「若者を考える  彼らをわからないというまえに

 

   はしがき

 最近、世代の断絶ということが、マスコミでしきりに書かれている。それを証明するかのように、戦前派、戦中派さらに戦後派までもふくめて、大人たちは、若者の意識と行動が理解できないといってぼやく。その場合の若者というのは、十七、八歳から二十三、四歳までの若者をさしているが、大人たちは、本当に若者を理解できないでイライラしているのであろうか。本気になって、若者を理解しようと努力し、その結果だめだという結論を出しているのであろうか。
 大人たちは、どうしてそんなに若者を理解したがるのであろうか。
 私には、どうみても、若者が大人たちの支配下にはいろうとしないことに対して、ブツブツいっているようにしかみえない。真剣に若者のために、若者を知ろうとしているとは思えないのである。
 昔から、子供は親の鏡とか、その子を理解しようとすればその親をみるにしくはないといわれてきたが、今日では、そういうことが通用しなくなるほどに、親と子供、大人と若者は、断絶してしまったのであろうか。
 私にいわせると、大人たちが、自分の鏡である子供を、若者を、あるがままに理解しようとするのを拒否しているようにみえる。大人たちは、子供を通して、若者を通して、自分自身をみるのがこわいのではないか、と思わせるところがある。直視する勇気がないのだといってもいい。
 奇矯としかいいようのないような若者の意識と行動を、大人たちは、自分たちが生産したものであることを認めたくないのだ。さらには、大人たちの心の奥底に、若者の意識と行動に共通するものがあることを知るのが恐ろしいのかもしれない。
 要するに、大人たちには、若者の意識と行動によって、その秘められた心がゆすぶられ、あばき出されていくのがこわいのだ。それこそ大人たちは、その心を殺し、抑えることによって、今日の秩序と平和が保たれていることを知っているし、その心、その思いを顕在化し、具体化するためには、すでに自分たちは、あまりにも老化し、勇気をなくしていることにも気づいている。それが、無理にわからないといわせている理由の一つでもある。だから、古い諺は、今日も依然として生きているばかりでなく、むしろこの諺の前に、自分自身を直視することを求められているのは、大人たちである。しかも、若者を知る手がかりは、大人たち自身のなかにあると考えればなおさらである。大人たちが、もしも自分自身をみつめることを忘れて、若者を知ろうとしても、それは永遠に不可能である。
 それに、大人たちが、あくまで現代史のなかに生きつづけ、その主役であろうとすれば、どうしても自分自身を直視する勇気をもたなくてはならない。そうすれば、容易に若者の意識と行動を理解することができるだけでなく、若者との連帯を取り返し、若者への指導力をも取り返すことができる。
 だが、大人と若者との連帯は、あくまで連帯であって、妥協やごまかしを前提にしての連帯ではないし、指導も、大人が若者を支配し、若者を従属させることではない。そのためには、大人と若者とのもっとも好ましい関係とはどういうことなのか、どうすればそういう関係を確立することができるのかを考えなくてはならない。今日の状況は、それを大人たちに要求している。そして、若者を正確に知るには、大人たちが自分自身を知ることをはなれては、けっしてできないということを教えているのも、今日の状況である。
 本書は、それらの問題を可能なかぎり総合的、本質的に問い直してみようとしたものである。
 最後に、本書の執筆にあたって、酒井軍平氏にいろいろお世話になったことに対して、衷心より感謝の意を表したい。

 

 

   目  次

 

 はしがき

序 章 若者を理解するために
    
1 現代が必要とするもの
    
2 人間は時代の子
    
3 新しい時代は始まっている
    
4 世代の断絶を決定的にするもの
    
5 若者のめざすもの
第一章 若者はなぜ親を見放すか
    
1 子供にとって親とは何か
    
2 子供はどうして親に幻滅したか
    
3 親は子供に何を期待するか
    
4 子供は親に何を望んでいるか
    
5 親はどこまで子供を知っているか
    
6 親子の断絶をどう考えるべきか
第二章 若者は政治をどう考えるか
    
1 若者はどんな政治状況に育ったか
    
2 若者にとって秩序とは何か
    
3 若者はなぜ直接民主主義を求めるか
    
4 若者の考える労働観
    
5 若者にとって安保とは何か
    
6 若者は歴史をどう考えているか
第三章 若者にとって生活とは何か
    
1 若者は遊びをどう考えるか
    
2 若者はなぜ漫画を読むか
    
3 若者にとって流行とは何か
    
4 若者は流行をどう受けとめたか
    
5 若者の性はどうなっているか
    
6 若者にとって友情とは何か
    
7 大人と若者はどこで重なりあうのか
第四章 若者はなぜゲバ棒をふるうのか
    
1 大学は若者に何を与えたか
    
2 学生たちを直接かりたてたもの
    
3 何が学生を内ゲバに走らせたか
    
4 教授を過信した学生たち
    
5 高校生も反逆する
    
6 若者にとって学問・教育とは何か
    
7 若者と大人はどこで交流するのか
第五章 若者をどう考えるべきか
    
1 非権力、非権威を求める若者
    
2 肉体なき思想を拒否する若者
    
3 感覚的人間を志向する若者
    
4 自己否定を主張しつづける若者
    
5 いわゆる大学の正常化をみつめる若者
終 章 若者と大人の好ましい関係

 

          

             < 目 次 > 

 

 

 序章 若者を理解するために

 

  1 現代が必要とするもの

 今日は、幕末から明治にかけての大変革にまさるともおとらぬ時代といわれているが、その幕末から明治にいたる時代を指導したもの、明治という時代を到来させ創造したのは、二十歳代の若者であった。大人たちというか、旧世代のなかで、この変革に参加し、この変革をやってのけたものは、本当にひとにぎりの者で、それも若者たちに協力したにすぎなかった。
 ということは、幕末という時代状況のなかで、古い世代と若い世代との間に、価値観をはじめとして、政治・経済・教育・社会をめぐる考え方が、いかに徹底的に相違し、深く断絶していたか、ということである。断絶の深さゆえに、けっして理解し合えないほどに異質であったゆえに、古い世代は、幕末という時代とともに潰え去り、若い世代とともに明治という時代が出発したのである。
 しかも、明治という時代を創り出した若者たちはすべて、自らを奇とし矯と名づけて、古い社会からはみだしていった。いいかえれば、新しい時代が訪れなけれは、絶対に安住の地はないと思いさだめた者たちであった。
 若者たちにとって、彼らが存在し、生きるということは、新しい時代の招来以外にない、ということであった。だから、大人たちは、若者たちを奇矯と評価し、彼らを排除しようとしたし、大人たちのその姿勢、その態度が、いよいよ若者たちを駆って、新しい時代の出現に向かって狂奔させたのである。
 いずれにしても、大きな時代変革のときには、世代間の断絶が決定的に生ずるし、世代間の断絶が底しれないものといえるぐらいでなくては、大変革の時代は到来しない。
 だが、今日の大人たちは、幕末の大人たちがただやみくもに、奇矯といって若者たちを排除し、若者たちを捨てたように愚かではないし、単純でもない。彼らは、若者を理解しようとしているし、その主張に耳を傾けようとする。たとえそれが、大人たちの指導と支配をいつまでも維持しようとする意図から出たものであったとしても、大人と若者との断絶をなくそうとする。その溝を少しでも埋めようとする。
 しかし、大人たちが、そのような姿勢と態度をとろうとするとき、彼らは、必ずといっていいほどに、若者たちが理解しにくいと嘆く。はては、イライラする。だが、大人たちが古い時代に執するかぎり、若者を支配しようとするかぎり、新しい時代に向かっている若者を理解することはできない。そういう若者を理解できるのは、若者といっしょに新しい時代を創造しようとする行動に参加するときだけである。

 

                <若者を考える 目次> 

 

  2 人間は時代の子

 大きな時代変革にあたっては、古い時代に生きようとする世代と新しい時代を招来させようとする世代との間に、決定的な対立、鋭い断絶が生ずるということは、歴史のしめすところであるが、今日という時代状況も、文字どおり、それをしめしている。
 それは、人間がすぐれて時代の子であるということである。
 すなわち、一つの時代に生きる人間は、その時代に通用し、その時代をリードしている価値観に従う。その多くは、その世界観・社会観を疑おうともしない。もし疑ったとしても、長い間成立させてきた思想と生活そのものを崩壊させるということは、なかなかできない。むしろ、一つの時代が成立するということは、その世界観・社会観によってであり、それが通用していることによってである。
 しかし、おくれてきた世代である若者は、一度その時代、その価値観に疑いが生じたときは、その疑いを彼らの全身で受けとめ、その解決をその全存在で求めようとする。若者には、それをなしうる十二分のエネルギーとファイトがある。その感覚、その感受性は、生活のなかで摩滅していない。しかも、彼らを悩ます生活の重さもない。
 それに、若者のなかには、夢も可能性もある。大人たちと違って、その疑問を鋭く感じとるだけでなく、その疑問を解明してみようという意欲が旺盛である。その疑問に取り組むのが若者であり、人間であるという誇りがある。情熱がある。歴史は、それによってつねに発展したし、若者がつねに発展の主役であったのもそのためである。大人といわれる人たちも、かつて若者であった当時は、大胆に、大人たちの生きた社会、大人たちの支配する時代の矛盾に疑問をもち、その疑問の解決に積極的に取り組んだ。取り組もうとした。それによって、彼らの時代、彼らの社会をつくりあげたともいえる。
 しかし、今日の大人たちの多くは、その途中で挫折し、それを放棄し、しだいに疑問をもたないのが大人であると思いさだめるようになった。その疑問にいつまでも執しているのは、大人になっていない証拠とさえ思うようになった。疑問をもたずに、疑問を放棄したままに、大人たちが生きえたということは、一方では、その時代、その社会の矛盾がそれほどに大きくなかったということでもある。
 要するに今日の大人たちは、その矛盾を一度は感じ、発見しながら、それを放棄しても生きられるほどの、おめでたい時代、住みやすい社会に生きていた。
 そして、大人たちが、その矛盾を放棄し、その矛盾の解決に取り組むことなく、それをつぎの時代につたえたために、その矛盾はしだいに深まり、大きくなって、爆発寸前の風せんのようにふくれあがるしかなかった。
 今日の若者は、まさに、そのような矛盾にみちた時代に生きている。その矛盾に向き合って生かされている。しかも、大人たちは、今日の矛盾を感じとることが、ほとんどできなくなっている。その矛盾がいかに大きく、その極限にきているかということも理解できないほどに麻痺している。
 ここに、今日、大人と若者の決定的相違がある。理解を絶する断層がある。
 もしも大人といわれる者のなかに、その若者時代に直視した矛盾を直視しつづけ、その矛盾を徹底的に究明する姿勢を依然としてとりつづけている者がいたとすれば、その大人は、若者と同じく、今日の矛盾に直面しているばかりでなく、若者がどういう状況のなかに育ち、今日の若者になったかという鋭い観察をももつことができる。そればかりか、今日の若者は、大人たちのつくった社会、大人たちがその責任をおわなくてはならない時代状況が生みだし、育てたものということも。
 とすれば、大人たちは、今日の若者の出現に全責任があるばかりでなく、そういう大人は、若者を理解し、若者の先達者になることも可能である。それが、ことばの真の意味における大人というものである。

 

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  3 新しい時代は始まっている

 だが、なんといっても、若者たちが、今日、大人たちのつくっている時代、リードしている社会のなかで、生ききれないものを感じはじめているということほど重要な意味をもっているものはない。
 若者は窒息寸前にあるというほどに呼吸困難を味わっている。
 それは、大人たちがエコノミック・アニマルとして、人間らしい夢も目標もなくして、ただたんに生き、生かされているということであり、政治的にも社会的にも、人間としての自由を失う方向に生き、生かされているということである。
 たしかに、技術の発展によって、人間の経済生活は非常に豊かになりつつあるが、人間としての喜び、人間らしい生きがいを感ずることは、いよいよ少なくなっている。かつては、新しい組織が人間を解放し、人間に人間らしい喜びや生きがいを与えるのではないかと期待されたが、その組織も、人間をますます非主体的にする作用しか果たしていないことも発見されてきた。
 今や人間は、技術と組織の奴隷になりさがったといってもいいすぎではない。
 そればかりか、技術の発展の極に生まれた核兵器は、人間とその文化に、一大脅威を与えている。人間の存在は、その前に、風前のともしびである。人間はいったいどこへいこうとしているのか、その文化は、人間の危機を前にして、いったいどれだけのことをなしうるのか、という問いが、若者たちのなかに真剣におきてきたとしても不思議ではない。
 若者たちが、そういう問いを発そうとしない大人たちを軽蔑し、全否定しようとするのも当然である。彼らは、その全存在で悩み、苦しみ、模索する。そして、そういう模索をつづける者だけが若者であり、さらには、彼らの味方であるとも考える。
 まさに、古い時代は終わり、新しい時代が始まろうとしている。新しい時代の内容はなんぴとも明らかにしていない。
 しかし、ここでいえることは、新しい時代と社会は、支配者の、権力者の、一部の人たちの時代でなく、社会でなく、人々の時代であり、社会であるということである。これまでのように、支配者、権力者に人々が生かされてきたのと違って、人々が自分の思想、自分の判断によって、各人各様に生きはじめるということである。自分の人生を自分がしっかりとにぎって生きはじめるようになろうということである。
 もちろん人々は、そのように生きることを教えられていないし、学んでもいない。自分の人生でありながら、その人生をつかむことができない。そこから、混乱がおこる。自己否定でなく、自己放棄の生活をする者もでてくる。無責任の生活もでよう。
 しかし、それは、窮極には、人間が他人によってでなく、自分自身によって生きはじめるようになる過程である。人間が人間の主人として生きるようになるために、一度は通過しなくてはならないものである。
 若者たちは、それを、今、大胆に、率直に歩みだし、大人たちは、なお依然として、古い時代の慣習によりかかろうとしているのである。若者たちと大人たちとの間の断絶は、そこからおこっている。人間として生きようと苦悩する者と、エコノミック・アニマルに甘んじて生きている者との断絶といってもいい。

 

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  4 世代の断絶を決定的にするもの

 このように考えてくると、今日、大人と若者の間に生じている断絶も、けっして絶望的なものではないし、かえってその断絶は、新しい時代に向かって大きく歩みだしているということができる。
 今日、大人たちは、幕末のそれのように、偏狭で、愚かではないにしても、彼らはそれほどに聡明でもない。ことに長い間、彼らは、西欧諸国をモデルとして、その思想と指導によりかかり、疑うということがなかった。しかし、幕末の当時には、若者たちは、大人たちと鋭く対立し、新しい時代の摸索のために、徹底的に試行錯誤をくりかえし、思いきった実験的冒険的行動をいとわなかった。
 若者たちが明治という新しい時代をつくることができたのは、西欧思想によるものでも、その指導によるものでもなかった。彼らは、時代閉塞の状況のなかで、大胆率直に、自らの考えるところを、その全存在で行動に移したにすぎない。その結果が、明治という時代をつくりだしたのである。
 もちろん、そのために、若者たちのつくった明治という時代は十分に好ましいものではなかったが、時代変革にあたって不可欠のものは、徹底的に試行錯誤する精神であり、思いきった冒険的行動である。それがまた、新しい時代のビジョンを、実現する方法を、生みだしていく。
 だが幕末の若者たちは、新しい時代を創造しはじめたところで、西欧先進国とその思想に圧倒され、彼ら自身の試行錯誤の精神、冒険的行動を喪失し、西欧諸国とその思想の継承者に変貌していった。自由民権運動から社会主義、共産主義運動にいたる全運動もそれの亜流でしかなかった。
 今日の大人たちは、体制的であろうと、反体制的であろうと、その多くがそういう影響下にあって、それを疑うということを知らない。しかし、今日の日本の状況は、一応、先進的な西欧諸国に追いつき、西欧諸国の人々といっしょに、未開拓の思想、未知の時代に挑戦することをよぎなくされている。
 モデルはどこにもない。指導してくれる思想がない以上、自ら新しい時代の探求と創造の主人公になるしかない。
 そこに、長い間、西欧諸国をモデルとして生きてきた大人たちのとまどいがあり、自信のなさがある。しかも、大人たちは、新しい時代の創造に、徹底的な試行錯誤、思いきった冒険的行動が不可欠だということも考えようとしない。
 だから、若者がみせている思いきった行動、すべてを疑い、すべてを拒否する行動をみとめることができないばかりか、かえって若者の行動にとまどい、自信のない大人たちがその思想と生活の枠内におしとどめようとする。
 これほどおかしなことはない。
 大人たちが否定し、拒否する若者の行動と姿勢にこそ、新しい時代に向き合っている者の姿があるし、大人たちは、それを否定することによって、古い時代に固執し、古い時代を温存しようとしている。ますます断絶を深めている理由である。

 

               <若者を考える 目次> 

 

  5 若者のめざすもの

 それゆえに、若者たちは、徹底して大人たちとの連帯を拒否する。かたくなに排除している。彼らは、大人たちがしめしている連帯の姿勢、連帯の意欲をもふみにじっている。そのことをもっとも端的にしめしているのは、東大全学共闘の山本義隆が造反教師の研究集会によせたメッセージである。
 山本はそのなかで、連帯を軽々しく語り、口にすることを拒否している。中途半端に連帯することを否定している。若者は、むしろ大人たちとの安易な連帯をさけ、その溝が底しれないことを大人たちに知らせようとしている。
 戦後、戦中派は戦前派を鋭く批判した。戦争中の彼らのいとなみがいかに不毛であったか、しかも、戦後の彼らは、その反省やその痛みなしに、戦後を指導していると攻撃した。つづいて戦後派は、戦前派をふくめて、戦中派を厳しく攻撃した。戦中派の生活も戦前派におとらず、いかに不毛であるかを。
 この戦中派の批判といい、戦後派の攻撃といっても、しょせんは世代間の溝を埋め、その連帯をつくりだすためのものであった。ともに団結して、今日の課題に取り組むために、戦前派の、戦中派の忘れている部分、未解決のところを思いしらせ、悟らせようとする意図から出発していた。しかし、それらはすべて不毛に終わった。
 今日、若者たちが戦後派をふくめて、戦前派、戦中派である大人たちとの連帯を拒否し、大人たちを古い時代とともに葬り去ろうとする挙に出たことは、不思議なことではない。若者の姿勢には、歴史に学んだあとがみえる。本当の連帯は、連帯を叫ぶところからは生まれないことを知悉したためである。ごまかしの連帯しか生まれないことを。
 しかも、今日の若者を、マスコミは、大人たちは、安直に、戦無派とか、目標なき世代とよぶ。しかし、若者のほうにこそ、戦中派以上に、戦争と平和を身近に受けとめる姿勢がある。戦中派が、かつての戦争のなかで無批判的に流され、今また戦争を傍観しているのと違って、彼らは、それをまともに受けとめ、平和のために行動をおこしている。彼らは、けっしてことばの意味における戦無派ではない。
 また、目標なき世代といっていることにしても、大人の考える目標を若者たちが求めていないというだけである。若者は、大人の考えるような紙に画かれた目標、頭の中で考えた目標を追うのでなく、文字どおり、手探りで模索している。行動を通じて探求している。彼らの姿勢と行動は、幕末の若者のそれと非常によく似ている。
 かつて戦中派は、戦前派の批判の前に、目下考慮中と考えたが、今日、若者は、行動のなかで探求している。それは、一つの前進である。だとすれば、今日の若者が大人たちとの連帯を拒否するのも当然である。目下考慮中でもない、行動のなかで探求もしていない大人たちと、どうして連携できよう。しかも、連帯を拒否する若者の姿勢は、大人たちが現代という時代に、その全身で疑いをもち、今日の課題に、大人自身の力で立ち向かうことを求めている。そういう目標を、逆に大人たちに求めている。そして、目標が一つになれば、連帯はおのずと生ずることも若者たちは知っているのである。
 しかし、こういう評価、こういう言い方には、若者を全面的に肯定し、大人の思想と行動を正当に評価していないものがあるといわれるかもしれない。たしかに私は、今日、過去に向かい、現代に執している大人よりも、未来に向かっているということで、若者たちのほうがまっとうであると考えている。それは、なによりも、現代が大変革のときであり、大変革をしないかぎり、人間そのものが亡んでいく、と考えているからである。むしろ、まだまだ大人たちの理解を絶するほどの試行錯誤、思いきった行動が若者たちに足らないとさえ思っている。
 若者は大人たちとの連帯を拒否しているが、彼らが連帯を拒否しなくても、今日は、世代間の連帯を容易に達成することができないほどに、その溝は深い。連帯を拒否するということ自体、若者の大人たちへの思いやりである。よほどの覚悟と決心をしないかぎり、大人たちが新しい時代に生きつづけることは不可能だと若者たちはいっているのだと考えてもいい。
 もちろん、今日の若者にも、決定的な弱さがある。甘えがある。彼らが試行錯誤し、冒険的行動に走っているほどには、彼ら自身、強くないし、逞しくもない。彼ら自身、孤独にたえて徹底的に生きぬいていこうとする姿勢、その思想をたしかめ深めていこうとする覚悟がない。今日の若者には、連帯を拒否し、徹底的な不信を表明した大人たちに、心のどこかで期待し、よりかかろうとするものすらある。
 むしろ、今日、大人たちは、連帯をいうよりも、若者と同様に、若者を拒否し、若者をつき放していくことが必要である。それが、若者を独立独行の人間として、真に新しい時代の探求者、創造者にしあげていくことにもなるのではあるまいか。大人と若者が、お互いにものわかりがよく、たすけあい、連帯することではなく、むしろ対立し、格闘することこそが重要なのではあるまいか。
 それも、大人たちが、若者の思想と行動を、法や既成の道徳でがんじがらめにするのではなく、自らの思想、自らの行動、自らの感情を、今一度ふりかえってみることによって、若者のそれらと格闘することである。
 そこにのみ、若者が若者として生きるとともに、大人たちが新しい時代に立ち向かう者としての若さ、柔軟性を取り返すことができる。
 それを、若者たちだけでなく、大人たちにも要求しているのが、現代という時代である。かつての明治維新のように、新しい世代が古い世代に代わるだけではすみそうにないのが今日である。それほどに、今日は、人間も、その文化も危機的状況にある。
 若者たちとともに、大人たちが立ち上がるとき、はじめてその危機を克服するともいえよう。要するに、大人たちが若者を考え、若者を理解するということは、なによりも大人自身のためであり、大人たちが生きた人間として、現在から未来に向かって復活するということ以外にはないのである。

 

                <若者を考える 目次> 

 

  第一章 若者はなぜ親を見放すか

 

  1 子供にとって親とは何か

 今日、若者という名でよばれているのは、十七、八歳から、二十三、四歳にいたる若者と考えられるが、それは、彼らが戦後に生まれた子供だということであり、戦後的な思想状況、政治・経済状況のなかで成育した若者たちだということである。このことのなかに、今日の若者、今日の子供を理解する鍵がある。
 すなわち、戦後の親子関係は、戦前の親子関係とは大きく違っている。まったく異質といえるほどに変わってきている。まず、子供は天からの授りものという戦前の考えが喪失して、自由に計画分娩をするようになった。天からの授りものと思うところには、自然の摂理への畏敬の念も生命に対する畏怖の念も生ずるし、その子供を心のどこかで大事にし、恐れる気持もでてくる。子供を私物視する態度は、一見、戦前は、戦後と比較にならないほど強かったようにみえるにしても、同時に、そこには子供の生命をいとおしむ心も強かった。しかし、自由に計画分娩ができるようになると、子供が親にとって、完全に物となり、かえって私物化する心が強まった。そればかりか、生命に対する畏怖の念もなくなってしまった。
 親が子供を殺すという相つぐニュースにしても、分娩中に処理できなかった子供を分娩後に処理したと考えれば、それほど驚くことはない。要するに、今や子供は、親にとって必要なとき産み、不必要なときは流す物でしかなくなったのである。
 物でしかなくなった子供を、そういう物でしかない子供として、つき放すようになってしまったのは、子供自身でなく、むしろ、親のほうである。
 しかも、その子供は、例外はあるにしても、多くは、親の性欲の偶然的な生産でしかないということである。どう考えても、今日では、戦前に通用していた、子供は親の愛の結晶というようなことばは通用しない。ことに、戦後、性の解放がすすめばすすむだけ、親たちにとって、その子供は奇妙な存在になってしまう。
 もちろん、子供をもとうと決心した瞬間から、親と子供の間に人間的、精神的交流がおこりはじめたとしても、そのことは、親と子供の関係が成立した限りのものでしかない。ということは、子供にとって、その親とはいったい何であるか、どういう結びつきがあるのか、という疑問が子供にわいてきても不思議ではないということである。
 いいかえれば、たんに生物としての親と子供の関係には、なんらの信頼関係も尊敬の観念も生じないということであり、産んでくれたということに対して、子供には感謝の心はおこらないということである。
 だから、親子関係が成立し、相互に信頼と情愛が生ずるのは、あくまで人間としての交流、保護者と被保護者の関係が成立したときである。
 だが、戦後、親たちは、その子供に対して、人間として、また保護者として、あまりにも自信を喪失してしまった。子供に向かって、何が正しく、何が誤っているか、を明確にいえなくなった者が多い。それは、親たちが保護者としての能力と姿勢を失ったということであり、子供との間に鋭く厳しい人間関係を成立させることができなくなったということでもある。そこに、人間としての信頼、尊敬が生ずるわけがなく、そこに生ずるのは、せいぜい生活をともにし、運命をともにしていることから生まれる情愛だけである。
 もしもその子供に対して自信をもってのぞみ、断言的発言をする親があるとすれば、たいていそれは、旧道徳・旧思想によりかかり、それを盲信し、子供をその枠内におしこめようとしている者である。
 こうして、戦前の親子関係は崩壊してしまい、しかも、今日なお、それに代わる親子関係は確立していない。
 今日必要なのは、親にとって、子供とは何か、子供にとって、親とは何なのかを考えてみることである。親子の関係を生物の関係から人間の関係に発展させるためには、親たちはそれを考えなくてはならない。
 戦後の状況のなかでは、親と子を結ぶきずなは、すっかりなくなってしまったことを自認することから、親たちは出発しなくてはならない。親と子供のきずなをつくろうとすれば、親たちのほうから、忍耐強く、つくり、育てていかなくてはならない。
 それは、世の親たちが、これまでの親子観を疑って、新しい親子観を求めて、苦しみ、悩み、考えることである。子供たちとともに、考えだすことである。
 だが、戦後、民主的な人間関係、親子関係といっても、どれだけ親たちは考え、自らの考えを確立したであろうか。多くの親たちの口から出たことばは、異口同音に、今は民主主義の世の中だから、今日は民主的な世の中になったのだから、といったもので、自分自身で考えてみようとしなかった。
 説得力のあることばをその子供になげかけようとしなかった。
 こういう状況では、親子の間に、信頼関係や尊敬関係が成立するわけがない。自信ある親が出るわけもない。それに、親子の間の信頼と尊敬をいうよりも、その親である父と母の間に、信頼と尊敬があるかということがまず問われる必要がある。ともすると戦後、親子関係が乱れたということを主張するだけで、同様に、父と母との間に断層がおこり、信頼と尊敬が失われたことを問おうとしない。むしろ、親子関係よりも、その親である父と母との間に、信頼と尊敬があるような夫婦関係、人間関係を成立させている親たちが、いったいどのぐらいあるかということを問うことが先決である。
 ここには、大人たちが自分たちのことを問題にせず、反省もしないで、親子関係に名をかりて、子供たちを、若者を責めているずるさがある。虫のよさがある。夫婦という人間関係を信頼と尊敬に裏づけられたものにすることがいかにたいへんかということを知った者には、親子の好ましい関係を簡単には口にできまい。世の親たちが子供を責め、若者を非難するところには、子供に対する甘えがある。親子関係に対する甘さがある。
 その甘え、その甘さを脱してから、子供をみつめ、子供を理解していくことである。子供の信頼、子供の尊敬をかちとれないような親は、親として失格だし、子供を責め、子供を叱る資格はない。たとえ、子供が求める期待、子供の欲する信頼が、一方的であったとしても、親であり、親としての権威を欲する以上、それに耐えることが必要である。それが、親というものであり、親の名に価するのである。
 親にとって子供とは、まことに厳しい存在である。厳しい要求をするものである。

 

                 <若者を考える 目次> 

 

  2 子供はどうして親に幻滅したか

 ここで、あらためて戦後的な思想状況、政治経済を直視して育ってきた子供たちが親にどのように幻滅し、親を離れ、その溝を深めていったかということを具体的に考えてみたい。戦前の親子関係が崩壊してしまったこと以上に、親がなにゆえに子供の信頼と尊敬を失ったか、子供にとって親とは路傍の人以上に憎しみの存在になっていったか、を考えてみることは重要なことである。ことに、子供にとっては、親なるがゆえに、肉身の関係にあるがゆえに、一般の大人たちと違って、たんに軽蔑し、捨て去ってしまうことができない。となると、親の与えた不信感、やりきれなさは、その子にとって、たとえようもなく苦しいことであり、にがにがしいことになる。できるなら目をつぶり、抹殺さえしたくなる。
 子供たちに、そのような思いや幻滅感を与えたのは、その親たちの何であったか。どんな思想と行動であったか。

 戦後数年間、親たちは、人間として存在するよりも、生物として、動物として生存するために血眼になった。文字どおり、なりふりかまわず食を求めて、がきついた。そこには、人間の誇りや体面はまったくなかった。そうするしかなかったのが実情であるが、子供たちはそれをじっとみつめ、聞いて育った。子供の教育、子供の感性教育はゼロ歳から始まり、ゼロ歳から四、五歳までがもっとも重要であるといわれているが、子供たちは、餓鬼道に陥った親たちをみながら育っていった。
 加えて、この当時は、人殺し、強盗、強姦、いがみあいが日常化していた。親たちは、それを悲しみ、怒る心はほとんどなく、戦争に負けたんだからしかたないと思いあきらめていた。そのとき、親たちの口から出たものは、それにまきこまれることのないようにするしかないという非情そのものであった。
 それらを見、それらを聞きながら育ったのが、今日の若者である。
 彼らが、子供時代、それらを批判することもできずに、ただ、見、聞くしかなかった状態にあったということはまったくおそろしい。それらを心に受けとめ、それらをその精神と感情の養分として育ったのが、今日の若者であるということを、親たち、大人たちのなかのはたして何パーセントが考えているであろうか。
 しかも、そういう子供たちがものごころつき、考え、批判することができるようになったとき、つぎに、その親たちが、子供の前で、何を語り、どういう行動をみせたであろうか。
 おそらく、そのとき、親たちの発言と行動のなかで、もっとも強く子供たちにショックを与え、彼らに深い絶望感を与えたのは、その親たち、なかでもその父親たちが、まったく理想も誇りもなく、ただ強いもの、長いものにまかれてしまう存在でしかなかったということである。権力の前に、立身出世の前に、右往左往するものでしかなかったということである。
 すなわち、戦後数年間は、輝やける委員長時代であり、民主主義、社会主義は、すべての人間にとって、理想であり、夢であるような時代であった。平和もまた、すべての人間に、至上命令として君臨していた時代であった。そのなかで、親たちの多くは、恥も外聞もなく、戦争中の思想と行動をかなぐり捨て、労働運動に、平和と民主主義、社会主義に狂奔していった。その思想と行動のなかには、まったくといってよいほどに、戦争中の自分の思想と行動を批判し、それを克服するという形で、平和と民主主義、社会主義を選びとるという姿勢がなかった。
 そこにあるものは、労働運動の季節となり、平和と民主主義、社会主義が一般的に流行になったから、それに流され、それに従ったというにすぎなかった。だから、昭和二十五、六年ごろから、それらが自分たちにとって都合がわるいと知りはじめると、親たちの多くは、それらをふりすてた。
 かつて、戦争中の思想と行動から、戦後のそれに、あざやかに、しかし実際にはだらしなく変わったように、ふたたび、それをふりすてた。ふりすてない親たち、ふりすてることのできない親たちは、それらに盲目的に固執していった。戦後の平和と民主主義、社会主義が空洞化しはじめたのもそのときからである。
 考えることを始めた子供たちに、夢と理想に生きようとする若者たちに、この姿はどのように映じたであろうか。彼らは、その姿をどのように考えたであろうか。子供たちにとって、若者たちにとって、これほどがっかりしたことはあるまい。おそらく、彼らのなかに、「それでも人間なのか」「それでも、誇りがあるのか」というつぶやきがおこったであろう。
 親たちの思想と行動に強い不満がおこったことはまちがいない。
 それでいて、父親たちの多くは、子供のまえに、「妻とお前たちを養い育てるためには、そうするしかなかったのだ」と語る。あるときには、自分の心の弱味を、ひけめをかくそうとして、威たけだかに、世の中は複雑であり、厳しいものであるとどなるのである。はては「子供を育てるために、親として、いかに苦労したか」を、恩きせがましく、それもくどくどと語る。
 だが、子供たちのなかには、それを聞いたとき、若者らしく、潔癖に、あるいは純粋に、むしろその親が夢と理想を追って生きつづけたために、自分たちが餓死するようなことがあってもよかったのではないか、と思う者もいたにちがいない。若者の心理には、自分自身を悲劇の主人公、悲壮な栄光をになう主人公にしてみたいという気持もはたらく。それが、もっとも若者らしい若者ということもできる。そのために、父親の苦労、父親の努力に感謝しながら、他方で、父親に対する不満が心のどこかにおこることも否定できない。
 しかも、その父親が戦時中の冒険談や苦労話を語るとき、最高に生き生きとしてくるのをみるほど、子供にとってにがにがしいことはない。加えて、戦時中の生活がいかにたいへんであったか、それゆえに、今日の平和がいかにすばらしいものであるかを語る。しかし、子供たちには、それもまたにがにがしいことである。
 子供たちは、戦争を、平和を、思想として語ってほしいし、そのなかで、親たちがいかに戦い、いかに敗北したかをこそ語ってもらいたいのである。
 戦争や平和のなかでたんに生かされてきた人間としてでなく、戦争と戦い、平和を創造するために戦った話こそ聞きたいのである。しかし、父親たちには、それがまったくない。せいぜい、戦後平和をまもるために戦ったという話しかない。そこには、歴史を創造し、歴史を展開する者としての姿勢も気迫もない。
 夢と理想に生きようとする子供たちにとっては、その父親たちが語れば語るほど、ますますみすぼらしい存在にみえてくるのである。夢と理想を、未来をともに語る存在でなくなってくるのである。

 それが母親になると、もっとひどくなる。もっとみじめな姿を子供たちの前にさらすことになる。
 その第一は、母親が戦後、母親として生きるだけでなく、女性として、人間として生きようとしてきたことにある。もちろん、女性として、人間としてめざめてきたことはすばらしいことである。だが、戦前の母親たちが、女性としての自分、人間としての自分を殺し、その夫と子のために犠牲になって生きてきたのと違って、戦後、母親たちは、女性としての自分、人間としての自分にめざめてきたものの、それは、まったく中途半端で、不十分なものでしかなかった。
 戦後、二十数年たった今日でもなお、母親として生きるということと、女性として、人間として生きるということとが、どのようにかかわりあい、それらを統一しうるのかということは明白でない。そのために、母親たちは、各人各様に、適当に考え、勝手に行動している。いいかえれば、母親たちは、戦前の母親たちのように、自己犠牲に徹することもなく、また、女性として、人間としてもほどほどにしか生きていないということである。それも、非常に自信がなく、ゆれ動きながら、生きているということである。
 しかし、女性として、人間としてめざめるということは、女性として、人間として生きるということは、現代の思想的状況、政治的状況をふまえ、それをみきわめて、自分がどう生きるか、どう生きるべきかということを考えぬき、その上にたって、主体的に生き、行動するということである。
 母親として、人間として確信をもって生きるということである。そのように生き、行動するということは非常にむずかしい。
 だから、育児書の氾濫の前に、自己を動顛させたり、教育ママについての否定的評価を気にして迷うということは、まったく女性として、人間として生ききっていないということである。
 ことに、今日の母親の多くが、相も変わらず、その子供たちに向かって、「そんなおいたをしているとお巡りさんにいいつけますよ」とか、「人に笑われますよ」といい、さらに、そういうことばにききめがなくなったとみると、今度は、「パパに聞いてみなさい」とか、「パパに相談して、パパがいいといったら、そうしなさい」という。
 そこには、母親としての意見も権威もまったくなく、すべて、他人の意見と権威によりかかろうとする姿勢だけがある。人間としての自覚はまったくない。
 それでいて、母親の多くは、学び、考えるということもなく、臆面もなく、子供に対する叱責をしつこく、感情をまじえてくりかえす。そのことば、その内容も、ほとんど同じものである。子供たちが、そういう母親の態度にあきれ、その母親を軽蔑するようになるのも当然である。
 昭和四十四年度の『青少年白書』(総理府)に、高校生がその悩みを解決するのに、親の力をかりるという者が、わずかに七・七パーセントしかいないと書いているのも、うなずけることである。
 要するに、こういう父親と母親では、子供たちの相談相手にはなるまい。

 

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  3 親は子供に何を期待するか

 それにもかかわらず、親たちは、その事実を認めることができない。認めることを拒否しようとする。認めることは、親としての権威、親としての責任を放棄することだと錯覚し、反対に、その子供たちに向かって、強い希望、深い期待をいだくのである。それも、子供のためという大義名分をかかげて、その実、親が自分本位に考えたことを子供たちに執拗におしつける。その要求、その期待に従っていれば、この世には、もう何も思い悩み、苦しむことはないかのように強調するのである。
 たとえば、その要求とは、一流中学、一流高校、一流大学に入学することであり、立身出世のベルトにおさまることである。そのときの父親たちの心のなかには、一流高校や大学を卒業できなかったために、出世もできず、下積みとして苦労しなくてはならなかった悲しみと怒りがあるし、あるいは旧制の専門学校や大学に入学できず、一生をあくせくと働くしかなかった境遇へのつらい思いがある。
 さらには、立身出世から見放されて、細々と生きるしかない夫のみじめさを考えて、その子供に夢を託す母親もいるであろう。それはそれとして、親の心情としては無理もない。子供たちに期待するのも当然といえよう。
 しかし、そこには、親たちの学校教育に対する疑いや反省はまったくなく、ただ立身出世のための手段としての学校しかない。そのために、学校が求める画一的な学力評価、形式的な能力評価を無条件に受けいれて、少しも疑おうとしないばかりか、子供たちを、そういう学力評価に追いやる。そういう学力、そういう能力だけを認めて、その奴隷になることを厳しく求める。
 父親たちは、複雑多様の社会に生きて、そのなかで求められる能力、必要とされる能力がどんなに種々雑多のものであるかということを痛いまでに感じているはずだが、その反省は、その思いは、その子供をみるとき、その子供の能力、学力を考えるとき、少しも生きてこない。
 そのために、子供たちが、学校教育のなかで、その多様な個性、その雑多な能力をいかにそこなわれているかということを考えることもなく、その親たちは、ペーパー・テストの成績の結果に一紀一憂する。それが、いかにわが子をゆがめることになっているか、いっこうに気づこうとしない。
 そればかりか、受験競争にうちかつことを子供に異常に求めること自身、その子供を逞しい人間に育てるよりも、エゴイストにし、人間不信にしていく。こういう親たちの考えや姿勢は、戦後まがりなりにも平和にめざめ、民主主義、社会主義の原理に生きていこうとした親たちの願いと、どこでどう結びつくのか。むしろ、それらを拒否し、否定する思想と行動ではないか。
 母親が女性として、人間として生きようともがく生き方からみても、それは、まったく相反する。だから中途半端にしか生きていないともいえる。
 親たちがその子供のためによかれと考えて、一流大学を望み、立身出世を願うこと、そのことに、このような矛盾と相克があることを親たち自身知っているはずである。知りながら親たちは、世の中は厳しいんだということばで、自分も子供たちをもごまかすのである。
 もちろん、親たちがすべて、このように愚かであるとはかぎらない。人間の個性や能力が多様であり、それに従って、人間の生き方もいろいろであることを知りぬいている者も多い。
 ことに、戦争中から戦後にかけて支配してきた一元的価値観が崩壊したあと、価値観が多面的に併存するのをみてきた親たちは、それゆえに、人間のいろいろの生き方を肯定するようになったということもできる。人間には、いろいろの生き方があるものだということを身をもって体験もしている。そればかりか、戦争中から戦後にかけての、一元的価値観に没入し、陶酔し、それ以外のものを認めないような生き方も、それが一つの生き方でしかなかったという考えが、四十代から五十代の親たちのなかには根強くある。
 その若者時代を、そのように情熱的に生き、そして現在は、それとまったく相離れて生きているゆえに、それでも結構生きていられるゆえに、親たちは、その子供たちに向かって、「お前たちの気持はわかるが、それほど力むことはない、やっきになることはない」ともいうのである。
 それは、その子供たちに、ほどほどに生きることを求めることであり、平凡な良識人、人間味豊かな生活人になってほしいと望むことでもある。
 親たちのなかには、その若者時代を情熱的に生き、陶酔的に生きたために、その運命が狂い、今日なお、悪戦苦闘している友人、知人をもっている者、知っている者も多い。それを考えると、ますます国家のため、社会のため、階級のためといって、その全身全霊をうちこむことに不安を感ずる。
 いってみれば、こういう親たちは、その子供に、無理のない生活、激しくない行動を求めるのである。自分も参加できるような、常識的活動を求めるのである。マイホーム主義をこわさない範囲での活動を求めるのである。その枠内で、平和を、民主主義を、社会主義を実現してほしいと求めるのである。
 いわゆる、今日あるところの反体制的行動であり、漸進的、改造的活動である。そこから出てくる親たちのことばは、「お前一人が参加しなくても、状況全体には少しも関係がないではないか」ということであり、「無理をしないでほしい。けがをしないでほしい」ということである。
 このとき、ものわかりのよい親たち、かつてはなばなしく活躍した親たちは、現代の課題を考えようともせず、若者たちの心情を理解しようともせず、たんなるエゴイストになりさがっている。
 現代に、社会に目をふさいだ、無知で、行動しない大人になっている。
 子供たちは、それゆえに、その親たちに失望し、落胆する。はては、親たちの前に、貝のように沈黙してしまう。ときには、激しい怒りをあらわす。
 親たちは、なにゆえに、自分たちの限界、自分たちの失敗をのりこえて、大きく飛躍してくれることを望まないのかと子供たちは考える。とくに、その親たちが、自分たちの体験、自分たちの行動を絶対化し、そのなかから割り出した結論だけをおしつけてくるのに、子供たちはがっかりする。若者はいらだちをおぼえる。
 親たちは学問とか理論とかを、本当に考え、一度でも信じたことがあるのか、と子供たちは考えるようになる。そうなってしまうと、親子の間の断絶は決定的となるしかない。しかし、現実には、親子の断絶を深めるような期待・希望を、親たちは、その子供に向かっておしつけているのである。

 

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  4 子供は親に何を望んでいるか

 親たちが、このように、その子供たちに期待し、子供たちに接しているのに対して、子供たちは反対に、その親たちに何を求めているのであろうか。子供たちが親たちに求めるものは、非常に厳しいし、理想的なものであるということはすでに書いたが、またその意味で、まったく身勝手な要求をさえ求めると書いたが、そのことをもう少し考えてみたい。
 普通、子供たちは、少年期に達し、さらに青年期にさしかかると、一様に、夢をいだき、理想を追い求めるようになる。それが、友だちとの話し合いのなかから生まれるか、書物や教師、あるいはその親たちの啓発のなかから生まれるかに関係なく、彼らはそれを全身で求め、追いはじめる。とくにそのとき、彼らのなかにめざめた鋭い感覚、強い潔癖感が、その夢、その理想を激しく追い求めていく心をささえる。
 彼らの感覚、彼らの潔癖感は、世の中の矛盾、汚濁にそまり、そのなかにおいて、それらになれ、毒され、鈍磨されていないために、非常に鋭く、ナイーブである。その感覚、その潔癖感は、世の中の矛盾と汚濁をまったくはらいのけたいと思うほどに激しい。ともに天をいただかずと感ずるほどの強さであるといってもいい。
 ただの一度も、その矛盾、その汚濁と戦って敗れたことがないために、彼らは、自らの力を信ずることが厚いし、その力は、その能力は、無限にも思えてくる。それは、自分の将来があらゆる可能性をもっていると考えることでもある。
 子供たちは、その親たちがもっとも身近かにある者として、まずその親たちが、自分たちの夢と理想の理解者であり、その夢と理想の実現の協力者であることを考え、求める。理解者であり、協力者であることが、自分の親である資格であり、条件であるとさえ考えるのである。
 子供たちは、自分たち十七、八歳の若者が考え、求める夢と理想がその親たちにわからぬはずはないし、当然、自分たちの夢と理想以上のそれを求め、その実現に努力していると考えたとしても不思議はない。要するに、子供たちにとって、その親たちはすばらしいもの、美しいものでなくてはならないのである。
 親たちに、その子供たちがその理想を発見し、求めようとするのは、ごく自然である。だが、多くの父親たちの思想と行動は、前述したように、どの点からみても、どのように考えても、子供たちが、納得し、肯定できるものではない。彼らは、期待を裏切られ、がっかりする。
 ことごとに、親の意見に反対し、親に反抗するのはこのときからである。子供たちがその親と鋭く対立し、親たちと激しく論争をくりかえしている間は、まだ、その子供の親に対する期待、親に美しかれ、理想的であれと求める望みが消えていない。しかし、いつかその期待もうすれ、子供たちは、その親を路傍の人として遇しはじめる。
 NHKの「ニッポン診断」に登場した100名の高校生のうち、80名が親と話しても無駄と思うと答えていることでも明らかである。
 もちろん、二十歳前後の若者に達した子供たちは、その親に対して、それほど厳しいものを求めなくなる。人間がそれほど理想的に、すばらしく生ききれないことをも知るようになる。ことに、自分自身が、その夢と理想の前に、ともすると負けそうになり、挫折しかねないことを知れば知るほどなおさらである。
 だが、子供たちは、そういう反省の上にたって、あらためてその父親を理解しようとするし、また自分たちの理解者・協力者として、自分たちと同行してくれることを切望するようになる。
 父親が一人の時代の子として、自分とともに悩み、苦しむ人間であってほしい、現代の課題に立ち向かう人間であってほしいと思うし、父親が自分の半歩前を断固歩む人間であってほしいと望む。厳しい人間関係にささえられた親子関係をつくってほしいと願うようになる。

 他方、子供たちが、その母親に求めているものも、やはりかなり高いものである。しかも、その要求は、比較的早く、子供たちのなかにめばえるばかりでなく、その母親を批判し、その母親に不満をいだく。
 それは、自分の子供を遇するように、他の子供たちに対しても同じであってほしいということである。それほどに母親一般は、自分の子供と他人の子供を区別する。そこから子供は、母親のウソを発見する。心の中のいやしさを見ぬく。成長するにつれて、母親が自分の足をひっぱり、品性下劣な人間にしていることを発見する。
 自分自身のみにくさ、いやらしさは、その多くを母親から注入されたものであることを知るのも、そうむずかしいことではない。ことに、ひとりよがりのうえに、自分のこと、自分の家庭のことしか考えようとしない母親の姿勢、徹底して視野が狭く、なげやりで、社会性のない母親の思考法など、その子供が夢と理想を失いかけたときに、必ず思い出され、自分を合理化したくなる姿勢であり、思考法である。
 それゆえに、子供たちは厳しく母親を批判する。母親を許せないのである。それでありながら、母親たちの多くは、現代を、社会をみないで生きている。みようともしない姿勢を自己批判することもなく、それをその子供たちに要求するのである。

 それに今日の子供たちは、その親たちが強く求めている学校の勉強とか、一流大学に入学するということに、それほど価値をおいていない。すばらしいこととも考えていない。彼らの多くは、その授業に退屈しているばかりか、勉強の内容にも疑問をいだきはじめている。
 ということは、子供たちにとって授業は、新鮮でもないし、魅力あるものでもない。試験があるからしかたなしにやっているにすぎないということであり、それは同時に、社会人として生きていくうえに、学校で教える知識が決定的な価値をもっていないということを知ったということである。あまり、重要でも、必要でもないということを知ったということでもある。
 子供たちは、この世に存在し、生きていくうえに、いろいろの生き方があるし、多面的価値があるということを知るようになった。親たちが生きてきた世の中のように、一流大学を卒業した者のみが立身出世し、他の者はそれにあこがれ、それをうらやましく思いながら生きたのと違って、一流大学を卒業したかどうかに関係なく、思う存分、自分を生かし、自分を生きぬくことができる世の中になったことを知るようになった。むしろ、一流大学を出て、一定のきまったレールの上を走るよりも、今日は、いろいろの冒険をしながら力いっぱい生きていくほうがおもしろく、愉快ではないかと考える子供たちがたくさん出てきた。
 それこそ、子供たちの多種多様な夢であり、理想である。若者の発見した多面的な価値である。それを、親たちのように、上下とみ、いずれがまさり、いずれがすぐれているとは考えない。せんさくしようともしない。どの夢も、どの理想も人間の情熱の限りを注入する価値と考える。また、そう生きることがもっとも若者らしいのではないかと考えるようになった。
 多様性を自分に求める子供たち、相変わらず、ただ一つのことしか子供に求めない親たち。そこに、子供たちのいらだちがおこる。親たちへの侮蔑が生ずる。

 

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  5 親はどこまで子供を知っているか

 一般に親たちは、その子供を知っていると思っている。
 ことにその母親たちは、一年近くも、由分の腹に温め、ミルクからおむつの世話までして育ててきたのだから、なんでもわかっていると考える。たとえ、小学校、中学校、高校、大学と通うようになっても、その多くを自分といっしょにすごし、いっしょに感じ、考えてきたのだから、わからないはずはないと思う。ことに、教育ママを自認している母親は、その子供をなんでも話せるように、話すように育ててきたのだから、話してくれると信じている。話し合っているから、理解していると考える。
 しかし、親たちは、その子供たちをどこまで知り、どれだけ理解しているのであろうか。それに、親たちが子供を理解したがる心の奥には、多くの場合、子供を自分の思想と行動の枠内においておきたい気持がはたらいている。自分たちの支配下においておきたい、そうすれは安心であるという気持がある。
 そのために、その子供たちを子供そのものとして、知ろうともしないし、理解しようともしない。いってみれば、自分本位に、自分流に理解しようとしているにすぎない。だから、子供たちに近づくということはけっしてしない。
 親たちのこういう姿勢から生まれる理解というものは、どこまでも親たちの考え、欲する理解であって、子供そのものの理解ではない。子供のあるがままの全体像ではない。子供の一面しか理解していない、理解できないということである。そこから、子供たちに、親に話しても無駄という考えがおこるし、秘密もおきてくる。
 たとえば、家出をしたいとフッと考えたことのある高校生が73パーセントもいるという数字がでても(前出「ニッポン診断」による)、その父親の多くは、その数字に驚きつつも、自分の子供はきっとその反対の27パーセントのなかにいると考える。27パーセントのなかにいてほしいと思う。それほど親と子供の気持はずれている。
 それは、親たちの子供についての理解には、つねに限度があるのではないかということを自認する必要があるということである。一人の人間として子供たちが生きている以上、それはどうにもならないことであると自覚することである。
 二十数年間ともに生きてきた夫婦の間で、お互いにどこまで知りあっているかということをつきつめて考えてみれば、自分の子供に対する理解がどの程度のものかわかるともいえよう。
 それに、子供たちは、つねに、時代から、社会からの影響を強く受け、それを吸収しようとする者、新鮮な驚き、深い感動、強い怒りを感ずる者であるのに対して、自分たちは、あまり、驚き・感動・怒りをいだかなくなっていることを知るならば、なおさら子供たちに対する理解には限りがあると思わなくてはならない。
 また、自分たちが若者時代、何を思い、何を考えたか、さらにはその親たちが自分に対して、どの程度理解をしめしてくれたかを考えれば、いつのまにか、自分たちもまた、自分の若者時代を忘れ、その親たちのように無理解になっているかを知るのではなかろうか。
 親たちの子供への理解の前提になっているのは、自分たちにも、若者時代があったというだけで、若者として悩み、怒り、あるいはその可能性を求めて冒険しようとしたことなど、その多くは、まったく忘れてしまっている。
 一見、親たちは、自分たちが若者時代を十二分に生きなかったように、その子供たちにも、力いっぱいに生きないことを求めているようにもみえる。若者が若者らしく生きることを妨害しているともいえる。それが子供たちの幸福と安全に通じていると思いたがる。自分たちが受動的・消極的に生きて、その青春をもやすことがなかったのは、自分たちに青春がなかったばかりでなく、子供たちの青春をも殺そうとしているということを考えようとしない。
 そのような親たちの思想と行動は、その子供たちの圧殺者としてしか存在していない。
 しかも、今日、子供たちをとりまく状況が、自分たちの時代とまったく違って、若者一人一人が、多面的要求にささえられて、多元的価値を求めて、力いっぱいに生きることを肯定し、歓迎する世の中になってきたことを、その親たちは、かたくなに知ろうとしない。
 若者をとりまく既成の枠組は、どんどん崩れはじめ、今、若者は、未知の世界に向かって、新しい未来に向かって、大きくはばたきはじめたことを知ろうとしない。
 自分の子供を理解するためには、その子供が現代を全存在で吸収し、つねに未来に向いている以上、現代を知り、時代の方向を洞察する必要がある、ということを考えようとしない。現代を知り、時代の方向を洞察できない頭脳では、理解力では、もはや、今日に生きる子供をほとんど理解できない。
 親子の断層、親子の断絶があるとすれば、それは、時代と社会についての理解と認識の断絶と断言してもよい。それゆえに、親たちの子供への理解には限度があるし、限度があることを認識しなくてはならないともいったのである。
 そして、親たちがその子供を理解しようとすれば、現代のなかに生きる自分自身を的確につかむことであると、序章で書いたのもそのためである。
 親子の理解をこのように考えるならば、母親とその子供の断層・断絶は、いよいよ深いし、母親の多くは、現代社会に直面して生きているその子供たちの喜びと悲み、怒りと憎しみについては、まったく理解しようとしていないということになる。だから、東大全共闘が安田講堂に籠城したときに、その母親たちがその子供にキャラメルを運ぶこともできたのである。

 

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  6 親子の断絶をどう考えるべきか

 今日の親たちのなかに、親と子の間の断絶を発見したときに味わう苦痛とやりきれなさについて、親である自分たちのそれよりも、子供たちの味わうものは、数倍も強いものだということを一度でも真剣に考えた者が何パーセントあろうか。さらに、子供にとって、その悲しみ、その苦しみがどんなに深刻なものであるかを考えた者が幾人あろうか。
 親たちの多くは、その夫婦関係を、多くの場合、なれあいにし、ことばの本当の意味での話合いや心のふれあいをつくりだすことのないままに終わらせているが、同じように、その子供たちとの間にも、話合いや心のふれあいをつくりだそうとしていない。
 せいぜい、そういうポーズをしめしているにすぎない。
 その証拠には、親と子供の間で、その断絶を思いしらされるようなことは、ほとんど話しあわない。話しあってみなくても、親子の間では、そのことが暗黙のうちに了解できる。了解できるから、話しあわない。話合いをさけている。
 それは、夫婦関係のなれあいを、親子関係にひろげたものということもできるが、そこには、夫婦関係のなれあいをとことん見て、育ってきた子供たちの悲しい知恵がある。生活知がある。そして、家庭とはそういうもの、そうすることによって家庭の平和は得られるばかりでなく、しょせん、家庭とはそういうものであるという、子供たちのあきらめがある。
 しかし、親たちは、そのとき、あくまでそのポーズの延長として、親子なんだから、その心は通じあい、深く結ばれあっていると無理に考えようとする。そのことによって、自分の心を満足させようとする。はては、自分自身をごまかし、いつわる。その段階で、子供たちの心のなかには、どんなに寒々としたものが吹きぬけているかも考えようとせずに。
 その点では、今日、親と子供の間の断絶ということが、マスコミでしきりにいわれていることほど、親たちに都合のよいことはない。断絶の時代だから、ことさらに親と子供の間のそれを問いつめ、明らかにすることはないと考えることもできる。運悪くそれを発見させられたときには、今日は、断絶の時代だからと自分自身を納得させ、逃避することもできる。
 親たちを開きなおらせている。

 たしかに、今日、親と子供の間には、深い断層があり、鋭い亀裂がおこっている。しかし、それはすべて、親たちの側からつくりだし、親たちが子供たちの前にこしらえたものである。もし、子供たちとの話合いをもち、子供たちとの心のふれあいをつくりだそうとすれば、まず親たちが自ら、親子の断絶とは何か、それははたして埋めうるものか、どうすれば可能なのかを考えることである。それをなしたときはじめて親であるといえる。その権威をもち、保護者面もできるのである。
 断絶の時代に酔うこともなく、また、それに逃避することもなしに、その解決に向かって、思索と行動を開始することである。そのためにはまず、親子の断絶をつくりだした第一の理由である、子供たちの親たちへの不信をとりのぞくことに向かって、第一歩をふみだすべきである。さきに述べた現代への認識の違いということも大きい問題であるが、子供たちのもつ親たちの生そのもの、生き方そのものへの不信をなくすることである。
 親たちが、その夫婦関係のなかにつくりだしているような、なれあいの生き方を克服し、人間関係をもつことも大事なことである。その人間関係を親子関係のなかにつくりだしていくことも必要である。親も子供もともに時代の子として、苦悩する者、迷う者という認識を親たちが率直にもつとともに、その意味で、子供を先導していける人間になることである。
 さらに、親たちの圧倒的多数が、趣味や娯楽にふけるとき、あるいは家庭生活を楽しんでいるとき、もっとも生きがいを感ずるといっている間は、とても子供たちの信頼をかちとることはできない。そんなことをいう親たちは、人間としても、労働者としても、その生をいかしきっていない。そういう不満にみちた生活を毎日送っている親たち、それでいて、それを変えようとしない親たちに、尊敬と信頼を子供たちがもてるわけがない。
 子供たちは、自分に、もし、お説教をする暇があったら、親たちこそ、その生をより充実させるために全力をつくすべきだと思う。それに、必死に取り組む親たちの場合、はじめて、その子供たちとの間に話合いが成立する。心のふれあいは、そのときにはじめて可能となる。
 子供たちからみたとき、親たちのなかの幾人が、親として、力いっぱいに生きているかとも考える。その一例として、親たちは、職場の若者は理解しにくいが、それに比べて、わが子は理解しやすいという。相互に理解しあっていると考える。
 たしかに、その子供を扱うには、職場の若者を扱う心づかいもないから、職場の若者よりも、その子供は理解できると錯覚しがちである。
 しかし、職場の若者たちは、子供たちと違って、その多くの時間をいっしょにすごし、さらに、人間として遇しなくてはならず、その活動如何が、職場での能率に大きく関係する。自分の子供たちに対しては、そんな配慮をしなくてもすむから、そう考えるにすぎないということを思いつかない。職場の若者は子供より理解しにくいと考えるのは、錯覚でしかない。その子供を理解するのは、職場の若者を理解するのと同じようにむずかしい。
 親たちにとって、その子供たちの全体像を正確に理解することはおそらく不可能であろうが、また、もし理解できたとしても、それは、子供たちの喜びや生きがいを発見するうえで、ほとんど役にたたないということを、親たち自身、その経験からも先刻承知しているはずである。
 子供たちには、子供たちの人生があり、その生を悩み、苦しみながら生きていく以外にないということこそ、親たちは知るべきだし、親たちがそれに徹して、その子供たちをつき放し、捨てたときはじめて、親と子供の間の断絶はのりこえられたということもできる。
 要するに、子供たちのみた親たちは、一般的には、もっともかんじんなこと、大事なことに、すごく弱虫で、卑怯なのである。ものぐさで、怠け者なのである。それは、子供たちの生きる姿勢とまったく異なる。そんなところに、話合いが成立し、心がふれあうわけがない。
 親と子供の関係は、かえって一般の大人と若者以上に厳しい関係があることをこそ認識すべきであろう。

 

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 第二章 若者は政治をどう考えるか

  1 若者はどんな政治状況に育ったか

 若者が生まれ、育ったのは、いわゆる戦後といわれている政治・経済・社会状況であるが、二十数年たった今日、大人一般はいうまでもなく、学者・思想家といわれる人たちも、その規定にとまどうほどに、戦後は複雑であり、簡単には説明できない。それは、大人たちのなかで、なお依然として、未整理のものが多く、解明できないということであり、むしろ、戦後的状況を前にして、とまどっているということである。戦後的状況を直視している大人たちのなかには、かえってその迷い、その苦しみが、ますます深まり、強まっているということでもある。
 とすれば、それをもろに全身で受けとめるしかなかった若者たちに、どんなに強い衝撃を与えたかは想像にかたくない。若者たちの力には、とうてい処理できなかったとしても当然である。別言すれば、今日の若者は、戦後そのものである。若者のどの一面をみても、戦後の反映でないものはない。若者のすさまじいエネルギーにしても、また、狂的にみえる激しい行動にしても、無軌道ともみえる欲望の発散にしても、戦後以外のなにものでもない。
 それをもっとも如実に証明しているのは、今日の日本の物質的繁栄である。戦後の廃墟のなかで、今日の物質的繁栄を予想した者はほとんどなかったであろうし、それにもまして、今日の奇妙な繁栄、人間性を無視し、殺したような繁栄に、その大人たちの多くが酔いしれるようになろうとは、だれも想像しなかったであろう。しかし、大人たちは、その奇妙な繁栄のために努力し、それをかちとった。それに関するかぎり、大人たちのエネルギーはすさまじいし、その行動は狂的でさえある。人間としての欲望に生きるのではなく、目的のない、無軌道の欲望に、その身をゆだねたというしかない。
 若者が、今日、どんなに無軌道にみえようと、また狂的にみえようと、少しも不審がることはない。今日の若者こそ、戦後が、戦後の大人たちがつくりだしたもの、若者が、大人に似せて、その甲羅をつくったものにすぎない。もし、今日の若者がおばけというなら、戦後も、戦後の大人たちもおばけであり、それ以外のなにものでもない。
 そのことを戦後の政治に即して語ってみたい。

 まず、日本共産党が、戦勝国アメリカを解放軍と規定し、それまでアメリカを鬼畜とののしって戦っていた日本人の多くも、それに同調した。そのために、戦勝国アメリカのおしつけた民主主義を絶対無謬の原理として、無批判に受けとめ、その普及に狂奔した。それを疑おうする者もほとんどいなかった。さらに、敗戦国日本のなかで、日本人としての誇りと自信を捨てるということは、人間としてのそれを捨てるということでもあった。
 そこから、日本人の精神の荒廃が始まり、日本人は、エコノミック・アニマルとしての生活だけを重要視するようになった。敗戦こそ、日本人の人間としての自立、人間としての誇りと自信をかちとる戦いが始まるときであったにもかかわらず、それをやろうとせずに、日本人は、戦争中の精神的奴隷生活、思想的従属生活を戦後も同じようにつづけることになったのである。
 民主主義は、本来、国民一人一人に、民衆一人一人に自信を与えるもの。国民一人一人の自立、民衆一人一人の自立の姿勢を前提としない民主主義は、まやかしにすぎない。戦後の日本人のように、民主主義を絶対の原理として無批判的に受けとめるということ自体、民主主義の思想とは、まったく相反するものである。
 だから、戦後日本の民主主義は民主主義のおばけであり、民主主義そのものとはまったく関係ない。非民主的な方法、非民主的手段によって、制度としての民主主義をとりいれ、それが民主主義であると国民の目をごまかしてきた。思想家や学者たちも、それが民主主義だと錯覚した。
 最近、民主主義の空洞化と荒廃がいわれてきたが、じつは、戦後日本の民主主義は、その初めから空洞化し、荒廃していたのである。また、制度としての民主主義しか考えないから、戦後民主主義を守れと怒号することによって、ますます空洞化し、荒廃もしてきたのである。それは、すべて、戦後すぐの時点で、民主主義とは何かを考えることがなく、戦後の学者・思想家が奴隷的状態にあって、自立していなかったためである。
 戦後の日本が、国民が、そのような学者・思想家に指導され、国民のほとんども、彼らをまったく疑ってみようとしなかったということは悲惨である。それは、国民のなかに、民主主義が生きて作用していなかったということである。          

 そのために、国民のなかに自立の精神をかきたて、一人一人が自立の姿勢をもって生きていくことができるように努力するということもなかった。相変わらず国民は、自民党や社会党、共産党の奴隷であり、会社や組合の従属物でしかなかった。彼らのいうままに動く存在でしかなかった。
 国民一人一人が、自立した政治的存在として、その政治的生を充実させ、拡大することもなく、与えられた民主的制度のなかで、いよいよ敗戦ボケ、占領ボケを深め、強めていった。そしてついに、政治とはだれかがしてくれるもの、そのためには政治を担当する者たちに期待すればいいもの、要求すればいいものと思うようになった。だれかにしてもらうものと考えて、戦争中以上に依頼心を強め、奴隷的になっていったのである。
 ことに、戦争中、徹底的に抑圧され、戦後も窮乏のなかにおかれたために、国民の欲望は開発され、激しく燃えあがったが、戦後の指導の誤りが、その欲望を人間性の開発に向かわせることもなく、人間としての自立に対する欲求となることもなく、依頼心、奴隷心への欲求だけをますます盛んにしていった。そこに、エコノミック・アニマルになっていった理由、なるしかない理由があった。
 それに、悪いことには、自民党や企業が指導する現体制に対して、社会党、共産党、労働組合のリードする反体制が、戦後的状況のなかで成立したために、国民は、自然に二つに分かれて、それぞれに期待し、要求する姿勢を強めることにもなった。だから、反体制のなかにおこった変動にしても、またその指導力をめぐっての戦いにしても、社・共の間のそれであって、体制と反体制の間の変動、戦いにならなかった。体制内の闘争も、その範囲内に終わり、それぞれの争いが、他に及ぶということはなかった。
 何度選挙がおこなわれても、くりかえされても、またどんな争点があっても、体制と反体制を支持する者の数は、ほとんど変化しなかった。ほとんど変化のなかったのが、戦後二十数年の政治勢力の分布図であった。
 しかも、国民のなかに定着した政治をしてもらうという意識、何かをしてもらうという姿勢のために、政治は一貫して一にぎりの議員政治家の手中にあって、国民一人一人の手にはなかった。それを、大人たちは、なんとも思わないことに馴れてしまった。
 平和憲法のなかで軍隊が生まれるという具合に、憲法をふみにじるものが、政治家として、国会議員として通用するだけでなく、その赤ジュウタンの上で、政治家たちの取引と汚職がさいげんなくくりかえされた。非常にしばしば、暴力も行使された。だが、彼らのなかで、罪になった者はほとんどない。ないばかりか、取引や汚職をする議員、または暴力をふるう議員を実力ある者とかえって評価した。
 公害問題の一つである水俣病にしても、10年間もかからなくては、解決策も出せないという政治状況である。
 戦争の悲惨はたいへんだと呼号する戦中派の手で、一生懸命ベトナム戦争の戦術兵器、戦略物資をつくるというインチキさである。
 まさに、現代は狂っているとしかいいようがない。今日の大人たちは、人間としての誇りと自信を失っている。人間としての自覚をもって生きていないといいきってもよい。
 それにもかかわらず、大人たち、とくに社会的地位と責任のある大人たちほど、法をまもらないとか、秩序を破るとかいって、若者たちを攻撃し、糾弾する。そういう批判や糾弾が巷にみち、そういう発言を許す世の中である。
 どろ沼のように動かない、動こうともしない世の中である。
 おばけとしかいいようがないのが戦後という時代であり、戦後という社会である。
 それに全責任をおわなくてはならないのは、大人たちであり、政治家であり、学者、思想家であり、経営者である。それに、全責任を感ずる大人たちだけが、今日の若者について、批判、忠告ができるといってよかろう。

 

               <若者を考える 目次> 

 

  2 若者にとって秩序とは何か

 若者たちは、反体制の活動を許しながら、それをのみこんで、びくともしない現体制の強固さ、不気味さを、長い間じっとみつめながら育った。選挙のたびごとに、自民党の独裁体制、長期の支配体制に攻撃をかけることのない反体制運動のマンネリ化に伴う無力さをみてきた。
 日本社会党に即していうなら、つねに、日常活動の不足が指摘されながら、それが是正されるどころか、ますますなくなっていくのをみせつけられてきた。社会主義の理論は、民主主義の思想とともに、創造し、発展させられることもないままに、二十数年間、ほとんど同じといっていい状態をつづけてきた。
 日本共産党は、野坂の平和革命論以来、その革命戦略をめぐって、ゆれにゆれている。しかも戦後二十数年間、人々はいよいよ社会から疎外され、人間としての独立を失い、その人間性はますます殺されていく度合いを深めているにもかかわらず、反体制政治家をふくめて、大人たちは、なんの痛みも感じていないかにみえる。現体制、反体制を問わず、大人たちは、そのなかでの立身出世にしのぎをけずり、そのコースからはずれたものは、マイホーム主義に逃げこんでいく。
 人間のための政治、国民のための政治はどこにもない。政治とは、権力と地位を求めて走りまわるものでしかなく、今や、政治とは、立身出世そのものであるといってもいい。もちろん、かつて日本人のなかに、国民のなかに政治というものがあったことはないが、最近、政治は、一段と国民とは無縁なものになってきた。
 だから、自民党の政治家も、社会党の政治家もともに、自分たちの地位と権力をまもるために、その支配体制を強化することもできるのである。共産党の政治家にとっても、人々の自立、人々の幸福よりも、自分の地位と権力が大事になっている。彼らは、自民党の政治家と同じように、その支配体制をまもるために、秩序を重視する。秩序が大事になってくる。そして、その秩序をまもるために、憲法や法律が、さらには契約や規則が必要になってくる。
 憲法や法律が、契約や規則が、本来、一人一人の人間のためにあり、その自主性やその幸福をまもり、拡大するためにこそあるということを忘れて、政治家たちや企業の幹部、組合の幹部をまもるためにあると考える。法律や規則をそのようなものとして役立てようとする。
 要するに、現体制の幹部にとっても、反体制の幹部にとっても、今日という時代は、まことに都合のよいもの、居心地のよいものになっている。
 だから、彼らは、自分たちの決めた法律や規約を楯にとって、それぞれの支配体制、その秩序に挑戦する者を断固として攻撃する。その存在を認めようともしない。そのためには、自民党と共産党が密着して、学生たちを攻撃するというようなこともやってのける。あるいは、総評が反戦青年委を認めない。
 だからといって、彼ら自身、その法律、その規約をまもるということに、それほど真剣ではない。都合のわるいものは、平気でそれをふみにじってしまう。つぎつぎとその法律、規約を自分たちに都合のよいように変えてしまうということもやるのである。
 文字どおり、身勝手そのものである。
 そして、そういう姿勢、そういう秩序観が時代の発展をとどめ、社会を停滞させる。人々の創造的意欲を不毛にしていく。人間をだめにし、エコノミック・アニマルにする。従順に指導される人間、指導にあまんずる人間を多数つくっていくということを、政治家自身考えようともしないのである。
 その代表的事例が、今日、日本共産党に同調し、それになんの批判もなしについていく多数の人間たちである。「共産党は、二十数年間無謬であった」とごまかすことによって、その幹部たちは、自分の地位と権威をまもろうとする。それを批判する者、それに疑いをいだく者はつぎつぎに除名していく。
 そういう共産党が、時代とともに発展し、拡大していけるわけがない。
 社会主義理論は二十数年間、停滞しつづけたといったが、同じように、日共の奉ずる共産主義理論にも、あまり発展がない。それに、下部党員の批判をほとんど許さない、日共シンパの批判を許さないところには、共産党はふとりようがない。真に人間にめざめ、政治にめざめ、共産主義理論を創造的に追求していこうとする若者が共産党に近づくことはできない。
 今日、若者をとりまくものは、現体制、反体制といわず、既成の秩序でがんじがらめになっている。第三の道を追求する自由はほとんどなくて、固定した現体制か反体制を支持する自由しかない。その意味では、若者のように、つねに流動化を求め、発展を欲する者には、新なるもの、未知なるものを探求しようとする者には、まったく呼吸がとまるような時代である。
 そこには、まったく理想も夢も可能性もない。理想や夢や可能性があるとすれば、それはきまりきった理想であり、大人たちの画いた夢であり、秩序のなかで許される可能性でしかない。若者を満足させる未知への冒険も挑戦もまったくない。それを拒否するのが、今日の秩序である。若者だけでなく、大人たちもまた、窒息しそうになるのではあるまいか。人間が人間としての誇りを失えば、エコノミック・アニマルに堕するだけである。
 若者たちが、今日、体制内の秩序であろうと、反体制的秩序であろうと、それらをすべて、悪として憎悪し、破壊しようとする理由もそこにある。人間を抑圧する秩序とみたとき、人間の自由な活動と発展を阻む秩序とみたとき、若者でなくても、それを認めることはできまいが、若者には、なおいっそうそのような秩序をその全存在で怒り、憎む感受性が豊かである。それらを排除しようとする正義感にみちあふれている。
 しかもそういう若者は、続々と出てくることをもっともよく知っている者も若者たちである。たとえその若者の多くが、体制に、または反体制に吸収され、のみこまれていったとしても、現状が現状であるかぎり、それに不満をもつ若者が必ず出現してくることを知っているし、信じてもいる。
 歴史が進歩し、発展するということは、そういうことであり、若者がつねに歴史の主役であり、主体であったのもそのためである。

 

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  3 若者はなぜ直接民主主義を求めるか

 このように狂った時代、方向を失った社会に生まれ、自分たちの政治を見捨ててふりかえろうとしない大人たちのなかに育ってきた若者が、若者らしく、純粋で、潔癖であれば、虚偽を憎み、理想を追求するならば、この狂った時代、方向を失った社会に、政治をなくした大人たちのなかに、すっぽりとはまりこむことはできまい。
 それに戦後の社会は、若者たちに、多くの価値観、いろいろの主義・思想が併存していることを知らせた。どのようにすぐれた価値観も、卓越している主義・思想も、それ自身としては絶対なものではなく、時代と社会を導いていくためには、つねにそれを発展させ、深化させることが必要であることも痛感させた。それは、どんなに卓越している主義・思想でも、そのままでは老化し、固定化し、古い時代とともに消え去る運命にあるということを知らせたことである。
 加えて戦後の教育は、まがりなりにも人間の生き方が多様であること、そのためには若者一人一人がたいせつであり、主人公であることを教えた。教師たちの世界では、それはたんなる知識、与えられた知識にすぎなかったが、若者たちは、それがどういうことなのか、どういう意味なのかを、彼らなりに考えていった。人間が人間として生きるということはどういうことかを考えるようになった。戦後の教育が、若者の批判力、判断力をつけることに努力したこともあって、若者たちのなかには、自分自身を人間として生きさせようと強く欲する者も出てきた。
 狂った社会に生きる大人たちと、人間として生きようとする若者たちが鋭くぶつかりあうのも当然である。
 しかも、若者たちのなかには、多くの価値観、いろいろの主義・思想が併存する思想状況、政治状況のなかで、かつての大人たちのように、その主義・思想を絶対化し、その亜流になるような学習や姿勢をきっぱりと断ち切って、あくまで自分を中心にし、自分の主義・思想を充実させ、深化させるという態度を堅持しようとする者が出現してきた。思想的追随者でなく、自立した人間として、また自立した人間になるために、思想・主義に対決し、それをのりこえようとする若者が登場してきた。
 大人たちの奴隷的姿勢、追随的思想を長い間みてきたことのやりきれなさ、不満が、こういう若者を生みだしたともいうことができよう。

 その過程でおこったのが、戦後二十数年、日本の政治を支配してきた議会制民主主義の否定ということであり、代わって直接民主主義を若者が求めはじめたということである。議会制民主主義こそ、狂った時代、目的を失った社会をささえ、大人たちを政治そのものから遠ざけ、大人たちをあきらめに追いやった元凶である。
 議会制民主主義が存在するかぎり、国民の手に政治がとりかえせることもないし、狂った時代、目的を失った社会を変えることは永遠に不可能であると若者たちは考えた。そればかりか、思想的自立、政治的自立を求めて出発したばかりの自分たちを、多数決という名のもとに、議会制民主主義は圧殺するとも考えた。
 若者たちにとっては、直接民主主義が制度的に技術的に可能かどうかということを論議する暇はない。論議の余地はない。
 ことに民主主義が戦後いわれたように、民衆の、民衆による、民衆のための政治ということであれば、そういう民主主義を実現するためには、民衆一人一人を政治のできる人間、自分の生と幸福を自分の手のなかにおさめる能力のある人間にするための政治と教育をやることしかない。
 国民一人一人が政治に参加し、政治をその手にするためには、直接民主主義しかない。直接民主主義は、国民一人一人に、政治的存在としての自覚を求め、政治的存在として行動することを求めるものである。
 議会制民主主義のように、選挙のときだけ、一票の持主として優遇されるが、その実、組織や団体の決定に従って一票を行使するだけで、少しもその人間の主体性、政治的見解を求められないような、投票の機械でしかないようなもとで、国民が主権者として政治に参加できるようになることはけっしてない。
 要するに、議会制民主主義は、国民を愚弄し、愚弄された国民もそれを怒ることすら忘れてしまう。国民を愚かなままにしておきたいのが、今の議会制民主主義である。
 それに対して若者たちは、国民が政治的存在としてめざめる運動をおこしている。国民の手にしっかりと政治をつかむ運動をおこそうとした。

 大人たちは、普通、投票のパーセンテージによって、国民の政治的関心の有無をはかる。そして、それがどういう種類の投票であるかを考えようともしない。買収も一票であるが、それを問題にしない。しかも、いかに多くの票が買収されるか十分に承知しながら、それを考えようとしない。
 若者たちは、おそらく、どの党にいれるか選択能力のない者は投票する資格がないと思っているにちがいない。また、そのような大人たちがいかに多いかも知悉している。そういう選挙をくりかえしているかぎり、狂った時代、目的のない社会は少しも変わらないと思う。
 若者たちが、直接民主主義を求め、議会制民主主義を拒否するかぎり、投票しないのはすじが通っている。棄権は、彼らの意思表示である。政治に参加し、政治する姿勢である。彼らは、自分の手にはいる政治しか信用しない。自分の手にとどかないものは断固拒否する。それは、自分の手にとどくところ、行動の及ぶ範囲を改造し、そこに、革命を、変化をおこそうとする姿勢である。
 大人たちが、戦後一貫してもちつづけた自分たちの一票が、時代を、政治をよくするという期待を若者たちはいだかない。そんな期待が成立するかと反論する。いったいいつまでそんな迷妄におどらされているのかと追求する。時代や政治が悪くなりこそすれ、少しもよくなっていない。あるのは、人間としてでなく、豚としての繁栄でしかなかったではないか。
 若者たちが、大人たちに向かって、そろそろ目をさましていいのじゃないかというのもよくわかる。一人一人が政治的存在として政治的発言と行動をするようになるのを大人たちに求めたとしても不思議ではない。大人たちがだれにも支配されない人間として自立することを自分にも、若者にも求め始めたとき、若者たちは、そういう大人たちとともに生きはじめる。
 政治学や社会学が大学の一般教養にありながら、学生を政治的・社会的存在として遇することもなく、政治的、社会的意識を学生のなかにほりおこすこともなく、はては学生運動・政治運動を禁止している大学が多数あるような日本の大学教育がいかにインチキなものか、若者たちは骨身につきささるほどに感じている。
 ここには、今日の大人たちの全的否定しか出てこない。それを、直接民主主義という形で大人たちにつきつけ、自分にも要求しているのである。

 

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  4 若者の考える労働観

 ここで、角度を変えて、若者たちが労働をどのように考えているかをみてみたい。そうすることによって、彼らが大人たちを拒否している理由、彼らが志向している政治的人間なるものがいっそう明らかになる。
 若者たちは、労働を人間の労働としてとらえる。さらには、人間の生そのもの、行為そのものとしてとらえる。それは、従来の生活の手段であり、経済的行動でしかないと考えるのと鋭く対立している。彼らにとっては、労働を経済的行動という一面に限定することはできない。人間の全活動、全行為そのものと考えるしかないのである。
 若者たちのそういう考えを成立させたのは、戦後の政治的、経済的、社会的状況である。彼らの直視する社会では、政治と経済とが分離するどころか、それらは深くかかわりあい、それぞれの行為は一つに結びあっている。一つになって作用している。それは、自民党の代議士と経営者、社・共の代議士と労組の幹部との関係をみても明らかである。
 今日では、どこまでが政治の枠内であり、どこからが経済の範囲であるとはいいきれない。ただ、政治を中心にみるか、経済を中心にみるかということがあるだけである。
 本来、この社会は、政治的、経済的社会であり、そこに生きる人間の行為そのものも政治的、経済的なのである。人間の労働を経済的行為とし、その範囲にとどめたのは、人間の労働を資本に従属させ、人間を支配しようとしてきた資本主義制度そのものである。そのために、人間は、生殺与奪の権利をその労働を通じて資本ににぎられ、人間として自立することができなくなったのである。賃金の奴隷になるしかなかったのである。
 政治的、経済的活動とまったく無縁に成立し、存在していると一般的に考えられている宗教的活動にしても、政治的、経済的活動の裏づけのない、そういう活動と結びつかないものがいかに虚妄にみち、その宗教的活動そのものまで発展し、飛躍することがないことをみればわかろう。宗教そのものが人間を堕落させ、停滞させ、さらにアヘンにもなるのは、政治的、経済的活動を拒否するときである。それは、人間の全的活動にならないためである。全的活動にならないため、閉鎖的となり、発展しない。
 今日、若者たちは、人間の労働が人間の全活動であり、生そのものでなくてはならないと考えはじめた。そういう労働観だけが、人々に自立を与えることをみぬいた。人間の政治活動と経済活動を分離していること自身、人々を支配していこうとする指導者たち(体制と反体制を問わず)の策謀か、あるいは無知からきていることをみぬいたのである。

 さらに、若者たちが、その労働を人間一人一人の生であり、全行動でなくてはならないと考えはじめたのは、大人たちが、価値ある労働、意味のある労働につきたいと一度は思いながら、そういう仕事につく者は非常に少なく、多くはその労働を資本に従属化させ、その人間までも奴隷化していったことを発見したことによる。
 労働そのものが、たんに生活の手段であり、経済的行為にすぎないところには、その労働を本当に大事にする姿勢はでてこない。せいぜいその労働をやめたとき、または離れたとき、趣味生活に生きがいをみいだすというのでは、あまりに情ない。しかし、そのように考えている者がいかに多数であるかは先述したが、人間としてのもっとも盛んな活動時間を、あるいは人生のなかでもっともたいせつな活動時期を、いやいや過ごすということはまったくナンセンスである。
 これは、自分の生を侮蔑し、自分の全活動をだめにする生き方でしかない。それに、人間の労働を人間の生そのものと考え、全行動と考えるところには、その労働を非常に大事にするし、価値あるものにしようという心が強くはたらく。
 自分の労働以外に、価値ある労働があると思っている者には、その労働を自分自身でたいせつにするという態度はおこらない。月給があがり、出世できるために頑張るだけであり、奴隷的姿勢が強まるだけである。
 しかし、労働を自分の生とし、自分の全活動と考えはじめた若者たちには、そういうことがない。生そのものが本来多面的価値があるように、若者たちは、その多面的生の充実・発展に取り組む。しかも全活動には、その全活動を導く思想があり、その思想には創造性、開拓性が伴わなくてはならない。
 思想性・開拓性のない全活動なんて、若者たちの心を満足させまい。
 また、人間らしい生活をしたいという一事をとってみても、経済的豊かさだけで、人間が満たされるわけがないということを容易に知る。労働を人間の生、人間の全活動とみるところには、政治的にも経済的にも自立を戦いとる姿勢がでてくるだけでなく、思想的、文化的にも自立を戦いとる姿勢がでてくる。そのときにはじめて、人間一人一人の全的解放が、民主主義の理念である全民衆の自立ということが訪れる。
 人間の労働が、一人一人のものとして、完全にその支配下にはいらないかぎり、人間は自立したとはいえないし、本当に豊かな社会がきたということはできまい。
 若者たちは、今、それに向かって拒否の姿勢をしめし、反乱しているのである。

 だから、若者たちの行動は、労働であるとともに、政治的行為でもある。彼らのなかでは、労働も政治的行為も、さらには趣味的活動も一つである。若者たちは、どんな行動も、彼らの人間としての自覚のもとに統一し、支配しようとしている。そればかりか、統一していないような行動は、労働とみなさないし、価値をおかない。極論すれば、自立していない労働は、労働とみなさないのである。                             
 そこから、若者たちの徹底的な活動と行動がおこってくる。
 たとえば、反戦青年委員会に集まる若者たちのように、ベトナム戦争に反対するということを、たんに知識として、自分が何も失わず、何も賭けないようなところでやるのではなく、彼らの全存在、全行動をかけてやろうとする。彼らの労働即行動は、ベトナム物資をつくっている生産点そのものへの攻撃ともなる。そうでないような労働を許すということは、人間の全行動といえないし、堕落とみる。堕落でしかないとみる。
 その意味では、戦争の悲惨をいい、戦争中の権力の強大さをいうだけの戦中派よりも、ずっとずっと戦争を身近に感じている。戦争否定のために、激しく行動即労働をおこしている。
 それにもかかわらず、戦中派世代の大人たちは、今日の若者を戦無派と称し、戦争の悲惨さを彼らに伝えようとしている。若者たちがナンセンスといわずにはおれない気持が、こんなところにあるということを自覚している戦中派は幾人いるであろうか。
 それはさておき、今日、若者たちは、労働をそのように考え、そのような労働を欲するゆえに、よりよく自己を生かせる職場を求めてつぎつぎに転職もしていく。大人たちは、そのような状態を、若者たちが、楽でかっこよく、金がとれる仕事を求めて移動しているとしかみようとしない。
 しかし、明治以後、はたしてだれが、楽でかっこよく、金のとれる仕事を求めなかったであろうか。学歴の通用している今日の社会がそれを証明している。ただ、大人たちに、そういう仕事を求める欲求と姿勢が彼らほどに強くなかっただけである。
 もちろん、今日の若者たちをとりまく状況は、仕事が氾濫しているし、それも比較的高給の仕事がある。職を失うことに、自分の全神経をつかうことはないし、一日働いて一日自分の好きなこともできるという。それで食える時代にもなっている。それがいつまでつづく状況かは知らないが、若者たちの労働観の変化をこの状況がささえたということもできる。
 大企業につとめ、それに誇りをもち、それによりかかって生きることを求めた大人たちに対して、今日では、若者たちのなかの多くがそれを軽蔑している。そういう生き方に、まったくといってよいほど魅力を感じていない。
 若者たち一人一人が精一杯に自分を生き、自分を生かそうとしている。そういう若者が少しずつ多くなっている。しかも、そのなかで、彼らは、少しずつ強くなり、逞しく成長している。
 若者たちを本当に強くさせたのは何か、若者たちを真に人間としてめざめさせたのはだれか、このへんでじっくりと考えてみる必要がある。

 

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  5 若者にとって安保とは何か

 戦後、獄死した三木清は、「最低最悪の戦争も政治の貧困のあらわれである」といったが、第二次大戦後も、相変わらず地球上には戦争は絶えない。
 アメリカがベトナム戦争に介入するかと思えば、ソビエトはハンガリー、チェコスロヴァキアに侵入する。さらに、イギリス、ソビエトの民族エゴイズムがビアフラの悲惨を生みだしている。それらの国々は、かつて日本やドイツを平和の敵、文明の敵、人類の敵として裁いた。もちろん自らを平和・文明・人類をまもるものという自覚と認識のもとに、それをやってのけた国々である。だが今日では、それらの国々が、自ら平和・文明・人類の敵となりさがり、ありとあらゆる無法、残忍をやっている。
 日米安保条約にしても、そういうアメリカのもとに、日本の平和と安全をまもるということでしかない。アメリカのアジア支配力に日本も国力に応じて、協力するということである。その代わりに、物質的、経済的繁栄を与えられることになったが、そのために、日本人一人一人の自立の精神は喪失し、日本人は、人間としての誇りを捨ててしまった。
 だれも、今日の日本の繁栄が、奴隷の繁栄であるということをいおうとしない。その繁栄があれば、ほかには何もいらない、必要としていないかのようにいう者たちばかりである。しかも、その先頭に立って指導し、旗をふっているのは、大人たちである。
 若者たちが、平和の敵・文明の敵となりさがったアメリカ、ソビエト、イギリスを評価できなくなったのも当然であるし、さらにそれに追随する日本の大人たち、大国アメリカの暴挙を許す日米安保条約を拒否し、否定するのはあたりまえである。
 不平等条約である安保条約を認める大人たちほど、今日、輝やかしい維新とか明治時代とかを喧伝する。しかし、維新から明治時代を通じて、その当時の人々が、不平等条約の破棄を求めて、国家間の対等を求めて、いかに果敢に戦ったかということは、まったく考えようとしない。
 要するに、大人たちの多くは、身勝手で、自己本位なのである。弱虫で、卑怯者なのである。それでいて、口を開けば愛国心といい、若者たちにそれを要求する。しかも、その海外旅行で、日本の恥になるようなことをつぎつぎやってのけ、ヨーロッパ人の前に卑屈そのものであるのも大人たちである。滑稽としかいいようがない。

 今日、若者たちは、世界のどこにも、国家そのものとしては、平和と文明と人類の味方として生きている国家、生きようとしている国家がないことを発見したが、反対に、どこの国家にも、人間としての自立を求め、平和と文明のために戦おうとしている若者たちのいることを知った。そういう若者たちだけが、民族や国境を越えて連帯し、新しい時代をつくらねばならないと考えだした。そういう若者たちしか、来るべき社会の形成者になれぬことを自覚しはじめた。
 非常にしばしば、今日の若者たちは、権利意識のみ強く、義務の観念が弱いというようなことがいわれているが、はたしてそうであろうか。
 たしかに、今日の大人たちからみるとそうであるかもしれない。ことに、権利意識はほとんどなく、義務観念でがんじがらめになっているような大人たちからみれば、義務観念の不足、怠け者ということになるかもしれない。
 しかし、大人たちの権利意識は、権利意識でなくて、せいぜいお願いする、やってもらうというものでしかない。義務観念も義務観念でなく、周囲の目や批判をおそれ、また規則・規約に従っているものである。人間の権利意識や義務観念は、あくまで人間としてめざめ、自分の内なる要求、内なる声に従っておこるもの。周囲の批判とか規則、規約も、あくまで一つのめやすでしかない。
 むしろ若者たちのなかにこそ、今、初めて本当の権利意識や義務観念がめばえはじめたといえる。彼らが彼らの内なる要求に従い、内なる声に従って行動しだしたということは、それがたとえ怠惰にみえようとも、周囲の目や規則に拘束され、その奴隷になることよりも、ずっとずっとすばらしいことである。一人の人間が自立に向かって歩みはじめたことを意味する。
 大人たちは、そんなことで、社会がなりたっていくか、生産があがっていくかと不安がるかもしれない。しかし、若者たちが、人間一人一人の労働がその人の生そのもの、全活動そのもの、そしてそこには、経済性のみでなく、政治性も社会性も思想性も、さらには歴史性すらふくまれなくてはならないと考えだしたことは、それが不十分であったとしても、ずっとまともである。その意味では、今日、大きな過渡期に直面している。労働観も本質的に変わろうとしているし、政治観も本格的に変わろうとしている。変わる以外に、人間一人一人の全的自立はけっしてありえないのが今日という時代である。

 しかも、若者たちのこういう政治観・労働観をどんどん吸収し、自分たちの意識や考え方を変革し、発達させていくのが、本来あるべきはすの反体制運動の指導者であり、労働運動の指導者であるはずだが、前述したとおりに、その指導者である大人たちは、その地位に安住して、考えようとしない。
 安住しているばかりか、大人たちは、そのような若者たちを組織外に放逐するか、弾圧をしようとしている。大人たちの決めた規律に従わぬ若者たちは、その違反者として、さらには反体制運動の敵として、徹底的に抑圧しようとしている。
 今日、それがもっとも如実に現われているのが、総評主流と反戦青年委員会の関係であるが、総評主流に巣くう大人たちは、若者たちのいう労働観、政治観は、自分たち大人たちがもたせたもの、いだかせたものであるということに気づこうとしない。
 多数決の原理という形式的論理にたって、つねに国会において多数という名の暴力をふるっている自民党。それをつねに攻撃してきた総評主流の大人たちも、総評という組織内では、また自民党と同じように、多数決の原理の上にのっかっている。
 そこに、大人たちの間に、民主主義の原理に対する混乱がおこったばかりでなく、民主主義の空洞化にその力をかし、反体制運動そのものまでも停滞化させ、ついには、今日、若者たちから激しい反乱を受けることにもなったのである。
 つねに生成発展する反体制運動であるとき、初めて反体制運動といえるが、戦後二十数年間、体制を支持する者と反体制を支持する者の数は大勢的には変わらない。社会党がへり、共産党がのびたといっても、せいぜいその枠内のことでしかない。それでいて、一方は悲しみ、他方は喜ぶ。
 日本人一人一人のことを考えたとき、国民一人一人の自立を考えたとき、そういう考え方の枠内にいることがいかに滑稽かということを若者たちは知っただけでなく、そういうところからは、安保反対闘争も一歩も前進しないし、情勢は刻々悪くなっていくばかりだということに気がついた。
 安保は、たとえそれが安保という形でないにしても、多くの人々のなかに、安保そのものが生き、安保そのものの重圧がある、と若者たちは発見した。これまで、ともすると安保は、どこまでも安保で、自分自身の問題ではなかった。だから、それを離れて生きていくこともできた。
 しかし、安保と同じ差別、安保と同じ不平等が家庭に、職場に、男女間にといくらでもあることを知ったし、それらが安保問題と窮極的に結びつかねばならないことも知った。
 いいかえれば、安保は、人間解放を求める者にとって、他の多くの解決しなければならぬことの一つと同じ比重をもつもの、その程度のものでしかないことを若者たちは理解した。
 若者たちが、それを理解した意味は非常に大きい。それは、若者たちが安保問題にのめりこみ、自分を失うことから、彼ら自身を助けた。若者たちに必要なことは、生きることであり、行動することであり、労働することであり、それらを自分という人格のもとに統一していくことであった。その前にじゃまするもの、妨害するものとして、安保があれば、安保を否定していく。大事なのは、あくまで自分自身であり、自分の生活である。それに徹した若者たちをすばらしいとみるか、そうでないとみるかは、評者によろうが、ここには、どんなことがあっても他に支配されない人間が生まれはじめたというしかない。

 

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  6 若者は歴史をどう考えているか

 このように、若者たちの考え方は、どの面でも大きく変わりつつある。しかも、その変化は、異質なものへと向かっている。ことに、その政治観にしても、労働観にしても、指導者観にしても、さらには思想そのものを受けとめようとする姿勢にしても。そうなると、若者たちは、まったく新しい人間として誕生しはじめているということになるし、それを前にして、大人たちはとまどうということがあるのも無理はない。
 だが、大人たちは、すくなくとも若者たちの考える政治観・労働観が、自分たちのいだいてきたものよりも、人間的であり、発展的・解放的であることを認めずにはいられまい。もちろん、若者たちが、それを完全に自分のものにし、実践しているというのではないが、人間の全的解放のためには、一人一人の真の自立のために、そう考える人々が少しずつふえていく以外にないことを体験的にも、大人たちは知っているにちがいない。
 ここで大事なことは、若者の考えるもののうち、大人たちも一度は考えたことがあるということであり、ただそれを夢想として大人たちが途中でふりすてたのに対し、若者たちはそれを実行しはじめているということである。
 大人たちが、その青年期に一時的にその実現に向かって情熱をもやしたのに対して、今日の若者たちは、それを半永久的に実践しようとしている。そういう世の中になるまで実践しようとしているという違いでしかない。以前は、そういう若者がごく少なかったのに対して、今日は、相対的にそういう若者がふえたという違いでしかない。
 だからこそ大人たちの多くは、今日の若者たちの気持はよくわかる、ともいうのである。しかし、ここで大人たちと若者たちとのそれが根本的に異なることも同時に明らかにしておかねばならない。
 すなわち、若者たちは、自分一人一人を出発点にして、自分がどう生き、どう考えるかをいうのに対して、大人たちは、つねに日本は、民族は、階級は、労働者はということに終わってきたということである。そこには、本当の意味で自分と日本の関係、自分と階級の関係をつきとめることがなかった。それが戦争中の愛国者が今日も愛国者の仮面をかぶってアメリカに追随する人間、労働者の解放をいいながら、労働者の苦悩をよそに、自分の出世に安住する人間をつくりだしてきた理由である。
 そこから若者たちは、つねに私をふくめた全人間の全的解放を考え、大人たちは、しいたげられている人々のために戦うという姿勢、そういう人々のためになんとかすべきだという姿勢をとることになる。
 若者たちは、自分をふくめてだれもが解放されなくてはならないと自覚している。たとえば、戦争の悲惨をもろに受けとめている。自分たちは、その被害者であると同時に、加害者になっていると認識する。それに対して大人たちの認識には、多くの場合、解放されなくてはならないのは自分たちであるという自覚がない。なかには、自分たちは解放されている人間と錯覚している者も多い。
 だからこそ転向もしたし、さらには戦争の直接の被害者にならないと戦争そのものを感じとることができない。他国の戦争に冷たいばかりか、間接的加害者になっていることなど、まったく感じとることもできない。感じても知らないふりをしている。
 だから、大人たちは、若者たちのその態度に学ばなくてはならない。若者のために必要なのではなく、大人自身のために必要である。

 こうして、若者たちは、自分自身を、歴史の主役として登場させ、歴史の形成者そのものにしたてていく。これまで、奉仕を求められ、奉仕によってのみ、生きることを許された若者、指導され、その指導に忠実であることによってのみ、実践部隊としての高い評価を与えられてきた若者たちが、今やっと大人たちの指導を離れて、ヨチヨチ歩きだし、一人歩きを始めたのである。
 大人たちの目に、あぶなっかしく映るのは当然である。それも、きまりきった考え方にがんじがらめになっていればいるほど、大人たちはなおいっそう、若者たちの行動を危ぶむであろう。
 だが、若者たちは、大人たちのそれを顧慮することもなく、はっきりそれを拒否して、自分たちの考え、信ずる道を堂々と歩みはじめた。大人たちが、こわごわと夢想したもの、夢想できたものを、若者たちは、大胆に行動に移す。
 「その結果がどうなるか明らかでない」と大人たちが批判すれば、「それは、そのときになって考えればいいじゃないか」と、ケロリと答える。「ビジョンもなく、むちゃくちゃだ」と酷評すれば、若者たちは、「かつて、ビジョンどおりに新しい時代、新しい社会がつくられたことが歴史上あったか」と反論する。
 それこそ、若者たちは、歴史に学んでいる。
 「自ら歴史をつくろうとする意識も情熱もなく、ただたんに、新しい時代のビジョンとか、その実現の方法を非主体的に論じているかぎり、そういう人間は永遠に歴史の形成者にはなりえぬこと。」
 歴史をつくり、歴史をつくることの厳しさを、もっとも鋭く知っているのは、つねに過渡期に直面し、変革期の課題を自分の全身に受けとめた若者たちであることは、歴史そのものが証明している。
 若者たちの意識と行動なしに、歴史の変革が進められたことはかつて一度もない。今日の若者たちも意識的にせよ、無意識的にせよ、それを承知している。そのとき情熱は狂的なまでに激しく、その行動は人々に、ときに不快を感じさせるほどに徹底したものでなくてはならないことも知っている。
 それほどに、歴史とは非情なものであり、変革期とは残酷なものである。若者たちはそれを歴史に学び、大人たちはそれを歴史に学ぶことをしなかった。それが大人たちを逆に、非情で残酷なものに追いやる理由である。
 いずれにせよ、若者たちは、家庭に、職場に、組合に、国家内に、さらには国際間に、自分の存在を主張し、なんぴとであろうと自分との間の不平等、不均衡がないことを求める。そういう世の中になることを求めて行動する。
 それが、若者にとっての政治であり、政治的行動、人間的行動である。それ以外のどこにも、彼らの考える政治、政治的行動はない。全的勝利を求めて戦うのも、あるいは「オール・オア・ナッシング」と絶叫するのもそこからきている。
 そうなると、大人たちも、彼らに向かって、ただ同じことをいうしかないのか。それでは、あまりに大人げないと思われるが。

 

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 第三章 若者にとって生活とは何か

  1 若者は遊びをどう考えるか

 今日、若者の間に大きくおこっているのは、生活革命といえるものである。それは、遊び、流行、旅行、性とあらゆる生活の部門にわたって、若者たちの考えが変わりつつあるということである。大人たちの考えとは異なったものをもちはじめている。
 そこには、その考えが十二分に確立しないところから、当然おこる混乱を出現させているが、それにもかかわらず若者たちは、徐々に、広く、深く、その生活の全領域にわたって、革命をおこしつづけている。それを価値観の変革といってもよかろうが、それを今、若者たちは強力におしすすめている。
 それは、これまで述べてきたように、政治的人間、思想的人間として生きはじめている若者たちのように、すばらしくみえないかもしれない。すてきなことに思われないかもしれない。しかし、若者たちのなかにおこりはじめている生活革命は、非常に重要なものであり、政治的、思想的人間として生きようとすることと同じ価値をもっている。
 政治的、思想的人間は、この生活革命に及んで、はじめて強力になるということもできる。あるいは、生活革命を推進する若者たちにまもられて、政治的、思想的人間として生きようとする若者たちは、はじめて行動を発展させることができるともいえる。
 その意味で、まず若者たちの遊び観から考えてみよう。彼らのそれは、大人たちのそれとどのように違っているのであろうか。

 若者たちは、大人たちのように、遊びを勉強に従属したもの、第二義的なものと考えることをやめようとしている。もちろん、仕事に付随したものとも考えなくなりはじめている。
 彼らは、遊びには遊びそのものの本来の意味と価値があり、その意味と価値は、勉強の意抹、仕事の価値と共存するものであり、人間生活にとっては、勉強や仕事と同じように、重要なものと考えはじめている。
 大人たちのように、勉強の充実のために、仕事をすばらしくやるために必要なものとも考えない。
 それが、大人たちに、若者たちの遊び観に抵抗を感じさせ、若者たちの勉強や仕事に取り組む姿勢に不満や不安を感じさせる理由である。大人たちは、そんな若者には、勉強も仕事も中途半端にしかできないとみる。彼らは、勉強や仕事にうちこみ、集中できるはずはないと決めてしまう。
 大人たちの考える勉強や仕事には、努力なしに、あるいは責任感なしにはできないものという先入観があるし、他方、遊びにはだれでもなんの努力なしに、うちこみ、没頭し、往々にして勉強や仕事を忘れさせる危険があると思うのである。
 それほどに、大人たちは、今まで、勉強と仕事に苦痛を感じながらも、いやいやながらそれに取り組んだという自意識がある。とくに、小さいときから、両親や教師に叱責され、試験に追いまわされて努力してきたという意識がある。遊びを悪いこととして、遊ぶまい、遊ぶのをがまんしようと努力してきた過去がある。
 そのために、一定以上に遊びをおそれ、遊びを敬遠する心が強い。遊びに役頭すれば、勉強や仕事を忘れてしまうのではないかという不安がある。
 大人たちが学校を卒業すると、その九割以上が勉強することを忘れたり、あるいは仕事をしないでブラブラ遊べたらどんなにいいだろうと思うのも、勉強と仕事には努力と義務感が不可欠であると考えていることによる。
 要するに、大人たちは、これまで、自発的、主体的に勉強し、仕事をする喜びを知らなかったし、それが、逆に、遊びへの幻想を一定以上にいだかせることにもなったのである。
 勉強や仕事のない生活、そして、逆に、遊ぶことしかできない生活がどんなにみじめで、苦痛であるかを想像できないほどに、大人たちの想像力は貧しくなったのである。
 その貧しい想像力で、若者たちの新しい遊び観を不安がり、はては、嫌悪する。さらには、否定し、拒否するのである。実際に、若者たちのなかには、大人たち以上に勉強や仕事に集中し、没頭している者がいるとも考えないで。いやいやながらの気持を抑えて、さらには遊びに没頭したい気持をがまんして、仕事をし、勉強する心や姿勢が人間として、いかにみじめであり、不幸であるかも考えないで。

 これに対して、若者たちは、今日、人間の一生は多面的で、多様な価値を追求するものでなくてはならない、それが、自分の人生をつねに新鮮にし、豊かなものにしていくということを発見した。
 加えて大人たちの、単調で無味乾燥な人生でない人生を自分たちのものにするためには、大人たちの生き方、考え方に同調していては駄目だということも知ったのである。彼らは、大人たちの勉強や仕事の奴隷となり、遊びを一生懸命がまんしている生活をみたとき、そんな人生は、大人たちだけでもう十分だと考えた。そこから、若者たちは、よりいっそう遊びと勉強、遊びと仕事に同じ意味と価値を見出した。
 それに、若者たちは、勉強や仕事から解放されて、遊びに集中し、熱中することに、なんともいえない感動と、醍醐味のあることを発見した。
 そればかりか、遊びに中途半端なものは、勉強や仕事にも中途半端であることも発見した。それは、遊びに喜びや感動があるように、勉強や仕事に熱中し、没頭するためには、その勉強や仕事に、自分なりの喜びと感動を発見しなくてはならないということであった。そうなると、ますます大人たちの考え方を若者たちは肯定できなくなる。
 肯定するどころか拒否したくなる。
 この結果、いっそう若者たちと大人たちは、遊びをめぐって対立することになった。
 しかも、若者たちにとって、遊びそのものは、肉体と精神の緊張関係をもたらすばかりでなく、なによりもすぐれた精神活動そのもの、知性と感覚をいよいよ研ぎすましていくものであった。さらには、遊びは、自由と平等と独立の精神をいやが上にもひきだし発達させるものであった。
 こういう精神活動は、勉強や仕事をしていくうえにも、なくてはならないものであった。
 若者たちが、遊びの効用を断固として主張するようになり、大人たちの考え方を自信をもって否定するようになったのも当然である。
 今日、学校教育の制度的拡充とともに、子供たちの精神と肉体がますます分離し、思想と行動が分裂し、なんでも知っているが少しも行動しようとしない人間、記憶力や暗記力は抜群だが、感覚は貧しく、品性の下劣な人間が多数出てきたのも、遊びを勉強に従属させ、肉体と精神を分裂させるような勉強を強いた結果であった。
 大人たちは、自分たちと同じように、勉強や仕事の奴隷に若者たちがなることを欲しているのであろうか。遊びを横目でにらんで生きる欲求不満の人間にしようというのであろうか。
 若者たちは、遊びを自主的、主体的に選び、それに集中するように、勉強や仕事を自主的、主体的に選び、それに取り組もうとしはじめている。彼らは、遊びの主人公であるとともに、勉強や仕事の主人公になろうとしている。
 いやなものは、どこまでもいやであり、好きなものは、どこまでも好きなのである。それを遊びのなかから発見し、生活姿勢にまでたかめようとする若者たちは、まことにすばらしいといえるのではあるまいか。

 

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  2 若者はなぜ漫画を読むか

 若者たちが漫画を熱狂的に読むことが問題になりだしてから、もう数年になる。しかし、若者たちの漫画愛好熱は、大人たちの批判をよそに、ますますその度合いを強めている。いったいこの傾向はどうなるか、それはいいことかわるいことかという批判とは別に、漫画は、すでに若者たちの生活の一部となり、完全に定着しているといっていい。
 どうして、そうなったのか。
 そのことを書く前に、大人たちはなぜ、若者たちが漫画を読むことをそれほどいやがるのか、まず、それを明らかにしなくてはならない。
 大人たちの漫画観は「漫画なんか」ということばに現われている。漫画は、子供時代に読むもの、その内容は幼稚で、次元の低いもの、だから、いずれは卒業しなくてはならないものだという考えに終始している。
 思想的にものを深く考えるようになれば、その知能、知性が深められてくれば、当然、漫画はあきたらなくなるものと決めている。とすれば、若者になり、学生になったものが、いつまでも、漫画を読み、漫画に熱中していることに大人たちは不満を感じよう。あるいは、怠けているとしか映らないし、はては、どうして漫画なんかにいつまでも喜びを感じているのであろうかということになろう。
 そういう大人たちの理解や判断からは、若者たちの行動に眉をひそめ、その行動を非難するものしか出てこない。そしてそこには、若者たちがなにゆえに漫画に熱中し、学生たちがなにゆえに漫画に共感するのかという理解はまったく出てこないであろう。
 しかし、私は、若者たちを漫画に走らせ、漫画的世界に生きさせるようになったのは、じつは、彼らを批判し、攻撃している大人たち自身であるということになるし、しかも、大人たちに、その反省、その理解が少しもないということで、逆に、大人たちこそ責められなければならないと思っている。
 第一の理由は、若者たちの思想への信頼を、思想を求めることへの興味を失わせたのは、大人たちそのものである。彼らは、大人たちの語ることば、書く思想、それがいかに意味ありげであり、何かありそうにみえても、現実の社会に対して、まったく有効性がないことを痛いほどに知らされた。そればかりか、そのことば、その思想を語り、書く、当の大人たちによってもほとんど実践されていないことを知ったのである。
 とすれば、若者たちが、漫画を卒業した後に、つぎに読み、考えるものがあると決めている大人たちの考えに従うことができないのもむりはない。
 第二は、若者たちの視聴覚を極度に開発し、彼らを視聴覚的人間にしていったのは、大人たちそのものであるということである。
 テレビはもちろん、雑誌、書物にいたるまで、若者たちがその子供時代に接したものはすべて、視聴覚的なものであった。しかも、彼らは、それを受動的に受けとめ、受けいれることにならされてきたばかりでなく、読むもの、考えるものといえば、無味乾燥に近い教科書だけであり、それをいやおうなく棒暗記することを、その両親と教師たちに求められたのである。
 これでは、若者たちがうんざりし、いやがるのは当然である。そして、若者たちを非難している大人たち、なかでもその母親たちは、愚劣で、単調そのもののメロドラマをあきもしないで一心に見つづけている。
 第三は、学校教育が若者たちに○×式教育を強要した結果、彼らにいつのまにか、過程を考え、過程を重視するという態度を失わせ、結果・結論だけを問題にするような姿勢を身につけさせたことである。
 漫画は、たしかに結論がはっきりしていて、その過程をあれこれ考えない、考えることを無視したものである。それが、若者たちを漫画に共感させ、漫画に熱中させる理由でもある。しかし、同時に、漫画を否定する大人たち自身、その過程をあれこれ考えない、まわりくどく考えない人種であるということもできる。その点では、単線的、直接的である漫画そのものであるということもできる。
 漫画を否定するということは、自分自身の行動を否定するということでもある。

 若者たちは、そういうことと関係なく、漫画の世界にある直接的行動、単線的行動にひかれている。似而非的思想を拒否し行動する人間だけに、意味と価値を見出していこうとする。
 しかも、若者たちが共感する漫画の世界の主人公は、外部の秩序や規制にとらわれることなく、それを無視して、自分が生きたいように生きていく。思うがままに、生きてみせる。文字どおり、自分に忠実で、自分の思うこと、考えることを徹底して行動に移していく。これほど、スカッとした生き方、行動はないと思う。その点で、大人たちの単線的行動とは異なるものを若者たちはみている。
 ことに若者たちは、じめじめした大人たち、スカッとしない大人たちの行動をみたとき、その反対に、漫画の世界の行動する主人公に魅了される。それに、若者の共感する漫画は、徹頭徹尾人間の意味、生の意味、行動の意味を問いなおしている。行動を導き、行動をささえる思想とは何かを問いなおす視点に貫ぬかれているものである。
 大人たちは、「漫画の世界の主人公には、思想がない」と思っているが、逆に、若者たちは、「思想とは行動を導くものであり、行動にでていかないような思想は、本当は思想とよべないもの、たしかに、漫画の世界の主人公には、単純で、直截な思想しかないにしても、そこには行動と分離していない思想、行動に統一された思想がある」と考える。彼らは、漫画の世界の主人公のように、行動と思想の統一した人間、そこから出発しなくてはならないと考える。そこにのみ、現代における人間の再生が、復活があると思う。
 大人たちの考える思想とは、漫画の世界の主人公のもつ思想とは異質なばかりでなく、それに遠く及ばないと若者たちは考えるのである。
 ということは、若者たち自身、大人たちの思想を否定し、若者たち一人一人の思想の確立に向かって歩みだしたということであるし、彼らは、今日の退廃した知性、現実への有効性をなくした知性を再建するためには、漫画の世界から再出発する以外にないといいきっているとも考えていい。
 漫画を再発見したということには、若者たちのなみなみならぬ決意がある。もちろん、漫画を読む若者のなかには、戦後的教育、戦後的風潮に安直に流されている者も多いことは事実であるが、ここでは、そういう若者たちは、まったく問題にならない。漫画を通して、新しい思想にめざめつつある若者のことだけが問題なのである。

 ことに、戦後二十余年、つねに知性の再建が論じられ、思想と行動の関係が追求されてきた。しかし、そこに、決定的に欠けていた視点は、ただの知性の再建であるか、思想と行動の関係であったかということである。
 論ずる者自身、自らの知性が再建されなくてはならないことを少しも考えようとしなかったし、自分の思想と行動が分裂していることを問題にしようとしなかった。つねに、そこに論じられるものは一般論であり、抽象論であった。
 それらの論文は、漫画の世界の主人公の知性にすら遠く及ばなかった。それは、大人たち一人一人の知性が、漫画の主人公の知性に及ばなかったということであり、その思想と行動の関係を明らかにしていなかったということである。
 だが、若者たちは、一般論や抽象論でなく、自分自身の知性が問題であり、思想と行動の関係が重要なのである。とすれば、彼らは、漫画の世界から出発する以外になかったし、そこにのみ、若者一人一人の知性再建の道があったのである。
 その意味では、大人たちよりも若者たちのほうが、ずっと自分自身に忠実であり、自分の生に真剣である。漫画なんかといっている大人たちこそ、逆に、漫画の世界から見捨てられる存在であるばかりでなく、永遠に、知性の再建のできない人たちということになる。
 といっても、漫画を無批判、無条件に認めようとは、けっして思わない。先述したように、漫画の世界にある単線的行動、しかも、結論や結果だけを重視する行動、過程や途中をあれこれ考えない行動ということでは、あくまで不十分なものである。その思想と行動は発展させなくてはならないものである。
 それをどのようにしてやるかは、大人たちをふくめて、若者たちの今後の課題であろう。若者たちにとって、漫画の問題は、人間一人一人の知性をどうして再建するかという大問題に直結している。
 それに取り組み、解決するところにしか、この問題は解決されない。
 大人たちに、今必要なのは、それをまず、実感することである。

 

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  3 若者にとって流行とは何か

 大人たちは、その若者時代を制服・制帽のなかで暮らし、わずかに、弊衣破帽のなかに、自分をきわだたせ、自分を主張してきた。彼らにとっては、それが最高のおしゃれであり、カッコいいことであった。
 それには、彼らをみる社会の目が厳しかったし、あまり特別のかっこうをすることは許されなかったということも原因している。社会の目が許さないことをするということは、そのまま異端者であり、疎外者になることであり、それは、自分を抹殺していくことにも通じていた。
 だから、大人たちは、いつか、そういう社会環境になれ、そういう風習のなかに生きることによって、個性を開発し、発展させるどころか、逆に、それを殺していった。殺すことを、なんとも思わなくなっていった。ユニホームを与えられて、それをカッコいいと思うまでになっていった。
 もちろん、弊衣破帽に、自分の存在を主張し、カッコよさを発見したように、大人たちも、ユニホームのなかに、精一杯の工夫をし、おしゃれをすることに努力した。その枠内で、自分自身をきわだたせることを一生懸命考えた。
 しかし、結局、大人たちは、サラリーマンの制服は、白いワイシャツにネクタイということになんの不思議も感じないような大人になってしまった。そして、流行といい、おしゃれといっても、世の中に制限され、その秩序のなかにあるものだという考えを肯定していくしかなかったのである。
 そこから、彼らは、流行やおしゃれは、第三者の他人が考え、つくったものを、自分たちも模倣し、そのあとを追っていくものだという考えをひきだし、そういう考え方から解放されることはなかった。
 それというのも、大人たちは、彼ら自身、個性のない、単調そのものの若者時代を送ったからである。自分自身を育て、自分自身を大事にするということに不徹底であったためである。極論すれば、流行を追うしかないような貧しい個性しかもちあわせていなかったということである。しかも、彼らは、なにも服装にかぎったことではなく、思想や行動にしても、他人のつくったものを追い、そういう流行に流されたのである。
 なにからなにまで、プアーであった。
 流行だからといって、その流行を追っていくところには、まったく自分というものがないし、自分自身の選択がない。流行にひきまわされていくしかない人間たちがいるだけである。ここには、人間としての主体性も自主性もない、奴隷のような生活があるだけである。
 支配され、政治される人間であって、自ら支配し、政治する人間ではない。
 だからこそ、大人たちは、流行に支配されたように、政治や思想に支配されるしかなかったと若者たちはみるのである。だらしない人間たちとして、その目にうつる。

 これに対して、若者たちは、真向うから反対する。異議をとなえる。流行やおしゃれは自分がつくるもの、一人一人、したいことを自分がやるだけであると考える。
 それに、今日、若者たちをみる社会の目は、昔のように厳しくない。むしろ、寛容でさえある。好き勝手のできる時代であり、これを責め、非難する目は非常に少ない。ときには、彼らのそういう姿勢を歓迎する傾向さえある。なにを着てもいいんだ、やりたいことをやっていいんだという社会の風潮である。消費経済の異常な発達もそういう傾向を助長した。
 しかも、若者たちは、大人たちに比べると、比較にならないほどに、個性的である。多面的な生き方を求めているし、その生き方に価値を認めている。多様な思想状況のなかに生きているだけに、そういう生き方に大胆であるし、徹底もしている。
 若者たちのなかには、異常に他人の目を意識する者と、ほとんど他人を意識しない者とがある。そして、他人の目を意識する者も、窮極的には自分をきわだたせ、認めさせようという気持が強い。だから、他人の目に動かされるというより、他人の目を自分にひきつけようとすることを考える。まして、第三者のつくる流行に至上の価値をおかないし、それを至上命令だとも思わない。もし、それが、至上価値であり、至上命令であるかの装いでもみせると、逆に、それを否定し、拒否する。
 しかも、今日、流行をつくり、おしゃれを求めるのは、女の子だけでなく、男の子もいっしょである。男の子に、その中心が移りはじめているといってもいい。着るものには性別がなくなってきたし、男の子たちが、その自己主張のために、いっそう奇異な格好をしてみせる。それが、いよいよ彼らを、大胆にさせ、個性的にもしている。
 他人の目を恐れないで、その目をひきつけるために、着たいものを着、したいことをするというふうに徹底していく。そうなると、デザイナーがいて、デザインし、流行をつくっていくというよりも、一人一人がデザイナーとして、自分の着るものをデザインしていくというふうに徐々に変わっていく。若者たちは、今、その方向に歩みだしている。しかし、一人一人の人間がそうなるためには、一人一人の人間が自分の思想をもち、第三者のつくる流行に流されないだけのものをもたなくてはならない。支配される人間から、支配する人間に変わらないかぎり、その可能性はない。

 そこに、今日、若者たちが陥る落し穴がある。
 彼らは、全体としては、それほどに個性的でもないし、自立的でもない。政治から独立してもいない。そのために、流行という名のもとに、若者たちが流行をつくり、つぎつぎと新しいものを追求していったとしても、若者たちの多くは、その流行の追随者になり、亜流になるしかない。それに、流行をつくる若者自身、いつか形の上だけで、新奇なものを追い求め、実体のないもの、彼ら自身から遊離する可能性も生じる。そうなると、新しいものを最初考え、つくりだしたという流行本来の意妹と価値は喪失していくしかない。流行のもっている現状否定、主体的自主的な行動は、どこかへいってしまう。
 自分自身の確立していない若者が流行の追随者になることが注意されなくてはならないように、意識的に流行をつくっていこうとする若者たちも、また、注意しなくてはならない。それが、流行という名でよばれる理由であるかもしれないが、いずれにしても、今日、若者たちが流行に敏感で、つぎつぎと古い流行を否定し、新しい流行を創造していこうとしている姿勢、それも、個性的、主体的に求めていこうとする姿勢は、好ましいことである。
 ことに、それが、今ある自己を否定しつづけるという姿勢、そのなかに同時に、現代を、現社会を否定していこうとする姿勢があるということを考えればなおさらである。
 それを知悉する若者があるということは、今日、大人たちに向かって、ナンセンスといい、断絶を絶叫する以上に、同世代の若者たちに向かって、断絶や孤立を強調していることによっても明らかである。
 彼らは、すべての若者が思想的に政治的に独立することを強く求め、そのために、彼らは、つぎつぎと流行を打破しているということもできる。若者たちを変えるためには、それがてっとり早いと考えるのである。
 このようにみると、流行に取り組む若者たちの姿勢は、すぐれて思想的であり、政治的である。ということは、流行も、今日では思想や政治をはなれて語ることはできないということである。

 

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  4 若者は旅行をどう受けとめたか

 明治維新は、人々に、国内を自由に旅行することを許したために、当時の人々を大きく変えた。ことに、それまで他藩を他国として受けとめ、藩意識を重んじ、藩意識にとらわれ、他藩の人々と親しむことのなかった人々が、他藩を旅行し、他藩の人々に直接接することによって、その閉鎖的意識をどんどん開放的にしていった。それは、書物を読んだり、教室で教育されるのとは、比較にならないほどに人々の意識と思想に革命をおこした。
 旅行とは、本来そういうものであるが、今日、若者たちは、そういう旅行を国内的にも国際的にも積極的にすることによって、その意識と思想に革命をおこしはじめている。彼らは、日本の枠のなかに生きた大人たちと違って、国際人、世界人に変貌しはじめているといっても過言ではない。人類の一人として、他国人をみ、他国人と親しみはじめているということはたいへんなことである。

 日本は、明治以後、世界に向かって国を開いたといっても、それは、まったく不十分なものであった。日本人の多くは、西洋諸国への劣等感に悩まされて、外国に旅行することを嫌った。外国旅行を恐れる者すら多かった。
 もちろん、そこには、ことばが通じないということもあったし、外国旅行には多額な金が必要だということもあった。そのために、外国旅行をした者は、国民のなかに数えるほどしかいなかった。それでいて、当時の日本人の目標は、一から十まで西洋諸国であった。人々が、西洋を深く知ることのないままに、西洋をことさらに美化し、その前におびえるようになったのもそのためである。
 第二次大戦中、鬼畜米英ということが叫ばれたが、それを肯定した人々のなかには、その劣等感のうらがえしとして、無理に優越感をいだきたかった人々と、アメリカ人やイギリス人を知らないままに、本気になって政府のいうことばを信じた人々との二つがあった。
 いずれにしても、戦前の大人たちは、西洋を正確に知らなかったが、今日の大人たちも多かれ少なかれ、それを継承している。
 しかも、西洋に対するこの劣等感は、逆にアジアに対するいわれなき優越感となって、彼らを蔑視する姿勢を生んだ。それが、同じように、アジアに対する無知からきたことはいうまでもない。
 大人たちの偏見は、すべて、外国を知らないところから生じているし、それは、外国への旅行をしなかったということにつきている。また、もし外国旅行をしたとしても、他人のつくった旅行計画に従って旅行をし、その表面をみることに終わって、自分自身の目で見、皮膚で感じとるということをしなかったためである。
 かつて学者たちの多くは、留学の名で西洋の学問と生活を研究したが、彼らは、進んで西洋の学問の模倣者となり、その生活の追随者になっていった。そうすることが、彼らの留学の意味をいよいよ高めた。そうなると、西洋を見たことのない人々にとって、ますます西洋というものは、権威をもった、手のとどかない、遠い存在になっていく。
 しかも、学者には、日本の社会と人間について、まったく無知な者が多かった。西洋の学問と生活について知っているほどにも、日本を知っている者はほとんどいなかった。それは、外国を旅するほどに、国内を旅行していないためでもある。彼らが、国内を旅行しても、せいぜい観光旅行地ぐらいである。
 大人たち一般の無知・偏見を助長したのは、学者たちということになる。しかも大人たちには、日本の社会と人間について知ろうという関心はまったくなかった。日本の社会に生き、日本人であるがゆえに、それを知っていると錯覚していた。
 大人たちが、保守的で停滞的であるのも、さらには、閉鎖的で排外的であるのも当然である。こんなところに、今日も依然として、愛国心を強調する大人たちがでてくるのである。

 こういう大人たちに対して、今の若者たちは、全力をかたむけて旅行に取り組む。旅行をしようとする。その執念、その意欲はすさまじい。なかには、大学にいく金を海外旅行費にあてて、日本をとび出す者さえいる。
 海外流行をぜひしたいと考えている若者は非常に多い。海外流行に情熱をもやすほどだから、国内流行は可能なかぎりやってのける。若者たちは、自分の目で直接見、皮膚でとらえようとする。
 そこには、大人たちの書くもの、語るものに疑いをもっていることもあるが、同時に、自分の目で、皮膚で、直接とらえたいのである。とらえたものだけが、本当であるという確信がある。それは、自分の感覚を大事にし、重視するということである。
 それがまた、今日のような情報化社会に、自主的、主体的に生きうることでもあるし、それ以外には生きられないことを知った若者の知恵でもある。
 若者たちは、旅行を通じて、自分の無知や偏見を克服し、是正すると同時に、人間の生きた環をどんどん広め、深めていく。ことに外国旅行は、人種間の、国際間の無知や偏見の溝や垣根を取り去っていくうえに、たいへん役立つ。
 それに、若者たちには、大人たちのような劣等感もなければ、優越感もない。あるがままのものをあるがままに見ていこうとする姿勢が強い。外国旅行を気楽に楽しみ、平気でやってのける。大人たちのように、大げさでもないし、気負いもない。
 だから、外国人のなかにも抵抗なしにはいっていく。それが、相互の理解を本当に深め、信頼を強めることにもなる。
 こうして、今日、若者たちは、急速に国際人、世界人になりつつある。一人の人間として確立し、人間として、人類の一人としての思想を身につけつつある。なによりも旅行を通じて、つねに現在の自分を否定し、現在の自分を流動的にし、発展させている。
 大人たちのように、保守的、停滞的でもなく、また、閉鎖的、排外的でもない。若者たちの意識や思想は、つねに旅行のなかで発展しつづける。新しい社会、新しい人間を見、それらに接することによって、脱皮しつづけている。
 旅行をしつづけることによって、たえず自分を革命しつづけているといってもよかろう。革命的人間として生活しつづけるといってもよかろう。これこそ、新しい人間である。それが、今日、若者たちには、特別の苦労や努力なしにできるようになった。若者たちのこの変化は、なににもましてすばらしいことである。

 

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  5 若者の性はどうなっているか

 今日、大人たちのなかには、若者たちの性が非常に乱れていると嘆く者が多い。ことに、若い女性たちの乱れ方ははなはだしいといって悲しみ、せめて自分の娘たちはその仲間入りをしないでほしいと真剣に願っている。
 はたして、今日、若者たちの性倫理は乱れ、その性倫理は、大人たちのそれに比して荒廃しているといえるのであろうか。

 戦前には、よく人妻は貞操観念が非常に強固であり、未婚の女性は処女がほとんどであったといわれたものであった。だが、戦後、そのかたいはずの人妻が、それほどに貞操観念が強くなく、未婚の女性も容易に処女を捨てることが、多くの資料で証明されている。
 それは人妻の貞操観念が強かったというよりも、彼女たちをみつめる周囲の目が厳しく、しかたなくそれに従っていたにすぎなかったということである。
 未婚の女性にしても、男性が処女を求め、処女が高く評価されるから、処女をまもっていたにすぎなかったのである。彼女たち自身、処女の価値をみとめ、処女が好ましいという観念のもとに処女であったわけではない。ただたんに外部の要求に身をゆだねていたにすぎなかった。このことは人妻をふくめて、女性たちのなかには、自主的で主体的な性倫理というものが、ほとんど確立していなかったということを意味する。
 そのうえ彼女たちの結婚は、その多くが見合い結婚であったために、彼女たちは、夫に対する愛情や信頼もなしに、ただ夫婦という名のもとに夫との間に性行為をもったにすぎなかった。彼女たちは、夫である男性の性欲に、なんの自主性も主体性もなく、さらには愛とかかわりなく、応じたにすぎない。
 だから、彼女たちには貞操観念はなかったということになる。彼女たちをしばる道徳はあっても、独立した人間、女性としての性倫理はまだ確立していなかったということになる。
 女性に比して、男性の性観念はもっといいかげんなものであった。大人たちは、今日、若者たちのフリー・セックスを極度に嫌悪するが、その実、彼らの多くは、金を払ってフリー・セックスをしていたようなものであった。それも、女性をたんに物として扱い、愛も親密度もなく、性欲のおもむくままに、性関係を結んでいたにすぎない。ここには彼らをしばる道徳もない。もちろん性倫理もない。
 先述したように、その結婚生活が、愛や信頼を前提とする人間的行為でなく、たんに、性欲に身をゆだねる動物的行為から始まる以上、人間的な愛情や信頼は、性生活、共同生活の副産物にすぎなかった。
 要するに、男性はもちろん女性も、これまで、性倫理の確立に向かって、性とは人間にとってなんなのかということを、真剣に問うてみるということがなかった。性の意味と価値を追求してみるということもほとんどなかった。
 これでは、性の思想が深化し、確立するわけもないし、したがって、性倫理が人々のなかに定着することはない。戦後はじめて、性の意味が考えられはじめたといっても、大人たちの間で、せめて自分の娘は処女であってほしいと考えている以上、性はまだまだ考えられていないといってよかろう。

 こういう大人たちの考えに対して、今日、若者たちは、徐々に性を自分の心、自分の愛情に付随したものと考えはじめている。
 性は、心や愛情に付随したものでなくてはならないと考えはじめた。
 性を道徳とか、約束事とかいうように、自分以外のものに支配させてきた大人たちと違って、人間的愛情も信頼もなしに、夫婦という名のもとに、たんに動物的性を遂行してきた大人たちと違って、若者たちは、今、性を自分の心に従属させることで、性を自分自身の管理下におさめようとしている。動物的性から、人間の性へと変えつつある。そこには、性をめぐって若者たちの自主性があり、自発性があり、責任がある。女性たちも、男性と同様に、性を管理し、その心に性を従属させはじめている。女性が男性とともに、人間としての性を確立しはじめているといってもいい。
 そうなると、これまでのように、性が人間から独立した物として売買されることもなくなってくる。そのために性が物としての価値を失い、女性が男性に従属することもなくなる。これは、あきらかに性意識の革命を通して、男性といっしょに女性を独立させることである。女性を人間として自立させることに通じている。
 しかも、愛と性の一致ということをやってのけることで、さらには性を美に、創造に、生命そのものにたかめようとすることで、若者たちはこれまでになかった性の思想、性の倫理を確立しようとしている。大人たちが、性の倫理の確立に向かって大胆率直に歩みだしている若者たちを少しも非難することはない。

 それに、戦後、女性は強くなったともいわれているが、それというのも、女性が男性の性に従属し、外部からの性観念に身をゆだねていたことから徐々に解放されていったことによる。女性が強くなったことは、けっして参政権を与えられ、男女平等になったためでもなく、また、家事労働が少なくなり、余暇をもてあまし、精力を蓄積したためでもない。
 女性の多くが、性を自主的に求め、性に積極的に身をゆだねはじめたためである。従来の性観念から解放されて、性を性として求めだしたことによる。
 性は人間の感覚をめざめさせ、感性を強めることによって、人間を強く、逞しくするということである。
 これほど容易に、人間を行動的にし、能動的にするものはない。しかも、女性が、女性自身の欲求と感覚にもとづいて行動するようになったとすれば、どんなに逞しくなったとしても不思議はない。
 要するに、戦後の女性は、まず性的人間としてめざめ、性的人間として行動することから、意識革命、生活革命をやってのけつつあるのである。しかも、性はたえず新鮮なものを求め、性感の強大なものに向かって行動をおこす。マンネリとなれあいを嫌う。そこに、つねに人間の創意と工夫がある。知的活動を必要とする。
 性的人間に生きるということは、いいかえれば、革命的人間として生きつづけるということである。
 若者たちは、今、その性的人間に向かって行動をはじめたのである。それには、勇気もいるし、知能も必要である。それに、なによりも、新しいもの、未知なもの、美しいものに対する深い感動がいる。強い憧憬もいる。つねに脱皮しつづける姿勢、脱皮を要求する意欲もいる。
 それがないときには、性的人間ほど、けだるく、惰性的なものはない。人間から、精気と意欲をぬきとり、退廃的にするものはない。それこそ性的人間には、かぎりなく行動的、発展的にする面と、惰性的、退廃的にする面とがある。
 今日、若者たちの多くが惰性的、退廃的性に陥っていることも事実であるが、それは、性の思想を深め、性の倫理を確立する方向に向かわない性的人間は、必ずそのなかに陥没するということである。
 行動的、発展的性を求めるということは、政治的、思想的に生きるということよりも、もっともっと困難である。ことに、今日のような状況のなかでは、厳しい自己規制なしには、行動的、発展的な性的人間となることはむずかしい。性的人間として生きるということは、すぐれて思想的、政治的営為なのである。
 それにしても、若者たちのなかに、従来の動物的性から自分の性を解放し、性を心に付随させ、行動的発展的性を、自己否定的性を求めはじめる者が出てきたことはすばらしいことである。性思想を求めようとしなかった大人たち、性倫理を自分のなかに確立していこうとしなかった大人たちが、いかに性にだらしないか、さらには、生活全般にわたってしまりがないか、それは、大人たち自身、なによりも知っていることではなかろうか。

 

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  6 若者にとって友情とは何か

 これまで友情ということを語るとき、大人たちは、旧制高校時代に培われ、育ったものを、あたかも友情の典型であり、代表的なものであるかのごとく、得々と語るのが普通であった。だが、それを語ることができるのは、ほんの一にぎりの大人たちであり、他の大人たちは、それをうらやましそうに聞くのがつねである。
 また、旧制高等学校時代の友情でなくとも、それに準ずる友情というものは、多くは、学生生活のなかに生まれ、育ったものであった。しかし、そういう学生生活を送ることのできた者、そういう恵まれた生活をもてた者は、やはり今日の大人たちのなかではまったく少数である。
 そこには、旧制高校か、それに準ずる学校以外には、友情というものは存在しなかったかのように考える傾向がある。現に、そういう学校生活を送らなかった大人たちの多くは、友情というものを語り、論ずることも少なく、さらにはこれまでそういう人たちの間の友情を考えてみるということもほとんどなかった。
 しかも、旧制高校時代の友情といっても、その多くは、今日、寮歌祭に昔の青春を思い出す程度のものでしかない。経済的に独立もせず、それゆえに、社会に対する責任も、社会から要求される制約もないときに、自由勝手に大言壮語していたときの友情であり、観念的な信頼や尊敬でしかない。政治的、経済的、社会的存在として、具体的人間として、その間に、生まれ、育った信頼でも尊敬でもない。
 だから、悪くいえば、選挙に利用し、商売に活用するだけの友情、よくいって、不遇の友人を助け、救いあげる友情にすぎない。さらには、ときどき集まって、懐旧談に打ち興じ、寮歌をいっしょにどなる間柄でしかない。学閥をつくったのも、友情の名にかくれたこういう人間関係であった。
 友情が、その若者時代の夢と理想に結ばれ、夢と理想を追求する集団からの落伍を、その友情によってくいとめ、今なお、その夢と理想を追い求めているような大人たちはほとんどいない。だからこそ、集まれば、昔はよかった、夢も理想もあったとお互いになぐさめあう友情となるのである。
 大人たちは、過去の友情の幻影を追っているにすぎない。とすれば、そんな友情がいったいなんになるかと若者たちがいいたくなるのも不思議ではない。

 だからといって、若者たちが、相互に真の友情をつくりだし、その友情によって、お互いの生活を生き生きとさせているというのではない。しかし、今日、若者たちは、何が真の友情であり、何が真の連帯かを模索して歩みだしていることだけはたしかである。彼らは、大人たちのように、だべったり、食べたりするなかで友情が生まれると思ってもいないし、外なる権威のもとにつくられた組織や団体のなかで、真の連帯がつくられるとも考えていない。
 若者たちは、政治的、経済的人間として、精一杯行動するなかでのみ、真の友情、真の連帯は生まれ、その友情、その連帯は永遠につづくのみでなく、深まり、確立していくと考えはじめている。
 人間相互をきたえ、はげましていくものこそ、真の友情であり、真の連帯だとみる。
 彼らは生成発展しない友情、懐古趣味にひたる友情は、もはや死滅した友情であると考える。
 若者たちが「連帯を求めて、孤立を恐れず」と絶叫し、それを行動に移しているということは、彼らがいかに真の友情、真の連帯を全身で求めているかということであるが、本当に孤立した者、全身に絶望を味わった者でなくては、真の友情がなんであるかもわからないし、また、それを全身で希求する心はわいてこない。
 孤独のなかに、長い間沈潜した者、沈潜しなければならなかった者のみが、はじめて友情のなんたるかを知るし、それを切実に求めはじめる。
 その意味では、現代に絶望し、学校教育のなかで孤立させられている者たちこそ、真の友情を必要としているし、友情を生み、友情をつくりだす条件を十二分にもっている。彼らの求めている友情とは、同志的友情であり、それ以外はすべて偽瞞だと思っている。若者たちの求めるものは非常に厳しい。
 厳しいゆえに、彼らは血みどろであり、一生懸命である。
 しかも、若者たちは、従来の、女性間には友情が育たないとか、異性間の友情はなりたたないという大人たちの俗説をつぎつぎにくつがえしている。孤立し、個にめざめた女性たち、自らの思想と生活をもちはじめた女性たちが友情を必要とし、また、自分の思想と生活をもった者同士、それが異性間であろうと、相互に尊敬と信頼をいだきあうのはごく自然である。これまでは、女性は男性に従属すると考えたから、また、現に従属していたから、友情が育たなかったし、友情も必要ではなかった。
 女性の間に友情がめばえはじめ、異性間に友情が育ちはじめたということは、女性が人間として生きはじめたということであり、政治的、経済的、社会的に独立しはじめたということである。それが、人間社会を豊かにし、人間生活を充実させる。異性間の友情が成立することで、男性をいかに生き生きさせることか。女性の生活を拡充し、生きがいと喜びを感じさせることか。
 友情の成立如何は、男性をふくめて、女性がどれだけ人間革命、意識革命をやってのけたかというバロメーターでもある。
 それこそ友情は、旧制高校の卒業生の独占物でなく、人間として生きる者すべてに必要なもの、むしろ、高校生活を送らなかった者にこそ、より必要なものである。その点では、今日はじめて、若者たちは、友情とは何かを発見し、大人たちの知らなかった友情を温めつつあるといっていい。友情を人間全部に拡大しつつあるといってよい。

 

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  7 大人と若者はどこで重なりあうのか

 若者たちは、今日、遊び、旅行、性などのあらゆる方面にわたって大きく変わりはじめている。生活革命といえるほどの変革をおしすすめている。それをみて、大人たちの多くは、アレヨ、アレヨと驚嘆しているといったほうが真相に近い。
 それが、自分たちと若者たちの間に、断絶があり、断層がおこっているといわせる理由でもあるが、なかには、やっかみ半分に「自分たちには青春がなかった。国家の権力、社会の規制が強くて何もできなかった」という大人たちも多い。とくに、戦中派世代の大人たちのなかには、それをいうものが多い。
 そこには、戦中のような国家権力や社会の規制の強いところでは、今日の若者も自分たちと同じように何もできなかったのではないかという気持が多分にはたらいている。そう思うことによって、自分の青春時代をなつかしみ、さらに、自分をなぐさめているといってもいい。
 たしかに、戦中の国家権力は強大であったし、社会の規制が今日と比較にならないほどに大きかったことは事実である。だが、問題なのは、大人たちが、「自分たちには青春がなかった」といういい方である。
 大人たちは、それをいうとき、青春というものを、自分のやりたいこと、したいことを思う存分にやってみるという意味にしかとっていない。やりたいことをやっていい権利だというように理解している。
 これでは、今日、若者たちのなかに、自分勝手なことをし、好き勝手なことをして、大人たちから、ふしだらといわれ、みられているのと変わらない青春ということになる。
 そんなものがはたして青春といえるのであろうか。
 青春とは、すぐれて自己解放を求めると同時に、自己規制を加えるものである。自己解放は、ときに放縦であり、ふしだらとみえるほどに、外部の秩序に挑戦し、外部の規制を否定し、自分自身の自由をかちとろうとする行動であるし、自己規制とは、そのような自己解放を求める心と行動を、自分自身の感覚と思想で規制することである。
 要するに、青春とは、自分の心と思想を精一杯に生きることであり、戦いとる行動である。
 できるからやる、やれるからするというのは、青春ではない。そこには、青春の特質である感激も感動もない。
 今日、遊び、旅行、恋に安易に身をゆだねている若者たちには、若者らしい感激も喜びもない。激しい意欲もない。ただ惰性に身をゆだねているだけである。
 私たちは、そんな若者、若者ではない若者、つかれきっている若者をいくらでも周囲にみることができる。
 大人たちが、「自分たちには青春がなかった」とか、「戦争中の国家権力は強大そのもので、君たちには、けっしてわからない」ということばをやめないかぎり、若者たちから、「今の大人たちは卑怯だから生き残ったのだ。勇敢な若者たちは、みな戦死した」といわれつづけてもしかたあるまい。
 戦争中のように、国家権力が強大で、社会の規制がすさまじいところでこそ、青春は、より燃焼するし、さらに燃焼させなくてはならないことを、今日の若者たちは知っている。そのなかで燃焼しないような青春は、青春ではないということを知りぬいている。だからこそ、遊びや旅行や恋に身をゆだねているだけでなく、若者たちは、遊び、旅行、恋の内容を変えつつあるのである。
 遊び、旅行、恋に身をゆだね、それに流されているだけの若者たちを、遊び、旅行、恋の変革を進めている若者たちがなにより鋭く糾弾するのもそのためである。

 その意味では、今、若者たちは、大人たちに向かって、その青春観を変革するように求めている。そして、したいこと、やりたいことを十二分にやることが青春だと考え、青春の特権だと思っているような安易な考えを激しく攻撃している。さらには、もっとも青春らしい青春をもちうる時代に、その青春時代を送りながら、その青春をふくらまし、生きることのなかった大人たちに、深い絶望感をなげかけるのである。
 そこには、大人たちのどんな弁解も許さない厳しさが、若者たちの側にある。それは、彼らの、青春を与えられたものとして受けとらず、青春をかちとり、生きようとしているという誇りと自信である。遊びに、旅行に、性に、ありとあらゆるものに変革をおしすすめているという気迫である。
 このように考えるとき、大人たちと若者たちはどこでどうやって重なりあうのであろうか。どこで、理解しあい、話せる仲間になるのであろうか。
 大人たちは、若者たちに拒否されっぱなしのままに、断絶の時代といって、あきらめるしかないのであろうか。
 大人たちの青春観は、自己解放の姿勢も自己規制の意志もない、まったくいいかげんなものであった。しかし、青春がなかったと嘆き、青春をなつかしむ心には、青春に対する強いあこがれとともに、青春を取り返したいという強い要求がはたらいている。
 青春を生きなかった者の欲求不満がある。
 それは、今もなお、大人たちのなかに、青春を生きたいという願いがあるということであり、その点では青年的要素を残している。大人たちのなかに、今日、若者の気持がわかるという者が意外に多いのもそのためである。
 今、大人たちに必要なことは、彼らが考えている青春、それが、やりたいことをやり、したいことを思う存分にしてみたいという青春であったにせよ、それを思う存分取り返すことである。若者たちに負けないほどに、奔放に、大胆にやってみることである。その青春を自分の手に取り返してみることである。すでに若者たちの前に失われている権威、面子にとらわれることもあるまい。親の権威にとらわれることもないであろう。
 遊びでも、旅行でも、恋でも、なんでも、やりたいことをやってみることである。若さや行動力や感動を取り返し、若い時代には、国家権力の前に、社会の規制の前に、できなかったことをやってみることだ。戦後、食べることに汲々としてきた自分、気がついてみたら、何人かの子供をかかえて、なにもできなかった自分、そのような生活のなかから、若者らしい生活を取り返してみたらどうか。
 その点、大人たちのなかでも女性や母親は、男性と違って、比較的に戦後青春を取り返し、青春を生きてきた。ことに、戦争で夫を失い、あるいは結婚する相手を失って、いやおうなく一人で生きてきたために、経済的にも独立し、自分の好きなことをやってきた。自分の思うとおりに生きてきた。
 今日、若者たちに理解をしめし、若者たちの行動に共感をしめしているのも、そういう女性であり、依然として妻の座に安住し、夫によりかかっている女性は、若者たちの行動に対してまったくトンチンカンなことをいっている。その無理解ぶりははなはだしい。
 男性も、男性の保護下に生きてきた女性も、ともに若者のごとくふるまってみることだ。そうすれば、やっかみ半分に、若者たちの行動にケチをつけることはなくなろう。大人たちが、あらためてその青春を取り返し、若者のごとく生き生きとしはじめたら、今日の停滞した社会、固定化した社会もどんどん動きはじめ、発展しはじめるであろうし、若者たちもそういう大人たちに拍手を惜しまないのではなかろうか。
 若者たちといっしょに、大いに語り、飲み、恋もできるのではないか。若さをとりもどせるのではあるまいか。
 それに、なによりも、自分たちの青春を殺してきた国家権力、忠誠を求めて、その生活をがんじがらめにしてきた組織に疑問をもっていいのは、若者たちよりも大人たちのほうではないか。その被害者は、若者たちよりも、より多く、大人たちのほうにある。

 

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 第四章 若者はなぜゲバ棒をふるうのか

  1 大学は若者に何を与えたか

 学生たちは、ここ二、三年来、大学当局に向かって、また教授会に向かって、くりかえしゲバ棒をふるいつづけてきた。今日の時点では、大学法の前に一応そのゲバ棒の行使は少なくなっているが、その実、かえって学生たちのつきつけるゲバ棒にも似た批判と攻撃は、いよいよ鋭く内在化している。大学当局と教授会に対する学生たちの不信感、絶望感は決定的とさえなっている。それは、現象的にゲバ棒をふるうかどうかということ以上に重要な意味をもっているし、いつ、いかなる場所で、ゲバ棒以上のもので、学生たちを決起させるかわからないということである。その点では、今も、将来も、ゲバ棒への可能性は少しもなくなっていない。なくなっていないどころか、その可能性をいっそう強めているのが、今日の状況である。
 だから、学生たちがどうしてゲバ棒をふるうにいたったかを考えてみることは、非常に重要なことである。それに、ゲバ棒をふるう予備軍が、高校に、何万、何十万とひかえているとすれば、なおさらである。

 学生たちは、高校生生活三年間、なかには、中学生生活をふくめて六年間、大学入学のことを夢み、また、大学に入学したら、自分たちを満足させ、感動させてくれる生活があるという幻想をいだいて、灰色の受験生活にたえてきた。教師や親たちも、大学には何かがあるようなことをいい、大学に入るまでは、じっとがまんしろといいつづけてきた。
 その点、学生たちの忍耐力は相当なものである。大人たちはよく、今の若者たちはがまんが足らないと批判するが、けっしてがまん強くないどころか、率直にいって、あきれるほどのがまん強さである。
 しかし、そのように、がまんにがまんを重ねて入学した学校が、新入生にみせたものはなんであったか。彼らが、新しく入学した大学の講義と生活に夢と希望を託していることは、入学当時の出席率が100パーセントに近いことでもわかる。彼らは、そこに、高校生活と異なるもの、高校の講義とは違うものを期待して集まった。
 だが、彼らがそこで接したものは、一般教養という名のもとに、ほとんど高校の講義と変わらない講義であった。高校と大学はどこがどう違うのか、高校の教育と大学の学問はどこがどう異なるのかを説明する教授さえほとんどいなかった。
 学生の多くは、自分の力でそれを発見し、学問をする者として、自分を位置づけるということができないままに、講義をサボり、いつかマージャンに熱中する生活にはいっていった。高校の受験教育が、自主的に思考し、判断する能力を彼らに与えなかったために、そうするしかなかったのである。彼らはそれ以外の道を考えることができなかったのである。
 大学当局も、学生たちが講義に絶望し、サボりだすのを歓迎するかのように、入学当時には、学生が廊下にはみだすのを平気でみていた。しかも、二年間も、学生たちをそういう状態のままに放置するのである。放置して、なんとも感じなかったのである。
 一般教養を受けもつ教授たちは、その講義が学生たちに不評判なことを知りつつ、その講義を改善しようという者はほとんどいなかった。一般教養の名のもとに行なわれている講義が、いったい今日どういう意妹をもつのか、もたなくてはならないのか、学生にとってどういうかかわりがあるのかを考えようとする者もあまりいなかった。
 教授たちの多くは、学部でなく、教養部の教授であることに不満をもち、劣等感をもった。それだけが彼らの関心事であった。事実、大学では、とくに国立大学では、学部と教養部の教授の待遇を差別した。研究補助費などにそのことがもっともはっきり現われた。
 そういう差別を肯定するかのように、十年一日のごとく、古いノートを読みあげる教授も、なかにはいた。
 しかし、戦後、新制大学が生まれ、一般教養の名のもとに、学生が、人文科学、社会科学、自然科学を総合的、全体的に学ぶことを求められたのは、今日の学問が専門科学に際限なく細分化して、いつか、人間と社会と自然を統一的に把握し、生きた人間のために役立つ学問としての機能を果たせなくなったことに対する反省から出たことであった。
 学問の細分化は、学者を専門科学者にはしたが、逆にそれによって、学者を部分的知識労働者に転落させ、学問がなんのためにあるかを原理的に考えることをやめさせた。そのために、一般の人々は、なおさら、学問の意味と価値を問うことができないまま、人間を学問の奴隷とすることになんの疑問ももたなかった。
 人文科学とは、本来、人間が精神の自立と自由を戦いとるために必要な学問。社会科学、自然科学は、それぞれに、社会から、自然から、人間が独立するために、解放されるためにこそ学ぶもの。しかし、今日の人文科学、社会科学、自然科学は、たんに、それらについての知識を与えるものになってしまった。個々の技術的知識になりさがってしまって、学問本来の目的が見失われてしまった。
 だから、教養部の教授たちには、むしろ、今日の学問を再建する責任があったし、学問の出発点に立った学生たちに、学問とはなんであり、なんでなければならないかを教えなくてはならなかった。
 あるべき学問の姿勢と方法を学生たちに身につけさせなければならない使命があった。
 とすれば、不満や劣等感をもつどころか、逆に、もっとも学問らしい学問をする者として、その責任の重大さを自覚するのが、教養部の教授たちでなければならなかった。
 だが、彼らには、その自覚も責任も誇りもないままに、古い学問のなかに、学生たちを放り込んだ。何もしないどころか、二年の間に、学生たちから、新しい学問、未来を創造する学問をするという意欲をなくしてしまって、若者らしい夢と希望を失わせて、専門部に送り込んだのである。それが、ゲバ棒のおこる前の大学教養部の実態であった。
 学生たちを遊びに、マージャンに走らせた元凶は、大学当局であり、教養部の教授たちであると断言してもいいすぎではない。
 学生たちを怠け者にし、無責任にしたとするならば、もっとも自己規制、自己訓練の必要な学問に、まがりなりにもたずさわっている大学四年間に、試験とか単位とか出席とかという方法、もっとも自己規制、自己訓練に縁遠い方法で、学生たちを取り締まってきた結果である。これほど、彼らを怠惰にしたものはない。
 しかも、それを、大人たちを代表する社会的地位にある大学教授たちがなしたのである。

 

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  2 学生たちを直接かりたてたもの

 もちろん、学生たちを直接ゲバ棒に走らせたのは、大学のこういう実態ではない。大学のこういう実態は、戦後ずっとつづいたもので、ゲバ棒をふるう学生たちだけがみたものではない。しかし、それがつもって、それを激しく憎み、怒る学生たち、それに絶望する学生たちが相対的にふえたということはいえる。
 それに、そういう実態を批判し、攻撃する声も、ここ数年来、急にふえたし、その批判・攻撃もいっそう鋭くなってきた。それが、学生たちの目をひらかせ、学生たちの不満の念をいよいよ深く、鋭くさせたということもできる。
 では、学生たちに、直接ゲバ棒をふるわせるようになったものはなんであったか。それは、一言にしていえば、昭和四十五年の日米安保条約の改訂時期をひかえて、学生たちにおこった危機感であり、もうこれ以上、大人たちにはまかしておけないという切迫感であった。
 だからこそ、まず日米安保条約の線で、アジア諸国、とくに南ベトナム訪問に向かう佐藤首相を阻止しようとして、羽田空港でゲバ棒をもってたちあがったし、そのことを、当時の東大学長であった大河内一男をはじめ多くの大学教授たちが、いっせいに学生たちを暴徒よばわりして、非難し、攻撃したとき、学生たちは、そのゲバ棒の鋒先を、大学に、教授たちに、向けだしたのである。
 学生たちは、彼らが暴徒として、マスコミから非難・攻撃されたとき、ひごろ進歩的教授、良心的教授として、学生たちに思われていた教授たちが、自民党に通ずる大学教授とともに、いっせいに学生たちを攻撃するのをみて、その教授たちに激しい怒り、底知れない絶望を全身に感じた。裏切られたと思うしかなかったのである。
 彼らはそのときに、教授たち、ことに進歩的教授、良心的教授といわれてきた学者たちの実態をみた。羽田空港のときは、すくなくとも自衛のためのゲバ棒であったのが、大学闘争では、それを積極的に攻撃の武器にかえたのもそのためである。それほどに、彼らの怒り、彼らの憎しみは激しく、猛烈であった。
 すなわち、学生たちは、この日本を体制と反体制の二大陣営に定着させ、そこから一歩も発展させない元凶こそ、大学教授であり、進歩的教授であることを知ったのである。
 そのうえ、自ら大衆に向かっては、積極的に発言し、大衆を扇動することはしても、自分自身ではけっして行動しない、危険なところにはどんなことがあっても降りていこうとしない学者、危険になれば、さっさと大学のなかに、書斎のなかに逃げこんでいく学者のいることも発見したのである。
 そればかりか、教授たちの思想の無内容が、つねに大衆活動を失敗に導き、大衆を不幸のままに放置しながら、そのことになんの反省もなく、なんの痛痒も感じない無責任ぶり。前述したように、教授たちこそ、生きた人間のための学問から、逆に、人間を支配し、人間を奴隷にするための学問に転落させている張本人であることも知った。
 中学・高校と灰色の受験生活のなかで、非教育的な教育を受けてきたのも、その教師たちを指導してきた大学教授そのものが責任をおうべきものであった。
 教授とその学問こそ、現代社会に対して最大の責任をおっている。しかも、それを意識していないと知ったとき、学生たちの怒りと憎しみが、最高に爆発した。炸烈する以外になかったのである。

 もちろん、学生たちをゲバ棒にかりたてる直接のきっかけは、もっと彼らの身近なところにあった。学生を誤った事実認識によって、一方的に処分するという事件であった。
 当然、彼らは、処分撤回を要求したし、学生の処分問題には、学生も参加させるべきであることを主張した。
 しかし、大学当局や教授会は、そういう権限は、大学当局に、教授会にあるといって、学生の要求を拒否した。そればかりか、このとき、大学の自治は、教授会の自治であり、学問の自由は教授一人一人の学問の自由であり、学生は教育されるものとして、それらにあずかることはできないという意見を、教授会は発表した。
 それこそ、文部省の見解・方針と同じであった。この段階で、大学当局や教授会は、文部省に完全に同調したのである。
 学生たちは、そういう状況のなかで、明治以後、一貫して大学の自治を破り、学問の自由を侵害してきたのは、国家権力としての文部省であるというよりも、文部省の見解・方針を先取りした教授会そのものであることを知った。もし教授会がそういうことを知るならば、大学の自治を守り、学問の自由を貫くために、教授会は、学生たちといっしょになって戦うべきときであると気づくべきであったが、彼らは逆の方向につっぱしった。
 教授たちの学問そのものを独占しようとする閉鎖的な姿勢が、学問を大衆に解放し、学問によって大衆の思想的武装をはかろうとする学生たちの動きと対立した。さらには、産学共同という名のもとに、学問を、産業や資本に奉仕させることを考える大学当局は、学問によって、産業や資本をリードしていかなくてはならないと考える学生たちと衝突した。
 学生たちが、そういう大学、学問、教授を積極的に徹底的に破砕していこうとする方向をとりだしたのは、ごく当然なことであった。彼らは、職業的政治家の手から、政治を彼ら自身の手に取り返そうと努力しているように、学問や大学を彼ら自身の手に、大衆の手に、しっかりつかみとろうとする。
 学問が、本来、職業的学者の独占物でなく、広く、大衆自身のものであることを考えれば、彼らがそれを欲しはじめたのも自然な要求であった。
 こうして、学生たちは、他の若者といっしょに自分たちの思想をつくり、自分たちの学問をつくっていかなくてはならないものと考えはじめる。
 しかし、明治以後の100年の間、学生たちは一度も、大学当局や教授たちに向かって、その学問、その思想を批判する行動を集団的におこしたことはなかった。つねに大学と教授は、絶対の権威をもち、学問の聖地として、学生たちに接し、大衆を見下してきた。大衆はもちろん学生たちも、それを疑ってみようとしなかったのである。
 だから、学生たちが、大学と学問の批判に、さらには、学問を自分たちの手に取り返す戦いに立ちあがったとき、いいしれぬ興奮を味わい、ときに常規を逸したところがあったとしても不思議ではないし、事実、彼らはどうしてよいのかわからなかったと思われる。また、それゆえに、ゲバ棒をもって荒れ狂い、教授に向かってナンセンスのことばをただくりかえしたということもできる。ナンセンスということばをくりかえすほかに、いかなることばもなかったというのが真相であろう。
 大学闘争とは、そういう性格をもった史上初めての戦いであった。

 

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  3 何が学生を内ゲバに走らせたか

 非常にしばしば、学生たちが内ゲバを行使したことが問題になる。大人たちは、それを狂気の沙汰とみなし、それゆえにまた、理解できないような顔をする。しかし、こういう実例は、歴史のなかにいくらでもころがっている。最近、明治維新のことが盛んに論議されるが、維新を実現していく過程では、何度もおこった事件である。大人たちが、一般にその事実を認め、それから学ぼうとしないだけである。
 すなわち、幕府権力にたち向かい、それを打破しようとした人たちの間では、何度か死闘がくりかえされた。寺田屋の変はもちろん禁門の変すらも同志打ちであった。彼らは、相互に戦うなかで、幕府権力に対決する力を磨き、蓄えていった。その思想、その方法論を発達させていった。それは、反幕勢力を拡大させ、強大にするための必要な戦いであった。彼らは、その死闘をへることによって、ついに一つの勢力となり、幕府権力を倒せるような強大な力に発展することができたのである。
 この死闘は、非常に悲しいことだが、その過程をたどるしかなかったものである。
 それとは反対に、相互に死闘せず、そのために力を拡大させることもなく、お互いを見殺しにしていったのが、維新達成の後、反政府運動に挺身した人たちであった。彼らは、相互に、真剣にぶつかりあうことによって、お互いを鍛え、その思想を発展させるということがなかった。さらには、お互いに一つになることもなく、各個バラバラのままに終わった。明治政府から、各個撃破にあったことはいうまでもない。維新前の反体制運動と維新後の反体制運動との決定的違いは、相互に死闘をくりかえしたか否かにある。
 体当りや、死闘は、いやおうなく、それに参加する人たちを鍛えるし、その思想を拡大させ、発展させていく。参加する人たち一人一人を変えるし、参加する人たち一人一人に力をつけていく。参加する人たち一人一人を自立の方向に導く。しかも、その集団の輪を徐々に広げていくのである。
 そこに、歴史の教訓がある。それに、本来、仲間であり、一つでなくてはならないものが、相互に分裂し、敵対していることに対する相互の激しい怒りがある。それは、戦後、分裂した日本社会党員の間における憎しみが、自民党員に対してよりも激しかったり、あるいは日本共産党員の間で、しばしばリンチがおこなわれたことでも明らかである。また、日本社会党と日本共産党が、そのへゲモニーを確立するために、いかに激しい戦いをくりかえしているかということでもわかろう。
 学生たちの内ゲバもそんなに驚くことではないし、不審がることでもない。問題はむしろ、これまでの社会党内、共産党内の、あるいは社会党と共産党の対立、いがみあいのように、非生産的なものを、学生たちの内ゲバがたんに再生産しているかどうかということである。その点は、今のところ明らかではないが。

 しかし、いずれにしても、学生たちが、今日、内ゲバを行使し、将来も内ゲバをいよいよ行使する可能性は十二分にある。そういう条件は、いっそうふえている。ことに日本共産党が、昭和三十九年以来、戦う姿勢を徐々になくし、最近は一段と戦う姿勢がなくなっている以上、学生たちは、共産党に代わって戦う以外になくなってくる。
 それがまた、民青系学生と全学共闘系の学生との間に、もっとも激しい内ゲバが行使されている理由である。全学共闘系の学生たちは、民青系学生が革命を志向しているといいながら、革命どころか、ダンスに打ち興じていることに激しい怒りをもやす。文部省や大学当局、さらには、教授たちといっしょになって、大学の民主化という名の制度的改革に邁進する民青系学生をみたとき、全学共闘系の学生たちは、民青系学生に向かって戦後民主主義の空洞化がわからないのかと怒号する。学問をだめにしている教授たちのことをわかろうとしない民青系学生に、歯ぎしりする。
 そこに、怒りと憎しみで殺気だった内ゲバがおこる。彼らは、民青系学生を覚醒させようとして、内ゲバをふるう。大きく、一つになろうとして、ゲバ棒をたたきつけるといってもよい。
 もちろん、学生たちが、内ゲバをふるうとき、そんなことは考えないだろう。ただ憎しみと怒りで、ゲバ棒をふるうだけであろう。民青系学生の立場からすると、反対に、全学共闘系の学生たちが無知で、暴走しているようにしかみえまい。機動隊の装備を強化し、大学管理法を通過させた愚者としかうつるまい。彼らもまた、彼らの理由によってゲバ棒をふるう。とことんまで、そのゲバ棒をたたきつける。
 その憎しみ、その怒りが、学生たちのなかでいかに激しくもえあがり、たけり狂っているかをみたとき、教授たちはゾッとその心の奥底から身ぶるいしたに相違ない。そして、ゲバ棒をふるう学生たちを軽蔑し、憎悪しながらも、自分の学問がこれでいいのかという疑問をもたずにはいられなかったのであろう。
 それほどに、彼らの戦いは不気味であり、血みどろであった。
 一般の学生たちも、彼らの戦いぶり、その戦いの徹底ぶりをみとめざるをえなかった。その戦いを拒否し、否定しながらも、そこに何かがあると思わずにはいられなかった。何かがなければ、あれほどに激しくもえあがるはずはない、と若者の共通する感覚で感じとった。
 それが、行動のきらいな教授たちを、行動を軽蔑する教授たちを立ちあがらせ、大学の改革に向かって行動をおこさせた。文部省や自民党までも、今日の大学は、改革を必要としているという結論を出すところまで変わらせた。
 たとえ大学改革案がどんなに不十分でお粗末なものであっても、それはすべて、ゲバ棒をふるい、内ゲバまでやってのけた学生たちの導きだしたものである。学生たちのゲバ棒なしに、内ゲバなしに、けっして実現しなかったことである。
 しかも、現実におこなわれる大学改革よりも、もっともっと重要なことは、教授たちの心の中におこしたショックであり、恐怖である。自分の学問は、はたしてこれでいいのか、大学教授の社会的責任はいったい何かということを、一度、真剣に考えさせたことである。徐々にこれからの学問は変わっていくであろう。
 さらに、それらのいっさいに優先することは、ゲバ棒をふるった学生一人一人、内ゲバをたたきつけた学生一人一人がどんどん変わり、成長したことである。逮捕しても逮捕しても、あとからあとから、学生たちが踊りだし、行動する学生たちがつづくのを、警視庁や、府警、県警が驚いたが、その秘密はそこにあった。
 ゲバ棒は、それほどに、一人一人の学生を急成長させ、一個の政治的、社会的存在としての自己を確立させたのである。
 かつて日本陸軍が生んだ最高の戦略家、石原莞爾は、「戦争の中で、始めて、個々の能力は最大限に発揮されるし、誰にも指導されない、誰からも支配されないで生きうる能力をもつ個人が生まれる」といったが、学生たちは、石原のいうように、一人一人、自立の道を歩みはじめたのである。多くの落伍者がそこにあったことは否定できないにしても。

 

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  4 教授を過信した学生たち

 学生たちが、教授たちにゲバ棒をつきつけたのが、彼らに対する最高の信頼と最大の期待であったということをいう者はほとんどいない。しかし、学生たちが相互に内ゲバをふるいあったのが、お互いの信頼から出発し、一つになりたい願いから出たように、教授たちに対するそれも、彼らを信頼し、彼らに期待していたからである。学生たちのそれは、明らかに、機動隊に向けたものとは異質であった。
 教授たちにゲバ棒をつきつけるならば、彼らは自分たちの要求と真意を、その全存在に受けとめて考えはじめ、彼ら自身現代の課題に立ち向かう学者として、立ちなおってくれると確信していた。
 確信のないところに、学生たちがゲバ棒をふるうわけはない。無駄なこと、有効性のないことを彼らがするわけがない。自分たちが、たんに傷つくという愚をなすわけがない。
 学生たちは、他のだれに対してよりも教授たちに期待した。それに、彼らは、今日の荒廃した学問を再建できる者は、教授たちよりほかにないと考えた。学生たち自身に、その課題をになえるという覚悟も自信もなかった。そこまで思いつめ、徹底するということもなかった。
 だからこそ学生たちは、教授たちにゲバ棒をつきつけ、立ちなおることを期待したのである。
 しかし、学生たちの自分自身をかけたゲバ棒のなかで、彼らの要求と真意を受けとめようとする教授たちは、わずかしかなかった。いなかったばかりか、それがどういう意味であるかも理解できなかったのが、教授たちの大勢であった。また、わかろうと努力する者も、わずかしかいなかった。
 ゲバ棒をふるう学生たちの姿勢がヒステリックになり、メチャクチャになったのは、そのときからである。彼らは、大学闘争の過程のなかで、教授たちのほとんどがトコトン駄目な人間、権力の前にぬかずく奴隷でしかないことを思いしらされた。権力に抵抗するポーズをとりながら、その実、少しも戦おうとしないことを知りつくした。まして、現代の学問が崩解していることを感じとっている者はほとんどいないことを知った。
 学生たちの目が機動隊を見るように、教授たちを冷たくみつめだしたのも、それからである。そして、彼らがその鋒先を、大学からふたたび街頭に向けはじめたのも、教授たちへの信頼を根こそぎ失ったところに理由がある。
 これほど深い絶望、これほど徹底した孤独はまたとない。
 もちろん、学生たちが、現代を導くに足る学問の創造を、教授たちに期待したということは、いってみれば徹底した甘えである。
 教授たちに甘えるばかりか、自分たちを徹底的に甘やかしている。教授たちに向かってナンセンスを連発しながら、その教授たちによりかかろうとする姿勢。教授たちの自己批判を要求しながら、せっかちに自己批判を多数で強要する姿勢。
 それは、学問の重さや深さがまったくわかっていないということである。自己批判、ことに自己の学問批判による新たなる学問の創造が、いかに厳しく、困難なものであるかが、いっさいわかっていない。
 それが、教授たちを居直らせ、立ちなおらせ、学生たちの要求がたんなる思いつき以上を出ていないと思わせたのである。教授たちにしても、その面子、その誇りにかけて、学生たちの要求する自己批判を肯定することはできなかった。
 その点では、学生たちの教授認識、その学問観察はあまりにも甘かった。学問の創造についての考察もまったく甘かった。それにもまして甘かったのは、教授たちに信頼し、期待して、自分たちに対する要求や厳しさがなかったということである。
 その要求を教授たちにつきつけるとともに、学生たちは、それを自分自身に、もっとも鋭くつきつけるべきであった。その課題に立ち向かうべきであった。すくなくとも大学闘争の過程のなかで、そのことを発見し、それに立ち向かう自分を定着させるべきであった。
 学生たちが、そういう課題を自分自身につきつけるなら、そういう学生が一人でも多くなるなら、街頭から大学へ、大学から街頭へと、つねに戦う目標を転々とさせるということもなく、じっくりと攻撃目標をかまえて、持続的な活動にはいっていくこともできたはずである。
 学生たちには、自分自身に対する厳しさがないとか、甘えが強いとかいう大人たちの評価が出るのも、そのためである。
 日本の思想的風土には、個性的で、独自な学問・思想が創造されにくいのも、学者たちの多くが器用にたちまわり、一つの問題をじっくりと研究し、思考する姿勢が欠けていることが指摘されているが、学生たちも、その点では、これまでの学者たちに追随し、同調した。
 学生たちが、教授たちに追随し、教授たちに甘える姿勢を、どこで、どう断ち切るか、そして、自分たち自身に、それらの要求を、いつ課していくようになるかということが、今後の彼らの最大の課題であろう。それは、同時に、彼らがゲバ棒を積極的にふるうことによって、現実の社会からはみでて、疎外者の道を歩みはじめたその道を、今後、どこまで徹底させるかということでもある。
 すくなくとも、今日、学生たちのある者は、自分たちを疎外者と規定し、疎外者として定着させようとしている。それを定着させるために、ゲバ棒が必要であったともいえよう。今後は、その疎外者である学生たちが主役の座をかちとるために、どのようなゲバ棒が必要であるかということである。そのときゲバ棒とは、別に角材に限ったことではない。角材にとらわれるところには、退廃しかない。
 ただ、ここではっきりいえることは、ふたたび学生たちのゲバ棒は、教授たちに向かって、ふりあげられることはけっしてないだろうということである。教授たちは、学生たちから、完全に見捨てられ、見放された存在になったからである。相変わらずゲバ棒を教授たちにふりまわす学生たちが現われたとしたら、彼らは、歴史に、何も学ぼうとしない連中である。人間のなかで、最高に愚劣な連中ということになる。

 

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  5 高校生も反逆する

 こうした大学生たちの行動は、徐々に高校生たちに波及していった。 一応、高校生たちの反乱は峠を越したかにみえるが、底流としては、いよいよ深く拡大している。高校生たちは、どうして反乱したのか。また、どうして高校生たちの反乱の底流は、ますます広がっているといえるのか。
 いうまでもなく、高校生たちの不満、怒りは、現行の高校教育から発したものであり、高校教育を推し進めている教師たちに向けられたものである。しかも、それは、高校の教師たちだけでなく、小学校・中学校の教師たちをもふくめた教師たちそのものに向けられたものである。さらには、教師たちに同調した親たちに向けられたものであるともいっていい。
 では、教育のなかに、高校生たちがいだいた不満と怒りは何か。
 すでに書いたように、教師たちは、たえず、「大学に入学するまでは、じっとがまんしろ。大学にはいれば、そこに、意味も価値もある生活がまっている。やりたいことはどんなことでもやれる。それまでの辛抱だ」ということを口にした。また、ロにすることで、受験教育に疑問をもち、高校生活に不満をいだく者たちの怒りを封じてきた。
 「高校教育とは何か、高校生活のあるべき姿とは何か」と考えることは重要である。しかしそんなことを考えていれば、大学には入学できない、大学に入学できなければ、今日の社会では落伍者になる、と教師たちにいわれれば、彼らはそのことばに従うしかなかった。歯をくいしばって、がまんしていたのがこれまでの高校生だった。
 しかし、大学に紛争がおこり、大学の実態がだんだんわかるにつれて、高校生たちにも、大学生活は幻想でしかなく、自分たちの求めるような生活はそこにはないことをいやおうなしに知るようになった。そうなると、受験生活で、自己を殺し、高校生活を無にしていることが、まったく馬鹿らしくなってくる。それに、教師たちのことばが自分たちをごまかし、いつわっていたこともわかってくる。
 教師たちが大学の実態を承知しながら、自分たちをあざむいていたとすれば、言語道断だし、それを知らなかったとすれば、教師の怠慢ということになる。いずれにしても、許せないという気持が強くおこったことはたしかである。
 高校時代という、もっとも大事な時期を無駄にすごそうとしていたと思うと、いよいよ教師たちにいらだたしいものを感ずる。そこから、高校生たちは、自分たちの青春を返せと叫んで、高校教育の改革に決起した。当然すぎることであった。

 とはいっても、高校生たちが立ちあがるまでにはかなりの時間がかかった。その間に、これまで受けてきた小学校教育、中学校教育のことも同時に考えてみた。彼らは、そこで、当然のことながら、教師たちが決定的に重要視しているペーパー・テストによる学力というものについて考えてみた。その学力観によって、いかに多くの友人たちが優越感をもち、反対に劣等感のとりこになっていったかを。しかも、そういう学力が人間の本当の能力かどうか、さらには、そういう学力如何で人間の全体的価値まで決められるかどうかを考えたとき、彼らは、それがとんでもないものだと知った。それはたんに、一つの能力でしかないことを考えるのに、多くの時間を要しなかった。
 それにもかかわらず教師たちは、いとも簡単に、生徒たちをそういう学力によって、普通高校にゆくもの、商業高校、工業高校にいくものと分けてしまった。分けたばかりか、その人の一生を決めてしまうようなことを平気でやってのけた。
 もちろん、そういう安直な生徒の分け方は、文部省が決めたものであり、高校の多様化という名のもとに、産業界の要請に従ったものにすぎない。ここには、まったくといってよいほどに、人間の能力、それも多様な社会的能力についての視点がない。さらには、人間の能力がいつ、どのようにして開花し、結実するかという反省もない。
 生徒の能力の多くが、学校教育のなかで、いかにだめにされていくかという事実を考えようともしない。高校生たちはこれらのことを、多くは体験的に知っている。ただ、これまで、それに対して、意識的に不審をいだかなかっただけである。一流高校、一流大学に入学するということだけに気持を奪われて、考えなかっただけである。
 しかし、大学紛争の波を受けて、高校生たちもようやく自分をとりもどし、考えはじめた。考えだすと、大学受験もその延長にあることを知った。このまま受験生活をつづけているかぎり、自分が本当にだめになるのではないかという恐怖におそわれだした。
 高校生たちの決起が、大学生のそれに少しもおとらなかったのは、その危機感であり、それを少しも教えてくれようとしなかった教師たちへの怒りに満ちていたからである。
 だが、高校生たちの反乱が教師たちだけに向けられたと考えるのは誤りである。教師たちは、文部省や教育委員会のいうままに、ただおこなっているにすぎない弱い存在であることを高校生たちは、知りすぎている。
 だから、彼らの怒りは文部省や教育委員会に向けられた。しかし同時に、教師たちの弱さを知るゆえに、また、教師たちを怒り、憎む心は強い。しかたがなかったのだということばのもとに、生徒のみか、自分をいつわっている姿勢を許すことはできない。
 ことに、教師たち自身、自分では、民主主義をいい、平和とか、自主性、主体性ということをいいながら、文部省や教育委員会の指令や方針にそのまま流されて、自分自身それらを生きようとしないのみか、生徒たちの自主性、主体性を育成するという方向に向かわず、平和への関心をおしとどめるという教育姿勢にもっとも強く反発した。
 教師たちには、それらはたんなることばであり、実体のない知識であって、彼らが実践していくものではなかった。それを発見したとき、高校生たちは、教師たちの思想と行動を変革し、改造しなくてはならないと考えはじめた。教師たちこそ、自分たちの先頭にたって、自分たちを導いていくためには、より多く学び、実践する姿勢が必要であると考えた。しかし、それがもっとも欠けているのが教師たちであると知ったとき、高校生たちの怒りと悲しみは、徐々に自分たちのなかに沈んでいくしかなかった。
 文部省や大人たちは、高校生が未成熟であり、未発達であることを理由に、彼らの活動を禁止しようとするが、政治活動に参加し、それをすすめようとする高校生たち以上に、広い視野にたち、政治的判断のできる大人たちがいったい幾人いるというのであろうか。政治活動にふみでる高校生ほどには、政治的関心もなく、政治的知識や判断力のない大人たちがいかに多いかということを、一度でも真剣に考えてみたことがあるのであろうか。
 明治維新を無条件に賛美する大人たちも、その維新の中心的推進者であった松下村塾生たち、それも、十五、六歳から十七、八歳の青年がわずか10人足らずで、師松陰が不当に入獄させられたとき、その理由を求めて、一晩中萩の町をあばれ回ったという事実をどれほど知っているのであろうか。意識的な高校生は、もはや子供ではない。子供だというなら、そういう子供にしているのは教師たちであり、大人たちである。彼らを甘やかし、鍛えていないために、子供であるにすぎない。

 

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  6 若者にとって学問・教育とは何か

 前にもちょっと書いたように、日本の思想的風土には、個性的で、独自の思想が生まれ、育たないということが、これまでよくいわれてきた。それというのも、学者たちの多くは、西洋の学問・思想の紹介や解説を学問と錯覚し、自分自身、思想の創造者であろうとつとめる者がほとんどいなかったためである。
 それに加えて、日本の思想的風土には、人々の思想をのみこみ、中和させ、だめにしてしまう、奇妙なものがあった。しかし、それも、結局、自分自身の立場から、学問と人生、思想と人間との関係をつきつめて考えていく姿勢、主体的に思想を追求していく姿勢が確立していないところからきたものである。
 そのために、学問とは、客観的なものであり、普遍性を究明するものであるということを機械的に考えるのに終わって、それがすぐれて主体的で、個性的な作業であることを深く知ろうとしなかった。
 思想を創造する主体は、自分自身であり、その自分を考え、みつめることから、学問は出発しなくてはならないことを、ほとんど考えようともしなかった。
 そこから、およそ、本来の学問とは無関係な学者が輩出し、思想と行動の分離をなんとも感じないような学者がでてきた。思想に対して、まったく無責任な学者が数多くでてきた。今日の学問の世界は、足のない幽霊のようなものである。
 しかし、学生たちは、今、自分自身とは何か、自分が現代に生きるということは何かということを問いはじめ、そこから学問に向かおうとしている。教授たちに対する期待を依然としてもちつづけたといっても、そういう根本的問いを教授たちにつきつけることを忘れない。
 学生一人一人が、政治的、経済的に独立し、自立できる思想を求めるだけでなく、自分が自分に対して独立し、自立できる思想を求めはじめている。それを求めて、今、出発している。
 だから、学生たちは、大人たちの多くがかつて一度も疑ってみようとさえしなかった民主主義と平和、さらには共産主義についても、あらためて根源的な問いをおこしている。それは、学生たちが、彼ら自身の民主主義、平和、共産主義を主体的につかもうとしていると同時に、今日、大人たちのいだいている民主主義、平和、共産主義をのり越えようとしていることである。しかも大人たちのそれは、彼らが主体的に創造したものではなく、アメリカから、ソ連から借用したものにすぎないと学生たちはみる。それゆえにまた、大人たちのそれは虚妄と化したとも考える。
 たしかに大人たちにとって、戦後の民主主義、平和、共産主義は、客観的に成立する真理であり、理念であっても、彼ら自身のつかんだ真理や理念ではなかった。彼らのなかに創造したものではなかった。
 学生たちが教授たちに再出発を要求したのもそのためである。しかし、教授たちの多くは、学生たちの声に耳を傾けようとはしなかった。彼らは、学生たちがナンセンスというのを軽蔑するが、彼らもまた同じように、学生たちのいうことをナンセンスと判断して、無視した。
 その意味では、本当にナンセンスであったのは、やはり学生たちよりも教授たちのほうであった。学生たちのナンセンスという批評は当たっていた。

 それはとにかくとして、学生たちの怒号は、すでにみたように、高校生たちに波及し、高校生たちを覚醒させつつある。
 だが、それ以上に、学生たちの決起によって、労働者・農民・市民である他の若者たちをめざめさせはじめたことが重要である。
 彼らは、学生たちの推進する大学闘争をみて、大学がいかに醜悪で、インチキなものかを知りはじめた。それに、彼らがもっとも驚いたことは、教授たちが、学生たちのつるしあげにあって、まったく回答らしい回答を出すことができなかったことであった。教授たちが、いかに無力な存在か、説得力がない存在かを思いしらされた。
 全学生のなかの一割にも満たない学生たちによって、教授たちがひきずりまわされ、あわてふためく姿もみた。それも、教え子である学生たちによってなされていると考えたとき、彼らは、あきれるのを通り越して、軽蔑感さえいだいた。
 しかも、大学革命が進行すればするほど、教授たちがいかにエゴイストであり、自分自身のことしか考えない人間であるかも知った。ことに、大学管理法が通過してしまうと、それまで学生のことを考えているといっていた教授たちまで、まったくそんなことをいっていたことを忘れたかのように、ただ自分かわいさに、大学管理法の番犬になりさがるのをみた。
 これまで、教授というものにいだいていた尊敬は、彼らのなかにあった劣等感とともに、若者たちのなかから、いつとはなしに消えていった。そういう若者が相当に出現した。
 そこから、彼らのなかには、一心に、学生たちのいうことを理解しようとつとめる者がでてきた。学生たちがいっていることは、学生たちだけの問題でなく、自分たち全部のことであると理解する若者、学生たちと連帯しなくてはならないと決心する若者も出現した。
 さらに、学問は、本来、自分たちのように、政治的、社会的、経済的に学生たちよりもずっと大きな桎梏のなかに生きている者のためにこそあるものだと考える者すらでてきた。
 そうなると、大学闘争の主役は、学生たちよりも、むしろ、労働者、農民、市民である自分たちでなければならないと考える若者たちがではじめたとしてもおかしいことではない。
 どういう学問が若者たちに可能であるか、またどのような学問が若者たちに創造できるのかということを彼らに真剣に考えさせはじめたのが、今度の大学闘争であり、ゲバ棒であったともいえる。
 そればかりではない。彼らは、これまで比較的学校秀才であった者だけが大学に学んでいくという学校制度にも不審をもちはじめた。中学校だけで終わる者の多くは、これまで知能の低いものとされていたが、それにも疑問をいだきはじめた。
 むしろ、知能の低いもの、理解力や判断力の低い者こそ、より多く学校教育の恩恵を受けるべきではないかと考えはじめた。中学校や高等学校で放り出された自分たちこそ、教育を受けるべきではないかと。
 教育とは、本来、そういうものではないかと若者たちが考えはじめたということは、まったく驚くべきことである。しかし、その驚くべきことがおこりはじめたのである。
 徐々にではあるが、学問と教育が大衆のものになるきざしがでてきた。学生たちのゲバ棒が生みだしたものである。

 

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  7 若者と大人はどこで交流するのか

 今日、学生たちと大人たちがもっとも鋭く対立しているのは、学生たちがゲバ棒をふるう点である。この問題をめぐって、大人たちが学生たちを理解したとしても、学生たちの気持はわかるとつぶやいた教授たちのそれであったなら、そんな理解は、なんの解決にもならない。なんの前進も生みださない。
 現に学生たちも、ものわかりのいい教授、ものわかりのいい大人を鋭く拒否し、かえって、自分たちと激しく対立する教授や大人を求めている。
 しかし、それは、頑冥固陋な教授や大人を求めているということではなく、また、大人の権威と自信は、学生たちの主張を断固拒否することによって保たれると錯覚しているような教授や大人を求めているということでもない。
 彼らが、教授や大人に求めているものは、自分たちの主張をもろに受けとめて、彼ら自身、大きく成長し、発展してくれることである。けっして学生たちを中途半端に理解し、学生たちに歩みよることではない。
 教授たちや大人たちがそのように彼ら自身の道をたどり、彼ら自身を発展させるとき、はじめて学生たちの信頼を取り返し、学生たちへの指導力も発揮できるとも考えている。
 学生たちが、団結よりも独立、連帯よりも断絶を要求するのも、そのためであるし、それによってのみ、学生たち自らの真の成長・発展も実現できると考えている。その点で、彼らが、教授たち、大人たちに求めるのは、しごくもっともなことである。
 これに対し、もし教授たちや大人たちが、相変わらず学生たちへの理解をたんなる理解として受けとめ、自分自身の考えや行動をそのままにしていたら、ますます学生たちの軽蔑を買うことになる。大事なことは、教授や大人それ自身の前進であり、発展である。そして、それをそのまま、学生たち、若者たちに返していけばいいのである。
 今日は、あまりにも大人たちと若者たちの間に、思想的、人間的意味での格闘が、論争がない。それぞれを思想的、人間的に固定させたままの自己主張しかない。そこには妥協や拒否しかない。したがって、たんなるいがみあいしかない。そんなものは、交流でも話合いでもない。お互いを発展させ、脱皮させるものこそ、真の交流であり、真の話しあいである。学生たちが教授たちとの話合いを拒否したところには、そういう認識があった。
 大人は、このことを認識して、若者たちに向かう必要がある。それには、大人たちは、まず、自分の若者時代を思いおこすことが必要である。
 ことに、大人たちが、学生たちがなぜゲバ棒をふるうのかわからないといいだすのを聞くと、私はあきれる。というのは、大人たち、とくに戦中派世代である大人たちは、その若者時代、みんなゲバ棒とは比較にならない武器をもって、人殺しの戦争に参加した過去をもっているからである。
 戦中派世代が自分の生命を捨てて、日本と日本人のためになろうとしたといえば、学生たちもゲバ棒をふるって、人々のためになろうとしているのだ、と答えるであろう。あきらかに、根本において共通するものがある。ともに、それぞれの考える理想の実現のために、その生の極限を生きぬこうとする。むしろ、今日の学生たちのほうが、国家や社会の要請ではなく、自分自身の要求と選択によって、その生の極限を生きぬこうとしている点では、戦中派世代の大人たちよりも立派である。
 自分たちが、国家の理想のために死ぬことをいとわなかった戦中派世代であったことを思いおこすなら、今の学生たちの気持がわかるだけでなく、それを肯定することもできるのではないか。もちろん、彼らが、武器をとることの厳しさを反省したことから、若者たちのゲバ棒に反対しているとすれば別であるが。
 それゆえに、戦中派世代が、戦後、戦争中の自分たちの生は、戦前派世代にたぶらかされ、適当にごまかされていたことを知ったときの戦前派世代によせた絶望と怒りは大きかった。
 さらに、戦後派世代が、敗戦を契機として、小学生・中学生時代に感じた大人たちへの不信もそれに負けないほどに大きかった。要するに、戦中派世代も戦後派世代も、今日の若者たち同様に、徹底的に大人たちに不信と怒りをいだいた。怒りと不信のあまり、自殺した者も相当にいた。その事実を、戦中派世代も戦後派世代も、いつか忘れてしまっている。忘れたために、自分たちがいつか、今日の若者から、不信と怒りをいだかれる大人たちになってしまったのである。
 しかも、今日、戦中派世代が若者たちから糾弾されているのは、戦後、民主主義、平和、共産主義を絶対の真理として受けとめて、それを根源的に問うことをしなかった姿勢である。その姿勢こそ、戦中派世代が、戦争中、戦前派のいうことをそのまま信じ、疑うことをしなかった態度である。戦中派世代は、二度も誤りをおかしたのである。
 今日、主として四十一、二歳から五十五、六歳までの戦中派世代が若者たちから鋭い批判を受けるのも当然である。このように考えるなら、今日の若者たちの大人たちへの批判は、戦中派世代そのものに向けられたものであるともいえる。
 とすれば、戦中派世代は、若者たちの批判をもろに受けとめなくてはならない。また、受けとめることが、戦中、戦後にかけて、二度も過ちをおかし、歴史を発展させることができなかった時代への責任をあらためてここでとることである。
 だから、学生たちを甘やかし、学生たちを無責任な行動に走らせるようになった責任を感ずべきである。なかでも、戦中派世代の教授たちは、そのことを痛感すべきである。もしそのことを痛感するなら、学生たちが求めた大学自治への参加を拒否する理由がない。大学自治への参加ほど、学生たちに自立性といっしょに、学問的能力、創造的能力を強く要求するものはない。彼らを厳しく鍛え、責任感を求めるものはない。
 しかし、戦中派世代の教授たちは、二度にわたって大きな過失をおかしながら、それを克服したという自信もない。むしろ、それを避けて通っている。そういう彼らに、学生たちに対する指導力、確信にみちた指導力を期待できるわけがない。まして、時代に対する指導力を期待できるわけがない。彼らが学生を甘やかし、また、学生たちになめられるのも無理はない。
 そのように自信のない教授のくせに、それゆえにいっそう、学生たちから学び、学生たちといっしょに学ぶことに、抵抗を感じている。テレを感じている。まったく救いようのない存在ということになる。
 このように考えると、戦中派世代の教授たちは、学者としてよりも、まず人間として復活することが必要になる。学問を創造的にやるためにも、そのことが必要になる。つまるところ、学生たちのなげかけたナンセンスということばをもろに受けとめ、それを考えていくところにしか道がないようである。
 学生たちと論争し、抗争するのは、それからであるというと、いいすぎになろうか。しかし、目下考慮中といった戦中派世代は、今日までに、いったいどこまで考えきったかということである。戦後二十数年、彼らは依然として考慮中なのではあるまいか。もし彼らが本当に考慮中であるなら、全存在で思索しているなら、すべてを否定し、ゼロから出発しようとしている今日の若者たちと非常に共通する立場に立っているということになる。

 

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 第五章 若者をどう考えるべきか

 

  1 非権力、非権威を求める若者

 すべての権力、すべての権威に挑戦し、それらを崩壊に導こうとしているのが、若者たちであり、もっとも若者らしい若者たちということができよう。
 彼らの目には、既成のどんな権力も、どんな権威もすべて悪であり、人間を抑圧し、人間をだめにしているものにしかみえない。
 社会を停滞させ、この社会から、夢と理想、自由と感動を略奪しているもの、人間を金銭の奴隷にし、惰性的にしているものとしかうつらない。
 となれば、若者たちが徹底的な破壊を考え、徹底的な破壊の行動にでたとしても当然であるが、逆に、大人たちから、若者たちのそういう認識、そういう判断は、はたして適当かどうか、正確かどうかという反論がでるのも、これまた自然なことである。
 しかし、ここではっきりいえることは、大人たちとは、元来、既成の権力・権威によりかかり、それによって、自己の存在を主張しているもの、既成の権力・権威を疑ってみようとせず、その肯定の上に生きているものということである。
 もちろん、大人たちも、かつてその若者時代には、既成の権力・権威を疑ったし、疑うことによって若者であることができたが、それをやめることによって大人となって安定した。その場合、既成の権力・権威のなかにはまりこむか、それとも新しく自分たちの権力・権威をつくったかということは別問題である。大人ということばには、疑うことをやめ、安定したものにつけられたものというニュアンスがある。だから、年齢的に大人たちの部類にはいっても、疑うことをやめず、つねに不安定な生を送っているものを、半分の尊敬と半分の軽蔑を含んで、万年青年ともいうのである。
 その意味で、大人がつねに権威的で、停滞的なのに対して、若者はつねに反権威的で、流動的である。
 今日の若者たちが反権力的、反権威的であるからといって、なにも驚くことはない。若者といわれるものは、つねにそうだし、それによって、生きがいを、生きているあかしを見出す。
 そして、今日の若者たちの特徴は、反権力的、反権威的であることにおいて、これまでの若者よりも徹底しているし、そういう若者が数においても断然多いということである。
 かつて、戦中派世代のなかにも戦前派世代のなかにも既成の権力と権威を否定する者は、相当数いた。しかし、今日の若者たちのように徹底していなかったし、その数も多くなかった。
 今日、既成の権力・権威を否定し、排除しようとする若者たちがこんなにも多く、また、こんなにも徹底しているということは、いよいよ時代の変革が近くにきたということを感じずにはいられない。
 現代という時代、現代という社会が、若者たちの反権力、反権威的な考えと行動を深く、広くつくりだしたということもできる。そして同時に、大人たちは、若者たちが指摘し、批判するように、既成の権力・権威に、あまりにも深くなずみ、そのなかに埋没し、安定した生活を送っていたことを認めなくてはならないともいえよう。
 歴史の審判というか、神の裁きというか、そのことを忘れすぎていたことを、ここで、大人たちは、再認識する必要がある。

 だからといって、若者たちも、永久に、反権力、反権威の姿勢をとりつづけようとしているということではない。彼らの多くは、かつて大人たちがそうであったように、既成の権力・権威を否定し、崩壊した後に、彼らの考える権力、彼らの求める権威をつくりだそうとしているのにすぎない。大人たちを支配し、大人たちが肯定している権力と権威を否定しようとしているだけである。
 そのことは、学生たちが、ことさらに難解なことばで、自らの思想を表現していることにも現われている。たしかに、彼らは、大人たちの手あかのついたことばを拒否し、自分たちだけの思想を共有し、自分たちだけの世界をつくりだそうとしているにしても、労働者・農民・市民である他の若者との連帯を強調しながら、実際にはそれを拒否し、学生たちだけに通ずる権力と権威をつくりあげようとしているのである。学生たちが、それに気づかないだけである。
 もし本当に労働者・農民・市民である他の若者たちとの連帯をつくりだし、彼らと、真の平等を、すべての人間の解放を実現しようとするならば、彼らにも通じ、彼ら一人一人を真に自立させる思想を模索すべきである。
 それを本当に欲していない、考えていないことは、たとえば東京大学の特権を否定するという東大医学部共闘で、学生アルバイトを出すとき、東大生と他大学生との差別待遇を要求することでも明白である。大学生間の差別をみとめる者が、大学にいかない労働者・農民・市民である若者との間の真の平等を念ずるわけがない。
 さらにそれは、安田講堂をめぐつて、機動隊とわたりあったときに、全国の大学の共闘を求めたことにも現われている。東大全共闘をはじめ、各大学の学生たちも、安田講堂をめぐっての攻防戦は、国家権力に対決するものとして、全学生の総力を結集しなくてはならないと考えていたかもしれない。そのために、東大生は、応援をたのみ、また各大学の学生たちも駆けつけたということができよう。
 そこには、明らかに、東大を全国の大学の中心に位置するもの、最高の権威があるものと無意識に認めていたことを示すものがある。東大の特権を否定する以上、それを特別視することなく、東大は東大生で守るべきであったし、応援に駆けつけた学生たちは、それぞれの大学で、独自な戦いを組むべきであった。
 それが、彼らの主張する直接民主主義ということでもある。また、そういう戦いによってこそ、大学闘争もよりいっそう成果をあげたといえよう。だが、東大生が応援をたのみ、各大学の学生たちが駆けつけたところに、その後の各大学での闘争が、東大闘争をモデルとし、東大闘争に追随する風潮をつくることにもなったのである。
 反権力、反権威を標傍しながら、学生たちのなかにある権力・権威を志向する姿勢は、ほとんど克服されようとしないままに終わっている。それが不十分、不徹底なことを指摘したい。
 若者たちが、反権力・反権威であることは若者たちの特質であって、ことさらにいいたてることではない。その数が多く、その質が徹底しているということも、それは、現代の特徴であって、とくに今日の若者たちの特徴ということはできまい。
 しかし、今、若者たちのなかに、反権力、反権威ということではなくて、若者たちのなかに少数ながらおこっている非権力、非権威を求める動きがある。彼らは、権力、権威を徹底的に考えることによって、非権力、非権威の立場に到達した。そういう非権力、非権威を追求するところに、はじめて大人たちをのり越える姿勢もでてくる。今日の若者たちの真の特徴はここにあるといえる。
 かつて、若者時代、反権力、反権威だった戦中派や戦後派世代が大人になるに従って、自分たちの権力・権威をふりまわすようになったのも、彼らが権力・権威について疑うことを知らず、考えることを知らず、その結果、たんに、反権力、反権威となり、非権力、非権威を求めなかったことによる。
 大人たちは、今一度、自分たちの行使している権力、疑うことをやめている権威について考えてみてもいいのではないか。
 若者たちの指摘するように、その権力、その権威が人間の解放をおしとどめ、人間をだめにしているかどうかを。その権力と権威は、手あかがついて、歴史の前進をさまたげるものになっているかどうかを。
 さらに、大人たちがいいがちである若者たちへの評価、今日の若者たちは、その青年期に特有である反権力、反権威の行動につっぱしっているにすぎないという判断も、じっくり考えてみることが必要なのではないか。
 明治維新のときの大人たちのように、時代からはじきだされないためにも。

 

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  2 肉体なき思想を拒否する若者

 若者たちがより行動的であるのは、なにも今日に限ったことではない。彼らは、つねに自分自身でぶつかり、自分自身でたしかめていこうとする。それは、彼らが、すぐれてエネルギッシュであり、エネルギーをもてあましていることにも原因がある。
 そのために、彼らは、自分自身で、自主的、主体的に行動を選び、行動にでていくというよりも、むしろ、本来的に行動的であり、からだを動かしたくてしようがないのである。
 だから、今日の若者たちが特別に行動的であるということもできないし、また、行動に意味と価値を認めているともいえない。それに若者たちは、そういう状況のなかに、彼ら自身いることによって、ともすれば、からだを動かすことが行動であり、からだを動かさないことは行動ではないと思いがちである。
 しかし、からだを動かすことだけが、人間の行動ではなく、本を読むことも、沈思することも、さらには、沈黙することも、より大きな行動である。すくなくとも、昭和四十四年の総選挙で、若者たちは、積極的な棄権の姿勢にでることによって、すなわち沈黙という意思表示も激しい行動の一つであることを知った。
 その意味では、今、若者たちは、いろいろの行動を知りはじめているということができる。しかも、そのなかで、若者たちが、肉体なき思想を拒否する、行動を生みださない思想を拒否するといいつづけているのはなんであろうか。どういう意味であろうか。

 若者たちは、大学教授たち、高校教師たちの思想を批判するなかで、そういうことをいいはじめた。彼らの思想は、たんに他者に向かって語りかけるだけで、自分自身に向かって語りかけることがない。したがって、その語りかけた思想に対して、自分自身、責任を感じないし、その結果如何に対しても痛痒を感じない。
 若者たちは、そこに、教授たち、教師たちのものになっていない思想、教授たち、教師たちから遊離している思想を発見した。
 もちろん、そういう思想であるから、教授自身、実践し、行動しようということは考えないばかりか、実践や行動を軽視する傾向さえあった。その思想を実践し、行動する者は、彼ら以外のところにあるとさえ考える者までいた。
 若者たちは、そんな思想が、はたして思想といいうるのか、そんな思想で人々を本当に解放できるのかと考えないではいられなかった。教授たちが、内容のうすい思想で満足していられるのも、思想と自分たちの関係をそのように考えているからではないかとさえ思った。彼らが思想とは肉体をもつもの、行動を生みだすものでなければならないと思いはじめたのも、教授たち、教師たちの思想を直視したことによる。
 しかも、若者たちは、教授たち、教師たちの思想が、肉体の裏づけがなく、行動を生みださない思想である理由を、彼らの多くがつねに、その知識を書物からはいって書物の範囲にとどめていることにあると発見した。
 現実を直視し、そのなかから問題をつかみだし、それに取り組むことが学問であるという認識、学問とは、生きている人々に奉仕することであるという認識がほとんど欠けていることを知ったのである。
 また、そのためにこそ、学校秀才でなければ、学問はできないものだという常識もできた。こうして、本来、人民のものである学問、解放を必要としている人々のものである学問を、その人たちから切りはなし、教授たちが独占する結果になった。暇と金がなければ、できない学問にしていったのである。
 若者たちは、そういう学問、そういう思想を似而非的学問として、似而非的思想としてはっきり拒否しはじめた。彼らは、思想とは難解なものでなく、人々を解放に導くもの、その肉体によって、その行動によって、各人に解放を戦いとらせるものと考える。人間一人一人がもてるもの、また、もたなくてはならないものと考える。
 解放を必要とせず、それゆえに解放を求めていない教授たちよりも、肉体なき思想、行動を導きださない思想を平然と追求している教授たちよりも、むしろ、真の思想は、解放を必要としている人民の側にあるというのが若者たちの意見であった。そして、若者たちが、まずそういう思想を求めて活動をおこしているのが今日の状況ということになる。大学闘争も、それ以外のものではない。
 大人たちは、ややもすれば、学生たちが激しく機動隊とぶつかりあうのも、若者のエネルギーの肉体的発散と考えがちだが、彼らの求めているのは、肉体にささえられた思想、全存在で追求し、責任を負う思想の創造である。そのなかで、知性の再建に取り組んでいるのである。

 大人たちからみたとき、若者たちが、性の解放という名のもとに、一見、でたらめともいえるような行動にでていることも、肉体にささえられた思想、行動を導きだす思想を求めていることと無関係ではない。
 これまで、多くの場合、大人たちの愛の思想と性行動は分離していたし、愛の思想には性行動は伴っていなかった。愛とは無関係に、性行動は成立したし、愛のあるところにも、性行動は存在しなかった場合が多い。今、若者たちは、愛のあるところには性行動を成立させるということにふみだしている。愛という思想のなかには、性行動が伴っていること、伴うものでなくてはならないという方向に歩みだしている。
 すなわち、愛は肉体をもち、行動を生みだすものであってはじめて愛といいうるということをその行動でしめしはじめたのである。
 若者たちは、愛と性の関係という、もっとも卑近なところから、行動を生みだし、行動を伴う思想を自分のものにしはじめたのである。しかも、若者たちは、愛と性を一致させることで、性行動を伴う愛の思想をもつことによって、これまで道徳に支配されていた性を解放し、自分自身の性にすることもできたのである。
 若者たちは、そこから、さらに民主主義、平和、共産主義を、たんに、ことばや知識にとどめることを拒否し、それらに、肉体を与え、行動を伴わせようとしている。肉体や行動を伴わないものは、思想ではないといいきる。肉体や行動を伴わない民主主義、平和、社会主義というものは存在しないと考える。
 また、肉体をもち、行動を伴う思想ということは、一人一人の人間の肉体をささえ、行動を生みだすということである以上、抽象的、一般的思想ではなく、つねに具体的人間の思想でなければならないということである。人間一人一人にとって、本当に自分自身の主体的思想でなくてはならないということである。
 思想についてのこういう考え方は、今日、若者たちが発明したものではなく、古くから日本にある考え方である。
 武士道思想には、それがもっともはっきりでているし、陽明学の思想にしてもそうである。明治以後、西洋の学問が書物を通じてはいってきたことから、書物を重視して、現実を直視することを忘れたのである。行動を考えなくなったにすぎない。
 若者たちは、今、その反省を大人たちに求め、真に思想といいうるものをつくりだそうとしている。それに、肉体なき思想、行動を生みださない思想の流布に、いちばん大きく被害をこうむっているのは、じつは大人たちである。それは、一にぎりの人間を支配者や指導者におしあげ、大人たちの多くは、奴隷的生涯から抜けだすことができなかったことでも明らかである。大人たちこそ、怒らなくてはならないのではないか。

 

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  3 感覚的人間を志向する若者

 このごろ、さかんに感覚的人間ということがいわれる。とくにそれを標榜し、感覚的人間として、自分自身、積極的に生きていこうとしているのが、今の若者たちである。彼らは、大人たちが、感覚的人間を否定し、それを生きることに抵抗を感じているのに対して、真向うからその考え方に反対し、それを積極的に肯定する。そこに、今の若者たちの特徴がある。
 しかし、感覚的人間として生きるということは、本来、感覚によって成立している人間として、人間だれしも要求するところであるばかりでなく、多かれ少なかれ、感覚的人間として生きているのである。ただ大人たちが、若者たちのように、大胆率直に、感覚的人間として生きられないのは、感覚的人間として生きることは、人間として未熟であるばかりでなく、悪でさえあると考えているためである。そういう知識というか、常識を注入されて、それにひっかかって生ききれないだけである。
 もちろん、そこには、支配者とそれに通ずる教育者が、感覚的人間とは、欲望のままに生きる人間、感覚に流されて生きる人間だと人々が錯覚するのにつけこんで、それを否定し、それを悪ときめつけたことが大きく原因している。
 たしかに、人間が生まれながらにもっている欲望と感覚にひきずられ、流されることはすてきなことでもないし、立派でもない。むしろ、人間としては劣っているということもできよう。それに、自然発生的な欲望と感覚は、動物としての、生物としてのそれであって、人間のそれではない。
 人間の欲望、人間の感覚というものは、開発され、発展するもの、練磨されるものであり、また、磨かなくてはならないものである。そのことは、食欲や性欲を考えても、視覚、美的感覚を考えても、容易にわかろう。
 人間をだめにしてしまうような欲望・感覚もあるし、人間を人間としてますます発展させ、充実させるような欲望・感覚もある。欲望・感覚をそのように区別するのは、欲望・感覚を自然なままに放置したものと、開発し、練磨したものがあるということである。それは、要するに、欲望・感覚にどんな刺激を与え、あるいは、どのような知識によって、それらをリードしていこうとしたかということである。
 いずれにしても、人間は、その欲望と感覚を自分の生活に役だて、自分の生活を充実するように管理しなくてはならない。管理できると自認した者が、その欲望のままに、その感覚のままに生きていけるが、その自信のないものは、欲望・感覚を制限するか、殺す方向に生きていくしかない。
 また、現実に、欲望・感覚を発展させ、それを管理していくことはむずかしい。これまで、人々が、感覚的人間として生きることを恐れたのも、悪として避けようとしたのも、そのためである。
 しかし、支配者とそれに通ずる教育者が、人々のそういう弱味につけこみ、それを利用しようとしたのはなぜかということも、今、考えてみる必要がある。
 それは、若者たちが感覚的人間として生きることによって、大人たち、わけても権力者に、つねに反逆してきたということである。
 それを一言にしていうと、感覚的人間として生きはじめると、そのとたん、人々は非常に強く、逞しくなるということを恐れたためである。それまで、もっぱら殺してきた欲望と感覚を逆に開発し、発展させ、それにもとづいて生きていこうとするかぎり、人々の強さははかりしれないものになる。
 人々が自分自身でありたい、自分に忠実に生きたいと欲しはじめたら、それこそ収拾がつかなくなることを、なによりも支配者は恐れた。
 それは、今日、経済の発展、利潤の追求という至上命令におされて、人々の欲望を中途半端に刺激したのだが、それでも、その収拾に、政治家たちが困りぬいていることでも明らかである。その点、若者たちだけでなく、女性たちが感覚的人間として生きはじめているが、そういう女性たちがいかに強く、逞しくなっているかということは世間周知のことである。
 若者たちが、肉体にささえられた思想、行動を導きだす思想という場合も、欲望や感覚に根ざし、欲望や感覚に導かれた思想であれば、いやおうなしにそのようになる。欲望や感覚を達成しようというところに生まれた思想であれば、必然に肉体を伴い、行動にでていく。行動するなといっても行動にでていかざるをえなくなる。
 しかも、その行動は、欲望と感覚に触発され、ささえられて強力となる。欲望が満たされるまで、感覚がよしというまで、行動をくりかえす。行動をやめない。
 たとえば、今日、若者たちの権力否定が思想的なものに裏づけられるとともに、美的感覚にささえられたものであるなら、その権力がなくなるまで闘争をやめることはないであろう。権力を思想的に批判するよりも、権力を醜悪なものとして否定する美的感覚のほうが、より強固だし、根強い。
 その美的感覚が健在であるかぎり、それは、醜悪な権力との同居・併存を拒否する。
 もちろん、人間の欲望はつねに発展するものとはかぎらないし、人間の感覚もたえず鋭く磨かれるものとはいえない。むしろ、欲望は惰性になれ、感覚は鈍くなる。それが大人であるともいうことができる。いい方によって、欲望を惰性になれさせ、感覚を眠らせることによって、大人は、世の中からはじきだされることもなく、存在することができたのである。
 だが、若者たちは、鋭くそういう大人たちの生き方を拒否する。ますます欲望を発展させ、感覚をとぎすまし、感性的人間として積極的に生きぬこうとする。それによって、世の中からはじき出されるなら、はじきだされてもよいと考える。
 厳密にいうと、若者たちは、はじきだされたから、はじき出たというよりも、むしろ、自分のほうからおん出たのである。大人たちが、人間の疎外ということを問題にしているとき、若者たちは、積極的に疎外者として生きはじめた。疎外者こそ、今日、本当の人間なんだと主張しはじめた。
 そこには、今日の経済状況が若者たちにさいわいし、積極的に疎外者として生きることを可能にした。大人たちは、今でも、若者たちは、永遠にワキ役で、主役になることがないから、ニャロメを愛好するのだといっているが、若者たちの意識はそんなところにはない。
 彼らは疎外者としての誇りと自信をもっているし、歴史が自分たちに微笑みかけていることも知っている。
 それは、大人たちが欲望と感覚に生きようとするとき、せいぜいそれに流され、自堕落な大人になることでしかないのに反して、若者たちの場合、感覚的人間として、自己を、現代を否定し、未来を待望しているという自信と自覚がそうさせるのである。大人たちの感覚的人間には、方向性も未来性もない。たんに、自分の欲望と感覚に埋没するだけで、欲望と感覚を発達させ、鋭く磨いていくということがない。
 よく、大人たちが、子供のように純粋になりたいとか、子供のように清らかでありたいというように、彼らには、自然の感覚、欲望を認めるだけで、それらを発展させ、磨いていくという視点がない。それらが、そのまま自分たちの欲望・感覚を取り扱う姿勢になる。だから、自分たちの欲望を惰性にまかせ、感覚を鈍くならせる以外になかったともいいうるのである。

 

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  4 自己否定を主張しつづける若者

 自己否定ということは、人間の成長を求め、その思想の豊かなることを欲する者にとっては、必要不可欠であるが、今日の若者たちほど、それを激しく追求している世代はなかったといっていい。それも、彼らの自己否定は、これまでの自己否定がたいてい自分自身の現在を否定することによって、新たなる自分、新たなる思想を創造しようとしたのに対して、自己と同時に、その自己をあらしめている社会、その中心に位置している権力を否定することによって、新たなる自分、新たなる思想を創造しようとしている。
 その意味では、若者たちの自己否定は、対自的であるとともに対外的であり、それは、革命そのものを、自分のなかにも、社会のなかにも同時に実現していこうとする姿勢である。もちろん、そのような自己否定を、これまで大人たちが考えなかったというのでもなく、また、そういう自己否定を若者たちが発見したということでもない。しかし、大人たちはたんに、それをことばとして知り、知識として考えついていたにとどまり、それを行動に移さなかったのに対して、若者たちは、今、それを、実行に移しだしている。それ以外の自己否定は認めないところまできている。
 まことに、徹底した自己否定の世代ということができよう。では、どうして若者たちはそのようになったのか。それを考えようとすれば、どうしても、大人たち、とくに学者たちの姿勢、さらには、戦中派世代の姿勢を問題にしなくてはならない。
 まず、学者の姿勢であるが、彼らは、これまで、学校秀才として、すぐれた能力をもつ者として、自他ともに認めた者、人々からうらやましがられた者である。しかも、彼らの多くは、そういう能力について疑問をさしはさむこともなく、そういう能力が学問をするにふさわしいかどうかということもなく、学問をしてきた者たちである。彼らが学問上、思想上のことで、たとえ自己否定ということが重要であり、不可避のことであるということを知ったとしても、その自己否定は、たんに彼らの考える学問と思想の上にとどまって、とうてい人間存在としての自己の否定、自己をささえている社会を否定することによって、はじめて自己そのものが否定できるものであるということを思いつかなかった。生きている人間のための学問、人間解放のための学問ということを忘れていればなおさらである。
 また、戦中派世代の姿勢であるが、彼らのある者は、被害者意識のとりこになり、ある者は、加害者意識にこりかたまっている。被害者意識のとりこになっている者には、なぜ、被害者になったかという問題意識はなかなかでてこない。まして、自分たちが加害者であったという意識もでてこない。
 そこに、自己否定の姿勢がでてくるわけがない。逆に、加害者意識にこりかたまっている者には、自分を責め、自分をやりきれないと思うばかりで、成長・発展のための自己否定を期待することはむずかしい。
 若者たちは、学者たちや、戦中派世代にがっかりした。彼らには、自己否定というものがないということを発見した。それが、戦争中に、戦争を謳歌し、戦後には、その反動で、今度は平和を謳歌する姿勢に走らせたのである。
 若者たちが自己否定の重要さを発見し、それをことさら怒号する理由はそこにある。それこそ、その怒号は、大人たちが導きだしたものである。加えて、若者たち自身、そういう大人たちに育てられ、それを無批判的に受けいれてきた自分自身、生かされているだけで、少しも生きていなかった自分自身を発見したとき、彼らは、自己否定を強く、激しく絶叫せずにはいられなかったのである。

 しかし、若者たちの自己否定が、対自的にも対外的にも、文字どおり徹底しておこなわれているということではないし、彼らが怒号し、絶叫するということは、かえって、それが順調に進んでいないということをしめしている。
 ことに、若者たちの対外的な自己否定ほどには、対自的自己否定は徹底してすすめられていない。そのことは、「非権力、非権威を求める若者たち」のところで書いたことだが、彼ら自身のなかに、根強く巣くう権力志向、権威志向を否定するということでは、まだまだ不十分である。自分のなかの東大を破砕し、否定するといいながら、それは不徹底であるし、自分のなかにある事大主義を否定するといいながら、それがなんであるかをみつめるということでは、まだまだ不足している。
 大学闘争で、覆面をしながら闘争に参加し、ゲバ棒をふるうことにもそのことは現われている。そうする彼らは、できれば、他の人々に、自分であることをかくし、自分であることが知られたくないのである。大学生という自分を失いたくないし、自分のなかの弱さ、権威主義、事大主義の存在を許す不徹底をみつめ、それを克服しようとしていないためである。
 また、対外的な自己否定、すなわち、国家権力や大学の権威を否定することによって達成しようとしている自己否定にしても、その行動の激しさほどには、その自己否定の成果をあげていない。それというのも、国家権力、大学の権威についての洞察・認識が不十分なためである。彼らの洞察や認識は、常識的な範囲をこえず、あるいは、彼らの否定する大人たちの洞察や認識を踏襲し、彼ら自身の徹底的研究によるものがあまりない。
 それでは、若者たちの国家権力・大学の権威を否定することによって、自己否定を達成しようとする意図は、なかなか実らないのも無理はない。彼らは、対自的な意味でも、対外的な意味でも、否定すべき自己そのものを追求し、明確にしていない。それは、大人たちの肉体なき思想、行動を生みださない思想を拒否した若者自身、大人たちと同じ過ちにはいりこんでいるということでもある。
 そこから、自己否定ということを一種の流行現象にし、それをことさらに怒号し、絶叫するという姿勢もでてくる。かつて民主主義や平和を強調することのみを知って、自分自身にとって民主主義や平和とは何かを考えないで、それらを空洞化し、虚妄に導いていった大人たち、その大人たちに相似た行動に、今の若者たちも陥っているということができる。
 そのことをもっとも如実にしめしているのが、一律な大学封鎖、学園封鎖であり、大学や学園にバリケードをつくるということに主目標をおいて、若者一人一人のなかに、バリケードをつくるということを怠っでいることにも現われている。もちろん、それに気づきはじめている若者たちは数多くいる。しかし、自己否定の一つの表現が大学封鎖であり、学園封鎖であることを深く認識しない若者たちは、それ以上に多い。
 若者たちのなかには、対自的な自己否定を、対外的な自己否定である大学封鎖、学園封鎖のなかに解消させるものもいた。その点で、たしかに、対自的自己否定と対外的自己否定を同時に進め、発展させることは、非常にむずかしい。むずかしいことではあるが、それをやりだそうとしているのが、今の若者たちである。それをやろうとする若者たちをどんなに評価しても、評価しすぎることはない。
 反対に、自分にとって自己否定とは何かを追求しなくてはならないのは、これまでそれをほとんど考えなかった学者たち、戦中派世代の大人たちである。

 

                 <若者を考える 目次> 

 

  5 いわゆる大学の正常化をみつめる若者

 若者たち、とくに学生たちは、今、一般に、大学の正常化といわれる情況をじっとみつめている。その情況は、大学当局が、大学管理法に規制されて、機動隊を学内に導入してつくりだしたものであることはいうまでもない。
 大学管理法が成立するまでは、学生たちのつきつけた問題を、まがりなりにもその全身に受けとめ、その解決に取り組もうとしていた教授たちも、一転して学生たちをつき放し、形式的に紛争のやんだ状況に、それぞれの大学をもっていくために行動を開始した。
 それは、教授たちが、保身のために国家権力に同調し、学生たちの提出した問題を、大学正常化という名のもとに、ぼかしていったことを意味する。そのとき限りで、教授たちは、国家権力の奴隷になったばかりでなく、学生たちの提出した問題、すぐれて学問的・思想的な問題を、政治的解決にすりかえていったのである。問題は一つも解決されていないにもかかわらず、たんに紛争の形をとっていないということで、大学は正常化したという、まことに偽瞞にみちた政治的解決を導きだしたのである。
 しかも、これまで庶民大衆には、一度もその実態をみせたことのない大学とか、教授・学問とかの中身を、人々に暴露しはじめていたのを、大学正常化という名のもとに、ふたたびその実態をかくしてしまった。
 学生たちは、その実態を国民の前に広く明らかにするとともに、国民の次元で、大学と学問を考えようとしたのに対して、国家権力は早々にヴェールをかけたのである。
 これが、大学正常化といわれるものの実態である。大学の自治とは、教授と学生と職員の自治であり、学問の自由とは、教授と学生の学問の自由であることを主張した学生たち、そういう自治、そういう自由でないかぎり、とうてい教授会の自治、教授の学問の自由は守れないと強調していた学生たちのいうとおりになったのである。
 大学の自治をふみにじったのは、教授会であり、学問の自由を破ったのは、教授一人一人である。
 もちろん、大人たちの多くは、教授会に大学自治の原則、教授一人一人に学問の自由の原則を破らせたのは、学生たちの激しいゲバ行動であり、妥協することを知らない行動であったという。たしかに、それにも一理ある。しかし、そういう大人たちは、一度でも大学の使命、学問の本質について考えたことがあるのか。
 現代が明治維新以上の過渡期に直面していることは、今日、大人たちのうちだれも反対する者はないだろうが、それを認めるということは、未来を指導するに足る学問・思想を創造しなくてはならないということであり、大学とは、教授とは、まさにそのために存在するといってもよい。
 明治維新という新しい時代をつくりあげたときにも、それまで権威をもっていた藩校に代わって、つぎつぎと私塾が生まれ、そこで、従来の学問・思想を批判し、新しい時代のための学問・思想がつくりだされた。
 今日、学生たちは、大学の代わりに私塾を求めるということをしないで、大学そのものを変革していこうとしている。新しく学問・思想を創造できるような大学にしていこうとしているにすぎない。
 もし、そのようなことを考えるなら、今ある大学、学問、教授を徹底的に批判し、破壊しようとするのも、また未来のための学問・思想を創造する方向に向かって、大学と教授が動きはじめるまで、大学の機能を停止するのも当然である。
 むしろ、大学の機能が停止している状態、教授たちがそういう大学にするために努力する状態こそが正常なのである。教授たちが学生といっしょになって、現代にとって大学とは何か、学問の本質・使命とは何かを考えることこそが、本当の意味での大学であり、現代のための学問をしているともいえる。
 ただたんに講義がなされている状態、まして、古いノートが読まれ、技術的知識が講義されるだけでは、いかなる意味でも、もはや大学ではない。大学とは、あくまで、未来に向かって挑戦するもの、原理的、本質的問いを問いつづけるところにしかない。大学の正常化ということについて、大人たちは、今日、学問的、思想的次元で考えてみることを必要としているのではなかろうか。

 もちろん、学生たちの問題提起も非常にまずかったし、ナンセンスを連発するしかなかったところに、こういう奇妙な正常化が生まれる原因もあった。たしかに、大学当局や教授たちの発言には、学生がナンセンスというしかないようなものが数多くあった。しかし、学生たちが教授を批判するとき、その学問や思想をつっこんで研究しているということはほとんどなかった。さらに、教授たちにつきつけた問題にしても、それを自分自身に課するということはめったになかったために、その問題を深くつきつめて考えるということがなかった。
 だから、ナンセンスと連発する以外になかったし、学生一人一人が教授と論争し、話し合うことを極力避けたのであり、教授たちに、学生一人一人の場合は、純粋で素直な学生なんだが、とその首をかしげさせることにもなったのである。
 要するに、一人一人の学生たちは、まだまだ弱くもろい。彼らの唱える自己否定は不十分だし、感覚的人間にもなりきっていない。肉体にささえられた思想で自分を武装することもいいかげんである。
 だが、そういう弱点、限界をもちながら、学生たち一人一人は、どんどん変わりはじめている。二十数年、奇妙な社会のなかに生き、主体性や自主性をもてないような教育のなかに育った学生たち、若者たちとしては、よくもこれまでになったものだというのが私の実感である。まさに、若者たちは、だれからも教育されたのではなく、時代から教育され、自分自身で教育していったのである。
 しかも、最後的には、学生たちは、他の若者をまきこんで、大学を人間と社会を変革する拠点にしようとするところまで進みながら、彼らの力不足、研究不足のために、一頓挫してしまった。その多くは、今、拘置所のなかで、刑務所のなかで、偽瞞にみちた大学正常化をじっと見守っている。だれがそのために行動したかをじっとみつめている。
 それは、そのまま、今度こそ大学解体のために、断固たる行動をおこさなくてはならないという、よりいっそうの決意となり、覚悟になっているはずである。学生たちが、それを思い知った意味は大きい。それが、その周囲に、風波をおこしていく。
 ある学生は、獄中から、
 「僕らは未来に光をみたから立ちあがったわけではない。未来に光があることなど誰も保障しない。僕らは現在が陰鬱で空しい暗闇だったから、闘いの火を掲げたのだ。展望など僕らがつくるものとして以外に存在のしようがない。そうでなければ幻想だろう。僕らは、自分が生き生きとできない理由を科学的に認識し、それを一歩突破することによって一歩火を前進させることができるだけだ。闘わずに前進させることなどありはしない。敵は巨大である。闘えば闘うほど、敵は巨大に見え、実際巨大になっていく。けれども闘う以外に僕らが生きる道がないなら、僕らは、それをこえて、より巨大になっていかなくちゃならない。僕ら一人一人が、世界をこの手に握ることができるほど、豊かで、巨大な人間になっていかなくちゃならない」
と書きおくり、ますます闘いの覚悟を深めている。自分たちの今後のあり方を語っている。
 逮捕されなかった学生たちも、今、大学正常化をじっくりと自分自身に受けとめながら、大学からどんどん去っている。今、はじめて、彼らのなかの権威を志向する心を拒否しだしている。それが、どんなに常識的観点からすれば損であるかを知悉しながら、損の道を歩みはじめている。
 しかも、彼らは、既存の大学でないところに大学をつくり、既成の学問を否定する新しい学問の創造に向かって出発しようとしている。それが想像を絶する至難の道であろうとも、それを思い、それにふみだす若者たちが一人でも多くなるところに、新しい人間は誕生するし、新しい時代も出現する。
 さらに、大学闘争をじっくりとみつめてきた高校生たちは、先輩たちのやろうとして十分にやれなかった大学闘争を、よりいっそう進めなくてはならないと思いはじめている。一度ゆらぎはじめた大学の権威、学問の権威、それが崩壊するまで、つぎつぎと、それをゆさぶる学生たちは出現するであろう。
 それが、私たちに、歴史が教える教訓である。
 大学正常化など、まさに大学を否定し、学問そのものを否定するものではあるまいか。

 

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 終章 若者と大人の好ましい関係

 人間が時代の子であり、その時代の制約から離れて生きることはできないということは、具体的には、戦前派世代がその若者時代をすごした昭和初年代の時代状況、思想状況から、その問題意識をつかみ、それと取り組み、発展させることによって、生き、存在し、戦中派世代は、昭和十年代の政治状況、思想状況をその全身に受けとめて、若者時代を送ったために、その身体のすみずみまで、その影響を受け、その限界をなかなか克服できないということである。
 いいかえれば、その若者時代に受けとめた問題意識、そのなかで培われたもろもろの意識は、もっとも鋭く、それゆえに、それを時代の推移とともに発展させることも、あるいはその意識を克服し、新しい意識を創造することも容易ではないということである。昔から、人間は、その若者時代につくられるとか、その一生は、若者時代をどう過ごしたかによって決まるとかいわれたのも、人間がいかに、時代に、とくに若者時代を送った時代状況、思想状況に影響されることが多いかを表わしている。
 ともすれば、人々は世代を越えた連帯を軽々しく口にし、また、世代論には発展がないなどというが、人間が時代の子である以上むしろそれぞれの世代は、その若者時代の問題意識を執拗に追いつづけ、それを解決することにこそ、全力で投球したらよい。それぞれの世代の若者時代に培った問題意識が異なる以上、その異なることを明確にすることが、今日では、かえって必要である。
 一つの世代の歴史と時代への責任とはそういうことである。それぞれの世代が、その問題意識で、その時代の課題に執拗に取り組むことなく、無原則的に歴史のなかに流されるところには、歴史と時代の発展はない。
 現に、戦前派世代が、その若者時代を過ごした転向という思想状況・政治状況を十二分に受けとめ、そこから問題意識をつかみ、それを発展することがなかったから、彼らは、戦中、戦後の課題にずるずるとひきずりまわされ、それを解決し、発展させることもできなかった。同様に、戦中派世代が戦中の問題を執拗に追いつづけていたら、彼らは、戦後の民主主義と平和に安易に加担することもなかったであろう。戦前派世代、戦中派世代の二度、三度の誤ちは、すべて、その若者時代の問題意識を確立させ、それによって自立することを怠ったことからくる。
 若者時代の問題意識を確立させたうえで、つぎの時代の課題に取り組み、それによって、さらに問題意識を発展させればよい。そうすれば、世代を越えた連帯も団結も可能になってくるし、そのときはじめて、真の連帯、真の団結が生まれる。
 しかし、悲しいことに、戦前派世代も戦中派世代もそれをやっていない。やっていない以上、それぞれの世代は、初心にかえってその問題意識をほりおこす以外にないし、それによって、各世代が相互に批判し、思想的に自立することである。それなしには、歴史は一歩も進まない。進んだようにみえても、進んではいない。現に、今日、戦後の民主主義と平和が、共産主義が、根本的に再検討されていることでも明らかである。戦前派・戦中派の大人たちのなかの民主主義、平和、共産主義は、音をたてて崩れはじめている。歴史の進歩ということが、いかに甘くないかというしるしである。
 それに、若者時代を十分に生ききれなかった者が、大人時代を十分に生ききれるわけがない。生きていると思っているのは錯覚でしかない。
 大事なことは、連帯や団結ではなくて、まず、それぞれの世代の責任を果たすことであり、そのために、鋭く、厳しい相互批判をつづけていくことである。
 しかし、すでにみたように、戦前派、戦中派の大人たちは、若者たちの批判を受けとめようとはせずに、より大きな力でその批判を圧殺することしか考えない。あるいは、その批判を受けとめても、その意味を、本当にはわかろうとはしない。彼らは、若者たちのつきつけた批判を受けとめることが、心底からこわいのである。彼らの全存在を否定するほどの批判が恐ろしいのである。
 しかし、考えてみると、戦前派・戦中派の別なく、大人たちの多くは、これまで、若者としても、大人としても、本当に時代の課題に向き合って主体的に生ききったという過去をもっていない。つねに、国家権力によって、生かされてきた存在でしかない。ことに、戦中派世代の若者時代は、それ一色につきていた。
 それが、戦中派世代の大人たちが、「若者たちの気持はわかる」というつぶやきをもらす理由であろう。
 だが、若者たちは、今、果敢に、その人間復活を求めて行動をおこしている。青春を取り返すための運動を展開している。それに対して、戦中派世代には、それを取り返そうとするはたらきはほとんどなかった。そればかりか、戦中派世代の大人たちは、若者たちの人間復活を求める声、青春をとりもどそうとする運動を圧殺しようとする側にまわっている。これほど、おかしいことはないが、それが事実であり、現実である。
 それがまた、今日、若者と大人との違いを明瞭に出している点である。
 そうなると、若者たち以上に、人間復活を求め、青春を取り返さなくてはならないのは、四十代、五十代、六十代の戦前派・戦中派の大人たちということになる。
 若者たちには、まだまだ未来があるが、戦前派・戦中派の大人たちには、残り少ない人生しかない。このまま、失敗の連続をつづけ、最後には、人間復活を求める声の圧殺者として終わろうとするのであろうか。それでは、幕末当時の大人たち、幕府権力をささえ、連らなった大人たちと同じということになる。
 大人たちこそ、若者の批判を受けとめて、人間復活をなしとげ、時代の子としての責務を果たさなくてはならない。いかにすぐれたエコノミック・アニマルとして生きようとも、物質的富をもたらそうとも、それだけでは時代の子として、さらには人間としての責任を果たしたことにならない。かえって、より大きな罪を人間に対しておこなっているといえるかもしれない。
 それに、かつて戦中派世代は、戦前派世代に激しい批判をつきつけたこともあった。しかし、その批判が十分でないままに、戦前派もそれをそらしていった。そのために、その批判は実ることなく、戦中派世代をだめにした。もちろん、戦前派世代を再生させることもなかった。
 今、もし若者たちの批判を大人たち世代がまともに受けとめることもなく、また、その批判を鍛え、発展させることもなければ、若者たちもいつか、戦中派世代のようになってしまおう。そういう恐れは十分にある。
 必要なことは、大人たちが、若者たちの批判を受けとめて、その反批判を、鋭く、若者たちに返していくことである。批判と反批判がくりかえされるところには、発展があり、成長がある。活気もある。若者たちを発展させるかどうかは、若者たちがその志向する人間となり、その志向する時代をつくるためには、大人たちが、なによりも鋭く、反批判を返していけるかどうかにある。それが若者を鍛え、成長させる。それが同時に、大人たちを成長させることにもなる。若者たちが発展し、大人たちも成長する。それほどすばらしいことがあろうか。だが、こういう相互批判のルールが確立するのは、これからである。ぜひとも、確立させなくてはならない。

 

       (1970年  ダイヤモンド社刊)

 

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