会計総裁は大久保忠寛、しかも幕府の政治はこれらの人たちによって運営されるというしくみになっていたから、海舟自身、幕府の最高幹部となっていた。だが、このころの幕府は昔日のおもかげはなく、敗戦処理内閣のような性格をもっていた。
 そこに、西郷隆盛にひきいられた薩・長が攻めてくるというのである。すでに徳川慶喜は側近の主戦派の人々を全部しりぞけ、ただ恭順の意をあらわすというようにかわるしかなかった。今まで何度か、海舟に反対し、海舟を裏切ってきた慶喜も、ここにいたって、海舟にしたがわなくてはならなかったのである。
 だから、海舟は全面的に慶喜をまもるがわに立ち、慶喜を弁護するがわにまわった。このとき幕府を攻略する薩・長の軍隊はどんどん江戸にせまり、本隊は駿府にまで到着していた。しかも、三月十五日を期して、江戸を攻めるという命令が三月六日に出されたのである。
 この日、山岡鉄舟は益満休之助を同道し、海舟の手紙をたずさえて、西郷隆盛に会いに行ったのである。その手紙には、「攻撃される江戸市民の苦しみ」を訴えて「内乱は他国に攻撃の理由をあたえるだけだ」と堂々と述べていた。山岡鉄舟が必死の思いで、駿府に行き、西郷と面談したことで、やっと両者の間の意見を通ずるパイプがひらかれたのである。これまでに何度か、江戸側の人々から手紙がよせられたが、その手紙が京都側に届いたかどうかはまったくわからなかったのである。
 この事実というか、西郷隆盛と山岡鉄舟の会見をふまえて、三月十三日と三月十四日の両日、勝海舟と西郷隆盛の二人は会ったのである。このときまでに、海舟は話がだめなときは江戸を焦土にして、薩・長軍の江戸城進撃をくいとめるという対策を実際にとってから会見にのぞんだのである。その意気込みはまったく恐ろしい。しかも、海舟自身江戸の灰となると同時に自分も死ぬ決心をしていたのである。この気魄、この決意が両日の会談を成功にみちびいたかぎであろう。
 会見の成功とともに、勝海舟は江戸を焦土にするという計画を中止しなければならない。そのときの海舟の活躍はまったくすごい。それに、これに使った金もぼうだいであったろう。要するに海舟の覚悟が江戸市民を救ったのみでなく、他国に内乱につけこまれる理由を排除したのである。その後、日本の歩んだ道が好ましかったか、どうかは今日検討の余地はあるとしても、日本が他国に侵略され、江戸市民が苦しむことだけは、はっきり避けられたといえる。すべて勝海舟のおかげである。海舟は歴史をつくる立場にはたたなかったが、歴史をつくる立場に最も協力したということがいえる。しかもその仕事は歴史をつくる主役の仕事よりも、もっとむずかしいと言える。それをなしとげた人こそ、勝海舟である。

 

  一 徳川家の処分

 江戸城を西郷隆盛との対談で、無血明け渡しにもっていった勝海舟であるが、その後の徳川氏の処分をめぐって、海舟の仕事、役割はたいへんであった。かれのその後の全生活は、徳川氏をいかにして守るか、ということで終始したといってもよい。海舟は進んで、徳川氏一族の滅亡のために努力した。それは日本そのもののために、全国民のために必要かくことができないと考えたがゆえに、そのためにせいいっぱい努力した。しかし、このために滅亡した徳川氏と、それに連なる人々を冷たく、つきはなしてしまうほどに、海舟は冷たい男ではなかった。冷たいどころか、徳川氏とそれに連なる人々のことを、わがことのように考えるヒューマニストであった。自分が滅ぼした徳川氏の運命を自分の全存在をとして、最後までみようとしたのがかれである。かれこそ、自分の行為を最後までみ、責任をおうのであった。そこにかれの本領がある。今日、自分の行為の責任を最後までみようとする人の少ない中で、海舟はまさに珍しい人というほかないし、さらにかれのような歴史的人間に現代人が真剣に学ばなくてはならない。
 もしも、今日の若者の中にそんなことはおかしくって、という人があるとすれば、それは歴史を軽んじ、人生の真実を知らないことがはなはだしいと言わなくてはならない。人生の真実は常に真実であり、ほんとうに自分のためになるような行為は、その真実を貫いてこそ、はじめて生まれるのである。言いかえれば、勝海舟は、自分がほうむった徳川氏のために、明治以後の三十年余りを使ったといっても過言ではない。
 では、どのようにして、海舟は徳川氏のためにつくしたのであろうか。かれが明治政府につかえたのも、たんにかれの才能を新時代の要求するままに生かしたということよりも、海舟自身、新政府の中にいて、少しでも徳川氏とそれに連なる人々のために、働きたいためであった。自分一個の栄達のためでなく、徳川氏とそれに連なる人々のためにつくしたいというのが本音であった。
 まず、勝海舟は徳川氏の後継者をきめるうえで、自分の職を賭して、田安亀之助を推している。それまでは、だれを後継者にするかということで、明治政府のがわもきまらず、甲論乙駁の状態であったのを、かれの決断で、とうとう政府もおしきられることになったのである。田安亀之助が後継者にきまると、静岡で七十万石を与えるということまで、すらすらときまってしまう。
 だが、亀之助について、徳川氏に連なる人々が静岡に移るについて、明治新政府は短時日を与えたが、それでは無理だといって、その日数をのばしたのも海舟である。西郷隆盛と知己の間がらである海舟なればこそできたのである。
 当時、静岡に移る者八万人。そのための住居の世話はたいへんであったろう。しかし、海舟はその世話をなんとかやってのけるのである。亀之助は当時六歳の年齢であったので、松平確堂がその後見役となり、実際上の実権は勝海舟がにぎることになった。だが、勝海舟はご承知のように、明治政府の西郷隆盛と肝胆相照らす間がらであり、長州出身の者にも知り合いが多く、旧幕臣からは徳川氏を明治政府にうり渡した人間であるとみられていた。だからとて、海舟を除いて、政府と幕臣の間にたって、かれのように交渉してくれる者はいない。そのために、海舟の立場は非常に微妙で、憎みながら頼むという立場にたたされていた。
 このために、勝海舟自身、その微妙な立場に閉口して、徳川氏の地位を去ることを求め、その職をやめることを求め、辞職を願いだしたこともある。だが、その願いは松平確堂ににぎりつぶされてやめることもできず、やむなく、その職にとどまって、従来どおり、徳川氏とそれに連なる人々のために尽力することになった。その意味では、海舟は損な役割をひきうけたものである。

  二 徳川氏の代理人

 もうひとつ、勝海舟にとっては、たいへんなことがあった。それは祿を離れた人たちの生活をどうするかということであった。しかも、その人たちの数はおびただしいのである。それをどうにかしようとしても、勝が、幕臣からも明治政府からも疑われているとすれば、なおさらむずかしいのである。
 勝海舟としては、上野にたてこもった彰義隊を明治政府の大村益次郎のように、強引に武力討伐するということには反対であった。かれはあくまでも、人間の生命をなによりも重いと考えていた男であったし、かれらを無益に殺すことはないと考えていた。しかし、かれの願いを他所にして、彰義隊の討伐は行われた。だから、海舟はたえず幕臣側と明治政府の間にたって、彰義隊のおちいったように、幕府側の暴走、明治政府側の挑発がないように、心を配らずにいられなかった。それはつらい仕事であったが、日本の統一国家のために徳川幕府をたおした者の勤めでもあった。だから、かれはそれをすすんでひきうけたのである。
 幕臣の祿をはなれた者の多くが、維新後どうなったかは、福地桜痴の「懐往事談」に、
 『甚しきは我が家の玄関を直ちに店となして、所持の什器を陳列して骨董道具商となるものあり。更に甚しきは昨日まで殿様、奥様と諸人に尊敬せられたる門閥の
ガン袴者流が世間に体面あるを顧みずして、或は料理屋となり、或は汁粉、天浮羅、茶漬の店に居宅を変じ、妻子と共に客を迎え、叩頭して以て賤商の姿態に倣う。……更に一層廉恥を知らざる輩は或は狭斜に身を投じて遊女屋となり、引手茶屋となる者あり』
 と書いているように、にわかに身分を変えて生活のために働いたのである。だが、その中の多くは商売の道にうというえに、町人になりきれず、閉店のやむないところに追いつめられたのである。そのために、経済的に困窮する者が相つぎ、勝海舟は自然その人たちのために、十円、五十円、百円と助力することになったのである。
 このころ勝海舟の日記は、それらの人への助力をしたことで満たせている。しかも、それはたんに幕臣のみならず、長州、薩摩、土佐の人たちのもおよんでいるのである。幕臣のみでなく、長州、薩摩、土佐の中にも、明治以後の兵制改革で、ときを得ず職を失い、経済的に窮乏した者まで、かれをたよってきたのである。
 明治六年には、大黒屋六兵衛より、金三万両を徳川氏に献金させている。この大黒屋は幕末に両替、糸貿易で巨富をたくわえた者。かつて、伊藤博文、井上馨らに五千両を与えて香港に送り、戊辰戦争では二万両、明治政府に献金したほどの男である。このような大黒屋から三万両もの大金をださせたのは、勝海舟の力腕である。
 この金を元本にして、巧みに運用することで、その利子を困窮した人々に与えたのである。しかも、勝海舟はあくまで徳川氏の金を借りてやるという形をとったのである。
 勝海舟は、この三万両をどのように運用したかというと、まずかれはその金を資本にして、徳川銀行をつくったのである。そして、徳川幕府の元勘定奉行溝口八十郎を頭取格とし、勝海舟自身は貸付方として、窓口にすわったのである。海舟の目ききによって貸付がきまる。この機関を利用する者は意外に多方面におよんだ。また、かれはそのことを非常に力量を発揮した。かれの曽祖父が一代にして巨万の富をたくわえた才能をかれも受けついでいたのであろう。
 この利潤で、困窮する幕臣を救ったことはいうまでもないが、同時にこの仕事を通じて世の中の動向をとらえていた。世の中の不安は明治以後たかまりこそすれ、静まることはなかった。勝海舟は経済、生活をおさえることによって、幕臣の暴走をも抑えようとしたのである。今ひとつは、これによって徳川氏の経済的地盤を確立しようとしたことである。
 この金をにぎる勝海舟のところには、経済的にこまった人々がいやおうなしに集まってきた。それに対して、勝の日記によると、海舟はいやがることもなく、めんどうをみている。それはまさに驚嘆するほどである。金というもので、いやというほどに苦しいめをあじわった海舟は、金というものが人間にもつ意味をとことん知っていたのである。だからとて、拝金主義者ではなかった。

  三 西郷の死

 これより先、西郷隆盛一派は征韓論に破れて政府をさり、かわって大久保利通、木戸孝允たちが政府の実権をにぎる。征韓論というのは、これまで対馬と交渉していた韓国が、明治政府に対しては、従来の慣例をまもらず、明治政府を無視してきたので、西郷隆盛自身使節となり、韓国の態度を反省させようというものである。しかし、これが今までの歴史では誤り伝えられて、西郷の言うことをきこうとしないときは、韓国を討つというように考えられてきたのである。
 しかし、ご承知のように西郷隆盛という人間はヨーロッパがアジア諸国を武力で制圧することを文明でなく、野蛮な行為とはっきり言っていた者であり、かれ自身ヨーロッパのまねをするなどまったくあり得ない。ただかれ自身誠意をもって、いっしょうけんめい説き、それでもきかず西郷を殺すようなことがあれば、武力討伐もやむを得ないくらいの覚悟は必要であると思っていたにちがいない。だが、生命を捨てて誠意をもって説くならば、必ず成功すると考えるのが西郷隆盛の人生観である。だから、当時、海軍大輔として海軍の実権を握っていた勝海舟に韓国を攻めるということについてひとことの相談もなく、すべて西郷の発言は政治的発言であったのである。
 事実、日本、韓国、中国との連合の中にのみアジアの平和をみていた勝海舟と西郷隆盛は意見を同じくしていたのである。ところが、日本はヨーロッパ諸国と同じようにみられ過せられることを念ずるあまり、アジア諸国とともに歩むことをやめて、ただ西洋化の道をつきすすんだのである。日本は韓国、中国を見捨ててしまったのである。このために、勝海舟や西郷隆盛たちのアシア連合論はきえてなくなり、西郷の考えもいつか、征韓論の三字、朝鮮征伐論とされてしまったのである。
 その前後から、日本でアジア連合論を唱えることはタブーであり、そのタブーは長い間続いたのである。だから、当時の話を勝海舟から聞きだした人間もその話を故意に抹殺してしまったのである。このように、歴史は今日もゆがめられてしまったままなのである。
 薩摩にかえった西郷隆盛は桐野利秋、篠原国幹たちと私学校をおこして、青年の教育をはじめた。明治政府への不満分子、不平分子は全国いたるところにおり、とくに旧幕臣の不平不満は根強い。政府はとくに西郷隆盛と仲のよい勝海舟が西郷と手を結び、不平不満の旧幕臣に命令して立ちあがらせることを最もおそれ、その警戒をゆるめない。
 だが、海舟は旧幕臣の暴走をおそれ、秋月の乱、神風連の変、萩の乱にも参加する者もなく、終わりに立った西郷の乱にも応ずる者はなかった。海舟はその日記にひとことも書いていない。それこそ、書きたくても書けなかったに違いない。警察の目がかれのまわりに光っていたからである。しかし、西郷の顕彰碑をつくり、西郷の罪名をのぞく運動は海舟が率先してなしている。
「今般政府へ尋問の筋これあり」と軍をおこした西郷隆盛、きっかけは弟子の暴走であったにせよ、そして明治政府の挑発にまんまとのせられて兵をあげたにせよ、西郷にはそれこそ、政府に尋問したいことがあったに違いない。西郷ですら尋問したいことがいっぱいある明治政府のことだから、日本の実権を不満ながらも西郷にゆだねた勝海舟には、西郷以上に不満があったにちがいない。それを抑えて明治政府に協力した勝海舟の胸の中は相当なものであろう。
 勝海舟は不満ながらも、西郷隆盛を最高にかっていた。その西郷は子分たちのために死んだ。子分をもたない海舟は、自分を誇りに思っただけでなく、人はすべて親分、子分となることなく、皆自分一人で自立しなくてはならないと考えていた。その意味では、かれは真の民主主義者ということになろう。
 そして、韓国問題をとおして、西郷隆盛と許しあった海舟、あくまで連合論を押しすすめたかれ。それは日清戦争をみるかれの中に最もよくあらわれているし、幸徳秋水の先達でもある。この意味では、海舟は真の平和主義者であった。そのことは次号に書きたいと思うが、それゆえに明治維新をなしとげた影の人にもなりえたのである。民主主義者にして、平和主義者がすでに明治時代にもいたのである。

 

  一 自由民権運動

 勝海舟は、日本の統一国家、日本の平等国家を夢みて、西郷隆盛などに日本の実権をゆだね、いろいろの批判の中で、徳川幕府の中枢にいて、その幕府を滅ぼした。その西郷隆盛もその志を曲解されたまま、明治十年に死に、それにつぐ実力者木戸孝允も大久保利通もそれに前後して死んでしまった。
 たしかに、勝海舟は統一国家、平等国家を夢みていたが、かれが日本の実権をゆだねた人たちのように、藩閥による権力政治にうつつをぬかすとは思いもしなかった。さすがに、海舟の盟友である西郷隆盛は途中でそのことに気づき、あくまで明治維新の理想を追求していかなくてはならないことを決心した。維新の理想とは統一国家のみでなく、四民平等の社会であり、万民安堵する社会であった。そのことは維新の革命力、生命力、発展力をそのまま、さらに発展させることであった。非文明的なヨーロッパ諸国と対抗することであった。だが西郷の理想は曲解されたまま、城山に死に、残った者たちにとってただ日本の進むべき道は、西洋化の道であり、そのためにいよいよ権力政治を、それも長州、薩摩を中心とする藩閥政治を強化したのである。
 たしかに、ほかの藩に比べて、長州、薩摩には開明的な人物が多かったにしても、ほかの藩の人たちを教育して、進んで自分たちの仲間にひきいれるということはなかった。それに閥族政治の進展とともに、権力を独占し、それがいつか腐敗していった。それも無理もないが、このような政治的、社会的情況に対して、おこるべくしておこったのが自由民権運動であった。自由民権運動とは、全国民に自由と権利をあたえ、閥族がそれらを独専するのに反対するという動きである。
 西郷隆盛と共同歩調をとれないまま生き残った板垣退助たちは言論によって、政府の方向をかえようと活動しはじめた。しかし、最後的には、板垣退助は政府に買収され、自由民権運動は中心の柱のないままに、徐々におとろえていくしかなかった。だが、自由民権運動の中でめざめ、育っていた者たちは、政府権力に追いつめられたまま、いわゆる加波山事件、群馬事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件などをおこし、最後の抵抗をこころみた。
 この間にあって、勝海舟は閥族政治に心から反対していたが、今の社会情勢の下では、政府に反対し、その政策をあらためさせることはできないと思っていた。それこそ、西郷の力をもってしてもどうにもならないのである。かれがそういう情況の中で考えたことは、長州、薩摩の藩閥に対抗しうる勢力をつくることであった。それは徳川氏を中心に、藩閥に不満な人たちを結集することであった。かれは自由民権の主旨に賛成しながら、徳川氏に連なる人々がその運動に参加することを極力抑え、自由民権の立場で、その全生活を律するように求めた。成算のない運動を強引におしすすめることには反対したのである。だから、逆に、勝海舟は自分の立場を利用して、当時の政府の最高実力者である伊藤博文に献言書をかく。その献言書というのは、いわゆる鹿鳴館時代といわれて、外相井上馨が条約改正を目的として、西洋の社交クラブに似せて、鹿鳴館において、ダンスにうち興じたものである。しかし、かえって、西洋諸国に軽蔑されて、少しも条約改正に役だたなかったので、海舟はその鹿鳴館を鋭く、次のように批判し、外相井上馨をくびにするところまで追いつめるのである。すなわち、その批判とは、
 一、近来高官の方、さしたる事もなくして宴集夜会等にて太平無事、奢侈の風に相流れ候哉に候、何とか工夫をもって穏便の御宴会に成られ度く候事。
 一、舞踏盛んに行われ、ついに淫風の媒介となる如き風評、下々にて紛々、ひそかに申し伝え候。左様の儀、万々これあるまじく候え共、今少しお控え、いわゆる程よくなされ候方と存じ候事。
 というものであった。
 この批判が要人たちにいかにこたえたかは、外相がやめたことでも明らかである。このように勝海舟は、自分のできるところで一歩一歩着実に進む者であった。それでいて、理想を夢みることを忘れない男であった。それが最も強くあらわれたのは次の事であった。

  二 東亜共同論

 海舟が日本、朝鮮、中国が連合して、西洋諸国の侵略にあたらねばならないと考えたのは、軍艦奉行竝になったころにさかのぼる。このころのかれは、過激な攘夷論者に直接朝鮮、中国を見させることによって、単に攘夷を叫ぶ人々の心を変えようとした。だから、日本を統一国家にしようという西郷隆盛にその仕事を一任しながらも、海舟の心の中ではそのことに不満であった。
 海舟には維新が必要なのは、単に日本のみではなく、朝鮮にも中国にも必要だと考えた。それによって、日本、朝鮮、中国が連合して西洋諸国にあたらなくてならないと考えていた。
 のちに、中国革命にとりくむ孫文も「中国革命は第二の明治維新だ」と言い、「日本には連続革命が必要だ。」というようなことを言っている。西郷隆盛は連続革命を志して死に、勝海舟は生きたまま、藩閥政治と戦い、真の統一国家、平等国家が実現するように努力した。いわれるような征韓論を主張して、西郷隆盛が辞任したのではないといいきったのも勝海舟である。海舟の胸中には、一貫して東亜共同論が宿っていたし、西郷隆盛も海舟によって洗脳され、共同論の持ち主にかわっていた。
 しかし、当時の日本は朝野をあげて、第二次世界大戦まで、東亜侵略論がのさばり、東亜共同論は日のめをみなかった。
 もし、そのような声があったとしても、細々とした声でしかなかった。勝海舟その人がこのような意見の持ち主であったことを知る者は意外に少ない。そこに、日本の悲劇がある。
 朝鮮、中国、日本が連合せよという意見をもつ勝海舟は、当然日清戦争に反対である。日清戦争、日露戦争に反対しつづけたのは平民新聞の人たちのみであるという声のみ高くして、勝海舟そのものも反対していたことを知る人は案外に少ない。
 では、どのように反対していたのであろうか。勝海舟の詩に、

  隣国交兵日  其軍更無名
   (隣国と兵を交えるの日 其の軍あらためて名なし)

 とあって、ま正面から戦争を批判している。いいかえれば、戦争の目的がないというのである。さらに、

  再言出師非  要路亦不懌
   (出師の非を再言するに 要路またよろこばず)

 というような詩もある。海舟の出陣を責めることばを、政府の大官は喜ばないというのである。
 まさしく、海舟は東亜共同論で一貫して、あくまで日清戦争に反対したのである。だから、また、

  可憐鶏林肉  割以与露英
   (憐れむべしけいりんの肉 割き以て露英に与う)

 と読むのである。かれのことば通り、日清戦争の結果は露、英に得をなさしめるのである。明治から第二次世界大戦まで、このような東亜共同論が声らしい声となることなく、いたずらに東亜侵略論のみ声高く、それが日本の政策となったことは残念である。中国革命は明治維新のあとにつづくものだといって、日本の理解と協力を強く求めた孫文の期待を日本は踏みにじって、中国民衆の信頼を失ってしまい、第二次世界大戦に敗戦することになるのである。当然といえば、当然だが、まことに残念である。
 今日の中国と国交を回復したといっても、あいかわらず日本人の目は西洋をむいて、アジアにむこうとしていない。アジア諸国を正しく理解しようとしていない。日本人がほんとうに目をさますときはいつか、それにつけても、海舟の先見の明を思わずにはいられない。
 平民新聞の幸徳秋水は日清戦争をどのように批判しているのであろうか。「日清戦争は仁義の師とか膺懲の軍とか、よほどりっぱな名義であった。しかも、これがためにわが国民は何程の利益恩沢によくしたのであるか。数千の無邪気なる百姓の子、労働者の子は、命を鋒鏑に落して、多くの子を失う父母、夫を失うの妻を生じて、而して
エイし得たり。伊藤博文の大勲位侯爵、陸海将校の腐敗、御用商人の暴富である。独り是のみに止らぬ。次で来る者は所謂戦後の経営、租税の増加、投機熱の勃興、人心の堕落、道徳の退廃、国民多数の大困難ではないか」と書いている。まさに、その通りである。それにめざめないで、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦に突入したのが、日本国民である。勝海舟の役割を江戸城明け渡しで終わったとみるところに、日本人の深い迷妄があり、東亜連合論は今なお生きている。生きているばかりでなく、今こそ生かさなくてはならない。

  三 海舟の晩年

 勝海舟は晩年になって、いろいろの著作にとりくむ。「吹塵録」「吹塵余録」「海軍歴史」などそのおもなものである。「吹塵録」「吹塵余録」のためには、編集費として当時の金額にして二千五百円が出、「海軍歴史」のためには、月々六十円ずつ、一年間海軍省から出ることになった。海舟はこれらによって、徳川氏に連なる人たちの生活のめんどうをみようとしたのである。当時は、海舟のもとにいけば仕事があるというようなことが知人の間でささやかれていたという。要するに、かれは自由民権運動や条約改正運動のような、うわついた運動に旧幕臣を参加させないように心がけたのである。
 だが、一方では、海舟は藩閥政治に非常に反対していた。藩閥政治はは徳川幕府のように私の政治であり、公の政治ではないと思っていた。ただそのような中で、伊藤博文や黒田清隆を第一級の人物だと認めていたから、問題はかれらに匹敵する人間を旧幕臣や薩、長、土、肥の以外の藩の中に育てることによって、自然に藩閥政治が崩壊するのをまつ以外にないと考えていた。藩閥政治はそれまでの必要悪だというのがかれの考えであった。だから、海舟が藩閥政治がなくなり、日本全国から人材が生まれ、真の国民国家になるようにつとめたことは非常なものであった。
 その後、「海軍歴史」についで、「開国起源」「府城沿革」「陸軍歴史」をてがける。「陸軍歴史」では、陸軍から千円でる。
 明治二十年七月になって、勝海舟の頭を常に去らなかったことが成就する。それは、宮内省より、日光、久能両山の東照宮に一万五千円下賜され、十一月になって、皇后が徳川邸に行幸されたこと。さらに同日、皇太子(のちの大正天皇)が徳川邸におなりになり、徳川の旧臣もそろって、お迎え申し上げるということがあったのである。こうして、二十年をへて、皇室と幕府の和解が成立したのである。そして、明治二十一年には、徳川慶喜が従一位に叙せられるのである。おそらく、海舟にとって、海軍卿になるよりも枢密顧問官となったことよりもうれしかったにちがいない。
 海舟は、枢密顧問官になったときのことを次のように記している。
 「明治二十一年五月、我が政府、突然降命、余を枢密顧問官とす。一警大童、固辞再三、しまいに免ぜず。是我が陳腐、知識に乏しく、無用の長物たるを了す。敢て老朽を以て安佚を求むる有らざる也……。」
 海舟が枢密顧問官という要職をいかに思っていたか明らかであろう。かれにとって、徳川家のことと同じほどに胸をいためていたことには、西郷隆盛の賊名のことがある。維新の理想のために死んでいった西郷隆盛が賊名をこうむり、その理想を放棄した人々がのうのうと生きているのはがまんならなかった。
 西郷隆盛の銅像ができたのは、明治三十一年。どんなにうれしかったことであろう。だが、海舟も明治二十五年より、病気がちであった。しかし、日清戦争反対の意見をのべたことは先述したが、かれの気力は相当なものであった。若き日、剣禅できたえたためであろうか。
 長男小鹿が亡くなったのは、明治二十五年二月、海舟の身体が故障がちになるのも、それからである。長男の死がよほどこたえたのであろう。
 田中正造が足尾鉱毒事件に同情し、理解をしめす勝海舟について、「海舟の価値は百年後にきまる」といったのは、明治三十年のことである。文字どおり、海舟の価値がきまるのは今後であり、百年後のことであろう。
 勝海舟は、明治三十二年一月十九日に没す。享年七十七歳。西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通のだれよりも長生きした人生の達人であった。達人として、時代に対する見識はいまなお光っている。かれのような人間こそ、この世のモデルである

 

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