雑誌掲載文(2)

 

     <目次>

坂本竜馬における人間形成(総合教育技術)1964年6月号
人と思想 緒方洪庵(小5教育技術)1965年7、8、9月号
幕末志士交友録(社会人)1965年7月号〜1966年1月号
教育の底流 福沢諭吉(小5教育技術)1965年10月号
龍馬のパトロン(歴史読本)1967年2月号
激動期に生きる <1> 親鸞(小6教育技術)1967年4月号
        
<2> 北條政子(小6教育技術)1967年5月号
        
<3> 千利休(小6教育技術)1967年6月号
        
<4> 蒲生氏郷(小6教育技術)1967年7月号
        
<5> 高野長英(小6教育技術)1967年8月号
明治をきずいた人々 福沢諭吉(社会人)1968年5月号
          
北村透谷(社会人)1968年6月号
          
新島襄(社会人)1968年7月号
          
津田梅子(社会人)1968年8月号
          
幸徳秋水(社会人)1968年9月号
          
内村鑑三(社会人)1968年11月号
明治の叛乱(歴史読本)1970年4月号
伝記と経済人(中公、経営問題)1972年春季号
歴史と歴史小説(出版ニュース)1972年7月上旬号
天心の雄叫び(受験あどばいす)1975年2月号
 

 

               <目 次>

 

 

「坂本竜馬における人間形成
……教師と子どもが、同時にかかわり合うことのできる人間像……

 

 私たちの人間としての自己形成に、それぞれの人がめぐりあった人物の果たす役割が非常に大きいことは、だれも否定することはできまい。その人物は、時として、私たちの人生に対する姿勢ばかりか、私たちの職業までも決定する場合がある。その意味で、文部省が「道徳の指導資料」の中に、理想とすべき人物を幾人かあげたことは、基本的には正しい。
 ただ、これらの人物についての、一面的、断片的知識で、子どもの人間形成にどこまできりこめるかという疑問もあるが、それは、教師みずからの努力で、ある程度、解決できることであるかもしれない。しかし、どうしても解決できないことがある。それは、これらの理想的人物は、一様にあまりにもすぐれた人物でありすぎて、教師の側からはもちろん、子どもたちの側からも、ごく例外の者をのぞいては、ほとんど、アプローチしようもないほどに、無縁な人たちであるということである。
 理想的人物というのは、どこまでも理想であって、理想として仰いでいればよい。せいぜい、それに近づこうという姿勢さえもっていればよいということになれば別だが、それにしても教師のうちの自分に誠実な人たちは、自分たちの手のとどかない、これらの理想的人物をはじらいなしに子どもの前に語ることはできまい。まして、これらの人物を推賞するなど、思いもよらないことであろう。自分に無縁な人間、自分に無縁な人生を子どもに求めたり、推賞できるのは偽善者だけである。そのためには偽善者になるしかないともいえる。戦前の修身教育の最大の弊害は、多くの教師自身を偽善者にしたてたことである。偽善者の下に、多数の偽善者が育っていったことも、これまた自然の理である。
 以上のことから、あらためて、私が言いたいのは、教師の側からも、子どもの側からも、同時に接近できる人物、その人物を通じて教師と子どもがかかわり合える人物、そういう人物こそ理想的人物ではないかということである。そのひとりとして坂本竜馬の名をあげたい。

   泣き虫竜馬

 ご承知のように、竜馬は明治維新の立役者のひとりとして、広く知られている人物である。ことに、倒幕のための薩・長の連合戦線の組織者として、幕府権力を薩・長の権力に平和的に移行させた推進者として有名である。そのかぎりでは、非凡であり、私たち普通人が到底及びもしないような人物ではあるが、その実、意外なところで、私たちに通じ、私たちの身近にいるのが、竜馬という人間である。
 竜馬が土佐ノ国、高知城下に、郷士坂本権平の二男として生まれたのが天保六年(1835年)十一月十五日。彼は末っ子として、親や兄姉から甘やかされて育ったためでもあるまいが、いつもハナをたれながしているような子どもであった。そればかりか、寝小便は十一才までつづいた。そのため、竜馬は近所の悪童たちから、「坂本のハナタレ」「坂本の寝小便タレ」という、まことにありがたくないニックネームをつけられる始末。しかも、竜馬には、「ハナタレ」といわれ、「寝小便タレ」とはやされても、ただ泣くだけで、抗弁できるだけのものがなかったのである。とうとう、「坂本の泣き虫」とまでいわれる有様であった。周囲の人たちは、彼をウスノロとみた。
 その竜馬が楠山庄助の塾に通いはじめたのが、やっと十一歳の時。十一歳の就学というと非常におそい。彼といっしょに倒幕運動に参加した中岡慎太郎にしても、四歳の時に就学している。しかも、竜馬は、せっかく通いはじめた楠山塾を到底見込みがないと評価されてまもなく退学させられるのである。要するに、幼き日の竜馬は、後世に名をなした人たちの少年時代とは違って、いわゆる俊敏ではなかったのである。竜馬が竜馬らしい片鱗をはじめてみせるのは、剣術を通じてであった。すなわち、十三歳の時始めた剣術では、これまでの竜馬とは違って、メキメキと上達し、十七歳の時には目録をあたえられるほどの腕前になるのである。ここで竜馬は、はじめて、人並みの自分、これまで、弱虫、泣き虫といわれて馬鹿にされていた自分ではない自分を発見することができるのである。
 過渡期に生きる青年は当然、時代の影響をまともにうける。竜馬の周囲の青年たちもその例外ではない。彼らは、日夜、尊王か佐幕か、攘夷か開国かをめぐって議論する。それは、竜馬の耳に達するばかりか、周囲の者たちは積極的に彼をもその激論の中にまきこもうとする。しかし、彼はかたくなにそれを拒否しつづけ、ひたすらに剣術にうちこむ。その態度は、新たに彼に対する侮辱をひきおこしかねなかったほどだが、竜馬はふりむこうともしなかった。
 それは、おそらく、竜馬にとって、長い間、彼の中に蓄積されてきた劣等感、屈辱感を克服しきる道であったといえるのかもしれない。本当に自信をもって、一本立ちできる道に通じていると考えていたようにもみえる。
 竜馬がふたたび、書物を読みはじめたのは二十四歳の時である。しかし、その読みぶりは、かつての鈍才ぶりと少しも変わっていない。彼の読むのをきいていると、チンプンカンプンで何のことやら少しもわからない。驚いた仲間が、そこに書かれている意味をきいてみると、不思議なことに正確であるばかりか、時として、非常にすぐれた見解までとびだす有様であった。そればかりか、その後の竜馬は、当時には、めずらしいほどの卓越した、独創的な思想と行動をもった人間として育っていくのである。もちろん、彼の漢文読みの内容が変わるはずもなかったのであるが、その意味をよみとることでは、奇妙にすぐれていたのである。
 では、何がこんな竜馬を育てたのであろうか。その秘密は、以上にのべた、わずかの竜馬のことから発見できるように思われる。

   考えるしかなかった竜馬

 すなわち、「泣き虫」「ハナタレ」とはやされ、いじめられる中で、ひとりぼっちの竜馬は、太平洋にのぞんだ桂浜にたって、海の彼方にむかって、自分の中にわけいり、自分と語るしかなかったであろうし、そうした生活の中で、自然に、後の彼にみられる、弱者としての自覚をもった人間として、弱者に対する深い理解と強い共感が育っていったのであろう。
 ことに、当時の素読という棒暗記式の教育の中では、わずかながらも、自分と語り、自分で考えはじめた竜馬は、いよいよ鈍才となっていくしかなかったようにみえる。目から鼻にぬけるような聡明さは、幼き日の竜馬にはまったく無縁であった。先生も竜馬を理解することができなかった。塾を退学させられたことは、彼の父や兄姉をひどく、がっかりさせたかもしれないが、だれよりも、この屈辱感を深くかみしめたのは竜馬自身であったろう。
 竜馬が、剣術にその能力を発揮できたのは、おそらく、素読の塾と違って、自分のペースで、自分にあった方法で、木刀をふりまわしていればよかったからに違いない。それしかありようがないのが剣術であるともいえる。まして、弱虫、泣き虫の評価をうけた彼には、もはや失うべき、どんな名誉も栄光もなかったのである。ただ、竜馬は竜馬自身でありさえすればよかったのである。自然、クソ度胸もでてこようというものである。そこには、自分の弱さに対する、自分におしかぶさってくる侮蔑への怒りも働いていたかもしれない。

   人間的出会いが持つ意味

 この竜馬に思想的に大きな影響をおよぼすのが、河田小竜であり、勝海舟である。
 河田小竜に出会ったのは、竜馬が江戸での第一回の剣道修業を終えて、高知に帰った時だった。小竜は画家であったが、漂流者のジョン・万次郎と交渉があったところから、外国事情にくわしく、その中での日本の方向についても、一家言をもっていた。それまで、海の彼方をみていた竜馬の目は、この時をかぎりとして、はっきりと海外を凝視するようになるのである。彼は外国通商のための船や機器の購入につとめ、小竜には人物の育成をたのむ。律の海援隊の構想はここから出発する。
 一介の郷士にすぎない竜馬が、外国船を買って、航海術を学び、また交易しようという、とてつもない夢を具体化できたのは、勝海舟とのめぐりあいによる。竜馬は、当時、幕府の海軍奉行であった海舟が奸賊であるというウワサをきいて、それをたしかめるべく海舟に会見を申しこんだ。もし、うわさ通りなら、きる覚悟であった。しかし、みずからの目で、外国をしかと見てきた海舟のことばは十分に説得力があった。竜馬はその場で入門した。そして、その線から、後に薩・長連合の布石が生まれ、大政奉還の大芝居をうつ伏線もできることになるのである。

   教師も子どもも近づきやすい人物

 坂本竜馬が維新に果たした役割はたしかに大きい。彼が中途で、凶刃にたおれることがなかったら、明治時代における自由民権運動ももっと実りあるものになったであろうし、薩・長の藩閥を押えるうえで、一つの力になり得たことも想像できる。だから、竜馬という人物は、その業績からだけみていると、非凡なうえにも、非凡な人物であるため、到底、私たちが近づくことのできない人物、仰ぎみるしかない人物のようにみえるが、その実、私たちの周囲のどこにでもいるような、私たちとは少しも違わない人間であった。このことは、教師の側からも、子どもの側からも、ともに近づき得る人間として、竜馬を理解し彼を中心に、教師と子どもが深くかかわり合い、結び合える人物であるということにもなる。
 それは、教師自身を偽善者にしないですましうるばかりでなく、子どもにとっても同じように、教師にとってもまた、理想的人物となしうるということである。
 子どもにとって、無味乾燥で、かなたにそそり立つ偉人でないことはいうまでもないし、その時、子どもの人間形成に竜馬という人間が深くかかわり合えることはあきらかである。それは、あたかも、小竜と海舟が竜馬の人間形成に深くかかわり合ったと同じ程度にかかわり合うことができよう。そして、教師がある歴史的人物を通じて子どもの人間形成に深くかかわり合えるのは、その人物が、教師自身にも深くかかわり合っている場合にかぎられると言っても言いすぎではあるまい。その意味では、「道徳の指導資料」にあげられた人物が、子どもたちにどういう意味とかかわり合いをもった人物かと問う前に、まず教師自身にどういう意味とかかわり合いがあるかを問うてみる必要があろう。
 そして、教師にとって、もっとたいせつなことは、これらの人物の幼少年期の姿を通じて、子どもたちをより的確に理解するということであろう。
 そのためには、教師自身が、みずからの手で、これらの理想的人物を自分流に解釈して、まず、自分とかかわり合わせてみることである。
 その場合、泣き虫でありハナタレであった幼き日の竜馬が、その人生のうけとめ方いかんでは、あれほどまでにすぐれた思想と行動をもった人間になり得たという事実は、大いに参考になるばかりでなく、教師の生徒に対する評価は軽々しくなすべきでないということを教えるであろう。
 ことに、暗記力とか、知識の量や正確さだけで、生徒の能力を判断しがちな今日の傾向に対して、するどく反省をせまるにちがいない。
 すべての子どもが一本立ちできるような教育がのぞまれている今日において、竜馬の人間形成の過程は、いっそう、重要な意味をもっているといえるのではあるまいか。

 

                <雑誌掲載文2 目次>

 

人とその思想 緒方洪庵」

    目次

 1 その生涯
 
2 適塾の生徒たち
 
3 その弟子たち

 

   1 その生涯

 緒方洪庵は吉田松陰(183。〜59)に先だつこと、二十年の文化七年(181。)備中の国、足守に生まれた。現在の岡山市から、北へ十数キロの所である。洪庵は当代有数の医者であったが、そのすぐれて医学者であることによ って、教育者となり、幕末から明治にかけて活躍する人物を多く育てた。それは、医塾というよりは、むしろ、蘭書解読の研究所であったから、塾生は医者希望にかぎらず、兵学者あり、砲術家あり、思想家ありで、およそ、蘭学に志すものはすべて、先を争って、その門に学んだし、洪庵もまた、その弟子をとわず、人門を許可したからである。
 松下村塾の竜虎久坂玄瑞の兄、玄機も洪庵の高弟であった。まことに、洪庵は、吉田松陰とならぶ、幕末の偉大な教育者であったということがいえよう。

   大阪に学ぶ

 洪庵の父は、足守藩木下侯に仕える藩士、洪庵はその三男として生まれた。文政八年(1825)十六歳の時、洪庵の父は、大阪の足守藩蔵屋敷勤務を命ぜられて、洪庵も父と一緒に大阪に住むことになった。
 これまで、洪庵は、武士の子が文武を習う風習にしたがって文武の道にはげんでいたが、身体が虚弱なために、どうも思う通りにゆかない。彼は次第に、自分の弱い体質を見極めることがそのまま勉強になり、自分の仕事にもなるようなものはないかと考えるようになった。丈夫にになりたいと念ずる気持ちが自分の職業で果たされるなら、これほど素的なことはない。こうして、洪庵はいつしか、医学の道を志すようになったのである。
 文政九年(1826)十七歳の時に、始めて、中天遊の門人になった。天遊は西洋の医学を専門とし、人の身体や病気のことにくわしく、人々を驚かせるような意見をもっているという評判であったので、洪庵も非常に喜んだ。まして、自分が求めてはいった医学の世界である。四年間というもの、手あたり次第に訳書を読んでいった。それというのも、天遊はオランダ医学といっても、あまり、オランダ語が読めなかったので、自然、訳書を読むしかなかったのである。洪庵はとうとう、天遊のところで手にはいる訳書はほとんど読みつくした。
 その時、天遊は、愛弟子の洪庵にむかって、
「現在、西洋の学問は日に日にさかんで、訳書も多い。然し、その主部がそなわっていないから、満足するというところまではいかない。自分は年をとって何も出来ないが、君は原書について学ぶべきである」
 と、いったのである。
 洪庵は師のことばに従って文政十三年(183。)大阪をたって、江戸へ勉強にいく。洪庵が二十一歳の時である。途中、木更津で、村の少年達に理学を教え、学資をかせいだということである。

   坪井信道の門にはいる

 洪庵が江戸にはいったのは天保二年(1831)その二月に、当時の江戸の蘭医の大家坪井信道の門にはいった。信道というのは、後、天保九年、長州藩主の侍医となり、三百石を貰い、藩主・藩士に蘭学を教授した人である。
 洪庵はこの信道の下に、塾の玄関番をやりながら、刻苦勉励した。時に按摩したりしながら、学資をかせいだ。福沢諭吉がその節操をつらぬくためには、按摩術をおさめておくとよいと書いているのも、師洪庵の按摩から、ヒントを得たものであろう。
 それでも、洪庵の生活は豊かというには、あまりにも貧しすぎた。そのため、師の信道から、着物をもらってきるという状態だった。だが、小がらだった信道の着物は、どちらかといえば、大がらだった洪庵には、ツンツルテンでしかない。膝から下を出しながら、彼は勉強していたという。おそらく、若い彼としては、やりきれない思いを逆に学問にたたきつけることで忘れようとつとめたにちがいない。
 当時はオランダ医学を学ぶといっても、組織だった実験ができるわけもなかったから、自然、彼らはオランダ医学の本を読んでいくしかなかった。洪庵とても例外ではない。
 だから、当時、洪庵が原書を十数冊読んだということは、大変なことであったろう。そのため、大阪では、どうしてもかゆいところに手がとどかなかったものが、江戸での四年間の生活で、
「顔にかかった膜がとれ、かゆいところへ爪がとどくようになった」のである。
 勿論だからといって、生活が楽になるわけのものでもない。オランダ医書の翻訳はかなりの収入になったといえ、洪庵の生活は相変わらずひどいものであった。
 大阪に住む旧師天遊のために写本をしたが、その金も十分にはいらない。当時、天遊から、洪庵にあてた手紙に、
「貴方の困窮も十二分にわかります。しかし、私の生活も不自由で、金の工面がなかなかつかない。都合つき次第、直に送金するから、写本は少しづつやってほしい。貴方の立替えになっては気の毒だから」
とある。
 師弟ともに困窮していた状態がよくわかる。勿論だからとて、その苦しさに悲鳴をあげる洪庵ではない。そうした苦しい生活の中にも、信道に入門して一年半ばかりのとき、「人身窮理学小解」を翻訳しているのである。これは、ドイツ人の書いたものをオランダ語に翻訳し、更に、洪庵が日本訳にしたものである。
 洪庵が信道の門にはいって三年目には、「医薬品術語集」という本を著している。
 洪庵は一方で学びながら、地方では、また、次々に訳していったのである。

   長崎に遊ぶ

 天保六年二月、一旦、信道の門を辞して、足守にかっえた洪庵は、まもなく、大阪にでて、天遊の塾で、オランダ医学を教えていたが、彼としては、もう少しの間、自学自習してもっと自分の立場を確立してみたいと考えた。
 洪庵が、その年のくれ、長崎にむけて出発するのは、その思いを果たすためであった。なんといっても、長崎は、当時、唯一つの西洋医学にナマで接触できるところ、その地を此の眼でみておきたいという思いにもかられたであろうし、できれば、その地で学ぶ者たちとも意見を交換したいと考えたにちがいない。
 オランダ医学を学ぶ者として、時勢に対する姿勢もなんらかの形で確立しておこうと思ったであろう。
 それを裏書きするように、長崎での洪庵はあきらかではない。一説には、当時のオランダ商館長ニーマンについて学んだともいうが、その証拠はなにもない。ニーマンも医学を学んだ人とはいえ、商館長の職にある人で、彼から教えをうけたとも思えない。要するに、当時の洪庵は、特定の人について学ぶ必要をそれほどに感じなかったのであろう。ただ、知見を深めたかったに違いない。
 その結果とはいえないが、長崎に当時留学していた青木周弼、伊東南洋と一緒に、「袖珍内外万叢」という本を翻訳している。周弼といえば、長州藩の藩医で先述した久坂玄機とともに、大いに種痘をはやらせた人である。
 こうして、二年間、洪庵は長崎に住むことによって、思う存分、見聞をひろめた。書物で学べないものを実地に見、接することによって、大いに収獲があったのである。

   独立 

 およそ二年間、長崎にいた洪庵は、天保九年一月八日に長崎をたち、二か月程、足守で休息した後に、大阪に出た。大阪で塾を開くためであった。
 十六歳の時、大阪に出て、中天遊に弟子入りしてから、約十三年間修業した彼、いよいよ蘭医として、また教育者として独立した生活を始めようとするのである。時に、洪庵が二十九歳の時である。
 はじめ、大阪の瓦町に蘭学塾を設けたが、まもなく、手狭になり、天保十四年には過書町に引越している。それほど、若い洪庵の人気は高かったのである。医者としての洪庵の評判も大したもので、当時、角力番付に見ならって評判の医者を東西にわけて順位をつけて「当時流行町請医師名集大鑑」と名づけて売りだしたのだが、それによると、天保十一年には前頭四枚目、弘化二年には関脇、嘉永元年には大関の最高位についている。勿論、大関になったのは、洪庵三十九歳の時で、医者を開業して十九年になるが、その人気も相当なものだったことがわかる。
 彼の教育活動については、主として、次号にのべるが、その塾を「適々斎塾」「適塾」あるいは、「適々塾」といって当時、数十名が寄食して、非常に盛んであった。塾に学んだ者は前後三千人におよぶ。二十五年の長き年を考えれば、不可能ではないが、相当のものだったということがいえよう。なかでも、大村益次郎、佐野常民、箕作秋坪、橋本左内、大鳥圭介、長興専斎、福沢諭吉、高松凌雲、足立寛、池田謙斎など多士斎々といえる。

 その間、蘭医学者としては、「病学通論」「扶氏経験遺訓」「虎狼痢治準」などを著している「病学通論」の題言には、「これは意味が明らかで、論理は精密をつくしているといえる。ただ、文学は鄙俗で、優雅ではない。そのため、これを顧みる者は少ないかもしれない。
 だが、此の書物は病理学の最初のもの、一度、世に出れば、世間の人は此を手本とするであろう。だから、決して爪々たる事業ではないことだけは明らかである。」
 と書いている。
 洪庵の烈々たる自信と誇りをうかがえる。これと関連して洪庵らしいのは、その翻訳の立場である。彼は「翻訳は原書の読めない人のためにするものだ」という立場にたっていたことである。そのことを、弟子の諭吉は、
「緒方先生は、一字一句かまわず、原書を軽蔑して眼中におかない。緒方先生の持論は、翻訳は原書を読めない人のためにするもの。それなのに、翻羅中、無用の難文字を訳列して、一読、両読して、なお意味を理解することができない。つまりは、原書に拘泥して、無理に漢文字を用いようとする罪であって、結局、読書と原書を対照しなくてはわからない。全く笑止なことである」と書いている。

   将軍の侍医

 洪庵は自らの病弱を見究めながら、また、それと闘うことを職業として、一歩々々と、着実に仕事をしていった。多くの弟子達、それも、いろいろの方面に活躍する人達を育てた。育てつつあった。その点、まことに幸福な人ということがいえよう。
 だが、そうなると、世の中が放っておかない。洪庵が洪庵のペースで進んでいるとき、そのペースを崩すものがあらわれたのである。それは、彼を将軍の侍医にしようという動きである。勿論、洪庵は再三辞退した。しかし、辞退しきらなかった有難迷惑とは思いながらも、洪庵の心には、
「先祖への孝となり、子孫の栄ともなり、自分にとっては、冥迦至極」と思えたからである。
 文久二年(1862)といえば、あと、数年で、幕府は崩解するという時に、洪庵はこの辞令をうけとったのである。洪庵にとっては、たった一つのミスというか、先見の明がなかったということになりそうである。時代の先端をゆく、オランダ医学者でありながら。
 しかも、江戸に移って、一年もたたないうちに、心労のために仆れるのである。これから働き盛りという五十四歳という時に。   (つづく)

 

               <人と思想 緒方洪庵 目次>    

 

   2 適塾の生徒たち

 洪庵は二十九歳の時、大阪の瓦町に蘭学塾をひらいた。それは、天保九年(1838)の三月のことで、蘭学者高野長英が、「夢物語」を、同じく渡辺崋山が「慎機論」を著した年であり、大塩平八郎が大阪で挙兵した翌年であった。天保十年(1839)には、その高野長英、渡辺崋山が幕府の政策を批判したということで逮捕になっている。時代は、ようやく幕末の騒々しさを加えて、過渡期の様相を呈しはじめていた。
 こういう時代背景をうけて、洪庵は蘭学塾をひらいたのでそれは医学者を養成するというにとどまらないで、役にたつ西洋学者を育てるということに主眼がおかれた。だから、先進的学問としての洋学、そういう洋学としての蘭学の基礎学力をあたえようとしたのである。自然、そこに集まってくるものは、先進的にものを吸収しようとする人たち、現状にあきたらない人たちでいっぱいになり、知識欲にあふれた人たちばかりであった。
 洪庵の蘭学塾は適々斎塾、適塾といった。適々斎とは洪庵の号である。これは、荘子の「若狐不偕、務光、伯夷、叔斎、箕子、胥余、紀他、申徒狭、是役人之役、適人之適、而不自適其適者也」から、とったといわれる。
 「わがこころに生きる」とでも訳したらよいであろう。
 天保十四年(1842)には、瓦町の塾が手狭になったので、過書町にひっこしている。いまの比浜三丁目辺である。もちろん、ここも、常時数十名の塾生が雑居して、せいぜい塾生ひとりに畳一枚という程度であったから、決して広いということはいえなかったが、塾生はここで、思う存分、洪庵の厳しい指導をうけている。

   塾の生活 

 塾には塾頭・塾監がいて、学級は八級ぐらいにわかれていた。文法の本は「ガランマチカ」と「セインタキス」というオランダ発行のもので、「ガランマチカ」は文法論で、「セインタキス」は文章論である。もちろん、塾生がつかったのはその写本である。
 各級は毎月六回、およそ、五日おきに会読をした。各級は十人から十五人ぐらいからなっていて、会読はあらかじめ、教材のどこを会読するかということをきめておき、会読の日に、その場でクジをひいて席順をきめ、その順序に従って、解釈するというしくみになっていた。質問はもっぱら、つぎの席の者の務めで、どうしてもわからぬとき、始めて討論するというシステムである。
 先生に教えて貰うという態度でなく、あくまで、自分たちで学び究めるという姿勢である。塾生の共同学習といってもよい。いいかえれば、戦前の教育法でなく、戦後の教育法に似たものをもっていたということができよう。
 その結果を、各級にいる会頭が採点するのである。△は自分の責任をとどこおりなく果たしたものが貰い、○は討論で勝ったもの、◎は討論で敗れたものがつけられた。そして、各級で三か月、首席をつづけたものが、はじめて進級した。
 会読の夜など、字引きをおいてあるヅーフ部屋には、夜どおしロウソクの光がついていたということである。それというのも、字引きとしては「ヅーフ」と呼ぶ、ヅーフ・ハルマの蘭和辞典が一そろいと、ウェーランドのオランダの辞書が一そろいあるだけで、これは、ヅーフ部屋にそなえつけていて、持ち出すことは禁じられていたからである。
 弟子の長与専斎は、後になって、当時の塾生の勉強ぶりをつぎのように書いている。
「銘々、字書頼みにて説を付け、一語一句たりとも、私かに人の教を乞うが如き、卑劣のことをなすものなく、皆自分一己の工夫をこらして学力を斗わした。……
 刻苦したる学問は造詣も深く、当時蘭学にて、知名の士ともいうべきが中には、此の不自由なる適塾にありて、迂路険道を通りこしたる人々ぞ多かりし。」(松香私志)
 洪庵が直接、指導したのは、最上級生だけで、福沢諭吉もその講義をきいた感想を、
「これを聴聞するうちにも、さまざま先生の説をきいて、その緻密なること、その放胆なること、実に蘭学界の一大家、名実ともにたがわぬ大人物であると感心したことは毎度のことで、講義がおわり、塾にかえって朋友相互に“きょうの先生の卓説はどうだい。なんだか、われわれはとみに、無学無識になったようだ”と話したのをおぼえています」
と書き記している。
 そのほか、洪庵のところにきた問い合わせの質問には、洪庵にかわって弟子たちが原書を訳し、それを洪庵が門人の訳したものと書いて、同封したりしている。
 実地指導であり、弟子の紹介でもある。
 このように、適々斎塾では、主として蘭学の基礎教育であったが、医学を志す者には、洪庵から、直接指導をうけることもできたし、教材も、自然医学書が多かったから、勉強にもなったが、そうでないものは、そうはいかない。しかし、塾生たちは決してへこたれはしなかった。

   いろいろな実験

 塾生たちは機械にせよ、化学にせよ、だいたいの道理は知っている。だから、それにもとづいて、実験すればよかったのである。まして、彼らは知識欲のかたまりのような連中である。実験してみる勇気もあった。
 まず原書を手がかりに、によりの物をこしらえてみるということをした。
 塩酸亜鉛があれば、鉄に錫をつけるということを知ると早速、塩酸亜鉛をつくりにかかった。もちろん薬屋にいっても塩酸があるはずはない。自分たちでこしらえる以外にない。しかし、その塩酸のつくり方も書物にかいている。そこで、どうにかこうにか、塩酸をこしらえて、これに亜鉛をとかしてみる。
 今度は、
ソウ砂製造をやってみようとした。まず、塩酸アンモニアを作らなくてはならない。そこで、馬爪の削りくずをもらってきて、徳利にいれ、徳利の外面に土を塗り、素焼のかめを七輪にして、火をおこし、その中に徳利をいれる。そうすると、徳利から、アンモニアがとれる。そこまではよいが、その臭いがとてもくさい。それを、塾の狭い所でやるからたまったものではない。周囲の者がやんやんいうし、風呂にいけば、そこでいやがられるということになった。しかもやっと妙な粉末ができるだけで、結晶しない。
 そこで、今度は、船を借りて、淀川でもう一度やってみることにした。しかし、その場合も、船を一か所にとどめておくと、ほかの人がうるさいので、船を上下させて、とうとうやってのけたということもある。
 だからとて、いつも成功するとはかぎらない。ヨジュムをつくろうとした場合など、いろいろ書物を調べてみたが、どうしてもできないということもあった。

   まくらがない

 適々斎塾の様子を、諭吉の「福翁自伝」から、もう少し、拾ってみよう。
「大阪はあったかい所だから、冬は難渋なことはないが、夏は真実のはだか、ふんどしもじゅばんもなにもないまっぱだか。もちろん、飯を食うときと会読をするときには、おのずから遠慮するから、なにか一枚ひょいとひっかける。中には絽の羽織をまっぱだかの上に着てる者が多い。これは、よほど、おかしな風である。
 食事のときは、とても座って食うなんていうことはできた話ではない。足も踏みたてられぬ板敷だから、皆上草履をはいて立って食う。一度はめいめいに分けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。おはちがそこに出してあるからめいめいに茶わんにもって百鬼立食。」

「病気のとき、どんなにさがしてもまくらがない。ふと思いついた。ついぞ、まくらをしたということがないことを。ほとんど昼夜の区別はない。日がくれたからといって、寝ようと思わず、しきりに書を読んでいる。読書にくたびれ、眠くなってくれば、机の上につっぷして眠るか、あるいは、床の間の床縁をまくらにして眠むるか、ついぞ、ふとんを敷いて、夜具をかけて、まくらをしてねるなどということは、ただ一度もない。これは、我一人が別段に勉強生でもなんでもない。同窓生はたいてい皆そんなもので、およそ、勉強ということについては、実にこの上にしようはないというほどに勉強しました」

「夕方、食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで、初更にねる。一ねして目がさめるというのが、いまでいえば十時か十時すぎ、それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで、書を読んでいて、台所の方で、塾の飯灯がコトコト飯のしたくをする音がきこえると、それを合図にまたねる。ねてちょうど飯のできあがったころおきて、そのまま湯屋にいって、それから、塾にかえって朝飯をたべて、また書を読んだ」

「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない。そのときのありさまを申せば、江戸にいた書生が大阪に来て学ぶ者はあったが、大阪からわざわざ江戸に学びにいくということはない。行けば教えるという方であった。されば、大阪にかぎって、日本国中粒選りのエライ書生がいようわけはない。また、江戸にかぎって、鈍い書生ばかりがいようわけはない。そのときには、私なども大阪の書生がエライと自慢していたが、それは人物の相違ではない。江戸と大阪とおのずから事情が違っている。江戸では、西洋の新技術を求むることが広く且急である。したがって、洋書を解する者を雇うとか、あるいは翻訳させるとかして、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合のよい者は、何百石の侍になるということもある。それにひきかえ、大阪はまるで、町の世界で、原書を取り調べようという者はいない。それゆえ、緒方の書生がなにほどエライ学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。前途、自分のからだがどうなるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。一歩を進めて当時の書生の心の底をたたいてみれば、西洋日進の書を読むことは日本国中の人にできないこと、自分たちの仲間にかぎってできる。貧乏をしても、難渋しても、知力思想の活発高尚なることは王侯貴族も眼下に見下すというところにあったともいえる」

   教育者洪庵

 洪庵が医者としての治療をぬいてまで、教育に力をいれた目的はどこにあったかということは先にものべたが、要するに、国のため、道のために、本当に役にたつ学者を育てたかったのである。
 安政元年に書いた手紙にも、
「病用相省き、専ら書生教導をいたし、当分必用の西洋学者を育候つもりに覚悟致し、先づ是を任といたし申合候」
とあることによっても、あきらかである。
 しかし、先号でのべたように、文久二年(1862)に洪庵は幕府の奥医師になった。明治維新から五年前である。これは、洪庵が、先進の学問をやった者としては、歴史の動きに暗かったということをしめしている。時勢をみる眼は暗かった洪庵だが、蘭学の動向については明るかった。
 だからこそ、弟子の長与専斎が安政六年に、江戸に出て医学を勉強しようとした時、それに反対して、長崎にゆき、ポンペの指導をうけるように助言をしているのである。
「オランダ学一変の時節到来して、千載の一時ともいうべき機会なり」
ともいうのである。
 洪庵は、弟子たちに蘭学を通じて、科学的合理的思考を教えこんだ。たとえ、幕府体制であろうと、停退をつづける幕末日本にあって、前進し、改革してゆける思考力をあたえたのである。それは、体制内であったが故に、一層価値と意味があったともいえる。保守と反動におちいりがちな勢力を可能なかぎり、開明的にしたということである。   (つづく)

 

          <人と思想 緒方洪庵 目次>

 

   3 その弟子たち

 洪庵の弟子たちには、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、佐野常民、長与専斉、足立寛、池田謙斉、高松凌雲、武田成章、村上代三郎、花房義質などがいたことは、既にのべたとおりであるが、今回は、そのなかの六名について、紙数の許す範囲で略述してみたい。

   開国論を強調した橋本左内

 左内は、天保五年、越前藩の藩医橋本長綱の長男として生まれ、嘉永二年の冬、十六歳のとき、適々塾にはいった。塾にいること二年半で、父の病気のため、帰国のやむなきに至ったが、当時、洪庵をして、「彼は他日、わが塾名をあげん、池中の蛟竜である」と激賞せしめたほどである。
 左内は、この間、蘭学に没頭し、その後のものの考え方、見方の基礎は、ほとんどこのときに得たと考えられる。それは、なんといっても、医学を通じて、合理的なものの考え方を得たということであろう。ことに、当時、わずかの翻訳書を読んだにすぎない日本人の中にあって、直接、原書を読み、考えることができたことは、すばらしいことであった。
 その結果、国外にも同じ人間が住んでいることを知り、その上、日本よりも進んでいる人たちのいることも、すなおにみとめることができたのである。
 そういう認識が、彼を医者から政治家へと、急速度に成長させ、二十三歳のときには、ついに、松平春嶽の政治顧問的位置にまでつかせるのである。そして、それらをふまえて、鎖国論の盛んな中にあって、開国諭を敢然と強調することもできたのである。鎖国諭を無智からきているということも断言できたのである。
 京都朝廷が、当時、鎖国論の牙城であったが、左内は、「朝廷の制度は、全く古い形式ばかりで、昔になかったことはなにもやれない。政権が朝廷に帰したら、たちまち、外国のために征服されてしまおう。」
「おそれながら、天子や公卿のように、優柔不断では、日本はますます衰退していくほかはあるまい。」
「諸侯の気持ちが天子に通じたからといって、それで、日本が独立をたもてるとお考えなのか。」
 と、きびしく批判することで、京都朝廷の存在を否定するところまでいった。
 そこから、左内には、幕府そのものを改革して、統一国家としての機構にたえうるものを作ろうという結論に到達する以外にはなかったのである。それは、明治維新の王政復古でなくて、幕府そのものから公議政体への変質である。いうなれば、明治の絶対主義への道でなく、他の道が考えられていたのである。しかし、左内は、不孝にして、わずか、二十六歳で、安政の大獄でたおれ、それをあきらかにすることもなく終わったのである。

   近代的な軍隊の生みの親、大村益次郎

 益次郎は、文政七年、長州の僻村の医者の子として生まれた。洪庵の塾にはいったのが弘化三年。その間、長崎のシーボルトに学んだが、それはどこまでも、適々塾の塾生としでであった。
 嘉永元年には、適々塾塾頭となる。彼は医学の勉強よりも、だんだんと西洋の兵器、兵法に興味をもつようになり、医者としてよりも、兵学者としてたつようになった。その名声も、ひろく、日本じゅうに知られるようになる。宇和島藩の伊達宗城に招かれたのも、医者としてでなく、兵学者としてであった。宗城は、逃亡ちゅうの蘭学者高野長英をかくまっていたが、そのうわさがたったため、長英はとどまることはできない。そのあとがまとして、益次郎は招かれたのである。
 宇和島藩士のまま、幕府の藩書調所の教授方となっていたが、長藩としては、益次郎が幕府にめしかかえられることは、どの意味でも好ましくなかった。
 長州は、幕府に対抗して、戦力な国家を育成しようとしていたし、蘭学者東条英庵なども、長州藩出身でありながら、長州藩がもたもたしている間に、幕府にめしかかえられてしまった。英庵のようになってはこまるのである。
 そこで、急遽、長州藩で、益次郎を採用することになった。はじめ、西洋学所で、洋学生の指導をしていたが、長州藩が攘夷の急先鉾になり、ついで、幕府の長州征伐をうけてたつに及んで、益次郎の武器・軍備の改革案は、つぎつぎと用いられていった。そして、戊辰戦争では、西郷隆盛に変わって、戦斗の指揮をとったほどである。
 明治になってからは、軍制改革にとりくみ、陸軍は仏、海軍は英に学び、諸藩の隊を解き廃刀を断行し、徴兵の制をたてるなど、近代的軍隊としてのレールは、ほぼ、益次郎がひいたものである。
 こうした思いきった改革のため、保守的な人の反感を買い、明治二年九月四日、京都で暗殺される。

   伝習隊と大鳥圭介

 圭介も、天保三年、益次郎と同じように、尼ヶ崎藩の村医の子として生まれた。
 適々塾にはいったのは、二十一歳のときで、十八歳の左内が塾を去った年の嘉永五年。それから、安政元年まで、洪庵に学んでいる。
 その後は、坪井忠益、江川担庵について学んだ。幕臣になったのは、慶応二年、三十四歳のときである。
 京都や長州藩に、尊王攘夷の志士が集まって、その志をのばそうとしたのに対して、蘭学者たちは、その学問の性格からいっても、観念的な尊王、閉鎖的な攘夷にいくことはできず、自然、漸進的な道を歩むことをよぎなくされている幕府や、それに同一歩調をとっている藩の中に、その志をのばしていこうとする以外になかった。
 益次郎にしても、一度は幕府にめしかかえられながら、その出身が長州藩であったばかりに、長州藩士となって、その才能をのばしていった。
 だから圭介としては、その活路を幕府に求めるしかなかった。
 幕臣となってからの圭介は、歩兵奉行にまですすみ、さらに、榎本武陽とともに、函館にたてこもり、武士の意地を思うぞんぶん発揮するのである。
 圭介が、幕臣として、幕集して作った伝習隊は、六尺、馬丁、雲介、博徒などの職業の人たちで、非常に強力であったが、彼が村医の子として、彼らを正確に評価していたということがいえよう。しかも、彼らに仏式の陸軍の教育をほどこしたのである。
 益次郎が、明治になって、日本陸軍の範を仏にとったことと思いあわせると興味深い。
 明治五年、許された圭介が外交官として活躍することは、ここでは省略しよう。

   博愛社の基礎をつくった佐野常民と高松凌雲

 常民は、佐賀藩士の子として、文政五年に生まれ、弘化三年に、適々塾にはいっている。二十五歳のときである。
 洪庵について学んだのは、わずか一年にすぎなかったが、その進歩は著しかったものと想像される。ことに、二十五歳の年令であったから、自然、テキストの棒読みに陥ることもなく、現実との対比のなかで、深い理解があったと思われる。
 安政二年には、わが国で始めての蒸気船の模型をつくり、文久三年には、わが国始めての蒸気船凌風丸をつくった。日本海軍のはじまりということができよう。
 慶応三年三月、パリ博覧会に出席し、維新後帰国。
 明治十年の西南戦争のとき、日本赤十字社の前身である博愛社をおこして、敵、味方の治療をする。

 博愛社ということで、考えられるのは、函館戦争のとき、函館病院で、敵味方の差別なく、治療したのが、同じ、適々塾生であった高松凌雲である。
 凌雲は、天保七年生まれ、筑後国の庄屋の息子である。緒方塾に学んだ後、彼も、圭介と同じように、幕臣となったもの。
 榎本武陽とともに、函館に挙兵したときに、病院長として敵・味方に関係なく、大いに治療し、後の博愛社の基礎をなしたものである。
 この戦争ちゅう、敵兵の一隊が侵入してきたが、彼は、毅然として、理を説き、病院をまもったということである。このとき、治療を受けた者の数は、千三百人もいた。
 明治以後、政府の招きにも応ぜず、町の一医師としての立場をつらぬいた。

   啓蒙思想家としての福沢諭吉

 論吉が洪庵の弟子であるということはあまりにも有名である。彼もまた、これまでのべてきた人たちと、その生まれは大同小異である。中津藩の下級武士の子として、天保五年に生まれた。左内と同年である。
 諭吉は、封建の門閥御度を徹底的ににくんだ。その憎しみのなかから、諭吉は育ったといってもよいかもしれない。それは、また諭吉の父の悲しみでもあった。だから、なんとかして、諭吉を世に出したい。坊主にしても世に出したいと思うほどに切実であった。
 父の自殺で、もはや、藩には、なんの未練もない。諭吉は、完全に藩を捨てたのである。
 それから、二年間、みっちり、適々塾で学んだのである。だが、江戸に出た諭吉は驚いた。オランダ語がだめだということに、横浜を歩いて感じたのである。それからは、英語に没頭する。諭吉は、洪庵に蘭学を学びながら、洪庵をこえていったのである。
 万延元年、アメリカ。文久元年にはヨーロッパと、あいついで、西洋諸国を、親しく、幕臣としてその目でみ、その耳できいた。その結果、日本国内でおこっている攘夷論ということが、いかにあやまっているかということを、痛いほどに知った。また、攘夷論者を否定する彼には、攘夷論者が仰ぐ京都朝廷もあほらしいものに見えてきた。
 京都朝廷や薩、長よりも、幕府のほうがましだという考えもおこってくる。左内と共通する立場である。
 幕臣となった諭吉としては、幕府に希望をいだいたのは、当然であるが、現実は、少なくとも、彼の予想や期待を裏切って、朝廷や薩長の天下となった。
 左内や諭吉が考えたように、幕府が果たして、どれほどに脱皮し、新しい日本を建設することができたか、はなはだ、疑問といわれなくてならないが、彼らは要するに、幕府を信じ、期待した。
 その予想が敗れたとき、諭吉は、明治政府につかえることはできなかった。知識人としても、当然なことであった。そこから、諭吉の教育家としての、啓蒙思想家としての、仕事が、本格的に始まっていく。
「天は人の上に、人を造らず、人の下に人を造らず」ということばで始まる「学問のすすめ」が出たのは、明治五年、それから、五年の間に、約三百四十万部も売れたということである。
「学問のすすめ」は、よく売れたということだけでなく、明治の各方面に、激しい衝撃をあたえたということがいえる。人間平等論を説いたのを始めとして、学者の責任を説き、政府の責任を説いたのである。日本が独立してあるためには、何が必要かも説いたのである。
 もっとも驚かしたのは、楠公の忠というものを、せいぜい、権助が主人の使いにゆき、金を落として、途方にくれ、だんなに申し訳ないとて、並木の枝にふんどしで首をくくったのとかわらないといいきったことである。これまでの、忠の思想を否定したのである。
 益次郎を除いて、たいていは、幕臣、または、それにつらなる立場になって、歴史をおしすすめる役割をした。それが、洪庵の弟子たちの立場であった。それは、より合理的で、より漸進的な道を歩もうとする、近代合理主義の帰結でもある。朝廷を中心とした保守的な絶対主義とは相いれなかったためであろうか。

 

             <人と思想 緒方洪庵 目次>

          <雑誌掲載文2 目次>

 

 

「幕末志士交友録」

  目次

維新運動のはじまり
松下村塾の弟子たち
大政奉還前夜
薩長連合
洋学者たち
新しい時代の夜明け
歴史を形成する知恵

    維新運動のはじまり

 幕藩体制をつき崩して、近代的統一国家を作りだした明治維新は、一言でいえば、青年志士の智慧と勇気とエネルギーの総結集で闘いとったものである。それは、新しい日本の誕生を熱望する志士の心が一点に凝集して作ったものであるともいえる。
 厳密にいえば、維新後の日本のヴィジョンについて、或は新しい日本を作る手段や方法について、いろいろとくいちがっていたが、ただ、旧い日本にかわって新しい日本を作らなくてはならない、古い日本のままでは、到底、西洋列強の侵略から日本をまもることはできないという点では共通していたのである。この志を持つ者を志士と呼び、お互にその志をたしかめあい、信じあって、行動を統一していったのである。それは、反体制側にある者を相互に結びつけたばかりでなく、時として、体制側にある者までをまきこみ、結びつけていく強い紐帯にさえなったのである。以下、新しい日本を作ろうとする大志、その大志が各自のいろいろな意見をこえて、いかに深く結びつき、そして、大きな流れとなっていったかを歴史的に追ってみたいと思う。

 

 安政五年から六年にかけての安政の大獄は幕藩体制を大きくゆさぶった最初の事件であるが、この中に吉田松陰(1830〜59)と橋本左内(1834〜59)の二人の青年志士がふくまれていた。吉田松陰は幕藩体制を批判する者として、橋本左内は体制内にありながら時の幕府の政策を批判する者として、ともに断罪のうきめにあっている。そういう点で、安政の大獄は、体制内部の力を弱めると共に、体制を批判する勢力と決定的に対立していった契機となる事件として重要な意味をもっている。
 その吉田松陰は、長州藩に生まれて、西洋列強が日本をうかがうという危機的状況を呼吸しながら、長州の兵学者から、日本の兵学者への道を歩んでいった。当然、松陰は兵学者の立場から、どうしても直接に、その眼で、諸外国の実情を調査する必要を感じるとともに、国法を破って、海外への渡航を計画した。だが、彼の計画は失敗して幽囚の身となってしまった。勿論、そんなことでへこたれる松陰ではない。獄中で、精一杯読書し、可能なかぎり思索した結果、とうとう、幕藩体制を否定する立場に到達してしまうのである。それまでは、幕藩体制内にあって、せいぜい、幕府を批判したにすぎなかった松陰を体制の批判者、変革者にしてしまったのである。それは、幽囚の立場がそうしてしまったとも考えられる。同時に、行動の自由を奪われた彼は、わずかに許された自由の下に、彼に変わって、思想し、行動する青年志士たちを松下村塾で育成してゆこうとした。ここから、明治維新の原動力となった久坂義助、高杉晋作、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、野村靖、山田顕義など幾多の青年志士が育ったことはあまりにも有名である。
 安政五年になると、松陰は老中間部の要撃その他をやつぎばやに計画して、ついに、安政の大獄で断罪となるのである。
 松陰が断罪になる二十日前に、橋本左内もまた断罪となるが、既に述べたように、左内は、幕藩体制の否定者でも批判者でもなかった。むしろ、積極的に体制の強化につきすすんだ人ですらある。ただ、時の幕府の政策を批判したものにすぎなかった。その左内までも、安攻の大獄にまきこまれて殺してしまうのである。
 左内は、越前藩の藩医の子として生まれ、成長とともに大阪の緒方洪俺に弟子入りして、オランダ医学を学んだが二十二才頃より、次第に政治に関心をもちはじめ、二十四才頃には藩主松平春嶽の政治顧問的位置にまで、のしあがる。
 時あたかも、将軍継嗣問題がおこり、松平春嶽、水戸斉昭たちは一橋慶喜をたてようとし、他方、井伊直弼たちは家茂をたてようとした。西洋列強の侵略の手が日本に迫まっている時ではあるし、鎖国論、開港論をめぐって国内の世論は真二つに割れている時でもあったので、将軍には、当然、英明な人を必要とした。その点、慶喜はすでに二十二才で英明のきこえもあり、当時十三才にしかならなかった家茂に対して、誰がみても適当であった。だが、将軍継嗣に大きな発言権をもっている大奥、それと結びついた井伊直弼たちの勢力はなかなかあなどりがたい。自然、将軍の任命権をもつ京都朝廷が大きく浮かびあがり、舞台は京都に移っていった。
 その時、春嶽の命をうけて、京都工作をしたのが左内である。だが、結局、慶喜擁立派は破れ、家茂が将軍になり井伊直弼たちに凱歌があがるのである。
 勝利をおさめた井伊直弼は、追いうちをかけるように、自分に反対する連中を、体制側にある者、反体制側にある者の区別なく、一網打尽にし、これをことごとく断罪にしてしまうのである。

   松陰と左内の友情

 松陰と左内は生前一度も相会うことはなかったが、二人は恋人がお互いを慕い、お互いを求めあうように、お互いを高く認めあい、面識のないのをお互いになげき悲しんだ。ことに、松陰は、生前、ぜひとも、その意見をきいてみたいと思うほどに左内の人物と思想を仰慕した。
 同じ獄中にいて、松陰と左内は全く相見ることは許されない。左内は一日、松陰の詩を読んで、松陰したわしさのあまり、とうとう、嶽吏の眼をかすめて松陰に詩を贈った。

 曾て英等を聴きて、鄙情を慰む、
 君を要して、久しく同盟を訂せんと欲す、
 碧翁狡奔何そ恨を限らん、 
 春帆をして、太平に
せ使めざりしを。

 磊落軒昂意気豪なり
 聞くならく、夫れ君が胆毛を生ずと、
 想い看る痛飲京城の夢、
 腕を抱して頻りに睨む日本刀。

 これをうけとった松陰がどんなに喜び、どんなに感激したかが想像される。と同時に、十月七日、左内が処刑されたときいて、いかに悲歎したかもわかるような思いがする。安政六年十月二十日、松陰は弟子にあてた手紙には、
「……水戸の鵜飼幸吉、越前の橋本左内、京師の頼三樹三郎の諸人は、皆天下の名士である。年令もわかく、皆私と伯仲している。今皆死んで不朽の人となった。どうして、私一人、この人達におくれをとることができようか」と書きおくり、橋本左内たちにおくれをとるまいと自分に言いきかせている。それこそ、ともに死して、護国の鬼となろうと決意したのである。それほどに、深く四才年少の橋本左内を買っていたのである。
 さらに、留魂録には
「越前の橋本左内は二十六才にして誅せらる。実に十月七日なり。左内東奥に坐する五六日のみ。勝野保三郎同居せり。後、勝野保三郎西奥にきたり、予と同居す。予勝野保三郎の談を聞きて、益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中、資治通鑑を読み、註を作り、漢記を終わる。又獄中教学工作等の事を論ぜしよし、勝野保三郎予がために是を語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。ああ。」
 という一節をわざわざ設けて、左内のことを門弟たちに書きのこしている。
 松陰は反体制側にあって、左内は体制側にあったがともに、新しい日本をつくらなくてはならないという、ただ其の一点で共通し、共に結びあったのである。体制をこえて、求めあったのである。
 新しい日本をつくるという大綱では一致したのである。お互いにその志があることをたしかめあい、信じあうことに、新しい日本をつくりだしたともいえるし、松陰と左内の友情と信頼をかわきりに、そういう友情と信頼をそだてていったともいえるのである。

   幕臣倒幕派を助ける

 松陰は留魂録で、「天下の事をなすには天下有志の士と志を通ずるにあらざれば得ず」と書いて、水戸の堀江克之助、鮎沢伊太夫、小林民部、高松の長谷川宗太衛門たちの名前を書き残して、弟子達がこの人達と相通ずることを求めるのである。松陰としては、自分が死んだあとに事がはじまると考えたのである。高杉晋作を佐久間象山に紹介したのも松陰である。松陰は、最も尊敬する師象山に、最も信頼する弟子晋作を、
「年も若いし、学問も経験も浅いが、識見は一般の者よりずっと卓越しています。私は兄のように重んじています。先生がもし、まだ私を見捨てていませんでしたら、私に語るように語って下さい。それは晋作の喜びだけでなく、私自身の喜びであります。」
といって紹介している。
 晋作と象山と相会うのは、松陰が死んだ翌年、万延元年のことである。晋作は象山の思想と人物に傾倒した。この象山を評価したのは、晋作ばかりでなく、晋作とならんで、松下村塾の竜虎と呼ばれた久坂義助であった。
 後年、象山は体制側の巨頭となり、義助は反体制の中堅人物となって対決するのであるが、この義助はあくまで、同志が象山を暗殺しようとする計画をとめている。たとえ個々の意見は違っても、新しい日本をつくり、新しい日本を願望することでは、象山も義助も同じであり、そのわずかな意見のくいちがいで、象山ほどの人物をうしなうことは、なんとしても惜しいと考えたにちがいない。それは、人間への信頼、最も深いところで、人間を認める心であるともいえる。
 勿論、象山をみとめることでは、松陰の右に出る者はいない。松陰も最初は、象山を講を売る学者と理解してあまり評価しなかったが、嘉永六年、米艦が浦賀にやってきてそれに対処する象山の態度を見て、象山への評価を一変させた。松陰はひどく象山に惚れこんでしまったのである。
「佐久間修理と申す人は、頗る豪傑卓異の人であります。元来、佐藤一斉の門人で、経学は一斉よりもすぐれた人であると、古賀謹一郎が申しています。一斉もまた、たびたび、これをほめています。その門下生は砲術門下生にも必ず経学を学ばせ、経学の門下生にも、必ず砲術を学ばせるしくみになっています。西洋学も大分出来るそうで、原書の講義も致します」(玉木文之進あての手紙)
「佐久間象山は当分の豪傑、都下の第一人者にございます。嘯概気節、学問もあり、識見もあって、大義を理解する点で、象山先生がその人物であります」(杉梅太郎への手紙)
 いかに、深く、松陰が象山の識見に私淑していたかがわかる。その象山に啓発されて、松陰は海外渡航を計画した。
 象山は松陰の壮途を祝した。

 之の霊骨あり。久しく厭うヘツさつの群衣を振う万里の道、心事未だ人に語らず、則ち未だ人に語らずと雖ども、忖度するに惑いは因あり。行を送って朝門を出ずれば、孤鶴秋旻に横たわる。環海何ぞ茫々なる。五州自ら隣あり。周流形勢を究めなば、一見百聞に超えん。智者は機に投ずるを貴ぶ。帰来須らく辰に及ぶべし。非常の功をたてずんば、身後誰か能く賓せん。

だが、失敗して逮われの身となり、象山もまた、松陰を示嗾したかどで逮捕された。
 取調べは非常に厳しく、役人は、なにがなんでも死罪にもっていこうとする。やっと、象山の友人であり、幕臣でもあった川路聖謨の奔走で、蟄居の恩典に浴するところとなった。思わぬところで、象山ばかりか、松陰まで、生命が助かるのである。
 聖謨は、松陰の行動を憂国の至情から出たものと理解した。だから、当時のような国家的危機に直面するとき、松陰のように俊傑を失うことは日本の一大損失と考えた。幕臣として、日本の将来に思いを致していた聖謨によって、松陰は日本の将来を背負ってたつ人間として、青年として救われるのである。五十三才の聖謨は二十五才の松陰を考えたにちがいない。
 それは、聖謨と松陰の友情とはいえぬまでも、国を思う至情がお互いに通じあい、松陰の危機を救ったということができる。もし、この時、松陰が死罪になっていたなら、松下村塾も生まれなかったし、晋作も義助も博文も有朋もどのように育っているかわからない。とすれば、明治維新もよほど違った形になっていたであろう。
 結局、象山は元治六年七月十四日、京都で暗殺され、聖謨は、明治元年三月十五日、官軍が江戸城に迫まるのをきいて、自殺してしまった。あくまで、幕藩体制に殉じたということがいえよう。

   統一近代国家をめざした人間信頼

 諸藩体制内にあって、左内、象山、聖謨は大久保忠寛、勝海舟、中根雪江、横井小楠の人脈をつくり、松陰、幸吉、三樹三郎の路線からは、桂小五郎、義助、晋作、土佐の武市瑞山、坂本竜馬、薩摩の西郷隆盛、大久保利通が育っていく。
 それは輝やくばかりの群像であったということができる。ただ、体制側が比較的老令であったのに対して、反体制側は次々と若い志士を生みだしていった。古い人達が次々と仆れてゆくあとから、次々と、若い人達が、より若い人達が育っていったのである。、それは誠に圧巻といっていいものであった。
 その人達が相互にからみあい、連携しあって、唯一つ、新しい日本をつくるということで、西洋列強の侵略に耐えうる日本をつくるということで一致していったのである。
 手を結べるものは結びあい、統一できるものは統一していった。最大公約数で統一していったのである。意見の違いをほじくっていったらきりがない。くい違いを発見するより、同じところを共通するところを発見するのに努力した。
 明治維新は体制側にあろうと、反体制側にあろうと、それのあることをしめした。だから、最少限の悲劇で、近代的統一国家をつくるレールをしくことができたのである。反体制側の勝利のとき、体制側にある人達もできるだけ採用したのである。採用できたのである。
 それこそ、人間への信頼であり、人間を結びつける何かであった。明治維新をつくった人達のなかにはそれがあった。次号からは、それを具体的にさぐってゆきたいと思う。
 反体制側にある者ばかりでなく、体制側にある者までを結びつけた何かを!

 

              <幕末志士交友録 目次>

 

    松下村塾の弟子たち

   成長する松陰の弟子たち

 留魂録を残して、吉田松陰が幕府の断罪をうけて、刑死したことは前号でのべたが、松陰の門下生である高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、前原一誠、品川弥二郎たちは、そのことを誰よりも怒り、歎いた。
 晋作は、江戸にいる周布政之助にあてて、「わが師松陰の首を幕府の役人の手にかけたことは残念でなりません。私たち弟子としては、この敵を討たないではどうにも、心がやすまりません。といっても、人の子として主君に仕える者、この自体は自分の身体のようであっても、自由になりません。いたしかたないままに、日夜、松陰先生の面影を慕いながら激歎していましたが、この頃、やっと、次のような結論に到達しました。即ち隠忍自重によって、人間の心はますます盛んになるという言葉の意味を理解して、朝には武道、夕には学問して自分の心身をきたえぬいて、父母の心を安じ、自分の務めをやりぬくことこそが、わが師松陰先生の敵をうつことになるということであります」
と書き送っている。
 玄瑞もまた、九一にあてて、
「先生の非運を悲しむことは無益です。先生の志をおとさぬことこそが肝要です」と書いている。
 村塾の竜虎、晋作と玄瑞は、いちはやく、松陰の心を理解し、その志を継承していこうとする姿勢をとったのである。彼等は晋作、玄瑞を中心にして、その怒り、歎きをそのままに、学問へ行動へと、そそぎこんでいく。
 松陰が、弟子たちに、
「僕が死ねば、貴方たちの志もきっとかたまるにちがいない。僕が死なないかぎり、貴方たちはフラフラしているようだ」
 と、いい残した通り、弟子たちの志はかたまり、ぐんぐん成長していくのである。

   近代国家をめざす意志

 晋作は、玄瑞の、「経済を大いに学んで、国政を変革する方法と方向をあきらかにせよ」
 という助言にしたがって、経済的知識をたくわえていったし、九一もまた、玄瑞の懇切丁寧な指導、助言で、学問をはげむ。
 村塾生達は集団で学び、しかも、その一人一人が、もてる力の最大限を発揮できるように、その可能性の極限を発揮できるように相互に鍛えていく。
 塾の中心は、玄瑞ではあったが、一誠、九一、晋作などすべて、玄瑞の年上であったし、玄瑞も師のあとを襲うという野心はなかった。あるものは、ただ、塾生が相携えて日本の危機に処するということでしかなかった。そのためにも、各人が、その能力の限りを開発する必要があったのである。それは、また、仆れた先輩のあとを、後輩がのりこえて進んでいくためにも、ぜひとも必要なことであった。
 こうして、松陰が刑死した安政六年から文久三年のなかば頃まで、一心不乱の勉強がすすめられていくのである。それは同時に、村塾生が政治団体、実践団体として、強固に確立していった時期でもあった。
 幕府を仆して、近代的な統一国家を作ろうとする意志で相互にかためられたといってもいい。

   土佐・勤王党の盟約なる

 この過程で、玄瑞と土佐の武市瑞山との交渉がはじまるのである。玄瑞と瑞山が江戸で初めて会ったのが文久元年六月。この時、二人は旧知の如く親しく話しあったということである。
 瑞山は、その時、松陰のことをきいて、深く心に感じ、決意を新たにしたともいう。瑞山にとって、松陰は同年の男。それがすでに早く思想的にめざめ、そのために幕府のために断罪になったというのだから自然つきつめて考えたということもいえよう。玄瑞と瑞山を深く結びつけたのは、松陰自身であったかもしれない。松陰が仲介することによって、お互への信頼はさらに深まったといってもいいかもしれない。
 瑞山が、土佐藩の同志をかためて、土佐勤王党を結成しようと考えたのは、この江戸滞在中のことだが、それというのも、松下村塾生を中心とした政治団体、実践団体が長州藩に既にできかかっているという認識から出たものとも考えられる。

   盟いの言葉
 堂々たる神州が外国の辱しめを受けて、昔から伝わる大和魂も、今は絶えそうになっている。天皇は、これを深く歎いておられるが、長い太平の時代になれて、だらけきった気風にひたりきり、誰一人として、皇国の禍を打ち払おうと、心をふるいおこす者もいない。わが老公(山内容堂)は早くから、この事を心配され、主だった人々に働きかけたが、かえって、そのために罪を得てしまった。このような有難い心を持っておられるのに、どうしてこのような罪に落ちなければならないのであろうか。君主が辱しめを受けたら、臣はそのために死をもって抗うのは当然である。しかも、日本が今にもつぶれそうになっているのだ。
 大和魂をふるいおこして、同志の結合をつくり、一点の私心もさしはさまず、相談して、国家を再び盛りたてる力の万分の一にでも役立とう。天皇の旗が一度揚ったら、団結して水火をも辞さぬことを神に誓い、上は天皇の心を休め、わが老公の志を経ぎ、下は万民の困難、苦しみを除くのだ。だから、この中で、私心をもって、何彼と争う者があったら、神が怒り、罪を与える前に、皆で集まって切腹させよう。
 生命をかけた約束のしるしに、各人の名前を書きつけておく。
 文久元年八月
           武市半平太小楯
            以下連署血判

 瑞山は、早速、具体的に土佐勤王党の結成に乗りだす。これに参加したのは、郷士、庄屋などを中心に192名。下士のなかで、文武の道に秀れた者は殆んど網羅していた。おもな者の名をあげると、坂本竜馬、中岡慎太郎、間崎哲馬、平井収一郎などである。今でいうなら、さしずめ戦闘的な労働組合の結成というところであろう。

   萩を訪れた竜馬

 その坂本竜馬(1835〜67)であるが、彼は土佐勤王党が結成された文久元年のくれに土佐をたって、文久二年正月十四日に、長州の萩を訪ねている。
 瑞山の密書をたずさえて、玄瑞を訪ねたのである。勿論二人は初対面である。滞在は一週間にすぎなかったが、竜馬は玄瑞から、ひどくたきつけられた。
 その年の二月末に、土佐にかえった竜馬は瑞山に今すぐ蹶起することをすすめるほどに急進化しているのである。それほどの刺激をうけたといってもいい。
 三年前には、水戸の住谷悦之助をがっかりさせた竜馬がそんなにも変わるのである。時勢の急転回もさることながら、玄瑞が囁やきかける言葉が、それほどまでに、切実で真剣味をおびていたともいえよう。
 竜馬に託した玄瑞の手紙には、
「坂本君と腹蔵なく話しあいました。もはや諸侯は頼むに足らず、公郷もまた同じこと。この上は、無位無官の志ある者たちが一致団結して、事をなすほかはないと、私たち同志の者は考えております。
 失礼ながら、貴方の藩も私の藩も滅亡したとて、それが正しい道理を遂行するためならば何でもないことです。
 両藩が存在していても、恐れ多くも、天皇の御心である万民平等、平和の世の中を実現できなければ、この国に生きていたとして、何の甲斐もないと友人どもと話しあっています。
 ですから、坂本君にお話したことも、よくよく、お考えになって下さい」
と、あった。
 竜馬ならずとも、じっとしておれないような、希望と勇気を胸の底の方から、たきつけられる手紙である。
 先にも書いたように、竜馬は、瑞山にたちあがるようにすすめた。だが、一藩勤王の路線をとって動こうとしない瑞山の前に、それを不可能とみた竜馬はとうとう脱藩する。
 竜馬は、玄瑞のいうように、藩の立場をこえて、相互に結びつかねばならないと考えるのである。この時の竜馬はまだ、藩と藩とを結びつける仕事に携わるということは、夢にも考えていないが、土佐藩を脱藩して、自由な立場にたつ。広い立場から、行動をおこすのである。
 そのことについては、次号でのべる。

   塾生攘夷血盟書をつくる

 このように、玄瑞たちは土佐藩の人々と結びあい、団結を作っていった。このほかにも、亡き師松陰の盟友であった肥後の宮部鼎蔵とか、薩摩の樺山三円たちとも交流を深めていく。水戸藩士と結んでいったことはいうまでもない。
 しかも、それと平行して、玄瑞たち村塾生をいよいよ、強固にかためていくことも忘れなかった。
 文久元年(1861)十二月に「一燈銭申合」を始めたのも、その一つである。そこには、
「各人申しあわせて、自分自分の力をつくし、骨を折って日頃少しでも貯金しておけば、非常の時や不意の急にあった時に役にたつ。ことに、時勢がひっぱくして、有志の人が下獄し、飢餓におちいったのを助けるためにも、たとえわずかずつでも、各人村塾にもちよっておこう。半年、一年とたてば、塵もつもれば山となる道理で、他日の用に立つと思われる。だから、毎月、写本などをして、わずかでも貯えておこう。貧者の一燈故、一燈銭と名ずけよう。
 これぐらいの事で、骨を折るのをさぼるぐらいでは到底至誠を貫徹することもおぼつかないと思われる。お互に、吃度、怠らないようにしよう」
とある。
 ここに名を連ねているのは、村塾生の主だった人たちで、前原一誠、久坂玄瑞、寺島忠三郎、品川弥二郎、岡部富太郎、入江九一、高杉晋作、野村和作、伊藤博文、山県有朋たちであるが、そのほか、村塾生以外の人たちで、この主旨に賛成する前田孫右衛門、中谷正亮、久保清太郎、堀真五郎なども参加している。
 村塾生を中心とする団体に徐々に、外部の共鳴者をもまきこんで、その輪は次第に大きくなっていくのである。
 文久二年十一月には、遂に、村塾生が中心となって、攘夷血盟書をつくるところにまで、発展する。
「一旦連合した上は、進退出処すべてあいはかり、個人の意見にしたがわない。意見が違うときには、どこまでも論じて、面従腹背しない。秘密は父母兄弟にももらさない。万一めしとられた時には、やつざきにされても決してしゃべらない」
という五項目の誓いをたて、どこまでも、死生を同じくして、正気を維持し、志を変えることは決してないようにしようと記している。
 ここにも、村塾生以外に、松島剛蔵、志道聞多、大和弥八郎、山尾庸三、長嶺内蔵太などが参加している。
 文久二年十二月に、御殿山の英国公使館をやきうちにしたのも、西洋列強の暴虐に彼等がとうとうがまんできなくなったためである。

   最強、最大の軍隊“奇兵隊”

 文久三年(1863)六月、晋作が奇兵隊の編成にかかることによって、村塾生を中心とした政治団体の結成はいよいよ最終段階に近づくのである。
 奇兵隊成立にあたって、藩に提出した建白文には、
「陪臣、雑卒、藩士をえらばず、同様に相交わり、力量を尊び」
「つとめて内閥の弊をため、士庶をとわず」とあって、当時最下位におかれた陪臣を始めに書き、農民、商人の別なく、有志のものを入隊させることによって、新しい方向をうちだした。
 それは、そのまま、村塾生が発展し、拡大していった姿であった。村塾生こそ、最下層にありながら、ただ、志をもつことにより、相互に結びあった集団だったのである。
 おそらく、晋作は、奇兵隊の原型を村塾生の姿勢と団結に見たに違いない。
 こうして、最大最強の軍隊がつくられたのである。同時にそれは村塾生が奇兵隊の中に埋没していくときであり、姿を消していくときでもあった。晋作が元治元年から慶応元年にかけて、クーデターをおこし、藩論を統一していくのも、この奇兵隊をひっさげてである。その時、中心となって働くのが、山県有朋であり、品川弥二郎であり、山田顕義である。彼等が村塾生であることはいうまでもない。
 これより先、元治元年七月、蛤御門の変に玄瑞、忠三郎たちが一見暴走に近い戦いをしていくのも、その年、六月に池田屋で、同志吉田稔麿、杉山松助を殺されたことと、必ずしも無関係ではない。その怒りと悲しみが蛤御門の戦いとなり、蛤御門の戦いが長州征伐を誘発し、長州征伐が幕府の無力を決定的に暴露し、ついには、幕府の崩解を導くことになるのである。その導火線は吉田松陰の刑死であったといってもいいすぎではなかろう。
 吉田松陰が殺されないかぎり、晋作や玄瑞たちの怒りと悲しみは最大限に発揮されることはなかったかもしれない。殺されたからこそ、その怒りと悲しみは、最高度に、幕府をつきくずす智慧と情熱に変わっていたのである。幕府の存在を絶対に許さないという態度に変わっていったのである。それがまた、土佐に、薩摩に、同志をつくっていったともいえる。そういう意味では、吉田松陰の死は、まことに大きな意味をもっているといえよう。
 鵜飼幸吉、吉左衛門親子の死は、桜田門に井伊直弼を仆す行動を生んだし、更には、天狗党の事件をひきおこした。
 頼三樹三郎の死は、天誅組や生野の義挙を誘発した。真木和泉の忠勇隊もその線上にあるかもしれない。
 このようにみてくると、一人の人間の死は非常な重さをもって、私たちにせまってくるのを感じないではいられない。
 一人の人間の死をきっかけとして、相互に結びつき、波紋のように拡がっていった力というものが、いかに強固で根強いものであるかということがよくわかる。

 

                 <幕末志士交友録 目次>

 

    大政奉還前夜

 文久元年に発足した土佐勤王党の中から、坂本竜馬がぐんぐん頭角をあらわしていったのは、その後まもなくであった。
 文久二年一月、長州の久坂玄瑞にあい、大いに刺激されたことは、すでに述べたが、その勢いをかって、三月二十四日夜には、竜馬は脱藩する。
 そこから、竜馬の放浪にも似た生活がはじまった。とはいっても放浪の旅は同時に思想にめざめていく旅であり、時代に開眼してゆく旅でもあった。その過程で会ったのが勝海舟であり、大久保忠寛であり、さらに横井小楠であるが、彼等とのであいについては、次号でのべる。

   後藤象二郎との出会い 

 土佐藩に吉田東洋という重役がいた。藩主山内容堂の気に入りでもあり、識見も、行政的手腕もあり、なかなかの人物であった。
 だが、土佐勤王党にとっては、目の上のコブのような存在。それは、東洋が佐幕的な姿勢をとって、がんとゆずらなかったからである。しかも、藩政府の要所要所には、東洋の腹心の人物をおいて、がっちりとかためているから、全く始末がわるい。その一人に後藤象二郎がいた。象二郎は東洋のオイであり、坂本竜馬の三才下、中岡慎太郎とは同年であった。武市瑞山は、ある日、人をやって、東洋を斬らせた。竜馬が脱藩する前日である。象二郎たちがくやしがったことはいうまでもない。その後、一時、土佐勤王党は藩で勢力を得たが、藩主容堂は本来佐幕的の人、そういつまでも勢力があるわけがない。いつか、情勢の変化とともに瑞山は下獄させられる。
 この時、瑞山を切腹においやったのが、象二郎である。そのため、土佐勤王党の流れをくむ者は、象二郎を目の敵にするようになった。象二郎こそ、いい迷惑である。もともと、叔父東洋は暗殺されたのだし瑞山を死においやったといっても、名目上は藩主の命令にしたがったまでである。
 だが、両者の間が犬猿のなかであったことだけはたしかである。
 その象二郎が、竜馬たちが本拠にしている長崎に藩の貿易を取りしきるために、のりこんできたのである。
 象二郎を斬ろうと騒ぐ者まで出る始末である。その空気はいたって悪い。そんな時、象二郎から、竜馬に会いたいといってきたのである。さすがに、竜馬も複雑な気持になった。だからとて、疑心暗鬼になって、その招待を断る理由もなかった。それに、竜馬は主義主張が異なるからといって、口もきかないということをもっともきらった。誰とでも話すというが竜馬の立場でもあった。最後的には、自分で語ってみないとわからないではないかという意見である。
 竜馬はノコノコと指定の場所にでかけていった。まわりがいきりたったのもむりはない。しかし、そんなことに頓着する彼ではなかった。
 会ってみて、竜馬には、象二郎がなみなみならぬ男であるということがすぐにわかった。土佐藩中ではならぶもののない傑物であるとさえ思った。その志やその考え方も、傑物であるといわれていた福岡藤次や佐々木三四郎より上であるということもわかった。
 二人の交流は、これをきっかけとして、非常に頻繁になった。自然、土佐藩の人々とも深く交わるようになり、土佐藩の人々に深い影響をあたえてゆくようになる。
 姉乙女から、
「御国の好物役人にだまされたそうだ」 
という手紙に対して竜馬は、
「私一人で五百人や七百人の人を率いて、天下の為につくすよりは、土佐藩二十四万石をひきつれて、天下国家の為につくす方がはるかによろしい」
と書くのである。

   海援隊

 竜馬と象二郎の結びつきから、竜馬を中心に結成されていた亀山社中は、土佐藩の海援隊として成長していく。
 海援隊規約には、その冒頭に、
 「およそ、本藩を脱する者、およぴ他藩を脱する者で、海外に志ある者は、皆、この隊に入る」
とある。土佐藩に属したといえ、脱藩者によって組織したというところに、この組識の先進性がある。藩をこえて、個の意識にめざめた人間で組識したということである。
 海援隊士長岡謙吉の手紙に、
 「自、他の藩を問わず、脱藩者を入隊させていくなら、薩摩、長州以上の兵力になろう」
とある。
 それは、とりもなおさず、藩の枠をこえた、日本海軍の創設という構想によるものであった。
 隊の事情は土佐藩が応援するが、費用は基本的には独立採算制で、足らない時だけ土佐藩から、支給をうけることになっていた。
 その目的は、
 「運船財利、応援出没、海島を開き、五州の情況を察することをする」
とあって、航海によって利益をあげること、戦争に参加すること、そして、他国の様子をさぐることを目的としたのである。
 隊の修行課目に政法火技、航海汽機、語学等にわたっていた。
 竜馬の寺田屋伊助にあてた手紙にも、
「長崎で一局を開き、諸生の世話をしています」
とあるが、一局の傍らに「学問所なりと注釈を加えている。それこそ、海援隊を育てあげようとしていたことが見られる。
 海援隊の隊士には、千屋寅之助、安岡金馬、長岡謙吉、高松太郎、新宮馬之助、沢村惣之丞、白峰駿馬、陸奥宗光などが参加した。
 この人達のことで、忘れてならないのは河田小竜のことである。

   画家河田小竜

 小竜は絵画きではあるが、漂流中、アメリカ船に救われ、アメリカで教育をうけた土佐の漁夫中浜万次郎とも関係があり、藩命で薩摩にいって、大砲鋳造を学んできたことのある人物であった。
 安政二年、竜馬が、江戸から土佐にかえってきた時のことである。
 ある日、竜馬は、この小竜を訪ねた。
 小竜は、竜馬にむかって、
 「この頃は、攘夷とか開国とかのいろいろの説がでている。私はそれについて、意見を述べようとは思わない。
 しかし、私が思うには、攘夷ということはできない相談だ。だからといって、攘夷の備えがいらないかというとそうではない。だが、今迄の軍備では役にたつまい。殊に海上の備えは全く駄目である。現在、諸藩で用いている軍船など、おもちゃのようなもので、外国の大艦を到底相手にできない。しかも、今後、外船は続々とやってくる。このままでは、何時かは、外国人のために、日本がルソンのようにならないとも限らない。
 これらのことをいっても、藩の役人達はききいれることはしない。そうかといって、黙って見ていることもできない。
 私は自分にできることをやりたいと思う。それには、何か一つ商売を始めて、金もうけをやり、それで、一隻の外国船を買うことである。そして、志を同じくする者を集めて、その船にのせ、東西に往来する旅人や、荷物を運搬することで、費用を賄いながら、次第に航海術を修得すればよい。
 これは、まるで、盗人をつかまえて、縄をなうようなやり方ではあるが、今やらないとますますおくれて、それこそ、とりかえしがつかないことになると思っている。」
と語った。
 竜馬はこれをきいて非常に喜び、手を叩くほどであった。
 「私はこれまで、剣の道をおさめてきたが、これは結局一人の敵を倒すもので、到底、大業をなすものということはできません。先生の言葉に私も大いに共鳴します。先生の志はきっと成就するに違いありません。今後は、手を携えて、大いに頑張りましょう」
 数日すると、竜馬はまた、ひょっこり、小竜を訪ねてきた。
 「あれから、いろいろと考えてみましたが、船や機械類は金策さえ出来れば、手に入ります。しかし、これを運用する適任者がなければ、どうにもなりません。
 しかも、これは、なかなか難かしいことです。だからといって妙案も浮かびません。先生には、何かよいお考えがありますか」
という竜馬の質問である。
 小竜は、すぐさま、その質問に答えた。
 「それは君のいう通りだが、それほど、心配することもない。たしかに、従来、飽食暖衣しているような上流階級の連中には、望むべくもないことだが、下層人民のなかには、何かなさんとする志に燃えながら、資力がないために手を拱いて慨いている者が沢山いるものだ。これらの者を養成すればよい。」
 竜馬は勢いこんで、
 「では、先生には、その同志の養成をお願いしたい。僕はこれから、専ら、船を手に入れることに努力しましょう」
といって、小竜の家を辞した。
 海援隊に参加した青年たち、その前の亀山社中の同志たちの幾人かは、小竜が見出して、竜馬のもとに送りこんだ青年である。その青年は、まんじゅう屋の息子の近藤長次郎であり、町医者の子の長岡謙吉であり、百姓の子である新宮馬之助たちである。

   陸援隊と中岡慎太郎

 武市瑞山がなくなった後の土佐勤王党の中心は坂本竜馬といえるが、竜馬は早く脱藩した。その竜馬の脱藩におくれること一年半、文久三年の十月に藩を脱した中岡慎太郎も、いろんな意味で、竜馬を助けて活躍した人物だが、竜馬が海援隊を組織すると、すぐに陸援隊を組織した。
 海援隊に呼応して、大いに働こうというのである。
 脱藩の志士を組織したことは、海援隊と変わらないが、陸援隊が、
「天下の動静、変化をみ、諸藩の強弱を察し、内に応じ、外を援け、遊説、間牒等のことをする」
と記して、非常に具体的である。それは、慎太郎の性格というか、理づめで考えていく彼の立場が非常によくでている。
 陸援隊に参加した主なものは、
 大橋慎三(土佐藩)、香川敬三(水戸藩)、藤村四郎(熊本藩)、中村新太郎(松山藩)、伊藤源助(秋田藩)、田村十郎(尾州藩)、田中光顕(土佐藩)、中川忠純(水戸藩士)たちである。
 文字通り、各藩の脱藩の志士で組織された。
 このうち、田中光顕は副将格として、慎太郎を助けて、非常に活躍した。

   大政奉還

 薩摩、長州の武力討幕に対して、竜馬はあくまで、幕府権力を平和的に奪還することを考えていた。勿論、それは、長州・薩摩の武力を背景とすることで、始めて、可能であったが、権力の移行は平和的に行なわれなくてはならないし、それは可能であると考えていた。
 人間の思想は変りうるもの、成長しうるものという確信を自己の思想遍歴から考えていた竜馬としては、成長・変化の過程にある人間の思想をある時点で固定させて、人間を殺すということは、どうしても許されないと思っていた。
 そこから、竜馬の執拗で、積極的な権力移行、しかも、明治時代がなし得たよりもずっと進んだ公議体の実現すら考えていたのである。
 竜馬はまず、象二郎を説き象二郎に藩主容堂を説かせ、土佐藩の藩論として、将軍慶喜に、政権を返上するようにしむけたのである。
 薩摩の武力討幕の路線はどんどん進められる。それを横眼ににらんで、竜馬の活躍は、まさに、八面六臂というところである。
 十月九日、京都についた竜馬は、その足で慎太郎を訪ねて、薩長の武力討幕の路線がどこまで進んでいるかをきき、すぐさま、象二郎を訪ねて、大政奉還の建白書のなりゆきをきく。
 「三日に老中を訪ねて、建白書を出したが、『急にはいかない』という返事で、五日には、若年寄の永井尚志を、八日には、老中を、今朝も永井を訪ねたが、どうなるか全然わからない」という象二郎の悲観的な言葉。
 竜馬はとうとう、永井に会う決心をした。勿論、面識はない。土佐藩の重役福岡藤次の紹介である。
 「大変、失礼な質問ですが、貴方が幕府の兵力を冷静に観察した場合、薩・長・芸の連合勢力に勝てると思いますか」
 竜馬は単刀直入にきりこんだ。そういわれると尚志には答える言葉もうかばない。すでに、長州征伐のとき、広島にいって、つぶさにその戦力は見てきたのだ。
 「それでは、建白を採用する以外にありませんな」
 竜馬は、尚志の眼をくいいるようにみつめて、たたきこむようにいったのである。
 十三日は、将軍慶喜が各藩の重役から、意見をきく日であった。竜馬は、でかける前の象二郎に手紙を書いた。
 「大政奉還のことが、万一おこなわれない時には、必死の貴方のこと故、御加減なさるまい。その時には、僕も海援隊をひきい、慶喜の帰えりをまちぶせるつもり。
 もし、貴方の失敗のために大政奉還が失敗するなら、その罪は天地にいれられないであろう。」
 竜馬は自らも死を覚悟したが、象二郎にも覚悟を求め断乎たる態度を求めたのである。

   由利公正の推薦

 それと同時に、竜馬は越前藩の由利公正を高く評価し、新政府では、彼をどうしても、つかわねばならないという考えをもっていた。
 公正とは、文久三年横井小楠と一緒に酒に飲み、そのとき、大いにほれこんだ男である。
 十月十四日、慶喜が大政奉還した後、竜馬は越前にむかった。松平春嶽をひきだすためであったが、それ以上に、公正にあい、意見をききたいこともあったし、新政府にひきだすためであった。
 十一月二日、二人は会見した。
 「僕が最もおそれているのは、戦争である」
と公正がいえば、竜馬はキッパリと応えた。
 「戦わない方針だよ」
 「でも、こっちから、しかけなくても、向こうからしかけてくる。その時はどうする。成算はあるのか」
 「なんともいえん。朝廷には、金や食糧もないし、それに兵隊もない。君の意見をききたい」
 「金や兵力はもともと天下のものだ。問題は国民を納得させることの方向をうちだせるかどうかにある。それさえ大丈夫なら、必ずうまくゆく。金札を発行する事も出来るし……」
 明治維新政府で、由利公正が大活躍したことはいうまでもない。

 

                <幕末志士交友録 目次>

 

    薩長連合

 文久三年(1863)の八月十八日の京都における政変は、京都から、攘夷討幕派の人達をすべて追いはらってしまった。
 三条実美などの公卿も、長州藩の両掌の道を求めて、都落ちをしてゆかなくてはならない。それと共に、諸藩を脱した討幕運動に挺身する人達も、京都から長州藩に集まった。その数三百余。
 こういう力におされて、京都の世論を再び、攘夷討幕派の手中におさめるべく、蹶起したのが、翌元治元年の蛤御門の戦いである。だが、戦いは、利なく、敗北してしまった。しかも、それに、追いうちをかけるように、幕府は、長州征伐を発令した。
 この、八・一八の政変から、蛤御門の戦い、更に長州征伐への中心的位置にあったのは、会津藩と組んだ薩摩藩である。
 会津藩が幕府の親藩であるというのと違って、薩摩藩が会津藩と行動を共にしたのは、長州藩へのやっかみであり、功名争い以上のものではなかった。藩主たるも、事毎に競争した。それというのも、長州藩も薩摩藩も幕府を仆して、近代的な統一国家をつくるという方針が、此の頃には、まだ、はっきりしていなかったことにもよる。だから、それぞれの自藩意識にしばられていたのである。
 第一次長州征代を指揮した薩摩の西郷隆盛も、これを機会に、長州藩の勢力を割くことを真剣に考え、減封の上、転封にすることを考えていたほどである。討幕のために、お互に、力をあわせることなど、思ってもみないという状態であった。
 そのため、第一次長州征伐は、幕府軍から、過酷な要求がつきつけられ、長州藩は、すべて、それをうけいれるという有様であった。勿論、当時の長州藩の政府は、保守恭順派にしめられていたためもあった。だが、この交渉の過程で、高杉晋作たちは、恭順派の手から、藩権力を奪出せんとして、クーデターをおこしたのである。長州藩は、そのため、真二つに割れて、抗争をつづけた。しかも、幕府軍は、その最中に、兵をひきあげたのである。
 隆盛たちにしてみれば、長州藩が内部抗争で、自滅するのを求めていたから、わたりに船であった。だが、慶応元年一月末には、晋作達は、完全に、藩政府を抑え、幕府との対決の姿勢をはっきりうちだしていった。
 隆盛にしても、長州藩が自滅するどころか、内部の対立を克服して、より強大化するのを見て、考えざるを得なくなった。それに幕府は、第一次長州征伐の隆盛の処置を手ぬるいといって批難するのをきいては、なお、がまんできない。
 幕府が、第二次長征をやろうとしていることをきくと、面子にとらわれ、あわよくば、幕府の権威をそれによって、旧に復したいと考えているにすぎないと思いはじめる。
 此の時機を、土佐の坂本竜馬はみのがすわけはない。彼は、早くから薩摩と長州が一本になって、幕府にあたることを考えていたし、それなのに、お互に戦っている状態を非常に残念に思っていたからである。
 この竜馬の行動を助けたのが、同じ土佐藩の中岡慎太郎である。

   来なかった西郷隆盛

 竜馬が、下関にやってきたのが、慶応元年の閏五月一日。同じ、土佐藩の土方楠左衛門も竜馬に合流して、長州藩士の説得にかかった。
 薩摩に飛んだ慎太郎が、隆盛を説得して、上京の途中、下関によるのにまにあわせる必要もあった。だが、長州藩士にしてみれば、薩摩は、会津よりも憎かった。会津は、もともと、幕府の親藩であり、味方とは思っていない。しかし、薩摩は違う、一度は、統一行動をとった仲間である。仲間に裏切られたという憾みは深い。
 薩摩といっただけで、顔色を変えるものもいた。それに、薩摩のために、多くの仲間や肉親を失っている憎しみも重なっている。そういう点で、竜馬や楠左衛門の仕事は、大変、忍耐のいる仕事であった。だが、彼等の忍耐づよい説得は、ついに、長州藩士の怒りや恨みをときほぐし、憎い奴と会うだけは会ってもいいという所までこぎつけた。
 楠左衛門は、その報告を携えて、太宰府にいる三条実美のところへ、竜馬は、隆盛のくるのをまった。
 だが、隆盛は、なかなかあらわれない。長州藩の桂小五郎たちはいらいらしてきた。それを見ると、竜馬とても、気が気ではない。
 しかも、二十一日になって、やっと、現われたのは、慎太郎一人であった。慎太郎の「京阪の状況があわただしいので、急を要する隆盛は、船路を土佐沖にとったから、下関に寄港できなかった」という説明も、小五郎たちには、弁解としか聞えない。
 小五郎はカンカンになって、おこりだした。果ては、竜馬や慎太郎までも責める始末である。
 だが、竜馬や慎太郎には、長州も薩摩もなかった。あるのは、新しい日本をつくりだすために、長州や薩摩の力が必要であるということだけであった。
 まして、竜馬には、討幕とか、攘夷とか唱えて、たやすく、幕府から権力を奪えると考ている人達に対して、苦々しいことだと思われたし、幕府の潜勢力も、そんなことで、揺るぐとは思われなかった。だから、どうしても、薩摩と長州の統一した力で、幕府にあたる以外にはないと考えていた。その点では、慎太郎も変わらない。
 二人は、熱心に、小五郎を説いた。小五郎も、折れるしかなかった。長州や薩摩にかかわりがないともいえる竜馬と慎太郎が、誠意をもって、その連合を説くのに、感動したといってもいい。
 純粋に、思想のために、思想を説く二人の行為に敬服したのである。しかし、隆盛と会う条件として、薩摩の名儀で武器を購入してくれるようにたのんだ。それは、幕府の妨害にあって、思うように武器を購入できないためであった。しかも、幕府との対決は刻一刻と迫っている。
 竜馬は、早速、その申し出をうけいれ、その仕事は、亀山社中にやらせることにし、自分は、慎太郎と一緒に隆盛を説くために、京都にむかった。

   ついに桂の上京をうながす隆盛

 長州では、早速、井上聞多と伊藤俊輔が、武器購入のため、長崎にむかった。
 亀山社中の近藤長次郎は、聞多と俊輔の二人を薩摩の小松帯刀に紹介。帯刀は二人を薩摩藩邸にかくまい、武器購入から、軍艦の購入の世話までした。
 ただ、軍艦の場合、小銃と違って、購入者名義、使用者名義などの点で、うるさくて、なかなか、まとまらず、しかたなく、小銃四千三百挺だけ購入して、一端、聞多たちは下関にかえった。
 しかし、十月には、軍艦購入の話もまとまる。こうして、長州は薩摩、亀山社中の協力で、次々と軍備をととのえることができたのである。
 一方、竜馬と慎太郎は、六月下旬に京都につき、早速、隆盛達を説得してまわった。隆盛にしてみれば、昨年までは、長州の自滅を考えていたぐらいである。それに、薩摩藩の世論としては、せいぜい、長州再征に参加しないという程度で、長州藩と結ぶところまでいっていない。隆盛が、下関によらないで、真直に、京都にきたのも、こうした情勢にしばられていたのである。
 桂小五郎がみたように、隆盛の弁明は、やはり、弁解にすぎなかったのである。そうなると、隆盛を説きつけるのも容易ではない。長州藩のことも、心配になってくる。
 慎太郎は、七月十九日、京都をたって下関にむかった。長州藩工作のために、九月には、竜馬も、下関にゆき薩摩のために長州から、兵糧を買うという世話をした。少しでも薩摩と長州との結びつきをつくるためである。
 薩摩の大久保利通も、幕府が朝廷に求めた征長の勅命を極力、妨害している。
 利通は、
 「非義の勅令が下ったときは、薩摩はうけない」とまで、いいきったのである。しかし、結局九月二十一日に、長州再征の勅命は下った。
 竜馬や慎太郎にしてみれば、いよいよ気がせく。
 十月十二日、長州の伊藤肇に送った手紙には、深く現状を心配する心がよくでている。
 「何といっても、急ぎすぎると、両方の志がよく通じない。しかし、いずれにしろ、国家を憂える事によって成立する意見だから、お互の意見がよく通じて、お互が相手の考えを深く知ったうえで、よい方を択ぶようにしなくてはならない。
 お互に、自分の主張こそ、道理である、道義であると強調するようでは、かえって、障害もでてくる。笑いながら、話しあうような中で、よいことを求めるようにしなければ、到底、大成はできません。」
 とうとう、隆盛から黒田清隆を通じて、閏五月の非礼をわび、ぜひ上京してほしいと小五郎のところへいってきた。
 小五郎は、始めは、絶対にいかない他の人をつかわすと主張していたが、竜馬がすすめ、晋作や聞多が懇請したので、「それでは、恥をしのんで」といって、重い腰をあげた。小五郎に同行したのは、品川弥二郎と薩摩の黒田清隆、それに、土佐藩の田中顕助であった。

   薩・長、十三日間のかけひき

 小五郎たちが、大阪についたのが慶応二年一月七日、すぐに伏見の薩摩藩邸にいった。隆盛は、わざわざ、伏見まで出迎かえて、初対面の挨拶を交わし、それから一緒に、京都の薩摩藩邸にいった。
 二人は、これまでやってきた方針や経過等について語りあったが、肝心の薩長連合については、どちらも話さない。
 京都の薩摩藩邸では、大久保利通、小松帯刀などが、いれかわり、たちかわり、現われてそれこそ下にもおかぬもてなしをするが、それでも、薩長連合の問題は一言も出ない。
 小五郎が、わざわざ京都に来たのは、薩長連合をやってのけるためであった。しかし、小五郎としては、自分からそれをきりだす気にはなれなかった。
 数々のうらみがある上に、今では幕府の長征を前にして、やはり苦しい立場にある。こんな状態で、薩摩と手をにぎりたいと申しでることは耐えられない屈辱と思えた。意地にも、自分からきりだすことはできなかった。ジクジクする気持を抑えるのが精一杯という状態で、いたずらに日を送った。
 隆盛も薩摩の立場ををより優位におこうという気持があるから、そしらぬ顔をして、小五郎の出方をみている。
 こうして、二人の談笑は、小五郎の内心のあせりや苦痛とは無関係に、十日余りもすぎた。
 小五郎は、くるのではなかったと思いはじめた。
 「君こそ、適任だ」といって、厭だというのを、無埋やりに押し出した晋作や聞多たちがうらめしくさえなる。逆には、仲介の労をとった竜馬にまで、腹がたってきた。一度ならず、二度までも、にえ油を飲ました竜馬に、思いきり、この気持をぶっつけずには、帰ることはできんと、僅かに、長逗留の理由を見つけるのであった。
 その竜馬は二十日になって、やっと、薩摩屋敷にその姿を現わした。

   竜馬、一藩の私噴を叱る

 すぐさま竜馬は、小五郎の部屋を訪ねて、話あいの成果をきいた。
 小五郎は、仏頂面して、
 「どうもこうもない。君達が折角、尽力してくれたが、自分はこのまま帰るつもりだ。ただ一言、君の労を謝してから帰国しようと待っていた」
という。
 竜馬には、とんと、その意味がわからない。小五郎の顔をみつめたまま、ポカンとした。
 「考えてもみたまえ。わが長州は、今の危機を徒手傍観するにしのびないので、奮然、意を決して、大いに天下の為に尽そうと、自らの利害を省みずにやってきたのだ。
 今では、国内で孤立し、幕府再征の前に、四面に敵をうけて、甚だしい苦境に陥っている。藩の人間は死を覚悟して、受けて立とうとしているが、活路が開けるとは限らない。それに比べて、薩摩の立場は我々と違って、公然と天子に味方し、幕府ともウマがあい、諸侯と交わっていて、その進退は全く自由である。
 こういう時、僕の方から、口を開き、薩摩に統一行動を求めることは、薩摩を危険に陥れるだけでなく、援助を乞うようなものである。それは、長州の者として、到底、出来ないし、深く恥づる所である。長州は、たとえ焦土と化しても、面目を落とすことはできない」
 小五郎は、抑えに抑えていた気持を一挙に、竜馬にぶちあけた。
 竜馬はこれをきいて呆れてしまった。日頃、腹をたてたことのない竜馬であったが、本気になっておこりだした。小五郎の心情は、わからないこともないが、全く、心外である。
 「長州の体面、一応もっともである。しかし、僕達が、長薩の連合のために挺身してきたのは、決して、両藩のためではない。ひとえに、現下の情勢が連合を必要としているからである。日本国全体のためには、一藩の私憤にかかわってはいられない。遠くここまでやってきて、お互いに会談しながら、空しく十数日をすごすとは、とんでもないことだ。何故心をうちあけて、新時代のために、将来を協議しないのか」
 竜馬の、この言葉の前には、小五郎は一言もない。「その通りだ」というしかない。
 竜馬は、つぎに、隆盛の部屋を訪れて、小五郎の立場を代弁した。小五郎の苦しい立場、問題をきりだせない気持をのべた。
 竜馬の言葉は、隆盛の胸をついた。隆盛はとうとう、自分の方から、問題をきりだすことを誓ったのである。

 こうして、半年来の懸案も、急転直下、解決を見たのである。
 竜馬の、人間を信頼し、人間の思想は変わりうるもの、進展するものという確信が、この結果を導きだしたのである。
 お互いの意見は、それぞれ、社会国家のことを考えて生まれた以上は、必ず、共通点一致点はあるもの、それを見出すために、時間をかけて、じっくりと考えるなら、その共通点、一致点を見出しうるという確信である。もし、そこに、至らないなら、社会国家を思うふりをして、実際には、社会国家を思わない意見であるというのが竜馬の意見である。
 この薩長連合によって、長州は、幕府の再征を失敗に終わらせ、ついには、幕府を崩壊に導くのである。
 一人の人間の善意と確信が、歴史を展開する力になるということを、これほど、まざまざと示したものは少いということがいえよう。

 

               <幕末志士交友録 目次> 

 

    洋学者たち
     幕府側にあって歴史の前進を見ぬき、努力した人々

   体制側の巨頭、象山

 これまで、私は主として、反体制派というか、討幕派の人々を中心に、その人達を相互に深く結びつけるものが何であったか、そして、どのように、深く、共通の目的のために生きる志士として、相互に結びあったかを述べてきたが、この辺で、角度を変えて、体制側内部の人達の結合をそれも、洋学者達を中心に見てゆきたいと思う。
 その場合、すでに、吉田松陰との関連で、佐久間象山のことを一寸書いたが、象山から書きはじめるのが、限られた紙数の中では、妥当と思う。というのは、松陰が反体制派の巨頭であるように、象山は体制派の巨頭であると思われるからである。
 象山は、文化八年(1811)二月二十八日、松代藩に生まれた。幸いなことに、松代藩は、松平定信の子幸貫が嗣いで、幕末の政界にのりだしていった。そのため象山も、それとともに、中央の政界にのりだしていくことになる。おそらく、象山が、松代藩士でなかったら、「余、二十にして、一国に繋ることあるを知る。三十以後、乃ち天下に繋ることあるを知る。四十以後、乃ち五世界に繋ることあるを知る」というように、大言することはできなかったであろう。
 それはさておき、象山は、二十九才の時、江戸に出、藩主幸貫が老中となるにおよんで、その顧問となり、種々意見を提出するようになる。しかし、当時の象山は、まだ、洋学を学んでいなかったし、そのため、西洋諸国を知る者ではなかった。彼が洋学を学ぶようになるのは、アヘン戦争に刺激されたためであった。洋学を学ぶ心要があると知るや、直ちに、それを始める。それが、象山の生きる姿勢でもあった。
 こうして、象山が洋学を学びはじめたのが、三十四才の時である。この時の師は、黒川良安。しかし、良安から学んだのは、わずか、十ヵ月。それ以後は専ら辞書を片手に原書を読みはじめている。辞書を片手といいながら、ガラスをつくり、地震計をつくった所をみても、彼の語学力は相当なものであったことがわかる。
 幕臣勝海舟が入門したのが嘉永三年。嘉永四年には、吉田松陰、橋本左内、山本覚馬、河井継之助たちが入門している。覚馬は会津藩士で、維新後、新島襄を助けて、同志社の設立に尽力した人。継之助は、長岡藩士で明治維新のとき、局外中立をのぞんで許されず、薩長軍と戦って敗れた人。
 外国奉行川路聖謨が象山の友人であったことは、すでに述べた通りである。

   倒幕派に買われた見識

 松陰の弟子高杉晋作が、象山を訪れたのが、万延元年(1860年)九月。その時、晋作は亡き松陰の
一、幕府、諸侯何れの処をか臨むべき
一、神州の恢復は何れの処にか手を下さん
一、丈夫の地所は何れの処が最も当れる
という三つの質問を運んだ。これは、松陰が師象山につきつけた質問であったが、同時に、晋作に、象山の答を直接にきかせようという松陰の配慮でもあった。
 象山と晋作の会見は夜を徹して語られるほどに、充実したものであった。そして、晋作に三年間、門戸をとじて、読書をしたいと思うほどの影響をあたえたのである。晋作への影響がいかに深かったかということである。
 晋作は、象山に会うと共に、当時、松平春嶽に招かれて福井にきていた横井小楠にも、その時会っている。
 小楠といえば、熊本藩士であり、洋学者としても著名であり、共和思想を唱えて、明治二年に殺された男である。
 晋作は、その小楠を二人といない英傑であるといって評価している。象山に劣らぬ影響を晋作がうけたことが想像される。
 それから二年後、晋作の同門、久坂玄瑞は、土佐の中岡慎太郎と一緒に、象山を訪ねた。玄瑞も慎太郎も、象山の開国論、開港論に耳を傾けるしかないほど、象山の弁論はとうとうとしていた。そのため、才子であり、弁論もたつ玄瑞が、象山の話を唯一方的にきかされるという有様であった。
 それというのも、玄瑞は、反体制派にたって、時務論を述べる者、それに対して、象山は、体制側にあって、時務論としての開国論を述べる者、そこに立場の異なる者の、意見がかみあわないのを感じて、唯、意見をきくというほかなかったのである。
 かつて、松陰に、絶大な影響をあたえ、その弟子晋作には、三年間の読書を決意させるほどの影響をあたえた象山も、その二年後には、単に話をきかせるということしか、玄瑞にはできなかった。そこには、時代の大きな変化もあるが、立場をはっきり異にした、二つの流れにたつ象山と玄瑞の位置を感じさせる。だが、その玄瑞も、象山を暗殺しようとする者があると、たとえ、立場は異にしても、生かしておけば、利用価値のある者、決して殺してはならないとおしとどめている。
 結局、象山は暗殺されることになるのだが……。
 象山が、その一生を通じてなそうとしたことは、体制側にあって、その中で、西洋の諸科学をとりいれて、体制内部の質的変化をはかることであった。歴史の進歩と発展を信じて、それに通ずる道を一歩一歩と歩むことであった。その道を進むかぎり、徐々にではあるが、幕藩体制は改造されて、尊王討幕論者が考えているよりも、進んだ政治制度をもった近代的統一国家が招来するというのが、象山の信念であった。果して、幕藩体制は改造しえたかどうか、疑問がないことはないが、それを考えたことは、象山の卓見であったといえる。

   竜馬、海舟の弟子になる

 勝海舟が、その象山に入門したことは、すでに述べたが、海舟は、その妹を象山の妻にすることで、その関係はいよいよ深いものとなったといっていい。
 この海舟を軽輩から、軍艦奉行、海軍奉行の要職にひきあげたのは、大久保忠寛である。忠寛は、蕃書調所頭取から、若年寄にまでなった人で、同じ洋学者仲間である。
 川路聖謨もその仲間であることはいうまでもない。聖謨は、豊後日田の生まれで、小普請組川路光房の養子となったもの。幕末の危機の中に、その識見と手腕をみとめられて、外国奉行、勘定奉行等の要職についたものである。
 岩瀬忠震もその仲間。彼も、設楽家から、八百石の岩瀬家の養嗣となり、その要職をほしいままにした。
 唯、聖謨、忠震が、大老井伊直弼のために、左遷されたのに対して、そして、再び、カムバックすることがなかったのに対して、忠寛と海舟は、むしろ、直弼の死後、大きく浮かびあがるという違いがあったし、そのために、幕末の中央政界は、一応、忠寛、海舟を軸にして展開していったといってもいい。
 忠寛は、蕃所調所の頭取をしていただけに、外国の事情にはとくに明るく、早くから、共和制の思想の持主であり、そのことを公言し、また、将軍に政権を返上することをすすめるほどの人物であった。
 海舟も、その思想的立場を一にして、これまた、幕府政治の変革をのぞんでやまない。その点、幕府は、その政治制度を否定する人間をその中心にかかえこんでいたことになる。悲劇というか、滑稽というしかいいようがない。
 勿論、幕府は、忠寛・海舟の意見をとりいれて、権力を放棄するほどに、進歩的でも、弾力的でもない。その権力を打倒する力は、外から加えられる必要があった。いうまでもなく、その力は、薩長勢力であり、その展開のきっかけをつくったのは、先月号で述べた通り、坂本竜馬である。
 竜馬は、はじめ、海舟を斬ろうとして、海舟邸にのりこんだ。この項の竜馬は、まだ、人間の思想は進歩発展するもの、だから、人間をある時点における思想故に、みだりにきるべきでないという立場には到達していなかった。だから、海舟の思想を自らたしかめて、本当に奸物という見究めがついたら、海舟を斬ろうと決心したのである。
 海舟は、いきおいこんでのりこんできた竜馬を前に、
 「一応自分の意見をきいて、それからでもおそくなかろう」と、まえおきして、彼は、彼の見聞による世界の大勢を説き、日本がおくれていることを説いた。そうなると、竜馬には、もっともっと、海舟からききたいことができた。とうとう、海舟の弟子になってしまったのである。
 それから一年余、竜馬は、とことんまで海舟から学ぶ。共和思想について学んだことも勿論である。竜馬は、その思想を更に忠寛や小楠によって、みがきをかけられ、自分でも考えぬくことによって、後年、大政奉還論をひっさげて登場するのである。
 忠寛・海舟の思想は、竜馬によって結実したともいえる。

   錚々たる緒方洪庵の弟子たち

 その海舟が、万延元年、感臨丸で、アメリカにいったときの仲間が福沢諭吉であった。その時、海舟は艦長、諭吉は木村摂津守の従者という立場にすぎなかったが、お互いに、お互いを認めあったことには変りがない。
 諭吉は中津藩の下級士族の出。緒方洪庵の弟子となって洋学を学び、後に、幕臣となった者である。彼にとっては、尊王攘夷を叫んでいる人達、薩摩、長州の人達は、全く信用も信頼もおけない人達にみえた。
 攘夷をいうことは、ばかばかしいかぎりであったし、人間平等が叫ばれる必要のある時代に、人間不平等を認める天皇をかつぎだすことは、アナクロニズムに思われた。門閥制度の幕府よりも、もっと始末がわるい。それに、幕府の門閥制度は、どんどんと崩れていくように見えた。こうして、諭吉は、幕臣になったのである。
 論告は緒方の門下生であるが、彼と同じように、緒方門下生で幕臣になった者は非常に多い。緒方洪庵自身、文久二年(1862)には、将軍の侍医になっているが、大鳥圭介、高松凌雲、箕作秋坪など、みな、幕府につかえて、その改革に従事している。
 圭介は、尼ヶ崎藩の村医の子。彼もその学問の性格からいって、観念的な尊王、閉鎖的な攘夷に組することはできなかった。自然、漸進的な道を進むことをよぎなくされた。そうなると、幕府か、それと同一歩調をとる藩の中で、その志をのばしていく以外にはない。
 幕臣となった圭介は、歩兵奉行にまで進んでいるが、それというのも、幕藩体制の危機を前にして、体制側も思いきって、人材登用をすることによって、体制の危機をのりきる必要にせまられていたからである。諭吉もその例外ではない。
 圭介の作った伝習隊は、六尺、馬丁、雲助、博徒などで、その力は非常に強力であった。村医の子として、彼らの力を正確に評価していたということがいえる。
 榎本武揚を助けて、函館にたてこもり、最後まで闘うのも圭介である。
 榎本武揚を助けて、函館で、特異な活動をしたのが、高松凌雲である。凌雲は筑後の国の庄屋の息子。
 緒方塾に学んだ後、幕府につかえたが、函館では、病院長として敵味方に関係なく治療して、後の博愛社の基瑳礎をつくった。
 この戦いで、敵兵の一隊が病院に侵入してきたが、彼は、毅然として、理を説き病院をまもった。このとき、治療をうけたものは、千三百人もいたということである。
 箕作秋坪は、終始、蕃書調所の翻訳方、外国奉行の支配について、外交事務に関係した。文久六年、幕府がヨーロッパに使臣を送ったときは、諭吉と共に、翻訳方として、出かけている。
 秋坪の父院甫は、オランダ医学者として、幕府につかえ、士籍に列した者の最初であった。そして、秋坪が、森有礼たちと一緒に明治になって、明六社をおこしたことはあまりにも有名である。

   長州について殺された大村益次郎

 このように、洋学者たちの多くは、幕府につかえ、幕府体制をささえつつ、幕府体制をその内側から改造するように働きかけ、また、そのために努力した。
 彼等は、朝廷を先頭におしたてた薩摩や長州とは、絶対に相容れなかったのである。少くとも、明治初年までの薩長とは相容れないと思っていた。
 緒方門下のうち、長州藩についたのは、大村益次郎唯一人といってもいい。勿論、益次郎は長州藩の村医の子で一度は幕臣となりながら、後に、長州藩に採用されたもの。益次郎としては、錦を故郷にかざる意味もあって、長州藩につかえたかったのかもしれない。
 その益次郎のことについて、諭吉はつぎのように書いている。
 「どうだ、下関では大変な事をやったじゃないか。何をするのか、気狂い共があきれかえった話じゃないか、というと、
益次郎が眼に角をたてて、
何だと、やったらどうだ。
どうだって、此の世に攘夷なんて、丸できちがいの沙汰じゃないか。
気狂いとは何だ、けしからんことを言うな、長州ではチャンと国是がきまっている。あんな奴輩にわがままをされてたまるか。
 そのけんまくは、以前の益次郎ではない。実に思いがけない事で、是は変なこと妙なことだと思ったから、いいかげんに話を結んで、それから、秋坪の処にきて、
 大変だ大変だ、益次郎のけんまくは是れ是れだ。
というのは、益次郎が長州にいったということをきいて、仲間は皆心配して、あの攘夷の真盛りに、益次郎が呼びこまれては身が危い、どうか怪我のないようにと話していたが、本人の話をきいてみると今の次第。
 一体、益次郎は、長州にいって、いかにもこわいということを知って、攘夷の仮面をかぶって、わざといきんでいるのだろうか、本心からあんな馬鹿なことを言うきづかいはない。どうも彼の心が知れない。
 今でも不審がはれぬ」
 これは、益次郎がなくなって後の文章であるが、このように、当時の洋学者たちにとっては、薩長は共存できない存在と思われていたのである。
 その益次郎は、薩長の中にあって、近代的軍隊の創設に献身し、ついには、守旧派のために暗殺されてしまい、かえって、体制側にあった諭吉、凌雲、圭介、秋坪たちが、その終りをまっとうする。忠寛、海舟も何じである。皮肉といえば、皮肉といえる。
 諭吉は、後に、
 「薩長政府の方向をはじめから、測量できずに、ただその時に現われる有様をみて、馬鹿なことをする、わからずや奴と判断した」と書いている。
 そんなところに、洋学者としては結束しながら、洋学者の限界があり、時代の転換点に、イニシアチーブをとれなかった理由があるのかもしれない。

 

             <幕末志士交友録 目次>

 

    新しい時代の夜明け

   薩長3倍の幕軍を破る

 新しい夜明けにむかって、時代は刻々と動いていた。薩長を中心として、日本を近代的統一国家にしあげようとする動き、それに呼応して、幕藩体制内部でも、洋学者たちを中心として封建体制である幕藩体制の脱皮を意図する動きがあった。
 彼等は、ともに、今のままでは、その内部矛盾のために、日本を思想的にも経済的にも維持することができないばかりか、それにつけこまれて、西洋列強から侵略されることをなによりも恐れていた。
 中国や印度が辿っている運命を日本が辿ることも最をおそれていた。
 だが、新しい日本を求めるこれらの動きの中で、すべての人が、そう思い、そう信じているのではなかった。
 薩長を中心とする動きの中にも、それに便乗しようとする古い意識の人達もいたし、体制側でも、殆んどといっていいほどに、おくれた意識を信条化している人々が沢山いた。彼等は、新しい日本のことも考えず、日本の当面している危機も省みず徳川幕府にただ愛着をもっていた。幕藩体制の中の自分の家柄や身分を捨てきれなかった。
 崩れかかっている平和や秩序を崩れかかっていないと信じることによって、一時をごまかそうとした。そして、その平和と秩序を破壊するのが、薩長を中心とした勢力とみた。その憎しみが、いよいよ盛んとなっていったのもむりはない。
 これらの勢力に押されて、十五代将軍であった徳川慶喜は、慶応三年十月十四日、一度は、大政を放棄しながら、翌明治元年一月二日には、薩摩藩への罪状をひっさげて、大阪から京都にせめのぼったのである。
 所詮は、新しい夜明けの前に、古きもの、遅れたものが、新しいものと共存できない運命にあるといってよいのかもしれない。
 一万五千の幕府軍に対して、それを迎え撃つのは、わずか五千人にみたない薩長軍である。おそらく、慶喜としては、一挙に失地回復を考えていたにちがいない。これまでも、幕府の権力と地位をまもりぬくために、全心全霊をこめて頑張ってきた彼であったから、そう思ったのもむりはない。
 だが、慶喜の期待に反して、三日から六日にかけての戦闘で幕府軍は、薩長軍のまえに完全に敗れ去ったのである。薩長軍の近代兵器の前に破れ去ったといっていい。
 慶喜は、いちはやく、軍艦で江戸へ逃げ去った。当然、慶喜討伐の命令が下った。

   幕府恭順を現わす

 慶喜追討の軍隊は、東征総督有楢川宮熾、参謀西郷隆盛という陣容で、東海道・東山道・北陸道の三方面から進められていった。その兵五万。
 江戸は、それをきいて極度に混乱した。とくに、200万にのぼる江戸市民の驚きは大きい。それに、主戦派は、恭順派を圧倒した。新撰組の近藤勇も、鳥羽・伏見の戦いで、隊士の三分の二を失って、命からがら、江戸にかえってきた。そうなると、主戦派は、小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介たちを中心にいよいよ意気盛んとなった。彼等は、もう意地だけで、官軍即薩長軍に敵対しようとした。
 だが、今度は、肝心の慶喜がおじけづいてきた。彼は、鳥羽・伏見で戦ってみて、決定的な敗北をした今、これ以上、戦うことの愚劣さを感じた。多くの武士の生命が失われることも恐れた。
 慶喜は、一月十五日小栗上野介の陸軍奉行の職をといた。そのかわりに、恭順派の中心的存在である勝海舟を抜擢した。今度は陸軍総裁という要職である。
 海舟についで、抜擢されたのが高橋泥舟である。泥舟は新徴組が組織されたとき、それを統率し、後、遊撃精鋭二隊をひきいて、極力、慶喜の謹慎恭順を力説していた。そして、慶喜が江戸城から、上野寛永寺に移ると、遊撃・精鋭の二隊をひきいて、再び、慶喜が部下の暴挙にまきこまれないように配慮していた。その泥舟が、遊撃・精鋭の総督にあげられたのである。それまで、総督には今堀登代太郎いう五千石の旗本がなっていた。その今堀とならんで、泥舟が総督の地位に、それも総督として一切をとりしまるようにといわれたのである。今堀の地位は名目的なものにすぎなかったのである。泥舟なら、幕臣を抑えうることができるという信頼である。
 海舟の献言によったことはいうまでもない。こうしておいてから、慶喜は次々と、和宮、北白川宮たちからの江戸進撃を中止するようにという文書を征東軍に送った。だが、西郷隆盛たちの態度は強硬であった。あくまで、慶喜切腹の線を主張した。古い日本から、新しい日本への脱皮は、そのぐらい断乎とした態度が必要であると考えていた。現に、権力を放棄した慶喜が情況の変化とともに、鳥羽・伏見で、再びたちあがるということもしている。徹底的に、古いものの息の根をとめておく必要があると考えたのである。
 しかし、海舟は、なんとかして、その追撃をはばもうと考えていた。小ぜりあいはしかたないとしても、また、必要でさえあると思われたが、江戸進撃だけは、なんとしてもくいとめなくてはと考えた。
 それに、幕臣としての意地もあった。おめおめと、薩長軍の蹂躙に江戸をまかせられぬという思いもしてくる。彼は、万一にそなえて、江戸市中を薩長軍もろともに、油でやきはらうという計画も、秘密のうちにおしすすめた。しかし、そういう状況にはしたくなかったのである。
 勿論、表面は、どこまでも恭順である。海舟からも、直接に西郷隆盛に書簡を送った。かつては、ともに語り、ともに談じ互いに、他を最も深く認めあった海舟と隆盛の仲である。だが今は、敵味方にわかれて、攻められるものと攻めるものとの関係である。二人の友情は強いようでいて、歴史の前には弱いともいえた。その友情は風前の灯に似ていた。

   海舟、泥舟の意をうけて山岡鉄舟官軍の中へ

「無偏無党、王道堂々、
今、官軍江戸に逼るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るものは、わが徳川の士民といえども、皇国の一民たるを以ての故なり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異なり、兄弟かきにせめげども、外、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。
 然りと雖も、江戸四方人達、士民数万来往して、不段の民、わが主意を解せず、或いは、此に乗じて、不羈を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずといえども、終にその非なし。今日無事といえども、明日の変、誠に計り難し。小臣殊に鎮撫、力殆んど尽き、手を下すの道なく、むなしく飛丸の下に憤死を決するのみ。
 然りと雖も、和宮の尊位、一朝此の不測の変に到らば、頌民無頼の徒、何等の大変、江戸城内に発すべきや。日夜焦慮す。恭順の道是より破るといえども、如何せんその統御。道なきことを。
 参謀諸君
能く、その情実を詳にし、その条埋を正さんことを。且つ、百年の公評を以て、泉下に期するにあるのみ。鳴呼、痛かな。上下道隔る。皇国の存亡を以て、心とする者少なく、小臣悲嘆して訴ざるを得ざる所なり。その御処置の好きは、敢て陳述する所にあらず。正ならば、皇国の大幸。一点不正の御挙あらば、皇国瓦解。乱臣賊子の名、千載の下、消する所なからんか。小臣推挙して、其の情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰、半日も去る能わず。唯愁苦して鎮撫す。果たして労するも其の功なきを知る。
 然れども、其の志達せざるは天なり。
 此の際に至り、何ぞ、疑を存せんや」
 海舟の悲しみや苦しみがよくにじみでている。自分達の気持を理解しようとしてくれぬ隆盛たちへの怒りさえも感じとれる。まさに、悲痛そのものの手紙であるといえる。海舟は直接隆盛の胸にとびこんで、隆盛にうったえる以外にない。それも隆盛と互角にわたりあえる人物でなくてはならないと思う。しかし、海舟の書いているように、自分がいくことは出来ない。自分が江戸を離れたらとんでもないことになる。それというのも、幕臣の暴発は、わずかに、海舟が江戸城に悠然とかまえているということでおさまっているにすぎない。
 現に、江戸は守るに適当でない。甲府の天険によって守ろうと、脱走する者はあいついでいる。多くの幕臣は、海舟程の戦略家、薩長軍をひきつけられるまで、ひきつけておいて、一泡吹かせるということをやってのけるのじゃないかという期待と希望を多分にいだいて、おとなしくまっているにすぎない。もし、海舟が江戸をたったとなると収拾がつかなくなる。
 泥舟が、「私がいきましょう」といいだした。
 海舟は、泥舟が江戸をはなれることは、自分よりもっと危険だと考えた。江戸にいる暴れ者を抑えているのは泥舟である。泥舟は槍の名手というばかりでなく、人格・識見ともにすぐれた男、しかも誠実な男。海舟のように八方破れの男ではない。文字通り、武士らしい武士であり、武士の典型でもあった。だからこそ、暴れ者とについても幕府の直参、自然、泥舟の前にはおとなしくならざるを得ないのである。とすれば、海舟としては、泥舟をとめないではいられない。
 海舟は、あらためて、こんなに沢山いる幕臣の中に、使者になれるほどの器量のあるものが一人もいないのかと嘆かずにはいられなかった。「策のある者、智慧のある者、外交交渉の巧みな者達はいる。しかし、そういう男では、隆盛という男を相手にわたりあうことはできない。智慧や策では、今のように歴史の大転換のときには、勝負できないと考えてもみるのである。
 だが、その頃、泥舟は慶喜の前に、一人の人物を推せんしていた。律義な泥舟としては、自分の妹婿であり、全くの微臣にすぎない男など、到底、推せんすることはできないとこれまで考えていた。しかし、一人の使者すら出せない事実に、慶喜の傷心があまりにも深いのを知った時、とうとう、泥舟は、それをみるに忍びず、其の人の名を言ったのである。
 それは山岡鉄舟であった。鉄舟は泥舟より一歳年下。講武所師範山岡静山のあとをついで、山岡家をついだ人。勿論、鉄舟は剣術の名手。それが、どうして、槍の山岡家をつぐようになったかについては、面白い話があるが、それは省略するとして泥舟は、その鉄舟を推せんしたのである。
 早速、使者の命は、鉄舟に下った。しかし、鉄舟は、将軍の命令だからといって、なんでもはいはいときくような男ではなかった。はじめて会った慶喜に、鉄舟は、「恭順は謀略ではありませぬか」と、単刀直入に、ききだす程の人物であった。慶喜から、「そうではない」といわれて始めて、隆盛のところにいくことを承知した。
 そうきまると、鉄舟は、でかける前に、海舟の意見をきいておきたいと思って、早速、海舟家を訪ねた。海舟家では居留守をつかって会おうとしない。二人は一面識がないばかりか、鉄舟は海舟を斬ろうとつけねらっている噂がまことしやかに伝えられていた。それは、海舟の耳にも入っている。多くの人からも注意されている男である。慶喜の使いで、隆盛に会いにゆくということが海舟に伝わっていない以上、海舟が用心するのもむりはない。帰りまでまたして貰うといった鉄舟だが、一刻も心がせく。官軍の先鋒はもう品川迄きている。駿府にいる隆盛のところへ一刻も早く急がねばならない。
 鉄舟は、「上様の命令で駿府にいく。急ぐから、海舟の居場所をさがしてほしい」と取次ぎの者にたのんだ。その声は、自然、狭い海舟のところにもきこえてきた。そうなると、今度は一刻も早く、海舟が会いたくなった。斬られるという不安もなかった。小刀も持たないで、鉄舟のところにのこのことでかけていった。
 一目見るなり、海舟は鉄舟の非凡であることを洞察した。この男なら、隆盛とあって、互角にわたりあえると思った。隆盛の好きなタイプであることもすぐにわかった。
 更めて、世上の噂というものがいかに、いいかげんで、信用できないものかも感じた。
 海舟の鉄舟に対する結論は、
「唯恐しい人」の一語につきた。
 鉄舟が駿府にいくのに、海舟は、薩摩藩士益満休之進を同行させることにした。益満は幕府につかまっていたのを、先日、海舟が牢から出して、なにかの役にたてようと、海舟家に保護していた男である。
 鉄舟と益満の二人は、どうどうと正面から、官軍の兵隊がいるところにつき進んでいった。鉄舟は大きな声で、
「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」といったまま、そこを通りすぎたのである。あっというまの出来事である。
 大総督府まで、なにがなんでも、ゆきつこう、つっきろうという態度の前に、誰もさえぎることは出来なかったのであろう。
 こうして、二人は、箱根をすぎ、三島、沼津をすぎて、駿府に到着した。

   隆盛、鉄舟の意をいれる

 隆盛と鉄舟の会談は始まった。二人は勿論初対面である。だが、隆盛は、山岡先生といって、礼をつくした応待であった。
 隆盛は、鉄舟から、江戸の事情をくわしく聞けたことを喜んだ。これだけの情報を運んでくれる人が来るのをまっていたといってもいい。彼としても、徹底的に戦う必要を認めながら、外国に日本侵略の口実を与えてはならないと思っていたのである。そのことを最もおそれていたのである。
 話は更に進んだ。慶喜を備前藩にあずけるという条項を始めとして、七ヵ条が、隆盛から提出された。
 これらは朝命として、一歩もひかぬという隆盛の決断がみえた。だが、鉄舟としても、それをうけいれることはできない。ことに、慶喜を備前にあずけるという一条は臣下として、どうしてものむことはできなかった。
 鉄舟は、
「貴方と私の立場が変わっていたら、貴方はどうしますか。御返答を承りたいと隆盛につめよる一場面もあった。返答如何では、一歩もひかぬ鉄舟の覚悟がありありとみえた。それは、人情もろい隆盛の最もいたいところでもあった。隆盛としても、鉄舟の意見をききいれる以外にない。
「きっと、西郷が御引受けする」
といわないではいられなかった。
 こうして、鉄舟と隆盛の会談はおわり、江戸進軍の命令も中止ときまったのである。三月九日のことである。江戸総攻撃ときめられた五日前である。
 隆盛としては、「幕府はくさっても鯛。命も名も金もいらない山岡鉄舟のような男がいくらでもいるのではないか」と思って身慄いを禁じ得なかった。
 この隆盛と鉄舟の会見を基礎に、三月十三日、高輪の薩摩屋敷で、ついで、十四日に、芝田町の薩摩屋敷で、隆盛と海舟の二人の会見が行なわれた。
 これより先、海舟は、イギリス公使パークスに手を廻わし、恭順している慶喜を討つことは道理にあわないということを説いていたため、十三日、隆盛の命をうけて、パークスに会い、江戸城攻撃の了解を得ようとした者も、一蹶されるということもおきた。隆盛としては、自然、十四日の会談で妥結の方向にむかわないではいられなかった。
 以上、私は、人間と人間を結ぶ絆の深さ、人間と人間の信頼が、ないまわされて歴史を動かし、歴史を作ってきたということを六回にわたって述べてきた。思想は、たしかに、歴史の過渡期にあって、その矛盾を解決し、未来の方向をさししめすということで、重要な役割を果たすことは認めるが、なんといっても、此の世が、人間の社会であり、人間のための社会であることを知れば、此の世では、人間と人間の絆、人間と人間の信頼が中心であり、根幹であることを知らないではいられない。
 革命も平和も人間のためのもの、そうすれば、人間を犠牲にしての革命も平和もないということを思わないではいられない。

 

              <幕末志士交友録 目次>

 

   歴史を形成する知恵

 これまで六回にわたって、新しい時代を作る場合の人間の知恵や行動が何であるかを述べてきた。歴史を形成する前に、人間の智慧や行動の極限を発揮し、時代の転換に体当たりした姿は、まさに壮絶としかいいようのないものであった。
 人々は、新しい時代を形成する過程で、次々と仆れ、そのあとに登場する人々は、その屍をのりこえて進まなければならなかった。だから、新しい時代は、人間の尊い血で購ったということもいえよう。そういう意味では、人間は、歴史形成の前に非情にさらされたのである。そして吉田松陰は、歴史の前に全く非情にさらされた人であるが、同時に、その愛弟子達に対して、最も非情であった人でもある。
 松陰は
「好機はまっていても来ない。好機は自分達がつくるもの。今の政府の弾圧は誰が刺激したかというとわが輩である。わが輩がいなければ、此の弾圧は千年たってもおこらない。わが輩がいれば、此の弾圧はいつでもおこる。自分の良心に従って行動するということは、鬼の留守のまに茶にして呑むようなものではない。
 わが輩がおとなしくすれば、弾圧もやもうが、わが輩が行動をおこせば、弾圧もまたはじまろう。
 諸君は私と見解を異にしている。その分れる所は、僕は僕の良心に従って行動しようとするのに対して、諸君はてがらだけをたてようとしている」
「時がくれば、忠臣、義士でなくとも、功業はするものである。中国でも創業の持を見給え、功臣は皆々敵国より降参してきた不忠不義のもの、わが輩は、血を以て、平和を購うという論を奉ずるものである。」
 と書いて、高杉晋作、久坂玄瑞たちをいましめた。そして、自らは、政府攻撃の手を一歩もゆるめることなく、ついに政府の断罪にあって、その貴重な生命を捧げたのである。松陰はその言葉の通りに、自分の生命と交換に、天下の太平を闘い取ろうとしたのである。
 松陰は、歴史の非情のまえに、進んで、自分の身をさらした。喜んで、自分の身を歴史の非情にさらすことで、その弟子達にも、歴史の非情に身をさらすことを求めたのである。これほど、弟子達に非情なことはないといえる。だが、自分の生命と交換に、始めて新しい時代、真の平和はつくられるということを知っていた松陰、それによるしか新しい時代、新しい平和の到来しないということを知っていた松陰の故に、敢えて、それをなし、弟子達にそれを要求したのである。
 松陰が死んだ時、新しい時代、新しい平和はひらきはじめた。松陰の死がなかったら、晋作や玄瑞をあれほどまでに、断乎として進む人間に育てなかったであろうし、自分の良心に従ってあくまで行動するという雰囲気をあれほどまでに真摯につくらなかったであろう。
 松陰の死は、晋作や玄瑞の死をまねき、入江九一や吉田栄太郎の死を実現させたともいってもよかろう。それほど、松陰なきあとの松下村塾には、我が良心に従って、断々乎と行動するという空気がみなぎったのである。死をおそれ、死をにくみながら、そして、死を歓迎しない心が強烈に働きながら、新しい時代、新しい平和のために、死をのりこえて進まないではいられない至上命令が、各自の良心となって、各人の行動をリードしたのである。
「我が良心に生きる」「わが心に生きるのが無上の満足」というのが、明治維新をつくった志士たちの心であった。それ故に、我が身を歴史の非情の前にさらすこともできたし、また、お互に非情でもあり得たのである。

   小楠、竜馬など次々と殺さる

 こうして、まず、松浦松洞が自刃した。松洞は松陰に私淑することによって画家から革命家に転進したものであるが、時代と自分に絶望して自ら、我が生命を断った。激情家の彼には、到底、新しい時代の訪れを待っていることはできなかったのであろう。文久二年のことである。松陰が死んで、二年あまり後のことである。
 晋作の奇兵隊の組織と平行して、部落民の組織をはかり、自らの力が封建の力をたちきろうとしていた吉田栄太郎が、池田屋の変で仆れたのが元治元年。
 栄太郎は松陰門下の高弟であり、晋作、玄瑞にまさるともおとらぬ俊秀であった。唯、門閥の強い幕府にあって、苗字も許されない程の下層の出身者として、多忙と貧困の中にあって、十分に学問が出来なかっただけである。
 ついで、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎が死んだ。そして、慶応三年、高杉晋作まで死んだ。彼等は、すべて、二十代の若者であった。その若い生命を、未来のある生命を、新しい時代、新しい平和のためにささげたのである。松陰のいったように、若い血で、明治の時代と平和を購ったのである。
 松陰が精魂をかたむけて、育てた若い生命は、明治という新しい時代のために、殆んど費やされたといっていい。その意味では、明治という時代は貴重な時代であり、また、その故に大事にされなければならない時代であった。
 日本の歴史で、このように、新しい時代をつくるために、新しい時代のために、自覚的に、沢山の血が流されたことはない。これまでの時代転換は、せいぜい、個人の私意、私欲、集団の私意、私欲以上には出なかった。この頃、非常に喧伝されている豊臣秀吉にしても、徳川家康にしても、せいぜい、彼等の私意、私欲以上に出るものではなかった。そのことは、豊臣家が即ち天下、徳川家がそのまま天下であろうとした姿勢であきらかである。
 それに比して、明治時代は、天下の天下、みんなの天下を作ろうとした。そういう点で、すばらしいの一語につきる。その故は、松陰は死んだし、愛弟子の生命を捧げることを愛弟子にも求めることができたのである。
 薩長連合をやってのけて、事実上、討幕の勢力をつくるのに成功した坂本竜馬、中岡慎太郎も、新しい時代を目前にして、凶刃に仆れたし、新しい時代の指導に、生き残っていれば、その知識は大変役にたったと思われる佐久間象山も暗殺された。
 暗殺といえば、戊辰戦争を指導し、薩長軍に勝利をもたらした大村益次郎も、暗殺された。近代的軍隊を作ることに異常な執念を燃やした彼は、そのことによって、かえって、殺された。
 同じ年、横井小楠も、「天道覚明論」のために暗殺されている。彼は、そこで、共和思想を述べたのである。その小楠に、晋作がどんなに尊敬を払っていたかはすでに述べた。晋作は、小楠を明倫館の教授として迎えることを心から念じたし、それによってはじめて、日本の方向を定め得る人材識見が育つということを考えていた。
 だが、その小楠すらも暗殺された。
 竜馬は、暗殺とか切腹とかを極度にきらった。盟友である武市瑞山が、政敵である吉田東洋を暗殺することにも反対した。彼は、一時期の思想を以て、その人の思想ときめることに反対した。思想は退歩することはあるにしても、多くの場合、進歩するものだし、その故に変化するものであるという認識にたっていたからである。しかし、それほどまでに、人間を信頼し、人間を信頼しなくてならないと説いていた竜馬が、人間を信じない人達のために殺されたのである。
 まことに、歴史は非情である。

   歴史の皮肉と明治の悲劇はじまる

 松陰は、「新しい時代の創造の時にあたって、わが良心に従って断乎として行動する人は、途中で仆れる」といったが、そのように、多くの人達は途中で仆れた。仆れるということは、現政府との闘いに敗れるということである。敗北は、情況分析の誤まりの場合もあろうし、彼我の勢力を誤認した場合もあろう。しかし、敗北は厳しい事実となって、敗北を導いた指導者、責任者を抹殺した。敗北の責任をとるまでもなく、敵によって、いやおうなく、その責任をとらされた。戦死という責任を!
 そういう点で、明治維新の時における体制側と反体制側との対決は血みどろであった。弁解もなかった。弁解が通じなかった。だから、後につづく人達は、同じ誤謬を犯すことはなかったし、同じ誤謬をくりかえそうにも、くりかえすことはできなかった。
 そこには、常に前進があったし、前進を強制された。歴史は非情であったが、非情の故に、誤謬を二度くりかえすこともなく、新しい時代、新しい平和を招来したのである。
 人間の血を流させるという非情はあえてしたが、同じ血を二度流させるという愚はなかった。
 指導者は次々と仆れ、仆れた後から次々と出現して、交代していった。それは激流にも似て、とどまるところがなかった。始めは、試行錯誤を犯していたが、それは、いつのまにか少なくなり、ついには試行錯誤を犯すこともなくなり、明治という新しい時代を生みだした。
 だが、明治という時代は出発したばかりで、そこには、より多くの試行錯誤を必要としたし、試行錯誤のできない老朽化した頭脳は、その指導者の位置から退く必要があった。
 しかし、明治の指導者は、失敗しても、維新の時と違って、死による責任をとることはなかったし、かえって、その地位をおびやかす人達に対して、その地位をかためていきさえした。法的に、或いは制度的に。
 そこに、明治時代の悲劇が胚胎するといってもいい。はじめは、試行錯誤を勇敢にくりかえしていたのであるが、いつか、それはなくなり、自らの地位の保全に汲々とするようになってきたのである。
 松陰がいった、「創業の時の功臣は、本来、不忠不義の臣である」ということは、明治維新の功臣には、あてはまらないであろうが、いつとなく、明治維新の功臣は、松陰がいう功業だけを云々し、功業だけを笠に着る輩に堕していった。
 そういう連中が、多数生き残り、その功業に、貪欲に密集してきた。その反対に、我が良心に忠実に生きぬく人達、新しい時代、新しい平和を絶えず真剣に追い求める姿勢と能力を身につけた人達は、維新にあたって、死んでしまった。
 松陰は勿論、橋本左内もまた、常に、模索をつづける人であった。これでよいといって、途中で、思考を中断させる人ではなかった。常に、根本にたちかえって、疑問をなげかける人であった。
 晋作にしても、日本の政治制度をいかにすべきかと検討をつづけていたし、玄瑞の夢は藩をこえたところにあった。玄瑞が生きていたら、藩閥のバッコをあんなにはびこらせなかっただろうと考えることほど無意味はないが、ついそれを考えたくなる。
 同じ、下層武士の出身といっても、伊藤博文が、維新の時、従五位守越智宿弥博文と名のる無神経さ、そして、下級役人が十円内外の月給をとったとき、自分は千円二千円をとってけろりとしている博文に対して、同年輩の吉田栄太郎は、部落民を組識し、自らの力で、封建の桎梏を断ちきらせようとする。
 二人のめのつけどころは、全く違っているといわなくてはならない。
 彼等の師松陰は、自分の立場、自分の位置を考えぬくことを教え、自分だけ、自分の出身階級から脱け出すことを何よりも警めていた筈である。その栄太郎が死んで、博文が生き残り、栄華を究めたということはいうまでもない。
 民権の闘士竜馬がなくなって、オポチュニストの後藤象二郎が生き残り、時の勢力が強い方へ、常に転進する板垣退助が、自由民権をふりかざしたということも、明治の悲劇というしかない。
 人間を愛し、人間を信じた竜馬、それを邪魔する者はあくまで、人間の頭脳で対決しようとした竜馬が死んで、反対者を殺すことをなんとも思わない退助が生き残って、自由民権を叫んだということは、全く皮肉である。
 愚ということを承知して、もし、竜馬が生きていたらと思わないではいられない。というのは、明治時代が、新しい時代、新しい平和という松陰、晋作、玄瑞、竜馬、慎太郎の期待と違って、あまりにもお粗末すぎるからである。
 彼等が、喜んで流した血の代償としては、明治の内容は、あまりにも、貧弱とすれば、彼等は、あの世で、安んじて眠っていることはできまい。それが、歴史の先達の感情というものである。
 彼等は、その行動を通じて、その文書を通じて、新しい時代、新しい平和を模索し、その実現のために、断々乎として行動することを呼びかける。訴えつづける。そして、歴史の形成に参加する者には、その声が強く、時に激しくきこえてくるのである。

   われわれもこの姿勢で

 私は、その人達の声にまじって、大東亜戦争でなくなった人達の声がきこえてくる。アジアに対する米、英、仏、オランダの侵略を排除するという性格と、アジアに対する新しい侵略という性格の二面性をもって闘った大東亜戦争、そして、その戦いで死んだ人達の声が生々しくきこえてくる。
 自分達の死をむだ死ににしてくれるなという声がきこえてくる。まして、大東亜戦争を全面的に信じて、アジア解放の戦いとして、若い生命を捧げた、そして、尊い血を涙した人達の声が、鬼気を以て迫ってくる。救われるようでいて、決して救われない立場にある者の声としてきこえてくる。
 その声をきくことはつらい。生き残った者には、その誤りを認めて、やり直すことができても、死んだ者には、唯一回の人生しかなかった。その誤りを、あらためることはできないのである。その故に、彼等の痛苦は、なんにもまして鋭い。
 その痛苦を少しでも少くする道は、生き残った私達が、新しい時代、新しい平和をといいつづけつつ、その実現にむかって行動することである。
 明治百年か、戦後二十年かと問うことほど愚なものはない。明治には、多くの志士たちの血が流され、強い期待のもとに、新しい時代が開かれた。その時代が好しくなければならないとすれば、私達は一段と、彼等の期待にこたえるように、その時代を作りかえなくてはならない。
 大東亜戦争もまた、彼等の純な魂が一すじに信じ、そして、そのために死んだように、空想としての大東亜戦争を事実としての東亜解放に変えなくてはならない。そうしなければ、ともに、彼等の魂は、やすまることはないであろう。
 更めて、歴史は非情なものと思う。しかし、その非情に直面し、あくまで、その非情にむきあって生きるしかない。それが人間の運命でもある。そして、その非情を克服してゆけるのも、この姿勢にしかないように思う。

 

                 <幕末志士交友録 目次>

                 <雑誌掲載文2 目次> 

 

教育の底流 福沢諭吉 (1)慶応義塾ができるまで

 

 福沢諭吉といえば、すぐに慶応義塾を思いおこすほど、諭吉と義塾の関係は深い。その義塾は、百年後の今、果たして創立期の理想を今なお生き生きと伝えているかというと、大隈重信の早稲田大学とともに非常に疑問だが、学校としては一応、隆盛にあるといっていい。そしてその基礎は、なんといっても諭吉がつくったものである。そういう意味で、諭吉の名は、教育というものがあるかぎり、忘れることはできない。

   (一)

 その諭吉は、吉田松陰におくれること五年、天保五年(1834)十二月十二日、大阪にある中津藩の蔵屋敷で生まれた。父は百助といって、中津藩の下級士族。
 門閥制度のきびしい封建制下で、百助は、諭吉を坊主にしてその志をとげさせようと考えたほどであったが、その百助は、そう考えただけで、諭吉の三歳の時に病没した。一説には、自殺したともいう。結局、封建制度のもとで、漢学者でありながら漢学者としての才能を伸ばすこともできないままに、空しく、不平のうちに世を去ったのである。その時、わずかに四十五歳であった。
 諭吉の母は、その時三十三歳、十一歳の少年を頭に五人の子持ちであったが、主人を亡くしたので、子どもたちを連れて九州の中津に帰った。しかし、中津に帰ったものの、長く大阪に住んで、大阪風になれている。ことばに始まって、髪かたち、着物までが違う。自然、家にひっこんで兄弟どうしで遊ぶという習慣がついた。
 そこから、諭吉の考える姿勢が身についたということもいえるようである。それに、父の死は、だんだんと成長する諭吉にとって、深い思索をもたらすことにもなった。私塾に通うようになると、上級士族の子と下級士族の子が対立するのを、いやでも見るようになる。しかも、能力がありながら、下級士族の子は常に負けるようにしむけられる。
 諭吉にとっては、がまんならないことであるが、どうにもならない。しかも、その幣を打ち破ることは、ほとんど不可能に近い。とすれば、諭吉にできることは、中津藩から逃げていくしかなかった。中津藩よりも、少しましなところに移っていくしかなかった。
 それは、いつのまにか諭吉の生きる姿勢となっていった。政治から逃げた姿勢ともいえるが、それは、諭吉にはどうにもならなかったのである。

   (二)

 二十一歳の時、諭吉は長崎に出かけることになった。安政元年のことである。ちょうどアメリカの軍艦が浦賀に来たことから、砲台建設や砲術修業の必要が叫ばれ、それに刺激されて、諭吉は長崎に行ってオランダ語を学ぶことになった。彼としては、何の理由でもよい、郷里中津から逃げ出したいということがあったところへ、兄からすすめられて、オランダ語を学ぶことになったのである。わたりに船と、それを利用したにすぎない。
 というのは、中津藩では原書はおろか、横文字を見たことがないという有様であった。だから、兄にオランダ語を学ぶことをすすめられた時、オランダ語とは何ですかと問うほどであったのである。しかし、「人の読むものは読めないこともなかろう」ということで、学ぶことにしたのである。
 長崎では、働きながら学ぶという状態だったが、たまたま長崎に来て学んでいた家老の息子からねたまれて、とうとう呼び帰されることになった。家老の息子にとっては、諭吉のいることが、論吉の勉強がどんどんすすむのが、気に入らなかったのである。彼にしてみれば、がまんならないことである。そこで、中津に帰らず、長崎からそのまま、江戸に出ていくことにした。
 しかし、大阪までやって来た諭吉を、そのまま江戸にやることはできないと、当時、大阪にある中津藩の蔵屋敷につとめていた兄がいいだした。
「おかあさんに申しわけない」というのである。そこでやむなく、諭吉は、大阪でオランダ語の先生をさがして、学ぶことになった。
 その先生が、緒方洪庵である。

   (三)

 しかし、運の悪いことには、安政三年春になると兄がリュウマチにかかった。そればかりか、諭吉までチブスにかかって、死線をさまよう有様であった。諭吉がチブスにかかったのは、チブスをわずらった友人を看病したためである。それやこれやがあって、諭吉は兄といっしょに、病後の身体を中津で養生することになった。
 だが、諭吉には、元気になってみれば、もはや一刻も中津にじっとしていることはできない。さっそく大阪に出て、緒方塾に入塾した。ところが、緒方塾の生活が一か月もたたないのに、こんどは兄が死んだという通知である。
 とるものもとりあえず、さっそく中津に帰った。そして、福沢家を継いだ。当然、そこにはつとめが待っている。といって、諭吉には、やりかけているオランダ語を中途でやめることはできない。だが、親類中ひとりとして、オランダ語を学ぶことに賛成するものはいない。頭ごなしに、しかるだけである。要するに、西洋が大きらいなのである。そうなると諭吉としては、だまる以外にない。
 諭吉は、ひそかに、母にその気持ちを伝えた。諭吉ほどの母である。さっそく、諭吉の申し出でをうけ入れたばかりか彼を激励した。
「生死のことは、いっさい、いうことはない。死ぬるものはどこにいても死ぬる。おまえは、どこへでも行くがよい」という。母親が承知すれば、親類も、もう反対できない。砲術修業という名目で藩政府の許可をとり、三たび、緒方洪庵に学ぶことになる。
 緒方塾での諭吉の進歩が非常なものであったことは、いうまでもない。それこそ、文字どおり刻苦勉励した。年齢も、二十三歳、二十四歳、二十五歳の時であったから、学問する喜びを本当に知ることもできた。そうなれば、進歩も自然に早い。
 二十五歳の時、江戸の中津藩から、彼に出てこいといって来た。オランダ塾を開くというのである。諭吉はとうとう、学者として仕える身分になったのである。学者でありながら学者として仕えることのなかった父に対して、諭吉は学者として仕えることができたのである。
 それというのも、時代が動いていたためである。

   (四)

 だが、諭吉は、横浜に行ってみて驚いた。オランダ語が全く通用しないのである。もう、オランダ語の時代でなくて、英語の時代であるとみた諭吉は、さっそく、英語を学び始めた。おそらくそれは、今と違ってたいへんなことであったろうが、彼には、その困難も物の数ではなかったのである。

   (五)

 江戸に来た翌年に、諭吉は、徳川幕府がアメリカに軍艦をやるということを聞くと、なんとしても、アメリカに行ってみたいと考え、つてを求めて頼みこんだ。初めて太平洋を渡るというので、本当は生命がけ、生きて帰れるかどうかわからない。それを、自分から行きたいというので、簡単に許可がおりた。
 このアメリカ行きが、諭吉の知見を非常に広めた。見るもの、聞くもの、すべて驚くことばかりである。この時の諭吉は、それこそ、なんでもとことんまで見てやろうと、歩き回るのであった。現在、作家小田実氏の著書に「なんでも見てやろう」というのがあるが、諭吉は、そのはしりであったということがいえる。
 これが縁となって、諭吉は幕府につとめるようになる。そして、文久元年にも、ヨーロッパ各国に使節を送った時、こんどは、翻訳方となってついていくし、慶応三年にもアメリカに行く。
 諭吉にとって、これほど幸いしたことはない。「なんでも見てやろう」の精神が、ここで大きな実を結ぶのである。

   (六)

 諭吉は、生涯、官に仕えることもなく、慶応義塾の教師としてその一生を終わるのであるが、そこには、彼の判断が誤っていたということが上げられる。思想家諭吉は、その誤った判断の手前、その判断に殉じたということもいえるし、その判断が誤ったからこそ、明治政府に仕えることもなく、偉大な思想家、ユニークな教育者の道を歩んだともいえる。その点では、諭吉の判断が誤っていたほうがよかったともいえよう。
 誤りとは、
 薩摩や長州は、幕府よりもいっそうはなはだしい、狂心的な鎖国論者で、彼らが天下をとれば、すぐさま国を亡ほすだろうと考えたことである。後になって、諭吉は「その判断が誤っていた。彼らは非常に開明的であった」と述べているのであるが、維新当時は、全く信用していなかった。
 もちろん、諭吉は、幕府につとめて、幕府の書物を利用できることを喜んだが、幕府の門閥制度はがまんできない。父はそのために死んだし、自分にとっても、門閥制度はかたきだと思った。
「徳川御三家とか親藩の家来に対して、普通の大名の家来はうじ虫のようなものである」とも書いているし、「こんな悪政府は世界中にもない」とまで、いいきっている。「大老井伊直弼は開国論を唱え、開国主義の人というが、とんでもないことで、全くの瑛攘夷家、ただ、外交の衝にあたって、外国から強制されて、しかたなく開港したまでで、正味は完全な攘夷家だ」というのである。「その攘夷家井伊が、攘夷家の人たちを安政の大獄で殺したのは、政治を論ずるなんてけしからんというにすぎない」ともいう。
 大老井伊も、論吉の目をごまかすことはできない。そして長州、薩摩は、その幕府よりも、いっそう悪いとみたのである。
 だから、明治政府から出仕するようにといって来たとき、「病気だから出られません」と断っている。
 同僚の神田孝平が、ぜひ、出仕しろとすすめに来たとき、
「いったい、君はどう思うか。男子の出処進退は、銘々の好むとおりにしたほうがよいのではないか。世間一般もそうありたいものだ。僕の目からみると、君が新政府に出たのは、君が平生好むところを実行しているのだから僕は賛成する。けれども、僕はきらいだ。きらいであるから出ないというのも、また、自分の好むところを実行しているのだから、君の出ているのと同じではないか。私の態度をほめてくれてもいいものだが」と答えている。
 諭吉には、古風いってんばりの長州、薩摩には、期待どころか、全然信用できなかったのである。現に、明治の初めにイギリスの王子が日本に来たとき、宮城にはいるとき二重橋の上で、潔身をすることを求めている。夷狄の人は不浄であるというのである。
 だからこそ、諭吉は、徹底的に儒教をにくみ、古学を攻撃したのである。そして、それと戦うためには、洋学を慶応義塾で、後進の人たちに教える以外にないと思ったのである。生命のあらんかぎり、著書、翻訳する以外にないと考えたのである。しかも、政府の一員として、政府の立場に立ってやるのでなく、どこまでも民衆の一員として、民衆の立場からなすことが必要であると考えたのである。
 それこそ、明治の時代を啓蒙の時代と、諭吉はみたのである。

 

                    <雑誌掲載文2 目次>

 

「龍馬のパトロン」

 

 龍馬は稀代の艶福家であったと思われている。例えば千葉周作の娘光子と激しいロマンスがあったかのように、小説で書かれ、以来、そういう事実があったかの如く、いつか信じられるというぐあいに。
 だから、龍馬のパトロンという場合にも、当然、何人かの女性を彼のパトロンと想定したがるかもしれない。だが、姉の乙女とか、寺田屋のおかみは、彼のパトロン的存在であったことに間違いないが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』に描くような“お田鶴”的女性はいなかった。モデルはいたにせよ、パトロン的存在ではなかった。龍馬という男は、一般に思われているのと違って、意外に、女性に誠実で忠実な男であったということがいえる。だから、パトロン的女性について書くことはできない。残念だが、それもしかたあるまい。

   勝海舟に惚れる

 龍馬のパトロンといえば、なんといってもまず勝海舟をあげなくてはなるまい。海舟といえば当時の幕臣で、幕府を背負ってたつ男。御承知のように、攘夷論者の彼が開国論者の海舟をある日訪問したのである。彼は、自分の眼でたしかめることなく、風評に従って人を評価できない人間であったから、海舟が風評のように、その開国論が奸物のそれを出ないようなら、斬ろうとも思っていた。
 だが、龍馬は、海舟の説く意見にまったく魅せられてしまった。海舟が語る世界の大勢も、日本の後進性もいたいほどによくわかった。斬りにきたことを忘れて、その場で海舟の門下生になったのである。こうして、龍馬は、海舟から、海外の知識を吸収すると共に、新しい世界の動き、その中での日本の在り方について考えたし、海舟を通じて、大久保一翁とか横井小楠という当時の一流人物にも接していった。
 自分を斬りにきた青年をすぐに弟子にする海舟も海舟である。海舟はそういう男を愛し、そういう男に期待した。であるから、彼は、龍馬のパトロンにもなったのである。魂と魂とのふれあい、魂と魂との共感、それがパトロンをつかみ、またパトロンになる要素でもある。龍馬と海舟の関係がそれである。斬る者と斬られる者との関係の中で、全精神と全知能が極限にまで昂揚され、その中で、二つの知能と精神がお互いに感応し、認めあったということができるのかもしれない。
 死線の中で認めあったといってもいい。それこそ、人間のすべてを認め、信じ、理解しあったのである。それほどに、深い結合はない。こうなると、自然、パトロンといっても、生命を賭けてのパトロンである。パトロンされるものも、その期待に生命を賭してこたえようとする。
 当時、姉乙女に龍馬は次のような手紙を書いている。
「今は日本第一の人物勝麟太郎という人の弟子となり、日々、かねてやりたいと思っていたことを一生懸命学んでいます」
「この頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことの外可愛がられて、客分のようになっています。近く兵庫という所に、海軍を教える所をこしらえ、また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子も四、五百人も地方から集まっています」と。龍馬の海舟へのうちこみようの激しさと深さがよくあらわれている。
 これからの龍馬は、その手紙にもあるように、兵庫に海軍操練所をつくるべく、海舟の片腕となって働く。当時、海舟が書いたものの中に、「神戸の地に海軍局を設けて、船舶の実地運転に従わせて、遠く上海、天津、朝鮮地方に航海し、その地理を実際に見、人のようすを理解させようと企てている。幸いに土佐の人坂本龍馬氏が私の塾に入り、この挙をよしとしている」というのがある。海舟もまた、自分の志を生かす人間として、龍馬を深く認めていたことがよくわかる。
 こうして、龍馬と海舟の相互信頼と相互期待はいよいよ深まっていく。とくに、海舟のパトロン的性格が最も鋭い形であらわれるのは、龍馬が土佐藩から呼びもどされる命令をうけたときである。というのは、龍馬と意志の通じていた土佐勤王党の武市瑞山やその他の同志が、情況の変化の中で、下獄あるいは切腹になった直後に、その命令をうけとったことから、龍馬が帰国すれば、当然下獄か、それに近い処分である。海舟はその龍馬をかばったのである。もちろん、海舟がかばったのは龍馬一人でなかったが、それが原因の一つとなって、彼は海軍奉行のポストを失うことになる。
 しかも、彼は、その職を失って、ただの百俵取りの幕臣の地位にかえり、龍馬たちを保護できないと知るや、直に、龍馬たちを薩摩藩家老の小松帯刀に頼むのである。そのパトロンぶりは全く徹底していたというしかない。

   精神的支援者小龍

 この時、龍馬とともに薩摩にいったのが、千屋寅之助、望月亀弥太、新宮馬之助、安岡金馬、高松太郎たち。彼等を海舟門下にいれたのが龍馬である。
 彼等のうちの多くは河田小龍に指導され、後に、河田から龍馬に紹介されて、海舟の門下生になった人たちである。それというのも、河田は画家ではあったが、同時に警世家でもあり、そういうことから、龍馬と意気投合した。ことに、河田の
「私が思うに、攘夷ということは出来ない相談だ。だからといって、開国するのだから攘夷の備えは要らないということにはならない。だが、これまでの軍備では役に立つまい。殊に海上の備えは全く駄目である。……現在、諸藩で用いている軍船など、児戯のたぐいで、外国の航海に熟した大艦を相手にすることなど、とうてい出来ない。しかも、今後続々と外船はやってくる。このままでは、何時かは、外人のためにルソンのようになってしまわないとも限らない。今後、どうあっても一隻の外船を買い入れて、志を同じくする者を集めて、その船に乗せ、東西に往来する旅人や荷物を運搬することで、費用を賄いながら、航海術修得をやってゆきたい。これが私の日夜の願いである」
 という言葉をきいた時、龍馬は真底から感動した。その日は「貴方の志はきっとなるにちがいありません」と言って辞去した龍馬であったが、数日すると、また河田のところにやってきて、「御意見には、大いに賛成ですが、志を同じくする者といっても、それを集めることはなかなかむずかしいと思いますが」ときりだした。
 すると、河田から、「それは君のいう通りだが、それほど心配することもあるまい。たしかに、従来飽食暖衣しているような上士階級の連中には望むべくもないが、下層人民の中には、何かをなさんとする志に燃えながら、資力のないために手を拱いて慨歎している連中が結構沢山いるものだ。それを養成したらよかろう」という声が返ってきた。
 このために、河田は青年を集めて教育することをひきうけ、龍馬は船を手に入れることを深く誓いあったのである。その約束に従って、河田は青年を集めて教育をしたのである。しかも、彼のいうように、すべて、これらの青年は町人の子であり、医者の子であり、百姓の子であった。
 金では決して購入できない青年を次々に見出して、龍馬のもとに送りこんだ河田という人物は、海舟以上のパトロンであったともいえる。ことに、この青年たちが、龍馬の片腕となり、後に、龍馬のひきいた海援隊の中心となって大活躍したことを思えば、龍馬の最も強力なパトロンであったともいえよう。しかも河田と龍馬が面談したのは、前後二、三回にすぎなかったらしい。こうなると、パトロンするものとされるものとの関係が成立するのは、必ずしも、長い時間、長い交際を必要とはしないらしい。
 二人の求めるもの、求める方向が、鋭く一致するか否かにありそうである。いずれにせよ、龍馬は、すばらしいパトロンを海舟以前に掴んでいたということになる。

   活動資金の出資者

 薩摩藩家老小松帯刀と一緒に藩船胡蝶九に乗って鹿児島に到着した龍馬は、十日ほど滞在しただけで、長崎にいく小松にしたがった。彼は、当時、海外貿易の中心地である長崎に眼をつけ、ここに本拠をかまえて、通商貿易をやりながら、航海の知識や技術を修得し、一朝事ある時にそなえようとしたのである。こうして生まれたのが亀山社中である。これを資金的に援助したのが小松であり、同志として、その社中に参加したものは、河田の送った青年たちであることはいうまでもない。龍馬自身は、海舟直伝の海外の知識や航海術をもって、その中核にどっかと坐ったのである。
 当時、姉乙女に送った手紙に、
「最近、二十人ばかりの同志をひきつれ、長崎の方に出て稽古を致しております。……いざという時には、多勢を引きつれて、一時に旗あげしようと、今は京都にいますが、五、六日のうちに、また西にいくつもりです。まったく土佐のような、何の志も持てないような所で、ぐずぐず暮しているのは実に大馬鹿者です」と書いている。此の頃の龍馬は、海舟・河田・小松などの指導と協力の下に、のびのびとしかも精一杯に生き生きと生活しているのである。
 帆船ワイル・ウエフ号を購入したのも、薩摩藩の援助によるものであった。しかし、薩摩の小松も龍馬を後援することで、藩のための物資輸送という便を得ている。こうなると、小松と龍馬の関係は、初め龍馬のパトロンにすぎなかった小松も、後には、小松自身が龍馬をパトロン的位置におしあげることになる。もちつもたれつの関係である。運命共同体的な性格をもつようになったということもいえる。
 龍馬は、小松を通して、西郷隆盛、大久保利通を知り、深く、薩摩藩全体の中にくいこんでいく。薩摩藩の存在にまで深くかかわるようになる。
 こうして、これまでパトロンといえば、龍馬自身のパトロンであったのが、次第に、龍馬そのものがパトロン的性格をおび、パトロンそのものに変質していくのである。その最もよい例は、長州藩のために、イギリス商社を紹介し、幕府の監視がきびしいために、長州藩で武器購入が出来ないと知るや、薩摩名義で購入してやるということをやってのけている。龍馬はこの時はもう完全に、長州藩全体のパトロン的位置についているのである。
 薩長連合という大問題を、龍馬がなしとげることができたのも、彼が、薩摩にとって、パトロンされると同時にパトロンする位置にあったこと、長州にとっては、完全にパトロン的位置にあったという事実があったればこそである。しかも、龍馬の薩摩、長州へのくいこみ方は、これだけにとどまらず、戦いとなれば、自分の船に乗って戦争に参加するというほどの意気込みである。そうなると、いやでもおうでも、龍馬のパトロン的位置は強固になるはずである。
 かつて、自分の職をかけて、海舟にパトロンしてもらった龍馬が、今度は、自分自身の存在をかけて、長州藩、薩摩藩のパトロンになるのである。わずか二、三年後のことである。龍馬のすばらしい成長をしめすものであるといえよう。誰かをパトロンするというのでなく、藩全体をパトロンしようとするのである。そのスケールは、非常に大きいということになる。

   宿敵後藤と結ぶ

 だが、そういう龍馬も、今度は彼をふくめて、仲間たち全部がパトロンされるという運命におかれる。それはワイル・ウエフ号が沈没し、ユニオン号がいなくなると、独立自営が困難になったときである。それというのも、この頃は、薩摩の援助の手を離れて、自立していたから、一層こまったのである。その時、協力を申し出たのが、土佐藩の後藤象二郎である。
 後藤といえば、叔父吉田東洋を龍馬達の仲間に暗殺された男、龍馬からみれば、盟友武市瑞山その他を殺した男ということになる。その後藤から、龍馬は招待をうけたのである。龍馬にしてみれば、複雑な気持ちである。仲間たちは、後藤を、武市のかたきと暗殺しかねないくらいの雰囲気である。だが龍馬としては、主義主張が異るという理由だけで、招待をことわるような男ではない。それに、招待をことわる理由もみつからない。となると、ゆくしかない。龍馬はノコノコと出掛けた。
 だが、会ってみて龍馬は驚いた。後藤が土佐藩中屈指の人物であることを認めないではいられなかった。土佐藩の傑物といわれる福岡藤次、佐々木三四郎、中岡慎太郎も後藤には劣ると思われた。そう考えると、龍馬は後藤にほれこんだ。初対面の間柄でありながら別れる時には、旧知の如き間柄を感じた。後藤としても、土佐藩の貿易拡張に利用しようとして、彼を招いたのだから、文句はない。こうして、二人の間柄は、この日をきっかけにして、深く結びあった。二人の交渉は深くなり、それを背景にして、これまで亀山社中といわれていたものが、土佐藩後援の海援隊として脱皮するのである。
 海援隊規約の冒頭には、「およそ、本藩を脱する者、および他藩を脱する者で、海外に志ある者は皆この隊に入る」と書いている。土佐藩が、脱藩志士を公然とみとめ、公然と援助するようになったのである。そこには、時勢の動きを見通した後藤の識見と力量があったればこそ、出来た芸当である。隊の事業は土佐藩が応援するが、費用は基本的には独立採算制をとり、不足の場合にかぎって、土佐藩長崎出張官から支給されるということになった。
 龍馬は、後藤をパトロンとしてつかむことにより、財政的確立をつかみ、その抱負を積極的に実現していくことにとりかかる。だから、彼は海援隊を以て、単なる商船隊、海戦隊と考えず、むしろ、これを学問所と見立てて、積極的に青年を教育しようとするのである。彼の夢は、後藤の援助の下に、はてしなくふくらんだということが出来る。
 龍馬と後藤が結んだということで、とかくの批判がおこり、姉乙女もそれを心配して手紙をよこしたが、それに対して、彼は答えている。「私一人で、五百人や七百人の人をひきいて天下のために尽すよりは、二十四万石を引きつれて天下国家のためにつくす方が、はるかによろしい」と。
 その言葉通りに、龍馬はパトロン後藤を通じて、土佐藩を動かし、その力を背景にして、幕府権力を平和的に仆すという、彼の最大の仕事をやってのけるのである。
 幕府権力を平和的に仆すということは、いかに龍馬たち浪人の力が強くても不可能であろうが、強ければ強いだけ武力討伐しかなかったが、土佐藩の力を背景にしたときは出来たのである。徳川幕府に近い土佐藩が幕府を見限る、ということは決定的な意味ををもつからである。龍馬は、幕府権力を平和的に仆すということに、その生命をかけた。
 だから、彼は、後藤にも、それを要求したのである。この時は、パトロン後藤の位置は後退し、龍馬にパトロンされる後藤という形である。
 後藤は、龍馬の思想と力を背景に、藩主を説き、藩論を龍馬の求める方向にひきずっていった。
 しかし、難関中の難関は、将軍慶喜に幕府権力をなげだすように決心させることである。将軍慶喜を支える勢力の強い中で、いかにして説得するか。そこには、後藤が諫死の覚悟をきめて、将軍を説く以外にないと龍馬は考えた。
 龍馬は二条城に出かける直前の後藤に手紙をかいた。この日、将軍は、最後の決をとるために、主だった人たちの意見をきくことになっていたからである。
「大政奉還のこと、万一行なわれない時は、必死の覚悟の貴君のこと故、御下城はなさるまい。その時には、僕海援隊をひきい、慶喜の帰りを待伏せるつもり。……もし、貴君の失策のために、大政奉還のことが失敗するなら、その罪は天地にいれられないところだ」
 龍馬は自らも死を覚悟するとともに、後藤にもその覚悟を求めたのである。いざという時に、慶喜と刺し違えて死ねと書き送ったのである。
 後藤から返事がきた。
「もし、今度のことが行なわれない時には、もちろん生きて帰るつもりはない。しかし、情況によっては、挙兵のことを考えて下城するかもしれぬが、多分生命を賭して廷論するつもり。もし、僕が死んだら、海援隊をひきいて、直接行動に移るといわれるが、これは、君の臨機の処置にまかす」
 二人の悲壮な決意がみなぎっている。ここには、パトロンされるとか、パトロンするとかの関係はなく、二人が一丸となって、その目的に突入している姿しかない。まったく、昂揚されきった人生が、関係があるだけである。

   パトロンの条件

 以上、龍馬とパトロン関係にあった勝海舟、河田小龍、小松帯刀、後藤象二郎について、彼との関係を略述してきたが、彼等に共通するものは、卓越した見識があり、彼等自身、莫大な富はなくても富を動かしうる存在であったということである。今一つ、共通しているものは胆力であり、実行力である。
 パトロンである以上、徹底的に、相手の面倒をみなくてはならない。とんでもない不始末をしでかした時でも、その後始末を笑ってつけてやるくらいでなくては、パトロンにはなれない。
 こう考えると、誰でもパトロンになれるとはかぎらない。パトロンになれるということは、非常に出色の人物であるということになる。しかも、そのような出色の人物であっても、必ずしも、パトロンになれるとはかぎらない。パトロンの対象になる人物が、その周囲にいなくてはならない。いってみれば、パトロンしたくなる人物が、その周囲に集まるほどに、識見も富も胆力も実行力も卓越していなくてはならない。
 勝や河田、小松、後藤は、十分にそれをもっていた。だから、パトロンになることも出来たのである。
 反対に、パトロンされる人物もまた、卓越した人物であるということが、パトロンをつかむ第一条件である。龍馬のような人物だから、パトロンをつかめたともいえるのである。龍馬は、そのパトロンを通じて、最高に成長し、最大限の仕事をしたのである。パトロンを最も有効に生かしたといってもいい。
 パトロンとは、いいかえれば、師であり、同志であり、後援者である。後援者にすぎないパトロンとはつまらないものである。
 パトロンするものとパトロンされる者との関係は、両方が同時に与え、奪う関係でなくてはならない。その関係から、パトロンされた者は、近い将来、パトロンになりたくなる者である。龍馬がパトロンされる者から。パトロンする者に脱皮していったのも、全く当然のことである。

 

                <雑誌掲載文2 目次>

 

激動期に生きる <1> 親鸞」 

 

   絶望した親鸞

 親鸞が生まれたのは、1173年で、そのころは、平安時代の末期にあたり、三百年間つづいた公卿政治の内部矛盾が激化し、それの解決策としての武家政治が登場してくる前夜にあたっていた。そのために、古い政治勢力間の闘争、古い勢力と新しい勢力との間の闘争があいついでおこった。後三年の役、保元の乱、平治の乱などは、すべて、そういう性格をもった闘争であった。
 このような時代には、きまって、これまで通用し、時代への指導力をもっていた価値が没落し、かわって、新しい時代を指導できる価値と理念が模索され、創造されるものである。今ここに述べようとする親鸞も、文字通り、その新しい価値、新しい理念の模索者、創造者として、この時代に登場してきた者である。
 では、それまでの仏教思想がゆきづまり、新しい時代の人々を指導することができなくなったとはどういうことであろうか。そのことを書く前に、一つだけ、明らかにしておくことがある。それは、今日でこそ、仏教といえば、思想界の主流をしめるとは思われていない宗教、それも、宗教の中の一つにおしやられているが、その当時としては、思想といえば、仏教と神道であったということである。だから、仏教が非常に大きな比重をしめていたということであり、その仏教が時代への指導力を失ったというのだから、大問題である。
 親鸞が、既成の仏教をどうみたか。まず、その点から述べよう。彼は言う。
 「末法悪世のかなしみは、南都北嶺の仏法者の輿かく僧達、力者法師高位をもてなす名としたり。この世の本寺本山のいみじき僧ともうすも、法師ともうすも憂きことなり」と。要するに、当時、最高の権威があると評価されていた興福寺や延暦寺の坊主どもは、庶民の救済のことを全く眼中におかず、わがまま勝手にふるまい、僧侶になること自身、自分の地位や富を得る手段にし、たとえ、興福寺や延暦寺の身分高い僧侶と言われても、本当に心ある者には、この上なく、心苦しいことであるはずだと親鸞はいうのである。僧侶が僧本来の使命や目的を忘れて、みずからの栄華を求めて生きる姿に、彼はとことん絶望したのである。そういう仏教界(思想界)に、そういう仏教者(思想家)に、深い悲しみと強い怒りを感じたのである。初めは、父母の霊をとむらうというぐらいの軽い気持ちで、僧侶になった親鸞であるが、だんだんと思想的開眼をとげ、仏教界と仏教者の実態をみることによって、彼は、彼自身の道を、彼自身の世界を追求しないではいられなくなったのである。それほど深く絶望したともいえるのである。

   親鸞の学究生活

 その時代の思想界と思想家に絶望した親鸞はどうしたか。そうなると、自分自身で、信頼できる思想を価値を模索していく以外にない。生命を失い、形骸化している思想を、自分自身で直接再検討して、それに、自分で生命を注入する以外にはない。こうして、親鸞の激しい学究生活が始まる。思想の再検討を求めて、直接、仏教書に体当たりする生活が始まった。彼は手あたり次第に、広く深く、仏教書をむさぼり読んでいった。仏教についての知議を広め、深めるためでなく、人間とは何か、人生とは何か、世の中とは何か。その意味と価値を求めて苦しんだのである。自分が生き、自分が死ねる依り所となるような意見を求めて、仏教書を読みあさったのである。他人にも、真理とはこれだと確信をもって言いうるものを求めて若しんだのである。そういう生活は実に十数年にもおよぶ。
 その結果、親鸞が到達した世界というか、思想は、「五逆=君主・父・母・僧を殺すということ=と仏法をそしる者は、永久に救いがない」という、これまでの仏教界の定説をくつがえして、その二つの罪が重いということを特に知らせようとしたもので、どんな人でも、五逆や正法をそしった者も救われるという、新しい解釈をしたことである。彼が創始した真宗はこの思想をよりどころとするものである。
 親鸞にとっては、いろいろの欲望をもっている人間、その欲望があることによって人間であるということがいえる人間、それがそのまま救われるような教えでなければ、言いかえれば、人間が欲望のままに生きることを肯定するような教えでなければ、とうてい、だめということである。彼からみると、人間という者は、時に、君主や父母を殺さねばならないこともありうると考えられるのである。
 だから、親鸞の説くところは、欲望否定でなく、欲望肯定であった。それまで禁止されていた妻をめとるということも、あえてやってのけたのである。愛欲の肯定である。名利そのものも否定しなかった。ただ、ひとりだけの、一部の人たちだけの名利を肯定し、多数の人々の名利を否定するということがなかっただけである。そこに、親鸞の説くところが、多くの一般庶民にうけいれられた理由がある。

   親鸞の悲しみと怒り

 人間が、人間として生きるということ、そして、それまでの仏教が最もおそれていた愛欲すら肯定して生きるということを説いた親鸞、それを、みずから実践した親鸞である。彼にとって、思想とは、みずから実践するものであり、人のためにだけ説く思想というものはなかったということである。彼の偉大さといえるが、しかし、彼が妻をもち、子どもをもったということから、彼の苦悩は、悲しみと怒りは強まっていく。しかも、それは、親鸞の晩年に強くおこってくる。
 というのは、その子善鸞が、親鸞の教えとは全く異なって、権力者の庇護と協力の下に、呪術的要素のつよい教えを説いてまわり、東国の人々を悩ませたということである。初めは、親子の縁にひかされて、弟子の性心房たちをも疑うということまでする親鸞である。だが、結局、善鸞が過まっているということを知って、彼を義絶する。その時、親鸞は八十四歳である。
 善鸞にあてた義絶状には、「往生極楽の大事をまどわし、常陸、下野の念仏者を迷わし、親に虚言を申したること、心憂きことなり。第十八の本願をば、しぼめるは、まことに謗法の罪、又五逆の罪を好みて、人をまどわすこと、悲しきことなり。ことに、破僧の罪と申すは五逆の一なり。親鸞に虚言申しつけたるは、父を殺すなり。五逆の一なり。このことども伝え聞くこと、浅間しく申すかぎりなければ、今は、親と言うことあるべからず、子と思うこと思切りたり」と書き、
 弟子の性信房には、「今日以後、善鸞においては、子の義おもいきりて候なり。」と書きおくっている。
 年老いた親鸞には、堪えがたいことであったろう。だが、それ故に、彼はまた、彼を含めた一般庶民の生きる道、生きていかなくてはならぬ道はいかに厳しいかをより深く、知ったことであろう。彼が、「弟子一人を持たず候」と言いきったのも、そういう反省があればこそである。親鸞もそのあとについてくる多くの人たちも、すべて、仏の弟子であり、真理を求める人たちにすぎないというのである。そこには、少しの思いあがりもない。求め、学ばなくてはならない、一生涯追求してゆかずにはいられない姿勢と立場があるだけである。死の瞬間まで、求めつづけた親鸞があるだけである。
 「いかにもいかにも、学問して、仏教の本質を知るべきなり」とか「学問せば、いよいよ仏の真意を知り」と書いているのも、そのためである。

 

                 <雑誌掲載文2 目次>

 

激動期に生きる <2> 北條政子」

 

   政子の情熱

 平治の乱に敗れた源頼朝が、平清盛のために、伊豆の国に流されてきたのが、永暦元年(1160)の三月、彼が十四歳の時。
 頼朝は、流人とはいっても、この伊豆地方は、頼義・義家いらい、源氏に深い関係のあるところ。頼朝がその源氏の嫡男とあれば、自然、彼のもとを訪ねる武士も多かったに違いない。だから、頼朝には中小の土豪をひきいて、狩を楽しむ自由はあったであろうし、彼の存在は、その地方の豪族の娘たちのうわさになったばかりか、実際に、いくつかの恋もめばえたことが想像される。
 それを裏書きするように、頼朝が何歳の時かわからぬが、伊東祐親の娘との恋が実を結び、子どもまでもうけている。しかし、京都から帰って、このことを知った祐親は、激怒し、ふたりの仲を裂いて、娘を他の男に嫁がせた上に、その子どもを殺してしまうということをやってのけている。
 今ここに、述べようとする北条政子の場合も、初めは、それに似ている。というのは、政子と頼朝の恋を知った時、政子の父時政は、彼女を平家の一門である山木兼隆と結婚させようと、兼隆のもとに送りこんでいる。だが、政子は、祐親の娘のように、おとなしく、自分の運命を自分の幸福を父親にまかせてしまうような女性ではなかった。彼女は、どこまでも、自分自身の運命を自分自身の幸福を自分できりひらいていこうとする女性であった。だから、逃げる機会をねらっていた政子でもあったのである。
 こうして、政子は、ある暴風雨の夜に乗じて、兼隆の家をぬけだして、道に迷いながらも、遠く離れた頼朝のもとに走ったのである。頼朝への思慕と愛情が深かっただけでなく、彼女には、その思慕と愛情を貫く強さと行動力をもっていたのである。この情熱、この生命力は、古い公卿勢力に変わって、新しい支配層として台頭してきた武士勢力のそれでもあった。この時彼女は二十一歳であったという。
 政子は、激しい情熱、たくましい生命力の持ち主として、公卿政治に終止符をうち、新しい武家政治を創始した頼朝を、その内側からささえた。文字通り、政子は、頼朝といっしょに天下をとり、天下を征服し、新しい時代をひらいたのである。

   頼朝の運命

 政子が頼朝に走ったとき、その父北条時政の運命も、大きく狂った。それまで、平氏につかえ、平氏の一門に、娘政子を嫁がせて、北条一門の繁栄をはかってきた時政であったが、ここで、大きく決心することを迫られる。伊藤祐親が、その娘と頼朝の間をさいたのも、平氏からのおとがめを恐れたからである。そういう意味では、政子が選んだ道は、いやおうなく、時政を頼朝支持にふみきらせることになった。もちろん、そこには、時政が頼朝の心の中をみぬいて、頼朝を助けてみようという心にもなったということである。だが、それは、時政には、あくまで、賭にすぎなかった。しかし、そのために、頼朝は、強力な味方を得たのである。政子と頼朝の結婚には、こういう意味もふくまれていたのである。
 それから三年の後に、頼朝が、平清盛に叛旗をひるがえして、初めて、兵を挙げたときには、まず、山木兼隆を攻めている。政子の願いによるのか、頼朝自身の怒りと嫉妬によるのか、それはあきらかではないが、頼朝としても、自分の妻を自由にした兼隆の存在を許せなかったに違いない。政子としても、その思いは変わらなかったであろう。こうして、山木兼隆は、女のうらみで生命を落とす。
 この時、頼朝が三十四歳、政子は二十四歳、政子の父時政は四十三歳であった。
 だが、頼朝の前途はけわしかった。けわしいというよりも、生死の境をふみまようような生活であった。すなわち、山木兼隆を討ちとって喜んだのもつかの間、その一週間後には、約十倍の平家の軍勢と、石橋山に戦い、惨敗している。もちろん、死の寸前にまで追いこまれ、それから後の頼朝は、あちこちと、逃げてまわるだけである。
 この間、政子は、頼朝の身を案じて心配する一方、仏に祈ったりしている。そして、彼女が一応安心できるのは、頼朝が千葉常胤や上総広常の協力を得て、やっと勢力を集めたということをきいてからである。まもなく、政子は、鎌倉に住みついた頼朝といっしょに生活を始めた。ついで、富士川の戦いにおける勝利をきっかけに、京都に攻めのぼり、亡父の敵をうとうとする頼朝の心を抑えて、まず、東国武将の中心になるように、頼朝にすすめたのは政子である。
 政子には、京都に攻めいって、京都の官位をもらい、それによって、地方を治めるという時代は、もう去りつつあるように思われたのである。だいじなことは、武士の中に住んで、武士の心をしっかりととらえることであると想われたのである。それは、地方豪族の娘として生まれ、地方豪族の力と心を親しく見て育った政子の生活知のようなものであった。頼朝の運命は政子によって守られたと言える。

   女の悲しみ

 だが、こういう政子にも女として、妻としての悲しみや怒りはついてまわった。ことに、頼朝への愛も独占欲も人一倍激しかった政子のことである。頼朝の愛が自分以外の女性に向かっていると知った時の怒りも、それだけ深かったのかもしれない。
 政子が、長男頼家の出産のために、しばらく頼朝に遠ざかっている間に、頼朝は、“亀の前”という女性を愛した。“亀の前”という女性は、頼朝が政子と恋に落ちる前から、親しんでいた女性である。彼は、“亀の前”を鎌倉の近くに住む伏見広綱の家に移して寵愛した。それを知った政子は、牧宗親に命じて、広綱の家をこわし、“亀の前” に恥辱を与えたという。政子の激しさがよく出ている。
 頼朝は、牧宗親に重刑を科するとともに、いよいよ、“亀の前”を寵愛するようになった。だが、政子も黙ってはいない。今度は、政子が、広綱を遠江国に流してしまった。このあたりになると、罪もない者たちが、主人の感情のままに、みじめなめにあうということになる。が、要するに、政子の一徹さは、頼朝に少しもひけをとらない。であればこそ、頼朝にそむいて、あちこちに逃げまわっていた義経の恋人静が、頼朝の前で、義経を慕い、別離の歌をうたった時、彼を大変怒らせたが、政子は、断固として、静のために取りなしているのである。
 その時に、政子は、次のように言ったという。「あなたが流人として、伊豆にいたころは、私たちは深い仲にもかかわらず、父時政は、恐れて、私をおしこめた。しかし、私は、あなたを慕い、深い雨をしのいで、迷いながらも、あなたの所に逃げていった。また、石橋山の合戦の時は、私ひとり、伊豆山に残り、あなたの生存を案じて暮らした。その時の私の心配は、今の静の心のようなものである。今、義経を恋慕しないようなら、貞女ということはできない。むしろ、ごほうびをあげてほしい」と。
 おそらく、その時の政子の心は、ここにあらわれた以上の気持ちであったとも思われる。自分のことを思いだして、心から、静に同情したに違いない。そのことばの前には、さすがの頼朝も、政子に従うしかなかったのである。
 そればかりか、静の生んだ子どもを助けようといろいろ努力するのである。これは成功しなかったが、政子に、このほかにもいろいろの配慮を女性らしくしている。すなわち、源義仲が頼朝に送ってきた人質義高(義仲の長子)を義仲の死後、頼朝が殺したときに、「なにか助ける方法もあったろうに」と政子は嘆いている。このために、頼朝は、義高を殺した者を殺すということもしている。頼朝のきまぐれのために、生命を落とした者こそ、いい迷惑であるが、ここには、政子の女らしい配慮が感じられる。義仲の妹宮菊が殺されようとしたとき、彼女を救ったのも、政子である。
 このようにみてくると、政子は、女としての自分の悲しみに敢然と挑戦しただけでなく、頼朝のもとにあって、女らしい優しい心を最大限に発揮したということもできよう。気の強い女性という、一般の政子評はあるが、その強さの中に、こういう優しさがあったのである。

   母の悲しみ
 しかし、頼朝が死んだころより、政子は急速に不幸になり始める。四十三歳の女ざかりに、夫をなくしたのに加えて、同じ年に娘をなくしている。しかも、年わずか十八歳で、頼朝のあとをついだ頼家は、家来の妻を強引にねとるような男。それも、家来が不満らしいということになると、その家来を殺そうとするような暴君である。この暴挙に、多くの家来が動揺したのも無理はない。これには、母親政子の驚きも大きかった。
 まして、女性という者を意識し、女性の幸福を強く追求する政子のことである。やっと、その家来を殺すことだけは思いとどまらせたが、政子の絶望は深い。
 結局、頼家の行動がおさまらないままに、政子は、頼家を無理に剃髪させ、将軍職に、次男実朝をつけたのである。だが、実朝はわずかに十二歳である。実権は、自然に政子に集まるようになる。そこから、尼将軍の名前もでてくるのであるが、その翌年には、頼家をなくしている。
 そうなると、子ども四人のうち、三人まで、政子より早く死んだことになる。(長女大姫の死は、次女乙姫がなくなった二年前である)
 母親政子の悲劇は決定的と言える。しかもただひとり残った実朝まで、今度は、頼家の子すなわち孫のために殺されてしまうのである。その時、政子は六十三歳。頼朝がなくなってからちょうど二十年目に、彼女は、四人の子どもをすべて失うことになる。すべての子どもに先だたれるほど、母親として不幸なことはないが、彼女はその不幸に遭遇するのである。
 おそらく、頼朝とふたりしてつくった武家政治の中心権力の位置にあったために、招いた不幸であるということも言える。頼家・実朝が征夷大将軍の地位につかなければ、決しておこらなかった不幸であったのである。
“承久記”にも、この政子のことを、
「日本中の女性の中で、政子ほど、すばらしいものはないと思っていたが、よく考えてみると、政子ほどに、心寂しい者はいないのではないか」と書いている。六十三歳の老婆、政子のことを思うと、全くぴったりの批評である。
 だからとて、政子には、尼将軍の位置から逃げて、夫や子どもの冥福をひとすじに祈ることもできない。やはり、尼将軍として、頼朝が創始した武家政治をまもるために、次の将軍職を考え、その人を育てることに心をくだかねばならないのである。そういう生活が六十九歳でなくなるまで続くのである。それが、政子のせめてもの生きがいであったのかもしれないが。
 たしかに、政子という女性は、武士階級の台頭とともに、それに見合うようにたくましく生きた。女でありながら、その気持ちをゆがめ、抑えることもなく、伸び伸びと生きつづけた。しかも、戦いの中で、女らしい、やさしい心を精いっぱいに生かしたのである。それは、今日からみても、全く、全く、りっぱな生き方である。
 しかも、妻として、母としては、政子は、その喜びと悲しみの極限を味わいつくしているのである。その意味では、政子は、最も強く女を意議し、母を意識した人ということが言えよう。それが生きるということであるとするなら、政子は、最もよく女を生きたということが言えよう。 

 

                 <雑誌掲載文2 目次>

 

激動期に生きる <3> 千利休」

 

   時代の子

 千利休は大永二年(1522)、堺の納屋衆千与兵衛の子として生まれたと推定されている。茶道の確立者として、一世を風靡した千利休の死んだ時の年齢も明確ではなく、したがって生まれた年も明らかでない。それが、当時の一般町人の傾向でもある。
 しかし、いずれにしても、利休が生きた時代は、長い中世が終わり、近世がまさに明けようとする時に当たっていた。経済的には、堺がその富を背景に都市として成立し、商業と文化の中心として確立した時であり、政治的には、織田信長、豊臣秀吉が、戦国時代に終止符をうち、天下を統一する時であった。彼は、文字通り、そういう時代を生きぬいて町人としても、文化人としても、最高の位置にのぼりつめた人ということができる。そこに、政治的に、その頂点にのぼりつめた秀吉と彼との対立、それに伴う悲劇があったということができよう。
 秀吉は、天下を統一し、日本の支配者になるまでは、利休の能力を利用した。しかし、天下人となった秀吉には、自分と併存する人間の存在を、必要としなくなったばかりか、その存在を、許せなくなったのである。
 そうなれば、政治家秀吉に対抗した文化人利休は悲劇の道をたどるしかない。しかし、政治家に対抗する文化人というものが、この時代には考えることができたのである。そういう時代でもあったのである。そういう意味で、利休を時代の子と呼ぶにふさわしい。

   信長と利休

 利休が家督をついで、堺商人に伍して活動したのが十四、五歳のころ。彼は、家業に専念するかたわら、堺の文化的ふんい気に影響されて、茶の湯に深い関心をいだく。ついで道陳、紹鴎について、本格的に茶の湯を学びはじめる。紹鴎というのは、珠光、宗陳、宗悟とつづいた茶の湯を学んで、わび茶を確立した人である。

 利休が、初めて、茶の湯会記に名を出すのが十六歳の時、それ以後、彼の精進は著しかったとみえて、茶人としての名声は高揚したようである。ことに、年齢も三十歳となり、四十歳となるに及んで、茶境は著しく円熟し、その独創性と相まって、いよいよ、その存在は高くなったということができる。
 信長が、堺の町人の経済力を利用しようとして、今井宗久、津田宗及とともに、利休を側近く召したことにより、利休の茶人としての地位は決定的なものになった。というのは、信長に召されるまでの利休は堺の利休であったが、信長に召されることにより、一躍して天下の利休になる。
 といっても、宗久、宗及ともに茶人であり、ことに、宗久は武器製造業者として、信長と深く結びつき、宗及も石山本願寺対策で信長と深く結びついたから、しぜん、利休の地位は、宗久、宗及ほどに高くない。密接でない。しかし、それゆえに、信長と利休は、比較的純粋に、茶の湯で結ばれたともいえる。
 こうして、宗久、宗及につぐ位置にあったとはいえ、利休は、信長の茶頭として、その地位が高まるとともに、茶境、技量ともに、ますます円熟した。だが、天正十年(1582)信長が明智光秀に殺されたことにより、時代は大きく変わりはじめた。利休の世界もさらに大きく変わりはじめた。
 この時の利休は六十一歳。文化人としての、その才能、その識見が思う存分に、自由自在に伸びる時期になっていた。

   秀吉との出会い

 秀吉が茶の湯に関心を示すのは、信長の影響であるが、百姓出身の秀吉としても、その劣等感を克服するために、茶の湯にいっしょうけんめいになったらしい。
 だが、忍耐を要した中国征伐では、戦いのかたわら、茶の湯に親しみ、その心を鍛えたことにより、本気に茶の湯の魅力にひかれたのではなかろうか。だからといって、宗及、宗久、利休は信長の茶頭であり、秀吉は信長の一部将という関係から、信長の生存中は、秀吉はだれとも特に親しいということはなかった。
 だから、信長が死んだ年の十一月七日に、山崎で茶会を催した時も、宗久、宗及、利休、宗二の四茶人を迎えての茶会であった。そして、翌天正十一年一月にも、宗久、宗及、利休、宗二、宗安を迎えて、茶会を開いている。だがここには、秀吉が、政治面ばかりでなく、茶の湯の面でも、信長の後継者であることを天下に知らせたものとみられる。
 ことに、柴田勝家を倒して後の秀吉は、天下統一の自信と要求が強くおこってくる。これにつけこむように、茶人としての利休でなく、政治家的側面をもつ利休の一面が活発に活動しはじめる。
 すなわち、秀吉と織田信雄との対立に、利休が裏面で活躍し、秀吉の佐々成政征伐にも、利休は異常なほどの関心を示し、また、島津征伐の時には、積極的に裏面工作に乗りだしている。
 この時、島津から、利休によろしく頼むと言って、生糸十斤を送ってきている。これは、利休の発言力がいかに高いかを知悉したうえでのことばである。
 秀吉が大名を謁見する時も、羽柴秀長、字喜多秀家、前田利家、細川幽斎などの大名に交って、利休がいたこと。しかも、秀吉自慢の茶室で、利休の点前で、茶をいただいたというのである。秀吉と利休の関係がいかに深く、強かったかということがわかる。
 これは、戦闘よりも、政治的折衝を主として用いることによって天下を統一しようとする秀吉と、政治的折衝を得意とする利休の思想と姿勢が一致したということができる。
 その時の利休は、政治家的側面が活躍したというよりも、より多く、その文化人的側面が活動しはじめたといったほうが当たっているのかもしれない。戦闘よりも平和を求める文化人的姿勢が。

   居士号を賜わる

 しぜん、宗久、宗及も利久の地位に遠くおよばなくなる。信長時代は、宗久、宗及につぐ利休であったが、今ではまったく、その地位を逆転する。
 それを証明するのが、利休居士号の授与である。というのは、天正十三年(1585)秀吉は、朝廷で茶会を催すことになった。
 秀吉が、いかに、利休を高く評価し、彼を後見として朝廷にともなわんとしても、そのころの身分制度では、一介の町人である利休をつれていくことはできない。そこで、利休に対して、天皇から居士号「利休」が勅賜されるということになった。
 これまで、宗易と呼ばれていたのが、利休になったのである。それによって、利休を僧侶と同じく、世俗的な身分を超越させることに成功し、秀吉は、彼を後見として、朝廷に伴ったのである。もちろん、利休としても、天皇から直接に、居士号を賜わったという感激は深い。あえて、そういう形式をとった秀吉の利休への信頼度がいかに高いかがわかる。
 この利休が、どういう意味で、利休その人の居士号になったか、ということであるが、古来、名利共休説で、名利を忘れよと警しめたものであるとか、長年の修行で到達した悟りの境地にある人とか、いろいろいわれている。私はそのどれをも、利休にふさわしいと思う。利休とは、一つの型にはめることのできないスケールの人間であった。
 だが、利休が居士号を賜わり、天下一の茶人の位置を確立したのは疑いようもない。時に、利休六十四歳である。

   利休のおごり

 このころからの利休は、秀吉の側近としても、茶人としても、だれも対抗することができない位置にのしあがっていく。
 利休にまったをかける者は秀吉以外、だれもいないほどに強固になる。それは、利休の自信と抱負である。ことに、羽柴秀長と組んで、彼の地位は、いよいよ強固になる。当時、秀長が「内々の議は利久、公議の事は私」と言ったことばにもあらわれている。
 それを証明するように、上杉景勝の茶の接待を初め、徳川家康、毛利輝元の茶の接待、天下統一をなしとげての北野大茶会と、利休は、すべて、秀吉と行を共にしている。だが、他方には、後年の秀吉と利休の対立は、徐々に、このころからきざしていた。
 それは、秀吉が、大坂城に、黄金の茶室を営んだように、彼は、すべて豪勢なものを求める傾向の茶の湯であった。それに対して、利休は、むしろ、豪華さを否定した“わび”を求める傾向にあった。しぜん、ふたりの立場は根本的に対立し、相互に、他を深く否定する立場にあった。
 主力を天下統一に注入していた時には、秀吉は、それほどの深い対立を意識しなかったが、天正十八年(1590)小田原征伐を終わったころから、秀吉と利休の間は、だんだんとおかしくなりはじめる。
 利休自身にも秀吉を無視するような行動がいくつか出てくる。その一つは、秀吉の怒りをうけて配流される古溪宗陳を、秀吉の膝もとの聚楽第内の屋敷に招いて、送別の茶の会を催したことである。

   利休の切腹

 その二つは、大徳寺の山門金毛閣を、利休の寄進でつくった時、利休は、その桜上に、十六の羅漢像をまつったが、その中に、雪踏をはき、杖をついた自分の木像をつくったのである。
 これは、利休の存在を憎む人々に、かっこうの攻撃材料を与えることになった。結局、この木像事件が、利休の追放と切腹に、直接の理由になったのである。
 ことに、利休と関係が深かった羽柴秀長が前年の天正十九年一月に死んだことも、彼には運が悪かった。
 初め、秀吉から、利休をとがめる手紙がとどいた時、彼は困惑し、大徳寺に相談したり、細川幽斎に相談している。しかし、名案がないと知ると床につくほどにがっかりしている。同時に、彼は観念したとみえる。七十歳の今日、茶の湯の立場が根本的に異なる秀吉の下に、いたずらに生きて、老醜をさらすことを恥じたのである。友人たちが赦罪運動をすることもはっきりと拒絶している。
 秀吉としても、利休自身の謝罪を期待したであろうし、謝罪することで、赦すつもりでいたろう。
 あんがい、利休を自分の前に頭を下げさせてみたかったのかもしれない。文化人の頂点に立ち、自信と抱負に満ちた利休を、天下人秀吉という自信の前にぬかづかせてみたかったのかもしれない。それによって、政界のみでなく、文化界の第一人者に、名実ともになりたかったのかもしれない。
 しかし、利休は、それをあえて、拒絶した。拒絶することによって、いっそう文化界の第一人者の地位を確保し、秀吉には、反対に、その悲哀をとことん知らせたのである。秀吉の考えるように、簡単に文化界の第一人者にはなれないぞと思いしらせたのである。
 利休のあざやかな勝利である。秀吉がいかに、悲哀を感じたか、それは想像に絶するものがある。まさか、利休に敗れたということがわからぬまでの秀吉ではあるまい。

 

                  <雑誌掲載文2 目次>

 

激動期に生きる <4> 蒲生氏郷」

 

 戦国時代という時代は、古い統制力古い秩序がこわれて、新しい時代への胎動を起こした時代である。極言すれば、尾張の百姓の伜秀吉が、その能力と勇気で天下人にもなることのできたような時代であったのである。そういう意味では、豊臣秀吉ばかりでなく、この動乱期を生きぬく才覚と能力のある者には、容易に、社会の表面におどりでるチャンスを持つことのできた時代であった。
 もちろん、その反面、途中でむなしく死んでいくしかなかった人々も多くいたが、要するに、多くの人々の前途に、希望と夢を与えた時代であったということができる。
 今ここで取り上げようとする氏郷もそのひとりで、夢と希望を最大限に追求し、生かしていった人間である。すなわち、彼は、百姓、町人ではなかったが、近江国の微々たる小名の家に生まれながら、徳川家康、毛利輝元につぐ大大名にのしあがったのである。
 今日でいうなら、町工場を日本有数の会社にしたとでもいえよう。どんな能力、どんな才能によって、どんな姿勢、どんな生き方によって、それをなしとげたのであろうか。
 そういう興味と関心で、氏郷の歩んだ道を追ってみよう。

   信長の近侍

 氏郷が賢秀の嫡男として、近江国日野城(五万石)に生まれたのは弘治二年(1556)。その年は、隣国美濃で、斎藤道三がその子義竜に殺された年であり、尾張の織田信長と駿河の今川義元の間が急激に悪化していた年である。だが、このころは、まだ、氏郷の運命を狂わすほどのことは起きていない。
 しかし、永禄五年(1562)、信長が義元を亡ぼし、ついで、永禄十年(1567)斉藤竜興を亡ぼすころになると、しだいに氏郷の上にも、戦国の世のきびしい一面がおよんでくる。
 すなわち、永禄十一年(1568)には、氏郷の父賢秀は、信長と敵対していた六角義賢に味方していたので、信長と戦うことになった。
 だが義賢は賢秀の作戦を用いない。そこで、賢秀はもはや、信長と一戦して、死ぬ以外ないと定めた。
 賢秀には、信長の勢力が断然優勢と見えたのである。また、それなればこそ、思いきった作戦を進言したのである。しかし、義賢はそれを用いない。信義に厚く、あくまで、六角氏に協力しようとする彼が、絶望的になったのも無理はない。
 そんなところに、すでに信長の陣営にあった賢秀の妹婿神戸友盛から信長に味方するようにと言ってきた。賢秀は結局友盛の意見に従い、信長に降る。その交換に、嫡子鶴千代すなわち氏郷を、人質として信長にさしだすのである。
 こうして、十三歳の氏郷は、信長の近侍となる。氏郷は、そこで、信長の師事する南化和尚から仏教や儒学を学び、三条西実枝より歌学などを学んだ。もちろん、武将を志す彼であるから、その方面の研究には、人一倍熱心であった。
 当時、稲葉一徹などの武将は、「蒲生の子は器量人だ。やがて、大軍をひきいる武勇の将になるだろう。」と氏郷を評したということである。初陣は、氏郷十四歳の時。信長にその才と勇を認められて、その娘と結婚したのが、その冬で、そのあと、父のいる日野城に帰っている。こうして氏郷は、第一の関門を乗りきるのである。
 氏郷が十八歳、伊勢の長島一揆を攻めた時のことである。彼は一番乗りをやってのけ、名ある敵の首をとり、得々として、その首を信長に献上した。
 すると信長は、「首を取るのは士卒のやることである。お前は敵にうち勝つことを考え、対処しなければならない。それが武将の心がまえである」とさとしたということである。
 このように、氏郷は、信長のそば近くにいて、事あるごとに、信長から鍛えられた。それによって、武将への道を一歩一歩と歩んだ。

   秀吉をえらぶ

 だが、天正十年(1582)、信長が本能寺で、明智光秀に殺されたことにより、氏郷の運命は再び岐路にたつ。
 この時、氏郷は二十七歳。十三歳の鶴千代の時と違って、今度は、自分自身で、時勢を見とおし、自分で自分の進路を見定め、選択しなくてはならない。それができる年齢でもあるし、その洞察いかん、その選択いかんが、その後の氏郷の運命を決定的に左右することになる。
 というのは、これまでずっと、信長の侍大将柴田勝家の与力として、蒲生賢秀、氏郷親子は働いてきた。勝家の軍に属して戦ってきた。そうなると、勝家との縁はひじょうに深い。当然、氏郷は、勝家にくみし、勝家と運命をともにする立場にあった。
 だが、勝家と秀吉が対立したとき、氏郷は勝家の誘いを拒絶して、多くの人が認めなかった秀吉についた。勝家が秀吉のために亡ぼされたことはいうまでもない。
 こうして、氏郷は第二の関門も無事に乗りきるのである。その洞察力によって、その決断力によって。当時としては、よほどの洞察力、決断力ということが言えよう。
 他方、氏郷は、日野城下をおさめることに心をつかう。当時、彼が領内に出した掟によこと、特権的な「座」を排して、新興商人の自由な営業を認めた。そのために、商人に、いろいろな負担をかけることを免除もしている。要するに、商業によって、城下町の発展を考えたのである。そこに、新しい時代の大名としての政治感覚が育っていたということができよう。
 もちろん、領内の経営に没入していられるほど、氏郷は暇ではない。彼の仕事は、あくまで、秀吉に従って、秀吉の天下統一にむかって、その仕事を助けることにあった。だから、織田信雄、徳川家康と秀吉が戦ったときに、氏郷が大いに戦ったことはいうまでもない。

   氏郷の入信

 それに、秀吉という男は、まだ完全に、征服していない領地を、各武将にあたえ、それを征服するようにさせる政策をとった。一挙両得をねらったのである。氏郷も、秀吉のこの政策にしたがって、近江の日野から、伊勢の松坂に移った。日野五万石から、十二万石に増えたが、新領主氏郷に従わぬ人々が領内には多くいた。彼らは、家康の助けを得て、頑強に抵抗した。当然彼は、新領地経営のために戦うことを求められる。しかもその戦いははげしく、一時は、氏郷がねがえったというデマまでとび出すほどであった。
 だが、氏郷の智略と武勇の前には、彼らもいつまでも敵対することはできない。ことに、秀吉と家康の間に和議が結ばれるとともに、その勢力はしだいに衰えていく。氏郷が伊勢を平定したことはいうまでもない。
 しかし、氏郷には、やすむ暇はない。秀吉に従って、越中の佐々成政を攻め、天正十五年(1587)になると、九州の島津征伐、天正十八年(1590)には、関東の北条征伐と、次々に戦っている。
 こういう忙しい生活の中で、氏郷がキリスト教に入信し、「レアン」という名まえをうけたことは特記するに値しよう。このころ、入信した大名には小西行長、黒田孝高、中川秀政などがいる。氏郷は、キリシタン大名として有名な、高山右近にすすめられたということである。氏郷が入信した動機には、仏教と結びつく旧勢力に対し、領民のキリシタン化をはかり、自己を頂点とする同信の縁で領内を治めようという意図があったということも考えられるが、彼の心に呼びかけるものがキリスト教にあったにちがいない。
 入信の程度があやしかったとしても、高山右近といい、小西行長、黒田孝高といい、彼といっしょに入信した人たちは、当時の代表的知識人であった。戦国時代という時代が、かえってキリストの愛を理解させたということもできよう。

   なぜ、若松領主になったか

 氏郷が、会津若松に転封されたのは、天正十八年、彼の三十五歳の時である。秀吉は、若松を奥州支配の要と考えたので、ここの領主は、よほどの器量人でなければならないと考えた。伊達政宗と拮抗し、それを制禦できる人間でなくてはならないと考えた。
 秀吉が諸将の意見をきくと、そのほとんどが細川忠興を選んだが、秀吉と家康で意見を交換したら、秀吉は第一が堀秀治で、第二が氏郷。家康は第一が氏郷で、第二が秀治であった。家康は、秀治の勇猛さは政宗の勇猛さと拮抗して、ともに傷つくといって、あくまで氏郷を推挙した。結局、家康の意見に従って氏郷に落ちついたが、秀吉からこのことを言われた時、氏郷は、「自分には、武勇の家来があまりないので、この要地をまもる自信がない。もし、今後、武勇の士をどんどん召しかかえることが許されるなら別ですが。」と、一応ことわっている。
 それに対し秀吉は「これまで、秀吉に敵対し、勘当された者でも、文武に秀でた者なら、召しかかえてもよい。」と答えたというし、「武臣だけでなく、文臣も召しかかえるように」と注意したともいう。
 そのために、名ある武士は会津若松に集まったということである。
 こうして、氏郷は、九十一万石の大大名になったのである。もちろん、松坂城主になった時と同じように、若松城主としての氏郷は領地を平定することも必要であったし、奥州各地を平定する義務も背負ったのである。しかも秀吉、家康の期待にそむかず、その仕事をみごとにやってのける。そして、氏郷の娘と、前田利家の次男が結婚したのは、文禄二年(1594)である。氏郷の地位はいよいよ確定した。

   氏郷の死 

 だが、氏郷が病みはじめたのも、そのころからである。すなわち、文禄二年、九州名護屋で煩ったのをきっかけとして、文禄三年(1594)には、顔の色は黄黒くなり、むくみがひどくなった。秀吉は、家康と利家に、よく氏郷を看病するようにと命じている。
 しかし結局、薬の効果もなく翌文禄四年(1595)二月七日に死去した。
 氏郷が四十歳で死んだということ、特にその武勇と智略が抜群であったことから、暗殺されたという説がある。その根拠は明らかでないが、朝鮮の役に、氏郷が秀吉に、「もし朝鮮を私にくれるなら、ただちに、朝鮮を席巻してみせましょう。」と言ったことばが、秀吉の勘にさわったというのである。
 数年前、千利久が秀吉の勘にさわって、切腹させられた例もある。あながち、想像できないことでもない。若い氏郷には、家康ほどの老獪さもなく、その智略、武勇をあからさまに出す率直さもあったろうし、信長の娘婿という自信もある。そこから、秀吉のあとを襲う者として、氏郷の名がささやかれたということも考えられる。
 秀吉が不安に感じたとしても当然である。その結果として、暗殺。だが、それが結局、豊臣家の命脈をちぢめたということになるかもしれない。利久が殺された時、利久の息子を若松にまもったのも氏郷であり、千家の再興に心をつくすのも彼である。氏郷とは、そういう男である。かつて、
  世の中に戦は何をか那須の原
    なすわざもなく年や経ぬべき
  信濃なる浅間の獄は何と思う
    我のみ胸をこがすと思えば
とよんだ氏郷の歌がある。意外に老成した彼の一面、その中で、激しく燃えるものを持った彼をみる。

 

                 <雑誌掲載文2 目次>

 

激動期に生きる <5> 高野長英」

 

   おいたち

 長英は文化元年(1804)、陸奥国膽沢郡水沢城下に、後藤ソウ介の三男として生まれた。生まれるとすぐに、高野玄斉の養子になる。玄斉というのは、蘭医杉田玄白の弟子で、蘭語と医術を修めていたから、長英も自然、それを学ぶ。
 文政三年、十七才の時、向学心をおさえることができず、家を飛び出し、江戸へ行く。そして、杉田玄白に弟子入りする。といっても、家からお金はこない。アンマをして生活費をかせぐ。吉田長叔について、勉学したが、このころは中間奉公をしたという。
 文政八年、二十二才の時に、長崎に行き、シーボルトに弟子入りをする。シーボルトといえば、ドイツの医学者で、文政六年、オランダ商館の医員として来日し、鳴滝学舎をつくって西洋医学を教授した人。長英もその鳴滝学舎に入学し、翌年には、ドクトルの称号をあたえられている。彼がシーボルトについて学んだのは四年。その間、西洋医学の全貌にふれて、医学研究に没入することを決心する。
 だから、養父がなくなった時、当然、家業をつぐべきであったが、そして侍医になるべきであったが、家業にしばられて、医学の研究ができなくなるのを恐れて、養子をとり、それに家業をつがせ、自分は隠居するのである。研究の自由を獲得するためである。
 こうして、天保三年には、「医原枢要」を著わす。日本最初の生理学の書物ということである。このころ「居家備要」二十五巻も書いている。これは臨床参考書であるという。天保元年から天保十年までは、長英が江戸生活を最も平和の中に、医学の研究を進めたときである。

   尚歯会

 当時、江戸のオランダ医学は二つに分かれていた。下町組と山ノ手組である。下町組というのは、伊東玄朴、坪井信道、童内玄洞などで、もっぱら医学の研究進歩にとりくんだ。
 山ノ手組というのは、高野長英、小関三英、鈴木春山などで、医学のみでなく、政治、経済、文化の問題にまで研究を進めていった。その山ノ手組に、農政学者の佐藤信淵が加わり、画家渡辺崋山、学者江川担庵、儒学遠藤勝助、下曽根金三郎たちが加わって研究会がもたれはじめた。これが尚歯会といわれるものである。当時の日本をどうするかという問題が中心テーマである。それは、けっきょく政治の問題であり、幕府の権力との対決であった。
 それというのも、当時の日本は、封建制の時代であり、その矛盾が、ようやくあちこちに出てきた時代である。世界の大勢には全くおかまいなしに、鎖国を続けているような国がらである。
 西洋の事情を知る彼らには、当然幕府の政策が気にいらない。自然、議論は熱っぽくなる。
 彼らの議論をいよいよ熱っぽくし、実りあるものにしたのは、天保四年から天保八年にかけての天候不順にともなう凶作、それも徹底的な凶作であった。わずかに、天保五年が平和作に近かったのみで、天保四年の東海道六分七厘作に始まって、奥羽地方は三分五厘作天保七年には、山陽道の五分五厘作、関東の三分二厘作というように徹底していた。
 しかも、それは全国的なものであった。そのために、たとえば、津軽一国で、死者三万五千を越えるというありさまであった。しかも、幕府にはこれという対策もないままに、天保七年には、甲斐国に百姓一揆がおこり、天保八年には、幕府の役人である大塩平八郎が乱をおこしたのである。
 大塩は、幾度か救済策を幕府に上申したがきき入れられず、初め、その持ち物全部を売りはらって食料にかえ、飢民に提供していたが、そんなことでは解決にならず、ついに、乱をおこしたものである。
 渡辺崋山はさっそく田原藩の家老という地位を生かして、尚歯会で話し合っていることを貝体化しはじめた。彼は凶作の対策をたてるとともに、日常的には、三度の食事を二度にし、冗費を禁じて、人を救う藩風を田原藩の中に育てた。そのために、数年にわたる凶作中、田原藩からはひとりも餓死者をださなかったのみでなく、京都三条大橋に救い小屋を設けるほどであった。
 もちろん、一介の町医者であり、進歩的知識人である長英も、大いに活躍した。まず、「二物考」を著わして、早蕎麦と馬鈴薯は青木昆陽の甘藷につぐほどの研究である。言いかえれば、代用食の研究である。
 また、「避疫法」「瘟疫考」を著わして、災害のあとに、必ずおこる悪病の予防法を述べた。
 そのほか、佐藤信淵、遠藤勝助などもそれぞれに活躍したから、尚歯会の存在はにわかに大きくなっていった。

   朱子学と蘭学

 尚歯会の名声が高くなることを、心よく思わない人たちがいる。といっても、当時まだ、尚歯会が幕府政治を批判し、否定する姿勢をとっていなかったから、直接幕府権力と衝突するということはなかった。
 尚歯会の活躍と名声を直接にがにがしく考えたのは、幕府権力に巣くった鳥居耀蔵である。鳥居は幕府の儒官をつとめる林家に生まれ、旗本鳥居家をついだ者、後に、老中水野忠邦の抜擢をうけて、大目付という検察官の役についた。
 林家の学問は朱子学。その朱子学は官学として幕府の権力とともに国民に君臨する。そうなると、朱子学は政治的権威をもつことができても、思想としての朱子学は形骸化し、空洞化していく以外にない。鳥居はその空洞化した朱子学を身につけて大きくなった男ともいえる。
 鳥居は幕府権力を肯定し、その権力とともに君臨している朱子学徒。崋山長英は、直接に、朱子学を批判はしないが、暗黙のうちにそれを否定し、無視していこうとする立場にたつ蘭学を学ぶ者。しかも、悪いことには、鳥居は検察宮の役についている。
 二つの勢力の衝突に、直接火をつけたのは、鳥居と江川の対立である。先にもちょっと書いたが、江川は尚歯会のメンバーで、同時に伊豆の代官でもあった。ふたりの対立というのは、浦賀海岸の測量をめぐっておこった。初め、その測量をする役が鳥居におちたが、伊豆の代官である江川もその協力を申しでた。こうして、鳥居が正、江川が副ときまった。しかし、江川の若さというか、客気というか、全く鳥居に協力しないのみか、江川は自分でかってに測量図を完成させようと考えて長英と崋山に協力をたのむ。長英は、門下生を送って江川を助けた。その結果は、鳥居の作ったものと江川の作ったものは、だれの目にも、その優劣がはっきりわかるほどに差があった。そればかりか、その測量図にそえて、江川・長英、崋山の三人の合作になる意見書までそえて幕府に提出したのである。こうなると、鳥居の敵は、はっきりと長英、崋山になる。鳥居は長英たちを一挙にやっつける機会をねらっていたのである。

   蛮社の獄

 たまたま、英国船が漂流民をのせて日本にやってきて、貿易を求めるといううわさがあった。しかも幕府が、英国船を打ち払うことをきめたということを伝えきいて、長英はもう黙っていることができない。さっそく「夢物語」を書いて、外国船を打ち払うことの不可を説いたのである。
 むしろ、その機会を利用し、英国人から詳しく世界の事情をきくとよい。貿易を願っているから、英国人も正確に話してくれようというのである。
 崋山も、草稿の段階であるが、「慎機論」を書きはじめた。いうまでもなく、西洋事情を明らかにしようとしたのである。長英の「夢物語」は人から人に伝えられて、多くの人に伝わったし、その一部は将軍の手もとにまでとどくというほどであった。
 しかし、英国船は事情があって来なかった。鳥居は、英国船がこなかったのを理由に、さっそく、長英たちの攻撃にたちあがった。
 「イギリス人来航の噂近年しきりにおこる。これは、蘭学者の連中が少しばかり、外国の事情を知っているのを理由に、事実を捏造して、不埒の妖言をたくましうして、上は、朝廷、幕府をまどわし、下は無知蒙昧の愚民を扇動し、天下を争乱に導き、国政を破壊せんとするものである。すみやかに、彼らを召しとり、蘭学を御禁制あるベし」と水野老中に意見書を出した。
 だが、幕府も、鳥居の気ちがいじみた意見を聞くほど愚ではない。すると、鳥居は次の手段を考えた。
 それは当時、小笠原諸島に行こうとしている江戸の人々の動きに、長英、崋山がからんでいるとでっちあげたのである。
 こうして、まず、崋山が捕えられ、長英もつづいて捕えられた。小関三英はその禍が主家におよぶのを恐れて、自殺した。鳥居としては、長英、崋山を召しとればよいのである。その後は、何とか名目をつけて、牢獄につないでおけばよい。判決は、長英が「夢物語」の著書を理由に終身禁固に、崋山は「慎機論」についての断章があったという理由で、田原藩主あずかりとなるのである。

   逃避行

 天保十年、長英が蛮社の獄で逮捕されたのは三十六才。その二年後に崋山は自殺する。四十九才であった。
 長英は獄中にあっても、全く、意気がおとろえない。かえってますます、頭脳は明敏となり、気魄は充実する。その結果、できたのが、「鳥の鳴音」であり、「蛮社遭厄小説」である。彼はその書物の中で、日本における蘭学の沿革、尚歯会の活動、蛮社の獄の事件のいきさつ、さらに幕府の蘭学弾圧を鋭く書いていく。
 長英としては、何とか、獄外に出て、幕府を啓蒙したかったであろうし、国民を教育したかったであろう。加えて、医学・兵学など研究したいこともたくさんあったであろう。要するに彼は、その時代に生きる者としてなすべきことがあまりに多くあった。
 こうして、長英の脱獄の計画が進められる。といっても、脱獄を肯定する確かな証拠はない。しかし、罪らしい罪もなく、終身禁固とはひどすぎる。まして、一世を越える頭脳を殺すということは、全く言語同断ともいえる。
 弘化二年、長英四十二才の時、火事を理由に、一時獄舎を解放されたのに乗じて、彼の逃避生活が始まるのである。火事は長英のやったことであるという見方である。あちこちに転々としながら、その間、ずっと、著述に、訳書に精魂をそそぎこむ。「兵制全書」「三兵答古知機」などの著述も皆その間にできたものである。
 一時、宇和島侯、島津侯などに招かれて、蘭学を講議したが、これらの諸侯も幕府権力をおそれて、最後まで長英をまもるということをしなかった。
 顔を硝酸でやき、江戸入りしたのが嘉永三年。けっきょく幕府の探索するところとなり、同年十月三十一日、自刃する。
 こうして、その劇的な生活に終止符をうつのである。

 

                  <雑誌掲載文2 目次>

 

明治をきずいた人々 福沢諭吉」

 

 思想家とは何か

 今日、学者とか評論家、研究者といわれる人は非常に多い。明治という時代は今日ほどでないにしても、学者、評論家、研究者といわれた者は結構相当の数になる。だが、その中で、思想家といわれるような人物は非常に少い。ことに、長い封建時代の中で、政治権力に対する思想の独立と自立ということを考えたことのない日本では、一応近代国家という形をとった明治になっても、思想的に自立した思想家が誕生するということは非常に困雑であった。
 明治という時代は、ある意味からすると、学者とか、評論家、研究者が思想家になるために苦悶した時代ということがいえよう。というのは、思想家とは、いかなる政治権力からも独立して、時代と人間について、自らのその全存在をかけて生きぬこうとする人間のことをいうからである。時代の方向を全身で思索し、追求する人間のことをいうからである。その点では、思想家になることも、思想家として生きつづけることも非常に厳しいといえよう。
 頭脳が明晰で既成の学問をした者は、誰でも学者や評論家、研究者になれるが、思想家になれるとはきまっていない。と同時に、既成の学問をしなかった者でも、時代と人間について、とことん自分で考え、考えたものに基づいて生きていこうとする者は誰でも思想家の仲間入りができるということである。思想家とはそういうものである。
 そういう思想家の代表的人物の一人、それが福沢諭吉である。

 封建制を“敵”として育つ

 諭吉は、天保五年(1835)大阪に生まれた、その父は、中津藩士で、十三石二人扶持の下級士族であった。下級士族といえば、よほどのことがないかぎり、上級士族になることはない。その子弟はどんなに才能や能力があっても、下級士族の身分をついで、その才能や能力にふさわしい仕車をするものにはなれないというのが、封建制度下の人間の運命であった。とすれば、才能や能力あるもの程封建制を桎梏と感じ、封建制を憎む心は強くなる。諭吉は、まさに、そういう人間として子供時代をすごした。とくにその父親が才能をもちながら、その才能をのばすことも出来ないままに、わずか四十五才で死んだ(一説には自殺説もある)ことを思えば猶更である。諭吉にとって、封建制こそ、父の敵であった。
 しかも、長ずるにおよんで、諭吉は、封建制とはどんなに愚かで無能な者も、上級士族の子弟であるならば、高い社会的地位をあたえられることも知ったのである。それも、単に知ったというだけでなしに、骨身にこたえるほどに体験したのである。そうなると、封建制は、父の敵であるばかりでなく、彼自身にも敵となった。諭吉が封建制そのものを仆し、人間そのものの自由を強く唱え、人間の自由を確立するために、その生涯を通じて戦いぬいたのも当然である。その場合諭吉は、人間の自由を知識と思想の確立によって斗いとろうとしたのである。では、どのようにして、彼自身まず、知識と思想を確立し、彼自身の自由を戦いとったのであろうか。さらに、戦いとった彼自身の自由を皆のものにしていこうとしたのであろうか。

 刻苦勉励、独学で英語を学ぶ

 長崎で、オランダ語を学んでいた諭吉が半脱藩のような形で江戸に出ようとしたのには理由があった。というのは、一緒に学んでいた家老の子が彼の上達に嫉妬して、彼を中津にかえるように工作したためである。だが、当時の彼には、一、 二枚の着物と二分あまりの金しかない。それでも、彼は、中津には帰ろうとはしなかった。長崎から下関までの道中、あまり、ボロをまとっているために、とめてくれる宿屋もほとんどないままに、大阪の兄のところには、かろうじて、辿りついたという有様であった。
 だが、兄弟共謀になることをおそれて、江戸にいくことは、兄が承知しない。しかたなく、諭吉は大阪にとどまって、緒方洪庵に弟子入りした。緒方塾といえば、明治以後に活躍した人々を沢山送りだしたところである。諭吉自身、その頃の生活を次のように書いている。
 「夕方食事をすますと、ひとねいりする。眼がさめるのは、大抵、十時頃。それから夜明けまで書を読む。朝の仕度をする音がきこえた頃にまたねる。朝食ができた頃におき、朝湯に入ってから朝食をとり、それからまた、書物を読む。」
 いかに、諭吉が緒方塾で刻苦勉励したかがわかろう。そのために、緒方塾にいたのは、三年ぐらいであったが、彼のオランダ語は非常に進歩し、とうとう藩命で、江戸に出て、藩士達にオランダ語を教えるようにということになった。彼が二十三歳の時である。諭吉の能力が認められた最初である。この頃は、時代もどんどん動いており、上級士族とか下級士族とかいっていることはだんだん、できなくなり、才能とか能力が徐々にであるが、認められはじめた時代でもあったのである。
 だが、一日、横浜にいって、オランダ語が殆んど通用しないことを知った諭吉は大変ショックをうけた。数年間の努力がむなしいということを感じたのである。普通の人間ならそのことに気がついても、知らぬふりをしてオランダ語を教えているか、また、折角得た地位を失うことをおそれてごまかすが、彼にはそんなことは出来なかった。
 オランダ語が駄目なら、英語を勉強しようと決心した。だが、英語の先生となると、オランダ語の先生をさがすよりももっとむつかしい。やっと発見した先生は、八キロも離れたところにいた。毎朝早く、その先生の所にいく。それというのも、昼は、その先生が忙しいためである。二、三ヶ月通ったが、結局その先生の多忙のために断念するしかなかった。そうなると、独学するしかない。英蘭辞書を片手に、毎日毎夜の勉強がつづく。何がそんなに、彼を、オランダ語に、さらに英語の修得に熱中させたかといえば、封建制の息苦しさの中に、未知の世界を知るという喜びであり、感激であったろう。ここには彼を制約するものは何もなかった。自由自在に、自分の心のままに飛びまわることができたからである

 日本人を改造してどうしようとしたか

 万延元年(1860)、幕府は日米通商条約の批准のために、遣米使節をおくることになった。それは、文字通り、はじめてのアメリカ渡航であり、また、冒険でもあった。諭吉はつてをたよって、艦長の従者として乗りこんだ。それこそ、生命がけの航海、それも一ヶ月余の航海である。だが、彼には、それだけの勇気があった。
 翌文久元年になると、今度は、英、仏、独、露などにも使節を送ることになったが、この時もまた、諭吉はついていく。これは、丁度一年間の未知の旅行であった。
 慶応三年には、もう一度、アメリカへいく。
 こうして、諭吉は、三回も欧米にいくことによって、そのいいところもわるいところも見透してかえってくる。見透した上で、ヨーロッパの精神と思想を日本に輸入し、日本人を改造する必要があるという結論に到達する。到達せずにはいられなかったのである。それによってのみ、封建制を内側から仆せると考えたのである。
 即ち、諭吉は、ヨーロッパの精神と思想で日本人を改造しようとしたが、それは、決して、日本がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアのようになることではなかった。それは、「西洋の文明もとより慕うべし。これを慕い、これに傚わんとして日もまた足らずと雖も、軽々これを信ずるは信ぜざるの優にしかず。彼の富強は誠に羨むべしと雖もその人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに傚うべからず。日本の租税寛なるに非ざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえって、我が農民の有様を祝せざるべからず」とか「欧人のふるる所は恰も土地の生力を絶ち、草も木もその成長を逐ぐること能わず。甚しきはその人種を尽すに至るものあり」という言葉で明かである。
 アメリカ、イギリス、フランスの歩んでいる道を日本にもまねさせようとしたのは明治政府の人々であり、諭吉は、あきらかにそれと異なっていた。
 では、諭吉が強調し、日本人を改造しようとしたヨーロッパの精神と思想とは何か。
 それは、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば、天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして、各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣旨なり」という言葉につきている。
 諭吉は、本来、人間はすべて平等であり、自由でなければならないと断言する。しかし、現実には、それが平等でなく、自由でないのはなぜか。彼は、それの原因を学問の有無によると考える。学問をすれば、人々は、必ず、貴人にもなり、富人にもなるというのである。しかも、彼が学問という場合、「むずかしき字を知り、解しがたき古文を読み、詩を作る能力ではない」というのである。
 「人間の経済的自立を導くもの」が学問の第一歩であるというのである。「理のためにはアフリカの黒人にも恐れいり、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては、日本国中の人民一人も残らず命をすてるような自立の精神」を学び身につけるのが学問だというのてある。彼には、自立を前提におかない学問、自立を教えないような学問は、学問の名に価しなかった。
「学問のすすめ」で、「文明論の概略」で、諭吉が説きつづけたものも、結局自立であり、それ以上のものではなかった。それこそ、彼は、日本人全部が本当の学問をし、自立的に思想家になってほしいと考えたのである。それによって、アメリカ人、イギリス人、フランス人をリードする日本国人になってほしいと考えたのである。

 

                  <雑誌掲載文2 目次> 

 

明治をきずいた人々 北村透谷」

 

  自由民権運動に動かされる

 透谷は明治という時代を生きた人間にふさしわしく、明治元年に生まれ、明治二十七年にはその短い生命を自らの手で断ちきった思想家であるが、いうまでもなく人民の自由の確立と拡大にその全エネルギーを投入し、そのエネルギーの枯渇とともに、その生命を断つ以外に、その思想を完うすることの出来なかった人間である。自殺によってのみ、透谷は、人民の由由の樹立と拡大の立場を守りつづけることの出来た人間である。その意味では、明治という時代を、明治という時代の精神を全存在で生きつづけ、発展させつづけようとした人間であるといえよう。
 透谷は、先述のように、明治元年に、小田原の没落士族の家に生まれたといっても、その父は、まもなく、大蔵省の役人になったような男である。そのために、父は、東京に住むことになったが、透谷は、祖父のもとで育った。明治十四年はじめて上京し、両親と一一緒に住みはじめる。
 その透谷の眼に、強くやきついたのは、自由民権のために戦う人々の姿であった。そのために、彼は幼くして、自由民権のために戦う政治家を志したほどであった。というのは、当時の彼が小学生であったことはいうまでもない。しかもそういう思いを母親からとめられて神経衰弱になる程であった。その思いがいかに強烈であったかという証拠である。
 十六才になった頃には、透谷は、もう、母親の抑制にも、自分の心をおさえることが出来なくなっていた。八王子地方の自由民権家大矢政夫、秋山国三郎、石坂公歴たちと交わるとともに、此の年九月には、東京専門学校(早稲田大学の前身)の政治科に入学する。彼の読書がいよいよ深く広くなっていったのも、また、政治家になろうという意欲を再確認したのも此の頃であった。

  逃げず、悩みぬく精神

 だが、透谷は十八才になった頃より、次第に、当時の自由民権運動に懐疑的になっていった。ことに、大矢たちが、日本の革命への足がかりとして、朝鮮の革命を計画し、そのために、渡鮮費用を強奪しようとしたときに彼の懐疑は最高頂に達した。参加を求められたが、それに応じなかった。それが、日本の革命を朝鮮から逆輸入しようとする考えに疑惑をいだいたのか、強盗的手段により革命的行動をしようとすることに疑惑をいだいたのか、更には、自由民権運動家そのものに、まだまだ、本当の自由民権がわかっていないとみたためであったかは明らかでない。
 しかし、いずれにせよ、この頃から、透谷は自由民権運動から遠ざかっていく。遠ざかった地点から、彼はもう一度、日本人の思想を精神を意識を究明しなおす作業にとりかかった。それをふまえて、自由民権運動はどうあるべきかを更めて、追求していった。追求しなおしてみる必要を感じたのである。その間、その苦しみ、その悩みを解決するために、キリスト教に入信するということもあった。
 だが、透谷は、その苦しみ、その悩みから決して逃げなかった。当時の自由民権運動のいい点もわるい点もすべて、自分の中にだきこんで、それの克服を運動そのものの中から発見しようという態度をとりつづけていった。自由民権運動に懐疑的になったからといって、その立場を捨てて、他の思想、他の立場を求めるということをしなかった。あくまで、自由民権運動の新なる展開と前進を求めつづけたのである。そういう苦しい生活、思索の生活は数年間つづいたが、彼はその中から、みごとに立ち直ったのである。それはすばらしいの一語につきるようなものであった。
 透谷はまず、明治という時代、明治の精神というものを次のように再発見した。
「明治維新の革命は政治の現象界に於て、旧習を打破したること、万目の公認するところなり。然れども、吾人は寧ろ思想の内界に於て、遥かに偉大なる大革命をなしとげたるものなることを信ぜんと欲す。武士と平民とを一団の国民となしたるもの、実にこの革命なり、長く東洋の社界組織に附帯せし階級の縄をきりたる者、この革命なり。……
 明治文学はかくの如き大革命に伴いておこれり、その変化は著るし、その希望や大なり。精神の自由を欲求するは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、各個人の自由にあるのみ。政治上の組織においては、今日まだその目的の半を得たるのみ。しかれども、思想界には制抑なし。これより日本人民のゆかんと欲する希望いづれにかある。愚なるかな、今日において旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷う学者、請う刮目して百年の後をみん」と。
 透谷には、明治という時代は日本国民全部の自由を確立するときであり、明治の精神は自由の精神以外にないと考えられたのである。天皇とか家長とかほんの一部の自由しかみとめないような忠君愛国の道徳など、とんでもないことであった。
 当時の自由民権家が口に自由や民権を唱えながら、その心は、自分一個人の権勢欲や出世欲が強く、生命蔑視や民衆蔑視の姿勢が根強いものを発見したとき、透谷としては、そういう人達と別れる以外になかったのである。ニセの自由民権家と断ずる以外になかったのである。

  “内部生命”が人間を再生する

 こうして、透谷は、自由民権運動をふくめて、「明治の思想は大革命を経ざるべからず、貴族的思想を打破して、平民的思想を創興せざるべからず」といわずにはいられなかった。それこそ、明治の精神は、自由の精神とともに、すぐれて革命の精神でなければならなかった。あらゆることが革命を必要とすると考えたといってもよい。
 では、どうして、透谷はそういう思想と精神をもつようになったのであろうか。既に書いたように、彼は明治維新を、更にそれにさかのぼる江戸時代を研究することによって、平民が自ら生長して自由を求めはじめたところに、維新は実現したという結論を得た。平民の自由を求める欲望がいかに強烈であったかを発見した。加えて、彼自身自由民権運動に直接参加して、農民や労働者の悲惨な実態を十二分にみてきた。彼等がそういう状態の中でどんなに、もがき苦しみ、それから自由になりたいと願望しているかを知ったのである。そういう願いがどんなに強烈であり、根強いかも知ったのである。
 しかも、他方では、透谷は、「政治を説く者は虚然これを説き、宗教をいう者は恍然これを言い、しかして、この下流まで達せず」というような、政治家、宗教家のインチキ、イイカゲンサを見抜かねばならなかったのである。そればかりか、文学者達までが、有頂天になっているのをみるのである。「多くの平民が悲惨になき、不自由に苦しんでいるときに、彼等文学者のみが得意になって歓喜の筆を弄している。今はと慨こそなすべきときに、笑談ばかり言って、彼等のために、一滴の涙さえ流そうとしない。」それをみたときに、彼は狂ったように、彼等を批難した。批難せずにはいられなかった。
 彼が自由と革命の必要を痛感したのも無理がない。政治家も宗教家も文学者もすべての指導者が革命を必要とするとみたのである。貴族的思想におぼれこんでいる政治家・宗教家・文学者こそ、かえって、革命を必要とするとみたのである。
 透谷は、政治家・宗教家・文学者が彼等の思想を革命するには、人間の根本の生命を認めるところから出発する必要があると考えた。しかも、その根本の生命は、あらゆる人間に存在することを認める所から、革命がおこると考えた。彼はいう。
 「彼等は忠孝を説けり。しかれども、彼等の忠孝は、むしろ、忠孝の教理があるが故に忠孝あるを説きしのみ。今日の僻論家が勅語あるが故に忠孝を説かんとすると大差なきなり。彼等は人間の根本の生命よりして忠孝を説くこと能わざりしなり。彼等は節義を説けり。善悪を説けり。しかれども、彼等の節義も彼等の善悪も、むしろ、人形をならべたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れたる者にあらざるなり。いう所の勧善懲悪なるものも、かかる者が善なり、かかる者が悪なりと定めて、之に対する勧懲を加えんとしたる者にして、いまだ以て真正の勧懲なりというべからず。真正の勧懲は心の経験の上にたたざるべからず。即ち内部の生命の上に立たざるべからず」と。
 透谷によると、政治家、宗教家、文学者をふくめて、すべての人間が内部生命を認識し、再生することを求めているということになる。すべての人間が再生する方向に歩みだすのが、刮目して待てといった、百年後の人間の姿ということになるのかもしれない。

  絶望の道は自殺しかなかった

 だが、透谷自身、民衆(平民)が民衆自身の力でめざめ、自己を確立していくとは思いつかなかった。自由を拡大し、現状を変革していく人間となるということは思いつかなかった。それは、あくまで、自らの革命をなしとげた政治家・宗教家・文学者に導かれて、始めて、民衆自身の革命をなしとげるということであった。だからこそ、政治家・宗教家・文学者に絶望したときは、すべてに絶望するときであり、彼自身、自殺する以外になかったのである。その意味では、自殺もやむを得なかったということになるが、彼を二十六才で失ったということは、非常に惜しい。それこそ、彼にもう一度、数年間の沈黙と追求があれば、今日にそのまま通用する思想家になったであろう。その時には、平民的思想を本当に成熟させることも出来た筈であり、その後の日本人の自由と革命も違ったものになっていた筈である。

 

                   <雑誌掲載文2 目次> 

 

明治をきずいた人々 新島襄」

 

  日本脱出に見事成功

 西洋の思想に強い憧憬をいだいた吉田松陰が、国禁を破って海外渡航を志して失敗し、ついに、その生命を落としたのは安政六年のことであったが新島はそれから十年後に、同じく、西洋の思想に魅せられて、日本脱出を試みて、見事に、成功した。そして、明治の日本人に、西洋思想を注入した代表的人間の一人であった。ことに、キリスト教思想の紹介のみでなく、学校教育を通じて、キリスト教的人間を育成し、当時の退廃していた道徳を人間の内部から改造しようとした教育思想家でもあった。いいかえれば、これまで、常に、外からの倫理に自分自身をあわせ、規制していくしかなかった日本人を自分の内からの要求と命令に従っていく人間に改造しようとしたのである。その意味では、新島の考えた人間像は、従来のそれとは全く異っていた。それを、新島自身先頭に立って、最も保守的であった京都の地で、実践しようとしたのである。不可能と思われるような問題に体当りしていったともいえる。しかも、新島だけがそれをやれたのでなく、誰でもやろうと思えば、今日、新島の立場を継承することができるものである。そこに、新島の存在を今、改めて問うてみる意味があるといえよう。
 新島が生まれたのは、天保十四年(1843)で、その父は、板倉家の下級藩士であった。彼がものごころついて、色々と考えるようになった頃には、幕府の権力もゆるぎ、討幕運動も徐々に盛んになる傾向にあった。しかも、板倉家といえば、徳川家の親藩である。新島が日本を脱出しようと考えたのは、西洋の思想に魅せられたと同時に、板倉家の家臣として、幕藩体制を支持することが出来なかったという理由があろう。
 脱藩して、新しい日本の誕生のために努力するか、日本から脱出(亡命)して、将来、新しい日本のために努力するかと考えたとき、彼は、文句なしに、脱藩でなく、日本からの脱出の道を択んだ。それも、脱藩よりも、もっと罪の重い、生命さえ失いかねない日本脱出の道を択んだのである。それは、非常に勇気のいる行動であるが、青年時代には、誰にでもある勇気であり、冒険心である。その勇気を可能にするほどの夥しいエネルギーが青年にはある。彼は、それによって、思いきった行動にでたのである。勿論、その行動の方向を定めたのは、彼自身の西洋思想に対する知識であり、憧れであった。その場合、青年の行動にとって、どんな知識をもち、どんな憧れをいだくかということがいかに、重要な意味をもつかということは知っておく必要があろう。

  日本の発展はキリスト教しかない

 それはともかくとして、新島は日本を脱出して、アメリカに渡った。それは、元治元年(1864)、彼の二十二歳の時である。この年は、長州藩と幕府が京都で戦った年でもある。文字通り、日本の内乱をあとに、国外脱出をはかったということができる。
 しかも、満一年間の船旅の後に辿りついた当時のアメリカは、丁度、内乱(南北戦争)の直後であった。その内乱とは、五年間もつづいたもので、奴隷解放をめぐっての対立であり、差別を撤廃するための戦いであった。だから、その戦いに勝利をおさめたアメリカの中には、自由と平等と独立の精神がみなぎっていた。新島はそれらの精神と思想を単に知識として学んだだけでなく、肉体化していった。
 しかし、なんといっても、新島が学び、身につけていったものの中心は、キリスト教の思想であり、精神であった。キリスト者としての生活を深めていったといってもいい。当時、彼が日本にいる友人に送った手紙に、「新約聖書は、日本で禁制であるけれども、神によって造られた我々は是非とも読まなくてならない書物である」とか「私は独一真神の至大至妙の真理、寛大至仁の耶蘇福音を研究している。……この独一真神の真理は、当今、強大な英国、プロシア、アメリカにおいて盛んに行われて、国をとまし、兵を強め、人心を一致させるには、この至大至妙の真理に及ぶものはないと考えている」と書いている。「キリスト教は人をして、自由勇敢、有徳にさせる」という手紙もある。
 要するに、日本と日本人を救い、発展させるには、キリスト教精神を学びとり、身につけること以外にないというのが、新島の確信であった。それはまた「わが国三千万余の将来の安危、禍福は政治の改良にあるのでなく、物質文明の進歩にも存しない。一に教化の烈徳その力をいたし、教育の方針そのよろしきを得るにある」という思いであった。ということは、彼がアメリカに学んだ目的を達成し、いよいよ、新しい明治日本の内容づくりに、彼らしい参加ができるようになったことを意味する。

  この手を杖で打ち非を詑びる

 新島が日本に帰国したのは、明治七年で、彼の三十二歳の時である。当時の日本は、明治維新の時にかかげていた自由と独立の精袖が徐々に失われていた時代であった。それというのも、長い間の封建制の中でしみついた奴隷根性や依存精神が日本人の中からぬけきれず、折角入取した自由と独立も日本人の中に十分に発展しなかったためである。明治政府は、一時国民に与えた自由と独立であったが、それをとりかえそうとしはじめた時代であったということもできる。
 この状態を見て、新島が、いよいよ、教育による日本人の改造の必要を痛感したとしても不思議ではない。だが、学校設立にむかって、直に行動をおこすことはできない。さしあたっては、伝導活動をおこす以外にない。こうして、新島は、まず、関西を中心に伝導活動を開始した。
 いよいよ、新島が、京都の地に、同志社英学校を設立しようとして、その計画が外部に伝わったとき、猛烈に反対したのは仏教徒である。彼等は殆んど毎日、京都府庁に押しかけて、抗議をし、また嘆願した。反対のための仏教徒大会も開催した。新島は、教室ではキリスト教を教えないという一札を京都府庁にいれて、あくまで、京都の地で、学校開設にこぎつけた。彼は伝統の町京都でこそ、新しい教育をやる必要があると考えたのである。最も古い伝統に対する挑戦こそ、最も効果的であると考えたのである。彼の果敢な斗争精神、改造精神を如実にしめすものであり、それが、教育上にあらわれたのは、明治十三年におきた校長自責事件である。
 事件というのは、明治十一年九月の入学組と翌十二年一月の入学組はともに学生数が少なかったことから、二組を合併した。ずいぶん、乱暴な処置である。当然、上級生は憤慨して、同盟休校にうったえ、学校側の反省を求めた。この事を新島が知っていたかどうかは不明だが、同盟休校になった時は旅行中であった。報告をうけた彼は、急いで帰校し、一人々々の学生を呼んで、事情を説明し、講義に出席するようにもとめた。
 翌日になると、全生徒を講堂に集めて、新島は訓辞をした。
 「私は常に諸君のことを心にかけているが今回、諸君の中に無届休校者のあったのは非常に残念である。勿論、最初に、学校側の主張を十分に誠意をもって説明しておかなかったのは、私達の責任である。上級組の諸君には、全く申し訳がたい。これは、私の不徳のいたすところであって、決して、教師諸君を責むべきでもなく、況んや、諸君の罪でもない。校長は今その人を罰する」
というやいなや、杖をふりあげて、右の手をうちつづけ、とうとう、杖は三つに折れるほどであった。だが、それでもやめない。たまりかねて、学生の一人が壇上におどりあがり、やっと、それをとめた。
 新島の学生に対する厳しさがいかに徹底していたかということを物語っている。同時に、学生の教育とは、それこそ、徹底した自己教育以外にないという彼の考えをはっきりと示したものである。

  ついに、天下の人物を養成する

 明治十五年になると、新島は、アメリカにいた当時から懐いていた大学設立にむかって行動をおこしはじめた。しかし、なんといっても、費用の全部を寄附にたよろうとするのであるから容易ではなかった。翌明治十六年に自由民権運動の統率者板垣退助に送った手紙には、「キリスト教は文化の源泉である故に、罪悪汚穢にそまった人類の心を一洗させ、東洋に新民を隆興させようと思うのであります。新民というのは新心を抱く者であり、新心とはキリスト教精神であります……
 閣下にして、なお遅々として旧により旧衣を着し、断然みずから新民とならなければ、閣下の事業も、芳名も、志操も、工風も、焦心も百年を出ないうちに、恐らくは高知の浜辺に消滅し去るでありましょう」と書き、キリスト教こそ、自由民権運動の基盤であると言うのである。勿論、強力に援助してくれることを望んだことはいうまでもない。
 大学設立の趣意書には、次のように書いている。「わが国は、天候の美、地勢の便は西洋諸国にゆずらない。しかし、文化に至っては大差がある。それは、何故かといえば、雄偉誠正の士に乏しいことと、一般の人心がいまだ発達していないということである。今この二つを救おうとするには、大学をおくことよりほかはない。東洋の不振は、自由とキリスト教の道徳のないことに起因する」また、
「一国をおこすには、決して二、三の英雄の力にあらず、実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力によらざるべからず。これらの人民は一国の良心ともいうべきでない。而して、私はこの人々を養成することを務めんとす」という言葉もある。新島の大学設立への執念をよくあらわしている。だが、新島の大学設立の夢は、とうとう、彼の生存中には実現しなかった。遺言にいう。「同志社にては、独立心が旺盛で、しばられることを嫌う学生を圧束せず。つとめて、その本性に従い、これを順導し以て、天下の人物を養成すること」。

 

                  <雑誌掲載文2 目次> 

 

明治をきずいた人々 津田梅子」

 

  戦いの生涯

 明治の時代は、あらゆる分野に、新思想が開花し、封建制の圧政下に呻吟していた人びとを徐々に解放していったが、また、そういう新思想を自らの中に創造していった人として、福沢、北村、新島の思想と行動を紹介してきたが、今度は、男性の桎梏下に、人間としての喜びや悲しみを味わうこともなく、長い間、唯男の奴隷として、オモチャとして、苦しんできた女性の解放に一生、その情熱をそそぎこんだ津田梅子のことを書いてみたいと思う。
 津田が、その場合考えたことは、男性のオモチャとしての女性でなく、女性が男性に対等の者として認められるためには、単に、法的に平等を認められるということではなく、また、男性に同情や理解をもたれることにより、その地位を高めるということでもなく、女性が自らの能力によって、自らの行動によって、徐々に、その地位をたかめていくということであった。男性に、女性の能力と行動がすぐれていることを認めさせるということであった。そこにしか、女性の地位の本当の向上がないというのが津田の考えであった。ヨーロッパの女性がその高い地位にあるのも、女性自らが果敢に戦いとったものであるという認識であった。
 それは、そのまま、福沢や北村が庶民大衆の自立を説いたところと共通していた。圧政下に苦しむ人民大衆が解放されるためには、人民大衆が本当に思想をもち、智慧をたくわえて、支配者が圧政できないような実力をもつこと以外にないというのが彼等の主張であったが、津田もまた、自分をふくめて、女性が実力をもつということ以外に女性の解放はないと考えたのである。
 そのために、津田がまず、考えたことは、女性が職業的能力をもち、経済的に独立するということであった。男性に、夫に、父に養われるという従来の立場から脱出することであった。そこに、女性が、男性から独立する第一歩があり、女性が人間として生きる第一歩があると考えた。しかも、女性が男性に伍して職業をもつということは非常に厳しい。少しの甘えも許されない。同情もない。多くの場合、女性はその職業的能力を発揮することに恵まれていないから、男性以上の能力さえ必要とする。それであって、働く女性は、男性のみでなく、女性の攻撃と侮蔑をもうけることもある。働かないことを誇りと思っているような、男性のオモチャの地位に満足しきっているような女性があまりにも多いからである。それも、支配階級、上流階級に属していると思っている女性ほど、そういう偏見を持っている。
 これらの偏見と戦いぬいた津田梅子の生涯がいかに戦斗的であり、また、忍耐強い戦いで貫ぬかれていたかということは、容易に想像されよう。では、どのようにして、彼女は女性として、そのようなフロンティア思想を身につけて、逞しい戦斗精神を身につけていったのであろうか。

  七才でアメリカへ

 「サンフランシスコに上陸してから二、三日めのこと、一群の若いアメリカ婦人たちがホテルのホールにいたわたしたちをとりかこみ、一心に話しかけてきた。ひとこともわかるはずがない。
 そのうち、彼女たちは、わたしたちをホールや階段をいくつも通って階下の方に連れていった。驚いてこわくなってきたけど、抵抗も抗議もできなかった。……
 ただ、うれしかったことは美しい人形やおもちゃがあり、キャンディをもらったことである。わたしたちが遊んでいる間に、みんなは日本服の上から下まで眺めまわし、観察を始めた。わたしはどうやって、ここを逃げだそうかと心配になった。」
 これは、津田が初めて、日本からアメリカについた時の思い出の記の一節である。当時彼女はわずかに七才になっばかりで、このように考えたのもむりはない。そういう彼女が、両親のもとをはなれて、遠く、アメリカまでやってきたのである。
 手離した両親も両親だが、一人でやってきた彼女も彼女であるといえよう。
 横浜から、欧米視察にむかう岩倉具視一行の中に、彼女たち五人の少女をみかけた見送り人達は、口々に、
 「随分、ものずきの親もあったもの。あんな小さい娘さんをアメリカにやるなんて、その気持がわからない。父親はともかく、母親の心はまるで鬼のようなもの」
とささやいたという。
 津田たちがアメリカに出発した明治四年といえば、欧米人を夷狄だと恐れていた時代から、わずかに数年後である。東京に、子供を勉学にやるのさえ、地方の親達は恐れた時代である。しかも、彼女たちは一様に十才前後。なかでも、津田は最年少である。このあと女子留学生を募集したが、誰も彼女たちのあとにつづこうという者はいなかった。これをみても、彼女たちの意気はたいしたものであったということができよう。こうして、津田はアメリカ渡航の中で、まずフロンティア精神を身につけたのである。
 同行の吉益亮子、上田貞子は、病気のため翌年帰国したが、永井繁子が十年、山口捨松と津田は十一年と、ともに、長い留学生活にたえぬいた。そして、帰国早々、捨松と繁子は、それぞれ、結婚したが、梅子は生涯、結婚することもなく、職業婦人としての険しい道をひとすじにつづける。人間として生きつづける。アメリカ女性と日本女性の違いを徹底的に考えぬいた結果であったということができる。

  真の教育のために

 津田は、十五年間つとめた華族女学校(女子学習院の前身)をやめようという心境を、次のように書いている。
 「華族女学校と縁をきるのが、どれほど大変だったか。辞職を申し出たとき、誰も本気にしなかった。
 わたしは日本の上流階級の人が属する学校との十五年間におよぶ関係をたち、わたしには何の価値もないが、日本人にはたいへん貴重に思われる官職や肩書などもすっかり投げ捨てたものです。
 知人の多くは驚き、いったい、これは何事なのかと尋ねてきました。わたしは古くさい生活にまつわりつく保守的な因襲から脱けだしたかったのだと答えました。いまは、一介の平民です。……
 ともかく、わたしは、自分が因襲や名声のためではなしに、正しいこと、真実なことのために、しゃんとたちあがることができたのが、心の底から嬉しいのです。」
 津田は、真底から、華族女学校の雰囲気に反撥を感じたのである。華族という特権を享受するだけで、少しも疑いを懐こうとしない女生徒。ここからは、津田が期待し、求めるような女性。男性と一緒になって、新しい社会を創っていこうとする新しい女性、意欲的な女性、独立しようとする女性は出現しないと思いきったものである。華族女学校そのものに、その教師とその生徒に絶望したといってもいい。
 勿論、津田に、華族女学校をやめ、新しい女性、働らく女性、独立を求める女性を養成する学校、それも、従来なかったところの高等教育の機関をつくる必要があると決心させたものは、日清戦争の体験であった。人殺しの戦争に狂奔する男性、しかも、その人殺しを、平和とか愛国の美名の下に、平気でやってのける男性達を認識した結果である。男性のそういう野蛮な行動をおしとどめるためには、女性をかしこくする以外にない、実力ある者に育てる以外にないと考えたのである。
 その結果、生まれたのが津田英学塾である。(明治三十三年)
 といっても、それは、建坪八十二坪。教室といえば、六畳二間しかない狭いものであった。学生もわずか十名という有様であった。だが、津田は、十名の学生を前にして、遠大な抱負をのべる。
 「ほんとうの教育は、立派な校舎や設備がなくともできるものであります。よい教室や書物、その他の設備もできるならば完全にしなければなりませんが、真の教育には物質の設備以上にもっと大切なものがあると思います。それは一口にいえば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心であります。こういう精神的の準備さえできておれば、物質的の設備が欠けていましても、真の教育はできるものであります。
 次に、大規模の学校では、その教育の成果を十分にあげることはできないということです。大きい教室で、多数の学生を教えていては、知識の分配はできても真の教育はできません。真の教育は、学生の個性に従って、別々の取り扱いをしなければなりません。人びとの心や性質は、その顔の違うように違っています。わたしは真の教育をするには、少人数にかぎると思います。……
 英学塾の目的はいろいろありますが、将来英語教師の免許状を得たいと望む人のために確かな指導を与えたいというのが、少なくとも塾の目的の一つであります。形こそ見る影もない小さなものでありますが、婦人に、立派な働きを与えるこういう学校は、これからの婦人になくてならぬものと考えまして、この塾を創立することにしました。」
 彼女は女性の独立という厳しい道を一歩々々と歩みつづけたのである。思想家とはそういう生き方をする人のことである。

 

                   <雑誌掲載文2 目次> 

 

明治をきずいた人々 幸徳秋水」

 

  我は社会主義者なり

 明治三十四年四月九日の「万朝報」という新聞に、幸徳は、「我は社会主義者なり」と題して、「吾人は断言す。天下公衆にむかって、公々然堂々乎“我は社会主義者なり、社会党なり”と宣言するの真摯と熱誠と勇気のあるの人に非ざれば、いまだ、労働問題の前途を托するに足らざるなり」と言いきった。内外に、社会主義者であることを明らかにした。今でこそ、社会主義者といい、共産主義者といっても、別にどうということもない。万一、職場を失うことがあっても、生命の危険もない、経済的に苦しい生活をすることも殆んどない。
 しかし、その当時、自分は社会主義者であるということは、今日、三派全学連のヘルメットと角棒で、警察官の中に突入する以上の危険と困難にみちた行動であった。そのように発言することが、何よりも、激しい行動であったのである。そのことを知悉して、幸徳はあえて、そのことを言いきったのである。それはそのまま、十年後、明治政府のために断罪になる運命を予測させる勇気と熱誠であったということもできる。それこそ、文字通り、日本の思想風土の中に、社会主義、共産主義を定着させるために、生き、そして、死んだ人間であるということが言える。尊い人柱であったということができよう。

  保安条令と幸徳

 幸徳は、明治四年に高知県の中村に生まれた。高知県といえば、明治の初年から中期にかけて、自由民権運動が発生したところであり、同時に、最も、その運動の盛んなところであった。自由民権運動のメッカであったといってもいいすぎではない。そういう土地に生まれた幸徳がその空気を大きく吸収して育ったとしても不思議ではない。彼は十歳頃から、政治問題に関心をもち始め、自由民権思想に、次第にひかれていった。それが、幸徳のメッキでなかったことは、十六才頃に入塾した遊焉義塾の教育について、
「同塾の教育は極々の干渉主義にして、少年の元気を阻喪せしむるをつとめ、一日に一時間の外、外出を禁じ、且、室内の汚
ワイなる、食物の粗悪なる、一言すれば、一個の囚徒にすぎざりしなり。新聞紙の如きは塾内にいるるを厳禁したり。蓋し、先生は維新前後、国家に功労ありし人にて、見識も高く、思想も豊富なりし人なれども、久しく、郷里の山間に隠避して、絶えて世間の何ものたるを知らざる如く老耄し、先生の眼中に、一個の支那古代の歴史の存せるのみなりし。」と書いているのを見ても明かである。いかに強く、激しく、自分の中にある自由の精神に憧れていたかということである。自然、幸徳は、塾からの脱出を心がけるようになる。思う存分、力の限り、学び、考え、行動できるようになることを求めるようになる。
 こうして、幸徳は、十七歳の時、高知をあとに、東京にでた。そして、林有造の書生となった。林は著名な自由民権の活動家である。だが、書生となったばかりの彼が、保安条令にひっかかって、東京を追われた。林の家に寄宿していたという理由だけで、追放になったのである。勿論、この時、保安条令にひっかかった者は、林有造、中島信行、中江兆民など、570名におよんだ。
 幸徳は、徒歩で東海道をくだったが、途中寒さと飢えで非常に苦しんだ。その体験がそのまま、明治政府の無謀な権力を徹底的に憎む基盤になったということができよう。やっと辿りついた東京であるにもかかわらず、またすぐに、理由もなく東京を放逐されたという怒り。しかも、今度は旅費もないままに、東海道を歩いて故郷にかえらねばならなかったという苦しみ。彼が明治政府の理不尽を憎悪したのも当然である。
 故郷に帰った幸徳であるが、そのまま、そこにとどまることはできない。今度は、中国にわたろうと計画した。しかし、これは成功しない。その間に、退去令も解除になったので 再び上京を志した。

  中江兆民の弟子となる

 途中、大阪にたちよったとき、友人の紹介やすすめもあって、中江兆民の学僕として移りすむことになった。幸徳が、自由民権思想から、社会主義思想へと開眼していく契機は、中江にであったことからおこった。
 即ち、彼は、中江のもとで、中江の指導をうけて、本格的に、社会主義の学習をすすめていく。その当時のことを、後に「儒教より社会主義に入り候」とか、「読書にて、“孟子”、欧州の革命史、中江兆民の“三酔人経綸問答”、ヘンリー・ジョージの“社会問題”および“進歩と貧窮”これ、予が熱心なる民主主義者となり、かつ、社会問題に対し、深き興味を有するにいたる因縁なり」と書いている。
 中江の紹介で、板垣退助の主宰する「自由新聞」に入社したのは、幸徳の二十三歳のときである。しかし、まもなくそこをやめ、広島新聞に移り、更に、中央新聞を経て、万朝報に入社した。有名な「自由党を祭る文」を書いたのは、此の時代である。
「いたく志士仁人の五臓をしぼれる熱涙と鮮血とは、じつに、なんじ自由党の糧食なりき。殿堂なりき。歴史なりき。ああ、その熱涙鮮血をそそげる志士仁人は、なんじ自由党の前途の光栄、洋々たるを想望して、従容笑をふくんでその死につけり。当時、だれか思わんかれら死して、すなわち、自由党の死せんとは。かれらの熱涙鮮血が、他日、その仇敵たる明治政府の唯一の装飾に供せられんとは。」
 そのことが、同時に、自由と平等のために戦った伝統を継承し発展させるには、もう、自由民権家としてでなく、社会主義者になるしかないということを幸徳に思いしらせることにもなった。自由党は亡び、社会党があるだけであると感じさせたのである。
「我は社会主義者なり。社会党なり」との冒頭の言をいいきったのも、その頃である。幸徳は、師中江の思想をのりこえて、社会主義者として、大きく飛躍していく。

  社会主義神髄

 明治三十六年に、幸徳は、「社会主義神髄」を書きあげた。その中で、彼は、
「社会主義とは何ぞ。これ我が国人の競うて知らんと欲する所なるに似たり。しかして、又実に知らざるべからざる所に属す。予はわが国における社会主義者の一人として、これを知らしむるの責任あるを感ずるが故に、この書を作れり。近時、社会主義に関する著訳の公刊する者、大抵、非社会主義者の手になり、往々独断に流れ、正鵠を失す。そのしからざるも或は僅かにその一部を論じ、或は単に、その一方面を描くに過ぎず」とまえおきして、
「産業革命以後、生産力は飛躍的に増大したが、それによって、富も蓄積もなされたが、反対に、人間の苦痛や飢餓、とくに、人民、大衆の貧困はより一層蓄積されるようになった。それが資本主義の現代である」と書く。当然、それを変革しなければならぬという結論に到達した。しかし、彼は、
「社会主義は、社会人民全体の平和と進歩と幸福とを目的とするのであって、決して君主一人のためにはかるのではない。故に、朕は即ち同家なりと妄言したルイ十四世の如きものは社会主義の敵であるが、衆とともに楽しむといった文王(中国)の如きは、喜んで奉戴せんとする所である」と書いて、革命は平和的に秩序的に行われなくてならないと考えた。そして、常に、人民全体の平和と進歩と幸福を求める日本の天皇は、むしろ、社会主義者として誇りに思わなくてならないと結論を下したのである。
 日本の天皇は社会主義の精神をもつものであり、社会主義に反する者は、そのまま、天皇の心にそむくものである、ともいったのである。

  断罪で思想を貫く

 だが、そういう幸徳を、そう考える幸徳を明治政府は天皇の名の下に死刑にしてしまった。天皇を認めた幸徳が天皇によって殺される。そこに、大逆事件の悲劇と喜劇があったということが出来る。それはとにかくとして、平和的、秩序的に社会主義革命を実現しなくてならないといっていた彼がどうして、直接行動論に変わっていったのであろうか。
 それは、「350万の投票を有せるドイツ社会党、九十人の議員に有せるドイツ社会党はたして何事をなしたりや。いぜんとして、武断軍制の国家にあらずや。いぜんとして、堕落、罪悪の社会にあらずや。投票なるもの、はなはだたのむにたらざるにあらずや。代議士なるものの効果、なんぞはなはだ、すくなきや。労働者の利益は労働者みずから掴取せざるべからず」という認識からきている。今日の日本における社会党や社会党代議士に似ているともいえる。幸徳の認識は、三派系全学連の認識に共通したところがある。
 要するに、幸徳は、直接行動論を強調し、彼の意見に賛成する者は、それを実行しようとした。
 実行しようとして、明治政府の断罪にあったのである。幸徳に断罪になるほどの罪があったかどうかはいまだ不明であるが、彼は、彼の説を実行しようとした青年たちと一緒に断罪された。それは、むしろ、幸徳の望むところであったであろう。革命思想家というものは、本来、人々の先頭にたって、その苦難の道をつきすすむものである。いかなる運命も甘受すべきものである。それが、自分の思想に全身で責任をとる思想家の生きる姿勢である。

 

                  <雑誌掲載文2 目次>

 

明治をきずいた人々 内村鑑三」

 

  明治の思想

 明治の思想といっても、明治という時代をかぎって、その時代の人々を指導し、その時代がすぎれば忘れさられてしまうというような思想もあるし、逆に、その時代の人々に殆んどうけいれられることもなく、わずかに、その周囲の人々に、強い支持をうけるにすぎないが、死後になって、その思想が再検討され、大正、昭和の人々を長く指導していく思想もある。
 私がこれまでとりあげてきた人たちは、どちらかというと、後者にあたる人たちで、明治という時代も指導したが、より多く、大正、昭和という時代を指導し、今日も、その思想の有効性が生きつづけているような思想家である。
 思想とは、そういうものであるし、また、そういうものでなくてならない。いいかえれば、その時代の思想といっても、歴史を貫く思想であり、歴史を支配する思想でなくてはならない。その時、始めて、思想の名に値するともいえよう。それは、歴史の重さに対応した思想ということであり、生の重さに対応した思想ということでもある。それにたえないものは、思想ではないということにもなる。
 このことを考えることなしには、これまで書いてきた人たちの思想は、全く、理解できないということを、ここで、もう一度、強く認識して貰いたいと思う。人間にとって、思想とは、それほどに、重く、且厳しいものであるということを。そして、内村鑑三の人と思想を考えることで、そのことを更めて、たしかめたいと思う。思想するということ、思想をもち、思想に生きるということがどういうことであるかを。

  札幌農学校に学ぶ

 内村は、文久元年(1861年)江戸に、武士の子として生まれた。札幌農学校入学したのは、明治十年、内村が十七歳の時である。札幌農学校といえば「少年よ大志をいだけ」といったクラークの言葉で有名な学校、彼が入学したときには、既に、クラークはいなかったが、その伝統は、生き生きとしてつづいていた。
 青年内村は、まず、その空気にふれ、伸々とした生活を始めた。しかし、その彼を更に大きく変えるようなことがおこった。それはキリスト教思想との出合いであった。
 即ち、内村は、これまで信奉してきた神道と儒教を捨てて、キリスト教思想の立場をとり治めたのである。これは、彼にとって、始めて、思想というものに出会い、その思想を択びとるということであった。ということは神道と儒教を批判し、キリスト教によって、それらを克服するということであった。勿論十七歳の彼が理解し、うけとめていた神道と儒教であるから、その神道といい、儒教といっても非常に、常識的、通俗的な理解をいでなかった。思想としての神道や儒教ではなかったが。
 人間というものは、新しい思想にむきあったとき、これまで信奉してきた思想を更めて、再検討して、その思想を常識としてでなく、思想として自覚的にうけとめていく作業にとりかかるか、或は、その思想をふりすてて、新しい思想にむきあうかのいずれかである。内村は、その意味では、後者の立場をとった。
 だが、一応、新しい思想を択びとったとしても、また、自覚的にうけとめたようにみえても、それは、まだ、本当に、思想としての評価をなした上で、それを自覚的にうけとめたということではない。その場合、必ず、もう一度、その思想を棄てるかどうかという苦しい立場にたたされるものである。その危機、その懐疑を客観的にのりこえたとき、思想は始めてその人のものとなる。その人の思想として、現実に作用しはじめる。彼もその例外ではなかった。

  米国にわたる

 だから、最初、キリスト教に魅せられ、キリスト教の立場をとった内村は、頑固一徹に儒教にこりかたまった父親をキリスト教に改宗せしめるために、忍耐強い説得をつづけ、終に、その改宗に成功したほどであったが、また、キリスト教普及のために非常に情熱的な活動を開始したが、彼の中にも、キリスト教への懐疑が、それも、どうしようもないほどの深さをもって、二、三年後に、おこっている。
 その懐疑がどういうものであったかということを書くことは、到底、ここでは不可能であるが、人間がそういう懐疑に直面したときあくまで、その懐疑に直面しつづけるか、それから逃避するか、そこに、人間が思想家になるかならないかの分岐点がある。内村は、その時、敢然として、思想家の道をえらび、苦難にみちた生涯ではあったが、同時に、栄光と歓喜にみちた人生を歩みはじめた。如何なる人間にも支配されることのない、また従属しない、自分自身の人生を歩みはじめたのである。内村を支配できるのは、唯一人のイエス・キリストがあるだけであった。いいかえれば、内村は、内村自身を主人として、自らのための人生を歩みはじめたということである。
 勿論、内村が、キリスト教によって、そういう意識と姿勢をもつことは容易ではなかった。キリスト教国アメリカに渡ったのも、その意識と姿勢をもつためであったが、アメリカに渡った彼は、却って、キリスト教への懐疑を深めたし、そういう意識と姿勢からは、ますます、遠ざかるという有様であった。当時の彼の絶望と苦悩がいかに大きかったかということでもある。
 だが、内村は、それから逃げなかった。その絶望と苦悩が深ければ深いほど、より激しい情熱と強い意欲をもって、その解決にとりくんだ。こういう生活が三年余もつづいた後に、彼は、やっと、一つの解決に到達した。それは、「日本は、それ自身の歴史的個性をそなえて、宇宙の中に一定の空間をしめる真の均整のとれた調和美、高い目的と高貴な野心を有する聖なる実在。それを実現することがキリスト教思想に生きることである」という発見であった。「キリストの意志に従って、日本と日本人が生きる」ということでもあった。
 だから、彼にとって、現実の日本と日本人を放置して生きるところには、キリスト教はなかった。この発見は、内村が日本にかえり、日本と日本人を歴史的個性として、高い目的と高貴な野心に生まるものに作りかえることであった。日本と日本人に革命をおこすということであった。

  不敬事件

 こうして、日本に帰ってきた内村の前に、当然のことながら、彼の思想と信仰の真価を問うような事件がおこった。それは、教育勅語奉戴式に、第一高等学校の教員としての彼も他の者と一緒に、拝礼を求められたときのことである。だが、彼は、それを拒否した。唯一のイエス・キリストの尊厳性と真理性を認めても、その他の者は、皆、平等であり、天皇もその例外ではないと考える彼としては、当然なことであった。こうして、彼は、自ら発見したキリスト教思想に忠実であった。思想に生きるという最初の難間をきりぬけた。しかし、人々は、彼を批難し、彼を許そうとはしなかった。
 内村は、そのために、第一高等学校の教職を失ってしまう。こうして彼は、その思想、その信仰が本物であるということを実証したのである。だが、実証したことにより、彼は、その職を失って生活の苦労をしただけでなく、国賊という汚名をも甘受しなければならなかった。その苦しみは、アメリカ時代のそれに匹敵していたともいえよう。
 しかし、内村は、そういう生活の中で、彼の思想と信仰をいよいよ深めていくことにもなった。キリスト教思想を生きぬこうという決心と覚悟は、ますます強いものになっていった。こういう生活がなかったら、キリスト教思想にあくまで、生きぬこうとする徹底した意識と姿勢は育たなかったのではないかということも出来る。

  反戦の戦い

 内村は、日清戦争を「吾人の目的は支那を警醒するにあり、その天職を知らしむるにあり、彼をして、吾人と協力して東洋の改革に従事せしむるにあり、吾人は永久の平和を目的として戦うものなり」といって、肯定し、支持した。彼は、日清戦争を義戦と解釈したが故に、その戦争を支持した。しかし、次第に、その戦争は、とんでもない戦争、侵略戦争にすぎないことを知りはじめる。ことに、その戦争の勝利で、日本が得たものと清国が失ったものを知った時、彼は、次第に、戦争そのものを否定するように変わっていく。
 日露戦争の時には、ついに「戦争は人を殺すことである。……人を殺すことは大罪悪である」とまでいいきる。こうして、戦争絶対反対絶対平和主義の立場をとる。勿論、これをいうことは、当時の日本では、国民の中で孤立することを意味する。ことは、正義のための戦争ということは、今日でも、通用している意見であるばかりでなく、軍備がなければ、他国から侵略されるという意見もかなり強い。
 八十年前に、絶対平和、戦争絶対反対を唱えることは容易ではなかった。彼は、再び、国賊という汚名をうける。だが、その中で、内村は、己の思想を生きつづけたことをよぎなくされたのである。しかも、内村は、そこに、かえって、キリストとともに生きる喜びと充実感を強めていったのである。
 内村が内村の思想に生きるということは、そういう孤独な戦いの中に生きるということであった。それ故に、重く、厳しいものでもあったが、逆に、己の信ずる思想が必ず歴史の思想となり、未来の人間を支配する思想になるという確信と、それにもとづく喜びと期待も大きかったのである。思想に生きるとは、結局、自分のために生きるということであり、栄光への道であるが、孤独への道を歩みつづけるということである。

 

                <雑誌掲載文2 目次>

 

「明治の叛乱 武士の終焉

 

  新しい時代の中で

 明治維新は下級武士を中心とし、それにめざめた農民、町人たちが参加してやってのけたものであるが、その指導理念は、日本の伝統思想と中国の思想の合体の中から生まれたものであった。
 日本の伝統思想というのは、「古事記」、「日本書紀」にあらわれている思想のことであり、簡単にいえば、人間や生物は無限に生成し、発展するものであるという生成の思想を根柢にしてすべての人間や生物にひとしく神を見出す平等の思想と、他者を征服し、統一する時には説得という手段を重視するという平和の思想であった。
 中国の思想というのは、朱子学、陽明学の思想のことであるが、それによると人民は天からあずかったもの、支配者は天命に従って人民をおさめるものという天の思想であり、しかも、その思想は、行動に出たときにのみ思想と呼ばれうるものがあるというのである。
 こういう思想にたって、幕藩体制の矛盾をみたとき、それがはっきりと、否定すべきものととらえられたとしても当然である。そこには、人間の平等がなく、生成発展の自由がない。天の意志に背く政治だけがあるという認識である。
 人々が自由と平等を求めて蹶起したのももっともである。思想とは行動であり、行動こそ思想であると知ればなおさらである。そして、幕藩体制の権力を仆すのに、可能なかぎりの平和的説得的方法を用いたのも、日本の伝統的思想によったものであるといい得るであろう。
 ことに、慶応四年、由利公正の提出した「五ヶ条誓文」の文案をみれば、明治維新が、日本の伝統思想と中国の思想の合作であったことがはっきりする。
 即ち、
 一、庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを要す。
 一、士民心を一にし、盛んに経綸を行うを要す。
 一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
 一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
 一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
 をかかげて、全人民の方向をさししめした。ここには、全人民の喜びと希望があり、活動が約束されていた。人々が自分の生命をかけて、維新の実現に邁進したのもそのためである。
 だが、明治という新しい時代、新しい社会は人々にどのように映ったか。ことに、維新実現の主役者であった武士たちにはどのようにみえたか。新しい時代の中で彼等が得たものは何であったか。まず、そのことからみてみる必要があろう。

  旧体制の矛盾

 武士は、幕藩体制の中で、一応、農・工・商の上に立つ階級として認められ、それを支配する位置にあるかのように、見られたが、実は、農・工・商以上の不平等の中におかれていた。
 ことに、武士階級の中には、幾重にも階層があるだけでなく、その階層間の差別は厳然として秩序づけられていたし、一つの階層から、上の階層に移るということは、殆んどありえなかった。しかも、武士ということで、農・工・商とは比較にならないほどの責任と服従を求められたのが下層武士であった。武士という体面をたもつために、猶一層みじめな生活も送らなくてはならなかった。
 彼等が武士としてのたしなみから書物を読み、そこから、日本の伝統思想にふれ、中国思想に親しむことにより、現体制に激しい怒りをもち、それを拒否する心を徐々に深めていったのもそのためである。
 加えて、当時は、西洋諸国がアジア諸国に進出し、幾つかの国は、その植民地になるという危機的状況にあった。それは、そのままいつ、日本がその運命におちいるかもわからないということであった。しかも、日本の指導階級である上層武士たちは、身分制度の上に安住し、日本の危機を感じとりそれに対処しようとする覚悟さえなかった。
 彼等が、幕藩体制の矛盾をいよいよ鋭く感じとったのも不思議ではない。その怒り、その憎しみが幕藩体制を仆したといってもいいすぎではないし、それ故にまた彼等の中に新しい時代、新しい社会を求める心は燃えたぎったのである。
 自由な天地を得て、思う存分生き活動する自分たちを想像して、ハッスルした。
 だが、新しい時代、新しい社会になって、彼等が得たものは何であったか。それは、武士という身分をうしない、生活の基盤までもうしなうことでしかなかった。彼等の欲していた自由な天地も充実した活動のできるところもなかった。それこそ、自由は自由でも飢える自由だけであった。
 そうなると、彼等は、明治という時代、明治という社会に絶望していく以外になかった。しかも、明治政府をつくっている人々それに連る人々は高給をとり、わが世の春を謳歌したのである。一見明治という新しい時代は、明治政府に連る人々のために、多くの武士が血を流し、苦闘したようにもみえた。それも、目的が達成するとお払箱にする。彼等は、あらためて怒りをもやし、その憎しみをたぎらせた。
 それに、もっと悪いことは、政府高官の中には、大商人と結托し、賄賂をとり、人民のための政治を私視したばかりでなく、自分は旧体制当時の殿様のような生活までする者も出てきたのである。これでは、維新の理想はどこへいったのかということになる。士族の中にはむしろ、旧体制時代がよかったと思う者も相当数でた。その点では、農・工・商もかわらなかった。とくに、明治になって、税金が重くなっても、軽くならなかった農民の中に、そう思う者が多くいた。

  西郷の征韓論

 武士たちのこういう怒りや苦しみを全身に感じとるとともに、彼等以上に、明治政府の高官の堕落を激しく糾弾したのが西郷隆盛であり、前原一誠であった。二人はともに、維新の中心的なポストにあったが、同時に、中国思想を、骨の髄までしみとおらせていた男たちでもあった。そのために、武士たちの窮乏や人民の苦しみをみるにつけ、彼等を何とかせねばならないという思いがたかまった。
 それに、西郷にしても、前原にしても、新時代への希望に、武士たちをまきこみながら、新時代になってみると、情況はそんなに甘くはなかったといって、彼等をつきはなして冷然としていられる程、非情な男たちではなかった。
 だから、明治六年、征韓論が再燃したとき、西郷や前原は、武士たちに生活の糧と希望をあたえるために、これに飛びついた。彼等は、この時、西洋諸国の先例にならって、韓国を攻めるという無法を思いつくよりも、唯希望を失った士族たちをどうにかしてやりたいという一念の方が強かった。わずかに、西郷らしいところは、「韓国との交渉には直接自分をあたらせてほしい。自分が殺されたときに、征韓の兵を出してほしい」といいつづけたことである。
 ここには、あくまで、日本の伝統思想である説得の思想、平和の思想があり、それに従って行動しようとした西郷の姿勢がある。その時の彼には、仲間である武士たちの悲惨と絶望をみるにつけ、自分自身、もはや生きていられないという思いがあったのかもしれない。
 いずれにせよ、西郷や前原は、士族たちの活路を求めて、精一杯努力し、活動した。武士たちも、それを伝えきいて希望をいだく者が多かった。
 だが、征韓論はもろくも潰え去った。西郷としては政府にとどまることはできない。まして、士族たちの窮乏を冷然と見下していられる者たちと一緒に、政治をしていく心はおこらない。
 こうして、西郷は、ともに、征韓論をとなえた板垣退助、江藤新平たちと一緒に政府を去り、それぞれ故郷にかえっていった。即ち、江藤は佐賀に、板垣は高知というふうに。その時、板垣は、西郷にあてて、「今後、行動をともにしよう」と申しいれたが、彼からは、「足下と余と一致協力せば、天下敵するものなけん。故に、余は足下の余を助けざるを望むのみならず、余に反対するもまた怨むところにあらず。願わくば、余のことを以て念となすことなく、余を放棄して、なすがままに一任せよ」という返事がきたという。
 西郷の心には、明治政府を怒り、憎みながら、板垣と協力して、政府を仆すことはいけないことであると考えていたのかもしれない。大久保を中心とする新政府以上の政策は、自分や板垣には望めないと考えていたのかもしれない。そうなると、西郷のゆく道はきまっているということにもなる。
 しかし、その前に、まず、江藤新平を中心とした佐賀の乱のことにふれなければならない。

  佐賀の乱

 佐賀には、江藤新平の流をひく征韓党と元秋田県令島義勇を首領と仰ぐ憂国党があり、ともに、激しく明治政府を攻撃していた。ことに、両党は、お互の過激ぶりと勇気を競いあうことによって、いよいよその過激ぶりを強めていくという状況にあった。
 しかし、江藤の帰国を機に、両党は手を結び相携えて挙兵することにきまった。明治七年二月のことである。彼は、この時、「戦を決するの議」の中で、「政府が一度きめた閣議をくつがえし、征韓論をひっこめた」ことを攻撃し、島は、鋭く、西洋諸国の醜風に心酔していることを批判した。いずれも、明治政府の軟弱ぶりと日本人としての自信と誇りのなさを糾弾したものである。
 江藤・島にひきいられた二千五百の叛乱軍は、一度は佐賀城を攻略して県令岩村高俊を敗走させるほどであったが、まもなく、熊本、広島などの鎮台兵に攻められると、一月ももたず、江藤や島はひそかに佐賀を脱出して鹿児島に落ちていくという始末であった。
 勿論、江藤はその蹶起に先だって、鹿児島の西郷、高知の林有造、萩の前原一誠などに密使を送り、ともに挙兵せんことを説かせたが、誰一人、彼に呼応するものはいなかった。彼等は、江藤を孤立させ、江藤を見殺しにした。
 しかも、西郷や林は、保護を求めてきた江藤の願いまで拒絶してしまった。それというのも、大久保を中心とする政府の断固たる姿勢、あくまで、江藤・島を追捕するという姿勢の前に、彼等もひるまざるを得なかったということである。
 三月七日には、島が、鹿児島で、二十九日には、江藤が高知で捕えられ、わずか二週間後の四月十三日にはもう謀叛罪によって死刑になってしまった。それも梟首にするという残酷なものであった。
 内務卿大久保利通の不平士族、不満武士たちに対する姿勢が、いかに過酷なものであったかをしめすよい証拠であった。
 だが、士族たちは、それでおびえ、ちぢこまるものではなかった。彼等自身、幕藩体制の絶対的権力と対決し、その狂暴な抑止力をはねのけて、新しい時代を作りだした勇士たちである。自信と誇りは十二分にもっていたし、死ぬことを恐れない者たちであった。
 大久保の強権の前に、彼等はいよいよふるいたったということができよう。こうして、おこったのが明治九年から十年にかけての神風連の乱、萩の乱、西南戦争である。

  神風連の蜂起

 政府は、明治九年三月に、廃刀令をだし、つづいて、八月には、従来、士族にあたえていた禄を金禄公債にかえるという挙に出た。これは、政府の士族たちへの徹底した挑戦を意味するものであったが、士族達にとっては、その誇りであり、名誉の象徴でもある刀をとりあげられるということであった。
 佐賀の乱の時には、隠忍自重してたたなかった彼等も一挙に火がふいたように蹶起した。
 そして、まず、たちあがったのが、明治九年十月の、太田黒伴雄を中心とする神風連の乱であった。彼等は、
 一、神祇を尊崇し、国体を維持し、尊攘の大義固く相守り、終に、素願を達し、宸襟を安んじ奉り、万民の塗炭を相救うべき事。
 一、我が神聖固有の道を奉じ、被髪脱刀の醜態決して致すまじく、たとい、朝命ありとも死を以て練争し、臣子の節操を全うすべき事。
 一、同志の交は、骨肉厚薄なく、歯の長ずるを以て上と定め、礼儀を乱さず、讒口にしいられず、苦楽を共にし進退を一にすべき事。
 という誓いをたて、蹶起したことでも明かなように、単に、武士の魂である刀をとりあげられたことに対する怒りだけではなかった。
 彼等には、廃刀は武士道の否定であると同時に、日本の固有の道、固有の思想の否定を意味していた。固有の道、固有の思想をまもって蹶起するということは、彼等がどうしてもやらなくてならないことであった。
 ことに、彼等は、三百名余で蹶起すれば、必ず敗れることはわかりきっていた。わかっていても、猶、蹶起しなくてならないとみきわめたところに、行動にたちあがったところに、彼等の行動の意味、思想の意味があったのである。
 神風連は、武士道に、日本固有の思想に殉じたということができる。彼等が覚悟していたように、その蹶起は、すぐに鎮圧されたし、首領の太田黒以下二百十八名は戦死し、八十三名は自決している。これは、彼等が何のために蹶起したかを明かにしている。
 旧秋月藩の宮崎車之助は、四百名の同志とともに、神風連の蹶起三日後に蜂起したが、まもなく、鎮台兵に敗れている。

  蹶起の理由

 萩の前原一誠も、太田黒、宮崎たちについで、十月二十八日に、行動をおこし、二百余人で、県庁を襲撃している。
 彼は、吉田松陰門下生で、師松陰から、至誠の人として折紙をつけられたほどに、生真面目で融通のきかない人間でもあった。その点では、明治維新の理想をその全存在で追求し、実践しようと心がける人間であった。だから、越後府知事の時には、中央政府の許可をうけずに、水害に苦しむ人民のために、減租にふみきるほどの男であった。
 しかし、そのためにかえって、前原は、中央政府から叱責せられるという有様であった。彼が、明治三年、政府の一切の官職をすてて山口に帰えったのも、維新の理想をふみにじる政府にがまんがならなかったためである。
 前原がその蹶起にあたって書いた檄文には、
「太政大臣三条実美以下数十人の大吏、鄙猥の資をもって、顕栄をぬすみ、盗心をもって収斂苛酷の政治を行い、海内を
ホウ克し、尺寸余りなき有様である。
 これを外夷に輸出し、もって苟安をむさぼっている。また、自らの為す所人意不満なるを知って、刺客の禍身におよばんことをおそれ、天子の兵を以てその身を守る。天子の左右大臣如何数十人の私人、名は君を奉ずるといいながら、これを幽辱しているに等しい。天誅許さざる所、神人同じく憤る所、忠義の士をもって、刃をその腹中に刺せんことを欲する者、多年にわたっている」
 とあり、政府の高官を攻撃している。
 前原には、どうしても、彼等を許すことができなかった。彼の中の至誠が許すことが出来なかったのである。それを、彼の中の武士道といってよいかもしれない。その時の彼には、武士道とは至誠であり、仁であり、それらを実践することでしかなかった。その意味では、前原は、最も武士らしい人、武士らしい心情の持主であったということができよう。
 前原は、こうして五百名の同志とともに、蹶起した。二千五百名を蹶起させた佐賀の乱の時には、立たなかった彼が、今度ははるかに少い人数で立ち上った。それは成敗など問題にしないで、なすべきことを断乎なすという最も武士らしい武士ということでもある。
 だから、前原は、行動をおこしたときに、全軍に次のように命令した。
 一、人民の物は、秋毫も犯すべからず。
 一、賊吏の物といえども、みだりに分捕るべからず。輜重より始末させること。
 一、義兵の儀は、辛苦をこらえ、不自由を常と思い、宿陣等にて飲食のぬすみを致すべからず。
 ここには、なみなみならぬ誇りがあり、覚悟が充満していたのである。
 しかし、戦いの状況は、前原たちの誇りや覚悟とは反対に、全く、よくなかった。戦況が好転するとも思われなかった。その中で、前原は、できるかぎり、蹶起の理由を人々に広く知らせたいと思いつづけた。だから、彼が十一月六日に捕えられたのも、東京に護送されるという条件であった。それこそ東京で、堂々と政府を糾弾し、その後に断罪になればいいと考えたのである。
 だが、政府は、前原に、その機会をあたえようとしなかった。政府を攻撃する暇もあたえるどころか、十二月三日、判決をいいわたし、その日のうちに殺してしまった。いうまでもなく、叛乱罪によって。

  武士道精神、最後の人

 西郷は、明治十年二月に蹶起した。この蜂起は、日本を二分するほどのものであった。とくに、西郷たちの戦いの如何では、政府をも仆す動きが、全国的にわきおこる可能性があった。その意味では、言論による政府批判、政府攻撃の火ぶたをきりはじめた板垣、大隈重信たちに対して、武力による政府批判、政府攻撃の最後の砦でもあった。この時、西郷たちの呼びかけに応じて蹶起した者が四万二千ということであるから、その勢力も、佐賀の乱、萩の乱に比較できないほどに多かった。
 西郷の声望が当時いかに大きなものであったかをしめす証拠であり、士族たちもいかに西郷に望みを托し、彼に期待していたかということである。
 西郷は、これらの期待にどのように対えようとしたのであろうか。
 当時、政府は、西郷軍は、おそらく、全軍を長崎にすすめ、軍艦をうばい、その半分で、神戸、大阪を攻め、その半分で東京を攻め、横浜をおさえることによって、天下を制する動きをとるのでないかと心配した。もし、それが船の不足で、出来ないときには、熊本城を一支隊でおさえ、主力は博多、小倉を抑えて、一挙に、大阪を制するという方法をとるにちがいないと考えていた。だから、西郷軍が全軍で熊本城をかこんだときいたときには、ホッとしたものである。それこそ下策以外の何ものでもなかったからである。
 西郷軍のなかにも、長崎を攻めることを考えた者もいないではなかったし、全九州をおさえることを考えた者もいた。しかし、なぜか、西郷は熊本城攻撃に主力をおく作戦を決定した。彼が、大村益次郎ほどの戦略家・戦術家ではないにしても、大村なきあとの日本では、当代一流の戦略家である。その彼が、何故に、こんな下策をとったのであろうか。
 西郷は、鹿児島出発にあたって、鹿児島県命大山綱良にむかって、陸軍大将西郷の名で、「今般政府へ尋問の筋あり、不日に当地を発程致し候間、御含みのため、この段届け出で候。もっとも旧兵隊の者ども随行、多人数出立致し候間、人民動揺致さざるよう、一層御保護御依頼におよび候」とつげたように、東京まで、堂々と進軍できると錯覚したのであろうか。何人も、彼の進軍をおしとどめる者はいないと自己を過信したのであろうか。
 私は、先に、西郷が板垣との協力をことわり、「板垣には板垣の道を歩むように、自分は自分の道を歩む」と返事したときに、西郷には、彼のゆく道はきまったのではないかと書いたが、私には、どうしても、その時、西郷が死の道をえらび、死の道をまっしぐらにつき進むしかないと考えたと思われてならないのである。
 板垣と一緒なら、まだまだ、大久保や木戸をおいおとして、日本を制することができると考えた西郷、それだけの自信があった西郷。しかしその道を択ばず、敗北の道を敢えて択んだ西郷。
 それが、維新の理想を呼びかけて、多数の士族たちをひきずりこんだ者として、彼等に対する責任ではないかと考えたに違いない。
 新しい時代、新しい社会の中に、所を得ないままに存在する沢山の士族たち。活動の舞台をもたないままに、不平不満をいいつづける士族たち。勿論、西郷には、政府に対する不満も強い。ことに、士族たちに対する政府の施策には憤りを感ずる。
 それでいて、大久保や木戸たち以上に、全人民のための政治を行えるという自信ももてないと知ったとき、彼等とともに消えさるしかなかったのではないか。その死は、西郷が発見した武士道そのものの示すものではなかったのか。その意味では、西郷は「武士道とは死ぬこととみつけたり」という武士道精神を自ら行い、また、人々にも行なわせた最後の人ということが出来よう。西南戦争こそ、悲壮な武士道を生き、実践した最後の人たちの戦いであった。

  維新の原動力

 このようにみてくると、武士たちの最後の叛乱は、単に、反革命的な動きであったとか、保守晦冥な者たちの時代おくれの行動であったということはできないのではないか。
 神風連の人達にみられるように、明らかに、その蹶起は、日本固有の思想をまもり、貫くために、死にむかっての行動にでたものから、萩の乱のように、維新の理想をあくまで貫き、実践するために、明治政府の人々を諫死するために蹶起したものであった。
 佐賀の乱のように、日本人の誇りと自信を日本人の中に、振起するために戦って死んでいった者もいるし、西郷たちのように、自らを余計者として抹殺する行動にでた者もいる。しかも、抹殺する行動そのものを通じて、日本そのものを覚醒させようとする意図をはらませていたのである。
 その思想といい、その行動といい、悲壮美の極致である。自分の身を殺して、理想を追求するということは、仁の極致であり、勇気がなくては、決して出来ぬことである。ことに神風連や萩の乱にたちあがった人々のように、自分を殺すことがわかっていながら行動に蹶起するということは、蹶起しないでいられないということは、何よりも自分に忠実であり、自分にうちかつ行動であったということができる。
 それこそ、武士たちが武士道といい、武士の真髄と称してきたものである。
 その点、佐賀の乱といい、神風連の乱、萩の乱、西南戦争にたちあがった人々の行動は武士道そのものであった。武士道の真髄を実践したものであった。
 しかも、明治維新の革命を招来したもの、その原動力になったものも、武士道であった。というのは、幕藩体制を仆すという最も困難な行動、果敢で、決死的な行動を導きだしたのは、武士たちが武士道をその全存在で実践したためである。
 武士道といっても、既に、幕藩体制の指導者たち、上層武士たちには、それは殆どなく、ただ下層武士たちを中心に、生きていたにすぎず、彼等は、自分自身のために、武士道を実践したのである。
 先に、日本の伝統思想といい、中国の思想が彼等の行動を導く思想となったといったが、彼等の中では、それらが彼等の武士道と殆んど一つになって作用した。それによって、彼等の武士道の内容を豊かにした。
 それに、どんなすぐれた思想といっても、所詮は行動を導き、行動を方向づけるものでしかない。また、どんなにすぐれた思想といえども、それが人間の情念と結びつき、欲望と直結して、行動そのものを生みださなければ、現実には何の価値もない。
 幕末当時に、日本の伝統思想、中国思想が武士道と結びついたからこそ明治維新となって開花し、結実したのである。現に、日本の伝統思想は、古くからずっとあったし、中国の思想にしても決して新しいものではなかった。
 佐賀の乱にしても、萩の乱にしても、被等は、武士道の危機を感じとって、維新の時の武士道を継承しようとしたにすぎない。武士道は、武士たちの情念と結びつき、欲望と直結した行動力、実践力そのものである。

  伝統思想と明治の叛乱

 そこに、西南戦争後、今日迄、つねに、江藤、太田黒、前原、西郷たちを明治維新のより完全な達成を望んで、仆れた人達として崇敬し、その行動を学ぼうとする人達が存在する理由である。その人たちは、彼等を反革命的な人間、偏狭固陋な人間とみることなく、あくまで、永久革命を希求した人たちとして、連続革命を熱望した人たちとして高く評価する。それは、逆に、大久保、木戸、さらにその流れをひく、伊藤博文、山県有朋たちこそ、明治維新をゆがめ、反革命に転じた人たちであるという評価である。
 そういう歴史観は、少くとも、日本の歴史学会の主流ではないし、細々と、国民の中に伝わる意見でしかない。武士道を称揚すれば、その人は時代錯誤とみられる。
 しかし、太田黒たちが武士道の死は日本の伝統思想の死であると見たごとく、日本人の生そのもの、行動そのものの死とみたごとく、実際に、明治十年後の、日本人の思想と行動は、すべて、西洋人の思想と行動の模倣と化し、奴隷と化していった。その頃から、人間の感覚・情念を重視する者は殆んどなく、感覚・情念と遊離した単なる知識、物知りだけが重要視されるようになった。行動が問題にされなくなった。
 そのために、日本人の思想はますます力のないものになるという時代を現出して、それは今日までつづいている。
 武士道の消滅とともに、行動に裏づけられた思想、行動を導き出す思想は亡んだのである。日本の伝統思想をふまえて、その思想をこえふとらせていくという姿勢はなくなって、単に、西洋人の思想を要領よく模倣した者が、摂取し、紹介する者が評価されるという状況が出現したのである。
 武士道は、むしろ、士族たちの独占物として、士族たちとともに亡ぶベきものでなく、全人民の中に生かされるべきものであった。それを、これらの叛乱は証明しているのではないか。
 最後に、西郷の言葉をひいて、彼が決して、歴史に対して反動でも偏狭固陋でもなかったことを明らかにしておきたい。
「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言葉にして宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華をいうにあらず。世人の唱うる所、何が文明やら、何が野蛮やら些ともわからぬぞ。
 予かつて或人と議論せしことあり。西洋は野蛮じゃといいしかば、いな文明ぞと争う。いな、野蛮じゃとたたみかけしに、何とてそれ程に申すにやと推せし故、実に文明ならば未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、さはなくて、未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し、己を利するは野蛮じゃと申せしかば、その人口をつぼめて言なかりきとて笑われける」
「正道をふみ、国を以て仆るるの精神なくば外国交際は全かるべからず。
 彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて、彼の意に順従する時は、軽侮を招き、奴親却て破れ、終に、彼の利をうくるに至らん」
「道を行うには、尊卑貴賎の差別なし。つまんでいえば、堯舜は天下に王として万機の政事を執り給えども、その職とする所は教師なり。孔子は魯国を始め、何方へも用いられず。しばしば困厄に逢い、匹夫にて世を終えしかども三千の徒、みな、道を行ひしなり」

 

                <雑誌掲載文2 目次> 

 

「伝記と経済人」

 伝記といえば、普通それに興味がある者だけが読むものと理解されている。だが、私のように、伝記を好んで書く者にはそれだけの理由がある。私はむしろ、伝記に興味をもって読む者よりも、一般に広く読ませたいと思っている。ことに、今日のように、経済が人類歴史の主要な発展の契機になっているといわれるような時代には、経済にたずさわっている人々に特に読んでもらいたい。
 それによって、人々がその時代をいかに生きぬいたかを人物を通して知ることが出来よう。あるいは、その人物がその時代をいかにとらえ、また人々とどういう関係にあったかも知ることができるであろう。そして、時代の推移を見透して、その上に自分の行く道を重ねあわすことのできた人物ほど、その人生で成功者になることもわかってこよう。
 いってみれば、伝記を読むことによって、歴史の進展を把握することがどんなに大切か、さらに生きていく上に人間の活動力がどんなに大切か、また人間関係がどんなに大切かなど種々のことがわかってくる。

 先年、徳川家康がブームとなり、経済人に非常に読まれたのもそのためである。しかし、徳川家康伝を読んだ人の中の幾人が、本当に家康伝を読みとり、それをきっかけとして、他の伝記を読むようになり、そればかりか、自分の企業を現代のなかに位置づけ、その企業を通して、日本の行末を考えたであろうか。残念ながら、そういう人々は少なかろう。
 私の友人で、今日、会社の幹部になっている者も多い。しかし、その中の一人として、私が彼等のために、伝記をかいていると思ってくれる者はいない。そのために招かれて、講演することもない。家康のブームにしても、ブームであるから読んだというにすぎない。ブームがブームをよんだにすぎない。伝記こそ、自分たちのためにあるし、幼時、青年期の二回の人間変革期を経た今日、大人にもう一度人間変革のチャンスがあるとすれば、伝記を読むことによって、今一度自分の中にあるヴィヴィッドなものをかきたてることによって、生まれるかもしれないということを忘れてしまっている。大人とくに経済に直接たずさわっている人達は、ともすれば自分自身に最もヴィヴィッドなものが欠けている人物であると思っており、それだけでなしに、自分達にはもう一大変革は訪れないものと思っている者が多い。
 現に、経済に直接携わっている者には、無気力で依存心の強い者が多いし、これまでに伝記の対象となる者も少なかった。しかし、実際には、無気力で依存心の強いということは、経済人にとって、最も否定さるべき要素である。それが、そうでないということは、実際に、単純な人が多く、さらに“人間のこと”を読まないことによって、いよいよ、その人を単純にして、経済そのものまでも単純化したためであろう。そればかりか、経済学というものまでも、人間を捨象したところでとらえて無味乾燥なものにしてしまい、人間不在の経済学にしてしまったのである。今日、人間が公害で苦しんでいるのも、人間不在の経済学が生んだ当然の結果である。

 いずれにしても、経済人が人間の記録を読まない弊害は大きい。中には、読んで一利なしと思っている経営者も多い。
 しかし、今日のように、長い間にわたって感覚教育の無視されている学校教育に育った者であればなおさら、伝記を読むことによって、感覚を助長していく必要がある。とくに、人間不在の経済学を主として専攻してきた人間ほどその必要がある。経済学同様に人間不在の学問をやってきた者にも必要である。
 その意味では、伝記は今の不十分な学校教育を補うものといってもよい。伝記をよむことによって、今の経済人は、その無気力、依存心などを除去して、非常に複雑で活動力のある人間に変わるかもしれないし、複雑に変化し、微妙に進展する時代と四つにとりくむようになるかもしれない。
 そうなれば、経済が人類史の主要な発展の契機となっているといわれるだけでなしに、経済人が人類史を動かしていくといわれるようになろう。経済人が己の中のねむっているものにめざめて、十二分に活動をはじめだす日こそ本当にこわい。しかし、その時こそ、経済人が伝記の対象の主流になる時であろうし、その伝記によって経済人がつくりかえられる時である。
 今のように、経営者が人間生命の根源に眼をそそがず、末梢的指術的知識に眼をうばわれている間は、経済人は伝記を読むようになるまい。しかし、一度、経営者が人間生命の根源に眼をそそぎはじめ、人間生命の根源こそ貴重であり、それが生き生きしているかぎり、どんなに世の中が複雑にみえ困難であっても、その時代を動かし、時代をつくっていけるものだと信じ、そのためには伝記が最も適当だと知るなら、伝記をみる経済人の眼もかわってこよう。そういう日が一日も早くくることを望みたい。そして、世の中が伝記の主人公のように生き生きしてくることを。
 伝記とは、何よりも、具体的な生をえがくことによって、その生が如何に生き生きしていたかをかいたものである。理論よりも理解しやすい。

 

                   <雑誌掲載文2 目次>

 

「歴史と歴史小説 定説に安住しないその“史観”

 

  人間がえがかれていない「歴史」

 最近、司馬遼太郎、松本清張、今東光、八切止夫、金達寿などの歴史小説が一つのブームを呼んでいる。それは如何なる理由によるのであろうか。歴史家の歴史書よりも、ずっと多くの人に読まれているだけでなしに、人気もずっとある。何故であろうか。
 普通、歴史家というものは、二十数年前の戦争中は、わずかその中の二割位の人が平泉澄博士を中心とする皇国史観を依り所としていたのに対して、三割位の歴史家がそれに同調し、残りの五割はそれに対して無関心の態度をとり、心中に、歴史とは畢竟実証史観以外にないのだと思っていたものである。
 敗戦後、この皇国史観は殆んど消えて、かわりに唯物史観が登場し、唯物史観にたつ歴史家がかつての皇国史観の立場の歴史家の位置をしめた。しかし、ここで注意しなくてならないのは、戦後の歴史界もせいぜい二割の歴史家が唯物史観にたち、その三割が同調者で、五割の歴史家は相変わらず、実証史観に立っているということである。
 これは、歴史界というものは大勢としてはかわらず、人々にしみこんでいる歴史とは暗記物であり、勝者を正当とみる支配者の歴史であることには少しも変化がないのである。これは実証主義史観から生まれたものである。皇国史観といい、唯物史観といっても、多くの人々の物の考え方を根柢より変えるということでは程遠いのである。
 だから、歴史学が大学の一般教養にとりいれられて二十年余になりながら、人々に歴史そのものを考えさせ、歴史的意識をあたえ、歴史的思考法をもたらすことは殆んどなく、唯物史観に立つ歴史家を中心とする歴史研究会では、教科書に神話をとりいれると文部省が発表したとき、徒らに政治的発言をきんきんとあげるだけで、殆んど歴史的発言をなしえなかったのである。また、歴史学を学んだ人々の中にも、それに反応する人は少かったのである。要するに、歴史観といっても、少数の歴史家の間で、さわがれているにすぎないのである。
 しかも、その史観が皇国史観といい、唯物史観といっても、始めから、思想信条なり、信念から出発して、その史観にたったもので、史実の研究から、その史観をみちびきだしたものでない。その意味では、ともに観念史観である。勿論、皇国史観、唯物史観の創始者はともに、史実の実証主義的研究を十分にやり、その結論として、その史観にそれぞれ到達したのであるが、その後、その同調者、継承者の間では、その研究なしに始めから、その史観を妄信する人々をつくったものである。そして、歴史界に深く横たわっている実証主義の立場に安住している歴史家とそれに同調する人々を放置することにもなったのである。
 いってみれば、実証主義に立つ歴史家は、歴史の研究は実証主義によらなくてはならないというが、そこからはまだ史観らしさといえるものは生れず、そのために、その歴史研究は中途半端なものにおわり、歴史の結論にはいたっていないことを忘れている。歴史研究というものは、歴史観に到達して、人々は何故歴史を学び、歴史は人々とどのようにかかわりあい、将来はどうなるかということを知らなくてはならない。それらを教えない歴史研究はまだ本物とはいえない。多くの歴史家はその途中にあって、その到達点をみていない。
 そのために、人々が歴史を暗記物とみ、勝者を正当とする支配者の歴史とみることに少しも疑いをいだかないのである。皇国史観に立つ者、唯物史観に立つ者はともに史観をもつ者として立派であるが、実証主義的研究をおろそかにしてはいけない。その怠慢が実証主義的歴史学におわっている歴史学をはびこらすことになるのである。今日、皇国史観を唱える者は珍しいといえる。しかし、皇国史観は学問的に克服されたものでないし、今なお、日本人の多数がこの史観に支配されているという事実を忘れてならない。皇国史観はまだまだ生命をもっているのである。その史観が学問的に克服されるということは、単に敗戦によって敗れ去るほどかんたんなことではない。
 皇国史観にたつにせよ、唯物史観にたつにせよ、歴史はもっともっと生き生きとえがかなくてならない。とくに、唯物史観にたつ歴史はこれからである。今迄、社会の発展、政治、経済の進歩を明らかにすることに精力を集中していたためにその中における人間は十分にえがかれなかった。人間が生きてこなかった。
 歴史小説家はその盲点で活躍しているといってもいい。歴史小説家が活躍する舞台もあったのである。とくに歴史家の中には、一部をのぞいて、非常に文章がまずい。無味乾燥である。それに対して歴史小説家はおしなべて文章がうまい。うまい上に、心がける。自然と上手になる。これでは、おのずと、歴史小説家のものを読むようになる。

  正史に出てこない人物に注目

 司馬遼太郎の代表作に、『竜馬がゆく』、『峠』、『酔うて候』などがある。彼はその中で、好んで、日本歴史あるいは教科書的歴史の中では一行か二行もしくは全く登場してこないような人間を択んで画く。日本史をゆがめるような人間でなく、日本史そのものを真正面におしすすめた人間であるが、その日本史をおしすすめる人間になるのは、ある年令、ある瞬間の人間である。彼はそのような人間というか、凝縮した行動をなし得る人間は、どのようにしてなり得たかという秘密をいろいろと明らかにしてみせるのである。
 たしかに、日本史に登場するときの人物は、彼の生涯を通じて、最も彼の心が昂揚したときである事が多い。そのような昂揚は突然生じたものでなく、長い生涯のつみかさねの上に始めて生まれるものである。司馬はそれを画いてみせる。それによって、日本史そのものの事実はそうなったことも無理はないと思わせるのである。日本史を読んでいるだけでは、その必然性もわからないが、司馬のものをよむことによって、わずか一、二行のことが非常に多くのいみをもっていることがわかるようになるのである。そればかりでなく、『峠』の河井継之助のように、日本史の正面に登場できなくても、実は彼には彼のすばらしい人生があり、唯一つの点を欠いたために、敗れ去る以外になかった人生をも生き生きと画いてみせ、人生の多様さを知らせてくれるのである。日本史や教科書的歴史をのみよんでいる者にはとても味わえない世界の広さを教えてくれる。
 松本清張には、『ある小倉日記伝』、『西郷札』、『逃亡』などの作品がある。彼は好んで、権力のためにゆがめられた人々、権力の末端のところで押しつぶされて、悲しみの中で、苦しみの中で生きるしかなかった庶民のぎりぎりの人生を画いてみせる。実は日本史や教科書的歴史に登場する人物は、体制側であろうと反体制側であろうと、それらの指導者として屹立した人達である。しかし、多くの人間は、松本の画くような、権力の末端のところで押しつぶされ、ゆがめられて生きるしかない人間達である。普通ならとても、日本史に登場しないような人々を彼等こそ日本史の中心人物ではないかと、画いてみせるのである。
 松本のえがく世界と人生は決して日本史や教科書的歴史ではみせてくれないものである。彼のいうように、それこそ歴史であるなら、歴史というものは、幾通りにも考えられるだけでなく、歴史そのものが誰にも身近かなものとして、生き生きしてくる。ことさらに暗記するものでなく、我々の行動そのものが歴史となり、我々がそのままに歴史を生きる歴史的存在となるのである。一人一人に歴史への責任が生じてくる。今迄、歴史を他人事としてきた風習もなくなろうというものである。
 今東光には、『お吟さま』とか、『弓削道鏡』がある。彼は史上で、悪人とか、抹殺されている人物に新しい照明をあてて、よみがえらせる点ですぐれている。お吟さまは、今の永遠の理想の女性ともいっていいだろうし、史上に此の女性ほど、すてきな人もいないと思われる。豊臣秀吉を最高の人物と認めるか、最低の人物と評価するかは歴史家の判断で分かれるが今の画くお吟さまはその秀吉と対立して、自分の生を美を最高にたかめた人間として、如何なる人もすばらしいと言わざるを得ない人物である。太閤秀吉と拮抗する人物をも画き得るのである。
 また、悪人の代表的人物とみなされてきた道鏡が彼の手にかかると、非常に特異な生を生きた人間として、よみがえるのである。歴史的人物は決して、一つの価値、一つの真理でかんたんに処断してはいけないということである。歴史の多様さというか、歴史はどんなにもみえるということである。歴史家がかんたんに、支配者の命令で善人とか、悪人と処断することは許されない。今の作品では死者も生きかえるのである。
 八切止夫には、『元治元年の全学連』、『信長殺し、光秀ではない』などがある。彼によると、定説となっている多くの歴史的事実はまちがっているということになる。
 八切は生命がけで、歴史的事実を正しているといっているが、それは嘘か本当かは知らないけれども、少なくも歴史家にはその姿勢が必要である。史上の歴史的事実と言われるほどの史実には、多かれ少かれ、人の生命がかかっている。それをとり扱う歴史家にはその覚悟がいるしそれがあって始めて、未来の予言者にもなれるのである。
 それはさておき、八切は、歴史の定説をひっくりかえし、全く新しい歴史を書き始める。それは、『元治元年の全学連』のように、全く新しい解釈をすることによってなす場合と、『信長殺し、光秀ではない』のように、新史料を発掘することによってやる場合もある。いずれにしても、今の定説は定説でないかもしれないということである。定説もいつ定説でなくなるかもしれないということである。八切の作品には、そういう期待がある。また、八切には定説に安住していないスリルがある。それに対して、歴史家はあまりにも、他人におんぶしすぎている。面白味がない。今は何でも崩れている時代である。
 渡辺一衛氏はその周囲の歴史家に八切史観のことを聞くと、否定的な意見がかえってくることが多いと書いていたが、歴史家は一般に彼のように大胆な推論をなさないし、それに現代への関心がうすい者が多い。信長を殺したのが光秀であるかどうかということよりも権力者を殺すということが今迄歴史家の考えてきたように、単純でないということがわかればよいのである。八切はあくまで単純な事しか考えない歴史家の頭脳に挑戦しているのである。八切史観によって、日本人の頭脳がどんどん混乱すればよいのである。彼はそれを求めているように思う。
 金達寿には、『玄海灘』、『太白山脈』などの作品がある。彼はその中で好んで、民族のしいたげられた生活と抵抗をとりあげる。それは決して、日本史や教科書的歴史の中では殆んどとりあげられない一面である。もしとりあげられていたとしても、それは非常に少ないか、ゆがめられていることでしかない。日本史の中で朝鮮が主体的にとりあげられることは殆んどない。日本と朝鮮をそれぞれ主体的にみることによって、日本だけに極限された歴史をみることなく、世界史的視野をもつことができるのも、金達寿の作品を通してである。
 それは、日本史と朝鮮史をみることでなく、一つの世界の歴史として、統一的にみることである。そういう見方を与えられるということは、そのまま、自分の世界が広がるということでもある。彼の作品を通してみたことがアイヌを見、日本の統一をみていく上でも、非常に参考になろう。日本の中の朝鮮、日本の中のアイヌをみる上で、これまでの歴史家は大変怠慢であった。金はその歴史家の怠慢を補ってきたと言ってもいい。朝鮮人が如何に生き得るか、また如何に生きなければならないかを教えたのが彼の作品である。

  個性的な歴史観を展開

 以上の他に、『祇園祭』を書いた西口克己、『天と地』の海音寺潮五郎、『皇女和の宮」の川口松太郎、『徳川の婦人たち』の吉屋信子と歴史小説を書く人は多いし、非常によくよまれている。
 彼等は先述したように、今の歴史家が背景となるものを明らかにするために血眼になるのに反して、それらの背景をふまえて、人間の姿を画くことに努力している。そこに画かれている人物は一様に生き生きとしているし、複雑でもある。歴史家のように、無味乾燥で単に事実のられつでもない。
 歴史小説家は史実がない場合は、彼自身の大胆な推理で、それを補い、面白くしてみせる。彼等は歴史小説を書くことで、それぞれ彼等の史観をもっている。史観なしに、歴史小説は書けないといってもいい。それに対して歴史家の大多数は史観といえるものを持っていない。また持っていたといっても、それは単純な信仰のようなものに近い。彼等の書く歴史が面白くないのも当然である。
 だが歴史小説家は、それぞれに史観をもつことによって、もうひとつの歴史の世界、別の歴史をみせてくれる。こういう歴史も成立したかもしれないという興味をわかせてくれるし、常に被支配の位置に甘んじていた自分達が歴史の主人公であるかもしれないということを教えてくれる。
 たしかに、歴史家のある者は、人民が歴史の主人公であることを説く。しかしそれは抽象的で具体的ではないし、主人公であることを理解できるようには説いてくれない。
 また、歴史小説家は歴史の定説をひっくりかえして、全く異なる道をしめしてくれる。要するに、歴史小説家の作品をよんでいると、私達の人生は如何様にもなるし、如何様にもしなくてならないことを知る。いってみれば、我々すべてにそれぞれの歴史があるということで、伸々させてくれる。
 史観とは歴史の意味を教えてくれ、人間がどのように生き、どのように生きなくてならないかを教えてくれるものであり、更に未来はどうなるかを示してくれるものである。歴史は決して過去の事実を知ることでなく、現代をよりよく生きるためにあるものである。現在を忘れがちの歴史家より、現代の生のために画く歴史小説家のものがよろこばれるのも当然である。それは一に歴史家の怠慢である。今後益々、歴史小説家のものは読まれよう。

 

                 <雑誌掲載文2 目次>

 

「天心の雄叫び 美と宗教の社会を求めて

 

 クロード・モルガンの「人間のしるし」という作品がフランスにある。人間の価値をとことん追求したものである。モルガンはそれまで一技術者にすぎなかったが、戦争の中で人間の尊さにめざめ、四十歳余にして作家に転向した人物である。人間の価値に主体的にめざめるということは、それ自体むずかしいことであるが、さらに他人をもめざめさせることをおのれ自身に課するのはなおむずかしいことである。だが人間である以上、それに取り組まなくてはならない。それが人間として生きるということであろう。岡倉天心はまさにそのような人であった。

 彼は明治時代、日本があげて西洋の近代化に狂奔し、そのことに誰もが少しの疑念もさしはさまなかったとき、「アジアの平和的伝統を見失うな。自分自身を知れ」と叫びつづけ、ついにアメリカの地に亡命のような形で逃げていかなくてはならなかった。近代化という名の侵略主義を否定し、物質万能の資本主義を拒否したことで彼の右にでる者はいない。あたかも彼は今日の公害を予知し、美と宗教によるしか地球は救いようがないといいきっていたようにもとれる。もちろん彼のいう美とは、いわゆる美術品のなかの美ではなく、政治的・経済的意識にまでつらぬかれたところの生活美であったし、宗教といっても今日のように相互に対立し、いがみあう宗教ではなく、人間そのものに根源的、普遍的に存在する霊性そのものを対象にするものであった。カール・マルクスの言う人間そのものをがんじがらめにしている宗教ではなく、人間そのものを解放に導く宗教である。天心にはこのようなものこそが美と宗教といえるものであったが、それは地球上のどこにも存在しなかった。ただインドと中国にその伝統があるとみただけである。それ故に彼はまた日本からも放逐されるという目にあったのである。
 これまでの多くの天心論はその部分像は語られても、全体像は語られなかった。部分像は生かされても、その全体像が生かされないところに、日本も彼も矮少化し、ついには今日みるような公害国日本、西洋諸国の追随者日本を生んだのである。天心は一般の人々が考えるよりもずっとずっと偉大なのである。私が数ある天心論の中に、あえて一つの天心諭を書いたのもそのためである。天心の全体像をさぐることは日本の進路を正すことである。いま少し、彼に則して彼の全体像を語ってみよう。
 岡倉天心は1862年(文久二年)福井藩士岡倉勘右衛門の子として生まれた。その勘右衛門は福井藩の貿易をつかさどる横浜の出先機関の責任者であった。その意味では貿易立国を主張していた橋本左内とは非常に深い関係にあった。だが左内は天心の生まれる前、すでに徳川幕府から断罪され、わずか二十六歳でこの世を去っていた。左内は断罪とはいえ、福井藩を幕末の雄藩に育てあげたほどすぐれた見識の持主である。天心はこの左内を私淑してやまない女性を乳母として育った。その乳母から二言目には左内様は云々という言葉を聞き、幼い彼の魂にいかに根強く左内像が焼きつけられたかは想像にあまりある。その上、天心は九歳にして生母を失ったために、乳母の影響をより一層強くうけることになったとも言える。生母をなくした天心は、その後、母の菩提寺である長延寺の住職玄導和尚にあずけられた。この玄導は東洋の学問に深い知識をもつだけでなく、東洋の王道を全身で読みとろうとする人であった。後に天心が東洋の王道にあこがれ、西洋の覇道というべき侵略主義を全身で憎むようになったのは、玄導の教育から生まれたものである。「論語」「孟子」の言葉を単におぼえるということは、玄導や天心にとって本当の学問ではなかった。その言葉を自分の全存在で読んでいったのである。
 天心は東京大学に入学したが、彼はそこに入るために学んだのでなく、自分自身をこえ太らせるために入学したのである。東大は彼にとって手段であり、目的ではなかった。ここに彼の真骨頂がある。己れの志を伸ばすために、たまたま入学したにすぎない。だから東大の学生となっても、単に生真面目な学生というよりも、自分自身を豊かにするためには、学外からも他の学科からもすすんでたくさんのことを学びとろうという態度であった。奥原晴湖に画を、森春濤に詩を、加藤桜老に琴を学んだのも、すべてそのためであった。天才レオナルド・ダヴィンチに彼は全身であやかろうとしたのである。それだけでなく、英語にすぐれていたところからフェノロサの通訳になったことによって、日本の古書画、古什器への眼もどんどん開いていった。フェノロサと行動をともにするようになった彼は、若いフェノロサに深く魅了されたばかりでなく、やがて逆にフェノロサをも乗り越えようとする情熱に全身をゆだねるようになり、東大に在学している頃から、すでに日本の伝統について深い見識をもつようになるのである。さらに彼に幸いしたのは中村正直に学んだことである。中村は漢文学者ではあったが、単にそれに終わらず、キリスト教、儒教、仏教を深く学び、それらがともに人間のための宗教であることを見抜いた人であった。だから天心が美や宗教というものに眼をひらかれるようになったのはフェノロサであり、奥原晴湖、森春濤、中村正直によるものである。しかも彼の本質は美術の中の美、特定宗教の中の一宗教に心をひかれたのではなく、美を中心とした世界、宗教を中心とした新しい世界を夢みる人間であったということである。大学の卒論として「国家論」を書いたが、それは妻のヒステリーにあい焼却している。その次に書いたのが「美術論」であるが、少なくとも彼の中では美と結びつかない「国家論」などありえなかったのではないか。

 天心が大学を卒業して最初につとめたのは文部省の音楽取調掛であった。若い彼はそこで日本人自身を変えるという希望にみちみちており、音楽を通して、日本の政治をたかめようとしたに相違ない。音楽のない政治は本物の政治にほど遠いということを音楽そのものから学んでいた。しかも当時の政治には音楽は全く生きていなかった。彼の悲しみと怒りは大きかったといえる。
 音楽研究のために洋行していた伊沢が帰国して天心の上司になったが、彼はそのことを全く考えようとしない人間であったため、二人はことごとに対立し、とうとう天心は閑職にとばされる結果となった。まもなく彼は美術取調掛に復職したが、その時の彼の喜びはどんなに大きかったか。当時の彼は美術の美のみでなく、さらにすすんで生活美、政治美、経済美としての美を追求し、普及することを考えていた。だから東京美術学校設立のために西洋諸国に遊学した時は、それはあくまで口実にすぎず、帰国後、責任者として如何なる美術教育をやるかという腹案はすでに出発前からできていたのである。その後、校長になった天心はまさに文字通り、その腕をふるい、美術界革新に対して異常なまでの情熱を示した。日本美の源流としての中国、インドへの旅を生命がけでやってのけたのもこの時である。

 天心をより大きくするために天は彼に一つの恋をあたえた。結局、彼はその恋から逃避したが、相手はその恋のために死んだ。恋の尊さを知ることによって天心は生きる尊さを知ったのである。それ以後の天心は全身で自分のいいかげんさを責め、幽鬼のようになった。そのため天心は校長の職を失うのであるが、これは反対派がそれにつけこんだためといってもいい。しかし天心が職を辞したとき、彼とともに辞表を出した教授、助教授は橋本雅邦、横山大観ら十七人の多きを数えた。いかに天心が人々の心をとらえていたかということである。
 美術学校を去った天心は同志とともに日本美術院をつくり、啓蒙運動にのりだした。だが当時の日本の中では彼を理解する人は少なく、結局日本美術院も啓蒙運動も次第に下火になっていった。第二回の中国旅行、インド旅行はこのような時に行われたのである。第一回目の中国旅行、インド旅行の中から生まれたのが「アジアは一つである」という認識であった。今でこそ西洋諸国に侵略されているアジアであるが、それ以前何世紀にもわたって、西洋諸国を侵略してきたものは、そのアジアであった。侵略の中からは何も生まれない。今こそアジアはその侵略の中から立ちあがらなくてはならないというのが天心の考えである。西洋がアジアを侵略するのでもなく、逆にアジアが西洋を侵略するのでもない真の平和を待望したのである。天心は心の底からアジアの蘇生を西洋の蘇生を求めたがそれはまずアジアから眼ざめなくてはならないというのである。

 この天心の雄叫びは長い間消えていた。その声を声にするものが若い諸君の中から生まれてくるのではなかろうか。

 

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