本書は、雑誌に掲載された原稿の中から、1978年に池田裕子夫人により編集されたものである。
池田諭氏の没後、刊行された本は、この「学ぶこと生きること」と「松には松の道ありて」という池田諭の思い出や関わりなどを集めたものの二冊がある。また、氏の友人でもあったS氏により「帰命」という冊子も自費出版されている。
巻末の「池田諭 年譜」は既にこのホームページに掲載しているので省略した。
1999年5月 池田諭の会
序にかえて…………………………渡辺則文
1 真の教育を求めて
現代教育の問題点…原点にかえり目標を正そう
困難や危険を克服する力
ちかごろの親子関係
人間教育の原点…松下村塾にみる人間形成
教師は芸術家である
本当にすぐれた教育者とは
自営独立を目指す人のために
2 大学の再生をめざして
政治教育の不在
学生の思想的自立について
生命を賭けた師弟関係の提唱
塾と大学…松陰の思想の今日性
3 女性の生き方を問う
好ましい女性像
女性の自立と教育
精神的独立と行動を結びつけよう…新女大学現代版
女子大学改革への具体的提案
4 戦争の渦中に生きた者から
戦争と私
日蓮上人との出会い
戦中派の復権…日蓮の立場との関連において
戦中派復権のための覚え書…マス・コミにおける戦中派の問題
5 思想について考える
革命家・吉田松陰の思想と実践…伝統的革命思想の創出
転向研究批判…思想の科学研究会編『転向』によせて
転向研究の今日的意味
ナショナリズム失明の位相
あとがきにかえて…………………………池田裕子
池田諭 年譜
初出一覧
昭和三十九年の秋、わたくしが広島大学教養部で「一般教育」を担当するようになってまもないころであるが、教養部学生むけに発行している新聞「広大教養」に「学ぶ姿勢」と題して小文を書いたことがある。それには、いささか気負った文章で、大学と社会との関連、そしてその極度の「ひずみ」、また「受験戦争」等々、大学教育にかかわるいくつかの問題点を指摘したあと、つぎのように書いている。
現代が歴史の転換点にたっていることは誰しも認めるところであろう。この転換期に参加して生きるということは、新しい歴史(価値)の創造者としての姿勢で生きることであろう。過渡期にともなう価値の混乱と激しい相剋をまともにうけて、そこから新しい価値と方向を創り出していく担い手は、若い人々をおいてない。とくに学生諸君への期待は大きいはずである。
こうした現実に対処するためには、総合的能力を養う以外にない。しかし、大学生活四年間は決して長くはない。まず、自らの土台の構築が必要である。それは学ぶ目的と学問への姿勢である。その土台があって、はじめて講義を自分に密着さすことができ、内容を自分のものとして発展さすことが可能といえよう。
土台づくりの手がかりとして池田諭著『独学のすすめ』(大和書房)の一読をすすめたい。本書は、いわゆる独学者の書ではなく、学問への姿勢を説いたものである。著者はかつて史学科の学生として後藤・今堀両教授の教えをうけた先輩の一人である。この書をすすめるのは先輩とか、筆者の友人とかいう理由では勿論ない。著者ほど学生時代を精一杯に生き、精一杯の学究生活を送った人は少ないであろう。学校教育の現状への痛烈な批判を通して、知識の質の改造と、それを可能にする教育のあり方を追求した本書に稗益される点が多かったからである。
旧稿を長々と引用したのは、当時から十数年を経過した今日、大学教育、なかんずく「一般教育」の状況は、少しも変っていないからである。そして、今日においても『独学のすすめ』が「学ぶ姿勢」のみならず、「教える姿勢」の指針としての価値をいささかも変えるところがないからである。
学生時代の池田さんは、大変な読書家であった。そして、時として著者に手紙を出し、また面会を求めたことも少なくなかったようである。しかし、著作にみられる高まいな「思想」と、人間としての著者とのかい離がどれほど多かったことか。池田さんは、はげしい怒りをこめてわたくしに語った。とくに当時、著名な哲学者と宗教家について。まもなく池田さんは、学生としては、けたはずれに多い蔵書数千冊を処分した。大学二年生の時である。この時が池田さんの「自立の思想」構築への出発点であったかもしれない。そして「にせもの」と「ほんもの」をきびしく峻別する闘いへの出発であったように思われる。それは他者にではなく、自分自身に対して。
やがて、当時の日本史専攻学生の卒業論文としては、異例のテーマ「釈迦・親鸞・道元・日蓮を通じてみたる現代の課題」を書いて大学を去った。このテーマは、池田さんの中で二十数年温められ、昭和四十七年には名著『親鸞・道元・日蓮…三人の反逆者にみる動乱期の思想…』となって結実した。
二十一冊の著作を世に問われ、昭和五十年、五十二歳の著さでこの世を去られた池田さんには、今後を期して心に温めていたテーマも少なくなかったと思う。いまはそれを知るよしもないが、さいわい池田さんには単行本以外に、諸雑誌類に発表された論文や随想が百数十篇残されている。それらの中には、池田さんの思想形成の跡をうかがいうるもの、著作を補足するもの、さらには池田さんの今後の著作の核ともなったであろう、新しい問題提起を含んだものも、少なからず見出すことができる。このたび大和書房のご好意で、そのうちから主として教育問題に関する諸論稿を、一本にまとめて世に問うことのできるのは、池田さんの思想の継承・発展という立場からはいうまでもなく、とくに今日の教育の状況からして、きわめて意義深いことと思われる。
わたくしにとっても本書は、わたくし自身が、原点にかえって目標を正す羅針盤と考えている。そして、何よりも本書が高校生や大学生諸君にとって「学ぶ姿勢」を確立し、「自立の思想」を構築するための、大きな指針になることを期待したい。
昭和五十三年十一月二十日 渡辺則文
1 真の教育を求めて
一
今日世界は大きな時代の転換点にさしかかっている。自由主義の哲学でも共産主義の哲学でもこの転換点を指導できる程簡単ではない。それらは何かと言えば、戦争であり、公害であり、戦争や公害と取り組む一人一人の生きる姿勢である。人間一人一人の力でこれらを排除できるようにならなくては人間のすべては幸福になったとはいえない。今日、親達の価値意識といい、受験戦争といい、学歴尊重の風潮といい、すべては今日の社会を維持するためのものでしかない。今の社会がつづく限り、どこまでもその親達の価値意識は混乱するし、受験戦争は激しくなるし、学歴偏重の風潮はとどまるところがないであろう。
要するに人々はその現象におどらされて、単に右往左往し、それらの現象に追いまわされているにすぎない。此のような現象を追っている限り、今日の問題は少しも解決されない。
たしかに、今の永井文相が文明懇談会を設け、文明の方向を本格的に尋ねだしたということはよいことだと思うが、ともすると其の作業が一部の識者間のものに終わり、全ての人間がそのように考えるということを考えようとしない。それはこのような問題が常に識者間のものに終わり、すべての人のものとする努力を欠いてきたことがいつのまにかそういう風潮をつくることになってきたためである。所謂優秀な学生程その就学期間を長くしていたこともそれと無関係ではない。むしろ劣った者こそ長く学ぶようにする適切な指導が必要なのに逆になるべく早く学校から追い出そうとする。劣等者の教育指導というものが殆んど確立していない。高校でも大学でも単に名門校をまねる教育が行なわれて、真に劣等生を生かす指導もないし、教科書すらない。これではたとえ文明懇ができてもそれにあまり期待できない。必要なのは人々が文明の方向を考える姿勢であり、それを考える人々をどのようにしてふやすかということである。
親達の価値意識の混乱や受験戦争をどのようにしてなくし、更に学歴偏重の風潮をいかにしてなくするかということも必要だが、もっと大切なことは教育者自身がその親とともに子供を改造するという意欲をもつことではあるまいか。教師にしても親にしても自分達のことを棚にあげて、子供達のことばかりを考えている。子供とはその親と教師の生き方をまねるものだし、手本とするものである。今日の教育をどうすべきかを考えるならば親と教師が先ず自分達をどうしたらよいかを考えるとよいのである。親と教師がその生き方と考え方に満足しているなら子供は放置していても必ずその親や教師の生き方と考え方がしみこむものである。別にわいわいと騒ぐこともないし、現代教育の問題点はと大上段になって問うこともない。要するに、今の親と教師は己達の生活に自信がないのだし、それをのりこえてほしいと思っているのである。反対に教育を考えない者が今のままでいいではないかと考えているのである。
では、今日は時代の大きな転換期にさしかかっていると認識し、その教育をどうすることによって発展できるかということである。私は左に私見を述べてみたい。このような理想をかかげることはむつかしいが、教育実践となるとますますむつかしい。しかしそれらを断行しなくてならないのが今である。そのことを是非知ってもらわなくてはならない。
二
今日は教育の目標を改めて考える時である。多くの識者はそれを自明のこととしているから、過渡期の教育の成果をあげることができないのである。今は教育そのものを原点にたちかえって考えなおすべき時代である。私が教育の原点にたって教育を推進した人を見直しているのは其の為である。では私は教育そのものをどのように考えなおそうとしているのだろうか。先ず、私は次のようなことを考えたいのである。即ち、今迄、世界各国が単に己の富強のみをつとめてきたし、それでよしとしてきたが、今後は敢然とこの政策をふりすてて、道義、教育、平和、調和のために取り組む戦士を育てることである。富国のための強国を讃美し、強国に支配される国家を弱小国として互に軽蔑したし、自ら恥と考えたような態度ををふりすてることである。自国内の差別のみを排することに汲々として、世界の中の差別をみとめることは全く矛盾している。この矛盾が平然と通っていた所に、世界のまやかしがあった。今は敢然と其のうそと戦うときである。
第二は学問の姿勢は独学にあることを体認し、自分を生かしきることが社会を生かしきることに通じることを知って独り学び、考え、創造する姿勢を生涯にわたって持ちつづけることを誓う人間を養うことである。独学の姿勢がないから徒らに記憶した知識をとうとび、学校にいって知識を教えてもらいたがるのである。今の出来る生徒、出来ない生徒も単に記憶の有無により、必ずしも将来の創造的知性の根拠になるものではない。そのために劣等者として苦しむ人間を作り、学校を卒業とともに学びをやめる人間を作るのである。学校の普及が人々の中の独学の精神を殺し、依頼心ばかりをつよめたのである。保守党員でも革新党員でも政治屋に何かをして貰うことばかり要求する。貴方まかせの生活には真の生き甲斐はない。生涯教育は教育の基本である。生涯教育を外国からの輸入だと考える者は教育ということを真に考えたことのない者である。
第三には感性を悟性同様に重んじ、常に理論と実践の統一をはかるとともに、たえず現実を発展しうる理論を創造するような人間を養うことである。従来東洋には知行合一を主張し、単なる知識を軽蔑する傾向があった。しかし、明治以後人間の感性は重んぜられているようにみえて単に悟性のみが尊ばれ、感性は影をうすめたのである。実践と理論は別のものであるかのようなことが堂々と言われたし、通るようになったのである。前総理まで堂々とこの二つを二分して平気な状態である。本音と建前を不思議に思わない世の中になってしまった。それを強化するように、学校教育は感性の教育を軽視し、子供をすべてにおいてかたわにしてしまったのである。感性が余命をもっているのは全くの不思議というしかない。悟性のみ尊ぶところに、今の教育の今の試験も成立するのである。ペーパー・テストは早急にあらためなくてはならない。
第四には美的教育をすべての教育の中心におき、美意識に反する行動には自分の全存在で闘う人間を創ることである。人々はともすれば美という場合絵画の中の美のみを考えて人間の全生活の中に美があることを忘れている。それこそ、政治にも経済にも美があるし、美がなくてならないのである。これまではともすると、美に反するものを政治とみ、経済とみたのである。そのために公害が生れたし、政治はにごってきたのである。これからは政治の美、経済の美を追求しなくてはならない。これまでは全く美的教育というものが大学にも高校にもなかったし、美を教えた小学・中学でも美が人間生活の中心にあるということを殆んど教えなかった。美に反する行動のみが重んじられた。
以上重要と思われるものを列記した。此の外にもまだある。だが教育の目標を定めることが教育そのものを正す鍵である。今こそ、教育を正さなくてはならない。
一
今日、明治百年ということが盛んにいわれているが、その明治百年を準備したのは、すべて、二十歳前後の青年であった。若い人たちが、その移しいエネルギーと逞しい行動力で強引に明治百年の基礎をつくりだしたものである。同じように、明治維新につぐ明治の時代の思想をつくり、明治という時代を導こうと悪戦苦闘したのも、これまた、若い人たちであった。
その一人に北村透谷という人間がいる。
透谷は明治元年に生まれ、十四歳の時には、当時の自由民権運動に強く刺激されて、政治家を志望。十五歳の時には、政府の弾圧政策に憤慨し、それに反対する行動にたちあがろうとしたほどである。だが、母親から強く反対されて、彼はとうとう神経衰弱になった。しかし、十六歳になると、もう、母親の反対にじっとしていることができない。とうとう、直接、自由民権家と交わるようになるし、あちこちと旅行も始めた。十七歳。いよいよ、政治家への希望を強める。これは、今の中学生の年齢にあたる。その後、数年間、徹底的に研究と思索を深めた結果、透谷は鋭い社会批判、政治批判をやるようになったが、それは、結局、十五、六歳の時に、行動し、体験したものをもとにして、思索したものであった。その思索をもとに発言したものであった。
わずか、二十七歳でなくなった透谷であるが、その間の彼の発言と主張は、明治の人々の心をゆすぶりつづける程に強烈なものであった。明治の日本を本当の意味で、発展させつづけようとする情熱にみちみちたものであった。
だが、不幸にして、若い透谷の思想と精神は当時の老人たちにふみにじられて、十分に生きなかった。石川啄木もまた、そういう若者の一人である。こういう若い人たちの思想と精神がふみにじられたとき、明治日本はだんだん老化していった。若い人たちによってつくられた明治維新。そして、明治日本もまた、若い人たちによって指導されようとしたが、これは、成功しなかった。そこに朝鮮や中国や東南アジアを侵略するという日本の悲劇が始まったのである。日本の進路はゆがむしかなかったということができる。
それは結局、理想を追い求める若者たちを、若者の心と意志を日本から抹殺したためである。若者!それこそ、理想を追い求め、夢に生きる者である。美しいものに憧れ、美しいものに感動する者である。その意味では、この社会は、若者と老人の相剋の舞台であり、若者が勝つとき、この社会はみずみずしく発展し、老人が勝つとき、この社会はよどんでいく、その意味で、今日は、若者の社会であろうか。老人の社会であろうか。どちらがリードしているのであろうか。
二
今日、中学生のなかに、マイホーム主義的な考え方をする者が多いという。また、それをなげく声もきこえてくる。昔は、そんなことはなかったとおとなたちはいう。もっと大きな夢と希望を若い人たちは胸一杯に、もっていたともいう。
果たして、今のおとなたちがそんなに夢と希望をもっていたであろうか。理想を追い求め、情熱をほとばらしていたであろうか。私には、そう思えない。マイホーム主義的な考え方と生き方は、今日のそれとは違うが昔も非常にあったと思う。結局、それは、自分自身に対し、社会と時代に対し自信のないものが持つものである。社会と時代をリードできる能力がないと考える者が抱くものである。
昔は、自信や能力がないと思う者が、率直に、弱音を吐けない空気があった。反対に、強がりをいう空気があった。ことに、男子は、弱音を吐くのを恥ずかしいと考えた。しかし、今日はそういう人たちが正々堂々と弱音を吐くようになった。恥ずかしさも感じないで、自分の思うことを言えるようになったのである。能力がない、自信がないと思う者が、徒らに、自分の能力以上の夢を口にしなくなっただけである。望まなくなったとも、強がってみせなくなったともいえる。その証拠には、戦前派も戦中派も、ほんの一部を除いて、戦争に反対するほどの勇気も情熱もなかったし、戦争をくいとめようとはしなかった。無理な戦争だと感じ、自分たちのささやかな幸福をこわしてしまうと知りながら、どうともしなかった。本当の意味での、大きな夢、美しい理想を追求しなかった。おとなたちが、自分の若き日には、夢と希望と情熱があったというのは、相変わらずの強がりである。ウソである。おとなたちも自分たちのささやかな夢を追ったにすぎない。簡単に出世を夢みたにすぎない。
透谷や啄木は今日だけでなく、昔も少なかったのである。だからこそ、透谷や啄木の思想と精神は敗北したのである。
私が若者というのは、夢と希望と情熱をもった者をいい、それのない者を老人というのである。その意味では、老人のような青年が多い。マイホーム主義的な考え方や生き方をする者も、既に、老人であって、若者でないということができよう。このように考えれば、何も、今日の中学生のマイホーム主義を悲しんだり、怒ったりすることはない。それよりもまず、おとなたちが、自分たちの中のマイホーム主義、それに似たものを反省することのほうが先決ではあるまいか。
今日、戦中派といわれるおとなたちの中に蔓延しているマイホーム主義。そのほうが危険であり、恐いといえる。というのは、彼ら自身、そのマイホーム主義的考え方、時代と社会に対して働きかけようとせず、自分たちの身近な平和だけをまもろうとする考え方がいかにもろいものか、戦争のまえにはひとたまりもないということを十二分に体験しながら、それでいて、マイホーム主義的考え方にかじりついている。
これはもう、敗北主義以外のなにものでもない。これほど、自分に対して自信のない姿はない。時代と社会に対して、作用できる能力を認めていない姿はない。子どもたちは、単に、そういう愚かで、だらしないおとなたちの反映でしかない。おとなをみならっているにすぎない。子どもたちに、マイホーム主義のもろさ、マイホーム主義では、マイホームは守りきれないことを知らせることは必要であろう。
三
マイホーム主義を脱する道は、子どもたちに自分の力や能力を知らせることであり、人間の能力が時代と社会をリードし、時代と社会をつくりかえてゆけるものであることを知らせることである。さらには、時代と社会をつくっていく行動と生活がどんなに充実感をあたえるものか、また、感動と喜びに満ちたものであるかを知らせることである。
たしかに、能力のない者が背のびして、無理をして生きるということがなくなったのはよい。すべての人間が自分の能力にあった人生を自分なりに生きることこそ、好ましいことである。しかし、子どもたちのもっている能力、時代と社会に対してもっている人間の能力を本当に知らせているかということになると疑問である。子どもたちはその能力を知らないままにマイホーム主義に陥っていると思う。
それに、子どもが敗北主義的なマイホーム主義に陥っていることは何よりも悲劇である。片隅の幸福を求めながら、その幸福すらも守れないような生活を求めていることは悲惨である。人間として、人間の力を出しきって生きないほど不幸はない。おとなたちは、それを教える義務がある。知らせるところにこそ愛情があるといえよう。
それにもかかわらず、今日、おとなたちは、相変わらず、子どもたちを、このマイホーム主義的な考え方、生き方におとしこんでいる。そういう風潮が強い。第一には、子どもたちに何がなんでも、有名高校・有名大学・一流会社にはいることを強く求める。子どもの学力に無関係に求める。しかも愚かな親たちは、試験に強い学力は、人間として、社会人として、必要な能力、総合的な能力、社会的能力とは全く異なっていることを知ろうとしない。それでいて、その学力だけを基準にして、人間の全能力をはかろうとする。その結果、子どもたちを苦しめ、自信を失わせている。一流高校から一流大学にはいるような学力を発揮できるのは、一部の者にかぎられているから、自信を失うのは当然である。
自信をなくした子どもたちが、せめて、片隅の幸福でもと思うのも無理はないが、他方、子どもたち自身、一流高校から、一流大学・一流商社にはいるために、ガツガツと勉強し、友人をつきおとすような生活、友人をもてないような生活、自分の好きなこと、やりたいことも我慢するような生活が果たして素敵なのかと疑問に思っていることも、マイホーム主義に走らせている理由の一つであろう。ここには、明らかにおとなたちとは違ったもっと質のよいマイホーム主義がある。
今一つは、透谷の場合にみたように、中学生ぐらいの透谷が、時の政府のやり方に反対して、実践運動にのりだそうとした時、彼の母親はそれを強くとめたことである。おとなたちばかりでなく、教師たちは、多くの場合、子どもたちが行動をおこそうとするとききまって禁止する。子どもたちには、まだ十分の判断と知識がないという理由で反対する。それが指導であり、教育だと考えている。しかし、子どもが本当に力にめざめ、自信をもつのは行動を通じてである。困難や危険を克服したときに、始めて、勇気を自分のものにしていく。大事なことは、子ども自身の力と自信と勇気をひきだし、強めることである。高めることである。自分自身にうちかつ態度を教えることである。禁止の教育からは何も生まれない。危険をおそれるもの、試行錯誤をこわがる者には、力を、自信を身につけることはできない。ことに、時代と社会に対して、人間の力が有効であるということを知るのは、危険や試行錯誤をおそれない者だけである。子どもたちにそういう力と自信を感じさせることが、今日最も必要なことである。
北村透谷を知っているおとな、教師が彼を讃美する。しかし、それは、すでに、中学生時代に実践運動・政治運動に参加した、透谷のすべてを讃美するということでなければならない。透谷のように考え生きようとする子どもたちをつくろうとすることが、透谷を本当に讃美することである。
私には子供がいないために、かつて『若者を考える』という本を書いたときに、子供をもつ父親から非常に攻撃されたことがある。その時、「私の所には沢山の若者がきて、親や教師に語れないような難問を私にぶつけてくるので、ある意味では、親や教師以上に、若者の内面を知っている。若者とともに悩んでいる。君達は親であるということに安心して、子供のことはわかっている筈だと思いこんで、子供を正確に理解しようとどれだけ苦しんでいるかあやしい。子供は悩まない大人を直観的にみぬいて、そんな大人を軽蔑しているのではないか、君こそ、子供をわかっているという不遜な心を捨て去るべきでないか」といったことがある。
今日は、親達にあまりに自信と誇りがないために、子供に確固としたことを言えず、子供をあまやかし、駄目にしていると言われている。他方では、一億総評論家の声におんぶして、教育を評論する傾向もあり、自分の下らない教育評論を子供におしつけている者もあるし、学校教師を軽々しく批判して、子供をだめにしている例もある。
要するに、大人たちは子供の親であるという一事だけで、すべてに軽々しいのである。例えば、第二次世界大戦前までは、社会常識に従って、むやみに子供達に厳格であったし、戦後は民主主義的常識に流されて、これまたむやみに子供達に甘いのである。一として、自分が歴史的、政治的、経済的、社会的存在であることを自覚し、それらの要素を生き抜こうとして苦悶するところがない。もしも、歴史的、政治的、経済的、社会的存在として生き抜こうと苦悶しているならば、当然そのような立場から、子供達も如何に生きるのが好ましいかについて、意見が確立してくるはずである。
その親達に自信がないから、自己確立がないから、断絶ということもおこるし、子供達にないがしろにされることがおこってくるのである。
勿論、常識的意味での断絶ということはおこらないのが好ましい。しかし、真の意味での断絶は、親達をのりこえて、未来に生きる子供達として、当然親達のものの考え方、生き方をのりこえなくてはならないし、断絶があるのが好ましいし、親はその断絶を心から喜ばなくてはならない。しかし、一般に、親達も教師達も断絶がおこっていることをさわぎたてている。あまりにも、常識的断絶と真の意味での断絶を一緒にし、混同している。常識的な断絶はないにこしたことはないが、真の意味での断絶まで拒否して、子供達の未来に生きようとする芽までつぶしてはこまる。
よく、「鍵っ子」は気の毒であり、大変だといわれる。たしかに大変であろう。しかし、問題はその母親の生きる姿勢、働く姿勢が大事なのである。単に、経済生活を豊かにするためにのみ、ぜいたくをするためにのみ、働くというのは不十分であり、唯仕事をしたいというだけでは不十分である。
自分が人間として、歴史的、政治的、経済的、社会的存在として、それらの要素をみたそうとする時は、どうしても、仕事をもつことだと十二分に自覚することである。仕事をもつことは、人間としての義務であり、その点、男も女も同じである。
最近、女の人が男の人に依存し、よりかかる傾向が非常に強く、結婚もそんな形で行われている。それを男も女もともに疑問に考えないようになっている。まさに、逆コースである。だから、ますます、女の人が働くのは生活のためだけになり、自分がしたいという気持だけから働くようになる。
働くということに、人間としての義務感覚、権利感覚がない。だから、子供達に小遣いを与えればよいというふうになる。或は検事としての母親が平気で法を破り、子供を越境入学させるのである。
すべて、母親の生きる姿勢が間接的に子供達に影響するのである。今日、学校教師の中の多くの者は単に子供達に観念的知識をつぎこむことだけで、全ては終わったと考える者が多く、教育とは何よりも生き方、考え方を教えるものだと考えない。日教組まで、それに輪をかけて何とも考えない。父親も母親も生き方を教えることが基本だと考えない。
勿論、父親、母親が人間として生きるということはどういうことなのかという反省、自覚が殆んどないのだから、自信をもって教えられるわけはない。もし、父親なり、母親なりが人間として生きることに精一杯であれば、子供達に一時的不満があろうとも、最終的には、自分が「鍵っ子」であることをわかる筈だし、それを誇りに思う筈である。子供達の理想となれる父母があまりにも少ないということが今日の悲劇である。
人間教育の空洞化をもたらしたもの
最近、人間不在の教育ということがしきりに言われ始めた。また、それと関連して、人間教育のためには感性の教育を無視しては、とうてい、だめだということも、少しずつ、言われ始めてきた。
人間教育といい、感性教育ということが言われ始めたことは、それ自身としては非常にいいことである。明治以後百年、あまりにも、教育は人間不在であったし、感性教育といえば、せいぜい、芸術教育を連想するぐらいのいいかげんさがあった。
だが、今日、人間教育をいい、感性教育をと主張する人々の中にも、教育の重点が師弟の対決、格闘にあることを忘れて、教師自身の人間、感性を問おうとしない、教師自身の人間教育、感性教育を問題としない意見が多い。かつて、二十数年前の戦時中には、今、私が書くことを求められている松下村塾の教育が非常に宣伝された時代があったが、その時も今日と同じように、村塾の教師吉田松陰の人間と感性、松陰が自分自身に課した人間教育、感性教育をほとんど問題にするということがなかった。
教育の主体である教師自身、松陰自身の究明なしに、村塾教育を形式的に学び、それを模倣しようとした。そのことによって、戦時中の教育は、ますます村塾教育と遠ざかったが、そして今日、四十歳以上の人々は、松陰ということばに、村塾という名称に、ある種の抵抗を感ずるようになっているが、それはすべて、松陰の精神を殺し、塾教育を空洞化した戦時中の教育にあった。今日もまた、人間教育といい感性教育ということが、教師自身のそれを問わないことによって空洞化するだけでなく、再び、人間教育、感性教育の典型とみなされる村塾教育が空洞化する恐れが多分にある。すでに、そういう傾向が出始めているし、そういう意見や論調も少なくない。
その意味では、吉田松陰の村塾教育について、あらためて深く考えてみることが、必要になっている。それこそ、村塾教育とは、松陰が自分自身に課した自己教育そのものであったし、自分に課した人間教育、感性教育以外のなにものでもなかった。
全存在として封建社会の矛盾に対決した松陰
ご承知のように松陰は、封建社会の矛盾をもろに全身にうけとめ、その矛盾を解決するために、その短い生涯を燃焼させきった男である。ということは、三十歳で、当時の国家権力によって刑死させられるまで、彼は、彼の全能力をあげて、その矛盾にとりくみ、それを解明し、解明したところのものをよりどころとして、その実現のために、彼の全存在を投入したということである。
そこには、寸分の怠りも許されなかったし、あれはまちがっていたとか、究明不十分だということはいっさい通用しなかった。誤謬はそのままに、死に通ずるきびしい時代状況、政治状況であった。だから、そのもてる力を最大限に活用するしかなかったし、全人間的活動にならざるをえなかったのである。
その矛盾を解明するためには、感性、知性のすべてを投入したし、その実現のためには、感性、知性のすべてを注入したということでもあった。それは、今日、多くの社会主義者やヒューマニストたちが、現代資本主義の矛盾は何々であると、単に、知識として、分析してみせるというようなことでなく、自分の全存在の問題として、それらの矛盾を究明し、それらの矛盾と対決するということであった。
いいかえれば、松陰が封建社会の矛盾ととりくみ、その解決にとりくんだということは、単に、その矛盾を知識として知ったということでなく、彼は、何よりも、深く、その矛盾を全身で怒り、憎悪したということである。矛盾について見きわめるということは、それについての知識をもつということは、彼の怒り、彼の憎悪をいよいよ強め、ますます深めることであったし矛盾をどう解決するかという意見は、彼自身の行動を導くものでしかなかった。しかも、先述したように、一歩誤れば、死に通じていた行動を導く意見であり、思想であったのである。
松陰が、自らを二十一回猛士といい、あるいは、狂気と名づけたのも、封建社会の矛盾とむきあい、それを解決するためには、猛であり、狂気といわれるぐらいでなくては、何もできないと考えたためである。彼が、人間の感情や感覚を重視したのも、あくまで、革命家として生き、生活者・行動者としての立場を貫こうとした結果である。
それに、松陰が、人間教育、感性教育を自分に課したということも、だれよりもまず、彼自身、人間としての誇りと自由を味わえる人間になろうと欲したからであり、封建社会が人間としての誇りと自由を抑圧していることに対して、まず、全身で、怒り、憎む人間にならなくてはならないと思ったからである。封建社会は、人間をゆがめ、人間の感性を殺しているという認識、それにもとづく自覚が、松陰に、人間教育、感性教育を求めさせた理由である。
松陰自身、人間としての自分がゆがめられ、その感性を殺されているという発見が彼の出発点になった。弟子にそれが必要だから行なうというのでなく、彼自身にこそ、それが最も必要だという自認である。
松陰の教育を、正当に理解しようとすれば、彼の、この立場を理解することであり、この点を見落としたなら、松陰の教育の真髄はわからない。
彼にとって、教育とは、自己教育でしかなかったし、そこに、弟子たちがいたとしても、彼をふくめて、弟子たちを教育しようとしたということであり、彼自身、弟子たちといっしょに、封建社会の矛盾を解明し、その解決にとりくむ人間になるという行動でしかなかった。
松陰はもちろん、弟子たちにとっても、その時代にむきあって生きるということは何なのかと問うことが、教育であったのである。
だからこそ、松陰は、「みだりに、人の師となってはならない。ほんとうに教えなくてはならないことがあって、はじめて、人の師となりうるのである」とも言うのである。
デモ・シカ教師といわれるように、自らすすんで、人間と感性を否定している教師に、人間教育、感性教育といっても、それは形骸化する以外にないし、かえって、教育そのものを、なおいっそうゆがめることになろう。
感じ、考え、行動する思想
松陰は、村塾生を入れるにあたって、その子どもがどんなにいたいけな子どもであろうと、まず、何のために、入塾し、何のために、学問をするのかということを問いつめた。彼はまず、入塾生に、学問をする目的、学問をする姿勢を考えることを求めたのである。それは、単なることば、単なる知識でなく、現代に生きる人間として、現代の課題をどのように行動するかを感じ、考えさせる教育であった。
松陰にとって、その時代をいかに考え、いかに行動するかが、最大の関心事であるように、その弟子にも、それを考え、行動することを求めた。生活者、行動者を求めた。単なる物知りというものを最高に軽べつした。とくに彼は、今日、何をすべきであり、何をしなくてはならないかを知りながら、それを実践しようとしない当時の学者たちを最高に怒った。勇気がないために、また、苦難を恐れるために、いろいろの理由をつけて行動にふみきらない学者たちをみたとき、松陰としては、まず、学問をするに当たって、その目的と姿勢を確立させることが必要であると感じた。
志のない学問は最低であるばかりか、世の中を毒し、人々を迷わせるというのが松陰の見解であった。しかも、彼がみた学者たちの多くは、ほとんど、そういう学問をしていた。
だから、松陰の学問は、当時の学者と学問に絶望したところから始まったが、同時に、彼の教育も、彼自身の学問を、さらには、その時代の矛盾を解明し、それを解決する方法をさししめす思想を、その弟子たちとともに追求するところに生じた。その教育とは、その学問に即して、その学問を自分と弟子たちに課することであった。さらには、その教育とは、その学問をよりいっそう、発展させ、創造させる行動であった。それは、松陰が弟子たちといっしょに感じ、考え、行動する思想であり、教育であったということができる。その時、松陰とその弟子たちにとって、学問を離れて教育はなかったし、教育を離れて、学問だけがあるということでもなかった。それが、彼らの教育の立場であり、学問の立場でもあった。
このことは、先述したように、人間教育、感性教育が松陰にとって必要欠くべからざるものであったように、それと同じほどに、彼にとって重要なことであった。厳密にいうならば、松陰が自分と弟子たちに人間教育、感性教育を課するということは、そのまま、彼と弟子たちに新しい学問、新しい思想の創造者になることを求めたということである。
松陰の提出した人間教育、感性教育ということには、封建社会へのアンチ・テーゼという意味があり、封建社会を否定する思想があったということである。それを理解できないものには、彼のなした教育の意味をじゅうぶんに理解できない。
ことに、松陰が歴史教育を通して、単に、歴史的事実についての知識を与えようとしたのでなく、歴史的事実に生きる歴史的存在としての自己を把握させ、歴史を形成する人間として、自分とその弟子たちを作りあげようとしたことを知るならば、その時代における人間教育、感性教育の意味がより明らかになろう。
しかも松陰にとって、歴史を形成する自己の育成ということは、人間と社会と自然を統一的にとらえ、それを発展させるということであった。それに必要な学問をするということであった。政治的行動を起こすための学問、経済的行動、社会的行動を起こすための学問ということでもあった。
その学問は、今日のように、人文科学、社会科学、自然科学と分化してはいなかったが、それは、すべて、人間の行動を支配し、リードするものであった。松陰が志の学問を強調し、勇気にささえられた学問でなくてはならないといったのも、人間の行動を尊び、行動にまで出ていく知識だけを、人間の知識と考えたことによる。単なる知識にとどまって、感性や欲望と結びつかない知識は、真に、人間の知識とはいえないと考えたことによる。
そこから、必然に、感性の教育ということも出てきたのである。
がんこで強引な性格の晋作に対する松陰の姿勢
たとえば、高杉晋作のがんこで、強引な性情をどう教育するかということに、松陰の姿勢が最もよくあらわれている。
普通、こういう性情を長所とみる者はほとんどいない。教師ほど、そういう生徒をもてあまし、そういう生徒をやっかい視する。現に晋作の兄弟子である木戸孝允も、師松陰に、「彼の頑質は、将来、偏狭固陋になり、他人のことばをきかなくなる恐れがある」といって、それを矯正するようにいっている。
しかし、松陰は、そのようには考えなかった。むしろ、がんこで、強引な性情こそ、大事業をなすものに必要欠くべからざる要素であると考えたのである。
だから、松陰は孝允にむかって、
「僕は、これまで、高杉の頑質について、高杉に語ることは勿論、その頑質を矯正しようとしたことはない。その頑質を矯めようとすれば、人間は中途半端になるばかりか、むしろ、後日、大事業をなすにぜひとも必要な意志力を育てないことになる。高杉は、十年後にこそ、大をなす人間である。これから学問していけば、たとえ、人の言をいれないようなことがあっても、その言を棄てるようなことはあるまい。僕が十年後、何かをするときは、必ず高杉と謀議する」
と書く一方、晋作には、そのことについて孝允と語りあうことを告げ、この問題を晋作自身、自分の問題として考えぬくことを求めたのである。
松陰は、晋作の性質、性情を学問との関連で考えたばかりでなく、それが将来、社会人として、生活人、行動人として、どんな意味をもつかということを考えたのである。学問そのものが彼のそういう性質、性情を好ましいもの、なくてならぬものに発展させるとみたのである。
そこに、松陰教育の真髄がある。彼が晋作をみる場合、晋作の知識や性情をばらばらにみるのではなく、どこまでも、人間晋作として統一的全体的にみている。それも、将来の人間としてみていることである。
しかも、松陰が、晋作の教育に最も留意したと思われるもう一つの点をみると、そのことがいっそう明らかになってくる。
すなわち、晋作には、群をぬく識見と気迫があったが、それをいかにゆがめることなく、また、自分におぼれてだめにすることもなく、ますますそれを育て、強めるかということが松陰のいちばん頭をなやました点である。
その時、松陰のとった態度は、晋作のそれらに、久坂玄瑞の才を対置させたのである。それによって、相互に、学びあうことを求めただけでなく、相互に、他の識見・才能を尊重しあう姿勢を求めること、さらには、晋作、玄瑞の両方が人間教育、感性教育という自己教育を、自らに課することを期待したのである。
松陰が自らにきびしく求めたように、晋作・玄瑞がともに、きびしく、自らに求めるようになることを欲したのである。すでに述べたようにそれが、新しい思想を創造し、その思想を実践する人間として、自己を確立するということであったことはいうまでもない。
そればかりではない。松陰は最後には、自ら国家権力と鋭く対決することによって、死んでいくという道をたどることによって、これ以上の重さはないという教育をしていくのである。人間教育、感性教育の極致を実践してみせるのである。
松陰のこのような教育の前には、どんな人間でも、志をもち、勇気をもちはじめる。彼は、どのような人間に対しても、その心に、その意識に革命を大なり、小なり、おこした。
おこさずには、おかないほどに、情熱のはげしい人であった。感情の豊かな人であった。それをささえるのが、豊富な知識であり、思想であった。
自己に課する人間教育、感性教育
ここには、晋作に対する教育しか述べることはできなかったが、すべての塾生に対して、松陰のとった教育は、ひとりひとりの個性に即して、ひとりひとりの実情に即して、そのもてる能力の極限をひきだそうとする教育であった。彼自身の全知、全能をたたきつけることによって、塾生ひとりひとりの魂に能力に、覚醒をあたえようとするものであった。
そこには、何の容赦もなかった。仮借するところもなかった。あるものは、師松陰と弟子たちとの対決と格闘だけであった。弟子たちは、その全存在で、師を批判し、師をつきあげた。師もまた、弟子たちの思想と行動を自分の思想と行動の責任において批判した。文字どおり、そこには、その時代の課題にたちむかう師弟の同学同行があるだけであった。その時代の矛盾を究明するために、その矛盾を解決するために、師弟の切磋琢磨があるだけであった。切磋琢磨せずにはいられなかったというのが、本音であろう。
そこに、人間教育、感性教育が存在しないはずはない。
いうなれば、自己に課する人間教育、感性教育はそれ自身目的であったが、他人にやる人間教育、感性教育は結果にすぎなかったということである。
だから今日、必要なことは、人間が、人間の感性が、どのような危機にたっているかを、ほんとうに知ることから始めなくてはならない。それを考えない人間教育など全く意味がない。
一
人間と人間の出会いがもつ意味はかぎりなく大きい。どういう人物に出会ったかは、その人の一生を支配するほどに、探いかかわりをもつ。ことに人間形成・思想形成をしていく上で、最も重大な時期にある中学生時代に、どんな人間とめぐり会い、そしてその人間から、どんな考え方、生き方を学びとっていくかということは、その少年にとって、決定的であるとさえいえよう。
しかし、その出会いから、いいものを学ぶとはかぎっていない。むしろ、わるい影響をうけることが多いということを知るなら、この出会いということについて、どんなに考えても考えすぎるということはあるまい。とくに、教師としては、なおさらである。
しかも、その教師自身が、人間と人間との出会いを初めて自覚的意識的にうけとめることのできるようになった中学生にとって、多くの場合、最初に出会う人であるということを気づかない場合が多いのではなかろうか。
中学生は、教科を教えてくれる教師というほかに、一個の人間として、現代をどう考え、その中でどう生きるかを考え、生きつづける者としての、人生の教師であることを教師に求めるのではなかろうか。また、そこにこそ、人間不在でない教育、血の通った師弟関係が成立するのではなかろうか。
このように考えるとき、今日の教師の中の幾人が、果たして自信と誇りをもって中学生にとっての最初の出会う人であっても大丈夫だといいきれるか。人生の教師だと誇らかに断言できるか。
二
たしかに、教師自ら、時代の子として精一杯考え、生きることを通して、中学生のための人生の教師になるということが最も重要である。しかし、同時に、教師が教育者として直接に学生をどう教育するかという課題は、どこまでも厳然として存在することである。それは、単に教科を教える教師ということでなく、その教科を通じて、どんな人間、どんな現代人を創っていくかという問題である。人間を素材として、どんな理想的な人間像を創っていくかということである。
そうなると、教師というものは、芸術家でなければならなくなる。ことに、中学校の教師という者は、中学生の人間形成、思想形成というものを考えたとき、小学生はもちろん、高校生、大学生よりも重要な時期にあるから、その芸術家的役割をいよいよ多くになっているということにもなる。
普通、小学校、中学校の教師は、専門職であるべきだといわれているが、実際には、一部の教師を除いては、そういう識見もないし努力もしていない。その覚悟をもっている者も少ない。それは、小・中学校の教師が、大学の教師に劣等感をもっていることでもあきらかである。
もちろん、教師が専門家であるというのは、教科の専門家という意味でなく、教育の専門家ということであり、大学の教師は、教育ということでは、非専門家だということである。教育の専門家ということは、厳密には、その識見を駆使できる能力をもっているということであり、芸術家的眼と姿勢をもって、素材である子どもたちにむかうということである。芸術家は、その出来あがりに、全責任をもつ。
それこそ、小・中学校の教師は、専門家だという意味以上の重さを、私は、芸術家だということにおいて、教師に発見する。それは、専門家であるべきでありながら、専門家でなくても教師という職はつとまると考えている教師自身に、また文部省に反省を求めたいためでもある。というのは、教師は、その識見と姿勢を欠くならば、素材である子どもを次々にだめにするということである。現に、子どもをだめにしている教師は多い。
三
戦後、二十三年間、良心的な教師は、子どもを再び戦場に送るなということを合言葉にし、攻めとしてきた。子どもを殺すなと強調してきた。しかし、子どもを戦場に送らなくても、戦争で殺さなくても、子どもを精神的に殺し、だめにするような教育はいくらでもある。受験教育一つを例にとっても、そのことはあきらかである。そういう心の死、精神的死、思想的死を考えることが、子どもを戦場に送るなという以上に、まず必要なことである。教師が、そういう心の死、精神、思想的死を、子どもの中におこさないためにこそ、教師はすべて芸術家でなければならないと思う。芸術家である必要がある。芸術家として、その自覚をもつなら、鋭く、敏感に、素材としての子どもをだめにした場合、全身でその痛苦を感ずるであろうし、粗末な作品、心や思想が死んでしまっているような子どもを、平気で社会に送りだしはしないであろう。そのときは、教師という仕事をやめるはずである。今日の教師には、その厳しさが必要である。
教師が、芸術家であるということは、専門家であるという以上に困難で、厳しい。今日のように、自己研修の暇もないような教師には、芸術家になることは縁遠い。しかし、それにむかって、努力することが切実に求められている。それが、教育界の課題でもある。
教師が芸術家となり、あるいは、芸術家への道を求めて、必死につとめはじめるとき、そしてそんな教師が中学生の最初の出会いの人として登場するとき、中学生にとってどんなにすばらしいことか。中学生の人生をどんなに実り豊かに充実したものにすることか。それははかりしれない。今の教師に必要なことは、外に求めること以上に、自らの中にむかって、強く、激しく求めることである。
欠陥の多い現代の学校教育
中教審は、今回の報告の中で、
「広く人材を教職に誘致するため、それらの者のために、一年程度の教職専門課程を設け、その教育によって、正規の資格をあたえる。
また、それらの機関で、その課程を履修しない者に対しても、期限つきの免許をあたえ、一定期間の教職の経験と再教育を経て、正規の免許をあたえる。
一般社会人で、学識経験において、学校教育へ招致するにふさわしい人材を受け入れるため、検定制度を拡大する」
ということをいっている。もちろん、そのためには「すぐれた人材が、すすんで、教職を志望することを助ける意味で高い給与をあたえなくてはならない」ということも書いている。
中教審の真意がどこにあるかはわからないが、たとえ、また、その真意が他にあったとしても、すなわち、日教組の分断政策等にあったとしても、こういう方針をうちだしたことは画期的なことである。現実に、一般社会から、人材を導入でき、現在の行き詰まった教育に新しい空気をつぎこむことができるならば、全くすばらしい。
それほどに、現在の教育は、今日のめまぐるしい社会の変動、発展から取り残されているばかりでなく、子供たちからでさえ、見捨てられているという状態にある。それでいて、現在の教職員の中には、それに対応し、教育に生命を回復させようと全精魂をかたむける者はあまりにも少ない。彼らは、相変わらず、長い間の閉鎖的世界の中に安住してしまっている。
ここ数年来、一般社会では、学力ということが鋭く問いなおされ、さらには、人間教育とか、人間性の教育とかが強調されておりながら、その声をうけとめて、学力や人間教育について、深く考えていこうとする教師たちもいたって少ない。それというのも、教師たちは、学校という閉鎖的世界のなかで、ただ、子供たちを試験でおどし、成績で支配できるために、本当の意味で、子供たちからつきあげられることもなかった。その父兄からもほとんど批判されることがなかったためである。いってみれば、ぬるま湯の中に浸っていたのが教師たちである。
彼らは、そういう世界に生き、そこに、なんの疑問もいだかなかったから、子供たちが現代社会に生きていくために、本当に必要な能力、学力が、ペーパー・テスト的能力でないことも気づかなかったし、子供たちが現代社会にたちむかって生きていくためには、一つの単語的知識よりも、現代人としての生きる姿勢を学びとることがずっと重要であるということを考えることができなかったのである。
その意味で、いま、中教審の報告にしたがって、一般社会から新しく、教員を導入できるならば、これまでの学校という閉鎖的社会がうちやぶられるだけでなく、教師たちのぬるま湯的生活姿勢も打ち破られることになろう。一般社会のもつ、きびしさというものも、どんどん、入ってくるであろう。
それはじゅうらい、学校社会と一般社会があまりにも遊離し、断絶していた状態を克服することにも役立つであろうし、学校社会だけで通用するペーパー・テスト的能力で、多くの人たちを劣等感におとしいれるということもとくになくなっていこう。
要するに、これまでの学校教育は、ある一部の者に優越感と自信を不当にあたえるとともに、大多数のものに、いわれのない劣等感と自信喪失をもたらした。現代人を不幸につきおとしたのが、学校教育といってもよい。
一般社会で必要とする、多様な能力。それを考えると、学校教育は、あまりにも、人間の能力を浸してきたし、さらには、人間のかくれたる能力を開発していない。これほど、悲劇なことはない。
必要な教育改革の情熱と識見
しかし、中教審の報告にも無条件に喜べないものがある。ことに、採用条件に教職課程とか資格とかを重視することによって、一般社会から導入する人間を、古い意味の教師のワクにはめていくのではないかと心配になってくる。
中教審の考える「すぐれた人材」とは、どういう人間を意味しているのであろうか。学校教育に誘致するにふさわしい人間とは、どういう能力をもった者と考えているのであろうか。
さきにもちょっとふれたように、日教組対策として、文部省や教育委員会のいうままに、ただおとなしく、教育活動に専心する人間、現代とは何か、現代に生きる人間とは何かを少しも考えようとせず、与えられた教材をそのまま子供たちにおしつけていく人間を考えているとすれば、全くおかしなことである。
そういう人間を、教育界に導入すればするほど、いよいよ、教育は混乱し、停滞する。そういう人間には、学力とは何かについて本質的に考えることもできないし、生命の通った人間教育ができるわけもない。
そういう人間は、現代人として、すでに死んだも同然で、彼らには、全く、学力・能力について、人間教育について、問うという姿勢もないのである。
学力について、人間教育について、本格的に自分自身に問いかける人間というものは、何よりも、現代に生きて、その課題にたちむかい、悩み、苦しみ、悶える者である。だからこそ、また、学力について、人間教育について、考えることができるし、考えないではいられないのである。
かつて、最もすぐれた教師といわれたペスタロッチにしても、彼は、べつに教職課程を正規におさめた者ではない。彼をすぐれた教師にしたものは、燃えるような子供への愛であった。また、最高の教師であったといわれている吉田松陰にしても、その時代の課題を解明し、解決しようとする捨て身の情熱があっただけである。
燃えるような愛、時代の課題に全面的にとりくむ情熱、それが、彼らをすぐれた教師にした。それこそ、そういうものがあれば、子供たちの前に教師としてたつとき、自然に、教育技術も、学識も身につける。身につけざるを得ない。
だから、一般社会から誘致したい人材、学校教育に招致するにふさわしい人材とは、ペスタロッチのような人であり、吉田松陰のような人であるのか、それとも、先述したように、文部省のいうことをただ、実践する人をさすのか。
この点を、あきらかにする必要がある。たとえ、ペスタロッチ、吉田松陰のような人をささなくても少なくとも今日の学校教育をなんとかしたい、なんとかしなくてはならないという思いを胸一杯にもっている人が教育にとっての人材であり、学校教育に招致したい人材ではあるまいか。今日、必要なのは、現代の学校教育をなんとかしたいと考えている情熱であり、識見である。そういう情熱、識見を評価できる試験方法を考えればよいのであって、それ以外は、全く、枝葉末節である。けっして、これは、いいすぎではない。
教職課程とか資格とかは、一応、教員採用の目安になるにしても、それが重視されていては、一般社会から人材を迎えることはできまい。そういうことがわずらわしくて、教員にならなかった者も世の中には多い。ことに、そういうことが支配している窮屈な世界、そこにいや気をかんじた者は多い。
学校社会に、人材を迎えようとすれば、そういう考え方を払拭することが先決なのではあるまいか。
“ぬるま湯的”存在の教師たち
学校社会ほど、一定のワクにしばられているものはない。教職課程とか、資格とかにしばられた上に、さらに、聖職者的意識で、最近、またも、しばろうとしている。これでは、よほど、高給でも集まるまい。しかも、低給となれば、教師にどうしてもなりたいと思う少数の者と、教師になるしかない多数の者で占められることになるのもムリはない。
それに、もっとわるいことには、学校社会は、一般的に、冒険とか実験をきらう。そういう試みをしようとする教師を学校から追い出す傾向がある。もちろん、一般社会にも、そういう傾向がないといえないことはないが、学校社会は、とくに、それがひどい。その時、そういう教師をはじきだすのは、教師たちのぬるま湯的生活姿勢であり、教職課程の中で学びとった形式的退嬰的教授法であり、教育委員会の事なかれ的人事である。
彼らはあまりにも、事なかれを欲する。混乱が発展をもたらし、動揺が前進をもたらすということを考えない。教育活動には、混乱や動揺が必要不可欠であることを知ろうとしない。教育に、生き生きとした生命をあたえるのは、対立であり、疑問であり、苦悩であるということをわかろうとしない。彼らは、みずから、ぬるま湯に入っているごとくに、子供たちをぬるま湯にいれようとする。ぬるま湯の中でのみ、教育効果はあがると考えている。
しかし、現実の子供たちは、激しい対立の中にいて、その疑問、その苦悩をもろにうけとめている。混乱と動揺のなかに、終始、生きている。そこに子供たちからでさえ、学校教育が軽視される理由がある。現実の生きた子供たちにとって、教育が無力であるのもそのためである。いまや、学校社会に、混乱と動揺、対立と疑問と苦悩をもろにもちこむ必要がある。そして、教師がそれにとりくみ、冒険し、実験できる空気を積極的につくっていくことが必要である。
おそらく、一般社会から学校社会に転職したいと考える人たちが出るとすれば、そこに、自分が主体的に活動し、自由に冒険し、実験できるという期待がもてる時であろう。主体的に生きる自由もなく、冒険や実験の自由もないところには、ただ古き教師生活のワクにはめこまれるところには、教育に対する魅力はおこらない。
ことに、情報社会の進展とともに、一大管理社会ができ、人間の自由は失われるのではないかという不安の中で、人びとの中には、それに抵抗するものを模索している者があるし、教育に、その最後の砦を発見しようとする者も出はじめている。
教育界に、人材をむかえいれるという条件はでき始めている。そればかりか、週五日制の実施で、一日、二日、講師として、学校につとめることも可能になっている。彼らは、そこで、家庭で休息する以上に、元気を回復するということもできる。
今日、最も必要なことは、教員に対する待遇をよくする以上に、その職場を魅力あるもの、希望のもてるものにすることである。やりがいのある仕事にすることである。
その意味では、今日、あまりにも、教育というものは、人びとに魅力がないし、ほとんど、窒息寸前にある。そこにあるものは、妥協と無気力と無情熱である。そういう社会に最も青年らしい青年教師が、一般社会でもおおいに歓迎される人材が、はたしてくると、中教審は本気になって考えているのであろうか。
まず教員の充実と養成が先決
中教審の考えるように、一般社会から、人材を積極的にむかえようとすることはいい。しかし、必要なことは、先述したように、教育にとって、どういう内容と姿勢をもつ者が、真に人材かとはっきりと打ち出すべきである。
ペスタロッチや吉田松陰を志向する教師か、現在の文部省的見解を唯々諾々と実行する人間かということをはっきり明記すべきである。そこにおのずと、教師採用試験もはっきりしてくる。現行の教職課程がいかに形式的で、中途半端であるかを認識できない者には、今日の教育を語る能力はない。
かつて、広島文理科大学学長であり、ペスタロッチ研究の第一人者であった長田新氏は、
「教育学や教育哲学をよむよりも、すぐれた文学書をよむ方が、どれだけ、プラスになるかわからない。そこには、鋭く、深く、人間観察があり、人間研究がある。しかも、文学を読む喜びの中で、自分自身の人間観察・人間研究を具体的に深める。人間関係と人間愛を教えてくれる。人間愛を自分自身をたかめることのできないような教育哲学書は、いくら読んでもプラスにならない」
というようなことを語ったことがある。
少なくとも、長田は、教師には、何が一番重要であるかを知っていた。それに反して、中教審は、形式のみを重んじて、真に、教育を考えようとしない。今日の教師がどうすれば、生きかえるかを考えていない。今日の学校教育にどういう教師が必要であるかも考えていない。
たとえ、検定制度を拡大しても、試験制度の弊害があり、人間愛について語れても人間愛をもつ人間はでてこない。そういう試験制度では、人材は導入できなくて、少しばかり、ペーパー・テスト的能力のある者を採用できるだけである。
ペスタロッチ的、吉田松陰的教師は、そこからもれていく。いちばん必要な教師が不採用になる。それこそ、教育界の外には、教育者にふさわしい人間、ペスタロッチ的、吉田松陰的人間が数多くいる。その多くは、学歴の不足とか資格のないために、そのままになっている。もしも、今回の中教審の報告が抜本的なものであろうとするなら、なにはさておいても、教員の養成確保に、思いきった対策を打ち出すべきである。
それに、一般社会からの人材導入にしても、現行教育の改革、発展のためには、ぜひとも、それが必要であることを強調すべきだし、さらに、形式的な学歴に関係なく、人材を導入することを明記すべきである。
なによりも、中教審が、じゅうらいの学校教育が時代の進展についていけなかったこと、そこで学んだ知識が時代おくれになったことを強調しながら、そして「生涯教育がいかに重要であるか」をいいながら、教員採用にあたっては、相変わらずその学校教育の履歴にとらわれ、みずからに生涯教育の課題を課している人間の能力、学力を問おうとしない。全く、矛盾している。そういう矛盾をしめして、平然としている。
これでは、本当に中教審が報告書にも書いているように時代の試練にたえ、正しく生きるためには、自主的に充実した生活を営む能力、実践的な社会性と創造的な課題解決の能力をそなえた健康でたくましい人間を育成しようとしているとは思えない。
中教審は、いま一度、じゅうらいの学校教育が、人びとにとってなんであったか、生涯教育は、いかなる意味をもつか、また、現代社会に人びとが生きていくためには、何が必要であるかを、真剣に考えてみることである。そこから、はじめて、どんな教育が人びとに必要か、そして、その教育を実現するためにはどんな教師が必要かということも出てくるはずである。
そうすれば、教育制度の改革よりも、教育内容の改正よりも、教員そのものの充実と養成が第一に重要であることがわかってこよう。
教師は社会一般から尊敬されていないということが、よくいわれるが、教師を軽視しているのは、文部省であり、中教審であり、教師自身である。
独立への意欲
人間は誰でも独立を望んでいる。独立の精神を持つことによって、人ははじめて、本当の人間になり得るものだということもできる。つまり、独立の精神を持たない者は、人間としての中身を持っていないということでもある。だが、独立したいという望みは、ほんの小さな子どもの頃から、はっきり持っているものである。まだ、やっと歩けるようになったか、ならないかの幼児でも、他の助けを嫌って、一人で歩く喜びを味わおうとしている。
精神的に、自分で独り立ちしようという意欲が、はっきり現れだす時期は、人により、育った条件により、かなりな相違があり、その内容も、強弱も、まちまちである。だが、たいていは、いわゆる反抗期といわれる十二、三歳から十五、六歳の頃である。反抗期とは独立への希望の現われでもあるのだ。それまで、殆ど親や教師の云いなりになり、云い方を変えれば、それらの保護者や指導者に全面的によりかかってきた生き方から脱け出し、自分なりの考えなり、意見なりを持ち、それを行動の規範にしようとしはじめたことが、反抗という形をとっているのである。つまり、自己主張をはじめたということである。その主張する内容が、十分にすぐれたものだとか、親や教師の見解以上だなどという自信を持っているわけではない。また親や教師の見解に常に反対だというわけでもないが、何にもまして、自分の意見や考えを主張せずにはいられなくなるのだ。自分を主張したいということは、自分の中の、独り立ちしたいという強い意欲にかられてのことである。自分で考えたい、自分の考えによって生きたいという強い願いが、自己主張や反抗に押しやるのである。
この時期に現われた独立への意欲をどう育てるかが、本当に独立精神を持った、人間らしい人間を作り上げるかどうかに、大きく関わってくる。そしてそれは、一人一人の人生を大きく支配する。だが残念なことに、この時期に誰もが芽生えさせる独立の意欲を押えつけ、むしり取ることが、子どもの周囲にはあまりにも多い。独立への意欲が、親や教師に反抗するという形をとる時、最も明確に、最も強烈になるために、子どもは大ていそういう形をとるし、親や教師は、それを同一の平面上で、ただ力で押し返すことになりやすい。そういう愚かで無力な大人達が多すぎる。その結果、多くの子ども達は、改めて依頼心をもつこととなり、もたれかかりの生活に舞い戻る。いくらかの子供は、よけいに反撥心をかりたてて、何が何でも無茶苦茶な反抗にのめりこんでいく。
この過程は誰にでも経験があるはずだ。小学校や中学校の時代に、ワンパクで意地っ張りだった少年で、大きくなって成功した者が、かなり多いのも、彼等が、そのワンパクや意地っ張りの中で、形をかえてその独立への意欲を守り続け、あるいは育てあげたためだといってよいだろう。独立への意欲は、激しい競争の中で伸ばされる場合もあり、圧迫や屈辱の中で鍛えぬかれることもある。また逆に、そういう状況が、独立への意欲を骨抜きにする場合も少なくない。そこに人間精神が形成されていく難しさがあり、簡単に、こうすればこうなる。ああすればああなるとは云えない。勿論、独立の意欲を燃え上がらせ、育てるきっかけは少年時代だけではなく、人間の成長過程の中で、何度もある。結局、各人が自分の責任において、自分の精神をつくりあげるほかはないのである。
人間としてまず独立すること
現代の状況では、少年時代の独立への意欲を十分に豊かにそれも強力に育てあげることもできないままに青年期を迎える人達が多い。あなたも、その中の一人ではないだろうか。独立の精神が人間の中心であり、それを豊かに、かつ強力に育てるために大学教育というものがある。しかもその教育を受けることもなく、中学、高校を出るとすぐ、職業につかざるを得なかった人々は、自分が人間として独立するということが、どういうことなのかを、明確に知らされていない。どういう独立が、自分に最もふさわしいのか、そのためにはどんな能力や識見が必要であり、それはどうすれば自分のものになるのかを、考えることもなく、職業につかされている。
勿論、大学教育を受けた者が、必ずしも人間としての独立精神を豊かに、それも強力に育成できるとは限らない。むしろその学歴を持つということに寄りかかって、かえって独立の精神を弱め、大企業へ、有名企業へと、もたれかかって生きていく者の多いことは、誰もが見ている明白な事実である。そして、大学教育を受けなかった人々の中に、その不遇への怒りややりきれなさを通して、独立の精神を強烈にしている者が多く見受けられる。
ここで当然、人間として生きるとはどういうことであり、どういう生き方が幸福であるか、意義があるかということが問題となってくる。「寄らば大樹の蔭」というような、ケチな根性で生きようとしている人達は、この際、少なくともこの文章の対象にはならない。これまで、何時も半独立しかなかった、半独立しか与えられなかった人達のなかで、今こそ、人間としての本当の独立をかちとらないではいられない、そういう気持の人達と共に、その展望と準備について考えてみようとするのが、この一文である。
では、そういう人達にとって、人間としての独立とは、一体どういうことなのだろうか。ここで私が常に問題にしている独立とは、精神的独立であるが、精神的な独立も、経済的な裏付けがなければ完全に成立はしない。経済的には無力だが、精神的には全く独立しているということは、かなり特殊な場合にだけいえることで、一般にはいえない。だから、経済的な力が弱いと、精神の独立は常におびやかされる。反対に、収入の多いサラリーマン達は、月給が高いばっかりに、この高給を失いたくない、とか、ここに勤めてさえいればという気持から、殆ど精神の独立を放棄するような結果を生んでいる。経済の自立なしには精神の独立は危い。勿論、精神の独立が経済の自立性を強めるし、経済の独立によって、精神の独立はいよいよ光彩を放つものである。
とすれば、あなたが今日独立するということは、あなたが働く企業そのものを、企業として確立させるということ、あなたの独立の精神を駆使して企業を発展させること、あるいは、新しく自分で企業をはじめることである。この場合、その中のどれを選ぶかということは、あまり問題ではない。問題なのは、どうやって選び、決定するかということであろう。それは、その時の社会の状況、業界の状況、そしてあなた自身のおかれた条件によるとしかいえない。何が何でも、企業をはじめるんだとか、今の仕事から出ることは絶対にできないなどと、一つの方向にとらわれることは、あなたの独立の精神が、その独立性を失う時であり、成功から見放されることでもある。何より大切なのは、それらの状況や条件をはっきり見つめることのできる、独立した精神だといえよう。
小企業に働くものだけが味わえるもの
資本や従業員の少ない小企業で働く人々にとって、月給から厚生施設に至るまでの条件は、大企業で働く人達と比べてたしかに悪い。将来性も、一般的には悪いといってよいだろう。このことは小企業で働く人達を喜ばせたり、楽しませたりすることではない。それどころか、やりきれない、つまらないことに違いない。だからこそ、誰でも、もっといい所に勤めたいと、小企業からの脱出を願っている。
だが、多分に独立の精神を持ち、人間として生きるということは、どれだけ独立した人間として生きるかということにあると考えている人にとって、小企業に働いていることは、かえって愉快なことでもある。月給が安く、将来性も少ないという条件は、人間の独立心を強めてくれるものでさえある。こう考えることは、一寸、負けおしみの感がしないこともないが、この負けおしみの気持こそ、独立の精神に通ずるものであり、それは決してウソではない。それに、大企業では、仕事はあまりに多岐に分化しすぎていて、到底、企業そのもの、経営そのものを知ることもできなければ、考えることもできない。それができるポストにつける者は一にぎりの幹部候補の社員でしかない。それが、小企業の場合、誰でも容易に、企業そのもの経営そのものの全体を知ることができる。むしろ、分化されていない小企業では、あらゆる部門についての知識と能力を求められ、知識や能力に応じて、自分の職能を伸ばしていけさえする。現場の技術者としても、部分品を機械的につくることに終らないで、その製品全体の工程についての知識と能力を求められる場合が多い。町工場では、事務、販売の能力と技術能力の両方を学ぶことさえ求められることがある。
最近のように、大企業、大企業へと集まる傾向の強い時に、進んで小企業に投じた者が優遇されるのはいうまでもないことだし、たとえ、初めはしかたなく就職した者でも、そこで真剣に仕事にとりくみ、能力を発揮すれば、容易に認められ、抜擢される。それは、貴方にとって、貴方の経営能力なり、技術力なりをみがいていく機会であり、これほどいいチャンスはない筈である。
新しく企業を始める場合に必要な能力は、小企業においてこそ、最も身につけやすいということがいえる。またもし、新しく企業をおこさない場合でも、貴方の能力で、比較的容易に、その企業の中堅幹部となって、精神的にも経済的にも独立した生活を送れるようになるはずである。
資本と経営の分離は大企業にだけおこっている現象ではない。小企業もまたその方向にむかわないかぎり、大企業の攻勢を防ぎとめることはできない。大企業との競争にたえぬくために、小企業の共同化、協業化がすすめばすすむほど、資本と経済の分離は進む。その時に必要なのは、能力のある人間である。その能力とは協同する幾つかの企業をまとめ、統率していける能力、時代の動きを見通し、見越して、大企業の攻勢に先手を打っていける見識と手腕である。それに適切な人を得なければ、協同した幾つもの企業は共倒れとなる。その時に、自からその役を買って出られるだけの準備はしておくべきだろう。
一つの企業を背負って立てるだけの力、協同の事業を引きうけられるだけの知識、それらを身につけるためには、一にも二にも勉強である。技能が中心となる企業ならば、有能な技術者になることが必要である。まず、自分が受持った仕事について、十分な知識と技術をもつこと、次にその企業内の他の部門について精通し、更に、業界の現状を知るというふうに、その輪をひろげていく。小企業とは、そういう勉強が比較的容易にできるところである。
相棒を発見することの重大さ
勉強が大切なことはいうまでもないが、社会で独立して企業をやっていく場合に、勉強以上に大切なものがある。その一つは、独立の精神だが、今一つは仲間である。相棒である。相談相手とか助言者もその中にふくまれる。所謂学歴とか、資本のない者にとってはなおさらそういうことがいえる。人生における成功の半分近くは、いい仲間をもつかどうかにあるといってもいいすぎではない。勉強を効果的にするかどうか、生きた勉強にするかどうかという場合でも、相棒の質と能力が大いに影響する。相互の批判協力による収かくばかりか、三人の相棒がいれば、自分では一冊しか買えなくても、四冊の本を読むことが出来る。相棒の知識と体験は自分の知識と体験ということができる。
時間をかけて、忍耐強く、相棒をさがし、相棒をつくることである。そのためには、できるかぎり、気を使うこともよい。それは、投資でもある。自分を人間として改造していくことでもある。人と協調しながら、他人の能力を認め、その能力をひきださせる能力を身につけることにもなる。
あなたにとっては、すばらしい仲間や先輩を発見して、それを人生の相棒にしたいという気持よりも、恋人を求める気持の方が切実かもしれない。仲間とお茶を飲むよりも、恋人とデートしたい気持の方が強いかもしれない。恋人を求め、恋人とデートするのもよい。うんと求め、うんとデートすることである。だが大事なことは、それにおとらぬほどに、相棒づくりに一生懸命になることである。友の会や“交流”はそのために十分に活用されていると思うが、これまでは、お互にはげましあい、学びあう友達を得る段階から、今後は、お互の職業の面で、更には、将来独立して新しく始めようと考えている事業のことで、力になりあえるような友達を発見するのに活用する方向もでてきてよいのではないかと思う。計画なり、展望なりを交換しあう友人から、一歩進んで、共同して、事業を始めるような仲間ができても不思議ではないどころか、そういう仲間が、次から次と、どんどん生まれてこなくてならないと思う。
“社会人”という雑誌が、人生の相棒を得るための手段としてもっともっと利用されていいと思うし、そのために、もっと工夫されなくてならないのではないか。
計画をたてて独立を考えよう
企業の中で、あくまで中堅的存在として活躍するか、新たに自分で企業をおこすかについては、慎重に検討をする必要がある。その際、親や教師から推められるままに、自分の適性能力も考えず、企業の将来について考える暇もなく就職した人達には、特に、じっくりと考えてみてほしいことがある。それは現在の仕事が、自分にむいているかどうか、どこで自分の能力が最大限に生かせるか、そしてこの企業が将来性があるかどうかである。
自分の能力や特性に応じた選択をするために、これは是非ともやってほしい。自分の能力を立派に使いこなせないようでは、資金も人も、生かして使うことはできまい。たしかな見通しもなく、また自分の実力もかえりみずに独立にふみ切っても、失敗するのはあたりまえである。特に企業としての競争力をつけるために、企業が大型化していくのが時代の要請でもある今日、何が何でも独立するということは無謀というほかはない。
どうしても独立という結論を得たら、その独立を、どんな企業で、どんな規模、形式でやるかを考えてみる。それぞれに整えられる資金額のわくもあり、業種による違いも大きいから、一概には云えないが、企業によっての適正規模というものもあるし、小資本でやれるもの、小規模の方が好ましいものもあろう。地域の特殊性も十分考えに入れなければならない。将来性も当然、よく考えねばならない。
これまで、こういう仕事をしてきたから、その仕事を始める。この仕事を始めるほかはないというような、考え方には感心できない。そういう姿勢では、将来はあまり期待できない。同じ小売店にしても、扱う商品によって、その将来性は種々様々だ。目に見えて駄目になっていく商品の種類もある。デパート攻勢の前に、小売店そのものの経営のやり方も、どんどん変わってきている。いや変わらざるを得なくなっているのだ。小売店はスーパー化するか、専門店化するという二つの方向に、はっきり分かれてきている。時代がめざましく動いている時、新しく小売店をおこすということは、大変なことである。商品の種類もめまぐるしくかわり、購買客の人々も流動が激しい。
私の家のある所は、この四、五年の間に急激に人口のふくらんだ郊外住宅地だが、急激にふえた人々を目ざして、商店も続々とでき、そのうちの十軒近くは、半年から、一年ほどの寿命が保てず、さらに何軒かは、二、三年で消えて行った。新しく店を開くということは大変なことだが、それを続けて行くことは、もっと大変だともいえる。開店の計画はともかくとして、その後の経営の計画の貧弱なもの、そういう計画しか用意できなかったものが、潰れていくのである。
何にしても、どんな企業を始めるかについて、綿密な研究がなくてはならない。今日思いついて明日始めるという性質のものではないのだから、十分な時間と労力をかけ、できるだけ多くの人、先輩等の意見もきき、本も読み、資料を集めて判断を下すがよい。
考えた上にも考えて、一つの業種を選んだら、それをどういう形ではじめ、どうやって経営していくかについて、また、よく考えなければならない。何から何まで自分一人でやるか、兄弟か友人と共同してやるのか。共同してやるとしたら、それぞれが準備の段階で分担することも違うし、企業の中での各人の役割、責任の所在なども、十分に確かめあわなくてはならない。
資金をどうやって作るか、どこで開業するか、企業の形式はどうするか、収支のバランスは、取引きの相手は等、独立の計画が具体化するに従って、計画の内容は複雑になってくる。計画が綿密であることは望ましい。けれど、その綿密な計画にふりまわされ、がんじがらめにしばりつけられないだけの自主性を持つことも大切である。
人をあてにしない資金づくり
何といっても、新しく企業を始めようという時に、一番大変なのは資金の用意であろう。独立して仕事を始めたい、それに必要な準備はみなできているという人でも、資金のめどがつかないために独立できないでいる者は多い。親や親戚、友人などが出してくれるなら苦労はない。勿論、資金を出してくれる人が納得して、進んで協力しようという気持を持ってくるまでには、説得方法の工夫や努力も必要だ。しかし多くの人達には、そんな親や親戚、友人がいるわけもない。そこで、何とかして資金をひねり出さねばならないことになる。最も簡単で……いや実は一番辛いが……確実な方法は、自分の現在の収入の中から可能な限りたくさん、貯えていくことである。多くの志を同じくする人達が、この方法で、大方の資金をまかなった。現在もまた、多くの人が、食べたいものをがまんし、着たい物も着ず、見たいものも見ないで、一生懸命、僅かずつのお金でも、貯えている。まず天引貯金、その上につもり貯金、何とか貯金など、現に実行している人も多いだろう。資金として必要とする以上、一円でも多い方がよいに決まっている。
一日でも早く出発したい気持も強いのは当然だ。しかしそのために健康を損ってはならない。それと同じように、その時代に見なければ、身につけなければならない、かけがえのない経験となるべきものも少なくない。何も彼も犠牲にしなければ不可能なほど、独立の計画そのものが厳しいことであるのは承知の上で、少うし、ほんの少し、心にゆとりを持って賢明にとすすめたい。
一定の金額になった貯えは、計画的に保存利殖の方へ向けていかなければならない。銀行の定期預金、定額預金、貸付信託などの方法から、株、公社債の購入、投資信託などもある。土地の購入ということも考えられよう。少しでも利潤の高いものを調べ、安全確実なやり方を探すべきだ。利幅に眼をひかれて、危険なものに手を出すことだけは、意識して避けるべきだろう。最近では、開業資金を必要とする人々のために、何年間でどれだけ積んだ者には、いくらいくら貸出すという制度も、信用金庫に生まれている。
開業の見通しとか、開業資金の問題では、都民相談室(各県にも、だいたいそれに相当するものがある)、商工会議所などで相談する方法があることも、知っておいてよいだろう。
2 大学の再生をめざして
私は戦争中から戦後にかけて、大学教育をうけた者の一人であるが、その教育期間を通じて、一度も政治教育というものに接しなかった。それは、政治思想を含めて、政治的意識をめざめさせるような大学教育はまったくうけなかったということでもある。そのために、私たち戦争世代の多くは、戦争中、政府の命ずるままに戦争に行くだけで、政府の戦争政策を批判できるような能力も姿勢ももてないままに死んでいくしかなかったし、戦後はその反動として、大学外の政治指導を盲信して狂奔し、はては、その空しさ、その愚かしさを知って、政治的無関心におちこんでいった。
二十数年後の現在も、政治的存在としての自分にめざめ、すぐれた政治活動をおしすすめている者は非常に少ない。
そのことは、今日、大学の教授・助教授の位置を占めている戦争世代が、学生たちのつきつけている問題を正確にうけとめ、解決の方向にむかって、大きく前進できないことで明らかであろう。いってみれば、一昨年十月から以後、学生たちが教授・助教授につきつけている問題は、現代人としての学問はどうあるべきかということに尽きている。
いいかえれば、政治的存在としての人間の学問はどうあるべきか、学問そのものにはどう取り組むべきかということである。教授・助教授は、政治的存在としての自分自身を忘れていないか、政治的存在としての自分を忘れたところに成立する学問は、現実への有効性をもてないのではないかという問であるといってもいい。
このように考えると、今日の学生たちがつきつけている問題は、まったくまともであるし、戦後の大学教育は、どうして、政治教育を真正面からとりあげられなかったのかと思う。戦後の大学は、少なくとも、戦争中までの大学教育の批判の上に成立したはずであるが、政治教育の不在がもたらした戦中世代の悲劇は少しも生かしていない。そればかりか、戦争世代の教授・助教授も、その悲劇をくりかえさないために、政治教育を大学教育の根底にすえようという動きをおこしていない。
そういう彼らが学生たちの提出した問題の前に右往左往しているのも当然である。しかし、その学生たちは、その政治的意識、その政治思想を現代という時代から、独力で学びとったものである。その政治的意識が狂激であったり、その政治思想が過激であったとしても当然である。まして、彼らの狂激、過激の多くが、教授・助教授の無知と無理解が原因しているとすればなおさらであろう。
要するに、大学における政治教育の不在が、一部の大学生を衝動的に走らせ、教授・助教授の政治的意識、政治思想の欠如が、いよいよ彼らを狂激にしていると共に、多くの学生たちを政治的に無関心なままに放置することになっている。
人々は、一部の学生の激しい行動にのみ心を奪われて、多くの学生が政治的に無関心であることの重要さを考えようともしない。人間が人間としてめざめることの第一は、政治的存在であるということを自覚することであるということを知ろうとしない。そういう大学教育をおしすすめているのが、今日のおとなたちである。しかも、政治家は、学生たちをいよいよ政治的な無関心に追いやろうとしているのである。
今の学生をみていると、不思議と、私達戦争中の学生を思いだす。戦争中といっても、昭和十四〜五年より、昭和二十年の間であるが、そこに、奇妙に共通するものを感じないではいられない。勿論、人々は、あの激しい戦争の時代に生きた学生とすぐれて平和的な現代に生きる学生と共通するものがあるという私の意見に納得できないに違いない。それに、戦争中の単一な思想状況と、今の復雑な思想状況とは、あまりにも違うではないかという反論もあるに違いない。
しかし、それでいて、学生の思想状況というか、生きる姿勢というか、非常に共通するものを見出さないではいられない。というのは、学生自身が、自分で、積極的に、時代を考えようとしない点において、現代を先取りしようとする姿勢がないという点において。
戦後、戦争世代は、ものいわぬ世代とか、笑わぬ世代とか、不毛の世代とかいわれてきたが、それらはすべてあたっていた。ものをいおうにもいえない、笑おうにも笑えない世代であった。それほどに、戦争中を不毛に生きていたのである。彼等の多くは日木国家がしめす大方針、大状況のなかに、多かれ、少なかれ、まきこまれていた。意識的であろうとした学生も、自分自身を、せいぜい、日本の大状況にあわせようと四苦八苦したにすぎない。殆どの学生は、自ら考えることをやめて、無理に、国家目標を自分の目標にしようとしていた。
だから、昭和十八年、徴兵延期の中止とともに、専門学校、大学の在学生が、どっと兵営におしかけて、学徒兵となり、学徒隊をつくったときも、その八割以上の学生が、その兵隊生活とのずれからおこる不満を、酒を飲み、女と遊んだことを語ることで、わずかにごまかしたにすぎない。
もし、当時の学生が、学生時代に、まともに時代を考えぬき、思考力、判断力を磨いていたなら、古い軍隊生活のなかに、思考力や判断力を磨滅させることもなかったであろうし、学徒隊の発生とともに、新しい軍隊が、合理的で近代的な軍隊が生まれていたに違いない。そして、その一割が、教官となることができたことを考えれば、尚更、新しい軍隊の萌芽のチャンスはあった筈である。
日本国家の針路を全面的に否定する軍隊を造り得ないまでも、批判的な軍隊はつくり得たはずである。また、それが出来ないまでも、せめて、学生は、古い軍隊生活、古い思考様式の前に、なんらなすところのない、全く無力に近い自分自身を省みることによって、現実にきりこめるような思考力や理性とは何かを考えずにはおれなかった筈である。
古い軍隊生活を、新しいものに変えうるような、強力な思考力や理性は何か、それはどうしたら、身につけることができるかを考えることができた筈であるし、労働者や農民、商人出身の兵隊とのコミュニケイションが通じないのはなぜか、どうすれば、そのコミュニケイションは通ずるのかも考えることができた筈である。
そういう意味では、軍隊生活は、新しい人間の誕生のきっかけを、すべての人に、とくに、学生にとって持っていたはずである。そうすれば、軍隊生活を、唯我慢し、唯たえることで送るしかないような、不毛の時代ではなかった筈である。しかし、学生時代を不毛に送っていた学生は、軍隊時代もまた、不毛に送るしかなかったのである。
そればかりか、自分で考えることを知らない学生達は、敗戦後、もう一度大きな誤りを犯すのである。即ち、古い意識をそのままに温存して、戦争中彼等を支えたイデオロギーとは正反対のイデオロギーにまきこまれていった。思想の次元で、マルキシズムを受けとめるべきだった彼等学生が、そうしないで、マルキシズムを心情の段階でうけとめていった。そのために、自分の中にある古い意識との闘争をやらないで、古い意識のままに、マルキシズムという新しいイデオロギーで武装した。
マルキシズム自身にも、それができるような弱点をふくんでいたが、なによりも、まず、自分の中にある古い意識との闘争が必要であったにもかかわらず、それをやらなかった。その結果は、マルキシズムそのものをゆがめ、観念化し、戦後の革命運動を非常にいびつなものにしてしまった。いってみれば、戦争中は、戦争を指導したイデオロギーにまきこまれたように、敗戦後は、日本の社会をなめつくした革命的イデオロギーに、同じく、まきこまれてしまったのである。しかも、革命の嵐がおさまるとともに、いつかまた、停滞した社会の空気の中にまきこまれている。
そのかぎりでは、戦争世代は、一度も、自分自身を本当に生きたことのない世代、常に、受動的・非思想的にしか生きたことのない世代といえる。社会の流れのままに、流されつづけた世代というしかない。これでは、不毛の世代となるしかあるまい。
(但、ここでは、戦争中を、思想的・主体的に生きぬこうともがいたもの、軍隊時代を、理性の復権に苦しんだもの、敗戦後、日本の伝統思想やマルキシズムを創造的にうけとめようと模索している人々、その意味で、沈黙の世代となるしかなかった者達は除いている)
今の多くの学生達は、以上のような意味での戦争世代に、非常によくにている。多くの学生は、現代を思想的にうけとめようとする意欲もないままに、現代をあるがままにうけ、それに流されている。
資本主義の繁栄という、末期的な残滓を、考えることもなく享受している。多くの学生は、自分の頭で考えたって、到底、自分の頭脳でとらえきれる現代ではないと、あきらめきっているのかもしれない。戦争中の学生は、その時代をとらえきれぬとあきらめて、たった一つしかない生命すらも、時代の中に没落させていったが、それにくらべると、今の学生はまだ、幸福かもしれない。生命まで、うしなうことはない。
しかし、戦争中の学生が、青春を燃焼させることもなかったように、受動的にしか生きなかったように、今の学生も、その青春のすべてを、その智能のかぎりを現代にぶっつけてみるということもないままに生きている。
たしかに、今の日本は、国家の進路は一定し、その一定した進路の上を、ゆるぎなく進んでいるかのように見えるし、少々考えても、現代は、学生に、つかまるようなしろものではないかもしれない。考えるだけ、損だという考えもおこるのかもしれない。
そこで、考えなかった戦争世代が酒や女に、その苦しみをごまかしたように、今の学生も、敗け犬となって、マージャンや酒にうつつをぬかしているのかもしれない。もしかすると、考えないことは、現代に思想的にぶつからないことは、学生らしくないと思えばこそ、そのにがい思いをマージャンや女で忘れようとしているのかもしれない。これでは、大学の近くに、何十軒というマージャン屋があっても不思議ではあるまい。それに、大学生が、現代から逃げていることは大学生の読むものを見てもよくわかる。
昭和39年六月、本間康平氏が、東京都内の国立・公立・私立の大学生1000名を対象に調査したところによると(回収率67・2%)一ヵ月間に、本を一冊も読まない学生が11%、五冊以内69%となっている。たった五冊しか、本を読まないということは、学生として読書したということにならないとすると、80%もの学生が、本を読んでいないことになる。なぜ、五冊以内は、読書したことにならないかというと、現代にアプローチするためには、二年間の教養課程のうちに、最低150冊ぐらいは読まなくてならないと考えたからである。
勿論、150冊という数字に根拠があるわけではないが、昭和四十年六月号の「現代の眼」に、大学生が現代を考えるための150冊の本ということで、伊東光晴、増島宏、真下信一、竹内良知、山下肇、岸田純之助、八杉竜一の各氏があげた冊数に、一応もとづいたまでである。
私からみた場合、150冊の中に、まだまだ読むべき書物が落ちていると考えるが、最低、このぐらいの本をマスターした上でないと、たとえ、専門の学問をやったとしても、到底、現代をとらえることのできるような学力なり、思考力は生まれないと思うし、そうなると、一ヵ月に平均して六冊は読まなくてはならない。
それに、昭和三十九年の大学生の読んだ本のベスト・テンとしてあがっているのは、大島みち子・河野実『愛と死をみつめて』、伊東光晴『ケインズ』、スタンダール『赤と黒』、ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』、夏目漱石『心』、トルストイ『アンナ・カレニーナ』、山岡荘八『徳川家康』、ドストエフスキー『罪と罰』、伊東光晴『大量消費時代』、フローベル『ボヴァリー夫人』、ロマン・ローラン『魅せられたる魂』である。
これでは、一般の社会人のベスト・セラーと少しも変わらない。学生が、純粋なもの、純愛ものを求めており、現代の若ものはドライであるとの批評に反していることは、大いに心強いが、大学生の読み物としては、少しお粗末すぎる。
思想的な書物は一冊もないし、文学にしても、一応評価のきまった古典的なもので、現代を、現代の人間をとらえようと格闘しているものは一冊もない。そんなところからは、到底、現代をとらえることはできまい。今の学生は現代から逃げているといわざるを得ないのである。
では、現代をとらえようともがき、現代に対して、思想的に自立するとはどういうことであろうか。まだ、戦争世代には、軍隊にはいった時、敗戦をうけとめた時、革命運動に裏切られたとき、自分をとりかえし、自分自身で考えはじめる契機に恵まれたが、そして、それが戦中派を自認している数少ない人達であるが、今の学生達は、どういう契機から、本当に自分で考えるようになるのであろうか。どういう動機から、自主的な学習を始めるようになるのだろうか。
学生運動をしている二、三%の学生は、本当に、自主的に学習し、現代に通用し、現代をリードしているイデオロギーの群のなかから、一つのイデオロギーを選択し、それを最上とみて、それを追求しているのであろうか。それならば、卒業が近づくうちに、一部の人をのぞいて、殆んどの人が、そのイデオロギーから遠ざかり、卒業して数年の後に、それとは全く相反するイデオロギーに全身をゆだねるのは何故であろうか。勿論、生きていくためには、しかたがないという人もあるかもしれない。
しかし、しかたがないと言って、ごまかし、忘れておれるようなイデオロギーは、単なる観念的な知識でしかない。その人の心情や欲望にまでくい込み、一体となったものは、ごまかしのきかないものである。ごまかしのきくのはなぜか。
それは、学生のイデオロギー学習が、学生運動にまきこまれているうちに、無自覚に記憶した知識に外ならず、しかも、その多くは、書物を通じてしか学ばなかった知識であるにすぎないからである。もしも、イデオロギー群のなかから、自分が選ぶとなると、各イデオロギーそのものを、それに即して理解する必要があるし、それは非常に困難である。一つのイデオロギーを理解するのに、他のイデオロギーで批判したものを読んで、そのイデオロギーを理解したことにはならない。
だから、イデオロギー群のなかから、一つあるいは、二つのイデオロギーを選ぶとなると、少なくとも、二年や三年はかかる。しかし、自分で、そうして選んだ以上は変りようがない。大学卒業とともに、その立場を変えようがない。
あるのは、自分に即して、そのイデオロギーそのものを解釈し、更に発展させるだけである。いろいろのイデオロギーを学んでいくうちに、自分が選んだイデオロギーすらも、完全無欠なものでないことを知らされて、自分なりに創造していこうということになる。あるいは、二つのイデオロギーを選ばなくてならなかったものは、その止揚という、大それた作業すらも考えないでいられなくなる。
こうして、イデオロギーそのものは、その人をとらえ、はなさぬとともに、その人がイデオロギーそのものを発展させ、創造していくことになる。生涯を通じて、はなれられないものになっていく。
だから今の学生が、入学当時、すでに共産主義とか、社会主義とか、資本主義とか、創価学会とかを支持するというのを、私は信頼できない。たとえ、その立場を一生貫くとしても、私は支持できない。それは、そのイデオロギーを豊かに発展させることもないし、創造させることもないからである。こんな種類の人は、きまって、人間のためのイデオロギーであることを忘れて、なにがなんでも、イデオロギーのために、人間を奉仕させようとつとめる。本末転倒も甚しい。
学生時代こそ、ゆっくりと時間をかけ、思考力と精力を費して、イデオロギーの選択をする時である。学生時代以外、それの出来る時はない。それが出来るほどに、本の読める時もないし、冷静な思考や判断のできる時もない。それを選ぶためには、どんなに読んでも、読みすぎたということはない。考えすぎたということもあるまい。それこそ、反対に、時間が足らない筈である。下らぬ講義は、全部さぼってもまだ時間がない筈である。選択しようとすれば、伊東氏達がすすめた150冊の本でなくて、それこそ、数百冊の本を読まなくてはならないだろう。
ということは、大学四年間で、始めて、どうにか、イデオロギー群のなかから、一ないし二つのイデオロギーを選べるということである。
今の学生は、どんなことをきっかけにして、自主的に考えはじめるのかという反問をしたが、今の学生運動が四分五裂しているということは、学生にとって非常にいいことである。彼等は、自然に選択をせまられる。考えることを求められる。
学生がもし、思想の次元で、どれかを選ぶとなると、大変好ましい。勿論、その学生が選ぶのは、現代に通用し、現代に有効なあらゆるイデオロギー群のなかからではないが、選択という作業は、思考力をたかめ、そのイデオロギーそのものを自分のものにしていくためには必要な過程である。
ことに、学生が学生の段階で、日本共産党や日本社会党や公明党や自由民主党を支えているイデオロギーを根本的に疑ってみる態度はどうしても必要である。それが学問の性格であり、学問の出発点でもある。疑ってみて、結果的には、日共の、社会党の、公明党の、自民党のイデオロギーと同じものに到達するなら、それでもよいが、異なる結論がでるなら、それは、さらにすばらしいことである。それによって、日共なり、社会党なりは成長し発展するし、歴史は、そのちがいだけ進歩する。歴史の成長や発展のためにも、学生は疑い、そのイデオロギーを発展させなくてはならない。日共や社会党のあとを、思想的にも、理念的にもついていっているような学生達では、信頼も期待もできない。
また、その故に、学生の学習は真摯でなくてならないし、多くの書物を読まなくてはならない。極端なことをいえば、学生運動をする暇がない程に、学問をしなくてならない。民族や階級が危機にたつようなときにのみ、学生は蹶起すればよいのである。そんなことは、一人の学生が在学中に、一度あるかないかである。日頃は、日本の進路をみつめて、徹底的に学習することである。日共や社会党のイデオロギーをこえるような、イデオロギーの創造に全情熱をかたむけていればよいのである。
青年という感情で行動するのでなく、青年のとぎすまされた理性で学習し、一生をリードできるような理性、歴史を発展させることのできるような鋭い理性を学生皆のものにするよう努力することである。
政治学や社会学の講義があっても、学生に学生運動が必要でないという学生を半数も作っていて平気でいるような講義を学内から排除する方が、どれだけ必要かもしれない。
人間が社会的存在であることを、政治的存在であることを自覚させないような社会学や政治学の講義が存在することが、学生会館の問題よりも、授業料の問題よりも、ずっと大学としては問題である。
講義を充実させる運動、講義の改革運動と平行して、始めて、学生会館の問題も授業料の問題も意味をもってくるのではないか。今必要なのは、学生に学問する姿勢、いいかえれば、疑ってみる姿勢をとりかえすことではないのか。
現代のあらゆるイデオロギーを、日本の伝統思想も、マルキシズムも、実存主義も、プラグマティズムも、カトリシズムも疑ってみること、そこからのみ、それらをこえる思想が生まれるし、それができるのはなんといっても学生である。学生の特権でさえある。現代をとらえることの出来ない者には、未来を作ることはできないし、現代を把握できない者には、未来の方向をつかむことはできない。現代を把握するとは、現代に通用し、現代に有効なイデオロギー群を征服し、どのイデオロギーが、現代からさらに未来をリードしていけるかを知悉することである。どのイデオロギーが没落し、どのイデオロギーが生きのびるかを知ることである。そういうイデオロギーがないなら、そういうイデオロギーを創造することである。そのとき、始めて、思想的に自立したといえる。一つのイデオロギーを精密につかんだからといって、他のイデオロギー群に無智であった場合、思想的に自立したということはできない。
かつての戦争世代が、戦後革命運動に埋没し、さらにまた、一般社会の中に埋没していったのも、イデオロギー群を主体的・思想的にうけとめることがなかったことによる。まがりなりにも、精一杯、現代に思想的にアプローチすることを怠ったためである。
今の学生が、かつての戦争世代の如く、現代にアプローチする意欲もないままに、マージャンと女にうつつをぬかしていたなら、谷間の世代となってしまうしかあるまい。歴史の前に、自己を主張することのない世代となってしまうしかあるまい。
その点、今の学生は、戦争世代のように、一つのイデオロギーにぬりつぶされた時代に生き、挫折によって、始めて自分で考えるきっかけを摘むことのできた世代、挫折を感じない人達には、永遠に自分で考えることのなかった世代に比して、あらゆるイデオロギーが顕在化し、自己主張をしている時代に生きていることは幸せであるともいえる。
疑い、考えるきっかけは、学生運動の四分五裂だけでなく、いたるところに、ころがっているのだから。
責任を忘れた大河内発言
こんどの羽田事件で、私をもっとも驚かしたのは、学生が非常に激しい行動をとったことでもないし、京大生の山崎君が死亡したことでもない。もちろん、自民党の一部から大学管理法の問題が再燃してきたことでもないし、日本共産党が学生の行動を反革命ときめつけ、新聞が、彼らを暴徒と非難したことでもなかった。
それは、明治大学教授藤原弘達氏の「今度の事件はただの反社会的な集団による気違いじみた、子供じみた暴動でしかない。社会的な背景も原因もとぼしい“百姓一揆”以前のものだ」(毎日新聞)の発言にはじまって、京都大学教授会田雄次氏の「こんな異常児を見てやる責任は大学にはまったくない。学生は実践ではなく理論を学ぶもの、その本分にもとるかれらは絶対退学させなければならない」(読売新聞)、慶応大学教授池田弥三郎氏の「ああいった連中をいちがいに学生とみなすことに私は不満だ。むろん、こうした情熱を教室の中で発散できぬいまの教育体制、そして彼らの気持をみたせない不満足の講義について、私は大学の教師として痛切に反省する」(朝日新聞)という発言であった。
そして、十月十四日の新聞に報道された国立大学協会会長大河内一男氏の「社会変革をめざす学外の団体と結びついた学生運動が自治の名で守られているのをいいことに、大学を拠点として利用するのは迷惑である。大学本来の目的である教育と研究に、いささかでも支障をきたす動きは、たとえ、学生の自治活動でも排除しなければならない。最近の学生運動の過激化の一つの原因は、大学の規模が大きくなり、マス・プロ教育になっているところにある。大学側は一人一人の学生を責任をもって把握できず、教授との接触も少ない。そこに学生の不満が積みかさなり、こんどのような行動や新興宗教に走らせている面もある」という記事を読んだとき、私は驚きをとおりこして、深い悲しみと強い怒りさえ感じないではいられなかった。
大学教授のポストにある者として、どうして、このような無責任な暴言が平気でいえるのであろうかと、一瞬、私の目を疑ったほどである。羽田に集まった学生たちは、教授の話を聞こうとしないというが、教授たちこそ学生の話を聞こうとしない人たち、自分たちの考えにこりかたまった人たちといえるのではないか。少なくとも、私には、そのようにみえる。藤原、会田、池田三氏の発言は論外として、大河内氏は、こんどの事件で、「強い衝撃をうけ、深く反省させられている」と語っている。しかしはたして、ほんとうに強い衝撃と深い反省をしたのであろうか。それにしては、その発言はお粗末すぎるし、その内容も適切ではないのではなかろうか。こういう発言しかできないところに、逆に、学生はこんどのような行動を起こさずにはいられなかったのではないかとさえ考えられる。
なぜ学生は学外に走るか
大河内氏は「大学本来の目的である教育と研究」というが、そのとき、教育と研究の内容をどのように考えているのであろうか。「教育と研究に支障をきたす動き」とは、いったい何をさしているのであろうか。「社会変革をめざす学外の団体と結びついた学生運動」は好ましくないと考えているのかどうか。
まず、大学関係者はいま一度、学生活動、学生の自治活動は何かを、根本的に再検討してみる必要があるのではないか。昨年十一月の統一見解には問題があるのではないか。それは、大学の教育と研究というとき、どういう学生活動、自治活動を考えているかということではなくて、学生活動、自治活動は学生として必要かくべからざるもの、学生活動、自治活動に参加しない学生は卒業資格はないという徹底した認識をもっているかどうかということである。私には、学園紛争を最小限にくいとめるための対策として、大学当局につごうのよい学生活動のあり方を考えていると、昨年の統一見解は思われるのである。
文部省の「期待される人間像」ではないが、大学当局が教育という以上、それぞれに、教育しようとする人間像のイメージが明確でなければならないし、そういうイメージを持っているはずである。そのとき、はじめて、教育ということが具体的内容をもってくるであろう。教育ということをいっても、教育目標が明確でないところに、学生運動の意味が明らかになるわけがない。大学生活のなかで、学生活動が占める意味が明らかになるわけがない。
だからこそ、卒業式を前にして、「肥ったブタになるより、やせたソクラテスになれ」とか、「ただ酒をくらうな」という言葉を贈らなくてはならないのである。こういう言葉は、入学式の言葉として意味があるし、四年間、そういう人間をつくるために教育してこそ、はじめて価値がある。こういう言葉を卒業式に贈るということは、その大学の教育がいかに無目的であったかをしめしている。
その結果は、学生活動をめぐって、大学当局と学生は根本的に対立する。対話の可能性をまったくなくしてしまう。ということは、考え、自覚的に行動しようとする学生の方には、大学教育とは、少なくとも、それぞれの専攻する学問をとおして、政治的社会的存在としての自覚と姿勢をもち、その専攻した学問を職業的知識として、社会の発展にとりくめるようになることである、という認識がある。そういう認識は、そのまま、学生活動を政治的社会的存在としての自覚と姿勢をもつためには不可欠であるという考えを導きだす。大学で学んだ理論の実験の場であると考える。それは、しごく、当然の考え方である。
しかし、大学当局は、大学教育の目的を考えることを忘れてしまった結果、学生活動は大学生活に付随的に起こったものであるという認識しかない。学生活動は不必要だと考えている大学当局すらあるようにみえる。これでは、学生活動は大学生活の中心でなければならないと考える学生たちと、学生活動を必要悪と考えようとする大学当局とは平行線をたどるしかあるまい。
大河内氏が「大学本来の目的である教育と研究」というとき、いったい、学生活動をどのように位置づけ、意味づけているのであろうか。「教育と研究に支障をきたす動きは排除する」という彼の発言を聞くと、彼も結局、彼の考える大学の秩序を重しと考えて、政治的社会的存在としての自覚と姿勢を身につけようとする学生活動を従と考えているようである。教育を阻害する動きというものはありえない。そういう考えこそ、学生のこんどのような急進的な行動をひき起こしたものである。
まして、青年は、せっかちで、結論をいそぎすぎる。行動に走りすぎる。そういう理解をもち、教育ということを徹底的に考えるなら、絶対にどんな学生運動も排除するということはいえないはずである。そういう行動に走ったときこそ、もっともよく教育でき、また教育しなければならないときである。もし、ほんとうに、ゆきすぎがあるなら納得するまで説得すべきである。それが教育というものである。教育という言葉は、そのときはじめて、使用できるものである。
まして、学問が本来社会の発展のためにあるものである以上、学問をする学生が社会変革にとりくむ学外の団体と結びつくのも当然である。もし、それが好ましくない、学生にとって不幸であると考えるなら、学外団体の社会変革の理論以上の理論を大学教授が創造して、学生に講義すればよい。そのときにのみ、学生は学外の団体と結びつくことはない。大学教授が研究上の業績といえるものは、そういうものである。それに、羽田に集まった学生たちは、学外の団体に失望し、少なくとも、彼らなりに、社会変革の理論の創造にとりくんでいる。とりくもうとしている。そういうものは、創造でも、研究でもないと評価する者があるかもしれないが、そういう姿勢すらもたない大学教授が実際に多いのではないか。自分が理解できないという理由で、学生をただ罵倒するというのはまったくナンセンスである。
こんにちもっとも必要なことは学生の一部がもっている考え、大学教育とは政治的社会的存在としての自覚と姿勢をもつこと、そのために学生活動は学生生活の中心でなくてはならないという考えを大学当局が認めることである。誤っているのは学生側でなく、大学教育の目的を忘れている大学当局側である。いいかえれば、大学は社会の発展と変革にとりくむ人間教育、市民教育の場である。その専攻する学問を通して社会の発展と変革にとりくむ人間をつくるところである。その学問がたんなる知識、机上の空論に終らず、実践的知識となるために、人間と学問が一体となるために学生運動が実験の場として必要なのである。
もし、そういう認識にたてば、現在、紛争中の十一の大学の学生寮問題、五つの大学の学生会館問題は一挙に解決できるばかりでなく、学生寮や学生会館の運営をとおして、それこそ、学生を積極的に教育すべきである。大学当局は学生の教育に自信がないから、躍起となって、学生の自治権をとりあげようとしている。学生の自治活動を重要視しないからその自治権をとりあげようとしている。大学教育というものをまったく考えていないということになる。
学生のなかの一部にある、この考えがまともであり、好ましい意見であることは、現在の大学制度そのものが認めていることである。それは、一般教育の名のもとに、政治学、社会学、経済学、哲学、心理学、歴史学などを教えていることであきらかである。
この一般教育としての政治学、社会学、歴史学はたんに政治学、社会学、歴史学の知識を知ることでなく、自分自身を政治的存在として自覚し、政治的人間として生きぬく姿勢をもつことを目的としているはずである。いいかえれば、政治的自覚なしには、ひとりの人間としてはすこしも生きられないばかりでなく、人間として全的に生きたことにはならないということを十二分に知ることである。
いいかえれば、政治学、社会学、歴史学は政治的人間として、社会的人間、歴史的人間として、たくましく生きる自信とすばらしく生きる勇気をあたえるものであるといってよい。希望をあたえるものであるといってもよい。その意味では、若い学生にとっては、もっとも魅力のある講義のはずである。しかし、現実には、多くの場合、もっとも魅力のない講義となっている。高校の授業の延長になっている。これでは、学生が大学の講義に失望し、学外の活動に興味をもつのは当然である。しかも、そこには、社会の発展と変革に精力的に取組む理論と人たちがいる。青年ならば、理想を追う学生ならば、それにひかれないほうがどうかしている。学生を学外に追いやったのは大学当局であり、大学の講義である。
現在の大学の一般教育がいかに愚劣に行なわれているかを示すものとして、先日の法政大学の野球部の勝利があげられよう。一般教育としての政治学がまともに教えられていたら、けっして、野球部は優勝しなかったであろうし、優勝決定戦にあんなにたくさんの学生が参加し、有項天になることもできなかったであろう。それは、大学紛争を政治的にうけとめようとする姿勢が多くの学生になかったことを意味する。それこそ、教育という視点からするならば、紛争を解決しようとして躍起になるより、その機会こそ、徹底的に政治教育をおこなうときである。教育は遊びでなく、生命がけである。
また、昨年の紀元節問題は、戦後の大学の歴史教育の真価がとわれるときであった。一般教育としての歴史学が人びとのなかにどのように生きているかという試金石であった。だが、一般教育としての歴史学の講義をきいたものは数十万にちかいのに、歴史学研究会の反対の声にほとんど反応をしめさなかった。歴史学者は、そのとき、戦後の自分たちの講義に深い反省が必要であったにもかかわらず、もうそういう反省はすこしもなく、ただ、政府とその共鳴者をヒステリックに攻撃しただけである。
要するに、一般教育としての政治学、歴史学はあまりにもお粗末である。他の学科も大同小異である。
こういう講義しかできない教授と学生の接触を深めたからといって、大河内氏のいうように、学生の不満が少なくなるとは思えない。教授と学生の接触はなるほどマス・プロ教育で少なくなったかもしれないが、学生の不満は教授との接触で解消されるほどに根のあさいものではない。一般に、教授は、喫茶店でコーヒーを飲みながらだべったり、家庭に招待してご馳走したりすることが学生と親しみ、学生と対話することだと考えているようである。だが、たとえ、そこで学問の話をし、人生について論じても、学生の側からすると、それで、教授とのあいだに対話ができたと思っていないのではないか。
学生は、教室での教授の講義も信じられなくなっているのかもしれない。ことに、「羽田事件」に参加したような学生は自分の存在を賭けたときの自分や仲間のみを信ずる。とすれば、学生活動、自治活動のなかで対決したときの教授の姿が真の姿であると考える。それ以外の教授は知識豊富で、言葉たくみな人間としかみえない。学生活動、自治活動のなかで対話できる教授だけを信ずると言っていいかもしれない。
というのは、教授もそこでは生地の姿をだすと考えるからである。学生が求めているのは、そういう、ぎりぎりのところでの教授との対話である。たんなる知識の交換ではない。社会の発展と変革にとりくむ者としては当然である。そういう対話だけが意味があり、価値があると考えられるのではないか。学生はたんなる饒舌はさけているのである。
それに、現代の学生は、太平洋戦争を阻止することのできなかった四十代、五十代の大学教授、助教授に不信をいだいているのではないか。阻止するどころか、逆にずるずると協力しながら、戦後その克服に、いかように取りくんだかということに深い疑惑をいだいているのではないか。現に、そういう教授や助教授は数多くいる。学生にいったい何を提供できるというのであろうか。先日もある大学で、教授と学生の会合があったが、十人の教授のうちで、八人までがマルクス・レーニン主義とかトロッキズムとか毛沢東主義などについて、常識的な知識しか述べることができなかったということである。おそらく、そういうことは、その大学だけのことではあるまい。これでは、学生を指導することなどとんでもない。こんなことから、案外、社会変革の理論の創造ということでは、教授、助教授も学生である自分たちも同じ地点にたっていると考えているのかもしれない。理論の創造のためには、いろいろの知識や研究能力などは邪魔になるとは思わないまでも、決定的に必要であると考えていないかもしれない。
そうなると、かれらには大学というキャンパスだけが必要になる。そう思わせたのが大学当局であれば、それもしかたないことである。それに不満な教授は、充実した魅力ある講義をし、すぐれた社会変革の理論を創造することである。そこにしか解決はないといえよう。
松下村塾にみる師弟関係
私は、つぎに不完全ながらも、日本でただひとつの革命といえる明治維新をなしとげたときの師弟関係について書いてみたい。政治的社会的存在を鋭く自覚した弟子、深く自覚し、たくましく行動しようとする弟子とのあいだに、どういう教師がはじめて対話ができ、弟子を指導し弟子に影響をあたえるかをあきらかにするために……。
ご承知のように、明治維新をつくりだした人びとの中心に、松下村塾の人びとがいた。そして、そこの教師は吉田松陰である。松陰といえば、国禁を破って海外に出ようとして幕府につかまり、獄につながれた人物である。そのとき、松陰はみずからの行動の自由を奪われたために、自分に替わって行動してくれる人物を養成しようと思いはじめる。それしか彼の思いと、思想をつらぬく方法はなかったのである。
こうして、まず、同囚の人間改造にとりかかり、ついで、獄を出て、家に謹慎を命じられると、近所の青少年を集めて教育にとりかかる。松陰の教育が政治的社会的存在としての人間を鋭く自覚させることにあったことはいうまでもない。当時において、政治的社会的存在としての自分を自覚するということは、幕藩体制の矛盾を痛感し、それを排除するということであり、西洋諸国の帝国主義的侵略を排除して、日本を独立国としてたもつということであった。
それは二百五十年続いた幕府権力と対決することであり、強大な西洋の武力に体当りすることであった。容易でないというより、当時ほとんど不可能と思われていたことである。だが、どうしても、それらをやりぬかねばならない、やりとおさなければならないと松陰は考えた。そして、まず、彼のできること、人間革命にとりかかったのである。それをやりぬける人間をつくろうとしたのである。だから、その教育ははじめから生命がけであった。
安政五年、幕府が米国に不平等条約を押しつけられて調印したとき、松陰とその弟子たちは猛然と奮激した。松陰は謹慎を無視して、山口から京都にゆき、当時、京都にいた老中・間部を殺そうと考える。もちろん、その弟子たちといっしょにである。しかし、その計画は長州藩政府の知るところとなって、松陰は投獄されてしまう。そのとき、弟子たちは松陰の罪名は何かと藩政府につめよろうとした。だが、だれも弟子たちに会う者がいない。留守とか病気とかを理由に逃げかくれする。しかも、その翌日には、藩政府を追求しようとした弟子たちは全部謹慎を命じられるのである。
投獄されても、松陰の心はすこしもひるまない。こんどは公卿と長州藩主との連携をなしとげ、あくまで幕府の外交政策に反対しようとする。そして、そのために、京都に弟子をやろうとした。はじめ、三人の弟子をつかわそうとしたが、そのうちの前原一誠、松浦松洞はおじけづいていかないという。わずかに入江杉蔵ひとりがゆくというだけである。結局、家庭の事情で杉蔵のかわりに、弟靖がゆくことになった。当時、靖は十八歳である。しかし、これも藩政府の知るところとなり、杉蔵は投獄され、京都で靖もつかまってしまった。獄中の松陰は獄中の杉蔵、靖にどういう手紙を書いたか。
「死は易々なれど無益の死はせぬという者がわが藩の同志のなかに多い。大うそである。死がどうして易々であろう。二つなき生命なれば生命を捨てることは大変難しい。だが、そういう生命だから、惜しんだ上にも惜しんでいかねばならない。世の中に対する憤懣や自分の失敗の責任をとって軽々しく死ぬべきではない」
「今日は、米国が幕府をしめつけ、幕府が藩政府をしめつけ、藩府が志士をしめつけている。米国が兵器糧食を幕府にあたえるようになれば、日本は属国であり、滅亡したことも同じである。このためには、幕府を倒して新しい日本をつくり、米国の支配をうけぬようにしたい。僕が願うところは乱世である。乱世のきざしをつくることである。それは幕府の崩壊するきざしである。僕が死を求むるは、生きてなにも出来ないと思ったからである。今日のような状況のときに一人も死ぬ者がいないというのも残念だからである。私が死ねば、臆病風にふかれている者達が少しは元気を出してくれるかと思う」
「死のうという考えが最近になってかわってしまった。学問が進んだためか、生命が惜しくなったためかわからないが、今は死にたくない。なるべく早く獄を出たい。これまで、藩政府をたのみにして革命をしようとしたことは間違いであった。これからは、私達同志だけでやろう。五年あるいは十年獄にいても、私はまだ四十歳、君はもっと若い。今迄、死のうと思った決心と覚悟さえ一生忘れなければ必ず目的は達成するだろう。今は少しでも早く獄を出られるようにすることだ」。
松陰の思い、迷い、怒り、苦しみがよく出ている。それをそのままに、二十三歳の杉蔵、十八歳の靖にぶっつけている。先生と弟子の接触とはこういうものである。喫茶店でコーヒーをすすりながらだべることではない。しかも、松陰は安政六年には結局幕府の手にかかって殺される。「諸君は僕の志を十分に知っていると思う。だから、僕の死を悲しまないでほしい。僕を悲しむよりも、僕の志を知ることが大切である。僕の志を知るよりも僕の志を継承し発展させて、それを実現することが大切である」との遺言をのこして……。
弟子たちがその怒りと悲しみを自分たちの学問のなかに投入したことはいうまでもない。軽がるしく立ちあがるべきではないことも、また、軽がるしく死ぬべきでないことも学んだ。しかし、情況をつくり、情況を変えるのも、自分たちの断乎たる行動であることも学んだのである。松陰はあざやかに、その弟子たちをつくりかえたのである。弟子たちの人間革命に成功したのである。松陰の本質はあくまで革命家にあった。すぐれた革命家であったがゆえに、その弟子たちを変革するということもやってのけたのである。すぐれた教育家は革命家であるという資質をもっていなければならないということがいえそうである。
思想運動よ起これ!
会田氏、池田氏のように、羽田に集まった学生はもはや学生とは思えないから退学させればよいという人たちは、いったい学生をどのように教育しようというのであろうか。人間的に無自覚な学生、歴史と現代に無自覚な学生をそのまま放置し、情況に埋没し、自分自身と栄誉だけを他人の犠牲のうえに追い求めるような人物を社会に送りだそうとするのであろうか。
もし、かれらが学生に政治的社会的存在としての自覚をあたえようとしたら、そのなかの何人かは、かれらのいう暴走にかならず一度はふみだすであろう。その教育が効果的であればあるほど、その数は増えるであろう。そのとき、かれらはその学生を放逐すればよいというであろうか。次つぎと放逐するのであろうか。もちろん、かれらには、それだけの教育をする自信もないし、そういう教育をしようと考えないから、その心配はあるまいが……。
要するに、羽田に集まった学生、集まるかもしれないような学生こそ、現代のもっとも学生らしい学生であり、代表的学生ということがいえる。かれらこそ、現代の矛盾をもっとも鋭く感じ、その矛盾に全身で体当りしようとしている。その矛盾を許せないほどに怒っている。私はそれに敬意をはらう。しかし、私がほんとうに敬意をはらうのは、卒業して一生その考えをもちつづけるだけでなく、それを発展させつづけるときである。
かつて、学生時代、私の行動を非難した闘士たちはだれひとりとして、私の陣営に残っていない。みな転向してしまった。そのころ、私は、私の一生をリードし、一生を支える理論をみずからのものにするために、頑強に学外活動を拒否した。日本の運命を狂わせるような政治の季節はきていないと思ったからである。
私はいま、羽田に集まった学生のうち何人が、十年後も運動をし、戦いの先頭にたっているかに深い関心をいだいている。かれら学生が考えているように、日本の革命は、七十年にくるのでもない。それは忍耐を要する長い長い戦いである。それを知っている聡明な学生たちに、もっとも鋭く、自分の内面を凝視してもらいたいと思う。自分自身の革命に眼をそそいでほしいと思う。仲間である学生や教授の革命に眼をむけてほしいと思う。
自分自身の革命は二年や三年の短時間でできるものではない。それを錯覚した私の世代は戦中の右翼から戦後の左翼に転じ、はなばなしく闘争し、今は挫折したままである。現在の教授、助教授には、そういう連中が多い。
まして、今日が民主主義をつくる時代であれば、学生や教授の意識を民主主義的意識に改造することにとりくむことである。今日を民主主義の時代というのは虚妄にすぎない。今日必要なのは、民主主義的意識をもった人間に革命することである。仲間である教授や学生を革命できないで、日本の革命を考えるということはまったくナンセンスである。もっとも容易であることを怠って、もっとも困難な権力奪取に進むことはあまりにも戦略・戦術を考えていないものといっていい。
学生運動はまず、なによりも思想運動でなくてならない。思想運動に導かれない革命運動はないと同時に大衆運動に導かれた革命運動、大衆運動に堕した革命運動には成功がない。今日の学生運動は大衆運動に堕した一面があるのではなかろうか。
一
幕藩体制の矛盾が激化していった幕末には、二百余の藩校、数百をこえる私塾の殆んどが、いずれも、その体制の中にくみこまれ、せいぜい、その体制を維持強化する人間を養成するにとどまっていた。そのことは、当時の代表的思想家である横井小楠の次のような言葉をみても明らかである。
藩校時習館の学風は、学生に、政治や社会に対する批判能力を養うように求めるのでなく、逆に、学生の眼をふさぎ、はては、藩主一族の横暴を讃美するという有様であった。そのために、学生には、単に、四書五経や詩経の解釈に秀でることだけを求めた。
こういう状態は、何も、時習館にかぎられたことではなく、当時の藩は殆んどがそうであったし、更には、藩校の学風をまねるしかなかった私塾の学風でもあった。たしかに、当時の藩校、私塾には、今日の大学と違って、師弟の人間的接独、それにともなう人間的感化は、多分にあったということができようが、そこには、時代と人間を指導できるような学問、それをめぐっての真の人間的接触というものは、全くといってよいほどになかったということができる。
その意味では、今日の大学が現代社会への指導力をうしなっているように、幕末の私塾も、その時代への指導力をもっていなかった。それというのも、江戸時代、学問として通用したものは、訓詁と祖述の学であり、学者とは、その師の教えるところに従って、できるだけ多くの知識を正確に記憶した者であると考えていたためである。
明治の思想家福沢諭吉も、江戸時代の学問のことを、「偶々、文に志す者もあるも、単に、本人の好事に出づるものにして、かつて、要用に迫られたることなし。これを要するに、日本の士族は、数百年間、無責任の学問したるものというも可ならん。既に、責任なしとすれば、その学問が人事の実用を為すも為さざるも、その辺は全く意に介することなし。唯太平無事の日にありて、武士とは申しながら、全く無学にても不都合なりとの考えより、遊芸同様に、ついでに学問をしたるのみのことなれば、その学問に目的なきもまた、いわれなきにあらず」(「社会の形勢、学者の方向」)といって、その無責任、無目的を鋭く攻撃しているが、要するに、その当時の学問は、幕藩体制の中に生きている人々を人間として自覚させるものもなかったし、政治・経済・社会に対する批判の眼をあたえるものでもなかった。
それこそ、もしも、そういう眼をもつ者が藩校や私塾の学生の中にでれば、すぐさま、追放される運命にあった。それが、藩校、私塾をふくむ、当時の政治情勢であり、思想状態であったのである。だから、横井小楠のように、時習館で教える学問は、どこかおかしいと考え始めると、自分自身で、自分の藩の政治・経済・社会について、じっくりと観察し、考えていくしかなかった。自学自習するしかなかった。それも、ひそかに、やっていくしかなかった。
そして、小楠の場合には、藩校に対立して、自分の主宰する塾をつくる以外に、幕藩体制を批判する能力をもった人々を育てることはできないと確信するところまでいった。その時、小楠は三十五歳。これは、彼が、幕藩体制からはみでるということを意味すると同時に、彼が、その当時に通用していた訓詁の学とは全く異質の学問を公然と始めたということであった。しかし、小楠のようになる者は、当時、非常に稀なことであった。
だから、自然、そこに集まる者は、藩士の子弟ではなくて、幕藩体制の中で、身分体制の壁をもろにうけている郷土の子弟であった。郷土の子弟なるが故に、学ぶことができたということもできる。しかし、その故に、彼等は、師小楠の政治・経済・社会への批判をどんどん吸収していくこともできたのである。
この小楠と同じように、幕藩体制の矛盾を全身でうけとめ、その中で行なわれている学問と教育に鋭い批判をなげうったのが吉田松陰である。ことに、彼の場合は、藩校明倫館の少壮教授として、強い期待を一身にうけていたが、進んで、その地位を放棄しただけでなく、現体制の叛逆者・異端者になるという厳しい道を歩きはじめた人間であった。彼は、その主宰する松下村塾の学生とともに、新しい時代、新しい社会を構想する生活をはじめ、終には、明治維新を闘いとるという壮挙をやってのけるところまで、学生たちを育てた。
その点、過渡期に立っている今日の大学を考える上で松陰の学問と教育、松下村塾の学風を、更めて考えてみることは意味のあることである。それが、歴史に学び、歴史をのりこえるということでもある。
二
松陰が生まれた当時は、幕藩体制の矛盾が激化していたと同時に、その日本は、西洋諸国の侵略をもろにうけるという危険性を多分にもっていた。山鹿流兵学師範の家柄をついだ彼は、十五、六歳の頃より、そういう日本を直視しはじめ、日本の危機を深く感じていくようになる。そして、それがきっかけとなって、二十一歳から二十三歳にかけて、九州旅行、東北旅行をするが、その旅行の中で、松陰は、日本の危機は、他国からの侵略にさらされているということばかりでなく、幕藩体制そのものに、矛盾のあることを、具体的に発見するのである。
それをどうにかしないかぎり、他国の侵略を防ぐことは出来ないということを知る。この発見は、長州藩の兵学師範から日本の兵学師範に脱皮したことを意味するが、同時に、この時、松陰自身、亡命の形をとって東北旅行をしたことが原因で、明倫館教授の地位を失ったばかりでなく、家禄まで奪われて、浪人の身となったのである。自分自身の立身出世よりも、幕藩体制をどうするか、日本の危機をどうするかということの方が、彼には、重大関心事であった。亡命の形をとらなくては、容易に、日本中を旅行出来ないような現状に怒りを感じ、そんな日本の中での立身出世など、全く、ナンセンスに近いと考えたということも出来る。
更に、二十五歳の時には、国法を破って、国外脱出を試みた。その時の松陰は、もはや、国法といえども、自分の行動をしばるものではなく、彼は、唯自らの内なる声に従って行動する人間に変わっていた。いいかえれば、国法は、時代によって変わるし、今の国法をまもっていれば、時代と社会を大きく変えることは出来ないという認識であった。
しかし、今日と違って、当時、国法を破るということは、多くの場合、死を意味した。死を甘受する勇気と覚悟なしには、国法を破ることはできなかった。松陰の国外脱出という行動には、それだけの意味と重さがある。現に、彼は、そのために、生きているかぎり、その罪に服さなくてはならなかったし、その刑死も結局、国法を破ったというところから起ったものであった。
要するに、松陰は、自分の全存在をかけて、幕藩体制をどうするか、日本の将来をいかに建設するかというテーマにとりくんだし、彼の学問は、そのテーマを離れては存在しなかった。福沢諭吉のいうような江戸時代の無目的、無責任な学問とは全く反対の学問を始めたのである。その学問は、終始、自分の行動をどうするかということを究明することにあった。西洋諸国からの侵略という危機にさらされている日本、その日本は幕藩体制の中で、どうにもならないほどの矛盾をかかえて、人々は呻吟しているという現状、それをまえにして、自分自身どう生きるか、どう生きたらよいかを究めることが、彼の学問であった。彼にとっての文学、哲学、歴史、地理、兵学などの学問は、すべて、この課題にとりくむためのものであり、この課題にむきあおうとしない文学、哲学、歴史、地理、兵学の研究は、学問の名に価しなかった。学問としては、非常に、初歩的なものであった。
松陰にとって、無責任、無目的の学問など、もはや、学問とはいえなかった。現代に生きて、現代に深くかかわっている人間の行動に、役だたないような学問、人間の行動を大きく発展させ、豊かに充実させることのないような学問は、かえって、人々を堕落させ、社会を毒するものであった。その意味では、彼の学問は、なによりもまず、生きているすべての人間に人間としての自覚と誇りと勇気をあたえるものであったし、人間に自覚と誇りと勇気をあたえないような学問が学問として通用していることに対して、彼は、まず、戦いを挑んでいかなくてはならなかった。
彼が、西洋諸国の侵略を深く憂え、激しく怒ったのも、それが人間の自覚と誇りと勇気を抑えつけるという認識から出発していた。彼ほど、自覚と誇りと勇気のない人間を強く攻撃した者はいない。同時に、そういう人間をつくりだしている支配者や社会を激しく憎んだ者もいない。
幕藩体制そのものが、人間から、自覚と誇りと勇気をうばっていることを発見したとき、松陰は、その生命をかけて、それを拒否し、否定しようとした。その中で生きる自分、まして、立身出世する自分は決して許せなかった。彼が国外脱出を試みたのも、現体制を否定する叡智を自らのものにしようとしたためである。そして、それに失敗したとき、彼は、獄中で、入手できるかぎりの書物を手がかりに、自分自身で、日本の革命を構想し、新しい日本の内容を考えていった。
その書物は、尨大ではあるが、今日からみると、内容のないものといえよう。それは、明治以後の百年間、革命を志向する人達が一顧もしなかった書物であることによっても明らかである。だが、彼は、そういう書物を手がかりにして、史上、日本人のもつことの出来た唯一の革命の路線をしくことに成功したのである。
即ち、松陰は、禁足処分をうけたまま出獄すると、早速、私塾をはじめた。自分が大きく行動を制約されていると知ると、自分に代わって、行動してくれる人々を養成しようと考えたのである。それが、彼の出来るぎりぎりの行動であった。その点では、革命思想家松陰の思想と行動を阻むものは、どこにもなかった。このことは、革命思想家というものは、如何なる環境においても、行動は自由であり、最も効果的な行動を発見するものであるということを、よく、しめしている。とくに、松下村塾が、こうした理由のもとに生まれたということは、非常に重要なことである。それは、彼の学問、彼の教育を欲しない者は集まってこないし、それを欲する者だけが集まってくるということである。だから初めから、村塾では、教育の効果は最大限にあがるという条件をそなえていた。
そのことをもう少しくわしく述べてみたい。
二
村塾に集まった学生たちは、小楠の塾のように、現体制の中では、自分自身を力一杯生かすことの出来ない農民、町人、医者の子弟が多かった。人間としての自覚と誇りと勇気をもつことをおさえられている青年たちであった。現体制の矛盾を教えられることなしに、既に、全身でそれを感じとっている青年たちであったといってもいい。藩士の子弟で入門する青年も、このままの社会ではどうにもならないということを感じはじめていたものたちである。
それに、松陰が、既に、藩の規約を破って浪人になったばかりか、国法までも破って、今も刑に服している人間である。だから、村塾に通わせるという以上、そのことを十二分に、承知している。現体制に不満をもち、呻吟する農民、町人、医者しか、その子弟を村塾に送らなかったということが出来る。
でなければ、高杉晋作のように、夜になって、父母がねるのをまって、村塾に通ったという人間もいるが、それとても、わずか五間しかない家に住んでいた晋作が、毎夜、父親にわからぬように外出できるわけがない。息子の外出を知って知らぬふりをしていたというのが本当であろう。
前原一誠のように、その父にすすめられて入門した者もある。その時、一誠は既に、二十四歳になっていたという。このように、村塾に通うということは、学生一人一人が、既に、一つの選択、一つの決断をすませ、松陰という人間の生き方、それを支える彼の学問に強くひかれたということを意味していた。
しかも、松陰は、入塾を希望する青年に、何のために学問をするのか、どんな学問をしたいのかと鋭く質問した。例えば、十六歳の吉田栄太郎が入門を希望したときに、まず、韓退之の「城南に読書す」を読ませた。栄太郎は、言われるままに、立身出世について書いているその文章をよんだが、読みおわるなり、「ぼくは、こんなことを学びにきたのではありません」と、いかにも不満げに答えた。松陰はそれを批判し、拒否する彼の姿勢に、深い満足をおぼえて、弟子にしている。
松陰は、学問をする上で一番大事なのは、学問への志であり、志さえあれば、学問をする上に、最低必要な訓詁の能力などは、誰でも身につけることが出来ると考えていた。むしろ、訓詁の能力をつけることが学問の目的であるかの如くに錯覚しているところに、学問の本当の目的が見失なわれるようになったし、学問が単なる物知りをつくることであると見誤る者がでてきたと思った。人間と社会の進歩に全く無関係な学問が、学問として通用していることに不満をいだいた松陰の独自な入学試験であった。そのために、学生たちの学習意欲は非常に旺盛であった。自ら進んで、学習したとしても不思議ではない。それに加えて、松陰は、あらゆる手段、あらゆる方法を駆使して、いよいよ、学生たちの自覚を深め、彼等の内的要求を強めることをねらった。
松陰が品川弥二郎に送った手紙に、
「お前の家では、今、祝い客が集まって、飲み食いの大騒ぎをしているのであろう。そのために、お前まで、それにまきこまれて数日も塾をやすんだのであろうが、国家危急の今日、酒を飲んで騒いでいる時ではない。そういうことは老人どもにまかせておけばよい」というのがあるが、それは、弥二郎の父親が足軽から士分にとりたてられ、弥二郎が塾をやすんだときに書いたものである。松陰は、弥二郎に、寸暇を惜しんで勉学する時であると叱咤したのである。更に、弥二郎がずる休みをしたときには、もっと激しい言葉をなげかけている。
「私は、お前の成長をとても楽しみにしているのに、何故に、お前は休むのか。勉学をおこたるのか。時勢が切迫して恐しくなったのか。私の意見に同意できなくなったのか。お前は、遊びほうけて、学問をサボるような人間ではないはずだ。意見があるなら、その意見をいえ。特別に意見がないなら、すぐ、やってこい。三日すぎてこないようなら、お前はもう私の友人でもない。去りたいなら去れ」
松陰には、学生が時代の子として学問するということは、当然のことであり、義務でもあった。今日のように、試験とか成績で、学生にいやいやながら勉学させるのとは全く違う。試験のために勉学していると、いつのまにか、試験の奴隷になる。良い成績をとることが学問の目的であるかのように、錯覚する。
そこに、今日の学問と学生の荒廃と堕落が生じているが、村塾生の中には、そういう学問や姿勢が生まれる余地はなかったのである。学生たちが、誰からも要求されずに、自ら進んで勉学につとめたとしても不思議ではない。しかも、松陰の教育には、今一つ、大事なことがあった。それは、村塾の講義が、字句の解釈に終わらないで、必ず、その言葉の意味と価値を論じた後に、自分はどう考えるか、自分ならどうするか、何をなし得るかを学生一人一人に解答を求めたということである。どんな文章でも、その現代的意味を問うことを忘れない。そして、人間とは何か、現代における人間の行動とはいかにあるべきかを論じつくした後に、私はどうするかということを考えていった。これでは、空理空論をもてあそび、単なる物知りに終わることはできなくなる。
いいかえれば、どんな知識、どんな意見でも、人間としての自覚と誇りと勇気とに、結びつけ、それらと統一してゆこうとした。それらと結びつかない知識や意見は、いかに正確であり、いかに優れていても、実際には、何の有効性もないというのが彼の意見である。
とくに、幕藩体制の中で呻吟しながら、そういう社会に、あきらめをいだいて生きている農民・町人・医者・下級武士が殆んどであると知っていた松陰は、彼等に、今一番必要なものは、人間としての自覚と誇りと勇気であると考えた。不満を行動にあらわせる勇気であった。沈黙していない誇りであった。彼の言葉に、「気力が衰えれば、識見もまた曇ってくる」というのがあるが、だからこそ学問にとって、志とともに、誇りと勇気がいかに重要であるかを彼は知悉していた。知悉していた故に、それを、彼の教育の中心にすえた。それが時代と人々を変えていく原動力であると考えた。
四
しかし、現代における人間の課題を追求するのは、学生達以上に、師たる松陰自身の課題であった。彼にとって、それを明らかにすることが何よりも重要であり、必要であると知っていたから、弟子達にもそれを求めたにすぎない。
勿論、当時、松陰は若かった。そのために、弟子達と一緒になって、その課題を究明したともいえるが、彼は、その課題を究明するのに、年齢には関係がないと思ったし、もうこれで十分ということは決してないと考えていた。とくに、行動者、実践者の立場から追求する彼には、いくら究明しても究明しすぎるということはなかった。究明が足らないから、人々と社会は変革しきらないと考えた。その責任は、学生達以上に、教師にある。とすれば、その責任の前に、学生達以上に、切実でもある。むしろ、それを多くの場合、学生達に教えることができないというところに、教師の苦悩があると松陰は考えた。それに、教師も学生も現代の課題を究明するということでは、一人の学究徒でしかない。だからこそ、彼は、
「妄りに、人の師となってはならない。本当に教えなくてならないことがあって、始めて、人の師となりうるのである」というとともに、「軽々しく、人の弟子となってはならない。師を求むる前に、まず、自分の心や目標が定まる事が必要である」(「講孟余話」)ともいいきったのである。
教師に最も必要なのは、学生達を教えるということでなくて、人間として、現代の課題にたちむかうという姿勢であり、そのために、どうしたらよいかを全存在で究明することである。そして、学生達というのは、その課題にたちむかう仲間であり、同志である。松陰は、そのように、師弟の関係を考えた。だから、彼は、常に、学生達の先頭にたって行動し、思索した。幕府権力の弾圧をうけるときには、それを真先にうけとめた。師と弟子との間におこる共感と信頼は、そういうものでなければならなかった。
しかも、村塾をつくるとき、
「萩城の東部に、わが松下村がある。人口一千、士・農・工・商の皆が住んでいる。萩は今では大都市になったが、それは真に立派になったとはいえない。もし、将来、萩の名が大いにあらわれるときがあるとすれば、きっと松下村からおこるであろう。叔父は私のいうことを大言壮語というが、村人皆を集めて専心、道理を実現するように努力するならば、私のいうことが大きいと心配することはない」と書いたように、村の不良少年の教育までやり、村民全体の改造をやっていこうとしたのである。
普通、松陰の教育をいうとき、明治維新をやってのけた弟子達のことを強調して、彼に、こういう一面のあったことを忘れがちである。
松陰が、彼等を相手にして語った言葉を記してみよう。
「お前が、どんなことがあっても、途中で屈伏しない、退転しないのは、文字通り、お前の真骨頂である。だが、本当に、世の中に対抗し、一歩も退かないためには、今から、志をたてて、学問することである。そして、何を貫くべきかを知ることである。それを知って貫くとき、始めて不屈といえる。そうでないかぎり、お前の不屈不退は、単なる頑固であり、偏狭でしかない。それは、なんら誇るに足るものではない。」
「お前は、十七歳にもなって、自分が何をしたいのか、自分がどこに向っているのか知らないですねている。今本当に、知る必要があるのは、ただ、目標もなしに、書物をよむことではない。お前が本当に知らなくてはならないのは自分がどういうところにいて、どういうことをしたいかを明確に知ることである。」
松陰が、不良青年の教育をしたというのも、人間は皆平等であるという考えから出発していた。人間が平等であるという松陰の考えが、いかに深く、彼自身のものになっていたかをしめすのが、部落民に対する彼の態度であったが、彼は、そういう人間に対して、何のへだてもなく、人間の人間たる所以は何か、今、日本人は何をしなくてならないかを説きつづけた。そして、彼等に誇りと勇気をうえつけようとした。それというのも、彼等のうけている差別は、彼等自身によって、打破する以外にないと考えていたからである。そのために、彼等には、学問が当時の誰よりも必要であったという認識があった。松陰の死後、塾生の一人吉田栄太郎が、部落民の組織をつくったのも師松陰の遺志を継承したものである。
五
このように、松陰は学問とは現代の課題を究明するものであり、その課題は、師弟がともに追求しなくてはならないものと考えていた。そればかりか、一たび、人間としての自覚をもち始めると、社会の下積みとして呻吟している者程、本当の学問、生きた人間のための学問を必要とするものであると考えていた。学問とは、そういう人達のものであり、そういう人達のものにならなくてはならないと考えていた。だからこそ、学問には、勇気が伴わなくてはならないとも強調もしたのである。
幕末という時代が、それを松陰を始め、多くの人々に教えたし、そういう学問観が村塾を中心に、徐々に、広がっていった。その意味では、明治維新は、古い学問観と新しい学問観の闘争であり、その達成は、新しい学問観が勝利したものということが出来る。
明治になって、自由民権運動がもえさかったのも、その学問観を継承したからであり、更には、自由民権運動がその学問観をひろめ、深めたといっていい。
しかし、明治政府は、自由民権運動を弾圧するために、明治十三年に、「集会条令」を出し、学生が政治集会に出席すること、自由民権思想を国民にひろめていくことを禁止し、それに違反した学生は、退学・停学の処分にするように、学校当局に求めた。
このために、それまで、教授と学生が一緒になって、その当時の課題である自由民権思想を追求し、その思想を実現するために意欲的であった姿勢が徐々にうすれ、教授達の多くは、その関心を現代の課題からそらしていくようになり、いつか、学問的という言葉が科学的という言葉にかわり、それは、更に、客観的という言葉となり、終には、学問と行動というものは全く分離することになってしまった。
その結果、学問とは、現代の課題にとりくむものであるという考えがうすれ、抽象の世界に逃避することになっていった。江戸時代の訓詁と祖述の学問にかえっていったともいえる。それに、当時は、西洋の学問を日本に移植するという課題を第一にしていたために、西洋の学問を翻訳し、祖述することが学問だと錯覚したことにも、大きく関係がある。西洋の文字をよめるということだけで、学者として通用し、人々の尊敬をうけるという有様であった。
しかも、西洋の学問の翻訳者たちは、徒らに、その内容を難解な言葉に翻訳して、学問は庶民大衆に無関係なもの、理解できないものという常識さえつくりだした。折角、幕末から明治初年にかけて、学問とは民衆のものであり、民衆の自立のためにこそ必要なものという学問観に到達しながら、再び、学問を国家権力とその同調者が独占しはじめたのである。体制側の学問にしてしまったのである。
だから、今日の学問の受難史は、明治十三年にはじまったといっても過言ではない。この頃から、教授が講義し、学生はノートするという教授と学生の関係ができる。教える者と教えられる者との関係が確立しはじめた。そのために、教授と学生はともに、現代の課題を究明するという、未解決の課題の前にたっているという考えもなくなっていった。教授は、学生たちが教授に学ぶよりもより多く、学生たちから学ぶことが出来るもの、学ばなくてならないものという考えがなくなっていった。
学問が西洋の学問の翻訳であり、あるいは、過去の知識、過去の学問への知識であると考えるなら、たしかに、学者生活、研究生活を長くつづけている教授が学生よりはまさっているし、それと同時に、学者には、創造力、批判力よりも理解力、記憶力がすぐれているものが歓迎されよう。明治以後の大学で、理解力、記憶力が主に重要視され、創造力、批判力は殆んど問題にされなかったのもそのためである。まして、人間としての自覚、誇り、勇気などが行動力、戦闘力などとともに、全く省みられなかったのも当然である。
学問が現実への有効性、人間と社会に対する変革力を喪失していったのも無理はない。
「集会条令」が出た後、教授達の多くが変貌したように、学生達もまた変質していった。わずかに、変質しなかった教授と学生達は、その活動を大学外に求めていった。それも、大学外の政治運動に求めていった。そして、その傾向は、昭和四十三年まで、ずっと続くのである。続いたばかりか、良心的ともいえる教授と学生、左翼的ともいっていい教授と学生が、八十年以上にわたって、大学の学問とはこれでいいのか、学問とはいかなるものかという問いかけを、同僚の教授と学生に対して全くしなかったということである。これ程、不思議なことはないといっていいが、明治以後の学生運動史、学問の歴史がそれを厳然と語っている。
戦前の学生運動家たちは、誠実で、生真面目であったが、彼等は、圧迫と被害をうけているのは庶民大衆であると考え、そのために勇敢に活動した。危険をのりこえて行動した。
しかし、一度も、自分自身が最大の圧迫と最高の被害をうけているとは考えなかった。勿論、その意味は、学問をする学生として、その学問が圧迫と被害のもとにゆがめられ、そのゆがんだ学問をしなくてならないということである。
本当の学問を求め、その学問の確立をはかろうとするなら、学生運動家たちは、庶民大衆のためというおごりたかぶった思いと姿勢でなく、庶民大衆とともに、本当の学問を求めて、ともに闘うべきであった。本当の学問を求めるということで、学生と庶民大衆は共通の目標を求めることができたはずである。それを求めなかったということが、政府によって、思想転向を求められたとき、学生が安易に転向できた理由でもある。庶民大衆のためと、意気がっている学生は、困難なときに、彼等を捨てても、猶生きる場所はある。その場合、転向した学生自身、本当には、少しも傷ついていないのである。
同じことが、良心的教授、左翼的と自称する教授についても言える。戦前、学問の自由が政府の攻撃をうけて、危機にさらされたとき、大山郁夫は、学生たちにむかって、「学問の自由をまもれ」と強調した。たしかに、学生達にむかって、それを強調することはよい。しかし、この時、もっと大事なことは、全大学教授にむかって、学問とは何か、今日の学問は、十二分に、その使命を果しているかと問いかけることであった。「学問の自由をまもれ」という消極的な発言でなく、学問とは何かという積極的発言に転ずる時であった。学問が学問本来の姿をうしなって、死滅しかかっていることを訴えるべきであった。
だが、そういう動きは、教授と学生のどこからもおこらなかった。それが、戦争中、日本の民衆を戦争にかりたて、アジアの諸民族を抑圧する戦争を可能にした当時の学問であり、学者であった。教え子を戦場においやるしかなかった教授の学問であり、立場でもあった。その意味で、戦争中、日本の学問は完全に破産し、学者の名に価する学者は殆んどいなくなっていたのである。
六
ということは、敗戦後の思想状況は、戦中に追放された人々を大学に迎えいれればよいといえるほどに、生やさしいものではなかったということである。既に、左翼的な学者は、当時の国家権力と戦って敗北したという認識にたって、その学問を再建する仕事をせおっていたし、敗戦を大学教授の位置で迎えた人々は、その責任をもって、辞職すべきであった。そのために、大学が閉鎖になることの方が、占領軍のもちこんだ「平和と民主主義」を無批判にうけいれ、それを宣伝するよりも、ずっとまともである。そこには、学問の何たるかを考え、思想の重さをうけとめる姿勢がある。
しかし、大学は閉鎖にならなかったし、学問そのものを問いなおそうとする動きもおこらなかった。学問が何であるかを一度も考えてみることなく、大学教授になった人々に、そのことを求める方が無理かもしれないが、学問とは何かを考え、その上で、自らの学問研究を始めた人々も、戦後、大学の学問の総点検をやろうとはしなかった。
他人の研究には容喙しないかわりに、自分の研究にも容喙してほしくないという学者の世界の伝統は、戦後も、そのまま、うけつがれた。こうして、個別研究としてはすぐれているが、それが、世界観や指導原理にまで発展していこうとしない学問以前の研究、思想以前の研究が、戦後の大学に、相変らず、強い位置をしめた。
大学教授の数は、戦前の中等学校の教師の数よりも多くなったが、彼等の多くは、これまでの学問を少しも疑おうとせず、それを継承し、学生達におしつけた。
幕末以上の現代社会の激しい矛盾を全身に鋭く感じとっている今日の学生達が、その学問に、その講義に満足できるわけがない。そこから、今日の大学紛争、学問革命を志向する学生運動がおこった。村塾の師弟のように、教授と学生が一体となって、現代の課題にたちむかい、追求することを求める動きがおこった。
それこそ、現代の課題の前には、教授も学生も、ともに、究明しなくてはならないものが沢山あり、そのほとんどは未解決である。たしかに、事実認識とその分析能力では、教授は学生より一歩の長があるといえるが、現代に対する問題意識では、逆に学生の方が教授よりも鋭く、正確である場合も多い。教授も学生も初心にかえって、現代の課題を追求しなくてはならないほど、今日の文化、今日の資本主義は、人間を堕落させ、荒廃させている。その堕落ぶり、その荒廃ぶりを感じとることができなくなっているということが、今日の大学紛争をいよいよ、泥沼におとしこんでいる。
学問革命は、今、はじまったばかりである。八十年間もつづいた学問観を変革する戦いは容易ではない。しかし、学生運動といえば、大学外の政治運動であると考えてきた長い伝統がようやく消えて、今やっと、大学と教授と学問の質の変革にむかって、運動をおこしはじめた。
人々と社会を変革するためには、まず、そういう思想が必要であり、そのためには、似而非なる学問的精神と態度を変えることから始めなくてならないと知ったことは、非常にすばらしい。今日まで、日本に、革命がおこらなかったのも、革命を指導する理論がないばかりか、そういう理論が生まれないような学問的情況にあったということができる。
今日の大学紛争の原因を考える者は、教授と学生の間に対話がないとか、マス・プロ講義にあるという。学生達の多くも、そのことに不満をもらしている。しかし、真の対話は、世界観や指導原理を全身で追求する教授と学生の間に始めて生ずるもので、対話の姿勢から生ずるものではない。学生の先頭にたって、現代の課題にたちむかい、思索し、行動する教授に対して、同じように生きようとする学生は対話を求めていく。それを求めていない学生にはそういう教授も全く無縁な存在である。
松陰の言葉によれば、今の教授も学生も軽々しく、人の師になり、人の弟子になる者が多すぎるということになる。対話がなくなったのでなく、対話を必要としている学生と教授があまりに少なくなったということである。
マス・プロ講義の非難にしても、数百名をこえる聴衆を相手にして講演して、多くの人々を感動させているという事実があることを考えると、全く問題ではない。むしろ、内容のない講義にこそ問題があり、そういう講義の存在を許している学生達にこそ、問題がある。大学とは、大学当局から、教授から、与えられるものなのでなく、自ら求めるところである。
今日は、大学生でありながら、学問を求めない学生が多すぎる。今日、最も必要なのは、現代の課題にたちむかう教授と学生だけがいる大学をつくることである。教授会の自治と学生の自治をめぐる対立がおこるということは、教授と学生の学問の質と内容に対立があるということである。今程、どういう学問をするかということの再検討を教授も学生も迫られている時はない。それを考えようとしない大学紛争の解決策は、全くナンセンスである。
3 女性の生き方を問う
娘は母親を見習う
文部省から“期待される人間像”が出され、それについての論議は、十分ではないにしても、ほぼ、意見は出つくしたかの観がある。だが、中には、すぐれた見解をもちながら、発表の場と機会のないままに、その見解を発表しないもの、今のマスコミには、もはや何をいっても絶望に近いと考えることで発表しないものもある。
たしかに、絶望を感じさせるほどに、現在のマス・コミは無力に近い。母親たちの多くは、文部省や日教組の、あるいは、大学教授や教育評論家のいうことに、右往左往するばかりで、立ちどまって、自分で考えてみようとしない。学歴の亡者になって、子どもたちをしったし、子どもたちから、子どもらしいのびのびとした生活を奪ってしまっている。
すべては、しかたがないではないか、現代に生きていくために、これしかないではないかとうそぶく。心の中では子どもはかわいそうだと考えている者も、抵抗するほどの気力もないままに、この傾向に流されていく。そういう意味では、どこをみても、事大主義的なものでいっぱいということになる。
もちろん、このことは、現代の母親たちが事大主義的になって、それ以前の母親、江戸時代や明治・大正・昭和前期の時代の母親が自立精神や独立精神をもっていたということを意味しない。むしろ、領主や家長に対して、自主性をまったくもてなかった時代の女性に比して、現代の母親の中には、はるかに自立的自主的になった女性も多いのである。しかし、そうした自主的で自立的な母親は、せいぜい、一にぎりの数しかいない。私は、そのことを問題としたいのである。
なぜなれば、女の子どもたちは、母親や女教師のものの見方や生き方を、無意識のうちに学び、吸収しながら大きくなるものであるからである。昔から、「嫁をもらうなら、その母を見てもらえ」ということわざがあるように、娘時代は、どんな心がけがよいように見えても、年をとっていくと、結局、そのメッキがはげて、地金が出てきて、母親のようになるものだというのである。
それほど、人間改造はむつかしいのである。娘時代に、頭の中で、少しぐらい、母親に反発し、母親を批判したからとて、簡単に、母親をのりこえることはない。大多数の者は、母覿を批判しながら、母親に独立して、一個の女性として、社会人として、現代人として生きぬこうとする姿勢をしめすが、結局また、母親の世界、愚劣に近いともいえる世界にひきもどされ、そこに安住するのである。
世の中の技術などの発展と違って、人間がなかなか進歩しないのも、そのためである。それこそ、人間の進歩が、科学・技術の進歩に比例するなら、とっくに世の中は、理想に近いものとなっていよう。
先輩としての母親・女教師の義務
女生徒は、母親や女教師をみながら、女性としての自己形成をやるものであると書いたが、母親や女教師の一言一句が、女生徒にあたえるものは絶望である。母親や女教師の一言一句に反発や疑問、批判をしたとしても、すでに言ったように、娘時代の一時の批判でしかない。その批判から母親や女教師をのりこえ、新しい女性として誕生するために、非常な努力と精神がいる。絶えざる自己批判と検討がいる。徹底的に、自己にうちかつ必要がある。というのは、自分の中にある母親や女教師を克服することであるからである。
いいかえれば、自己との長い長い戦いである。この戦いをすすめることは容易でない。この戦いにうちかつ人は、非常に少ない。だから、母親や女教師は、女生徒たちが、新しい女性として、好ましい女性として誕生するために、協力しなくてはならないし、援助を惜しんではならない。
もっと厳密にいうなら、女生徒を、新しい女、好ましい女に育てようとか、新しい女として育つことを期待するとかいうのでなくて、母親自身、女教師自身、新しい女、好ましい女を求めて、つねに、努力し、精進していくことである。新しい女、好ましい女になる道を、与ず、母親や女教師がきりひらいてみせることである。先進者としての道を歩みはじめるということである。新しい女を求めつづける世界に、女生徒もひきいれて、いっしょに苦闘することである。だが、あくまでも、母親や女教師が、彼女たちの先達でなくてはならない。それが、母親や教師の愛というものであり、また先輩の女性としての義務でもあり、権利でもあるはずである。
「水をのみたくない者には、だれも水をのませることはできない」
ということわざもあるように、母親や女教師が、自分自身、新しい女、好ましい女となることを希求しないでいて、その努力をしないでいて、女子どもや女生徒に、新しい女、好ましい女となってもらおう、そういう女に育てようとすることは、まったくナンセンスである。虫がよすぎる。
女子どもや女生徒のモデルというか、理想的人間像はあくまで身近にいる母親であり、女教師であるということである。道徳の時間に、どんな人物を知識として、あたえられても、その人物が偉大であればあるだけ、多くの生徒にとっては、その人物は仰ぎ見る存在でしかないし、手のとどくところにある人ではない。とくに、道徳で教えるような人物は、どんなにしたら、どんな道程をふめば、どんな努力をしたら、そのような人物に一歩一歩と近づいていけるのかをしめしてくれない。
理想は理想、現実は現実というぐあいに、現実から理想への道がさししめされていない。せいぜい、多くの子どもたちに、自己不信や劣等感をうえつけるのに役だっているにすぎない。こういう教育は、害毒はあったとしても、ほんの少ししか、益するところはない。狂っているというしかない。
“期待されない母親像”が多い
新しい女性像とは何か、好ましい女性像とは何かという編集部の質問であるのに、だいぶ話がそれた感じがしないでもない。だが、私は、新しい女性像の内容を、文部省にならって、羅列しても無意味だと思うし、その他の多くの教育者が、もっともらしく書いても、あまり効果はないと思うから、あまり、そんなことを書きたくないのである。
すでに、書いたところであきらかなように、母親自身が、新しい母親はいかなるものかと常に問いつづける姿勢が、その姿勢から生み出したふんい気が、女の子を、新しい女を求める女性に育てるのだと思うし、職業人としての女教師が、職業にとりくむ女性はこれでいいのか、どうすれば、女性と職業は両立するだけでなく、立派にこなしていけるかと問いつづける姿勢の中で、また立派に職業人として生きてみせるところに、女生徒は、新しい女として、女性として、職業にとりくむ姿勢を、人間の最も深いところで、こくめいに感じとり、刻みこむはずである。
新しい女の内容、好ましい女の内容は、画一的にきめられるものでないし、画 的にきめることほどつまらないものはないともいえる。それが、とりもなおさず、事大主義的なものに通ずるのである。現代に必要なのは、現代が機械化され、画一化された時代であるだけに、よりいっそう、強烈な個性や、独自な生き方や考えである。吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋を教育していったとき、まことに毅然とした態度でのぞみ、あたかも、理想的人間像は自分であるかのごとき自信をもっていた。もちろん、松陰は、弟子たちに自分をのりこえて、どこまでもつきすすむことを求めた。
このように、母親や女教師が、理想的な女性像は私だ。職業についた女性の典型は私自身だと確信をもっていいうることが必要なのでないか。女性像は私だ、職業婦人の典型は私だといえぬまでも、「私はそれらの女性像を求めて、必死に生きているのよ」といえたら、十分ではないのか。
理想的な母親像にむかって、典型的な職業女性の道を、その人なりに精一杯に歩みつづけている姿は、女の子に、女の生徒に、深い感動をあたえずにはおかないだろう。道徳時間に教える人物なんかよりも、ずっと身近だし、また教育的であるはずである。
むしろ、その上で、歴史上の人物は、その思想と行動を通じて学んでいけばよいのである。しかも、そうするとき、単なる知識としてでなく、感情や感覚の延長として、生き方・考え方を深く豊かにする方向に学べるはずである。身につくはずである。
母親や女教師で、新しい女とは、好ましい女とはと質問した時、答えられる人は少ないと思う。考えたことのない母親や女教師も多いのではないか。文部省から出した「期待される人間像」にしても、せいぜい、知識の範囲で考えることから一歩も出ないのではないか。
高校入試のために、それをいっしょうけんめいに、子どもたちに暗記することを求めているのではないか。とすれば、期待される人間像どころか、期待されない人間像をつくっていることになる。それにもっと悪いことには、母親自身、期待されないような母親があまりにも多い。いたるところにそういう母親がいる。母親自身、期待される母親像について、暗中模索なのである。
これでは、母親は、女の子に、何もしめすことはできない。母親が、期待される母親像、女性像を見究めることが先決である。
女教師にしても、結婚するまでは、まあまあとしても、結婚したとたん、多くの女教師は怠慢になる。研究会にも積極的に出なくなるし、子どもが病気といえば、学校をやすむ。放課後、家にも早くかえりたがる。
これをみたら、女生徒は、職業にとりくむ女教師を軽蔑するだけでなく、女生徒自身、いつのまにか、職業に対するきびしさを失い、人生をいいかげんに生きるようになる。女教師は、女生徒の前に、最もわるい見本をまきちらしているようなものである。
こんな母親、こんな女教師に育てられる女生徒に、新しい女、好ましい女になれと要求するのは、まったく無茶というしかない。しかも、娘たちが、こんな愚劣な母親や女教師をのりこえようとすると、きまって一番邪魔するのは、この母親であり、女教師である。愚劣な娘を、愚劣な女にとどめることによって、仲間とし、それに安住していたいのである。恐しいとしか表現しようがない。
平和的人間像
こんなに書いてきたものの、好ましい女性像について、一言もしないということは、やはり、気がひける。少しは書いておくことが必要であるし、義務でもあろう。
わかりきったことかもしれないが、女性は男性と一対一で、社会をうけもち、社会を形成しているものである。男性に従属したり、寄生したりして生きてゆくものでないことはもちろんである。男性に従属し、寄生虫として生きる女性には、女性として生きる喜びは、生き甲斐は、せいぜい半分しかないともいえる。
歴史を形成し、発展させていくということで、女性は男性とその責任を半々にもっているのである。肉体的に相違するとしても、知性の面で、感情の面で、女性は、男性と同程度のものをもつことが必要である。そうしてはじめて、男性のよき協力者、理解者にもなれるのである。
数百年の昔、道元禅師でさえ、
「女性に何の罪かある。男子に何の徳かある。悪人は男子もあるなり、善人は女人もあるなり。聞法を願い、出離を求むること、心ず、男性、女性によらず」といって、人間として、同等にみている。人間としての男性、女性は、別になんら異ならない。ただ現在、家庭的職業につくものが、女性に圧倒的に多く、男性であれば、だれでも、外にでて、職業についている。しかし、有能な女性は、男性よりも、うんとたくさんいる。その能力を家庭にうずもらせ、男性であるということで、無能な力を社会で働かしているということは、まったく道理にあわないともいえる。とはいっても、無能な男性が家にとじこもり、有能な女性が外に出て働くということができないのが、今の社会というものである。
それに、子どもをもつ母親というものは、父親よりは、子どもの育児に適しているようである。であれば、子どもを母親の立場から、夫をも妻の立場から、子どもや夫が死の危険にさらされる戦争というものを排除する女性、いいかえれば、平和的人間像というのが、女性のゆきつく姿とでもいえるのであろうか。
戦争や闘争の好きな多くの男性に対して、平和の好きな多くの女性が、果敢な闘争をいどむ。それが、歴史をつくってゆく女性の歴史的使命とでもいえるのではないか。あとの、いろいろな要素や内容は、それにくらべたら小さいし、平和的女性の中に、収斂されていくものである。
新しい女にしても、好ましい女にしても、また、期待される女性像にしても、女生徒にしめされるべきものでなくて、まず第一に、母親に対して、女教師に対して、成人の女性に対してこそしめされるべきである。それがなによりもたいせつということである。そして、女生徒は、自分で、新しい女とはどういうものかを考え、創造していくことである。それまではわからなくていいのである。
一
戦後二十五年もたつと、戦後の時点で定めた教育目標は再検討を迫られる。ことに、戦中の教育の反動として、思いつきに近い形で、生まれた教育目標は、その後の日本の現実からの批判をうけて、反省を求められたとしても不思議ではない。しかも、それが、アメリカの教育の無批判的踏襲であったとすれば、尚更である。
だが、その時に必要なことは、戦後の教育が、日本の現状にあわず、ゆきすぎていたとか、偏向していたとかという理由の下に、日本の現状にあわせ、これに埋没する形で教育をその現状に単に奉仕させるように変えていくことではない。
というのは、教育というものは、現状をふまえ、それを出発点としなくてはならないが、同時に、その現状を批判し、発展させるもの、未来のための教育でなくてはならないからである。教育が現状の要求に応ずるだけで、未来からの要請に応えることがなくなれば、それは、もはや、教育の名に価しない。そこには、教育の退廃が、教育の荒廃があるだけということになる。
最近の文部省のおしすすめる教育改革には、そういう性格が非常に強い。中でも、女子教育を男子教育と区別し、未来社会に生きる女性を今日の家庭の要求にあわせて、男性に従属化する女性をつくろうとする傾向がでている。
たしかに、戦後の教育と社会の中で、女性は一見、男性と同等の扱いをうけることによって、女性の地位はあがり、その力はたかまったようにみえる。マスコミも機会ある毎に、それを書いてきた。だが女性は、いわれるように、男性に対して、その地位をたかめ、その能力を開発してきたか。男性の存在をおびやかすようになったか。また、男性自身の力になったか。
どうみても、私には、否定的な見解しかでてこない。あまやかされることはあっても、それによって、女性自身その力を錯覚することはあっても、女性が女性自身の潜在的能力を開発し、生かしきっているとは思えないし、家庭のみでなく、この社会を支えているのは男性と同時に、女性自身であるという自覚と誇りをもっている者がいたとしても、それは、大変に少ないと思わないではいられない。一言でいえば、自立した女性が少なすぎるのである。
それにもかかわらず、文部省は、女性を家庭の中にとじこめ、人間として自立しないままに、愚な妻、愚な母にしようとしている。それが、日本の現実の要請であるという名目の下に。
二
先に、戦後の教育が、思いつきであったとか、アメリカ教育の直輸入であったと書いたが、それは、観念としての男女平等の教育をそのまま実施したことに、最も強くあらわれていた。しかし、日本の現実は、更には、日本の大人達は、全く、それと相反するものであったし、相反する考え方をもっていた。だから、学校教育の中で、男女平等の教育を行なうということ以上に、それに反する日本の現実、大人達の考え方を徹底的に批判し、それを変革し、克服するという動きと平行しなくてならないものであった。
だが、実際には、単に、法的に、制度的に、男女平等がきめられただけで、国民的規模で、男女平等とは何かということが徹底的に認識され、究明されるということは、殆んどなかった。せいぜい、男も女も、同じ人間なんだから平等であるし、平等でなくてはならない。それは論議する余地もないという程度にしか考えられなかった。
学校教育の中では、たしかに、女性は男性と対等に遇されたし、彼女達も男性と伍して、平等に、生きることもできた。能力的にも、男性に対して、一歩も劣らないという思いをいだいて生活することができた。それに、学校教育の中では、女性達は、一定以上に、教師から甘やかされ、男女差別の厳しい現実の中に放りだされるという問題をつきつけられることもなかった。その結果、彼女達の多くは、男女差別の厳しい現実にぶつかって始めて、驚嘆し、ペシャンコになるしかなかった。ブツブツと不平を言い、不満をのべる女性にしか育たなかった。
男女差別の厳しい現実、男性を中心とした社会に対決し、それを変革する逞しい女性、創造的知性をもつ女性に育てられるということもなかった。
こうして、戦後、一時期、女性の社会的進出ということが花々しく言われながら、いつのまにか、また女性は、家庭の中にひっこみ、男性の付属物的地位に安住することになってきた。男性の多くもそれを望むことによって、ことに、母親の多くが、その娘にそれを求めることによって、ますます、男性の付属物、従属物の関係を強めてきた。
女性が強くなったというのも、女性を具体的女性として、更に具体的人間として教育してこなかったところに、現実の社会に自立し、また自立できる女性でなく、単にあまやかされる女性、そこから、無智の女性がもつ強さだけが出てきたのである。
戦後の教育のおとしあなというか、弱点はそこにある。文部省は、その弱点を克服するかわりに、現実の社会に妥協することによって、教育から理想と夢を捨て、未来に生きる女性を現実に埋没するしかない女性に育てようとしているのである。
三
文部省が、戦後の教育の中で、女性を抽象的人間として教育しようとし、現実に生きる具体的女性として教育することを忘れていたために、女性を真に女性として自立させることに失敗した。だから、人間としても女性としても全く中途半端なものに育てるしかなかった。現実の中で、有効な能力を発揮することもないままに、男性からは蔑視され、女性自身は、相変らず、その劣等感からぬけきれない。かえって、その劣等感を深めたとさえいえる。
それが、最近、いよいよ、女性を家庭にかえらせることになっている理由でもある。そうなると、戦後二十五年、女性は、真に一度も、女性が自立するとはどういうことか、どのようにして自立できるか、男性の能力と女性の能力の関係はどういうものかを徹底的に追求したことはないのではないかという思いまで懐かなくてならなくなる。経済的に苦しいから仕事をもつというのでは、もはや、自立して、自分の能力を社会に生かし、社会の発展に役だてようとするものではない。では現代社会の中では、女性はあくまで、男性の補助的役割しかないのであろうか。男性に対しても、また、思想的経済的にも、自立するということは、女性にはないのであろうか。
ここで、一般庶民の社会における女性や妻の場合を考えてみたい。とくに、農業、商業にたずさわる女性や妻は、むしろ、男性や夫をあらゆる点でリードしている。彼女達は十分に、その責任を果している。彼女達の職業的能力もその仕事の中できたえられているし、仕事から逃げだすということもない。そういう女性や妻は、男性や夫たちと、その責任を折半してもっている。いってみれば、企業に働く女性達だけがその能力を発揮していないだけであり、責任をもたされていないだけであるといってもよいし、すぐれて、男女不平等の社会を形成しているのも、そういう企業の社会、それに準ずる社会といってもよい。
それは、男尊女卑の徹底した武士の社会、それを継承した公務員やサラリーマンの世界だからである。農業や商業・工業にたずさわる一般庶民の世界では、殆んど男尊女卑はないといってもよい。あったとしても、せいぜい、いばったり、がなったりする程度である。それは、一家の経済を、夫婦が分けもっているからである。娘である女性も十分に、それをになっているからである。
それに比して、サラリーマンや公務員の世界では、女性は、その能力をきたえ、発揮するに十分なる時間をもたなかっただけである。男女平等に近い一般庶民の世界を改めて検討する必要がある。
今日は、逆に、男女不平等、男女差別を、広く一般化し、公務員、サラリーマンの世界、夫に寄食するしかない妻の関係を一般庶民にひろげようとしている。
四
その意味では、これまでの日本には、徹底的に、男性に寄食し、男性に従属する女性達と、男性と対等に自立し、労働しながら、猶、その上に、女性ということで育児や家事を強いられた女性達の二つがあったということになる。とすれば、今日の女子教育は、男性に従属する女性をいかにして自立させるかということと、男性以上に働くことを強要されることによって、やっと、男性と同等の自立を保持することができた女性から、その不平等の労働をいかにして排除するかということの二つの課題があるといえる。
だが、学校教育は、現実の男性、女性を直視することなく、戦前は、男女不平等・男女差別を一般化する方向にむかい、戦後は、単に、それを抽象化し、具体的な男性、具体的な女性としてみることなく、抽象的人間として教育するということだけを考えたのである。しかも、その結果は男性の能力と女性の能力には決定的な差があるだけでなく、その役割も、アプリオリに異なっているのだという考え方を一般化することになったのである。
かつて、男性以上の労働によって、始めて、男性に対して自立した庶民の中の女性達をみて育った娘たちは、むしろ、その自立よりも、サラリーマン的社会に生きる女性の従属をこそ求めた。その生活が楽で、すばらしいと考えた。その母親達も、自らの労働の激しさを知る故に、娘の考え方や希望に同調した。このために、戦後から今日にかけて、ますます、女性の中で、女性の自立、男性に対しての自立を考え、欲する者が少なくなった。
たしかに、その自立が、男性に対するものであろうと、更には、政治的、思想的な自立であろうと、それをかちとることは、大変に厳しい。自分の能力を最大限に発揮するために、可能なかぎりの努力をしなくてはならないし、責任ある行動をしなくてはならない。途中でなげだすことは決して許されない。文字通り、苦しい戦いである。
だから、一見、自立しているとみえる男性も、女性や妻に対して自立しているかもわからないが、人間として、更には、社会人として、経済的、政治的、思想的に自立している者、その仕事に対して自立している者は、実際には多くない。
要するに、自立するということは、女性にとっても、男性にとっても大事業なのである。大変であるからこそ、男性は、その自立をかちとるために、女性の、妻のすぐれた能力の協力が必要だし、女性もまた、その自立のために、男性の、夫の助力が不可欠だということにもなる。
それこそ、女性にとっても、男性にとっても、今日、その自立をかちとるということは、人間として生きていく上の最低の条件であり、最大の課題である。それほど、今日という社会は、女性のみか、男性にも、従属的であることを強いている。自立しがたい時代である。その中で、女性は、男性以上に従属をしいられている存在である。ともに協力して戦うべき男性から、逆に従属をしいられているということにおいて。女性の自立は、その点、誠に、厳しい。
五
女性を自立させる教育とは、どんなものかを考えることが、この小文のテーマであるが、それを究明する前に、紙数がつきようとしているが、それは、今日、教師の五割をこえる女教師が真に自立しているかどうかを考えることにつきる。あるいは、自立をかちとるために、女教師たちが、戦い、努力しているかどうかということである。彼女達の実践が最大の教育だからである。そこに、当然、女教師自身、仕事の面でも、その他の面でも、男性・男教師に依存し、彼等にあまえる姿勢はないかどうか。子ども達や生徒達から、男教師に、一般的に劣るとみなされていないかどうかが問題になる。
女性を自立させる教育は、いかなるものかを考える出発点はここにしかない。女教師が女性として自立することを真剣に求め、そのために戦っているかどうかということである。その気持、その姿勢がない者には、どんな意見も無意味だし、それのある者には、どんなにすぐれた意見も参考以上にはいかない。
今、最も必要なのは、男性に従属している女性たちへの怒りであり、女性を従属させている男性への怒りである。自分の中に、自立を求めない気持が、安住する怠惰な心がおきることに対して、徹底的に絶望することである。そういう心のない者とは、この問題をともに語ることは出来ない。語る気持がおこらない。しかし、そういう教師が、今日、あまりにも多い。
文部省のかかげる教育政策がおかしいとか、教科書の内容がますます妙ちきりんなものになってきたということを心配したり、批判したりするのも、五割の女教師に不満なところからおきているといってもよい。真に、五割の女教師が、女性の従属的現実を怒り、その自立を戦いとるために、教育活動をしているとしたら、ことさらに、文部省の教育政策を、教科書の内容を心配することもない。女性を家庭にとじこめようとする愚昧政策も悲しむことはない。
女性から、その自立を奪おうとする教育政策に、真向うから、反対するのは、反対できるのは、女教師だからである。しかも、現実に、女教師を排除できない状況がますます強まっている。五割の女教師が自ら自立を求め、教え子である女性達に自立を求める教育をほどこすなら、日本の教育は、数年ならずして一新するであろう。今、文部省は、女性から、女教師から、その自立を奪おうとする教育政策をうちだすことによって、逆に、自立を求める教師たちを作りだしている。眠っている女教師たちを急速にめざめさせつつあるといってもよかろう。
女教師の中から、鋭く、且、大々的な運動がおこることを念じたい。母親達もまきこんでいく運動がおこることを希望したい。まさに、今日は、その好機である。
『女大学』は江戸時代の作品で、夫に隷従する妻のあり方をかいたもの、『新女大学』は福沢諭吉の作品で、『女大学』を批判し、女は隷従すべきでないということを述べたものである。
その一 盲目の奉仕はやめよう
今、私は新女大学現代版というテーマを与えられて、何を書くべきかということを考える。たしかに、江戸時代の『女大学』のように、その夫を天とみ、その天に従うようにのべたことは、妻が同様に天であると認めない点で片手落ちであるばかりでなく、そのような妻にかしずかれる夫というものが果して幸せかということになる。
それに対して福沢諭吉のように、その夫に隷従すべきでなく、妻もまた天であると強調しても、妻たるもの、女性たるものが自分を天と自覚し、天そのものでないかぎり、妻たるもの、女性たるもの、その夫に隷従する以外にないし、隷従を幸福と考える以外にない。女性が自らを天と考え、天そのものとならない限りはどうにもならない。
少し古い話であるが、女子大学亡国論、女子学生亡国論がおこったのも、女性が自分を天と自覚せず、天そのものに程遠いような生活をしていることからおこったことである。それ以後、約十年、女性の生活は少しも変らず、女子学生亡国論の風潮は強まりこそすれ、弱まっていない。
天そのものである夫が天そのものである妻を得て始めて真に理解もされるし、協力もされる。そればかりか、妻はその能力によって、己れを全的に生かすと同時に、その夫をもはじめて全的に生かすものである。
これまでは、あまりにも、妻に半独立人間として隷従することを強いたし、妻も半独立人間として、その夫が如何に生きることが人間として全的に生きるということになるかもしらず、唯やみくもに夫につくしていたのである。これでは、全く盲目の奉仕であり、夫も多くは、その盲目の奉仕に満足していたのである。天であるといわれた夫もこれでは天ではなくて、単に愚昧の人というしかない。愚昧の夫を愚昧の妻が助けるという、全くの奇現象を今まですばらしいことといってきたのである。たとえ、妻も天であると言った福沢諭吉も、妻を愚昧な状態に放置していたのでは、それに力をかしていたというしかない。
男性の思想的自立と女性の思想的自立は男女の幸福のためには欠かせぬことである。しかし、ここでは、女性の思想的自立にかぎってのべたい。女性が天であるためには、その思想的自立が第一歩であり、その夫に奉仕することの何であるかも、思想的に自立した女性にしてはじめて知り得るのである。しかも、今日、女性が思想的に自立するようには、殆どの女子大学で考慮されていないのである。
自立していない女性は母親として、その子供を再び奴隷的にしている。その点では、男も女も変わらない。この愚劣さがくりかえされているのが現状である。この辺でそれをたちきる必要がある。
その二 日常生活を意識して
女性、とくに妻は女子大学であろうと、共学の大学であろうと、一旦妻になると、中学卒の女性と変わらないほどに、平凡な女性になる者が多い。だからとて、私は別に中学出の妻を軽視しているのではない。大学時代、学問といい、教養といいながら、一見こむずかしいことを語っていた者が、一旦卒業して主婦になると、そんなことを忘れたかのように、従来あるような平凡な妻になり、学問や教養とは無縁に生きる者が非常に多いということをいいたいだけである。
それというのも、彼女等は学生時代、彼女等をとりまく日常的問題、それ故に切実な問題を研究し深めるということなく、単に書物の中に、教授の頭脳の中に問題を発見し、追求していくことが多く、日常的に生き、具体的に生活している自分自身とかかわらせることによって、自分自身を変えようとせず、単にそれぞれの学問を通して、観念的知識をふやし、頭脳の訓練をやっているに過ぎない。これでは抽象的訓練はやったとして、その多くはその応用ができる程の訓練もなく、それらの学問から遠ざかると、何も語れない女性となり、中学だけ出た女性と少しも変わらなくなるのである。
学問そのものが、本来人間を豊かにし、社会生活を実りあるものにするためにあることを忘れているために、大学当局も大学教授も学問をする前の彼女と、学問をした後の彼女が全く変わるものであるということを考えない。せいぜい、学問についての観念的知識を収得することと考えて、人間の感性そのものを学問化し、論理化することによって、人間そのものを変えることだとは思わない。いくら観念的知識、悟性的認識をふやしても、それが感性にせまるものでないかぎり、どうにもならない。
明治以後の学校教育、とくに大学教育では、この感性にせまろうとする教育は全くといっていい程なされていない。そのために、戦後大学教育の普及とともに、いよいよ口舌の徒をふやし、行動しない人間を作り、一度そこから遠ざかると何も語れない人間をつくりだしたのである。先に大学闘争がおこり、学問を問い直し、教授達に何のために学問をしているかとつきつけたのは、当におこるべくしておこったことである。しかも、この問題を真剣に問わなくてならない状況にあるものこそ、女子大学そのものの現状である。
それなのに、女子大学の殆どは、この大学闘争の圏外にあるといえる程、女子学生は現状認識から遠かったのである。これでは、女性の思想的自立は望めないし、男と女の生と幸福からは程遠い。女性を真に変えるような教育が、女子大学を中心に行われてこそ、女性は本当に強くなるのである。
書物の中から、問題を発見するのでなく、彼女等をとりまく日常的なことから問題を発見し、研究しなければならない。
その三 他人にも思いやりを
妻とくに女性というものは、色々と日常的な問題というか、自分自身の問題で悩んでいる。それは人生問題として、多くの場合、学問や研究の対象にはならないという常識が本人にも教授にもあって、その問題を教授と学生の間の学問の対象にすることはない。せいぜい、それらの問題は、友達か母親か上級生の順に相談し、教授は最後である。
友達と相談して、試行錯誤をくりかえし、一歩一歩と前進するのもよいが、折角大学に学び、指導教授がそばにいるというのに、全く惜しい。それに書物にその解決を求めるものが全くいないというのはどういうことであろうか。父母に相談して納得するということは、多くの場合、父母をのりこえて、新しい真理を見出して、未来の真理に生きることによって、父母の世代の社会常識と敵対して生きるべきはずなのに、これでは社会の停滞に力をかし、社会の停滞をまもっているようなものである。
では、女子学生には一般にどのような悩みと問題があるのであろうか。調査によると、自分には“性格的欠陥がある”というのが一番多い。
だがこの性格的欠陥というとき、多くは父母や教師や友人にいわれて、自分もそうではないかと思い込んだものにすぎない。父母や教師や友人がそれをどこまで深く考えぬいて、そのように言ったか疑問である。それに多くは、今までの社会常識に従って、安易に言った場合が多い。しかし、言われた本人としては真剣に苦しみ、悩むのである。
この性格的失陥があるかないかという問題はそれに悩む女子学生の研究テーマ、学問テーマにしてよい問題である。その女子学生は、この問題を心理学の問題として追求してもよいし、教育学、社会学の問題としてよいであろう。要するに、自分にとっての切実な問題を心理学的に性格学的に人間学的に解明し、更にはそれを人間一般の問題として、教育学的に社会学的に解決してもよい。そうすれば、自分だけでなく、世の中には如何に性格的欠陥という理由のたしかでない理由のために苦しまされている人が多いかを知ろう。この問題を研究することによって、世の中を一歩明るくできるし、大学時代の研究は卒業後も生きてくるのである。
次に多いのは“自分の能力に自信がない”ということで悩んでいる女子学生がいるということである。
この能力という問題を倫理学の問題として追求してもよいし、歴史学の問題として追求してもよい。人々はあまりにも漠然と言っている場合が多い。それを自分の問題として究明してみるだけでなく、多くの人の問題を自分で追求することである。そうすれば、案外能力者といわれている者が無能力者であり、無能力者といわれている者が能力者であるかもしれない。
今は全ての価値観の変わりつつある時である。具体的にその問題ととりくむのが、女子学生であり、彼女達にはそれができるのである。
その外に、“容姿に自信がない”ということにしても、“思想と行動が一致していない”ということにしても、“女性は家庭にかえるべきか”ということにしても、全て女子学生の研究テーマになり、卒論のテーマになるものである。むしろこのような問題を卒論テーマに選び、世の中の常識に挑戦し、世の中の発展に志すべきであり、“女子学生亡国論”の汚名を返上すべき時である。
その四 技術より実践を
妻である、女性は一般に自分の体験しか語らないと言われている。たしかにそういう傾向をもっている。そのために彼女等の言論は非常に強い。しかし、彼女達は自分達の体験に出発した直接的知識を読書などによって深め広めようとしない。
それに対して、男性は読書等によって得た間接的知識をそのままにして、自分の直接的知識に結びつけようとしない。そのために間接的知識と直接的知識が分離したままに終わり、本音とたてまえの意見が両立している奇妙な世の中を作りだしている。口舌の徒が横行し、現実は理論通りいかないということが平然といわれるようになった。
今ほど理論そのものが問われていることはない。女子学生が卒業とともに中学出と変わらないのも、常に彼女達が学問というものは、紙の上、書物の中にあると錯覚して、日常の問題を軽視したことにある。女性はその直接的知識をもとにして、間接的知識をも自分の知識にしなくてならないし、男性の知識をも変える方向にいかなくてはならない。その時始めて、女性は天そのものとなり、思想的にも自立して、真に夫の理解者となり、協力者にもなることができるのである。
今はあまりにも、愚なまま、無智のまま、貞淑の妻、良き妻になり得ると考えられているし、そういう考えが横行している。今こそ、そういう考えを排除すべきである。学問のテーマになりえないと思っている問題こそ、学問のテーマにならなくてはならない。そして、女子大出と中学出の妻は変わったものにならなくてならない。その時、単にレッテルでなしに、女子大学に真に憧れるようになるのである。
思想的独立なしに良き妻にはなれっこない、ということを声を大にして叫びたい。
茶、花、手芸もその関連の中につかむべきで、単なる技術は人間を馬鹿にするだけである。
今このような馬鹿がいかに多いことか。女性が人間であり、女性であるということは思想的に独立しているということであり、そのためには、彼女達をとりまくことを学問的に解決することしかない。もっと聡明になってほしいということしかない。
女子学生亡国論にもの申す
昭和三十七年三月号の本誌は、暉峻康隆氏が「女子学生世にはばかる」、つづいて、同年四月号に、池田弥三郎氏が「大学女禍論」を書いてから、その前年ころからいろいろと論議されていた女子大学と女子学生の問題は、にわかにその内容と方向をあたえられたかのように、マスコミをにぎわし始めた。それも「女子大学無用論」「女子大生亡国論」という、奇妙な論として横行しはじめ、五年後の今日も、依然としてつづいている。そして、その声に、乗っかってとは言えないかもしれないが、とうとう、熊本大学など、二、三の大学が、女子学生の締め出しを始めるというところまできたのである。
恐らく、暉峻氏や池田氏は、女子大学当局と女子学生への警告として、その所論を発言したものと思われる。それは、大学教授である両氏が、自らの教育に絶望しないかぎり、当然のことでもある。だが、あたかも、「女性は家庭にかえれ」、「女性の天職は家庭にある」と囁かれ始めた社会のムードに支えられて、マスコミは、その所論を「女子学生亡国論」に、すりかえて報道したのである。
そのために、暉峻氏や池田氏の所論は、まったくといってよいほどに、女子大学当局や女子学生に警告としてうけとめられなかった。それは、昭和三十七年以来、女子大学当局、女子大学関係者が、両氏の所論をきっかけとして、女子大学の振興策を徹底的に論じ、その対策に意欲的にとりくんだという形勢がほとんどないということでも明らかである。そればかりか、昭和四十二年までに、約二百あまりの女子大学、女子短期大学が新設されながら、そこに、理想を求めて考えつくした女子大学、女子短期大学がほとんどなかったのである。
しかも、新設された女子大学のうち、四分の三は、大学教育を実質的に授けえないという結論が、大学関係者からすでに出ている女子短期大学であったのである。こんな調子だから、女子大学関係者から、「女子大無用論」とか「女子学生亡国論」に対して、有効適切な反論は出てこない。そして、なんとなく、そういうことを言われても仕方ないというムードだけが、最近では定着してしまったようにみえる。
そのためでもあるまいが、名古屋女子大学で、全国十の女子大学学生を対象に、「女子学生亡国論」をどう思うかと調査したところ、53・4%が「心外だ」と答えたのに対して、残りの46・6%は、「何も感じない」「そう言われるのも一理ある」と答えている。約半数の女子学生は、無自覚な学生が多いことを嘆いているのである。
明治三十年から明治四十年にかけて、今日と同じように、「女子大学無用論」とか「女医亡国論」がおこっているが、成瀬仁蔵とか吉岡弥生たちが果敢にその反論を展開したのみでなく、実際の大学教育の中で、それらの意見をくつがえそうと、いよいよ、その教育に意欲的にとりくんだものである。なぜ、今日の女子大学当局、女子大学関係者は、女子大学の改革にとりくみ、興国に連なる女子学生を育成して、こういう奇妙な暴論を粉粋しようとしないのであろうか。それとも、無責任を追求されたことに、真剣に怒ることさえできなくなってしまったのであろうか。
悩みと疑問に包まれる女子学生たち
女子大学の多く、女子短期大学の多くが、そういう現状にあるから、そこに学ぶ女子学生の多くも、自然、大学当局に、教授・助教授に非常に不満をもつようになる。とくに、女子大学における二年間の一般教養、あるいは、女子短期大学における一年間の一般教養に対する不満がいかに強いかは、今日、女子大学と女子学生に関心を持つほどの者は誰一人知らないものはない。彼女たちの多くは、異口同音に、その講義が内容なく、教師はその講義に不熱心であるという。こういう評価は、女子大学創設以来、一貫しているが、不人気なのは女子学生のみでなく、教師自身にもある。そのために、女子大学当局はそれの充実をはかるかわりに、逆に最近では、一般教養は短縮される傾向にさえある。
そういう傾向は、女子大学当局、女子大学関係者が、大学の改革・充実に本質的にとりくまないで、情勢のままに流される女子大学の現状を示しており、「女子大無用論」や「女子学生亡国論」に、その論拠を与えることにさえなっている。
もちろん、一般教養は、男女共学の大学でも、同じく不人気であるが、女子学生には、男子学生にはない、教養を求めて大学に入学するという者が約三分の一もあることによって、その教養と一般教養が混同され、いっそう、その教育を混乱させることにもなっている。その責任は、文部省が新制大学発足当時より、一般教養として自然科学、人文科学、社会科学のうち、三科目あるいは二科目ずつ学ぶなかで、「自然と人生と文化に関する理解を深め、あわせて、専門分野と他の分野などとの相関について知見を広めるとともに、社会人としての教養を身につけさせる」と、機械的に書いたことにもある。そのとき、すでに今日の不人気と混乱は宿されたし、一般教養は内容がないという評価も定まったといえるのである。
たしかに、文部省の一般教養に対する規定は、一見もっともと見えるが、そこには大きな落し穴ともいうべきものがあった。それは、一般教養に対する本質的検討もないままに、従来、女子専門学校で教えていた各教科、各教師が、そのまま、横すべりできるようなものであったということである。一部の教師は、一般教養としての社会学、歴史学、数学などが、何であり、何でなければならないかを考えたが、多くの教師は、それを考えようともしなかった。当然、高等学校の教育内容の向上とともに、大学の一般教養は、次第に色あせていくしかなかった。
それに、文部省のこの規定自身には、不十分なところが、それ以外にもあったのである。というのは、一般教養そのものの定義が必ずしも明確でなかったし、社会人としての教養というあたりには、学問への入門的知識というニュアンスさえ感じられたのである。では、本来あるべき教養とは何であり、教養と学問との関係はどういうものであり、女子学生が大学に求めた教養とはいったい、何を指しているのであろうか。女子学生に即して、この問題を考えてみたい。
女子学生といえば、彼女たちは高校から大学にかけて、いろいろの悩みと疑問にとりつかれる。その中の主なものは、なんといっても、「自信がない」「性格的欠陥が自分にはあるのでないか」「自分の進路がわからない」という悩みであり、疑問である。それらは、どこの女子学生の意識調査でも上位にあるものである。
だが、女子学生の多くは、これらの悩みや疑問を教師に相談せず、せいぜい、母親に相談し、友達と話しあうことで、常識的結論か、それにちょっと毛が生えたぐらいの結論に到達するのがおちである。彼女たちは、そういう悩みや疑問が生の根本であり、人生の意味と価値を考えていく上の中心課題であるということを感じ、考えても、そういう悩みと疑問を学問的に問うてみることをしない。大学教師も、それらを学問的テーマ、研究テーマにたかめ、学問的にとりくむように指導助言することをしない。
はたして、「自信がない」とか「性格的欠陥があるのでないか」とかいう疑問は、学問的テーマにならないのであろうか。女子学生は、学問的に究明することなしに、確かで、好ましい結論に到達するとでも思っているのであろうか。それこそ、自信とか、能力という問題は、心理学のテーマにもなるし、歴史学、教育学、文学のテーマにもなる。歴史学や文学のなかで、初めて、具体的に、能力というものの種々相が究明され、自信があるとか、ないとか言っているものが、いかなる意味をもっているかがわかってくるというものである。そこに、初めて、能力についての確かな知識が生まれ、その悩みと疑問が克服されてくるだけでなく、世の中に、能力についての偏見、俗見がいかに横行し、中学、高校と、その教師にすら、苦しめられてきたことを知るようになるのである。
「性格的欠陥」とか「自分の進路がわからない」という問題も同じである。こういう指導と助言がなされる大学では、「進路がわからない」ということは、悩みや疑問でなく、それを明らかにするためにこそ、大学に入学したのであるということがわかってくる。女子学生が、大学に求めた教養とは、生の根本であり、前提でもあるこれらの問題を、学問的に究明するということであると、漠然と感じていたのではあるまいか。それが、大学の一般教養とゴッチャになって、いよいよ、迷いを深めることになったのが、実状ではあるまいか。
いってみれば、教養とは、学問の出発点であり、学問の終点になるものである。そして、大学の一般教養も、学問の出発点となり、終点になるものを予想させるものでなくてはならない。そうなれば、学問に厳しくない女子学生、大学に遊びにくる女子学生はほとんどいなくなろう。
再検討が望まれる家政学
一般教養のあり方を述べたのを、きっかけに、女子大学の現状に即した改革案についてもう少しふれてみよう。
女子学生のうち、六割近くの学生は家政学部や家政科の学生である。それというのも、ここ数年間、新設、増設されるのは、ほとんど家政学部や家政科であるから、それも無理はない。では、なぜ家政学部、家政科が圧倒的に多いのであろうか。
これは、「女性の天職は家庭にある」という最近とくに顕著な社会の風潮と無関係ではないし、また、女子大学の当局者、新設者が、女子大学とは何か、今日における女子大学の役割と意味とは何かを、真剣に問うてみようとしないことからきているとも言える。今日の常識と堕性に従って、女子大学を増設、新設してきたということでもある。
だが、大学をつくり、大学教育に携わる者は、「女性の天職は家庭にある」という命題を問いなおしてみることを迫られているのではなかろうか。たしかに、今日までのところ、子供を生み、保育することは女性にしかできない。その意味で、「女性の天職は家庭にある」というなら、それも有意と言えるが、この言葉の裏に、子供の教育から家庭にあるいっさいの仕事の担当者として、女性がふさわしいという意味がこめられている。
そこから、有能な妻、有能な母を育成しようとして、家政学部や家政科が設けられるという結果がでている。しかし、はたして、妻や母として、女性は有能なのであろうか。子供の教育にかぎっていうなら、現在三分の二を占める小学校、中学校の女教師は、相対的に男性教師に劣るという評価をうけている。子供たち自身からも嫌われている。母親という要素は、教育者としての要素ばかりではないが、それが重要な要素をもっている。ということは、女性が子を育てる親として適任者であるということは、簡単にいえないということである。しかも、家政学部や家政科では、中途半端な教育的知識しかあたえないのである。中途半端な知識ということは、その他の栄養、住宅、食品、被服など、すべてにおいて言える。いってみれば、家政学部、家政科は、あらゆることに、シロウトの女性をつくっているのである。むしろ、こんなことは男性に必要な知識である。
学問としての家政学、大学で研究する家政学にするためには、まず、家政学とは何かということが問いなおされる必要がある。そして、その場合女性の能力や役割を根本的に追求する女性学(仮称)が、なによりも家政学の中心になることが求められる。そうなるとき、女子学生が女性と同時に人間としても独立しようという意識をもちはじめ、「女子学生亡国論」を返上する第一歩でもある。男子学生を収容する家政学にする必要のあることはいうまでもない。
もちろん、一般教養の改革案、家政学部や家政科の改革案にしても、女子大学当局、女子大学関係者が、改革の必要を痛感し、改革にむかって討議をおこすことが先決である。商売のために大学を経営し、女子大学教師は共学大学に移るまでの腰掛けと考えている者が多いかぎり、女子大学には改革も充実もない。「女子大学無用論」を横行させるだけである。そういう点では、女子大学教育の最大の被害者である女子学生の中から、改革案が、改革運動がおこることを期待するしかないのかもしれない。
女子大学再建への三つの道
女子大学をどうするかということになると、どうしても、夢のようなことをいう以外にない。それほどに、現実の女子大学はゆがみ、かたよっている。ゆがんでいる第一は、現在の大学は家政学部と文学部にかたよりすぎているということである。それに、文学部といっても、日本文学と英米文学が圧倒的に多い。これをまず、思いきって是正することである。女子高校生の志望を調査しても、家政学や国文学、英文学が決して、圧倒的に多くはない。女子高校生の多くは、女子大学が家政学や国文学、英文学を多数募集しているということで、やむなく、そこに入学しているにすぎないのである。
ここにも、旧制女専時代の国文と家政を中心にしたものを安直に踏襲している姿がみられる。家政学部や家政科を解体して、理学部や工学部、農学部をもっともっと増やしたらよいし、文学部を解体し、法学部、商学部、経済学部をもっとふやしたらよい。国文学や英米文学のかわりに、教育学、社会学、歴史学をふやすのもよい。そこから、各方面に活躍する現代的女性を、学識ある女性を創ることが始まる。女子学生の中に、学問する厳しさがないのも、大学生活が高校時代の延長になっているという感じが強いところからきているものが多かろう。
第二は、女子短期大学で、はたして、大学教育といいうるものがやれるかという疑問である。もちろん、誰も、そこで実質的な大学教育ができると考えている者はいない。とすれば、四百余もある女子短期大学をどうするかという問題がおこってくる。当然、思いきった改革案が必要になってくる。女子短期大学が大学として生き、大学として通用し、女子学生が大学生らしくなるためには、中途半端な専攻学科を設けず、全部、教養学科にしてしまうことである。その場合の教養とは、学問の出発点であり、学問の終点となるような教養であり、その手ほどきをすればよいのである。そのあと、四年制の大学に入学できる者は入学するとして、短期大学を卒業して社会に出る者には、学問は一生かかって為すべきもの、為さねばならぬものということを徹底的に教えこめばいい。そして、独学できる能力と姿勢を、二年間で、とことん、たたきこめばいい。
生の意味と価値を、現代の意味と方向を徹底的に自分自身が、考えた女子学生、考えることのできるようになった女子学生は、必要に応じて、どんな専門の学問もできるはずである。学ぶことができるはずである。職業のなかで、本当に、有効な学習ができるはずである。中途半端な知識をあれこれとつめこむよりも、ずっといい。
第三は、女子学生の卒業生の多くが、教職についているということに関連してだが、女子大学は、思いきって小学校・中学校の教育に深くかかわるような学部、学科の方向をめざしていいのではないか。といっても、その内容を平板にせよとか、非専門化せよというのではない。
例えば、社会科についていうならば、小学校・中学校の社会科理念が崩れたのは、大学教育のせいである。というのは、大学では、小・中の社会科の内容を、政治学、経済学、社会学、倫理学、心理学、歴史学、考古学、地理学などに分けて講義している。
小・中の社会科は、総合への過程の中から生まれたものであり、決して、一般社会とか歴史とか地理とかにわけうるものではない。要するに、社会的事象、人間的事象を総合的にとらえ、説明しようとするものである。だが、小・中の社会科は、大学教育の現状を反映して、どんどん分化していっている。どういう学部、学科にするかは検討の余地はあるとして、分化した学問でなく、総合への道を求める学問を、学部、学科として女子大学に設けてよいのではないか。その時、小・中の教育に、思いきって取りくむ女子学生がどんどん出てくるのではあるまいか。
最後に、私がいいたいことは、かつて、学校令によらないで、羽仁もと子や安井てつが学校を大学を創ったということである。今日では、いっそう、文部省の大学設置基準に則らない大学がどんどん計画されてもよい時ではないか。民主主義の今日、かえって、どの大学も文部省の認可をとろうと血眼になっているということは、まったく、おかしなことといわねばならない。文部省の見解を超越したような女子大学が誕生してもよいのでないか。誕生すべきではなかろうか。
4 戦争の渦中に生きた者から
私にとって、決定的な意味をもった戦争といえば、それは二十数年前の太平洋戦争であろう。当時、私は二十歳前の年齢であったから私なりに、価値を追求し、美を模索するときであった。私には、私の価値と美を決めることなしには、何も行動しえないと思われた。だから、太平洋戦争についても、私なりに考えた。私には、大人たちのとなえる太平洋戦争の目的をそのまま信ずることは出来なかった。逆に、戦争の実態を知るにつれて、大人たちの実態は戦争の目的とは全く相反することも知った。私は次第に、この戦争の中で、大人たちを変えなければならないと思ったし、解放されなくてならないのは、東亜諸民族よりも、むしろ日本人自身ではないかと考えるようになった。
しかし、当時の私には、残念ながら、その基準となるものは、私の考えた天皇精神以外にないと思われた。それ以外に思いつかなかった。しかし、いずれにしろ、当時の軍隊のみでなく、天皇の重臣まで、天皇精神に反する存在であったし、私の知る限りの青年をふくめて、全ての大人たちが我慢ならないものにみえた。文字通り、日本人をあげて、全て、革命が必要であると思い定めるようになり、私は私なりに、その母胎となる結社の育成強化にとりくむことになった。それは、当時、全くの微々たる存在であったが、帰命会と名づけられた。
昭和十八年十二月、学徒出陣を強制された私は、後に残る後輩にむかって、
「若し、私が営倉にいると知ったら、私は健在であると知って欲しい」と言い残して入隊した。
当時の私は、日本軍隊改革の燃ゆるような情念をいだいて入隊した。
入隊三ヵ月めに、私は中隊長に呼び出され、国賊というレッテルをはられた。同時に、一週間、取調べをうけた。これらのきっかけになったのは、軍隊の批判を葉書にかいたのを、憲兵隊に問題にされたためであった。此の事件は、一応要注意人物ということで落着した。しかし、そのために、私は幹部候補生になることを辞退しようと思った。だが、教官は私のような人間こそ、幹候になるべきと言って私の辞退を認めようとしなかった。
天皇精神に生きようとする私が、逆に認められたことになる。その後、予備士官学校に移ったが、当時、私はその反省録に、私の心情を吐露しつづけたために、毎日のように、教官から、この不忠者と言って、なぐられたものである。そのために、竹刀がこわれる程である。だが、当時の私には、この教官から、必ず革命をおこしてやるという強い信念があった。卒業をひかえて、教官からなぐられることはなくなった。教官を革命したのでなく、むしろ、教官は私の頑固にあきらめてしまったようである。
当時の私は、軍隊の革命にいよいよ、情念を燃やしていた。
卒業後、一時、台湾にいたが、そこで二ヵ月、私はペスタロッチの研究にとりくんだ。敗戦の年日本にかえり、その年の六月、新しい部隊を編成した。私の小隊には、中隊で厄介視されている者がすべて配属された。しかし私は彼等の革命を意図していたので、そのことをむしろ喜んだ。三ヵ月間で、彼等にどこまで革命をおこしたかは怪しい。しかも、破滅は余りにも早くきた。戦争は夥しい血を流した。しかも、国民は何も得なかった。更に敗戦によって、天皇精神によって、日本人の中に革命をおこさんとした私の願いは根本から挫折した。私の考えていた天皇精神というものはどこにもなかった。
私は依り所の一切を失った。私は自殺を考えた。私が、親鸞、道元、日蓮によって、救われるには、三年間かかった。私は、彼等によって、地球は私自身を中心にして、まわっていることを思い知らされた。そればかりか生命そのものが尊くて、革命のための生命が尊いのではないことを思い知らされた。だから、それまでの私は戦争の中で、その戦争といかにむきあってどう生きるかを考えていたが、それ以後の私は、戦争そのものを如何にしておこさないようにするかという問題に直面してどう生きるかというふうに変った。
戦争の中での革命を考えることはもう出来なくなったのである。いってみれば、絶対平和主義者としての出発である、昨年から今年にかけて、脳血栓という大病をしてみて、いよいよ、生命の尊さを知り、ますます戦争を憎む気持を強めた。
私と日蓮との出会いは、昭和二十年八月十五日までさかのぼらなくてはならない。勿論八月十五日とは象徴的な意味でいったものであり、日本民族を含めた人類の悲劇をあれほどまでに大きく生みだした十五年戦争が私を日蓮のところに追いやったといっていい。この戦争に、民族の一人として、たとえ、当時、二十歳そこそこの一学徒であったとはいえ、加害者として参加したという悲しみと自己嫌悪がなかったなら、残念ながら、私と日蓮とは出会うことはなかったであろう。もし、出会ったとしても、今日程に深く激しいものとはならなかったであろう。
私と同世代の人達の多くは当時すでに、何を知ることも許されず、その機会もないままに、一定のレールの上を歩まされていたことにおいて、戦争の被害者であったことを強調する。だが、私には、被害者の意識は少ない。殆んどないといってもいい。被害者であると認めることほど、私にとって屈辱感はない。十八歳をすぎた者にとって、自分の人生に責任をもてない姿勢ほど、私にやりきれないことはない。
当時、私が加害者の一人であったことは動かしがたい事実である。それにまきこまれていたことも事実である。それが、教えられないことからきていようと、自分の無智からきていようと問題ではない。そこにあるものは、加害者であったいう厳然たる事実だけである。人間は人間であることにおいて、それに責任をもたなくてはならないし、それに責任をもとうとする者だけが、自分の人生を生きているということがいえる。私は加害者の道を真剣に力一杯生きた。しかたなく戦争にいったのではない。しかたなく生きるということは私の生きる姿勢が許さない。私は戦争に意味を与え、価値を見出していった。
だが、敗戦を契機として、私の当時の智恵が、あの十五年戦争の実体を見抜くこともできず、自分を加害者に追いやっていたことを知ったのである。無智故であったために、私のショックはかえって大きかった。私の中には、ポッカリ空洞ができていた。
私の行動と思想のもつ愚さと恐しさが私を絶望の中にたたきこんだ。生きることの恐しさにさいなまれていった。行動することが他人の幸、不幸の鍵をにぎっていることを思い知らされたときの驚愕。しかも、すでに、自分は、他人の不幸をつくる片棒ばかりか、唯一回かぎりの生の否定に参加したというやりきれなさ。知らなかったといってはすまされない。もうなくなって再びかえることのない人達のこと。日本にいて、一人も殺さなかったということではすまされない事実。だまされたといって、おこれるのは生き残った人達だけである。
この時ほど、生きることの厳しさを感じたことはない。また、その時ほど、生きる意味と価値を見失ったこともない。死のうとして死にきれなかった私は、その後生命力に支えられて、魂のぬけたままに、生きながらえていた。笑うことを忘れ、戦争の亡霊に魅入られた幽鬼のように生きていた。幽鬼それが当時私の周囲にいた何人かの人が私にあたえた言葉であった。
死にきれない私が生きていくためには、生に意味と価値を見出し、発見する以外になかった。この過程で遭遇したのが、日蓮であり、道元であり、親鸞であった。それはまた、日本の再発見を願う私の立場にも通じていた。日本に生命を賭してきた私も、そして、そのために死んでいった多くの人達も、戦後の日本否定の状況の中では、あまりにもみじめであり、悲惨でありすぎた。私をふくめて、多くの亡霊を救う道は、日本を再発見し、日本を人類の未来に生かすしかなかった。それが、私の生の意味の再発見にも通じていたのである。
約三ヵ年の悪戦苦闘のはてに、私は笑いをとりもどしたということだけを、ここでは報告するにとどめたい。というのは、笑いをとりもどしてから、十五年にもなるが、私には、まだ、これこそ、真理なりと断言しうるものを掴むところまでいっていないからである。真理とはどんなものであり、どのへんにあるか、漠然とわかった程度にしかわかっていない。
私がもたもたしている間に、私の同世代の人達の中には、戦後まもなく、かつて日本主義に傾斜していったのと殆んど変わらぬ姿で、コミュニズムに傾斜し、そしてまもなく去っていったもの、あるいは、戦中派を代表するかの如く発言してすぐに消えていったものといろいろある。だがこの人達は、戦争を思想的にうけとめた戦中派ではない。思想することの厳しさ、思想を創造することの困難さを、身体をもってじかに感じとった世代こそ、私達戦中派だといったら、いいすぎになるかわからないが、そういう戦中派は、今、表現にならない思想を温めつづけているということがいえる。
もしかすると、最後まで、形をもたないままに終るかもしれない。だが一の生き方として、生きる姿勢として、次代に継承されていくことだけはまちがいない。思想とは、思想の創造とは、そういうものではあるまいか。少なくとも、戦前派の挫折から、何も生まないままに、戦後ケロリと、思想界の指導者としてカムバックした人達よりもはるかに思想的であるし、考える世代になっているといえる。果して思想世代といえるかどうかはわからないが。
昨年、たまたま、経営思潮研究会から、日蓮の書簡集を出版する機会を提供されたが、十八年間温めつづけてきた私のテーマとしては、決して十分なものではなかった。でも、今日に生きる私の立場から、日蓮を見、日蓮を考え、日蓮の思想をして、歴史とともに永遠に発展するように定着する努力はしてきたつもりである。
そして、日蓮との出会いが、もう三年早かったら、私は加害者の道を歩まず、栄光への道を歩んでいたともいえるし、日本民族をも栄光への道に歩ませていたかもしれない。日蓮の偉大さは再発見したが、他方、これをいわなくてはならぬことほど、残念なことはない。
本誌の昨年三月号に、昭和二十年八月十五日という日が私と日蓮を出あわせ、日蓮を通して、その後の私の人生の意義と価値を本当の意味で、発見させたことを述べたが、そのことを、もう少しくわしく述べてみたいと思う。
私達、くわしくは私達戦中派は、敗戦を契機として、それまで信じ、倚り所としていたすべてのものを崩壊させてしまった。あらゆる意味と価値が、その根底から崩れ去ったのである。あとに残ったものは、スッポリと穴のあいた虚無という深淵でしかなかった。信ずべきものもなく、倚り所とするなにものもなかったのである。一切が虚妄となってしまったのである。全くのゼロの状態といっていい。それは、一の思想、一の主義を深く考え、激しく信じていた者ほど、底知れぬ絶望の形で訪れたといっていい。信じていない者、考えていない者には、疑うべきもの、失うべきものがないのは当然である。だから、戦争を思想的に生き、全身で戦った者だけが当面し、ゆきついた絶望と虚無であった。しかも、その絶望と虚無は、考え、信じた深さと反比例して訪れたのである。考え、信ずることが深かっただけ、絶望や虚無もそれだけ深かったのである。
戦中派は、なにもかも失ってしまったのである。一の思想、一の主義に裏切られたものは、次にあらわれた一の思想、一の主義にそのまま、はまりこむことはできない。信ずることはできない。どうしても疑ってみないではいられない。心底から、懐疑の立場にたたされるのである。しかも、すべての思想、すべての主義にたいして一定の間隔をおいて、疑ってみないでいられない。この時になって、始めて、哲学が、無前提の学としての哲学が自分のものになっていったということができる。無前提の学としての哲学がわかったともいえる。すべてを疑ってかかる、疑わないではいられない立場こそ、疑うということが本質にさえなった立場こそ、哲学の立場である。哲学とは、要するに、ゼロの地点にたって、ゼロから創造することである。
こうして、戦中派は思想世代になれる運命の下に、思想世代としての課題の前にたたされることになったのである。思想の創造にたちむかう世代、思想する世代になったのである。
これまで、本当の意味での哲学というものに無縁であった日本の思想的風土の中に、まがりなりにも、思想する世代が誕生したのである。厳密には、思想世代が誕生する唯一の機会が訪れたのである。それほどに、戦中派は深く裏切られ、絶望と虚無の深淵にたたされたのである。そのような世代が誕生したことだけでも十分に意味がある。
しかも、絶望と虚無にむきあった世代は、なにものも信ずることなく、今ある自分を前提にして、たとえ、それがどんなに不十分であり、未熟であっても、それをたよりとして、それ自身をたのみとして、手さぐりで進むほかには、どうしようもないのである。道のない道をきりひらいて、その道を進んでいくほかには、方法がないのである。
日蓮の歩んだ道もそうであった。すべてを疑い、すべてに絶望して、一切経そのものの前にたって、真なる法の探求をはじめたのである。日蓮は時代の新しい転換点にたって、新しい時代を導くに足る思想をさがし求めた。それは、貴族を中心とした社会から、武士を中心とした社会への過渡期にあたっていた。当然、新しい時代を導くことのできる思想が必要であった。これまでのものは、すべて用にたたなかった。日蓮は身を以て、それを感じ、新なる思想の創造にたちむかったのである。すべての諸宗諸派を疑い、否定することから始まった。新しい時代を導くに足る思想をそこに発見できなかった日蓮は、すべての諸宗諸派を否定する以外になかったのである。あるのは、唯日蓮と一切経しかなかったのである。日蓮はその足で立ち、自分の頭脳で手さぐる作業をはじめたのである。信じられたのは、自分の足であり、自分の頭脳であった。そして、一切経をも疑ってみたのである。疑って、そして、信じ得るものを択びだしていったのである。
日蓮が択び出し、ゆきついたのは法華経というお経であったが、日蓮が法華経を択んだという事はたいしたことではない。勿論、当時においては法華経を択んだということは意味もあり、価値もあったかもしれないが、今日では意味がない。今日、意味があるのは、日蓮がすべてを疑い、すべてを否定して、そこから、一のものを択びだしたという姿勢と態度である。択びだした一のもので、すべての諸宗諸派を包括し、統一していけると判断した視点である。
今日、私達が、時代をこえて、日蓮に学ぶものは、この姿勢であり、この視点である。日蓮の思想の多くは形骸化しているともいえるが、思想する日蓮、思想を創造する日蓮の立場は生き生きと生きている。生命を失うどころか、逆に生鮮さをましてくる。日蓮諸宗が今日、生命をもっているのも、そのためであるが、今日の日蓮諸宗が、日蓮の創造した思想を追うことのみに汲々として、その思想を一歩もでないということは、何よりも宗祖日蓮に対する冒涜であり、日蓮をけがすものというほかない。
日蓮の思想を継承するということは、日蓮が当時生きた如くに、思想した如くに、生き、思想することである。時代に対した如くに対し、諸宗諸派に対した如くに対することである。その時、始めて、日蓮の思想を継承していると言える。それは、決して、日蓮が生きていた当時の仏教の諸宗諸派ではない。日蓮の前には、諸宗諸派といえば、仏教のそれでしかなかったが、今日では違う。あらゆる諸宗諸派が、あらゆる主義・思想が人間の幸を創るために、増進するために存在しているといわれている。人間の幸を増進するために存在する主義・思想は、すべてこれを疑いつつも、すべて、これを検証しつつ、吸収していくことが必要である。
日蓮が、五逆の者でも救える道を探求した様に、今日では、すべての者を平和に、平等に、自由に生活できるように、その道を探求しなければならない。最も困難な道を探求しなければならない。
日蓮がその思想を創造した当時よりも、今日はずっと困難な世の中に生きているといえる。私達の前には、疑い、検証してみなくてはならない諸宗諸派、主義・思想があまりにも多く存在しているからである。だからとてその作業をさぼることはできない。怠けることは許されない。それがまた、絶望と虚無にむきあった人間、その故に光明を求めずにはいられない人間の運命ともいえるのである。絶望と虚無の深淵をのぞいた者は、それだけ激しく光明と解脱を望むからである。それも、すべての人の光明と解脱を求めるからである。
昔から、仏法僧という言葉があるが、私達思想世代としての戦中派には、仏は死んでしまったといえる。僧もまた死んだ。あるのは唯、法だけである。法とは、自然の法則である。人間界をふくめての自然界の法則である。この法則を探求するのが僧であるが、僧がその法則を探求することをやめてしまってから久しい。探求をやめてしまった所に僧なんて者は存在しない。探求する者を僧という名で呼ぶと混乱をおこす。混乱をおこさないためにも、探求する者を僧と呼ぶことをやめたいのである。
法があって、その法に仏という名称をあたえたが、それは智慧浅き時代の産物であった。智慧のすすんだ今、仏というものは必要ないし、仏というものではごまかされることはなくなったのである。そこには、法とむきあった釈迦・法の前にたった日蓮の姿があるだけである。私達も、釈迦が、日蓮が法にむきあった如くに、法にむきあえばよいのである。法を探求しつづける私達となればよいのである。自然の法則を探求し、その法則に即して、人間を教化する教法を人間を最大限に生かす組織をさがしつづければよいのである。それが生の課題であり、生きるということである。人は、自ら探求したものを生きるしかないし、探求しただけしか生きられないものである。しかも、死によって、一切が空となり、無となってしまうしかない生を生きるしかないのである。自分の生、自分自身の生とは、結局、そういうものである。
戦中派の復権とは、そういう生を生きることである。そういう生しか生きられないが、そういう生を生きるということが、主観的にも客観的にも意味や価値があるのである。
その意味や価値についてはまたの機会にのべたい。
戦中派体験は不毛か
安田武氏の『戦争体験』(未来社刊)のあとがきを読むと、「戦争体験について、書きおろしを書けという注文が、一・二の出版社からあった」と書いてある。さすがに、戦後二十年近くにわたって、時にふれ、折にふれて、戦争体験にかかわるテーマを書きつづけてきた安田氏だけに、その周囲にはその意味を十二分に知って、冒険をやってみようとする編集者もいるのかと妙に感心した。
それというのも、少なくとも私の知る編集者たちの多くは、「戦中派による戦争体験の問題」というだけで、またかという顔をして、関心をしめそうとする人がみあたらないからである。編集者としての最低の常識である、「一応きいてみる」という姿勢すらみせてくれない。だからといって、そのテーマが無意味だと思っているわけでもないらしい。ただ期待できないということらしい。とくに、戦後世代に属する編集者の場合、それが甚しい。彼等は、戦中派の戦争体験、それをふまえての種々の論議には、すでに結論を下してしまっているかのようにみえる。勿論、それは不毛という結論である。そればかりか、戦中派そのものに不毛の世代という、烙印さえ押しかねないようすまでみえる。
戦中派の一人として、私自身、それをやりきれないと思いながらも、これまでの戦中派の戦争体験とそれをふまえての論議に関するかぎり、戦後派のそういう結論もむりはないという思いを否定しきれない。あれほどに戦争体験に固執する私達世代が、戦後派に確実に伝えうるもの、残しうるものは何か、ということになると、これまでのところ、大変あやしいと思わないではいられないからである。
考えてみるまでもなく、もう、戦後満二十年もたっている。村上兵衛氏が“戦中派は目下考慮中”と書いてからも、すでに十年もたっている。三十代であった戦中派は、今は四十代になっている。目下考慮中とはいわないまでも、もしも相変わらず、それに近い状態にいて、自らの中に生じた欠落の部分を充足できないまま、自分と時代への不信をいだきつづけているとしたら、戦後派が戦中派に対して不信をなげつけたとしても不思議ではない。
だが、もう、戦中派も長い思考と生活の集積をへてきた以上、現代に復帰していい時期であるし、復帰しなくてならない責任と義務がありそうである。いつまでも、被害者づらをして、青春をすりへらした者として、十分に学ぶことができなかった者として、それらを理由に甘えていることは許されない筈である。そのためには、不毛という判断をうけた「戦中派の戦争体験」論議は果して不毛なのかどうか、不毛とすればどう不毛なのか、どうすればその不毛をたちきって戦中派としての課題にとりくめるのか、検討してみる必要があるであろう。
いうまでもなく、この問題はあまりにも多岐におよんでいるし、その範囲もひろい。その問題点を整理するといっても容易なことではない。さしあたって、『中央公論』『世界』『思想』『思想の科学』などにあらわれた諸論文を中心に、戦中派復権のための一の覚え書をまず書いてみようと思う。
「戦中派ブーム」とその末路
「戦中派が「戦中派の主張」という形でマス・コミにはじめて登場したのは、昭和三十一年の「中央公論」三月号「戦中派は訴える」という座談会であったといってよかろう。「戦中派」という言葉が誰の創案なのか、それがいつごろはじめて使用されたのかは知らないが、この小論を書くにあたって、上記の雑誌をみていったかぎりでは「中央公論」三月号が最初であった。
その編集後記には、同誌の編集長であり、戦中派の一人である嶋中鵬二氏のつぎのような文章がある。
「戦後10年、各都市が受けた爆撃の傷あとなどはほとんど跡かたもなく復興した今になって、人間の心の底の傷がうずき出してきた。大熊信行氏の戦争責任論、戦中派の座談会などがそれです。滅私奉公から民主主義へ……実にみごとに、剣豪から野球選手に転身するような変りかたを示してくれた一部文化人を見つめながら、じっとうずくまっていた人たちがいるのです。
戦中派……戦後派でもなければ戦前派でもない。戦争に青春を捧げ、青春を奪われた世代……本来ならば戦争責任追求の急先鋒となるべき人々が、共犯者意識に悩まされながら、戦前派のす早い変身や泥の擦りあい、戦後派の無邪気な平和謳歌のかまびすしい中で、途方にくれて生きてきた。戦中派は一体何を考えているのか。座談会は必ずしも意をつくしていません。しかしこれが契機となって、この世代が重い口を開くことを期待せずにはいられません。」
嶋中氏のいうように、この座談会はあまりにもお粗末すぎたようである。座談会は「戦中派が基礎学力におとり、自信のもてない弱い世代である」ことをあきらかにしただけで、それ以上、どんな問題も提出できないほどに貧弱であった。ただ、その貧弱さが、村上兵衛氏の一連の論文、「戦中派はこう考える」(四月号)「地獄からの使者辻政信」(五月号)「天皇の戦争責任」(六月号)をひきだし、座談会出席者である丸山邦男氏を刺激して、「ジャーナリストと戦争責任」を生みだしたということで成功であったといえないこともない。
たしかに、村上氏の「戦中派はこう考える」はなかなか意欲的だったし、天皇の戦争責任を近衛将校の立場から追求したところは、それなりに読ませるものもあったし、丸山氏の論文は、それまで何人によっても追求されたことのなかったジャーナリストの戦争責任を急追して力作であった。だが結局は、その他の戦中派は参加しないままに、わずか一年後には、もう、その村上氏に、「戦中派ブーム始末記」を書かせ、その中で「戦中派という言葉は成語として定着することもなしにまた消えようとしている」といわせてしまうほどに、戦中派の登場、戦中派の展開した戦争責任論は発展のないままに終わっていくしかなかったのである。このことが、その後の戦中派の戦争体験論や戦争責任論を実りうすいものにしていくはたらきをしたというとオーバーかもしれないが、少なくとも、そこに、戦後派が戦中派にいだく不信の一つのきっかけがあったことは否定できない。
戦中派が戦中派それ自身の問題を提出し、発展させることもできないままに、わずか一年で「中公」の誌上から消えていくしかなかったのは、戦中派全部が背負わなくてはならない思想責任であるが、同時に、どんな問題も提出できないほどにお粗末な座談会を企画した当時の「中公」の編集部にも、その責任の一端はありそうである。
というのは、私は先に、マス・コミへの戦中派の登場は、この座談会であるといってよかろうとは書いたものの、厳密にいえば、すでにその先年、戦中派の一人吉本隆明氏が、「高村光太郎ノート」(「現代詩」七月号)「前世代の詩人たち」(「詩学」十一月号)で、戦中派の立場から鋭く戦前派の戦争責任を追求しはじめていたし、同じく安田武氏も、「三十代はこう考える」(「群像」十月号)で、「私たちの世代のなかから、私たちの問題として、はっきり提起されたことはなかった」とまえおきして、喪なわれた世代の問題をその世代の立場から書く必要のあることをのべていた。
もしも、嶋中氏がその編集後記に書いたように、それまで、ものいわぬ世代というか、ものいえぬ世代であった戦中派に、発言の場をあたえて本当にその重い口から何かを語らせたいと思っていたのなら、当然、吉本氏や安田氏、あるいはそれに連る戦中派を登場させるだけの配慮はあってよかったし、そうすれば、多くの問題を提出できたにちがいない。座談会出席といかなくても、少なくとも、村上氏や丸山氏とならんで、彼等を登場させるべきであったろう。そうすれば、昭和三十一年から昭和三十二年にかけての「中公」誌上は、あっけない戦中派ブームに終わらずにすんだに違いない。
それを証明するのが、安田武氏の前記の論文である。即ち、彼は「さまざまの解決できぬ問題をどっさりとかかえこんで還ってきた」ことを語り、その問題の一つは「戦中派が、特定のイデオロギーや、ただひとつの理論について、あくまで懐疑的であり、時によっては、じれったいほどに疑い深いのも、こうして、自分たちの過去のひとつひとつと、そうしたイデオロギーや理論のひとつひとつと、納得づくで対決しようとしているからである」と書いている。こう書く安田氏の出発はまことにあざやかであった。ここでは、戦中派の基礎学力がない、自信がないということが、あきらかに思想の次元でとりあげられている。戦争をどうすることもできなかったイデオロギーや理論、更には、戦後革命を推進することのできなかったイデオロギーや理論を前にして、自信をもてないということはむしろ当然だし、自信あるかの如くふるまっている人達の方が、よほどおかしいということにもなってくる。
少なくとも一度は一つのイデオロギー、一つの理論に無条件にその存在をかけた人間には、二度と同じ過失は繰かえすことはできない。安田氏のいうように、納得のいくまでの検証が必要であった。いかにして、そのイデオロギーや理論の有効性をとりもどすかということこそ安田氏の間題であったし、戦中派の中心課題であった。その意味で、「中公」は、安田氏がかかげているところのひとつひとつのイデオロギーや理論を納得いくところまで対決させ、検証させていく作業を、彼にやらせてみることが必要であったのである。それがどんなに戦中派の登場を実り豊かにしたか、はかりしれないものがあろう。実際には、「中公」も安田氏に求めなかったし、彼自身も戦争体験だけに固執して……それ自身重要なことではあるが……その後、この作業を意欲的にすすめることもないままに終っているようである。
戦中派とは
この戦中派ブームの一年間にあらわれた限りの村上氏は、自分に戦争責任があるかないかで迷いつづけている。幸か不幸か、部下を死地においやる命令を下さずにすんだということが、村土氏をこのあたりで低迷させたといってもいいすぎではないのではないか。私は氏の一連の文章を読んで、たしかに年令的には戦中派だが、これは戦中派の発言とは違っている。強いていえば、やはり、軍人の発言ではないかという感慨をいだかされた。少なくとも、終戦後までは、村上氏は戦争そのものと思想的にむきあったことはない。それは善悪をこえたものであるし、生死をもこえたもの、わずかに戦場における死を軍人の名誉と交換に自分に納得させればよかった。それははじめから、きまったコースであった。
だが戦中派は違っていた。少なくとも、ここで戦中派として登場してくる人達は、戦争を自覚的にうけとめ、まがりなりにも、戦争と思想的にむきあおうとした人達のことである。だから、戦中派が戦争に参加できるためには、それなりの戦争肯定の論拠が必要であった。自分の未来に、多く夢と期待をいだいている者であればあるほど、自分の存在を注入しても足るだけの理由を必要としたといえよう。人々はそれを必死に模索し、それを発見していった。戦中派は戦争の目的を作り、それに、自分のすべての情熱をかけた。
だから、戦後、自らの目的が誤まっていたことを知ったとき、一番大きなショックをうけたのは戦中派であったし、指導者に対する不信とは比較にならないほどの深さで、自分に対する不信を抱いたのである。それは、自ら考える人間として当然のことである。村上氏には、信ずべきでないものを信じ、誤りを誤りと理解できなかった自分自身への、怒りと痛恨がそれほど深く感じられない。誰に対してよりも、自覚した人間は自分自身に対して責任をとらなくてはならない。その責任をとれなかった戦中派の絶望がない。その辺に、村上氏の発言が戦中派としての発言になっていないという感想をいだく理由があるし、他方、村上氏のその後の発言を実りうすいものにした理由があるのではないかと思うのである。
いいかえれば、村上氏には、幼年学校入学以来停止していた、人間としての思想生活が戦後になって再開したという感想をうけるのである。だが戦中派には欠落した部分、空白の部分ができたのである。その部分をいかにしてうずめていくかという課題を背負わされている。常識的に考えると、戦後の村上兵衛氏の中では、天皇のしめていた部分が大きく欠落したのだからさぞ大変だったと思われるが、実際には、少年兵であった渡辺清氏ほどの欠落をみせない。渡辺氏のそれは、欠落・空白としかいいようのないものである。
「やがて敗戦のショックから立ち直った僕が、まず最初に考えたのは天皇のことだった。天皇の身の上のことだった。……僕の考えでは、アメリカ軍の手で死刑にされる前に潔く自決されるだろう。天皇ともあろう立派な方が、おめおめとアメリカ軍の手にかかるまで生きておられるはずがない。……二百万もの同胞をむざむざ犠牲にしてしまった上に国が亡びるのだ。天皇は死をもってでも、その責任を償おうとされるだろう。天皇はそういうお方だと僕は固く信じていたのである。
しかし、僕のこの天皇に対する考えは、復員直後ものの見事に覆えされたのである」。(「思想の科学」三十五年八月号)とまえおきして、天皇とマッカーサーが会見した写真をみたときのショックを次のように書いている。
「これが生命と引きかえてもいいくらいに崇拝していた天皇だったのか。僕はそれと知らずにすべてを天皇のためだと信じていたのだ。信じた故に進んで志願までしたのである。……しかし、裏切られたのは、自分が自分の内部に蟠踞していた天皇である。それこそ、自分の責任である。」少年兵の渡辺氏の方が、近衛将校である村上氏よりも、より主体的に戦争に参加し、天皇にかかわっていたということがいえる。だから、村上氏よりも、渡辺氏の方が天皇への追求がそれだけ鋭く深いし、それはそのまま、自己の復権への闘いに発展していくことにもなる。渡辺氏にとっては、自己の復権のために天皇問題を処理しなくてはならなかったのである。
もし、村上氏が、渡辺氏のように、天皇の問題をそのまま自分の問題としてうけとめていることができていれば、「天皇の戦争責任」はもっともっと実り多いものになっていたであろう。天皇の責任を追求する姿勢において、村上氏と渡辺氏とは違っている。この違いは大事な違いである。とともにこの問題は本当に解決されていない問題である。
理論の有効性
安田氏の提出した「理論の有効性をいかにして回復するか」という問題と、村上氏ならぬ渡辺氏の提出した「天皇」の問題の二つこそ、戦中派が解決し、次の世代に、その遺産として確実にわたさなくてならないものである。吉本隆明氏が、転向の視点から、戦前派の思想と行動を追求しつづけたのも、またこれらの論文と平行して、武井昭夫氏が「戦後の戦争責任と民主主義文学」(「現代詩」三月号)「政治のアヴァンギャルドと芸術のアヴァンギャルド」(「美術批評」三月号)「戦後文学とアヴァンギャルド」(「美術批評」八ー九月号)を書き、谷川雁氏が、「党員詩人の戦争責任」(「アカハタ」四月三日号)「東京の進歩的文化人」(「群象」三十二年十一月号)を書いたのも、結局は、思想の有効性をいかにしてとりかえすかというテーマにとりくんだものといっていい。しかも、その場合、彼等にとってはつねに、自己の復権のための作業であったということである。吉本氏は戦争体験・戦後体験をふまえて、転向という思想状況の中で、自らの思考方法をたしかなものにしていくことにつとめた。彼にとっては、その体験が核となり、その上に、彼自らの思想を構築していこうとした。戦中派の中では、彼がすぐれた仕事をできたのもそのためである。吉本氏と対照的なのは安田氏である。彼は戦争体験を核にはしているが、それをふまえての彼自らの思想構築には進みださなかった。彼の不戦の誓いは強烈であり、いかなる力もそれを犯すことはできないだろうが、それを核とした平和運動の理論を構築する方向にはふみださなかった。この違いが、吉本氏の場合、時代と現実にプラスに作用する時がいつかはくる可能性があるのに対して、安田氏の場合は最後まで、時代と現実をゆがめる力に対して、マイナスに作用する以上にいかないということになるのである。そして、これまでのところ、戦中派の多くが、安田氏の側に身をおいて動こうとしなかったことも事実である。安田氏もそろそろ、身をおこして、自らの思想構築にむかって動きはじめる時にきているようである。それが死についての思想であるか、ニヒリズムについてのものであるかは知らないが、いずれにしろ、そういうところにきている。それこそが死者を弔う道、生き残った者がなさなくてならない仕事のようである。
これまで、「理論の有効性をとりもどす」というテーマは、あるときには、戦前派と戦中派と戦後派の連帯の可能性を追求するテーマとなってあらわれ、「戦争体験と戦後体験……世代のなかの断絶と連続」(「世界」三十一年八月号・日高六郎)、「戦後世代の政治思想」(「中公」三十五年一月号・吉本隆明)「伝達の可能性と統一戦線」(「中公」三十四年四月号・谷川雁)、またあるときには、生産的思考とは何かというテーマになってあらわれた。「戦後の思想的生産性」(「思想の科学」三十四年十二月号・山田宗睦)「マルクス主義への回帰」(「思想の科学」三十五年四月号・しまねきよし)「補足の思想と離脱の思想」(「思想の科学」三十八年六月号・鶴見俊輔)「日本思想の可能性」(「思想の科学」三十九年一月号・鶴見俊輔)その他、この道は困難かもしれないが、今後、戦中派が積極的にとりくんでいくテーマである。それは、イデオロギーや理論の復権を自らの復権と一つに重ねあわせてきた戦中派としては、どうしてもやらなくてはならないことでもある。そして、この作業の完成は今後に残されているといえる。先に、私は「理論の復権」と「天皇の問題」を別々なものとして提出したのであるが、実は戦中派のところでは、これらが一つにうけとめられているということである。
即ち、天皇を唯一絶対のものとして、またアプリオリなものとしてうけとめてきた戦中派にとって、その欠落と崩壊は、単に天皇が欠落し、崩壊したということだけでなく、他の一切の唯一絶対なもの、アプリオリなものが欠落し崩壊したということを意味している。そうした一切のものを拒否し、否定するということである。一つのイデオロギーや一つの理論が、宗教的な装いをもって存在するということは、それがどんなにすばらしいものであったとしても、それ自身を堕落させるばかりか、人間の存在を矮小化していくという認識であり、確信である。戦中派の一人奥野健男氏が「天皇体験について」(「現代批評」三十四年六・七月号)で、「なぜ、あのような非論理的な存在である天皇を信じたのであろうか。今後、今日の青年が、あのような非論理的な存在を信じ動かされることは絶対にないといえるか」という疑問にこたえることも必要である。
そして、その天皇自身こそ、その年齢をこえて、戦中派の一人ということがいえそうである。天皇は、誰にもまして自らの復権のために、その作業にとりかからなくてならないようにみえる。人間天皇は、自らの中にある過去の天皇の面影を整理し、克服することが求められている。その被害者であり、加害者である戦中派的位置を脱して、再び被害者となり、加害者の位置に転落しないためにも必要なことである。それが、戦死した二百万の人達に対する、生き残った天皇としての責任であるともいえよう。それは、天皇というものの存在と意味を自らの頭で考えて、結論をだすということでもある。その時期にきているようにもみえる。
かつて、終戦まもない頃、私は、天皇の本当の心をぜひとも知りたくて、私が学んでいた大学に、たまたまやってきた高松宮との座談会を利用して、高松宮を通じて、非公式にそれを知ろうとしたことがある。その気持は今でも変わらない。それは、一度、身も心も捧げた人間の未練かもしれない。
以上、簡単に戦中派を論じたが、ここで戦中派の旗手である吉本隆明・山田宗睦・橋川文三の各氏について、書く時がきたように思う。かつてのような、「戦中派ブーム」とは違ったもので。いいかえれば、思想の世代として復権するということである。本当の意味で思想の生産者であるためには、自分をふくめて既成のイデオロギーと理論に徹底的に絶望し、幻滅した人だけが、よくなし得る作業であるからである。それは歴史が証明していることでもある。
5 思想について考える
一
吉田松陰という革命家を考えるとき、彼がどのような尊王思想をいだいていたかをさぐることも重要であるが、それよりもむしろ、彼がその時代をどのように把え、その時代をどのように発展させようとして、幾度も失敗し、挫折しながらも、終に屈することなく、あくまでその一念を貫き通した、激しい情熱と行動力をもった革命家にどのようにして育ったかということの方が興味あることであろう。尊王思想は彼が革命家に育っていく過程で、どうしても必要なものであったが、彼にとって必ずしも決定的なものではなかった。現に、彼はその晩年に、その思想を克服していたし、彼の未来はどのようになるかもわからないほどに生々発展する道程にあったし、その尊王思想はあくまで、成長する過程でとらえたものでしかなかった。要するに、彼は、その思想によって、幕藩体制を否定し、新たなる統一国家を志向する革命家に育ったが、必ずしも彼にその思想はなくとも、彼は革命家に育ったということを言いたいのである。勿論、彼の尊王思想については、彼がどのようにして革命家になったかということで、明らかにしたいと思う。とくに、どのような過程をへて、自分のものにし、彼自身を革命家に育てていったかを明らかにしたいと思う。
彼のように、ヨーロッパの革命的伝統を学ぶことなく、日本の伝統思想を学ぶだけで、よく、革命家に成長できたこと、そして、日本史上、唯一ともいえる革命をなしとげる先駆をなし得たことを、今日の思想状況の中で、明らかにしたいと思う。思想の価値は思想そのものでなく、思想をどのようにつかむかが問題である。即ち、尊王思想を時代の中で、どのようにつかむかということである。尊王思想は必ずしも、保守的なものでない面をもっているということである。
御承知のように、吉田松陰は、半農半士の貧しい家庭に生まれ、長ずるにおよんで、徐々に兵学家となるように育てられた。このことは、彼をどのように育て、彼自身何を考える青年に育てたのであろうか。彼はいわれなく農が軽視される幕藩体制を見た。勿論、彼は初めから、農業に従事しなくてはならない人を蔑視する世の中の矛盾に気づいたのでなく、貧しい者が豊かになる道を求め、その結果、金になる野菜の栽培を考える青年であった。だが、次第に、農業に携わる者が不当に待遇される世の中が誤っていると考え始めた。その場合、特徴的なのは、彼一人が貧しい人々から脱出して豊かになろうとするのでなく、貧しい人々をともになくしていこうと考えるようになったことである。だが、その方法はわからない。ここから、彼の暗中模索が始まった。あくまで、彼が彼自身の問題として、豊かになる道を求めたことで、人々のために豊かになる道を求めたことでないことである。このことは非常に大事なことで、所謂今日の革命家が人々のために、革命を考えることと違って、自分が生きるために、革命的生き方をするということである。従って、ここには、挫折というものがないのである。挫折などといって、すましていられない生そのものがあるのである。自分自身のために、自分をふくめた多くの人々のために生きるものは強く、逞しい。
次に、吉田松陰が兵学家として育てられたということは、彼がいつか、敵を知り、味方を知って、戦えば必ず勝つ姿勢を身につけたことである。いいかえれば、自身を知りぬき、相手を知りぬき、相手を変えずにはおかない人間となっていたことである。これが、後に、教育者となって、非常に成果をあげる原因であるとともに、自分と社会の関係を冷静にみつめ、自分と社会を変革できるという革命家の姿勢そのものを身につけるようになった理由である。
かくて、松陰は農業に携わる自分達をどうにかしようと思い、それは自分達と世の中を変えることによって、どうにかなると考える革命家の卵になったということである。だが、彼はそれをどのようにして、実現するかという現実的、具体的問題になるとまだわからなかった。その道を具体的に教えてくれたのが、尊王思想であるが、そのことはしばらくおきたい。というのは、彼をとりまく状況は今一つ複雑になっていったからである。それは何かというと、世界の中の日本の道として、日本はどうすればよいかという新しい問題が彼の前に訪れたからである。
二
それは、ヨーロッパ諸国のアジア諸国への帝国主義的侵略を前にして、日本もその例外ではないという事実であった。松陰もこの事実の前に、日本の危機をひしひしと感じたということである。とくに、彼は抽象的人間として、自分の責任のないことを、大言壮語することを最も恥とした。彼の学んだ陽明学の影響でもあったが、それ故に、彼は長州藩士として、日本人として、常に具体的に考え、行動しようとした。彼が九州旅行をしたのも、兵学家として、日本をよりよくつかまんとしたためである。また、東北旅行を藩の許可なしに実行したのも、長州藩の兵学家より、長州を脱して、日本の兵学家たらんとした、彼自身の抱負から出たことであった。事実長州藩の兵学家より、日本の兵学家に脱皮しなくてはいけないものを、この九州旅行は彼に感じさせたのである。それほどに、日本の危機を感じさせる世界の情況であったのである。ヨーロッパ諸国の日本侵略を前にして、日本と日本人はどうすべきかというのが、松陰の課題であった。東北旅行はその解決を求めての旅であったともいっていい。
先述したように、革命家の卵である松陰にもっと切実な形をとって、この日本と日本人をどうするかという問題がせまってきたのである。
東北旅行行は、藩毎に、政治、経済がばらばらになっていることを教えたし、風のために、十数日も旅のできない交通を体験した。このことは、どんなに松陰を悲しませたことであろう。それこそ、一体になって、ヨーロッパ諸国にあたらなくてならない時に、日本がばらばらになっていることを、或いは、蒸気船で風の有無にかかわらず、航行できるヨーロッパ諸国のことを考えたとき、どんなに悔やしく思ったことであろう。
だが、それら以上、日本人を考えようとする松陰にとって、東北旅行中に、水戸の人々を通じて、日本人になるとは何かということを深く考えることを学んだことは重要である。日本人として考え、行動しなくてならないと考える松陰だが、どうすれば日本を知り、どうすれば、日本人として行動できるかについて、その時までの松陰はとことん考えるということがなかった。それを今教えられたのである。即ち、歴史を通じ、日本の特殊性、独自性を学び、日本が他国と異なる点を明らかにして、始めて、日本人としての自覚をもつことを知ったのである。彼は歴史を通じて、日本を知りだしたことで、彼の尊王思想を単に知識として知ったのみでなく、その思想信条としても、尊王思想をいだきはじめたのである。だが、当時の彼の尊王思想はまだ抽象的、心情的なもので、幕藩体制そのもの、その中心的なものである武士専制をそれによって批判するというものではなかった。あくまで、幕藩体制の中で懐きうるものであった。
では、その当時の松陰がいだいた尊王思想とは果たしてどんなものであったのであろうか。一言にしていうと、日本は神の国であり、誠の国であり、この国を治めるのは、原初の時よりある天皇が治めるもので、この国は天皇御一人のもので、国民のものではないということであった。だから、天皇から政権をゆだねられて、徳川幕府は国民を治めるのであって、幕府から更に政権をゆだねられて、長州藩を治める長州藩主であることを考えれば、藩主に忠義をつくすことが、そのまま、天皇への忠義となるというものであった。
この考え方にたてば、幕藩体制を批判するものもでてこないし、武士の専制に疑いをもつものもでてこない。これが当時の考えであった。所謂水戸学というものの実態であり、限界でもあった。松陰はたしかに水戸学を通じて、日本の独自性を学び、日本人としての自信と誇りをもつことを教えられたが、それだけでは革命家になることもなく、せいぜい天皇を尊敬する思想を自分のものにしたにすぎなかった。
だから、以後の彼を、革命家らしく振舞わせたのは、どこまでも松陰が半農半士の家に生まれて、極度に貧しかった状態、農に携わることが非常に蔑視されるという状態から、どのようにして脱するかという思いであり、今一つは、ヨーロッパ諸国の侵略を前にして、この日本をどうして守るかということであった。その意味では、彼は革命家そのものでなく、単に警世家であったといい得る。アメリカに渡海しようとしたのも、警世家としての彼がその役割りを果たそうとしたものにすぎなかったのである。ただ、その時、彼が政治的人間としてめざめ、政治的人間として行動しようとしていたことだけはいえる。
だが、渡海に失敗し、松陰は国禁を犯した罪にとわれて、獄中の人となった。これ以後彼は刑死するまで、殆んど自由の身となることはなかった。政治的人間として、行動する自由をうしなったともいえる。しかし、どこまでも、政治的人間として行動することを欲した彼は、自分にかわって、行動してくれる人間を欲した。彼はここから教育家に変身した。それは当然のことであった。たまたま、獄中で、終身刑にも等しい人達を教育して、彼等に自信をもたせ、彼等を変えたということが、彼に自信をもたせることにもなった。
三
松陰自身がこのような警世家より革命家に変貌するのは、彼の晩年であり、僧月性や僧黙霖と深くつきあうようになってからである。それまでの彼は先述したように、幕府や藩主が誤っているときには、直諫するか、諫死すればよいと考えていた。それが最上だと考えていた。彼にとっては現在の秩序は絶対的なものであった。そのような尊王思想が彼のそれまでにもっていたものであった。
それが、安政三年頃に、月性や黙霖と激しく討論することによって、松陰の考え方も崩れはじめるのであった。まず、月性が松陰の胸に深く楔をうちこむ。それは、幕府を倒せということであった。だが、これに対して、彼はたじたじとなりながらも、精一杯に次のように反論した。
「月性上人は、今急に放伐をいう。一体これはどういうことか。大敵が外にいるとき、国内で相共に批難しあっていられない。諸侯と力をあわせて、幕府をいさめ、日本が強国になるようはかるときである」と。苦しい考えだが、松陰の従来の考え方と少しも変わっていない。
そこにすかさず、黙霖がぐさりと刀をうちこんだ。彼はまず山県大弐の『柳子新論』のことをあげて、「覇道におちいっている幕府政治を朝廷政治にかえさねばならない。王道のための王道を考えなくてはならない。そのためには放伐もやむを得ない」というのである。黙霖はよく、書物というものに弱い松陰の心をみぬいて、そこを射たのである。
松陰からは早速、「僕は見聞が少くて大弐の事は断罪書をよんで知っているだけだ。そのために、その人のことはよく知らない。今後は『柳子新論』をよくよんで、貴方の言を考えてみたい」という返事がかえってきた。それからの彼は熱心に『柳子新論』をよみはじめる。
御承知のように、山県大弐は放伐論で幕府を倒さんとして、刑死になった男であり、とくに、その放伐論では世襲身分制を否定し、放伐論の祖ともいえる孟子でも考えなかった庶民による革命を強調しているのである。
松陰はこの『柳子新論』を熟読しながら、おそらく、その頭のかたすみに、誰でも大統領になれる道を開いているアメリカ、それに対して、坐っているのがやっとの男が将軍となっている日本のことを思い出していたにちがいない。単に武士の子に生まれたというだけで、要職につき、農業に携わっている者を蔑視しているような日本が果たして、一致して、諸外国に対抗できるかと考えたとき、このままではどうにもならないと考えたのも当然である。
とうとう、松陰も条件つきながら、黙霖のいうことを認めるようになったのである。「今私が囚人として、将軍をののしるのは空言である。私も将軍の罪をせめないで、生命をぬすんでいる。ということは私も将軍も同罪である。私の主人も同罪である。私の罪をぬきにして、人の罪を責めることは、私は死んでもしたくない。私の主人が私の直諫をいれて、六百年来の大罪を自覚するとき、私の主人は諸侯とともに将軍を諫めるとよいと思う。諫めて諫めてもきかない時は、大罪を自覚した諸侯と共に、天朝の許可をうけて、公然と将軍を討つ時である」と。いかにも彼らしく、単に正論をはく人間と違って、行動者らしく、自分に厳しい注文をしていくのであるが、同時に幕藩体制を否定する立場、革命家の立場に始めてたつのである。
それ以後の松陰は、次第に、
「日本の皇帝に、桀紂のような残虐があっても、国民は唯頭を伏して、朝廷の前に号泣して、皇帝が感悟するのを祈るだけである。故に、天下は一人の天下であるというのである。一人の天下でないというのは支那人の言葉である」という一君万民の立場に立ち、これまでのように日本をどうするかというのも、現実の立場から考えるのでなく、天皇それ自身の立場から考えなくてはならないし、まず、日本の在り方を正して、その上で、日本の生き方を考えなくてはならないという立場にたつのである。そうなると、全ては天朝あっての国民ということになり、幕府は一日も存在できないということになる。天朝唯一絶対と見る松陰の尊王思想は幕府を否定する立場となり、彼を現体制を否定する革命家にしたのである。幕藩体制という中にあって、その体制そのものを否定する尊王思想をもつことは、当時は非常に危険なことであった。その危険な思想をもちそれに生きようとした所に、松陰の松陰たる所がある。革命家たる所がある。
四
だが、折角辿りついた思想信条であったが、松陰は更に、朝廷の実情を次のように知ることにより、彼の立場は徐々に変わっていく。即ち、彼の見たように、当時の朝廷は、「上に明天子がいられ、深く心を悩まされているけれども、朝廷の陋習は幕府よりひどく、単に諸外国を近づけて神国の汚れになるというばかりで、昔の雄図遠略などは少しもなく、全く事の成らないざまである」といわざるを得ない有様であった。彼はまた次のようにもいっている。「天朝もおそれ多きことながら、公卿間には俗論多く、正論もたたない。」
このように見た松陰は終に、「今迄の自分は誤っていた。これまでは政府を相手にしていたが、今後は在野の志ある人を相手にして、一工夫してみよう」とか、「今後は決して政府の俗吏を相手にせず、官位にしばられている人達を相手にしまい。私は時をまつ人ではない。草莽崛起どうして他人の力をあてにしようか。おそれながら、もう天朝も幕府も我が藩もいらない。ただ六尺の私の身体があればいい」といいきる彼であった。
ここに至って、我が身だけを頼む真個の革命家になったのである。日本の伝統思想だけをみつめてきた彼が独力で、自我にめざめ、自分の尊さを知ることによって、革命を思い革命できるといいだしたのである。一般には、日本には革命的伝統も革命的思想もないという俗論が誤り伝えられているが、彼が革命家になった事実を見落としている。
「将軍は天下の賊、今討たずんば、後世の人達はなんといおう」と言いきった松陰。しかし、その彼は天朝にも絶望して、我が身だけを頼んだ。だが、その幕府を倒して、どのような理想の社会を、どのようにして、建設しようかと考えたとき、彼は彼の尊王思想に根拠をおかないではいられなかった。世襲身分制を否定して、天皇を中心におく一君万民の体制しか考えることはできなかった。
誰でも大統領になれるアメリカ、ナポレオンの自由などを考えたが、日本の歴史から考えたとき、それはむりのように思えた。だめな幕府とはいえ、日本を指導できる人物は藩や在野よりも多くいたし、すぐれていた。そこに、現実的政治家である彼の限界があったともいえる。そこにある保守的ムードが彼の尊王思想をささえたのかも知れない。彼自身、「世人のいう尊爵は真の尊爵ではない。真の尊爵は人々の固有するもの」と言いながらも、彼の中には、このような矛盾があったのである。
たしかに、このような矛盾をもつ松陰は革命家として、まだ不徹底であったといえる。しかし、それを生きることによって、幕藩体制を崩したのである。今日からみて、不徹底といえても、あの時代としては、優に卓越した革命家といえよう。しかも、その為に、自分の生命を三十歳の若さでおとしているのである。
死の直前の松陰には、このような矛盾があった。だが、つねに、「何とぞ二つのものを兼ねて固陋偏執これなく」といって、一つの思想流派に固執することをいましめ、諸流の交流の中で生々発展することを求めていた彼であったから、彼が三十歳でなくなることなく、もう少し生きていたら、この矛盾も解決していたことであろう。その尊王思想も現に年とともに発展し、克服されていた。外国にいかんとした彼は、明治になって渡航していたら、既に、カール・マルクスが出現し、エマーソンが活躍していた時代であるから、先述の立場にたつ彼として、そこにどんな成長があったかもしれない。
要するに、若くして死んだ松陰の革命家としての前途ははかりしれないものである。彼は刑死したとき、留魂録を書きのこし、弟子達に自分の意志をつぐように説くのである。その時の彼の胸中には、革命以外なにもなかったのである。死ぬことによって、弟子達をたちあがらせたともいっていい。革命とは為しがたきを為す大変な行動である。彼は死によって、革命家としての彼の本領を完成させたのである。
これは、言い易くして行ないがたいところである。
五
だから、松陰は革命家として、弟子達に次のように語りかけつつ、自ら実践したのである。彼はいう。
「今日の日本の状況は古今の歴史にもないほどわるい。なぜかといえば、アメリカが幕府の自由を抑え、幕府は天朝と諸侯の自由を抑え、諸侯は国中の志士の自由を抑えている。そのために、心ならずも天朝に不忠をしている。それというのも、アメリカの大統領の方が将軍よりも智があるし、その使者は老中の堀田や間部よりも才があるからである。人物がおよばなければどうにもならない。このままでは、乱世なしに直に亡国になるかもしれない。日本を正しく建設するには、今の日本を乱世にすることである。乱世になればなんとか打つ手もある。だめになった我が藩を外からたちあがって、変革する方法もある。今後は、草莽蹶起という方法でやってみよう」と。
松陰は建設のためには、乱世にしなくてならないことを知っていた。乱世もやむを得ないと考えた。革命家であった証である。そこからのみ、新しい建設が始まる。
それ故に、松陰は体制側からの激しい弾圧にあって、同志の者が動揺したとき、敢然と「多くの者を傍観においやるほどに、幕府の弾圧が激しくなったのも、もとはといえば、我々がつくりだしたのである。我々が攻撃をやめれば、敵の弾圧もゆるくなるが、再び攻撃をはじめれば、その時は、必ず敵の攻撃も激しくなってくるものだ。情勢は我々のつくるものである」と言いきったのである。
だからとて、松陰は情勢を主観的に判断して、小児病的に暴走しようとしたのではない。彼はあくまで、兵学者の眼をもって、冷厳に情勢を判断した上で、このような発言をしている。文字通り、革命家の長としての決断力であった。
こういうことを言い得たのも、日頃から、人々を革命家に育ててきた松陰の絶大な自信からきたことであった。彼は彼のまわりの人間をすべて我が党の士として、視、過ごしてきた。それは自分の生き方に強い誇りと自信をもつ者だけがよくなし得るところで、全ての人に自分の生きるように生きることを求めたのである。そこに、少しのうぬぼれも慢心もためらいもなかったのである。
そのために、松陰が弟子達につねに言っていたことは、「亡命の時期を自分で十分に考えて、一度はそれを敢行せよ」ということであった。亡命とは藩を捨て、家を捨てて、天上天下唯我独尊を知ることであり、我が心に生き、我が心によりかかることである。個に徹することである。このような個に徹し、個に生きようとした者には、所謂転向もないし、大人になって無関心派に堕することもない。傍観者になることもない。転向し、無関心派になるのは、すべて、とことん自分をみつめていないためにおこることである。家を捨て、藩を捨てたことのない者は真の革命家に程遠いといった彼の言葉は重い。今日なら、さしづめ、一度は日本を捨ててみよということになる。その時、始めて、真の日本人になる。同じように、真に、藩を生かし、家を生かせる人になる。
このような人間だけが、真の革命にとりくみ、革命を達成できるのである。これ以外の人は偽似革命家である。今日はあまりにも、この偽似革命家が多い。革命のならぬも当然である。
松陰はこの革命家たちを相手にして、士農同盟を説き、士工同盟を強調し、士・農・工が夫々に生きる世の中の建設を説いた。松陰のえらい所は、あの当時既に、自分達にまといついたものを全てはらいのけ、真の自分を育てようとする人間は、日本にも外国にもおり、その人達が国境をこえて、団結しなくてならないと明言したことであり、武備などは必要でないといいきったことである。武備のない道義国家をつくれと明言したことである。勿論、そのためには、大決断、大堅忍の人がいなくては、到底できないともいっているが、まことに達識の人というしかない。そのような彼を今迄侵略主義の代表者のように思わせてきた歴史家の責任は重い。
彼のまわりの人間を革命家に育ててきたといったが、彼は政治的人間として自由に振舞うことを禁止されたとき、彼の思いを彼に代わって、行動してくれる人間を待望した。それが教育家に変身した理由である。そのことを最後に記したい。それにふれない松陰像は革命家松陰を十分に描いたことにならないからである。彼の教育はあくまで、革命的実践の一環であった。
六
松陰は教育者となるにおよんで、彼の周囲の青少年に眼をつけた。それも、青少年らしく、自ら農業に携わる以外生きようのない者達、それが不当に蔑視されることに心からの疑問を全身でぶっつけるような青少年を教育しようとした。彼の言葉によれば、志のある青少年で、全身で夢を追求し、現状を破壊したいと念ずる人達であった。別言すれば、革命家になる資質を多分にもつ青少年であった。彼はそのような青少年を真の革命家に育てようとした。自ら革命家を以て任じ、革命家として生きることが人間として至上の生き方と信じている男が自ら革命家として生きることをかたく閉ざされたとき、自分に代わる者として革命家を心の底から欲したのである。
だから、師となる自分に誰よりも厳しく求めた。自ら、革命家でなく、人間の生命を心から愛することのできない者に、革命家を、人間の生命を心から愛する者を育てることはできないと自覚したからである。
松陰は教育者について、「妄りに師となってはならない。本当に教えなくてならないことがあって、はじめて、人の師となりうるのである。師を求める前に、まず自分の心や目標が定まって、それに応えてくれる師を求めなくてはならない。学問する上で一番大切なことは、思うことがありながら、その思いが達せず、なすべきことがありながら、その方法が明らかでないために、とどまっている状態にあることである。此の時こそ、学を求め、師を求める時である」といっている。
また、「生徒のために、句読を解釈してやるだけで、その本当の意味を教えようとしない教師はだめである。書をよくよむ者や書をよく説明できる者を才能ある者と評価して、そうでない者は心が純朴で誠実であっても、それをせいぜい附随的にしか認めることのできないような教師、智も勇気の裏づけなしには、変革期の力にならない程度の事さえ理解できないような教師は最低である」とも言っている。今日の多くの教師は松陰からみると駄目の見本のようなものである。
だからこそ、松陰は先にもいったように、生徒になる条件は、志の有無であり、今日のように、記憶力のある者をさがすようなことは一度もしていないのである。彼にとって大切なものは、勇気であり、判断力であり、意志力であり、行動力であった。
松陰はいっている。「智者こそ、道理を行なうべきなのに、いたずらに、高邁精緻にふけって、日常の切実を軽視してかえりみない」とか、「志なくして始めた学問は、進めば進むほど、その害は大きい。真理を軽んずるばかりか、人々を迷わせて、大事にのぞんで、進退をあやまり、節操を欠き、権力と利欲に屈する」といっている。このような有様は私達がいくらでもみてきた所である。所謂学者のみじめな姿はあまりにもみてきた。
松陰が志のある人、所謂革命家を讃美し、「志はどんなことがあっても奪えないもので、志のある者は一人になっても、断乎として、楽しみながら実行する者」といったのも当然である。
それと共に、松陰が重視したことは、勇気であり、気力の充実ということであった。気力なくしては、その志も実現されないというのである。とくに、権力からの弾圧をはねかえして、断乎と実行するのは気力である。しかも、彼はその気力すら養いうるというのである。彼はいう。
「いつもおしゃべりしている者は、大事な時に、唖のようになるものだ。いつも大気焔をあげている者は、いざという時、火のきえたようになるものだ。平時は用事の外は一言もいわない。一言する時は温和な婦人のように語る。これは気魄をつくるもとである。言葉や行動をつつしみ、低い声で語るぐらいでなくては、いざという時に、大気魄はでてこない」。また、「静座して、外物におおわれていない自分の本心を発見するか、行動の中で自分の本心をはっきりつかむようにする。書をよんで、意中の人にあい、意中の事をみたら、これについて、同志の人と激論するのもよい。また、山野を跋渉して、気力を発動して、自分の気力を実験するのもよい。要は、自分で、そのすばらしさを発見して、自分のものにすることである。」
これだけをみると、松陰はなんとなしに、規則づくめで、一見融通のきかない人のように見える。しかし、むしろ、その反対であった。例えば、松陰が塾生とともに語っている時、話題がたまたま、塾生の喫煙の問題になった。すると、彼が顔をくもらせて、あまりにも、その憂いが深かった。すると、皆もそれにひきこまれて、座がしいんとなった。しばらくして、その空気を破るように、塾生の一人がきっぱりと「僕は唯今から禁煙する」といいきった。他の塾生達もそれにならって、きせるを折ってしまった。
それを見た松陰は、「煙草はなれると性になってしまう。僕としてはそれを憎む。しかし、諸君が一時の感情で、一生の退屈をするのを逆に心配する」といって、皆をたしなめたという。彼は人間の楽しみをむやみに否定しようとせず、革命という大事業をのんびりと生涯かけて、とりくむことを欲したのである。彼は人間の生涯というものを知っていた。
七
このような教育をしてきた松陰が三十歳で刑死になると、その教え子達は皆ふるいたった。高杉晋作は「わが師松陰の首を幕府にゆだねたことは残念でなりません。私達としては、この敵をうたないでおきません。これからは隠忍自重して、朝夕に、勉学につとめたいと思います。自分の心身をきたえて、自分のつとめを果たすことが、先生の敵をうつことになります」といったし、久坂玄瑞は、「先生の非命を悲しむことは無益です。先生の志をおとさぬことが肝要です」と友人を激励している。
松陰が死に先だって、「僕が死ねば、貴方達の志もきっとかたまるにちがいない。僕が死なない限り、貴方達の心はふらふらしつづけよう」と言ったように、彼の死を境にして、教え子達の心はふるいたち、結束するのである。その点で、彼の死は無駄でなかった。一人の革命家の死が数十人の革命家を生みだしたのである。彼が「諸君はすでに僕の志と考えをよく知っている。だから、僕の死を悲しまないでほしい。しかし、僕の死を悲しむことは、僕の志と考えを知ることであり、僕の志と考えを知るということは、僕の志を達成してくれることである」と言い残したことが実を結ぶのである。
その死から、数年をへずして、塾生を中心にして、「一燈銭申合せ」という血盟が生まれる。そこには、「各人の力をつくして、日頃から、少しずつ貯金しておけば、非常の時に役立つ。ことに時勢が逼迫して、有志の者が下獄し、飢餓におちいったのを助けるために、たとえわずかでも、各人村塾にもちよっておこう。貧者の一燈故に、一燈銭となづける」とあった。彼等の志が徐々に結実してきたのである。彼等を中心にして、幕藩体制がくつがえったことはいうまでもない。革命的教育とはこういうものである。
文字通り、松陰は革命家として生き、革命家として、死んだのである。それも、日本の伝統思想をみつめていくなかで、革命家になったのである。偉大というしかない。
鶴見俊輔氏が、その序言で「転向の具体例をたどりなおすことをとおして、過去における思想の不生産性を再検討する」といっているように、この「転向」研究は、これまでの転向論の不毛をふくめて、現在日本の不生産的思考からの脱出を意図したものであり、従来の転向論にみられた、倫理的な視点からの批判(不毛の第一原因)をたちきって、今日の時点にたって、このもっとも思想的な問題をすぐれて思想的に究明しようとしたものとして、「読書新聞」紙上で「本書は近代日本の政治史の研究にとって最高順位の文献である」と評された以上の役割を、広く深く今後相当期間にわたってはたしつづけることになろう。
私自身、戦後世代の一人として、屈辱と苦痛にみちた転向の問題をもちつづける者であり、それをあきらかにすることの中に、現代日本の生産的思考への第一歩があると考え、年来、私なりにとりくんできたのであるが、近く刊行予定の中・下巻のより豊かな成果を期待する願いをこめて、私の感想を書きつづってみた。その意味で、私はここで、個々の研究結果についてでなく、主として、この「転向」研究において、鶴見氏のしめした、生産的思考への脱出ということが十分にはたされているか、もしそのために、なお新たな考慮が必要だとすれば、それはどんなものかということにかぎってのべてみたい。
鶴見氏は、この不生産的思考からの脱出という視点にくわえて「私たちは非転向の地点に自分をおいて、転向を批判しようとするのではなく、むしろ、それぞれの時代的条件の中に実現可能であった非転向の条件を知ることをとおして、両者ともに批判することのできる地点に達することをめざしている」という視点を設定している。これは転向研究をとおして、不生産的な思考から脱出するための方法的なものを学びだそうとする課題をさらに一歩すすめて、今日における思想創造という、もっとも今日的な、なまなましい課題として、私たちの今日の実践に結びつけたものであり、まことにすぐれた視点であるといえよう。
だが、鶴見氏のこの二つの視点から、転向者たちの転向を批判するということは、そのまま、当時の日共、当時の段階におけるコミュニズムについての十分な思想史的展望は勿論、転向をきっかけとして択んだ、新しい思想的立場などについても、それぞれの思想史的展望、さらにはそれら個々の思想史的展望を“収れん”することのできる、全体的な展望をもって批判するということである。それをあきらかにしていないかぎり、転向者たちの非転向の条件はもとより、どうすれば、あの当時の状況の中で、不生産的思考から脱出することができたか、或いは、転向後の新しい思想の分野で、どんな生産的思考とそれにもとづく思想創造が可能であったかをあきらかにすることはできまい。このことは、鶴見氏の「転向を1933年直後の日本共産党との結びつきをこえて、もっと大きな脈絡の中で理解してゆこう」とする態度からは当然考えられることであったろう。多くの批評子によって、高い評価をうけた氏の埴谷堆高論が、他に比して、とくにすぐれたものになることのできたのも、氏のすぐれた分析能力にくわえて、虚無主義・実存主義についての思想的評価、思想史的展望が比較的確立していることがあずかって力があったといえるのではなかろうか。勿論それによって、氏の分析能力を過小評価しようとするのでなく、氏の二つの視点を有効に生かすために、思想史的展望をもつということの必要と、氏の二つの視点がことのほかにきびしい、そのゆえにまたすぐれたものであると考えるのである。そして、この視点が各研究者に明確につかまれていなかったために、佐野学をはじめとする二、三の研究に、それなりの努力がなされながら、その成果を十分にあげることができなかったのではないかと考えるのである。
私はここで、鶴見氏の「戦後派の若いものが、転向問題をあつかう資格がないという感じ方には、事実上の根拠はあるが、私たちは転向を追体験することによって、そこから、なにかの智慧を求めよう。そのまちがいから、もっと実りのある生き方をくみとろうとしているのだ」というような、氏にしては珍しくひかえめな発言にひっかかるのである。これは、先述の鶴見氏の二つの視点から生まれようのないものではなかろうか。むしろ、転向者たちが転向をきっかけとしてとらえながら、発展させることのできなかった重大な問題(日本民族の伝統に根ざすことの必要。急進分子が自己のなかに庶民的生活者をもち、庶民的生活形態によって支えられているという自覚。知識人と大衆との新しい関係をつくる必要。急進思想の諸流派・諸団体のセクト主義の解消の必要。集団的運動を批判する主体を個人のなかに、また個人をこえる伝統のなかにつくる必要の自覚)を彼らにかわって発展させるための整理と展望をするという立場こそ、その視点にふさわしいものとしてでてくるのではないか。
ことに藤田省三氏の「有効な多くの理論を対決させ、相互に増殖させることによって、はじめて理論の不完全性が克服される」という視点が、この「転向」研究を支える今一つの視点であるとすれば、なおさら、それぞれの新しい分野での思想創造への可能性と、相互のかかわりあいから生まれるであろう異なった思想創造の可能性をあきらかにするという立場を明確にうちださなくてはならなかったのではないか。
しかし、そのためには、単にそれぞれの思想についての思想史的展望をもつだけでなく、それらの思想が果して有効な理論なのか、もしくは、それへの可能性をもっているものかどうかについての、研究者自身の評価を要請することになろう。とくに、佐野・鍋山の一国社会主義や亀井の日本浪曼派をどのように評価しようとしているのか、新しい思想的立場における彼らの不生産性を否定しているのか、それとも、新しい思想的立場そのものを否定しているのか、そこでどのような思想創造が可能であり、また必要だと考えているのかについて、研究者自身の考え方があいまいなように感ぜられる。
もし、この点を明確にしていたら、また、それをこの研究の過程であきらかにしようとしていたら、藤田氏が、その序論で、イデオロギー上の階層と社会的担い手の階層のからみあいをあきらかにしたにおわらないで、本書全体の構成において、各思想分野における思想創造を追求しようとする立場をうちだしていたのではなかろうか。
鶴見氏は、転向者のとらえた問題を先述のように五つに分析したが、このような問題のとらえ方は、転向者の新しい思想的立場をそれぞれの思想流派として考えながら、同時にそれを全体の思想的流れの中でとらえようとしているのか、それとも、単に全体の流れの中でだけ考えようとしているのかが全く不明瞭である。そのことがまた本書全体を不明瞭にしているように思える。
いずれにしても、鶴見氏のすぐれた視点がもっと有効に研究に生かされるためには各研究者が、それぞれの思想についての明確な思想史的展望をもって、積極的に、それぞれの思想創造をするという立場を明確にする必要があるのではなかろうか。
それとも、私は鶴見氏の二つの視点を拡大解釈しているのであろうか。
次に、鶴見氏の視点が十分実るためには、今一つ、大事な点があったのではないかと考える。それは、不生産的思考から生産的思考への脱出ということを具体的に明確にしていないことである。
藤田氏は一応、福本和夫の理論唯一主義、自己の超越をふくまぬ日本からの超越論、原論適用主義や、佐野・鍋山・小林の日本的共感などの不生産的思考への批判から、それと対照的に、埴谷・椎名の自己の欲望ナチュラリズムを改作することによって、日本的共感に没入することもなく、逆にそのエネルギーの極限をつきつめ、それを支えとして新しい思想のくみなおしをなしとげた生産的思考をあきらかにしているようにみえる。しかし、椎名の、その欲望ナチュラリズムを改作したことはあきらかにされているが、新しい思想のくみなおしをどのようになしとげたかはあきらかにされていない。
鶴見氏は「椎名は神を措定せずに、普遍的原理を措定し、このような普遍的原理をとうして、転向以後の行動を律することを試みている」といっているが、椎名はそこからさらに一歩進んで、埴谷のように普遍的な理論をつくりだそうとしているとは、今までのところみられないのではないか。(あたかも、これを実証するかのように、椎名は、最近、キリスト教を、かつて彼がコミュニズム理論を素通りしたのと類似した態度で素通りしようとしている。)椎名は転向前後を通じて、観念としてのコミュニズムでなしに、理論としてのコミュニズムを一度も批判していない。そうした態度から構築など期待しようもないのではないか。だが、彼の欲望ナチュラリズムの改作も転向後の生活で、非常に明確になっているが、彼の作品をよめば、それが、彼の中で転向前から徐々に進行していたことは十分にうかがえる。
椎名とは逆に、埴谷の欲望ナチュラリズムは十分にあきらかにされていないが、新しい思想とその構築の方法があきらかにされている。だが、彼の生産的思考も、すでに、農民闘争の仲間の智力を結集して、日本の農民運動のプログラムをつくろうとしたことや、その共産主義への参加のしかたにあきらかで、転向後に彼のものになったものではないようだ。ただ、転向が、いよいよ、彼の思考力や観念力をきたえたことや、新しい思想構築をしないではいられない立場においこんだこと、その思想の内容を大きく規制したこともまた、あきらかである。しかし、埴谷に、獄中での権力の強制の有無に開係なく、早晩福本のいう意味での転向が訪れることはたしかであった。その準備は十分にすすんでいたようだ。
このような理由から、埴谷・椎名を、不生産的思考からの脱出例としてあげることには無理があろう。その意味においてではあるまいが、藤田氏も彼らをその典型とは考えていないようだ。藤田氏の考える生産的思考はむしろ、先述した「理論というものの不完全性をふまえて、多くの有効な理論を相互に重なりあう視点をとらえて組みあわせる」考え方だと思われるが、上巻に関するかぎり殆んど生きていないようだ。この考え方は、今日までの日本的コミュニストに対する、なによりも鋭い、有効な発言と思われるが、これが、「正しい意味での古典的思考方法をかくとくした思想家」と評価した、妹尾義郎論で、本当に志されていれば、コミュニズムと仏教についての、今日もっとも有効な展望がなされたであろう。妹尾は日蓮の立場にたっているが、当然、親鸞に連る林田茂堆や岩倉政治などの転向以来、ずっと、仏教とコミュニズムの関係を追求してきた成果などにもふれることになり、コミュニズムと仏教のいずれがいずれを吸収するか、あるいは、全く新しく思想の創造が考えられるかなど、まことに重要な問題提出となったであろう。
他方、鶴見氏も、この本の中では、その生産的思考についての氏の考えをあきらかにしてはいない。そこで私は、鶴見氏が他の論文で「プラグマティズムが最初に日本に紹介された頃は、主として、その思想体系であったが、その後、次第に、体系でなく、“体系をつくりだした思考方法”が理解され、駆使されるようになって、はじめて現実に、それが生産的になった」というようなことをいっていることから、氏のいう不生産的思考からの脱出とは、思想体系から、思考方法への転換を意味しているのではないかと理解したのである。
エンゲルスも、そのヘ−ゲル批判で、体系を中心にすれば、保守的となり、方法によれば、発展的となるといっているが、これは、今日私がたっている考えでもある。この思考方法は、プラグマティズムやコミュニズムにだけでなく、実存主義や日本浪曼派にもある。日本浪曼派の思考方法などというと早速反撃をくうかもしれないが、それが今日のところ、まだ十分に明確にされていないというだけである。また、日本浪曼派が、将来有効な理論として、一つの思想流派として発展するためには、その思考方法を確立するということがもっとも重要な課題であろう。思考方法なしに、思想体系を創造することはできない。この思考方法は一つの思想体系を創造し、つねに、その体系を支えつつ、さらに、その体系を限りなく発展させるものである。藤田氏の思考方法が、一つの理論の不完全性の克服を、外側からすすめようとするのに対して、この思考方法は、つねに内側から、その思想体系に即しつつ発展させようとする。
だから、もし、鶴見氏たちが、転向者たちの択んだ新しい思想の分野での思想創造を期待するためには、それぞれに、それぞれの思考方法があることを認めなくてならないし、転向者たちの不生産性は思考方法の確立にたちむかわなかった当然の結果としても理解できるわけである。
今、コミュニズムにかぎっていうなら、福本和夫のいう転向も、この思考方法の立場をとるときにのみ可能で、思想体系を固定化し唯一化するところからは、実際にはありようもなかった。だから、現実に、後退と敗北に通ずる転向しかなかったのである。思考方法でなしに、思想体系によりかかっているほど、非思想的で、怠惰な態度はないが、そのために転向者たちの上におそいかかった転向とか、組織の後退とかの危機的状況の中で、何もできなかったという、最大の反撃をうけなくてはならなかったわけである。まして、コミュニズムとは、本来、自己と現実の変革にもっとも有効な制作力を発揮できる思考方法をもつものではないか。当時のコミュニストたちが、思想体系でなく、その思考方法の立場をとっていたなら、藤田氏の指摘した福本イズムの悪しき面も容易に克服できたであろう。転向者たちをおそった、あの危機状況は、むしろ、従来の思想体系によりかかる少年的な思考状態を脱して、自己と現実に制作力をもつ思考方法を自らのものにする、或いは、思想の構築にふみだす最大のチャンスであったとさえいえる。あの時こそ、本当の意味でのコミュニストが、日本にも相当数うまれるときであった。日本的共感をたちきった大きな流れを到来するチャンスであった。誤解をおそれずにいえば、マルクス・エンゲルスとレーニン、マルクス・エンゲルスと毛沢東、マルクス・エンゲルスとチトーの間にみられる思想的発展を日本にもつくりうるときであった。この仕事は大変なものであるにしても、思想的体系でなしに、思考方法にたつかぎり、その第一歩は容易にふみだせたはずである。
はじめに、私は、鶴見氏の二つの視点を十分に生かそうとすれば、個々の思想についての思想史展望とそれらを“収れん”できるような全体的な展望をもたなくてはならないといったが、そのような展望も、それぞれの思想分野における思考方法や、藤田氏のいう有効な理論を相互に重なりあわせることのできるような方法をもつことなしには、決して十分なものにならないということがいえる。だから鶴見、藤田両氏が、その生産的思考についての考えを明確にしていれば、両氏の考えを経緯として、この「転向」研究はもっと実りあるものになったであろう。
次に中・下巻にたいする注文をつけさせてもらえば、中巻でとりあつかわれる転向の過程からは、彼らをまきこみ、おしながしていった日本的なもの、民族的なものの正体を思想史的歴史的展望、とくに未来への展望にたってあきらかにしてほしいと思う。これは日本浪曼派や日本におけるロマンティシズムにかかわるテーマであろうが、そのまま、下巻に予定されている敗戦時の転向の問題に通ずるものであり、戦後世代がその後十数年にわたってとりくんで今日におよんでいるものがある。戦争中のあの神話的状況の中で、思想的に育ち、それに生命をかけて生きぬいてきた戦後世代が、その後どのような屈辱にみちた転向と苦痛にゆがんだ探求をとおして、どのような生産的思考をかくとくし、どのような、新しい思想構築をすすめているか、ことにかつて彼らが生命をかけたものをどのように整理し、彼等の新しい思想の中にいかに位置づけているか。ここには、幾通りもの記録や成果があるはずである。だが、私たちの前には、その殆んどがあらわれていないようだ。だから、下巻の戦後世代の転向は、その探求というよりも、このような成果を私たちの前にひきだしてくれるのではないかと大きな期待をかけている。このような考えにたつ私として鶴見氏が、敗戦時の転向者を反動主義者として一括するのには抵抗を感ずるし、そうすることじしん、あやまっているのではないかとも考える。結局は、それをどのように評価するかということになるのであろうか。
最後に、戦後の転向についてであるが、ここには、昭和八年当時の転向における思想的不毛と異なって、すぐれた思想創造の芽があるのではないかと考えられる。これを敗戦時の転向とかかわらせながらぜひあきらかにしてほしい。この仕事をやりとげることによって、このグループの視点は広く深く私たちのものとなり、日本思想史に新しい章をおこすことになろう。
『転向』上巻を読んだあとの感動と不満をこめて、一文(「思想の科学」昭和三十四年四月号)を書いてから、もう四年近くになる。その後、あいついで、中巻、下巻が出版されながら、多忙ということをかくれみのにして、読むことなく今日に及んだ。とはいっても、鶴見俊輔氏が、「下巻は転向への関心がふたたびうすくなったころに発行される。」(通信第三号)と書いているように、私自身の転向への関心がうすらいでいたためではなかった。むしろ、私には、その後の思想的状況と相俟って、転向への関心は、深まることはあっても、うすらぐようなテーマにはなりようがなかった。この本を、こまぎれ的によまないで、じっくりと三巻をとおして、読んでみたいという気持がつよく働いたことも否定できない。妙ないいかただが、『転向』三巻は、私にとって愛着だけでなく、貴重な存在でさえあったのだ。
今改めて、上巻を読みなおし、中巻・下巻を読みおえての感想は、四年前に感じた、あの感激を更にうわまわるものであったということがいえる。しかし、その反面、なぜもっと早く読まなかったのかという反省も、痛いほどに感じた。それほどに、中巻の大河内一男と尾崎秀実、下巻の林達夫のところは、つよく私の心をとらえた。最近、これほど、私に心強いものを感じさせたものもない。私の小論で、希求してやまなかった、その故に、「転向」研究に決定的意味をみとめている、不生産的思考から生産的思考への脱出の過程が、中・下巻の場合、上巻に比較にならないほどに、明らかにされていることも、深い喜びの一つであった。だが、個人の場合の成功に比して、一つの思想、一つの理論の発展という視点からみると、大変不十分ということを感じた。このことは、藤田省三氏が、上巻でいうところの「理論というものの不完全性をふまえて、多くの有効な理論を相互に重なりあう視点をとらえて組みあわせる」ことによって、より完全な理論をつくりだそうとする立場とかかわりあうところ。藤田氏のこの立場は、上巻と同じく、中・下巻でも十分に成功していないといえる。尾崎秀実、清水幾太郎、城山三郎などに、その一端はうかがえるにしても、これでは、不十分すぎる。日本の思想家には、この立場からの追求にたえるだけの思想内容の持主はいないということになるのかもしれないが、それはそれとして、この失敗の一つの原因は、急進主義者、自由主義者、国家主義者、保守主義者を、戦前・戦中・戦後と横割り分類して、個々人を中心に追求した結果といえるのでないか。藤田省三氏のこの立場は、ほかならぬ、思想の科学研究会の立場でもあった筈だ。もし、いくつかの思想・理論の発展のあとをおいながら、それらの思想・理論が相互に重なりあう面を追求していたら、この研究はもっと実りあるものになっていたのではあるまいか。
たとえば、清水幾太郎の場合は、日本のプラグマティズムの発展という流れの中で、コミュニズムとどう重なりあったか、それとも、重なりあわないで、コミュニズムの放棄による、単なるプラグマティズムへの移行にすぎなかったのか。もしそうなら、なぜ、清水のコミュニズム的思考はそれほどにもろかったのか。またもし、二つの思想が重なりあっていたら、どんな新しい思想が創造されたか、などがあきらかにされたと思う。
『大義の末』を中心にみた、藤田省三氏の、城山三郎の戦後転向にしても、鶴見俊輔氏の「日本的宗教心から普遍的な原理を生み、独自の科学を育てていく道はとざされていない」(中巻197頁)とのべている、「日本的宗教心から、宗教的原理へと発展する」思想の流れの中で、保田与重郎や萩原朔太郎などとの関連で、いかなる理論とどう重なりあえば、それが可能であったか、当然追求されなくてならないものだったと思う。藤田氏がいうところの、城山の「新しい社会的行動の型」の中に、「大義」が思想として、どう生き、どう発展させられたか、清水幾太郎のプラグマティズムにおけるコミュニズムのように、城山の「大義」も、思想としては発展しようがなく、せいぜい、城山の「新しい社会行動の型」を確立する上に役立つにおわったのか、それはなぜなのか、などがあきらかになってくる。戦後派の思想が、日本の実存主義との関連においてでないとあきらかにされないほどに、深くかかわりあっているとすれば、戦後派の転向は、日本の実存主義の発展の中であきらかにした方が、ずっと生きてこよう。勿論、ここにも、コミュニズムとの重なりあいは、当然考えなくてならない。
だが、一方、藤田氏の「思想と思想との重なりあい、組みあわせから、より完全なる思想をつくりだそうとする」立場を認めながら、その故に、一つの思想、一つの理論の流れを中心に追求することの必要を提案したのであるが、清水幾太郎や城山三郎の紹介された範囲からみても、大きな期待はもてない。むしろ、その場合における貧弱さをあきらかにすることに役立つ結果におわりかねない。だが、今、その貧弱を明らかにすることも大切だといっていい。実は、この貧弱さは、「転向研究の視角」(図書新聞五月十二日号)で、高桑純夫氏が「共産主義に入った最初の動機、それが全然研究されていない。……たとえば、一旗あげようとしたひとだったら、都合がわるくなれば、服をぬぐようにぬいだとしても、それを転向のどうのというのがおかしくなりますからね」といい、大熊信行氏は、「まだ思想形成もととのわない、ふらふらとした心の状態について、それに転向という言葉をつかうのは一寸ひるむですね」といっている。転向者とはいっても、その多くは数冊の書籍に感動して、その思想的立場を決定した者、あるいは、たまたま、身近かにいた人に心酔した結果、その人の思想的立場を早々に自分の立場としてきめた人達だ。彼等の多くは、その思想を再検討なり、検証なりを求められるような一撃を、状況によってであろうと、権力によってであろうとうけることがなかった。むしろ、この一撃をうけた後に到達した立場こそ、はじめて、彼の思想的立場といえる。転向をせまられるような立場にたたされたとき、実ははじめて、思想生産の場に、立場決定の時にたたされたといっていい。この時こそ、むしろ、自分が学んできた思想ともう一度むきなおってみるときであった。一つの思想、一つの理論を学び、その立場にありながら、それが、新しい思想・理論とのであいの中で、相互に重なりあって生きてこないようなら、それが、かつて、彼の思想的立場であったなどといえないもの、いうに値しないものといわなくてはならない。清水幾太郎が、コミュニズムに対し、城山三郎が、「大義」に対し、自分の思想であったといいうるほどに、自らのものにしていたら、彼等の今日の思想がもっと実り豊かなものであったばかりか、コミュニズムや、日本的宗教心から普遍的原理へと発展していく流れに、実りあるものを提供できた筈である。これこそ、一つの思想から、一つの思想へと生産的転向をしたといいうるもの、思想への責任は、この時、始めてもてるといっていい。
だが、なんといっても、転向問題の中心が、コミュニズムへの転向と、コミュニズムからの転向であるとすれば、コミュニズムの発展に即してみることが、もっとも重要な位置をしめなくてはならないことは、いうまでもない。はじめに、大河内一男、尾崎秀実、林達夫のことを読んだときの感激についてはふれたが、コミュニズムの流れから、彼等をとらえるとき、彼等の存在はいよいよ深い意味をもって、今日の思想状況、とくに、転向状況にかかわってくる。藤田省三氏は「内在的批判の体制に対する適用の見事な例」として、大河内一男について「真向うから、体御に対して投げつけたいと思う自分の原理の発表を抑えつけて、その禁欲の上にたって、敵の原理の中にはいりこみ、そのことによって、却って、敵の足をすくおうとするときに存在する、原理と原理との内面における苛烈な闘争をすすめた」(中巻四十七頁)と書いている。ついで、鶴見俊輔氏は、尾崎秀実の、「マルクス主義の理論が巷から姿を消し、日本社会のどこにも、ナマの活字でよめなくなった時代にも、いかなる状況の、いかなる素材をもそしゃくして、自己の共産主義思想に転じることができた」(中巻八十七頁)生き方を紹介する。藤田氏は中巻についで、下巻で、林達夫が、戦中のぎりぎりの状況から学びとり創りだしたところの立場、「順応の中に批判と抵抗をなしうる方法」「敵のかくされたる最大弱点を発見し、その一点に知性の一撃を加える方法」「権力の政治学にたちむかう知性の政治学を確立する方法」を私達の前にはっきりと描いてみせた。
権力や状況からの一撃をうけたことをきっかけに、彼等は逆に、その思考力を確立していった。これこそが、思想といい、思考力だといいうるものを、私達の前にみせている。コミュニズムの発展という視点から、その流れの中で、彼等をみていこうとしていたら、彼等がその中で、どんな位置をしめ、いかなる役割を果したかが十分にあきらかにされていた筈だ。三者の結びつき、かかわりあい方もあきらかにされ、彼等に対する賛辞は、どんなものでも、高すぎないことも理解されていた筈だ。そして、当然ながら、大野力氏があきらかにした、「従来の階級的観念によって切捨てられていたような、経済社会のさまざまな実相から、日本社会を具体的に改善するプログラムを得ようとする」(下巻324頁)大野明夫の立場や、「自らを変革の側に位置づけながらも、その陣営自体の中にある欠陥に対して、容赦なく批判して憚らない自信を確立した」(下巻319頁)大島渚の立場が、大河内・尾崎・林たちとどう結びつき、どう重なりあったかということが究明されることになった筈である。
大河内・尾崎・林たちの立場が、結局、守勢の立場をいでなかったのに対して、大野・大島のそれは、守勢から攻撃に転じた立場といっていい。勿論ここには、戦時と現在の時代的相違から生じたものであったにしろ、今日にもつ意味は大きい。しかも、大野・大島の立場を強化するものは、大河内・尾崎・林たちの確立した方法であり、更にそれらを発展させるところに、強化されてくる。
もし、大河内から、大島に至る立場が、それらのもつ意味と役割に相応しく評価されていたら、今日、敵の内部での闘いの組織を確実に組むこともできていた筈だ。勿論、体制の外に、独立した反体制運動の組織を確立することは、必要不可欠であるにしても、この組織と平行して、体制の内部に、体制そのものにきりこみ、内部から変えていく組織を組むこともできていた筈だ。そうすれば、転向がどんどん進んでいるとみる今日の状況も、おそれたり、心配したりすることでなく、むしろ、敵の内部に広く深く浸透をすすめる作戦に転換できる状況になったとの確信ももてたのでないか。それには、城山三郎の「新しい社会行動の型」の働きによる、日本共産党の変質がすすめられていなくてならないとともに、「日本的宗教心から普遍的原理へと発展する」視点にたって、体制側を支え、導いている今日の思想を、その内側から批判していく作業がすすめられていくことが必要である。
このようにみてくると、今日の「転向」研究には、日本の思想の不生産をたちきることもふくめて、かつての、戦前・戦時におこった挫折と敗北の転向ではなくて、福本和夫が初期に使用した意味での、前進と発展の転向を、今日、国民的規模ですすめるための方向と方法をあきらかにする課題があることを理解していただけたと思う。「転向」研究のあり方如何によっては、それは容易に可能でもある。すぐれて、今日的意味をもっている研究テーマであることを強調しておきたい。
ナショナリズム論はなぜ不毛か
今日の時点で、ナショナリズム論を書くということにはあるとまどいを感ずる。それは、右からのナショナリズム論と左からのナショナリズム論が決定的に対立し、到底、あいいれないものであるということを論証するためでなくて、むしろ、ナショナリズムを中心に思想としてのナショナリズムが発展するとき、左右からのあゆみよりが可態かどうか、共通点、一致点は出てくるのか、出てこないのかを見究めることにあると考えるからである。
しかし、私が、多くのナショナリズム論を読んで感ずるのは、相手を孤立化させようということを考えるあまり、かえって、自分が孤立化し、そこに、連合統一への可能性を摸索する姿勢がみられないことであった。これが、ナショナリズム論を不毛にしている原因でもあろう。 もちろん、右からのナショナリズム、左からのナショナリズムが、そのままで、共通点、一致点をひきだせるわけもないし、その主張をゆがめて、あゆみよりができるわけがない。もし、一時的に、出来たとしても、それは、ナショナリズムの退廃でしかない。
しかも、思想としてのナショナリズムが、右から、左から成長し、そこに、共通点、一致点を見出していく努力がでてくるという保証は少しもないし、殆んどの人は、そんなことは夢想に近いと考えている。だが、私が、今日の時点で、ナショナリズム論を展開するとすれば、その夢想にむかって、少しでも、接近してみるということでしかない。そこに、私がナショナリズム論を書くということに、とまどいする大きな理由がある。
ナショナリズムといえば、普通、歴史的概念であり、資本主義社会の成立とともにつくりだされたものであり、近代ブルジョア国家の形成にともなって、同一の伝統と歴史の中に立つ自覚と誇りを、この伝統と歴史を区別する中で、意識的につくりだした民族の意識であるという考えが強い。たしかに、それは、一面あたっているともいえるが、それだけでは、素朴なナショナリズム、ことに、右からのナショナリズムを包含し、説明することにはならない。近代ブルジョア国家として発足する前から、今日いうところのナショナリズムと違うかもしれないが、そこには、自分の生れた国に対する素朴な愛着があり、自分が育ち吸収してきた生活や文化に対する愛情がある。それを征服しようとする国に対して、怒りを感じ、許せないという感情が働く。生命をかけて国の独立と平和をまもろうとする気持ちがある。
歴史をさかのぼれば、蒙古が日本に改めてきた時に、そういう感情や気持ちが最も強く作用し、発露したということがいえる。これが、ナショナリズムの始源的な形であり、源流である。しかも、この場合のナショナリズムは、民族の防衛という形で、最も鋭く、発揮されたものということがいえよう。
だから、近代ブルジョア国家の時代のナショナリズムとして、帝国主義的なナショナリズムを択ぶか、反帝国主義的なナショナリズムを択ぶかということは重要な分岐点になるが、ナショナリズムそのものの根源には、この気持ち、この感情が強く流れていることを認めなくてはならない。これを認めないかぎり、右からのナショナリズムと左からのナショナリズムを、同じ土俵のうえに、ひきあげて、かみあわせることもできないし、また、論ずることはできない。これを論ずることができなくては、今日においては全く無意味であるといいきってもいい。
それは、ともかくとして、明治以後の日本は、国家としては、そのナショナリズムの方向を帝国主義に発見して、その道を真直に歩いてきた。お隣りの朝鮮を侵略し、さらに、中国から、東南アジアにおよぼうとした。その民族の独立のために、悪政をする政府を追い払うとか、その民族を征服している帝国主義を追い払うとかいう名目をたてて、日本自身が、それにかわろうとした。いってみれば、戦前までの日本のナショナリズムは、民族の感情、気持ちのままに、それが欲し、求めるままに委ねてきたといえる。世界の先進諸国が帝国主義的方向を歩いていることに刺激されて、日本もまた、遅ればせながら、その道を歩もうとした。そこには、帝国主義にたちむかう日本の防衛もあったが、いつか、日本の進路そのものも帝国主義の道を歩むことによってのみ、日本は発展し、膨脹していくというように考えたのである。
愛国心は、その方向にむかって進むところにのみあると考え、自然に日本のナショナリズムをそこに、押しこんでいった。そして、いつか、それ以外には、日本人の愛国心、日本人のナショナリズムはないかのように、政府は国民を指導し、国民もまたそれを疑うということがなかった。こうして、戦前の日本ナショナリズムが形成されていったのである。こういうナショナリズムは、日本人の素朴な感情、感覚を基調にし、発展と膨脹を欲する素朴な欲望と一つになることによって、非常に強力なものとなっていったのである。
そこには、朝鮮の人民の希望や中国の民衆の気持ちを配慮することの出来ない、盲目的なナショナリズムしかなかった。日本のナショナリズムが、朝鮮や中国の人民のナショナリズムをひきおこすという配慮も全然なかった。あれば、それを駆逐すればよいと考えるナショナリズムでしかなかった。いってみれば、人間としての、国家としてのナショナリズムでなく、動物の、動物の集団でしかない国家のナショナリズムでしかなかった。悲しいことだが、それを認めなくてはならない。
最近のナショナリズムの復活論者が、ともするとこの戦前のナショナリズム、動物的なナショナリズムを復活させようともがいている。それによって、朝鮮や東南アジアを、戦前的な形ではないにしろ、支配し、征服してゆきたいという迷妄を懐こうとしている。
もちろん、ここには、世界の現段階が、帝国主義的な段階を克服していないこともあって、それに刺激されたこともあって、それも無理はないということもいえる。だが、それにしては、数百万の血を流した大東亜戦争というものが、あまりにも生きていない。教訓となっていない。なまの感情のままに、なまの欲望のままにゆだねてナショナリズムを放置している。
誤まれる「愛国心」への屈折
蒙古が日本を攻めてきたとき、日蓮は、「道理が行われないような国は亡んでもよい、悪人がはびこり、善人が罪になるような国は、必ず他国に敗らる」というようなことを書いている。彼は蒙古の罪のない使者が斬られて、この日本に害毒を流している者が斬られないのはおかしいともいっているし、他国に攻められたのをきっかけにして、道理が行われるようになるならば、残念だけれども、それはいいことであるとも言っている。
日蓮は、あの当時において、すでに、日本の中に、二つの国が存在する、存在しなければならないことを説いている。すなわち、理想を追い求める国と、理想を追わず現実に流される国との二つである。彼は、蒙古から攻められたのをきっかけにして、日本をこの理想を追い求める国にしようとしたのである。
日蓮に即していうなら、愛国心にも二つあり、ナショナリズムにも二つあるということになる。理想の国家をつくろうとする愛国心、理想の国の方針を実現しようとするナショナリズムと道理であろうとなかろうと、現実の国家をそのままに愛し、その政策を支持するナショナリズムとである。もちろん、彼は、後者を、本当の愛国心、本当のナショナリズムとは考えない。戦前の日本でいうなら、他国を侵略するような日本を愛する愛国心は、本当の愛国心でなく、日本をアジアの孤児に導くようなナショナリズムは、本当のナショナリズムとはいえないということになる。明治維新の場合にも、二つの愛国心、二つのナショナリズムをめぐって、日本人は大きく二つにわかれた。幕藩体制をとる日本を愛するか、それを排除して、統一国家としての日本を愛するかということで、愛国心は二つにわかれた。鎖国をとるか、開国をとるかで、日本のナショナリズムを二つの方向にわかれさせた。どちらも愛国心であり、日本人のナショナリズムであった。どちらが好ましい愛国心であり、とるべきナショナリズムであるかということである。歴史の発展に即した愛国心とナショナリズムがその時、勝利をおさめたことはいうまでもない。
だが、その場合、愛国心というも、ナショナリズムというも、どういう国を愛するか、どういう方向を辿るかということが、いかに重要であるか、ということになる。明治以後の日本が、帝国主義的なナショナリズムをとるか、反帝国主義的ナショナリズムをとるかということが重要であるといったのも、そのためである。唯愛国心を強調すればよい。唯ナショナリズムを振起すればいいというのではない。明治維新が、ただもう好きな右の人も、維新当時の愛国心、ナショナリズムには、選択があったということ、選択をするのを厳しく求められたという事実を忘れてはなるまい。
そのことはしばらくおいて、明治以後の日本で、帝国主義的なナショナリズムの道を歩みはじめた政府に対して、日本を愛するということは、その政府に反対することであり、日本のナショナリズムは、朝鮮や中国、東南アジアを侵略することで達成されるどころか、かえって、日本のナショナリズムの墓穴を掘ることだという人達があらわれたとしても不思議ではない。日本を愛するということは、帝国主義を国是とする日本政府を愛することではないし、帝国主義の路線をつきすすむ日本政府のナショナリズムは日本をアジアの孤児にすると考えはじめたのも無理はない。帝国主義的な方向に進まないかぎり、日本が発展しないような経済政策をとる日本政府は認められないと考えたのである。
こうして、戦前の日本の、右と左からの資本主義批判が始まったのである。財閥を否定し、資本主義政策を克服しようとする動きがおこったのである。
それは、明治維新のとき、当時の幕府を批判し、ついには、それを否定するところまで発展していったのに似ている。それこそ、維新の志士たちは、幕藩体制の日本を愛することができなかったのである。愛すべき日本は、どういう国であるかを徹底的に議論し、追求し愛すべき国をつくろうと努力したのである。屈辱的な状態で、日本を守ろうとする幕府の意見を排除し、他国に対して、対等の位置に日本をおこうとした。それが、維新の志士たちの考えた愛国であり、ナショナリズムであった。その愛国心は強烈であり、そのナショナリズムは強力であった故に、そういう日本をつくることも出来たし、そういう外交路線をとることもできたのである。
なぜ、そんなに、愛国心は強烈であり、ナショナリズムは強力であったのであろうか。彼等は、自然の感情のままに、日本の国土を愛し、独立を真底から欲したためである。その感情とその欲望を統一国家をつくろうとする考えが指導したからである。統一国家をつくらねばならぬという考えとその感情、欲望が一に重なったためといってもいい。
むしろ、幕府を憎み、怒る感情と四民平等を願う欲望、統一国家を希望する気持とが一になって作用した、といった方がいいかもしれない。要するに感情や欲望を、判断や考えがリードしたのである。百姓一揆は、多くの場合、単にはげしい感情や欲望のままに、怒り、求めることはあっても、いろいろの判断や考えに指導されることがない。どういう政府や政策を求めてよいかわからない。だから、百姓の反乱や反抗がいかに激しくても、解決を導きださなかったのである。それに反して、明治維新が成功したのは、その判断や考えに感情が欲望が指導されたためである。
だが、戦前の日本では、その資本主義体制を崩することも出来ないままに、財閥や軍閥を仆すこともできないままにきてしまった。いうなれば、現実の日本政府を仆すほどに、強烈な愛国心も強力なナショナリズムもおこらなかったのである。資本主義政策をとらないような日本、新しい日本を待望する愛国心を国民の中に広くおこそうと、決意するナショナリズムは、国民の中に普及しなかったのである。朝鮮や中国と一緒に、また、東南アジアの国々とともに、帝国主義に反対するナショナリズムは大きくおこらなかったのである。だから、政府の政策を変えることも出来なかったのである。
それは、むしろ、朝鮮や中国を支配し、東南アジアを席捲していこうとする素朴な愛国心、ナショナリズムの中にまきこまれてしまったのである。強力ではあるが、誤まった愛国心、誤まったナショナリズムといえるものに屈伏してしまったのである。
不完全な左・右ナショナリズム
戦前の日本の資本主義的政策を批判し、帝国主義的路線を否定する愛国心、ナショナリズムは、理性的な愛国心、理性的なナショナリズムである。それはまた考えた愛国心、考えたナショナリズムである。帝国主義的な路線を進む日本の愛国心、日本のナショナリズムがなまの感情、なまの欲望にゆだねる、動物的な愛国心、ナショナリズムとすれば、それに反対する愛国心、ナショナリズムは、それこそ人間の愛国心、人間のナショナリズムであったのである。崇高でさえある。日蓮の言葉をかりれば、道理にあった理想的な愛国心、ナショナリズムということになろう。
これを、インタナショナリズムといってもよかろう。普通、インタナショナリズムは、ナショナリズムの対抗概念として考えられがちであるが、むしろ、インタナショナリズムは、ナショナリズムが、とかく、閉じられたものになりがちなのを、開いたものに、発展するものに、チェックするものとして考えた方がよい。
閉じられたナショナリズムは、戦前の日本のナショナリズムが示したように、それは、他国のナショナリズムを否定し、あげくのはては、滅亡するナショナリズムである。滅亡しないまでも、自由勝手にふるまえないナショナリズムの運命を辿る。そのことは、第二次大戦後の、米・英・仏等の帝国主義的なナショナリズムの末路をみればよくわかる。それは、必ずといっていいほど、反帝国主義的ナショナリズムの抵抗にあって、制限されるし、まかりまちがえば、帝国主義的なナショナリズムのために、その国を崩壊に導く可能性さえある。それが、現段階での帝国主義的ナショナリズムの運命である。
だが、それにもかかわらず、戦前、わずか二十数年前に、日本の中の理性的なナショナリズム、考えたナショナリズムが、何故に、欲望のままに振舞う、感情のままに発露する動物的なナショナリズムに敗れ、その中にまきこまれていったのであろうか。
資本主義的政策をとる日本政府、その結果、帝国主義的な政策をとる日本政府を仆して、新しい国家をつくるほどに強力にならなかったのであろうか。
それは、そのナショナリズムが、理性の範囲にとどまり、一の意見の範囲を出なかったためではなかろうか。自然の感情と一になり、なまの欲望と一体になれなかったために、感情や欲望をリードできなかったためではなかろうか。理性的なナショナリズムがまけたのは、インタナショナリズムと言ってもいいが、知識人や似而非的知識人の考えや意見の範囲を出なかったためといってもいい。本当に行動を導く理論となるためには、非常な困難、時として、死を賭しても敢行するような行動を導く理論となるためには、唯単に、理性的に納得したという以上に、全人間的に肯定したものがなくてならない。人間の感情や欲望が肯定し、求め、意志で決断したものでなくてはならない。
他国を征服したいという欲望よりも、他国を征服したくないという理性と決断の方が強くならなければ、動物的なナショナリズムに、人間的ナショナリズム、理性的ナショナリズムはうちかつことは出来ない。死を択ぶ決断がないかぎり、政府の進めるナショナリズムに反対することは出来ない。
それに悪いことには、動物的なナショナリズムというか、なまの感情、なまの欲望のままにゆだねるナショナリズムは、動物の如く貪欲で、動物の如く惨忍である。他民族を征服することに快感さえも見出す。他民族の不幸を喜ぶ。他民族が、自分達と異なることを喜ぶ。恐しいことだがそれは事実である。動物的なナショナリズムのままに行動していれば、帝国主義的なナショナリズムに身をゆだねていれば、いつかは行詰まる、いつかは駄目になることを知りながら、その行動そのものに快感を感じてやめようとしないこともある。全く始末にこまるものといっていい。だから、理性的ナショナリズムが強力になるためには、インタナショナリズムが、真に人間の行動を支配できるようになるためには、なまの感情、なまの欲望のままに生きる愛国心とナショナリズムを否定し、排除してはならない。始源的な形をとって発露する強力な愛国心とナショナリズムに反対することではない。単に、好ましく考える、ナショナリズムというか、意見としてのインタナショナリズムの立場をとることではない。
ナショナリズムをチェックするインタナショナリズムといったが、そのインタナショナリズムが単なる意見であるかぎり、ナショナリズムをチェックすることはできまい。動物的ナショナリズムをチェックできるのは、その限界、その行詰り、その退廃をとことんまで教える動物的ナショナリズムそのものである。なまの感情、なまの欲望のままにふるまうことは、全く危険であるということを教えてくれるなまの感情、なまの欲望そのものである。要するに、好ましい感情、好ましい欲望と愛国心が、ナショナリズムが一体にならなければどうにもならない。
その好ましい、感情、好ましい欲望をつくってくれるのは、とぎすまされた感覚である。平等の感覚であり、独立の感覚であり、人権の感覚であり、自由の感覚であり、平和の感覚である。今は、感情と欲望と感覚の関係をこれ以上述べることができないが、感覚に方向づけられ、導かれた感情と欲望は、依然として強力であり、その感情と欲望に根ざした愛国心とナショナリズムは非常に強力であるということをいっておきたい。
そして、従来、右からのナショナリズムはなまの感情、なまの欲望のままにゆだねていたために強力ではあったが盲目的であり、動物的であり、左からのナショナリズムは、意見としてのナショナリズム以上に出なかったために、好ましくはあったが、大変もろかったということをいわねばならない。その意味では、右からのナショナリズムも左からのナショナリズムも、それ自身としては、全く不完全であるというしかない。
明治維新をめぐる評価の軸
自分の生まれた国、自分が育ってきた生活と文化に対する素朴な愛情、愛着が、ナショナリズムの源流であり、同一の伝統と歴史に対する自覚と誇りが、近代的ナショナリズムの骨格をなすと書いたが、明治維新に対して、右からのナショナリズムと左からのナショナリズムが、どのように評価しているかをみてみよう。ただし、この場合、右からのナショナリズムにもいろいろあるし、左からのナショナリズムにもいろいろある。現に、明治維新は絶対主義革命である、いやブルジョア革命であると遠山茂樹氏と上山春平氏との間に論争がなされている。それこそ、この違いは決定的な違いであるかの如く見える。だが、ここでは、始めに述べたように、一切そのことにはふれない。ここでは、ただ、明治維新の評価の内容でなくて、評価の姿勢についてふれたいのである。内容をつくりだす姿勢のことを述べたいのである。
右からのナショナリズムは、とかく、明治維新そのものを絶対的に評価し、明治維新そのものを神話の位置におしあげようとする。そこには、日本歴史の中の一時期の革命であり、一時期の革命は、その時代の制約があり、限界があるということをいわない。いいかえれば、日本民族は生成発展するものでなく、この明治維新で、その発展をくいとめようとしている感じさえする。民族の智慧も、明治維新を頂点にして、それ以上に発展しないかのようである。
要するに、日本人の在り方や行動目標をすべて、そこにおいている。これでは、日本人は明治維新にしばられて、何の動きも出来ない。右からのナショナリズムがとらえた明治維新は、大体、これと大同小異である。全く、窮屈な見方というしかない。
これに対して、左からのナショナリズムは、明治維新そのものの評価に一生懸命なあまり、明治維新そのものが、我々日本人の祖先がなしとげた革命であるということを忘れがちである。評価そのものが、学問的に大事だというので、明治維新に対する愛着を忘れている。時としては、明治維新そのものの欠陥ばかりを追求している。そして、いつか、この伝統は、自分達の外にあるもの、対立するものであるかの感じすら強くする。
たしかに、明治維新を対象化し、客観的に追求することは非常に大事であり、明治維新が非常に不完全なものであったこともわかる。だが、私達が歴史を学び、伝統をうけつごうとするとき、歴史と伝統に対する愛着と共感、多くの血を流しつつ、歴史の一コマをすすめたという戦慄と感動が必要なのではないか。そういう感情に支えられながら、歴史を仮借なく見ることも出来るし、徹底的に批判することで、伝統としてうけつぐことも出来るのである。
明治維新そのものは、私達の先輩が、多くの血をあがなって、かちとったものである。その不完全さを、今日の智慧で裁断することは容易である。だが、当時、誰が、それ以上のものを考えることができたのか。また、そういう意見を支える人達が、どこにいたというのであろうか。
明治維新を完全なものにするか、不完全なものにするかは、当時、完全なものを考え、求める人達が少なかったことを意味する。厳密にいうと殆んどいなかったことを意味する。いいかえれば、当時の日本人の叡智が、明治維新を闘いとり、それ以上でも、それ以下でもなかったということである。まがりなりにも、国内変革をやってのけた明治維新の担当者の方が頭では一応、日本の資本主義政策を批判し、帝国主義路線を否定しながら、結局は、その走狗となりさがった人達よりも、ずっと立派であるということも出来るし、いつまでも、そんな態度で、明治維新を評価していたら、明治維新の伝統のなかにいる日本の民衆をめざめさせることも、味方にひき入れることもできまい。
大切なことは、日本の伝統をうけつぎ、それを発展させてゆく立場であり、日本の歴史を創造発展させてゆく立場であり、明治維新を先輩の歴史として、うけつぎ、それを発展させてゆく立場である。右からのナショナリズムは、明治維新を継承するだけで、発展させようという視点がない。左からのナショナリズムは、批判のみがあって、継承しようする視点がないことである。
これでは、明治維新の志士たちは泣くにも泣けないのではないか。
伝統と歴史といったところで、天皇の問題が浮かびあがってくる。戦後日本の思想状況のなかでは、戦前的な天皇を想像することはできないかもしれないが、天皇というものには不思議な力がそなわっている。というのは、戦争ごとに、他国の王朝は亡びている。ドイツ、オーストリア、トルコ、ロシア、イタリア、ユーゴというように、第一次大戦、第二次大戦で亡んでいる。イギリスやフランスの王朝も国内戦のなかで亡んでいる。しかし、不思議と、日本の皇室は亡びないで、かえって、敗戦のなかで、すぐれた役割を果たしている。明治政府以来の教育が徹底し、日本の大衆の中に民主的意識が育たなかったためであるというだけでは説明しつくされないものがあるようである。
その故に、右からのナショナリズムは、より一層、天皇を認め、天皇をナショナリズムの柱にしようとさえする。いってみれば、天皇ほどに、古く長い伝統をもっているものはないといってもよいから、それも無理はないともいえる。だが、日本歴史の中で、天皇とは一体何であったのだろうか。六百年余もつづいた武家政治の中で、存在を主張しつづけたものは何であったのだろうか。これは、更めて、検討してみる必要がある。島国という条件が、天皇の支配的位置を保たしめたというだけでは、説明にならない。しかし、その本格的な検討は他日にゆずるとして、現実の天皇が、天皇思想の体現者として現われたが、絶対君主として、殆んど現われたことがなかったということが、天皇が今日まで続いた大きな原因ではなかろうか。
絶対君主である以上、そこには、我儘もあるし、横暴もでる。そういう我儘や横暴が極度に出れば、我慢できなくなってくる。天皇を亡ぼそうというものもでてくる。政府は、我儘や横暴であったが、それは、天皇自身から出たことではないという見方があった。しかし、その天皇は、天皇思想の体現者として現われていたし、その天皇思想とは、簡単にいえば、万民所得の思想といってもよい。
万民所得の思想なんて、いつの時代にもあてはまる都合のよい言葉はない。どんなにも解釈できるし、つねに、人民の幸福を願って、その幸福の増大と充実を目的とするニューアンスがある。大東亜戦争時代、それをかかげた戦争ということで、若い純真な青年達は戦地に赴いた。そこに、戦争世代が、心情として大東亜戦争を肯定したくなる気持ちもあるのである。彼等のなかでは、あきらかに、東亜諸民族の解放という聖戦であったし、唯一つしかない生命も捨てることができたのである。それは、今、自由のためと信じて、南ヴェトナムで戦い、そこで死んでいるアメリカの青年に似ている。しかし、日本青年の心とは関係なく、大東亜戦争は、東南アジアに対する侵略戦争であったし、アメリカ青年の気持ちとは関係なく、アメリカは今、ヴェトナムを侵略しているのである。
少し横道にそれたが、日本のナショナリズムが骨格にしているのは、実は、天皇でなくて、こういう天皇思想である。そして、多くの日本人のなかには、その天皇思想を批判しきらないままに、天皇と天皇思想が混在しているのである。本当の意味で、天皇が天皇思想の体現者であるなら、その天皇思想を軍閥のナショナリズムに利用されたということで、その行動に責任をとり、敗戦の時に、何かをしなくてはならなかった筈であるし、そうして始めて、天皇はまがりなりにも、天皇思想の体現者としての位置をたもてた筈である。
右からのナショナリズムは、この点を、とことんまで考える必要がある。天皇を本当に愛するということ、民族を本当に愛するということはなにかと考える時にきている。
左からのナショナリズムも、大衆の中に生きている天皇の実体は何かと明確に見究めるところにきている。そのとき、はじめて、大衆の中に生きる天皇を克服することも出来よう。それは、天皇問題をタブーとして、さけて通ることではない。天皇問題を論ずることが出来なくなったとき、その結果、どうなったかは、戦前の例があきらかにしている。
悪魔の支配からの脱出
次は、簡単に、平和の問題にふれよう。右からのナショナリズムは、日本をまもるためには、武備をもたなくてならぬという。左からのナショナリズムは、憲法をまもって、再軍備には絶対反対という。右はアメリカを同盟軍と見做し、左は中・ソを同盟軍と見做していると、相互に思いこんでいるから、絶対に、意見の一致はないときめている。
私は、ここで非常に思いきった、乱暴ともいえる意見をはいてみたい。それは、原爆、水爆を行使するような国家とともに、この地球上に存在したくないと思いきることである。そんなところに、生き残ることを考えないで、むしろ、原爆や水爆によって亡ぼされることを欲するという決断である。それが、本当に、民族を愛し、日本を愛すことになると考えるのである。水爆や原爆を行使する国は、いかなる意味でも、もはや、理性と愛情をもつ人間でなく、悪魔の支配する国である。それは、私が被爆者であるということから来る憎悪でいっているのではない。人間の理性や愛情が働く余地があってこそ人間の生きる楽しみも喜びもあり、悪魔とも戦う余地がある。水爆や原爆が行使されているところには、もはや悪魔しかない。せっかく、数百万人の血で戦いとった平和憲法をまもって、文字通り、道義国家、文化国家の道を、苦難の道をすすめばよい。それが、意味もなく、死んでいった東南アジアの人々を弔う戦いにも通ずるのである。平和憲法が、他国から押しつけられたものであろうと、なかろうとそんなことは問題でない。好戦的な国民であった日本人には、あの当時はすなおに、それを肯定することは出来なかったかもしれない。それに、戦勝国が自分の国家目的のために押しつけたということもあって、なおさら肯定することはできなかったに違いない。今は、原爆・水爆の時代である。だから、より一層の意味をもってくる。日本のナショナリズムの根底に、この平和憲法をおけばよい。再軍備したくなるのは弱者の心理である。チンピラが、むやみやたらと刀をふりまわすのに似ている。勇者は武力を必要としない。現代もまた、言論や理性の時代になりつつある。
力ではない、本当の正義が支配しはじめている。それにこそ、日本は力をかすべきである。それを本気で考える政府をつくる必要がある。日本の危機の中で、国内改革をやってのけた明治維新は、その意味でも、現代に多くのものを語りかけている。
以上、右からのナショナリズムは何を吸収し、左からのナショナリズムは何を学びとらなくてならないかを述べてきた。そういう意味では、どちらも生成発展することを求められている。それを早く、なしとげた方が、日本の次のイニシアチブをとることができるといっても間違いはなかろう。
次の引用は1954年七月、「新しい風土」という小さな雑誌を創刊した時の巻頭言です。
戦争、平和、再軍備と一連の支配者によるめまぐるしい主張の変化とそれによる悲惨を体験した私達国民はこれまでの上からの指導には納得できなくなった。それを疑わなかった私達の態度は誤っていた。こうして私達は今自分達の生活のまわりに起っていることに眼をむけ、そのなかで自分達の生き方を探している。
私達労働者の労働はおびやかされ、生活は破壊されている。そのなかで私達がどう生きればよいかを見定めることはむづかしい。しかしその困難にまけて、これまでのように上からの考え方にたよっている限り、本当の私達の労働と生活を確立することは出来ない。自分達の力でつくりだしたものでなければ、労働者のものにならない。ましてその力にはならない。私達は今それをしり始めた。そこで私達はいろいろの学習の機会をとらえて、自分達の見たり聞いたり、体験したことを理論的にまとめている。そのやり方は、知識人が種々の論文や解説をよんで抽象的観念的にしるよりはずっと具体的で体験的だ。自分の体と生活をもって掴んでゆく。こうしてつかまれた労働者のぎりぎりの考え方や要求は前に先っぱしりもしないが、どんなことがあろうとも後にもむかない。こうした私達労働者と一つである考えや意見が労働者の表現をもってたかまっている。
水害で山は崩れ、河はきれ、冷害で凶作がつづき、私達農民の生活はどこまでも落ちてゆく。ここでは自分達の智慧でその生活を支えてゆく以外に道はない。百姓に学問がいらない所か、百姓にこそ今の境涯から脱してゆける学問が一層切実であることをしった。長いものにまかれるのは農民の習性であると教えられた私達であったが、封建時代のあの激しい弾圧をはねのけて団結して斗ったことも知ったし、農民の激しい落しあいも、限られた土地の中で、自分が豊かになろうとすれば、自然他人の転落をのぞまねばならない悲しい事実もしった。団結出来ないのでなく、団結させなかったのだ。私達農民の無知と忍従が社会の発展を阻む力となり、それがひいては、私達のみじめな状態をつづけさせていたのだ。長い間たぶらかされていたことを知った私達の怒り。それがだんだんと形をとり、更に明確な方向と内容をあたえられながら私達の間にひろがっている。
労働者階級に属する自覚はもてないが、だからとて支配権力につながることもできず、それでいて、意識的無意識的に権力者と同じ側にたって、同じような考え方をもって、千に一つの僥倖を夢みてきたのが私達小市民であった。しかしその僥倖はますます遠ざかり、相つぐ政治の貧困と経済の行詰りで、誰よりそのしわよせを強くうけたのは私達だったし、最も悲惨な犠牲者である自殺者の殆んどは私達の仲間であった。こうした中で私達は好むと好まないに拘らず、自由企業は救いどころか私達をいっそう苦しめ、私達の資本と力では決してその激しい競争の中に入ってゆけない、入っても競争できないことを思いしらされた。そこから私達は私達を本当に生かす道を血まなこになってさがし求めている。私達は今迄道理を軽んずると言われてきたが、それは行動になってあらわれない「へりくつ」に対してであり、これまで私達を導いていた道理が行詰った今、私達は本当に私達の生活を守るのに役立つ道理を求めないではいられなくなっている。これこそひとごとでなく私達の問題なのだ。
常に支配権力に通ずる道を歩いてきた知識人が時代の変革の前に労働者、農民、小市民の要求に応えることができないまま、知識人への不信とみぞを抜くことの出来ないほどに深めていった。それは余りにも苦しい生活の中を自分達できりぬけている間に、いつのまにか本能的に身につけたものだった。その間学者、知識人は外国の学問のほんやくと紹介にあけくれていた。だがこうした中で知識人としての特権を完全に放棄しようとしているのが私達だ。私達はもはや労働者や農民を指導しようとする知識人ではない。また労働者や農民から学ぼうとする私達でもなければ、労働者と農民を結びつけようとするものでもない。
私達はとぎすまされた知性と鋭い感覚をもった労働者として、或は農民として新しく生まれたのだ。私達日本の労働者と農民をできるだけ早く生かす最も好ましい方法を見究め、行動しようとする私達の仲間はふえている。
今まで、常に読み、教えられる側にいた私達でしたが、私達個人のことが書かれていながらなんだか違うという気がしたし、教えてくれる中で、私達を見下して書いているのを知った時、私達のことを自分で書いてみよう、見下されないよう自分達で書いてお互に教えあいたいと思い始めました。「女は弱いもの」という言葉を疑ってみることもなく、信じさせられ信じてきた私達も、この頃では、反対に女性がどんなに強いものか、また社会と自分の関係をしって、自分の考えを持ち、お互いが結びつくために書くことがどんなに大切であるかをしりました。また書くことによって、どれほどばらばらの自分がまとまってゆくものかもしったし、お互いの考えていることや思っていることが一つに結びついていることを知った時、限りない親しみと連帯感を感じ、勇気づけられたのです。
こうして新しく生まれた労働者、農民、小市民、婦人達はしだいに全国にひろがりつつある。そしてそれがおたがいに一つに結びついていこうとしている。(昭和29年)
今思えば、まだ戦後の混乱が続いているなかで、朝鮮戦争をきっかけとして企業が急成長を始めた頃のことでした。悲惨な戦争の傷跡が生々しく露呈している一方、早くも経済至上主義とでもいったらよいような動きが、底流として現われてきていました。戦前の生活習慣、感情が根強く残り、与えられた民主主義的感情、生活感覚の浸透に伴って、さまざまな葛藤を生み出している頃、既に逆方向への芽生えが勢いをつけ始め、そんな矛盾の中で、毎日の生活に右往左往していたのが、私たち一般の暮しだったのです。
現在のあり余る物に囲まれた暮しからすれば、考えられないほどの乏しい日常でした。月給一万五千円が貰えるかどうか(当時池田は三十一歳でした)という時代。ラーメン一ぱいが二十五円、国電の最低区間が五円の時代。「新しい風土」は三十二ページで十五円、送料が八円でした。
「新しい風土」は、すべての人が自分で自分の生き方を考え、決定したい、みんなの体験を持ち寄って、自分達の体験から自分達の生きる理論を創り出そう。一言でいえば、そういうものを志向した雑誌でした。
誰でも、自分のことについては必死になって考えることができるし、行動できる。人の考えた結果だけを貰い、それに従って生きるのは奴隷の生き方だ。たとえ拙くとも、自分の考えに従って生きよう。難しくとも、それが生きるということではないかと、彼は激しく思っていました。
それは戦時中、一つの思想の存在しか知り得なかった者の悔しさであり、だから自分に根ざした思想を最重視することにつながったのです。現実から何を学ぶかより、現実から如何に学ぶかが大切にされました。歴史に学ぶ態度も、先人が「如何に学んだか」「どう生きたか」が常に問題とされ、「歴史を生きる」生き方が求められたのです。求めようとする者には、誰にでも求めることが可能だと考え、求め続けたのです。
このことは、終生変わらぬ主張であったと思います。そして、その考え方を一人一人が血肉化するには、お互いの考えをぶつけ合う場所が必要だと考えて創ったのが、「新しい風土」でした。雑誌を創るのが目的ではなく、そこを中心に実践的なサークルを沢山創り、ひろげていきたいと願ったのです。
今読み返してみて、ここに述べられている課題が古くて新しいものであることを感じます。二十五年の歳月を経て、世の中は一転、二転しました。世相も激変しましたが、この中のどれだけの課題が乗り超えられたでしょう。石油ショック後の風潮の中に、超克の萌芽が見出されるような気もしますが……。
「新しい風土」が生まれたのは、歌ごえ運動を初め、さまざまなサークル運動が盛り上がっていった時代でもありました。しかし経済社会の急激な変化と共に、盛んだったサークル運動は凋落し、雑誌「新しい風土」も資金難で潰れてしまいました。彼が新しく執筆活動に専念するようになるのは、それから十年後です。彼に残された最後の実践活動でした。
昭和五十年、池田が突然逝ってしまってから、書き下しの単行本以外に残された、多くの雑誌に掲載された原稿を、なんとかまとめていきたい、それが「俺が本を書くのは、実践活動としてだ」を口癖にしていた彼に対する、唯一のはなむけではないか、またそれを一人でも多くの方に読んで項くことこそが、残された私の仕事ではないかと考えました。
池田の年来の友人、渡辺則文さんをはじめ鈴木良衛さん、吉永昭さんのご尽力と大和書房社長であり、また大切な友人の一人でもあった大和岩雄さんのご好意によって、ここに漸く一冊の本を編むことができました。大和書房編集部の南暁さんにも大変お世話になりました。深く感謝しております。
一冊の本にするために、池田が叫び続けていた中心課題に連るものの中から選びましたが、これを一冊目として、次の刊行の機会を待ちたいと思います。
1978年11月24日 池田裕子
現代教育の問題点「連帯」1975年5月号
困難や危険を克服する力「中学教育」1968年6月号
ちかごろの親子関係「市民生活」1974年1月号
人間教育の原点「総合教育技術」1970年7月号
教師は芸術家である「中学教育」1968年10月号
本当にすぐれた教育者とは「灯台」1970年7月号
自営独立を目指す人のために「社会人」1964年5月号
政治教育の不在「リクルート」1969年8月号
学生の思想的自立について「思想の科学」1966年4月号
生命を賭けた師弟関係の提唱「現代の眼」1967年12月号
塾と大学「伝統と現代」1969年5月号
好ましい女性像「中学教育」1966年3月号
女性の自立と教育「婦人教師」1970年9月号
精神的独立と行動を結びつけよう「新しい女性」1973年10月号
女子大学改革への具体的提案「婦人公論」1967年5月号
戦争と私「声なき声」1971年53号
日蓮上人との出会い「宗教公論」1964年3月号
戦中派の復権「宗教公論」1965年陽春号
戦中派復権のための覚え書「現代ジャーナリズム」1964年3号
革命家・吉田松陰の思想と実践「ピエロタ」1973年2月号
転向研究批判「思想の科学」1959年4月号
転向研究の今日的意味「思想の科学」1964年6月号
ナショナリズム失明の位相「現代の眼」1966年8月号
(1979年 大和書房刊)
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