「女子大学」

 

  まえがき

 早大教授暉峻康隆氏の「女子学生世にはばかる」、慶大教授池田弥三郎氏の「大学女禍論」が、『婦人公論』にあいついで発表されたのをきっかけとして、女子学生と女子大学の問題は、にわかに世間の注目をあびるようになってきた。ことに、マスコミがこの問題を「女子学生亡国論」「女子大学無用論」という問題にすりかえたことによって、その論議はさらにはなばなしいものになったが、それは同時に、その論議を不毛なものに終わらせる結果ともなった。
 たしかに、現在の女子学生、女子大学には、このような論議が生まれてきても不思議でないと思われる点も非常に多い。しかし、暉峻氏や池田氏が大学教授として、このような論議をなしたということ、それ自体にもっと大きな問題があると私は思う。つまり、考えようによっては暉峻氏や池田氏は、教育者として女性の大学教育に自信をなくし、失敗したといえるのではないだろうか。
 女子学生の教育はむずかしい。本質的にむずかしい問題を多く含んでいる。その数こそ、同一年齢層のわずか10%にすぎないが、その教育たるや、まったくの難事業といえよう。それは、この両氏の発言が皮肉にも物語っている。こうした論議をみていると、明治二十九年当時、成瀬仁蔵の「女子大学設立論」に対し、多くの学者、教育家が「女子の能力は高等教育に不適当である」「男性化して、結婚を忌み、独立を好む風をおこす恐れがある」といって、反対したことを思いだす。明治四十一年にも、「女医亡国論」がおこっている。「女子に医学教育を授けると、晩婚や独身生活をまねき、国家の危機を招く」というのである。
 今日の「女子学生亡国論」も「女子大学無用論」も、明治時代のそれとあまり変わっていないように思われる。まったく、寂しいかぎりである。こんな論議は、急増をつづける現代女子学生の前には、少しも意味をもたない。教育理念のない女子大学の増設をくいとめる力にもならない。現実には、無自覚な女子学生と、そういう学生を入学させる女子大学がどんどんふえていく。それこそ、お手あげに近い状態である。
 そこで、私は本書で、現在の女子学生がいかに理想と情熱を失い、現在の女子大学がどれほど教育理念をなくしているかを、できるだけ追求してみた。そして、その解決の第一歩として、津田塾大学や東京女子大学などの創立当時の理念を、もう一度、再検討することに求めた。せめて、その教育理念が生かされようとするだけでも、現在の女子学生と女子大学はじゅうぶんに、面目を一新するであろうということを確信したからである。そして、今後の女子大学、とくに女子短期大学がいかにあるべきか、いかに改造すべきかを、紙数の許すかぎり思いきって述べた。女子大学の改革案が、ここからおきることを念じて書いたといってもいい。もちろん、書き足りないことも多いし、私の力の不足のために書きたいと思いながら割愛しなければならないことも多かった。
 ことに、男子学生と共学大学のことに、ほとんどふれることができなかったことは、ほんとうに残念である。女子学生は、男子学生との関連のなかで、はじめて明確にとらえられると思うし、亡国に通ずるのは、女子学生のみでなく、かえって、男子学生に多いことも考えられるからである。花嫁の資格をとりに大学にはいる女子学生よりも、就職のための資格をただとるために大学にいく男子学生の方がはるかに多い。大学を荒廃させることにおいては、男子学生も、女子学生と少しも変わらないからである。最後に、本書の出版にあたって、多大のご協力をいただいた小出鐸男氏、中村宏氏に心からお礼を申しあげたい。

          1966年6月     池田諭

 

    <目  次>

  まえがき

1 女子大学の現状

   急増する女子大学  家庭と男性に屈した女性
   
消えゆく女子大学の意義

2 女子大学の歴史

   女子専門学校の誕生  津田梅子と女子英学塾
   
佐藤志津と女子美術学校  吉岡弥生と東京女医学校
   
成瀬仁蔵と日本女子大学校  安井てつと東京女子大学
   
羽仁もと子と自由学園  拡張をつづけた女子専門学校

3 女子大学とはなにか

   女子短期大学について  乱立する女子短大の実態
   
大学経営と家政学部  家政学部ではなにを教えているか
   
問題をはらむ女子短大  エリートとしての女子大生
   
女子大学のねらうもの  女子大学に望まれる情熱
   
自覚に乏しい女子高校生  女子大と高校の奇妙な関係
   
大学の権威をとりもどそう  混乱している学力観
   
低い合格点は教えている

4 女子大生の生活

   女子大生は訴える  大学への不満  サークル活動に活路
   
女子大教師の考え方  みじめな大学教師  学生と教師の深いミゾ
   
正しい家政学科のあり方

5 女子大学の役割

   女子大の一般教育  講義で女子大生が得るもの
   
女子大生の教養とは  女性の進出と職業観
   
短期間しか勤めない女性  女子大学の長所・短所

6 女子大学のビジョン

   関係当局の意見  家政学科廃止の提案  大学独自のカリキュラム
   
理想的な女子大学

 付表 近代教育史年表

 

 

                     < 目 次 >

 

1 女子大学の現状

  急増する女子大学

 昭和二十三年、学制改革で新制大学が発足したとき、それまで専門学校にすぎなかった女子の学校も、旧制の大学にならんで大学に昇格した。その時は、津田塾大学、日本女子大学、女子美術大学、東京女子大学、神戸女学院大学など27校にすぎなかった(昭和二十四年に昇格した大学も含む)。しかし、年々女子大学はふえて、昭和四十一年現在では71校になり、約三倍になっている。
 女子の短期大学になると、昭和二十五年、短期大学制度がスタートしたとき、78校にすぎなかったものが、昭和四十一年には258校にもふえている。これまた、約三倍の増加である。
 このようにみてくると、女子短期大学をふくめて、女子大学は、年々15校ぐらい増加した勘定になる。それにつれて、ここに学ぶ女子学生の数もふえて、今では約20万人あまりの女子学生がいる。
 さらに男女共学の大学に学ぶ者を含めると、昭和四十年五月の女子学生の数は25万5230人となる。昭和十五年当時わずかに大学生が52人にすぎなかったことを考えると、まったく想像もできないほどのふえ方である。もちろん、現在の女子大学、ことに、女子短期大学を旧制の大学と同一に論ずることには問題はあろうが、いずれにせよ大学であり、最高学府である。その最高学府に、戦前は52名しか学ばなかったのに、現在では25万人あまりも学ぶようになったということは、まったくすばらしいことといえよう。それは、どんなに称讃しても称讃しすぎることはない。
 ここには、大東亜戦争に敗れ、侵略主義的な国是を新たに清算し、文化国家、道義国家を建設していこうとして、学問の自由を確立し、大学を急増し、学生をふやしていった戦後日本の明確なる意志がある。それはあたかも、ドイツがフランスに敗れたとき、フィヒテがベルリンで教育によるドイツの再建を説き、そのためベルリン大学が創設され、ドイツ文化の興隆をやってのけたのに似ている。
 だがそれ以上に、それまで男性に従属し、家庭にしばりつけられてきた女性が、男性や家庭から解放されて、人間として、社会人として生きぬこうという強い要求が大きく働いていた事実も見逃がすことはできない。それほどに、戦後の女性はあらゆる年齢にわたって、青年とともに、意欲的であったし、解放と向上を求めていた。
 だから、これまでの男子を中心とした大学がすべて、女子に門戸を開放したとき、女子大学がはたして必要かという論議をよそに、かたくなに女子大学の存続を多くの女子大学当局者が主張したのも、その多くは、女子学生を保護しながら、男性と対等の能力を与えよう、それ以外には、女性の好ましい発展は望めないのではないかという配慮から出ていたのである。
 このことは、昭和二十四年に発足した当時の女子大学をみればよくわかる。現在でこそ、家政学科を専攻し、結婚の資格にしようとする者が、短大をふくめて女子学生のうちの三分の一という数になるが、昭和二十四年当時は、家政学科のある女子大学はせいぜい、和洋女子大学、大妻女子大学、実践女子大学、東京家政大学など10校ぐらいにすぎなかった。それも、主として、女学校の家政科の教師を養成しようとしたのである。あくまで、人間としてのめざめであり、職業人の育成を目的としたのであった。
 なるほど、数学科や数理学科は、津田塾大学、東京女子大学、お茶の水女子大学、奈良女子大学にしかなかったが、文学、哲学、史学、社会学、児童学、社会福祉学、医学、薬学、美術などと、多方面に女子の能力を開発しようと、当時の女子大学はみんな熱っぽい空気につつまれていた。積極的であった。
 昭和二十五年に発足した女子短期大学でも、家政学科は、今日ほどに重い比重をしめていない。要するに、ほとんどの女性は人間としてめざめ、職業人として生きようとしていたし、母親は娘に女として、同時に人間としての幸福をつかませようとして、積極的に女子大学や女子短期大学に、娘を送りこんだのである。娘たちも、時代に真剣に取り組み、自分を精一杯に生かそうと試み、努力もした。その意味では、昭和二十年代は、文字通り、女性と青年の時代でもあった。少なくとも、そういう若々しい、情熱にみちた時代の力強さが感じられた。
 だが昭和三十年代にはいって、経済的にも余裕ができはじめ、世の中が落ちついてくるにつれて、これまで熱っぽかった空気、女性の解放と向上を強く求めていた空気もしだいに冷却していき、ついには「女性の天職は家庭にある。女性は家庭にかえれ」ということがささやかれだしたのである。しかも、その主張は、女性自身が中心になってなされたのである。それは女性の後退を意味し、女性の敗北を感じさせた。
 この時、この声に敏感に反応をしめしたのが女子大学であり、女子短期大学であった。つまり、宮城学院女子大学が昭和三十四年に家政学科を新設し、日本女子大学が昭和三十七年に住居学科、被服学科を新設したように、各女子大学は、このころより競って家政学科の新設、拡充に乗り出した。家政学科を中心とした女子大学や女子短期大学が相ついで新設されたのはいうまでもない。
 こうして、昭和三十年代の女子大学、女子短期大学は、学生数の増加と、その質の低下と相まって、家政学科に学ぶ女子学生を全女子学生の三分の一にすることによって、急速に花嫁学校化し変貌していく。学問や教養を追求する場としての大学から、花嫁の資格を得るにすぎない大学へと転落する。しかも、昭和三十九年、昭和四十年、昭和四十一年と、年々30から40の女子大学、女子短期大学が増設されたことで、その傾向にいっそう拍車をかけた。そして、とうとう「女子大学無用論」「女子学生亡国論」まで唱えられるようになったのである。
「女子大学無用論」「女子学生亡国論」の論議の批判はとにかくとして、こういう論議がでてくるところに問題があるといえよう。それほどに、今日の女子大学、女子短期大学は、明治三十年代に創設されたときの女子専門学校の理想を失い、昭和二十年代に出発した当時の女子大学の夢と希望をなくしてしまったように見える。女性を人間として、社会人として教育するという理想を放棄してしまった女子大学、女子短期大学が相変わらず、大学という名前をつけたままなのも滑稽といえば滑稽である。そのうえ、そういう女子大学、女子短期大学が逆に次々と新設されていくのも皮肉な現象といわざるをえない。
 もっと悪いことは、女子短期大学はつくればもうかるということでどんどん設置されていることである。そこに女子大生希望者がいるから、女子短期大学をつくるにすぎないといえるほどに、安易に女子短期大学をつくっている。これでは、女子大生、女子短大生はますます質の低いものになっていくほかしかたがあるまい。

 

                 <女子大学 目次> 

 

  家庭と男性に屈した女性

 以上みるように、今日の女子大学、女子短期大学は、その質において、また存在意義において大きな問題をはらんでいる。明治三十年代、昭和二十年代のあの若々しい、意欲にみちた空気はどこへいったのかと思うほどに、今日の女子大学、女子短期大学には、夢もなければ情熱もない。まったく不思議な現象ともいえるが、そのことを少し考えてみよう。
 明治三十年代のことは次にゆずるとして、戦後の日本はあらゆる意味で、あらゆるものの価値観が崩壊した時代である。これまで男性に従属し、戦争を消極的にしか生きてこなかった女性は、青年のごとく新しい時代を迎え、積極的に新しい価値の創造に参加しようとした。当時の女性にとって、新しい価値とは、女性が人間としてめざめることであり、職業人として、自由と平等とを戦いとり、自らの意志で生きることであった。
 女性である母親も一様に、なにが娘の幸福であり、女としての幸福かを模索していた。娘たち自身ももちろん模索した。そして、女の幸福とは、妻として母として生きる前に、人間として生きるところにあり、男性とともに、社会を分担するところにあると考えはじめた。だが、女性が人間として、職業人として生きることは、彼女たちが考えた以上にきびしかったし、まして、男性といっしょに社会を分担することはもっとたいへんである。そうした困難を彼女たち自身が知りはじめたとき、経済的なゆとりができはじめ、まず働いて収入を得ることだけを目標としていた女性が、職場を放棄しはじめた。男性の保護のもとに、わずらわしくはあるが、職業に生きるほどの努力を必要としない妻の座にかえり、人間として、職業人として生きるきびしさを捨てはじめた。職業に生きぬこうとした女性も、職業に徹するきびしさに敗れ、はては職業そのものを軽視しはじめた。
 こうしてしだいに、女性は、確保した職場まで失い、一部の女性を除いて、女性の職業は結婚するまでの腰かけにすぎないというふうになってきた。もちろん、そこには、そのような職業観を夫である男性も望み、親たちも望んだことによって、いっそう、拍車をかけてきたということがいえる。
 女性は戦後、女性のまえに開かれた栄光を、人間として、職業人として生きる喜びを捨てはじめたのである。困難ではあるが、創造する者のみが味わうことのできる喜びを捨てて、安楽な妻の座、母の座だけにかえったのである。誰もが味わい得る、それほどの努力なしに味わえる男性依存の妻と母の座にかえったのである。
 それは、女性自身が求めるよりも、男性自身が、なにより強く求める姿でもあった。そのことは、ある男子高校生を対象にして調査した結果によっても明らかである。姿、形の美しい女性を求めるものは25%いるが、才能のある女性、頭のいい女性を求める者は、わずかに3%しかいない。
 要するに、男性は才のある、頭のいい女性はどうも苦手なのである。姿、形の美しい女性か、おとなしい女性が好きなのである。まして、多くの男性が妻の働くことをいやがっているとすれば、女性は真剣に職業に取り組むわけにはいかないということになる。
 男性が才のある、頭のいい女性を求めていないとわかれば、女子学生は、女子大学や女子短大でまじめに勉強し、頭脳を訓練することは、かえって結婚のチャンスをなくすると考えてくるようになる。女子大生や女子短大生が、化粧や服装を洗練させることにやっきになるのもむりはないといえるかもしれぬ。
 これでは、女子大学や女子短大の程度が落ち、花嫁大学化するのもしごく当然であろう。といっても、女子学生を非難することはできない。そういう女子学生を男性が求めたのである。いわば、女子大学や女子短期大学の質の低下、荒廃は男性がつくったといっても過言ではない。女子大学や女子短期大学を卒業した資格を花嫁に要求するという男性自身が、女子大学を堕落させたのである。極論すれば、男性は女子大学には行っているが、人間としても職業人としてもめざめない女、あまり物を知らない女を“製造”してくれることを女子大学や女子短期大学に要求していることになる。せいぜい、妻として、母親として、ほどほどに賢い女を製造してくれることを求めているのである。家政学科が繁盛するのもむりはない。
 それに輪をかけたのが家庭の要求であり、両親の要求であるということができる。それほどに、父親は自分のいうことを素直にきく娘であることを要求し、母親は母親で、男性に好かれる女性、姿形のよい、従順な女性であることを娘に求める。
 かつて自分たちが昭和二十年代に新しい女になることを理想とし、人間として、職業人として生きることが女性の最高の価値であり、喜びであると考えていた人びとや、母親たちも、今では若い娘が愚者であることを求める。良妻賢母という言葉にかつては身震いを感じた女性たちも、今ではその娘たちに、本気で良妻賢母になることを求める。それも確信をもって、女性の幸福は妻として、母として生きるところにあると、かたくなにいうのである。そして、その誤りに気づこうともしない。せいぜい、母親たちがつかんだ知恵は、娘時代に思う存分、青春を謳歌させるということでしかない。
 女子大学や女子短期大学当局も、母親がその娘を良妻賢母に育ててほしいという希望があるのをいいことにして、良妻賢母とはなにか、今日において良妻賢母とはどういう意味があるのかという、大学であれば、当然、一度はなすべき問いすら問うこともなく、良妻賢母の教育をうたっている。大学がそのような教育目標をかかげて平気でいる。こういう女子大学、女子短期大学が多いということはまったくおかしなことであるが、現実にそのような女子大学は多い。残念なことである。
 大学でありながら、大学としての問いを発しないような大学では、学問をする女子学生が育たないのはむりもない。女子大学や女子学生の程度がわるくなるのも当然である。どの点からみても、今日の女子大学、女子短期大学の学生は荒廃するようになっているといってもいいすぎではない。

 

                <女子大学 目次> 

 

  消えゆく女子大学の意義

 とすると、女子大学や女子短期大学の存在意義はどこにあるのであろうか。昭和二十四年当時には、男子学生にくらべて、女子学生にはいろいろの面でハンデがあり、女子の能力をじゅうぶんに開発するためには、女子だけの大学によるしかないという考えも一応成立した。だが、戦後も二十一年になった今日、女子大学の存在理由はどういうところに見出だされるのであろうか。
 女子には女子の教育があるというのが女子大学当局者の意見であるが、大学生としての女子学生に、男子学生とは異なった教育がはたして必要なのであろうか。いってみれば、それは女子学生を人間としてでなく、それ以前の女性としての教育をほどこそうということであるし、具体的には、家政学を教えるということであろう。家政学という学科が、大学で学び、追求するに足る学問であるかどうかということは、あとに述べるとして、それが学問の名に値するものであるならば、当然、男子学生も学ばなくてはならないし、男子学生も収容されなくてはならない。とすれば、大学における女子だけの教育は存在しないということになるのではあるまいか。
 男女共学の大学に比して、女子大学の学生は、男女関係も少なく、品行方正であろうという親たちの考えで、女子大学は存立していると思う者もいるかもしれない。しかし、実は、その逆で、東京にある某女子大学、それも、もっともやかましいといわれている女子大学の学生が、男女共学の女子学生よりも、男友だちが多いという調査もでている。もちろん、それは一部の話かもしれぬ。しかし、そんな事実を知らない親たちも実に多い。親たちの無知な期待が、現在の女子大学の存立を許しているということにもなる。
 女子学生は女子学生で、明らかに花嫁の資格を求めて女子大学に入学し、学問するとはどういうことか、大学とはなにかも知らないままに卒業していく者が多い。まして、ほんとうに学問をする女子学生はあまりにも少ない。そうなると、女子大学はなんのためにあるのかと思う。
 花嫁の資格をとるために大学にいく必要がはたしてあるのか、中途半端な教育しか受けられない大学にいく必要があるのか、そういうことのために、大学と名づけた女子大学が必要なのかとも反問したくなる。といっても、すべての女子大生がただ資格のためにのみ、女子大学に入学するとはかぎらない。彼女たちのなかには、その祖母たちが明治三十年代に女子専門学校に通ったように、その母親たちが昭和二十年代に女子大学に求めたように、あるいは、それ以上に強い要求にささえられ、高い理想を求めて入学した者もある。では、現在の女子大学はそういう女子学生の要求に、じゅうぶんに答えているだろうか。
 私が相模女子大生四八名について調査したところでも、68%の者が、大学当局に大きな不満があることを訴え、46%は教師に非常に不満があると答えている。奈良女子大、甲南女子大の女子学生の調査でも、ほぼ、それに近い数字がでている。ということは、今日、女子大生は勉強しないといわれているが、こういう不満を解消すれば、指導によっては、いくらでもその質をたかめうる可能性を大学が有することを示唆しているといえよう。女子大学生は多くなったといっても、まだ、同一年齢人口の10%にみたない。文化国家の道を歩む日本として、10%足らずの女子学生に満足な大学教育を授けることができないで、「女子大無用論」とか、「女子大生亡国論」を唱えざるをえないとすれば、これはまったく情けないことといわなければならない。
 女子大学や女子短期大学に名実ともに、りっぱな大学教育をなしうる道はないのかどうか、花嫁学校に転落した今の女子大学に、大学としての機能をとりかえさせる道はないのかどうか、今日における女子大学の役割はなんなのか、などいろいろと考えてみたいと思う。
 そのために、まず、明治三十年代にさかのぼって、女子専門学校がどのようにして生まれ、どのような理想のもとに創設されたかをみてみよう。

 

                <女子大学 目次> 

 

2 女子大学の歴史 

  女子専門学校の誕生

 幕藩体制を倒して、明治維新をなしとげた明治の新政府は、近代国家を作りあげようという抱負にみちていた。そのために、あらゆる問題に意欲的に取り組んだが、なかでも、教育は近代国家への基礎であるとの認識のもとに、いっそう積極的であった。ことに、幕藩時代、その才能をじゅうぶんに発揮することもないままに、男性に隷属していた女性の地位を男性の位置にまでたかめることを、明治政府は意図していた。
 だから、明治四年には、53名の男子留学生に加えて、津田梅子たち5名の女子留学生を海外に送るほどに熱心であったし、翌明治五年には、東京に、国立の東京女学校を開校し、入学者の身分を問うことなく、あらゆる女性に教育の門戸を開放したのである。
 ついで、明治八年には、国民の教育に女性が果たす役割を認めて、東京に女子師範学校を設立した。これは、女性のための高等教育であり、その第一歩としての職業的教育家の道を女性のためにきりひらいたものであった。
 だが、それほどに意欲的であった明治政府も、明治十年代になると、財政難を理由にしだいにその抱負を捨て、東京女学校を女子師範学校に吸収し、女子師範学校も東京師範学校に合併してしまった。その後、明治二十三年になって、やっとその女子部が発展して、女子高等師範学校として独立することになったものの、政府による女子高等教育…女性の才能を多方面に開発する教育は、わずかに、師範教育の範囲にとどまり、約70年というものは、まったく不毛なままであった。
 そればかりか、政府、文部省は、女性を家庭のなかにおしこめ、従来のように、男性に従属する女性を育成しようとするまで後退したのである。
 こうなると、女性の才能を開発し、女性の地位を向上させようと志す人びとは、政府の無策をいたずらに傍観していることはできなくなった。自然、女性のための高等教育を自分たちの手でやろうとするようになる。こうして生まれたのが、明治十八年の明治女学校である。
 私立明治女学校は、木村熊二、鐙子夫妻によって勝海舟、大隈重信、島田三郎たちの協力の下に、創設され、入学資格は十四歳以上三十歳末満の女性で、修業年限は五ヵ年。いってみれば、中等学校と専門学校の中間的性格をもった学校である。科目は、英語を第一とし、漢文、歴史、地理、物理、化学、植物、数学などで、いわゆる家政学などは全然教えていない。
 しかし、この明治女学校もいつか衰微の一途をたどり、女子の高等教育に発展するまでにはいたらなかった。代わって登場してきたのが女子英学塾であり、日本女子大学校であり、女子美術学校であり、女子医学校である。
 これらの学校は、明治三十三年、三十四年に相前後して創設され、ここに、女性のための高等教育ははじめて確立するのである。

 

                   <女子大学 目次> 

 

  津田梅子と女子英学塾…新しい女性の創造

 津田梅子が明治四年、アメリカに留学したことはすでに書いたが、その時、彼女はわずかに八歳。同行の女性のなかでは最年少。そのために、横浜に見送りにきた人のなかには、「ずいぶん、物好きな親もあるもの、父親はともかく、母親はまるで鬼のような人だ」と、ささやく者もあったほどである。
 しかし、梅子は年上の吉益亮子、上田貞子が途中で帰国していくなかで、十一年という長い留学生活によく耐えたばかりか、じゅうぶんにアメリカの思想と精神を吸収し、一個の独立した近代女性となって帰国した。その時、彼女はわずかに十九歳。
 さっそく、海岸女学校、桃夭女学校などで英語を教えたが、華族女学校の開校とともにここに移った。世間的にみれば、彼女の道は人もうらやむものであったが、華族女学校で教鞭をとっていくなかで、若い彼女のうちには、疑問と苦悩がはじまった。アメリカの精神と思想を吸収して、一個の独立した魂、めざめたる精神となった梅子には、華族女学校の雰囲気は苦痛でさえあった。はては、反発すら感じはじめた。男性の保護のもとに安住し、自らのもてる才能を最高度に開発する努力もしないままに、その人生を消極的に享受するほかない女子学生の姿勢、それに疑問をいだかせようともしない教師たちの姿勢は、アメリカの思想と精神にもっとも相反するものであった。加えて、華族という特権を少しも批判することもなく、それをぬくぬくとうけとめている女子学生の姿勢にはとても、がまんがならなかった。梅子には、女性は男性とともに、この社会を分けもつものであり、この社会の発展に意欲的に取り組む女であり、それゆえに職業をもつ女でなければならなかった。それが、彼女の考える“新しい女”でもあった。
 梅子は、再び、アメリカに渡る。そこには、彼女自身、自分の考える、自分の納得できる学校を設立したい。そのために、それに耐える、それにふさわしい学識を身につけたいという希望が祕められていた。
 目的を明確にした二十六歳の彼女の学問や識見がめざましい進歩をみせぬわけがない。わずか三ヵ年の留学であったが、彼女はすっかり自信をつけて帰国し、華族女学校に再び、教鞭をとりながら、その機会をうかがっていた。
 そんな時、日清戦争がおこった。彼女が見たものは、熱狂的な愛国心にかられ野蛮で恐ろしい戦争に狂奔する男たちの姿であった。梅子は、女子のための高等教育がいよいよ必要であることを痛感した。日清戦争がひとつの契機となったといってもいい。
 その間、先述の明治女学校の講師をしたり、女子高等師範学校の教授をかねたりして、ひたすら、学校経営の構想をねりあげることにつとめた。彼女には、何かをはじめることはやさしいが、それを継続することはむずかしいし、まして成功させることは、もっとむずかしいと考えられたのである。自然、彼女は慎重にならざるをえなかった。
 しかし、一方では、高等女学校令が公布され(明治三十二年)、各県には公費をもって女学校を一校以上設けることがきめられ、徐々に女子教育も整備される傾向にあった。念のために記すと、この時、公認された女学校は、官公私立を含めてわずかに37校しかなかったが、翌三十三年には52校、三十四年には70校というふうに増加していった。当然、女子高等教育の必要が叫ばれるようになったが、政府…文部省は女子のための高等教育機関に、女子高等師範学校一校しか設けていなかったし、女子のための専門学校を設立する気配はなかった。彼女は、その機をのがさなかった。
 梅子は、明治三十三年七月、華族女学校ならびに、女子高等師範学校をやめた。その心境をミス・カークに次のようにもらしている。
 「華族女学校と縁をきるのが、どれほどたいへんだったか。辞職を申しでたとき、誰も本気にしなかった。
 わたしは日本の上流階級の人が属する学校との十五年間におよぶ関係をたち、わたしにはなんの値打ちもないが、日本人にはたいへん貴重に思われる官職や肩書きなどをすっかり投げ捨てたのです。
 知人の多くは驚き、いったい、これは何事なのかとたずねてきました。わたしは古くさい生活にまつわりつく保守的な因襲から脱けだしたかったのだと答えました。いまは一介の平民です。…ともかく、わたしは自分や因襲や名声のためではなしに、正しいこと、真実なことのために、しゃんとたちあがることができたのが、心の底からうれしいのです。」

 アメリカのフロンティア精神を、それこそ文字通り、梅子は全身で吸収していたといえる。彼女は、自ら、日本女性のフロンティアとして歩むとともに、また、多くのフロンティアを育成しようとしたのである。
 こうして、梅子によって日本ではじめて、女性のための英語の高等教育を行なう女子英学塾が生まれたのである。明治三十三年九月十四日のことである。
 といっても、それは建て坪八十二坪、教室といえば、六畳二間しかなく、学生もわずか10名という小規模のものであった。だが、梅子には、学校を継続させ、成功させることしか念頭になかったし、それには、自分にできることからまずはじめ、むりをしないということが絶対的に必要であったのである。
 10名の女子学生を前に、梅子の抱負は熱気をおびて語られる。
 「わたくしが十数年教育に関係いたしております間に、深く感じたことが二つ三つあります。
 第一は、ほんとうの教育はりっぱな校舎や設備がなくてもできるものである、ということであります。よい教室や書物、その他の設備もできるならば完全にしなければなりませんが、真の教育には、物質の設備以上にもっと大切なものがあると思います。それは一口にいえば、教師の資格と熱心と、それに学生の研究心とであります。こういう精神的の準備さえできておりますならば、物質的の設備が欠けていましょうとも、真の教育はできるものであるとわたしは考えております。
 次に感じましたことは、大規模の学校で、多数の学生を教える場合にはじゅうぶんその成績をあげることはできないということであります。大きい教室で多数の学生を教えていては、知識の分配はできましょうが、真の教育はできません。真の教育は、学生の個性にしたがって、別々の取り扱いをしなければなりません。人びとの心や気質は、その顔の違うように違っています。わたしは、真の教育をするには、少人数に限ると思います。
 ふしぎな運命で、わたしは幼いころ米国へ参りまして、米国の教育をうけました。帰朝したならば、…これという才能もありませんが…日本の女子教育につくしたい、自分の学んだものを日本の婦人にもわかちたいという考えで帰りました。わたしが帰りましたころの日本は、今日と違って、第一働く学校もなく、いままで学んだ知識を実際に応用する機会もありませんでした。今日では、女子教育も非常に進み、高等女学校は年々ふえています。文部省では最近、教員検定試験の制度を設けました。たいへんいい制度でありますが、女子の高等教育が振るわないため、この試験を受けられるような女子はいまのところ、ほとんど一人もありません。
 英学塾の目的はいろいろありますが、将来英語教師の免許状を得たいと望む人のために、確かな指導を与えたいというのが少なくとも塾の目的の一つであります。形こそ見る影もない小さなものでありますが、婦人にりっぱな働きを与えるこういう学校は、これからの婦人になくてならぬものと考えまして、この塾を創立することにいたしました。この目的をしとげるために、ふつつかながら、わたしは全力を注ぎ、最善をつくしたいと思います。
 最後に二、三の御注意を申します。専門の学問を学びますと、とかく考えが狭くなるような傾きがあります。一つのことに熱中すると、他のことが忘れがちになるものです。英語を専門に研究しようと努力するにつけても、まったき婦人となるに必要なことがらをおろそかにしてはなりません。円満な婦人となるように心がけねばなりません。こういう考えから、月に一、二回は英語のほかにいろいろの問題について、専門家のお話を伺いたいと思います。さっそく、今週の金曜からミス・ベーコンに時事問題を受けもっていただくことにいたしました。音楽や絵画なども、希望の方には教えたいと思います。
 この塾は女子に専門教育を与える最初の学校であります。したがって世間の目につきやすく、いろいろの批評もうけることと存じます。もし、かような批評が幾分でも女子教育の進歩を妨げることになりますならば、まことに遺憾なことであります。しかもその批評の多くは、学校で教える課程や教授の方法についてでなく、ほんのささいなこと、たとえば、日常の言葉づかいとか、他人との交際ぶりとか、礼儀作法とか、服装とかのこまかいことを批評し、それで全体の価値をきめようとするのであります。ですからこういう点にもじゅうぶん注意して、世間の批評に上らないよう気をつけていただきたいと存じます。
 なにごとによらず、あまりめだたないように、出すぎないように、いつもしとやかで、謙遜で、ていねいであっていただきたいと望みます。こういう感度は、けっして研究の高い目的と衝突するものではありません。婦人らしい婦人であって、じゅうぶん知識も得られましょうし、男子の学び得る程度の実力を養うこともできましょう。」

 梅子が育成しようとした女性は、職業人として、男性に伍して一歩も遜色のない人間であった。いいかえれば、職業に徹した女性であった。経済的に自立できる女性、男性に隷属しない女性であった。それは、そのまま、女性の地位の向上をはかるものであり、女性解放に通ずる道でもあった。
 しかも画一的教育でなく、個性的な教育を少数者教育のなかでやっていこうとしたのである。そこには、梅子の教育理想というか、新しい女性をつくらずにいられないという、激しい情熱がみちみちていた。それゆえに、女子英学塾は、次々と、多くのすぐれた職業人、独立した女性を育成することもできたし、今日のマス・プロ教育のなかで、少数者教育という伝統を比較的生かしている大学として存立していることにもなるのであろう。

 

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  佐藤志津と女子美術学校…美と自由の象徴

 女子英学塾についで女子美術学校が創立されたのが、明治三十四年四月一日である。開校当時は、横井玉子を中心として出発したが、半年後には経済的危機に遭遇し、佐藤志津がのりだすことになる。
 それというのも、「当時はいまとちがい、女の子が油絵をしたいというと両親はもちろん、親類縁者総出で反対し、女がペンキ屋になるのかときつく叱責されたものでした。しかし、私の絵に対する情熱はやみがたく、父を説きふせ、入学いたしました」と第一回の卒業生が回想しているように、学校は発足したが、入学者の数はきわめて少なかったので、いきおい、学校経営は苦しかったのである。このことは、第一回の卒業生が14名だったことでも知られよう。
 横井玉子は、共和思想の持ち主ということで、暗殺された横井小楠の息子の妻であったが、二十一歳で夫を失ってずっと女学校につとめていた。しかし、自分のことを思うにつけ、なんとしても、女性の思想的自立、経済的独立をはかる必要がある。それには、女性にふさわしい美術の専門的教育をやればいいということを思いつき、女子のための美術学校を建てることを考えたのである。もちろん、自分が美術が好きだったということも無関係ではない。しかも、明治二十一年、国立の東京美術学校は設けられていたが、女性には門戸を開放していなかったことも原因している。
 志津は順天堂病院長佐藤進の夫人で、玉子の要請をうけて、女子美術学校をひきうけるまでは、普通の家庭夫人だった。しかし、玉子から、女子教育の抱負を語られ、その教育が危機にひんしていると告げられたとき、女性の一人として、志津も黙っていることはできなかった。夫の進の反対はもちろん、親類多数の猛反対をしりぞけて、志津は校主になった。志津はその時、五十二歳であった。
 志津が校主になると、協力者、援助者もしだいにふえ、教室も増築するまでになったが、創立してまもなく、明治三十五年十二月には、横井玉子が病死した。志津と玉子との協力関係は、これからというときになくなったのである。明治三十六年の第三回卒業式には、43名の卒業生を送りだし、以後は順調に発展をつづけた。といっても、すべて順調というのではなかった。ことに、明治四十一年、学校が大火にあった時は、女子美術学校にとって二度日の危機であったといっていい。
 当時、進は朝鮮政府の依頼で大韓医院をつくるために、朝鮮に滞在中であったが、「学校が焼失したという電報をうけとった時よりも、学校を菊坂に新しく建てるという電報をうけとったときの方が、より多く驚かされた」といっている。
 彼にしてみれば、この火災をきっかけに、妻の志津が学校経営から手をひいてくれることを期待したのである。だが、志津は、かえって、この火災による禍を福に転じるために、学校の拡張策を計画し、そのために、知人縁者に出資を悪請してまわる一方、自分の手回りの調度や衣類までも売りはらって、建設資金にあてたのである。
 「志津校長は自分の衣類を脱いで学校に着せた」といわれたゆえんである。これには、進も親類も、志津の女性の教育にそそぐ情熱が本物であることを認めないではいられなかった。進が彼女の仕事に積極的に協力しだすのも、この時からである。
 志津の教育理想というか、教育理念について、これはというものはないようにみえるが、正月や夏休みには、帰省しない寄宿舎生を彼女の別荘に招くとか、寄宿舎にとまりこんで、学生と寝食をともにするとかして、たえず、学生との接触をはかって、生活を通して個人指導をやっている。これは、寄宿舎の学生に欠けている家庭的雰囲気を与えるとともに、寄宿舎生活においてこそ、美を中心とした友情と感激の生活があり、それによって、学生の全生活が統一されることを期待したためである。
 彼女には、美術を学ぷことが、そのまま、学生の言葉や思想にまでおよぶことになると考えられていた。言葉や思想や生活にまで浸透していかない美術教育は、本物ではないと思っていた。しかも、きびしい家庭教育を受け、儒教や国学を学び、武道を学んでいくことで、女としての根性をきたえてきた彼女は、洋画は金がかかるうえに、学生が少ないので、学校としては、まったく不経済な科目だから廃止したらという周囲の意見に対して、頑として反対し、受講者が一名でもあれば、継続する必要があると主張する女丈夫であった。
 だが、志津は結局、良き妻、良き母であり、美術教育を通して、美的感情を豊富にもった良妻賢母を養成することを目標としたように思われる。彼女にとっては、美はあくまで既成の美意識、美的価値であり、それによって統一された女性をつくることにあった。これは、本来の美術教育とは根本的に相反する立場であった。というのは、美を追求することは、既成の一切の美意識、美的価値を批判し、否定することによって、新たな美を、自分自身の美を追求することであったからである。
 だから、美を追求し、美を学ぶ学生生活は、三岸節子氏の回想にもあるように、
 「当時、二、三年級は同室であった関係上、開校以来の不良ぞろいのクラスだと、らく印をおされた人びとに、まずギョウテンして目をまわした。最初の洗礼である。……とにかく、女子美術入学により、技術面の収穫はたいしてなかったかわりに、同年輩の友だちの自由放らつの洗礼の方をうけて、完全な精神開放をした若い群れは、勇敢に校外の時代の風潮めがけて突進した。研究所にも行った。若い有能な画家たちとも知り合った。
 女子美の二年間は、むしろ、私の反逆精神をめざめさせるに役立ち、いっそう激しい情熱を外の若い潮流に求めていったといえよう」というような、全身で美そのものを追求し、美そのものを創造しようとする生活であった。
 女子美の学生たちの多くは、校長佐藤志津の意図をのりこえて、思う存分、若い情熱とたくましいエネルギーを美の創造に注入していったのである。その意味では、志津の教育は、矛盾のなかにおかれたといえるが、美術教育の立場からいって、それはやむをえないことであった。そのことを彼女自身知っていたかどうかはわからないが、女子美そのものは、たえず、美そのものを全身で問い、追求するパイオニア的女性を輩出していったのである。
 学校があることによって、校長の意図をのりこえて、女性の能力を最大限に開発していった例として、横井玉子、佐藤志津の名前を永遠に忘れることはできない。ことに、女性のために、専門的な美術教育をほどこそうとしたことはすばらしい。そして、問い、求め、学ぶ学生があるかぎり、その学生群はつねに、学校のワクをのりこえ、学校そのものに生命を注入していくものであるということを、女子美の歴史はよく物語っている。

 

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  吉岡弥生と東京女医学校…職業に求める女性の独立

 吉岡弥生が至誠病院の一室六畳間を教室にあてて、東京女医学校を開設したのは、女子英学塾が誕生したのと同じ、明治三十三年十二月五日のことである。
 女子のための医学校を弥生がつくったのは、女子の入学を許していた済生学舎が専門学校昇格と風紀問題のため、急に女子学生をしめだしたことが直接のきっかけであったが、そこには経済的独立を欠くために、女性の地位が不当に低いままに放置されていることを小さい時よりつぶさに見てきたことに加えて、彼女自身、男女共学のなかで、常に男性の被害者であり、勉学しにくかったという体験もあって、ぜひ、女子だけを収容する医学校をつくりたいという希望を強く持っていたためであった。その時、彼女はわずかに三十歳、学生はたった4名という有様であった。
 はじめ、弥生は、自ら男性に伍して女性の能力一杯を生かして生活したい、男性と同じような職業をもちたいという思いにかられて、女医の道を選んだ。それも、人間の生命をあずかる医学という、もっともきびしい職業意識を求められる職業を選んだ。日本において、27番目の女医ということだけでなく、それ自身パイオニア的精神と姿勢を必要とするものである。しかも、彼女は、自ら、きびしい道を歩むだけでなく、後からくる女性にもそのきびしい道を用意し、その世界にひきずりこんだのである。彼女は、そのきびしい道をのりこえたところにのみ、女性の経済的独立、男性に隷属しない女性の地位がはじめて確保されるということを知っていたのである。医学は、女性ということで甘やかさない、また甘えることを許さない、中途半端の気持ちではけっしてやれない職業であること、当然、男性と同等の知力、思考力、理解力、体力を必要とするということを知悉していた。
 だからこそ、彼女は東京の自宅から通う学生以外全部寄宿舎にいれ、猛勉を要求したのである。それも、講義六時間、自習六時間を要求した。よく勉強する学生なら、自習六時間は普通であろうが、これを全学生に要求したところに、彼女の彼女たるところがあったのである。要するに、彼女は、学校とは勉学するところであり、それほど勉学しても医学そのものを究めることはむずかしい、まして、すぐれた医者になることはもっともっとむずかしいと考えていたのである。医者になるためには、どんなに勉学しても勉学しすぎるということはないと考えていたのである。
 もちろん、弥生は学生に学ぶことをきびしく要求したが、自分にもまた、きびしく要求した。学生以上にきびしいものを自分に求めた。それは、三十歳の彼女には、とうていむりとも思えるような、物理、化学、解剖、生理、内科、外科、婦人科、病理などの科目をほとんど独力で教えたことである。学生が勉学した以上に、彼女自身学問をしなければならなかったのである。そればかりか、自分を実験台にのせて婦人科の教育までしたのである。
 だが、彼女の苦闘はそればかりではない。実験費用にことかくために、人間の屍体はとうてい買えない。そこで、道ばたに死んでいるイヌやネコを解剖の材料にしたので、近所の人はイヌやネコをかくしたとまでいわれている。こんなぐあいだから、学校も一つ一つ増築する以外になかった。そのために、牛込の廊下学校といわれたほどである。このころの弥生の生活は文字通り悪戦苦闘であった。
 しかも、八年目にようやく、一人の卒業生を送りだすところまでこぎつけたが、その卒業式の席上で、「女医亡国論」がとびだす始末であった。「女子に高等教育をさずけると、晩婚や独身生活をまねき、国家の危機をまねく」とか、「手術して血を流すような女には、とうてい醇風美俗はまもれない」というのである。
 「女子学生亡国論」が公然と飛び出す現在を考えれば、当時、こんな意見がでたのもむりはないが、彼女はこうした意見に抵抗して、あくまで女医の養成にむかって忍耐強い戦いをつづけ、見事に、その意見をぬぐい去ったのである。であればこそ、今日、東京女子医科大学として、男子の医科大学に少しの遜色もなく存在しつづけ、発展しているということがいえるのであろう。
 「一度文部大臣をやってみたい」と言っていたという弥生、伴食大臣が多かった歴代の文相のことを考えると、それこそ、一度ぐらい大臣にしてみせたかったと思う。そうすれば、女性の専門教育、職業教育は普及し、徹底していたかもしれないし、今日、「女子学生亡国論」がおこりうるような余地はなくなっていたかもしれない。
 職業にうちこむ女性、職業に生きる女性はもっともっと増加し、職業につかない女性も職業にうちこむ女性を尊敬するようになり、花嫁資格をとるために女子大学に通うという悪い風習はおこらなかったのではなかろうか。おこったとしても、それが女子大学の主流にはならなかったのではあるまいか。

 

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  成瀬仁蔵と日本女子大学校…高等教育の理想

 女子英学塾、女子美術学校、女医学校はいずれも、女性に専門的な職業教育をほどこすことによって、女性の経済的独立、女性の地位の向上をはかろうとした。しかも、それは女性自身の切実な願いから出たものであったから、これらの学校は、すべて、女性自身の手によって、しかも地道に、彼女たちにできるところからはじめられた。それこそ、長い間、男性に隷属してきた、また、隷属せずにはいられなかった全女他の悲しみと怒りとがこめられて、これらの学校は誕生したのである。
 だが、明治三十四年四月に出発した日本女子大学校は違っていた。創設者は男性であったし、学校も主目標を職業教育でなく、高等普通教育におき、はじめから大規模の学校として出発したのである。いいかえれば、もっと伸び伸びした気持ちで、大きな構想のもとにはじめられたのである。
 成瀬仁蔵がどうして、女性教育に取り組むようになったのか。少年時代、彼の眼にやきついたのは、母といわず、祖母といわず、すべての女性は愚婦であるということであった。自分の子供にしか盲目的愛情をそそぐことのできない視野の狭い女性、時代や社会というものを考えようとしない女性、彼にはどこからみても、大方の女性は愚婦にみえた。そこから、彼の女子教育の悲願が生まれたのである。
 彼は梅花女学校、新潟女学校で、教えていくうちに、数多くの疑問やわからないことにぶつかった。その多くは、学問的に明らかにしなければどうにもならないことであった。そこで、明治二十三年から二十七年まで、女子教育の研究のためアメリカに出カけていく。「女子教育は社会改革であり、理想の実現にむかわねばならない」という彼の基本線が確立するのは、この留学中のことである。
 帰国した仁蔵は、『女子教育』の執筆に全精魂をかたむける。そこには、彼の女子教育の理想というか、夢が十二分に書きこまれていた。つまり、女子の教育という場合、単に古来の習慣にしたがって、裁縫や手芸などの実用的技能、お茶やお花の装飾的技能を機械的に教えるにとどまって、女性を人間として教育しない、人間としての自覚や意識などを与えようとしない、国民としての権利、義務を教えようとしない、その権利、義務を果たすために必要な知識や能力を与えようとしない、そういう教育を意味した。女子を人間として、国民として教えるためには高等普通教育をやるほかない。今のままでは、とても女性を教育したということにならないし、女性を教育しない社会は発展しないし、愚かな女性を伴侶とする男性も非常に不幸であるというのである。そして彼はこの一冊をひっさげて、女子大学の設立運動にむかってたちあがる。明治二十九年のことである。そこから、仁蔵の血のにじむような苦闘の歴史もはじまる。
 彼が「それ女子は国民の一半を組織する者にして、隠約の間に社会を支持運転する力の重且大なる、実に予想の外にあり。されば、女子教育の振否は日本盛衰の由って岐るるところなりというも不可なし」といえば、「高等教育は女子の能力上不適当である」「高等教育は家庭経営を天職とする女子には本来不必要なものである」「新奇な学説に走り、又余り理智に偏しすぎて、我が国の優美、柔和、従順の女徳を害う危険がある」「結婚を忌み、独立を好む風をおこす恐れがある」といって、人びとは反対した。
 今日の「女子学生亡国論」も、せいぜい、この程度のものであるが、良妻賢母が強調されている時代でもあったから、当時、こんな反対論が強力であったことも理解される。しかし、彼はそんな反対論に少しもひるまず、一つ一つ、その反対論にこたえていった。二十九年から三十三年までは、女子のための高等普通教育がいかに重要であるかということを知らせるための戦いの日々であったともいっていい。
 しかも、その間、ようやく膝をいれることのできる小さな部屋に住み、過労と粗食のため、やせおとろえるという生活をつづけたのである。彼には、学校建築のために集まった金に手をつけることなど思いもよらなかった。そのために、とうとう病気までする始末。それほどに生まじめであったのである。
 だが、三十四年四月には、大学に220名、高等女学校に290名を収容して発足するところまでこぎつけた。仁蔵の喜びはいうまでもない。
 仁蔵が構想した女子大学は、『女子教育』にも述べているように、女子を人間として、婦人として、国民として教育することにあった。そして、それができるのは、職業教育を通してでなく、高等普通教育、今日でいう一般教育によってのみであると考えた。家政学部、国文学部、英文学部という別はもうけたが、基本はあくまで、人間として、婦人として、国民としての自覚、その自覚に必要な知識、能力を与えようとしたのである。だから、家政学部といっても、閉ざされた家庭だけを見、自分の子供のことだけを考え、家庭第一を夫に要求する婦人をつくろうとしたのではなかった。家庭を社会の一単位としてとらえ、社会のためにつくす夫を助け、社会のために献身する子供をつくろうとする婦人を育てようとしたのである。社会の一単位である家庭を出発点として、社会改造にたちむかう婦人をつくろうというのが、彼の念願であった。
 仁蔵が、日本ではじめて家政学部という名の学部を設立したのは、こういう理由があったのである。そのために、当時の学生にはきびしく自学自習、自修自活、自動自練の生活を要求した。彼ほどに、家庭婦人としてのつとめを果たすことの困難をよく理解していた者はいなかったともいえる。
 明治三十九年三月、第三回生として卒業した平塚らいてうは「卒業生たちは、自分たちの一挙手一投足が日本の女子高等教育の前途を左右するというので、使命や天職という言葉を使って、めいめいの将来を興奮して語りあっていました。多くの人はすぐ結婚して理想の家庭をつくろう、郷土に帰って女子教育のために働こう、大陸に渡って中国の婦人を教育しようなどと若々しい希望と抱負をもって社会へ巣立って行きました」と語っている。
 当時の日本女子大学校卒業生の理想に生きようとする情熱がよくわかる。その意味で、仁蔵の日本女子大学校は、女子英学塾、女子美術学校、女医学校に欠けていたものを補い、女子教育を完成したということがいえよう。

 

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  安井てつと東京女子大学…良妻賢母主義の打破

 その後、帝国女子専門学校(現在の相模女子大学)、神戸女学院専門学校、同志社専門学校、聖心女子学院専門学校などが、次々と創設された。これらの学校のなかで、特に異色を放っているのが、大正七年四月に誕生した東京女子大学である。それというのも、大学創設当時は学監として初代学長新渡戸稲造を助け、大正十二年末からは新渡戸の後を受けて昭和十五年まで学長の椅子にあった安井てつの、女子教育に対する深い見識と情熱、その人柄はなみなみならぬものがあったからである。
 女学校を卒業して、もう少し勉強がしたいというので、東京女子師範学校に進んだてつは、そのなかで教育という仕事に興味を持つようにはなるが、それとて、通り一辺の域を出なかった。彼女がめざめさせられたのは、イギリス留学である。学校を卒業した当時から、イギリスに学ぶまでは、「キリスト教はわが国に危険なものだ」と信じて疑わなかった彼女であったが、大学町であるケンブリッジの学生たちが、なんの規則もなしに自律的な生活を送っていることに驚く。彼女の受けた師範教育では、服従すべきあまりにも多くの規則があって、外出の際は外出簿を携帯して訪問先で時間を記入、捺印してもらわねばならぬというように、あらゆる行動が規則でガンジガラメに縛りつけられていたのであった。ところがここの寄宿舎には、舎監もなく、校長も教授も学生も、自由に出入りして、なんの問題も起こらない。彼らはみだりに人を恐れず、心は実に伸び伸びとしており、しかもけっして傲慢不遜ではない。敬虔の念にみち、周囲には親切で、また自重心に富んでいる。規則や教師の小言によって、その行為を制するようなことはなく、彼ら自身の心の声をきいて、表裏ない行為を続けているのだ。この生徒たちこそ、彼女が日ごろ、育てたいと苦心していた生徒の姿ではないか。その後、教育史を読むなどの勉強を積めば積むほど、キリスト教が教育に及ぼした影響の偉大さに感ぜずにはいられなくなったのだった。
 明治三十三年、帰国を前にして彼女は、「私事思想もなにも尽くかはり申侯、実は此の三年間己が国の女子教育の為におもいつめたる結果が非常の熱心をもってキリスト教を信ずる事と相成り、不日洗礼を受くる次第、さだめて御おどろきと存じ侯、私の希望は女子の位置を高むるにありて、いささかながら女子の為に尽力致したき心算、ことに将来になす処あらんには、一の大勢力すなわちパーソナル・ゴッドと調和し、其の助けをかるにあらざればとてもなしがたしと存じ侯」と、友人への手紙に書いている。彼女のなかで、キリスト教の信仰を得たことと、わが国の女性の地位を高めるためにつくそうという決意は、固く結びあっていた。
 クリスチャンになったということは、帰国して女高師の教授となったてつの立場を悪くする。彼女は三年目にシャム国の皇后女学校の教育主任として、三年の期限を切って、シャムに赴任することとなった。耐え難い三年のシャム生活をすませた彼女は、そのまま、再びイギリスに行ってしまう。その後、日本にいる友だちの熱心な勧めと奔走によって、学習院に勤めることとなり、急ぎ帰国するが、これもうまくいかず、わずか一学期の間、講師として教えただけで辞任してしまった。
 このようななかで、てつの教育観、女性観は固まっていく。
 「今までは教師は自分の理想をもち、生徒はその理想の型にはめるべきもの、また教師は生徒に良き感化を与うべき者と思っていましたが、今では教師は生徒とともに進むべき者で、生徒は教師の造った型にはめるべきものでなく、各自のもっている特性を遠慮なく発揮すべき者で、教師はこの手伝いをするのであります。」
 「およそ人を指導するのはその人を自主の人たらしむるにあるので、自主の人たらしむるには、その人の自由を尊び、その自由を善用して自ら善悪を判じ、正邪を区別して、進んで正義に服従するように導くのであると思います」と述べ、
 「女子が、現在の不完全な状態から進んで完全に近づかんとするには、どうしても自己を自覚し、家庭および社会に対する真の責任を、明らかに了解せねばなりません。女子が、真に自己を知り、したがって自己の責任を明らかにするには、教育の力によらねばならず、その教育も成るべく高尚なものでなければなりません」と、女子教育の必要性を主張している。
 「私は能く心の訓練された婦人が家事を整理することの巧みであるのを、実地経験いたしました。たとえば数学や理科に長じた女生徒は、裁縫や習字のみを能くする生徒よりも、一見、妻として不適当のように思われますが、その実は正反対で、頭脳の明瞭な女子ほど、種々工夫をして複雑な家事を整え、経済もまた巧みであります。」
 また、イソグランドの家庭婦人の生活の実例をこまごまと述べて、「しかるに不思議な事には、これらの婦人は女学校で家政学を習うた事のない人びとであります。わが国の婦人は家を治むる事を天職とすると家でも学校でも教えられ、また家政学を習うてじゅうぶん家を整えるように教えられておるにかかわらず、はなはだ不まじめな生活をするのはいかなる故でございましょう。それはわれわれのこの世に生まれている意味を知らず、家を治むるの真意義を了解せぬからであろうと思います。」
 このような考えにささえられて、東京女子大学には、開設当時から家政学科を設けていない。これは、てつのイギリス留学の際に与えられた課題が、教育学と家政学であったことを考えれば皮肉である。てつは、イギリス到着早々、当時、イギリスの女学校では、家政学というものは課せられていなかったことと、自分の将来の仕事に関係少なしと判断して「わが国の家庭生活の改善に資する」ための目的と解釈し、休暇の間に、イギリスの良き家庭について、実際に視察することにしていたのだった。
 彼女はまた、「英国では、教育上、良妻賢母などという言葉をきいたことがありません。女子とて、日本のように、妙に男女を区別することもありません。日本では女子は女子なり、妻なり、母なりとの考えは強いのですが、女子が人であるという観念は弱いように覚えます。もっとも、英国でも、四、五十年前は母妻に適切なものばかり教えました。いわゆる実利主義の教育でありましたが、今日はまったくその風がありません。女子は人として教育しましても、やはり女子は女子になるようです。女子を人として教育をして、はじめて母となる場合には賢母となり、妻となる場合には、良妻となり得るのです。料理法や育児法を教えるのが良妻賢母を作る役ではありません」といっている。
 てつは良妻賢母主義の教育に反対し、良妻賢母を目標とした家政科に、はっきりと挑戦したのである。
 さらにまた、昭和二年に数学専攻部を開設したことも、特筆に値する。てつは大正七年の開校に先だって、理数科の設置を構想していたが、設備の点で困難であった。そのため、理科のなかでも、設備の準備のかからない数学専攻部ができたのだった。発足した数学専攻部は、生徒数に仕べて、充実した図書や、実験用には惜しいほどの機械類を備えていた。
 てつはまた、当時、女子には大学令が適用されていなかったにもかかわらず、男子と差別のない大学教育を女子に与えようと苦心していた。たとえ政府によって認められなくとも、専門学校以上の教育を受けたいという女子に、教育の機会を与えたいという熱望である。だから、高等学部、大学部を通じて六ヵ年のカレッジ・コースを作った。てつは、大学部のための教授の招聘や、図書の購入について深い熱意を払い、また、大阻と思われるほどの惜し気ない出費をあえてして、むしろ教授たちを驚かせたという。
 大学に相当する教育機関としようとしたもう一つの理由は、専門学校で教えることのできる女性を養成したいという強い希望があったからであった。
 しかし、民間で唯一の、大学程度の教育を施す女子教育機関の経営はまことに困難だった。昭和十二年に、大学部の卒業生はわずかに二名であった。昭和十五年には、長年の彼女の望みがかない、教育審議会において女子大学の設置が認められる見通しも立ったのだったが、これは戦争の拡大とともに闇に葬り去られ、ついにてつの念願は敗戦後まで持ち越されることとなった。が、この時、すでに彼女はこの世にはいなかった。
 教育者安井てつの教育の姿勢を、別な角度から明らかにしたのは、戦前の思想弾圧においてであった。昭和三、四年の日本共産党一斉検挙に、東京女子大学生が数名はいっていた。このことから、東京女子大は大きな苦痛に巻き込まれていくのだが、そのなかにあって、てつは、一名の退学者も出さなかった。退学を命ずるとか、退学させるということはなかった。本人が、学校を自発的に退く時だけが、彼女たちの退学である。彼女はそれら学生に対して、心のこもった手紙を与えている。
 てつは、検挙される学生に「私はあなた方のした事が、いかに裁かれるべきことであるかをしらない。それは国家の法が定めるところにしたがって裁くことであろう。あなた方はそれをお受けなさい。次に私はあなた方にいいたいことがある。あなた方は取り調べに対して本当のことをおいいなさい。あなた方が考え、信じている真実をお答えなさい」といい、留置場の寒さを思って、一人一人の背中に真綿を入れ、警察に送り出したことがあったという。
 だから、女子共産党員の学生が、高等学部を終えて、大学部社会学科を志望した時、他の教授はすべて、彼女の今までの実際運動と学校に与えた迷惑、今後の学生間の影響を考えて入学を許可しない意見であったが、てつは、学校は学生のための存在だといって、当人を呼び、学校側の立場を説明し、「学生がいかなるものをも理論上研究することはさしつかえないが、国家の禁ずる実際行動は許されない。この点を約束するなら、自分があなたを証して、大学部入学許可を諸先生にはかってあげる」といった。その学生は、実際運動には加わらないと約束して社会学科に入学し、間もなく実際運動にはいってしまったということがあったという。
 てつは、このような場合、監督官庁である文部省の支配下にあることを自覚しつつも、なお、これらの問題を教育者の立場から処理しようとして苦心をした。官庁方面には強い態度で臨み、学生に対しては、こういう者たちこそ、育てていきたい、愛していきたいという気持ちを持っていた。ほかの学校のように、一応は調査するが、結論を得ると放逐するというようなことはしなかったのである。

 

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  羽仁もと子と自由学園…独自のカラーを掲げて

 異色ある女子教育者として、どうしてもあげなければならないもう一人は、羽仁もと子であろう。
 羽仁もと子は大正十年に、七年間の中等学校である自由学園を創立した。彼女はこれを文部省の高等女学校令にも、専門学校令にもよらぬ各種学校として発足させている。権威や資格に弱い日本人を相手に、資格や権威によりかからない学校をはじめたということは、それだけでじゅうぶんな意味や価値がある。
 彼女はこのことについて、
「私は眼前に横たわる多くの不利益を忍んで、文部省の高等女学校令によってこの種の学校を設立する、私の国の普通の道を避けました。そうしてただこの大きな人類社会の自然の有様にしたがって、私たちの学校も存在したいものだと願ったのでした。というのは、現在の官庁でも会社でもそれぞれに皆そうである通りに、学校という世界も、一般人類社会の自然の姿とはかなりにかけ離れた空気や伝統を多くもっていることを、早くから遺憾に思っていたからでした」と述ベている。
 彼女はまた、個人の人格を単位としたよき小社会をつくり、その小社会の集合によってさらに学校という一つのよい社会をつくり、それが一般社会、すなわち世の中に働きかけていきたいという考えをもっていた。学校が社会に働きかけていくことが、学生個人のよき教育になると同時に、社会改造のもっとも的確な正道であり、学校は単に社会に人材を送り出す所ではなく、新社会をつくり出すものであるという信念である。
 彼女は昭和七年、フランスでの第六回世界新教育会議で、「それ自身一つの社会として生き、成長し、そうして働きかけつつある学校」という題で講演をしているが、そのなかで、「『われわれはよい社会を創造しなくてはならない。そしてわれわれは、たしかによい社会を創造し得る』という自信と希望を、その体験を通して被教育者に与えること、そのことのみが、変遷しつつある社会に、もっとも有力なるものとして、彼らを生かしめ得る唯一の方法である」との主旨を述べている。
 羽仁もと子は岩手県の生まれで、明治二十一年に東京府立第一高女が創立される時、上京して入学、第一回の卒業生である。上京した翌年、女高師の入試を受けて落ちた彼女は、明治女学校の高等科に入学したいと考えた。しかし、女高師と違って月謝がいる。考えに考えた末、彼女は校長の巖本善治に手紙を出し、返事が待ちきれずにもう一度手紙を出し、さらに巌本を訪れて、第一を卒業すると同時に明治女学校高等科にはいることとなった。月謝は免除、そのうえ寄宿料のために、巌本が主筆をしていた女学雑誌の仮名つけの仕事を与えられたのだった。もと子はここで校正の仕事を覚えている。
 その後、明治女学校を中退して岩手に帰ったもと子は、小学校の教師となり、さらに盛岡の女学校の教師となる。安井てつが岩手県尋常師範学校に赴任して来て、キリスト教について一日議論を戦わせたというのは、このころのことである。もと子はすでに洗礼を受けており、てつはキリスト教を嫌悪していた時代である。
 結婚のため関西に行ったもと子は、わずかに半年で離婚を決意し、東京に帰ってくる。彼女は女中になって自分の小説を書きたいと考えた。行った先が偶然にも、吉岡弥生の台所であったため、吉岡夫妻の目にとまり、事情を知った夫妻の愛情と励ましを受けるようになる。なにかもっとよい仕事を捜すようにといわれて、職捜しをしていた彼女は、報知新聞の職業案内で校正者を募集していることを知った。その一週間ほど前にも校正者の募集があった。
 彼女が駆けつけた時は、すでに採用者が決定していたが、この際、彼女は校正者には男を求めているらしいことに気づき、履歴書といっしょに女の自分がその仕事に従事してみたいわけを詳しく書いた手紙を持ち歩いていた。履歴書と手紙を提出したもと子は、受験のチャンスが与えられ、抜群の成績で採用と決まる。
 たった一人の女性として編集局にはいった彼女は、やがてプランを提出して記事を書かせてもらうようになる。日本における女性新聞記者第一号の誕生であった。自分の望みをかなえ、願いを達するために、彼女は深く考え、果敢に実行した。そして、それらの経験が確実に彼女を肥らせ、実らせるのだった。
 もと子はこの職場で羽仁吉一とめぐり会い、結婚する。夫吉一の協力によって、『婦人之友』の前身である『家庭之友』という婦人家庭雑誌を創刊したのは明治三十六年四月、長女説子も、ほとんど同時に生まれている。
 こうして、雑誌『婦人之友』は、羽仁一家とともに生まれ、成長していくこととなった。家庭内のこまかな実務のやり方や試みなど、彼女の家庭に入用だった知識を簡単で重宝な記事にまとめると、それはそのまま、多くの家庭に入用なことになった。しかし羽仁一家が成長し、もと子が成長して行くにつれて、『婦人之友』の使命も複雑になり、彼女の社会に対する働きかけもしだいに強くなっていった。自由学園を創立する機運は、そこから芽生えたものだった。だから彼女は、「自由学園と婦人之友は同じものです。自由学園とはなにか、婦人之友とはなにか、婦人之友とはすなわち皆様と私どもであり、自由学園とはとくにその婦人之友の若き芽の伸びる所です」というのである。
 教育の目的は真の自由人をつくり出すことだと彼女は考える。では、自由とはなにか。どうすれば人間は自由であるか。人間には自由にその意志にしたがって実行する力が与えられている。人間の人格をつくり出すものは、その人自身のもつ意志のみである。右せんか左せんか、その決定の瞬間に働く意志の由由は、その人自身のものである。それが人間最高の賜物である。その意志こそは、端的にいって、教育の力でできていくものなのである。
 そして、神の御心によって、他の万物とともにつくり出され、お互いに助けあい、かかわりあって生きる人間は、その教育も訓練も、神とそして万有とによってなされるものが教育であり、尊厳である。一人一人についていえば、自分を教育してくれる、あらゆるものを示し与えてくれるものを受け入れて、自己の生命を養い育てていかなければならない。つまり自らを教育していく最要、最高、最後のものは自分以外ない。行動の決定は常に、ただ自分一人の責任である。
 そう考えれば、人の中には、決まった一人の先生もなく、誰でもが生徒であり、ともに学ぶ同志である。誰でも力の限りをつくして学びつつ進歩していかなければならないし、学んだこと、発見したことを精一杯に実行して、この天地のなかにいかしていかなければならない。
 だから、自由学園をはじめるまず最初に、彼女は生徒たちに向かっていった。
 「自由学園には先生はありません。大人も子供も皆お互いの長所を学びましょう。……自由学園においては、言論、思想、信仰その他何事においても個人の自由を尊重します。われわれの知恵も力も信仰も、その自由をもってする研究の錬磨からのみ生まれてくるからです。しかしわれわれの行動には、必ず今もっている立場がなくてはなりません。自由学園の今もっている立場は、すでに明らかにしてある通り、キリストにしたがっていこうとすることです。この立場をもとにして、われわれはもっとも自由に思考し、研究し、経験していきましょう」と語っている。
 自由に自分で考え、自分で自分を管理できる人間、自分の考えを持ち、行動できる人間を育てようとした彼女は、娘である女学生が、父親であり、母親である人の命令に対しても、自分の判断なしにしたがうことをきびしく戒めている。すべての行動は自分で一度判断し、その後に行動するように求める。人はだれでも独自の受けとめ方、感じ方、考え方ができるのであり、それを人に述べることもけっして妨げることのできないその人の持っている自由なのである。その自由は親だから、教師だからといって、奪ったり、おろそかにすることはできない。
 そこで、母親の立場に立てば、子供の自主的判断を重んじ、自分の感じたもの、考えたものをありのままに述べ、自分の判断を持つように心掛けてやる必要がある。無用なおせっかいや手伝いは、子供をむしろめちゃめちゃにするのである。
 女性の生き方についても、女の幸福はこれこれだからといって、親が自分の幸福観を娘に押しつけるのは誤まりである。といって、幸福観を押しつけられてハイハイと肯定したり、逆にただ反発や反抗を示すような人間に育てようとしたのではない。芯のある、思慮深い女性に育てようとしたのである。
 それはそのまま、複雑に進展する社会のなかで、女性が人間として、婦人として生きていくための不可欠の能力であるとも考えていたのである。彼女は、「家庭という社会が完成するためには、婦人は職業を持ってよいのではなく、婦人は職業を持たなければならない」といいきるのである。
 職業を持たない女性には、家庭を社会として治めきれないというのである。女性が各家庭のなかにのみいる時代は、片輪の時代、未開の時代であるというのである。彼女は婦人が家庭生活と社会生活とを、各自適当な分量において、自分一身のなかで両立させるということを求め、実行していたのでもあった。
 先にも述べたように、もと子は自由学園をはじめる十八年も前から、雑誌『婦人之友』によって、社会への呼びかけを行なってきていた。彼女の教育事業を広めるコミュニケーションはすでにできていたというべきかもしれない。
 しかも、学園卒業生によって消費組合が作られ、農村にセットルメントがはじめられるなど社会に対する働きかけが着々と行なわれていったのは、もと子の考えが実を結んだといえよう。同時に、卒業してしまえば、その学習も生活改善も、自らの向上もそれまでという学校教育の弊害が、ここではみごとに克服されているのである。さらに、雑誌『婦人之友』だけによって連なっていた読者が、学園自身と卒業生の活動に刺激されて動き出す。
 こうして生まれた「友の会」は、全国の読者の組織であるが、たんなる集まりに終わらず、友愛運動による社会改造運動にまで拡大していくことになった。このように、もと子においては、学校教育と社会教育が一環のものとしてとらえられており、大学教育は、これらの教育のもう一つ上のものとしてとらえられていたらしい。

 

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  拡張をつづけた女子専門学校

 このように、梅子にしても、志津、弥生、てつにしても、また、仁蔵やもと子にしても、すべて、女性のかくれた能力を開発し、男性とともに、女性にこの社会を分担させ、社会の進歩をになわせようとする激しい気魄にみちていた。
 女性の能力が男性の能力に劣っているかどうかという論議は別として、男性とともに、社会の進歩をつくりだしていこうとする女性をつくりだそうという高い理想に燃えていた。それこそ、文字通り、男性のよき伴侶を育てようとしたのである。
 だが、こののちに次々にできた女子専門学校は、ほとんどが、家政学科を中心とした学校ばかりで、誰一人、安井てつの思想と教育を継承し、発展させようと努力するものはなかった。そればかりか、成瀬仁蔵や羽仁もと子が考えたような家政学科でもなかった。すべての家政学科が閉じられた家庭にしか眼を向けないようなものばかりであった。そして、津田梅子や吉岡弥生が望んだ職業教育を普及させようとするのでもなかった。文部省は相変わらず、女子の高等教育は民間の有志にまかせたまま、女子の高等教育に熱意をしめさなかった。
 大正七年当時、文部省の臨時教育会議で、高等女学校に専攻科、高等科を設置するかどうかということが論議されたとき、女子に高等教育を授けると虚栄心が助長されるだけとか、妊娠のもっとも盛んな二十一、二歳という結婚期を三年もおくらせ、民族の繁栄に悪い影響があるということが、まじめに主張されているのである。もちろん、専攻科、高等科を設置することには反対である。専攻科に反対するぐらいだから、女子のための大学教育などはまったく思いもよらないことであった。
 文部省が、そんな考え方をもち、良妻賢母主義の教育を唱えるぐらいであるから、たとえ、私立の女子専門学校が創設されても、大勢としては、良妻賢母主義にならざるをえない。
 その点では、女子英学塾、女医学校など、これまで述べてきた学校は、他の女子専門学校に対して、独自な学校として存在するのがやっとで、女子大学に昇格するどころか、こういう風潮に真正面から対決することをよぎなくされたのである。そして、多くの女子専門学校は、その風潮にまきこまれることによって、やっと存続できるという有様でもあったのである。
 ただ、そうしたなかで、大正十二年、有志による女子教育振興会が組織されて、高等女学校の教育程度を高めるとか、女子の高等学校および大学を設置するとか、男女共学をやるとかということが決議され、文部省に熱心に働きかけたということがある。翌大正十三年には、早稲田大学、日本大学などに学ぶ婦人聴講生が中心になって、女子学生連盟を組織し、女性に対して、高等教育の門戸解放を求める運動をおこしている。
 さらに、大正十四年には、全国女子教育大会をひらいている。会場に集まるものは千余名という盛会で、直ちに「全国女子教育促進連盟」を組織するほどに意欲的であった。
 だが、女子教育運動の花々しい割りには、効果はほとんどなく、大正九年にはじめられた東京帝国大学の聴講生制度も昭和三年に廃止され、わずかに、昭和四年に創立された東京、広島の両文理科大学が女子学生に門戸を開いただけであった。
 門戸を開いたといっても、それはじゅうぶんなものではなかった。東京文理科大学に学んだ湯浅年子は、その苦しみをつぎのように述べている。
 「一日中、話す友だちもなく、黙々と講義をきいては帰るのであったが、その道々、一日中の沈黙ですっかり話す術を忘れてしまったのではないか、はたして声が出るかしらとそっと声を出してみた事もあるくらいであった。
 女性に対する一般の学者の差別観は思いもかけず、深刻で、私には細く狭い道しか残されていない事を知った。そのようやく残された一つの可能性によりすがって、ひたすら研究をはじめた私は、行き詰まりからどうしても脱出できなかった。自分の能力がはたして好いのか、環境のゆえかわからなかったが、とにかく、私の研究は進まなかった。」

 昭和十四年になってはじめて、文部省は本気に、高等女学校、実科高等女学校を女子中学校として、修業年限を五年にし(一部の女学校は五年であったが、九割の女学校は四年であった)、女子高等学校と女子大学を設置することを考えはじめたのである。しかし、これは戦争の悪化によって計画だけに終わり、結局、昭和二十年まで、女子のための大学は創設されないままに終わるしかなかったのである。
 女性の能力の開発を念じ、女性を人間の位置に高めることを求めた先進的な女性は、心の底から、女子のための大学が創られることを求めたが、昭和二十年までは実るところまでいかなかった。いってみれば、戦前に女子大学は一つもなく、かぎられた専門学校しかなかったということは、女性のおかれた地位を象徴的に示している。女子大学は、女性の地位のバロメーターであるといっても過言ではない。
 戦後、女子のための大学がつくられたとき、女性はどんなに喜び、どんなに感激したことか。それは、女性が男性の保護の地位を脱して、自らの足で歩み、自らの手で働くことを意味した。しかし、女性が手放しで、喜んでいられるほどに甘いものではなかった。大学に学ぶものの自覚と責任と能力はきびしく求められるし、女子大学に大学としての機能を果たさせるのは、津田梅子のいったように、そこに学ぶ女子学生の研究心である。
 こうして、大学は女性の手にとどくところにきたが、すでにみたように、女子大学、女子短期大学は花嫁学校化し、「女子大無用論」「女子学生亡国論」がおこるほどに、今では女子大学の質が問題となり、女子学生の実態に注目が集まっている。どうして、女子大学は荒廃し、女子学生は堕落したといわれるのだろうか。家庭と男性の、女子大学に対する、女子大生に対する態度がその一因であることはすでに述べたが、以下女子大学そのものの内側から考えてみよう。

 

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3 女子大学とはなにか

  女子短期大学について

 昭和二十五年に発足した女子短期大学は、発足当時、78校にすぎなかったのが、昭和四十一年の現在では258校にもふえたことはすでに述べた通りであるが、この女子短期大学はもともと旧制専門学校のうち、大学への昇格を認められなかった学校に対する一種の救済策として、暫定的に認められたものである。だから、はじめはあくまで学校を充実して、四年制の大学に昇格することが考えられていた。
 しかし、その暫定的な制度が、いつのまにか制度としても定着したばかりか、発足当時の三倍増になったのである。
 文部省の大学行政に関するあいまいさと、大学当局のいいかげんさといってしまえばそれまでだが、いったい文部省は二年間でどんな教育ができると考え、大学当局はどんな女性を育てようとしているのであろうか。
 まず、文部省が定めた一般教育科目について考えてみよう。文部省は人文科学、社会科学、自然科学のうち、二科目ずつ選び、12単位を履習するようにと規定している。それによって、「自然と人生と文化に関する理解を深め、あわせて専門分野と他の分野などとの相関について知見を広めるとともに、社会人としての教養」を身につけさせようというのである。
 それが、四年制の女子大学になると、人文科学、社会科学、自然科学のうち、三科目ずつ選び、36単位を修得し、同じ目標をねらっているのである。三科目ずつ36単位学んで、自然と人生と文化に対する深い理解が得られると、文部省が本気に考えているかどうか知らないが、もしそうだとすれば、二科目ずつの12単位ではとうてい目的は達成されない。また、もし二科目ずつ12単位でやれるというなら、三科目ずつ三36単位を学ぶのは余分な努力をしていることになる。
 はっきりいうなら、文部省は、四年制の大学と二年制大学のどちらかに嘘をいっている。不可能なことを要求していることになる。
 また、四年制の大学は128単位を修得すれば卒業できるとし、二年制大学は62単位を修得すれば卒業できるとしていることにも、納得できないものがある。ここには、修業年限が二分の一だから、修得単位も二分の一にしたという機械的な配慮しかみられない。修業年限が二分の一とすれば、むしろ修得できるのは三分の一以下と考えるべきではないか。
 短い年限に、多くの学科を教えるということは、ますます、大学教育本来の姿である自学自習から遠ざけることにもなる。文部省は、二年間でどんな教育ができ、どんな女性ができることを期待しているのであろうか。
 昭和四十二年からは、現行24単位の専門科目を38単位にふやす計画らしいが、これまでの中途半端な専門的知識を克服していこうとする試みとしてはいいようにも思われるが、実際には、かえって中途半端な人間をますますつくることになるのではないか。というのは、これまで誰も女子短期大学を卒業したということだけでは、専門的知識をもっていると思っていなかったのが、かえって生半可な知識をふりまわす女性がふえて閉口するかもしれないからだ。
 むしろ、女子短期大学は、思いきって全学部を教養学科にするか、文学科と理学科とにし、一般教養を徹底的に学習させたほうが、もっとまともな女性ができるのではないか。といっても、今の一般教養の内容ではほとんど無意味に近いといえようが。
 また、花嫁学校化した女子短期大学のためにも、ほんとうに花嫁の内容を作ることになるのではないか。
 羽仁もと子も、
 「料理はできなくてはこまる、裁縫ができなくてはこまる、薄茶の飲み方も知らなくては恥をかくこともあるだろう。……しかし、料理や裁縫や、うわべの体裁や、応接間で他人と世間話ができるだけのことでは、今後の人間としての重要な資格がまったく忘れられているのです。」
 といっているように、かんじんかなめのことを理解し、つかんでいる女性をつくらないで、中途半端な女、聞きかじりの知識ばかり豊富な女をつくっても、それこそ意味がないといえよう。

 

                  <女子大学 目次> 

 

  乱立する女子短大の実態

 文部省は、女子短期大学の糊塗策よりは、女子短期大学そのものを存立させるべきかどうか、存立させるならどうすべきかを根本的に再検討する時期にきているのではないだろうか。文化国家として、女子短期大学ははたして必要かどうか、必要ならばどういう役割をになうべきか、またにないうるかを真剣に考察すべき時期にきているのではないか。それを文部省がやらないで、女子短期大学の新設をずるずると認め、恒久化し、女子短期大学当局に、大学として充実するように努力することを怠らせているから、いいかげんな女子短期大学がワンサとできるのである。

 昭和四十年十一月十日づけの中国新聞に、次のような投書がのっている。
 「……時間数の不足、国立大学からの兼任講師が多いこと、教師の不熱心さと質の低下はまったくひどい。
 設備といえば、英文科でも、テープレコーダーやレコードプレヤーさえもない。あるのは、机とイスだけ。学園維持費を一年に五万二千円納めるが、そのお金は、われわれとは全然関係のない四年制設置のために費やされている。四年制設置のあおりとして、図書室は使用禁止、授業は休講つづきである。夏休みや休講時間や、また放課後六時まで、設置認定のために購入した本の整理を半強制的にさせられる。」
 これほど、女子短期大学の性格をものの見事に語っているものはないといってもいい。発足当時は学校の救済策として生まれ、いまでは四年制大学を存立させるために存在する。
 某私立大学の教授が、「やりくりがどうもたいへんだ」ともらしたら、女子短大の経営者は、すぐさま「女子短期大学を設置してはどうか」と答えたという。その私立大学では、さっそく家政科と国文科の女子短期大学を設けたということである。女子短期大学がドル箱だというのは、このごろでは、関係者の間で誰知らぬものもないほどの事実となっている。男子の大学より女子の大学の方が、とくに女子の短大が企業としてうま味があるらしい。
 ちなみに、広島地方のある女子短期大学を調べたら、一般教育科目15人の教師のうち、専任教師はわずかに三名、三名を除いたあとの教師はすべて時間講師であった。そして、10名までが他の大学からの出張教師である。それに、三名は専任教師といっても、二名まではその短大の付属高校の教師をしているというのだから驚く。厳密には、一名しか専任教師はいないということになる。安上がりにすむはずである。もうかるのも当然である。
 これでは一般教育が充実しないのも、高校教育の延長にすぎないといって女子学生から評判がわるいのも、むりはない。文部省が一般教育をやれというから、しかたなくやっているというにすぎない。
 また、この短期大学には家政科と国文科とがあるが、家政科の場合28名の教師のうち常勤は三人、国文科の場合14名のうち常勤は一名しかいないというありさまである。はなはだしいのは、他の大学の有名教授の名前だけ借りて、実際には別の若い人が講義をしている。まったくおかしな話である。
 それであって、文部省め定める教授の定員、助教授の定員はきっちりとそろえて、文部省に報告しているのだからあきれるほかはない。
 なかには、国立大学の定年教授を三拝九拝して迎えるために高給を出し、実際にその大学の中心になって教育活動をしている若い人たちには、うんと安い給料しか払わないという女子短期大学もある。しかも、その教授は、長い間、比較的程度のよい学生ばかりを相手にしてきたために、学習意欲がないばかりか、ひどいのになると、中学生程度の理解力、判断力しかない女子学生を前にして、どうしてよいかわからない。だからとて、六十歳をすぎた老教師に、あらためてそんな女子学生を相手にして、なにを教えたらよいかを研究してみる意欲はわかないのである。それもむりはない。
 有名であるかもしれないが、実際に、このような意欲に乏しい老教師に高い給料を払うということをやっているのである。女子短期大学経営者にとっては、女子学生にとってその教師が適任かどうかということはどうでもよいのである。
 もちろん、こうしたことがすべての女子短期大学にあるとはいえないが、多かれ少なかれ、こういう無責任な教育が行なわれているようである。考えなくてはいけない。このことは、昭和四十年に新設された大学で(男女共学、四年制の大学を含むが、半数近くは、女子短期大学)、七十歳以上の教師が172人、六十歳以上460人、五十歳以上162人、四十歳以上77人という数字にもよく現われている。六十歳以上が三分の二ということは、いったいなにを示しているのか。それは、明らかに文部省の形式的な大学設置基準を浮き彫りにしている。そしてまた、大学当局も、文部省の基準にしたがって、定見もなしに有名無実の老教師をいかに多く集めているかということを物語っている。
 また、いかに安直に、金のかからぬように大学を新設しているかという一例に、現在、女子短期大学は全国で258校もあるのに、島根、鳥取の両県では、わずかに公立一、私立一があるにすぎないという。つまり、兼任教授や兼任講師が雇いにくい、いいかえれば、安く雇えないということが、この地方に大学をつくらせないのである。こうなると、大学のなんたるかは二次的な問題となり、経営的に成りたつという企業的性格だけが強調されていることになる。
 そうかと思うと、一つの大学で、次々に女子短期大学をつくる例もある。といっても、その設立は布教活動と関連しているのかもしれないが、宗教大学で女子短大を設置するものが非常に多い。
 おもなものをあげると、昭和三十五年に帯広大谷短期大学、昭和三十六年に札幌大谷短期大学、昭和三十八年に函館大谷女子短期大学と、毎年のように設立するものがあるかと思うと、昭和四十年に岩見沢駒沢短期大学、苫小牧駒沢短期大学と一年の間に、二つも設立しているのもある。また、昭和四十一年には、国学院大学栃木短期大学、仙台白百合短期大学も新設されているかと思うと、山梨英和短期大学、静岡英和女学院短期大学と、名前のまぎらわしい大学が境を接して作られるということもおこっている。
 男女共学の四年制大学で、付属の女子短大を設立したところも多い。昭和四十年の玉川学園女子短期大学、立正学園女子短期大学、昭和四十一年の皇学館大学女子短期大学など、この代表的なものであろう。
 そのほかで、昭和三十九年、昭和四十年、昭和四十一年に新設された女子短期大学はすべて、女子高等学校の付属大学といえるものである。それというのも、昭和三十八年からはじまった高校生の異常な増加でうけにいった私立高校も、逆に昭和四十一年からは徐々に生徒数が減りはじめた。
 そのふくれあがった生徒を、そのまま自分のところの付属大学に吸収すればよいときめこんだことが、付属大学を設置することになったのである。そこには、大学教育についての抱負も識見もあるわけでない。あるのは、ただ誰かの意見をうのみにし、大学だけ作ればよい、作った建物と設備だけはもうけものという考えがあるだけである。
 それに、大学設置に必要な資金のやりくりにもことかかない。在校する中学生や高校生に、学校債を買わせればよいのである。中学生に買わせれば、返済期間も八、九年と、それだけ伸びる。卒業するときは、寄付してもらうという逃げ口さえもある。そこは、男子学生と違って、女子学生は甘い。その学校債は普通10万円といわれているが、実際にはもっと高額だともいう。新入生からは、建築費、設備費、後援会費という名目で、5万円から10万円ぐらいを納めさせる。もちろん、このほかに入学金、授業料という形で、最低7万円から最高15万円を要求する。なかには、職員退職積立金、職員住宅積立金という名目で年間2400円をぶんどっている女子大学さえある。文字通り、ぶんどりである。職員住宅まで学生の金で建設しようとするのである。
 学生から、暖房費をとっている女子大学は多いが、極端な例になると、便所の落とし紙の代金まで徴収している女子大学もあるという。この話を聞いた時はさすがに、私もあぜんとした。学生の再試験、追試験に300円、200円ととっているのは珍しいことではないが、この金額もばかにならない。しかし、採点する教師には、一文も出さないというのが普通であるという。

 

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  大学経営と家政学部

 戦前なら、大学の建設、設備など、すべて寄付によったものであったが、今のように、抱負も定見もなく、企業のためかどうかもわからないような大学の建設に、金を出す物好きもあるまい。私立大学への寄付には税金がかかるといわれているが、昭和三十八年に大蔵省が調べたところでは、私立大学への寄付金は128億円であったのに対して、会社が飲み食いにつかった金は5300億円という数字がでている。しかも、会社が寄付のために損金として使えるワクは、いつもがらあきであるというのである。これでは、大学への寄付金を免税にしたからとて、大学に金が集まるかどうかはまったくあやしくなってくる。まして、女子大学や女子短期大学の卒業生に会社の重役はゼロに近いとなれば、なおさら期待はうすくなろう。
 だが、女子短期大学は建設費や設備費に困らない。前述したように、学生、生徒から徴収すれはいいのだし、集まった金の範囲で、建物をつくり、設備をすればいい。なにも、あわてて充実する必要もないのである。
 それに、銀行や相互銀行、信用金庫は、入学金や建設費をあてこんで、多額な金を貸してくれる。金融機関にとっては、動きのない大学の金ほどいいものはない。もう一つ、銀行にも大学側にもつごうのよいことは、一流といわれる政治家や財界人が、東京、地方の別なく、学長、理事長、常務理事、理事、監事、評議員などに名を連ねていることである。
 学長をしている政治家のおもな人びとをあげると、元文部大臣愛知揆一(東洋女子短期大学)、元厚生大臣黒川武雄(日本女子経済短期大学)、元防衛庁長官木村篤太郎(小田原女子短期大学)、同じく元防衛庁長官大村清一(相模女子大学短期大学)、代議士床次徳二(目白学園女子短期大学)などであるし、旧高級官僚では、戦前の文部省社会教育局運動厚生課長栗本義彦(日本体育大学女子短期大学)、元文部次官有光次郎(東京家政大学短期大学部)、元文部省専門学務局長関口勲(東京家政学院短期大学)などもいる。まして、理事長、常務理事、理事、評議員となると非常に多い。
 こうして作られる女子大学が、付属の女子高等学校を母胎とする以上、女子高校の設備を利用するうえからも、家政科を中心とするものになるのは当然である。その結果、家政学科の学生数が圧倒的に多く、昭和三十九年当時でも、全女子学生の54%をしめたのである。この比率は、昭和四十年、四十一年となるにつれてますますふえていることは、この両年に新設された女子短期大学では、圧倒的に家政学科が多いことで明らかである。
 ついで、25%の文科、4%の法、政、4%の芸術となっているが、理、工、農を学ぶものは、全部を集めてもわずかに1%足らずである。ほんとうに、良妻賢母を育てようとすれば、理科教育を徹底しておこなうべきであると主張した安井てつの理想とは、あまりにもかけはなれているといわなければならない。
 花嫁になる資格をとるために、女子短大にはいる。女子短大に入学するなら家政学科と、両親も本人も深く考えないで決定する。親たちも本人も、せめて女子短大は卒業させておきたい、卒業しておきたいと切望する。なにを教えてくれるか、どんな人間に育ててくれるかは問題外なのである。なにがなんでも、資格だけがほしいのである。高校教師は高校教師で、生徒の学力からして、無試験入学に近い家政学科ぐらいが適当ということになるのである。
 親たちや本人がいかに、花嫁資格として女子短大、それも家政学科にはいりたがるかということは、広島県のある県立高校から昭和四十一年に大学に入学した44名のうち、41名までが女子短大であったという事実を見てもよくわかる。山口県のある私立高校の場合も、71名の進学者のうち、69名が女子短大ということである。その八割までが家政学科であったことはいうまでもない。経済的な理由で女子短大を選ばせたということもあろうが、いずれにしろ、親たちや本人がなにを希望しているかということがわかろうというものである。
 それが東京の場合になると大きく違ってくるが、傾向としてはかわらない。ある都立高校では47名が四年制の大学、26名が女子短期大学に入学し、ある私立高校では81名が四年制の大学に、142名が女子短期大学に入学している。そのうち、家政学科を希望した者が53名、英語27名、美術21名、国文10名、保育9名などとなっている。
 このような数字をみて感じるのは、家政学科を志望する人びとが、はたして真に家政学を学問として学ぼうとしているのであろうかという疑問である。そしてまた、これから女子大へいって家政学科にはいろうとする受験者が、はたしてその実態を知っているのだろうかということである。

 

                 <女子大学 目次> 

 

  家政学部ではなにを教えているか

 それではいったい、60%近い家政学科の学生はなにを学んでいるのであろうか。大学当局はなにを与えようとしているのであろうか。一般教育として、人文科学、社会科学、自然科学のうち、二科目ずつ12単位を修得しなくてならないことはすでに書いたが、その内容については、あとで論ずるとして、ここでは、専門科目についてふれてみたい。
 相模女子大学短期大学部では、家政学科の講義として、栄養学、栄養化学、栄養生理学、栄養病理学、食物学実験、母性栄養学、小児栄養学、老年および病弱者栄養、労働栄養、特殊栄養学実習、栄養指導理論、給食管理、住宅設計、食品学、食品化学、食品衛生学、微生物学、食品加工貯蔵、食糧経済、調理化学、調理実習、被服学、被服整理、被服工作、家政学原論、家政経済学、家庭科学、生活史、公衆衛生学氤。、看護学、社会福祉、学校保健、住居学、児童心理学、家庭管理、家庭機械および家庭工作、衣料学、染色学、被服美学、デザインの42科目がある。
 跡見学園短期大学は、家政学科の講義として、家庭管理、家庭関係、家庭経済、住居学、栄養学、栄養生理、調理学、生理学、育児学、衣料学、被服整理、食品学、食品生産加工、調理実習、看護学、救急処置、精神衛生学、遺伝優生学、住居史、衣服史、被服構成、染色、手芸、個人衛生、公衆衛生、細菌免疫学、学校保健管理、日本文学、芸能実習、食物概説、家庭工作31科目を開講している。
 このなかから、24科目を選択して学ぶわけであるが、一週一時間で、こんなに多くの学科目を学んで、いったいなにがつかめるというのであろうか。教育、経済、衛生から衣、食、住まで、人間が生きていくうえに必要なことを全部学ぼうとすることは、それ自体好ましいともいえるが、短時間でやるとすれば、自然どの科目も中途半端になるしかない。
 講義の内容を理解するのが精一杯で、とても、研究的に学ぶということはできまい。大学教育に必要というよりも、大学教育になくてならぬもの、それがなくては、けっして大学教育とはいえない研究というものが、ここにはまったく存在しない。いいかえれば、自分で疑い、自分で考え、自分で調べてみるという作業は全然成立しないといってもいい。教える科目は違っても、そこには、高校教育と少しも違わないものがあるだけである。
 それにもかかわらず、学校当局は、無責任にも、選択した24科目以外に、余力のある者は、それ以外の9科目ないし20科目から能力に応じて、できるだけ多くの学科を修得せよという。研究でなくて、暗記せよといっているようなものである。しかも、女子学生の多くは、教員免許状を取得しておこうと欲ばるから、教育心理学、教育原理、教育史、教育行政学、道徳教育の研究、家庭科教育法なども学ばねばならなくなる。
 そうなると、学科目はいよいよ多岐にわたり、自学自習の時間など、まったくなくなる。要求する大学当局も大学当局だが、それを黙って受講している女子学生も女子学生だといいたくなる。それがもし、英文科、国文科になると、英文学と英語学、国文学と国語学を中心とし、せいぜい関連学科を学ぶにすぎない。家政学科のように、教育、経済、衛生、衣、食、住と多方面にわたることがない。女子短期大学における英文科、国文科などは、じゅうぶんとはいえないまでも、家政学科にくらべたら、ずっとよいといえる。
 女子短大の家政学科で、ほんのちょっと学んだ食物学、児童学、服飾学、住居学、家政経済学などを、四年制の女子大学では、それぞれ単独に四年間専攻するというのも奇妙といえば奇妙である。要するに、女子短大の家政学科ではなにも学べない、また、なにも教えないというのがあたっていよう。しかも、その家政学科に、女子学生の60%近くが集中しているのである。これはまったく奇妙な現象である。研究も教育もしない所に60%の学生が集中しているのである。考えなければならぬ現状である。

 

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  問題をはらむ女子短大

 学校法人ということで、税金がかからないということにも問題がある。大学当局は、国庫からの補助ということをつねにいいながら、その実、実際には少しも国庫からの補助を求めていないのではなかろうか。大学経営者の多くの者は、国庫の補助によって大学の経理が公になることを嫌っているのではないだろうか。甘い汁が吸えなくなるからであろう。国庫からの補助がないから、授業料をあげ、建築費をとらなくてはならないという口実ができ、私学の危機は文部省側にあるというポーズをつねにとれるのである。これほど、女子短大経営者にとってつごうのいいこはない。
 四年制の女子大学をふくめて、教授、助教授、講師の給与ベースのきまっているところはほとんどない。給料は個別に、学長もしくは理事長との間できまり、教師間では、お互いに知りようもない。今日、こんなことがおこなわれているのは、もっとも文化的で近代的なはずの大学だけである。もっともおくれた社会ということがいえる。もっともおくれた社会で、もっとも進んだ人間を育成しようと思っても、それはできない相談である。
 大学で人間として、職業人として生きようとする女性、男性とともに社会を分担していこうとする女性が生まれずに、花嫁の資格だけがほしいという、もっともおくれた女性、もっとも中身のない女性が生まれるのもむりはない。
 良妻賢母をつくることを、家政学科は目的としているかもしれないが、現実には家政学科を修得することで、そのほとんどが悪妻愚母になっているのではないだろうか。高等学校だけを卒業したままなら良妻賢母になれたかもしれないのに、女子短大に学んだばっかりに悪妻愚母になるとしたら、これほど愚かしいことはない。国文科や英文科を学んだ者も、考えようによっては、もっともっと始末にこまる女性にならないとも限らない。国文学や英文学を学び、その真髄にふれたと錯覚したら、まったく手がつけられない。
 短期大学でやる英文学、国文学の講義は学問とはまったく縁のないもの、その入り口すらみせていないともいえる。
 だから、とうてい学問や真理の底知れなさを感じとることはできない。学問や真理の価値を知らない者は、敬虔にぬかづきたくなる気持ちも味わうことはない。まして、学問の前に絶望するほどの経験もない。ということは、学問や真理のために、人間の全存在、全生命を捧げきる喜びも感動も知らないということである。

 

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  エリートとしての女子大生

 昭和四十年五月現在、四年制の大学に学ぶ女子学生数は14万6560人といわれる。そのほとんどは女子大学に学ぶ者であるが、それでも、同一年齢のなかで、四年制の大学に学ぶ者は4%にすぎない。
 同一年齢のなかで、22%もしめる男子学生の場合、「大学は大衆化した」「大学生はもはやエリートではない」という言葉も通用すると思われるが、わずか4%の女子学生は、やはりエリートであるというのが自然である。この4%という数字は、大学生がエリートであった戦前の比率にはわずかにおよばないとしても、専門学校に学んでいた学生数の比率よりずっと少ない数字であるし、専門学校の卒業生は、結構、準エリートとして世の中に通用していたのである。
 だから、女子学生はエリートであるという立場にたって、ここでは、女子大学の問題を考えてみたいのである。ということは、例外はあるかもしれないが、女子大生になる者は、能力的にも経済的にも、それなりに恵まれた人がはじめてなれるということである。
 もちろん、エリートという言葉は、大学もしくは女子大学を卒業したということで学歴がつき、社会的にも有用な仕事につき、結婚するとしたら条件のよい妻の座を獲得できるという意味ではない。それは、津田梅子が考え、吉岡弥生が切望し、安井てつ、羽仁もと子が生きたように、女性の能力を開発し、女性の地位をたかめるための戦いの先頭にたつということである。
 開拓者として、先覚者として生きるということである。人間としての価値を追求して、けっして途中で挫折もしないし、逃げだしていかない人間である。自分たちの職場を開拓したら、苦しいからといって職場を放棄しない人間である。その職業を通して、歴史と社会の進歩に参加する人間である。
 わずか4%しかいない女子学生には、全女性の先頭にたって歩みつづける責任と使命がある。そんな責任感と使命感に生きつづける女性を育成することが、女子大学の使命であり、選ばれた者の道を進む人間としては当然のことであろう。
 こんなことをいうと、当の女子学生はもちろん女子大学の教師も、女子学生を相手にしなくてはならない男性も、とんでもないというかもしれないが、私はそう思わない。成瀬仁蔵も、閉じられた家庭に眼をむける女性でなく、開かれた社会をみつめつつ、社会人として、国民として生き抜く女性を求めたが、最近の家庭に閉じこもろうとばかりしている女性をみると、なおさら、そのことを強く感じないではいられない。
 女性のエリートをつくるという意味では、共学の大学ばかりでなく、女子大学は今日では結構必要と思われる。すべての男子大学が女性に門戸を開放した今、女子大学は過渡期的なものという考えも成立するが、女子学生を収容して、徹底した責任感、使命感をもった女性を育成するということは大切なことである。女性としての自覚と使命感をひきおこすためには、女性の弱さ、愚かさ、限界を徹底的に教えることが必要である。
 女性を、女子学生を、一度、とことんまで絶望させ、そのなかから、女子学生自身の力で立ちあがらせることが大事である。女性が女性のワク内に閉じこもり、安住しているかぎり、女性の力が、人間として、社会人として発揮されることはない。男性の保護から離れ、独自に歩けるようになった時、はじめて女性が女性としても、人間としても、その能力を発揮できる時である。
 男性は、女性がそうなることを恐れて、女性をつねに男性の保護下においたままにしようとするし、女性自身も、その方が安楽とみえて、男性の保護から脱却しない。しかし、こういう女性であるかぎり、女性は、女性として、また人間として、じゅうぶんに生きたとはいえないし、人生を生きたという醍醐味をほんとうに味わうことも不可能である。それは人生を非常にわずかしか味わずに、価値ある一生を終えることを意味する。そしてそれは男性にとっても、非常に損である。ある意味では、男性にとって、これほど悲劇はないともいえるのである。

 

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  女子大学のねらうもの

 さすがに、女子大学ともなると、女子短大と違って、家政学を学ぼうとする者は少なく、全学生10%にみたない。一番多いのは41%の文学部で、文学、史学、哲学、教育学、社会学とその専攻するところは多岐にわたっているが、その30%近くが文学を専攻する者となっている。
 女子短期大学生の60%が家政学科をおさめるというのにくらべると、少ないともいえるが、30%が文学というのはひっかかる。女性の能力が文学にむいているとでもいうのであろうか。次は、教育学部の24%、医歯薬学部の10%、芸術学部の7%、法商政経4%、理工農学部の3%、その他となっている。
 こうしてみると、女子大学当局も、文部省も、女性の能力の開発について、まったく計画も見通しもないということがよくわかる。女性の能力を多方面に開発しようと考えた成瀬仁蔵、吉岡弥生、佐藤志津、安井てつなどの意図は、まったくといっていいほどに継承されていない。継承がなければ発展がないのも当然であろう。
 4%にすぎない女子学生が、このようにかたよっていれば、女性の進出はいよいよ困難になるし、進出の意欲をもつ女性も生まれないことにもなる。
 専攻者数がこんなにかたよっているのを、なんとも感じないような女子大学当局であるから、また、女性の大学教育という全体の見通しにたって、女子大学の設置や学科目の設置を考えようとしない女子大学当局であるから、どんな女性に育てるべきかを本気になって考えているとは思えない。こんな書き方をすると叱られるかもしれないが、私にはそう思えてならない。
 たとえば、相模女子大学の入学案内に、「全国の名流家庭の子女を集めて教育した伝統をうけついで」というような意味のことが書かれてあるが、大学教育と名流家庭の子女ということと、どこで、どう重なりあうのか。まともに大学教育を考えていたら、とても書けないことではあるまいか。
 甲南女子大学の入学案内には、国文学科のところに、「古典から現代文学へ、また古語から現代語への体系的、論理的研究につとめて、清新な学風の確立をめざし、かつ、日本の伝統文化への深い愛情を母胎とし、思索的で創造性ゆたかな女性、時代と社会にまじめに奉仕しようとする愛と知性ゆたかな近代女性を育成することを念願としている」とあるが、昭和四十年に、国文学科の四年生39名を対象とした調査では、「職業につきたい」と答えた者は6名にすぎず、29名は「つかない」と答えている。社会へ乗り出していく女性はほとんどいないのである。
 時代と社会にまじめに奉仕するということが、どういう意味であるのか、ここの女子学生はどう考えているのだろうか。もちろん、時代と社会に奉仕する女性という表現は非常に抽象的で、ばく然としている。しかし、妻となり、母となって、夫や子供を通じて、間接に時代や社会の前進に参加することを、時代と社会にまじめに奉仕すると、はたして表現できようか。
 それとも単に、教育目標として掲げているにすぎないのであろうか。大学当局や教師たちは、こんな女子学生を対象にして、こんな女子学生のままに卒業していくのを見ていて、ただ手をこまねいているだけでいいのだろうか、許されるのだろうか。
 甲南女子大学だけでなく、どの大学の入学案内を見ても、みんなもっともらしいことが書かれている。それこそ、すばらしいことばかりを掲げている。「教育」とはそういうもので、現実は理想より遠いところにあるのかもしれないが、大学教育ともなると、問題は違ってくる。現実の問題である。少なくとも、大学とはその目標に近い人間を、それに近づこうと努力する人間をつくる“場”ではないのか。それが、大学教育というものであろう。
 だが、実際には女子学生自身も、四年間に一度ぐらい、大学とはなにか、学問とはどういうことか、学問する自分は今日の社会にどういう意味をもち、どういう意味をもたせなくてはならないかを考えてほしい。大学がそこにあるから受験し、合格したから入学し、講義があるから講義をきいているにすぎない女子学生が多いように見える。
 高校の制服から解放された喜びは大きかろうが、化粧や服装に浮き身をやつしている女子学生が多すぎる。ノートをアクセサリーのように持っている女子学生が多すぎる。人がするから自分もするというのでは、自主性あり、自発性ある女子学生の姿とはとても思えない。
 女子大学は青春を謳歌するところ、大学生活をエンジョイするところと考えている女子学生も多い。それこそ、自分の頭脳で女子大学にはいり、自分の金で女子大学に行くのだから、なにをしてもかまわないではないかというかもしれない。たしかに、女子大学は、ほとんどが私立であり、税金もほとんど使っていないから、そういうこともいえよう。
 しかし、それでは4%の選ばれた者という自覚と誇りはどうなるのであろう。また4%のエリート女性を前にして、ほんとうの意味でのエリート女性に育てぬこうという意欲と情熱は、女子大学の教師たちにはないのであろうか。
 大阪大学、京都大学、東京大学などで、進級できない学生が多数でたことを、世間では歓迎しているようにみえる。学生でありながら、学問をしないような学生には、徹底的にきびしくするのが親切だというのである。折も折、女子大学ではないが、女子学生が文学部の90%以上もしめるという学習院大学で、卒業できないものが10人も出たというので、週刊誌の格好の記事になった。
 どうして卒業させてくれないのかと、大学にねじこんだ娘と母親があったということで、さすがの週刊誌もあきれているが、全体の空気としては、むりをしてまで大学に入学した女子学生を笑っている。花嫁の資格をとるために大学に入学した女子学生を冷笑しているにすぎない。落第させるような大学に入学した見通しの悪さを気の毒がっているにすぎない。
 そこには、女子学生の能力を極限まで育てようと試みる大学への期待もなく、また大学生でありながら学問をしない女子学生に対する大学当局の態度に、拍手喝采を送るというのでもない。
 要するに、大阪大学や京都大学の男子学生とは違う見方をしているのである。いってみれば、女子学生は、世間から甘やかされているのである。もちろん、大学からも大学教師からも甘やかされている。どうせ、女子学生の能力はたいしたことはないのだからと、きびしい要求も強い期待ももたれないのである。これが現実である。

 

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  女子大学に望まれる情熱

 「試験に強いから男子学生を排除して入学する。語学には強いから成績もいい。だが、女子学生は視野も狭いから、大きく伸びないうえに、本気になって研究しようという欲求がないから、卒業してしまうと結婚してしまうのでがっかりだ」というのが女子学生を教えた大学教師の定説である。それはほんとうであろうか。
 大学の講義の批判は、あとでするつもりだが、こういう意見をきくたびに、私には疑問がおこってくる。はたしてほんとうだろうかと。そこには、大学当局なり、大学教師がどんな女性を育てようとしているか、女性の能力というものをどうみているかということが、あらためて問題になり、重要になってくる。はたして大学当局なり、大学教師は、女子学生をほんとうに自覚した女性に、パイオニア的女性に育てようとしているのであろうか。そういう人間に育つような講義なり、人間的接触をやっているのであろうか。
 たしかに、男子学生には、自覚した学生、学問する学生が女子学生に比べて多いかもしれない。より深く、現代と自分について考えている学生は多いかもしれない。しかし、そこには、卒業すれば就職しなければならない運命、妻や子供を養っていかなければならない運命がまっている。条件のいい所に就職しようとすれば、自然、いい大学に入学し、いい成績をとらなくてはならなくなる。そのぎりぎりの運命にさらされている間に、自覚が生まれ、現代と自分について深く考えるようになる。
 女子学生が女子短大を卒業し、あるいは女子大学に入学するのも、化粧や服装にうちこんで、自分をみがきたてるのも、条件のよい結婚をしたいためではなかろうか。男子学生がいい就職をするために勉強するのと、女子学生がいい結婚をするために、必死になって花嫁の資格をととのえるとは同じではなかろうか。
 女子学生より、男子学生がよく勉強したからといって、少しも称賛はできない。女子学生が無自覚に過ごし、現代と自分との関連性について真剣に考えないのも、ある面ではむりはないともいえる。それだけ、女子学生は自覚しにくいのである。自覚させにくいのである。
 大学当局なり、大学教師が、自覚した女性、パイオニア的女性を育てようとすれば、男子学生以上に苦労するであろう。しかし、女性の能力を極限まで開発してみるという仕事が大学教師の仕事であり、大学教育であるはずである。つねに、女性の未知なる能力に挑戦し、その開発を試みることは、大学教師が当然なさなければならぬ義務でさえあるといえよう。
 試験だけに女子学生は強いというが、それはそんな試験をしている大学教師の怠慢である。語学に強いからといって、いい成績をつけるのは大学教師の不見識である。まして、女子学生のなかに、自発的要求をひきおこさないでいて、途中で研究をやめてしまうと嘆くのは、まったく本末顛倒である。学問する喜びを知った者には、途中でけっしてやめることができないものである。いわゆる成績がいいということと、学問する喜びを知ることとはまったく別である。仕事する喜び、創造する喜びをほんとうに知ったものは、途中で投げだすことはない。
 女子学生は視野が狭いというが、視野が広くなるように教育されたことがあるのだろうか。視野の狭いのは男子学生にもいえる。相対的に、女子学生に多いというだけである。
 女子大学の教師として、自分の研究だけをやり、教育をやらないとすれば、それは大学教師として失格である。教育するためには、研究は欠かせないし、研究をやっていなければ教育はできない。それが、大学教育というものである。
 そのように考えてみるとき、現在の女子大学の教師は、あまりにも失格者が多いのではあるまいか。それがそのまま、女子大学の悲劇となっているばかりでなく、女性を不幸にし、ひいては男性を不幸にしている。
 毎年、約四万人(それは年々増加するであろうが〕のエリート女性を育てていくならば、歴史の進歩はすばらしいであろう。自分で感じ、自分で考え、自分の足で歩む人間を四万人も育成していく。津田梅子のいったように、戦争の準備をずうずうしくも平和のためにやるんだというような男どもも、こういう女性がどんどん社会に進出してくることで大いに脅威を感ずるであろう。やや皮肉にいえば汚職などもうんと少なくなるのではないか。男子学生の行く大学を荒らすな、男性の職場を荒らすなというが、むしろ無能で、いいかげんな男性をどんどん職場から駆逐すればいい。それこそ、男性が男性ということで甘えている態度をたたきなおしてやればいい。能力ある者が働くことで、生産もあがり、能率もあがろう。
 その意味では、津田塾大学、女子美術大学、日本女子大学、東京女子医科大学、東京女子大学、自由学園が創立者の思想を思いおこして、沈滞し、停滞した女子大学の教育に、三たび、新風をまきおこしたらよい。女子短期大学を付設している大学は、それを別科に編成がえするぐらいの情熱をもって、あるいは、女子短期大学はすべて教養学部として、教養科を徹底的に教育するぐらいの情熱をもって、大学教育の充実に取り組むとよい。
 そうすれば、他の女子大学にも、自然にいい影響をおよぼすであろう。それが、女子大学の生きる道でもあろうし、ひいては、女子短期大学が生きてくることにもなるのである。でなければ、女子大学や女子短期大学の数はますますふえても、女子大学や女子短期大学は、質的に衰亡していくことになろう。内容のない女子大学がふえるということは、文化国家とはまったく無関係である。

 

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  自覚に乏しい女子高校生

 四年制大学にいく4%の女子学生は、能力的には、一応エリートの資格をもっているということを論じたのであるが、女子短期大生をふくめても、同一年齢にしめる割合は10%にしかならず、男子学生の22%に比べると格段に女子学生数は少ないといえる。10人に一人の割合にすぎない女子学生が大学教育をうける資格と能力がないといえば、文化国家を志向する国として、民主的社会における民主的人間を育成しようとした国家として、非常に寒々とした気持ちにさせられるが、学力あり、能力ある子供が高校にいくとはかぎらず、まして学力あり、能力ある女子生徒が必ずしも大学や短期大学にいくとはかぎらない現状からすれば、10%のなかには能力の低い、学力の浅い女子学生がかなりまじっているとみなければならない。
 ことに、女子生徒と違って男子生徒の場合は、親や本人も、能力あるとみれば、かなりむりをしても大学に進学させ、また進学しようとつとめるが、女子生徒の場合は違ってくる。それに、まだまだ妻となり、母となる者には学問はそれほど必要でない、かえって邪魔だと考えているような空気も強い。
 昔の女子専門学校や今の女子短大、女子大学のような学校を卒業しても、中途半端な知識、生半可の知識を身につけたものは、たしかに不幸になるケースも多いかもしれないが、ほんとうの知識、深く広い知識を身につけた、人生や社会についてもそれなりに透徹した知恵をもった者は、人生において不幸になることがない、落伍者になることがないということを知らない。人生において、自分も幸福になり、夫や子を幸福にすることができるのは、むしろ、深く広い知識を持った人であるということを知らない。
 そのために、むりをしてでも大学にはいり、自ら考え、自ら学ぼうという態度が、女子生徒自身にも、その親たちにもみられない。だから、ともすれば女子大学や女子短期大学にはいる学生は、学生生活でなく、学生という身分をただエンジョイしようと考える者が多い。親たちも、大学そのものに少しも期待せず、せいぜい、事故がなく、嫁入りの資格をとってくれればよいと願う。結婚したら、夫や子供にしばられるから、せめて、娘時代をのびのびと過ごさせてやりたいと思う。
 こうして、多くの女子高校生は、ばく然と女子大学に入学するのである。このように考えてくると、女子学生は同一年齢人口の10%にしかならないが、エリートになる資格も能力もまったくないのが相当数まじっているということになる。
 学力があり能力があるからといって、お茶の水女子大学や奈良女子大学、津田塾大学、東京女子大学などに入学したからといって、少しも喜べない。学校秀才にありがちな、ただなんとなく進学した、高校や家庭のすすめで進学した、友人が進学するからくやしいから進学したというのが案外に多いのである。奈良女子大生の調査でも、20%近くがそういう学生である。
 こういう女子学生にかぎって、学校の成績はいいが、学問とはなんなのか、女子学生とは現代においてどんな役割を受け持っているのかということを、一度も自分自身でほんとうに考えてみることのない学生である。それでいて、奇妙にいろんなことは知っている学生である。それこそ、学問とはなにか、女子学生とはなにかについて、一応意見らしいことはいえるのである。こんな女子学生はかえって始末がわるいものである。
 それはさておいて、エリートになる資格も能力もないような女子高校生が10%の仲間入りをしていることは、女子高校生がどういう過程を経て、どんな入学試験を通過して、女子大生になっていくかということをみればはっきりする。

 

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  女子大と高校の奇妙な関係

 十月ともなると、全体のわずか二割ぐらいを除く女子大学、女子短期大学は、高校生を対象に、学生募集にのりだす。十月だときいて、それは一月の誤りではないかというほどに、早い月である。
 十月ともなれば、大学や女子短期大学の教授、助教授は、カバンに一杯、大学案内をつめこんで、セールスマンのように高校を順々に歩きまわる。
 「この時ほど、みじめな気持ちになることはありません。最初の一日、二日は書物とか、書きかけの論文をカバンに入れてもち回りますが、とうていそれを読んでいる気分ではありません。進学係の先生を前にして、不遜であってもいけませんし、丁寧すぎてもいけないんですね。そこは、それ、呼吸なんです。平生、楽をしている罰かもしれませんが、ほんとうにいやですね」と、女子大学に勤めるある大学の教師は語ってくれた。そういう彼の言葉に、やりきれないという実感がみちあふれていた。
 しかし、それを迎える高校教師の側は、まったく手なれたもの。「大学の先生ともなれば、研究ひとすじにやっていればいいと思っていたが、私のような若造にまで、ペコペコと頭をさげているのを見ると気の毒になります」と、ちょっぴり同情をしめしながら、女子高校生がどんなにして女子大学を選び、どのように入学していくか、また、女子大学にどのようにして劣等生に近い生徒をはめこんでいくかを話してくれた。
 「うちの高校で、女子大学や女子短期大学にはいる三分の一は、ハシにも棒にもかからんような生徒ですね。高校生の七割までは、高校の学習過程を理解できる能力がないといわれる現在でありますから、むりもないと思いますが、そんな学生をいれて、大学では、どんな教育をするつもりなんでしょうね。
 そんな生徒をそのままにして送りだす私たちも私たちですが……。四年制に入学する者も二年制に入学するものも、学力ではあんまり差がないということです。一流といわれているような女子大学は別として、募集にくるような女子大学は短期大学とあまり差がないと思いますね。
 どんな大学を選ぶかというと、一言でいって、かっこいい名前の大学を選ぶといえます。名前のわるい大学は敬遠されるし、自分たちの住んでいる都会よりも大きい都会にあるということが第一条件ですね。家政学科に入学するくせに、家政という字のついた大学は嫌いますし、家政学科としてはいいからと勧めても行きたがりません。こんなところに、今の女子高校生、女子大生に、家政学科を敬遠する気持ち、家政学科を蔑視する気持ち、あるいは、家政学科は学問じゃないという気持ちが働いているのかもしれませんね。そのくせ、家政学科へいく生徒は実に多いんですね。奇妙なことです。大阪、神戸、東京とか、地名だけのついた大学が喜ばれますが、それに文化とか、なんとかついた大学はだめですね。
 クラブ活動なども、意外に女子高校生の心をひくようです。自動車部やタイプ部、ピアノ部などは歓迎されるようですが、入学案内の写真に、タイプが三台とか、ピアノが一台しか写っていないのはだめですね。
 昨年だったか、『この写真には、タイプが二台しか写っていない。こんな大学にははいりたくない』というのを、納得させて入学させたのですが、実際に二台しかなかったといってぼやかれました。女の眼って、案外するどいし、大学側もそれを承知していて、なるべく多くに見えるように写真をとっているのです。建物がりっぱだということも、選択の重要な要素ですね。
 どういう教授がいるかということは全然問題になりませんし、学科目にしても、先生や父兄にいわれてきめるくらいで、本人の意志はまったくないのですからね。といっても、そういう生徒にしか教育できなかったのは、私たちですが……。要するに、成績ということだけで、自分のやりたいこと、興味のわくこととはまったく関係がないんですね。この学科が高校で比較的成績がよかったから、その学科を大学でやるというにすぎません。まして、自分のすべてをかけて、なにかをやってみようというものはほとんどありません。女子高校生が大学に入学するのをみていると、要するに、それだけなんですね。彼女たちは、いい大学にはいるか、わるい大学にはいるかということはまったく問題でなく、ただ女子大生になれるということを無条件に喜んでいるというふうです。だから、かっこいい大学の名前と、かっこいい建物とを選ぶのですね。
 大学側が、彼女たちの要求に応ずるために、一生懸命、美しいパンフレットを作り、りっぱな校舎を建てるのもむりはありません。こういうのをみていると、女子学生はお客さんであり、女子大学というところは、講義そのものでなく、建物や名前を売っているお店という感じです。しかし、建物や名前で、お客をひきうけても、結局、安い品物、良い品物を売らないと、お客は自然遠ざかりますが、品物を売らないで、建物と名前だけでひきつけているというのだから、女子大学というのは、まったくお化け同様です。今どき、こんな商売ができるというのは、ほんとうにおかしいことだと思います。
 大学から学生募集にやってくる先生は、よく調べています。今年の卒業は何名、昨年、一昨年生徒の卒業は何名で、どこの大学に何名、どこの女子短大に何名ということまで調べている。これまでに関係している大学の教師は、今年は何名まわしてほしいとか、もう少し、学力のある生徒もまわしてくれとか注文し、はじめての大学では、一名でも二名でもいいからまわしてくれないかと頼みます。
 私たちも、そこはかけひきですから、この女子大学と関係しておいたらよいと思ったら、生徒をまわすことを約束する。しかし、その時、できる生徒にできない生徒をだきあわせて、必ずとってもらう。そのため、できる子供とできない子供が、いっしょにはいるという奇妙なことがおこってくる。もちろん、生徒にはそんなことはいわないから、できる生徒は、あの人も試験にはできたんだろうと考えるらしいのです。
 その場合、この大学と関係をもった方がいいか、だめかという判断の基準になるのは、その先生の服装であり、車にのってくるかこないかということです。
 どういう教授がいるか、それを基準にして選ぶということは、共学の大学、それも一部の大学にしか通用しない理屈で、募集にくるような女子大学や女子短大は五十歩百歩ですし、業績が世間に知られているような教師も女子大学にはほとんどいない。とすれば、裕福な女子大学ほど、学生から寄付などをあまり多くとらないという判断ができるし、いい服をきているのは、一応月給が高いとみるわけです。不思議とそれがあたるから、おもしろいと思います。
 女子学生の裏口入学というか、お金を出してはいるのは、私の取り扱ったのでは、最高10万円までです。女子学生の場合、男子と違って、どんなことをしてもその大学に入れようということがないから、男子のような50万円とか、80万円という話にはぶつからないのでしょう。
 普通、一番多いケースは、一次試験を書類審査する過程で、一口三万円ぐらいから、三口九万円ぐらいを出させるやり方です。何口寄付すれば、一次試験合格といってくるのです。良心的といえば、たいていそれを高校教師のところへいってくることでしょうか。生徒には知らせないために、娘の学力を客観的に評価できない親のところには、けっしていってこないというやり方です。
 あまり、いいとはいえないが、だいたい、妥当な金を出して、入学の権利を買っていることになりますね。ただ、そのことを生徒自身が知らないために、本人は、自分の力で入学したと思っていることです。まったく、奇妙なことなんですが。
 ぜひ、娘をあの女子大学にいれてくれと頼まれて、あの手、この手とつかって頼みまわることもあります。もちろん、大学にも、何回も足を運びます。ほんとうに苦労することがあります。でも、こんな苦労も三分の一のものにかぎってですが。」
 こう語る教師の表情には、いつか、苦悶の色がにじみでていた。そのために、金の面での、高校教師と大学側、高校教師と親との関係は、つい聞きそびれてしまった。また、誰にでもきけることでもなかった。いずれにしろ、女子大学、女子短大に入学する女子学生の程度はかなりわるいということがいえる。こういう女子学生を前にして、大学の教師がほとんどサジをなげるのもわかる気がする。しかし、それだけではすまされない。こういう女子学生を人間として、社会人として鍛えてやってこそ、大学の教師としての務めがはたせるのであるし、そこに教育者としての誇りと喜びがあるのではなかろうか。

 

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  大学の権威をとりもどそう

 ある高校教師は、大学の各県にある同窓会支部長が、相当部分に入学合否の鍵をにぎっているとも語ってくれた。そうなると、支部長を中心に、金がそうとうに動くとみてよいだろう。この教師は、大学にはいる者の三分の二は、大学教育をうける資格も能力もないといいきる。そうなると、女子学生の程度はますます悪くなり、10%の女子学生の半分以上が、大学教育の不適格者ということになる。入学希望者を全部入れる高校と同じように、定員が足りないために希望者を全部入れる女子大学、定員まではどんなに学力がなくても入学させる大学があるのだから、女子学生の程度が悪くなるのもむりはない。
 金さえ出せば、誰でもはいれる大学も多いとしたら、いったいどういうことになるのであろうか。
 「女子大学では、50万、80万円ととって、裏口入学させることができない。それほど市場価値がない」と、いかにも残念そうに語る女子大学の教師に、私は何人も出会った。月給がやすいために、そんなことをいわなくてはならない教師も気の毒だが、こういう大学に学ぶ本人、こういう大学にいかせる親はなにを考えているのであろうか。
 なにも考えていないといってしまえばそれまでだが、あまりにも本筋を忘れた女子大学、女子学生ということになるのではなかろうか。大学の権威、誇りがないというばかりでなく、大学にいくということが、不正になり、大学はその不正を行なう人間を育てていることになる。人生の意味と価値を追求するかわりに、また不正を憎み、不正とは同居できないという若者らしい人間を作るかわりに、不正を歓迎する人間、不正に対してなんにも感じない人間に育てている。
 大学という権威にかくれて、真理を追求する者という言葉にかくれて、真理とは真反対の道を進み、不正が平然と行なわれる。学問という名にかくれて、もっともきびしかるべき生き方から離れて、怠惰な生活をさせるということは、どう考えてもおかしい。許されるべきことではない。大学の雰囲気には、少なくとも、学問に誠実であり、人生に真摯な態度がなくてはならない。それが学問の園に最低限度要求されるべきものであり、大学とは、本来そういうきびしさが主張されるべきところである。
 人びとは受験地獄のために損われる人間性や能力、学力については非常に心配するが、大学入試の不正で損われる人間性のこと、学問や人生の前に怠惰になること、真摯さを失うことを憂える人はほとんどいない。過酷な競争のために損われる人間性と少しも変わらないほどに重要な意味をもっているということを、なぜに人びとは知ろうとしないのであろうか。考えようによっては、学問を軽視し、不正を許容する姿勢は、なににもまして恐しいともいえる。
 大学が大学の権威をとりもどすために、学問そのものが正当に評価され、人生に真摯さをとりもどすためには、大学受験をきびしく、まともに実施することである。文部省は道徳を教えることよりも、大学教育の姿勢を正すことが先決であろう。それこそが、ほんとうの道徳教育になろう。
 昭和四十一年三月の入学試験で、短期大学から昇格した新設の広島文教女子大学は、定員100名に対して、100名をこえる志望者があったにもかかわらず、学力がないということで、40名あまりしか入学許可をしなかった。これは週刊誌などにも取りあげられ、大学側の毅然たる態度がほめられたものである。しかし、一部のものは疑問をいだいた。つまり、付属の高校を卒業した者は、ほとんどそれまで短大にはいれたのに、大学になったとたんに入学できなかったのである。短大から四年制大学になっただけで、いっペんにそんな内容が高度になったとはとても思えない。なかには、受験料かせぎの補欠募集をやろうとしたのだとか、名を売ろうとしたのだというものさえいる。
 いずれにせよ、こういう形で大学受験を正したのでは意味がない。

 

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  混乱している学力観

 ただ、高校教師たちのいうように、三分の一、あるいは三分の二はハシにも棒にもかからない、大学教育を受ける能力や学力がないといっていることを、無条件に肯定することはできない。どれだけの学力、能力が大学教育をうけるに足るといえるか厳密にはわからないことだし、その教師たちも反省しているように、高校教育が学力をつけなかった場合もあるし、なにかに興味と関心がわきおこるように教育していないこともある。
 また、大学教育というものを画一的に考えているということもあろう。極端にいうなら、中位の能力、学力だとして、それにふさわしい大学教育があるはずだし、人間として、社会人として、必要な知識、必要な自覚と姿勢をもたせるという大学教育も必要である。必要どころか、文化国家においては、すべての国民が一人一人、自分で考え、自立していくためには、そういう大学教育が、どうしても必要である。
 そういう教育が、高校の段階でできるならよいが、そういう能力と学力の人こそ、時間をかけて、たっぷりと考えさせ、学ばせる必要があるというものである。人間として、社会人として、精一杯考え、精一杯生きる、職業というものに、自分のもてる能力のかぎりをつくして取り組むという姿勢をもたせるためには、劣った能力、劣った学力のものにこそ教育が必要であり、そうしてこそ教育が生きてくるのである。
 それが、文化国家の文教政策というものである。二分の一、三分の一の能力のない女子学生、学力のない女子学生を収容している女子大学、女子短期大学は、人間改造のチャンスをもっているといっていい。
 それに、繰り返していうが、現在の高校の学力とか能力とかいうものほど、多く信用できないものはない。人間として、社会人として必要な能力、学力を、小学校、中学校、高等学校はほんとうにつかんでいるとはいえないからである。今でこそ、教師は世間知らずという者は減ったろうが、つまり、昔の教師は、世間に通用する、世間に必要な人間の能力、学力がなんであるかをあまりにも知らなかったのである。そして、その傾向は今もつづいている。教師が評価している能力、学力は、せいぜい、自然科学の世界か、学者の世界のものである。
 それで画一的にわりきられる子供たちこそ気の毒である。そういう能力観、学力観の混乱、それから逃がれるために、教師たちは、従来の学力観、能力観に必死にすがりついて、試験、試験と子供たちを追いまわしているといえる。
 ほんとうに社会で通用し、社会で必要な能力、学力とはなにか、どうすれば、その学力、能力を調査しうるかを検討して、大学入試をあらためる時期にきている。そして、能力、学力の劣っているものも入学させて、人間として、また社会人として、最低必要な知識、必要な自覚、必要な姿勢は、どうすればもたせることができるか、どんなカリキュラムによってそれは可能かを究明してみる時期にきている。
 それが、あらゆる人間を人間として、社会人として生かしていく大学教育であるし、大学教育というものは、そういう実験に挑戦してこそ大学教育といえる。付属小学校、付属中学校、付属高等学校が大学の教育学部、学芸学部にだけあって、知識の教育、人間の教育について研究してみるだけではふじゅうぶんである。大学の段階でこそ、人間の完成をめざして、思いきった実験的教育をやってみるべきである。
 そして、それをやるためには、まず、入学試験から思いきった改革をやってみることが必要であろう。

 

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  低い合格点は教えている

 入学試験といえば、女子大学、短期大学で、入学試験をするのは、定員以上の入学希望者をふるいおとすためのめやすにするためである。その場合、大学での講義を理解するための限度として、何点以上は必ず必要だということで入学希望者の学力を調査しているのではない。
 昔は、何点以上とらないと、定員にみたなくても合格にはしなかったものであるが、今はどこでも定員をとっている。なかには、定員どころか、定員の二倍、三倍、しかも、学力のない者を入学させてけろっとしている。
 もちろん、大学での入学試験で正確に学力を評価できたということもできないが、とにかく、大学がその大学教育に必要な学力として評価する以上、一定のものがなくてはならない。しかし、大学当局は試験をやりながら、そのことを少しも考えようとしないで、定員、あるいは、それ以上を学力に関係なくいれる。
 実は、そこに女子大学や短期大学の堕落と荒廃がはじまる。点数に関係なく、女子大学が学生を入学させているかぎり、その荒廃はとどまるところを知らないであろう。
 昭和四十一年一月発行の『蛍雪時代』によると、女子大学のうち、三島学園女子大学、東京女子体育大学、日本女子体育大学、中京女子大学、名古屋女子大学、光華女子大学、梅花女子大学、聖和女子大学、帝塚山女子大学、九州女子大学など、約六分の一の女子大学は四割から五割をとると入学できるといい、東北女子短期大学、聖和学園短期大学、宮城学院女子短期大学、桜の聖母短期大学、茨城キリスト教短期大学、和泉短期大学、東横学園女子短期大学、日本女子体育短期大学、宝仙学園短期大学、仁愛女子短期大学、すみれ女子短期大学など、約五分の一の女子短期大学は、三割から四割とれば合格と書いている。
 女子大学の六分の一、女子短期大学のうちの五分の一は、すべて、このぐらいの入学試験をパスすればよいのである。合格の最低点を書いていない大学も多いから、実際には、こういう大学に類するものはさらにふえるはずである。ことに、家政学科がわるい。大学それぞれで、入試の問題は違い、難易度はあるにしても、これでは、あまりにもひどすぎるのではないか。こうした学生に大学教育をうけうる能力があると思っているのだろうか。
 普通クラスの大学は、六割をとらないと合格できないと一応きめているが、それにくらべて、あまりにも悪すぎる。こういう女子学生を入学させて、大学生として、どんな教育をほどこすのかはじゅうぶん究明すべき問題であろう。

 

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4 女子大生の生活

  女子大生は訴える

 同志社女子大学、相模女子大学、昭和女子大学、共立女子大学短期大学、東洋英和女学院短期大学を、それぞれ、今年(昭和四十一年)三月に卒業した女性に集まってもらって、忌憚のない意見を話し合ってもらった。それを、紹介してみよう。
 A「学生生活をふりかえってみて、収穫があったかと問われると、私はマアマアというところです」
 B「私の場合は、全然ない。しいていえば、女子大って、大学も教授も学生もいかにくだらないかということを知っただけ」
 C「でも、そのくだらないということがわかったのも、一つの収穫じゃない。くだらないと批判できるようになったのも、学生生活を送ったからといえないかしら」
 D「そういえば、学生生活のプラスはうんとあったわ。人生について、恋愛について、学問について、私たちなりに精一杯議論しあったわ。なに一つ、結論らしい結論はもてなかったけど、ほんとうに楽しかったわ」
 B「今は、大学から、教授から、なにを得たかということをいおうとしているのでしよう。私は、まず大学を、教授を弾劾したいのよ。憎しみすら懐いているのよ」
 E「私の場合も、Bさんに近いわ。教授ってほとんどが、はじめから、私たち学生を信じ、私たち学生に期待していない。どうせ、花嫁資格をとるためにきたお嬢さんたちと思っているの。これは、けっして、私の被害妄想ではないと思うの。私たちに、真剣に教えてもしかたないと思っているの。くやしいったら、ありゃしないわ」
 A「そんな学生が実際に多いんだから、いちがいに、先生ばかり責めることはできないと思う。大学というところは自分で求め、自分で学ぶところなんだから」
 B「そういうけど、そんな学生を入学させたのは、先生たちだわ。そんな学生を教育して、一人前の大学生にしあげるという自信もなしに、入学させたとしたら、まったくナンセンスだわ。大学へはいった意義がないわ」
 E「そうだと思うわ。試験はしてもいいんだが、採点する時間が惜しい。自分の研究の時間がとられるからというの。まったく暴言だわ。たしか、一年生の時に20人ぐらいの先生にならったけど、“話しにきたまえ”といってくれた先生は一人しかいなかったわ。比較的良心的に講義をする先生でも、遊びにいっていいかというと、なんとかかんとかいって、遠まわしにことわるわ」
 私「学生接待費に年間五千円を、全教師に出している女子大学もありますね」
 E「それはほんとうにいいことだけど、大学当局は機械的に、教授と学生を接触させようとしてもだめだと思うわ。問題は教師の人柄と姿勢にあるんだから」
 私「そういえば、教授に相談にいく学生は少ないですね。私が、接待費を出している大学について調べてみて、驚きました。39人の学生のうち、少しはすると答えたものは8人で、30人の人はほとんどしないという解答でしたからね」
 C「女性が職業につくのはくだらない。家庭にいればよいんだと、明らかに考えているような教師もいます。そんな教師に教えてもらう自分をつくづくといやだと思ったことがあります」
 B「そんな教師の講義をきく必要はないんじゃないの」
 C「そうはいっても、必須科目の場合はとらなくてはならないし」
 B「そんな大学、やめてしまえばいい。ほかの大学にいけばいいと思っても、女子大学は五十歩百歩だときめて、私自身、四年間もがまんしたんだから、なにもいえないわね」
 E「Dさんはどうなの」
 D「私は、大学の収穫はチョツピリというところね。先生たちが思いきり教育してくれて、これでもか、これでもかと鍛えてくれればいいと何度か思ったものだけど。私たちも、若いんだから、自分の力の可能性をためしてみたいという野心はあると思うし」
 A「そうだとしても、女子学生はほんとうに無気力だと思うわ。生きているのか、死んでいるのかわからないような人ばかり。女子学生があらわに感情を表情にあらわすときは、試験の時ぐらい。大学生になっても、試験の結果に一喜一憂している。結構、先生の話には、参考になるところが多いわ。ただ、学生がそれを吸収しようとしないだけだわ」
 D「服装や化粧にばかりこって」
 B「Aさんがいうように、たしかに、学生はだらしないわ。なんのために、大学にきたのかわからない人たちが多いわ。でも、けしからんのは、それをいいことにして、そういう学生をそのままにしておく大学と教師だと思うの。
 うちの大学なんて、そりゃひどい。授業といえば、選択できる科目はほとんどなく、高校のように、学校がお膳立てした授業をうけるだけ。教室はマンモス大学のように、大教室に何百人といるわけではないけど、座席がきまって、座席カードは、いつも教壇においています。遠足、見学、講演会も授業の出欠に換算されます。遅刻は三回で一日の欠席になります。
 がまんがならないのは、週二回、朝礼があることです。それがまた、出席カードを提出するようになっています。大学生の自主性、大学生としての人格は全然認められていないのも同じです。学生自治会はあるにはありますが、真の意味の自治会とはまったく縁遠いものです。それは、学生一般が認めることです。新聞もあるにはありますが、学生の手はほとんど加わっていません。だから、大半の学生は反感をもっているようです。政治活動が、大学の内外をとわず許されていないということは、いうまでもありません」
 私「そりゃ、ひどいですね。京都女子大学のように、政治活動を禁止されているところは、ちょいちょいあるようですが。といっても、京都女子大学の場合、昭和三十九年十月の新聞に書いていたので、それ以後、許されたかもしれませんが」
 E「私のところは、そんなひどくはなかったけど、高校生なみに扱われてることはたしかね。私は英文学を学んだけど、ついに、英文学のなんたるかはつかめなかったわ。女子学生には、英文学の真髄がなにかを教えてもむだだと思っているみたい」
 C「高校よりも、こまかいことをガミガミいわれて、ほんとうにがっかりした。変な言い方だけど、高校よりも、だんだんと人間のスケールが小さくなっていく感じだった」
 A「大学の先生というのは、教育者じゃなくて、研究者と考えている人が多いのじゃないかと思います。学生を教育することに、少しも魅力を感じていない。それはそれで、いいところもあると思いますが」

 

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  大学への不満

 私「講義の話がでたところで、講義の印象はどうでしたか」
 E「全然不満」
 C「高校時代の延長みたいな講義ばかりだったわ。ただし、一般教育についてだけど」
 B「私の場合、あまりに、平凡、低級なのに驚いたわ。高校より、程度の悪い講義もいくつかあったわ。
 私、真剣に中途で退学することを考えたの。結局、やめはしなかったが、ほんとうにやめようと思わないではいられないほど、ひどいものだったわ」
 D「こんな講義が大学の講義かとはじめはあきれたけど、そのうち、これが大学の講義だとあきらめて、講義にはほとんど出ないで、下宿で寝ていたわ」
 B「出席の方は?」
 D「私の所は、代返がきくので、少しも心配いらないわ」
 A「そういえば、一年に二回しか受講しなかったという人が、私のクラスにいました。講義に出ないで、なにをしているかといえば、映画、デートをしていたけど」
 C「一般教育について満足した人は、一割もないんじゃないかしら。専門教育はマアマアだけど、一般教育の講義になると、そりゃ、ひどかった。でも、うちの大学だけではなかったのね」
(笑い)
 A「三分の一ぐらいの人が、ノートをとっていなかった。ノートをとった人も、下宿を移るときに、古本といっしょに売ったり、下級生にやっていました」
 B「二度と読む必要はないと考えたもん。とても、二度読める内容じゃないものね」
 C「先生の態度に、きびしさのないのもいやだったわ。ガヤガヤさわいでいても、まったく注意しない。私はしゃべりたいことをしゃべるだけだと、平然と講義をしている。聞かない学生は、教室から追いだすくらいのことはあってもいいと思うわ」
 D「考え方の基礎を養うというか、思考方法を訓練してくれる講義なんて、まったく期待できないわ。単に、いろいろの知識をつめこんでくれるだけだわ。試験では、それを暗記するだけ」
 私「社会学では、社会的存在としての自分を自覚させてくれるような講義はなかったのですか。社会的存在なら、そこに政治が必要なこと、政治活動がなくてならないことを教えてくれることはなかったのですか」
 B「それを教えるぐらいなら、学校が学生の政治活動を禁止したりしませんわ。社会学者でありながら、一番肝心なことがわかっていないんですわ」
 E「私のきいた歴史学の講義など、ほんとうにくわしいんだけど、歴史は現代を知り、現代を創造するために学ぶんだということは全然教えてくれなかった。もちろん、これは、ほかの書物を読んで知ったことだけど」
 B「人間が歴史的存在として、歴史を創造していったことも。そこには、理想と情熱と感激のあったことも」
 私「皆さんは女子大学に学んだ女性として、古き時代の女性は、いかに男性に隷属したか、また、従順がたっとばれたか、それから脱するためにどんなに苦難の道を歩んできたかを教えてもらいましたか
 A「全然ありません」
 C「私もないわ」
 D「先生は、私たち女性が自覚するのをこわがっていたみたい」
 B「私たち女性は今も戦っているし、これからも戦わねばならないというのに」
 E「ああ、いったい、大学で私たちはなにを学んだのかしら」

 

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  サークル活動に活路

 私「そんなに悲観してばかりいないで、少しはいい面も話してください。友だちと議論するチャンスに恵まれてよかったとか」
 D「サークル活動ね」
 C「大学生活はサークル活動ということにつきると思うわ。自分で考えてみるということのなかった講義だけど、ここでは、お互いに徹底的に話し合ったわ」
 D「堂々めぐりも多かったけど」
 C「それでいいんじゃないかしら。考えた結果よりも、学生には、考えるということ自体が大切なのじゃないかしら」
 D「たしかに、サークルで、いろんな人に会い、人間関係についてとか、一人一人の人間についても考えたわ。学問の重要さについて考えたのも、たしか、サークルだったわ」
 E「サークルに出入りしていたから、私もまあまあ、このぐらいの人間になれたと思うわ。倫理学の講義では学ばなかった、人生について、生きるということについて考えたわ。学問の重要さと、今いわれたけど、学問の意味とか、価値についても考えたわ」
 私「恋愛とか、結婚についてはどうですか」
 E「もちろん、議論したわ」
 C「一番、熱のはいった話かもしれないわね」
 A「議論している人たちはいいけど、議論もなにもしないでずるずると男性と交渉したり、同棲したりしている人も多いと思います」
 B「最低ね」
 E「たしかに、そういう人は多いわね」
 C「三分の一くらいが、男性問題に、多かれ、少なかれ、悩んでいるわね」
 B「悩み苦しんでいる人も多いわ。悩むことを、楽しんでいるような人もいるわ」
 E「そんなのは、あなたの学校にとくに多いといえないかしら」
 B「たしかに、そういうことがいえるでしょうね。それが、良妻賢母主義を目標とする大学の、バケの皮ね」
 C「私の所もそういう人多いわ。感情に流され、感情におぼれてる人がとっても多いの。服装を競うという気持ちは強いが、学問のうえで競うという気持ちはまったくないのね」
 E「結局、人間として訓練されるということが不足しているのかしら」
 A「女子学生は、未開地の獣と同じだと思います」
 私「ひどいことになりましたね。未開地の獣とは」
 A「ほんとうに、そうなんです。私たちは、大学や教授に求める先に、自分自身に強く求める必要があります。水を飲みたくない馬には、だれも水を飲ませることはできないという諺の通りです」
 B「たしかに、それはそうなんだけど」
 A「父からきいた話ですが、昔は、つまらない講義は徹底的にサボって、自分の読みたい本を読んだといいます。時には、その続きが読みたくて、つい徹夜し、人が学校にいく時間になっても、なお読みふけったといいます。感動を友だちと分かとうと思って、夜半に眠っている友人をおこし、三時、四時まで議論したということもあるそうです。
 父はきまって、そんな話のあと、そのぐらい学んでもけっしてじゅうぶんじゃない。悪い奴に敗けて、戦争なんかした馬鹿なんだからねといいます。ほんとうに、自分の身についた知識は、自分でやるよりほかにないと思うんです」
 E「そういえば、学生運動家といっても、そのほとんどは、卒業と同時に、そんなことあったかという顔をしていますわ。知識を身につけるということはむずかしいわ」
 C「高等学校で学んだことを、大学の四年間で忘れるような大学教育をうけていれば、そういうことがいえるわね」
 B「大学教育なんかどうでもよい。要は、自分自身でやる以外にない」
 私「大学や教授になにを期待しますか」
 E「それこそ、大学当局や教授がめざめないかぎり、どうにもならんのと違いますか。期待し、求めても、やれるのは、まねごとにすぎないのと違いますか」
 B「教授と学生をいっしょにして、革命する必要があるのね」
 E「どうやって?」
 B「私にもわからないわ。でも、それが必要なことだけはわかるわ」
 A「クラスを中心にして、大学教育そのものを検討する討論をおこすことです。その結論にもとづいてなら、ストをおこすことも必要だし、私も賛成します。といっても、私は卒業したのでどうにもなりませんが、それが、私の四年間の学生生活の結論でもあったのです。在学生がやるなら、私は全力をあげて後援するつもりです」

 集まってくれた人たちのおもな話を書くと、このようになった。座談会は非常に熱のはいったものだし、一人一人、よく考えてもいた。大学が育てたのか、大学という環境が育てたのか、その環境のなかで、自己教育をしていったのかわからないが、集まった人たちはすばらしかった。その半面、そうでない女子学生も非常に多いということがわかった。
 Bさんがいったように、教授と学生との革命が必要だし、Aさんがいったように、教育の改造が必要である。それが、必要なほどに、女子大学と女子学生は荒廃している。それを、今年(昭和四十一年〕卒業した女性たちが実証したのである。

 

                      <女子大学 目次>          

 

  女子大教師の考え方

 多くの女子学生が、大多数の教授に対しては、ほとんど期待がもてない、絶望に近いものを感じていることは、以上の座談会で明らかになったが、教授の側からはどうであろうか。教授は学生をどのように見、どのように育てようとしているのだろうか。
 ここに、昭和三十七年、学生問題研究所が行なった教師の座談会の報告がある。それからとって、紹介してみよう。出席したのは、お茶の水女子大学のH氏、実践女子大学のF氏、女子美術大学のT氏である。
 お茶の水女子大H氏「サークル活動があっても、私の方は、顧問教官というのがあるのですけれども、名ばかり、というと怒られてしまうのですけれども、現実の問題として名ばかりの万が非常に多いわけですね。そうすると、先生のコミュニケーションもつかないし、それから、補導教官というのがありますけれども、そう活躍しているわけでなく、結局、放りっぱなしにされている。
 学生のリードを考えるだけの大学側の機能がない。大学はアカデミズムを守るものですけれども、先生方にすればたいへんで、うかうか学生ばかりと接触していると遅れてしまうというような心配をもつ。それはよくわかるのですけれども、なにか中途半端ですね」
 実践女子大F氏「多くの先生方は、あまり学生と接触なさっていないものですから、学生の生活面についての理解が少ないわけですね。
 ですから、アカデミズムのところでは、非常に先生方が、ご自分の研究をお持ちになって、どんどんお出しになっておられますけれども、やはり、学生がどういうことを考えているか、どういうことをしているかということについての、そういう方があまりいない。
 自然に、学生を理解することができないんじゃないのですか。そこに大きなくい違いができるのじゃないかと思います。学生の方は、先生との接触というものを強く望みながら、先生の方は理解してくれない。先生の方からも、自分から出向いて行って、いろいろ接してみようというような向きも少ないというのが、女子学生にとって悩みになっているようです」
 女子美術大T氏「意識がちがうといいますか、あわないために非常に失望するのだろうと思うんです。ほんとうの話、学生はあまりいいませんけれども、もし非常にくわしく面接をしてみればわかると思うんですが、先生というものの像に対して、もっと具体的には、テンポがあわないとか、センスがどうもあわないなどという感じを持っているのではないのですか。私なども、一生懸命理解しようとしても、全然ちがうセンスのように思うんです」

 これでもわかるように、女子大学、女子短期大学の教授、助教授、講師といわれるような人びとで、学生に関心をもち、興味をもっている人はたいへん少ないということがいえる。
 H氏やE氏のいうように、アカデミズムの世界では、それなりに評価をうけるような業績を教師たちはやっているのかもしれない。
 しかし、大学教師たる資格はそれだけではすまされない。学究の徒としての業績、教育者としての使命、この二つを見事に調和させてこそ大学教師としての面目をほどこせるのである。今の大学教師は、共学の大学をふくめて、昭和四十年四月現在で、約10万名もいる。この数字は、戦前の中学校、女学校の教員数をオーバーする数である。そしてそれは、大学教師としての質を低下したのではないかという心配よりも、大学教師が増加したことの喜びを、より多くわれわれに感じさせなければならぬ。
 しかし、昔、旧制の高等学校、専門学校の教師は、教育六、研究四の割合で教育を重視したものである。今の女子大学、短期大学の教師は大学の教師になったということで、変に、アカデミシャンを装って、教育というものをほとんど無視、あるいは軽視している。なるほど、旧制の大学生は比較にならないほど少なく、学問することがそのまま教育になりうるような学生たちが多かったし、そのうえ、高等学校、専門学校の段階で、その教師から人間的感化、思想的感化をうけ、それなりに生きていく姿勢、学んでいく姿勢をうけとめることができた。
 今の高等学校では、試験に追いまわされて、例外的な学校、例外的な生徒の場合を除くと、生きていく姿勢、学んでいく姿勢を学ぶということはほとんどない。当然、一般教育をうける大学の教養学部で、それを学ばなくてはならないことになるが、H氏、E氏のいうように、多くの大学教師には、その関心と興味がない。一般教育といって、高校の延長のような講義でごまかす大学なら、学生は絶望するほかいたしかたないということになろう。

 

                 <女子大学 目次> 

 

  みじめな大学教師

 学生も気の毒だが、学生に見捨てられた大学教師もみじめそのものである。大学の教師でありながら、大学の学生に相手にされない、大学の学生にそっぽをむかれる講義しかできないということに、教師自身が自己嫌悪に陥らないのであろうか。絶望しないのであろうか。
 アカデミズムの世界の業績という。しかし、その業績も、結局は人間のため、人間に奉仕するための業績であるはずである。人間、直接的には、そのつとめる大学の学生に奉仕し、役立つ学問であって、はじめて生きた学問、血の通った学問ということがいえるのではないか。
 学生に接触していては、時間の浪費であり、研究にとってマイナスだという。はたして、そうであろうか。自然科学のことは知らないから、そのことについてはいえないが、人文科学や社会科学に関するかぎり、研究が進めば進むほど、抽象的世界に奥深くわけいって、ともすると、現実から、現実の人間から遊離しがちになる。知ること、究めること、そのことに興味が集中して、現実の人間を忘れがちである。
 学者の意見がともすると、現実に、現実の人間に有効性をもたない理論になりがちなのも、そのためである。学者がその研究に現実性をあたえ、生き生きとしたものにするためには、むしろ、現実の学生と相交わっていることが必要なのではないか。
 私が専門としている歴史学はもちろん、文学でも哲学でも、また、政治学、経済学、社会学でも、そのことがいえる。いいかえれば、現実を知り、人間を知るための諸科学である。
 学生と接触していたり、学生の問題にかかわっていたら、自分の研究ができない、だめになるというのは、まったく理解できない。学生に接触しないで、学生の問題にタッチしていないでやる研究こそ、意味のないものになるのではないか。
 たとえ、アカデミズムの世界で認められても、それは、学問の本来の性格、本来の使命からいうと、まったくそれたものといわなくてはならない。ともすると、大学の教師は、学問と教育、理論と教育を別々に考える傾向があるが、そのため、世の中の人もそれに影響されて、別々にみている。しかし、学問と教育、理論と教育は本来、統一的にとらえなくてはならないものである。統一しているとはいえないが、統一しなくてはならないものである。
 ということは、理論は、その主体である人間を離れては、現実に生きてこないものであり、現実に生きて働く理論というものは、つねに、その主体である人間と一体になっているものである。一体になっていないときは、そこに自己教育の過程をへて、一体になっていく。人間と一体でない理論は、現実に生きて作用することがない。しかも、主体的にうけとめられた理論、現実に生きて働く理論は、同時に、普遍化し、多くの人々に主体的にうけとめられることを求める。多くの人びとを動かす理論になることを求める。
 理論と教育が統一し、大学教師が研究と教育を平行させるのは、この意味からも、当然だといいたいのである。説明が足りないかもしれないが、ここで、これ以上、論ずることはやめたい。
 しかし、旧制の大学教師が、学問を教えることがそのままに教育になったのも、このような道理によるもの、また、昭和十六年の大学教師が最高の時でもわずか7700人、その7700人の教師には、それがなしえたのである。それに、学生数も5万人しかいなかった。今のように、その学生数の二倍もいる10万の教員に、100万人をこえる学生とは違う。
 大学制度が変容した今日、昔の大学の幻影をそのまま、追うことは許されないし、間違っている。今の大学教師はもはや、昔の大学教師ではないのである。数においてばかりでなく、質においても、そうなりつつある。
 それは、昔の大学教師が、多くて、一週6時間の講義をしたのに対して、今の大学教師は、国立大学でも8時間、10時間というのはざらである。女子大学、女子短期大学ともなると、一部の教師をのぞいて、一週14時間、一16時間と教えている。
 ある女子大学では、最低16時問をもつことが原則とされ、それ以上、一時間もつごとに、八百円とか千円の手当てがでるという。それは、自分の大学の教師が、出張教師、兼任教師となって、ほかの大学に出稼ぎにいくことを押えるために出された対策だという。
 二つ、三つの大学の教師を兼任して、26時間、28時間も講義をし、はなはだしいのは、大学の夜間部、予備校で講義をして、30時間以上も講義をしている人もあるという。こうなると、もう講義しているというよりも、ただかせぎまくっているというしかいいようがない。よほどの人でないかぎり、これだけの講義をしていては、研究する余力はあるまい。高校教師でも18時間もってフウフウいっているのに、26時間、28時間講義しているということはどういうことであろうか。
 16時間もつことを原則とした女子大学などは、教師に、どんな講義を要求しているのであろうか。研究に裏づけられた講義を求めていないのは、明らかである。学生に接触しないのは、自分の研究に忙しい人もたしかにいようが、多くは他の大学とかけもちをするために時間がとれないのである。時間がないのである。研究を理由に、学生に接触する時間がないというのは、口実である。

 

                   <女子大学 目次> 

 

  学生と教師の深いミゾ

 もちろん、大学の給料がやすい、研究費が足りないということも、大きな理由であろうが、なるほど多くの女子大学、女子短期大学は国立大学の教師よりも、二割以上、給料はやすいといわれている。しかし、それは、大学教師として暮らし、それ相当の研究費をもらうように交渉すれば解決できる問題である。
 その金を支給できるようにいろいろと工面するのが、大学経営者というものである。そうしてこそ、質のいい教師を集め、じゅうぶんに大学教育に専心してもらうこともでき、教育の効果もあがろうというものである。もし、大学を経営しているという虚飾のみを求めているとしたら、大学教師は学生といっしょに、その姿勢を正すべく改革の行動をおこすべきである。大学は、誰よりも学生のものであり、学生のためにこそ存在するものである。学問と真理のためにこそあるものである。
 しかし、考えてみると、今の女子大学、短期大学の教師には、それだけの情熱も意欲もないのかもしれない。国立大学の場合、六十二歳、あるいは、六十三歳が定年であるが、女子大学や短期大学の場合、たいてい、定年は七十歳とか、死ぬまでとされている。自然、教授の平均年齢は六十五歳とか、六十七歳になる。平均年齢六十五歳とか、六十七歳になれば、学問にも、人生にも若い時より意欲的でなくなるのは当然である。それでいて教える学生数は多いし、教える時間は多いときている。これでは、教育がうまくいかないのもむりはない。
 こういう教授を前にしては、女子学生も自然消極的になるのかもしれないが、女子学生自身「私たちは意欲的でない。喜怒哀楽がなさすぎる。毎日毎日がありながら、その毎日毎日がないかのように、変わりはないような生活を送っている女子学生が多すぎる」という。
 また、「話しにきたまえ」「遊びにきたまえ」といってくれる教師の少ないことばかりを嘆いている。
 たしかに、女子学生は意欲的でないし、女子学生自身、教師に遠慮しすぎている。昔の大学生といえども、教師を必要としない、教師と接触しない学生は多かった。教師を必要とする学生だけが、教師をとらえたのである。そういう時、学生は教師の個人的思わくを無視して、教師を訪問したものである。
 機会は、学生がつくるべきものであり、現に学生の側でつくったものである。それのわからない教師は無視したばかりでなく、軽蔑したものである。今の学生は、教師にぶつからないで、はじめから無視している者が多い。これでは、なんのために大学に学ぶのかわからない。
 学問をし、真理を求めるということは、あらゆることに優先し、あらゆることに優先させねばならない。そういう信念が学生にはなくてはならない。それこそが、学生の特権であり、無限の自由でもある。だから、積極的、能動的にもなり得たのであるし、消極的な人も学問を追い、真理を求めることでは勇敢になり得たのである。そういう生活があったればこそ、生活に情熱も感動もあったし、なによりも、ともに真理を求めるものとしての共感もあり、喜びもあったのである。
 だが、今の教師と学生は、多くの場合、まったくバラバラであり、ともに求めあうものがない。教師は学生に求めないし、学生も教師に求めない。こんな大学教師と女子学生のわるい関係は、どこかで断ちきる必要がある。断ちきらねばならないと思う。もし、これが民間の企業なら、とっくにつぶれているだろう。つぶれないまでも、こんなに会社の幹部と社員がバラバラなら、そしてよい商品を作らないなら、会社は衰退の一途をたどるしかないであろう。
 いってみれば、大学当局と大学教師の関係は、会社の幹部と社員のようなものであり、学生は商品のようなものである。こんなに悪い商品しかつくらない会社はとっくにつぶれていよう。
 不思議と、大学という会社はつぶれない。しかし、つぶれないにしても、あるというだけにすぎなかろう。このような大学のあり方、現状の醜態を、大学当局と大学教師はいったいどのように考えているのだろうか。現状にただばく然と妥協している教育者の態度に怒りすらおぼえるのは、私ひとりであろうか。

 

                <女子大学 目次> 

 

  正しい家政学科のあり方

 女子短期大学の場合、60%に近い女子学生が家政学科に学んでいるということは、すでに述べたが、女子短期大学は花ざかりというよりも、より正確には、家政学科が花ざかりということである。女子大学でも、10%の家政学を専攻する女子学生がいるとすれば、女子学生における家政学科のしめる比重はたいへん重いということがいえる。
 だから、女子短期大学を中心に、女子大学をふくめて批判するとしたら、家政学科を批判することで、大半の目的は果たせるということもいえるのでないか。
 すでに述べたように、家政学科は、政治、経済、育児、衛生、倫理から、衣食住にいたる非常に広い分野にわたり、とても、一年やそこらでは学ぶことのできる量ではないことは明らかである。とくに学問的というか、自分で疑い、自分で考え、自分で調べるということは、まったく不可能であり、せいぜい、他人の到達した結論を記憶するのが精一杯ということである。
 その意味からでも、大学で家政学科を学ぶということの誤りを指摘したいのであるが、もう少し、家政学科について立ち入って考えてみたいと思う。
 家政学科の中心となるものは、なんといっても、家政学原論であろうが、家政学者という人は、家政学を定義して、
 「家政学は家庭および団体生活の安寧幸福の増進を目標として、衛生、経済、審美、道徳および、法律等の見地より、必要なる原理と実務的方面を研究する学問である」(井上秀子氏〕
 「家政学は家庭生活の本質、意義を究明し、現実の社会的、地理的、家庭的その他の諸条件と見合わせて、よりよく望ましい家庭生活を追求し、創造し、ついでその構成員たる家族全体に対して、生活の三要素が適正に調和を保ちながら、日々の生活時間に盛りこまれ、それぞれの個性の発展と幸福とが最大限度に且つ公平に増進することに役立つ知識、および技術に関する学問である」(松平友子氏)
 「家政学とは、家庭生活ならびに、これに準ずる生活を対象とし、その向上をはかる科学である」(原田一氏)
と述べている。
 もちろん、家政学の定義は、これにつきるものではなく、いろいろの家政学者が、それこそ、いろいろに述べているが、私はこれを読んでいて、いっそう家政学という学問をなぜ別に立てる必要があるのであろうかという疑問がわく。なるほど、家庭生活とか、家庭人というものに焦点をあててはいるが、家庭生活、家庭人に焦点をあわせようとするから、成瀬仁蔵の心配したように閉じられた家庭にのみ、その眼が限定され、政治や経済、社会に眼がひらかれないともいえる。
 家庭生活を中心に考えて、社会学科のなかに家政学を専攻学科として設けてもよいし、政治を中心に考えて政治学科のなかに、経済を中心に考えて経済学科のなかに、家庭経済という専攻学科をおいてもよい。その時、はじめて学問として独立し、学問として発展もしていくであろう。食物学科や被服学科、住居学科は理学部や工学部においてもよい。児童学科は教育学部におけばよい。
 もちろん、総合統一の学問として、家政学科を設けたいという気持ちもわからないではないが、現実には、単なるよせ集めの知識でしかない。結論だけを盗んできたようなものは、とうてい学問としても発展しないし、また、学問ということもいえない。
 二、三の家政学書を読んでみた結論としては、社会学の一分野にすぎないという感じである。四年制の女子大学では、それなりに、児童学科、食物学科、住居学科、被服学科、家政理学科、家政経済科、栄養学科、生活学科、生活美学科などと、専攻をこまかく分類して学んでいるのに、女子短期大学ではそういうことをやっていない。いいかえるならば、女子短期大学の家政学科は、中途半端な雑多知識を与えて、まったくのしろうとを育成しようというのであろうか。どの分野でも、ほんとうには、役にたたない人間を育てようとするのであろうか。
 しかも、家政学を定義するときは、原理とか、本質とか、意義とかいいながら、実際の教育では、原理や本質を追求するものはまったくなくて、ほとんどが技術や技能を中心に教えている。あまりにも、ひどいことといわざるをえない。
 当然、家政学部という名称を残すなら、そのなかから、倫理学や社会学、政治学、経済学がなくてはならないし、短期大学の家政学科も倫理学、社会学を中心に編成しなおす必要がある。そうでないと、家政学そのものの定義にもそむくことになるし、家政学科が技術や技能の学科であるという印象、評価を克服することはできまい。
 家政学が学問であろうとするなら、思いきった処置が必要である。そして、そのために、一番いいことは、短期大学の家政学科は、すべて、別科にすることである。それが、女子短期大学をすっきりさせる早道であるし、大学そのものに、学問をする空気をとりいれる早道でもある。
 それに、理解しにくいことといえば、女子大学や女子短期大学で、家政学原論や家政経済学などの講義をしている教師たちのことである。その人たちは、女子大学で家政学を専攻した人びとでなくて、そのほとんどが、大学で経済学を専攻した男性である。女子大学で家政学を専攻した女性は、家政学者のなかの一握りでしかない。
 しかも、家政学を講義する人たちのなかには、歴史学や商学、農学などを大学で専攻した人たちもいるし、家庭学科という学科にもなると、理学を専攻した人まででてくる。そして、不思議なことには、社会学や政治学、倫理学を専攻した人はまったくないといってもいい。
 社会学に一番近い家政学でありながら、社会学者がいないということも理解しにくいところである。家政学という学問が新しい学問であるために、他の分野から移ってきた人たちだということもわかるが、まったくおかしなことである。
 家政学科の教師が、ほとんど、理学、医学、農学、工学の専攻者であるということも理解しにくいところである。それはともかくとして、家政学者の中心が、他の学問を専攻した人たちで占められるということはなんとしてもおかしい。
 この点からも、家政学を社会学科か政治学科、経済学科のなかの一専攻学科として、女性といっしょに男性も入学させ、家政学者を男性、女性をとわず、育てるようにすべきである。
 アメリカにも家政学はあり、家政学科もあるようであるが、その場合は多く化学者から転向した人たちであり、食物や栄養の方面にひろげていったようである。その場合は、家政学を自然科学の一分野としてやったことになる。日本の家政学も、その定義になると、社会科学的性格が強いが、その教えている内容からみると、自然科学的性格が強く、アメリカの亜流ということもいえる。
 しかし、ヨーロッパには、今でも、家政学とか、家政学科などはないらしい。あるのは、専門学校の段階での家政科、教員養成の段階での家政科だけで、家政学というものはないらしい。したがって、大学でやる学問としての家政学はない。
 私としては、社会学科かその他の学科に属する家政学としてはあった方がいいのではないかと考えるが、現行のような家政学や家政学科なら、廃止した方がよいと考えている。現在のような家政学、家政学科であるかぎり、日本家政学会の人たちが、どんなに学問としての存在を主張しても、学問としての評価には堪えうるようにならないと思う。
 そして、女子大学の家政学部の被服学科、住居学科、食物学科、栄養学科などは別として、女子短期大学の家政学科、その他内容のあいまいな学科があるかぎり、大学の権威はいよいよ失墜し、学生をますます学問をしない女子学生としてあやまらしめ、あやしげな花嫁を多くつくることになろう。
 たとえ、目白学園女子短期大学が、「服飾、食品、一般家政の三分野にわたって、理論、研究、実践を課し、将来の洞察力にとみ、建設的な考え方のできる識見豊かな女性の育成に心がける」といい、跡見学園短期大学が、「家庭生活の合理化と科学性を高め、円満な科学的良識人として、社会と家庭の上によりよい光をもたらす女性を育成しようとする」といい、山陽女子短期大学が、「現代生活を創造していく女性を育成する」と豪語しても、このような中途半端な家政学科の教育では、とても、洞察力のある女性も、社会と家庭に光をもたらすような女性も、創造していく女性も教育することはできまい。
 そのことは、女子短期大学が、誰よりも一番よく知っていることではなかろうか。
 逆にそれを知りながら、そういう目標を平気でかかげるほどに、女子短期大学の現状は荒廃しているということになるのかもしれない。まったく、恐ろしいことである。

 

               <女子大学 目次> 

 

 

5 女子大学の役割

  女子大の一般教育

 女子大学の二年間、女子短期大学の一年間、一般教育という名目で、女子大学は人文科学の哲学、倫理学、文学、史学、美学、宗教学、音楽、心理学のなかから三科目、社会科学の社会学、法学、政治学、経済学、歴史学のなかから三科目、自然科学の数学、物理学、化学、生物学、生理学、栄養学のなかから三科目を選んで学び、女子短期大学は二科目ずつ選んで学ぶことが文部省によってきめられているが、二年間学んではじめて目的を達するのなら、一年間で学ばせようとするのはむりだし、一年間でその目的に達するのなら、二年間も学ばせるというのは愚劣である。このように、文部省が矛盾だらけのことをいっているというのは、すでに書いた通りだが、このことは重要なことゆえ、しっかりと確認しておく必要がある。
 文部省が、この一般教育に対してかなり中途半端であるように、大学の教育行政もまた、中途半端なようである。もともと女子短期大学というものは、一時的に旧制の女子専門学校を救済する臨時措置という意味で設立されたのである。しかし、これが女子短期大学当局の要請でいつしか恒久化し、女子短期大学の充実もまた忘れられたのである。ただ女子短期大学新設の申請があった場合、よほど極端でないかぎり、設置を許可するのがいわゆる文部省の教育行政という代物である。
 それに、一般教育という名目で、大学当局、大学教師が、学生に与えようとしている教養の内容をみると、さらに驚くものがある。ここに、ある女子大学の教師たちが、教える学科の内容について、その大要を教務課に提出したものがある。それを紹介してみよう。
 倫理学を短期大学においては、倫理学および道徳の意義、行為および品性、道徳的判断の根拠、意志自由論、倫理と日常生活について講義する。
 女子大学では、倫理学の意義、道徳の意義、行為および品性、動機論と結果論、利己説と利他説、良心論、義務論、意志自由論、責任、倫理の実践と国民生活、倫理と個人生活、倫理と家庭生活、倫理と社会生活、倫理と国民生活、倫理と国際生活、日本倫理思想の概観を講義するという。
 社会学の場合は、短期大学で、基礎概念、社会史の展開と現代福祉国家の形成、現代福祉社会の性格を講義する。
 女子大学では、社会集団の理論と社会史の展開として、基礎概念、社会史の展開と現代福祉国家の形成、現代福祉国家の性格、福祉国家の第一段階から第二段階へ、そして社会開発の意味ならびに型と、そのにない手として経済への包摂概念としての社会、国家への包摂概念としての社会、教育への包摂概念としての社会を講義すると報告している。
 哲学では、短期大学、女子大学の別なく、哲学史を主軸に思想の歴史をたどるとして、古代は哲学を神話からの決別としてとらえることによりソクラテス以前を概観、アリストテレスまでは同時に古代ギリシアにおける文化的傾向をあわせて紹介、つづいてヘレニズムとキリスト教を教える。中世は、スコラ哲学内部におこった理性の信仰からの分離に重点をおいて、ルネッサンスの予備的理解を深める。ルネッサンスでは、この時代の文化史的意義を概説し、ガリレオ、ダ・ビンチを中心として、数学的方法、実験的方法の新しい意義を紹介する。大陸合理論はデカルト、スピノザ、ライプニッツを、イギリス経験論はロック、ヒュームを、ドイツ観念論はカント、シェリング、ヘーゲルを中心に、それ以後の哲学は、キルケゴール、ニーチェ、エンゲルスの思想を中心に述べるとある。
 心理学の講義は、心理学の概観を人間科学としての立場から論じ、心理学のあゆみ、研究方法、研究範囲、その種類から、情緒、知能、人格、思考などについて述べるとある。
 もちろん、これは、ある女子大学の教師たちの書いたもので、これをもって、全女子大学、全短期大学の一般教育についての講義をおしはかることはできないし、これだけをみて、講義の内容を理解することはできないが、だいたいのことは想像できるのではあるまいか。そしてその場合、すぐに気のつくことは、短期大学の講義が女子大学にくらべてあまりにも簡単であるということである。これではとても、社会学や倫理学についての知識はもちろん、社会学的思考方法、倫理学的思考方法について、女子学生が身につけることは不可能であるということである。中途半端というか、文部省に教えるようにきめられているから、やむをえずその学科を設けたにすぎないのだといっても、弁解ができないのではあるまいか。
 文部省は、短期大学の学生に、大学生というにはほど遠い中途半端な教養を与えようとしている。少なくとも現状を見れば、そのように思われるのである。次に、女子学生であった人たちの座談会にも出てきたように、社会学の講義をきいて、社会的存在としての自覚をいだかせられるようなものは少しもなかったと語っているが、この講義の項目をみて気のつくことは、むりもないということである。
 ここには、女子大学生としての存在を自覚させようというものは少しも認められない。不思議なほどに、社会学では、大学という社会、女子大学という社会、それらが一般社会のなかでどんな意味と価値をもっているかを説き明かす努力が見られないのである。

 

            <女子大学 目次>

 

  講義で女子大生が得るもの

 女子学生がとかく家庭という閉じられた社会にひきこもりがちであることをよく知っているはずの女子大学の教師が、家庭というものを徹底的にえぐって、女子学生の前に展開してみせるということもないようである。
 また倫理学というものは、そういうものであるのかもしれないが、ここには、女子学生が直接にぶつかり、考え、悩むべき問題がほとんどない。女子学生に必要なのは、青年の倫理であり、男女の倫理であり、親子の倫理である。それは恋愛と結婚の倫理である場合もあろうし、女子学生の倫理や学問、思想の倫理、教育の倫理であるかもしれない。
 いいかえれば、女子学生として、いかに考え、いかに行動し、いかに生きるかということである。そんなものは、学としての倫理学ではないというかもしれないが、結構、そこに倫理学者の教えようとする行為も判断も意志の問題も皆出てくるのである。
 生の意味や価値を問うてみない倫理学、人生の意義や価値を問うことのない倫理学、人間の存在を問うことのない倫理学は、いかに、それが精緻であっても、それは人間とはかかわりあいのない、具体的な人間の生には少しもかかわらない、死んだ知識でしかありえない。
 人生の意味や価値を知った女子学生、女子学生としての生活の意義や価値を知った女子学生が、その意味や価値を実現する場所として、社会というものを、女子大学というものを、複雑怪奇なままに、分析し、理解してみるというのが倫理学であり、社会学の講義である。教養としての倫理学や、社会学は、倫理や社会についての知識をもつことが主目的ではなくて、生活者として、行動者として、社会のなかでいかに価値を実現するかを教えることが主目的であり、もろもろの知識は、そのためにこそ必要なものであるはずである。
 哲学にしても、教養としての哲学は、女子学生そのものの頭脳をきたえることにある。その点、哲学の教師は、哲学の講義内容を記したあとに、学生の批判的思考力を養うと記しているが、女子学生が、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック、ヒューム、あるいはカント、ヘーゲル、さらには、キルケゴール、ニーチェ、エンゲルスなどを学びながら、実際に批判的思考力を養うということは非常に困難であろう。しかも、ここには、その教師が教えようとすることをすべてとりあげてはいない。その教師が書いたことを皆記すると、それこそ、あまりに多くなる。とてもそれだけ全部教えることはできない。
 教えるとしたら、うわっつらのことを教えるしかできまい。平凡で低級、高校の延長でしかないと女子学生に評価されて、無視されるしかないことも想像できる。哲学の教師としては、せめて、哲学史を、哲学概論を、論理学や認識論をと考えるのもむりはないが、女子学生から無視されるような、うわっつらをなでたような講義をなぜするのであろうか。思考方法の発展の歴史を教えようとすることもよかろうが、短時間ではその本質を教えることはできない。
 ある教師はカントを徹底的に教えるのもよいし、ある教師はヘーゲルを教えるのもよい。ニーチェであってもよいし、エンゲルスであってもよい。そこに、教師や大学の違いによって、違った学生も育つ。哲学史や哲学概論は、自分で読書させればよいのである。評価をうけている書物を紹介すればよい。
 徹底的にヘ−ゲルの思考方法にむきあうことによって、エンゲルスの思考方法にむきあうことによって、はじめて女子学生自身の思考方法が育ち、身につくということがいえよう。思考方法をきたえていくことができよう。そして、それが、倫理学の分野で人生の意味や価値を考えるうえに参考にもなり、また社会学の分野では社会を分析していくうえで参考にもなるのである。
 倫理学的思考方法や、社会学的思考方法に、もっと深い基盤をあたえていくことにもなるのである。こうして、はじめて、倫理学も社会学も女子学生のものとなり、女子学生の身についたものとなる。心理学の場合も同じである。女性心理を深く説きあかしていくことを中心にやっていくなら、女子学生が自己発見していくうえに、非常に参考になろう。
 座談会の時に話にでた歴史学でも、たんに高校時代より、くわしい歴史を教えるということに主眼をおかず、女性にとって、これまで、歴史といわれるほどのものはなかったということを、そしてそれをしいて歴史というならば、隷属の歴史であったということを、思いきって説いてもいい。結婚の歴史や職業の歴史のなかで、女性がいかに不自由であり、不平等であったかを述べてもいいし、女性の思考の歴史を語ってもいい。
 女子大学の創設者が女性なら、その一代記を説くのもよいし、女子大学の歴史、自由と平等のために女子大学がいかに努力し、また、いかにゆがんだかを説いてもいい。女子学生が真剣になってきく歴史はいくらでもある。教材もいくらでもころがっている。
 大学の教師たちが、一般教育という名目のもとに、それぞれ倫理学、哲学、文学、美学、社会学、政治学、歴史学という分野から、女子学生の魂をゆすぶりつづけるなら、これでもかこれでもかと、その心に刺激を与えていくなら、どんなに眠っている女子学生も、どんなに意欲や行動力のない女子学生も、その眠りをさまさないではいられないだろう。
 たとえば、社会学や歴史学の講義で、社会的存在としての人間、歴史的存在としての人間を自覚させることを考えるならば、次のような数字がでることは想像できないであろう。
 すなわち、お茶の水女子大学生の場合、学生運動に積極的に参加したいという者、一年生14%、二・三・四年生4・6%。関心はあるが参加したくない、一年生48%、二・三・四年生24・8%。参加したくない、一年生15%、二・三・四年生21・6%。わからない、一年生6%、二・三・四年生19・6%。無関心、一年生4%、二・三・四年生11・6%となっている(お茶の水女子大学新聞による)。
 私が、昭和四十年十一月に調査したところでは、相模女子大生の場合(調査人員48名)、学生運動は、学生生活に必要44%、少し必要11%、ほとんど必要でない38%、わからない7%となり、甲南女子大生の場合(調査人員64名)、非常に必要13%、少し必要35%、ほとんど必要でない45%、わからない7%となっている。
 社会学や歴史学の講義がまともにやられていたら、ほとんど必要でないとか、わからないと答える学生は、それこそ、少なくなっているはずである。少なくとも、学生運動が非常に必要なこと、社会生活にはなくてならぬもの、歴史の進歩には、それが不可欠であることを教えるはずである。どんな学生運動かは別の問題であるが。
 それが、一般教育の主目的であるはずである。そして、一般教育として、いずれかの講義をきいていれば、女子学生のうちに、女性として、人間として、社会人として、必ずめざめさせるものがあるはずである。
 なるほど、文部省は、一般教育によって、「自然と人生と文化に関する理解を深め、あわせて、専門分野と他の分野などとの相関について知見をひろめるとともに、社会人としての教養」を教えるようにといっているが、人生や文化についての理解をふかめたり、社会人としての教養を与えるというようなことを書くから、理解はしても、人間として、社会人としていかに生きるか、いかに生くべきかについては、なにもわかっていない人間をつくり、教養といえば、自然や文化についての知識だと思うような人間をつくるのである。
 文部省の一般教育についての考え方が根本的に変わらないかぎり、一般教育についての女子大学の教師の考え方は変わらないであろうし、女子学生から軽蔑されるような講義も相変わらずつづけられるであろう。

 

                  <女子大学 目次> 

 

  女子大生の教養とは

 私にいわせると、一般教育の目的は、「女性として、人間として、また社会人として、現代をいかに考え、いかに生きるかを主体的にうけとめることのできる人間をつくることにある」と考えることでじゅうぶんである。ここには、最低、家庭そのものについて、家庭そのものを向上させようという立場があるし、それぞれの立場にたって、その立場を改造し、発展させていこうとする姿勢が基本にある。いいかえれば、生活者、行動者としての知識を学び、それを実践していくことがあるだけである。
 では、生活者、行動者としての知識を取得していくとはどういうことであろうか。
 奈良女子大生(調査数850名)の保護者を調べてみると、サラリーマン38・10%、団体の役員18・34%、個人営業16・67%、農漁業10・83%、自由業8・69%その他7・37%となり、相模女子大生(調査数111名)を調べてみると、サラリーマン39%、個人営業22%、農漁業15%、自由業10%、団体の役員8%、その他6%となっている。
 このあたりが、だいたいの女子学生の保護者の職業分布とみてよいようだが、日本の産業人口構成で、40%近くを占める農漁業の出身者が非常に少ないということ、そこには農漁村に残っている偏見もあろうし、経済的に貧しいということもあろう。この事実は、考えようによっては農漁村出身の女子学生に、いやおうなく考えることをせまり、生活者、行動者として学ぶということを意味する。
 また、文部省の女子学生に対する調査でも(昭和四十年度の調査報告による)、年間所得30万円以下の家庭の者が2・7%もいる。30万から66万円19・0%、66万から102万円24・3%、102万から200万円35・2%、200万円以上18・2%と報告されている。
 だから、アルバイトをしなければ学業を継続できない者6・1%、アルバイトをしないと、学生生活が不自由であるという者が22・3%の多数を数えている。それこそ、30%近い女子学生は、苦しいなかで学生生活を送っているのであるし、ここにも、生活者、行動者として、考えなくてはならないものがあるはずである。解明しなくてはならないものがあるはずである。
 さらに、女子学生はいろいろな悩みに直面している。次の表は、福岡学芸大金子信光氏の調査で、氏は24の質問を学生に出し、悩んでいないものは0点、少し悩んでいるのを1点、ひどく悩んでいるのを2点として計算し、被調査数で割って100倍し、得点の高いものほど悩みの強度が強いということを明らかにしたものである。

福岡学芸大女子部

西南女子短大

東筑紫女子大学

 1 学業でよい成績がとれない

  67.5

  52.5

  79.1

 2 自分の価値を他人が認めてくれない

  51.3

  33.4

  41.6

 3 自分の属している学部または大学が自分に適していない

  78.6

  53.1

  60.1

 4 学校で習うことが現実と遊離している

  36.8

  32.9

  32.9

 5 本学の学生らしくなりきれない

  44.4

  30.1

  48.6

 6 金銭的な余裕がない

  46.2

  35.4

  48.4

 7 体力が不じゅうぶんだ

  30.8

  26.3

  36.9

 8 健康に自信がない

  30.8

  27.6

  28.6

 9 自分の人生観がいつもぐらぐらしている

  86.7

  66.7

  61.3

10 自分の思想と行動とが一致していない

  86.7

  70.5

  68.6

11 自分には性格的欠点がある

 112.0

  79.3

  89.1

12 容姿に自信がない

  76.9

  68.8

  72.5

13 家庭が自分の立場を理解してくれない

  30.8

  27.9

  36.5

14 友人との交際がうまくいかない

  71.0

  39.6

  31.6

15 表面的なつきあい以上の親しい友人がいない

  90.0

  44.2

  39.3

16 相談相手となる教官がない

  62.4

  43.0

  49.0

17 異性との交際

  43.6

  40.3

  35.9

18 自分の第一印象がわるい

  54.7

  39.5

  55.9

19 自分の能力に自信がない

 110.1

  72.4

  83.9

20 毎月の生活が単調で刺激がない

  87.1

  78.6

  67.6

21 卒業後安定した生活にはいれるかどうか心配だ

  65.8

  54.1

  83.0

22 社会情勢が心配だ

  35.0

  33.0

  48.4

23 日本の将来に希望がもてない

  18.6

  26.4

  33.8

24 世界の事情が不安定でとても心配だ

  23.1

  29.0

  38.3

 彼女たちは、社会的なことに眼をひらき、それに悩みをいだいていないということはあるにしても、皆一様に、自分自身のことに悩んでいる。この悩みを経験していくなかで、彼女たちは、人間としても、社会人としても成長することができるともいえるし、好ましい克服をしてこそ、豊かな人間にもなれるということがいえる。
 女子学生が、生活者として、行動者として悩むということ、そして考えるということはこのことであるといってもいい。そして、女子学生の倫理学とは、これらの疑問や悩みに答えることであるともいえる。
 以上の問題を一歩一歩と解決していく生き方、考え方のうえにたって、それぞれの領域の学問をしていけばよいのである。そうすれば、人間や時代に対しても、ほんとうの意味で有効な理論が創造されよう。
 このように、女子学生を女として、人間として、社会人として自覚させようと思えば、各教師が相互に連絡し、話しあい、もっとも効果的な講義をする必要がある。しかし、実際には、教師相互で相談し、ほかの教師がどんなことを講義しているかということを知っている者はほとんどない。話しあって、講義の内容を調整することはまったくないといっていい。大学当局は、それなりの目標をたてながら、そのことがどういうように各教師に理解されているかをまったく知らず、単に各教師のわがままとも思える主観に一任され、講義の内容を事務的に教務課に集めているにすぎないということがあまりにも多い。
 各教師を規制しないということは、非常にいいようにみえて、実は、その大学の目的を徹底的に論ずることもないままに、いいかげんに放置しているということで、すごく怠慢であるともいえる。共通するもの、共通しないものを徹底的に論じて、それを明らかにしておくことは必要なことである。
 それぞれの専門の立場から、女子学生と女子大学にアプローチしていくことは、それぞれの学問を発達させる意味でも必要なことである。期待される人間像は文部省が一括してきめるべきではなく、各大学がそれぞれに独自に究明すべきことである。
 そこから、自然に、人文科学のなかからどれを選ぶか、社会科学のなかからなにとなにを選ぶかということも出てくる。一科目四単位と機械的に考えるのでなく、ある学科は六単位、八単位ということもあろうし、ある学科は二単位、三単位ということもできよう。そんなことは、文部省の規制があってできないというものもあるかもしれないが、大学教授や助教授の名をごまかして文部省に報告する大学当局の態度とは思えない。
 必要となれば、いない人までいるように書く大学当局であれば、できないことはないはずである。要するに、どんな人間を育てるか、そのためには、どんな学科が必要かということに対して明確な判断がないだけである。なかには、ウソの報告は出せないという、大学もあるかもしれない。そのとき、私たちが学ばねばならないのは、文部省の学校令によらない学校を建設した羽仁もと子の識見と自信である。
 独自な教育、独自なカリキュラムをもった大学を作ればいいのである。今日のように、画一化された教育の時代に、大学令によらない大学、第二の自由学園、第二の東京女子大ができる必要がある。文部省によって、大学の権威を作ってもらうのでなく、その内容によって権威となる大学をつくる必要がある。そういう時代がきているといえよう。
 また、女子短期大学の一般教育は一年間で教えようとするために、非常に中途半端なものになっているが、しかも、専門科目を学ぶために、ますます一般教育を学ぶ時間と余裕は少なくなって、よりいっそう半端なものになっている。一般教育がほんとうに必要であれば、それを学ぶ時間はじゅうぶんになくてはならない。じゅうぶんな時間がいるということは、倫理学や社会学を学ぶにしても、歴史学や哲学を学ぶにしても、それらの学科をほんとうに自分のものとしようとすれば、関連の書物をたくさん読み、徹底的に自分で考えることが必要である。
 倫理学や社会学のノートを一冊よむだけでは、歴史学や哲学の書物を一冊よむだけでは、まったく、学ばないのに等しい。一般教育をほんとうに教養として身につけるためには、どんなに多くの本を読み、どれほど考えたからとて、読みすぎるということも、考えすぎるということもない。考えただけ、はじめて自分のものにできるものである。一般教育とは、そういう学科なのである。
 ということは、女子短期大学の家政科とか、国文科とか、英文科とか、児童科ということをいっさいやめて、ほんとうに一般教育を徹底的に教えるために、大きく文科、理科という二種類にわけて、一般教育だけを教えてはどうであろう。もちろん、現行の一般教育でいけないことは明らかであるが、そうした方がどれだけ徹底した人間を作れるかわからない。
 こうして、身につけた生きる姿勢と一般教育を通じて得た思考方法は、妻となり、母となっても、その必要なことをすぐれて解決できるはずである。どんなことでも、解決できる弾力的な頭脳が働き、従来の女子短大出のように、自分がもっている生半可な知識にひきずられて、動きのとれないようなことはないであろう。子供の教育でも、家庭経済のことでも、料理や洗濯のことでも、そういう頭脳さえあれば、もっとも有効に処理できるはずである。気違いじみた教育となって、子供を悩まし、大きくなると、子供に見捨てられるような母親になることもあるまい。女子短期大学がそのようになったときは、女子短期大学を卒業した女性は、自分の頭で考え、自分の足で歩む、ほんとうの意味での自主的な人間、独立した人間として育つであろう。
 その時こそ、愚かな女性から、聡明な女性に脱皮するときである。夫を真の意味で理解し、夫をほんとうに助けることのできる妻になる時でもある。

 

                 <女子大学 目次> 

 

  女性の進出と職業観

 戦後、女性は人間として、社会人として、当然職業をもち、意義のある人生を送ろうという風潮が強くおこった。
 そこには女性の人間としてのめざめ、社会人としてのめざめがあり、男性に隷属し、家庭にしばられてきた女性の位置からの解放が強く志向されていた。それまでの多くの女性は、女という性がもつ生殖作用を、単に動物的に行なっていたにすぎない。子供を生み、育てていたにすぎないという認識であり、ほとんど、そこに人間としてのいとなみ、社会人としての自覚にいたっていなかったという認識である。
 心ある女性が、そういう女性の境遇から脱出しようと心がけたのも当然である。くりかえすまでもなく、津田梅子や吉岡弥生や羽仁もと子が志したのも、そういう女性の境遇から脱け出ようとする女性を一人でも多くつくることであった。
 その意味では、戦後は女性にとって第二の夜明けであった。だが、女が人間として、職業人として(社会人といってもいい)生きるということは、女が女であることをやめ、子供を生み、子供を育てるということを否定することではなかった。いつかずっと先の時代には、女が子供を生むということはなくなるかもしれないが、今の段階では、それは不可能である。
 だが、職業人となった女性たちのなかには、子供を生み、子供を育てる行為をいやがり、軽視するものがでてきた。それに対して、醇風美俗とか、良妻賢母とか、おとなしく、しとやかな女性とかが好きな女たちが、まず、そのことを攻撃しはじめた。「女性は家庭にかえれ」「女の幸福は妻として、母として生きるところにある」といいはじめた。
 女を隷属的位置においておくことが、男にとってつごうがよいと考えた男たちが早速これに同調した。職場で男性の地位を席捲されはじめた男性は、それを理由に女性を排除しはじめた。
 もちろん、戦後どっと多くの女性が職場に進出していったために、訓練も知識もない者も多く、職場の厄介物になる者も出たし、真剣に職業に取り組まない者も出た。当然、それは多数の男性にまじって、眼についた。もっと悪いことは、女性に親切にすることは、女性を保護してやることであり、むずかしい仕事はなるべく女性にさせないことであると錯覚した男性がいたことである。女性にも、男性のそういう態度を喜ぶ者が多かった。こうして、職場で無能な女性が多く育つことになったのである。そして、いつとはなしに、女性の能力とはそういうものであるという見方が強くなり、そういう考え方がかたまってきたのである。
 自然、女性は、職場でも不遇な位置におかれるようになった。そうなると、職業についた女性がいよいよ職場に定着することがなくなって、やめていくようになった。こうして、今日のような、よほどの変わり者か結婚に縁遠い者を除いて、女性は職場に長くいないものという常識ができあがったのである。
 女性は再び女として家庭にしばられ、夫を支配しているようにみえて、その実、夫に隷属する位置に舞いもどったのである。従順な女に戻ったのである。ただ、今日は、戦前に比べて、人間として、社会人としてめざめた女性が比較にならないほど増加したことだけはいえるが。
 人間の能力というものは、女性の能力をふくめて、仕事のなかできたえられ、困難な仕事、時には、自分の能力におえないような仕事にぶつかることにより、徐々に向上していくものである。そんな生活をしているうちに、思いもしなかった能力もでてくるものだし、また、そうしているうちに、仕事に対する責任も、仕事に積極的に取り組む姿勢もしだいに身についてくるし、その時はじめて、ほんとうに仕事する喜びも、やり甲斐もわかろうというものである。そうであればこそ、女医学校に通う女子学生も八年間、黙々と血のにじむような努力のはてに女医としての仕事をつかんだといえるし、吉岡弥生も、そのために協力を惜しまなかったのである。
 努力、それも非常な努力をすることなしに、職業人として生きることはできないし、また、努力することなしに、職業人としての生活をつづけたとしても、職をもつ喜びは永遠にわからないであろう。
 だが、今の女性は、そのせっかくのチャンスをむざむざと捨てようとしている。人間としての喜び、職業人の喜びを捨てて、せいぜい、妻として、母としての喜びにとじこもろうとしている。人間であることをやめた妻、職業人として生きることをやめた妻の喜びが、いかに、あいまいなもので、かたよったものでしかないかということも知らずに。

 

                 <女子大学 目次> 

 

  短期間しか勤めない女性

 それでも、女子大や女子短大を卒業した女性は、結婚まで、あるいは子供を生むまで職業につこうと職場におしかける。昭和三十九年三月の文部省の調査でも、女子大学を卒業した2万3667名のうちの七割の1万6790名が就職している。女子短期大学では、六割弱の2万2417名が就職している。その場合、女子大学、女子短期大学とも、理学、工学、農学、医歯薬学、体育を専攻した者はほとんど就職し、文学、家政学、法政経を専攻した者の就職率は低い。
 ということは、女子大学、女子短期大学の別なく、文学や家政学を専攻する学生は花嫁の資格をとるために、入学しているということがいえよう。要するに、四割近い者が、世のなかの空気をまったく吸うこともなく、職業のきびしさやその価値を知ることもなく、結婚し、妻となり、母となるということである。
 だが、六割あまりの女性が就職しながら、労働省婦人少年局の調査によると、女子大学出で平均2・8年、女子短期大学出で平均3・4年、勤めると、職場をさっさと去ってしまうという。

 <女子短期大学>

卒業生

就職者

文学部

 9,311

 5,700

法、政、経学部

 1,640

 1,010

理学部

74

  64

工学部

  140

125

農学部

  136

104

看護学科

  148

90

家政学部

21,330

11,199

教育学部

 3,002

2,552

芸術学部

 1,623

957

体育学部

  775

618

 <女子大学>

卒業生

就職者

文学部

 9,618

5,803

法、商、政、経学部

  998

591

理学部

561

439

工学部

  137

119

農学部

  174

139

医歯薬学部

 2,303

1,750

看護学科

48

43

家政学部

 2,353

1,446

教員養成学部

 5,979

5,322

芸術学部

 1,569

1,013

体育学部

127

125

 平均2・8年や3・4年しか勤めない者には、仕事をおぼえようとする意欲や姿勢がないのは当然だし、雇用者側も、そういう人間を重要な職につけるという気持ちがおこらないのはむりもない。男性も、そういう女性に対して、本気に指導し、きたえようとする気持ちはおこらないにちがいない。
 そうはいっても、一生涯勤めたいと希望する女子学生も相当数いる。私の調査したところでは相模女子大学の場合30%(調査数48名)、奈良女子大生の場合など71%もいた(調査数68名)。職業につきたいと考える者は、相模女子大生92%、奈良女子大生は実に97%もいる。
 女子学生は就職を希望するばかりでなく、一生涯勤めたいと考える者が相当数いるにもかかわらず、平均して2・8年、3・4年しか勤めないということはなぜであろう。
 それは、女子学生の就職の希望、一生涯勤めたいという希望は、あくまで希望であって、なにがなんでも就職する、一生涯仕事をもつという決断から生まれたものではない。
 それというのも、女子大学や女子短期大学が、その在学中に、女子学生を甘やかして遊びくせをつけ、女性が人間として、社会人として生き抜くということは仕事をもって生きることだということを教えない。まして、仕事や職業に生きるということは、非常なきびしさを求められるということを知らせない。そればかりか、女性が職業につくということ、職業を開拓していくということが、なによりも戦いであるということを教えない。職業をめぐって、男性と対等に競争することであるということを教えない。
 職場は、男性よりも女性にきびしい。それはたしかである。しかし、職場に甘やかされる男性は、そのゆえに、仕事に意欲的に取り組まないという男性も多い。それに反して、女性の場合、職場はきびしいかもしれないが、それだけそれを克服したときの喜びは大きいともいえる。
 このきびしさに打ちかって仕事に取り組むことが、人間として、いかに喜びの大きいものかも、また喜びを発見できるかも、大学は、女子学生に徹底的に教える必要がある。職業教育とは、それをまず教えることだといってもいい。
 女子大学、女子短期大学を卒業したという過剰意識だけを与えて、その実、大学生としての識見も知識もあまり与えなかったのである。もし、大学生としての教養と知識をほんとうに身につけているなら、高校卒とは異質な人間、自分であらゆることを疑い、それを自分で考え、たしかめて、はじめて自分の見識にするという、ほんとうの意味での自主的、自立的な人間が生まれ、一般の高校卒の者にありがちな、他人の知識や結論をそのまま自分の知識や結論とする人間とは違うタイプの人間となるはずである。
 それは、社会や歴史の進歩に応じて、自分の考えを発展させ、さらに、社会や歴史の進歩をリードできる考えともなる。高校卒の者がそういう考えや姿勢をもてないというのではないが、そのためには、よく学んだ大学生の二倍も三倍も、自分で学び、考えるという過程を経なくてはならない。それは、非常に困難なことである。
 だが、現実には、大学を卒業しながら、ほとんどの者が大学生としての教養と知識を身につけず、かえって、高校だけを卒業した者より、大学を卒業した者の方がだらしない、いいかげんであるという評価をうけている。経済的な意味でも切実なものがないし、大学出は高校卒よりも職場にいるのがそれだけ短いこともあって、熱心でないということがいえるのだろう。
 結局、女性というものは、隷属的位置に甘んじ、その境遇を求めるものであろうか。自主的人間、自立的人間として生きるということは、それに伴う責任と義務が大きく、その肩にかかることであるが、女性はその責任と義務をいやがって、被保護者の位置にとどまっていたいのであろうか。
 次に、女性は女子大を出て2・8年すると、女子短大を出て3・4年すると結婚し、その職場を去ると書いたが、実際に、三十歳とか、三十五歳の年齢で、就職している者が何パーセントいるのか明らかでない。しかし、平均の勤続年数が、2・8年、3・4年というところをみると、女子大学を出た者も女子短期大学を出た者も、ともにその数は少ないということがいえよう。
 大学婦人協会で、主として専門学校時代の津田塾大学、東京女子大学、日本女子大学の卒業生について調べたところでは、就職した者が一番多いところで、津田塾大学の25%、一番悪いところで16%となっている。それに比べると、六割以上も就職する今の女子学生の方がずっと多いといえよう。
 しかし、現在も職についている者となると、津田塾大学で16%、日本女子大学で8%となっており、半数はそのまま職業を継続している。とすると、今の女子学生の方が、昔の女専の生徒より、ずっと離職している比率が高い。生きる姿勢も、生きる自覚も比較にならないほど甘いということがいえよう。
 しかたなく職業戦線を去った昔の女性に対して、今の多くの女性は、結婚や子供が生まれたらさっさとやめていく。やめることを求められるケースが多いとはいえ、戦うことなしに、それを受けいれていく。
 もちろん、今日の女性にも、やむなく仕事をやめる人もいよう。夫が家にいることを好むとか、子供が母親にいてほしいと望むとか、あるいは適当な保育所、適当なお手伝いさんがいないとかいう理由でやめることもあろう。鍵っ子のことが心配でやめる人もあるかもしれない。
 だが、女子大や女子短期大を出た人で、職業をもっている人を調査したら、わずか15%しか夫や子供が不満をいだいていないという報告もでている。その夫や子供も、母親である女性が職業をもつのが当然だし、そのために、母親に協力すべきであるという考えがしだいにふえている。
 職業をもつことによって、人間としても、社会人としても精一杯に生きている者が、はじめて妻としても、母親としても、その責任をじゅうぶんに果たせることを知りはじめた証拠である。そういう妻、そういう母親が、夫や子供のほんとうの理解者、協力者になれることを知りはじめたのである。
 その点、女性を家庭にかえそうとする人たち、女性の幸福は家庭にあると考える人たちと、女性も人間として、社会人として生きねばならない、幸福もそのなかにあると考える人たちとは、最近、いよいよミゾを深めている。悲しいことだが、それが現実である。それは、人間の歴史のつづく限り平行線をたどる二つの意見であるかもしれない。
 そして、女性を家庭にかえそうとする人たちは、鍵っ子の不良化を語り、母親検事の家庭でおきた悲劇をあげて攻撃するかもしれない。だが、鍵っ子の不良化は、中途半端に働く母親の姿勢、可愛そうだから、小遣いを多くやっておこうなどという、まったくいいかげんな母親がつくるものである。それに不平をもらす父親がつくるものである。
 職業に真剣に取り組む母親、人生に誠実に取り組む母親のつくる家庭の雰囲気は、その子供にとってなにより大きな教育である。一時的に、不良化の道にはいりかけても、必ず正常にたちもどるし、そういう子供は、ただたんにまじめである子供よりも、ずっと正義感の強い子になる。
 自分は女検事でありながら、越境入学という不正を、子供の能力も考えずに平気でやってのける母親であるから、子供も不良化するということがいえるのである。
 もちろん、母親が職業をもつということはたいへんである。けっして、なまやさしいことではない。しかし、女子大学や女子短期大学を卒業した10%の女性、エリートである条件をそなえた10%の女性は、全女性の先頭にたって、パイオニアとしての道を歩むべきではなかろうか。それが、社会や歴史の進歩に取り組む学問、人間の自由と平等の実現のために取り組む学問をした女性の真の姿ではなかろうか。
 自分の幸福のために、自分の結婚条件をよくするために、自分の家庭のためだけに、学問をしたという者があったら、まったくおかしい。そんな学問は、どこにもないからである。

 

                <女子大学 目次> 

 

  女子大学の長所・短所

 このように、女子学生が職業に取り組む姿勢にきびしさがなく、ともすると、閉じられた家庭に眼をむけて、人間として、社会人としての自覚が足りないのは、女子大学に、女子短期大学にその責任があるともいえよう。
 学生問題研究所が、お茶の水女子大学、津田塾大学、東京女子大学、日本女子大学、共立女子大学、実践女子大学の学生(982名)を対象に、女子大学の良い点、悪い点を調査した結果を次のように報告している。

  <良い点>

       異性にわずらわされない         22%
       女性として能力、個性をのばす      22%
       家庭的で、静かな雰囲気がある      15%
       同性を良く理解できる           6%
       異性に依存せず、独立心を養える      6%
       解放的でのびのびしている         6%
       信頼できる友人をみつけやすい       4%
       少数制なので、教育が徹底する       3%
       穏やかな思想、生活をもてる        3%
       環境が、清潔できちんとしている      3%
       自治活動で、活動しやすい         3%
       女子教育のための設備が整っている     2%
       必要以上におしやれをしない        1%
       礼儀作法をよく身につける         1%
       就職が男子と争わず有利          1%
       その他                  2%

 

  <悪い点>

       視野がせまくなる            27%
       意欲に欠け、活気が足りない       18%
       異性に対する認識不足           9%
       学問研究の意欲をみたせない        8%
       社会政治問題を敬遠しがち         7%
       女性だけの社会にとじこもりがち      7%
       社会生活から遊離する           5%
       協調性がなく、利己的になる        4%
       自主性、主体性に欠ける          3%
       学内が保守的、教育方針も保守的      3%
       自治活動に限界がある           3%
       大学としての規模が小さい         1%
       同性問題にわずらわされやすい       1%
       服装にだらしなくなる           1%
       自治活動に大学側の干渉をうけやすい    1%
       その他                   %

となっている。
 これから考えると、女子大学の良い点というのは、共学大学でも、努力すれば、じゅうぶんに身につけられるものといえるが、それに反して、悪い点は、簡単に克服できないものばかりといえそうである。
 大学に学ぶ者として、視野がせまく、意欲に欠け、女だけの社会に閉じこもって、政治と社会問題を敬遠しがちであるとしたら、もはや大学に学ぶ理由はない。
 神戸女学院溝口靖夫氏の調査でも明らかなように、「あなたが他の大学を選ぶとしたら、どんな大学か」という質問に、東京女子大生の場合、53・2%が「共学」と答え、31・2%しか、女子大学を望んでいない。
 日本大学馬場明夫氏が東京にある二つの女子大学について、「子供をどこへやるか」という質問をしたら、A女子大生の場合32%、B女子大学生の場合40%が「共学大学にやる」と答え、わずかに、16・1%、12・0%が「女子大学にいれる」と答えたにすぎないと報告している。
 女子大学は、今では、女子学生からもだんだん見限られてきているということがいえよう。それにもかかわらず、女子大学や女子短期大学は厳然と存在し、どんどんふえている。結局、親たちの希望によるということがいえよう。娘時代を、無事にすごしてほしいという希望が女子大学をささえているのである。しかし、女子大学の学生が、共学大学の女子学生より男友だちが多いということは、すでに述べた通りである。
 大学としての女子大学、女子短期大学の存在の意義は、はたしてあるのかどうか、真剣に問うてみる時期にきている。

 

                <女子大学 目次> 

 

 

6 女子大学のビジョン

  関係当局の意見

 以上述べたところでも明らかなように、女子大学と女子学生の質は、現在かなり低下しているといえよう。このままに放置しておけば、非常に重大な問題にもなりかねないと思われるほどである。そこで、文部省大学学術局長杉江清氏に、その対策を聞いてみた。
 しかし、杉江局長からは、これという意見は聞きだせなかった。それは、当然ともいえる。もし、なんらかの対策があるなら、すでに実施しているともいえよう。杉江局長は「女子短期大学なども、今後、いよいよ女子教育のため拡充されてくるのではないか」という意見であり、「女子大学を含めて、女子短期大学の制度的な立場からの改革は、必要ではない」というのであった。
 これでは、まったくお話にならない。女子大学や女子短期大学の学長、理事長、理事、評議員などに、政治家や高級官僚が多いために、文部省当局は、遠慮をしているのではないかと疑いたくなるほどであった。
 だからとて、現在の女子大学学長からも、文部省当局を上まわる意見をひきだせるとは思えなかった。それこそ、すぐれた教育理念があるなら、その実現に努力すれば、「女子学生亡国論」「女子大学無用論」など出るわけがない。
 そこで、今年四月(昭和四十一年)、実践女子大学学長に新たに就任した山岸徳平氏に、その抱負をきいてみた。
 「一口にいって、精神と肉体の抵抗力をつけることです。いいかえれば、精神的にも肉体的にも健康な女性をつくるということにつきます。精神的に健康な女性とは、自分で問題を発見する能力、その問題を解決できる能力を身につけた女性のことをいいます。
 大学に入学しながら、勉強しないような学生は最低です。時間と金をつかって勉強しないなんて、まったく馬鹿です。大学も、勉強しない学生はドンドン落第させればいいのです。その意味で、学習院大学で、学生を卒業させなかったことには、大賛成です。卒業証書の代わりに、何年間在学したという終了証書を出せばいいのです。
 友だちが大学にいくからというので、自分も他人のまねをして、大学にいくというのは、ほんとうに唾棄すべきことです。といって、早大の暉峻氏、慶応の池田氏のいうことにも問題があります。そんな女子学生を育てているという反省がまったくみられません。勉強しない女子学生、自覚のない女子学生には、大学にも罪があります。それを徹底的に反省する必要があります。亡国的女子学生でなく、興国的女子学生を育成すればよいのです。
 今の女子学生をみていると、美意識が低級でゼロに近い。個性というものがまったくありません。若さや自然の美しさというものを自覚していません。化粧や服装をみていると、これが大学生かといいたくなります」
という。
 女子大学学長にはじめて就任した人らしく、その意見はなかなかきびしい。女子短期大学について、「どう考えるか」ときくと、言下に「中途半端な教育しかできない」という返事がかえってきた。創意工夫の態力も、仕事の能力もつかないともいう。女子短期大学をどうしたらよいかという質問には、解答を得ることはできなかったが、山岸学長自身、かなりの疑問をもっていることは明らかであった。
 一般教育をどうしたらよいと思うかという質問には、「あれは、アメリカのマネなんだから」という以上の答えをひきだすことはできなかった。一般教育の講義内容を検討してみるということは考えていないらしい。ちょっとがっかりしたが、どうにもならない。

 

                   <女子大学 目次> 

 

  家政学科廃止の提案

 文部省当局と女子大学学長の意見を紹介したが、次に、私の意見を述べてみよう。
 女子短期大学に一番問題があると考えるのだが、なかでも、60%近くをしめる家政学科の学生が、大学のガンであると思う。すでにみてきたように、一般教育でも、家政学でも、まったく、中途半端である。それは、山岸学長も明言している。ほんとうに金と時間をかけて、生半可の知識と似而非的教養をもった女性を育成することほど、馬鹿らしいことはない。良識ある者には、とてもそんなことはできないはずである。
 私は、まず、女子短期大学にある家政学科を廃止することを提唱したい。どうしても、それを残したければ、別科にすることである。これが大学の権威を確立し、大学の価値をつくる第一歩であると思う。
 学問の価値を知らず、人生の意味や歴史の進歩を自分で考えることもできず、歴史の進歩に参加できないような人間を大学でつくるということは、まったく恐ろしいことである。そんな人間をつくる大学は、ただちに廃止すべきである。
 それが学問をし、真理に奉仕する学者のぎりぎりの義務であり、責任でもある。
 そんな中途半端な教育よりも、愚かな女性を教育するよりも、もっともっと意義のある教育が放置されている。それは、看護学院という各種学校である。全国に194校もある看護学院は、高等学校を卒業してから、なお三ヵ年も学習しなくてはならないにもかかわらず、女子短大よりも一年よけいに学ばなくてはならないにもかかわらず、各種学校ということで、卒業しても待遇がわるく、責任のみ重いのである。
 彼女たちは、職業的知識も人間性もよほど高いものを要求されるし、また、必要でもある。家政学科でなくて、看護学科を設置すれば、女子大学のなかは、眼にみえて活気がでてこようし、真摯な雰囲気が充満するであろう。経済的に貧しい者が多くて、とても私立大学の入学金、建設費、授業料を払えないというなら、現にある国立、公立、市立の看護学院を吸収してもよいのではないか。
 大学は教育のためにこそあるべきものであって、営利のためにあるべきものではない。遊ぶ女性のための大学でなくて、学ぶ女性のために、人間として、社会人として、職業につこうという女性のためにこそ、大学は開放されるべきであろう。
 同じことは、栄養科、保育科についてもいえよう。栄養科、保育科は、看護科に比べると、ずっと多く女子短大のなかに設置されているが、まだまだ少ない。各種学校である栄養学校、保母学校も多い。女子短大のなかに、栄養科、保育科を拡充することは、非常に大切である。
 このように、女子短期大学に看護科、栄養科、保育科を中心に、食物科、社会福祉科、児童科、体育科、音楽科、造形科などが設置されるなら、女子短期大学の空気はまったく一変するであろう。
 女子短期大学を存続させるなら、せめて大学としての権威を確立するために、これだけのことは、ぜひともやってもらいたいものである。
 女子短期大学のなかの全教科、家政学科のみでなく、被服科も保育科も食物科も国文科、英文科を全部廃止して、理科と文科の教養学科を設けることも一案である。そうすれば、一般教育は徹底できるし、弾力的で、創造的な頭脳と姿勢を養うこともできようし、女子短期大学を終わって、四年制の大学、女子大学に入学してもよい。いいかげんな専門家を作らないためにも、ぜひ必要である。
 娘かわいさのあまり盲目となった父親や母親、なにも知らない女子高校生の要求に、そのまま応ずるということは、大学として、あまりにも夢や理想がなさすぎるということになる。
 大学は、もっともっと、市民を教育するもの、教育できるものを、それ自身にもたなくてはならない。女子大学の家政学部を廃して、家政学専攻は社会学科か政治学科にいれ、もしくは、文学部のなかの一学科とし、児童学科、食物学科、住居学科、栄養学科などは、教育学科の児童学専攻にするとか、農学部か工学部にいれるよう、提案する。それでなくても、女性は閉じられた家庭のなかに安住したがるなにかをもっている。それを徹底的に排除するぐらいで、ちょうどいい。
 家政学部を設けて、女性を女性として、人間として、国民として育てようとした成瀬仁蔵の意図は、今やまったく過去の遺物と化している。
 家政科や家政学部を女子大学や女子短大から追放することが、女子大学や女子短大を改造する第一歩ではなかろうか。

 

                  <女子大学 目次> 

 

  大学独自のカリキュラム

 女子短期大学の五分の一は、入学試験で三割から四割の点をとれれば入学でき、女子大学の六分の一は、四割から五割をとると入学するという。たとえ、それは、家政学科が看護学科になり、今の短大の全学科が教養学科に変わっても、女子学生の学力は急には変わるまい。高等学校の教育におんぶしている以上、しかたがないことであろう。
 しかも、現在、同一年齢人口の10%でしかない女子学生は、年々増加するであろう。それは、文化国家としても当然あるべき現象だろうし、そうでなくてはならない。
 というのは、人間は職業人として生きると同時に、文化人として生きるものでもある。余暇をいかに有効に楽しく、おもしろく過ごすかということも大切なことである。文化を享受できる能力、すぐれた文化をより深く観賞できる能力、友人とそれについて楽しく話しあう能力も、人間として必要な能力である。政治や社会について深い理解をしめすだけでなく、政治をよくし、社会を変えていく能力も人間として、なくてはならぬ能力である。
 いいかえれば、職業人として優秀であるということだけでは、人間としてのすべてを生きたということにはならない。職業人として生きるだけでは、人間としてはかたよった人間である。
 大学における一般教育とは、すぐれた文化を享受できるだけでなく、その文化をさらに発展させ、政治や経済のあるべき姿を追究し、それを少しでもいいものに変えていく能力と姿勢を教えようとするものだし、自分の職業である仕事も、それとの関連のなかで取り組むことのできる人間を養成するためのものであらねばならぬ。ただたんに仕事に有能な人間でなく、現代から将来を見通したなかで、仕事を発展的にやっていける人間を、大学は教育しなければならぬ。
 大学は出世できるとか、指導者になれるとかという意味でのエリートでなく、すぐれた人間、すぐれて物を考えることができるという意味でのエリートをあくまで育てなければならない。
 しかし、はじめにも述べたように、どうみてもあまり学力のない人間、あまり自分で考えることが得意でない人間が多数大学に入学してくる。こういう人間を対象にして、ほんとうに高い文化を享受して、それをさらに発展させ、政治や経済を自分自身でみつめ、それをよりよいものに変えていくことのできる人間に育てることは、非常にむずかしい。
 そのためには、どうしてもその学力に応じ、その思考力に応じて教育し、そういうことのできる人間に育てなくてはならない。これまでは、普通、学者になるための能力だけが尊重され、評価されてきたが、世の中で必要な能力、通用する能力は、学問をするうえに必要な能力とはかぎらない。
 記憶力、思考力、創造力、洞察力などは、学者にはなくてならない能力かもしれないが、そういう能力が抜群でなくても、自分で政治・経済を考えることはできるし、高い文化も享受できる。時にはそういう力が抜群でないために、かえってじっくりと考えることもできるし、それを正確に理解することもある。
 その反対に、学者はそういう力がありすぎて、逆にその理解が表面的になったり、問題を次々と移動させていくという弱点をもっている。ということは、普通、学校で頭がわるいといわれたり、記憶する力が弱いとか、考える力があまり精緻でなく、粗雑だといわれてもそれは必ずしも決定的な意味をもっていない、ということである。むしろ、大学でこそ、考える力が訓練され、強くなり、精緻にもならなければならない。創造力や洞察力も、忍耐強い自学自習のなかではじめて養われるものでもある。
 学力のない者には、ただ程度を落として講義するという、普通、大学でやっていることではなくて、その学力にあったカリキュラムを作って、徹底的に思考力をきたえるべきである。できない学生には講義の程度をさげ、きびしく教えもしないし、要求もしないというなら、ますますできない学生になろう。できない学生こそ、いっそうきたえるべきであろう。いっそう、学ばせるべきであろう。記憶力の弱い人間を物知りに育てようとするから失敗するのである。学生もついてこれないのである。深く考えるように指導したらよい。それは、だれでもそれなりに好きなものである。
 繰り返していう。そのために、その大学独自のカリキュラムを作ることである。教授も大学当局も、そのために徹底的に話しあい、論じあってみることである。それをいやがる教師は、やめてもらえばよい。学生に対して責任を感じないような教師はやめさせるべきである。
 今の大学は昔の大学ではないし、今の教師は、昔の教師ではない。いつまでも、昔の幻影を追うことは許されない。今の大学教育には、三分の研究と七分の教育が要求されているのである。
 しかし、学生にあったカリキュラムを、女子大学ごとに独自につくることも大切であるが、それよりももっと大事なことは、女子大学当局が全教師を集めて、その参加のもとにその存在意義を問うことであり、質の低下をつづけている女子大学そのものをどうするか、現代に女子大学の存在意義があるとしたら、それはなにか、どんな女子学生像をもつべきかについて、真剣に、執拗に問いつづけることである。
 そういう姿勢と思考を、大学当局と全教師がもつことである。女子大学の改革は、そこから第一歩がはじまる。もちろん、そういうことは、誰一人知らない者はないといえるほどに、平凡でわかりきったことである。いってみれば、現在の女子大学の荒廃は、どうしてよいかがわからないということよりも、誰もが知っていて、それを実行しないということにある。こういうところからおこった荒廃ほど、救いようのない危険なものはないともいえる。
 極端ないい方をすれば、今必要なのは女子大学を新設することではなく、また増設することでもなく、女子大学をつぶすことであるといった方がよいかもしれない。大学教師は学問を教えようとしないし、女子学生は勉強をしない。そんな大学は学問と真理の名において、むしろ廃校にすることが望ましい。
 それが、大学を救い、大学を改造していくきっかけになるかもしれない。私は、それを強く、提唱したいのである。似而非的学問の殿堂と通俗的な道徳が支配しているような大学はない方がいい。
 真理を教えようとしない学者や、真理を追求しないような学生は追放したらいい。反省の機会を与えて、きびしい内省を求めたらよい。

 

                  <女子大学 目次> 

 

  理想的な女子大学

 安井てつと羽仁もと子は、専門学校令や大学令によらない学校をつくろうとした。それは、あくまで、もっともいいと考える教育を学生に与えようとしたためである。今日、文部省が無意味で、お定まりな規制をする以上、今日ほど安井てつや羽仁もと子のあの自由にして、清新な理想を掲げた学校が必要とされる時はないといっていい。
 女子大学で、付属高校や付属中学をもっているところが多いが、ここで私は理想的な女子大学のプランをひとつ提案してみたい。
 まず、私は中学部を四年にすることをすすめたい。高校で教えている学科を中学部にもってきてもよいが、中学部を四年にするのは、次の高等部でほんとうに自分で考え、悩み、迷う時期として確保したいためである。一部の早熟な生徒は、現在の高校一年で、自分で考えること、悩むことをはじめているが、多くの生徒はそこまでいっていない。
 高等部も四年にする。ここで、今の大学で教えている一般教育を教える。徹底的に、自分について、人生について、現代について、恋愛について、真理について、人類について考えさせるのである。四年間にしたのは、昔の高校生が、高校時代に、友情、真理、感激、情熱などを謳歌し、俗世間をリードしていたのにもかかわらず、大学生になると、とたんに通俗的なものに支配されていったことから考えて、もう一年、高等部で、そういうものを徹底的に見究めさせようとするためである。青春を謳歌させたいためである。
 大学部は三年、はじめから徹底的に専門をたたきこむ。専門的知識が三年間でむりというなら、四年間にしてもよい。人文科学、社会科学を専攻する者の場合、希望者には、高等部を終えた時、一年間社会にでて労働をしてみるということを許す。それは、学生の多くは、問題意識を書物から学びとり、観念的となり、全存在で問題意識を追求するということがないのを防ぐためである。もちろん、ここには入学試験のための異常な勉強はない。今のように勉強はするが、ほんとうの学力には縁遠いような勉強はしなくてもよい。競争者は死んだ方がよいと思うようになることもない。
 こんな女子大学ができたら、どんなによいかと思う。そこで、思いきりのびのびと、未来をつくる女性を育てることができたら、ほんとうに愉快なことであろう。
 女子大学が、歴史の暗黒をいつまでもひきずっていくものになるか、それとも、歴史の夜明けをつくるものとなるか、今、ちょうどそれを考える時にきている。

 

 

   <参考文献>

『津田塾六十年史』               津田塾大学
『津田梅子』       山崎孝子       吉川弘文館
『成瀬先生伝』      渡辺英一       桜楓会出版部
『女子美術大学略史』              女子美術大学編纂委員会
『安井てつ伝』      青山なお       岩波書店
『この十年間』      吉岡弥生
『教育三〇年』      羽仁もと子      婦人之友社
『半生を語る』      羽仁もと子      婦人之友社
『学生の歴史』      唐沢富太郎      創文社
『大学及び大学生論』   蝋山政道       中央公論社
『らくがき大学生』    田口寛治       講談社
『私立大学』       読売新聞社調査部   日本評論社
『大学の青春』      川口伸一郎      三一書房
『大学の庭』       朝日ジャーナル編集部 弘文堂
『女子教育史』      平塚益徳編      帝国地方行政学会
『日本の女子教育』    日本女子大学教育研究所 国土社
『我が国の高等教育』              文部省
『日本の成長と教育』              文部省
『日本の大学』      永井道雄       中央公論社
『日本の大学教援市場』  新掘道也       東洋館

 

          

                  <女子大学 目次> 

 

 

   <付 表>  近代教育史年表

西暦

 年号

  学制

 女子学校

 女子教育

 一般社会

1871

明治 4

津田梅子(当時七歳)開拓使の留学生として渡米
吉岡弥生生まる

1872

   5

「学制」頒布(8・3)

福沢諭吉『学問のすすめ』(第一編)を著す

1873

   6

キリスト教解禁(2・21)
森有礼、西村茂樹・福沢諭吉と明六社を結成

1874

   7

東京女子師範学校(東京女高師の前身)創立
跡見女学校創立(跡見学園女子大学前身)

成瀬仁蔵、山口県教員養成所に入学

1875

   8

立憲政体の詔書発布(4・14)

1876

   9

土居光華『文明論女大学』を著す
成瀬仁蔵、教員養成所を卒業

1877

  10

1878

  11

成瀬仁蔵、大阪に創立した梅花女学校教師となる

1879

  12

「学制」を廃し、教育令を制定(9・29)

1880

  13

集会条例公布(4・5)
国会開設の詔勅発布(10・12)

1881

  14

1882

  15

津田梅子帰国
成瀬仁蔵、梅花女学校教師の職を辞任

1883

  16

1884

  17

安井てつ、東京女子師範学校に入学

1885

  18

教育令改正、公布(8・13)
初の文部大臣に森有礼就任(10・22)

木村熊二・鐙子、明治女学校創設
東京女子師範学校、東京師範学校と合併、東京師範学校女子部となる

福沢諭吉『日本婦人論』を著す
巖本善治の『女学雑誌』発刊
津田梅子、華族女学校教授補となる

太政官を廃し、内閣制度成立(10・22)

1886

  19

帝国大学令公布(3・2)
教育令を廃止、小学校令、中学校令、師範学校令公布(4・10)

東京師範学校を高等師範学校と改称
共立女子職業学校創立(共立女子大学の前身)

成瀬仁蔵、新潟女学校に赴任

1887

  20

学位令公布(5・21)

西村茂樹『婦女鑑』発行

保安条令公布(12・26)

1888

  21

市制、町村制公布(4・25)

1889

  22

西村茂樹『女子教育論』を演説。津田梅子、再びアメリカへ留学
羽仁もと子、新設の東京府立第一高等女学校に入学(当時松岡姓)

大日本帝国憲法公布(2・11)
森有礼、暗殺さる

1890

  23

高等師範学校女子部を分離して、女子高等師範学校と改称

成瀬仁蔵、アメリカに留学
安井てつ、高等師範学校を卒業、女子師範学校助教諭となる

府県制、郡制公布(5・17)
教育に関する勅語発布(10・30)
第一回帝国議会開院式を挙行(11・29)

1891

  24

羽仁もと子、明治女学校高等科に入学
吉岡弥生、済世学舎卒

1892

  25

永井正直『女子教育論』を著す
津田梅子帰国
安井てつ、岩手県尋常師範学校に赴任

1893

  26

1894

  27

実業教育費国庫補助法公布(6・12)
高等学校令公布(6・25)

三輪田真佐子『女子の本分』を著す
成瀬仁蔵帰国
安井てつ、女子高等師範学校訓導となる

日清戦争勃発(8・1)

1895

  28

下関講和条約調印(4・17)

1896

  29

成瀬仁蔵『女子教育』を出版
安井てつ、留学準備のため津田梅子の許に寄宿

1897

  30

師範教育令公布(10・9)
男女師範学校分離を訓令(12・17)

安井てつ、イギリスに留学

1898

  31

福沢諭吉『女大学評論・新女大学』を著す
津田梅子、女子高等師範学校教授を兼任

1899

  32

中学校令改正、実業学校令公布(2・7)
高等女学校令公布(2・8)
私立学校令公布(8・3)

実践女学校創立(実践女子大学の前身)

1900

  33

教員免許令公布(3・31)
小学校令改正(8・20)

津田梅子、女子英学塾を開く(津田塾大学の前身)
吉岡弥生、東京女医学校を開く(東京女子医科大学の前身)

安井てつ帰国、女子高等師範学校舎監となる

1901

  34

成瀬仁蔵、日本女子大学を開く
横井玉子、私立女子美術学校を開く(女子美術大学の前身)

1902

  35

東京女子美術学校創立(約一年で閉校となる)

佐藤志津、女子美術学校主となる
横井玉子死す(12・31)

1903

  36

専門学校令公布(3・27)
実業学校令改正

東北女子職業学校創立

羽仁もと子、雑誌『家庭之友』を創刊

1904

  37

下田次郎『女子教育』を著す
安井てつ、シャムに赴任

日露戦争始まる(2・10)

 

1905

  38

ポーツマス講和条約調印(9・15)

1906

  39

相愛女子音楽学校創立

1907

  40

小学校令改正…義務教育年限を六年に延長(3・21)

安井てつ、シャムからイギリスへ

1908

  41

女子高等師範学校を東京女子高等師範学校と改称
奈良女子高等師範学校創立
東京女子体操音楽学校創立

安井てつ、帰国、学習院講師となる

1909

  42

帝国女子専門学校創立(相模女子大学の前身)
神戸女学院専門学校創立

安井てつ、学習院講師を辞任、『新世界』主筆となる

1910

  43

私立聖心女子学院創立
日本女子歯科医学専門学校創立

吉田熊次『女子研究』、安部磯雄『婦人の理想』、河田嗣郎『婦人問題』、上杉慎吉『婦人問題』
安井てつ、東京女子高等師範学校講師となる

韓国併合条約調印(8・22)

1911

  44

平塚らいてう「青鞜」創刊

大逆事件により幸徳秋水等死刑となる

1912

大正 元

東京女医学校、東京女子医学専門学校に昇格

安井てつ、東京女子高等師範学校教授となる

1913

   2

1914

   3

実業教育費国庫補助法改正(3・23)

第一次世界大戦に参加(8・23)

1915

   4

聖心女子学院、聖心女子学院高等専門学校となる

1916

   5

1917

   6

臨時教育会議官制公布(9・21)

1918

   7

臨時教育会議、高等普通教育・大学および専門教育・師範教育・女子教育・実業教育に関して答申を行った
大学令公布…公立、私立大学を認め、予科を置くことができる…高等学校令、高等中学校令を廃止、高等学校令公布(12・6)

東京女子大学創立

新渡戸稲造、東京女子大学学長となり、安井てつ同学監となる

 

米騒動起こる

1919

   8

小学校令、中学校令改正(2・7)
帝国大学令改正(2・7)
臨時教育会議廃止(5・23)

成瀬仁蔵死す(3・4)
津田梅子、女子英学塾塾長を辞職
平塚らいてう、市川房枝「新婦人協会」結成

ヴェルサイユ条約調印(6・28)

1920

   9

実業学校令改正(12・16)

日本女子高等学院、京都女子専門学校、東京女子専門学校創立

大戦後の大恐慌

1921

  10

羽仁もと子、自由学園創立

1922

  11

二階堂体操塾開く

五カ国海軍軍縮条約締結(2・1)

1923

  12

福岡県立女子専門学校創立

新渡戸稲造、東京女子大学学長を辞任、安井てつ学長に就任

婦人参政権獲得同盟結成
日本共産党大検挙
関東大地震(9・1)

1924

  13

大阪府立女子専門学校創立

全国学生普選連盟結成

1925

  14

帝国女子医薬専門学校、共立女子専門学校創立

治安維持法公布(4・22)
衆議院議員選挙法改正…普選制度(5・5)

1926

昭和 元

文部省、学生の社会科学研究絶対禁止を通達(5・29)

二階堂体操塾、日本女子体育専門学校に昇格
樟陰女子専門学校創立

学生運動の中心人物検挙

1927

   2

聖路加高等看護学校、聖路加女子専門学校と改称
東京家政専門学校、京都府立女子専門学校創立

1928

   3

広島女子専門学校(県立)和洋女子専門学校、大阪女子高等医薬専門学校創立

普通選挙法による初の選挙(2・20)
日本共産党大検挙

1929

   4

私立女子美術学校、女子美術専門学校に昇格
上野女子薬学校、椙山女子専門学校創立

津田梅子死す(8・16)

日本共産党第二次検挙

1930

   5

共立女子薬学専門学校、昭和女子薬学専門学校、東京女子薬学専門学校創立

ロンドン海軍軍縮条約調印(4・22)
日本女子大盟休事件

1931

   6

満州事変勃発(9・18)

1932

   7

実践女子専門学校、神戸女子薬学専門学校創立

上海事変起こる(1・28)
東京女子高等師範学校マルクス主義研究団体を組織しようとした学生を処分

1933

   8

女子英学塾、津田英学塾と改称

佐藤志津死す(3・27)

1934

   9

文部省に思想局設置

1935

  10

1936

  11

1937

  12

相愛女子専門学校創立

日支事変起こる(7・7)

1938

  13

国家総動員法公布(4・1)

1939

  14

教育審議会、女子中学校、女子高等学校、女子大学設置答申

青少年学徒ニ賜ハリタル勅語渙発

1940

  15

安井てつ東京女子大学長辞任

1941

  16

小学校令を改正、国民学校令公布(3・1)

太平洋戦争起こる(12・8)

1942

  17

大妻女子専門学校創立

大日本婦人会結成

1943

  18

大学令改正…大学予科の修行年限を三年とする(1・21)
中等学校令公布…修行年限を四年とする(1・21)
師範学校令を改正、師範学校を官立専門学校とする(3・8)

津田英学塾を津田塾専門学校と改称

女子動員強化

1944

  19

国民学校令等、戦時特例公布(2・16)

高知県立女子医学専門学校、岡山清心女子専門学校創立
東京女子体操音楽学校を東京女子体育専門学校と改称

防空法による疎開命令
学童集団疎開

1945

  20

戦時教育令公布(5・22)
新日本の教育方針発表(9・15)

広島女子高等師範学校創立

安井てつ死す(12・2)
吉岡弥生女子医専より追放される

ポツダム宣言受諾(8・15)

1946

  21

米国教育使節団、報告書提出(3・31)
男女共学制度の実施について指示(10・9)

白百合女子専門学校、武庫川女子専門学校創立

日本最初の男女平等による選挙(4・10)
日本国憲法公布(11・3)

1947

  22

学校教育法、教育基本法公布(3・31)
(国民学校令、中学校令、師範教育令、大学令等廃止)
六三三四制実施、新制中学校発足(4)
総司令部、日本教育制度刷新に関する極東委員会の司令発表(4・11)

愛知県立女子専門学校、熊本県立女子専門学校、藤女子専門学校創立

1948

  23

大学設置審議会、大学設置規準を答申(3・23)
新制高等学校発足(4)
教育委員会法公布(7・15)

聖心女子大学、津田塾大学、神戸女学院大学、日本女子大学、新制大学として発足

1949

  24

大学基準協会、大学院基準決定(4・12)
大学設置審議会、大学通信教育基準決定(4・26)
教育職員免許法公布、国立大学設置法公布(5・31)
大学設置審議会、短期大学設置基準を決定(8・30)
私立学校令公布(12・15)

女子美術大学、奈良女子大学、お茶の水女子大学、大阪女子大学、熊本女子大学、新制大学として発足

下山事件
(7・5)
三鷹事件
(7・15)
松川事件
(8・17)

1950

  25

大学設置審議会、大学基準改訂を決定、短期大学通信教育基準を決定(8・29)
第二次訪日アメリカ教育使節団、報告書を提出(9・22)

女子美術大学、短期大学を併設
愛知県立女子短期大学、藤女子短期大学、東京女子体育短期大学発足

東北大学イーズル事件
朝鮮戦争始まる

1951

  26

児童憲章制定(5・5)

対日平和条約、日米安全保障条約調印(9・8)

1952

  27

私立学校振興会法公布(3・20)

東京女子医学専門学校、東京女子医科大学となる

吉岡弥生追放解除

1953

  28

中央教育審議会発足

1954

  29

聖路加短期大学発足

1955

  30

1956

  31

大学設置基準公布

1957

  32

羽仁もと子死す

1958

  33

門脇順子『女子大学生』
吉岡弥生死す

1959

  34

1960

  35

文部省、中央教育審議会に大学制度の改革を諮問(5)

日米安全保障条約改訂、安保改訂反対闘争で女子学生樺美智子死す

1961

  36

中央教育審議会、大学の目的、性格につき答申(7)

1962

  37

中央教育審議会、大学管理・運営の問題につき中間報告

暉峻康隆「女子学生世にはばかる」
池田弥三郎「大学女禍論」

1963

  38

中央教育審議会、大学教育改善について答申

このころより女子大学、女子短期大学の設立増加

1964

  39

1965

  40

丸山邦男『女子短期大学』

1966

  41

大学設置審議会、短期大学改善案を答申

 

(1966年 日本経済新聞社刊 日経新書41)

 

               <女子大学 目次> 

 

    < 目 次 >

 

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