「坂本龍馬 平和と統一の先駆者

 

      < 目 次 >

第一部

 泣き虫竜馬
  軽格という家柄の生れ  大塩平八郎の挙兵  天保年間に生れた人々
  竜馬の兄姉たち  姉乙女の理解と愛  高野長英の自殺

 自立への目覚め
  上京の竜馬へ父の訓戒  竜馬の上京と黒船の来朝
  吉田松陰の黒船影響  ペリーの再来と  日米和親条約
  剣の道から得た自信

 黒潮にのせる夢
  土佐での河田小竜との出会  小竜の船についての考え方
  小竜の推した若者たち

 江戸への再遊
  竜馬の先輩武市瑞山の動向  安政五年剣士竜馬の帰国
  世継問題と外交で揺れ動く幕府 彦根藩主井伊直弼の登場

 新生
  水戸藩が内勅をもって動きだす  秀れた剣士としてのみの竜馬
  水戸藩士、竜馬に大いに失望する  一人を仆す剣より万人を動かす学問
  オランダ憲法から受けた政治への開眼  竜馬の独自な勉強法読書法
  土佐藩主容堂一橋派に立つ  松陰たちの死罪から桜田門外の変へ

 押し寄せる外敵の脅威
  狡猾な外国人に荒らされた甘い市場
  貿易は国内の経済生活にも混乱と発展を
  対島をとりまく領土問題が起る

 南国土佐の胎動
  間崎哲馬が高知で塾をはじめる  竜馬はじめて大志を語る
  武市瑞山の動き活発化す  土佐勤王党誕生する
  和宮降嫁阻止計画をおさえる

 竜馬と瑞山
  竜馬、長州に久坂玄瑞を訪ねる  松陰門下の俊英久坂玄瑞
  瑞山を抑えていた吉田東洋  ついに竜馬土佐藩を脱藩
  土佐勤王党東洋を斬殺  竜馬、鹿児島から大阪を経て江戸へ
  土佐藩内の大幅な人事改造  長州と薩摩に対する第三勢力

 勝海舟との出会い
  勝海舟は世にいう奸物か傑物か 勝を斬りにゆき門下生となる
  海外への眼と人間をみる眼  航海術の勉強に喜々として取り組む
  勝海舟への一途な傾倒

 変転
  薩摩の島津と長州の毛利  改良的な公武合体派
  長州のアメリカ商船への攻撃  竜馬と村田己三郎との議論
  国を守るより権力を守る幕府  容堂と勤王党との対立
  平井収二郎の切腹  土佐勤王党潰滅状態となる
  中岡慎太郎、佐久間象山に会う  慎太郎、土佐藩を脱藩する

 神戸海軍操練所
  海舟の海防策実施  竜馬、越前に松平春嶽を訪ねる
  竜馬、横井小楠の思想を吸収  新撰組、池田屋を襲撃する
  禁門の変と海舟の謹慎

 

第二部

 長州と奇兵隊
  長州の歩みと吉田松陰  松陰を失った弟子たちの怒り
  長州藩のかかげた尊皇攘夷  長州藩、京都で後退
  高杉晋作の奇兵隊下関に蜂起  桂小五郎・高杉晋作路線の確立

 西郷・大久保ライン
  西郷隆盛、斎彬に抜擢される  西郷、月照をかくまって島流しに
  松陰を売った長州、大久保をかばった薩摩  寺田屋の変という悲劇
  島津久光と生麦事件  武人西郷、政人大久保のライン

 揺らぐ幕府
  長州薩摩の動きと幕府の不安  力による弾圧は力による報復を
  幕府上層に居なかった人材  西郷、幕府の意とならず 

 苦悶する土佐
  血の嵐の吹く土佐藩内  勤王党に対する非道な拷問
  慶応元年に瑞山切腹する  薩・長二大勢力に対する竜馬

 革命活動への第一歩
  竜馬、長崎の亀山に社中設立  竜馬、東奔西走亀山はいつも不在
  慎太郎は長州に竜馬は薩摩に  大きな夢をもった現実主義者
  目はしがきき、かわり身も鮮やか  薩摩と長州の仲をもつ難事
  桂、西郷に待ちぼうけでカンカン  武器購入のため井上、伊藤が動く
  西郷、大久保長州再征に反対  ついに桂が京都に向う

 統一の論理
  桂等、西郷、大久保のもてなしを受く 二人の談笑は一向に発展せず
  薩・長のためではない、国家のためだ  竜馬の直言で難問も急転直下
  桂の依頼で竜馬規約を裏書

 恋愛
  恋人を知った竜馬の優しい手紙  平井収二郎の妹へのほのかな恋

 死地脱出
  竜馬、寺田屋で襲撃を受ける  晋作にもらったピストルで逃げきる
  西郷、桂共に竜馬の無事を  竜馬と竜の新婚旅行
  生命尊重の思想から平和への思想  近藤長次郎の切腹
  社中の洋式帆船、五島で遭難  いやいや参加したはじめての戦争
  三吉慎蔵への手紙  長州と土佐の交流復活をはかる

 海援隊
  亀山社中、土佐藩の海援隊として新生  海援隊の規約  海援隊の目的
  海援隊のいろは丸、紀伊の舟に撃突
  明光丸側の不誠意に竜馬たちの怒り  公法による時代を痛感する
  竜馬の紀伊の談判がはじまる  紀伊が賠償金八万三千両支払う

 薩摩の変貌
  幕府体制から雄藩体制をねらう  慶喜は軽視すべからざる強敵
  難航を重ねた四侯会議  四侯会議の失敗が教えたもの
  武力革命にマッタをかけた者

 後藤象二郎の登場
  疑心暗鬼の出会い竜馬と象二郎  竜馬と象二郎の交流に対する非難
  象二郎に書いた船中八策  竜馬の公議政体の思想の生まれたのは
  人を殺すべきでないという竜馬の思想  武力討幕の動き激しくなる

 大政奉還前夜の苦悩
  薩土統一戦線の約定の大綱  薩長の武力革命土佐の平和革命
  大政奉還という大芝居  容堂の大政奉還の建白書
  象二郎、建白書を携えて上京  由利公正の抜擢を進言
  竜馬と佐々木三四郎の議論  宗教による社会変革を考える

 大政奉還
  武力働幕の勢い次第に強まる  竜馬千挺の武器を土佐藩に提出
  慎太郎の陸援隊、武力抗争の準備  若年寄永井尚志との会談
  竜馬、象二郎共に死を覚悟  慶喜ついに大政奉還を決意

 二つの革命コース
  慎太郎への説得工作  春嶽や公正への働きかけ  戦わない方針
  幕府絶対支持の藩の数も大きい

 
  竜馬、慎太郎協議中に襲撃さる  竜馬三十三才、慎太郎三十才
  竜馬を失った平和コースの道  江戸城ついに明渡しとなる
  竜馬がもし生きていたら

 坂本竜馬略年譜

 参考文献一覧

 あとがき(1964年)

 あとがき(1968年)

 

             < 目 次 > 

 

   第 一 部

 

泣き虫竜馬

 軽格という家柄の生まれ
 坂本竜馬は、天保六年(1835年)、十一月十五日に土佐国高知城下本町の郷土坂本権平の二男として生れた。坂本家は戦国時代に江州(今の滋賀県)から土佐国長岡郡才谷村に逃れて来た明智光秀(織田信長を本能寺に討ち、一時は天下をとった)の一門といわれている。代々農業を営んでいたが、四代八兵衛の時高知城下本町に移って酒造業で富を築き、七代八平直海の時に家業を弟八郎兵衛に譲り、郷士の株を買って、一九七石の領地と十石四斗の禄をはむ武士になった。竜馬はその三代目である。坂本家が経済的にはかなり恵まれたものであったことは想像されるが、郷士といえば、身分制度の厳しかった当時の武士階級のなかでは、最下層に位置する軽格の家柄である。ことに土佐山内家は、関が原の戦いの功で掛川六万石から一拠に土佐二十四万石に抜擢され、同じく関が原で敗れた豊臣方の長曾我部家の支配下にあったこの地に乗りこんだといういきさつがある。当時は長曾我部家の遺臣を相撲にことよせて集め、これを斬殺したり、国政を批判した者を磔刑にするなどして、旧藩主につかえた者を徹底的に押えこむ政策がとられたが、その後も掛川時代からの家臣を上士、中士としたのに反し、新たに採用された者は下士としての身分しか与えられなかった。下士の者が中士に出世することなど、めったになかったし、上士の末席におどり出ることなど、およそ不可能であった。そこにあるのは身分の上下というより、勝者と敗者の関係であり、複雑微妙な感情もからみあって、いわゆる身分制度という以上に固定化した、厳しい階級意識をつくっていた。郷士という身分そのものは、他藩にもあって、帯刀の百姓というところ、つまり士格を与えられた農民、家臣と庶民の中間階級となっている。土佐藩では、それ以上に、この身分の違いをきわだたせようと、衣服その他にも、相当厳しい制限を設けている。つまり、郷士は別宅構えを禁じられ、城下通行も地下人なみ、頭巾、日笠、木履、下駄、杖突きなども禁じられており、父母の喪に服する時でも、欠勤は許されなかった。

 

 大塩平八郎の挙兵
 こういう郷士の家に育ったということが、竜馬の思想にどんな影響を与えたかについては、おいおい述べることにする。竜馬の生れた天保六年といえば、幕藩体制の矛盾がようやく表面化して、その切迫感を強めていたころといえる。竜馬が生れる四年前の天保二年には、長州一円にまたがる大一揆がおこり、四年には播州一揆が、六年には美濃一揆がおこっている。また天保七年には大阪の打ちこわし、さらに八年には、全国の経済的中心地であった大阪で、もと大阪町奉行所の役人であった大塩平八郎が、幕府の失政を責めて兵を挙げている。これは僅か一日で終ったが、幕領で、それも幕臣が兵を挙げたことで幕府を驚かせた。ついで天保十二年には、渡辺華山、高野長英が、幕府の政策を批判し世界の大勢に逆行するものとして、その鎖国政策を鋭く追求し下獄している。(蛮社の獄)
 幕府をはじめ諸藩は、いやでもこの対策に取りくまざるを得なくなった。そして、薩摩や長州では、藩政改革が比較的よく進んだのに比べ、土佐藩では、おこぜ組という新官僚層によって、ようやくその対策がとられようとしたが、なんといっても封建色が濃厚で、身分制の厳しく要求される土佐藩では、人材登用がはかばかしく進まず、おこぜ組の凋落などあって、その進行は思うにまかせなかった。

 

 天保年間に生れた人々
 後日、竜馬と手を携えて行動した人々が生れたのも、やはりこの天保年間が多い。即ち土佐勤王党の盟主武市瑞山と、その運動がおこるに先立って獄死した長州の吉田松陰は共に天保元年(1829年)に生れ、長州の中心的存在で、薩摩の西郷隆盛(彼は文政十年生まれで、武市より二年早い)とならんで薩長連合の立役者となった桂小五郎(後の木戸孝允)は天保四年(1833年)、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎が天保五年、竜馬の海援隊活動になくてはならない存在だった薩摩の五代才助は、竜馬と同年に生れている。さらに、乾退助(後の板垣退助)は竜馬に二年おくれた天保八年、竜馬と共に薩長統一をなし遂げた中岡慎太郎は、天保九年に生れ、同じ年に大政奉還の表面上の立役者後藤象二郎、長州の山県有朋、竜馬の活動に一役買った英国貿易商グラバーも生れた。明治の近代化を狂わせたことで、竜馬とならんでその早逝が惜しまれている高杉晋作が生れたのは、天保十年である。これら有為の士が続々と出現したのも、危機に直面した時代の様相が、若い魂をゆすぶり続け、その可能性の総てを引き出し、前進に継ぐ前進を要求したからでもあろう。

 

 竜馬の兄姉たち
 竜馬には一人の兄と三人の姉がいる。三人の姉のうち一番下の姉乙女は、「坂本のお仁王様」と呼ばれていたという。身体つきも大きくがっしりしていたが、なによりも気性の激しい女性だった。中の姉は不縁が理由で自殺をしている。こういう強い姉達の下に末っ子として生れ、育ったのが竜馬である。弱虫で泣き虫の少年であっても無理はない。おまけに鼻は何時も垂れ流し、寝小便も十一才まで続いた。近所の悪童連から「坂本のハナタレ」とはやされ、「寝小便たれ」とののしられて、抗弁一つできず、泣くだけの竜馬だった。そこでとうとう「坂本の泣き虫」と馬鹿にされた。たとえ軽格の郷士とはいえ、武士の子が、泣き虫というレッテルをはられたのだから、このうえない屈辱である。だが竜馬にはその悪罵を覆えす何物もなかった。けんかもできなかった。
 「泣き虫」「ハナタレ」とはやされ、いじめられたことが、竜馬の中に何を感じさせ、何を育てたかは明らかでない。しかし後年の彼が、人間と人間を結びつける上に示した、人間に対する深い理解と強い共感は、少年時代の、この体験と無関係ではあるまい。むしろ、この時期に、その何かをつかんでいたと考えても差支えない。早くから神童よ、秀才よともてはやされた人間には想像もできない、弱者としての人間の自覚に眼覚めていたといえる。
 十二才になった竜馬は母を失う。そしてこの年になって、ようやく楠山庄助の塾に通いはじめた。まことに遅い就学である。中岡慎太郎は、四才で寺の和尚について読書をはじめているし、武市瑞山は九才で父母の下を離れて、伯母の家から塾に通っている。芒洋として、何を考えているのかわからないような竜馬、泣き虫ではなたれの竜馬は、知能が遅れている、というよりも、いっそ無能力者と見られていたのであろう。

 

 姉乙女の理解と愛
 折角、通いはじめた塾ではあったが、しばらくすると、この子は教えようがないと断わりが来る。竜馬は塾から閉め出されてしまったのである。当時の初歩の勉強法といえば、一にも暗記、二にも暗記である。これは竜馬にとっては最も苦手の部類に属する。塾がもてあましたのも、もっともといえよう。そして竜馬にとっても、この暗記を無理強いされずに、退校になったことは、幸いであった。眼から鼻に抜けるような神童的聡明さは、竜馬に無縁のものであり、字句の細かな解釈より、全体を総合的につかみ取り、それを自分の中に完全に咀嚼する、自分と語り自分自身で考えようとするタイプの彼が、その特性を破壊されずにすんだとも云えるからである。
 しかし当時の竜馬にとって、そんな解釈はできるはずもない。父や兄、姉達は、竜馬の退学をひどくがっかりしたが、恐らく、誰よりも強いショックを受けたのは、竜馬本人であったはずである。だが姉の乙女だけは、竜馬の理解者であり、同情者でもあったらしい。傷心の竜馬は、乙女の腕の中でこの屈辱をかみしめていた。姉の理解と愛情が、竜馬のこだわりのない、素直な性格を歪めずに育てたということもできよう。

 

 高野長英の自殺
 楠山塾をしくじった竜馬は、十四才の時(嘉永元年)、今度は日野根弁治について小栗流の剣術を習いはじめた。これは不思議と上達が早かった。彼はメキメキと腕をあげ、修行に熱中した。彼が剣術に打ち込みはじめたころ、嘉永三年に、高野長英が自分の思想的立場を守って自殺したが、竜馬がそれを知るわけはなかった。彼の周囲にはこのことを彼の耳に入れようとする、奇篤な者もいたはずがない。

  

                  <坂本龍馬 目次> 

 

自立への目覚め

 上京の竜馬へ父の訓戒
 乙女の指導も大いにあったといわれるが、竜馬は十八才で目録を与えられるほどの腕前に上達した。剣術は、素読の学習とは違って、自分のペースで、自分にあった方法で、木刀を振りまわすことができたから、彼なりの術を会得できたのかもしれない。それに、弱虫、泣き虫、鈍物の彼には、もはや失うべき、また心を患わすべき、どれほどの名誉も栄光も残ってはいなかった。彼は彼自身を打ち出しさえすればよかった。自分自身であれば、それでよかった。竜馬はそこにどっしりと腰を落ち着けていた。
 このころ、雨の中を水泳のけいこに行く竜馬を見て、通りがかりの知人がいぶかったところ「どうせ水に入れば濡れるのだから」と応えたという話が伝わっている。雨が降ったら水泳のけいこはやらないという既製のしきたりも、竜馬にとっては何の拘束ともならない。ウスノロと見えた竜馬の表情は、何時かひきしまり、骨格も達しくなってきた。今や彼は、自分が自分自身であることを知りつつあるのである。
 こんな竜馬を見て、父八平の喜びは大きかった。「どうせ竜馬は郷士の次男坊だ。江戸にでも修行にやり、城下町に剣術道場を開いてやれたら、飯をくうことも心配あるまい」と考え、北辰一刀流千葉周作の弟で、当時京橋樋町に道場を開いている千葉貞吉の門に入れることにした。竜馬が十五ケ月の暇を得て江戸に向かったのが、嘉永六年三月十七日、彼十九才の時である。出発に際して父八平は、竜馬に訓戒を与えている。

 一、片時も忠孝を忘れず、修行第一の事
 一、諸道具に心移り、銀銭費さざるの事
 一、色情に移り、国家の大事を忘れ、心得違いあるまじき事
 右三か条胸中に染め、修業をつみ、目出度帰国専一に候

 

 竜馬の上京と黒船の来朝
 竜馬が希望に胸をふくらませて江戸に出発した嘉永六年という年は、アメリカ合衆国の東インド艦隊が浦賀沖に現われた年でもある。長い鎖国の夢をむさぼっていた日本に対して、強引に開国を求めて来た黒船の渡来は、江戸三百年の幕藩政治、封建体勢を大きく突き破る楔でもあった。
 六月三日の夕刻、浦賀沖に二隻の蒸気艦と二隻の帆走艦を率いて到着した提督ペリーは、浦賀奉行の「国禁により、外国船は長崎に入港することになっているから、長崎に廻ってもらいたい」という申出をはねつけ、江戸湾内に測量隊を繰り出すなど、力による示威行動に移り、強引に日本の開国をせまった。ペリーの態度に押された幕府は、ただうろたえるばかり。結局、提督の持参したアメリカ大統領フィルモアの親書を受理し、回答を翌年に引き延ばすことで、当座のケリをつけた。こうして十二日に、ようやくペリーは引きあげていったものの、幕末の風雲は、この楔の亀裂から、急速にあわただしい様相を呈していくこととなった。
 黒船渡来の衝撃は、幕府や各藩中枢部の無能力さ加減、見識の無さを惨めなまでにあからさまにさらしだすことになった。為政者の醜態と外敵の脅威、異国の高度に発達した文化、技術に接して、心ある人々に、どうすることもできない危機感が、現実的な形となって押し迫ってきた。さらにこれらの事実を前に、幕末の世論を代表する攘夷論と開国論が、具体的な問題として渦巻き始めることとなったのである。

 

 吉田松陰の黒船影響
 六月といえば竜馬は既に江戸の生活を始めていたから、直接、江戸でこの騒ぎを見聞した。というより藩命によって駆り出され、警備員の臨時任務に就いていた。生まれてはじめて見るアメリカ艦の威容が竜馬にどんな影響を与えたかはわからない。吉田松陰はこの時、やはりアメリカ艦をまのあたりに見て、その強大さに圧倒的な威力を感じ、彼のそれまでの海防策はみるみる色あせて行くのだった。このことが、彼のその後を大きく転換させている。しかし竜馬の場合、竜馬の中にはこの刺激を受け留めるべき知識も抱負も、ほとんど無いに等しかった。ただ、大洋を自由に走り回る大艦が、海への憧憬をかりたてさせたことだけは想像がつく。それも心の奥の深い所に、秘かな形で……。当座の竜馬はいたってのんきなものだった。相変らずといった方がよいかもしれない。
 九月二十三日付の父への手紙には「……異国船が方々へ来たそうですから、戦いも間近いことと思います。その時は異国人の首を打ちとって帰国致しましょう」とある。無邪気なものだ。青年達が若い感情をたかぶらせ、我も我もと騒ぎたてている中で、むしろ竜馬は従来の調子を崩すことはなく、騒ぎの渦に巻きこまれもしなかった。

 

 ペリーの再来と日米和親条約
 黒船が引きあげ、当面の騒ぎがおさまると、海辺警備の任も解かれ、竜馬は一筋に剣の道に打ち込んでいく。攘夷も開国も彼には全く関わりないもののようであった。「坂本の泣き虫」「ハナタレ」の嘲罵のなかで、何一つ自己を表現することのできなかった竜馬。学問から見離されたような態の竜馬が背負っていた重苦しい絶望感。竜馬は剣の道の中に、それを解放する曙光を見出した。彼は彼本来の生き方の上にそれを発見したのだった。
 竜馬が剣の道に取り組むことは、彼自身に生きることであり、そこにこそ彼自らへの自信も希望も生れてくる筈だった。彼は剣の道を究め尽すことによって、自分を取り戻すことができると確信した。はじめは、たかが田舎剣士の目録と見られていた竜馬の腕は、急速な勢いでどんどん上がっていった。
 だが、激しい勢いで転換しつつある時代は、決して、竜馬一人が剣術にだけ打ちこんでいることを許さない。翌安政元年一月十六日、年がかわるのを待ち兼ねていたように、再びペリーがやって来る。前年の返答を求めるペリーは、七隻の軍艦をじかに江戸湾(東京湾)の小柴沖に碇泊させて、武力をもっても要求を押し通そうとする心組みを、露骨に示した。前に変らぬ、幕府のノラクラ戦法も、一向にききめがない。二月十日から始められた日米交渉は、三月三日になって一応の妥結をみることとなった。(日米和親条約)
 条約の内容は、アメリカ船への物資の補給、そのために下田、箱館(函館)の二港を開くというもので、貿易だけは、あくまで拒み通したが、ペリーとしてみれば、開国の一角に取りついたわけで、その武力外交の勝利という一幕であった。

 

 剣の道から得た自信
 この間、竜馬は再び海岸警備の要員として引張り出されて、ペリー外交を胸に畳み込んだのである。吉田松陰が米艦に乗り込んで密出国しようとしたが果さず、遂に獄に下ることとなったのも、この時のことであった。しかし竜馬は、今度も、事が終ると千葉道場での剣の道の明け暮れに戻っていった。竜馬は何としても自信が持ちたかったのである。それも自分の心にだけでなく、他人からも評価されるような自信を持ちたかった。強い自分になりたかった。弱さを知った人間こそが、真に強い人間になり得るということを知っていたわけではなかろうが、現実にそういうことを自分に求めていた。何者にも動かされない自分を持つことが、彼にとっては先決であったから、彼にはわき目をふる暇はなかった。
 ただただ剣の道に没頭するうちに、彼は自分の中に自信のようなものが芽生え、日に日にたしかなものになっていくのが感じられるようになってきた。それは嬉しく楽しいことだった。彼ののびやかで率直な性格も、自らのうちに自己を取り戻したことから、さらにその真価を発揮することとなる。彼の感覚は、なまじ、学問などという枠内で、既製の知識を押し付けられなかったため、のびのびと大らかで、豊かなものに育って行く。今や竜馬は、自らの足でしっかりと大地を踏みしめて立っているのだった。しかし十五ケ月という僅かな暇は、研鑽に明け暮れた彼にとって、アッという間に過ぎ去って行った。この年六月、竜馬は故郷に帰って行く。見違えるばかりの顔をして。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

黒潮にのせる夢

 土佐での河田小竜との出会
 土佐に帰った竜馬は、父親の健康がすぐれぬままに、江戸再遊の時期を延ばして、安政三年八月まで家にとどまっていた。この間、絵師河田小竜との出会いがあって、その後の竜馬を大きく変えていく基礎となった。
 河田小竜は絵画きではあるが、漂流中をアメリカ船に救われ、アメリカで十年余の教育を受けて帰国した土佐の漁夫中浜万次郎(ジョン・万次郎ともいい、外国交渉が始まってからは幕臣として召し出され、安政四年幕府軍艦操練所の教授、万延元年のアメリカ遣米使節の随員、その他測量、航海のことにあたった)とも関係があり、安改元年八月には、藩命によって大砲鋳造を学ぶために薩摩に派遣された砲奉行や砲術指南役に随行して、その事情にも詳しい、土佐の新知識であった。竜馬は、直接に黒船の脅威の前に立たされた江戸の緊迫した空気にくらべて、あまりにも懸け離れた郷里の様子に、不安とも物足りなさともいうような感じを受けたのであろう。薩摩の海辺防備の有様も、知りたかったに違いない。ある日小竜を訪ねて、その意見をたたいた。

 

 小竜の船についての考え方
 小竜は「この頃は、攘夷、開国の諸説がいろいろと盛んである。私はそれの是非について意見を述べようとは思わない。ただ、私が思うに、攘夷ということはできない相談だ。だからといって、開国するのだから攘夷の備えは要らないということにはならない。だが、これまでの軍備では役に立つまい。殊に海上の備えはなお駄目である。現在、諸藩で用いている軍船など、児戯のたぐいで、外国の航海に熟した大艦を相手にすることなど、到底できない。しかも今後、外船は続々とやってくる。このままでは、何時かは、外人の為にルソンのようになってしまわないとも限らない。これらのことを申し出ても、藩の役人達は聞き入れるわけもないのだが、そうかといって、黙って見ていることもできない。
 何か一つ商売を始めて金の都合をつけ、どうあっても一隻の外船を買い入れたい。志を同じくする者を集めて、その船にのせ、東西に往来する旅人や荷物を運搬することで、費用を賄いながら、航海術修得の緒口を作れるだろう。これはまるで、盗人をつかまえてから、縄をなうようなやり方ではあるが、今すぐにでも始めなければ、ますます遅れて、それこそ取り返しのつかないことになるに違いない。私はこれだけを日夜願っている」と語った。
 竜馬はこれを聞いて手を叩いて喜び、
「私はこれまで剣の道を修めてきたが、これは結局一人の敵を仆すだけにすぎず、到底大業をなすものということはできません。貴方の言葉に私も大いに共鳴します。貴方の志はきっと成るに違いありません。今後は手を携えて、大いに頑張りましょう」といった。その日彼はそのまま帰って行ったが、数日すると、ひょっこり小竜のところにやって来た。
 竜馬は、
 「あれからいろいろと考えてみましたが、船や機械類は金策さえできれば手に入れられます。しかし、これを運用する適任者を得なければどうにもなりません。しかもこれは、なかなか難かしいこと。さればといって妙案も浮かばない。貴方には何かよいお考えでもありますか」
と問うた。小竜はこれに対し、
 「それは君のいう通りだが、それほど心配することもあるまい。たしかに従来、飽食暖衣しているような上士階級の連中には望むべくもないが、下層人民の中には、何かなさんとする志に燃えながら、資力が無い為に手を拱いて慨いている連中が結構沢山いるものだ。これらの者を養成すればよかろう」と、いともあっさり答えた。竜馬には、その言葉が心にしみるようにわかった。

 

 小竜の推した若者たち
 厳しい階級制度の幕藩体制の中でも、わけても土佐藩がひどいこと。人材登用の道がほとんど開かれていないことを、少なくとも、江戸に出て、他藩の者とも交わった竜馬は痛いほどよく知っていた。さきに黒船渡来をきっかけとして、藩主山内容堂は、長らく続いた太平のだ眠を貧ぼり、だれきった藩政を改革するとして、思い切った人事の入れ換えをやりはしたが、それとてせいぜい上士の枠内でのことだった。竜馬は勢いこんで「では、貴方にはその同志の養成をお願いしたい。僕はこれから、専ら船を入手するために努力しよう」といって、小竜の家を辞した。
 竜馬の瞼の裏には、品川で敵というより憧れに近い気持で眺め見た黒船の姿が、ありありと浮かんでいたであろう。遠くにあった黒船が、少し竜馬に近づいて来た。その黒船に我が身をゆだねて、波涛を乗り切る日が来るかもしれない。いやきっと来る。そんな夢を抱かせるに十分な小竜との会談であった。
 後日、竜馬の率いる海援隊の隊員として、彼とその事業を共にし、彼を助けた近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助等、多くの人々が小竜によって見出され、その基礎をつくって竜馬の許に送りこまれた。小竜が断言してはばからなかった通り、これらの若者達は、あるいはまんじゅう屋の息子(近藤長次郎)であり、町医者の子(長岡謙吉)であり、また百姓の次男坊(新宮馬之助)であった。
 この時の約束通り、竜馬は船を手に入れ、小竜は有為の青年を発掘、養成して、二人の夢のような計画は結実したのであるが、それはずっと後のこと、当時の竜馬としては、まだ、この夢を心の底にしまっておくほかはなかった。間もなく父を失った竜馬は、改めて一ケ年の暇を乞うて、再び江戸の千葉道場に帰って行く。竜馬の当面の課題である剣術の修行はまだ終りを見てはいないのである。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

江戸への再遊

 竜馬の先輩武市瑞山の動向
 竜馬が江戸に出るより二週間ほど早く、竜馬の敬愛する郷土の先輩武市瑞山が、やはり剣術修行のために江戸に出ていた。瑞山は土佐国長岡郡仁井田郷に下士の長男として生まれ、幼時から秀才のほまれが高かった。九才の時から高知城下に出て、習字素読を学んだが、十四才の時、本人の希望もあって、一刀流千頭伝四郎に入門した。母の病気のため、村に帰ったが、まもなく母は死に、父もその後を追うように死んでしまった。そこで、祖母と二人きりになった瑞山は、高知城下の郷士島村源次郎の長女と結婚する。剣道修行の都合もあって、高知城下の島村家の近くに引越したのが嘉永三年のことである。島村家には源次郎の弟島村寿之助が同居しており、後、瑞山の勤王党の運動には大いに協力することになった。高知に移った瑞山は、師の千頭が死んだので、上士の師範である麻田勘七に就き、初伝を得ると自宅に稽古場を作って剣術の指導をはじめた。さらに嘉永五年には中伝を許され、稽古場もなかなか繁昌していた。だが瑞山にしてみれば、土佐の国内での修業だけに終るのが甚だ残念でならない。そこで安政三年八月に、江戸の藩邸での臨時御用として下士の人達が送られることになったのを機会として、師麻田を通して藩庁に願出、剣術修行を兼ねて臨時御用として派遭されることを許され、八月七日に高知を出発したのであった。瑞山は、千葉周作、斉藤弥九郎とならんで、幕末の三剣聖といわれた桃井春蔵に入門し、これまた急速な進歩を遂げている。

 

 安政五年剣士竜馬の帰国
 竜馬も瑞山に劣らず剣に没頭する月日を重ねていた。安政四年ともなれば、竜馬の剣はいよいよ進み、剣士として第一級という名が、その道に通用しはじめた。彼もようやく、幼年時代の屈辱感、劣等感から完全に解放されたのである。そして剣を通じて自らを信じ、自らに期待を寄せることができてきた。彼の中に、新しい世界を切り開いてゆく準備は整ってきたのである。一か年の暇を延期して、竜馬が土佐に帰国したのは安政五年の九月であった。
 この二か年にわたる修業中、土佐藩の江戸鍛冶橋藩邸で開かれた武術大会で、竜馬は今武蔵といわれた島田駒之助と立合い、見事に勝っている。この日、斎藤弥九郎道場から出場したのが桂小五郎である。小五郎もまた見事に勝をしめた。対外的な試合にも、決してひけを取らぬ力を築きあげた竜馬は、サバサバした気持で故郷に戻って行った。
 しかし彼が帰国した安政五年九月という月は、大老井伊直弼が、その反対派をかたっぱしから逮捕しはじめた月であり、その翌年にかけて多数の人々に対して断行された死罪、遠島、投獄に発展する前触れとなった月であった。竜馬はそれを他所目に見ながら、江戸を去ったのである。まだ、竜馬をその渦中に巻きこみこそしないが、先年の黒船渡来で裂目をつくってから五年、時代はさらに大きく揺れ動き始めていたのである。

 

 世継問題と外交で揺れ動く幕府
 先に述べたように、安政元年三月三日に、幕府はアメリカと日米和親条約を結んだが、これに刺激されたイギリス、ロシア、オランダからの相次ぐ要求により、それぞれの国と和親条約が結ばれ、また安政三年七月には、ハリスがアメリカの駐日総領事として下田に乗りこんでくることとなる。さらに翌安政四年五月、ハリスは在留米人の居留権と領事裁判権を認めさせる下田条約を押しつけ、十月には江戸城にまで押しかけて来る。武力を背景としての、ハリスの交歩の強引さ、巧妙さが功を奏して、安政五年一月には、日米通商条約案がつくりあげられ、幕府は調印を待つばかりというところまで追いこまれてしまった。脅かされ、すかされて、いやいやながら窮地に追いつめられた幕府であるが、国内の情勢は既に幕府の独断専行を許さないところまできていた。幕府には、従来のように朝廷を無視し、世論を押し切って一拠に調印にもって行く指導力もなく、決断はさらにつかなかった。現職の将軍家定は廃人同様であったから、彼自身の政治力、指導力を期待するなど思いもよらない。しかも、家定の余命はもう眼に見えていたので、子どものいない家定の後継者の選択で、幕府の内部は真二つに割れている。強力な政治力を発揮するどころではない。そうでなくても、幕府の力は落ち目になってきている。
 幕藩体制の矛盾が、日に日に露呈されている現状を解決するために、この際、各藩に分離している封建体制を、藩主連合という突っかい棒によって中央権力強化へと持っていこうとする人々は、聡明をもって聞こえる一橋慶喜(十五代将軍)を立てようとしていた。これに対して、譜代大名と大奥は改革を望まず、何とかこれまでの国政担当の地位を守ろうとして、わずか十才になったばかりの寵紀伊慶福(十四代将軍家茂)を擁していた。将軍継嗣と条約勅許の二つの問題を解決する自信は、幕府にはなかったから、舞台は遂に京都に移らざるを得なくなった。国主としての朝廷の権威によって、何とか幕府にも都合のよい解決をつける必要があったし、他に道はなさそうだった。朝廷をうまく説き伏せれば、最終的着任も転嫁できる。

 

 彦根藩主井伊直弼の登場
 ここに於て、これまでの百年間、全く政治を離れていた朝廷が、大きくクローズアップされてくる。将軍継嗣問題においては二派の幕臣、諸大名の条約勅許問題では、勅許を願う幕府側と攘夷を主張する尊王攘夷派の、朝廷を間にはさんでの裏面工作が顕著になってきた。老中堀田正睦など、この京都工作のために七千両の金をばらまいたとさえいわれている。だが、突然照明をあてられて、引張り出された京都の公卿達に、世界の動きについての知識があるわけがない。定見も見透しも持っていない彼等の論議は、二転三転するほかなかった。一橋慶喜擁立のために動いた橋本左内が、その無智ぶりと頑迷さ加減に呆れたのも、この時のことである。こんな事情だから、安政五年二月に条約の勅許問題は「三家、諸大名の意見を聞いた上で決めたらよい」という勅諚が出され、三月初旬には「外交のことは一切幕府にまかす」という勅諚が出されるところまで引っくりかえったが、下旬になると、あらためて勅許を拒否する勅諚が出されるという有様。継嗣問題に関する勅諚にしても、後継者は「年長、英明、人望ある者」と、暗に慶喜をほのめかす語句を入れるかどうかで、もめ続け、すったもんだの揚句、最後の土壇場で、この言葉は削られてしまった。
 こんなモタモタした状態も、四月を迎えて彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると、問題は一足飛びに結論に到達してしまった。日米通商条約は、勅許を待たず、さっさと六月十九日に調印されてしまったのである。怒った水戸斉昭は、尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、一橋慶喜等と共に直弼を責めた。ここで直弼は、敢然として、受けて立った。六月二十五日、突如として、慶福を将軍の跡継ぎにすることを発表、七月五日には斉昭達を謹慎、隠居謹慎、登城停止などの処分に付した。そして九月七日に梅田雲浜、九月十一日に鵜飼右左衛門親子を逮捕に踏み切ったのを皮切りに、将軍継嗣と条約勅許に動いた反対派を広範に逮捕していく。十月には橋本左内が捕えられ、十一月には頼三樹三郎、三国大学が捕えられた。逃げ場をなくした僧月照が西郷隆盛と共に鹿児島湾に入水したのも、同じ十一月であった。

 

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新生

 水戸藩が内勅をもって動き出す
 勅諚に反して日米通商条約が結ばれたことを責める内勅が秘かに水戸藩に下されたのは八月に入ってからだった。だが、老公斉昭、藩主慶篤が謹慎あるいは登城停止をくらい、既に藤田東湖も死んでしまった水戸藩では、家老の安嶋帯刀も幕府の監視を受けている有様で、この内勅を積極的に各藩に通達し、これを実現する体制に持ちこむことは不可能に近かった。しかも内勅を下されたと知った幕府は、早速これを抑えにかかってくる。慎重という名に隠れての、温順派の抬頭。それ以上にまずいことには、内勅を受けて立ち上がる準備が、どの藩にもできていなかった。長州もその直後に密勅を受けたのだが、どういう動きも起こりはしなかった。起こしようもないというのが正直なところであった。水戸藩の関鉄之助(桜田門外の変の首謀者)は、秘かに各藩を回って、その反応をたしかめて歩いた。彼が井伊襲撃を企てたのも、全くその結果によるものである。水戸の住谷寅之助、大胡聿蔵の二人も、十月十一日に江戸を出発して秘かに各藩の反応をたしかめて回っていた。
 十一月十七日、寅之助等は土佐にもやって来た。しかし手形を持たぬ彼等は国内に潜入することができず、伊予と土佐の国境にある立川村の木屋岩吉の家にとまり、適当な対談者の斡旋を頼んだ。その結果、竜馬に連絡がとられ、竜馬から二、三日待ってほしい旨の返書が届いた。川久保為介、甲藤馬太郎の二人と共に竜馬が寅之助をたずねて来たのは、二十三日の夜のことだった。その夜を語り明かした竜馬は翌二十四日、高知へ帰って行った。寅之助は是非とも高知に入り、大須賀五郎右衛門(京都へも行っていたことがある)に会いたいと強く希望したが、どうしても藩府の許可を得ることができず、やむなく十二月一日に土佐を去る。

 

 秀れた剣士としてのみの竜馬
 当時は、後に土佐勤王党をおこした武市瑞山でさえ、勤王派としての運動を始めてはおらず、竜馬も秀れた剣客というだけで、革命家としても思想家としても、まだ白紙の状態であった。だから二十三日の夜も、語り合うというより、竜馬は専ら聞き役にまわったらしい。会談の内容は明らかではないが、寅之助は、竜馬を「誠実でかなりの人物」とは思ったものの、国の動きについてはともかく「幕府の役人の名前さえ知らない。無駄に日を過したことが全く残念だ」と、その落胆ぶりを日記に書きのこしている。
 多分、寅之助は、我が藩の苦難のよって来るところが一朝一夕のことではないというところから、大日本史編纂に始まる苦難から説きおこし、藤田東湖、会沢正志斉に至る、幕府への忠誠と尊王の大義を併せ行なうための苦心の連続、そして今日の幕府の専断に説き及び、今日、西洋列強が日本に押し寄せて強引に条約を結ばせようとしている実情、それに押し流されている幕府の態度は日本の国を踏みにじるものであり、断じて許すべからざるものであると説きあかしたに違いない。それもコチコチの水戸っぽの通例として、激越な口調にその熱誠をほとばしらせたであろう。これに対する竜馬は、その地金をまる出しにして、知らぬことは知らぬままに、感心して聞いていたと思われる。

 

 水戸藩士、竜馬に大いに失望する
 一緒になって血涙を流すわけでもない竜馬の態度が、苦心して土佐にたどりついた寅之助には拍子抜けの感じで、彼が如何にもがっかりしただろうということは想像がつく。しかし、こんなことでがっかりするのは、寅之助の方が間違っている。竜馬が尊王攘夷の運動に対してどんな無智だったとしても、その例証として役人の名前も知らないと怒りさえ感じたらしいことに、その誤まりがはっきり指摘できる。役人の名前や人柄など、具体的な運動の上で、相手の能力を知る上では必要だとしても、それは参考知識の範囲を出ない。活動を展開する中で、必要に応じて知ればよいし、そんなものを知るぐらいはたやすいことだ。運動を遂行していく上で必要な同志の存在、同志を作る可能性を探って歩くのが、反応をたしかめるという行動の真の意味であろう。だとすれば、単なる知識の有無、多少をはかってみるより、もっと肝心なものをはかる必要があった筈だ。それを知識の無さに引っかかり、大げさにがっかりしたところに、実情に即せず、せっかちに事を望み、おこして潰滅した水戸人の姿が、あまりにもよく出ている。

 

 一人を仆す剣より万人を動かす学問
 こうして水戸藩士との応接は、うやむやに終ってしまったが、この機会が竜馬を痛く刺激した。彼はこのころから、読書にことさら熱を入れている。二度目の江戸遊学から、友人のとめるのを振り切って帰国した竜馬は、剣を通じてつかんだ自信から、一人を仆すことしかできない剣の道より、万人を動かし、万人にあたり得る学問の必要を感じ始めていたからかもしれない。既に、思いきり学問の道に投入するつもりでの帰国であったとも思われる。
 竜馬がこのころ読んだ本は、専ら歴史書であったらしい。その中には、中国の史書資治通鑑がある。資治通鑑といえば、宋の司馬光が英宗の詔を奉じて、二十年近い年月を費やして書きあげた、編年体のもので、周の威烈王から五代後周の世宗に至る百十三王、千三百六十二年間の歴代君臣の事蹟を書いたものである。
 竜馬が毎日本を読んでいるということが、友人間の評判になったというから、そのころでも、剣士としての竜馬には一目置かざるを得ないとしても、学問をする竜馬など、周囲の人間には考えられないことだったのだろう。彼の読書ぶりを見てやろうとやって来た友人は、彼が送り坂名も、ふり仮名も無い白文を、はじから棒読みにしているのを知って、驚き呆れたとしている。当時の常識からいうと、それは出鱈目に近いことだった。漢文を棒読みにするなどということはあり得ない。チンプンカンプンである。だが、本当のところ、漢語の文章にかえり点や送り仮名をふって、前後を引っくりかえして読む読み方は、日本人のこしらえあげた独得の方法である。全く変則的な読み方の中に、日本人は日本人流の漢語感というものを作りあげ、ある時は、その語感を通して中国の姿、中国人の姿さえ作り上げた。漢文は中国語としてではなく、ひねくれた日本語になり切っている。そしてそれを唯一無二の読み方としてきた。長いこと中国文化を採り入れて来ながら、それが日本流に変質されたのは、功罪は別として、その特種な事情によるものだろう。だが、そんなしきたりを、竜馬はあっさりと捨ててしまったのである。常識的な友人達には、これは笑うべきことに属した。笑って試みにその解釈を聞くと、竜馬の説明は正しく、要点をよくつかんでいた。これには友人達も、一層驚いたという。

 

 オランダ憲法から受けた政治への開眼
 竜馬は書物の読み方を叩きこまれることなく育った。幼時から、読み方を押しつけられなかった彼は、彼なりの読みとり方を身につけたといえる。すらすら読むための苦労も修練も積まなかった為に、かえってその内容にズバリと入りこみ、書物の真髄に、心を傾けることができたのであろう。加えて、彼には物事の核心をつかむカンのよさがある。文字を通して、そこに書かれた世界に分け入り、史上の人物と心ゆくまで会話をとりかわし、自問自答していたのではあるまいか。巧みな説明で上面を撫ぜるのでなく、直接歴史の中に生き、歴史を作り、動かして生きた人達の考え方を、自分なりにガッチリと受けとめ、考えていたのであろう。歴史の流れを、そこにかかわる人間のあり方、生き方を読みとろうとしていたに違いない。
 資治通鑑だけでなく、日本外史、日本政記や史記もまた、彼は棒読みで、だが突っこんで読んだ筈である。そこから、彼の奔放で自在な考え方は、ますます伸び展がっていった。独創的にもなっていった。
 竜馬のその読書法は、外国語においても変わらない。やはりこの頃、竜馬は蘭学者の許に通っていた。教材にはオランダの法律概論が使われていたというが、竜馬はひどくこの本に興味を持っていた。殊に、選挙によって選ばれた人達で構成する議会制度や、将軍や藩主のための政治しかない日本にくらべて人民のための人民による政治という考え方には、驚きをこえて、深い感動を呼びおこした。竜馬における思想的開眼は、あとにも先にも、これ以上のものはなかったと考えられる。この時竜馬の読んだであろうオランダ憲法は、1848年に制定されたものである。

 

 竜馬の独自な勉強法読書法
 そこで、この蘭語の読み方であるが、ここでも竜馬は、一字一句にとらわれたり、必死になって単語を覚えようとはしていない。だが、ある時、講議を聞いていた竜馬が「そこはどうも違うようだ」といい出した。先生は、訳を間違うようなことはないとつっぱねたが、竜馬は引き下がらない。そして、「訳が誤まりでないなら、その法がそもそも間違っているわけだ」といい切った。怒りに顔を青ざめさせた先生は、それでも竜馬の自信たっぷりな態度に押されて、もう一度読み直してみた。結局、間違っていたのは、先生の訳であることを発見して訂正したという話が伝わっている。訳が違っていないとすれば、法そのものが誤まりであるという彼の中には、文章の技葉末節ではなく、その法の内容が深く把握されていたし、それを読みとることだけが、彼の読書の姿勢であったといえる。同時に、彼の内部には、人間について、人間関係について、政治の在り方について、知識の寄せ集めでも固定観念でもない、彼独自の総合的な考えが、まとまり、かたまりつつあったのである。書物に読まれない。書物に引きずりまわされないものが、育ちかけていたのである。
 やはり同じころ、高知城下で一つの事件がおこった。もとを正せば上士と下士のけんかである。上士山田広衛が下士中平忠一郎に侮辱されたということが発端で、山田は中平を殺し、中平の兄池田重之進が弟の敵とばかり山田を斬ったことから、上士対下士の紛争に発展しかけたのである。敵討ちの連鎖反応のようなものだ。だが特に、長いこと押えつけられてきた土佐の軽格達にとっては、欝積した怒りと不満の吐け口を求めたことにもなる。下士群の中心となって、この事件をおさめたのが竜馬であった。敵討ちという些細な事件の延長ではあったが、この事件は軽格達の不満の解決を具体化する一つのきっかけとなり、また軽格達に勇気と希望を与えた点で、重要な事件であった。

 

 土佐藩主容堂一橋派に立つ
 時代の波は土佐の海辺にも徐々に押し寄せてきていた。竜馬も土佐の武士達も、次の動きのために、僅かずつゆれ始めていたのだった。こういう表面に表われない動きとは反対に、藩の上層部は、既に大きく動いていた。藩主容堂は、もともと山内家の分家の妾腹の子であったのが、藩主豊熈とその弟豊惇の相次ぐ病死によって、思いがけず土佐二十四万石藩主の椅子につくことになった(嘉永元年十一月)幸運児である。藩主にはなったものの、豊熈の父豊資は隠居として健在であったから自主的な藩政を行なうことはできなかった。保守的な周囲に縛られて、身動きもできなかった容堂は、黒船渡来が及ぼした時代の変動の機会を捉えて藩政改革に手を付けることができた。手はじめに吉田東洋、小南五郎右衛門の二人を登用し、改革の実現をゆだねるが、この改革は、先にも述べたように、一定の限度内のことに終っている。江戸で越前の松平春嶽や宇和島の伊達宗城などと親交を結んだ容堂は、将軍継嗣問題がおこった時、春嶽の勧めに従って一橋派に加わって運動の渦中に立った。一橋派が敗れた直後、春嶽は隠居謹慎の処分を受けるが容堂は処分を免がれた。しかし、安政の大獄といわれる反対派の一斉逮捕がはじまると、隠居を申出るようにすすめられ、安政六年二月到頭隠居が確定した。当時、補佐の任にあたった桐間将監、福岡宮内、小南五郎右衛門、生駒伊之助、寺田左右馬などは、すぐさま、藩府自体が、退役、減禄、謹慎の処分をしたのであった。つまり上層部は下士連中に一歩先んじて幕政に頭をつっこみ、早くも敗れていたのである。

 

 松陰たちの死罪から桜田門外の変へ
 安政六年、京都、江戸、水戸、越前、長州は、去年に引き続いて、時代の嵐がいよいよ吹き荒れていた。昨五年に逮捕された者の尋問が始まったのは二月。勿論反対派を断罪するのが目的だから、吟味掛りのうち処罪を寛大にと考えるような者は大巾な配置転換で姿を消している。
 八月二十七日、水戸家の家老安嶋帯刀が先ず切腹となり、鵜飼吉左衛門父子も死罪となった。続いて十月七日に橋本左内と頼三樹三郎が死罪、同じく二十七日には吉田松陰も死罪となる。梅田雲浜、日下部伊三次は既に獄死していた。橋本左内は、反幕府的な動きをしたわけではないにもかかわらず、幕政改革者として、時の権力と対立したというだけで死罪にさせられたものである。藤田東湖を失って水戸斉昭が駄目になったように、左内を失った春嶽は、急速に精彩を失っていく。
 幕府の断罪の影響を最も大きく受けたのは水戸藩であった。先に下った内勅を返上せよという幕府に対して、藩内に無視派と穏健派の対立がおこり、穏健派が勝ちを握った。無視派は実力をもっても、穏健派の行動を阻止しようとしたが果せなかった。結局、彼等は脱藩し、井伊大老の暗殺計画へと急進していく。翌万延元年三月三日、関鉄之助ほか十六名の水戸浪士は、遂に桜田門外に井伊を仆すこととなった。強権による弾圧が、かえって革命家を強烈にしていったのである。そして井伊という支柱を失った幕府の権力は、今や大きく揺ぎつつ、凋落の度を増していった。
 井伊によって退けられていた久世広周は、再び老中にかえりさき、先に護慎になった人々の謹慎も解かれる一方、この刺殺事件に肝を冷やした連中の中に、幕府と朝廷の間をうまくとりもっていくための公武合体策が頭をもたげはじめてくる。
 日米通商条約の影響が、ぽつぽつ現われてきたのも、またこの時期なのである。

 

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押し寄せる外敵の脅威

 狡猾な外国商人に荒らされた甘い市場
 通商条約が結ばれると、西洋文明に立ち遅れた、この東洋の新しい市場に、さまざまな種類の人間が入りこんで来た。言葉もろくろく通じず、こちらの風習にも全くなじんでいない異人との間に磨擦が生じるのは当然でもある。しかも、これらの外人は、不平等条約を楯にとって、甚だ横暴、狡猾であった。
 安政五年六月二日に開かれた港は横浜、長崎、函舘であったが、貿易はどんどん盛んになっていった。取引きは、居留地の外国商人と開港場の日本商人との間で行われ、日本商人はまず見本を出して値段を定めてもらい、契約を結び、現品を全部納入してから品質検査を行い、その後はじめて代金の支払いを受けるという仕組になっていた。品物をすっかり抑えられているから、買い叩かれたり、勝手に契約破棄をされても、日本商人は歩が悪かった。たとえ裁判に持ちこんだとしても、領事裁判権を持っている外人を裁くのは外人側の領事裁判所だから、どうにもならなかった。
 反対に日本商人が品物を買い入れる時は、一切現金引換えで、商品の相場も外国商館で教えてもらうほかに手はなかったから、何時の場合も不利だった。
 当時、外国商人にもっとも狙われた商品(?)は金だった、日本では貨幣の歴史の故もあって、相対的に銀の値打ちが高く、金貨と銀貨の比率が、金一に対して銀五というくらいの割合だった。しかし外国では一般に、金一は銀十五くらいにあたっていたから、日本で銀を金に変えて外国に持ち出すと、ただそれだけで、もとの三倍という大もうけができた。そこで、幕府が金貨の質を下げるまで、日本の金貨がどんどん外国に流れ出したのだった。
 開港場に集まった日本商人のなかには、相当にいかがわしい者も混じっていたであろうし、ひどいことも行われたろうが、この甘い新市場をめがけて集まって来た外国商人が、それ以上であったことも容易に想像される。

 

 貿易は国内の経済生活にも混乱と発展を
 貿易のの開始は、国内の経済事情にも、大きな変動を与えた。まず、輸出品目の値段の暴騰である。ことに生糸の値段は激しく上昇を続け、そのため生糸の生産も僅か三、四年で二倍以上にふくれ上がった。商品が一様に外国に向けられたため、国内需要の不足となり、西陣、桐生では、織物業者の失業が、騒動寸前にまでゆくという深刻な状景を展開した反面、生糸を生産する農家の収入は、四、五年の間に十倍から三十倍になるという、異例な発展ぶりを示した。茶の生産にも、これと似た現象がおこっている。これらの現象に伴って、国内一般の物価も、当然どんどん上がったから、民衆の生活は圧迫され、苦しむことになった。このような混乱と発展は、必然的に、一つの経済単位として、統一国家に向かわざるを得ない内的条件をつくりあげ、従来の幕藩体制を内側から突き崩してゆくことになる。時代はますます揺れに揺れていたのである。
 外国との貿易に伴って蒙った、各種の経済的圧迫に加えて、文久元年(万延元年の翌年)には、外国の領土侵略問題も捲きおこった。

 

 対馬をとりまく領土問題が起こる
 三月四日に長崎県対島の芋崎港に上陸したロシア艦の水兵達は、対島藩の抗議を無視して設営の準備をはじめ、四月十二日には大船越にも上陸しかけた。これを阻止しようとした村民との間に小ぜり合いがおこったのをきっかけに、遂に村民は警備隊をつくり、郷士達もそれに参加して奮いたった。だが藩主宗義和はロシア人との衝突を恐れるばかりで、何等積極的な手を打たない。幕府は外国奉行小栗忠順を派遣して来たが、その小栗も、うやむやのうちに、あとの処置を藩主に押し付けて引き上げてしまう。弱りはてた藩主は、すっかり浮足だって、対島を幕府の直轄地にし、自分は他所の地へ転封してもらいたいと、幕府に願い出た。
 ロシア軍艦の対島侵攻は、その前年の万延元年、イギリス、フランスの両国が、対島を共同の海軍基地にしようとしているという情報をキャッチしたロシアが、先手を打って来たのである。領土への野心は、アメリカもその例外ではなかった。
 対島藩主のヘッピリ腰どころか敗北的姿勢をよそに、住民は、郷士や若い藩士達と結束して、この地を死守しようと抵抗を続けた。そのうち、ロシアのこの挙を知ったイギリス側が強引に退去をせまり、敢て武力に訴えることも辞さない態度を示したから、ロシアはその目的を達することなく八月二十五日には退去して行った。
 領土の防衛に対して、幕府も藩府も、如何にいいかげんな態度に出るかということを、この事実は、はっきりと証明した、かつて河田小竜は竜馬に「諸侯はたのみにならない。上士もたのみにならない」といったが、まさにこの言葉は、現実となって現われたのである。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

南国土佐の胎動

 間崎哲馬が高知で塾をはじめる
 万延元年三月三日の桜田門外での井伊刺殺事件が、四国土佐に伝わったのは三月十九日ごろであったらしい。信じ難い事が事実とわかって、土佐の士民は驚きあきれたという。たまたま高知城下の間崎哲馬の家に集まった十数人は、事件についていろいろと話し合っていた。なかで監察史の職にある者が「十七人の志は感ずべきだが、国法を犯しての行動はどうかと思う」といい出した。すると間崎は笑って、「これが権道というものだ。赤穂義士の敵討ちだって、国法上から論ずれば大罪人ではないか」といい、集まっていた者達は、なるほどと納得したという。
 間崎哲馬は幡多郡江ノ村の下士の甥で、高知城下の種崎町に生まれた(天保九年推定)。幼時から神童といわれ、六歳で学問を始めたが、嘉永二年十六歳の時には、既に土佐に自分の良師はいないと感じて、江戸に出て安積艮斎の門に入った。ここでもたちまち頭角を表わして、三年目には塾長になったほどだった。しかし、彼の帰りを待ちわびる母親の願いを聞きいれて、その後すぐ高知に帰り、塾を開いて近所の子弟を教え始めた。
 安政元年に、藩庁がその教育活動を賞して、学米二人扶持を給そうとしたが、哲馬はこれを辞退したという。後に、哲馬の才学を用いるよう、特に藩庁に推める人があって、二人口禄七石の徒士に抜擢されたという。当時の土佐で、哲馬の身分では、それ以上の出世など、不可能だったのである。

 

 竜馬はじめて大志を語る
 哲馬は江戸に遊学中、頼三樹三郎と交遊もあったらしく、土佐勤王党成立への気運醸成にも、一役買っているはずで、その意味では先覚者ともいうべき人物である。哲馬の門下生から、吉村寅太郎、中岡慎太郎、島本審次郎等を出しているのも、むしろ当然といえるかもしれない。(この島本は、哲馬に学んだ後、安政五年八月に江戸に出て、安井息軒の塾にいたが、長門の志士と知り合う機会を得て、江戸における時勢の切迫を痛いほど感じた。ほどなく帰国し、周囲の者達に、いろいろと説いたが、当時、誰もその切迫感を受けとめてくれなかったという。後に土佐勤王党をおこした武市端山でさえ、まだ、剣道に熱中していたのである。)
 桜田門外の変の斬奸趣意書の写しが廻って来たのは、変事が伝えられてからしばらく後のことだった。池内蔵太、河野万寿弥等が集まって、わいわいとやっているところに竜馬がやって来て「君達は何だってそんなにただ、慷慨しているんだ、これは臣子の分を尽したということだ。我輩は今にきっと、これ以上のことをやるつもりだ」といったという。竜馬の周囲の者で、彼の大志を聞いたのは、これがはじめてだったといわれている。
 ちょうどこの頃、長らく看病を尽していた祖母に死なれた武市瑞山は、七月、剣術詮議の名目で、門人三人(島村外内、久松喜代馬、岡田以蔵)を連れ九州旅行に出かけた。竜馬はこれを聞いて、「今どき武者修行でもあるまいに」といったという。だが瑞山は未だ、その心中に何を考えているか、如何なる計画を持っているのか語らない。但し後日「薩摩以外の九州諸藩は私が既に観察してあるから、探索の必要はない」といい切っているところから察すると、心中期する所はあったのかもしれない。長州や薩摩にくらべて、ずっと遅れていた土佐の零囲気は、「ホラ吹き」といわれた竜馬が、わざわざ大げさにいうのは問題にもされないが、生真面目一方の「きゅうくつ」といわれる瑞山などが切り出すには、まだ十分に機運が熟していなかったともいえよう。

 

 武市瑞山の動き活発化す
 この年の十一月、勤王派の人々の反対を押し切って、和宮降嫁の勅許がおりた。和宮降嫁とは、皇妹の和宮(十五歳)と将軍家茂(十五歳)を結婚させようとする井伊大老の遺した公武合体派の策であった。既に有栖川宮熾仁親王と婚儀の日どりの決まっていた和宮を、幕府はあらゆる手段を使って強硬に奪取することに成功したのである。勤王派の志士達の怒りは炸裂寸前であった。
 この頃土佐藩の郷士大石弥太郎は、藩庁の命で砲術修行のため、江戸で勝海舟の門に入っていたが、志士達との交遊が深まるにつれて、瑞山に檄を飛ばした。既に九州旅行から帰っていた瑞山が、江戸に向けて再び出発したのは文久元年四月である。六月、江戸藩邸に着いた瑞山は、大石、河野、池、柳井健次、広田恕助など、藩邸外の塾に住まっている友人同志を使って、しきりに他藩の人々と往来し、情報を集めたり、論議をかわしたりした。長州の久坂玄瑞とはじめて会ったのも、この時のことである。玄瑞と瑞山はその場で旧知の仲のごとく親しく話しあったという。玄瑞は吉田松陰門下の四天王の一人で、その識見、学識も大いに買われた俊秀である。瑞山はここで、玄瑞の亡き師であり、勤王党の大先覚者ともいうべき松陰のことを聞き、深く心に感じたという。玄瑞を通じて長藩の中心人物桂小五郎や、玄瑞と同じ松陰門下の傑物高杉晋作等とも交わることとなり、薩摩の樺山三円とも知合って、瑞山自身大いに啓発された。

 

 土佐勤王党誕生する
 瑞山が、土佐勤王党同志血盟書を作製したのは、この江戸生活に於てである。瑞山は、まず土佐藩の同志を固めた後で、長州、薩摩の志士と一緒に、勤王の事をおこそうと考えたのだった。それは土佐藩が既に長・薩の両藩に比べて遅れていることの自覚と、瑞山の一藩勤王という基本態度が影響している故であろう。

  盟いの言葉
 堂々たる神州が外国の辱しめを受けて、昔から伝わる大和魂も、今は絶えそうになっている。天皇は、これを深く歎いておられるが、長い太平の時代になれて、だらけきった気風にひたり切り、誰一人として、皇国の禍を打ちはらおうと、心を振いおこす者もない。我が老公(容堂)は早くからこの事を心配され、主だった人々に働きかけたが、かえってそのために罪を得てしまった。このような有難い心を持っておられるのに、どうしてこのような罪に落ちなければならないのであろうか。君主が辱しめを受けたら、臣はそのために死をもって抗うのは当然である。しかも、皇国が今にも、つぶれそうになっているのだ。大和魂をふるいおこして、同志の結合をつくり、一点の私心もさしはさまず、相談して、国家を再び盛りたてる力の万分の一にでも役立とう。天皇の旗が一度揚ったら、団結して水火をも辞さぬことを神に誓い、上は天皇の心を休め、我が老公の志を継ぎ、下は万民の困難苦しみを除くのだ。だから、この中で、私心をもって、何彼と争う者があったら、神が怒り、罰を与える前に、皆で集まって切腹させよう。生命にかけた約束のしるしに、各人の名を書きつけて置く。
 文久元年辛酉八月
                     武市半平太小楯
                     以下連署血判

 

 和宮降嫁阻止計画をおさえる
 そうこうしているうちに和宮降嫁の日取りは目前にせまった。(文久元年十月二十日)怒りに興奮した志士達は、東海道の途上和宮の御輿を奪い、京都へお返ししようと企てた。会合に出席していた瑞山はこれを止め、「今諸君は匹夫の事を行おうとしているが、成功は期し難い。ただ徒らに志士を殺すことになるだろう。むしろ同志の皆が、それぞれ国に帰って藩論を勤王に一決させ、藩主を奉じて京都に入り、幕府にせまって尊攘の実功をあげさせるのだ。このようにすれば天下の人心を憤起させ、尊攘の目的を達することができよう」と説いた。瑞山の名は、これを以て一度に志士の間に知れわたったという。瑞山はさらに長州、薩摩の両藩の志士と、明春を期して、三藩が藩主を奉じて入京するように謀った。瑞山が早速河野、柳井、島村衛吉を伴って帰国の途につこうとした時、玄瑞はそれを止めて、瑞山一人は江戸に残るように懇請したが、瑞山の一藩勤王実現を期する希望は強く、遂に止め得なかった。
 こうした情況を背景に江戸から帰った(九月ごろらしい)瑞山は、早速、具体的に土佐勤王党の結成に乗り出した。これに参加したのは、郷士庄屋などを中心に192名。(勿論、一挙にそうなったのではなく、運動の過程文久二年までに、次々と書き加えられていったものである)下士のなかで、文武の道に秀れた者は総て網羅したともいえる。おもな者の名をあげれば、坂本竜馬、中岡慎太郎、間崎哲馬、平井収二郎などである。今や下士群は結集して、一大勢力を盛り上げ、勤王運動の緒についたのである。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

竜馬と瑞山

 竜馬、長州に久坂玄瑞を訪ねる
 竜馬が剣術詮議の名目で土佐を発ったのは文久元年十月十一日のことである。二十日間の暇願いは、後に兄権平によって翌年二月まで延期願いが出されている。この時、竜馬は瑞山の要請で長州からの使者、長嶺内蔵太、山県半蔵と、国境で会談し、瑞山には文書でその報告をしたまま、二人に同行して長州へ行き、そのまま十一月には大阪にも行っているとされているが、その間の消息はよくわからない。
 竜馬が瑞山の密書を持って、長州に久坂玄瑞を訪ねたのは、文久二年正月十四日から二十三日までである。瑞山は前年暮にも、山本喜三之進、大石団蔵の二人を長州に送って、一藩勤王の瑞山の志が、はかばかしく進まないことを訴えた。久坂は「長藩もまた、あまり振わず、使者の両君の期待にそえず申しわけない。諸侯頼むにたらず、俗吏もたよりにはならず、これらをたよるようでは、とても天下の大事を行なうことはできるはずもない」という返書を送って、瑞山の一藩勤王の考えに、やんわりと反撃を見せている。
 ところで竜馬は、この時、文武脩行館で剣術詮議の名目のためか、藁束を斬るなどして剣技を披露し、その後、佐世八十郎、中谷正亮、寺島忠三郎、岡部富太郎、松浦松洞など松陰の門下で久坂と志を共にする人々と会談している。ちょうど時を同じくして、薩摩の田中藤蔵が、樺山三円の使者として萩に来合わせていた。

 

 松陰門下の俊英久坂玄瑞
 久坂玄瑞といえば、先にも述べたように、高杉晋作と並ぶ吉田松陰門下の俊英であり、当時年二十三才。竜馬より五才年下であったが、長州の久坂の名は、革命家、勤王志士の間では広く喧伝され、長州藩の中でも重要な存在となっていた。若い頃、松陰に鍛え叩かれた玄瑞であり、松陰という先師を持った長州の尊攘論は、その運動の出発当初にくらべて、長足の発展を示している。玄瑞が持っている広い知識と識見、それに迸しるような熱情をもって、竜馬は、この僅かな滞在期間に、徹底的に仕込まれるのである。竜馬の漠然とした尊王攘夷は、ここでガッチリとした筋金入りとなる。ぼんやりと読んだり聞いたりしていながら、肝心の所は必ず押えて、それをすっかり自分のものにしきってしまう彼独得の能力をもって、彼は彼流の思考の中に彼流の尊王攘夷論を組み入れ、彼独得のものを作り上げる。それは竜馬の生来の特色である。細かいことにこだわらず、おおどころを掴みとって、そしゃくする力は、彼自身の勉強と体験の堆積によってできた能力によるものだ。彼ほど周囲に影響されない人間も珍しければ、彼ほど周囲の総てのものから必要なことを学び取り、自らの体験を自分の内部につかみ取ることに欲ばりな人間もいないのだ。
 この時、竜馬に託した玄瑞の手紙には、
 「……坂本君と腹蔵なく話し合いました。もはや諸侯は頼むに足らず、公卿もまた同じこと。この上は無位無官の志ある者達が団結して事をあげるほかはないと、私共同志の者達と考えております。失礼ながら、あなたの藩も私の藩も滅亡したとて、それが正しい道理を遂行するためならば、何でもないことです。両藩が存在していても、恐れ多くも天皇の御心である万民平等、平和の世の中を実現できなければ、この国に生きていたとて何の甲斐もないと友人共とも話し合っています。ですから、坂本君にお話したことも、よくよくお考え下さい……。」とある。

 

 瑞山を抑えていた吉田東洋
 玄瑞は前の手紙に重ねて「諸侯頼むにたらず」といい、今回ははっきりと、長州や土佐の藩を越えるべきであることを説いている。この視点は、既に吉田松陰の獄死直前の手紙にも現われており、松陰が死を賭して闘いとった立場である。それが勤王志士の注目を集めた対島侵略事件での、藩主、上士の動きを踏まえて、ここに、さらに現実的、具体的な形をとって現われたのである。
 竜馬は萩を去った後、大阪、京都と足を延ばして近畿の状況をつぶさに探り、二月末、高知に帰っている。竜馬は玄瑞との接触によってその勤王攘夷の思考を自分のものとしたが、同時に薩摩の島津久光が入京の準備中で、これを機会として事をおこす企てがあることを探ってきていた。高知に帰ると早速、瑞山を訪ねた竜馬は、これらのことを詳しく報告し、今こそ起つ時であると主張した。しかし瑞山は一藩勤王の自説を譲ろうとはしなかった。この瑞山の動きを抑えていたのが参政吉田東洋である。
 吉田東洋は、藩主容堂が藩政改革に手をつけた時から参政の職に就き、内外に手腕をふるってきた。瑞山はさきに帰国してから、さかんに一藩勤王への前提として、藩政改革を進言したが、一向に取り上げられる様子もない。そこで藩庁の実権を握っている吉田東洋を訪問して、一藩勤王の提案をした。しかし、東洋は現に幕府ににらまれている状態で、そんなことをしては、山内家が危いといって、全く取り上げようともしなかった。それでも瑞山は一藩勤王の夢を捨てきれず、動かなかったのである。

 

 ついに竜馬土佐藩を脱藩
 瑞山の頑固で窮屈な態度は、既に玄瑞の説く所をいれて、藩の単位を乗りこえてしまった竜馬にはどうにも納得できない。三月二十四日の夜にまぎれて、竜馬は沢村惣之丞と共に脱藩する。竜馬としては、藩の単位での、その枠内での運動など到底考えられなかったに違いない。沢村は三月四日、吉村寅太郎、宮地宣蔵と共に一旦脱藩して長州に行き、同志説得のために、また高知に舞い戻っていたもので、竜馬は沢村から、さらに風雲急を告げる各地の状況を聞いたのだった。竜馬の日頃の動静から、兄の権平は、彼の脱藩を極度に警戒していたという。そうなると旅費の調達も思うままにならず、これには竜馬も困ったらしい。結局、親戚の者から金を借用して旅費にあてたが、やはり弟の決意を察した姉乙女は、家伝の刀を秘かに与えて、これを激励したという。竜馬の身辺にあって、もっともよき理解者だったのは、やはりこの姉だったということができよう。竜馬のその後のまるで放浪者のように移動のはげしい生活の中でも、この姉への手紙は数多く、その中にたくまずして、竜馬の姉に対する愛情と感謝、甘えの感情などがよく出ている。
 瑞山は竜馬の脱藩を知って「到底土佐の国ではあだたぬ奴だ。放っておけ」といったとも、瑞山自身脱藩を黙認し、「土佐の国にはあだたぬ奴ゆえ、広い所に追い放ったのだ」といったとも伝えられている。あだたぬとは抱容しきれないという意味の方言である。瑞山は竜馬のスケールの雄大さ、自由闊達な思考を、最もよく知る者の一人だったのかもしれない。二人は互いに「ホラフキ」「キュウクツ」と悪口を飛ばしあう仲であったそうだが、極端に違った資質の二人は、自分の中に全くないものをもつ者として、充分に相手を理解し尊敬できたのであろう。

 

 土佐勤王党東洋を斬殺
 参政吉田東洋が斬られたのは四月八日の夜である。東洋を土佐藩のガンであると判断した瑞山等は、反東洋派である容堂の弟山内民部や、やはり山内一族の山内大学等と共同戦線を張って、東洋を辞職に追いこもうとしたが、東洋の藩内における勢力があまりにも強く、どうすることもできなかった。薩摩藩主の入京の予定は迫ってくるうえに、土佐藩主もほどなく江戸に向かって発つことになっていたので、瑞山は焦った。瑞山を取り巻く土佐勤王党の連中は、早くから東洋斬殺を主張していたが、ここに至って瑞山も、東洋を斬る決意をつげざるを得なかった。しかし瑞山は、東洋斬殺の実行者達に向かって、「斬るだけでよい。どうにもならないはめにおちいらない限り、殺さぬように」といったというが、暗殺に向かった彼等は、あまりにも東洋に対して憎しみを抱いていたようだ。東洋の斬殺によって、土佐藩の状況は一変した。東洋斬殺に手を下した大石団蔵、那須信吾、安岡嘉助は、その場から脱走する。藩府は、これは勤王党の連中の仕業に違いないとにらんだが、何の証拠もない。その直前に脱藩した竜馬もまた、下手人の嫌疑を受けることになったのも、致し方のないことだったろう。藩からは四月二十六日付で、竜馬等の脱藩届が幕府に提出されている。その後、吉村寅太郎、宮地宣蔵の二人は、四月二十二日の伏見寺田屋の変によって、伏見で藩吏に捕えられ、囚人として土佐に送り返されている。伏見寺田屋の変とは、薩摩の島津久光が兵を率いて京都に入るのをきっかけに、これを討幕にまでもって行こうとして尊攘派の志士たちの間に画策が行われ、これを察知した久光が、伏見の船宿寺田屋に集まった薩摩の志士たちを取り押さえさせようとし、押さえ切れずに斬り合いとなって、六名の志士を斬り殺してしまった事件である。志士たちの動きは、これによって一応治まった。

 

 竜馬、鹿児島から大阪を経て江戸へ
 三月末に脱藩した竜馬も、実はこの志士たちの動きに参加するつもりであったらしいが、四月一日、下関の白石正一郎の家に着いてみると、同志たちは既に京都方面に出発した後であった。竜馬はそこで方向を変え、九州各藩の情勢を探り、最後に鹿児島に入ろうとしたが、調べが厳重で入れない。そこでまた、もと来た道を後戻りして、今度は東に足をのばし、六月十一日に大阪にたどり着いた。この二ケ月間の一人旅は、ひどく金に困ったらしく、刀の縁頭まで売って金に替えたといって、刀の柄には手拭いを巻きつけていたということである。だが、大阪には、吉田東洋暗殺の容疑者として、竜馬の姿を探し求めている藩吏の眼がうるさい。彼は藩吏の目をくらまして、すぐに京都へ向かい、少し滞在した後、さらに江戸へと旅立った。

 

 土佐藩内の大幅な人事改造
 竜馬の脱藩直後におこった吉田東洋暗殺事件は、藩庁を上を下への大混乱につき落としたが、反東洋派の秘密運動におされて、ようやく藩庁内の大巾な人事改造が行われる。結局、反東洋派の連中が揃って重要ポストを握り、それからしばらく経って、勤王党の推す小南五郎左衛門(安政年間、容堂隠居の際に追放を受けた)が、大監察に、平井善之丞(元大監察、安改元年に一度免職になった吉田東洋が、四年に復職した後に辞職、瑞山の勤王党結成当時から、その相談にのっていた)は参政兼大監察の職に就いた。つまりこの改革によって出現した藩庁は、反東洋派と勤王党の連合内閣のような形であり、反東洋派といえば、吉田東洋の藩政改革にも背を向けた、いわば最保守派だったから、一藩勤王の瑞山の意図は、なかなか実現しそうもなかった。
 そんなところへ秘かに届いたのが、朝廷は、四月二十八日、長州藩世子に「今田江戸に行く途中、京都に留まって、勤王の志士を主として幕府を助け、政治の基本を立てるよう努めてほしい」という内勅が下ったという報と、内勅の写しであった。土佐藩の状態を考えた場合、このような内勅を藩主に下してもらえれば、最も都合がよい。瑞山は、小南、平井の二人と相談して、土佐藩主へも内勅が下るよう、同志に指示して、京都での運動を展開させる。

 

 長州と薩摩に対する第三勢力
 一方、朝廷としては、長州と薩摩の二藩主に、京都滞在と守護を依頼はしたものの、この二大藩の対立を融和させるために、第三勢力の必要を痛感していた。だから、土佐藩からの働きかけに接すると、すぐさまそれに飛びついた。六月十一日に、藩主の姻戚三条家を通じて、延期になっている江戸行きの時期を問う文書を送ったが、これは、薩摩、長州両藩と共に、土佐藩にも京都警護の任にあたってほしいという天皇の内意をはっきりと現わしたものだった。この文書を受取ることによって、藩論はやむなく勤王に傾く形勢となった。しかし何といっても藩主は十七才の若さである。側近は何れも、その断を下す自信がもてない。結局、去る四月二十五日、謹慎の罪をとかれたまま、江戸に滞在中の容堂に決を仰ぐということに落着いた。こうして藩主一行が土佐を発ったのは、ようやく六月二十八日のことだった。藩主には、平井収二郎以下、勤王党の同志も従ったが、東洋の死後、藩論統一に大活躍した瑞山は、白札郷士の小頭という低い役柄を与えられただけだった。藩主に随行して大阪に着いた小南は、藩主を大阪の藩邸に留めておいて、飛ぶようにして江戸に急行し、容堂の承諾を得る。こうして勤王の藩議が決定し、藩主は八月二十六日、京都に入ったのであった。瑞山の一藩勤王の夢は、ここにその形をとることになったのである。竜馬が京都から江戸に向かったのは、ちょうど、この頃にあたる。

 

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勝海舟との出会い

 勝海舟は世に言う奸物か傑物か
 文久二年秋、江戸に着いた竜馬は、ひとまずかつての修行場である千葉道場に落着いた。既に竜馬は、自分なりの尊王攘夷論を持ってはいたが、未だその裏付けとなる知識は狭かった。受け売りの生硬な理論ではなく、彼の内側に根をはり、彼自身のものにはしているが、所詮未熟で、反対論を論破する材料は持ちあわせていない。彼がそのことをはっきり自覚していたかどうかは疑問だが、わからぬことをわかったように振舞ったり、わかったような気分にならない竜馬としては、わからないものは我が眼でたしかめてみなければならない。攘夷論者である竜馬が、開国論を唱える勝海舟に眼をつけたのは当然であった。
 海舟といえば、万延元年には咸臨丸で太平洋を横断し、アメリカをその眼で見て来た男である。もともと蕃書調所総裁の大久保一翁の抜擢を受けて安政二年から六年まで長崎に学んでおり、現在は軍艦奉行並という職に就いている。彼を奸賊といい、売国奴と罵しる声と一緒に、大傑物という声もある。竜馬には、その海舟を奸物とも傑物とも決めることができない。人の口馬に乗って、一方的に決断を下すことなどできぬのが竜馬なのである。
 竜馬は岡本健三郎と共に、越前藩の松平春嶽に面会を申し込み、海舟への紹介状を貰った。気軽に面会に応じた春嶽は、竜馬の勤王攘夷の熱意がなかなか深いものと気付き、感心している。

 

 勝を斬りにゆき門下生となる
 赤坂の氷川にある海舟の家を訪ねたのは十月。同行者は千葉道場の息子であり友人でもある千葉重太郎だったとも、岡本健三郎だったともいわれている。海舟の方では、春嶽からの知らせで、竜馬の訪問を予知していたのではなかったろうか。
「君達は私を殺しにやって来たのだろう。それもよかろう。だが一応、僕の意見を聞いてからでも遅くはあるまい。」
 対座した突端に、海舟は高飛車に出た。ギクリとはしたが、それはそうだった。何もあわてて斬ることはない。奸物だったら斬ると思って来た竜馬なのだ。竜馬はじっくり腰を落ちつけて、海舟の話を聞くことにした。
 海舟は、彼の見聞による世界の大勢を語り、それに比べての日本の後進性を説いた。
「どんな力で攘夷をやろうとするのか。そんな力でできると思うのか。今、最も大切なところは、足らざるところを補い、勝れるところを採り、進んで修交を求め、国富を増すことではないか。」
 話が終るころには、竜馬はすっかり引きこまれていた。はじめて黒船を見た時の驚き、河田小竜と語り合ったことなどが、頭の中によみがえり、話しの理解を深めたし、その眼でアメリカを見てきた海舟の話しの内容は、十分に説得力を備えていた。「ウーム」とうなるほかない。こうなっては、「それでは」といって引き下がることのできる竜馬ではない。聞きたいこと、教えてもらいたいことが一杯で、うずうずするくらいなのだ。竜馬は、その場で入門を申込む。海舟もまた、自分を斬りに来た奴、などとこだわる男ではない。ぐいぐいと突き進んでいく青年こそ、彼の好むところだし、幕府には、そういうタイプの人間が少なすぎた。見所のある奴、海舟は喜んで入門を許した。刺客は一変して、その門下生、それも最も卓越した弟子となったのである。

 

 海外への眼と人間をみる眼
 勝海舟と会ったことは、竜馬に二つの大きな収穫をもたらした。一つは勿論、海舟の論によって、海外への眼、新しい世界の動きへの眼が大きく見開かされたことである。もう一つは、人間についての眼を更に開かされたことである。海舟と会ってから後、これもひどい風評をたてられている横井小南に会い、そこに世評と全く違った人物を発見し、新たな感動を受けた。竜馬は、風評が一人の人間の或る一部を、極く狭い視野から一方的に見ていること、取るにも足りない風評によって人間を判断することの誤まりを、痛いほどに知った。そして風評に左右されないで、本当の姿を見つめるためには、それ相当の知識と思考力が必要なことも……。
 さらにつけ加えるなら、自分に即して、人間は変るものであり、変り得るものであることも、強く思い知らされたのであった。かつては攘夷論を唱えていた自分が、斬ろうかとも思った開国論者の海舟に入門している。この事は彼の中で年と共に熟してゆく。人間をみだりに殺すべきではないという考えに到達した端緒ともいうべきであろう。

 

 航海術の勉強に喜々として取り組む
 折から江戸へ遊学中の近藤長次郎(河田小竜の教え子)を海舟の門下に入れたのが十一月。十二月二十五日には、海舟に従って海路大阪に行ったのを機会に、京都に来ていた高松太郎(竜馬の甥)千屋寅之助、望月亀弥太等を海舟門に入門させている。さらに竜馬と共に脱藩した沢村惣之丞や、新宮馬之助、安岡金馬(共に小竜門下)をも入門させたが、これらは何れも、亀山社中、海援隊と、その行を竜馬と共にしている。
 あこがれの海へ乗り出すことの第一歩として、航海術を学ぶことができるのは、竜馬にとって望外の喜びだった。彼は喜々として、この新しい勉強に取り組みはじめた。一方彼は、これまでの仲間達に、しきりと開国論を披瀝している。ひところのように、外国人は総て夷であるというような単純な攘夷論は、しだいに影をひそめつつあるけれども、何れにしろ、コチコチの攘夷論者ばかりの仲間達をつかまえて、開国論をぶつのである。海舟に可愛がられ、松平春嶽の信任を受けながら、土佐勤王党の同志達との連楔も断たない竜馬は、このころから、特異な存在となっていく。海舟や春嶽のとりなしで、藩主容堂から、文久三年三月には、脱藩の罪を許された。この時、形式的に数日間、京都の藩邸の一室に謹慎を命ぜられたが、僅かの期間の窮屈さにネをあげた竜馬は、容堂との間をとりもって心配をしてくれた友人に、「よけいなことをしてくれるから、こんな窮屈なめにあわねばならない」と愚痴ったという。ひとたび、藩の羈絆をふりほどいて、自由にのびのびとはばたいた経験に生きる竜馬にとって、脱藩の罪を許されて再び藩士の一人になることは、痛し痒しであったといえよう。勿論、竜馬には、束縛を束縛と感じない自由奔放さは十分にあるが、それにしても、身分やしきたりのやかましい時代のこととて、やりきれない気分もしたであろう。

 

 勝海舟への一途な傾倒
 「今は日本第一の人物勝麟太郎という人の弟子になり、日々、かねてやりたいと思っていたことを一生懸命学んでいます」
「この頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことの外可愛がられて、客分の様なものになっています。近々、兵庫という所に、海軍を教える所をこしらえ、また四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子も四、五百人も地方からあつまっています。」姉乙女への手紙の一節である。彼の楽しげな勉強ぶりと、勝海舟への傾倒ぶりがうかがわれる。
 おなじ手紙の一節に、「私は四十才になるころまでは家には帰らないつもり」「戦いでも始まれば、それまでの命、命をながらえれば、私が四十才になった時、昔いったことと較べてください」とある。彼が昔、姉に向かってどんなことをいったかはわからないが、彼自ら、四十才以後の思いきった活躍を期し、それまでは準備期間と考えていたのである。

 

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変転

 薩摩の島津と長州の毛利
 竜馬が勝海舟の前で、クルリと開国論に変わってしまったころ、朝廷からは、攘夷の決行を促す勅使が、江戸に下された。京都にいる瑞山等、それに長州の大きな圧力によるものである。
 この年四月、伏見の挙兵を未然に防いだ島津久光は、朝廷に願って幕政改革の勅諚を幕府に向けることに成功した。幕政改革による公武合体が久光のねらいである。彼は勅使大原重徳に従って江戸に下り、勅諚の承諾を幕府に迫る。その直後に上京してきたのが長州藩主毛利敬親だった。このころの長州藩は、公武合体の線を強力に貫こうとしていた長井雅楽の失脚、死亡によって、藩論がほぼ尊王攘夷の一本にまとまっていた。敬親は久光にならって朝廷に勅諚を請い、安政以来の国事犯を許すこと、刑死した者を祭ることなどの勅諚を、江戸滞在中の勅使大原重徳に伝達させる。何時の間にか京都は尊攘一色に塗りつぶされていた。そこへ土佐藩主も上京してくる。あとに従うのは瑞山ら勤王党の面々である。三ケ月ぶりに京都に戻った久光が、驚き呆れるほどの変貌である。がっかりした久光は、そうそうに帰国の途についてしまった。こういう状況の中で、攘夷決行を促す勅使が出発、瑞山もこれに従って江戸に向かった。
 だが、藩論がほぼ統一されて、強引に攘夷決行に持ちこもうとする長州に対して、土佐藩の事情はなかなか複雑だった。というのも弱年の藩主には何の力も無く、実質的に権力を持っている前藩主容堂は、依然として公武合体の立場を固持しようとしており、容堂の線に近い上士たちと、勤王党の下士たちの間は、相変らず水と油のようなまま混在していたからである。十二月には、藩主豊範と毛利家の娘の婚姻があり、土佐と長州とは姻戚関係を結んだのだったが、両藩の関係は必ずしもぴったりしているとはいえなかった。長州の久坂玄瑞たちは、既に容堂の思想的、行動的限界をはっきり見極め、共に行動できぬものとしていたが、土佐勤王党の志士たちは、やはりそこまで徹底しきることはできないでいた。

 

 改良的な公武合体派
 中岡慎太郎らの五十人組が、江戸に在る容堂の身辺を守ると称して土佐を発ったのは、十月中旬であった。攘夷決行を迫る勅使が江戸に下るという非常の時に、拱手傍観すべきではないと、瑞山の檄に応えて集まった者たちで、そのほとんどが下士によって占められ、上士はただの三人を数えるのみであった。五十人組が江戸へ着くと、容堂はかえって勤王党に対する警戒心を強め、その対策を乾退助(後の板垣退助)に求めた結果、乾は、上士による臨時組というのを組織して、これに対抗させようとしている。
 翌文久三年一月、政治総裁職の松平春嶽、将軍後見職の一橋慶喜(二人とも久光の幕政改革により、この職に就いている)それに容堂が江戸から上京した。二月になると帰国していた島津久光も上京する。長州を背景とした尊攘派の公卿、浪士たちへの対策を協議するためである。しかし事態は、これら改良的な公武合派には、手のつけようもないほどになっていた。さらに長州と薩摩の二藩の間には、決定的な溝ができはじめている。朝廷は、二藩間の調停を、中間的存在の土佐藩に命じた。一方、未だ形勢利ならずとみた四侯は、勝手な理由をつけて、それぞれ帰国してしまった。

 

 長州のアメリカ商船への攻撃
 尊攘派がさんざんに運動して、幕府に認めさせた攘夷決行の日は五月十日であった。長州藩はこの日、待っていましたとばかり、下関通過のアメリカ商船に攻撃をかけた。続いて二十三日にはフランス通報艦を、二十六日にはオランダ軍艦を砲撃したのである。六月一日になると、今度はアメリカ軍艦が一隻、五日はフランス軍艦二隻が、それぞれ仕返しにやって来る。結局、蒸気船二隻が撃沈され、一隻は大破、砲台も、上陸したフランス海兵隊にこわされ、さらに民家二十余戸も焼き払われるという、惨たんたることになった。
 長州藩士はしかし、これにもひるむ様子がない。土佐に使者を送って、攘夷の協力を促し、まだまだ戦う気でいる。だが、長州はこの時既に孤立しつつあった。土佐は攘夷の決行に腰を上げるような状態にはなかったし、勿論、幕府が応援してくれる筈もない。いや、幕府はむしろ、反対側に立って、冷やかな目でその敗戦を見ているのだ。外国軍によってでも長州の潰滅を願って……。
 長州の外国船との戦いについて竜馬は、
「今、何か事がおこったら、二、三百人は預かって思うように使えるようになり……。然し全く残念なことは、長門で戦争が始まり、先月から六度もあった戦いに、日本がほとんど分がないことです。さらに呆れたことには、長州で戦った船(外国船)を江戸で補修して、また長州で戦ったことです。これは夷人と内通している奸吏がいるからです。これらの奸吏を打殺して日本をもう一度椅麗にすることを私の心願にしています」と、姉乙女に書き送っている(六月二十九日)。

 

 竜馬と村田己三郎との議論
 この手紙を書いた後、竜馬は京都の越前藩邸に村田己三郎を訪ねているが、己三郎に対して、「このままでは長州、防州の二国が異国のものになりかねない。そうなってしまっては、挽回することは難かしい。とても傍観しているわけにはいかない。よろしく外国に談判して、退去せしめなくてはならないが、それには幕府の俗吏を退けるのが第一である」と説き、己三郎は
「長州人の軽はずみな行動でこうなったのだから、償金を出してあやまるほかはない。でないと、日本は不義不道の国という汚名を除くことができない。悪いことには、朝廷は反対に長州の行動を是としているのだから、賠償のことは難かしくなろう」と答える。
「そうかもしれん。しかも、長州は国のために死を賭してやったのだから、その気持は称嘆に価する。傍観していてはいけない。そんなことをしていると、外人に有利になるばかりか、長州人も憤怒に堪えかねて、関東で更に暴挙を企て、江戸を焼き、横浜を砲撃するかもしれない。国難は更にたかまろう。ともかく、今日の緊急のことは、幕吏を処置することにある」竜馬の重ねての主張に己三郎は、「長州の軽挙のために、日本が共仆れになるようなものだ」と繰返す。竜馬も
「でもあろうが、その罪は後のこととし、先ず幕吏の処置が先決」だと云って退かない。
 竜馬は七月一日にも村田己三郎を訪ねて、先の意見を繰返し、「長州のことは天下の世論にまかすことにして、外国への談判を先にするように、その為の対策をたてよう」ということで、遂に意見の一致をみた。

 

 国を守るより権力を守る幕府
 また、このころ、大阪町奉行松平信敏に会って、「異国の船の修理、負傷者の手当てをするのはけしからん」と述べている。竜馬には、幕府の腹の底までが読みとれた。国を守るより権力を守ろうとする態度に、がまんできなかったのである。

 

 容堂と勤王党との対立
 文久三年一月、京都にやって来た山内容堂は、自分の藩の勤王党の志士たちが、目ざわりでたまらない。早速、他藩の者との交わりを禁ずるなどの措置を講ずるが、遂に一月未には、他藩応接係の平井収二郎に怒りをぶっつけて、譴責処分にし、他藩応接係の職も取り上げてしまう。
 平井は瑞山と並ぶ土佐勤王党の領袖で、終始京都にあって土佐藩の位置をかため、中川修理大夫違勅糾弾、三藩連署王権伸張建議、対島藩主国是振興策、赤穂藩勤王党の援助などのことをやってのけ、尊攘派中の重要人物であった。
 四月に土佐へ帰った容堂は、彼等勤王党が、何かにつけて、自分の立場を越えて活動することに腹をたて続ける。京都でなす術もなく、帰国の途についたのも、要するに彼等に妨まれたからである。それに容堂は、家臣は藩主の命に従うべきだし、忠実であるべきだと、固く思っている。そんなことで、土佐に着いた容堂は、これらの欝憤を一度に爆発させて、先ず、吉田東洋暗殺の下手人を早く検挙せよと云いだす。あれもこれも、東洋が殺されたせいだ。何をぐずぐずしていたのか。と容堂が怒鳴ったことが、土佐藩の空気を一変させた。その翌日には、平井善之丞の辞職、さらに小南五郎右衛門も、大監察をやめさせられてしまう。

 

 平井収二朗の切腹
 薩摩、長州両藩間め調停の仕事を命ぜられて、瑞山は容堂より少し遅れて帰国の途についたが、既に平井収二郎のことがあり、土佐藩の変貌は予想できる事実だった。久坂玄瑞は、瑞山の身を危んで、この機に脱藩することを極力すすめた。しかし律義者であり、藩主への忠誠という枠内で活動していた瑞山は、頑強にこれを拒んだ。彼にとって、帰国は当然中の当然であり、ほかには考えられもしなかったのである。
 平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太の三人が、かつて青蓮院宮(後の中川宮)の令旨を請うて、土佐藩の藩内改革を指導しようとしたことが発覚したのは二月末であったが、六月八日、遂に切腹を命じられる。土佐藩は既に引返すことのできない所まで行ってしまっているのである。
 平井の切腹を知った竜馬は、姉乙女への手紙の中で、「平井の収二郎は誠にむごいむごい。妹のおかほがどれほど嘆くことか」と、その悲しみを伝えている。また、めったに死ねないとも書いている。
 同志平井が切腹となっても、瑞山は面を犯して容堂に諫言をし続けている。瑞山が願うところは、ただ一藩勤王であり、そのためにはどうしても容堂を説きふせるしかないのである。食いついて離れないような、必死の瑞山に、容堂は「自分は藩主ではないから、藩主にも気がねがあり、さらに前々藩主も健在なのだから、なかなか辛い立場なのだ」などと云いわけをしつつ、そんないいわけをしなくてはならないのが理不尽に思えて、瑞山に対してまた腹がたつのであった。

 

 土佐勤王党潰滅状態となる
 文久二年七月からほぼ一年間、尊攘派の一人舞台のようになっていた京都の空気が一変したのは文久三年八月十八日のことだった。この日、突如として会津、薩摩、土佐の諸藩兵が皇居の諸門を固め、攘夷親征祈祷のための大和行幸は延期となり、同時に長州藩の禁門護衛の任が解かれた。さらに三条実美ら尊攘派にくみする公卿たちの出仕も停止させられた。会津、薩摩の捲き返しにあって、朝廷の方針がガラリと引っくりかえったのである。やむなく長州藩は兵を引き上げ、三条たち七人の公卿もまた、長州をさして下って行った。
 政変の直前、中山忠光らは、大和行幸を期して兵を挙げ、代官所を襲うなどして気勢をあげたが、ほどなく全滅してしまう。
 この突然の異変が土佐に伝えられたのは、八月二十三日のことである。続いて九月四日には、朝廷から容堂へ招命が下っている。今こそ容堂は、公武合体策をかかげて、主導権を完全に奪回する好機を得たのである。政変を知った勤王党同志が、秘かに覚悟した通り、九月二十一日になると、瑞山はじめ、島本審次郎らが続々と下獄し、土佐勤王党は早くも潰滅状態となってしまう。さらには、ちょっと寄り合って私語しても捕われるような、恐怖政治の空気の中で、相継いで脱藩者が出た。
 こうしたいきさつを経て、公武合体派の巨頭諸侯が京都に集まってくる。だが、慶喜、春嶽、久光、容堂、伊達宗城達でつくられた、参予会議もお互いの思惑が対立して、翌元治元年三月には完全に空中分解し、諸侯はまたぞろ帰国してしまうという不様さであった。しかも、ついこの間まで朝廷の意見を指導し、朝廷もまたその依り所としていた長州藩を称して暴臣と呼び、三条実美等の見解を匹夫の暴説とこきおろして、彼等を罰しなくてはならないと云い出したのは、奇妙ともいいかげんとも、いいようのないことであった。

 

 中岡慎太郎、佐久間象山に会う
 五十人組の一人として江戸に行った中岡慎太郎は、その年(文久三年)の十二月、長州の久坂玄瑞と共に、信州に向かった。信州には、吉田松陰の密出国計画の露顕によって謹慎となって帰国したままの佐久間象山がいた。象山はかつては江戸で砲術指南の門を開き、また外国事情に精通し、見識も高く、嘉永六年には吉田松陰も入門している。松陰との関係で長州との縁が深く、この時も、象山を長州に招聘しようとしていると聞いて、容堂がこれを土佐に招こうとはかり、慎太郎はその内命を受けて出立したものといわれている。
 さて象山に会ってみると、彼は幕府の採っている海防術が如何に遅れた、役にたたぬものかを力説、新式の砲術に薀蓄を傾け、さらに欧米における制度、文明が、日に日に進歩していることなど、息つく間もなくとうとうとまくしたてた。慎太郎は、象山の気魄に押されて、とても土佐においでいただき度いと切り出すことができなかったが、象山が、具体的に説明した豊富な知識と、それに基く意見は、その後の慎太郎に大きな影響を与えた。

 

 慎太郎、土佐藩を脱藩する
 信州から京都に戻った慎太郎は、上士板坂三右衛門の推薦で、徒目付兼他藩応接密事掛に抜擢された。文久三年二月七日のことである。その後容堂に従って帰国し、藩政改革を唱えたが、徒目付というような下っぱではどうにもならぬことから、職を退いて北川卿の故郷に帰ってしまう。十月十八日の政変を聞くと直ちに高知に飛び、先に五十人組に対抗して上士の組織にあたった乾退助を訪ねた。上士の中にも新しい同志を得ようという考えであった。二人は大いに語り合いはしたが、それ以上には進まず、慎太郎は遂に脱藩した。慎太郎の行く先は防州三田尻であった。三田尻の招賢閣を基地としての慎太郎の活動は、これから始まる。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

神戸海軍操練所

 海舟の海防策実施
 「当今の国情は議論大いに盛んで、互いに疑ったり、忌み嫌ったりしている。だから、お互いに同志を募り、一派をたてるという始末で、国中が騒々しい。幕府はこれを心配して、法にてらして捕え、大いに改めさせようとする。しかしこのために、かえって怒り、恨む者の数は増しているという有様である。彼等は身を犠牲にして、その勤めにあたろうとしているからである。人の心が一つのことに向かうということは、こういうことなのだ。自分はこれらに関わりがない。人の心を殺すことが、どんなに拙劣な方法であるか、わかるようにしたいと思うだけである。
 故に、先ず神戸の地に海軍局を設けて、こういう者達を集め、船舶の実地運転に従わせて、遠く上海、天津、朝鮮地方に航海し、その地理を実際に見、人々のようすを理解させようと企てている。幸いなことに土佐の人坂本竜馬氏が私の塾に入り、この挙をよしとして、彼等を励ましている。また国内の有志の人々の中にも賛成者が多い」
 これは勝海舟が、神戸海軍操練所設立の目的を書き記したものである。文久三年前半は、大いに攘夷派のふるった時期で、海防策についての関心もたかまっていたから、海舟は、海軍所設立という、かねての考えを実現するチャンスをつかんだのだった。竜馬という、よき片腕を得たことも、大いに幸いしたのである。

 

 竜馬、越前に松平春嶽を訪ねる
 竜馬は文久三年五月中旬、海舟の命で、海軍操練所の建設資金の援助を頼むため、越前に松平春嶽を訪ねた。この時、村田己三郎とも会っている。これで五千両の資金を出してもらい、兵庫生田に宿舎ができたのは十月のことである。竜馬は海軍所建設に総ての夢を託して、これの建設に没頭してはいるが、時代の動きは決して彼を解き放ってはくれない。
 越前から大坂に行った竜馬は、土佐の浪士に父の仇討ちの助力を頼まれ、これに力を貸し、仇討ちを遂げさせる。さらに、攘夷論を軽侮する勝海舟を殺そうとした甲宗助から、企てが洩れたと怪しまれ、殺されかかった乾十郎を助け、甲宗助のいどむ決闘に、受けて立とうとしたこともあった。この決闘は、急を聞いた海舟が手をうって、中止となったが、十郎の危機を報せに走った少年伊達小次郎(後の陸奥宗光)は、深く坂本を尊敬するようになったという。
 すっかり藩論の変った土佐藩から、竜馬達に帰国の命が下ったのが十月、竜馬は断然この命を無視する。海舟とて、そんな命に従うことをすすめるほどの愚物ではない。竜馬達はそれぞれ変名し、海舟の家来になったりして活路を見出す。竜馬は塾頭にあげられてもいる。

 竜馬、横井小南の思想を吸収
 その後海舟と共に江戸へ。越えて元治元年一月には、再び海舟に従って大阪に入港。この時、河田小竜の製塩業をおこす資金を、京都の商人田中三郎兵衛から借りてやっている。
 さきの長州の外国艦砲撃事件は、まだこじれていた。怒ったイギリスが、長州を砲撃するという噂があり、この調停の命受けて、海舟は二月に長崎に出発し、竜馬もこれに従った。四月には海舟の使いで熊本に横井小楠を訪れ、一週間滞在する。竜馬はここで、
「海軍をおこすことも必要。しかし、京都が因循であり、諸藩が否定しているから、なかなか無理であること。一般に日本人は近視眼的なのに対し、外国人が時代への展望を持っていること」など、いろいろ聞かされている。小楠との面会は数度目であるが、小南は橋本左内の死刑後松平春嶽がわざわざ越前にまねいたほどの人物であり、当時の傑物中の傑物である。 竜馬はここで、たっぷりと小楠の思想と行動を吸収して帰阪した。
 このときの海舟の調停は、結局成功しないままに終っているが、竜馬はたまたま長州からやって来た小田村伊助、玉木彦助とも会って、長州の動きに感服している。と同時に、イギリス、フランスの軍艦を親しく見て、今さらのように、攘夷の容易でないことも感じる。それは、海軍建設へのその為の神戸海軍操練所の建設と充実へのファイトを、いよいかきたてることにもなった。

 

 新撰組、池田屋を襲撃する
 神戸海軍操練所が正式に発足し、幕府は五月二十九日、通達を出して各藩の子弟を修行生として入れるようにした。長崎造船所所と鷹取山炭鉱はここの付属となり、観光丸、黒竜丸の二船が専属となって、年三千両の補助金も幕府から出されることになった。
 折角、意気込んで発足した海軍操練所ではあったが、時代の流れの外に置くことはできなかった。既に帰国命令を受けながら、帰国を拒んだ竜馬等は、脱藩の形となったが、彼等が海軍操諌所にもぐり込んでいることは、ほぼ知られており、追捕の手はその塾にまで延びて来つつあった。
 竜馬が彼等脱藩者達を北海道に送り、北海道開拓にあたらせることによって、その危機を救おうと、老中水野忠精にも相談し、費用として既に三、四千両の金も集めてあった。これも、急に思いついたことではなく、前年には、同志の北副佶磨、能勢達太郎、安岡斧太郎を北海道に送って調査をすませていた。(安岡は二月、北副は六月、能勢は七月に、何れも殺されている)
 だが、その計画も、実現を見る以前に(勿論、実現できたかどうかは、甚だ疑問だが)池田屋の変がおこり(六月五日)日の目を見るに至らなかった。尊王攘夷の志士達が、京都の三条通り河原町の池田屋に集合している時、新撰組に襲われた事件で長州の吉田稔磨、肥後の宮部鼎蔵等が殺された。北副佶磨もこの時殺されたし、海軍操練所の修行生望月亀弥太も死んだ。桂小五郎が命からがら逃げたという話はあまりにも有名である。

 

 禁門の変と海舟の謹慎
 長州が藩主毛利氏の冤罪を訴えるという名目のもとに、京都における現状維持派の中心となっている会津勢力を取り除こうという気運にみなぎっていた折に、池田屋の変のしらせが届いた。藩内は一挙に湧きたって、京都へと軍を繰り出す。海軍操練所の安岡金馬も、諸国から三田尻の招賢閣に集まった無党派革命家で組織した忠勇隊に参加した。忠勇隊の隊長は久留米の神官、真木外江(和泉の弟)である。
 会津、桑名、薩摩の連合軍である京都守備軍と、長州軍の戦いは七月十九日早朝に始まり、一日の戦闘で長州軍はあえなく敗退する。(禁門の変)久坂玄瑞、来島又兵衛、真木和泉、寺島忠三郎、入江九一といった主な志士達は相継いで死んでいった。安岡は他の長州兵と共に長州に逃れたが、後日海援隊に参加している。中岡慎太郎はこの時遊撃隊の一員として来島又兵衛の隊に加わり、軽い負傷を負った後、京都の様子を少し探索してから、長州に帰ったという。
 禁門の変が一応片付くと、幕府の浪人の追求はますます厳しくなっていく。幕府の役職にある勝海舟が、それを庇っているというのでは、どうにもならない。遂に十月になると、海舟は江戸に呼び返され、海軍奉行の職も免ぜられて謹慎の身となる。途端に二千石の役職料が無くなり、もとの百俵取りに戻ったわけである。
 この時、海舟を退官させたことで、幕府勢力は更に弱まることになったのだが、それは別として、この退官の影響をじかにその身に受けた被害者は、それまで海舟の庇護下にあった者達だった。海舟は、大防を去るにあたって、竜馬の身柄を薩摩の小松帯刀に頼んでおいた。竜馬と一緒に鹿児島に下った者はよかったが、その他の者、千屋金策達は、苦労しなければならなかった。中には潜行中、賊と間違われて、土民に殺されるという悲劇もおこっている。
 ここから、竜馬の舞台は薩摩にくいこみ、さらに長崎へと移っていくのである。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

   第 二 部

 

長州と奇兵隊

 長州の歩みと吉田松陰
 長崎に舞台を移した竜馬は、そこから薩摩と長州に深く潜行して両藩の統合、さらに大政奉還へと、日本の変革を押し進めていくのであるが、その様相を見るためには、どうしても、薩摩、長州の両藩が、どんな過程を経て、どんな姿をもって彼の前に現われたかを知らなくてはならない。
 長州藩全体を捲きこんだ天保二年の大一揆がおこったのは、竜馬が生まれる四年も前のことだった。この頃から既に、日本の変革への胎動が、目に見えてきたといわねばなるまい。この大一揆は、直接には、藩政府がその経済的行詰まりを打開するためにとった、専売制に対する反抗であったが、結局は封建経済の行詰まりを露呈した以外のなにものでもなかった。これがきっかけとなって、村田清風を中心とした改革派が登場してくる。清風失脚のあとを受けて出てくるのが、坪井九郎右衛門であり、さらに周布政之助の登場となるわけである。彼等の打ったさまざまな手も、結局、そのねらいは藩政改革であり、当然のこととして、幕藩体制の強化、確立の枠内にあった。西洋列強の圧力も、その範囲内でしか受けとめようとしない。それは周布が、長州藩体制に最初の楔びを打ちこみ、その質的変革を一歩押し進める役割を荷って登場した吉田松陰を、あっさり幕府に売り渡したことでも明らかである。(安政の大獄)
 松陰は西洋列強の圧力を日本人として受けとめた最初の男であった。勿論、はじめは、彼も長州人として、長州藩の兵学師範として、その圧力を感じているが、それは次第に藩を乗り越え、日本人としての位置で受けとめるようになっていく。それは藩の首脳への絶望であり、幕府首脳への不信、さらには幕藩体制そのものの否定から、徐々に生まれたものであった。外力に対抗するためには、統一国家を志向する以外にないと考えた松陰が、統一国家を指導できるイデオロギーとしてつかんだものが天皇であった。勿論、その天皇とは、開国のはじめに日本を統一し、その郡県制度を確立し、他国の侵略に対してがっちりと受けて立ったという伝統をふまえての、最高の能力と人格を備えたものであった。

 

 松陰を失った弟子たちの怒り
 松陰が死をもってつかんだ統一国家への構想は、弟子の久坂玄瑞によって、草莽の志士の全国的規模における組織的な運動(今日でいうなら無党派の人達の連楔ということになろう)と、高杉晋作の藩を討幕の拠点(といってもそれは藩を越えた戦略的立場にたつものである)としていく組織的運動の二つの路線に維承されていくのである。
 玄瑞が竜馬を通じて瑞山に送った手紙の一節にある「無位無官の者達が団結して討幕の運動をおこす以外にない」という意見も、松陰の立場から生まれたものである。竜馬と玄瑞は、この地点において接触し、竜馬は玄瑞のこの立場を全面的に受け入れたふしがある。
 玄瑞をはじめとする松陰の弟子達は、竜馬と玄瑞が出会ったころから、ますます急進化していった。彼等は誰にもまして激しく、かつ、せっかちであった。それは、安政の大獄によって、師松陰を幕府の手で奪い去られた事の怒りと悲しみを、そのまま表わしていたともいえる。玄瑞を中心とする動きはいよいよ鋭角的となり、かつては松陰を売り渡した周布までが彼の動きを見守るしかないほどであった。あるいは松陰を売ってしまったことに対する、周布の自責の念がそうさせたといえるかもしれない。ともかく文久二年七月には、藩政府自身、天皇への忠節を第一義に掲げ、そのためには、幕府も藩も、時には否定されることもあるという立場を、はじめて打ち出すのである。それまで公武合体を通じて、幕藩体制の強化をはかろうとしてきた長井雅楽は、あたかも、それを裏書きするように、文久三年三月に断罪され、周布政之助も元治元年九月に、遂に自刃に追い込まれるのである。

 

 長州藩のかかげた尊皇攘夷
 長州藩は、こうして、尊攘のスローガンのもとに、京都で、あるいは藩内で、討幕に向かって突走る。この態勢を支えたのが、文久三年のはじめから進められた藩機構の整備であり、有能な者達は、その身分や出身に関係なく、どしどし登用されていく。さらにこの態勢に拍車をかけたのが、五月十日に始まった下関における外国船攻撃であり、六月一日に受けた外国艦からの報復攻撃に惨敗を喫したことであった。高杉が、「藩士、陪臣、軽卒にかかわらず、もっばら強健な者を集め」て、奇兵隊を結成したのが六月七日である。この奇兵隊については後にふれる。

 

 長州藩、京都で後退
 長州の激烈な動きに反して、京都は必ずしも彼等の思う通りには進まなかった。文久三年の五月十日を期して、攘夷決行を幕府にせまるというところまでの大芝居はうったものの、そして五月十日には、いちはやく外船攻撃を実行はしたものの、時代はそこまで熟してはいなかった。草莽の志士達が、その生活的地盤を持たないために、多分にはらんでいる、暴発への危険性の弱点をさらけ出したものともいえる。そこへ文久三年八月十八日の政変がおこった。これは、京都から、草莽の志士達を、さらにその項点に立つ長州藩、それらをよぶ公卿勢力の一掃を意味している。そして、その裏には、長州藩と競争的位置にあった薩摩藩が、幕府勢力と結んで長州藩を追い落とすという意図が認められる。この政変によって、長州藩は京都での根拠地を失い、三条実美等の公卿と共に後退を余儀なくされる。
 この革新派の全面的後退は、藩内に掠梨藤太を中心とする現状維持派(いわゆる俗論党)を抬頭させることになったが、長州藩に集まってきた討幕派は、翌元治元年七月、その力を結集して、再び京都に失地回復を求めて攻め上る(禁門の変)。先導に立つのが玄瑞であったことはいうまでもない。同じ討幕派内でも、この時の政治情勢の分析は大きく分かれ、桂小五郎は反対を唱え、晋作は自重論を説いた。そして反対を押し切って敢行した攻撃は、薩摩藩を中心とした勢力の前に敗れ去り、玄瑞達は自刃ということになる。大和の天誅組、生野の挙兵、天狗党の乱なども、すべて拠点を喪失した草莽の志士達の、尋常ではない危機感が生みだした行動であった。

 

 高杉晋作の奇兵隊下関に蜂起
 禁門の変によって、幕府の長州征伐がおこり、さらに六月の外国船砲撃が原因となって、英、米、仏、蘭の四国連合艦隊が攻撃をかけてくる(八月)。そして、これがきっかけとなって、九月以降、長州藩の権力は再び現状維持派の手に入ることになる。藩権力を手中におさめた現状維持派は、幕府権力をおそれ、ひたすら恭順の意を表わす姿勢だけが、長州に残された唯一つの道であると考えて、折角、禁門の変で生き残った中の指導者格の人々を切腹、謹慎、自刃への道に追いやったのだった。
 藩庁の弾圧を逃れて、一時は九州に亡命していた高杉晋作は、慶応元年一月奇兵隊を基盤とする諸隊をひきいて下関に蜂起、藩権力を再び握る。それは、まことに鮮かなクーデターであった。奇兵隊の結成が文久三年六月であったことは先にもふれたが、これに続いて諸隊が次々に結成されている。これらの諸隊に共通する特色は、隊員に対して、人民の手本、農民の手本としての規律と自覚が求められたこと、同時に農民や町人に密着した隊であったということである。いいかえれば、農民や町人の新しいエネルギーを吸収したものだったのである。武士をその身分によって区分けし、隊を編成する旧弊を打破して、その能力や体力によって編成すべきであるという意見は、既に松陰の持っていたものであるが、晋作はさらにその範囲を飛躍的に拡大し、若いエネルギーを吸収したといえる。
「農事の妨げは少しもしてはならない。みだりに農家に立ち寄ってはならない。牛馬等に出会ったら、速かによけて通させ、たとえ何も植えつけてない田畑といえども踏み荒らしてはならない」というような布告が隊内に出されていることからしても奇兵隊の性格の一端を理解することができよう。この故にこそ、晋作達の蜂起に対して庄屋同盟が結成され、この農民組織と討幕派の連合戦線ができあがり、クーデターを経済的に支えることにもなったのである。玄瑞の考えた、志士達の全国規模における組織は、不幸にして、その挫折のままに終ったが、四月になると、桂も亡命先の山陰地方から帰国し、晋作との協力のうえに、藩を討幕の拠点になるように作りかえ始める。それは従来以上に権力の集中化をはかるものであり、討幕派の連中は参謀として各ポストについた。こうして藩を討幕の拠点勢力として、急激な成長をとげていくのである。

 

 桂小五郎・高杉晋作路線の確立
 竜馬が長崎を根拠地として再び接した長州は、かつて竜馬がはじめてその土を踏み、また接した当時と比べて、このように大きく変わっていた。竜馬が再び見た長洲は、桂小五郎、高杉晋作の路線が確立しようという時期だったのである。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

西郷・大久保ライン

 西郷隆盛、斎彬に抜擢される
 長州藩の脱皮変貌に対して、薩摩藩はどうだっただろうか。薩摩と長州では討幕勢力の発生、成長のすべての過程が異なっていた。八月十八日の政変から禁門の変へと、薩摩は長州に敵対を続けているが、それは薩摩藩が脱皮していくために、どうしても通らねばならなかった過程だったといっても、いいすぎではない。
 薩摩藩内での封建制度の矛盾は、島津斎彬と久光の家督相続をめぐる争いとして最も鋭く表面化した。この事件のために、斎彬をかついだ十四名が切腹、その他多数の者が遠島、謹慎の処分を受けたが、この対立抗争は単なる勢力の争奪戦ではなかった。それは藩政を現状維持的立場からとるか、改革的立場から見るかという、封建体制の行詰まりから生じた、財政的困窮への対処の違いに、その原因があったのである。さんざんにごたついた揚句、幕府の老中阿部正弘、越前藩主松平春嶽らの斡旋によって、斎彬が藩主の位置につく。(嘉永四年)彼は藩府の要人はそのままにしておき、徐々に若手の人材を登用し、育てることで、藩政改革を進めていこうとした。彼の眼鏡にかなって抜擢されたのが、西郷隆盛であり、大久保利通であった。さらに樺山三円、有村俊斎、税所篤などもいる。こうして斎彬は、産業の振興、軍備の拡充、農民生活の安定など、次々と手を打っていく。また幕府に建議して大艦建造の禁令を解くことに成功し、大艦の製造をはじめると共にその一つを将軍に献上した。一方では、将軍家定夫人として、島津一門の篤子を送りこむ。斎彬は積極的に幕府との間に協調的な関係を取り結んだのである。

 

 西郷、月照をかくまって島流しに
 その後、将軍継嗣問題がおこったとき、斎彬は越前藩主松平春嶽と共に動きはじめ、西郷もその命を受けて動き、橋本左内との交渉がはじまる。これと平行して起こった開国問題をめぐる争いの中で、斎彬は(安政五年七月十六日)あっけなく病死してしまう。斎彬の英名は既に他藩の間にも響いており、幕府の暴挙を押える者として期待もかけられていた。松陰なども、その死を大いに嘆いたほどである。
 斎彬は後継者問題の渦中にあった体験と、争いが今度は自分の跡目をめぐって、依然として続いていることから、久光の子忠義を養嗣子に迎え、相続闘争に終止符を打っていた。そこで、斎彬の突然の死によって、幼少の忠義が家督を継ぎ、藩主の父である久光が、藩内の実権を握ることとなった。
 安政の大獄が、嵐のように吹きまくったのは、その直後である。西郷は京都を舞台として活躍した僧月照を保護して、薩摩領に逃げこもうとしたが、藩は月照をかくまうことを拒んだばかりか、国境辺で彼を殺そうとさえした。月照をかばうことのできなかった西郷は、進退きわまって、月照と二人、鹿児島湾に身を投げた。幸いなことに、西郷は一命を拾ったが、大島に流されてしまう。

 

 松陰を売った長州、大久保をかばった薩摩
 安政六年九月、大久保利通、有村俊斎、有馬新七、税所篤、樺山三円など四十九人の若手組は、大弾圧を続ける幕府当局を攻撃するために、薩摩を出て、京都、江戸に至ろうとした。彼等は遺書まで用意していたが、藩主忠義とその父久光の親諭書をもらうことによって、自重することとなる。久光は彼等に向かって、「不肖の私達を助けて、誠忠を尽してくれるよう、ひとえに頼む」と呼びかけ、遂にその決行を思いとどまらせたのであった。この時の親諭書の宛名の誠忠志士という言葉をとって、彼等はここに、誠忠組として結束を固めることとなった。
 誠忠組の連中を思いとどまらせることのできた薩摩と、松陰を幕府の手にかけてしまった長州の違いは、その後の志士達の動きに、顕著に表われる。多数の先輩を断罪によって失った水戸藩の志士達が、井伊大老襲撃(安政の大獄の翌年三月)という非常手段に飛び出したことと比較すれば、その違いはますますはっきりしてくる。

 

 寺田屋の変という悲劇
 自重した大久保らは、手をこまねいて状況の好転を待ってはいなかった。彼は積極的に、藩の実際の権力を握っている藩主の父久光にとりいって、藩府の中心に喰いこんでいった。即ち、文久元年には小松帯刀を御側役に、久光の信任厚い中山尚之助を自分と共に御小納戸にしたのである。御側役は常時藩主を補佐する役であり、政治をとりしまる家老と藩主の取次ぎ役でもある。そして、御小納戸は御側役に仕える者で、小松を御側役にしたのは、大久保と中山の合作だったから、自ら藩主や久光の意志や考えを支配できる立場についたことになる。
 こうして着々と藩内の体制を整えた大久保らは、久光の東上によって幕政改革をすすめようと計画した。それも兵を率いての東上である。一方、西郷を大島から引取る手も打った。こんな状況の中で、幕府の主席老中安藤信正の襲撃事件がおこった。公武合体を押しすすめようとする元兇として、勤王の志士にねらわれたのだった。勤王の志士たちは、この事件でさらに気勢をあげ、久光が兵を率いて東上するという噂が広まるにつれ、これを機会に一拠に討幕の軍をあげようと、待ちかまえる。こんな時期に帰国した西郷は、大久保や久光の意志に対立することとなった。即ち、久光に先行して、京への道をたどる西郷を待ち構えていた志士達は、西郷の蹶起を促し、西郷もまた、それに応じようと、下関で久光を待つという命令を無視して、大阪へ行ってしまったのである。怒った久光は、西郷を再び流罪にしてしまう。しかし、あくまで蹶起を唱えて伏見の寺田屋に集まった有馬新七、柴山愛七郎、橋本壮助、田中謙助、弟子丸竜助らに対して、藩からは説得役がさしむけられた。どうしても聞き入れない時は上意討ちにせよという但書きをつけてである。彼等は君命に背いても挙兵に走るかどうかという瀬戸際に立たされて、君命を捨てる態度をとろうとし、同じ誠忠組の奈良原喜三郎らと斬り合いになり、八人が殺された。この悲劇は、藩主を乗りこえるか、藩主の線に踏みとどまるかという貴重な一幕でもあった。薩摩はこれによって、藩主の地位が安定し、以後、藩主以下一丸となった強みを現わしてゆくこととなる。それは土佐勤王党の線にも似ているが、違うことは、大久保利通という策士が、常に暴走しそうな下部を押え、久光をその意志に沿った形でつき動かして、藩を一つの組織にまとめていくことに成功した所である。

 

 島津久光と生麦事件
 寺田屋の変という犠牲はあったにしろ、京都をおさえた久光は、勅使大原重徳の随従として江戸に下り、幕府に出仕して幕政改革の勅諚の承認を迫った。久光の一連の動きがきっかけとなって、安政の大獄の際処分を受けた一橋慶喜、松平春嶽、尾張慶勝、山内容堂らは再び返り咲くことになり、朝権も大いにすすんだが、京都の勤王派の人々からすれば、久光は所詮、公武合体策の人間にすぎず、そのやることは手ぬるいと攻撃を受けるのである。
 通行中のイギリス人を殺害した生麦事件は、久光が江戸を引きあげる途上(文久二年八月)で、久光の行列が引きおこしたものだった。これが原因で、翌文久三年六月には、イギリス軍艦の攻撃を受けるが、かえってこれをきっかけに、薩摩とイギリスの間は接近していくことになる。これは幕府がフランスと接近していたのに対して、対照的な発展をみることとなった。公武合体策をもくろみながら、久光も藩も、しだいに変わらざるを得ない状況がつくられていくのである。
 久光が帰国したあとの京都が、尊攘派によって熱していくのは、既に述べた通りである。だが、八月十八日の政変を境にして、尊攘派は急速に後退をはじめ、尊攘派や、長州にかわって、薩摩が京都での勢力を握ってしまう。その過程はすべて、薩摩と長州の間の溝を深めることになった。

 

 武人・西郷、政人大久保のライン
 西郷はこういう状況の中で、再び赦免され、元治元年三月、京都で久光に会って、軍賦役に任じられる。武人としての西郷の再出発である。それは、政治家としての大久保とのラインが、がっちり組まれたことを意味する。その年の七月、禁門の変で長州軍を迎え討ったのは、西郷に率いられた薩摩軍であった。薩摩と長州の敵対関係は、これによってさらに深まった。
 西郷はさらに、長州の罪を問うためにおこされた、征長軍参謀におされ、長州に下って行く。長州は、先の砲撃に対する仕返しだとか、攘夷派に対する見せしめだとかいう、一方的な理由の下に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊の攻撃を受けている最中だった。内外に敵を迎える長州に対して、西郷は極端に穏便なはからいで、長州の降服を認める軍議を決定してしまった。禁門の変の時とはガラリと変った薩摩の態度である。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

揺らぐ幕府

 長州薩摩の動きと幕府の不安
 長州と薩摩が、封建経済と幕藩体制のゆきづまりの中から、もがき苦しみつつ、新しい方向を打ち出し、さらに世界の状況の中での展望のもとに動いていったのに対して、一国の政治に責任と権力を持っていたはずの幕府は、どうそれに対処していったのだろうか。
 ペリーが黒船をひきいて開国を迫ってきた時(嘉永六年)まことにブザマな応待しかできなかった幕府は、翌年再び現われたペリーに押されて、色よい返事をしてしまった。しかし、ここに、老中阿部正弘以下、開港を致し方のないものとする思想が介在したことも否めない。それを支えるかのように、岩瀬忠震や川路聖謨の連中がいた。この人たちは何れも外国の事情に通じ、外国との交際もやむを得ないとみていた。
 だが、安正四年に阿部正弘が死に、幕府の方針も大きく変わった。和親条約の勅許問題がおこったことは、ことの善悪はともかくとして、当時の幕府の弱体と、自信の無さをしめしている。もう、幕府には、自らが背負っている日本の将来への展望も、断固たる信念もない。勿論、その責任を負えるだけのハラも持ち合わせてはいなかった。

 

 力による弾圧は力による報復を
 井伊直弼が大老の位置についた時、岩瀬、川路は退けられる。そこに将軍継嗣問題という、今一つの問題を抱えていたからとはいえ、強引そのものといえる態度で、問題に決着をつけた。しかしその時は既に遅く、いたずらに反対派を激昂させる。井伊はこれに対して、高圧的な力を以て、押えつけようとした。将来ある有為の人達は、次々に殺されていく。反対派とあれば幕府に最も近い親藩の藩主であろうと、処罰の手はゆるめない、しらみつぶしの弾圧であった。その厳しさは、多くの人を恐怖に追いこみ、たじろがせた。力による弾圧は、力による報復を生む。弾圧が厳しければ厳しいほど、人々はこれを恐れると同時に憎しみを持たぬわけにはいかない。水戸藩の者達が直接井伊を仆したことは、その一つの形の現われに過ぎなかった。一つの形には過ぎなかったが、この事件は今度は幕府側に連る者達を恐怖の底に追いやり、反体制側の人々に自信と希望を与えた。その後の老中安藤襲撃事件も、井伊暗殺なしには考えられない。連続した攻撃は、更に幕府側の人間を不安におとしいれることにもなった。
 幕府きっての英才とうたわれ、かつては井伊に追放された松平春嶽や一橋慶喜も、文久二年にはその国是決定に、いたずらに動揺を繰返すばかりで、決断をつけるだけの勇気と覚悟がない。井伊を追罰するのに、領土十万石を削減するということに止まった。井伊を助けた老中間部詮勝が減封されて謹慎を命じられたのはわかるとして、井伊に退けられ、井伊のあと、老中首席について公武合体をすすめた久世広周まで、減封蟄居に命じたのは、皇妹和宮を将軍の妻に迎えた責任を問うたということになるのであろうが、はっきりしない態度である。

 

 幕府上層に居なかった人材
 かつて松陰は将軍がアメリカ大統領におよびもつかないのは勿論のこと、老中あたりが、日本に来ているアメリカの一外交官にもおよばないと嘆いたことがある。徳川一門に生まれたというだけで、その坐についている将軍と、人民の間から、その能力と識見のある者として選出された大統領とでは、比べようもないということだが、老中と外交官の比較は、外国交歩の過程で、松陰に看破されたものである。要するに幕府上層には全く人材がいなかった。
 時代の転換期に立った権力側が、来るべき時代への認識も抱負もなく、ただ旧来の権威によりすがろうとする限り、その転換期を乗り切ることは不可能である。幕府勢力の中にあって、その認識を持ち得たのは、アメリカやヨーロッパを旅行する機会に恵まれた幕臣達であって、彼等は世界の情勢から見て、開国のやむを得ないことを痛感していた。中でもフランスとの接触を深めていた幕臣達の中には、誰にもまして共和思想がしみ入っていた。世界の状勢を認識し、分析する能力を持っていた彼等も、結局は崩壊しかけた幕府の中の一吏員でしかなかった。後退していく幕府権力の柱としての抱負もなく、そのつかみ得た知識を総動員して、国家の大事と取り組むだけの積極性もなかった。
 竜馬の接した勝海舟にしても、後には若年寄にまで進んだ永井尚志、大久保一翁にしても、相当に思い切った意見は持ちながら、断固として幕府の改革策を押し出し、強行するにはあまりにも不安定な立場にしかなく、だからといって、幕府の外側に飛び出せるだけの見通しも持てず、またそこまでの意欲はなかった。
 しかし、幕府の中に改革派の人達が次第に抬頭し、遂には現状維持派と改革派の二つが対立して、相拮抗するところまで変わっていったことは見逃せない。こうした改革派の登場は、少なくとも幕藩体制を歴史の方向に従って改良できる能力を持っていた。

 

 西郷、幕府の意とならず
 文久二年の幕府は、もはや島津久光のいうままになるほかはなく、ついで久光が後退した後は、京都の尊攘派のいうなりになっていく。幕府の権威の失墜は、もはや止まるところを知らない。だが、幕府は、それだからといって無力になってしまっていたわけではない。ただ、二百年続いた歴史の上に、あぐらをかいていたのである。文久三年になって、攘夷決行の期日を決めるまで追いこまれはしたが、その直前になって沙汰やみとなり、八月十八日には、とうとう政変に持ちこんで、京都から尊攘派を一掃することに成功した。翌年の禁門の変では、会津、薩摩の軍がよく戦って、その責を守ってくれる。しかし幕府の力もそこまでであった。
 皇居に向けて発砲したことを理由に、長州に攻撃をかけ、徹底的に長州を叩こうとする幕府は、だから四国連合艦隊の攻撃すら、利用しようとした。けれども、征長軍参謀西郷隆盛は必ずしも、幕府の思う通りには動いてくれなかった。この時、勝海舟に会った西郷は、勝が例の如く幕府をこきおろし、「幕府はもはや、その任でないこと。雄藩連合の政治に切りかえるしかない」と説くのに力を得て、敢て戦おうとしない。即ち十一月一日、毛利家の支藩吉川監物と会い、毛利父子の謝罪、一藩恭順、三家老と参謀の処刑などを条件に、講和を結んでしまったのである。これは征長軍総督尾張慶勝が広島に到着する以前であった。
 この講和は、当然、幕府にとって不満である。もう一回、徹底的な征長戦を行って、力でこれをねじ伏せ、幕府の権威を盛りかえし、さらに、勝手な講和に走った薩摩をも、屈服させようと企て、慶応元年はじめ、第二次征長軍をおこしたのである。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

 

苦悶する土佐

 血の嵐の吹く土佐藩内
 小松帯刀は、元治元年十月、即ち勝海舟から竜馬の身柄を預かった後、薩摩にいる大久保利通に「竜馬達を航海の手先に使えばよかろうと、西郷達の在京中に相談しておいたので、大阪屋敷に秘かにかくしてある」と書き、さらに、「最近、土佐の国政が大層厳しく、不法な取扱いもあって、帰国したら生命を失うということだ」と書き送っている。
 全く、そのころの土佐藩内は、文字通り、血の嵐が吹きすさんでいた。竜馬たちの帰国が、死を意味するものだったのは当然である。この年七月二十七日、清岡道之助をはじめとする、安芸郡の二十三人の勤王志士が野根山に参集し、歎願書という名目で、藩庁に対して抗議書を送るという事件がおこった。それというのも、同じ月の九日に、吉田東洋の甥後藤象二郎が大監察に、また福岡藤次が藩主豊範の君側に抜擢されて、藩庁内の吉田派の勢力がますます強くなることが予測されたからであった。そうなれば、既に獄中に在る瑞山たちの生命は、これまで以上に危険になる。事件は、このことを察知した志士たちの、焦燥感に連る暴挙だったのである。
 野根山に志士参集という報に接して、藩庁のうろたえぶりは度を越していた。二十三人の志士を捕えるために、数百の兵を差し向けている。道之助たちは、舟で国外に脱出をはかったが、不成功に終り、捕えられてしまった。藩庁は、彼等が武器を携えていたことを理由に、藩主に反抗の意志ありとみなし、何一つの取調べをすることなく、全員斬殺と決定したのである。二十三人は、九月五日、捕えられた場所にほど近い、奈半利河原で打首となり、三日間の晒首にされた。

 

 勤王党に対する非道な拷問
 藩庁のやり方は、もはや狂態に近いものがあった。さらに九月十三日、禁門の変のために、長州の毛利敬親親子が朝敵とされ、追討の命が下ったことを知った藩庁は、藩主夫人が毛利家の出であることから、これを城外に移し、幕府に対して、今後の処置のお伺いを立てているのである。
 さきに捕えられた勤王党志士に対し、吉田東洋暗殺事件についての取調べが始まったのは、この年の五月ころであった。しかし取調べは遅々として進まず、監察吏をいらだたせた。そのため、取調べに拷問が加わるようになり、刺客として名を馳せた岡田以蔵は、とうとう、これに耐え切れずに、井上佐市郎という藩士を暗殺したこと、共犯者の名を白状してしまう、そのため、名前を出された者はさらにひどい拷問に会うこととなった。
 野根山の事件は、拷問のひどさを加える結果となって、獄中の志士たちにのしかかってきた。瑞山自身は拷問を受けることはなかったが、獄中にいて拷問の様子はよくわかるのだった。そして、その苦痛に耐え切ることが、どれほど困難なことかも理解していた。だから瑞山は、共に捕えられていた実弟の田内恵吉が、拷問に耐え切れるかどうかを案じた。彼は獄外で謹慎となっている、妻富子の叔父島本寿之助を通じて、獄内外の通信の便を得ていたが、寿之助に頼んで、密かに天祥丸という毒薬を届けさせ、白状に及ぶぐらいなら、自ら毒をあおって死ぬべきであると諭したのだった。恵吉は、その年十一月二十八日、その毒薬によって自殺してしまう。さらに翌年の慶応元年三月には、島村衛吉が、わざわざ身分を平民に落されて、非道な拷問を受けた末に死んでしまうのである。このころ、容堂は、取調べの催促に、しばしば、自ら出てくるほどだったという。

 

 慶応元年に瑞山切腹する
 長い獄中生活で瑞山はずっと病気勝ちになり、取調べを受けられないことも多かった。最後には、病身の彼を、容堂の命であるとして、無理矢理に白州に引き出し、うやむやのうちに罪状認定を行い、切腹にしてしまう。瑞山の切腹は慶応元年五月十一日であった。「先年来、天下の形勢に乗じ、ひそかに徒党を結び、人心煽動をなし、爾来、京都で高貴の御方へ、容易ならざる儀をすすめ、はたまた、容堂公様へ、しばしば不屈の事を申上げたことは、すべて臣下の身分を失し、上をないがしろにし、国法を乱り、言語同断、重々不届の至り、吃度、容堂公には御不快に思召され、御に仁慈を以て切腹仰せつけらる」
 これが、瑞山に対する申渡しである。瑞山は死ぬまで「一藩勤王」の夢を捨てず獄中から島村寿之助にあてて「不本意のようでありますが、同志は逃れるだけは逃れて生残り、時を見て勤王党を再び興し、藩主が堂々たる正義にお立ち戻りなされるよう、どこまでも力を尽すことが誠忠であろうと考えます」と書き送っている。だが瑞山個人としては、「一藩勤王」といっても、藩の旗頭に藩主が立たなければ意味がなく、しかも藩主の思想的限界を無視して、正面切って藩主を現段階から引きずり上げねばいられなかった。そこに、瑞山の限界があったといえよう。しかし、土佐の「イゴッソウ」というにふさわしい謹直さ強情さは、土佐藩から多くの有為の士を出した。竜馬にしても、その思想的立場は後に相当のへだたりを生じはしたが、瑞山の手ほどきを無視はできないし、中岡慎太郎もまた瑞山の訓育を受けている。

 

 薩・長二大勢力に対する竜馬
 弟には獄中で自殺をすすめ、自らも藩主の無理解のために死なせられた瑞山であったが、その死んだ時には、既に尊攘派に曙光がさしはじめていたのである。即ち、幕府の再長征に対して、薩摩が反対をしたのは、その前月の四月であり、事態は再び引っくり返るべく、進行を続けていたのだった。薩摩、長州ともに、数々の脱皮を経て変貌していく。この二つの進歩的勢力の対立拮抗に対して、土佐藩が第三勢力として、重要な役割りを果たすために、急激な脱皮を敢えてしなければならない時期は、目前に迫っていた。
 長州や薩摩が経てきた藩政改革、藩論統一の変遷に比べて、土佐藩のそれは、人材の登用と開発、産業経済の開発など、総ての点において、あまりにも遅れが目立っている。長州が松陰を幕府の手にかけて殺してしまうという愚策をとってから七年も後に、土佐藩が、もっと愚劣なやり方で瑞山を失ったことでも、その遅れは明かといえよう。
 薩摩と長州という二大勢力の結集は、今や時代の要求であった。しかし、相互に背を向けあったままの、この二つの力を結びあわせるには、より大きな政治力を必要とする。大所高所に立って、この結合を斡旋する第三勢力が登場することは、最も望ましいことであった。しかし、あまりにも遅れをとっている土佐藩が動き出すには、未だ時間が必要だった。ここで登場する竜馬と中岡慎太郎が、共に脱藩者として、藩籍を持たず、ことに竜馬は、一藩の盛衰を度外視する立場をとってはいたが、土佐藩の欠落の穴を埋めたことによって、土佐藩の負うべき役割りを、その一身に荷ったといえるであろう。

 

                    <坂本龍馬 目次> 

 

革命活動への第一歩

 竜馬、長崎の亀山に社中設立
 大阪の薩摩藩邸にかくまわれていたある日、竜馬は京都嵐山を千屋寅之助、高松太郎と散歩の途中、バッタリと浪人狩りの会津藩の一隊に出会ってしまった。相手は白鉢巻を巻いてりりしい身ごしらえ。同行の二人は思わずハッとした。ところが竜馬は平然たるもの。「どうだ。あの行列が突っ切れるか」と云ってニコリと笑った。二人は何も云えず、顔を見合わせた。「見ろ、こうやるのだ」竜馬は道ばたの仔犬を抱き上げ、頬ずりしながら行列を横切ってしまった。ものものしいいでたちで、いたずらに興奮していたような会津藩士達は、一瞬毒気を抜かれたていで、彼を通してしまったという話が伝わっている。いかにも人を食っていて、しかも相手がフット気を呑まれてしまうというタイミングのよさ。そこに彼が自ら会得した巧まざる技術を感じる。もしかすると彼はこれを剣の道で自らのものとしたのかもしれない。機をつかんで自分のペースに乗せてしまうこと、細かい計算を承知の上でさらりと捨て切って大きく出る。その辺に彼の対人関係の機微の秘密を見るのである。
 慶応元年四月二十五日、西郷が小松と帰国するのに同行して、竜馬等も薩摩の藩船胡蝶丸に乗りこみ、鹿児島に行く。かつては潜り込もうとして失敗したところである。鹿児島に十日ほど滞在した竜馬達は、小松が長崎へ行くのに随って長崎に行った。ここではじめて、長崎の亀山に本拠を置いて、社中を設立する。

 

 竜馬、東奔西走亀山はいつも不在
 長崎といえば、鎖国当時からの開港地である。安政五年に横浜、函館が開港したとはいいながら、貿易上の長崎の比重は重かった。イギリスのリチャードソンは、まず長崎、上海の定期航路を作ったし、幕府も長崎会所を中心にして、長崎、上海の航路を開いている。長州の高杉晋作、佐賀藩の中牟田倉之助、薩摩藩の五代才助らが上海に渡ったのも、この航路によった。五代才助は、その時ドイツ汽船(天祐丸)を買込んでいる。しかし長崎での貿易は、イギリスのグラバーが最大であった。竜馬は、この貿易の中心地に腰をすえて、通運商事をやりながら、航海の知識や技術を修得し、事ある時に備えようというのである。その構想はかつて河田小竜の吐いた夢とほとんど同じであり、その技術面では神戸海軍操練所の延長といえるし、後日は海援隊の活動に連るのである。
 社中に参加したのは、近藤長次郎、千屋寅之助、沢村惣之丞、新宮馬之助、高松太郎、伊達小二郎、白峯駿馬など二十数人であった。
 当時の手紙によると「この者達二十人ばかりの同志を引きつれ、今、長崎の方に出て稽古を致しております。……いざという時には、多勢を引き連れて、一時に旗あげしようと、今は京都にいますが、五、六日のうちにまた西に行くつもりです。……まったく土佐のような、何の志も持てないような所でぐずぐず暮しているのは実に大馬鹿者です……」(九月九日姉乙女へ)とある。彼は大きな構想のもとに、既に教育、実業、政治運動の三つをかけ持ちで、東奔西走しているのである。だから亀山には始終不在である。亀山における社中の面倒は小松、西郷がみていた。社中の人々の生活費は、月々一人あたり三両二分ずつを薩摩藩から支給していた。薩摩は社中によって藩の為の物資輸送に便を得ている。

 

 慎太郎は長州に竜馬は薩摩に
 竜馬はほとんど社中の設立と同時に、急激に革命運動に乗り出していく。同じ土佐の出身で脱藩の身でもある中岡慎太郎は、既に長州勢力の中にくいこみ、その中でかなりの地歩も築いていたのに対して、竜馬は遅ればせながら、薩摩勢力の中に、徐々にではあるが地歩を築きつつあった。この薩、長二勢力の中に彼の存在を決定的なものにしたきっかけは、幕府側が長州再征の動きをおこしたことだった。第一回の長州征伐で、西郷があまり長州に攻撃の手を加えずに、講和をむすんだことに大きな不満をもち、長州をたたきのめすことによって、その立場を有利に展開しようとはかる幕府側の態度は、西郷を怒らせた。「近ごろ幕府から、再び長州征伐をやるよう云ってきたということですが、今度は幕府だけで攻撃をするべきだとの趣きに聞いております。勿論、私共の藩などは、どんなに軍兵を募りましょうとも、私事にまつわる戦いに、兵を差しむける道理はありませんから、断然お断りすることに決定しております」(四月二十五日)大阪の西郷から、筑前の月形洗蔵に出した手紙の一節である。長州再征を私戦と見た所に、薩摩は自らの転回の支点を発見する。さらに今度の再征は幕府側が中心である。出兵を断然お断りすることも容易だったはずだった。西郷、小松が竜馬等を伴って帰国したのも、このことについての藩論を決定するためであった。

 

 大きな夢をもった現実主義者
 竜馬が太宰府にいる三条実美に会ったのが五月二十四日、三条実美等、八月十八日の政変の際、長州に下った五卿(七卿のうち一人は死に、一人は挙兵の為脱出した)は、長州の敗戦によって、既に太宰府に移されていたのである。翌二十五日には、これも五卿のうちの東久世通禧に会っている。通禧は彼との面会について、日記に、「竜馬と面会、彼は偉人なり、奇説家なり」と書いている。彼が何を語ったかは具体的に何もわからない。しかし横井小楠は「竜馬は乱臣賊子になりかねない」と評し、通禧が「奇説家なり」と云ったところには、共通する何かがあったはずである。小楠は共和思想の持主だとして、明治二年には暗殺されている。その小楠が危んだということは、竜馬の思想が、時勢によほど先がけていたとも考えられる。小楠とは数回会い、指導も受けていた彼であるが、何物にもとらわれず、よいものはよいとして、平然として取り入れてしまう、貧欲で、柔軟性のある彼の特質からしても、何時の間にか小楠を乗り超えていたのではあるまいか。あまりにも思想が時代の先を行きすぎ、そのギャップが大き過ぎた為、乱臣賊子となった先例があるから、小楠もそこを心配したのかもしれない。しかし竜馬に対して、その心配は無用であったといえる。竜馬は夢想家といえるほど大きな夢を持つ、いわば夢みる男であり、思想も時代に先がけて成長していたが、その反面、きわめて現実主義者であったからである。

 

 目はしがきき、かわり身も鮮やか
 ある時期、竜馬は「もはや刀の時代ではない。ピストルの時代だ」といい、さらに数年後「いやピストルの時代は去った。これからは公法の時代だ」と云って懐から法律書を出して見せたという逸話の通り、彼は目はしがきくし、かわり身も鮮やかだ。先進的意見を持ち、その話は大言壮語に近い面もあったようだから、呆気にとられた通禧は、奇説家というレッテルをはったとも思える。多分、この一公卿には、はかり難い人物だったであろう。

 

 薩摩と長州の中をもつ難事
 竜馬は閏五月一日に下関に着き、滞在していた。たまたまやって来た土方楠左衛門と会ったのが五日である。土方は土佐藩の郷士の出身で、土佐勤王党の一員。八月十八日の政変の際、三条実美に随って三田尻に行き、実美の意を奉じて奔走していた。土方は薩摩に行く吉井幸輔の父と、中岡慎太郎の二人と共に、薩摩の胡蝶丸に乗って来たが、薩摩の船は長州の港に入ることができないので豊前の田の浦で胡蝶丸を下り、下関まで引返して来たのだった。土方は京都の現状をいろいろ話し、さらに薩長両勢力を統一する必要と、長州再征問題の熟してきた今日こそ、遅れてはならない好機であること、中岡の薩摩行きは、西郷隆盛を上京の途中引っぱり出して、長州の桂小五郎と、下関で会談させようという計画の一部の為であることなどを語った。竜馬は例によって、手をたたいて喜び、自分もその実現の為の努力を誓った。
 六日、七日、八日の三日間、二人は長州藩士の説得に心を傾ける。長州にしてみれば、会津桑名より以上に恨み骨髄に徹した、憎き敵であり、奸賊というべきものなのだ。薩摩と云うだけで顔色が変るぐらいである。薩摩の手にかかって、どれほどの仲間を失ったことか。倶に天を載かずの気持である。その感情的なしこりとなってしまった怒りや恨みをときほごし、国家の大事の前に、その憎い奴と手を結ばせようというのだから、忍耐のいる大変な仕事であった。ようやく会うだけは会ってみようという所まで漕ぎつけると、土方は三条実美へ報告の為、太宰府へ向った。

 

 桂、西郷に待ちぼうけでカンカン
 だが、西郷は一向に現われない。桂は段々いらいらしてきた。二十一日になって現われたのは、中岡ただ一人だった。京阪の状況があわただしく、急を要する西郷は、船路を土佐沖にとった為、下関には寄港できなかったという中岡の説明は、弁解にしか聞こえない。桂はカンカンに怒って薩摩の不信をなじる。薩摩は信用がならない。いつも我々を欺くというのだ。そして果ては竜馬や慎太郎までも責める。やりきれない思いで、二人は桂をなだめた。
 竜馬には、薩摩も長州もない。彼の心の中にあるのは新時代を創り出すのに必要な長州の勢力であり薩摩の力であった。彼は、無党派の志士達が、勤王勤王と唱えて、たやすく幕府から権力を奪い取れると考えている安直さを、苦々しく思い反対もしていた。幕府の潜勢力も知っていたから、なおさら、長薩の統一した勢力に期待せずにはいられなかったのである。両勢力の統一を純粋に、強く願う点では中岡とて同じこと。二人の誠意あふれる、忍耐強い説得で、ようやく、その怒りをゆるめることができた。だが、桂は交換条件を出したのである。長州の為、運動の為によかれと思ってやっていることに、交換条件で納得するというのもおかしなことだが、実は長州にも頭を痛めている問題があった。武器購入のことである。幕府の攻撃を前にして、長州は武器の買入れを急いでいたが、幕府の妨害でうまくいかない。そこで、薩摩藩の名儀で、武器を購入してもらえれば、今度のことは怒りを抑えて、竜馬と中岡の二人にあとの処置をまかしてもよいということになったのだった。
 桂の申出を引き受けた竜馬は、この仕事を亀山社中にやらせ、自分は京都に向かった。今度は西郷の説得にとりかかるのである。

 

 武器購入のため井上、伊藤が動く
 長州から武器購入の為長崎に出向いたのは井上聞多(後の井上馨)と伊慶俊輔(後の伊藤博文)の二人である。二人は亀山社中の近藤長次郎の紹介で、薩摩の小松帯刀に会い、薩摩藩邸にかくまわれた。この時二人は、平戸、大村藩をはじめ、肥前、肥後、筑前、久留米等九州各地の状況から薩摩の状況に至るまでを視察し、桂に報告している。ちょうど小松が帰国する折でもあったので、近藤のすすめで、井上は小松、近藤に伴われて鹿児島まで行き、薩摩の連中と友交を深めることができた。井上は、彼等が幕府の嫌疑など眼中にないといったようすで、快く世話してくれるといって、喜んでいる。当時、長州藩では、汽船購入の計画もあった。しかし藩府の態度がはっきりせず、いたずらに遅疑逡巡の有様だったから、井上は薩摩の好意的、積極的な態度を報告して、藩府を叱咤し、桂には、その決定のために動くよう求めていた。
 だが汽船の場合は、細かい小銃等と違って購入者名儀、使用者名儀など、いろいろやっかいで、鹿児島での井上の交渉では、うまくまとまらなかった。やむを得ず、井上は一旦長崎に帰り、伊藤が高松太郎の斡旋で、イギリス商人グラバーから買入れた小銃四千三百挺と共に下関に帰った(八月十六日)。
 この武器購入の過程で、長州は再び脱皮を遂げるべく、少しずつ動きはじめている。また、井上や伊藤は、薩摩の世論が開国勤王にかわっていること、さらにその開国は、会津が開国で幕府を助けるのとは違っていることを発見したのだった。
 この時にはたせなかった汽船購入は、近藤長次郎の尽力で、やっとはたすことができた(汽船ユニオン号)が、このことについては後に触れる。

 

 西郷、大久保長州再征に反対
 竜馬が慎太郎と一緒に京都をさして下関を出発したのは、閏五月二十九日だった。六月下旬に京都に着いて、早速、西郷達を説いてまわった。これもなかなか困難な仕事で、一向にはかどらない。長州再征に反対し、参加しないという態度から、長州と結ぶというほど先に進むことは、二の足を踏むのだった。藩内事情も、そこまでは熟していない。こうなると長州の方も放ってはおけない。長州再征を受けて立つつもりの長州諸隊の反対も緩和しておかなくてはならないというので、七月十九日に、中岡が下関に向かった。
 この間にも、幕府の長州再征問題は進行し、幕府の願いによって征長の勅命が下り、将軍の率いる軍隊が大阪まで進んでいた。薩摩はこの非常事態を警戒するため、国許から軍兵を派遣することとなり、その食糧を下関で購入することとした。竜馬は西郷の依頼で、その交渉をまかせられ、九月末に京都をたって、下関に向かった。食糧をわざわざ長州から購入することによって薩摩の誠意も認められ、長州の猜疑心もはれるのではなかろうかという含みがあってのことである。
 山口で池内蔵太にあてた手紙には、幕府がいかにひどく征長の勅命を求めたか。それに対して薩摩の大久保利通が抵抗し、「非義の勅が下った時は、薩摩は奉らず」とまで云ったのに、朝廷は幕府に圧されて、勅命を出してしまったといういきさつが、簡単な文章ながら、怒りをこめて書いてある。
 山口での仕事には成功したが、薩摩と長州の連楔問題は、依然頭の痛い状態である。十月十二日に書いた長州の伊藤肇への手紙には、
「……何といっても急成は、かえって両方の志がよく通じない。どっちみち、国家を憂える事によって成立する論なのだから、お互いの考えの意味がよく通じて、両方が相手の考えを深く知ったうえで、よい方を選ぶようにならなくてはならない。お互いに、自分の主張こそ道理である、正義であると強調しあうようでは、かえって障害も生じてくる。笑いながら話し合うような中で、よいことを求めるようでなければ、到底大成はできないと思います」と、現状を嘆きながらも、交渉のあり方を述べている。

 

 ついに桂が京都に向かう
 桂が西郷との会見のため京都に向かって下関を出発したのは十二月二十五日だった。桂の上京は、高杉や井上達が是非にとすすめたもので、西郷も黒田清隆を長州に送って、五月の非礼をわび、その上京を懇請した。勿論、竜馬もしきりとすすめた。はじめはどうしても嫌がり、他の者を送ろうとしていたほどだった桂も、とうとうそれでは恥をしのんでということで、重い腰を持ち上げたのだった。桂に同行したのは、品川弥二郎、三好半太夫、それに土佐浪人田中顕助と、薩摩の黒田清隆であった。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

統一の論理

 桂等、西郷、大久保のもてなしを受く
 桂等が大阪に着いたのは慶応二年一月七日だった。すぐに伏見の薩摩藩邸に行き、そこから西郷、村田新八と一緒に京都の薩摩藩邸に行った。西郷は伏見まで桂を出迎えて、初対面の挨拶を交し礼をつくしたのである。その後、お互に、これまでやってきた方針や経過について話合ったが肝心の薩長統一については、どちらも切り出さない。薩摩側は、小松帯刀、大久保利通等も現われて、毎日、それこそ下にも置かぬ丁重なもてなしをするが、それだけである。桂がわざわざ京都まで出向いたのは、薩長の協力体制を作るという、ただ一つの目的のためである。桂は、向こうが切り出さない限り、自分からその問題を出すのは厭であった。禁門の変では薩摩に随分叩きのめされている。さらに昨年は、西郷にすっぽかされて、会見が流れているのだ。それに加えて、現在の長州は幕府の再征を控えてまことに苦しい状態である。こんな状態で、薩摩と手を握りたいと申し出るのは、弱い立場にある側として、耐えられない屈辱であった。それは優位にある薩摩にひざますくことだと思うと、桂は意地にも、自分から切り出せなかった。ジリジリといらだつ気持を抑えるのが精一杯というところで、彼はいたずらに日を送っていた。それに、細心周倒なタイプの桂は、相互の立場や、ゆきがかり上のいきさつも考えて、薩摩側が当然切り出してくれてよい、それが相身互身ということじゃないかと益々頑固に思いつめている。
 西郷にしてみれば、薩摩の立場をより以上優位に置こうという気があるから、そしらぬ顔で、桂の肝心な所を避けた話に、相鎚をうつばかりで、桂の出方を見ている。西郷の性格からいえば、単刀直入、桂が問題の核心にふれ、西郷の胸中を叩きさえすれば、問題は一挙に解決したはずだが、桂にはそれができない。

 

 二人の談笑は一向に発展せず
 二人の談笑は、桂の内心のあせりや怒りとは無関係に、べんべんと十日余りにも及んだ。来るのではなかった。厭だというのを無理矢理押し出してよこした高杉や伊藤俊助等が恨めしくさえなる。「君こそ適任だ」などと云ったのは、どういう意味だったのか。桂はそんな思いの中に低迷していた。遂に、仲介の労をとった竜馬にまで、腹がたってくる。俺達を放っておいて、一体何処をウロウロしているんだ……。竜馬に思いきり、この気持をぶちまけなければ、帰ることはできん。そう思うことで、彼は僅かに、薩摩藩邸での、無駄な長逗留を続ける理由を見出していた。
 一月十日に下関を立った竜馬が神戸に着いたのは十七日、十八日に大阪に行き、京都の薩摩藩邸には、二十日になってようやく顔を出した。何よりも先に桂の部屋を訪ね、話合いの成果を聞くと、意外にも、桂は甚だご気嫌がよくない。「どうもこうもない。君達が折角、尽力してはくれたが、自分はこのまま帰る決心だ。ただ一言、君の労を謝してから帰国しようと思い、待っていた」
と、ぶすっとした調子でいう。竜馬にはどうも、よくわからない、想像もできなかった不調ではないか。

 

 薩・長のためではない、国家のためだ
「考えてもみたまえ、我が長州は、現代の危機を拱手傍観するにしのびないので、奮然、意を決して、大いに天下の為に尽そうと、自らの利害も省みずにやってきたのだ。そのため今では国内で孤立し、幕府再征の前に四面に敵を受けて、甚しい苦境に陥っている。藩の士人は死を覚悟して、受けて立とうとしているが、活路が開けるとは限らない。それに比べて薩摩の立場は、我が長州と違い、公然と天子に味方し、幕府ともウマがあい、諸侯とも交わっていて、その進退は全く自由である。何事でもできるという立場にある。
 こういう時、僕自ら口を開き、薩摩に長州との統一行動を求めることは、薩摩を危険に陥れるだけでなく、援助を乞うようなものである。それは長州の者としては到底できないところであり、深く恥とする所である。長州は焦土と化しても、面目を落とすようなことはできない」
 桂は抑えに抑えていた気持を一挙にぶちまけた。竜馬は呆れてしまった。腹も立った。桂の心情もわからなくはない。しかし、心外なのである。
「長州の体面、一応もっともとは云える。しかし僕達が長薩統一のために挺身してきたのは、決して両藩のためではない。ひとえに、現下の情勢が統一を必要としているからではないか。国家全体のためには、一藩の私憤にかかわってはいられない。遠くここまでやって来て、お互いに会談しながら、空しく十数日を過すとは、おかしなことではないか。何故心を打ちあけて、新時代のために将来を協議しようとされないのか」

 

 竜馬の直言で難問も急転直下
 竜馬の言葉に桂は一も二もなく頭を下げた。「君のいう通りだ」
 竜馬はその言葉を受けとめておいて、西郷の部屋を訪れた。西郷を前にして、竜馬は桂の立場を代弁する。桂の苦しい立場、問題を切り出せない心情。竜馬の強い直言は、西郷を納得させる。西郷はとうとう、自分の方から問題を切り出すことを約束した。
 こうして半年来の懸案であり、京都に持ちこまれてから十数日間も進歩をみなかった難題は、急転直下、解決された。
 この時、竜馬はよほど両者の態度にがまんがならず、激しく怒ったとみえて、後に中島作太郎に、「僕はこれまで、めったに怒ったことはないが、あの時ばかりは、心の底から、激怒したよ」と語ったという。
 竜馬がこの難題をまえにした両者の仲介にあたって使った論法は、お互いの意見は、それぞれ、社会、国家のことを考えて生まれたものであり、そこに話合いの共通点、一致点がある筈だということが基調になっている。その為に大切なのは、急速に説かないということ、時間をかけて、じっくりと話しあうということであり、その場合、自らの考えを義とし、真として、相手に押しつけようとしてはならないということであった。お互いの一致点を見出そうとする態度が大切であり、その態度からは、必ず一致点が見出せるものだという確信である。

 

 桂の依頼で竜馬規約を裏書
 この時に交わされた規約は、桂から竜馬に文書として送られ、桂の依頼に従って竜馬が裏書をしている。
一、戦いとなった時は、すぐに二千余の兵を急いでさし上らせて、現在京にいる兵と合流し、大阪にも千ほどの兵を配置し、京、大阪を守ること。
一、戦いが我方の勝利となるような気配が見えても、朝廷に申上げて必ず尽力の用意をすること。
一、もし戦いが敗けそうになっても、一年や半年の間に潰滅するようなことは無いから、その間に必ず尽力の準備をすること。
一、これなりに幕府の兵が江戸に帰った時は、きつく朝廷へ申上げて、冤罪を許されるように強く尽力すること。
一、兵を京によせ、一橋、会津、桑名等も現在のように朝廷を擁して正義に抗し、周旋尽力の道を妨げる時は、戦いによって決するほかはないこと。
一、冤罪を許されたなら、お互いに誠意をもって話合い、国のために身を捨てて尽すのは云うまでもなく、何んな方法によるにしても、今日からお互いに国のため、皇威が再び光り輝くようになるのを目的に、まごころを尽して尽力すること。

 竜馬の裏書は、「表に記された六条は、小松帯刀、西郷隆盛の二人に私竜馬等も同席して談論した結果であって、全くこの通りに違いありません。後になっても、決して変ることの無いのは、神明の知る所であります」と書いて署名している。

 

                    <坂本龍馬 目次> 

 

恋愛

 恋人を知った竜馬の優しい手紙
 竜馬がこの頃、後輩であり、同じ脱藩者として長州で活躍していた池内蔵太の家族に送った手紙に、内蔵太と会ったこと、その近況を述べたあと、「これからは、つまらぬ戦いはおこすまい。つまらぬ事では死ぬまいと、互いに約束した」という一節がある。また、内蔵太の活躍ぶりをほめて、彼に手紙を出してくれるようにと頼んでもいる。情味のあふれた、優しい手紙である。
 この手紙の内容は、竜馬に「竜」という名の恋人ができたことと無関係ではなさそうだ。恋を知った者に特有の、情愛の濃やかさ、人懐しさが見られるからである。同じ日付けで、姉の乙女に書いた手紙には、竜のことを詳しく書き綴っている。
 「先頃、頼三樹三郎、梅田源二郎(雲浜)、梁川星厳、春日(潜庵)などの名のきこえた方々が、朝廷の御為に、世の難をこうむったことがありました。そのころ、その同志であった楢崎某という医師があり、それも最近、病気で死にましたが、その妻と娘三人、男の子二人が残されました」残された妻子は、突然に落ちぶれて、くらしてゆくことができず、売り食いの果てに、家族ちりぢりに奉公することになる。ところが真中の十六になる娘が、だまされて大阪に女郎に売られてしまう。上の娘がそれを知り、必死の覚悟で連れもどしに行く。「その悪者の二人を相手に死ぬる覚悟で、刃ものを懐にしてけんかをし、色々云い募ったので、悪者は腕の彫り物を見せて、べラボー口でおどしかけたが、もとよりこちらは死ぬ覚悟だから、その者の胸倉をつかみ、顔をひどくなぐりつけ、『その方がだまして大阪に連れて来た妹を返さなければ、これきりだ』と云うと、悪者は、『女のやつ、殺すぞ』と云い、女は『殺せ殺せ。殺されにはるばる大阪にやって来た。面白い。ささ殺せ』と云ったので、さすがに殺すわけにはいかず、とうとうその妹を受取り、京の方に連れ帰った。大へんな事であった」その勇ましい娘がお竜なのである。その後、日々の糧にも困っていたのを竜馬が救ったようである。
 「この女はまことに面白い女で、月琴をひきます。今はさまで不自由もせず暮しています。私はわけがあって、十三の妹と、五才になる男子を引取り、今は預けてあります。また私の危い時、よく救ってくれた事などもあり、万一生命があったら、どうにかしてやりたいと思っています。この女は、乙姉さんを本当の姉のように会いたがります」このあと、「乙姉さんの名は諸国に聞えています。竜馬より強いという評判です」とおどけて、また「何卒、帯か着物か、一つこの者にやって下さい、この者の内々の願いです」「女の今の名は竜といい、私に似ています。そうそう、辰年に生まれた時、父がつけた名だそうです」とある。綿々と竜のことを書き綴っている中で、竜馬の愛情が、情緒深く現れている。

 

 平井収二郎の妹へのほのかな恋
 竜馬は五尺八寸という恵まれた体躯の持主だった。ゆっくりとした身体に似て、細かいことにこだわらない、男性的魅力にあふれた、男の中の男というタイプ。しかも感情は素直で豊富。嘘だか本当だかわからないような、夢のような話をして、ケロリとしている。ユーモアもある。これでは、周囲の女性がほうってはおかないだろう。竜馬は大層女にもてたということである。
 竜馬がはじめて土佐勤王党の血盟に加わった直後、当時京都にいた平井かほに宛てた手紙が残っている。
 「先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時勢切迫致し候につき
 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
 外に細き大小一腰各々一ツ御用意ありたく存じ上げ候
                           坂本竜馬
    平井かほどの                      」
 文面はたったこれだけである。平井かほは、平井収二郎の妹で、京都の三条公睦未亡人に仕えていた。翌年、竜馬が脱藩すると、収二郎からかほにあてて、
 「坂本竜馬が昨二十四日亡命した。きっとそちらに行くだろう。竜馬が国を出る前日、おまえのことについて相談に来た。たとえ竜馬から、どんなことを相談されても、決して承知してはならない。お前は家にいて、父母に仕える身の上であるから、他人の為に、人につかわれることはできない。たしかに竜馬は人物ではあるが、書物を読まないから、時としては間違うこともあるから、よくよく心得ておくように」
という手紙が送られている。竜馬が何のために、かほに高マチ袴や、ブツサキ羽織を用意させたのか、(男装の用意を促したとされているが)また収二郎の所に、何を相談に行ったのか、よくわからない。後に収二郎が切腹になったのを知って、姉乙女に出した手紙に、「妹のおかほが嘆き、いかばかりか。私の様子など、話して聞かしたい」と書いているのを見ても、竜馬には、その後も関心があったようにみえる。ただしこの二人は、竜馬の脱藩後、遂に会うことがなかったといわれている。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

 

死地脱出

 竜馬、寺田屋で襲撃を受ける
 ようやくのことで薩長統一をまとめた竜馬は、二十三日夜、伏見の寺田屋に戻って来た。寺田屋は、竜馬が何彼と面倒を見てもらっていた親しい宿である。竜馬の恋人になった竜は、この家の養女になっていて、この時も寺田屋に住んでいた。竜馬が長州から同伴して来た三吉慎蔵は、ここで竜馬の帰りを待っていたのである。しかも幕吏は、日夜、危険人物を捕えようとして厳重警戒中で、寺田屋もマークされていた。竜馬が寺田屋に入ったことは、すぐに幕吏の知るところとなり、その夜のうちに襲撃を受けたのである。
 竜馬は兄への手紙にこの時の様子を詳しく書いている。
 それによると、「正月二十三日の夜中の三時ごろであったが、ひとりの連れ三吉慎蔵と話をして風呂から上がり、もう寝ようとした所に、おかしなことに、人の足音が、ひたひたと階下に聞こえ(この時二階におりました)ると思ったと同時に、六尺捧の音がカラカラと聞こえます。ちょうどその時、前々からお話してあります女性(名は竜、今は妻としております)が駈けて来て『御用心なさい、敵がやって来ました。槍を持った人たちが、階段を上がってきます』
 それで私も立上がり、袴を着ようと思ったが、次の間に置いてあります。そのまま大小を差し、六発入りのピストルをとって、後の腰かけにもたれます。連れの三吉慎蔵は、袴を着て大小を差し、腰かけにかける隙もなく、一人の男が障子を細目にあけて中を窺います。見れば大小をさし込んでいるので、
『何者か』
と問うと、つかつかと入って来たので、こっちも身構えると、すぐに行ってしまいました。
 次の間は、もう、みしみしと物音がするので、竜に命じて、次の間の後の唐紙をはずさせてみると、何時の間にか、二十人ばかりが槍を持って立ちならんでいます。しばらく睨み合っているうちに、私の方から、
『どういうわけで、薩摩の士に無礼をするのか』
と云いますと、敵は口々に
『上意だ。坐れ坐れ』
と怒鳴りながら進んで来ます。こっちもひとりは槍を中段に持って、私の左に立ちました。私は、私の左に槍を持って立っては、横からやられるなと思い、私が反対に彼の左に立ちました。その時ピストルの打金をあげ、十人ばかり槍を持ってならんでいるなかの、一番右の方を一つ打ったら、すぐにその敵は退きました。此の間、敵は槍を投突きしたり、火鉢をほうりこんだり、いろいろやります。こちらは槍で防ぎます。何といっても家の中での戦いですから、全くやかましくてやりきれません。もう一人にピストルを打ったが、あたったかどうかはわかりません。
 一人の敵は、おもった通り障子のかげから進んで来て、私の右の親指の元をそぎ、左の親指のふしを切りわり、左の人差指の元の関節を切りました、もとより浅手ですから、そのほうにピストルをむけたが、手早く障子のかげに駈けこんでしまいました。また前から敵が来るので、また一発打ちましたが、あたったかどうかわかりません。私のピストルは六発込めだが、その時は五発込めてあったので、あと一発になってしまい、これは大変と前の方を見ると、今の一戦で、少し静まった様子。黒い頭巾をかぶり、たっつけをはき、槍を平青眼のように構えて、傍近くに壁に沿って立っている一人の男があったので、それを見つけるとすぐ打金をあげ、連れの槍を持って立っている左の肩を筒台のようにして、敵の胸をねらって打ったが、その敵はたまにあたったとみえて、ただ眠りたおれるように、前に腹ばうようにたおれました。
 この時もまた、敵はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すさまじく、しかし一向、そばにやって来ない」

 

 晋作にもらったピストルで逃げきる
 竜馬はピストルに弾丸をこめようとして、けがした指がきかずに、たまをはめこむ台を取り落としてしまう。拾おうとしても、暗闇の中に、布団を引きはがし、火鉢はひっくりかえしてあるような有様ではとても見つからない。仕方がないのでピストルを捨て、三吉にそのことを云うと、「では敵中につっこんで戦いましょう」と云ったが、竜馬は、「この間に逃げよう」と答える。三吉も槍を投げ捨て、裏の階段を下りてみると、敵は表の方ばかりを囲んでいて、裏にはいなかった。そこで裏の家にもぐりこみ、気の毒だとは思ったが、その家を突き抜けて、もう一つむこうの町に出ようとするが、その家が意外に大きく苦労する。ようやく後の町に出てみると、一人の人影もない。これ幸いと走ったが、病気あがりの竜馬は息切れで動けなくなってしまう。
 竜馬は、男子はすねより長いものを着るものではないなどと、つくずく考えながら逃げている。風呂からあがったばかりのかっこうの竜馬は、浴衣の上に綿入れを着ていて、袴が無い、着物が足にもつれるのである。ぐずぐずしては敵が追いつく。横町にまがって、堀のような所を水門から飛び込み、その家の裏から材木の棚の上に上って寝たところ、犬がさかんに吠えて、これには全く困った。
 そこから三吉は伏見の薩摩藩邸に駈けこみ、藩邸からの迎えで、竜馬も藩邸に収容されたのだった。この時応戦に使ったピストルは、つい先日高杉晋作にもらったばかりのものである。

 

 西郷、桂共に竜馬の無事を
 奉行所は、死傷者を出したうえに、二人に逃げられ、それも薩摩藩邸にかくまわれているらしいと知って、地団太踏んで口惜しがった。だが、京都でこれを聞いた西郷は、怒りのあまり、薩摩の兵を率いて奉行所に談判に行こうとしたほどだったし、桂も、彼の無事を喜ぶと同時に、「新時代がくるまで、どうか用心してほしい」と自重を促したのであった。
 竜馬の傷は、大きくなかったが、動脈を傷つけられていたため、なかなか出血が止まらず、身体の調子もよくなかった。伏見の薩摩藩邸ではしばらく傷の治療をした竜馬は、その後、つきっ切りで看病してくれている竜や三吉と共に、一月三十日、京都の薩摩藩邸に移った。彼はここで、西郷や小松に、竜を正式に妻として紹介し、名も鞆と改めさせている。二月の末まで京都で養生を続けた竜馬は、西郷、小松、吉井たちが帰国するのに同行して、海路鹿児島に向かった。勿論、妻も一緒である。

 

 竜馬と竜の新婚旅行
 「これから三日大阪に下り、四月に蒸気船に両人とも乗りこみ、長崎に九日に来り、十日に鹿児島に至り、この時京都留守居役吉井幸輔を同道し、船中物語りもあったので、また温泉に一緒に遊ぼうと、吉井の誘いで、また両人づれにて霧島山の方に行く。道中、日当山の温泉に止り、また塩漬という温泉に行く。此処はもう大隅の国で、和気清麿が庵を結んだ所。隠見の滝布五十間も落ちるのに、その間少しもさわる所が無い。まったく此の世の外かと思われるほどの珍しい所です。ここに十日ばかりも止まって、遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を打つなど、実に面白かった。これからまた山に深く入り、霧島の温泉に行く。ここからまた山の上に登り、天の逆鉾を見ようと、妻と二人ではるばる上ったが、立花氏の西遊記ほどではないけれど、どうも道が悪く、女の足では難かしかったけれども、とうとう馬の背子へまでよじのぼり、ここで一休みして、またはるばるとのぼり、とうとう項上にのぼって、天の逆鉾を見ました。その形はたしかに天狗の面なり」はるばる上って来たのにと、二人は大笑いして、その逆鉾をエイヤッとばかり抜き取ってたわむれ、また元に戻す。それから霧島山を下り、霧島神社に詣で、そこで一泊、それから霧島温泉に行くと、吉井幸輔がそこで待っていた。
 これは、後に姉乙女へ送った手紙の一節を抜いたものである。その楽し気な様子がよくわかる。新婚早々の二人にとっては、新婚旅行のようなものであろう。妻を同伴して旅行するなど、想像もできないような当時のこと、妻は国許で家を守るというのは不文律(もっとも、竜馬は旅行先で結婚したのだが)であり、藩船に便乗させるなど、他の誰にもできないことだった。彼と共に活躍した志士達には妻帯者も多いが、例外なく、旅行中は別居生活であり、遊里への出入りも盛んだった。臆面もなく、これをやってのけた竜馬は、それをためらう必要すら感じなかったであろう。何故なら彼は、体面やしきたりよりも、竜との関係そのものを大切にした筈だからである。それは彼の総ての行動に連り、妻の問題にしても、例外ではあり得なかったといえる。

 

 生命尊重の思想から平和への思想
 竜馬は妻との幸せな一ときを過すにつけても、生きていてよかったと思わずにはいられない。一度、海に身を投げた西郷にしても、今の薩摩を見ていると、西郷なしには、国の進退にも差支えるようだ。人間は「短気をおこして、めったなことで死ぬべきではないし、まためったに人を殺すべきではない」と、しみじみ思うのである。この年の始めに、詰腹を切らされた社中の近藤長次郎は才はあったが誠が足りず、自らを死に追いやるような不信行為をした。やむを得ないことではあったが、殺すまでのことはなかったのだ。勿論、その場にいあわせなかった竜馬には、手の届かぬことではあったが。また、容堂によって切腹させられた武市瑞山、その他大勢の犠牲者のことを考えずにはいられない。そればかりか、反対側の井伊直弼でさえ、使いようによっては使えたのではなかったかと思ったにちがいない。
 竜馬の中に、戦いを通じ、争いを通じて、さらには愛の体験を通じて、生命尊重の思想が芽生え、育っていったようにみえる。それはまた、彼の中に平和思想をも形作っていく。それでいて、生命を捨てる気になれば、此の世のことは誠に面白く、また生命を捨てる覚悟なくては、天下の事など何もできないと、腹の底から思い知るのである。だからこそ、生命の尊さが、いよいよ強く、重く感じられていたともいえよう。

 

 近藤長次郎の切腹
 亀山社中の近藤長次郎が、長州藩のために薩摩藩の名儀で、イギリス商人グラバーから汽船買入れに成功したのは、慶応元年十月十八日だった。これは、下関における桂、西郷の会談が流れた時に、桂から出された交換条件の一部で、当時、小銃の買入れはできたが、汽船の方は問題が多く、のびのびになっていたものであった。その後、長州藩主に会って、汽船購入にさらに協力をと頼まれた近藤が、鹿児島に行って、ようやく許可を得るなど、種々奔走した結果、買入れたものである。ユニオン号というその船は価三万七千七百両で、その支払いは長藩が持ち、名儀は薩摩藩、船名も桜島丸と改めた、これに社中同志が乗り組んで、ふだんは通商航海に使い、事ある時は武装し、薩長両藩のために戦うというのが、購入に際しての、近藤と井上聞多(長州)との間で結ばれた条約である。
 この条約を知らされていない長州藩では、この新規購入の汽船に乙丑丸という名をつけ、長州の海軍局総官中島四郎を船長に決めて、下関入港を待ちかまえていた。だから十一月末に、新規購入船が下関に入ると、当然この条約について、もめはじめる。たまたま長州に来ていた竜馬の斡旋で、新しい協約を結び、どうにかおさめることができた。
 近藤は、この功労によって、長州藩から多大恩賞を受けたが、これを社中の同志にかくして、自分は秘かにグラバーの船でイギリスに留学しようとした。しかし同志に知られ、「同志は何事も秘密にしない」という仲間の約束を楯に詰問され、切腹して果てた。

 

 社中の洋式帆船五島で遭難
 翌慶応二年四月、薩摩藩の後援で、社中は帆船ワイル・ウェフ号を購入。長崎から鹿児島に回坑する予定のところ、たまたまユニオン号が長崎に寄港した。そこでワイル・ウェフ号をユニオン号に曳行してもらうこととなり、出帆したが、大変な荒模様となって、ユニオン号は、曳行できなくなった。遂に、繋索を切って航海を続けたが、ワイル・ウェフ号は帆船である。激しい風と浪をまともに受ける上に、乗組員は、この洋式帆船には不慣れでもあったから、五島のほうまで流され、塩屋崎沖で、とうとうてんぷく沈没してしまった。
 この遭難で、黒木小太郎、池内蔵太等乗組員のほとんどが溺死、かろうじて一命を拾ったのは三人にすぎなかった。内蔵太は土佐高知城北、小高坂村の出身で、文久三年に脱藩してから、天誅組に加わり、後に長州に逃れて禁門の変にも参加した。竜馬が木戸、西郷の薩長統一のための会談の成果を見るため、この年一月に下関から京都に上る際同行し、その後薩摩に行く必要が生じたので、竜馬が高松太郎に紹介してユニオン号に便乗するよう依頼したのだった。ところが、たまたま、ワイル・ウェフ号に乗組むことになったらしい。
 五月一日に鹿児島に着いたユニオン号の報告で、鹿児島滞在中の竜馬はワイル・ウェフ号が流されたことを知り、さらに数日後、生残者からの伝達で遭難を知った。ユニオン号は六月四日に出帆したが、竜馬はこれに乗って長崎に行き、五島に渡って遭難者の霊を弔った。この時ユニオン号には、下関で積込んで鹿児島で下す筈の米五百石が積んであったが、これは長州が薩摩に贈ったものだった。しかし西郷は、長州の苦しい事情を考えて、この受取りを辞退した為、鹿児島では下さなかった。十六日下関に着いた竜馬は、桂に西郷の意向を伝えたが、桂はちょつと困った顔をした。竜馬は、一旦他に贈ったものを今更受取りにくかろうと、すかさずその米を貰い受けて社中の用に供してしまった。

 

 いやいや参加したはじめての戦争
 竜馬がユニオン号で下関に着いた時、幕府の征長軍は長州にせまり、長州もまたこれを迎え討って、戦いは、各所で次々にはじまっていた。ユニオン号はこの時から正式に長州の乙丑丸となって、戦いに参加する。竜馬もやむなくこれに加わった。後に書いた手紙(多分兄あてのもの)に「七月ごろ蒸汽船で薩摩から長州へ使者として行ったところ、頼まれてよんどころなく戦争をしたが、これはたいしたことではなく、面白かった。すべて話は実際と違うものだが、戦争は特別そのことがいえる。これを文章に書いて云っても、本当とは思われないかもしれない。一度やって見た人なら話ができる」とあり、また「私共は戦場といえば、人が大層大勢死ぬものだと思っていたが、人が十人も死ぬほどの戦いならば、よっぽど激しい戦争ができるということだ」など、はじめての戦場の経験に即して述べている。はじめて戦いの場に臨んだのではあるが、先にも云っているように、竜馬には、ほとんどやる気はない。頼まれたから、仕方なしに加わっているのだ。彼にしてみれば、こんなつまらぬ戦いをしかけてくる幕府には呆れるし、受けて立たねばならない長州を気の毒には思うが、戦いの必然性も薄く、こんな馬鹿げた戦いで、お互いに傷つけ合い、殺し合い度くはなかったに違いない。この気持は、彼が後に「いろは丸事件」の時、一戦を交え、命を賭けてもと決心した時とは、全く違うのである。めったなことで死にたくもないし、殺したくもないのだ。

 

 三吉慎蔵への手紙
 八月十六日に三吉慎蔵にあてて
「……去る七月二十七日及び八月一日の小倉合戦も、終に落城と聞きました。……将軍もいよいよ死去し、あとは一橋侯や紀州侯があと目を望んでいますが、一向に論議がないそうです。何れにしても幕府の中は割れているそうです。兼て名の高い勝安房守(海舟)も京都に出て、是非とも長州征伐はやめなくてはならないと論じ、会津藩あたりと毎日大論争をしているということですが、なんともかた付かず、幕府はこの頃イギリスの助けを受ける事は、決してできないということになりました。これは小松帯刀の見通しだそうです。兼ね兼ね、フランスの『ミンストル』は、幕府の周旋ばかりしていたが、この頃は、薩摩から日本の実情をフランスの方へ知らせ、フランス国に薩摩の者二人を周旋して、江戸に来ている『ミンストル』は近く国に帰るそうです(これは西郷の話です)。この頃薩摩が、兵を動かしながら、未だ戦さに参加しないのは、大いに理由のあることで、これからも嘆いてはなりません。幕府の倒れるのは、もうじきと存じます。……」
 竜馬はこの時、戦争を切りあげて長崎に戻っているが、いろいろと情報を集め、次に打つ手を考えているようである。幕府の失敗と、将軍家茂の死という二つの大きな条件を前にして、幕府の倒れる日も近いと確信をもっている。そのために、どんな手が有効であろうか。

 

 長州と土佐の交流復活をはかる
 まず働きかけたのは松平春嶽であった。彼は春嶽を通じて、幕府に権力の放棄をさせようとする。すなわち、長崎出張中だった越前藩の下山尚に「政権奉還の策を速かに春嶽に告げてほしい。公が一身を投げうってやれば、うまくいくかもしれん」と説いたのである。下山は九月二十日横井小楠に会って、このことを報告した、小楠は大賛成。それができるのは、春嶽以外あるまいと云う。下山は十月二十四日春嶽に会って、政権返上のことを献言した。春嶽は執政に云ってみろと云う。しかし、この時の動きはそれ以上に発展しないまま終った。まだ機は熟していないのだ。けれど竜馬は決して望みを捨てはしない。
 一方では、土佐の増淵広之丞を桂に紹介して、長州と土佐の交流の復活を策したり、薩摩の五代才助と長州の広沢真臣を説いて、下関に商社経営を企画している。この商社は、薩長両藩の援助のもとに、下関通過の船舶をしらべて、東日本から、日本の支配権を握ろうとしたものである。

 

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海援隊

 亀山社中、土佐藩の海援隊として新生
 ユニオン号が正式に長州のものとなると、亀山社中は、これまでのように、これに乗組むことができなくなった。それに加えてワイル・ウェフ号が沈没してしまっては、乗組む船も無い。ただでさえ、亀山社中の独立自営は困難だった。だからこそ、はじめから薩摩藩の援助も得ていたのだが、それでもなお経営困難とあっては、二進も三進もゆかない。竜馬は遂に解散を決意したが、社中に属している水夫たちはこれを聞き入れない。どこまでも、竜馬のもとで働きたいと云うのだ。有難いことだが、竜馬はかえって因ってしまう。こんな時に、土佐藩から援助の手が差しのべられたのである。
 土佐藩では、長州の再征に際しては、藩内の長州に同情的な暴徒が、蜂起するおそれがあると称して出兵を拒んだ。藩庁の空気は、このころから、目に見えて変わってくる。即ち、吉田派と、勤王党に同情的だった一部の上士たちの間に、討幕論が浸透していったのである。幕府の長州再征の失敗や、薩摩と長州が手を結んだという報せは、さすがの容堂にも動揺を与えずにはおかなかった。
 中岡慎太郎が、土佐藩京都藩邸留守居役の毛利夾輔を通して国許に送った「新尊王論」や、大監察小笠原唯八に提出した「愚論ひそかに知己の人に示す」(土佐藩兵制改革案)なども、藩論の転回に力となった。毛利や小笠原は、容堂の命を受けて慎太郎と接近し、薩摩の情勢を探ろうとしたものだが逆に慎太郎に教育されて強力な討幕論者になってしまう。かつて瑞山らを苦しめた後藤象二郎、福岡藤次の吉田派の領袖も、彼等に先がけて討幕に向かい、藩論の転換のために、積極的な行動を開始している。
 こうした土佐藩の状況を背景に、竜馬の亀山社中が、土佐藩の海援隊として、新生の道を得るのである。同時に中岡慎太郎を中心とする陸援隊の構想も生まれる。藩にしてみれば、これまで等閑に付していた海上兵力の充実、海運力の拡充の上からも、好都合の組織だったといえる。

 

 海援隊の規約
 慶応三年四月には、長崎に於て、後藤、福岡、坂本、中岡の間に、海援隊と陸援隊の規約が定められ、竜馬は帰藩を許された上で、海援隊長に任命された。陸援隊の発足は、これから大分後のことになる。
 海援隊規約には、その冒頭に「およそ本藩を脱する者、および他藩を脱する者で、海外に志ある者は皆この隊に入る」とあり、その気宇の雄大さを示している。隊の事業は、土佐藩が応援するが費用は基本的には独立採算制で、不足の場合のみ、土佐藩長崎出張官から支給を受けることになっている。また、隊そのものは、藩に直属するものでなく、暗に長崎出張官に属するとしるされている。
 本藩を脱する者と並べて他藩を脱する者と明記したのは、亀山社中時代から引続き、紀伊、越後の脱藩者が参加していることにもよろうが、竜馬の藩の枠を乗り越えた海軍作りという構想によるものではあるまいか。長岡謙吉は武藤広陵あての手紙に、「自他の藩を問わず脱藩者を入隊させるなら、薩摩、長州以上の兵力になること疑いない」と書いている。

 

 海援隊の目的
 海援隊の目的は、「運船射利、応援出没、海島を開き五州の与情を察する等のことをする」とあって、通運によって利益をあげること、戦争に参加すること、また他国の様子をさぐることである。これは陸援隊の「天下の動静変化をみ、諸藩の強弱を察し、内に応じ外を援け、遊説、間牒等のことをする」という具体的目的に比べ、漠然としている。隊中の修業分課は、政法火技、航海汽機、語学等、相当なものである。竜馬はこの海援隊をつくったことを、伏見の寺田屋伊助にも知らせているが、「長崎で一局を開き諸生の世話をしています」と書き、一局の傍らに「学問所なり」と注釈を加えている。彼は、海援隊を日本海軍の創生記にみたてて、その教育活動に力を入れようとしていたのである。常に、時代の要求に最も合致した形で、自分の抱抱負の実現にあたろうとしていた竜馬である。彼の画いた未来の日本への、一つの布石としての、海援隊といってもよかろう。
 海援隊の隊士には、亀山社中の、千屋寅之助、安岡金馬、長岡謙吉、高松太郎、新宮馬之助、沢村惣之丞、白峰駿馬、伊達小二郎らが加わり、それに水夫、火夫を入れて五十人ほどだった。隊士のうち、小谷耕蔵は頑固な佐幕論者なので、隊士たちは、その参加を拒もうとした。が、竜馬は「そういう立場の者がいても、いいではないか。そういう人間を同化できないようでは、仕方がないし、むしろ異論の人間がいた方が、活気があってよい」と云って取り上げようともしなかった。

 

 海援隊のいろは丸紀伊の舟に衝突
 慶応三年四月十九日、海援隊は隊としては最初の航海についた。船は大州藩から借り受けた「いろは丸」百六十トン、速力四十五馬力の小汽船である。これに銃砲弾薬などを積み込み、大阪にむかった。ところが二十三日午後十一時頃、讃州箱の岬にさしかかったいろは丸は、折からの濃霧の中から突然現われた船に、横から乗りかけられてしまう。ぶつかって来た船は紀伊藩の明光丸、八百八十七トン、百五十馬力。いろは丸とは比較にならぬ大きな船である。はじめ前方に明光丸を発見した、いろは丸当番士官佐柳高次は、急に左に方向転換して、衝突を避けようとしたが、明光丸はこれに対して、右に廻りながら進んで来る。あっという間もなく、明光丸の船首は、いろは丸の右舷に接触して、汽罐室をこわし、煙突もほばしらも、めちゃくちゃ。海水はどっと船内に流れこんでくる有様。急を船内に知らせた佐柳は、明光丸に救けを求めたが、答えがない。とっさに乗り移った佐柳達が、明光丸の乗員を詰問しているうちに、明光丸は一旦後退した後、再び前進していろは丸につき当たってしまった。こうなっては、いろは丸の乗員が危い。ようやくのことで全乗員を明光丸に移すことができた。竜馬は何とかして船の沈没を防ぎ、同時に積荷も助けたいと、明光丸の船長高柳楠之助に、両方の船をロープでつなぎ合わせることを求めたが、高柳は危険を恐れて応じない。そうこうするうちに、いろは丸は完全に沈んでしまった。

 

 明光丸側の不誠意に竜馬たちの怒り
 明光丸はその夜中になって、備後の鞆に入港する。いろは丸の善後処置のため、竜馬と高柳の会談がはじまった。竜馬は「事件解決まで、明光丸の出帆はみあわせてほしい」と申し入れたが、高柳ははっきりしない。二十五日の会談では、「応急の難を救うために一万両を貸せ」という申入れに、高柳は即答せず、翌日になって金一封を持って来た。竜馬がこれをはねつけると、今度は「返済期限を立ててくれれば」と云ってくる。「これは弁償金の一部として受取るのだから、返済期限を立てるというものではない」と押し問答のあげく、二十七日朝、最後の談判もとうとう不調のまま終った。「こうなったからには、長崎で正式の裁判にかけ、公論によって正否を決める」ということになったのである。
 この間の明光丸側の態度は、不誠意極まるものだったから、竜馬の怒りは心頭に達するというほどのものがあった。当時大阪にいた隊士にあてた手紙に「だいたい紀州の人は、我々や、船主、荷主達が、荷物も何も失ったのに、ただ鞆の港に投げ上げ、主用があって急ぐからと、さっさと長崎にむかって出港してしまった。鞆の港にいろということなのだろう。この恨みは、どうしても報いずにはいられない」と書き「何れ血を見ずばなるまいと思っている」とも書いている。

 

 公法による時代を痛感する 
 口惜しがったのは竜馬だけではない。隊士の佐柳と腰越次郎の二人は、隊から脱退して、明光丸に斬込もうとした。だが二人の考えを聞くと、竜馬は「自分には十分成算がある。必ず紀伊藩を屈伏させるが、それには時間がかかる。それまで待ってほしい」と答えて、彼等の勝手な行動を許さない。
 竜馬には自信があった。彼は、西洋諸国に公法というものがあること、国と国との間に万国公法があることを知っていた。「これからの時代はこれだ」と云って万国公法の本を見せたという逸話があるほど、彼は公法というものに魅力を感じ、ほれこんでいた。公法の通用する国にしたいという気持は、彼の中で、しだいに募ってきている。新しい公法という酒を入れるのには、新しい国家という袋が必要だ。竜馬は、この公法というものが、幕藩体制では実現できないことを知っていた。そうなると、新しい統一国家が必要である。彼の討幕論には、新しい政治体制が明確であり、その実現のためには、あらゆる角度から手をつけるというやり方を採っている。
 日本の海軍界は当時、世界のそれに大きく遅れていたから、万国公法(国際公法)に、海事国際公法、国際海法のあることすら、よく知られてはいなかったし、航海に関する法律もない。竜馬はいろは丸の側の操舵に間違いはないという自信もあって、敢て、これを来日中のイギリス海軍提督にはかって、世界の法による裁定を乞うという決心をしていたのである。

 

 竜馬の紀伊の談判がはじまる 
 十分に自信もあり、また大いに目論むところあっての計画実行だったが、竜馬はこれに、なみなみならぬ覚悟で、命を賭けようとさえしている。それは、長崎へ出帆する直前に、長州の三吉慎蔵にあてて、自分にもしものことがあったら妻を土佐の自分の家に送り届けるよう、頼んでいることでも明かである。公法を日本に実現する端緒として、今度の争いは、一命を投げうっても借しくないのである。長州再征の時は、長州に対する義理で、いやいや参加した彼だが、今回は、うまくいかなければ一戦を交える覚悟で、大張切りなのだ。
 五月十三日、竜馬達が長崎に着くと、明光丸はもう既に来ていたから、十五日から、両者の談判がはじまった。紀伊側はいろは丸に舷灯がついていなかったとか、定則の針路に従っていなかったといいはって、さかんにいろは丸の責任であると論じ、竜馬側はその確証が全くないことを、反証をあげて論駁した。遂に、紀伊側は竜馬の言に返す言葉もなく、覚書を書いて重要な衝突原因を認めた。
 形勢の悪くなった紀伊側は、長崎奉行所を動かして、示談に持ちこもうとした。竜馬がそれを受付けるはずはない。紀伊側は、今度は談判の引延しを策しはじめ、また海援隊が土佐藩の直属ではないことを知って、そこにつけいろうとした。そこで竜馬は後藤象二郎に謀って、問題を正式に紀伊藩と土佐藩の長崎出張官の間で解決するよう申出ることにした。そして一方では、土佐藩が長州藩と連合して、事あらば紀伊藩に武力で攻撃をかける用意のあることを周囲に見せて風説を流し、
  船を沈めたそのつぐないは
   金を取らずに国を取る
という歌をさかんに歌わせた。

 

 紀伊が賠償金八万三千両支払う
 土佐藩全権の後藤は、紀伊藩全権の茂田一次郎と会談し、紀伊藩が先に主張した一方的な沈没理由を、奉行所に提出したことを詰って、これの徹回を求め、さらに、
「衝突沈没のことは我が国には未だその例がない。鞆津での約束に従って公論によって、裁決するほかはあるまい。ちょうど現在イギリス海軍提督が来ているから、彼に万国の例を聞き、その後、天下の公儀を以て裁決すればよかろう。これは外国人に裁判を頼むのではない」
 と提案して、茂田も賛成した。後藤は最後に、「沈没した我方の船士に対し、貴藩の態度は全く冷酷だ。このことは他日、我藩の藩主にも伝えよう。藩主がどう考えられるかはわからぬが、土佐一国の士民が、どれほどの恨みを抱くことか。一応、このことだけは伝えておこう」
と、巷間の風説を裏書きするかのような言を発している。
 どうにも勝ち目のないことを知った紀州は、薩摩の五代才助に泣きついて、調停を頼み、五代の説得で、紀伊が全面的に非を認めて謝まり、賠償金八万三千両を支払うことで話はまとまった。
 この事件で竜馬の名は大いにあがり、日本の海路定則を定めたものだというので、海運関係の者達が、教えを請いに押しかけた。彼の最初からの期待に違わぬ成果をあげたというべきであろう。
 竜馬はこのころ、万国公法の出版を計画し、活字までそろえたが、結局そこまでに至らなかった。これによっても竜馬の公法への打ちこみようが想像できる。

 

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薩摩の変貌

 幕府体制から雄藩体制をねらう
 竜馬の忍耐強い説得と、仲介の工作によって創り出した、薩摩と長州の統一戦線は、幕府の長州再征を失敗に導いたばかりか、それから後の歴史を大きく動かしていった。薩・長統一の約定の日こそ、幕府体制の崩壊を決定的にした日であったといってよかろう。
 長州再征の失敗が、目に見えて明かになってきた時、幕府体制内に不安と動揺をもたらしたことはともかく、討幕の諸勢力の中に、自らの力で幕府権力を倒せるという、自信と希望を与えた意味は大きい。将軍家茂の急死(慶応二年七月二十日)のあとを受けて、徳川家を継いだ(七月二十七日)慶喜が、直ちに将軍職に就くことをためらったのも、それと無関係ではなかった。それは、兵庫開港を迫る英、米、仏の要求とからんで、政治的空白期をさえ現出した。
 この虚をついて、一拠に幕府体制を雄藩体制に切りかえようと策したのは、薩摩の西郷や大久保などである。彼等は一年前にも、関税引下げ要求、条約の勅許などを英、米、仏、蘭の四国から強引に責めたてられた幕府が、これをもてあましているのを見て、この外交問題を雄藩会義に移すことによって、事実上、幕府権力を取り上げようと策したことがあった。その時は幕府の捲き返しにあって、そのまま見送るかっこうになったのだった。彼等は今度こそチャンスだと、洛北に隠栖中の岩倉倶視らの公卿とはかって動き出した。慶喜はこの動静を察知すると、彼等に先立って公卿の動きを抑え、これを処罰に持ちこみ、自らもその年の十二月五日、将軍の椅子に納まったのだった。孝明天皇はその直後の、十二月二十五日に亡くなっている。

 

 慶喜は軽視すべからざる強敵
 年が明けると、慶喜はフランス公使の入れ智恵で、新しく郡県制度を布くことを考え、幕府体制内の改革に手を着けはじめる。桂小五郎はこれを見て、「この新しい体制には見るべきものもあり、慶喜の胆略は侮るべからざるものがある。もし今、朝政挽回の機を失い、幕府に先を越されるなら、家康の再生になりかねない」といい、岩倉倶視も、「慶喜は軽視すべからざる強敵だ」として、ぐずぐずしてはいられないという気持を強めている。
 機先を制せられた西郷、大久保たちも、そのまま引き下るものではない。今度は、将軍慶喜が、慶応三年四月に、大阪で英、米、仏、蘭の代表と会うのをきっかけに、雄藩会議をおこし、幕府が勅許なしに兵庫開港を宣言した責任を追求して、将軍を減封の上、大名の列に引ずりおろそうと計画した。その席上、禁門の変における長州の罪を許すようにとねらったのはいうまでもない。
 西郷は先ず薩摩に帰って島津久光を説き、続いて久光の使者として、土佐の山内容堂を訪れた。慶応三年二月十五日に高知に着いた西郷は、十六日容堂に面会する。それに間にあうよう、福岡藤次は大阪から飛んで帰った。容堂は西郷の時局の逼迫状況と、それにつき是非上京して力をつくして欲しいという申出を聞くと、即座に承諾を与えた。西郷は言葉を重ねて、「今度の御出京は、これまでと違い、事がうまくいかないからといって、お引上げになるようなことでは、到底成しとげられません」と覚悟を促し、容堂は「もとより、よく心得ている」と答え、後に福岡へも、「今度は東山の土となるつもりだ」と語った。

 

 難航を重ねた四侯会議
 西郷はその帰途、宇和島藩を訪れ、前者主伊達宗城に面会した。西郷が上京のことを云い出すと、宗城は、「およそ事は目的を立てなければ行い難い。目的は何か」と問う。西郷が黙って退出しようとすると、執政の松根図書が「容堂公の上京の目的は」と問い、西郷はこれに対して「天朝の危機を前にして、臣として止むを得ざる目的で上京の事に決しました。このような大事にあたって、利害得失を論じることは合点がいきませぬ」と答えた。結局、宗城も国費のついえをおして上京することとなった。土佐藩では、西郷がまだ高知に滞在中に藩論を一決し、藩主豊範より藩士一同に対して、直書を以て容堂上京のことを告げている。越前藩の前藩主松平春嶽は小松帯刀が引き出しに成功した。
 こうして五月上旬から開かれた四侯会議は、西郷、大久保達の願いに反し、久光、宗城派と容堂、春嶽派に分かれて、意見はことごとに対立した。ことに五月十四日の、二条城における将軍慶喜と四侯との会合では、久光は西郷らの意見に基いて、慶喜に大政を奉還するよう説くことになっていたにもかかわらず、久光は遂に最後まで、その言葉を吐くことなく終ってしまった。久光は僅かに「兵庫開港問題より、長州問題を先にすべきである」と主張し、慶喜の「日本の興亡に関することだから、兵庫問題を先にすべきだ」という意見に鋭く対立して一歩も譲らなかった。しかし慶喜がその主張の論拠を、職掌の責任に求めて示したのに対し、久光の主張には論拠がみられなかったから、彼の意見が迫力を欠くのも当然だった。そして、かえって、久光は西郷達のロボットという印象を慶喜に与えてしまった。そうなると、いくら議論を繰返しても、進展のしようがない。会議はその後数回開かれたが、久光と慶喜の主張は平行線を辿り、久光を支持するのは宗城だけで、容堂、春嶽はあきらかに慶喜に同調した。

 

 四侯会議の失敗が教えたもの
 五月二十一日になって、やっと、春嶽の両間題を同時に解決という提案で、妥協が成立した。実質的には、明らかに慶喜の勝利である。容堂は病気を称して途中から会議を欠席し(実際に病気でもあった)、そうそうに帰国してしまう。彼は久光に引きまわされるのは真平という気があり、土佐から付いて来た小笠原唯八が、あまりに薩摩に接近しているのを知ると、会議の途中で、これを土佐に帰してしまうほどだった。ところが、その後に、江戸から京都にやって来た乾退助は、何時のまにかより過激な討幕論者になってしまっていた。
 西郷、大久保、小松たち薩摩側の策が実らなかったということは、彼等に幕府体制から雄藩体制への平和的移行は見込みがない、という結論を懐かせることになった。特に四侯会議の不成功をもたらしたものが容堂であり、久光もまた、これを押さえて進めるだけの能力を欠いていること、そして逆に、慶喜の幕府体制を基盤にしての、能力の再確認をさせられることになってしまったのである。それは、武力によって徳川政権を紛砕する以外には、新時代を創ることはできないと思い知らされる結果となった。薩長統一戦線のできた今、彼等は容易に、その立場にたつことができた。

 

 武力革命にマッタをかけた者
 薩摩の西郷、小松、吉井と、土佐の乾、谷干城、毛利夾助、それに中岡慎太郎は、五月二十一日、早くも会合し、乾が「藩論の如何を問わず、同志蹶起して討幕の義軍に投じよう。今から三十日の日時を貸して項けるなら、国許の同志は一檄の下に参集するだろう。もし、うまくいかなかったら、私は決して皆さんにお会いはしない」とぶって、薩摩、土佐の討幕の密約を結んだ。
 長い間、薩摩を支配してきた、幕府への協調的姿勢は、ここに至って一拠に崩れ去り、武力革命へのコースをまっしぐらに突き進むことになった。このコースに「待った」をかけ、大政奉還の新しい解決策を引下げて登場したのが、土佐の後藤象二郎であり、そのかげに象二郎を指尊し、支えた竜馬があったのである。

 

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後藤象二郎の登場

 疑心暗鬼の出会い竜馬と象二郎
 容堂は四侯会議のために京都へ上る時、長崎に出張中の参政後藤象二郎に、急いで上京するよう命令した。象二郎は、竜馬より三才年下、慎太郎とは同年である。前年の慶応二年七月に彼が長崎出張を命ぜられたのは、軍艦購入のためであり、また長崎を舞台に藩の貿易を拡張するためであった。もともと吉田東洋の甥であり、吉田派と目されている象二郎は、東洋の死後江戸へ行き、容堂が七年ぶりに帰国し、経済振興の大策を掲げて容堂の抜擢を受けたもので、藩内の産業奨励、振興の為かなり思いきった手を打っていた。幕府の衰えが目立ち、藩府の政策も転回せざるを得なくなった時、新しい事態に適応する為の仕事の一部として、彼の長崎出張となったのだった。足を上海に運んで船舶三隻の購入をやってのけた象二郎は、次に貿易拡張のために竜馬の能力に眼をつけた。
 だが後藤象二郎といえば、武市瑞山を死においやるのに、一役も二役も買った男。その後藤が長崎に来たとあっては、亀山社中の連中は放っておかない。「あいつは武市先生のかたきだ」と暗殺も辞さない有様であった。この象二郎から招待を受けた竜馬は、さすが複雑な思いである。彼のこれまでの言動からみて、疑心暗鬼になるのを免れることはできなかった。しかし招待を拒む理由もない。竜馬は、主義主張が異なるからといって、口もきかないなどということは好まない。誰とでも話すのである。最後的には、直接会ってみなければわからない。竜馬はノコノコと出掛けて行った。場所は清風亭だという。
 会ってみて、竜馬には、象二郎が非凡な男であることがすぐにわかった。話しているうちに、彼が、土佐藩中で、その志、その考え方、さらにはその人格において、右に出る者はいないことを知った。土佐藩の傑物といわれている福岡藤次や佐々木三四郎、そして中岡慎太郎でも、象二郎には少々劣るなと思われた。初対面の二人が、別れる時には十年来の知己の如くになっていた。

 

 竜馬と象二郎の交流に対する非難
 この日をきっかけとして、竜馬と象二郎のゆききは頻繁となっていく。これと相前後して長崎にやって来た福岡藤次、佐々木三四郎など、土佐藩の実力者達も、竜馬との交わりを深め、その影響を深く受けることになった。竜馬の亀山社中が、土佐藩の海援隊として組織がえした陰に、このつながりが大きく物をいっていることは、先に述べた通りである。さらに、いろは丸事件の際も、二人は巧みにチームワークを組んで、紀伊藩を手玉にとった。こうした深い結びつきの中で、竜馬の影響化に、象二郎達が大政奉還、公議政体の考え方に変わりつつあった時、藩主である容堂は、京都で幕府体制の維持に汲々としていたことになる。容堂が四侯会議に列席している時、長崎では、いろは丸事件処理の最中であった。
 竜馬が象二郎と結んだことに対して、とかくの批判をする者があったのも、象二郎の経歴からして無理はなかったろう。「御国の奸物役人にだまされたそうだ」という姉乙女の忠告に対して竜馬は「私一人で五百人や七百人の人を率いて天下の為に尽すよりは、二十四万石を引きつれて天下国家の為に尽す方が、はるかによろしい」と書き、また竜馬が利をむさぼり、天下国家のことを忘れているという批判には「天下に志をのべようと、国からは一銭一文の助けを受けず諸生の五十人も養うのだから、一人一年にどうしても六十両ぐらいは必要でその為に利を求める」と書いている。

 

 象二郎に書いた船中八策
 容堂の招命に接した象二郎は、六月九日、竜馬と一緒に長崎を出発。海路上京の途についた。この時、象二郎は、既に竜馬の意見に促されて、容堂に大政奉還の具申を説得する決意を包いている。この時竜馬は、船中で、いわゆる「船中八策」を象二郎の為に書き示している。

『一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事
 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事
 一、有材の公卿、諸侯及び、天下の人材顧問に備え、官爵を賜い、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
 一、外国の交際広く公議をとり、至当の規約を立つべき事
 一、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
 一、海軍宜しく拡張すべき事
 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を説くべき事

 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急勢あるなし、苟くもこの数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず、伏して願くは公明正大道理に基き、大英断を以て天下を更始一新せん』

 

 竜馬の公議政体の思想の生まれたのは
 竜馬の大政奉還による公議政体の思想が、何時どのようにして彼の中に芽生え、自らのものに創り上げられていったかを十分に明らかにすることはできない。しかし、先ず第一に考えられるのは、先述した河田小竜の影響であろう。小竜がアメリカの教育を受けた中浜万次郎に影響されたことは既に述べた。
 次は文久三年一月に、勝海舟自身の口から、勝が将軍職辞退の論を幕府の大広間でやってのけたことを聞いたことである。竜馬はこの話にひどく感銘し、そのことを特に書きとめている。
 同じ年の一月二十五日には、大久保一翁を訪ねて、その政権奉還論を聴いている。一翁は海舟とならぶ幕府の人材で(蕃書調所頭取、京都町奉行、外国奉行を歴任)その後、竜馬が傾倒した人物である。一翁は蕃書調所などに関係したためか、早くから、大政奉還の説を持ち、徳川家は駿河、遠江、三河の旧領を貰って、諸侯の列に加わるべきであると主張してはばからない男であった。彼は、はじめて訪ねてきた竜馬にも、このことを話したのである。当時一翁から横井小楠にあてた手紙には「竜馬はみどころのある男とみたので、殺されるかもしれないのを覚悟で、思いきって自分の意見を述べたところ、手を打たんばかりにして、理解、共鳴してくれた」と書いている。
 海援隊士であり、隊の書記であった長岡謙吉が、竜馬に上下両院説を吹きこんだという説もある。謙吉は、はじめ河田小竜に学び、後、長崎でシーボルトに学んだ男、竜馬と謙吉の共著と目されている「藩論」には、
「たとえ政権が人民の手に委ねられたとしても、もし、それによって国の政治が立派に行なわれるならば、それは正当でもあり、正義である。たとえ天子が政治を行なうにしても、もし、国事が紛糾するならば、それは許されないことである」と、百年後の今日、そのまま立派に通用する意見が述べられている。
 そのほか、慶応二年から書きはじめられた、福沢諭吉の「西洋事情」に学んだという説もある。またさかのぼって、蘭学を学びはじめた頃に読んだ、オランダの憲法なども、彼の読み方からすれば、十分彼の思考を形成するのに役だったはずである。

 

 人を殺すべきでないという竜馬の思想
 竜馬の大政奉還、公議政体の思想には、それと並んで、もう一つの重要な思想があった。それは、その実現を平和的手段に基づいて達成しようとするものである。彼の平和思想の路線を知ることは、大政奉還、公議政体の思想を明らかにする以上に難かしい。勝海舟の開国論が原因で、勝その人を殺そうとした竜馬が、勝の意見を聴いて、その意見に共鳴した上に、彼を日本第一の人物として尊敬するようにさえなった。このことによって、竜馬ははっきりと、人間の思想は変わるものであることを知った。さらに自分のある時期の思想で、他人のある時期の思想を判断して、その人に決定的な断を下すことの誤まりを、いやというほど思い知らされた筈である。思想よりも人間の生命の方が大切であることも発見したに違いない。それに、尊王、倒幕をお題目のように唱えて、新時代の到来を安直に考え、行動している連中の愚かさ、しかしその男達の考えも何時変わるかわからない。幕府内の連中も、たしかに、その考えを変えていく可能性がある。殺すべきではないと思わないわけにはいかない。
 まして、世界の動きを常に凝視しながら、未来を見つめ続ける竜馬には、日本人同志の争いは、愚かすぎるばかりか、あまりに惨めに見えた。その原因は、至って些細なことにも思われた。慶応年間に入ってからの、竜馬の手紙には、「人を殺すべきではない。死にたくない」という言葉が、数々見られる。幕府内の能力ある人々も、進んで活用すべきだと考えていたと思われる。

 

 武力討幕の動き激しくなる
 とにかく、竜馬が大政奉還の具体的運動をおこしたのは、今度がはじめてではない。既に述べた通り、前年の慶応二年八月に、松平春嶽を通じて、これを行なおうと試み、うやむやになってしまっている。しかも時勢はさらに逼迫して、武力討幕の動きは、日毎に激しさ、厳しさを増してくる様子。もう、僅かの猶予も与えられていないかもしれないのだ。当然のことながら、竜馬は今度の象二郎、容堂の線に、強い期待を寄せていた。
 大隈重信が、佐賀から単身上京して、大政奉還の策を、原市之進を通じて説いたのも、この頃であったが、彼の場合は、狂人扱かいをされて、国元に送り返されている。当時、一藩の背景と支持がなければ、いかに勝れた意見であろうとも、幕府当局を動かすことはできなかったのである。その意味において、竜馬が象二郎を得、それによって、幾度か捨てた土佐藩と結んだことは、幸いであり、賢明であったというべきかもしれない。
 薩長の統一戦線を創る時にコンビとなった中岡慎太郎は、今度は武力革命コースに傾いているが、一方では三条実美と岩倉倶視を結びつけることに成功し、これらの線からの討幕に乗り出している。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

 

大政奉還前夜の苦悩

 薩土統一戦線の約定の大綱
 六月十三日、象二郎が意気ごんで京都に着いた時には、既に容堂は四侯会議をぶちこわして土佐に引き上げたあとだった。だが、象二郎や藤次達は、翌々日の十五日になると、大政奉還を土佐の藩論にすることを申しあわせ、二十二日には、竜馬と慎太郎の仲介で、薩長統一戦線につぐ薩土統一戦線のための会合が開かれる。薩摩からは、小松、西郷、大久保らが、土佐からは象二郎、藤次、寺村左膳、真辺栄三郎が出席。勿論、竜馬と慎太郎も陪席している。
 この薩土の盟約に、土佐側から提出した草案は、竜馬の「船中八策」を基にしたものであり、そこには、はっきりと徳川家を大名の列に引をおろし、議会制の採用をうたう内容が盛りこまれている。象二郎たちは、今にも武力革命に踏み切ろうとしている西郷たちに「待った」をかけて、一応土佐の立場に同調させることに成功したのである。
   約定の大綱
一、国体を協正し、万世国にわたって恥じず。これ第一義
一、王政復古は論なし。宜しく宇内の形勢を察し、参酌協正すべし。
一、国に二帝なく家に二主なし。政刑ただ一君に帰すべし。
一、将軍職に居て政柄を執る。是れ天地間あるべからざるの理なり。宜しく侯列に帰し翼載を主とすべし。
 右方今の急務にして天地間常有の大条理なり。心力を協一して倒れて後己まん。何ぞ成敗利鈍を顧みるの暇あらんや。

 

 薩長の武力革命土佐の平和革命
 竜馬が期待し予想していたように、土佐もどうにか立直って、薩摩や長州とならんで動きはじめた。武力革命のコースをつきすすむ薩摩、長州に対して、平和革命のコースをつき進もうとする土佐である。その選ぶコースに違いはあるにしても、究極において新時代を求めることに変わりはない。それが意見の一致をもたらしたのであった。西郷たちとしては、幕府に密着していた土佐藩が、幕府と離れて、自らの陣営に一歩近づくことだけで十分であった。それはかつて長州の高杉晋作、桂小五郎たちが、薩摩に対して持った願いや思いに通じていた。
 しかも一方では、土佐藩の中に、武力討幕を強く推進しようとしていたグループがあったことも忘れてはならない。さきの薩摩との密約に従って、帰国した乾は、藩内に兵制改革を推し進め、容堂に忌避されはじめようとしていた。これを助けているのは勤王党の一派であり、大石弥太郎は、直接に乾と結んでいる。そして中岡慎太郎は、これらのグループに、助言を与え、激励の言葉を送っている。しかしそれは、どこまでも、藩の方向の裏側にかくれているのである。

 

 大政奉還という大芝居
 土佐藩には、一挙に薩長の路線を求めることなく、土佐藩でのギリギリの行動を求め、それによって、和戦両様の構えをもった、薩長土の統一戦線が創り上げられたのであった。これこそが、竜馬の考えた革命路線だったのである。ここまで漕ぎつけることに成功した竜馬ではあったが、なおかつ、その不安は抑えようがなかったとみえて、六月二十二日の夜、佐々木三四郎と酒をくみ交わしながら、その苦衷を洩らしている。
 「土佐藩は、これまで何度も、藩論をくるくると変えてきた。薩摩が土佐への疑惑を断ち切れないのも無理はない。今度こそ、しつかりやってほしいものだ」三四郎はそれに応えて、
 「君のいうのももっともだ。だが、時勢も此処まで動いている。後藤たち左幕派も、今では、大政奉還に熱心になっている。彼等の心の中はどうであろうとも、大政奉還の芝居ぐらいは打てるだろう。安心していていいのじゃあないか」という。三四郎の言葉で、竜馬もやっと何時もの明るさを取りもどして
 「芝居!なるほど、それは名言だ。彼等にもそのくらいの興行はできるだろう。そうしてくれれば、大政奉還も動きはじまる。動きはじめれば、次々に手を打つこともできるからな」
と応えている。
 象二郎は、六月二十六日に、安芸藩からの賛成協力を得ることに成功したので、七月三日に帰国し、容堂を説く。薩摩、長州の武力による倒幕をおそれ、久光に先導を取られることを忌避していた容堂は、今となっては、大政奉還を自分から建言することによって、主導権も持ち得るとして、この案に賛成した。七月八日のことである。翌九日、藩主豊範の諾を得て、藩庁の有司にこのことを声明したが、一人乾退助だけは、強硬にこれに反対意見を示したという。

 

 容堂の大政奉還の建白書
 謹んで建言致します。天下国家を憂うるの士が口を禁じて敢えて申しあげないのは誠に恐るべきことであります。朝廷、幕府、公卿、諸侯の意見は異なっているようであります。これまた、誠に恐るべきことであります。
 是の如き事態に陥るのは、その責は一体誰に帰したらいいのでしょう。でも、今更、昔の是非曲直を申しても、何の益もありますまい。唯願わくは、大活眼、大英断をもって、天下万民と一心協力して、万世にわたって恥じない、万国に臨んで動じない策をたてなくてはなりません。
 此の事は、前月上京の際にも追々建言致しましたが、そのうち、旧病を再発して帰国致しました。以来、起居動作もままになりませんが、此の事だけは日夜心にかかり、苦慮致していました。因って私の考えを一、ニ、家来を以て言上致します。唯幾重にも、天地正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て、万国に接し、王政復古の大業を建てる機会と存じます。
 猶別紙とくと御覧下されたく、お願い致します。
 慶応三年九月   山内容堂」
 別紙には、家臣寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛四名連署のものがついている。
一、天下の大政を議定するの大権は朝廷に在り。すなわち、皇国の制度法則、一切万機必ず、東京の議定所よりいづ。
一、議政所は上下を分かち、議事官は上公卿より、下倍臣庶民に至るまで、正明純良の士を選挙すべし。
一、郷学校を都会の地に設け、長幼の序を分かち、学芸、技術を教導す。
一、一切、外国との規約は、兵庫港において新たに朝廷の大臣と諸外国で議し、道理明確の諸条約を結び、信議を外国に失せざること。
一、海陸軍備は一大主要なり、軍局を京摂の間に造築し、朝廷守護の親兵とし、世界に比類なき兵隊とす。
一、中古以来、政刑武門に出ず。洋艦来港以来、天下紛る。国家多難、是に於いて、政権動く。自然の勢なり、今日に至り、古今の旧弊を改新し、技案に馴せず、小条理に止まらず、大根基を建るを以て主とす。
一、朝廷の制度法則、昔の律令ありといえども、今の事勢に合い、間々或は当然ならざるものあらん。宜しく、その弊風を除き、一新改革して、地球上に独立するの国本をたつべし。
一、議事の上大夫は私心を去り、公平に基き、術策を設けず、正直を旨とし、昔の是非曲直を問わず、一新更始、今後の事の事を視るを要す。言論多く、実効少なき通弊を踏むべからず。

 

 象二郎、建白書を携えて上京
 容堂の大政奉還の建白書を携えて、後藤象二郎が上京したのが九月二十一日。二十三日に西郷、二十七日に大久保、小松の了解を得、十月二日に安芸藩の協力を得て、老中板倉勝静を通じて将軍慶喜の許に提出されたのは十月三日であった。
 象二郎の上京を遅らせ、したがって大政奉還の建白を遅らせたのは、長崎における英人殺人事件がおこり、その犯行の嫌疑が海援隊員にかかるという思いがけない事態が発生したからである。このため、英国公使バークスが土佐藩を訪れ、藩をあげて、その接捗に忙殺された。龍馬も、ことが海援隊に関係あるため、九月十日まで長崎に釘づけにされていた。つまり、最も重要な時期に、京都を離れていなければならなかったのである。
 しかし、その間彼は、勿論この重要な仕事を放置していたわけではない。龍馬は英人殺人事件の為、急拠帰国する佐々木に同行して、八月二日に一旦帰国した。だが、土佐藩内には、未だ佐幕の志を持って、龍馬の生命をねらう動きもある。白昼、大手をふっての上陸など思いもよらない。彼は須崎港に碇泊中の藩船夕顔丸に身を隠していた。十二日には、バークスから、この事件談判の全権を委任された通訳サトウが、佐々木三四郎等と共に、夕顔丸で長崎にむかい、龍馬もそのまま同行している。夕顔丸に潜伏中、八日には暗にまぎれて上陸し、高知にいる同志を激励している。長崎への途中、下関では、長州の三吉慎蔵にあって「幕府と戦うときは、長、薩、土の軍艦で、海上の戦いをしないかぎり、幕府を倒すことはできない」と書き送っている。

 

 由利公正の抜擢を進言
 長崎では、軍艦購入費の不足に悩んでいた長州の桂小五郎を佐々木と会わせ、八月二十日に、佐々木から千両を貸出させる仲介をしている。小五郎から、「先日、イギリス通訳のサトウが、『近々諸侯上京されて建言がなされるそうだが、きっと公論は行なわれまい。西洋では、昔から、公論といって天下に唱え、行なわれないままに捨てて置くことを、婆さんの理屈と云って、男のやることとはされていない』と云ったと伝え聞いて、全く恥かしい思いがした。今度こそ、はじめは脱兎の如く終りは処女の如くとはならず、終始脱兎の如くありたいもの」と告げられたのも、この頃のことである。小五郎には、英人の軽侮の言葉が、よほどこたえていただろうし、それにもまして、竜馬の大政奉還建白の策の実現が、これまでの土佐藩の態度から推して、心配だったのであろう。また、こういう言葉に接するにつけ、竜馬はいよいよ落着いていられない。あちこちに、「一刻も早く英人殺人事件の嫌疑をはらして上京したい」と書き送っている。そのやりきれなさを裏書きするかのように、彼はしばしば佐々木を訪れ、夜を明かして語りあっている。
 八月二十八日の夜は、明治維新の財政を預かって、なんとかやりくりすることに成功した由利公正の抜擢を、ウナギを食べながら、強力に佐々木に進言している。公正は、その年十二月、即ち竜馬の死後、新政府に抜擢されたのであった。

 

 竜馬と佐々木三四郎の議論
 一日おいた八月三十日の夜、竜馬と佐々木は、またも夜を徹して語り合ったが、その時竜馬は、
「もし、今度の大政奉還の事が失敗したら、キリスト教で人心を煽動して、幕府を倒したらと考えるが、君はどう思うか」
と切り出した。佐々木、
「異教なんかで幕府を倒したら、目的は達しても、あとに害が残るのではないか。日本の国体が、その為にどうなるかもわからん。僕は、どこまでも神道を基にして、儒教を補翼としてやらなくてはいかんと思う」
 竜馬、
「やはりそう思うか。でも、そんなことでは、とても幕府は倒せんぞ」
 佐々木
「そうだとしても、僕にはとてもやれん。君は異教をいとも心やす気に云うけれど、知っているのか」
 竜馬
「いや、そういわれると面目ないが、深くは知らん。だが、見聞したところ、なかなか平和的で、人間平等の思想で貫かれている。これはいけると思うんだが」
 佐々木
「僕も、神儒によることを強調したが、深く知っているわけではない。僕も今度、神、儒を研究してみるから、君ももっと異教を研究してみてはどうだ」
 竜馬は、直接、その言葉に賛成とも反対とも云わぬ。しばらく考えて、
「では仏教はどうだ。総ての人間をひとしく慈しむという考え方がいい。仏教なら、儒教と同じほどに古く、日本に伝わっているものだ。仏教御一新。君はどう思う」
 鶏の鳴き声が、そこここに聞こえて、もう夜は明けようとしていた。
「もう遅い。鷄の声が聞こえてきたじゃないか。それに、今度のことが失敗したわけでもない。寝よう」

 

 宗教による社会変革を考える
 佐々木には、時刻の遅いことと一緒に、今更、そんな事を考えても遅いのじゃないか、今は、この道を突っ走るだけという気持があったろう。しかし竜馬は、この手で駄目なら次の手、次の次の手を用意しておきたかった。それは、周到というより、一つの目的を何処までも達成しようとする執念の示すところであり、それに対する有効な手を予め打つ為に、第二、第三の路線を打ち出す必要を感じていたのであろう。
 竜馬が当時、キリスト教、仏教を、どこまで理解していたかを知り得る資料は、今のところない。しかし、キリスト教や仏教による社会変革、思想変革を考えたということは、いかにも彼らしい。狭い日本の立場にとらわれぬ彼の進歩性、先進性を表わしたものといえよう。当時、長崎の浦上地区で、キリスト教が根強く布教活動をおこしていることについて、海援隊の長岡謙吉は、それを警告する目的で「閑愁録」を著わしているが、竜馬は逆に、その滲透力や批判力を高く評価し、進んでそれを学びとろうとしたのかもしれない。
 九月十日、ようようにして英人殺人事件の海援隊への嫌疑がはれると、大政奉還の実現を期して、竜馬はその全エネルギーを注入しはじめる。それは、ためられていた力と意欲を、一気にほとばしらせたといってもよいものだった。

 

                    <坂本龍馬 目次> 

 

 

大政奉還

 武力倒幕の勢い次第に強まる
 九月十五日、竜馬はオランダ商人ハットマンから、ライフル銃千三百挺を購入した。これは土佐藩用の武器の心づもりである。つまり、大政奉還の建白を提案しながらも、武力討幕の準備も怠りない。文字通り、和戦両用の構えを実践しているわけである。この代金一万八千八百七十五両。薩摩の長崎藩邸から五千両借りて、四千両を内金として支払い、残金に対する保証人二人には抵当として、ライフル百挺を渡している。安芸藩から借りた震天丸に、ライフル千二百挺を積みこんだ竜馬は、十八日早朝、長崎を出帆した。二十日に下関まで来たところで、十五日に京都から帰国した、長州の伊藤俊輔に会い、京都の状況を詳しく聞くことができた。九月二十日といえば、未だに象二郎は京都に到着していない。大政奉還の建白書を出すといいだしてから、既に三ケ月近い日時がたってしまったのだから、武力討幕を主張する面々の勢いは、しだいに抑え切れなくなっていく。それには、土佐藩を果たして信用しきれるか、いたずらに時間を稼がれてしまうのではないかという焦慮も加わって、事態はますます緊迫の度を加えつつあった。しかも二日前の十八日には、薩摩の大久保が長州に来て、薩長の挙兵の密約を結んだというのだ。伊藤は大久保の出港を見送ったところだったのである。伊藤は竜馬が千挺のライフルを土佐に運ぶ途中と知って、「土佐藩で不用なら、何時でも私の方で頂きましょう」と云った。土佐藩の藩論が依然として、ノラリクラリとしていることを、からかったようなものである。もうぐずぐずしてはいられない。竜馬は山口にいる桂への手紙に「先を急ぐので、お目にかかる暇がありませんが、私は、これから国へ帰り、乾退助に引合せておいて、それから京都に上り、後藤象二郎を国に帰すか、または、長崎に出そうと思っております」と書いている。大政奉還の建白が成らず、武力討幕の線が強くなった時の陣容の構想である。

 

 竜馬、千挺の武器を土佐藩に提出
 震天丸が土佐の浦戸港に着いたのは九月二十四日であった。
 銃を土佐に運ぶ一方、竜馬は海援隊の帆船横笛に、石炭を満載して神戸に回漕させ、同時に、兵隊輸送のために多量の石炭が入用になるから、購入しておくようにという命令も出している。石炭価格の暴騰に対処する意味も含まれていた。
 浦戸港の震天丸から、秘かに上陸した竜馬は、参政渡辺弥之馬に一書を送り「薩摩、長州の兵隊は大拠上京の運びとなっています。土佐は一体どうなっているのですか。一刻も早くお目にかかってお話したい」と伝える。この会見の結果、竜馬は千挺の銃を土佐藩に提出することとなり、土佐は一度に、薩、長に劣らぬ兵備も整えることができたのであった。この兵器は、のちに鳥羽、伏見の戦で大いに活躍をしている。
 土佐藩では、この九月五日に、瑞山と共に捕われたり親類預けになったままの勤王党士が全部ゆるされて、勤王党の意気も大いにあがっていたから、竜馬の帰国を伝え聞くと、竜馬を訪ねてきて、今にも京都に攻めこみそうな気勢をあげる。藩の武装は成ったものの、竜馬は新しく焦燥の念にかられないわけにはいかなかった。象二郎は既に京都に着き、困難な状況の中で孤立しているかもしれないのだ。

 

 慎太郎の陸援隊武力抗争の準備
 竜馬は十月一日に高知を出発し、京都には九日に着いている。梅援隊士数名と同行した竜馬の京都入りを、当時の新聞は、竜馬が三百人の隊士を連れて上京したと述べている。竜馬への評価の一端がうかがえるといえよう。彼は京都に着くとすぐ慎太郎を訪ね、その後の京都の様子を開いている。慎太郎は、洛北白川の藩邸に、浪士を含む陸援隊士を集め、武力抗争の準備をほぼ完了していた。
 「九月十六日の薩長共同出兵の約に続いて、二十日は長州、芸州の共同出兵盟約も生まれ、武力革命の態勢は刻々として進展している。それというのも、象二郎たちの大政奉還コースが遅々として進まないことが、大きな原因となっている。しびれを切らした西郷たちが、先を見越して動き出したのだ。とはいうものの、薩摩といえども、未だ出兵反対論はあることだし、長州には禁門の変にこりて、自重論が強い。これらに遅れて出発した芸州の立場が強いわけがない。何れも、まだ藩論を完全に統一するところまでは行っていない。このことが、僅かに武力革命コースを抑えているにすぎない。だが十月六日、八日にはあらためて薩、長、芸の統一戦線を再確認した」と慎太郎から聞くかされた時の竜馬の驚き。
 ついで象二郎を訪ね、「三日に老中に建白書を提出した時、『すみやかに採否の有無を聞きたい』という僕の言葉に『急の返事は無理だ』という返事、五日には若年寄永井尚志を、八日には老中を、今朝もまた永井を訪ねたのだが」と、もたついている現状を告げられた竜馬は、前途の容易でないことを思い知らされた。

 

 若年寄永井尚志との会談
 翌十日、竜馬は若年寄永井尚志を訪ねた。尚志は、将軍慶喜の片腕ともいうべき原市之進が暗殺されたあと、市之進にかわって慶喜の側近くにいる人間。慶喜の相談に預かり、強い影響力をもっていた。竜馬は尚志と面識があったわけではなかったが、是非とも尚志に会わねばならぬと考え、福岡藤次の紹介で面会したのである。
 「大変失礼な質問ですが、貴方が幕府の兵力を冷静に観察した場合、薩、長、芸の連合戦力にあたって、勝てるとお考えになりますか」 
 ずばり、龍馬は切りこんだ。尚志はさきの長州再征の際、長州の兵力、長州の戦力をつぶさに見て来ていた。だから、この弱点をつかれた尚志は、その弱味をさらけ出さざるを得なかった。彼は溜息とともに、
 「残念ながら、勝つみこみはない」
と、つぶやくように云う。
 「それでは、建白を採用するほかないではありませんか」
 竜馬はそう云いつつ、尚志の眼を食い入るようにみつめた。ここで尚志を建白の採用という結論に踏み切らせたい。彼の中にある不安を揺り動かして、その気持を変えさせたい。竜馬の言葉を聞きながら尚志は、
 「この男、福岡や後藤よりも、人物、識ともにずっと高大。その上、説くところもなかなか面白い」と考えていた。そうなると、この面会は成功である。

 

 竜馬、慎太郎共に死を覚悟
 十三日は、慶喜が、二条城で各藩の重役から、大政奉還についての意見をきく日であった。象二郎は、福岡、小松、安芸の辻将曹らと一緒に意見を述べることになっていた。竜馬は、二条城に出かける直前の象二郎に手紙を書いた。
 「大政奉還のこと、万一行われない時は、必死の御覚悟の貴君のこと故、御下城はなさるまい。その時には、僕、海援隊を率い、慶喜の帰りを待伏せるつもり……。もし、貴君の失策の為に大政奉還のことが失敗するなら、その罪は天地にいれられないところだ」
 竜馬は自らも死を覚悟し、象二郎にもその覚悟を求めた。いざというときは、慶喜と刺し違えて死ねと書き送ったのだ。オポチュニスト象二郎には、必要な叱咤でもあった。この手紙に先だって、象二郎にあてた手紙には、「将軍職をそのままにしておきたいのは、幕府の人達の人情としては無理もない。一つの方法は、江戸(幕府)の銀座(造弊局)を京都(朝廷)に移すことだ。そうすれば、将軍職は名ばかりとなり、その経済的裏づけを失うから、少しも恐れないでよい。このところによく着目して、うまく行かなそうだと感じたら、議論の中で、証拠となるものを書いて、話が破れぬうちに、土佐から兵を呼びよせ、貴君は早々に引取って、容堂に報告するがよい。話がこわれてしまわないうちにということは、兵を用いる術である」と書いている。竜馬は、万一に備えて、二段階のコースを提示し、さらに次のコースの覚悟までも促したのであろう。
 登城前の僅かな時間を割いて、象二郎は返事を認めた。
 「もし、今度の事が行われないときには、勿論、生きて帰るつもりはない。しかし情況によっては、挙兵のことを考えて下城するかもしれぬが、多分、生命を賭して廷論するつもり。もし僕が死んだら、海援隊を率いて、直接行動に移るといわれるが、これは君の臨機の処置にまかす。みだりに軽はずみなことをして、事をぶちこわさぬように」

 

 慶喜ついに大政奉還を決意
 だが、竜馬の心配は柁杞憂に終った。この時既に慶喜は大政奉還の決意をしていた。勿論、竜馬の言葉を胸につきつけられて、永井尚志は観念してしまったし、「自分の眼の黒いうちは、絶対に幕府をつぶさせはしない」と豪語していた、策士原市之進を失って、慶喜は闘志を喪失していた。幕制改革に郡県制度を進言し、その達成のために力を貸そうという態度を示していたフランスも、本国の国内事情から、もう他国の世話を焼くことは不可能になっていた。だから、大政奉還をしなければ、あるいは徳川家も、慶喜の一身も危いという瀬戸際に立っていることを知ったのだったろう。
 下城した象二郎からは、竜馬にあてて、すぐに報告が飛んだ。
「今日の様子を取りあえず報告する。将軍は政権を朝廷に帰すとの決意を示された。明日、この事を朝廷に申上げ、明後日に参内、勅許を得、すぐさま、政事堂を仮に設けて、上院、下院を創業する運びになった。実に天下のため、喜びにたえない」
 平和コースを念願しつづけた竜馬が、この報に接して、どんなに喜んだか、想像できる思いがする。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

 

二つの革命コース

 慎太郎への説得工作
 十月十四日、慶喜が大政奉還をしたその日に、薩摩、長州に対し、討幕の密勅が下された。藩内の世論統一に必要だった密勅を求めて、あわただしい動きをしていた薩長の願いが実ったのである。これに岩倉倶視が一枚からんでいたことはいうまでもない。和宮降嫁の際、幕府側に立廻ったという罪で京都郊外蟄居の命を受けていた倶視は、奸物、策謀家の名を受けていたが、薩摩、特に大久保と深く結びつき、暗躍をはじめていた。
 十七日には、この密勅をえて、西郷、大久保は薩摩へ、広沢真臣、福田侠平は長州へ、それぞれ帰国し、兵を率いて上京する手筈になった。一応政権は朝廷にかえったが、実質的な幕府体制が崩壊したわけではない。彼等はそれを、武力で一拠に破壊しつくそうとしたのである。
 竜馬は、これら薩長の動きを一方に見ながら、まず十六日には、三条実美の側近である尾崎三郎たちと、新官制について話しあう。こうして、新政府体制の準備にとりかかる一方、武力革命の路線を終始一貫して持ち続け、薩長と共に動き、あるいは三条実美、岩倉倶視らの意を体して朝廷関孫の周旋に走りまわっていた、慎太郎への説得工作をはじめた。
 象二郎たちが大政奉還の工作をしていた間、慎太郎は土佐の同志に、大政奉還論の不可能なことを説き続けていたが、彼自身、平和コースに対して、全面的に反対していたわけではない。彼は、むしろなかなかの良策であり、それ以上のものはないが、それは英雄創業の人でなければできないと判断していた。それに、旗色鮮明でない者達は、戦争でもやらないと、何時もうやむやな態度で動こうとしない。そういうどっちつかずの人間が沢山いると、世の中は本当には変わらないのではないか。戦争なしに革新がおこり得るのかという疑問もあったようである。竜馬の説得に、はじめはガンとして耳を傾けなかった慎太郎だったが、そのうち、竜馬を英雄創業の人とみるようになったのであろうか、徐々にその意見を変え、竜馬に接近していった。おそらく竜馬は、幕府的人間も再教育によって変え得るし、変えなくてはならないと説いたと思われる。

 

 春嶽や公正への働きかけ
 竜馬が次に眼をつけたのは松平春嶽であった。島津久光や毛利敬親と互角にわたりあえるのは、春嶽をおいて他にない。春嶽を引っばり出すために、十月下旬には京都を立って越前にむかう。竜馬は、西郷、大久保、広沢、福田らの進める武力革命コースと、自分の進めつつある平和革命コースの行程をにらみ合わせて、越前へと急いだのである。竜馬の胸の内には、尾崎三郎を通じて三条実美の線を抑え、慎太郎を通じて岩倉倶視と薩長の線を抑え、春嶽によって敬親、久光を抑えることによって、平和コースを完遂する構想ができあがっていた。
 春嶽に上京の決意をさせることに成功した竜馬は、蟄居中の由利公正に会いたいと、越前藩に申しいれた。公正とは、文久三年、横井小楠と一緒に酒をくみかわして以来の仲であり、新政府への抜擢を、早くから極力推薦するほどにほれこんでいる。どうしても会って、その意見を叩いてみたい。会わずに帰ることは考えられなかった。

 

 戦わない方針
 十一月二日の朝、公正は竜馬の宿を訪ねた、公正が宿の玄関から、
 「竜馬いるか」
と声をかけると、竜馬は、天下の事はうまくいっているといわんばかりに、喜びを顔一面にたたえて出てくるなり、
「ヤー、話すことが一杯ある。さあ上がれ」と公正をせきたてた。公正が、
「おれは罪人だよ」
と、同行の二人の立合人を紹介すると、竜馬は
 「僕にも同様、目付がついているよ。かまうことはない。僕たちの話を聞かせればよかろう」
といって、そんなことに構う風情は全くみせない。竜馬は土佐藩の監察吏と同行していたのである。
 三人の目付が、一語も聞き逃すまいと緊張して坐っているのを尻目に、二人はこたつに入って話をはじめた。話は先ず大政奉還のことから、最近の京都の様子に及んだ。公正が、
 「おれが最も恐れているのは、戦争がおこることなんだが」
と云うと、竜馬はキッパリと答えた。
 「戦わない方針だよ」
次に公正が聞く。
 「そうか、こっちから戦いはしかけなくても、むこうから戦をおこしたらどうする。成算はあるのか」
 竜馬は、
 「うむ、何とも云えん。朝廷には金や食糧の蓄えもないし、兵隊もいないんだから難かしい。戦いに参加しようという士もいるが、所詮烏合の衆だ。勝つみこみはない。だからこそ、君の意見を聞きに来たんだ。君には意見がある筈だ。是非、それを聞かせてくれたまえ」
と逆に公正に問いかける。公正は、
 「それは、たいして心配することもなかろう。金や兵力はもともと天下のものだ。なにもその欠乏を憂えることはあるまい。問題は国民を納得させることのできる方向を打ちだせるかどうかにある。それさえ確かなら、我が国はまだ、財制がうまくいっていない。今度の革命を利用して融通の道を開き、開国の機をつかんで国の富をふやせば、王政復古の実があがるだろう」続けて公正はそっとささやいた。「現在の天下の足りない金を補うには、金札を発行するがよかろう」
 竜馬は大いに喜んで賛意を示し、その具体的方法について、なお遅くまで語りあった。

 

 幕府絶対支持の藩の数も大きい
 竜馬は公正との別れに際して、自分の写真を贈っている。宿を辞して外に出ると、公正について来た目付は、
 「不届者、目付役を立合わせて、謀叛の策を語るとは」
と公正の肩を叩き、それから形を改めて、
 「まことに敬服、安心した」
と云ったという。
 京都に帰った竜馬は、諸侯会議の為の腹案をねったり、慎太郎とゆききする毎日を続けている。
 一方、あっというまの大政奉還を知った諾大名のなかには、先行きの見透しがたたずに、未だに態度を決めかねている者が多かった。京都に諸大名を集めようと命令を出しても、さっぱり集まってこない。もう少し成行きを見ようとしているのだった。反対に、何が何でも、幕府を倒してはならぬ。力にかけて政権を奪い返さねばという藩も、なかなか多かった。
 江戸城では、十一月三日に、徳川三家の茂承が、譜代の諸侯や重臣を集めて、朝廷の臣であることを辞退しようと相談したが、皆これに賛成した。またこれに応ずるかのように、在京の譜代諸侯は、総て徳川の命令を仰ぎたいと申出ている。十一月五日になると、江戸城に集まった諸侯が総て、朝廷からの官位を辞退し、朝廷の招命を拒否すると申合わせた。
 これは幕府を支持する勢力が、まだまだ強かったという実情を物語っている。特に東北地方の諸藩に、幕府絶対支持の藩が多く、また支持の気持も強かった。中には朝廷の招命に対して、幕府に伺いをたてる藩さえあった。国内の混沌状態は、そう簡単には回復しない。

 

                  <坂本龍馬 目次> 

 

 

 竜馬、慎太郎協議中襲撃される
 戦うことなくして、幕府体制にかわる新しい体制を創りあげるコースに、慎太郎をまきこむことに成功した竜馬は、さらに最後のエネルギーをその完遂に投入していたが、十一月十五日、たまたま竜馬を訪ねて協議中であった慎太郎と一緒に、幕府の見廻組の攻撃を受けて倒れた。
 京都河原町の近江屋の二階にいる所を、かねてからねらいをつけていた刺客に踏みこまれたのである。
 刺客たちは初め「十津川の者だが、坂本先生が御在宿ならば、御意を得たい」と偽って来意を告げたという。十津川郷土には知己も多いので、取次ぎに出た竜馬の召使いは、別に怪しむこともなく案内に立った。先ず召使いを切った刺客たちは、竜馬の部屋に躍りこみ、いきなり、一人は竜馬の前額部を、一人は慎太郎の後脳部を斬りつけた。不意を討たれた竜馬が、床の間の刀を手に取ろうとしたところを、右肩先から左背骨へ、続いて三の太刀を受けて倒れた。
 慎太郎は短刀を抜き放って、敵の懐に飛びこもうとしたが果せず、これも幾太刀も浴びて倒れてしまう。竜馬が最後に残した言葉は、
 「僕、深く頭脳をやられた」
であった。その言葉を聞きとどけた慎太郎は、身体中に十ケ所あまりの斬傷を受けていて、その場に昏倒した。

 

 竜馬三十三才慎太郎三十才
 急をきいて近江屋に駈けつけたのは、島田庄作をはじめ、曾和慎八郎、毛利夾助など。陸援隊からも田中顕助が駈けつける。薩摩藩の吉井幸輔も飛んできた。早速、医師を招いて手当を加えたが、竜馬は既に絶命、慎太郎は一時意識を恢復、二人の遭難の様子などが詳かになった。しかし手厚い看護の甲斐もなく、一日おいた十七日に息を引取った。竜馬が三十三才、慎太郎は三十才であった。
 慎太郎は「刀を手許に置かなかったのが、一期の不覚だった」と云っている。慎太郎の死をことのほか嘆いたのは、岩倉倶視だった。彼は、「片腕をもがれた」と云って、悲しんだという。
 二人の遺骸は、十八日、海援隊陸援隊の同志の手で東山に葬られた。
 この時の刺客は、はじめ新撰組の者かとされていたが、今では京都見廻り組の佐々木唯三郎以下七人とされている。
 竜馬の死が長崎に報ぜられたのは、十一月二十七日だった。渡辺剛八らは、直ちに隊長の仇を討ちに上京するといきりたち、やっと佐々木三四郎になだめられている。また京都では、海援隊と陸援隊が合同して、隊長の復讐を企て、紀伊藩の三浦休太郎をつけねらったが、とうとう討ちもらしたという。

 

 竜馬を失った平和コースの道
 十月十四日、全く同時にスタートした平和コースと武力コースは、竜馬と慎太郎の死によって、大きく均衡が崩れてしまった。竜馬の平和コースが、戦う態勢なしに、ただ、平和を願望するというものでなかったことは、改めていうまでもない。和戦両様の構えをとっての平和コースであり、武力コースが平和コースに活を入れることを、十分に知りつくしていた竜馬でもあった。だから彼は、一度も薩摩や長州の武力討幕の動きを、牽制してはいない。
 慎太郎が、「平和コースは英雄創業の人を得なければ不可能だ」といって心配したように、竜馬を失って以後、平和コースは大きく後退、変質をはじめ、武力コースだけが独走する態勢となってしまった。
 十二月九日の新政府の閣議では、慶喜を参加させるかどうかをめぐって、岩倉、大久保と、容堂、象二郎が対立する。春嶽や徳川慶勝が容堂を支持したが、西郷の「容堂を斬れ」という断で、岩倉、大久保の主張が通り、慶喜の辞官と納土が決定した。その後、西郷、大久保達は、ますます突っ走り、象二郎はさらに後退する。象二郎は在京の諸侯に説いて、慶喜の政治参加に賛成する意見書をつくり、朝廷に差しだした。このため岩倉が一時迷うという一幕もあったが、西郷、大久保らは、象二郎たちの平和コースを見限って、武力コースへの歩みを決定的にした。

 

 江戸城ついに明渡しとなる
 こうして、西郷、大久保、桂、広沢の討幕コース一本になってしまうと、土佐藩でも、乾退助らの武力討幕派が勢いを持ち、後藤象二郎はそれについて行くしかない。竜馬を失った彼の姿は、哀れなものである。
 大久保たちは、武力コースの第一弾として、薩摩藩士による江戸の撹乱を企てた。これに対して幕府は討伐を計画し、慶喜も大阪から京都に向かって進発を開始した。明治元年一月二日のことである。一万五千の幕府軍に対したのは、五千の薩摩軍だった。数の上で絶対の優位を誇る幕府軍は、自信たっぷりであった。だが、正月三日の戦いで、完全に敗北を喫したのは、優勢なはずの慶喜軍だった。しかも、この戦いをおこしたことによって、慶喜を討つ名目を薩摩に与えてしまったのは、決定的な慶喜の敗けであった。
 江戸に向かった慶喜追討軍は、江戸城明渡しが済んだ後も、各地に転戦した。奥羽、越後藩などの各地のゲリラ隊もさかんであった。追討軍即ち官軍に参加した民兵たちは、戦争の過程で裏切られた。それはまさに、公法によらない、薩長の私戦の観を呈した。だがこれらの内乱も、明治二年五月の、函館での榎本武揚の反乱を最後に、鎮定される。

 

 竜馬がもし生きていたら
 竜馬は死に、彼の念願した平和コースも、公議政体も、共にゆがみにゆがんだ。彼は四十才以後の自分に期待していた。姉への手紙にも、何度かそのことを書いている。だが、彼が死んだ時は、三十三才でしかなかった。一歩一歩と、自ら体験し自ら観察しつつ、自問自答しながら歩み続けて、止まるところを知らなかった竜馬。彼がその四十才以後を期したのは、よく自らを知っていた言葉といえよう。あの時代に珍しく、国際的視点、人類的視点にたって、未来を夢みつづけていた竜馬。彼のスケールの大きさは、周囲にその例がない。竜馬の将来がどんなにすばらしいものであったかは、想像しようもないほどである。同じ土佐の出身で、岩崎弥太郎のなしとげた三菱の大事業は、あるいは竜馬によってなされたのではあるまいかという声は、しばしば聞かれるが、もしそうであったなら、彼のその後の生存によって、日本の歴史は何も受けないことになってしまう。
 彼は死んでしまった。もし彼が生きていたら、と考えるのは実に空しい。だがもし彼が生きていたら、まず、土佐藩が、新政府樹立の中で、ああも後向きになることはなかっただろう。それは、二つの面から、明治の自由民権運動を大きく変えたに違いない。そして、明治憲法の内容も変えていたはずなのだが。

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

 

坂本竜馬略年譜

西 紀

 年 号

年令

     事  項

1830

天保元年

吉田松陰、武市瑞山生

1831

天保二年

長州大一揆おこる

1832

天保三年

水戸斎昭海防を論ず

1833

天保四年

桂小五郎生

1834

天保五年

岩崎弥太郎生

1835

天保六年

 1

十一月十五日、土佐国高知城下坂本権平の二男として生まる。五代才助生

1836

天保七年

 2

帆足万里「窮理道」著

1837

天保八年

 3

大塩平八郎の乱、板垣退助生

1838

天保九年

 4

中岡慎太郎、後藤象二郎生
高野長英「夢物語」渡辺華山「慎機論」著

1839

天保十年

 5

高杉晋作生、蛮社の獄

1840

天保十一年

 6

間部詮勝老中となる。アヘン戦争起る、久板玄瑞生

1841

天保十二年

 7

渡辺華山自刃、土佐藩天保改革始まる

1842

天保十三年

 8

高島秋帆下獄

1843

天保十四年

 9

おこぜ組退場

1844

弘化元年

10

オランダ軍艦、日本に開国を説く

1845

弘化二年

11

英国、長崎に来て通商求む

1846

弘化三年

12

楠山庄助の塾に入る。米艦浦賀に来る

1847

弘化四年

13

伊予、肥前に百姓一揆、吉田東洋船奉行に抜擢

1848

嘉永元年

14

日野根弁治につき、剣術を学ぶ
山内容堂襲封。「共産党宣言」発表さ

1849

嘉永二年

15

「新おこぜ組」誕生、幕府諸大名に命じて沿岸の警備を厳ならしむ

1850

嘉永三年

16

高野長英自殺、おこぜ組巨頭馬淵嘉平獄死
アメリカ議会日本の開国を議決

1851

嘉永四年

17

西郷、大久保盟友を盟う

1852

嘉永五年

18

中浜万次郎帰国
オランダ開国を説く

1853

嘉永六年

19

三月十五日高知出発、北辰一刀流千葉貞吉に入門
六月米艦来る。七月露艦長崎に来る
十二月、吉田東洋参政となる

1854

安政元年

20

日米和親条約結ぶ
六月帰国、英国、露国とも和親条約結ぶ

1855

安政二年

21

河田小竜に会う
吉田東洋小林塾おこす。幕府長崎海軍伝習所開く。勝海舟長崎にいく。

1856

安政三年

22

吉田松陰「講孟夜話」著
八月高知出発、江戸に遊学。幕府蕃書調所を設く

1857

安政四年

23

松下村塾生まる。老中阿部正弘死

1858

安政五年

24

井伊大老登場、日米通商条約調印。家茂将軍となる。島津斎彬死。松平春嶽等謹慎
九月帰国。十一月水戸の住谷悦之助に会う
西郷入水

1859

安政六年

25

山内容堂謹慎。小南五郎左衛門罰せらる
橋本左内、吉田松陰刑死
勝海舟条約批准のため米国にいく

1860

万延元年

26

井伊大老桜田門外に仆る
山内容堂の謹慎とかる

1861

文久元年

27

土佐勤王党成立。十月、剣術せんぎのため高知出発

1862

文久二年

28

一月萩城下で久坂玄瑞に会う。老中安藤信正襲撃。二月西郷起。三月脱藩。
四月吉田東洋暗殺。寺田屋の変。六月西郷再び流刑。十月勝海舟に入門

1863

文久三年

29

四月大久保一翁に会う。五月、長州下関で外国船攻撃。六月村田己三郎を訪う。七月薩英戦争、由利公正に会う。八月政変。九月武市瑞山下獄。十月神戸海軍所創設。生野の乱おこる。

1864

元治元年

30

二月勝と長崎に出発、横井小南に会う。六月池田屋の変、七月禁門の変、八月四国鑑隊下関砲撃
八月、長州征討発令。十月小松の庇護をうける

1865

慶応元年

31

一月高杉晋作クーデター。四月西郷・小松と西下。閏五月武市瑞山切腹。亀山社中をつくる。この頃より、中岡慎太郎とともに薩長連合を約す。下関・京都の往復はげしくなる

1866

慶応二年

32

一月薩長連合成る。負傷して鹿児島にゆく
五月ワイルウェフ号沈没。六月征長軍敗る
七月将軍家茂死す。八月、下山尚に政権奉還を説かしむ。十二月将軍慶喜宣下。孝明天皇崩御

1867

慶応三年

33

四月海援隊陸援隊生まる
イロハ丸沈没。六月薩土の盟約成る
十月永井尚志に会う、後藤象二郎叱咤
十一月福井に由利公正を訪う
十一月五日奴本、中岡暗殺
十二月王政復古の大号令発令

1868

明治元年

一月鳥羽伏見の戦おこる
三月五ケ条の誓文発布
四月江戸開城
五月彰義隊上野に抗戦
九月東北地方平定

 

               <坂本龍馬 目次> 

 

参考文献一覧

<書 名>

<著編者名>

坂本竜馬言行録

渡辺修二郎

坂 本 竜 馬

森   茂

雋傑坂本竜馬

銅像建親会

中岡慎太郎

尾 崎 卓 爾

横井小楠遺稿

山 崎 正 董

幕末洋学史

沼 田 次 郎

長  崎

箭 内 健 二

土佐藩における討幕運動の展開

池 田 敬 正

天保改革の再検討

池 田 敬 正

土佐藩における安政改革派と其の反対派

池 田 敬 正

坂本竜馬関係文書

日本史籍協会

武市瑞山関係文書

日本史籍協会

再夢記事・続再夢記事

日本史籍協会

木戸孝充日記

日本史籍協会

維新土佐勤王史

瑞 山 会

坂本竜馬・中岡慎太郎

平 尾 道 雄

海援隊始末記

平 尾 道 雄

由利公正・坂本竜馬

坂本竜馬と中岡慎太郎

伊 藤 痴 遊

坂 本 竜 馬

千 頭 清 臣

維新前後における立憲思想

尾 佐 竹 猛

西 郷 隆 盛

田中惣五郎

五代友厚伝

五 代 竜 作

山 内 容 堂

平 尾 道 雄

吉 田 東 洋

平 尾 道 雄

明治維新の舞台裏

石 井  孝

学説批判明治維新論

石 井  孝

明治維新政治史研究

田 中  彰

政 商

揖 西 光 速

吉 田 松 陰

池 田  論

                   <坂本龍馬 目次> 

 

あとがき(1964年)

 厳密な意味において、歴史の方向や方途を問うとしたら、それは多岐多様なものとなるであろう。しかし、実践の場において、最も必要とされるのは、その大綱である。
 このことを考える時、私はひとりの歴史的人物を思い出す。その人は、新しき日本の誕生のためには、自分の藩の名誉はおろか、藩の存在すらも要らないと云った。彼の周囲では、敵を見失い、共に与すべき人たちが、相互に壮烈な闘いを繰返していた。それは敵を喜ばせる以外の何ものでもない。その中で彼は、時代と共に歩み、時代と共に前進する。そしてその道こそ、平和の道であることを発見した。
 平和的移行は、その前に立ちふさがる如何なる物をも変革して、永遠に止まることなく前進する。そしてそれは、体験に学び、理論に学んで、限りなく前進する者のみがなし得るところである。
 私たちは、この歴史的人物が歩んだ道を、もう一度たどりなおして、統一の論理、革命の論理を学びなおす必要がある。時代と条件は異なろうとも、そこには私たちの汲むべきものが無尽蔵にあるのではあるまいか。残念なことに、意余ってなお才足らず、その真骨頂を十分に出すことができずに終った。
 宿願の本書刊行に尽力して下さった林春樹氏に、深い感謝の意を表したい。

 

 

あとがき(1968年)

 坂本竜馬が今日更めて問題になるということは一体、どういうことでしょうか。明治百年ということで、その明治をきりひらいた人物としてでしょうか。また、スケールの大きい、波乱にみちた生涯を送ったからでしょうか。たしかに、それもあると思いますが、一番大事なことは、もっと別の所にあると思います。それはなによりも、竜馬が今日の私達にむかって強く呼びかけているからであります。そして、今日もなお、竜馬の思想と行動は生きつづけているということであります。だから当然、その意味を問うてみなくてはならないのです。
 では、竜馬の思想と行動とは一体、どういうことでしょうか。彼は三十三歳の時、京都で暗殺され、終に明治維新の実現をみることが出来なかったのですが、彼が三十三歳で到達した思想というのは、一言でいえば、人間を尊び、平和を愛するということでした。そういう結論に到達したが故に、人間を平等視しない幕藩体制を生命がけで仆そうとしたし、戦争とか武力によらないで平和的手段で新しい日本をつくろうとしたのであります。薩長連合という大仕事も結局そこから生まれたものであります。
 いいかえれば、竜馬が意図したことは自由と平等の日本であり、政治的には共和主義の実現であります。しかし、彼の願いは百年後の今日もわずかしか実現していません。当然、彼の思想の実現を、彼は今日の私達の課題としてつきつけています。ということは、彼の課題はずっと生きつづけているということであります。彼の精神は、明治維新の完成にむかって努力しつづけているということでもあります。
 それに、不思議なほどに幕末と現代には共通点があります。すべてが行詰り、停滞しています。発展と飛躍を必要としています。彼の思想を実現していないところから現代の行詰りと停滞はおこっているのでしょうが、要するに変革と発展を必要としています。人間の生命は危険にさらされ、多くの人が依然として苦しんでいます。
 そのように考える時、竜馬がやってのけた統一と平和の道はなによりも今日変革の道をつきすすもうとする者に依り所となる筈であります。統一と平和の道は至難にしても、そこに偉大な先駆者がいるということで心強くなることも出来ます。だからといって、竜馬に学ぶということは、百年前の彼の思想と行動を知るということではなく、彼がその時代を考えたように現代を考え、彼がその時代を生きたように現代を生きるということであります。竜馬に学びながら竜馬をこえるということであります。そこにこそ、竜馬が本当に今日的に生かされることになります。第二、第三の竜馬的人間が誕生するということ、それが竜馬の意味を問う窮局の目的であります。
 最後に、宿願の本書刊行に尽力して下さった林春樹氏に心からお礼を申しあげたい。

 

               (1964年 大和書房刊)

 

                   <坂本龍馬 目次> 

 

 

    < 目 次 >

 

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