『続・燃えるアジアと日本の原点』

 

   <この未発表原稿について>

 この原稿は、1974年に出版された『燃えるアジアと日本の原点』の後半部分であり、原稿にはすでに出版社による校正も書き込まれていた。この部分が同時に出版されなかった当時の事情についてはわからないが、『燃えるアジアと日本の原点』の序章には「私は天心を継承発展しようとした者は北一輝であり、細川嘉六であるとみた。さらに、孫文、ネルーであるとみた。最初彼らにもふれようとしたが、紙数の関係で省略した。」とある。
 便宜上、『続・燃えるアジアと日本の原点』と題したが、本来はこの後半部分も含めて、完成された一冊であると思う。

              1998年7月 池田諭の会

 

 

   < 目 次 >

4 北一輝
 
イ、アウト・ロウへの出発
 
ロ、近代化は悪の道
 
ハ、『支那革命外史』の思想
 
ニ、中国革命への没入
 
ホ、孫文と三民主義
 
へ、日本革命の実現

5 細川嘉六
 
イ、中国の革命
 
ロ、アジア諸民族の覚醒
 
ハ、帝国主義の反省
 
ニ、東亜共栄圏論
 
ホ、殖民地国家としての日本
 
ヘ、世界は一つ

6 明日のアジア
 
イ、吉田松陰の平和論
 
ロ、「近代の超克」の意味
 
ハ、「西欧の没落」に思う
 
ニ、「インドの発見」について
 
ホ、堀田善衛の「インドで考えたこと」
 
ヘ、変貌するアジア諸国

 

 

             < 目 次 >

 

 

4 北一輝

 

 イ、アウト・ロウへの出発

 幸徳秋水と全く対照的なのが、今ここに述べようとする北一輝である。何が対照的かといえば、その社会主義のうけとめ方が異なっていると言えるところである。秋水のうけとめ方が真正面から受けとめているのに対して、一輝の方は逆説的にうけとめている。いいかえれば、それだけ社会主義を日本の思想風土に即して受けとめようとしたのかもしれない。そのことについては段々あきらかにするとして、ここではまず、一輝がどのようにしてアウト・ロウの思想をもち、行動をしてゆくようになったかを述べたい。
 一輝は明治十六年(1883)佐渡に生まれたが、小学校時代から眼病を患い、学校をやすみがちであったから読書する人間に育った。勿論それは医者の忠告を無視しての読書であったが、それが彼を早熟にし、自分でものを考える人間、もの思う自立的人間に育てた。それを決定的なものにしたのは、中学三年の時再発した眼病のために東京の病院に入院して治療したことであった。この間に人生の意味と価値を自分自身でとことん考え、自分が現代をどう生きるかをつきつめて考えるようになった。眼病はよくならないので一応復学したが、その時の彼にはもう中学校の教育にも教科書にも魅力がもてず、ついに落第する程であった。勉強の対象を異にした一輝はそのまま退学。その頃から徐々に社会主義に接近し、早稲田大学の聴講生になったが、上野図書館に通う日が多く、そのメモをもとにして『国体論及び純正社会主義』という本を自費出版する程の青年になっていた。
 この本はすぐに発禁処分になったが、一輝はこの本の中で、「ただ、この日本と名づけられたる国土に於て、社会主義が唱道せらるるに当たりては特別に解釈せざるべからざる怪奇の或者が残る。即ち所謂国体論と称せらるる所のものにして社会主義は国体に抵触するや否やと云う恐るべき問題なり。これ敢えて社会主義のみならず、如何なる新思想の入りきたる時にも必ず常に審問さるる所にして、この国体論と云うローマ法王の諱忌に触るることは即ちその思想が絞殺さるる宣告なり。
 政論家も是あるがためにその自由なる舌を縛せられて専制治下の奴隷農奴の如く、是あるが為に新聞記者は醜怪極まる便侫阿諛の幇間的文字を羅列して恥じず。是あるがために大学教授から小学教師に至るまで凡ての倫理学説と道徳論を毀傷汚辱し、是あるがために基督教も仏教も各々だらくして偶像教となり、以て交々他を国体に危険なりとして誹謗し排撃す。
 かくの如くなれば、今日社会主義が学者と政府とよりして国体に抵触すとして迫害さるるは固より事の当然なるべしと雖ども只たんずべきは社会主義者とあらん者がこのローマ法王の前に立ちて厳格なる答弁をなさざることなり」と述べて、まず国体論そのもののいんちき性を暴露すると共に、社会主義者が国体論に抵触せずとごまかしているのを厳しくいましめる。
 北一輝にいわせると、万世一系の皇室をいただくと云う日本歴史の結論は全く誤りで、国民大多数は乱臣賊子の子孫であったことを歴史的事実によって証明する。そこから、現天皇は民主主義、社会主義の斗士として国民の先頭に立つ者であって、貴族階級を仆したあと、自ら王侯諸将の先頭にたって民主主義者、社会主義者を弾圧するなんてとんでもないという結論がでてくるのである。
 天心が明治維新は東洋の王道の一歩接近であり、国民そのものに、自由、自足、平和をあたえる努力であったと説くように、一輝にとってはあくまで国民にとっての前進であったのである。自由、自足、平和への一歩接近であったのである。天心が伝統回帰というのも、一輝が前進とみるのも同じである。要は伝統というものをいかにみるかにあって、結局は大いなる未来を建設したいということで一つなのである。
 一輝が社会主義は自分の宗教であるといったときの宗教とは、天心が美と宗教といったときの宗教とおなじであり、それは人間として、政治的人間、社会的人間として生きようとする時の依り所であり、支えとなる世界観、人生観という意味である。単に、政治、経済、社会などと併存する宗派宗教を意味していない。
 一輝はこのように思いきって国体論にふみこんでいった。そして、世界中の社会主義の実現にたいしては、
 「今日、階級斗争の行われつつある如く、階級間の隔絶より甚だしく同化作用の困難なる今日の国家間に於ては国家的道徳、国家的知識、国家的容貌のために行わるる国家競争を避くる能わず。社会民主主義は階級競争と共に国家競争の絶滅すべきを理想としつつあるものなり。しかしながら現実の国家として物質的保護の平等と精神的開発の普及となきを以て、社会主義の名に於て階級斗争が戦われつつある如く、経済的境遇の甚だしき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現及び世界的言語とによりて掃蕩されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能わず。……即ち個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じてならざるべからず。階級斗争が階級的隔絶による如く、国家競争は実にこの国家的対立に原因するなり。……個人の私有をうけずしては社会主義の経済的自由、平等なきが如く、国家の権威を主張する国家主義の進化をうけずしては万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし」といいきったのである。
 中ソ両国の対立をみても、国家エゴイズムがいかに根強いものであるかを感じさせるし、一輝の見解のいかに正しかったかを証明していよう。だからとて、一輝の認めた国家主義とは国家の権威を絶対とする国家主義でもないし、資本家が自己の威信と利潤を守るために国家権力を発動することを認めるような国家主義でもなかった。だから国家主義というときは一種の国民主義に近いものであり、皇帝よりも国民を重しとする王道そのものであった。民族主義そのものであった。
 「文字の普及は日本国民のすべてが社会主義者になり、資本家階級、権力階級が国民に包囲されたることと同じである」といった時の一輝は平和革命を信じていた。
 それはともかくとして、日本の進化を信じ、天皇が民主主義、社会主義の戦士として、国民の先頭にたつことを信じきっていた一輝の悲劇があった。だが、平和革命こそ東洋の伝統であり、理想であった。天心もいい、秋水も一度は此の立場にたったし、一輝もたったのである。革命が目的でなく、手段と考えたとき、唯一回の人生であることを考えたとき、それはまことに勝れた理想である。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ロ、近代化は悪の道

 一輝は西洋諸国の資本主義化、帝国主義化の道を近代化ととらえ、それを決定的な悪としてとらえた。だが、二十世紀の帝国主義の時代に生まれた我々が自由と独立をかちとって生存するためには、此の悪の道であり、非人間的で、非平和的な帝国主義に我々も生きる以外にないと断定した。
 そこから、秋水が帝国主義に反対し、戦争そのものに全存在で反対したのに対して、一輝は帝国主義的侵略に対抗するには帝国主義を直接ぶっつける以外になく、自由も独立もさらには平和も平等も国家的自由と独立を確保した時にはじめて実現できると考えていた。
 だから、日露開戦は「スラブ蛮族の帝国主義が四千万の兄弟と清韓五億の同胞との上に加へらるるをみて吾人社会主義者はいづくんぞ袖手して以て帝国主義の脚下に蹂躙さるべけんや。社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラブ蛮族の帝国主義に対する正当防衛なり」(咄、非開戦を云う者)という理由の下に全国民が一致して戦うこと以外にないと一輝は絶叫したのである。
 一輝にしてみれば、帝国主義的侵略をはねのけて、国家の自由と独立をかちとってこそ社会主義者の主張する平等も実現されるばかりでなく、社会主義者も生き残れるという判断である。社会主義者をまもりぬくために悪の非人道的な帝国主義の道を歩むもやむなしというのである。
 果たして一輝のいうように悪で非人道的、非平和的な帝国主義戦争によって、平和が、自由が、平等が実現されるかあやしいが、一輝としてはそれを実現できると考えたし、常に逆手をとる歩みを考えたのがその特質であった。これは一輝のみがよくなし得るところであった。
 それはとにかくとして、社会主義者が帝国主義者を圧倒する程には力が強くない時には社会主義者を守りぬく唯一の手がかりであった。秋水のように、人間の平等を実現するためには断乎として帝国主義戦争に反対し、そのために社会主義者も玉砕してもいいではないかといいうるほどに、一輝は理想主義者でもなかったし、より現実主義者であった。
 そうすることによって、「清国(中国)を攻めて奴隷の境遇におとしいれた罪亡ぼしもできる」(日本国の将来と日露開戦)と一輝はいうのである。彼はあきらかに、日清戦争も非人道的で残忍な帝国主義戦争そのものであったという認識をもっていた。
 「商工立国とか農業立国というのも、それは表面を糊塗するものでしかなく、実は平和の名において戦わるる、人生歴史あって以来最も残酷の時代だった」と一輝はいうのである。一輝は農業立国とか商工立国とかいって戦争を回避せんとする者に対しては「西シベリアの平原、北アメリカの沃野は茫々として横たわるにあらずや。西シベリアは未だ耒耜を投ぜられずと雖も一たび満韓の領奪によりて開発さるるある、日本はよく農を以て立ち得べきか。北アメリカの沃野はまだまだ多くは荒蕪にぞくせりと雖も已に或る地の如きは蒸気機関の大農法を以て耕しつつあり、もし少しく時日をへば、一挺の鍬と一挺の鎌とを以て粟大の嶋嶼を掘じくる者いづくんぞ当たるをえんや。農業立国は空夢にすぎず。イギリスの如きは我と等しく地小にして農に適せず、しかも彼は鉄と石炭との最も要せられたる時代に最も多く鉄と石炭を有せり。その商工に於て覇たりしがために乃ち以てまねんとするはあたわず」(日本国と日露開戦)といって反対したのである。一輝にいわせると「農業立国といい、商工立国といってもその条件のない者には居ながらの滅亡があるだけ」ということになる。
 それに、アメリカは正義を叫ぶフイリッピンの声を無視して侵略しているし、イギリスは自由のために戦うボーア人の自由を奪っている。しかもそのアメリカやイギリスが最も正義とか自由を表にかかげている。ドイツもフランスもオランダも同じである。
 だから一輝の現実認識は「戦争は罪悪なり、しかも経済的競争は更に甚だしき罪悪なり。帝国主義は人道をかえりみず、しかも帝国主義の挑戦に対して人道を以て応ずるあたわず」(日本国と日露開戦)というほどに鋭い。ここには彼の絶望と呻きがある。そうなると自ら帝国主義の悪魔となるしかないではないかというひらきなおりがでてくる。
 この態度が後の日本革命にとりくむ一輝にみられるのであるが、真正面より理想を叫ぶことのできない彼の時代の二重、三重にも暗い時であったということができるし、彼をとりまく悲劇の深さがある。
 だからとて、ロシアの社会主義者がロシア政府のおしすすめる帝国主義に反対することに非常に賛成している。その理由というのは、「血を好む軍人と事をよろこぶ外交家の挑戦に出づればなり。地図面の大を誇りとする児戯にすぎざればなり。広漠たる沃土の開発されざるにもかかわらず用なき土地を侵略せんがために国民をあげて飢寒のふちに陥るる者なればなり。国家的浮誇の念のために人類をして相殺さしむることは無意義にして罪悪なればなり」(咄、非開戦をいう者)であると一輝は書いている。
 一輝は、日本の社会主義者とロシアの社会主義者は異なるという立場をとっている。という所から、彼の「吾人は社会主義を主張するために帝国主義を捨てるあたわず。否吾人は社会主義のために断々乎として帝国主義を主張す。吾人においては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。吾人にして社会主義をいだかずんば帝国主義を主張せざるべし」(咄、非開戦をいう者)という奇妙な発言が生まれてくる。しかし彼にとってはそれが奇妙でもなんでもない所に彼の特徴がある。
 たしかに、秋水が日本の社会主義者として帝国主義戦争に反対したことは原則的にみて正しいといえよう。しかし、帝国主義戦争の今日、国家の自由と独立をまもり、その中で経済的、政治的平等、社会的平等を実現しようとしたことも正しい。それは一輝のように革命のために死んだ者のみに許される正しさである。
 国家の自由と独立、その中でのみ平等と平和がはじめて保障されることは今度のヴェトナム戦争が何よりも証明している。そして帝国主義と帝国主義が斗うよりも、帝国主義と社会主義が斗うとき、奇蹟のような勝利が弱小国におこることを証明したのも今度のヴェトナム戦争である。それは帝国主義のもとでは大多数がいやいや戦うのに対して、社会主義の下では全国民がそのもてる力を出しきって戦うからである。そこに奇蹟がおこる。
 しかし、一輝の時代にそれを求めても無理である。秋水のように玉砕を覚悟で社会主義社会を考えるのもよいし、一輝のように自由と独立を守った後に社会主義社会をつくろうと決心するのもよい。要は、その決心、覚悟にある。その意味では両者ともに革命に死んだ者として正しかったといえる。
 ただ、真の平和と真の自由、平等がいずれの道をへて、より確実に生まれるかということである。一輝に帝国主義の戦いで生き残り、かちとった者の独立、自由は虚偽であるという認識があったかどうかということであるし、今そのような虚偽の独立、自由をよろこぶという態度こそ、西洋的発想だといいたいのが本書である。そんな独立、自由をみとめるところに、アジアは後進国だという考えが生まれるのである。そこにいよいよ岡倉天心の美と宗教の思想が重味をもってくるし、ヴェトナム人民の平和と自由と平等がそれらに支えられたとき本物になってくる。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ハ、『支那革命外史』の思想

 日本の現状に絶望した一輝はその眼を日本から支那(中国)にむけた。日本は彼を全く必要としないのみでなく、邪魔にしたが、支那(中国)は彼を必要とした。だから彼は進んで支那(中国)革命に己の全生命を投ずる決心をしたのである。
 それというのも、当時の日本は国をあげて、西洋諸国の道即ち帝国主義の道を歩んでおり、それが罪悪の道であることを少しも知らないばかりでなく、進歩、発展と感違いして少しも恥づるところがなかった。
 一輝の考える社会主義社会を求めるものは少ないし、罪悪である帝国主義を認めたのも、やむなく認めたものであることを知る者も少なかった。そうなると彼を必要とした支那(中国)革命を達成し、逆に革命を支那(中国)から日本に輸入するしかないと考えた。それをやらなくてならないと考えた。なんとかそれが出来そうに思えたのが当時の彼であった。
 そして、支那(中国)革命をみてきたものが、それを正しく書き残しておくのが使命であると考えて筆をとったのが『支那革命外史』であり、日本政府の誤った対支政策に対する怒りでつらぬかれたのが本書である。本書は日本の対支政策を正すため、正すには革命が必要であることを名言したものである。その意味では、支那革命に理想がなくなったことへの怒りと日本に革命が必要であることを絶叫したのが本書である。
 だから、その序の中で、一輝は、
「明治十年以後の日本はいささかも革命の建設でなく復辟の背信的逆転である。現代日本のどこに維新革命の魂と制度とをみることができるか。……封建時代への反動的要求を挾んで是又反動時代である英、仏、独、露の制度を輸入せる、朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世的国家が日本である。屍骸には蛆がわく。維新革命の屍骸から湧いてムクムクと肥った蛆が所謂元老なる者と然り而して現代日本の制度である。……大西郷が何故に第二革命の叛旗をあげたか。而してその失敗が如何に爾後四十年の日本を反動的大洪水の泥土に洗い流して眼前みる如き黄金大名の聯邦制度とそれを維持する徳川そのままの御役人政治をきずきあげたか」と明言するだけでなく、一輝は「革命は腐敗堕落を極めたる亡国の骸より産まれんとする新興の声なり。産まれんとする彼児の健かなると否とは一に只此の意気精神の有無に存す」と前提して「支那の革命は民主共和の空論よりおこりたるものにあらずして割亡を救わんとする国民的自衛の本能的発奮なり。……日本の援助を期待せずして起った独立独行の憂国者」だというのである。その意味では「革命とは一国の内乱にして正邪いずれが援けらるるにせよ、内乱に対して外国の援助とは即ち明白な干渉なり」というのが、一輝の革命に対する基本的立場であった。
 そこから、支那革命を援助するという名の下に支那革命に干渉する日本人、その日本人に期待する孫文にあきたりないものを感ずるのである。
 とくに、孫文は長い間アメリカに留学して西欧的知識を多く持ち、それを中国の革命方式に応用せんとする気持ちが多いものとして、一輝は彼を拒否した。
 一輝が宗教仁をとくに高く買ったのも宗教仁が支那(中国)の伝統に即して革命をなしとげんとしたところにあった。その意味では、彼は民族主義というか、民族精神というか、民族の覚醒を最も信じ、それに期待した。孫文が妙に日本人に期待するという態度が日本人の干渉を生みだしたのだと誤解した。
 そのために、宗教仁が射殺された時にも、孫文一派が宗教仁を殺害したということを信じて疑わなかった。革命方式の違いが競争相手を殺したというのが一輝の考えである。宗教仁を殺害したのは、袁世凱と趙乗釣とが殺害したということになった後までも彼は自説を変えなかった。よほど孫文の革命観が気にいらなかったようである。
 だが、一輝には革命というものは民族精神に真にめざめた者達が遂行しない限り成功しないという確信があったし、それ故に日本の革命に深く絶望し、支那(中国)の革命のために一兵士として参加していたのである。
 一輝が日本人の干渉というのは、日本のために支那(中国)革命をねがう態度で、支那(中国)革命は支那(中国)自身のために考えるものでなければならなかった。
 では、それらをふまえて、支那(中国)が革命によって歩もうとしている政治制度、経済制度とはどういうものでなくてならないかということを一輝自身どう考えていたのであろうか。一言でいうと東洋的共和制ということになる。
 東洋的共和制とは天の命をうけし元首に統治せらるる共和制にして、神の前で選挙された元首である。神の前で選挙された元首とは救済の仏心と折伏の利剣とを以て、各省の乱属を統一し、外国の侵略を撃攘し、以て天を怖れ民を安んずるの心を持つ者のことであると一輝はいうのである。
 投票即神聖論にたつ西洋的共和主義のように機械的に投票を絶対視するものではないと明言する。それこそ、東洋には東洋独自の制度があり、伝統をふまえた上の制度でなくてならないというのである。
 「翻訳的低脳児の口を藉るが故に孫文の五百万強兵説がでてくるが、それは空想家の言なり。孫文は革命の根本義が伝襲的文明の一変、国民の心的改造に存すことを理解せず、一に白人を以て先進国なるかの如く崇拝するのあまり、其の皮相を模倣して足れりとするにすぎず。根據なき言論の空想なるべきは論なし」となかなかてきびしい。
 伝襲的文明の一変が革命であるところに伝統を直視し、それをのりこえることも必要になってくるし、その国の革命が独自の道を模索しながら歩まねばならないことになる。たしかに、支那(中国)にわたり、支那(中国)の革命に参加した当時の一輝は支那(中国)革命を日本に逆輸入しようとしていたし、それは可能だと考えていた。
 しかし、支那(中国)の革命に参加している間に、それは不可能だということをしみじみと感じた。革命は輸入できるものでなく、革命を欲する人達というか、その国民でなさねばならないことを発見した。だから日本の革命を自分自身でなそうと帰国したし、支那(中国)革命に日本革命が応ずるのみであると思ったのである。
 一輝が孫文を翻訳的革命家として徹底的ににくんだのもそのためである。彼が『支那革命外史』を書いたのも孫文が革命の父でないことを、アジアの革命にはアジア的革命があるということを強調したかったためである。それこそ、日本には日本らしい革命があるということを強調したかったためでもあろう。
 ここに、革命といえばマルクス・レーニン主義しかないと考えている俗流革命家にたいする一輝の挑戦がある。彼のいうように、徒に翻訳して接木する所に、日本の革命は生まれないのである。それは日本に革命的情況が生まれない理由の一つでもある。日本人の中に革命観が浸透しないのもそのせいであるといえる。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ニ、中国革命への没入

 一輝がどういうつもりで支那(中国)の革命に没入していくようになったかは前節で述べたし、『支那革命外史』の執筆は日本革命の遂行を彼自身の中に成熟させるための必要不可欠の一段階であったと述べた。そのように必要不可欠であり、彼が革命家として成長するために重要な意味をもつ支那(中国)革命にどのようにして参加するようになったのであろうか。
 はじめ、一輝は『国体論及び純正社会主義』を出したことにより、革命評論社に近づくことになる。革命評論社というのは明治維新で一応日本の革命はできたとし、これからは支那(中国)の革命、できればインドの革命をやってのけ、アジア人によるアジアの世界を建設しようとし、手始めに支那(中国)の革命をやってのけようとする人達の集まった結社であった。
 一輝はそれと同時に、幸徳秋水たちとも近づいたが、秋水たちの主張には社会主義の実現ですべては解決するという面があり、現実にある国家間の不平等、不均衡をもとにして争われている国家間の対立、戦争を無視するということが彼には不満であった。彼はそれだけ帝国主義を非人道的、非平和的なものとし、西洋諸国の侵略主義を憎んでいたということになる。それは秋水たちが世界の現実を無視し、ヨーロッパ的社会主義を直訳して日本に輸入しているように彼にはみえたのである。社会主義国家になったからとて、そんなに簡単に国家間の対立、戦争はなくならないというのが一輝の信念であった。たしかに今日の中ソ対立、資本主義国以上に憎みあっている現実が彼の信念の正しかったことを証明しているかのようにみえる。勿論真の社会主義国家に程遠いところからおこることだとしても、真の社会主義国家に至ることは簡単でないし、現実の国家は永久革命で一歩一歩とそれに近づいていくしかない。
 いずれにせよ、こんなところから一輝が秋水たちよりも革命評論社の方により近づくことになったのである。革命評論社とは宮崎滔天たちである。彼は滔天をとおして、まもなく中国革命同盟会に参加するようになる。中国革命同盟会とは興中会、華興会、光復会三派の連合したもので孫文、黄興、宗教仁たちが中心であった。其の当時、同盟会のかかげた目標は、
 一、現今の劣悪な政府を顛覆する
 一、共和政体の建立
 一、世界の真正の平和を維持する
 一、土地国有
 一、中国と日本両国の国民連合を主張する
 一、世界列国が中国の革命に賛成することを要求する
 だから、それらにもとづいて日中両国民が連合するということは、一つになるための革命が日中両国にそれぞれ必要であるということであり、日本は明治維新の革命的性格を更におしすすめるということであり、決して西洋諸国の道を模倣するということではなかった。革命を統一的にとらえた一輝であったが、彼は先述した理由にもとづいて支那(中国)の革命を自分の課題とした。支那(中国)革命が彼自身を必要としたこともあったが、日本が一応の革命をなしとげたのに対して支那(中国)の機運はより一層熟していると思われたためである。それは宗教仁と結びつくことによって更にたかまった。
 一輝の毎日は日本にいて支那(中国)革命を可能なかぎり助けることであった。それは資金をつくることであったり、武器をあつめることであった。一輝が直接支那(中国)におもむいたのは、明治四十四年(1911)十月で彼の二十九歳の時であった。宗教仁の電報がきっかけであった。
 一輝が上海についた時は既に武装蜂起のあとであり、支那(中国)は革命の渦中にあったために到着と同時に多忙をきわめ、毎日が危険な生活であった。
 十二月には、革命が一応成功し、清朝は倒れて袁世凱を中心とする中華民国が成立した。しかし、中華民国は孫文、宗教仁たち革命派と北洋軍閥との妥協の産物であった。一輝はそれに反対し、革命派による全支那(中国)の制覇を主張したが、孫文、宗教仁たちは軍資金の欠如、革命派内の分裂を理由として北洋軍閥と手を握る以外にないといいきった。
 宗教仁が袁内閣に参加しようとした時、一輝は反対したが、「私がいかなければ袁をおさえることはできない」といいきる宗教仁の前に彼はだまるしかなかった。
 革命の第一歩をふみだした後、革命に力のあった人達がともすれば暴力化する傾向のあったのをどうするかは難問題であった。宗教仁たちは彼等を国民党に改組するために意欲的に動いた。
 臨時大総統の袁は議会の承認なしに外国から大借款をしようとした。宗教仁はそれを怒ったことで、とうとう、袁に殺されるはめになった。一輝も大いに怒り、それは外国への隷属だといいきった。それと同時に彼は宗教仁を殺したのは孫文だと主張してゆずらなかった。このために、中国が日本政府に要請して彼は三年間の国外退去を日本政府に命じられて、支那(中国)を去るしかなかった。だが当時袁が宗教仁を殺したということは不明であった。
 一輝の帰国後、支那(中国)には第二革命がおこったが、それは失敗して、人々は次々に日本に亡命してきた。第一次世界大戦の始まった1914年、西欧諸国からの圧力が支那(中国)から後退した時を利用して、日本政府は支那(中国)進出をこころみて、対支二十一ヶ条をつきつけた。その交換に提出したのが、革命家たちの活動を抑えるということであった。一輝も怒ったが、それ以上に怒ったのは支那(中国)の革命家たちであった。それ以後、支那(中国)の革命家たちは自力で革命運動に挺進するようになる。はじめて本物となったのである。
 一輝の『支那革命外史』はこのような情況の下に日本政府の対支(中国)政策の転換を求めて書かれたのである。彼は支那浪人と自称する人達が日本政府の対支政策をいましめる者が殆どないことを非常に歎いている。この反省が日本に革命の必要を痛感させることにもなる。彼が徐々に変わってきた点である。
 一輝は三年間の退去命令の期限がきれると再び支那(中国)に向かった。依然として、より多く中国革命に期待していたためであろう。しかしこの時の一輝には三年間も支那(中国)革命から遠ざかっていた上に、かつてのように彼を信頼し、彼に期待する宗教仁もいなかった。わずかに大総統から皇帝になろうとする袁世凱に反対したり、日本政府と秘密協定を結ぼうとする段祺瑞国務総理に反対するのがせいぜいである。
 パリのヴェルサイユ宮殿で開かれた第一次世界大戦の講和会議では山東問題をめぐって、日本と支那(中国)は正面衝突した。英国が日本をおして日本案が通り、山東問題は日本の希望通りになった。
 これをきっかけに起こったのが五・四運動で支那(中国)の軍閥と日本の帝国主義に反対する運動が全国的規模でおこった。これを見たときの一輝の胸の中に、支那(中国)における革命と日本における革命は同時におこらなくてならないということを、いよいよ胸の中にたたきこむことになったのである。

 

       <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ホ、孫文と三民主義

 一輝は孫文を非常に憎み、軽蔑した。それというのも、孫文が単なる口舌の徒であり、翻訳家にすぎず、西洋的革命家の直輸入をする人間以上ではない、と思っていたからである。しかも彼にとっては、革命とは民族の伝統をふまえてはじめて達成されるものであり、民族の伝統をのりこえてこそ出来るものであると思われていたからである。
 でも、一輝が孫文を翻訳家とみ、直訳的革命家とみたのは単に彼の感じであり、孫文は非常に支那(中国)の伝統を知り、それをふまえて革命を推進しようとしていた現実的革命家そのものであった。いうなれば、一輝と孫文はお互いを正しく知りあっていれば、無二の同志になれた間柄の人間であった。今そのことを孫文の「三民主義」によって明らかにしたいと思う。
 孫文は「三民主義」のはじめに、「三民主義とは救国主義のことで、それは王道によってはじめて達成できるが、西洋諸国の道は覇道である」とまえおきして、西洋と中国の違いについて、彼はつぎのように自信をもっていう。
 「我々の文明は貴方方(西洋)よりも二千年あまり進歩している。我々は今、貴方方の前にいて貴方方が追いついてくるのを待っていたいと思う。貴方方にひきずりおろされて我々が後にさがるわけにはいかない。というのは、我々は二千年以上も前に帝国主義をすて平和を主張しているからである。今や中国人の思想は完全にこの目的に到達したのである。貴方方が今やっている戦争もその目標としているところはやはり平和の主張である。だから我々としては元来歓迎すべきものだ。ところが実際には貴方方は攻めることばかり口にして平和のことにふれず、強権のことばかりいって公理について語らない。貴方方が強権の行為ばかりを口にしているのはまことに野蛮だと思う。だから貴方方が攻めるにまかせておけばよく、我々が参加する必要はない。貴方方が攻めあきたら、これから先本当の平和を語る日があるかもしれない。そうなったら貴方方の側に参加してともに本当の平和を求めよう」と。
 重ねて、孫文はいう。
「満州をひっくりかえした我が辛亥革命では一体どれ程の血を流したであろうか。たいして血を流さなかった原因は中国人が平和を愛するからである。平和を愛することこそ、中国人の一大道徳なのである。世界でもっとも平和を愛するのが中国人だ。私は以前世界の人々に我が中国人の後に追いついてくるように勧めたものである。今やロシヤのスラブ民族も平和を主張しているが、これはスラブ人が我々中国人に追いついてきたのに外ならない。わが中国四億のものは、平和の民族であるばかりでなく、まことに文明的な民族である。近年ヨーロッパに流行している新文化や彼等の唱える無政府主義や共産主義はみんな我が国に数千年も前からある古いものだ」と。
 だからこそ、今、
「ドイツで学問を研究する人達は中国の哲学を研究しようとし、ひいては印度の仏教の理論を研究して、彼等の学問のたりないところを補おうとしている。世界主義というのはヨーロッパにおいては近世になってはじめて世に出たものであるが、中国では二千年以上も前にいわれている。我が固有の文明をヨーロッパ人の眼はいまなおとらえることができないのだ。だが政治哲学という世界的文明についていえば、我々四億のものは既に数多く発見している」と確信をもっていえるのである。
 その政治哲学について、孫文は、「大学にとく格物、到知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下という言葉は中国の古い、立派な政治哲学であった。我々はヨーロッパやアメリカの国家で近年政治哲学が非常に進歩していると思っているが、その政治哲学は決して劣らない。一人の人間を内から外へと発展させ、一人の人間の内部からはじめて、平天下にまでおよぼすものは精緻に展開された理論で、いかなる外国の政治哲学者も見透したものはなく、説いたものはない」というように説いている。
 それだけでなく、中国固有の道徳をとりもどす必要があるといって、「国家のなかにおいて君主はなくてもよいが、忠の字はなくてならない。……民に忠なれと説いてはいけないものかどうか。事に忠なれと説いてはいけないものかどうか」と書いている。
 そして、孫文は「かつて中国は第一等の強国で、今のイギリス、アメリカ、フランス、日本といった強国よりもずっと強かった」と述べた後、だからとて、中国がイギリス、アメリカ、フランス、日本のような強国になるのでなく、「我々はまず一つの政策、すなわち弱いものを救い、危ういものを助けることを決定する。それでこそ、我々民族の天職をつくすというものだ。我々は弱小民族を助け、世界の侵略国に抵抗してこそ、我が民族は発展できる。この志をもたぬかぎり、中国民族には希望はない」といいきってから、「もし中国が此の責任をおえなかったならば中国が強大になったからとて世界にとってたいして利益でなく、むしろ大なる害になるのである」と断言する。
 孫文のいうところはあまりにも堂々としており、立派である。革命をとおして、このような国をつくろうとしていたのである。彼はまた中国の道を「民をもっとも重いとし、地神、穀神をその次とし、君をもっとも軽いものとする」という孟子の言葉をひいて、名目は君権でも、その実は民主そのものであったというのである。
 それに比し、今世界の列強は平和、民主を口にしながら、その実、平和、民主に反する野蛮の道だけ、覇道だけを実施しているというのである。だから、「西洋の機械をまなぶように、西洋諸国に置ける社会管理の政治をむりやり学んだらそれは大まちがいだというほかはない」ともいい、「西洋諸国は政治哲学の分野では世界の人々が考えるようにすぐれているとはいえない」ともいうのである。
 孫文のこうした発言をもしも一輝が知っていたなら、彼を単なる直訳的翻訳家とののしり、革命を直輸入する者とは考えなかったにちがいない。孫文の思想的立場は宗教仁を生かし、真に世界的視野と展望にたって、天心のいう美と宗教の国を全く新しくつくろうとしていたのである。
 孫文が「三民主義に賛成した以上、共産主義に反対すべきでない」と云ったときには中国の伝統思想としての共産主義が頭にあったであろうし、それこそ今のヨーロッパ的共産主義を直訳して考えないで、中国の思想の中で陶冶し、発展させた共産主義を考えていたことであろう。
 一輝と孫文が理解しあえなかったことはなんとしても残念である。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 へ、日本革命の実現

 一輝が日本の革命を志向し、維新革命を更に遂行しようとして、『日本改造法案大綱』を書きあげたのは支那(中国)の上海で、排日を絶叫する民衆の声をききながら筆を進めたものである。日本は明治維新という王道実現を目標とした革命をやってのけたが、その後の日本は王道そのもののより完全な実現をはからず、かえって王道を捨て西洋諸国の覇道をまねて、反革命の道をつきすすんでいた。
 西郷隆盛はそれを遺憾として、連続革命の道を進もうとしたが、かえって彼自身が反革命の道を歩む者として当時の日本政府に攻撃されたばかりか、日本政府にたぶらかされた日本民衆にも強く攻撃されたのが今日までの西郷評価である。学者まで、政府のお先棒をかつぎ、西郷はとんでもない道を歩んだ男として歴史の上に定着している。西郷隆盛こそ、西洋諸国の侵略の道に真正面より疑問をなげかけ、第三の道を模索しようとした最初の男である。
 岡倉天心も幸徳秋水も北一輝も西郷隆盛の路線の上をつきすすもうとした人達である。それを更にさかのぼれば、橋本左内になり、吉田松陰となる。明治の元勲たちはそれをゆがめた人間達である。
 いずれにせよ、一輝は明治維新の理想を捨て反革命に猛進する政府要人を革命しようとしたのである。日本政府の要人達に同調しようとする財閥、軍閥を革命せんとしたのである。その時はじめて、日本民衆と支那(中国)民衆が一つになって、アジアの伝統である王道の道をつきすすむことができるし、真の平和と自由、平等の道を実現できると考えたのである。排日の民衆の声もそうなるまではやむことがないであろうし、排日の声があがるのは当然だと思った。
 一輝は『日本改造法案大綱』の一章を書きあげる毎に、それを日本に送り、謄写刷りして、各方面に配った。それほどに、この書は日本人の間で待たれていたし、他方では秘密に属することであった。人々というか、日本の革命を志向する人達はこれを秘密裡に書きうつして読んだものである。『日本改造法案大綱』とはそういう本であった。
 本書は国民の天皇、私有財産限度、土地処分三則、大資本の国家統一、労働者の権利、国民の生活権利、朝鮮基地現在及び将来の領土の改造方針、国家の権利の八章からなりたっており、国民の天皇と題して、一輝は天皇が全国民とともに国家改造の根基を定めんがために天皇大権を発動して三年間憲法を停止すると書いている。
 一輝にいわせると、天皇は民主主義的、社会主義的国民の先頭にたって革命そのものを遂行するもので、あくまで国民の奏講によりて行動しなくてならないという。それが神武国祖の創業であり、明治大帝の御遺志だというのである。天皇も国民とともに、仏子の大道を宣布する者と一輝がみたとき、そこにはアジアの理想、伝統を確信していたのである。
 さらに、私有財産限度、土地処分三則、大資本の国家統一の中で、一輝は私有財産を三百万円とし、土地所有を時価三万円にし、資本を一千万円までとしているが、それというのも、「個人の自由なる活動又は享楽はこれを私有財産に求めざるべからず。貧富を無視したる画一的平等を考うることは誠に社会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんがために個人の名誉的不平等を認むる制度を以てせんと云うともこれは価値なき別問題なり。人は物質的享楽又は物質的活動において画一的なるあたわず」。
「全てに平等ならざる個々人はその経済的享楽及び経済的運命においても画一的ならざるが故に小地主と小作人の存在することは神意ともいうべく、且社会の存立及び発展のために必然的に経由しつつある過程なり」。
「熱心なる音楽家が借用の楽器にて満足せざる如く、勤勉なる農夫は借用地を耕してその勤勉を持続しうる者に非ず。人類を公共的動物とのみ考うる革命論の偏向せることは私利的欲望を経済生活の動機なりと立論する旧派経済学と同じ。ともに両極の誤謬なり。人類は公共的と私利的の欲望を有す」。
と考えたからである。要するに、一輝は現実に生きているありのままの人間を出発点とし、そこから人類の理想にむかって進まなくてならないと考えた。これは『国体論及び純正社会主義』より後退しているようにみえて、かえって現実をみる眼の成長を意味する。
 一輝は現実の人間が私利と公利の両方をもつ人間であり、私利的欲望を克服するには長い時間がかかることも、かぎられた人間の企画力、創造力だけにゆだねて、多くの人達の企画力、創造力を殺してしまう画一的指導にも疑問をいだいた。
 そして、労働者の権利として、労働省を設置して労働者の権利を保護することを強調しているが、当時としては誠に卓見である。それのみでなく、労働者の代表が事業計画、収支決算に干与するように説いている。
 その他に、「女学校特有の形式的課目女礼式、茶湯、生花の如き、また女子の専科とせる裁縫、料理、育児等の特殊課目は全廃すべきである。前者を強制するは無用にして有害なり。後者は各家庭で父母の助手として自ら修得すべし。女子に礼式作用が必須科目ならば男子にも男子のそれが然るべく、茶湯、生花がしかるならば男子に謡曲を課せざれば不可」という文言がみえる。
 そして、最後に、一輝は国家の権利として天道、王道にそむいて、他国を侵略する国々に対して戦争する権利があると強調して、この文を結ぶのである。彼にとっては、支那(中国)、印度、日本の革命をおこして、それを世界各国に及ぼしたいと考えたのである。西洋諸国の侵略主義がいつまでものさばっているわけもないし、後進国といわれるものこそ、西洋諸国の侵略主義が生みだしたものであると彼は考えていたのである。
 一輝は日本の侵略をも肯定する立場にあった。侵略が革命の呼び水になると考えたからである。こういう考えの下に、青年将校達は兵とともに革命行動をおこした。そのことは全く一輝の知らない所でなされた。一輝は思想的影響をあたえた者として、適当な罪をきせられて、日本政府と軍閥によって抹殺された。
 一輝としては、官閥、財閥、軍閥を道づれにせぬ以外に、日本の革命は訪れないと考えていたにちがいない。だが、その時期は二・二六事件のおきた時ではない。彼とともに道づれになる筈の官閥、財閥、軍閥がこの事件をうまく利用して、日本の支配を強化し、日本を破滅の道におとしこんだのである。
 一輝からみると、それとは全く異なる道、天道、王道を実現する国を作りたかったのである。仏子の大道をつきすすむ道を歩みたかっただけである。革命とは本来そういうものであり、国民一人一人が革命を必要と感じて、各人の手で革命を戦いとり、平和と自由と平等を全国民のものとすることである。

 

       <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

5 細川嘉六

 

 イ、中国の革命

 細川嘉六が支那(中国)の革命を切望したことは真に切実なものがある。孫文が、長崎新聞記者に「日本の維新は中国革命の第一歩であった。中国革命は日本維新の第二歩である。中国革命と日本維新とは実際同一意味のものである。惜しい哉、日本人は維新後富強を致し得て却って中国革命の失敗を忘却してしまった。故に中日の感情は日々に疎遠となった。近東ロシアは革命に成功してもなお中国革命の失敗を忘れない。故に中国国民と露国国民とは革命活動によって日に親善を加えつつあるものである」と語った言葉をひいて、中国革命の必要性、必然性を彼は強調する。
 そうなった理由として、嘉六は、「現在日本にとって痛切にその欠乏を感ぜざるを得ないものは明治維新を達成した革新力……聡明、真摯、大胆、雄渾なる革新力の欠乏である。この革新力あってこそ、日本はアジア諸民族の景仰をうけていたのである」(アジア民族政策論)というのである。
 明治維新が革新性を失い、徒に西洋諸国の模倣をし、保守の立場にだした日本は全く魅力を失ってしまったというのが嘉六の言い分である。では何故に、支那(中国)に革命が必要であり、不可避であるかという点について、嘉六は再び孫文の言葉をひいて説明する。これは彼が日本の神戸にきたとき語ったものである。
 即ち「欧州の文化は武力を以て人を圧迫する所の文化でありまして、この武力を以て人を圧迫することは中国古語では覇道の文化と申します。然るに我が東洋におきましては従来覇道文化を軽蔑し、他に覇道文化にまさった所の一種の文化が存在しているのであります。この文化の本質は仁義道徳であります。この仁義道徳の文化は人を感化するのであって人を圧迫するものではありません。かかる人に徳をいだかせる文化は我が中国の古語では、これを王道といっています。故にアジアの文化は王道の文化であるのであります。欧州において物質文化が発達し覇道が行われましてからは世界各国の道徳は日々退歩し、のみならずアジアにおいても又道徳の非常に退歩した国がかなりでてきました」という孫文の発言である。きいていると、道徳の非常に退歩した国こそ、日本であるといわれたように思えてならない。
 維新以後、日本が全力を傾けてきたのは、単に物質の生産力であり、その生産性こそめざましく発展してきたが、目にみえて衰えてきたものが人間らしい生き方、考え方であり、それが今なお性こりもなくつづいているのである。資本主義体制こそ、すべての人間を金と物の奴隷にし、金と物の亡者にするのである。
 嘉六は孫文の言葉をひいて、王道実現のために革命が必要であり、不可避だといったのである。それ以外に、人間の生きている意味はなく、単に動物として存在しているにすぎないというのである。
 革命の必要性、不可避性を嘉六は次のような現実の世界列強の政策から説明することを忘れない。「英米の対支政策は経済的政治的基礎についてみる時に民主主義でもなく進歩主義でもなく、又友愛主義でもなく、全く他列強同様に帝国主義的支配を実現せんとするものである。ただ他列強と異なるところは英米ともに他列強に優越する経済力と広大なる領土資源を有するが故に支那(中国)領土の分割よりも支那(中国)を保全しその門戸を解放せしめる政策が両国にとり最も適当したところである」(アジア民族政策論)と。
 更に、次のようにもいう。「列強の支那統一政権の支援は単に経済的援助にとどまらない。これら列強の先鋒たる英国は印度と香港を通して南洋におけるその勢力範囲を揚子江に結ばんとしている努力は経済的と同時に政治的である。その植民地印度を抑える武力は西南支那における交通路の開発より中南支に呼応し、現に防備の拡大強化が急速に遂行されている香港は殆ど防備の完成されたシンガポール軍港と共に南アジア及び南洋における英国の武力を中南支那に呼応させるものである」(アジア民族政策論)と。
 それというのも、「支那(中国)は資源の豊富、民衆の巨大なる点で群をぬくというばかりでなく、又これがために現代帝国主義諸強国が世界資本家的ゆきづまりの解消を求めるところの世界における特殊の一大経済地域をなしている」(支那革命と世界の明日)という認識が世界の強国の中にあるためだと嘉六はいう。
 これに対し、支那(中国)は西洋列強の帝国主義的侵略を防ぎ、国内そのものをどうしても革命にもっていき、革命を達成させる必要があるというのである。しかもその革命は労農革命であり、今さらブルジョア民主主義革命ではないと明言するのである。労農革命の機は長い間の西洋諸国の分割政策のもとで十分に熟したし、労農もそれだけ覚醒し、成長したというのである。
 支那(中国)に労農革命など予想もできなかったが、ソヴィエト革命が支那民衆に希望と勇気をあたえ、今では完全に日本そのものといれかわったことを明らかにする。明治維新の理想を失って西洋諸国に追随しているかぎり、支那(中国)民衆から見捨てられるのもむりはない。
 勿論嘉六は長い間、支那(中国)が日本の支援を期待したことを重視する。かつての日本にはそれだけのものが十分にあったことを再確認するとともに、明治維新の革命性は橋本左内、吉田松陰、西郷隆盛にもとづくものであったことを言うのを忘れない。彼等こそ、陰に陽に、岡倉天心、北一輝を育て幸徳秋水が、細川嘉六が学んだ人達である。だが、そのことは明治維新をなしとげた日本人にのみ特有のことでなく、むしろ今日では、その伝統は支那(中国)に生かされているというのが嘉六の見方である。
 即ち、革命の雄図をいだいたまま死んでいった孫文をはじめとして、黄興、蒋介石、毛沢東たちによって生まれ変わろうとしている支那(中国)は昔の支那(中国)ではないというのである。
 そこから、嘉六の大胆な提言が生まれてくる。「400万平方哩の地域に四億の民衆をもつ大国支那(中国)は世界の列強が如何なる政策をとり如何なる地歩を進めているにせよ支那人(中国人)の支那(中国)、独立の支那(中国)の建設を追求してきた。今日世界の列強がその解消しがたい矛盾の解消を強力的に支那(中国)に求めれば求めるだけ支那(中国)は独立国家の建設に必死にかりたてられるのである」(アジア民族政策論)というのである。
 この支那(中国)に応ずる道は今一度明治維新の革新性をとりもどして、支那(中国)の変化を十分に理解し、呼応して、民主主義の達成に向かって、日本と支那(中国)の民衆が一つになるということであるし、もう一度支那(中国)民衆が日本によせた期待をとりかえすことであるというのである。嘉六は支那(中国)革命をいうことで、逆に日本に革命が必要であることをとく。
 革命中国が世界の平和、自由、平等の実現の鍵をにぎっていると、既に太平洋戦争中に予言した嘉六の予言は的中している。偉大という外はないのである。長い間、西洋諸国の帝国主義にいためつけられたために、真の平和の何たるかを知り得た人間が誕生したのである。このことを思えば思うほど、何百年にわたって政治的経済的に圧迫されたことはあまり問題でないと思う。今日の中華人民共和国は共産主義国家、プロレタリア独裁の国家というよりも昔ながらの王道を実現した国家といえる。そこに支那(中国)の伝統の強さがある。嘉六はそれを的確にとらえていた。単に直輸入的革命家ではなかった。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ロ、アジア諸民族の覚醒

 支那(中国)の革命につづいて、アジア諸民族は次々にめざめつつある。最初は日本の明治維新に刺激されたが、まもなく日本はその理想を見失って西洋諸国の帝国主義的侵略の模倣をすることによって、自国の保全ににげこんでついにはアジア諸民族を圧迫する立場に変わったが、日本に変わって、ソビエト連邦が生まれ、それがアジア諸民族の希望となり、力となった。
 「ソ連の政治的意図がどうあろうとも現実にこれによってアジア諸民族は列強帝国主義よりの解放と独立とのための死斗的苦斗に支援をあたえられて歓喜してこれを迎え入れた」と嘉六も書いている。
 アジア諸民族が数百年の長きにわたって、西洋諸国の帝国主義的侵略の重圧をうけていたために、それから自由と独立をかちとり、自力で繁栄の道を歩むことは殆ど絶望に近く、今日後進国とか開発途上国とかいわれている事実もすべて西洋諸国の帝国主義的支配がいかに残酷で過酷であったかという証拠で、全く西洋諸国が生みだしたものであり、彼等アジア諸民族は、本来愚昧でも無知でもなかったのである。
 「西洋の栄光は東洋の悲惨であった」といったのは岡倉天心であるが、「西洋の栄光とみえるものは東洋を侵略することから生まれたもので、そんな栄光は真の栄光でもないし、武力によって得たものは早晩自壊作用をおこすであろう」と私は言いたい。既に秋水がいったように、戦争はそれ自身の中に堕落を生みだすものをもっているのである。人々は唯単に戦争のよき面をみるにおわって悪い面を見まいとしているだけである。
 ソ連の帝国主義反対の政策がまだ健全であった間はその助けを得て、列強の対立を利用しながら、アジア諸民族は次々と西洋諸国の圧迫をはねのけて独立をかちとった。だから、嘉六はそのことについて次のように言うのである。「アフガニスタンにおいては1919年5月、ソ連の精神的並びに物質的援助と印度国民会議党の支援とを得て英帝国と戦い、同年8月英帝国を屈し、アフガニスタンの内政並びに外交上の完全なる独立を獲得し、ここにはじめて1838年並びに1880年の反英戦争において達成しえなかった解放と独立を達成し、近代国家への革新の道を打開した。永年、ツァー・ロシアと英帝国の分割と抑圧とを脱し得ざるのみならず、これら帝国主義国に追随した専制政治を打倒し得なかったペルシアにおいても自体は急転回した。同国政府は1918年1月ソ連よりのツァー・ロシアの奪取した一切の特権を放棄するとの通牒に鼓舞せられ、英帝国に対し不平等条約の撤廃に関する強硬な要求を出した。英帝国はこの要求に対し武力を以て答え、一時ペルシアを屈服させ、1919年8月同国各官庁に十分なる権限を有する英人顧問を招聘し、同国軍隊を英人特権の指導下におき、ペルシア鉄道の建設を英国資本を以てすること等を規定せる英波条約をおしつけた。この英帝国の強圧を顛覆したのはソ連赤軍のコーカサスから北ペルシアにかけたる英国軍隊に対する勝利である。ペルシアのリザカンを首領とする軍人、政治家はこの情勢に乗じ、1923年クーデタを敢行し専制政治を打倒し、右の英波条約を破棄し、はじめて1905年にかけて戦っては敗れつつ来たった青年ペルシア党の革命を成就し革新の道を打開した。英、仏、露、独のために永年抑圧されてきたトルコにおいては第一次世界戦争の敗戦国として英、仏のために分割略奪されたが、この圧制に対し、ケマル・パシアの指導下に抗争奮起した青年トルコ党はソ連との間に条約を結び、両国は近東における民族独立斗争がソビエト・ロシアの新社会秩序のための斗争と全幅的に相通ずるものなることを確認し、特にイスラム諸民族の自由と独立を宣言し、ソ連は軍需その他の資材を青年トルコ党に供給して、その英、仏に対するを支持しその独立と解放とを達成し革新の道を邁進した」(アジア民族政策論)と。
 たしかに、近東諸国は次々に嘉六のいうように解放と独立をかちとったが、西洋諸国の重圧は印度、支那(中国)、インドネシア、ヴェトナム、ビルマなどのアジア諸国に対してことに激しかったし、ソ連からも地理的に遠かったために、印度等のアジア諸国は独立をかちとることができなかった。
 支那(中国)については既にふれた通りであったが、印度では1919年から1922年にかけて未曾有の反英運動がおこりながらも英帝国の巧妙な分割政策のために敗北し、印度民衆は今迄以上の飢餓と伝染病に苦しむことになる。インドネシアもヴェトナムもビルマもその他の国々も例外ではない。
 その意味で、これらの国々を徹底的に搾取した西洋諸国の罪はあまりにも大きい。これらの国々を軽蔑の眼でみることは決して許されない。それに西洋諸国に代わって、これらの国々を支配しようとした日本の罪も同じく重い。一体それをどこまで西洋諸国なり、日本が反省しているかはすこぶるあやしい。だから、「田中首相かえれ」のデモもおこるのである。
 嘉六は、笠間杲雄の「アジア主義者よ、まずアジアを認識せよ。アジアの同胞に愛をもて。都合のいい時の反動主義をおおうための偽善的アジア主義を葬れ。そしてアジア諸国に対する政策だけでもせめて自主外交の実をあげたいものではないか。これらのアジア諸国民はそろそろ指導者としての日本に失望を感じていることを諸君は知っているか。何となれば口先以外に日本がこれらの国民に道徳的指導すらあたえたことは殆どないからである。“光は東より”日本として悟らずばアジア主義の光はうすれてゆくばかりである」(アジアの認識)の言葉をひいて、日本国民に、全アジア諸民族は七十四年前、日本が欧米列強の暴圧に抗して明治維新を断行し、独立と国内改革とを達成するために全力を傾倒したと同じ状態にあることを十二分に理解しなくてならない」(世界動乱と当面する日本国民)と警告するのである。言外に明治維新の理想を失って徒に西洋諸国の帝国主義をまねて、アジア諸民族を忘れている日本への叱咤がある。この言葉が、アジア諸民族を侵略するために、日本中が狂奔している最中に言われたものだけにいよいよ重味をもってくる。
 嘉六は声を大にして日本の大陸政策は次の三点をそなえて、はじめて大陸政策の名に価するという。その一つは各民族国の領土の統一保全と自主独立を確認すること、第二は大陸政策が成功するためには各民族の国内建設を極力支援せざるを得ないが、しかしその主要点はまず自国の持つあらゆる経済的余力を少なくともいかなる列強よりも各民族にとり有利なる条件で投ずることである。第三は各民族の民族文化に関してはその自由発展にまかして、自国の文化を強制すべきでないことであった。だがその三点を全く欠いていたのが太平洋戦争中の日本であった。ここにも彼は日本にこそまず第一に革命がおこらなくてならないという意味をもたせていたが、それを感じ取る者は当時の日本に殆どいなかった。
 印度、支那(中国)をはじめとする多数のアジア諸民族が苦しんでいるのをみたとき、嘉六は再び孫文の言葉「圧迫をうけてるのはアジア諸民族だけでなく、欧州にもいるのです。覇道を行う国はただ外国を圧迫するだけでなく、自国内の民族を圧迫しているのです」をひいて、被圧迫民族が手をにぎって覇道を行う者、帝国主義者どもに反旗をひるがえせばよいというのである。
 その時、インド独立運動の領袖ララ・ライパット・ライが「現在においても印度、支那(中国)および日本の間に根本的共同性があり、これら三国に対する西洋の影響はこの共同性を破壊するまでに進んでいない」と言った言葉をあげて、嘉六は印度、支那(中国)、日本の連合を訴えているのである。帝国主義の道におちこんだ日本にもまだたちなおる機会があるというのである。それこそ、今一度、明治維新の革新性をとりかえすことである。彼がララ・ライパット・ライのこの同じ言葉を何度も引用しているということは、彼がその言葉に非常に魅せられたということであり、岡倉天心の道統を無意識のうちにうけついでいるということである。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ハ、帝国主義の反省 

 細川嘉六の帝国主義論はつねに革命の原点にたちかえって論じられたものとして、私達に非常に示唆的であった。ともすれば、人々は帝国主義論を展開するに当たって、誰が最初に論じ、誰の所論はそれとどう違い、どう対立しているかを究明するところに主眼がおかれ、いつかそれは書物の上のことに終わり、現実の革命とはかかわりない所で論じられる傾向があった。いうなれば、誰のための革命であるかという論点が忘れられ、理論のための理論が盛んとなり、ついには現実の革命から遊離する傾向にあった。その点、彼は誰のための革命かという視点を見失うことなく、常に革命の理論を追求しつづけた数少ない一人であった。その点で、彼は重要な人であった。それというのも、彼は常に革命的実践の道を情況の中で可能なかぎり模索していたためである。彼こそ実践家であり、理論家であった。その点を以下に述べてみたいと思う。
 嘉六は先ず、日本および北米合衆国が資本主義をとりながら、成長、進歩、向上の道を進んでいたという。その成長、進歩、向上はそれぞれの国内のプロレタリアートの未だかつてない搾取と抑圧とにより、中小資本家階級の急激な没落とにより、資本家国の間の激しい斗争とによって生みだされたものだという。
 その成長、進歩、向上が資本主義のゆきづまりを克服して、資本主義そのものを無限に発展させるような幻想をいだかせたともいうのである。
 当時、嘉六に『帝国主義論』を書かせた頃にはその幻想が最も強くいだかれていた時代である。日本と北米合衆国は、その救世主の如き姿を以て、世界の前に立ちあらわれた時である。だが、資本主義のゆきづまりは、日本や北米合衆国の二国の成長、向上で解決できる程単純なものでない。そのことを声を大にしていうのが嘉六である。幻想はあくまで幻想だといいきるのが彼である。彼はそのことをレーニンの『帝国主義論』を引用しながら、彼独自の見解を述べると共にカウツキーの論が幻想性に更に拍車をかけることを説明するのである。
 嘉六ははじめて、明治三十七、八年の日露戦争が資本主義国間の戦争であるという、これまでの見解を排して、資本主義、帝国主義のゆきづまりから起こったものとみるのである。即ち資本主義的後進国がその成長と向上のためにひきおこした戦争とはみないのである。
 レーニンの言う帝国主義の特質は独占資本主義であり、寄生的又は停頓的資本主義であり、死滅しつつある資本主義の三つであるが、日露戦争はその中の寄生的又は停頓的資本主義がおこした帝国主義戦争であり、資本主義フランス、ドイツが起こしたものであったというのである。
 日露戦争をフランス、ドイツの戦いとみることは全く独創的な意見であり、資本主義の世界的連帯をみる上で、本当に鋭いというほかない。そうなると、世界的資本主義と世界的社会主義との対決、戦争しかないという視点にたつ以外になくなるし、世界革命の遂行しかありえなくなってくる。それの実現するまではすべてごまかしということになってくる。平和も自由も平等もごまかしのそれらということになるし、資本主義のつづく限り、平和も自由も平等もないということになる。
 いいかえれば、うその平和、自由、平等、独立があるということである。岡倉天心のいう真の平和も自由も独立もないということになる。
 カウツキーに言わせると、資本主義にはなお発展の余地がある。それを帝国主義諸国間の協調によって生みだそうというのである。嘉六にはこれが完全に資本家的奴隷の位置にのめりこませた主張であるということになるのである。
 資本主義的帝国主義的搾取がいかにひどいものかについては、嘉六は次のようにいう。「帝国主義ブルジョア国の過剰生産物に対する殖民地、半殖民地大衆の購買力を更に激減させる反作用をここに度外におけば、ここの問題はこの搾取の強化による小中農民大衆からの生産手段の急激なる収奪である。更に低廉なる農産物を更に多量に生産すべき資本主義的強圧のもとに、小中農民の経営は到底成立ちゆくを得ず、帝国主義ブルジョアジーの手先たる大地主、高利貸買弁の圧迫の手はますます狂猛にこれら農民大衆の上に横行する。農民大衆のより一層の貧窮化、彼等の土地のより急速なる収奪と並んで大資本による栽培地農場制の拡大、そのより一層の合理化が遂行される。かかる新たなる帝国主義の強圧がなくとも、既にアジアの殖民地、半殖民地の農民大衆の貧窮化は極度に達している。かかる地域中最も巨大なる支那(中国)および印度についてみるに、過去幾十年来各帝国主義ブルジョアジーの工業品の強力なる競争によって農民の家内工業はどしどし破滅せられ、しかも向上資本主義時代においては家内工業の破滅を伴うて国内に勃興すべき資本主義的工業も又帝国主義ブルジョアジーの強力なる競争に抑圧されて、相当すべき発展を示さなかったのである。それがために、農民大衆が唯一の生産手段たる土地の収奪はますます激成され、しかも農村の過剰人口には向上資本主義時代の如くにこれを部分的にも吸収し得る工業なしというゆきづまり状態はこれら殖民地、半殖民地の慢性状態になってきたのである。なるほどこの過剰人口の一部分は移民として帝国主義ブルジョアジーの他の殖民地、半殖民地に使役されてきているが、しかしこの慢性状態から来る巨大なる過剰人口に対しては大海の一滴にしかあたらぬ」(新世界戦争への一巨歩)と。
 だからこそ、嘉六は、「今日こそアジアにおいて九億の帝国主義的奴隷の動く時代が到来したのである。この巨大なる勤労大衆は過去の時代の奴隷ではない。帝国主義的ブルジョアジーの搾取と暴圧との本性をそれぞれに学びとった者であり、飢餓と死から学びとった者達である」(新世界戦争への一巨歩)というのである。そして支那(中国)、印度、インドネシアなどの勤労大衆のめざめと活動がいかに年々激しくなるかということを強調する。
 唯ここで心配なのは、嘉六は資本主義に対する社会主義革命を強調するあまり、資本主義体制からの解放により、即ち社会主義革命により、あまりに安易に人間一人一人が解放され、自由と平等をかちとり得るかのような幻想を人々に持たせたことである。たしかに、資本主義から社会主義になることは数段の前進であるが、他律的人間のいるかぎり問題は本当に解決できない。
 人々すべてが革命を必要とし、革命を必然とし、革命を戦いとるような力が一人一人のものにならないかぎり、それこそ革命があたえられたものであるかぎり、人々が本当に自律的人間にならない限り、革命された状態は程遠いものとなる。かつて、ソ連邦は勤労大衆の光であり、希望であったが、今やその体制を維持するのに汲々としている保守国家になりさがり、ソ連国民は世界の中で最も保守的国民になりさがっている。
 社会そのものが解放されたら、人間そのものも解放されるといえる程に人間は単純な存在ではない。生きているということが解放を求める戦いに連なっているともいうことができる。生きるということが解放を求めて戦うということでもある。だから社会主義体制になったからとて、解決される問題ではないのである。
 このことを言わない所に、嘉六への不満がのこる。唯当時に生きた彼には、それをいう暇がない程に帝国主義の悪をいわなければならなかったのかもしれない。社会主義への幻想を幻想と知りつつ言わなくてならなかったのかもしれない。彼が、「プロレタリア階級はそれ自身の文化と新たなる神話をもつ」という言葉をいっているのをみると、彼は全てを知りつくしていたのではないかと思うのである。それこそ、そういうものを今後においてこそ、創造しなくてならないと考えていたのではないか。それは天心のそれとも共通しているのではあるまいか。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ニ、東亜共栄圏論

 嘉六が東亜共栄圏論を殖民史の中で論じたことはすぐれた卓見であると思う。日満支経済建設要綱の中で、日本の八紘一宇の大精神に基づき、アジア諸国を導くと言っても、所詮は八紘一宇の精神の諸外国への押しつけであり、まして日本政府の要人達が口で八紘一宇の精神を強調しても、その心は八紘一宇の精神とは全く相反するものであり、八紘一宇の精神とは嘉六が東亜共栄圏を述べる中で、「東亜共栄圏建設の可能なるか否かはこれら東亜諸民族の自発的協力を獲得しうるか否かの問題である。換言すれば、新秩序の建設が真に彼等の民主主義的要求をみとめ、その合理的経済発展を妨げざるものであり、また教育、文化の向上をはかりうるものであるか否かという点である」と強調したところのものである。
 だが、このような精神は嘉六をはじめ、限られていた人のものであったし、特に当時の日本政府の要人には全く無縁のものであり、単に、英、米、仏、蘭等に代わって、アジア諸国を支配しようとする野望だけがあった。だからこそ、嘉六はことさらにこういうことを強調しなければならなかったのである。そのことがそうでなかったことのなによりの証拠である。
 それに、嘉六は少しでも政府の方針に批判的なものを書き、反対するものを書けば必ず出版禁止になるという当時の状況の中で、まずさしあたっては当時の政府に同調するというような書きだしで、次のように書いていることに注意しなくてはならない。
 即ち嘉六は「日本の経済が発展すればするだけ、国内資源の貧弱と国内購買力の狭隘とはますますその発展の致命的障害と化し、この障害が打破されざる限り、国内の混乱と恐慌とをまぬがれ得ざる危険をもたらした。日本の世界政策がますます国際関係の現状打破に邁進せざるを得ない必要に迫られている。いうまでもなく、日本の如き国家の経済が発展するためには、その基礎条件として豊富にして且低廉なる労働力と豊富なる資源がなければならない」(殖民史)といかにも当時の政策の論調にのっとって書いている。このように書かなくては、出版が許可にならなかった時代である。
 しかし、このような考え方にしろ、論法にしろ、現状を独占的に支配している資本主義国に対し、ファシズム諸国が常に用いたものである。もともと資本主義国が、資本主義を発展させるために、非資本主義国に用いた常套手段であったが、世界各国を己のものにして一応安定したために、おくれて資本主義国の仲間入りしたファシズム諸国がいわなくてならなかった自己合理化の言葉である。
 このことを嘉六が知らないわけでもないし、肯定するわけもない。唯彼としては、西洋諸国に侵略され、全く搾取の対象におかれているアジア諸国の重圧をとりのぞくことには救いがあると考えたふしもないではない。それは西洋諸国に代わろうとしているのが、帝国主義日本であるにしても、日本そのものは一応、八紘一宇の精神をかかげ、アジア諸国の自立、独立、自由を表面にかかげている。たとえ、八紘一宇がにせものだとしても、それをかかげている以上西洋諸国のような態度はとれない筈である。しかも、戦争中、アジア諸国民がめざめ、徐々に力を蓄えてくるなら、たとえ、いずれが勝利しても往年のような残酷なしうちは出来なくなろうと考えたのが嘉六である。第二次大戦がどういう結果におわろうとも、所詮は資本主義諸国間の戦いであり、共に自滅するのが一番よいが、それは望めないまでも、勝利国もその位置が相対的に低下することだけは明白な事実となろうということであった。
 嘉六がその時こそ、東洋の伝統である平和、自足、調和が大きくよみがえる時であると考えたかどうかはわからないが、共産主義的世界にむかって一歩近づくと考えたことだけは事実である。嘉六がこういう考えの下に、日本と英、米、仏、蘭の対立に可能なかぎり、正しい分析をしようとしたことだけは明らかである。
 即ち、「日本と米国との東南洋地域における対立は米国が其の地域に発展せんとする将来の見込みと日本発展の必要との相剋であり、イギリスと日本との対立は共に現実的対立である。いうまでもなく米国が自己の将来の発展をはかるために生ずる日本との対立は将来の好条件を獲得することにありといってもこの対立の深刻なることを否認することにならない。イギリスに劣らざる米国金融資本の現在の圧力は実際問題として米国をかつて極東その他の東南洋地域に邁進せしめている。イギリスは又日本のこの方面に対する猛進出を自己の金融資本の活動舞台にとって死活問題とみざるを得ないのである。
 日本経済の発展に必要かくべからざる原料と市場とは太平洋沿岸諸地域に求めざるを得ず、今日日本の貿易の殆どここに依存し、しかもその半分以上はイギリス領および米国に依存している。それであるから少なくともこの両国の日本に対する動向は日本に重大なる影響をあたえずにはやまない」(殖民史)と書くとき、第二次世界大戦は日本のみがおこした戦争でなく、文明の名で裁かれるのは日本、イギリス、米国であり、東南アジアを支配したフランス、オランダであり、裁くのはアジア諸国である。西洋諸国から徹底的に搾取され、貧乏の極致につきおとされていたアジア諸国である。
 日満支経済建設要綱に、「より高く」、「より広く」、「より強く」と書いて、その解説をしているように、日本自身がふるまっていたら、アジア諸民族の自発的協力も得たであろうし、単に八紘一宇をかかげて、自国民のみでなく、アジア諸民族をだますことはなかったであろう。
 岡倉天心のいうところの王道こそ、北一輝のいう大道こそ、八紘一宇であり、実のある八紘一宇である。ただそれが名目にすぎなかったところに今日の悲劇がある。
 嘉六が「東亜共栄圏の樹立は前途に重大な困難をもち、容易に実現されるものではない。これがためには、我が国内においては世界史上殊にアジア史上未曾有の転化期を深く認識し、明治維新を打開した時代の大勇猛心を発揮し、根本的に百般の改革を断行すべき任務が敢行されなければならない。数百年にわたり欧米列国に抑圧され、それぞれの力量を発揮する機会に恵まれずして未開後進国民又は民族として存続し来った東亜諸民族……程度の差こそあれ大和民族と共通する東洋文化を有する諸民族を欧米列強に抗して指導するということを我が国の任務とする以上は従来我が国が東亜に対し採り来った政策に依然として膠着することを許されない。かくの如き膠着は世界の現時局を認識せざることに由来するものであって、如何に真剣な努力を東亜共栄圏樹立のために傾倒するにせよ、かくの如き偉大なる事態に適応すべき効果をもたらし得るものでない」(殖民史)といっているが、膠着したアジア認識は当時も変わらなかったし、現在も変わっていない。そこに、アジア諸国民からはじきだされる日本が今もあるのである。
 アジア認識をあらためるように、既に三十年前に言った嘉六も偉大であるが、それを今なお改めようとしない日本人の愚劣さには怒り以上のものがある。田中首相がいくらアジア諸国のためのような発言をしても、真面目に努力すればするだけ排斥される理由を、もっと原則にたちかえって考えてみる必要がある。
 嘉六が洞察したように、所詮東亜共栄圏は日本の殖民史以上にはゆかないことを熟知すべきである。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ホ、殖民地国家としての日本

 殖民地国家として日本が出発したときには西洋諸国が殖民地国家として出発してから、既に数百年をたっていた時であった。しかし、日本の殖民地は土地の広さからいうと、西洋諸国に比し、非常に狭いものであったが、地理的にみたとき日本に近接していたために、西洋諸国に比し、政治的にも経済的にも軍事的にも非常に条件的に恵まれており、日本そのものには大変役にたった。日没する時がないと豪語していた英国とくらべても、比較にならない程よかった。それが、日本が世界の強国になった理由である。
 嘉六が『殖民史』を書くにあたって、まず、「イギリス、フランス、アメリカ、ソ連の四大強国だけで、地球の総面積の五割三分、総人口の四割三分を占め、他の強国日本、ドイツ、イタリーの三国は合計で総面積の三分、総人口の一割強をしめている。この事実のしめす意義はすこぶる重大で、世界の国際関係はこれにもとづいている。地球上に幾十の国家があるが、この七大強国がつくる国際関係に支配されて一喜一憂している。しかも、この七大強国は持てる国と持たざる国に分かれて対立抗争し、世界各国はその抗争にまきこまれて単に存在しているにすぎない」といっている。
 限られた地球の面積を相手に、資本主義的、帝国主義的発展をはかろうと考えれば、相互に領土の拡張、商品の販売先を求めて戦うしかない。軍事力は常にそれらを得るための武器でしかない。資本主義的世界における強国とか列強といっても所詮他国の侵略国であり、文明、文化に反する野蛮国でしかない。それを今日も進んだ国と言うのである。西郷隆盛の言葉をまつまでもなく、世界中の人々が狂っていたのである。勿論経済的に豊かになり、すべての人間が人間らしく暮らせるようになることは至上命令であるにしても、自分達が人間らしく生活できるために、他国民を苦しめるということは全くおかしいのである。
 このことを前提において、日本の殖民史を考えなくてならない。即ち殖民史といわず、人間最大の犯罪史、罪悪史であるということである。資本主義的世界において強国というのは殖民地を沢山もっていることであり、更に殖民地をふやせるような武力を持っている国ということである。いいかえれば、今日の世界の強国だといわれることはいかにして他国を侵略し、殖民地をふやしたかということであり、世界の強国だといわれることは不名誉なことであっても決して名誉なことではない。それなのに、相変わらず強国の首相、外相、蔵相はいばっていて、それを他国人も不思議に思わないのである。全く世界中が狂っているというしかない。
 日本が台湾という殖民地を得たのは、日清戦争後のことであるし、樺太という殖民地を得たのは日露戦争の勝利の結果である。ともに土地もせまく、人口も少ないところであったが、日本に隣接或いは近接した所なので、政治的、経済的、軍事的にみたとき非常に重要な一環となったことは先述した通りである。
 台湾について述べると、殖民地になった当時は大変未開の土地で、それまでの台湾は西洋諸国の殖民地のような有様であったが、当時西洋諸国が自国の問題をかかえていた時であったので、どの国も進んで台湾を殖民地にするような卓越した力を発揮できなかった。そのために、清朝に領有されたまま、細々と存在していたというのが事実であった。一説にはイギリスに譲与しようとしたが、これをことわったと言われるほどの未開の国であった。そのために、日本は台湾を殖民地にしたものの、相当の金をその開発に投入しなければならなかった。
 しかし、そのおかげで、製糖産業は幾多の紆余曲折を辿りながらもどんどん発展し、製糖資本は昭和の初めには台湾全体の蓄積資本の半分をしめる所迄発達したのである。米の生産も次々にあがったことはいうまでもない。一時は日本内地の農業を圧迫するまでに発展した。
 特に政府の専売事業として、阿片、食塩、樟脳、煙草、酒の生産は年々増加し、日本産業の発展の上に、台湾のしめた位置はみのがせない。
 ついで、朝鮮が殖民地として日本の領有になったのは明治四十三年(1910)八月のことであった。勝海舟が日本、朝鮮、支那(中国)の三国の対等合併、幸徳秋水が希望した朝鮮の自立の夢は敗れて、ついに日本の殖民地になってしまったのである。
 殖民地となった朝鮮の開発のために日本は、台湾と同じように多額の開発費をそそぎこんだが、まもなくそれに数倍する利益をあげることができるようになっただけでなく、政治的にも経済的にも軍事的にも朝鮮は日本にとって重要な位置を占めるようになった。とくに支那事変の勃発とその長期化により、朝鮮が大陸の兵站基地として占める位置は一段と重要になっていった。
 ことに、工業の発展はめざましく、昭和六年から昭和十三年のわずかの間に四倍半にのびているのである。とくに鉱産物の増加には著しいものがあった。しかも、その工業の中で軍需産業としての金属工業ののび方は特別で、昭和六年から昭和十三年の七年間に生産高はなんと十四倍にものびているのである。化学工業は八倍ものび、いかに朝鮮が日本にとって重要であるかということをしめしている。
 嘉六が資本主義世界の強国とはいかに殖民地を領有するかということを朝鮮と日本の関係が如実にしめしている。とくに資源の乏しい日本にとって、朝鮮の産出する金、鉄、石炭、明礬石、マグネサイト、タングステン鉱、黒鉛、重晶石、蛍石等は非常に重要であった。それというのも、明礬石、マグネサイト、タングステン鉱、黒鉛、重晶石、蛍石等が殆ど日本国内に産出しない物であり、いよいよ朝鮮の占める位置が高まった。まさに、殖民地朝鮮の位置は日本にとり決定的となり、日本を世界的強国にするためにはなくてならない土地であった。しかも朝鮮民衆の生活は日本人の生活に比して極度に低いところに抑えられていたのである。煙草、酒、人参、塩、阿片等の専売品がとくに増えたことはいうまでもない。これらの品物が大衆消費材であったことはいうまでもないことだし、台湾とともに大いに日本政府をうるおしたのである。
 土地所有にしても、年々内地人は増加しているのに対し、大土地所有の朝鮮人の数は減っている。いかに朝鮮そのものが内地人に従属していたかというしるしである。
 最後に、満州国について述べると、はじめこそ、五族協和をいい、王道建設を目的とし、日本の財閥をしめだした国づくりを始めたが、所詮は日本の帝国主義の一環におしこめられ、殖民地の位置を脱することはできなかった。とくに、支那事変の勃発とともに、満州国は日本の帝国主義の中に組みこまれ、財閥そのものもどんどん進出し、完全に日本の帝国主義の一翼をになう「偽もの」になってしまうのである。
 たしかに、満州国の自治指導部であった満州帝国協和会は「満州国の政治は民主主義的政治の顰に倣わず、専制政治の弊におちいらず、民族協和し正しき民意を反映せる官民一途の独創的王道政治を実現す」と宣言したが、満州国が日本の殖民地である限り、そのような理想も所詮、絵に画いた餅にすぎなかった。満州国がその理想に生きんとすれば、日本より独立する以外になかった。その意味では、満州帝国協和会は日本の帝国主義を甘くみていた。だから嘉六は「満州国協和会が単なる量的、形式的発展でなく、真の国民的組織として発展する」ことを求めたのである。それの出来なかった以上、日本の殖民地になる以外なかったのである。

 

        <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

 ヘ、世界は一つ

 アメリカがイギリスより独立したのはイギリスの重商主義というか、前期的資本主義の重圧にたえかねた結果である。しかし、そのアメリカも次第に資本主義的政策をとり、嘉六の生きていた頃には、イギリスとならぶ代表的資本主義国家に成長していた。はじめこそ、比較的、自由な国家として出発し、国民の自由を侵害する政府が出現したときは、その政府を仆してもよいという国家であったが、資本主義的国家として成長する過程で、国内の黒人を人間扱いしないばかりか、多くの人種を黒人に準ずるように平気で扱う侵略主義の国家になりさがってしまったのである。
 このような侵略的な資本主義、帝国主義の固定した状態に対して、日本,ドイツ、イタリーは持たざる国として殖民地の再分割を求めて戦ったのが第二次世界大戦である。かれらはいずれも資本主義のゆきずまりを感じ、その解決を国家社会主義に求めた国々であったが、所詮は資本主義の修正を求めたものにすぎなかった。
 日本自身のつくった満州国も資本主義に反対し、東洋の伝統である王道の実現を求めて出発したものであったが、最後には日本の資本主義、帝国主義にまきこまれ、日本と運命をともにし、消えてなくなるしかなかった。
 資本主義的世界は人々の考えるよりもずっと強固である。唯帝政ロシアから、革命を通してソビエト・ロシアに衣がえした、世界で唯一つの共産主義国家は平和と自由と平等を目標とする国家であり、資本主義国家とは全く異質のものであった。その共産主義国家は資本主義諸国間の対立、抗争のおかげで着々と国内建設にとりくみ、先述したように、イギリス、フランス、アメリカにならぶ世界的強国にのしあがったのである。
 その軍事力もついに世界有数のものとなったが、それはあくまで共産主義の国をまもる必要悪にすぎないものであるが、いつか徐々にその軍事力が国家エゴイズムに奉仕するものになっていく傾向をもっていた。
 そのことを最も如実にしめしているのが、嘉六のいう、次のような事実である。「欧米列強の対日共同戦線の主役を演ずるものは帝国主義の英、米と共産主義のソ連邦である。社会の組織および原則において、英、米とソ連邦とは全く対蹠的立場にあるにかかわらず、世界の現状を維持する点において一致している。ソ連邦は自国内の社会主義建設のために現状を必要とし、日本の対支進出はやがて転じて極東ロシア従って全ロシアに対する脅威となるべきことを予想しその進出を抑制せんとしている」という言葉こそ、ソ連邦の国家エゴイズムを感じさせるものである。
 日本、ドイツ、イタリー三国の攻撃は英、米、仏、三国を中心とした強固な資本主義体制へのゆさぶりである。たとえ、資本主義国家といっても、資本主義の修正をはかり、国家社会主義に血路をひらこうとしている国々であり、特に日本はほんものでなかったにせよ、王道を目標とした満州国を実験的に建設しようとした国である。要はこの資本主義体制、侵略主義体制をまがりなりにもくつがえそうとしたのである。それなのにソ連は、英、米、仏と組んで、日本,ドイツ、イタリーを亡ぼし、いよいよ資本主義体制、帝国主義体制を強めることに力を貸す結果になったのである。
 たしかに、ソビエトの社会主義的力をまもることは必要であろう。しかし、英、米、仏を仆した後に、日本,ドイツ、イタリーのいんちきぶりを攻撃し仆せばよいのである。それとも、今日本、ドイツ、イタリーを仆しておかないと仆せないと思ったのであろうか。
 ソ連政府が大事なのでなく、大事なのはソ連民衆であり、各国民衆である。ソ連政府の要人達は民衆が次第に聡明になり、強力になり、自分達の世界を自分達自身の力でやがてつくるようになることを信じなかったのであろうか。強国としての帝国主義諸国にいためつけられている国々にとって、ソ連邦の出現がどんなに力となり、支えになっているかをソ連政府の要人達は如何に考えていたのであろうか。嘉六のなくなった後のソ連邦は国家エゴイズムのとりことなっているのではないかと思わせるような事件が多い。そうなると、彼が英、米、仏とならんで、ソ連邦を世界の強国としたのがいよいよわかってくる。決して世界の強国の一つになってはいけないのがソ連邦ということになる。
 敗者の論理をつらぬく所に、ソ連邦の存在意義がある。かつて、嘉六は孫文の「圧迫をうけているアジアの民族がいかにせば欧州の強盛民族に対抗しえられるかということは簡単にいえば被圧迫民族のためにその不平等を撤廃しようとすることであります。被圧迫民族はアジアに居るばかりでなく欧州にもいるのであります。覇道を行う国はただに他州と外国を圧迫するのみならず、自州および自国内の民族を目標にしているのであります」という言葉をひいて、被圧迫民族や抑圧されている人々が連合してたちあがることを求めている。敗者の論理とは昔から諺に「敗けるが勝」ということもあるように、自由と平等と自足と調和をもとにして全ての人間が充足を程々に感じとって生きることである。他者を対立物として征服しつくすまではやめないというところには抗争なり、征服しかない。これは誠に徹底した生き方であり、考えようによってはすばらしいともいさぎよいともいえるが、決して地球上に平和をもたらす道ではない。
 常に、人間と自然の関係を対立物とみ、自然を征服してやまないという所から科学そのものが輝かしく発展してきたのであるが、今日は逆に自然から攻撃をうけているのである。人間と社会と自然との調和的発展を志向する時代になってきたし、そこにしか人間と社会と自然の共存はないのである。
 資本主義の論理というものも、対立物を徹底的に蚕食するという所から生まれたもので、侵略主義はその帰結であった。生産力を限りなく追求し発展させようとすれば侵略しかない。
 共産主義は資本主義の一つの解決として生まれたものだが、生産力を限りなく高めて、分配の平等をはかったとしても、人間、社会、自然の調和は生まれないし、自足と平和の生活は生まれない。まして嘉六の心配したように、共産主義革命をなしとげたソ連邦のように、国家エゴイズムを克服しない限り、新たなる戦争はおこる。ことに社会主義をまもるという至上命令のもとに軍拡競争にしのぎをけずっている限り、平和の到来はない。
 私自身敗者の論理といったが、敗者の論理でなくても、他の論理が生まれ、地球上をおおわない限り、地球上の戦争はなくならない。世界の共産主義革命は戦争を絶滅させるのではないかと思わせた信仰は崩れつつある。崩れつつあることを承知して、帝国主義的戦争には終止符をうちたいと考えたのが嘉六である。
 私達はここでもう一度、美と宗教によって人間の霊性をめざめさせようとした岡倉天心の夢を思いおこすしかないように思う。人間の獣性をなんとかしようとした幸徳秋水を思いおこさずにはいられない。共産主義革命で人間の獣性が何とかなると考える程に、秋水は単純な人間ではなかった。

 

       <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

6 明日のアジア

 

 イ、吉田松陰の平和論

 吉田松陰といえば明治維新の原動力の一つになった人物であり、西洋諸国のアジア進出に対し、いかに対処すべきかを全身で考えた人物であった。彼がそれに対してどのように考え決意したかを次に述べてみたい。
 松陰は資本主義、帝国主義国家としての西洋諸国が日本に攻めてきた場合を「孟子」に托して、小国日本の生きる道を平和国家、道義国家に求め、次のように書いている。
「軍備がなくても仁政があれば大丈夫である。仁政の国を攻めてくるような国の支配者はその国に仁政をしいていないから国内は必ず動揺する」「上陸してきても敵を少しも防ぐことはない。兵は農民、漁民の中に雑居せしめ、一見武備はないようにみせ人々には思い思いに降伏させて生命を完うさせる。ただ非常に乱暴する者がある時はとらえて牢にいれ、敵将に諭させる。無茶を要求するときは断乎としてそれを排除し警告する。侵略者たちも武備もないのに志が強いのをみればきっと反省しよう」「その間つとめてその国の忠臣、義士を刺激して彼等にその国を正させるように働きかける。そうすれば最後には必ず正道がとおるであろう」(講孟余話)。
 松陰の言うところは全く断乎としており、細川嘉六の考えた数十年前に、これだけのことをいっているのである。これこそ明治維新の理想であり、西洋諸国をまねて、帝国主義、侵略主義を否定する歩みである。彼は表面的、一時的勝利の道でなく、永遠に絶対に勝利する道、敗者の論理をとろうとしたのである。それも単に敗者の論理でなく、王道、大道を実現することによって、すべての人間が人間の道を歩んで幸福になる道を求めたのである。これほど堂々とした意見はない。後の西郷隆盛の思想も岡倉天心の思想も細川嘉六の思想も、その源流はここに発している。明治維新をつくりだした思想は全く立派である。世界の歩みというか、侵略の歴史を変えようとしたのである。
 維新後の日本は西洋諸国の学ぶべき点を学んだばかりか、その最も悪い所まで学び、自分のもっていたすばらしい思想を捨ててアジアの侵略者になってしまったのである。細川嘉六をはじめとして、多くの者が明治維新の理想を今一度日本のものとせよと度々強調したのも当然である。
 勿論、松陰としても敗者の論理をつらぬき、王道、大道をまもりぬくということが容易なことでなく大変なものであることを骨身にしみるほどに感じていた。それ故に「この策は大決断、大堅忍の人でなければ決してやりとげることはできない。もしはじめに少しばかり、これをやろうとしても途中でまた戦いに応ずるときは、その害はいいあらわせない程に大きい」とつけ加えることを忘れないのである。
 松下村塾で育てたいと思ったのも、これをやりぬくことができるような人物であったに違いない。松陰はこのように、初め侵略者として出発しながら、刑死前にはこのように変わっていたのである。
 吉田松陰がどうして、此のように変わったかというと、彼の鋭い現実認識が世界各国の現実を直視し、初めは侵略を防ぐには自ら侵略者となり、武力国家になるしかないと考えたが、そういう状態では永遠に戦争がなくならないと認識したためであった。彼の眼に映じたのは「英国が清を攻めたとき、清からアメリカに援助を求めたが、アメリカは我が国としては戦争をしたくないといって清の援助をことわりながら、その翌年になると英国と一緒になって清を攻める」(松島剛蔵あての手紙)という事実とか、「アメリカはイギリス、オランダと違って東方に領地を欲しないといっているが、それは力がないためであって、イスパニア、オランダ、イギリスのように土地を欲する。力のないために仁義の言をはくのはいつわりである」(野村和作あての手紙)という現実認識である。西洋諸国のこのような在り方に対して、松陰はがまんできなかったのである。それまでの彼は日本も西洋諸国を見習えばよいと思っていたが、彼はがく然として東洋の伝統である王道にめざめたのである。
 だからとて、西洋諸国のすべてを捨てようとはしない。学ぶべきところは大いに学ぼうとしたのである。例えば「貧院、施薬院、託児所、聾唖院とあらゆる施設を設けて、どんな人達にも最低の生活と治療を保障しようとしていることにはひどく感動している。それに比べて日本が「国の宝である筈の農民を犬馬や土芥のように扱っている」(獄舎問答)ことには強い怒りをいだくのである。
 ことに「捨て子や乞食がいたるところにいるし、病気をしても貧しいために治療すらできない者が一杯いる」(松島剛蔵あての手紙)といって其の不満をのべている。このような社会をどうするか、所謂仁政の国に日本をするのに、何をなせばよいかと考えることが松陰の毎日の課題となったのである。
 そうして生まれたのが松陰の幕府批判である。これについても彼ははじめ、「西洋諸国が日本をねらっている時、国内で相争うときではない」(獄舎問答)といっていたのが、ついに「今幕府をうたずんば後生の人はなんといおう」(大義を議す)というまでに変わるのである。
 それというのも、この非常の時、最もすぐれた者が日本の指導者となるべきはずなのに坐っていることもむつかしい者が将軍であったり、二十二歳の青年を抑えて、わずか十三歳の少年を将軍にするという老中達の無定見が松陰を怒らせたのである。彼は野村和作あてに「今日の日本の状況は古今の歴史にないほどにわるい。なぜかといえば、アメリカが幕府の自由を抑え、幕府は天朝と諸侯の自由を抑え、諸侯は国中の志士の自由を抑えている。それというのも、全国よりえらばれたアメリカの大統領の方が世襲的な将軍よりも智があるし、その使者は老中の堀田や間部よりも才があるからである。このままでは乱世もなしに直に亡国になるしかない。今大切なのは日本を乱世にすることである。乱世になればなんとかうつ手もでてくる」と書きおくるまでに変わってきたのである。
 所謂一部の人々が天朝、天朝とかつぎまわっていることにも松陰らしい批判がでてくる。即ち小田村伊之助あての手紙に「天朝もおそれ多きながら公卿間俗論多く、貧濁の風もやまず、正論もたたない」といいきるまでになる。
 ここから出てくるのは、「天朝も我が藩もいらぬ。只六尺の我が身体が必要」(野村和作あての手紙)という松陰の思想である。彼はついに草莽蹶起という考えに到達し、それにふみきる地点に到達するのである。草莽蹶起とは何者もたよらず、己自身によって生きようとする人達のことであり、文字通り、自我にめざめた人達のことである。あの当時に個我にめざめたことは特筆すべきことである。
 松陰が「所謂世人のいう尊爵は真の尊爵ではない。真の尊爵は人々の固有するところのもの。何を好んで人の役となることがあろう」(講孟余話)といったときのことを思うと、彼が何を考えて、尊爵といったかは想像できよう。「人はすべて徳をそなえている。尊重といわねばならない」(講孟余話)という言葉とともに彼の考えているところはわかろうというものである。
 松陰はすべての人間の尊爵を実現しようとした。西洋諸国の帝国主義、侵略主義のなくなった所に、すべての人間の平和と自足を実現しようとした。こんな人間も明治維新前後にはいたのである。明治維新を偉大なりという人間がでてくるのもむりはない。

 

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 ロ、「近代の超克」の意味 

 昭和十八年(1943)、河上徹太郎を司会者として『文学界』誌上で行われた座談会は日本の近代化を超克する意味をふくめて、世界の近代化の超克を意図した座談会として、それなりに意欲的なものを志していた。出席者は亀井勝一郎をはじめとして、西谷啓治、諸井三郎、林房雄、下村寅太郎、津村秀夫、吉満義彦、三好達治、菊池正士、中村光夫、小林秀雄という、文字通り各界の代表的人間を集めて行われた。
 その後まもなく、同名の単行本もそれぞれの小論をのせて発行され、それなりの売行きを示した画期的な書物であった。ただ、太平洋戦争をきっかけとして、戦争によって西洋の諸文化を超克しようと考えた所に、大いにひっかかるものを感じたとしても、それなりに、西洋文化がゆきづまりにきていたと感じている人々は相当にいたから時宜にあった座談会であった。
 後述する『西洋の没落』とともに、『近代の超克』とはまさに西洋文明そのものの挽歌を奏でた本といえる。『西洋の没落』に比し『近代の超克』が果たしてどこまで、西洋の没落を確実に言いあてていたかは疑問として、西洋にゆきづまりの訪れたことは確実にいいえていた。唯これらの発言によって、西洋の近代が容易に超克されるかどうかは疑問としても、西洋の文化に行きづまりがきていることだけはたしかであった。
 だが残念にも、日本が太平洋戦争に敗北することによって、この試みは御破算となり、西洋文化そのものは今迄の軌道を走りつづけることになった。しかし、西洋文明そのものに対する鋭い批判は事ある毎に生きており、西洋文明そのものを常に修正しながら今日にきている。要するに、西洋の近代文明、それに追随している日本文明も破滅にひんしている。かつてあれほど、西洋の近代文明の超克に意欲的であった人々もその多くは挫折して、西洋文明に追随しているのが、今日の日本の有様である。
 かつて、日本、ドイツ、イタリーの三国がその全存在を賭して、近代文明そのものに挑戦したが、三国ともに似而非的なものをもっていたために敗れ去ったが、三国の意図したものは的を射たものであった。今日共産主義的国家がそれなりの方法で近代文明に挑戦しているが、その多くは西洋文明そのものにまきこまれて、必ずしも西洋文明を克服する方向にいっていない。
 では「近代の超克」の名の下に何を克服し、どのような誤りを正さんとしたのであろうか。それを一言でいうと次のようになろう。出席した人々はともに異なった言葉で語っているが、私には一つのことのように思えてならない。では出席者はどのように語っているのであろうか。
 亀井勝一郎はそのことを「全人間の喪失であり、専門家になることによって、ある普遍者を見失って、不具者となった」と語り、吉満義彦は「失った統一的普遍的原理をどう再現するか」と語り、下村寅太郎は「知性改善論こそ今日の課題だ」と語り、西谷啓治は「主体的無の宗教に基きつつ、個人と国家を一貫する道徳的エネルギーの確立について」語り、三好達治は「日本主義も日本精神もこれからの私達が発見し創造し完成すべきもので、本来は未来の追求にかかっているある何ものかである」と語り、中村光夫は「科学は人間精神の一機能で、知性により自然を認識する一方法、芸術とは別々のものでない」と語っている。要するに、私に言わせると、人間の知性が分裂し、人間そのものが自然と社会に使われている存在になっているということである。いいかえれば、人間の失われている主体的、能動的、統一的知性を人間そのものの知性として回復すればよいということになるように思えてならない。
 勿論そのことは容易でないし、大変な作業である。だが全ての人間のことを考えないで征服のみを考えるのも、或いは物や金に使われるのも全て其のためである。要するに今日の人間は世界全体をみることができなくなっているばかりでなく、狭い対象のみのとりこになっているのである。人間が人間として生きているのでなく、あまりに狭小な世界に生きているのである。
 あまりにも細分化し、狭小化しているために人間ではなくなってきたのである。下村寅太郎が「所謂科学と宗教の衝突といわれたものは今日からみれば宗教のある一つのドグマと科学のある一つの理論との対立で、それはいわば一つの哲学と哲学、或いは科学と科学との衝突で必ずしも本当の意味での宗教と科学の衝突ではない。宗教と衝突するような科学は実は科学でなくて形而上学や哲学であり、又科学と衝突するような宗教は実の宗教ではなくて、何と云いますか科学の性格をもった宗教にすぎない。つまり純粋の宗教ではない」といったが、下村のいうように、今日争っているのは宗教と科学のみでなく、真の宗教と偽の宗教との対立である。
 人間の霊性のために存在している宗教が逆に人間の霊性を抑圧しているのである。その意味でも宗教そのものの改革が必要になっている。科学そのものを支配できる宗教のみでなく、各宗教を統一できる宗教を創造しなければならない。天心のいう意味の宗教、ヴィヴェカーナンダのいう宗教を創造しなくてならない。共産主義でいうところの宗教とは真のあるべき宗教からは程遠い。人間性を解放するための宗教が今では逆に人間性を抑圧するものになっている。宗教と科学のあるべき関係を確立するのが今後の課題である。
 更に亀井勝一郎をはじめとして、各人のいうところの方向に、今日の西洋的知性を改善しなくてならない。今のままの西洋的知性がある限り、地球上に戦争はなくならないし、斗争は絶えない。
 中村光夫の言ったように「出来あいの知識をむやみと詰めこまれれば、僕等の頭脳はそれだけで自分でものを考える能力を喪わざるを得ない。物知りの博学者が得てして貧弱な思想家にすぎぬのは個人の実例としては何時の時代また何処の国にも無数に見出されるところであろう」といったことは何も今日のことに限られたことでなく、人間の本当の頭脳をとどめていることでもある。
 それと並んで、「近代は全く外面的機械的文明に堕している」下村寅太郎は指摘しているが、近代の人間は生命そのものを見失い、単に物としての生命が尊ばれるだけで、本当の意味での生命活動はなくなっている。それが人間尊重が強調される程には、人間そのものが尊重されない理由でもある。
 小林秀雄が「どういう時代でも時代の一流の人物は皆その時代を超克しようとする所に生き甲斐を見出している」といっているが、一流の人物だけでなくても全ての人間がこれを求めるようになったとき、はじめて人間の時代になったということができるのである。それを求めて生きはじめたところに、今日の新しさがあるのである。東洋の伝統である「美と宗教」が本当に生きはじめた時代となる。その意味では世界は変わろうとしている。

 

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 ハ、「西欧の没落」に思う

 オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』は1918年の第一次大戦後に出版された。『西洋の没落』で彼がいおうとしたものは、今日輝かしく発展しているかのように見える西洋の文化、永遠であるかのように見える西洋の文化はいずれ没落する時があるという警告である。
 ヒットラーはオスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』をナチズムの宣伝に利用し、現代の英、米、仏を中心とした西欧的世界がゆきづまりにきていることの証明に使おうとしたが、オスヴァルト・シュペングラーはナチズムも没落する運命にあるものとして見ていたし、それ故にヒトラーとも鋭く対立していた。そのために、ナチズムの圧迫をうけた程である。
 要するに、『西洋の没落』は第一次大戦後に非常に歓迎を受けたが、第二次大戦後にはさらに歓迎をうけることになった本である。それというのも、オスヴァルト・シュペングラーの思いきった提案が人々の心をとらえたためであろう。
 私はこういう考え方をする人物が西洋にあらわれたことを喜ぶ。それはペシミズムとも異なるが、不遜にも生きつづけている西洋人の傲慢にも腹立たしいものを感ずるからである。彼の言うように、西洋は没落するかもしれない。しかし反対にその対策を十二分にたてることによって、没落の可能性をのりこえるかもしれない。いずれにしても、今のままではどうにもならないからである。
 今しばらく、オスヴァルト・シュペングラーの言葉によって、そのいわんとする所をみてみよう。オスヴァルト・シュペングラーにいわせると、此の地球上には永遠絶対なものはないというのである。彼はそれをいろいろの角度から証明してみせる。だが絶対永遠になる道もある。それをあきらかにしようとするのが本書の目的でもあるというのである。
 そのために、オスヴァルト・シュペングラーは「一般的真理があるということを証拠だてることも出来るが同時にそれが一般的な自己欺瞞をも証拠だてることができる」とまえおきして、疑う余地は残っているということから書きはじめる。それは彼が定説となっているもの、定説といわれているものに対する挑戦をしようとする時、彼がとらなくてならなかった立場であろう。
 これだけのことをまえおきにして、オスヴァルト・シュペングラーは書いていく。彼にとって文化というものは、「表面の上にその壮大な油紋を描くものであり、それはいきなり表れ、壮麗な線をつくって広がり、磨きあげられ、消え失せる。そうして波の鏡は元の通り寂しくねむるのである。いいかえれば、一文化の生まれるのは大きな魂がいつまでも子供のような人間態の始原的状態から目覚め、無形態のものから形態として分離し、無限界で不変なものから限定的で経過的なものとして分離する瞬間である。文化は正確に区切られた地上の土の上に咲き、そうして植物のようにこれに結びつけられている。文化の死ぬのはこの魂がその可能性の全てを民族、言語、教説、芸術、国家、科学の形で実現した後、またもや始原的な精神態に帰る」ものであるというのである。
 それをオスヴァルト・シュペングラーは更に次のようにもいうのである。「文化の生きている現存とは前進的な完全を厳密な輪郭で描いているところの大きな紀元の系列であって、それは外に向かっては混沌の諸力に対し、内に向かっては自ら不平を言いながら引込む無意識なものに対して理念を主張する深い内的な熱情的な戦いである」と。
 しかし、所詮文化とはそれだけのものだとオスヴァルト・シュペングラーはいうのである。そのあとには、没落があるだけだというのである。われわれの没落もこのようにして始まるし、既にその徴候が我々の中に、周囲に発見できるというのである。
 しかも、現代西洋の人々には独断的見方があって、「ある古代から一つの中世を通って己に近づいてくるものだけを自分達の歴史の中にいれて、他の道を進むものはろくに見ようとしないのである。中国、インドの世界については全く排除している。……中国、インドについては誤解が多い」というのである。
 ヨーロッパを中心においた歴史しかみないところに、西洋学者の救いがたい誤りがあるというのである。例えばローマ法が人間に永久に妥当する根本概念の起源であるかの如くに思わせたのである。
 「ローマ帝国は最も完全な平和を享有していた。富んでいた。よく開化していた。たくみに組織せられていた。ネルワからマルクス、アウレリアヌスまで、他のどんな文明の君主も示しえない支配者の一系列を有していた。」それなのに没落したのである。没落する以外になかったのである。
 都市にしても、原始的市場から文化都市に、最後に世界都市に発展するが、創造者の血と魂とをその発展に供したまま、最後には絶滅する以外にないのである。
 また、ゲルマン族は勢いにまかせて、多くの国を席捲したが、単に形式の上層を破壊したにとどまり、下層はどうすることもできなかった。下層民衆はそのまま生きていたのである。 
 オスヴァルト・シュペングラーはその他民族の例をひきながら、すべての事はその上層部に生きる人達によって上層はいろいろと変えられたが、下層はそのままだというのである。それを説明する彼の言葉は全くしつこい。しかし全く彼の言葉の通りである。
 それらのことも今一度、オスヴァルト・シュペングラーの言葉をかりていうと、「近代のヨーロッパはどこにいっても、憲法、デモクラシーという概念で他国の運命をみている。そのくせ、そんな観念を異なる文化に適用しようとしたって、全く笑うべき事で、無意味なことであるが、それが分からないのだ」ということになる。
 こうなると、西洋文化で世界を統一しようとすることはとっても無駄な努力に見える。それでいて、彼等は躍起となっているのである。
 そこから、オスヴァルト・シュペングラーの言わんとすることが次第に明らかになってくる。即ち「文明とは真の自然に回帰することであり、これまでの歴史といわれたものは全く皮相の歴史であり、支離滅裂の歴史ということになる」。
 そして、これらを発見させてくれるのは文明であるが、この文明が大衆を登場させるというのである。勿論そのときの大衆とは、貴族とか資本家に対立するものとしての大衆ではなくて、それはあらゆる形式を拒否し、絶対に無形態のものであり、あらゆる秩序から超越したものである。オスヴァルト・シュペングラーによると世界都市の新遊牧民態ということになる。終末であって終末でないところのものである。彼にいわせると根本的な無ということになる。
 こういう考えの上に立ったオスヴァルト・シュペングラーは、「歴史的現実においては理想はなく、唯事実があるだけである」と結論する。デモクラシーもいいようにみえるが所詮は誰の金であろうと、金の奴隷になることによってまげられていくというのが彼の見解である。デモクラシーも所詮空文句を出ないというのが彼の見解である。デモクラシーの虚偽性については第二次大戦後いやというほどに思いしらされた。オスヴァルト・シュペングラーが見直されるのも当然である。

 

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 ニ、『インドの発見』について

 ネルーの『インドの発見』は彼がアフマッドナガルの監獄の中で、1944年の四月から九月にかけて執筆したものである。数多くの同志の助言のもとにできあがった本書は其の意味では彼一人の著作というよりもインド独立のために戦い死んだ人達の共著といっても過言ではあるまい。英国支配をはねのけようとどこまでも戦いぬいた人達の共著というだけでも貴重な書物であるが、彼等が此の本から幾多の希望とありあまる勇気と、未来にたいする覚悟を学びとったということで、本当に貴重な書物である。本書が人類の未来を予言した書物であるといっても過言ではあるまい。それが誇張でないことを以下に記していきたい。
 ネルーはまずアフマッドナガルの監獄の事から筆を起こし、インドそのものの発見について述べる。かつてのインドが如何に偉大であったかについて、インドの宗教から説き始める。しかしその時のネルーの言葉「インドで宗教をさす包括的な言葉は“アールヤ・ダルマ”であった。ダルマは事実上、宗教より広い意義をもっている。それは“保持する”という意義の語源からでた言葉で、物の最奥の構成、内在するものの理法を意味する。それは倫理的な概念であって道徳律、正しい行為、人間の義務や責任の全範囲を包括している。“アールヤ・ダルマ”はインドで発生したすべての信仰をふくみうる」は、普通一般の人々が宗教とよび、科学と対立しているような宗教ではない。彼のいう宗教とは天心の使用した意味での宗教であり、すべてを包含し、すべてを統一するものであった。すべてのものの根源であり、原点になり、しかも結論となるものであった。これを理解できない人々にはインドの宗教を理解できない。文化は理解できない。西欧的知性を絶対とするものには所詮無縁なものである。
 ネルーはこうまえおきして、「インドにおける哲学の仕事が少数の哲学者または知識人をもって任ずるものだけに限られなかったことは記憶さるべきで、哲学は大衆の宗教の本質的な一部であった。それはある希薄化した形で人々に浸透した哲学的人生観であった。その哲学はあらゆる現象の原因及び法則を知ろうとする、深いこみいった企てであり、人生の究極的目的の探求であり、また人生の多くの矛盾の中に有機的統一を見出そうとする企てであった」と述べている。
 仏陀のことを、ネルーは「彼が訴えるところは論理、理性および経験であった。彼の強調するところは道徳であり、彼の方法は心理分析のそれであり、霊魂を認めぬ心理学であった」といい、「彼の宣示は形而上学的な微妙な事に沈潜した人たちに古くして而も極めて新しく且独創的であったから知識人の想像力を魅了した。それは民衆の心の中に深く入りこんだ。一切の国々に赴けと仏陀は弟子たちに告げた。そしてこの福音をとき、まずしきもの、いやしきものも、富めるものも、位高きものもすべて一なることを、諸々の河の海に注ぎいる如くすべてのカーストはこの教えの中に統合せらるることを人々に告げよ。彼の宣示は普遍的な慈愛、あらゆる者に対する愛のそれであった。何故ならこの世において憎悪は憎悪によって終熄しない。憎悪は愛によって終熄するからである。そして愛情により忿怒を克服せよ。善により悪を克服せよ。それは正道と自制との理想であった。戦いにおいて一人が千人に打かつこともある。しかし自己に打かつ者こそ最も偉大な勝利者である。生まれによるのでなくその行いによってのみ、人は卑賎のカーストともなり、バラモンともなる」ともいうのである。
 こういうすぐれた人生哲学、それも万人のための人生哲学を生み、仏陀のような勝れた人物を生んだのがインドであるとネルーはいうのである。更に、インドは常に思索と思索する人を尊敬し、剣をとる人或いは金を持つ人を彼らよりもすぐれていると考えることを拒否したともいうのである。文字通り、文明国、文化国であったということができる。
 しかし、西洋諸国がのりこみ、分割政策によって、インドをはじめとする諸国を支配し始めた時、インドはその状態をがらりと変え始めたのである。常に宗教と人生の哲学を求め、人生を楽しみ、自然の驚くべき美しさと無限の変化とを求めていたのが変わったのである。進歩を目的とせず、むしろ進歩を阻害し、唯安定と存続を求めていたものが、人間と自然と宇宙の本質的調和の中に生きていたものがなくなったのである。
 イギリスは徹底的にインドを搾取した。「その支配は公然たる掠奪と生きている耕作者ばかりでなく死んでしまった耕作者からさえ、最後の一銭までしぼりあげた地税制度から発足した」とネルーが書くように、徹底していた。「もっとも長くイギリスの支配下におかれていた地方が今日もっとも貧困である」と彼はいう。彼のいうように、交易とは掠奪のことであり、それは何世代にもわたってつづけられたのである。その為に何千万の人が死んだとネルーは書いている。
 イギリスの誇る資本主義もまたその進歩もすべてインドの犠牲の上につくられたものである。人道主義というものがあったとしてもそれはイギリス人におよぶものでしかなかったのである。イギリスが長い間誇ってきた栄光というものも、それはインドのぎせいの上に打ち立てられたものである。自由も博愛も全く偽善でしかなかった。
 それを日本は一貫して、明治維新以後何の疑いもなく、今日までまねていたのである。だからこそ、ネルーは「第二次大戦は西欧諸国が変革というか、人類の真の進歩のためでなく、古い秩序を永久化するために戦っているものにすぎない」といっている。
 文字通り、ネルーは日、独、伊にくみすべきか、英、米、仏にくみすべきかに迷ったのである。日、独、伊の主張に共鳴するものを感じながら、民主主義の一点で、英、米、仏にくみしたのである。民主主義の発達ということが、インドの伝統により近いものであり、今後の世界が歩むべき道と考えたからに外ならない。
 ネルーはいち早く米、英、仏の唱える民主主義も真の民主主義をゆがめるものとして、今日作用していることを十二分に知りすぎていた。日、独、伊は今の世界体制をうちやぶることに熱心なあまり、民主主義の初歩すら歩んでいなかった。これが、米、英、仏に加担した理由である。
 それでも、ネルーは此の大戦中の殆どを獄中にすごしていた。やはり彼は英国にとって最高の危険人物であったのである。彼が本書の中で「インドでは利潤追求が西洋におけるほど讃美されていない。金持ちはうらやましがられはするだろうが、特に尊敬されたり、讃美されたりはしない。尊敬や讃美の的となるのはやはり善良で聡明とみなされている男女であり、とくに自己あるいは自己の持ち物を公共の福祉のためにぎせいにする人々である。インド人の見解は大衆においてすらいまだかつて物欲的な精神を是認したことはないのである」と強調したことは、西洋の考え方に変わって東洋の考え方が世界中の人々の心をつかむようになることを言ったものである。その意味でも『インドの発見』はもっともっと世界中の人々から読まれる必要がある。
 もう一度くりかえすなら、ネルーのいうような「インドの哲学的理念……人間の完成ということと、利得よりも善、美、真の強調……という」ことがもっともっとまともに考えられる必要がある。その使命がインドにはあるということである。

 

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 ホ、堀田善衛の『インドで考えたこと』

  堀田善衛の『インドで考えたこと』という書物は彼がたまたまインドにいくことになり、そこで考えたことを書いたものである。堀田氏といえば、『広場の孤独』『歴史』『時間』など幾多の作品によって、日本の代表的作家の一人として自他ともに認められている作家の一人であるが、全く彼が奇妙な人間の一人として、此の本を書いた人間であることを彼自身率直に語っている。
 堀田が語るように、これは彼自身の特別の姿でなく、日本の知識人一般は多かれ少なかれ、堀田自身と大差のないのが実情である。一部のインド哲学者、インド史を専攻している学者、ある特定の仏教学者をのぞいて、日本人の殆どは全くインドについて知らない。インドのみでなくアジア諸国については全くといってよい程に知らない。そのことを少しも恥と思っていない。これが西洋諸国だったら非常に恥ずかしがる。いつのまにか、それが習性になってしまったのである。そういう態度は知識人といわれる者ほどひどいのである。それが今日まで通用しているところに日本人の、日本知識人の奇妙さがあるのである。
 私は今、その奇妙な知識人の一人である堀田がたまたまインドにいく機会にめぐまれ、不十分ながら全く変わった人間になったことを書いてみたいと思うのである。インドにいくまでの彼がアジアについて、いいかえれば、日本が位置するアジアについて如何に無知であったかということを書きたいのである。アジアの中の日本を知らないということは同時に日本そのもの、自己そのものを知らないということである。自己自身を知らない者にどのような人生、どのように充実した人生がひらけるかというと全くあやふやである。そのあやふやな人生を送っていたのが、明治以後の日本人ということになる。
 私がとくに、堀田の『インドで考えたこと』を記してみようと思ったのは、堀田は幸いにも作家として鋭い眼をもっていたために、アジアを、日本を正しくみつめるようになったが、一般の人々ならますます誤るのでないかと心配するためである。
 堀田がいうところによると、彼は太平洋戦争中、痛切にアジアを知らねばならぬと考えて、それこそ覚悟をきめて中国にわたったが、戦後日本にかえって文学の仕事をしている間、またそのよりがもどって、いつのまにか、西欧一辺倒になって、またもアジアのことを忘れてしまったというのである。堀田ほどの人間、とくに覚悟をきめて中国にわたったほどの堀田がもう一度アジアに回帰することは容易であったし、それも的をはずすことはなかったといえるようである。
 堀田は「ここにも文学があって、そこから我々にもまたエネルギーを引きだすことが出来るなどということは夢にも考えたことがなかった」と率直に認めながら、作家の主体的立場をとることに、みごとに成功しているのである。なにも知らないインドを此の機会を生かして徹底的に知ろうと決心しはじめるのである。その意味ではさすがというほかはない。今迄の西洋一辺倒であった自分をその根柢より変革してみよう、できるところまでやってみようと決心するのである。
 「デリについて私は自分の視線がぐいぐいと伸びていくのを感じた」と書く堀田は、この旅行を通じて本当に変わったのである。ある時は自分のうけた東洋史教育ををかえりみながら、インドとは何であったかをベッドの上で考えぬくこともあった。彼が単に自分の知識をふやそうとつとめる人間でなかったから、変わりえたともいえる。自分の考え方をささえてきたものを根本的に問いつづけるものがあった。それが自己変革につらなる。
 堀田は暇をみつけてインドをみて歩いた。彼はどこを歩いても宗教が生きて働いているのをみる。それは単なる知識でなく、生活そのものなのである。多くは、廃墟になっているものでも決して死んでいないのである。廃墟がそのまま信仰の対象として生きているのである。「みていると気持ちがわるくなるほどにそうなのである」と堀田は書く。ここから彼はあらためて、「我々の文化創造の情熱のきそは何に根ざすのか」と問わないでいられなくなる。
 堀田はあらためて、永遠というものを問い、真理そのものを問わずにはいられなくなる。人間の生そのもの、死そのものを問題にせずにはいられなくなる。かつて、彼に『きむき島』を書かせたものが何であったかと考えさせるものがインドの自然と社会にはあったのである。
 堀田はそれらのものをふまえて、「我々日本人はアジアから訣別することによって近代日本というものを獲得したのであるらしい。近代日本はそれでいいとして、しかし、次の日本ということを考え、創造のエネルギーをくみとるべき源泉について考えるとき、近代、近代化ということだけではまったく足らないものがあることを否でも応でも見せつけられるはずである」といわなくてならなくなる。それは新たなるアジアそのものの発見が彼の中におこったことを意味する。それが「日本の、あの精緻な文学論のことを考えると、いったいおれたちは正気なのかな、それともただ悪ずれしただけかな、と自分で自分を疑いたくなるような妙な気がしてくる」という疑問まがいの詠歎となってでてくるのである。
 インド人は貧しかったが、インドそのものは決して貧しくはなかったという思いにとらえられる堀田がそこに生まれるのである。西洋諸国の人々の眼でしか、この世を見ようとしなかったことも、その反省として出てくる。近代日本はアジアと訣別することで近代性を獲得したが、それだけでよかったのかという批判もでてくる。
 ことに、一神教、多神教、汎神論、超越神などの宗教をみたとき、それでもなお、インドには宗教があると知らされたとき、彼らの中にある宗教とは一体なんなのかと考えずにはいられなくなるのである。その宗教につらぬかれた現実というものを考えずにはおれないのである。
 そこから、ひょっとすると、私の努力は空転していたのではないかという思いが堀田をとらえるのである。それが堀田のインド旅行の収穫である。彼は五十歳をすぎて、あらためて人生の目的如何という大問題にむきあうのである。インドはそれだけのものを彼に考えさせたし、考えずにはおかないものがあったのである。
 堀田自身、これまでの自分を誤っていたと言わなくてならないものを感じたのである。アジアはその歩みがいかにのろくても常に生きたいと叫んでいるのをみたとき、堀田には転生が生じたのである。
 これは堀田の著書を通じて、私自身が考えたものである。堀田のみでなく、日本の知識人には転生が必要なのである。そこからはじめて彼等の人生は開かれてゆく。大学斗争の中から生き返った人もいるが、その多くは死んだままである。それを考えきらない人々は依然として死んだままである。その死の意味すらわかろうとしないのである。

 

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 ヘ、変貌するアジア諸国

   1、インド

 インドは長い間イギリスの支配下におかれ、徹底的に搾取された。奪われるものはとことん奪われたといっていい。しかし、唯一つ、インドの魂は奪われることなく、今日までインドを支えてきた。それは宗教である。これまでに度々書いてきたように、それは常識的意味での宗派宗教でなく、人間の本質、生活のすべてを霊的なものに導くあるものである。普通人々は人間の生活を豊かにしたものは学問であり、科学と考えているが、ここでいうあるものとは、その学問、科学をふくみながらそれ以上のものである。人間を人間たらしめる“あるもの”である。学問、科学の出発点であり、同時に帰結点でもあるものである。
 今日の世界の人々はそれを見失っているためにお互いに戦い、不自由、不平等、あくなき追求をやっているのである。しかし、インドにはそれらと異なって、すべての人の自由と平和と調和を求める伝統があるのである。長い間イギリスの支配下におかれ、徹底的に搾取されたために、いよいよ皆の自由と平和と調和を求めることが真なることを知ったのである。
 朝日新聞社の森本哲郎氏の書いた「インド」の記事によると、現在、ヒマラヤの斜面にまるでハチの巣のように、穴を掘ってそこに二万五千人ほどのヨーガ行者が黙想しているという。しかもその場所すら判明しないという。インドにはこのような場所が今なおあるのである。自分の本当の姿を求めて修行している者がこんなに沢山いるのである。宗教を求めて生きている者というよりも、人間の真の姿を求めて生きている者がインド国内には数千万人もいるということである。これが世界中の人々を変えていくという可能性がないとはいえない。
 インドには伝統的に平和を求める動きがある。つい先だっても、世界平和会議がもたれたし、それに参加するものも多く、インドがいかに深く平和の問題とかかわっているかを知らせた。彼等は革命の方式によらないで、人類の平和と自由と平等を実現する道を求めているのである。
 アシュラムという僧院というか、道場にはインド人でインドの宗教を求める人達にまじってかなりの西洋人もいる。すべて西欧文明にあきたりないで亡命してきた人達である。今日の科学文明が物の生産だけに必死なのをみて、人間の幸せがそんなものでおきかえられないことをとことんまで知った人達である。人間にとって利益でないものを利益であるかの如き幻想にひたっている西洋人の自己をわすれた生活にがまんができなくなった西洋人である。このようなアシュラムがインドにはいくつかある。今日の西欧的世界をいつか変えることになるかもしれない。私達はインドの貧しさばかりを見ることになれて、このような面を見のがしがちである。
 オーロビルという夜あけの町もある。ここは地球上唯一つどこの国、インドにさえ属さないところがある。一切の肩書きを捨てた人達の住む平和な町である。文字通り、戦うという言葉を自分の中より捨てさったところにできているのである。まさにインドは先進国であり、文明国である。それを開発途上国といっている西洋や日本がまちがっているのである。いつか、インドより指導される世界の時代がこよう。イギリスの支配の下でますますみがかれたインドの魂を思う。

 

   2、中国

 中国に中華人民共和国が成立したのは1949年のことである。それまで百年あまり、中国は西欧諸国から侵略に等しい圧迫をうけていたが、日本や西欧諸国の勢力をはねのけて独立したのである。
 いうまでもなく、共産主義国家として誕生したのである。中国が共産主義国家として誕生したということは、中国の伝統である王道を今日的な形で実現したものである。こういう表現はあたっていないという者もいるかもしれないが、私自身にいわせるとあまり間違っていないと思う。天心がいい、一輝のいった王道そのものでないにしろ、それに近いものといえよう。特に孫文のいっていた王道を今日的意味で発展させたものといえよう。
 勿論、中国には理想としての王道はあったが、それが実現されたことは殆どない。それを目標として近づこうと努力したことはあっても王道そのものを実現したことは殆どない。それ程に王道そのものはむづかしいものである。
 今日からみると、中国の文化大革命も、一部の人の怠惰から王道そのものから後退しようという動きがでた時、いちはやくそれから救おうとした動きであった。文字通り、王道を行うということであった。しかし、ここで、王道と共産主義革命を同一視してはならない。これまでにも述べてきたように、共産主義革命は資本主義そのものの救済策と出たもので、物質の分配をめぐって平等化をはかり、人間精神の豊かな確立をはかろうとするのである。それに対し、王道とは仁の心を基礎にして、人間の平和、自由、平等、調和をはかろうとするものである。
 いいかえれば、物質の平等化をはかっても人間の平和、自由、平等、調和は所詮生まれないという立場にたつ考え方である。王道そのものからいうと、共産主義革命は王道を実現する第一歩で、これによってはじめて、貧から生ずる悲惨、過失から人間が解放されると考えるのである。
 人間の真の自由、平等、平和はそれからが大変で、非常にむづかしいのである。共産主義体制をまもるために現在必死になっておこなわれている軍備拡張も所詮王道に反するものである。人間の内面は制度そのものがいかに合理的となり、平等化しても、それに比例してはよくならないのである。
 戦争、対立、競争はそんなに簡単に克服できるものではないのである。要するに、人間の内面の倫理をたかめる以外にないのである。だから、天心は美と宗教を強調したのである。共産主義そのものが美と宗教によってたかめられるまでは此の地球上に真の平和と調和はこない。
 革命そのものが永久に革命が必要なように、共産主義理論も無限に発展させられる必要がある。今日、孔子はやり玉にあげられて攻撃されているが、それは決して孔子の説くところが誤っているというより、孔子の教えを固定化し、まつりあげることによって人々をがんじがらめにしたことにあると思う。
 どんな思想も時代と共に発展させなくてならないし、王道も例外ではない。唯原点になるものは長い歴史の中できたえられることによって、ますます光を放つものはあるのである。中国が真価を放つのはむしろ今後であろう。

 

   3、インドネシア

 インドネシアは人口一億人以上をかかえ、土地の広さは日本の五倍もある国である。それに資源にも非常にめぐまれた国である。かつては仏教文化が栄えた国であり、ボロブドゥルの仏教遺跡をのこす国であったが、その後イスラム教の侵入によって、現在は殆どイスラム信徒になってる。しかし、インドネシア人の心の奥底には依然として、仏教の精神が生きているという奇妙な国民である。
 インドにも仏教そのものは殆どほろび、仏教を吸収し発展したヒンズー教がインド国民の多数をしめているし、中国も仏教そのものが生きているというよりも、儒教、道教などとの混淆の中に生きているといってよい。日本もその例外ではない。いいかえれば、仏教精神は今日の世界精神として生きているのである。
 ただ、インドネシアは1600年のはじめから西洋諸国の一つであるオランダの殖民地となり、日本が侵入した時まで三百年あまりにわたって、インドに劣らぬほどに徹底的に搾取された国である。日本の侵入は一応オランダの支配に終止符をうったが、日本の敗北とともに再びオランダはイギリスの援助の下にのりこんでこようとした。
 日本の陸・海軍の兵器はの司令官の責任で、インドネシアにゆずられ、それで装備したインドネシア国民はインドネシア独立のために起ちあがったのである。オランダ、イギリスの連合軍は何ヵ月かかってもインドネシア軍を抑圧することが出来ない。こうしてついにインドネシアの独立となったのである。三百年間にわたるオランダの支配を自分達の手ではじめてはねのけたのである。
 日本が大東亜共栄圏の名の下に侵略しようとしたことが思わぬ結果をまねいたのである。その後のインドネシアは独立したといっても、長い間のオランダの徹底した搾取がたたって国内建設もなかなか思うように進まない。スカルノ大統領の下に、首相は何度か変わり、時には、親オランダ派の首相まで出現する有様であった。その困難がついに1965年十月のインドネシアの政変まで招くことになるのである。
 この政変で、スカルノは失脚し、変わってスハルトが大統領になる。スハルトはスカルノよりもずっと右よりの人間であったが、インドネシア人の体質にまでなっている殖民主義反対、帝国主義反対の態度はかわるものではない。インドネシア国民は民族主義、平和主義をかかげない限り、スハルトのあとについていかない。
 スカルノがあまりにも親ソ的態度をとったため、その地位を失ったばかりか、共産党まで壊滅させてしまった。スハルトが親米的といってもそれには限度がある。親日的といっても国民が承知しない。だからとて、親ソ的であることもできない。インドネシアはその独自の道をさぐりながら歩むしかない。それが美と宗教の道だとは速断できない。三百年余りにわたったオランダ支配をはねのけたインドネシアはどこに向かおうとしているのか、それは何人にもわからない。

 

   4、日本

 日本が明治維新を成し遂げ、日露戦争に勝利した時、西洋諸国に支配されている諸国民に希望と勇気をあたえた。しかし、その後の日本はアジアをぬけでて、西洋諸国のまねをすることのみで生きてきた。太平洋戦争はそのまねの帰結であったが、その後の日本は相変わらず西洋諸国のまねをつづけている。
 敗戦後一時期は文化国家、道義国家、教育国家を夢み、かつて外国の国家中、どの一つも夢みたことのない国家を夢みて、雄々しく歩むかのようにみえた。軍備全廃もその一つであった。しかし、米国とソ連の緊張状態がつづくと、いつのまにか、それらの夢を捨ててアメリカ資本主義の一翼をになう国に変わっていってしまった。
 かつて満州国のように建国の理想をすてて、日本資本主義にまきこまれたように、アメリカ資本主義にまきこまれてしまった。
 そしてついには、世界有数の生産国となってカムバックしたが、かつての夢と理想はどこかに吹きとんでしまった。それどころか、エコノミック・アニマルと呼ばれる人間になりさがってしまった。人間の豊かさが物質的豊かさの中にあると勘ちがいした日本人は再び太平洋戦争で果たし得なかった夢を果たそうと今日必死である。
 人間生存の論理を資本主義の論理、共産主義の論理でわりきろうとする限り、此の地球上に平和と充足と調和はおとずれない。資本主義の論理も共産主義の論理もともにそれらをうちこわすためにある。
 勿論、共産主義の論理が可能なかぎり、人間の外的条件を平等化しようというのはよい。だが、その後にもなさなくてならないことがあるということである。
 共産主義の論理の後に、なお夢と理想があるということである。
 岡倉天心のかかげた美と宗教の国というのを今一度日本人ははっきりとおもいおこすべきであり、敗戦後の道義国家、平和国家、教育国家をおもいだし、国づくりをもう一度やりなおすことである。共産主義国家ということは道義国家の一要素である。
 日本の宗教がそれらのことを明瞭に教えている。自己合理化や弁解のために、宗教があるのではない。その時こそ、「首相田中かえれ」とアジアの人々から言われないようになろう。
 あの太平洋戦争の惨敗から本当に立ちなおろうとしなかったことで、日本人のアジア諸民族に対する贖罪は本当にすんでいない。賠償金を払えばいいという問題ではない。
 其の他、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、セイロン、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポール、フィリピン等といろいろの国があるが、いずれもそれなりの宗教国家を育てようとしている。ただ現在において宗教国家というものの本質が必ずしも明瞭でなく、宗教と政治は分離したのが進んだものだと考える西欧的知性が支配的なために混乱している。固定化したキリスト教、一定の信仰に終わっているキリスト教と政治そのものは分離しなくてならないが、政治そのものを浄化するのも、高められた宗教そのものである。現実には、そのような宗教はなく、宗派宗教だけがある。そこに今日の混乱がある。宗教の改革運動が大胆におこる必要がある。それをおこすのがどこの国かは明白にいえない。そこに現代の悲劇があるということになろう。岡倉天心の思想はヴィヴェカーナンダの思想とともに、それの方向を暗示しているようにみえる。

 

       <続・燃えるアジアと日本の原点 目次>

 

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