「女子学生の生き方 思想的自立と職業の確立のために

 

   はしがき

 本書は、多数の女子学生と私との対話の中から生まれた。というのは、昨年、私は、「女子大学」を出版し、700人に近い人から、いろいろの批評や感想を寄せられた。勿論、その殆んどは、女子学生からのものであった。
 そこから、私と女子学生との間に、対話がはじまり、日がたつにつれて、その対話は具体化し、深められていった。結局、彼女達が最も深く悩み、苦しんでいる問題は、「女子学生自身、現代に生きる人間として、どのようにして自立的思想を確立していくか」「女性として、仕事と職業をどのように考え、それを一生どのように、貫いていくか」という二点につきることが明かになった。
 彼女達の多くは、私に、それを明かにすることを要求した。命ずるものさえあった。こうして、私はこのテーマにとりくむことになったのである。先日も、ある女子大学で話をした時「今こんな問題に取りくんでいます」と、口をすべらすと、彼女たちが拍手をしてくれるというようなことがあった。その時の感動は今でも忘れない。
 この本は、そういう期待と感想に支えられて、生まれたものである。勿論、本書が女子学生の期待に、如何程、応えているかという不安はないではないが、本書を読んだ女子学生は、一様に、読む前の彼女たちとは、全く異質な存在になっていることを発見することは間違いないという確信だけはある。本書は、そういう本である。中には、例外的に、本書の主張と同意見のために、変りようがなかったという女子学生もいるかもしれないが。
 なお、本書は、一応、女子学生のために書かれたものであるが、ここに書かれた問題、なかでも、高校の勉強と大学の学問との本質的な相違などは、高校時代より、とことん考えておかねはならないものであり、高校時代に考えていて、初めて、大学生活も充実できることから、ぜひ、高校生にも読んで貰いたいと思う。
 同時に、ともすると、現代社会に、有効性を失いがちの知識や理論に、根本的検討を加えるとともに、また社会を分担する女性と男性の関係はどうあるべきか、どういう女性、どういう男性が理想像であるかなどについて書いている。だから、男子学生にも読んでほしいと思う。討議の一つの資料にしてほしいと思う。
 最後に、本書を書くにあたって、小倉豊文、渡辺則文、井上公正、越原公明、吉永昭、青木勇三、垣田時也、西宮一民、松村緑、一番ヶ瀬康子諸氏の御指導御助言をいただいたことに深く感謝したい。

  1967年5月

                    著 者

 

 

     <目  次>

 

  はしがき

第一章 女子学生の現状

  1 不平不満にみちた女子学生
     少なすぎる教授の数
     入学式ではやくも絶望
     適切な指導のないままに模索
  
2 大学への夢と希望
     何のために大学へ行くのか
     大学は高校の延長ではない菩だが
     大学入学の目的は男子学生よりも明確
  
3 女子学生はどう生きているか
     人間として、指導者としての教授に期待をもてない
     生き方を追求する場でなくなった大学
     自分の問題に積極的にとりくむこと
  
4 何から考え始めるか
     まず自分自身を考えること
     悩みをごまかさずに
     自分をつきつめたところに本当の研究テーマがある
  
5 どう問題意識をもつか
     “性格的欠陥がある”ということ
     “自分の能力に自信がない”ということ
     “容姿に自信がない”ということ
     “思想と行動が一致していない”ということ
     “女性は家庭に帰るべきか”ということ
     “女性の能力と役割を考える”ということ

第2章 思索と体験

  1 私の疑問
     中学三年の体験と怒り
     学校教育に疑問をもつ
     自分に求め自分で学ぶことの大切さを知る
  
2 女子高校生の悩み
     学力と人間としての能力は別のもの
     男性だけが人間なのではない
     学力より問題意識をもつ人間が大学へ入るべきだ
  
3 サークルでの私の学習
     真の研究対象をサークルに求めて
     学生課の抑圧に抗して続けたサークル活動
     サークルの活動が私の思想をつくった
     反対した父親もついに協力
  
4 女性の能力とサークル活動
     今こそ女性の能力と役割を研究する必要が
     サークル活動で何をなすべきか
     サークルとは現代の常識を問いなおす場所
  
5 戦中派の挫折
     一人で抵抗しつづけた私の軍隊生活
     日本は本当にだめなのかという問いの中で
  
6 学生運動の中の挫折
     絶望し挫折することが必要
     “女性は家庭へ”の底にある戦中派の挫折
     挫折に追い込まれてはじめて問題意識が生ずる
  
7 再び現代に挑戦
     戦後の絶望の中から私を立ち上らせた僧道元
     歴史の意味と本質を問うことの重大性を知る
     人間とは何かを根本的に問う学問“仏教” 
     人間を知るために恋愛文学を読む
  
8 現代社会と女子学生
     現状維持を望む社会
     現代社会と対決するために必要な読書
     女子学生必読の本
  
9 私の卒業論文
     学生運動を重視しながら運動にはタッチしない
     卒論は教授に見せるためのものではない
     卒論で自分の生きる道を確立
 
10 卒論にどうとりくむか
     卒論のない大学生活は大学生活といえない
     一生のテーマになり得る卒論テーマを
     卒論を人生の出発点とすること

第3章 思想的自立をめざして

  1 高校と大学との違い
     知識をつける高校、考え方を確立する大学
     批判に始まり、批判に終る大学の学問
     高校と大学は全く異質
  
2 教養・学問・仕事
     教養・学問・仕事は別個に考えられない
     一般教養に疑いをもつこと
     学問を実学としてつかませるものが教養
  
3 学生運動の中から
     学生運動は真理追求の場
     学生運動なしに学生の自覚は生まれない
     能力の開発・思想の確立にも重大なポイント
  
4 自立的思想とは何か
     思想とは人間そのもののこと
     徹頭徹尾自分で考えぬく
     奴隷の思想をもたず、思想の奴隷にもならない
  
5 思考方法をもつということ
     一人の思想家の思想を生きてみること
     知識をぶつけるのでなく考え方をぶつけあう

第4章 未来を創る思想

  1 欲望と感覚に根ざした思想
     確かな自己主張は欲望に根ざした思想から
     欲望は知識の親である
     欲望に方向づけをする感覚
  
2 大学の改革にむかって
     学問は行動をリードできるものでなければならない
     大学の改革は身近かな問題から出発
     一人びとりが改革案をねってみることが必要
  
3 現実にきりこむ行動と思想
     家庭という小現実の問題にとりくむことから
     家庭の問題こそ現代改革の源泉

第5章 女性と職業と社会

  1 仕事と職業
     仕事と職業は別個のもの
     自分の仕事を達成するために職業を転々
  
2 学生アルバイトと職業観
     家庭教師という職業の矛盾
     アルバイトは職業観をゆがめる
     仕事と職業を混同する女子学生の現状
  
3 職業を開拓する女子学生の会
     女性が職業につくためには闘いの姿勢が必要
     忍耐と努力が必要であることを知っている女子学生
     男性の寄生虫から脱皮しようとする動き
  
4 結婚は職業に優先するか
     結婚に逃避した女性に真の家庭づくりはできない
     互いに良き理解者、協力者、指導者という夫婦関係を
  
5 主婦業は職業になりうるか
     家庭は夫婦で運営し、家事は分担すればよいもの
     旦那業が職業でないように主婦業も職業ではない
  
6 母親と職業
     職業をもつ女性の半数は母親
     仕事をもつ母親は子供の誇り
     仕事に立派な女性が母親としても立派になれる

第6章 結び

 

                  < 目 次 > 

 

第1章 女子学生の現状

  1 不平・不満にみちた女子学生

 少なすぎる教授の数

 女子高校生のうち、大学に進学する者は年々増加の一路を辿っており、昭和四十一年四月には、四年制大学の入学者54,949人、短期大学の入学者95,464人となり、遂に15万人をこえたのである。しかも、大学入学の希望者は今後もなお増えるという見透しの下に、昭和四十二年度には、新たに41の大学が新設された。女子学生の数に男子学生222,741人を加えると、実に、373,164人の入学者となり、これは、戦前、大学生の最も多かった昭和十八年当時に比べると、約22倍という数字である。
 まさに、文化国家日本にふさわしい学生数ということがいえよう。といっても、この数字は、同一年令人口の14%強にすぎず、これをアメリカの38・9%(1962年)、ほぼそれに近いソビエトに比較すると遠くおよばない。しかも、四年制大学における女子学生の比率は20・6%にすぎない。アメリカの三38・0%(1964年)、ソビエトの42%(1962年)に比較すると、これまた非常に少ないことがわかる。ただ、短期大学生を含めると女子学生の比率は40・3%となり、漸やくアメリカ、ソビエトの水準に近づく。この事実は、どんなに誇りに思っても、誇りにしすぎるということはあるまい。
 だが、大学教育には非常に金がかかる。建物があればいいというものではない。しかも、その建物すら、昭和四十一年度で、推定26万人しか収容できないところに、37万人も入学させているのである。これでは、到底満足な教育、研究などできるわけがない。まして、設備とか大学教師の数は、急増する大学生にはとても追いつけない。
 ある私立大学の教授は、「うちの大学の教授の平均年令は73才。68才の私が少壮教授だからね」と、私に語ってくれたが、それが現実である。自然、少ない教授の数で、多くの大学の需要をみたそうとするから、かけもち講義は多くなり、オーバー・ワークのために講義もおざなりにならざるを得ない。これでは、講義内容に学生が不満をもつのも無理はないし、学生の中に、真剣に研究にとりくまない者がでてくるのもしかたのないことである。こんなところに、「女子学生亡国論」なども出てきたのであろうが、それもまた、やむを得ないともいえよう。
 だが、そういう怠慢な女子学生までもふくめて、どの女子学生も、高校を卒業して大学に入学した時には、皆一様に希望に胸をふくらませていたのである。彼女たちは、高校に対してとは違った期待を、未知なものを学ぶ期待をいだいて、大学に入学したのである。
 入学して、その期待通りの講義をきくことができ、実り豊かな学生生活を送ることのできる女子学生は誠に幸いだが、そうでない学生は入学後いくばくもしないで、大学当局や大学の講義にその期待の多くを裏切られるのではないか。

 

 入学式ではやくも絶望

 東京学芸大学の渋沢久代さんは、「意気揚々と大学に入ってきた。それなのに、私は入学式の時から絶望した。先生や先輩の挨拶に、劣等感とか小金井病とかが、全くそれを売りつけるかのように、あまりにもしばしば出てきたからである」(「青柚」)と、入学式の日に、はやくも絶望したことを記している。これは特殊の例かもしれないが、私が昭和四十年十一月に調査した結果によると、

    奈良女子大生(文学部二年生 30名)
     大学当局に対して非常に不満  32%
     少しある           49%
     殆んどない          17%
     無解答             2%
    相模女子大生(文学部二年生 48名)
     大学当局に対して非常に不満  67%
     少しある           32%
     殆んどない           0%
     無解答             1%
という数字がでた。

 勿論、学生の要求に基準もなく、その答えは全く主観的なものであるから、学生の正確な不満度を測ることはできない。もしかすると、相模女子大生の方が奈良女子大生よりも要求度は強いともいえるが、一応、奈良女子大は、数少ない国立大学なので、設備や教授陣も比較的にそろっていると考えられる。それにしても、32%が非常に不満であるという数字は高い。他方、相模女子大は伝統のある女専が昇格した大学である。そこに学ぶ学生の67%が非常に不満であるということは、女子大学のうち、その半数以上が伝統もないまま、戦後、急造された大学であることを考えると、そういう大学に学ぶ学生は、相模女子大生以上に不満があると考えてもいいのではあるまいか。
 次に、教授の講義に対して、学生はどうみているかということになると、これもやはり好ましい結果はでていない。昭和三十九年に報告されたお茶の水女子大生(一年生)の結果では、

     大学の講義に満足している    7%
     どちらかといえば満足   22・8%
     部分的に不満       50・7%
     不満            7・7%
     わからない         4・9%

となっている。それが上級生になるほど、不満な学生は増加している。その理由としては、講義内容が乏しい。講義に不熱心、講義が一方交通であるなどとなっている。
 私の前記の調査でも、

    奈良女子大生
     非常に不満  38%
     少し不満   54%
     殆んどない   8%

    相模女子大生
     非常に不満  46%
     少し不満   54%

という数字がでている。
 大学や教授に満たされない学生の数が相当な数にのぼることはたしかのようである。そこから、いつか、その中の多くの学生が、現状をうけいれて、現状に埋没していく者に変貌し、ある一部の学生は怠惰な学生にもなっていくのである。そして、ごく例外的な学生だけが、その絶望と不満を出発点として、自ら考え、学び、研究する以外にないということを思いはじめる。このようにみてくると、現状に流される学生も怠惰な学生も、大学そのものが生産したといっても過言ではあるまい。

 

 適切な指導のないままに模索

 といっても、大学の生活は高校とは違う。高校のように、何から何まで教師に指導されるところではない。むしろ、大学生が自ら考え、学ぶことによって、教授から、その指導助言をひきだすのが大学というところである。それがまた、教授を刺激することにもなる。まして、現状のように、設備、教授が劣っているなら、なおさらそうである。
 だが、女子学生のうちには、高校時代は受験にあけくれ、大学では、適切な指導、助言もないままに低迷している者が多い。どう学び、どう考えていたのか模索している学生が多いのも事実である。
 私は「女子大学」(日経新書版)を書いた関係で、いろいろの大学に招かれ、数多くの学生と親しく話をしている間に、そのことを痛感した。一見、現状に流されているようにみえる学生、怠惰と見える学生の中にも、意外に、深い痛苦が宿っているのを思いしらされた。自ら学び考えようと模索している学生の場合はなおさらである。彼女たちは、自分の現状に満足していない。その悩みをいだいたまま、不満をいだいたまま、模索しながら生きている。それこそ、切実に、適切な助言、有効な指導を求めている。勿論、そういう生活こそが、大学生の生活であるといいうるが。
 この本は、そういう願いと希望に、少しでも答えようとして書いたものである。長い間の模索に疲れて、逃避してゆく学生、現状に流されてゆく学生のために、逃避したり埋没したりしないように、少しでも参考になり力になるようにと、書いたものである。といっても、私に、専攻を異にする多くの学生の要求に応えうるものが書けるとは考えていない。しかし、専攻に入る前の学生が、大学というところで、何を考え、いかに生き、いかに学ぶかについては、書くことができる。専攻の学問は、どういう基盤の上に成立の必要があるかについては述べることができる。それは、私が大学時代に、全身で考え、究め、それをそのまま、今日に継続し、発展させていることでもあるからである。
 学生が、人間としての思想的自立を獲得するとはどういうことであるのか、思想的自立への巨歩をふみだすためにはどうすべきか、その関連の中で、職業を選択し、仕事を確立させるとはどういうことなのかということ、それらをふまえての私の諸論は、今日の女子学生が生きる指針を考え、決定する上に、参考になるであろう。そのための努力と思耐と勇気と思考を、女子学生が敬遠しないなら。

   <女子学生数の推移>

 四年制大学

 二年制大学

 合計

  昭和25年

  16,759人

   5,617人

  22,376人

    26年

  28,404人

  15,251人 

  43,655人

    27年

  40,295人 

  23,461人

  63,756人

    28年

  49,206人

  30,399人

  79,605人

    29年 

  57,301人

  35,902人

  93,203人

    30年 

  62,678人

  41,007人

 103,685人

    31年

  65,858人

  43,541人

 109,399人

    32年 

  68,268人

  43,669人

 111,937人

    33年

  70,708人

  43,960人

 114,668人

    34年

  75,946人

  48,152人

 124,098人

    35年

  82,915人

  55,129人

 138,044人

    36年

  92,741人

  62,346人

 155,087人

    37年

 105,790人

  73,001人

 178,791人

    38年

 118,001人

  84,729人

 202,730人

    39年

 129,047人

  89,284人

 218,331人

    40年

 140,886人

 102,644人

 243,530人

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

  2 大学への夢と希望

 何のために大学へ行くのか

 女子高校生の多くは、自分の生き方を省みる暇もないほどに、大学入試に追われる日々を送っている。実は、高校時代こそ、人生の意味や価値を考えはじめる時であり、自らの人生をいかに生きるかについて究明しはじめなけれはならない重要な時期に直面している。しかし、多くの高校生にはその余裕が与えられていない。教師や両親の中には、そんなことを考える暇があったら、単語の一つでも暗記した方がいいという者さえいる。これでは、高校生の中に芽生えた折角の自ら感じ、自ら考える芽をつんでしまうようなものである。
 それほどに高校生は大学の予備校化した高校生活の中に、自らの生活を抑圧し、本来あるべき生活を犠牲にして、何がなんでも大学に入ろうとしている。大学に入れば、その犠牲にされた青春を一挙にとりかえせるように思っている。無理に、自分にそう思わせようとする。そう思うことによって、灰色に近い高校生活すなわち受験生活を耐えぬこうとしている。では、そうした生活の中で、女子高校生は、一体、どんな夢を大学に託しているのであろうか。どんな期待をいだくことで、受験生活をがまんしているのであろうか。
 昭和四十年に東京都のある女子高校が、生徒に、大学進学の目的をきいて、次のような結果を出している。

   教養     37・64%
   職業の確立  31・06%
   学問、研究  17・76%
   資格      6・09%
   就職      3・60%
   なんとなく   2・36%
   親のすすめ   1・49%

 ここから考えると、女子高校生のうち、37%の教養組は、所謂教養を身につけて、結婚でもしようとする者、31%の就職組は就職から結婚を考えているのかもしれないし、6%の資格組は、花嫁資格か、あるいは、御主人がなくなった場合のことを考えて資格をとっておこうとするのかもしれない。
 要するに、女子高校生は、教養を、職業を、学問を大学生活に期待して、灰色に近い高校生活に耐えているということになる。
 だが、ここで、この質問条項に、疑問がおこらないであろうか。というのは、教養と学問とは、果して別々のものか、職業の確立ということは、教養、学問と別々のものかという疑問である。いうまでもなく、この質問は、高校教師が高校生に出した質問であり、高校生自身、そのことに疑問をさしはさむような批判力、思考力、判断力を養成されていない。養成されないままに、その質問に答えている。
 しかし、こういう質問は、この女子高校にかぎらず、どの高校でも、大体同じである。いってみれは、今の高校生は、教養と学問と職業を分離したままにうけとめ、多くの高校生は、そういう意識のまま、大学生となり、大学生活を送っている。大学生活を送るしかないようである。
 高校生は、高校で、大学に学ぶという意味を、高校の勉強と大学の学問との相違を、ほとんど指導されないままに終っているということが、この幼稚で、愚劣な質問によくあらわれている。
 だからこそ、大学に入学した女子学生は、高校生活をふりかえって、単に受験勉強にすぎなかったという者が大多数ということになるのであろう。私が、広島大学の女子学生34名について調べた結果でも、受験勉強にすぎなかったと答えた者が56%、人生を真面目に生きようとする姿勢を学んだ者16%となっている。岡山大学の女子学生になると、72%の学生が、単に受験勉強にすぎなかったことを嘆いている。人生観、社会観をそれなりに身につけた者というのは、わずかに6%しかいない。
 泉山中三氏が宮城学院女子大学の学生を調査した結果によると、62・3%もの女子学生が高校時代、趣味、受験以外の勉強、クラブ活動、交友、人間形成など、やりたくてもできなかったと答えている。そして、ここでも、高校時代に主としてやったのは受験勉強という答えを出しているものが55%もいる。いかに高校生にとって、高校生活が不毛であるかをこの数字はよく示している。

 

 大学は高校の延長ではない筈だが……

 要するに、女子高校生は、大学について、大学の生活について、大学の学問について指導されぬままに、教師の示した学問ということに、教養ということに、職業ということに、ただ、期待をもつことによって、灰色生活に耐えているのである。高校生にとって、学問でも、教養でもよかったのである。かじりつけるものさえあればいいのである。灰色生活を忘れさせてくれるものがあれはいいのである。
 しかし、高校時代、お粗末な質問をうけ、その影響下にあった高校生は、大学生になったからといって、急に、それから脱出することはできない。高校生活の考えを、そのままひきずって、大学生活を送る者が多い。それは、各大学で、大学生を対象に入学の動機を調査した質問条項が、高校のそれと全く変わらないところに、あらわれている。
 すなわち、昭和三十八年、奈良女子大生200名を対象に、大学に入った目的は何かという質問をし、

   教養を身につける      21%
   学問をしたい        22%
   職業を身につける      25%
   大学生活をエンジョイしたい 31%
   その他            1%

と報告している。同じく、昭和四十年、相模女子大生669名に対する調査として、

   教養を身につけたい   64%
   学問をしたい       2%
   職業を身につけたい   10%
   大学生活を満喫したい  13%
   その他         11%

と報告されている。大学生となった彼女たちが、いぜんとして、教養と学問と職業を分離して考えて不思議とも何とも考えていない。男女共学の法政大学の調査で、教養を身につけたいという項目がないのは、さすがともいえるが、(職業34・3%、学問31・6%、学生生活を楽しみたい24・7%、その他6・5%、わからない2・6%)日本大学の調査項目には、それがあって、54・4%となっている。
 これから判断すると、今日の女子学生の常識からすると、高校生と同じように、学問教養と職業は分立しているのである。高校生が、灰色に近い高校生活に耐えながら、大学生活に期待したものが、学問であり、教育であり、職業であったが、大学生になっても、高校時代に考えた学問と教育と職業とその内容の意味が少しぐらい変化したとしても、本質的には大差がないようである。彼女たちは高校時代の延長として、大学生活を送っている。
 これは、全く、おかしいことではなかろうか。高校生のときに持った大学生活の夢と、大学生の生活は少なくとも、質的に変化しなくてはならない。本当は、違ったものがあって、はじめて、高校生は、灰色に近い生活にも耐えられる筈である。というのは、高校生が、学問という名、教養という名で呼んでも、大学には、全く未知のもの、思いもしないことがおこるのではないかという期待である。そこにこそ、高校生が、その幼い頭脳で、学問とか教養とか職業とかの夢をもって、灰色に近い受験生活に耐えぬいている意味もあるのである。

 

 大学入学の目的は男子学生よりも明確

 そのように思えてならないのだがそのことはしばらく、あとまわしにして、世の中では、ともすると、男子学生に比して女子学生の方が入学の動機が薄弱であるかのごとく言われ、また思われているようだが、実際にはどうなっているのであろうか。花嫁の資格のために大学に入る者が多いという印象をもたれているが、

 東大生1,113名の調査結果は
   職業につくため    72・8%
   学問をするため    11・6%
   大学生活を楽しむため  8・9%
   その他         2・7%
   無解答         3・7%

 法大生406名の調査では
   職業につくため    70・4%
   学問をしたい      8・4%
   大学生活を楽しみたい 17・0%
   その他         3・4%
   無解答         0・7%

となっている。
 こうしてみると、女子学生の職業意識は、男子学生にくらべて、断然低く、学生生活を楽しみたいという者も多いが、反対に、学問や教養を身につけたいという者は、女子学生の方が断然多い。ということは、ただ単に、職業につくために、そのための資格をとるために大学に入学するという男子学生よりも、女子学生の方が、むしろ、大学というものをより深く理解して入学しているともいえそうである。入学の目的がより明確とさえいえる。そして、一見、男子学生より低いと見える職業意識にしても、私が調査したかぎりでは、奈良女子大生で96%、相模女子大生で90%は就職を希望しているという数字も出ている。世間でいわれているように、女子学生の意識は、男子学生に比して、決して低くないということを示している。
 それに全女子学生のうちの10,491人は、夜間部に籍を置いているし、(昭和三十九年度)、全女子学生のうち、28・4%の者はアルバイトをしなくては学生生活をつづけることは困難という調査結果もでている(昭和四十年度)。女子学生の学習意欲は相当なものであるということができよう。
 勿論、その場合にも、女子学生が、学問と教養と職業をどのように考えているか、大学当局がどんな学問観と教養観そして職業観を女子学生に与えようとしているかは、決定的に重要なことであるが、一部の怠惰で不真面目な学生をみて、女子学生亡国論を吐くほど、ナンセンスなことはない。しかも、すでに書いたように、そういう学生すら、その多くは、大学が生産したことを考えれば、なおさらである。
 なお、念のために、雀部猛夫氏、溝口靖夫氏、難波紋吉氏によるキリスト教系女子大学学生が、何故その大学をえらんだかという調査報告を附記しておこう。

     <調査報告>

宮城女学院

広島女学院

東京女子大

神戸女学院

学問的水準が高いから

  2・8

  2・5

 27・3

 14・1

高い教養教育が行われているから

 17・5

 25・3

 31・1

 18・7

宗教教育が行われているから

 18・8

 30・4

  5・2

 11・1

国際的雰囲気があるから

  2・3

  8・9

  0・9

  6・8

評判がいい

 10・9

 13・9

 10・5

 19・4

環境設備がいい

 11・7

 21・5

  8・7

 22・4

なんとなく

 28・2

 29・1

 11・0

 26・9

その他

 12・7

 10・1

  9・9

 10・8

無回答

  6・1

  2・5

  1・2

  2・0

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

  3 女子学生はどう生きているか

 人間として、指導者としての教授に期待をもてない

 女子学生の80%は、彼女たちの表現によると、そのめざす大学で、教養、学問、職業を身につけようとして、あえて、無味乾燥な受験生活を頑張り通したことになる。また、20%の女子学生は、大学生活をエンジョイしたいと書いているが、その学生にしても、本当は、誰にも邪魔されず、教授からさえ規制されずに、のびのびと、大胆に、しかも精一杯に、比較的自由である大学という環境の中で、青春の自由を初めとして、真理を探求する自由を、全身で味わってみたいということを大学生活をエンジョイするという形で表現したのかもしれない。
 それは、大学当局や大学教授が、ともすると、女子学生に与えようとしがちな、既成の学問観や価値観でないかもしれない。そこには、危険をはらんでいるかもわからないが、危険をおそれていては何も新しいもの、新しい学問、新しい価値は創造されない。考えようによっては、この20%の女子学生こそ、本当に生き、考え、学んでいるものということができるのかもしれない。
 このようにみてくると、今日の女子学生はやる気が十分にあると断言することができる。ただ、方向がつかめぬままに、低迷しているにすぎない。では、何から、学び、考え始めるか。問題はそこにある。それこそ、重要な問題である。
 しかし、その問題に入るまえに、女子学生が、教授をどのように見ているかを、まず、みてみよう。そこに、女子学生が何から考え始めるかについて、確認しておかねばならない重要な鍵があるからである。
 しかし、女子学生の教授の講義への不満度はすでにみてきた。そして、それが相当な数字にのぼることもすでに述べた。だから、ここでは、人間として、指導者としての教授をどう見ているかについて述べてみよう。幸いなことに、ここに、藤永保氏が、東京女子大学の学生142人を対象にした調査結果がある。それによると、教授との交渉はどの程度かという質問に対して、

   ほとんとすべてうちあけて相談         7%
   ある範囲までうちあける           16%
   話しあえることと話しあえないことを区別する 14%
   あまり打明けて相談できない         20%
   全く表面的な交渉があるだけ         43%

と答えている。
 次に教授と貴女とは、お互の考え方やものの見方をどの程度、相互に理解しあえるかという質問には、

   お互に、十分理解しあえる         1%
   お互に、大体理解しあえる        13%
   理解できることも理解できないこともある 32%
   あまり理解されないし、理解もできない  12%
   ほとんど相互に理解できない       10%
   わからない               32%

と答えている。
 この数字からみると、半数以上の女子学生は、教授を人間としても指導者としても期待していないことになる。人間関係を厳密に考えれば、こういう結果がでるのも当然ともいえるが、教授と学生の関係ということになると、全く寂しい関係ということがいえよう。私が、甲南女子大生64名に調査した結果では、

   積極的に教授に相談する  2%
   少し相談する      20%
   ほとんどしない     78%

という数字がでている。

 

 生き方を追求する場でなくなった大学

 甲南女子大学といえば、入学直後には、教授と学生の合同合宿をやったり、夏休みは夏休みで、教授をふくめた全学の合宿をやって、教授と学生との交渉を積極的に深めようとしている大学である。
 学生がどうして教授に期待しなくなったのか、相談しにくいと考えるようになったのか、それとも、女子学生が消極的すぎて相談できにくいのかは、十分に調べてみる必要がある。が、いずれにしても、その理由の第一としては、マス・プロ教育のなかで、教授と学生の親しみや信頼が生じにくくなったことが考えられよう。しかし、その問題が早急に解決するとも思えないし、むしろ、大学の方向はいよいよマス・プロ化の傾向を辿っている。
 では、今日の女子学生は、その疑問や悩みを誰に相談し、誰の指導をうけようとしているのであろうか。また、その疑問や悩みをどのように解決していこうとしているのであろうか。
 私の調査によると、奈良女子大生の場合、友達、母姉、父兄、上級生、教授という順に相談し、相模女子大生、甲南女子大生になると、母姉を最高に、友達、父兄、上級生、教授という順序になっている。たとえ、その疑問や悩みが個人的なことであったとしても、一番適切な指導、助言をひきだせる教授や上級生が最低で、最も適切でない解答しかできないといい得る母姉が最高というのは、どうしても理解できない。しかし、それが、実情のようである。
 教授が、なぜ、助言者、指導者の位置を失っているかについては、前記の東京女子大生の教授評価で、大方は想像できるが、少なくとも、今日の女子学生の多くは、大学生としては、どこか狂っているといえる。
 しかも、その疑問や悩みの解決には、ほとんどの学生が、自分で積極的にとりくんでいると答えながら、それでいて、書物を導きとして積極的に考えていくかという質問には、奈良女子大生の48%が然りと答えているのに対して、相模女子大生17%、甲南女子大生16%となっている。書物を通してはほとんど考えないという者が、相模女子大生17%、甲南女子大生33%もいるのである。
 教授にも書物にも相談しない学生が相当数いるということは、教授や書物を信じることができなくなった戦後派の女子学生という問題があるが、これでは、自分で積極的に考えるといっても、思考力が強靭でない学生の段階では、多くは、からまわりするしかなかろう。
 ここからは、疑問や悩みをもっても、それをいかに考えいかに解決するかということはでてこないのではないか。要するに、生産的に考えることは、どういうことなのかを知らないのである。勿論、教授にとことん絶望し、期待しなくても、書物の宝庫の中に、自分の悩みや疑問を解く手がかりを求めていくなら、それはそれでよい。時には、すばらしいことでさえある。

 

 自分の問題に積極的にとりくむこと

 学生とは、現実の社会からより多く学び、より正確に社会を理解するために、それに必要な理解力、判断力、分析力などの思考力を身につける立場にある筈である。それこそ、学生は、大学生活の中で、生きる姿勢、学ぶ姿勢を十分に考え、確立しておくことが必要である。また友達どうしで、何もわからぬながらも、必死に模索しようとするなら、それ以外にないと考えるなら、その立場を確認し、確立しておくことが必要である。なにごともいいかげんにしないで、徹底的に、自分で見極めていくのが、学生というものである。戦争をやり、それに没入していった戦前派、戦中派の教授、助教授は信頼できない、あとについていけない、私はただ、比較的自由に学び、思考できる大学、図書もそろっている大学という環境を求めたにすぎないと考えるなら、それは、それで十分に立派である。それこそ友達と一緒に模索すればよい。
 だが、繰返して書くが、どういう立場で、どう生き考えるかということだけは、十二分に考え、確立しておく必要がある。それが、その後の学生生活、研究生活を実り豊かにするかどうかの鍵をにぎっているからである。中途半端な姿勢だけはいけない。そこから、考えつめ、考えきる生活は生まれないからである。もし、教授に、書物に求めない姿勢が大学生活の中に培われたものであっても、そういう姿勢だけは、少なくとも書物に求めないという姿勢だけは、今直ちに捨てるべきである。そして、自分の問題は積極的に考えると、ほとんどの学生がいっているように、その積極性を、教授に求め、書物に求めることにひろげていただきたいものである。深めていただきたいものである。でなければ本当の意味で、また正確な意味で、自分の問題に積極的にとりくんでいるとはいえないからである。積極性、それほど、私達に必要なものはない。しかも、誰でも、自分のことには、容易に積極的になりうるものである。私もそのことを信ずるし、女子学生にも、それを信じて貰いたいのである。

 

             <女子学生の生き方 目次> 

 

   4 何から考え始めるか

 まず自分自身を考えること

 次は、いよいよ、何から考え始めるかについて、書くときになった。だが、ここで、もう一度、道草をしてみたいと思う。
 御承知かもしれないが、民俗学者柳四国男という人は、その研究テーマというか、問題意識を、彼の幼い日の生活経験、生活感覚からつかみ、それを究明しようとして、深い研究生活に入った人である。すなわち、柳田は、
「長兄は20才で近村から嫁をもらった。しかし、私の家は二夫婦の住めない小さい家だった。母がきつい、しっかりした人だったから、まして同じ家に二夫婦住んでうまくゆくわけがない。……わずか一年ばかりの生活で、兄嫁は実家へ逃げて帰ってしまった。兄はそのためにヤケ酒を飲むようになり、家が治まらなくなった。……私はこうした兄の悲劇を思うとき、私の家は日本一小さい家だということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささという運命から、私の民俗学への志も発したといってよいのである」
「饑饉といえば、私自身も、その惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるものであって、饑饉を絶滅しなければならないという気持が私をこの気持にかりたてたのである」
「私の故郷では、よく津の国は七分の飯といって、摂津の国は麦七分、米三分の混合率の食事をとる所であると、貧しさの譬に引いたものである。……ところが13才の時、長兄のいる茨城県布川に移ってみると、驚いたことに、まだこの地方に裸麦は伝播しておらず、麦といえば大麦のことであり、引割麦という名称すら知る人もなかった。……私はこうした播州、下総両国間の距離を子供心に考え、ひいては女性労働の問題や民謡その他の事柄に目をひらいていったのである」
 と書くように、彼の民俗学上の研究は、その幼い生活経験、生活感覚に根ざし、現実の問題として深くかかわったからこそ、どういう条件の中でも、その研究を持続でき、思想的な節操も強固に維持できたのである。
 人間には、誰にでも、このように疑問やその人の心を深くとらえた問題がいくつかあるものである。そういう問題は深く切実であり、人間の存在を支える感覚と深くきりむすんだものである。そういう問題を出発として、学問上の問題に発展させたものは、当然、その問題意識と、その解決にとりくむ姿勢は切実であり強固である。社会科学、人文科学を学ぶ学生は、とくにそういうところから、自分の研究テーマ、問題意識をとらえる必要がある。そこには、自分自身と研究テーマとの間に深い結合がある。自分自身と研究テーマが統一的に追求される。
戦前派の学者、教授の多くが、その思想的転向をやり始め、否定し、批判していた大東亜戦争にのめりこんで、いつのまにか、それを肯定していったのも、その研究テーマを自分自身の問題からつかみ発展させることをしないで、どちらかというと、書物の中から、興味のおもむくままに観念的に、その問題意識をつかみ、それを、早急に、現実とかかわらせていったためである。大東亜戦争の批判が自分自身の問題になっていなかったためである。このことは、あとで、もっとくわしく述べるとして、彼等は、その頭脳の回転の早さにまかせ、その才にたよって、問題意識を要領よくとらえたもの、そのために、本当には自分自身の問題となるところまでいかなかったのである。だから、その問題意識を捨てた後に、それと全く異った問題意識を平気でもち、研究テーマをもつことができたのである。精緻であるが、熱情的でない学者、心情的でない教授に、往々思想的節操がみられないのもそのためである。そこには、自分自身の問題が投入されていない。自分自身の存在が賭けられていない。学生が、無味乾燥な講義が多いとなげくのもそのためである。頭脳の働きはあっても、ほんの少ししか、自分の感情は入っていないのである。柳田のように、その問題意識、研究テーマを、その生活体験、その生活感覚の中からつかみ出してはいない。この事実は、女子学生に、その生活体験、その生活感覚の中から、問題意識をさぐり出し、研究テーマにすることを教えるであろう。それが決定的に重要なことであることを教えるであろう。

 

 悩みをごまかさずに

 では、具体的に、それは何を指し、何を意味するのであろうか。女子学生のうちには、どういう疑問や悩みがあるのであろうか。まず、そのことから述べよう。というのは、女子学生は、一様に、少年から青年への過渡期にあり、精神的にも思想的にも、混乱し低迷する。それは自立を求めてのあがきであり、模索である。そこから、彼女たちは悩み、苦しみ始める。女子学生の約80%が、自分自身に非常に不満であると答えるのもそのためである。彼女達は、現在の自分に不満をいだき、よりすぐれたものになりたいと痛切に考えはじめる。そのための悩みであり、不満である。中には、悩みを悩んで、陶酔しているような人もいるが、それすらも、その悩みを思想的に明らかにしようとする苦闘であり、苦闘する悩みである。
 悩みなんて、全く非生産的である。それは全く無意味であり、馬鹿らしいと他人から言われ、また自分で思ったとしても、悩まずにはおれないのが青年期の悩みである。それをつっきる以外に、あるいは、ごまかしてしまう以外に、いいかえれば、自分なりに解答を見出すまでは、それから離れることのできないのが青年期の悩みである。それほど深く、痛切である。そういう悩みに、女子学生はかこまれ、その中で生きているのである。もし、悩まないのを誇り、悩みが少ないのを誇りとする青年があったら、それはもう青年の名に値しない。人間的成長とか思想形成ということには無縁な学生である。そういう学生は、もはや、学生であって学生ではない。
 だからこそ、女子学生自身も次のように書くのである。
「私は悩むことは好きです。少々語弊のある言葉ですが。なるほど、それは居心地のよい状態ではありません。でも悩みぬくことは、自分が少しでも成長するような気がします」 (東京学芸大学生 田島悦子さんの手記)
 金子信光氏は、福岡学芸大学の女子学生について調査した結果を次のように報告している。悩みの強いものから、順次にあげてみると、自分には性格的欠陥がある。自分の能力に自信がない。毎日の生活が単純で刺激がない、容姿に自信がない。自分の思想と行動が一致していない。学業でよい成績がとれない。卒業後安定した生活に入れるかどうか心配だ。自分の人生観がいつもぐらぐらしているなどである。
 奈良女子大の学生部が、その学生について調査したところでは、次の表の通りである。

順位

領域

頻度

内容(1例をあげ、それに類するものの頻度を( )内に示してある)

 1

将来

105

就職のことが気になる(53) 卒業後の生活の見通しがつかない(0) 就職か進学か迷う(12)

 2

学習

 92

能力に自信がない(37) 勉強に意欲がわかない(35) 卒論のことが気になる(11) その他(9)

 3

教育内容
方法

 70

学科に不満がある(25) 教官に不満がある(13) 女子大に不満がある(13) 授業に不満がある(10) その他(9)

 4

性格

 64

人のことを気にしすぎる(10) 消極的である(9) かたよった性格である(9) 自意識過剰である(5) その他(31)

 5

社会
適応

 51

社交的でない(13) 対人関係に苦しむ(13) 親友が得られない(10) その他(15) 

 6

宗教・道徳
人生観

 45

信仰がぐらつく(7) 倫理観の喪失(7) その他(3) いかに生くべきか(20) 虚無観(8)

 7

家庭

 37

家族のものと意見が合わない(13) 家族に病人(または困った者)がある(10) 家族の拘束(または責任)を感ずる(8) その他(6)

 8

健康
容姿

 31

からだに無理がきかない(13) 感官障害、疾患がある(8) 身体美、容貌に劣等感がある(8) 女性的性徴に乏しい(2)

 9

異性

 31

異性との交際がうまくいかない(18) 結婚問題で悩む(9) 恋愛、失恋(4)

10

経済

 27

学資を家庭に負担しすぎるのが苦しい(10) 奨学金が欲しい(6) 経済的に乏しく日々にゆとりがない(6) 進学資金がない(2) その他(2)

11

思想
社会問題

 16

思想と生き方に関して(7) 理論と行動の矛盾(3) 社会における女性の地位(4)社会の動きと生き方(2)

12

課外活動

 10

サークル運営上の責任感(4) やめたいがやめられない悩み(3)時間が足りない(2)自治会活動批判(1)

13

住居
食事

  8

寮の住、食生活に関して(4) 適当な下宿がない(3) その他(1)

14

教養

  7

教養のためにしたいことをする時間がない(3) 視野がせまくなる(2) その他(2)

 ◎

自己

 56

自己を対象にして{大学生としての反省(12) 人生に対する信念、目標の欠如(10) 生活態度の反省(6) 存在意義、価値への疑惑、自己嫌悪(9) 人格に対する反省(5) 精神的、社会的自立に関して(7) 才能、知識、経験の欠如(3) その他(4)}

 

 自分をつきつめたところに本当の研究テーマがある

 いずれも、その悩みの中心となり、強いのは、自分自身のこと、あるいはそれに関連することで、社会的問題、政治的問題は非常に少ない。教授に相談する者が少ないということも、そのためともいえるが、女子学生は、実際に、これらの問題を全身で悩んでいるのである。それらがなによりも女子学生にとって、重要であるのである。それこそ、真先に解決しなければならない人生の問題である。しかも、これらの問題は、どの一つをとっても、女子学生のみでなく、人間一般にとって重要な問題である。それは、十分に研究のテーマになり、学問的課題になるものである。
 だが、女子学生は柳田国男のように、これらの問題を研究テーマにすることもなく、また研究テーマに出来ない。大学というところは、奇妙に、そういう雰囲気がある。学問的な研究のテーマは、そんなものではないというような雰囲気がなんとなくある。それは、日本の大学に、日本の教授に、学問的な研究テーマは、書物の中に、専門書の中にあると錯覚しているものが多いためである。人間の当面する問題、現実社会の問題から出発し、それの解明のために存在した学問が、いつか、現実の人間、現実の社会のことを忘れて、書物の中に迷いこんだためである。そして、研究テーマは、書物の中にしかないという常識をいつのまにか、つくったのである。
 だが、女子学生が当面し、かかえこんでいる悩みや疑問こそ、彼女たちが問題意識としてもち、研究テーマにできるもの、また研究テーマにしなければならないものである。とくに、戦後の大学が、二年間あるいは一年間、一般教養を学ぶようにしたのも、こういう問題を学生自身に自ら考えさせ、思想的に究明させるのが、本来の目的であったのである。いいかえれば、一般教養は、学生のこういう悩みや疑問に解答を与えるのが目的であった。大学の学問として、それらの問題を究明するのがねらいであった。
 しかし、実際には、一般教養は、学生自身に蔑視あるいは無視されており、大学当局や大学教授の中にさえ軽視するものが多い。それというのも、一般教養が何を意味し、何をねらっているかを、教授も学生も知らないものが多いのと、学者、教授の中には、頭脳が明晰であるという理由で、学者、教授になった者が多く、青年期に、全身で、人生の意味や価値、人間の能力ということで、悩み、苦しんだ者が少ないということも原因している。そのために、折角の一般教養が、学生自身の当面する問題に全く答えることができないのである。勿論、そのことを教えられない学生がそのことを知るわけもないが、だからといって、学生が、のんべんだらりと、一般教養と名づけられた奇妙な講義を高校時代の復習と錯覚して、ただがまんして、聞いているというのも全く芸がない。といっても、本来の一般教養として、充実し、すぐれた内容の講義のあることを全く否定するのでないことは一応付記しておく。

 

           <女子学生の生き方 目次>

 

   5 どう問題意識をもつか

 “性格的欠陥がある”ということ

 女子学生は、それぞれ、多くの悩みと疑問をもっている。その悩み、その疑問こそ、彼女たちがまず究明し、明らかにすべきものと述べたが、実際に、多くの悩み、多くの疑問はどのようにして、彼女たちの問題意識になり、学問上の研究テーマになるのであろうか。
 福岡学芸大の女子学生は性格的欠陥があるのでないかという疑問を最も多く、最も強くもっていることを明らかにしているが、この性格的欠陥という問題を、心理学の問題として究明してみるのもよいし、教育学の問題として追究することもできる。社会学の問題として究明できないこともない。そのことから、自然、一般教養として、心理学を択ぶか、教育学か社会学の講義をきくかという問題もおこってくる。当然、大学の講義を聞くだけで満足できず、その講義を出発点とし、次々と心理学関係の書物を読む必要にせまられる。学生のあるものには、教育学関係の書物であるかもしれないし、あるものには、社会学関係の書物であるかもしれない。中には、そのことを多面的に究めようとして、心理学、教育学、社会学の領域にふみこまざるを得なくなるかもしれない。
 そういう研究の過程で、はじめて、自分が性格的欠陥とみたものが、言葉の本当の意味で、性格的欠陥なのか、青年期特有の思いすごしなのかもわかってくるし、性格的欠陥も矯正した方がいいもの、それができるもの、できないものというようなこともつかめてくる。こういうことがいろいろと明らかになっていく中で、自分の悩みが一歩一歩と解決されていくだけでなく、そこから、更に、その研究をふまえて、将来の研究や仕事までも、自然に明らかになるという場合もおこってくる。どうしても、そういうことに関連した研究や仕事がやりたくなるということもでてくる。

 

 “自分の能力に自信がない”ということ

 二番目にあがっている、“自分の能力に自信がない”ということについて考えてみよう。能力を倫理学の問題として、その面から究明することもできようし、歴史学の立場から究明してみるのも面白いであろう。能力、能力と普通には漠然といわれて、使用されているが、本当に能力とは何なのか、どういう要素をもっているのか。歴史学のなかで追求してみるとすると、歴史上、能力者とみられている人たちを具体的に何人か究明してみるということになろう。また、逆に無能力といわれるような人を研究してみるのもよい。そこから、思わぬことを発見し、知るに違いない。能力には、学校という社会で一般に使われ、いわれている一元的意味とは違って、非常に多様であることを知るかもしれないし、その能力が創り出されたもの、長い時間をかけて創り出されたものであることを知るかもしれない。更には、能力者といわれるような人が意外に無能力者で、無能力者が能力者であったことを発見するかもしれない。自信をもつために、どうすればいいかも、その中から自然に発見するであろう。
 勿論、いつしか、自分の能力に自信がないという考え、悩みは、思想的に解決され、克服されているであろう。この研究に、二年間の一般教養は十分に必要であるし、あとの二年間の専門研究は、その研究との関連で、さらに、歴史学の本格的研究を始めたくなるかもしれない。

 

 “容姿に自信がない”ということ

 “容姿に自信がない”という問題は、文学の問題として、徹底的に究明することもできよう。多くの文学作品の中で、すばらしい容姿というものがどのようにえがかれているか、いろんな作家のえがく美というものを比較してみるのもいい。人生において、容姿というものが果たす意味をとことん追求してみることもできるし、男性の求める美を徹底的に研究してみることもできる。そういう充実した研究、充実した陶酔をしている間に、いつか、自分自身の中に、いうにいわれぬ美が生まれつつあるのを発見して、驚嘆するかもしれない。そういう生活の中で、誰にもおとらない、個性的な美を創り出すかもしれない。

 

 “思想と行動が一致していない”ということ

 また、“自分の思想と行動が一致していない”という問題は、哲学、論理学の問題として究明すればよいし、“卒業後安定した生活に入れるかどうか心配だ”という問題は、政治学あるいは経済学の問題として研究すればよい。毎日の生活が単純で刺激がないという悩みは、青年心理学の中心的テーマであることを知るのも大学生であるなら容易であるし、“自分の人生観がいつもぐらぐらしている”という悩みは、それを確立するためにこそ、大学に入学したのではないかと、まもなく気づくであろう。
 このように考えていくと、女子学生の悩みと疑問は、どれも学問的なテーマになりうるし、また、学問的テーマとして究明しなければ、決して本当には解決されないものである。しかも、それは、切実で深刻なテーマである故に、それだけ、研究にも情熱がわき、その研究も深く進むといえよう。持続的なエネルギーもひきだすことができるというものである。
 しかし、これまでの女子学生は、例外をのぞいて、こういう悩み、こういう疑問を学問的なテーマにすることもなく、せいぜい、常識的結論に落ちつく。そのために、社会には、常識という、偏見俗見がみちみちて、大学を卒業しながら、大学に行かない者と同じ常識をもち、多くの人が、それに苦しめられるという結果に終わっている。学問をした人が年々増加しているにもかかわらず、社会の常識の水準があまり高まらないのもそのためである。

 

 “女性は家庭に帰るべきか”ということ

 このほかに、入学当時の女子学生の問題意識、研究テーマになり得るものにどんな問題があろうか。たとえば、昭和四十一年に大学に入学した女子学生は150,000人、そのうちの85%近くは、女子大学、女子短期大学に学ぶ学生である。しかも、そのうちの44%あまりは家政学部、家政科に籍をおく女子学生である。この事実は女子学生に何を考えることをせまるだろうか。勿論、女子高校生は、大学に進学し、もっと他の学問を学ぼうと考えても、そこに女子大学が、そして、家政学部、家政科しかないから、やむなく、女子大学に入学し、家政学部や家政科に籍をおくしかないということもあろう。それを如実にしめしているのが、ある私立女子高校生を対象にした調査結果である。
 すなわち、80・54%の女子高校生が共学の大学を志望し、わずかに、19・46%の者しか、女子大学を望んでいなかったのに、実際に入学した時には、40・36%しか共学の大学に入らず、59・64%は女子大学に入学しているのである。共学の大学に家政学部がないのはいうまでもない。それに、その高校の進学指導を担当する教師はなかなか意欲的な人で、四年制の大学を志望する者はほとんど全部共学の大学にいかせ、二年制を志望する生徒のみ、女子大学にいかせている。それでありながら、現実はこの有様である。
 ということは、社会は、社会の常識は圧倒的に女子大学や女子短期大学を望み、家政学部や家政科を要求しているということである。「女性は家庭にかえれ」とか「女性の天職は家庭にある」とかいう声は、この現実と無関係ではない。こういう現実は、女性の人間としての独立、女性の経済的自立をはばむ方向に進んでいる。女子大学がなぜに、共学の大学とは別個に存在しなければならないのか、家政学部や家政科がなぜ女性にのみ必要なのかという疑問には、拙著「女子大学」に述べたから、ここではくりかえさない。
 今はただ、こういう事実があり、こういう現実が問題ではないのかということを述べただけである。そして、これこそ、女子学生の研究テーマとして、ぴったりでないかということである。そういう社会の常識は果たして好ましいものか。好ましいとすれば、どういう理由、どういう根拠によるのか。好ましくない意見とすれば、どういう理由によるのか。これは、女子学生が学生であることによって、また人間として自覚し、自立するために、必ず一度は徹底的に、考えてみなければならない研究テーマである。

 

 “女性の能力と役割を考える”ということ

 “自分の能力に自信がない”という問題にしても、女性の能力、人間としての能力、男性の能力という観点から、あらためて究明してみることも必要になってこよう。
 女子大字、女子短期大学に家政学部、家政科というものが、どうしても必要ならば、家政学部や家政科の中心になるものは、女性学(仮称)ではないか。女性の能力と役割について、学問的に究明してみることは、今日こそ最も必要なのではないか。それをみきわめた上で、はじめて、家政学部や家政科で教える教科は生きてくるし、何が必要で、何が不必要かも明らかとなってこよう。私には、一番大事な研究をなおざりにされているように思われてならない。この問題を見究めようとする姿勢が女子学生のものになるなら、家政学部や家政科も、結構、存在の意義はあろう。
 女子学生にとって、二年間、あるいは一年間の一般教養の間の研究テーマとして相応しいことはいうまでもない。そのほかに、一般教養として設けられている教養とは何か、学問との関連で、職業、仕事との関連で徹底的に究明してみることはできよう。真にあるべき教養とは何かを究明することが、そのまま、現実の大学への挑戦となり、現にある大学の学問の批判にもなるかもしれない。それがそのまま、大学を発展させ、学問を創造させる契機となるかもしれない。
 以上、わずかながら、女子学生が、二年間あるいは一年間の一般教養を学ぶ時期に、どういう問題意識を持ち、研究テーマを持ちうるか、また持つべきかについて書いた。勿論、それは、ほんの一例であり、女子学生は、その人生が多種多様であり、ただ一つの人生を歩む者でない以上、自分自身の問題意識をもつべきだし、またもちうるものである。好ましく、すばらしい問題意識をもった女子学生ほど、その人生が好ましく、すばらしいものになることはいうまでもない。すべての女子学生が、すばらしい問題意識をもってほしいと思う。大学とは、自らに求め、自ら考え、学ぶところであって、大学や教授に求めるところでない以上、なおさらである。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

第2章 思索と体験

  1 私の疑問

 中学三年の体験と怒り

 私は、この章で、若き日の私の思索と体験を中心に、女子学生が、いかに生き、いかに学ぶべきかについて、書いていきたいと思う。
 私がまがりなりにも、問題意識らしいものを持ったのは、中学三年生の時であった。それは、偶々訪問した友人の家で、雑誌にのっている一つの記事を読んだことに始まる。その記事というのは、悲惨な生活を経済的にも精神的にも強いられて生きている人の手記であった。そういう記事を、これまで、読んだことがないということもあったが、私はその記事に深くとらえられた。それも、その晩一睡することもできないほどに強烈なショックをうけたのである。眠れぬままに、私はいろいろのことを考えた。といっても、中学三年生の頭で考えるのだから、たいしたことはない。それでも、私なりに一生懸命に考えた。どうして、そういう人たちがいるのかと。それまで、比較的のんびりと育って、自分の生まれた村のことなど一度も考えたことがなかったのが、その夜は、不思議と頭に浮んできた。小学校を出ると、卒業生の八割までが出かせぎにいくことや、中学校にゆく者は、せいぜい一、二名しかおらず、年によっては、進学する者が全くいないような村のことが思いだされた。そして、小学校時代、最も仲のよかったMのこと、そのMも今は出かせぎにいっていることを。Mは私の唯一の競争相手で、とくに算数が得意であった。小学生の当時、子供心に、Mには鋭さとひらめきがあると感じたものである。中学校に入ってみて、よくできる仲間には幾人かぶつかったが、Mのような鋭い者には出会わないということも思いだされた。勉強が好きで好きでたまらぬM、そのMが中学校にいけないという世の中。
 その夜、はじめて、Mの苦しみと悲しみがわかるような気持がした。(現在Mは郵便局の局長代理をつとめ、親しく交際して貰っている)こうして、私はこの日をきっかけにして、何をなすべきか、どう生きるべきかを考え始めた。それまでの私は、代数、幾何が好きであり、得意であるということもあって、将来技術者になることにきめていた。それ以外のことは考えたこともなかった。
 だが、このことがあってから、私はそれでいいのかと考えはじめた。幼い頭で、そういう人達のためになる仕事は、弁護士か政治家になるしかないのではないかと思うようになった。家を離れて下宿生活をしていた当時の私は、教師に相談する以外にない。だが、相談した結果は、得意である数学的能力を生かさないで、あまり得意でないどころか、不得手でさえある国語、漢文に重点をおかねばならないような方面に進むことは、賛成できないということであった。勿論、思いつめた私は納得しない。入学試験のために私が数学を軽視し、国語、漢文を重視する生活を始めたのはいうまでもない。と同時に、立身出世、そのために、いい高校、いい大学と世間でいわれている高校、大学に入学することしか考えず、社会の底辺に生きる悲惨な人達のことに、何の関心をも示そうとしない教師達に怒りすら感じはじめた。

 

 学校教育に疑問をもつ

 また、そのことがきっかけとなって、当時の中学校教育や教師にもいろいろと疑問をいだくようになっていった。例えば、学校の成績さえよければ、その生徒は、あらゆる面にわたって、真面目で優秀であると判断する教師。生徒を深く理解しないで、表面だけで評価する態度。そのために、愚劣きわまる心情の生徒が教師から高く評価され、内面的にはすばらしいものをもちながら、一、二度の過失があっただけで、不良というレッテルをはられて、何人かが学校から放逐されていく姿もたびたび見せられた。授業になると、もっとひどかった。各教科は、相互に脈絡もなしに、各個バラバラに教えられ、ただ、その教えたことを、正確に多くを暗記することだけが求められた。そこには、具体的な生徒の現実も生徒の関心も全く考慮されていなかった。あるものといえば、具体的な生徒とは切り離された各教科の知識、テストによる試験の結果しかなかった。それこそ、学校教育の中で駄目にされ、ゆがめられていく生徒が何人も出たのである。
 私は、進学をあきらめて、生まれ故郷にかえり、農業でもしようかと思うほどに、学校教育というものに不信をいだいた。だが、せっかちな私は、中学卒業までまてないで、進学どころか、中学校すら中退しようと、三ヶ月も休んだことがあった。しかし、学校をやすんだからといって、その気持がみたされるわけもない。結局、私はまた、ショボショボと学校にかえっていった。こういうふうな思いつめ方は、少年から青年への過渡期には、別に珍しいことでもなく、ごく普通におこる現象でしかない。しかし、それを考える私には、切実で深刻な問題であったということがいえる。こうして、私の中に、徐々ながら、悲惨な人達の存在と学校教育への不信は定着していった。そういう私が、ふとしたことから、漢文の老教師と深く知りあうことになった。そのきっかけは、老教師が、頼山陽の楠公論を、鼻眼鏡をくもらせ、眼に一杯涙をためながら、講読したときである。老いた老教師をこれほど感動させる頼山陽に驚いたし、教師の情熱にも強くうたれた。しかも、山陽といえば、中学校のある町の隣町の人間である。私は、無性に頼山陽の作品をもっと読んでみたくなり、老教師にどうしたらいいかと相談した。
 山陽の「日本外史」「日本政記」、山陽に思想的に近い藤田東湖の「弘道館記述集」、会沢正志斎の「新論」のことを教えられた私は、早速とりよせて、読みはじめた。そこから、まがりなりにも、社会と国家について、思想的政治的に批判する視点を身につけていった。それと同時に、私の中学生生活は、にわかに、生気をとりもどしていった。

 

 自分に求め自分で学ぶことの大切さを知る

 私が水戸学の研究を深めるために、当時設立されてまもない神宮皇学館大学予科に入学したのは、昭和十七年の春である。老教師の言葉、「君の思想的関心をみたしてくれるのは、山田孝雄先生しかあるまい」という助言に従ったことはいうまでもない。国文学者山田孝雄は当時、皇学館大学の学長をしていた。
 だが、山田が学長をしている大学ということは、山田的な思想が全教授の中に充満しているということとは別問題であることを、入学後まもなく知った。同級生は「ドイツ語」の修得に余念がなかったし、「太平記」の講読に結構満足しているようであった。講義のどこにも悲惨な人達の問題にアプローチする姿勢も関心もないということは、私自身には耐えられないことでも、同級生には無関係に見えた。水戸学の研究に、適当な指導者が教授の中にはいないことも知った。学長の山田孝雄が国文学の立場から、日本思想史、日本精神史にアプローチしているやり方、その内容にも、私はなじめなかった。
 私の求めるものは、ここにはない。ここからは与えられないと思いしらされた時は、全くがっかりした。そこまで見究めると、もうがまんがならない。荷物を整理して、駅まできた。だが、列車に乗るふんぎりはつかなかった。
 中退するといいながら、再び学校にかえった前科もある。落ちついて勉強しはじめたと安心している父母のこともある。他の学校を受験しなおしても、どうせ五十歩百歩だと自分に思いこませることによって、また、寮にまいもどった。それは、文字通り、寮であり、学校ではなかった。というのは、それからの私は、最大限に講義をさぼり、寮生活の中で、自分流の生活、自分流の読書生活を始めたからである。私にも漠然といろんなことがわかり始めたし、それが、私が見出した結論でもあった。すなわち、大学予科は専門的な研究でなく、専門的な研究に入ったとき、それが好ましい形でできるように、読解力や理解力、判断力をせいぜいつけるところであり、せっかちに、私のような関心に答える教育を求むべきではないし、水戸学の研究にしても、その研究をしている者が非常に少ない以上、そういう人の指導は、手紙なり、直接訪問して、教えをきけばよいという結論であった。それに、私の水戸学への関心も、いつまで続くかわからないという認識である。大学予科というところは、自ら学び考えるところであって、学校当局や教授に求めるところではないということを徹底的に思い知ったのである。
 教授を求めて、学校をえらぶということの意味も理解されたし、学びたい教授のいる学校に、すべての者が必ずしも入学できるともかぎらないことも知った。その上に、めざす教授達が一つの学校に集中していればよいが、分散しているということもあり得る。大事なことは、自分に求め、自分で学ぶことであるということを、衷心から思い知った。そう決心すると気持も楽になった。それからの私は、寮の主のように、どっかりと、腰をおちつけたのである。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

   2 女子高校生の悩み

 学力と人間としての能力は別のもの

 私自身、中学生時代、私の内部におこった疑問を、どのように育て、どのように、研究テーマに育てていったかを書いてきたが、女子学生は、その中学生時代、高校生時代におこった悩みの数々を、どのようにしているのであろうか。
 柳田国男が、その研究テーマを、若き日の生活経験や生活感覚に発見したように、私も同じように、そこから出発した。女子学生自身、多くの悩みや疑問の数々にとりかこまれ、その悩みや疑問を研究テーマにすることを、研究テーマにしなければならないことを、また、その方法を、一、二述べてきたが、中学生や高校生のときには、どういう悩みをもち、どういう疑問をいだくのであろうか。その悩みや疑問をどのように処理し、解決しているのであろうか。
 というのは、私の悩みや疑問が中学生時代に発生したように、女子学生の悩みとか疑問といっても、結局、女子中学生、女子高校生の時代におこったものであり、それが、深化し発展したものにすぎないと考えるし、その意味で、女子中学生、女子高校生の悩みや疑問を女子学生のそれよりも、より基本的であり、より重要であると考えるからである。
 まず、第一に、そのことを考えてみよう。といっても、女子中学生、女子高校生の悩みの中心も、女子学生と同じように「自分の能力に自信がない」とか、「学業で、よい成績がとれない」ということであるかもしれない。私のように、学校に、教師に、徹底的に不信と疑問をもつ者もあろう。
 そういう不信や疑問が、中学生や高校生のときにおこるという事実が大事なのである。
 戦後、ある時期のように、コア・カリキュラムを中心に、生徒の現実をふまえて教育しようと試みたのと違って、最近のように、全高校生活が大学入試ということを中心に進められるようになれば、自分の能力に不信をいだく者、学校に不満をいだく者が、圧倒的にふえていこう。
 私の女子高校教師としてのささやかな経験からもそのことがいえる。ことに、都立、県立高校に入学できなかった者を収容する女子高校では、自分の能力に不信をいだく者が多いのは当然である。しかも、都立、県立の高校よりも、私立の高校が多いのである。
 私が私立高校教師の時、調査したところでは、全ての生徒が、自分の能力に不満だと答えたし、九割の生徒が、他人から馬鹿にされないことを望み、そういう人間になれる教育を学校にも教師にも求めていることがわかった。私が教師になった当時は、丁度、学制の過渡期にあり、女学校が女子高校に転換する時であったが、女学校三年生に在学している108名の生徒のうち、67名が途中でやめ、わずかに、41名が高校に残ったということでも、彼女たちが、いかに、自分自身の学力に絶望し、学校当局に、不信、不満をいだいていたかを知ることができよう。私は、その時、大学生としてアルバイト教師にすぎなかったが、その時のショックは、私自身、中学生の時に味わった学校への不信に数倍するものであった。
 こういう女子高校生は、私のつとめた女子高校だけでなく、全国には、非常に多い筈である。私のつとめた高校程にひどくないにしても、多かれ、少なかれ、多くの高校生は、その被害者である。しかも、高校、大学の入試制度の中で、入試が要求する学力観が、そのまま、仕事や職業が必要とする学力観であり、さらに、それが、人間の能力観であるという錯覚を決定的なものにしてゆく。

 

 男性だけが人間なのではない

 中学教師や高校教師の中には、そういう錯覚を生徒にもたせる者が多い。その上に、大学教師の中にも、あまり、その学力観、能力観に疑問を提出する者はいない。そうなると、彼女達は、奇妙な学力観、能力観から、高校、大学と解放されることはない。そればかりか、例外的な人達を除いて、その悩みをいだいたままに、肩身のせまい思いをして、一生を送るといっても過言ではない。しかも、学力、能力に対する偏見、俗見で、その子供達までも悩ませるということになるのである。
 また、女子高校生の中には、私が疑問をいだいたように、社会の底辺に生きる人達のことを考え始める者がいよう。私が中学生であった頃と違って、そういう事実を知り易いし、そういう事実にふれ易い。とくに、70%も高校に進学する現在、高校生の中にも、底辺に生きる人々がいる筈だし、同級生の中に、そういう人達を発見する筈である。これでは、考えるなといっても、考えまいとしても、そういう事実が、高校生に考えることを迫ろう。
 当然、そういうことを考え、何故、そういう人達が存在し、何故、そういう人達が次々と出てくるのかを考えずにいられないだろう。高校生ならば、それを考えることができる筈だし、そういう人達の存在に、怒りと悲しみを懐く筈である。
 「女性の天職は家庭にある」とか、「女性の幸福は結婚にある」という意見に、疑惑と不信をいだく者もあろうし、女子大学や家政学部、家政科にしか、進学させてくれない親達の考えに、根本的に疑問をさしはさむ者もあろう。女性が女性として生きることしか喜ばない、人間として生きることを喜ばない社会とは、大人たちとは、一体何であるかという疑問をもつ女子高校生もいる。男の兄弟や、男子高校生と区別されて、養育され、教育されていることに、深い疑問をもたずにはいられない。男性だけが、人間になるということを要求されているような疑惑もわく。
 また、中には、道徳とか倫理とかの名前のもとに、既成の道徳、既成の倫理を生徒に押しつけておいて、押しつけている大人達は、そういう道徳、倫理に平気で背いていることに疑問をいだく女子高校生もある。その場合、倫理とは何であるか、人間の倫理はいかにあるべきかを学問的に究明するために、大学に入学する者もあろう。
 それこそ、女子高校生が大学に求めるもの、大学生活に求めるものは、種々雑多である。
 しかも、彼女達は、女子大学や家政学部に入学することしか許されない場合には、女子大学に、家政学部に入学する。それで、がまんしようとする。学ぶチャンス、考えるチャンスだけを、自分のものにしたいかのように。

 

 学力より問題意識をもつ人間が大学へ入るべきだ

 私が、神宮皇学館大学予科にがまんしたように、学ぶ環境として、大学を選んだように、女子高校生も、大学を選ぶ。図書館のある大学、最大限に利用できる大学を選ぶ。その意味では、女子高校生は逞しい。
 一人一人の女子高校生にとって、教養を求めてとか、学問のためとか、職業の確立のためとかでは、決していいあらわせないような、血の通った、生々しい問題である筈である。残念ながら、私は、そのことを調査できるような立場にもないし、また、そういう調査も、今の所、私にはみつからない。
 だが、私には、そういう調査しか興味がない。というのは、大学とは、漠然と学問をし、漠然と教養を求めるところでなく、生きている一人一人の学生が、そのいだいている問題を究明する所であり、そのために入学する所だからである。そういう問題をもたない者は、たとえ、高校の成績が最優秀な者でも、人文科学、社会科学を学ぶ学生にはなり得ない。学ぶ資格はないということさえもいえる。勿論、大学に入学してから、問題意識をつかみ、研究テーマを発見する者もあろうが、原則的には、大学生になりうるもの、大学生にならなくてはならない者は、既に高校時代に、究明しなければならぬテーマをもっている者である。
 入学試験で、学力を調査するよりも、問題をもっている学生であるかないか、大学で何を研究するかどうかを調査することの方が重要であるし、先決である。少なくとも、究明すべき問題をもつ者は、解明しなければならないような問題をもつ者は、それを解明するに必要な読解力、理解力、判断力を、どんなことをしても養成する筈である。そのために、アメリカの原書、フランスの原書、中国の原書を読む必要があるなら、そのための語学の修得をやる筈である。勉強するなといっても勉強するし、試験がなくても勉強する筈である。研究をする筈である。それが、大学における大学生の研究というものである。大学に入って専門書を読み、その中から始めて研究テーマを発見するような学生は学生としては最低である。なるほど、高校時代に掴んだ問題は、素朴で単純かもしれないし、大学における研究で、すぐに解明できるようなものかもしれない。しかし、研究テーマは、高校時代の問題から連続させ、発展させていけばよいのである。それが、大学に入り、試験や強制がなくとも、学究生活をつづける条件であるし、更に、卒業後も研究する人間となるのである。
 大学生が学ばないということを歎くよりも解明すべき問題をもつ学生を大学に入れることが先決だし、高校時代に解明すべき問題をもつように指導すればよいのである。入学試験のための指導、入学してしまえば、あまり役にもたたない知識の修得に血道をあげるより、はるかに大切なことである。女子高校生が究明すべき問題をもつことが先決である。だが、すでに述べたように、誰でも、そういう問題を一つ二つはもっているものである。ただ、自ら、研究テーマにできないだけである。研究テーマにならないと思っているだけである。教授も研究テーマにするように、多くの場合、指導しないだけである。
 私が、私の疑問を出発点として、問題意識をもったように、女子学生の全部が、問題意識になりうるものをもっているのである。ただ、深浅、強弱の差はあるにしても。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   3 サークルでの私の学習

 真の研究対象をサークルに求めて

 大学と教授に期待しない私の学生生活は、どういうものであったか。講義をできるかぎり、欠席したということは先に書いたが、当時、私の学校では、一つの教科で、及第点をとるためには、三分の二以上の出席日数が必要であった。だから、代返のきくものは最大限に利用した上に各教科とも、三分の一以内は、欠席することにきめて、自分で出席薄をつくったものである。
 また、欠点が、三つあると、二年生に、進級できない規則であったので、三つの欠点をとらないように注意した。それに、試験をうけないときには、前期の試験の八割を、もらえるというきまりであったので、欠点をもらわぬとわかると、その教科は、次のときは受験しないというようにきめた。
 試験が愚劣であると思うと同時に、試験勉強のために、私の時間がとられることを惜しんだのである。
 こうして私は、最大限に時間を作り、そのすべてを、私の読書に、私の研究にあてた。といっても、私にも、幾つかは、講義をききたいものもあったし、講義はつまらないが、講義をきいているのが楽しいような教授もいた。しかし、私は、そういう講義、そういう教授が少ないのを喜んだ。多いと、そういう講義、そういう教授につきあうのに忙殺されて、私自身の読書、私自身の研究ができないと考えたからである。
 だから、結構、時々、受講する生活が楽しかった。その場合、私達の寮は、学校内にあったから、非常に便利であったということもいえる。
 私が、まず、とりくんだのは、水戸学の研究である。研究といっても、水戸学関係の書物を濫読したにすぎないが、私の精力の殆んどをそれにつぎこんだ。中学時代に読んだ藤田東湖の作品、会沢正志斎の作品を読みなおしたのは勿論、彼等の作品の範囲をひろげていった。東湖の父、幽谷の「正名論」「勧農或問」なども読んだし、同時に、その思想を学んだ人々が幕末にどういう役割をしたかということも究明していった。一方、頼山陽から、息子の三樹三郎、山陽と親交のあった梅田雲浜、その友人の吉田松陰などが私の関心をひいた。そして、私の心は、水戸学の人々よりも、だんだんと、雲浜とか松陰の方に強くひかれるようになった。古き日本を倒し、新しい日本をつくるために、その青春の情熱のかぎりをたたきこんだ人々の思想と行動は、私を深くとらえた。悲惨な人達の存在を胸に強くだきしめていた私と、封建制下に呻吟していた人達を不十分ながらも解放した明治維新の青年たちとは、時代をこえて交感したのである。

 

 学生課の抑圧に抗して続けたサークル活動

 昭和十七年当時は、すでに、私達学生の前から、社会主義的な文献や書物は、全く姿を消してしまったという状況にあった。まして、私の学ぶ学校は、国策大学として、昭和十五年に新発足した大学であり、その予科である。私は、いつか、昭和維新を叫ぶ人達の存在を知り、その思想の研究をするようになっていた。彼等は、資本主義を打倒し、天皇主義というものにたって、日本の変革を考えている集団であった。当時における唯一の革命的集団であったといえよう。そうこうしているうちに、一緒に学んでいこうという仲間も三人、四人とできはじめ、研究会を持つようになった。だが、まもなく、その研究会は寮の一室で開くことが困難になってきた。
 当時、昭和維新を主張する人達は危険視されていたので、その思想に連るものと見られた私達の研究会も、学生課から歓迎されなかったのである。しかたなく、市中に一部屋を借りて、毎土曜日、そこで研究会をひらくようになったが、そのことが、かえって、研究会の内容をたかめ、充実させることになったのだから奇妙である。抑圧されているという意識が私達の心をふるいたたせたのである。
 テキストには、吉田松陰の「講孟余話」、杉本五郎の「大義」などが使用された。松陰といえば、わずか、三、四年の教育で、明治維新を中心になって作りだした青年達を教育した思想家であり、教育者であり、五郎は昭和十二年に早くも、日支事変が侵略戦争であると「大義」の中に書いた職業軍人である。研究会はあくまで、思想を研究する集団であり、思想の研究と発展には、全員が協力していくことが話しあわれ、とくに、全員が中途で脱落しないために、また、卒業後もつづいて研究し、実践するために、どうすればよいか、どうすれば思想を肉体化できるかが、話しあわれた。
 昭和初年から、昭和十二、三年にかけて、共産主義や社会主義から、転向した人々のことも知りはじめた。私達はそういう人々を、思想が正しくなかった、だからそのために、光栄ある死を選べなかったのだと解釈したし、その思想の学習のしかたに、根本的欠陥があるのでないかとも考えた。吉田松陰から、思想を貫き発展させるために、いかに意志と勇気と胆力が必要であり、その意志、勇気、胆力もある程度、訓練の中で養われることも学んだ。また、そのための相互の助けあい、励ましあいがいかに大切であるかも、松陰から教えられたといえる。藤田東湖には、知識の中心は正義感でなくてはならないことを学んだ。正義感のない知識の持主、それが財閥、官僚、軍閥となり、社会のガンになると考えた。今の学校教育のように、知識だけを評価し、正義感や意志、勇気、胆力を評価しないのは、全く、おかしいというようなことも、怒りと悲しみの中で話しあった。
 一年から二年の進級には、62人中61番という成績であったが、私には実り多いものであった。二年生になった頃から、私は、日本の研究とイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの現代史に興味がわいてきた。それは、明治維新への興味と関心からおこったものである。英、仏、独、米などの植民主義を日本はなぜはらいのけることができたのか、そういう力を持っている日本への誇りと理解をさらに深めようとしたし、アジア諸国を奴隷化し、植民地化した、英、仏、米の実態をつかもうとした。そこには、時代思潮からの影響も多分にあった。すでに大東亜戦争も始まり、日本は運命的な戦争の渦中にあったからである。

 

 サークルの活動が私の思想をつくった

 私は、歴史学者平泉澄に魅了され、そこから、日本そのものにアプローチしていった。平泉の著書は、大変多かったが、その全著書を、初め興味の強いものから、濫読し、次には年代順に精読していった。私は、彼の思想に、部分的に、深い共感、激しい感動をもちながらも、古い時代をよしとするような考え方、古い時代を模範とするような考え方には、どうしても、ついていけなかった。日本精神を固定化してとらえようとする国文学者山田孝堆や、哲学者紀平正美にも、なんとなくついていけないものを感じた。
 そんなとき、哲学者柳田謙十郎の「日本精神と世界精神」を読んで、全面的に、共鳴した。日本精神を流動的、発展的につかんでいるのが、たまらないほどの感動をあたえた。それからの私が柳田の著書を多く読んでいったのはいうまでもない。日本精神を絶対化し、固定化する当時の風潮は、同時に天皇精神を絶対化し、固定化する考え方を生んでいた。もっと悪いことは、日本精神という場合、比較的、その内容が明らかであったが、天皇精神という場合、その内容がつかめなかったことである。人々はそれをあきらかにすることなく、使用していた。
 私は天皇精神とは何かを究明してみようと、歴代の詔勅、御製を系統的にしらべ始めた。もし、天皇精神というものがあるなら、日本の現状は全くそれに相反するということが、その結論であった。大東亜戦争も、固定化した日本精神をアジア民族におしつけ、英、仏、米にかわらんとしている以上、天皇精神に反するし、日本国内に、おびただしい悲惨な人達を放置し、財閥、軍閥、官僚が利潤と権力とを独占するほど、天皇精神に反するものはないという認識が生まれた。
 一方、学校教育への不信、不満はずっと私の胸の中にあったが、偶々、書店でみた、哲学者フィヒテの「学者の本質、学者の使命」(岩波書店)という書物に啓発され、それから、彼の「人間の使命」(岩波書店)「ドイツ国民に告ぐ」(岩波書店)などを、次々に読んでいった。
 「全知識の基礎」という書物を教育学者木村素衛の訳で読んだ記憶もなまなましい。「学者の本質・学者の使命」では、学校教師というものに、大学教授をふくめて一層、疑問を懐くことになったし、「ドイツ国民に告ぐ」では、ドイツ人フィヒテが、フランスに敗れたときの悲しみと怒りがいかに大きく、そして、祖国ドイツをどうして再建するかという絶叫を、深い同情で読んだ。ことに、大東亜戦争に呻吟する日本の運命を考えたとき、この書物は非常な実感をもって私に迫ったのである。
 その後に、学徒出陣する私が、戦場にたずさえていったのは、この「ドイツ国民に告ぐ」と「大義」であった。
 フィヒテの知識論から、スピノザの「知性改善論」、カントの「実践理性批判」、ショウペンハウエルの「知性について」などを読んで、私なりに、知識の性格、あり方などについて考えた。同時に、徐々ながら、私の思想といいうるものもできてくるのを感じた。それは、研究会に参加する者全部にいえたように思う。そういうことをふまえて、研究会をさらに学内に拡大することを考えたし、他の学校にもこういう動きが必ずあることを考えた私達は、昭和十九年を期して、その動きと連絡することをきめた。そのためには、研究会内部の結束と、会員一人一人の思想的成長が必要であるということから、研究会は一段と熱気をおび、充実していったように思う。その際、私達が最も意欲的にとりくんだのは、全会員が、それぞれの志向する思想を明確にし、それを鋭く意識化するということであった。研究会は夜おそくまでもたれただけでなく、研究会がひらかれる毎に誰かが厳しく追求され、批判されて、時には泣きだすということさえあった。論争は、すぐれた指導者がいないままに、ともすると、どうどうめぐりすることもあったが、そのために、研究発表にあたった者の研究内容の出来、不出来が、大いに関係したから、自然、その責任上から、下調べも充実したし、批判する者も鋭い批判をしようとして、これまた、一生懸命に研究した。しかも、その批判は、思想と行動、理論と実践は統一したもの、統一すべきものという視点からなされたため、自然、厳しいものになっていかざるを得なかった。ただ、上手にうまいことを語るという態度は最も軽蔑された。

 

 反対した父親もついに協力

 そんな時、私の考え、私の生き方に対して、父から、「待った」がかかった。学校の勉強もあまりしないで、好き勝手のことをするなら、送金をやめるといってきたのである。「自分の好き勝手がしたいなら、自分で独立した上でやったらよい」というのである。これには、私も驚いた。
 私は早速手紙を書いて、「私の生き方や考えが思いつきでなく、私の内部の奥深くから生まれたものである」と報告し、理解し、許してほしいと願った。父からの返事は、「あくまで、私の話をきかないなら勘当する」という内容であった。私は父と話しあうために、家にかえった。だが、父との話は平行線を辿り、母は私と父との間にたって、ただおろおろするだけである。一週間もいたが、話は少しも発展しない。だが、その一週間の間に、私は、父が、「政治運動や思想運動に本質的に反対ではなくて、そういう運動をつづけることの厳しさ、そこに飛びこもうとする私に不安と危惧を感じている」ということを知った。私は私の情熱、私の熱意が思いつきや、一時的なものでないことを、時間をかけて知って貰う以外にないことを感じて寮にかえってきた。勿論、「よく考えてみます」といいおいて。研究会では、父と私のことが早速話題となり、父母を理解者、協力者にすることが、まず第一の課題だということが話しあわれた。
 父と私の往復書簡がつづいた。それが四ヶ月もつづいた時、父から、「お前の気持がふわついたものでないことがはっきりしたから、今後は、父としてでなく、一人の人間として、理解者として、お前の活動を支持し、協力する。途中で、どんなに苦しいことがあっても、決して挫折しないでほしい」というようなことを書いた手紙を受取った。そのときの感動は今でも忘れられない。父としてでなく、一人の人間として理解し、協力するという言葉に、なんともいえない重さと愛情を感じた。研究会で、その報告をし、皆が喜びあったのも、昨日のことのように、なまなましい。
 徴兵猶予が廃止されて、学徒出陣の命令が下ったのは、それからまもなくのことである。私達は、「この戦争では決して死ぬまい。生きてかえって、戦後の問題に取組もう」「私達の納得できない戦争では決して死ぬまい」と誓いあって、それぞれ軍隊に入っていった。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   4 女性の能力とサークル活動

 今こそ女性の能力と役割を研究する必要が

 かつての私や私の仲間達は、大学と教授に大きな期待を持ちえぬことから、学生生活の中心に、研究会をおき、それに、人間の成長と思想の形成のすべてをかけた。だが、今日の女子学生の多くも、既に、書いたように、大学と教授に強い不満をいだき、大学と教授に期待していない。
 となると、女子学生も、研究会に、サークル活動に期待し、その中で、人間の成長、思想の形成をやる外はあるまい。加えて、今日の大学教師の中に、女性の能力や、女性の役割を今日改めて問いなおし、研究してみようとする者が、殆んどいないということになれば、女子学生にとって、もっとも本質的であり、一度は追求してみる必要のある、この大問題について、彼女達の指導者、助言者になることはできまい。とすれば、いよいよ、女子学生は、この大問題を、研究会、サークルで究明する以外にあるまい。サークルに参加することは至上命令になってくる。サークルに参加しない学生は、学生生活が始まらないといってもいいすぎではない。
 女性の能力、役割、価値は女子学生の、一度は問うてみる必要のある大問題と書いたが、これは、女子学生が、女性として、人間として独立するためには、男性の能力と役割の関連の中で、深く追求すべき問題である。とくに、女子学生が学究徒という面子にかけて究明しなければならないテーマである。かつて、女性学(仮称)という教科が必要であり、女子学生に必須であると書いたのも、そのことである。
 では、そのテーマには、その課題には、どうとりくむべきであろうか。
 宮本百合子の諸作品を読んで人間宮本百合子を研究するのもよい。「伸子」「播州平野」「風知草」「二つの庭」「道標」を読んでいく中で、女性の能力の極限を考え、女性の役割がどういうものかを知ることができる。「冬を越す蕾」などの評論などを見ていく中で、百合子自身の生き方を考えてみるのもよかろう。百合子が生きた如く生きるということが、時代に対して、また夫に対してどういうことなのかを考えてみる。その場合、宮本顕治の「宮本百合子の世界」(河出書房)は、その手引きになる。
 野上弥生子の「真知子」「黒い行列」「迷路」の作品を中心に、女性の生き方、女性の知恵について考えることも出来ようし、高群逸枝の作品「女性の歴史」「日本婚姻史」「火の国の女の日記」などを中心に、女性が歩んだ道を辿るのも、女性そのものに、アプローチする方法である。野上弥生子という女性、高群逸枝という女性を研究するところからも、女性というものが、どこまで生きられるものか、女性の能力をどこまで発揮できるものかを見究めることができる。
 さらには、ボーヴォワールを研究してみるのもよい。「娘時代」「女ざかり」「ある戦後」で、彼女がいかに学び、いかに生きたか。その時代といかにコミットしていったかを知ることができるし、「他人の血」「招かれた女」「レマンダラン」によって、自由奔放に生きる女を想像することもできる。「第二の性」では、女性の本質というものをより深く知ることもできる。
 パール・バックの「大地」「最初の妻、その他」「母」「男と女」「愛国者」などを読んで、女性の力を知ることができるし、アグネス・スメドレーの「女一人大地を行く」「偉大なる道」「中国紅軍は前進する」「中国は抵抗する」などを読んで、女性の活動力、行動力がなみなみならぬことを知ることもできる。
 そして、ボーヴォワール、パール・バック、アグネス・スメドレーそのものを観察することによって、世界のトップレディの能力とその可能性がどこまでのものかを知ることもできる。
 宮本、野上、高群たちを、「日本女性史」(井上清著、三一書房)、「日本の女性」(岡満男著、大和書房)の中に放置づける研究も成立する。そのとき、彼女たちは、手のとどかぬ人、仰ぎみる人でなく、把えうる人、身近かな人になり始める。
 勿論、宮本百合子やボーヴォワールたちを研究することによって、女性の能力の極限を見究めようとすることは、非常に困難であろう。いい指導者や助言者もないままに、試行錯誤を繰返すしかないかもしれぬ。しかし、それが、大学生として、自ら学び、自ら考える姿勢であり、その姿勢を自分のものにしていく過程である。

 

 サークル活動で何をなすべきか

 その点では、現在の女子学生もよく、そのことを知りつくしている。だから、奈良女子大新聞(昭和四十年六月二十八日号)には、サークルについて
「サークルの自治とは何だろうか。それは、私達の主体的な意志によって、自由に活動できる場を創ることであるといえる。そして、それは、現在ある場を守るだけでなく、常に創り出そうとする姿勢が必要である。……
 では、私達はサークルで何をなすべきなのか。少なくとも、私達が何らかのサークルに入るとき、自分の趣味や関心のある部に入るのは原則である。問題は部内で何を得、何を生み出そうとしているかである。私達が現実から切断されている所や理念のなかに生きているのではないから、「状況」との対決は必然であり「人間の一生」とはそういうものであるに違いない。従って、その『いかに』をより具体的に追求する場所がサークルである。漫然と、『いかに生きるべきか』と腕ぐみしているのでなく、現実的な自分の趣味又は関心の対象となるサークルを自ら選び、それを通して、現実に生きている自分の『状況』と対決するのである。従って、現実を媒介とし、個々のサークルの独自性をふまえて、それぞれに理論化したり、あるいは、作品として表現したりする作業がサークル活動と言えはしないだろうか。従って、それは自己変革の過程でもあり、実践への過程でもある」
という主張がかかげてある。
 日本女子大学新聞(昭和四十年四月十二日号)にも、
「サークル活動をすることは、自己を社会の中の一員としてとらえ、それとともに、この社会の中で、『現代社会』に対し、疑問を感じることなく安住していた自分を知り、その自分を批判して、さらに進んで、もう一歩の前進を求めるのである。そして、そのような自分および、同様な仲間を育てあげてきた『現代社会』を鋭く批判的にとらえることが、おのずからサークル活動をする中に要求されるものである」
と書いている。
 このほか、どの大学新聞をみても、同じようなことが書かれている。それも、非常にしばしば書かれている。このことは、今日の女子学生が、サークルを学生生活の中心にすえようとしている気持がよくあらわれている。

 

 サークルとは現代の常識を問いなおす場所

 だから、東京学芸大学の松井洋子さんのように、
「私は自分の中に、ひとりぼっちの私という、孤独で安易な自分の世界を見出し、そこに安住することによって、問題を解消しようとした。そんな姿勢の私に、決定的な契機が訪れた。それは、地域住民の中に入って活動を展開する、セツルメント活動を知った事である。
 人間は集団の中にあって始めて、その本来の婆が回復される……この信念こそ、活動によって獲得した大きな収穫といえる。一個の人間が、現実社会に生きていこうとするとき、その人間を様々な形で規制し、位置づけているのは、いったい何であるかを考えれば、やはり、その人間を取りまく人間社会……つまり、社会環境が思考されてくる。更に、この現実社会の基盤とは、人間が社会生活を営みはじめてから今日に至るまでの、大きな歴史のもつ必然的な法則性によって形成された事を考えるとき、『人間』とは、そして又人間が築きあげたあらゆる価値意識とは、本来、社会的諸関係によって創造され、変革されてきたものであることがあきらかになる。つまり、超歴史的、超社会的な『人間』観からの脱却によってこそ、人間疎外といわれている現代社会における、真の意味での『人間』形成の出発となるのではないだろうか……という確信が、次第に私自身の中に入りこんできたのである。
 対象地域に入り、子ども集団の組織化をめざして、子ども会活動を展開していくうちに、その頃、小学校一年であった子どもは、もう四年生の生意気盛りになっている。四年間にわたる子ども達との交流を通じて、私は教育実践のもつ厳しい課題と限界……子ども達を規制する家庭事情、社会環境……を知ったが、その反面、それのもつあらゆる可能性を信じる事ができる。何故なら、『教育』活動とは、対象が物質ではなく、生きている『人間』そのものであるからである。更に又、この人間疎外といわれている複雑な現代社会、物質文明の中にあって、人間回復・人間創造のための『教育』こそ、最も大きな役割があると確信できるからである」(青柚)と、誇らかに、サークル活動の成果について書けるのである。
 そういう点で、私達の学生時代も、今日の学生も少しも変わらないということができる。
 女性の能力、女性の役割の極限にアプローチするといっても、その方法にはいろいろある。先述した宮本、野上、高群などは文学サークルで追求できようし、ボーヴォワールは哲学サークルでやれよう。女性を歴史的に究明する歴史サークルでもよいし、女性の地位・収入の面から追求する婦人問題研究会であってもよかろう。アメリカ研究会で、パール・バックやアグネス・スメドレーを研究することもできる。女性の法的地位からせまる法学サークル、婦人運動の立場から追求する政治サークルも考えられる。要は、その結論がどうでるかということよりも、現代の常識を問いなおしてみるということ、そういう姿勢を自分のものにするということが重要なのである。そこに、はじめて、女性の、女子学生の新しい生活が始まる。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   5 戦中派の挫折

 一人で抵抗しつづけた私の軍隊生活

 研究会の仲間とわかれて、軍隊という新しい環境の中に、一人だけ、放りこまれた私はどうしていいかわからないままに、全く、とほうにくれた。孤独の痛みがいやというほどにせまってくるのをどうすることもできなかった。だが、いつまでも、それをぼやいてばかりはいられない。昼は演習の中に、夜は内務班の生活の中に、軍隊というものの重味が、ぐんぐんと迫ってきたからである。
 私は、その中で、自分を見失わないために、インテリゲンチャの卵として主体的に生きるために、心から話しあえる仲間を求めていった。それが、自分を失わないための唯一のよりどころとなると考えて。また、今ある軍隊に埋没しないで、私なりの軍隊を夢想し、そういう軍隊を作ることを考えて。
 というのは、学徒出陣が決定的となったとき、不合理に満ちた軍隊に、どこまで抵抗できるかわからないが、抵抗してみようと考えた。ことに、上官の命令は、天皇の命令即ち絶対服従を説く軍人勅諭にのっかかった、つまらぬ命令で、部下が非常に苦しめられていると聞いたとき、私の決心は、一層強いものとなった。理不尽な命令は、天皇の心に背くという論法、天皇は、理不尽な命令を下さないという論法で対抗しようと決心した。そのためにも、仲間がほしいと思った。だが、まもなく、仲間を求めることは不可能であることを知らされた。それというのも、インテリゲンチャの卵である学徒兵には、二つの面、勿論、その一つはインテリゲンチャ的要素であるが、もう一つは、現実に埋没し、現実に流される大衆的要素があり、軍隊の中の学生達は、80%から90%まで、その大衆的側面で生きている人達であることを知らされたからである。軍隊の雰囲気、軍隊の重い空気は、ひよわな知性でたちむかえるものではなかった。それに、もっと悪いことには、学生あがりの将校が先頭にたって、しゃばっ気を捨てろといいたてて、学徒兵がわずかに持っていた思考力を徹底的に奪ったのである。そこには、一片の知性もない、命令のままにその命令を伝える、また、その命令を実行する将校をつくろうとする意図があった。
 そこには、絶望しかなかった。だが、私は、私の決心だけは自分に頑固に課した。そのために、三十分や一時間の制裁をうけることが、時々あった。それは、私の精一杯の意地であり、軍隊の中に埋没しないために必要なことであった。そのために、殴り殺されることはないという確信もあったが、もう知性の闘いというよりも、肉体の闘いに近かった。これが一年半の私の軍隊生活であった。敗戦の日、覚悟していたことではあったが、悲しさと誰に対してともわからぬ怒りの中で、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を一枚一枚と破りすてた。その本をもっている自分自身に腹がたち、その怒りを「ドイツ国民に告ぐ」にたたきつけたともいえる。こうして、私は、私の敗戦をむかえた。

 

 日本は本当にだめなのかという問いの中で

 当然のことながら、私は戦後の日本で、教育による日本の再建、新しい日本の再建を考えた。しかし、他方では、はりつめた戦争中の生き方のために、精も魂もつきはてて、ふぬけのようになっていた。農村に住む私は、食物を求めて血眼になる必要もなかったから、唯ボンヤリしていたともいえる。大学からは復学の催促がき、研究会の仲間からは盛んに帰ってこいと奨められたが、神宮皇学館大学に、フィヒテになり得る学者がいると思えず、復学にそれほどの興味はわかなかった。占領軍の教育政策がどうでるかも全く予想できなかった。
 だが、私の想像もできないようなことが徐々におこりはじめた。それは、戦争中、戦争を讃美していた戦前派の連中が、占領軍のもちこむ民主主義を謳歌しはじめたことである。戦争は一握りの指導者がやったもので、やむなくそれに従ったまでのことで、私達は本来民主主義者だといいはじめるのにぶつかったのである。
 戦争の悪を知りながら、平気で青年を戦場に送りこんだ大人達、戦争の悪を見抜くこともできず、だまされていたとぬけぬけといえる破廉恥な大人達。私が二度と戦前派の大人達を信じまいと決心したのは、この時である。私は大人達も、大人達のあやつる言論も信ずることができなくなった。愚劣な言論や未熟な意見とは闘うことができるが、そういう意見すらない、状況の変化でどうにでも変わる意見には対抗しようがない。私が深い虚無の中につきおとされたのも無理はなかった。
 生きるということの意味と価値を究明する所から始めなければ、私は永遠に人間として復活し、生活することはできまいと考えられた。仏教学者、仏教家に、人生の意味と価値を問いつづける生活が始まったのは、そのためである。人間の存在の意味を、その最も深いところで、ぎりぎりのところで、考えてみないではいられなかったのである。政治を考え、教育のことを考えるといっても、その問題を明かにした上でなければ、どうにもならないのではないかと考えるようになっていた。
 そんなある日、研究会の仲間が、わざわざ広島まで訪ねてきた。大学にかえってこいというのである。それに、大学も占領軍の命令で廃校になるらしいともいうのである。占領軍の命令でつぶされるということには、非常に興味がわいた。昭和二十一年三月、大学は廃校となり、学生は各大学にばらまかれた。教育学者、木村素衛(その年に死亡)のいなくなった京都大学には、私は魅力がなくなり、結局教育学者、長田新のいる広島文理大を選んだ。
 しかし、私が籍をおいたのは、教育学部でなくて、文学部の史学科だったのである。それは、日本というものを、徹底的に馬鹿にし、それを省みようとしない戦後の風潮に反発すると同時に、もう一度、日本そのものを再検討したいためであった。日本は、日本人は本当に駄目なのかという疑問である。長田新についての教育学の研究は、暇をみ、暇をつくってやるという考えであった。こうして、私の学生生活が再び始まった。

 

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   6 学生運動の中の挫折

 絶望し挫折することが必要

 私や私達の世代は、大きく絶望し、決定的なまでに挫折したが、そういう挫折は、今日の女子学生には、どういう形で訪れ、どう直面しているのであろうか。私がそういう問いを発するのは、絶望や挫折が、自ら考え、自ら学ぼうとする者に、どうしても必要だと考えるからである。なぜ、必要かについてはあとで述べるとして、戦後の女子学生となると、彼女達が挫折するような事件は、戦後二十二年の間に数限りなくおきている。
 その中の主なものだけを政治的なものにかぎって拾ってみると、昭和二十五年の共産党分裂、警察予備隊の設置、昭和二十七年のメーデー事件、昭和二十九年のビキニ水爆実験、造船汚職に対する指揮権発動、昭和三十年の日本共産党における極左冒険主義と家父長的指導に対する自己批判。砂川の基地反対闘争。
 昭和三十一年のスターリンの没落、ポーランド、ハンガリーの暴動、昭和三十三年の警職法、昭和三十五年の新安保成立、昭和三十七年、アメリカ、南ヴェトナムに積極的に容喙。昭和四十年都議会議長の汚職ということになろう。
 これでは、終始、女子学生は政治的、思想的絶望の中におかれ、もう挫折しようがないともいえるようだが、その事件に当面する女子学生は、次々に交代し、新しい事件には、新しい女子学生が遭遇する。
 普通、大学に入学した女子学生は、男子学生とともに、現代を考え、学生である自分自身の問題を精一杯に考える。現代がすぐれて政治的時代であり、思想的時代であることを知れば、学究徒である女子学生は、政治的に、また思想的に考えないではいられない。考えるのは、女子学生として、当然である。そして、その考えは、不十分で、成熟していないことを知りつつも、許せない事件、肯定できない事件に遭遇すれば、行動をおこすのも、青年としては当然である。勿論、その事件をより深く、より正確に理解し、判断しようと学習を始める女子学生もあろう。しかしいずれにしても、学習という行動、反対、賛成の行動をおこす。行動をおこすことによって、女子学生は、その事件との関係を深め、政治的に思想的に成長する。政治的人間、思想的人間として成長を始める。
 だが、多くの場合、女子学生の願望や考えは、現実という壁の前に、ふみにじられ、彼女達の考える行動は有効に働かない。そうなると、いちはやく、女子学生は、政治的なもの、思想的なものから遠ざかっていく。絶望し、挫折したということによって、自分自身の殻の中にとじこもっていく。
 勿論、男子学生も、その点はかわらない。彼女達や彼達は、政治的なものに接しはじめた、その時期で、もう、思想的なもの、政治的なものに深くふみいることをやめてしまう。例えば、日本共産党の自己批判とソ連共産党の第20回大会で、いかに、多くの女子学生が、日本共産党、ソ連共産党の不信から、思想を追求するということを、日本共産党、ソ連共産党と同義語に解し、思想そのものへの不信と錯覚し、思想を追求することをやめたか。
 安保反対闘争が失敗したという理由で、どんなに、多くの女子学生が政治的無関心派、無気力派に転落していったことか。インテリゲンチャを志向する女子学生であるなら、思想不信、政治不信に陥った時点でこそ、改めて、その思想、その政治を問いなおしてみることが必要ではなかったであろうか。誰かの煽動に乗り、誰かの尻馬にのって、行動していたかもしれぬ自分自身を反省し、自分自身が本当に、考え、創った思想にもとづいて行動していたかという反省も必要なのではなかろうか。
 その時に、はじめて、自分自身の思想を、自分自身の行動を学生として創造することができるのではないか。

 

 “女性は家庭へ”の底にある戦中派の挫折

 私連戦中派が、軍隊生活の中で貫くことのできなかった、ひよわな知性。それ故に、敗戦後の状況の中で、絶望と不信の中に挫折しきったように、戦後の女子学生も、ずっと、挫折してきた。そういう世代として作られ、そういう世代になったと思う。そして、戦中派の多くが、政治的に、思想的に、無関心派となり、無気力派となり、一部の戦中派が、その挫折からたちあがるために、数年、あるいは、十数年をも費して復権しようと、もがいたように、戦後の女子学生もその多くは無関心派となり、無気力派となり、政治的復権、思想的復権の困難な道を、インテリゲンチャとして歩みつづけようとしている者は少ない。
 今日の女子学生も、また、ヴェトナム戦争や中国の文化大革命、そして、国内の政治的汚職の中におかれ、ともすると、思想的絶望、政治的絶望におちいりがちな状況にある。
 また、女子学生をとりまく、戦前、戦中、戦後の大人達は、その挫折した状態の中で、あぐらをかいたままに「女性の天職は家庭にある」とか、「女性の幸せは結婚にある」という、無責任な発言をすることで、彼女達を悩ませる。彼女達自身も、「こんなことをしていると、結婚に縁遠くなるのでないか」「すばらしい結婚はできないのでないか」と、自らのうちに不安を感じ、おびえ始める。
 だが、その不安も結局、社会の声を反映したもので、これも、形を変えた社会への絶望であり、自分の夢の挫折である。
 しかも、世の中には、「女子学生亡国論」や「女子大無用論」という、奇妙な意見が横行し、女子学生をいかに教育するかということを考えるのでなく、折角学ぼうとする女子学生の芽をつむ結果になっている。それに同調する愚かな男性も多いから、始末がわるい。ついには、そういう意見がでるのもしかたないとあきらめる女子学生まで生まれる。
 そういう意見に屈するということ、そして挫折するということは、結局、政治的挫折に通ずるということである。政治的挫折にもちこむために、その外濠を埋めるようなものである。また、そういう絶望、挫折が、政治的絶望や挫折であると思いつかない所に、一つの落し穴があるといってもよい。

 

 挫折に追い込まれてはじめて問題意識が生ずる

 絶望と挫折に、とことん追いこまれたとき、それをとことん自覚したとき、人間は、自分自身で一人たつしかない。自分自身の思想をもつ以外にないと、はじめて、思う。その時、はじめて、自分自身の問題意識、正真正銘の問題意識をもつ。それまでは、その人の存在をかけたような問題意識には、到底、なっていない。
 中学生時代の私の疑問も、大学予科での研究テーマも、まだまだ、私のものとなっていなかった。敗戦の絶望と挫折の中で、はじめて、私の問題意識になったといえる。そのように、女子高校生の悩みも女子学生の疑問も、まだ本当の意味では、彼女達の問題意識でなく、絶望と挫折の中で、やっと、自分自身のものになるのである。それから、立ちあがろうと四苦八苦する中で、彼女達の問題意識となるのである。研究も、はじめて、彼女達自身のものとなるのである。

 

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   7 再び現代に挑戦

 戦後の絶望の中から私を立ち上らせた僧道元

 敗戦、それにつづく戦後の思想状況、政治状況の中で、私は大きく絶望した。それは、再びたちあがることはないかもしれないと思えた程に、深いものであった。
 だが、私自身、生命を絶たない以上、そして生きていくかぎり、生を逞しく肯定し、人生の意味と価値を、自分自身の手で発見してゆく以外になかった。二度と挫折しないような、自分自身の存在をだきこめるほどの自分自身の思想を持つ以外になかった。
 そのことを、私に教えたのは、鎌倉時代の禅僧道元である。彼は、その著書の中で、「世の中や人生に本来意味や価値があるのでない。人がそれに、意味や価値をあたえるから、意味や価値がでてくるにすぎない」というようなことを語っている。この言葉ほど、当時の私に、力と勇気をあたえたものはない。そこに、「天上天下唯我独尊」という唯一の自我の立場があり、確立してくれるということも知った。私はもう一度、人生の意味と価値を発見する研究を始めよう。その上で、何をなすべきかを改めて考えようと思いたった。
 私がなぜ絶望し、挫折したか。それは、人間というもの、人生というものを見究めた上で、私自身、何をなすべきかを究明しないで、一足とびに、何をなしていくかということを考えていたことによると知ったのである。人間と人生を見究めた者には、失敗はあっても、絶望というものはないということを知った。失敗すればやりなおしすればよいのだし、その失敗は、大抵の場合、状況分析を誤り、戦略、戦術を間違っているためで、状況分析をやりなおし、戦略、戦術をたてなおせばいいのだということもわかった。
 それに、私に幸いしたことは、わずかではあったが、平泉澄その他を通じて、歴史を学び、歴史的思考を身につけていたことである。平泉は、私に、「万物は流転し、万物は生成発展するものである」ということを教えた。現に、普仏戦争に敗れたドイツが、フィヒテ達により再建され、より充実したこと、第一次大戦に敗れたドイツが、またも、不死鳥のように再生したという事実も教えていた。そこから、絶望や挫折は、民族にも、人間個人にも決定的な意味をもつものではないし、また、もたせてならないこと、それを決定的にしていく民族や人間は、永遠に、亡びるものでしかないことをも知った。

 

 歴史の意味と本質を問うことの重大性を知る

 こうして、私は歴史学を専攻する学生らしく、歴史の研究にとりかかった。といっても、歴史的事象の実証的研究をはじめたのではない。そういう研究は、人間や人生を考えないで、すぐに、何をなすべきかを考えるのに似ていた。私はまず、歴史そのもの、歴史の意味と本質を問うことから始めた。実証的研究は、それからでも遅くないと考えたのである。それというのも、当時の歴史学者が、実証的研究という名の下に、歴史的事象というには、あまりに小さな現象に埋没して、それだけをいじくり廻していることに疑問をさしはさんだからである。戦争中、政治史にのめりこみ、更には、イデオロギー史におちこんだ反動として、そういう実証的立場が故意に強調されるのはわかるにしても、歴史学は、窮極的には、人間とその社会、人間とその歴史を総合的具体的に見究めようとする学問であるにもかかわらず、それが部分の研究に終始しているということに対する疑問である。
 勿論、歴史の意味と本質にとりくむ歴史理論にしても、それが歴史学であるかぎり、実証的研究をふまえて組みたてる必要があるが、その実証的研究にしても、歴史理論に導かれ、支えられた時、はじめて、実りあるものになるということである。そして、その実証的研究の結果、歴史理論は、訂正され、深化されるもの、訂正され、深化した歴史理論に導かれて、実証的研究もまた発展する関係にあるということである。歴史理論に導かれない歴史研究、歴史理論を生みださない歴史研究は全く、ナンセンスであるというのが、当時の私の意見である。といっても、その意見は今も変らない。だから、そういう歴史研究は、懐古趣味、骨董趣味に堕し、歴史がなんのために学ばれるのかも忘れてしまい、現代と人間のための学問であるということを忘れる。平泉澄的歴史学にならないために、だからとて、骨董趣味的歴史学にならないために、まず歴史とは何かを問う必要があったのである。
 こうして、私は、「歴史とは何ぞや」(ベルンハイム)、「歴史の研究」(トインビー)、「史的一元論」(プレハーノフ)、「歴史における個人の役割」(プレハーノフ)、「歴史の理論と歴史」(クロオチエ〕、「歴史哲学」(三木清)、「転形期の歴史学」(羽仁五郎)、「政治問答」(ランケ)、「ルネサンスと宗教改革」(トレルチ)などの書物を、手あたり次第に読んでいった。そこから、歴史とは何か、歴史における自由と必然、歴史の中の進歩と保守、歴史の中の特珠と普遍が何かについて、徹底的に考えていった。戦争と平和、民族と国家、指導者と大衆についても考えたし、そういうことをふくめて、歴史的な考察、歴史的思考とは何かについても、私なりの意見を確立した。歴史が人類史、世界史でなければならぬと考えたのも、その頃である。

 

 人間とは何かを根本的に問う学問“仏教”

 それと平行して、私は仏教の研究に足をふみいれた。人生の意味と価値を、仏教学者に問いつづけたこと、道元に、人生の意味についての問い方を教えられたことは既に書いたが、そういうことになったのは、仏教信者であった祖母につれられて、よくお寺参りした幼時の経験から、救いとか解脱ということを本能的に感じとっていたためであろう。当時の私が、最も信頼し、学識に敬意を払ったのは仏教学者、金子大栄である。金子の著書、「永遠と死」「彼岸の世界」「本願の宗教」「帰依と行善」「人」「仏」「仏教概論」などをむさぼり読んだし、そこから、親鸞の著書や日蓮の著書なども読むようになった。道元の著書はいうまでもないことである。さらに、マルキシストから仏教研究家に転向した林田茂雄や仏教研究家で同時にマルキシストである岩倉政治の著書も好んで読んだ。
 諦念という言葉が、「あきらめ」ではなくて、「あきらかに思う」であることを知ったのもその時である。そして、現実の僧侶や仏教信者が、「あきらかに思う」のでなく、多く「あきらめ」の境地にたっているのに、驚いたものである。
 仏教とは、本来、人間とは何かを根本的に問う学問であり、悟りとか解脱ということは、歴史を支配する法則を見究めることに到達する境地であるということを知った時には、真底から驚いた。歴史における自由と必然について、透徹した見透しを持つところに、悟りが開かれるといってもよい。しかも、その法則に即して、人間を悟りに導く教法(教育学)をあわせて説くのが仏教である。仏教を知った私の喜びは大きかった。しかも、欲ばりの私は、この頃、毎日曜日、キリスト教会にゆき、キリスト教の話をきくのが楽しみであった。しかし、キリスト教についての著書を読むという余力は当時、私にはなかった。
 戦争中、一つの思想、一つのイデオロギーに埋没し、それ以外のことを知らなかったという恐ろしい経験が、仏教のみでなく、キリスト教をも知ることによって、独善におちいるのを防ごうとしたのである。

 

 人間を知るために恋愛文学を読む

 仏教の研究とならんで、教育学の研究にとりくんだのはいうまでもない。教育学者、長田新を求めて、わざわざ、広島にきた私である。長田については、軍隊にいるとき、ペスタロッチのものを読んだことから、親しみをいだいた。長田の講義をきいて、その徹底しているのに驚き、感心した。だが、教育論が深遠だというので感心したのではない。むしろ、その教育論は平板ですらあった。私が感心したのは、「下らない教育学の本を読むよりも、すばらしい文学を読んだらよい。そこには、人間に対し、人間関係についての鋭い観察が具体的に描かれている。だが、それよりも、すばらしい恋愛を君達自身がする方が更にいい。そうすれば、いやおうなく、恋というものが何か、人間関係が何かを考えざるを得ないことになる。すぐれた教育愛、師弟愛は、恋愛のようなものである」といった彼の言葉である。その話をきいてから、私は二度と長田の講義をきかなかった。しかし、それからの私は、長田の助言に従って、文学を、それもすぐれた恋愛文学を片端から読みはじめた。人間そのものを知り、人間関係を深く理解するために。そして、読めば読むほど、長田の言葉が正しいことを知った。
 そして、長田を導きとして、ペスタロッチ、フレーベルの研究を始めたことも記しておかねばならない。
 今一つ、私の学生時代に深い影響をあたえた人について書いておかねばならない。これまでに、述べたのは、どちらかというと歴史学、歴史哲学の書物であり、仏教の書物であり、文学書であった。金子大栄も結局は仏教の書物の一部にすぎなかった。だが、それは書物でなく、生きている人物であった。中国文学者の竹内好である。私は、当時、浦和に住む竹内に会う、唯そのために、広島から何度か上京したものである。まだ、著名でも、有名でもなく、慶応大学の講師として暮している竹内であった。といっても、田舎者の私に、そう見えただけで、えらかったのかも知れないが。魯迅を研究したいから、書物を貸してくれと手紙を書いて、笑われたことがある。そんなこともわからぬ未熟者であった。拒絶されたために、結局、魯迅は研究せずじまいに終わった。
 私が竹内から学び、竹内から吸収したもの。それは思想そのものであり、思想を追求する竹内の姿勢そのものであった。全身で、竹内その人に、その思想に傾倒した時期があったことを、私は深く喜ぶ。
 こうして、私は、人間というもの、人生というものについて考え、それをふまえて、私自身、現代社会で何をなすべきか、何をなし得るかを考えていった。
 やらずにはおれないものは何か、真底から、どうしてもやりたいことは何かを考えていった。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   8 現代社会と女子学生

 現状維持を望む社会

 絶望と挫折を契機として、私は、現代と人間の意味を問いなおし、そこに、思想的自立のきっかけをつかんだが、今日の女子学生は、絶望と挫折の中に放りこまれて、どうしているのであろうか。
 女性の能力、女性の役割を、現代社会の中で問いなおし、それによって、女性から人間への自己変革をなしていく道をつき進む女子学生もあろう。そして、その道を歩むということは、現代社会そのものを敵として生きることであるということを知らされて、身慄いしている者もあるかもしれない。
 社会というものは、進歩と発展を望んでいるようでいて、意外にも、現状維持を求める要素が強いことを知って驚いているかもしれない。だが、いずれにしろ、女子学生は、次第に、進歩と発展を求める人達よりも、現状維持を欲する人達が、変化と発展を嫌う人達が多いということを知る。それは、人々が、現状に流されて生きることの安易さと、現状を克服したあとの不安を恐れることから来ているということも知るようになる。
 いいかえれば、いかに多くの大人が未来に対する無知、生きることへの自信のなさ、生きることへの逞しさの欠如に支配されているのかを知る。要するに、女子学生は、絶望と挫折の中から、今迄に、自分が掴んでいた現代の理解がいかに甘いものであり、現代を支配している戦前、戦中、戦後の人達について、いかに無知であり、それにとりくむ自分自身が、いかに無知、無能であるかを知りはじめる。学習し、研究しなおす必要のあることを痛感する。
 改めて、学習し、研究しなおすことがインテリゲンチャへの道であることを知る。それが、絶望と挫折から、本当に学ぶことであるということも知るし、政治的に、思想的に、無関心派となり、無気力派となることは、本当に絶望し、挫折したことではないということも考えはじめる。ここから、政治の世界に、思想の世界に、深く、ふみこむ生活がはじまるのである。日本女子大学の新開に、「現代社会を批判的にうけとめる」とあるのは、こういうことである。

 

 現代社会と対決するために必要な読書

 現代社会を批判的にうけとめ、現代社会と対決するということは、現代社会の中に、一足、ときには両足をふみこんでいる自分自身の現状をまず批判的にとらえ、自分の現状と対決することである。その上で、そういう自分を作った現代社会を批判的にとらえることである。
 では、どのようにして、現代に、現代社会にアプローチしていくか。本間康平、古野有隣両氏が、東京都内の女子学生1000名を対象に、一ヵ月間に読んだ書物の数を調査した結果によると、四冊以下の者が75%となっている。全く読まない者が8%、一冊しか読まない者が9%もいる。こういう怠惰な学生、一ヶ月に四冊しか読まない学生には、とうてい現代をとらえることは無理である。それに、読むといっても、殆んど文学書にかぎられて、哲学、歴史、政治、経済の書物を読んでいない。といっても、女子学生が男子学生以上に書物を読まないというのではない。むしろ、男子学生の方が女子学生よりも読まないという結果がでているということをつけくわえておく。
 だが、絶望と挫折の中から、立ちあがろうとする女子学生、自分の悩みや疑問を問題意識とした女子学生は、現代と現代社会にアプローチしようとする女子学生は、そのように怠惰であることはできない。当然、精一杯の読書、学習がつづけられる。絶望と挫折は、そういう生活を、女子学生自身に要求する。そういう生活をせずにはいられない。
 私は、まず、歴史を学ぶことを奨める。歴史学を専攻したものとして、一寸手前味噌の感じがしないでもない。しかし、私は確信をもって、そのことをすすめる。もし、私が歴史を専攻したのでなくても、現代をとらえるためには、歴史学から始めたと思う。歴史学を本当に学んだものには、絶望と挫折の中から必ず再び立ちあがり進歩と発展の道をつき進むところに人生があるということを確信するからである。そこにはじめて、人間の歴史があると確信するからである。といっても、ここでいう歴史学は、高校や大学で普通一般に教えられているような歴史学ではない。むしろ、歴史哲学といった方が適切なのかもしれない。
「歴史とは何ぞや」(E・H・カー 清水幾太郎訳 岩波書店)
「新しい社会」(E・二・カー 清水幾太郎訳 岩波書店)
「歴史としての現代」(スウィージー 都留重人訳 岩波書店)
「歴史における科学」(J・D・バナール 鎮目恭夫訳 みすず書房)
「変革期における人間と社会」(K・マンハイム 福武直訳 みすず書房)
「歴史における個人の役割」(プレハーノフ 木原正雄訳 岩波書店)
 ぐらいの本は、ぜひ読んでもらいたい。そして、じっくりと考えてもらいたいのである。日本の哲学者、歴史学者の書名をあげることができないのは非常に残念だが、適当なものがないということで、やむなく割愛した。これらの書物を読めば、おそらく、昨日までの女子学生でなくなり、全く新しい世界で、新しい息吹きをしている自分自身を発見するであろう。高校時代の延長としての女子学生でなく、それこそ、全く別個の女子学生になっていることに気づくであろう。

 

 女子学生必読の本

 その結果、どういう女子学生になっているかは、女子学生自身、各自でたしかめればよいことである。それぞれの女子学生がそこから学ぶものは、千差万別であるし、また、千差万別でなくてならない。それが、自分自身に即した読み方であり、大学生として読むということである。未来への無知、生きることの自信のなさから、必ず解放される筈である。生きる逞しさを発見する筈である。
 次に、現代を理解するために適当と思われるものを幾冊かあげてみよう。

  「岐路にたつ現代」        ラスキ      法政大学出版局
  「資本主義・社会主義・民主主義」 シュンペーター  東洋経済新報社
  「ゆたかな社会」         ガルプレイス   岩波書店
  「現代の資本主義」        ストレイチー   東洋経済新報社
  「浪費をつくりだす人々」     パッカード    ダイヤモンド社
  「現代の経営」          ドラッカー    自由国民社
  「パワー・エリート」       ミルズ      東大出版会
  「孤独なる群衆」         リースマン    みすず書房
  「大衆国家と独裁」        S・ノイマン   みすず書房
  「中国の赤い星」         スノー      筑摩書房
  「現代中国論」          竹内好      勁草書房
  「現代日本の思想」        久野収、鶴見俊輔 岩波書店
  「現代資本主義の再検討」     都留重人     岩波書店
  「現代政治の思想と行動」     丸山真男     未来社
  「フォイエルバッハ論」      エンゲルス    国民文庫
  「共産党宣言」          マルクス、エンゲルス 国民文庫
  「帝国主義論」          レーニン     岩波書店
  「実践論、矛盾論」        毛沢東      国民文庫
  「唯物論と経験批判論」      レーニン     国民文庫
  「人間性と行為」         デューイ     春秋社
  「プラグマティズム」       ジェームス    岩波書店
  「実存主義とは何か」       サルトル     人文書院
  「実存主義かマルクス主義か」   ルカーチ     岩波書店
  「講座現代」                    岩波書店
  「講座マルクス主義」                大月書店
  「科学的人間の形成」       八杉竜一     明治図書
  「科学技術と現代」        坂田昌一     岩波書店
  「人間の未来」          メダウォア    みすず書房
  「生命の本質」          ウォディントン  岩波書店
  「アウトサイダー」        C・ウイルソン  紀伊国屋書店
  「婦人論」            ベーベル     岩波書店
  「エミール」           ルソオ      岩波書店
  「人間の教育」          フレーベル    岩波書店
  「人物評伝」           ケインズ     岩波書店
  「美と集団の論理」        中井正一     中央公論社

 以上、35冊、一応記したが、勿論あげていったらきりがないし、時間の許すかぎり読んでもらいたい。何十冊、何百冊と。加えて、日本、朝鮮、中国、インド、ヴェトナム、米、英、仏、伊、ソ連等の現代史を読んでもらいたい。それは、人類が、どういう時代に直面し、どういう課題のまえにたっているのか、とくに、世界の中で、日本の課題をつかむためである。
 野間宏、堀田善衛、高橋和巳、大江健三郎、佐多稲子、瀬戸内晴美、有吉佐和子、マルタン・デュ・ガール、ロマン・ローラン、ヘミングウェイ、リルケ、トーマス・マン、サルトル、カミユ、クロード・モルガン、等の現代文学を系統的に読むのもよい。そこから、女子学生自身、自分の殻を破り、自分の古い意識をうちくだくものが具体的につかめるであろう。
 読書とは、永遠に、自分の現在との闘争であり、本当に読書をしていくものには、本当の知己がその中にいて、もし、孤独であっても、弧独でなく、一人強く生きられるものである。人間の未来に不安がることなく、自信に満ちて生きられるものである。そして、こういう読書の中でこそ、現代とは、現代社会とは何かをつかみ、それをふまえて、女子学生自身、何をなしうるか、何を本当になしたいかを見出してもらいたいのである。そのことを追求し、解決にとりくむことが同時に、女子学生自身、その生を生きるといえるようなものを。確信と情熱に支えられた何かをつかみだしてもらいたいのである。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

   9 私の卒業論文

 学生運動を重視しながら運動にはタッチしない

 私のことに関しては、いよいよ、卒論のことを書く段階にきたが、学生として、学生運動にどうかかわり、学生運動にどういう意味を見出していたか、ふれないわけにはいくまい。
 私は学生運動を決定的に重視する。学生が学生として思想的自立をつかむために。だが、大学時代の私は全くタッチしなかった。というのは、既に、予科時代、サークル運動、学生運動のまねごとをやり、それに行きづまり、挫折した。拙著「吉田松陰」(弘文堂)にも書いているように、松陰の弟子たちは、十七、八才の頃から行動しながら学んだ。学びながら行動した。そうして、失敗しても、それを再検討しながらつきすすんだ。だが、私には、戦後の状況は、戦中と全く異質であった。私には、何をしてよいか全くわからず、八方ふさがりであった。また、その意欲すらもなかった。
 そうなると、私には、まず、何かを自身で発見することが必要であったし、今度こそ、二度と挫折感を味わわなくてよいものを見出す必要があった。戦後の思想状況、平和と民主主義が間違いないらしいと知っても、それを持込んだ占領軍には抵抗を感じたし、それをかつぎ廻わっている戦前派の連中は信頼できなかった。
 学友会から、学友会に参加し、行動するように求められたとき、当時一年生だったが、私は「大学というところは真理を模索し、創造するところである。たとえ、社会一般に適用している真理でも、それを一度疑い、再検討してみるのが大学生である。わがままというなら、わがままでもよい。しかし、大学生には、そういうわがままが必要であり、それが許されていいはずだ」と答えて、頑強に拒否した。戦争中、戦前派にたぶらかされて死んだ学友のことも考えず、安直に、そのあとに従っている上級生に嫌悪と軽蔑さえも感じたものである。勿論、本の中にうずまっていた私、読み、考えることを迫られていた私には、学生運動をする暇もなかった。二年生になってからは、学生生活をつづけるために働くことにも忙しかった。
 当時、父から、「親としてでなく、人間として、友人として、お前の活動を支持し、協力するという約束はだめになった。社会変動のためだから許して貰いたい。この金は、お前に与えるすべてである」といわれたことは、非常に印象深かった。かつて、父から受けていた協力の約束さえ忘れていたからである。私は学生服を兵隊服に着替えて、労働者とともに働いた。私が、労働者の中に、学生に対する鋭い違和感があるのを知ったのは、その当時である。学生服を兵隊服に着替えたのは、学生服をまもるためと、労働に徹したいというためであったが、そのために、労働者は安心して、その心情を私に吐露したのかしれない。デモの学生を見て、憎々しげに、「思いあがっていやがる」というのを口にする労働者もいた。同年令のうちの20%にも達する、今日の大学生に比し、4%しかいなかった当時の大学生に、労働者はより多くの違和感をもったのかもしれない。しかし、学労同盟は容易でないということを思いしらされたものである。こうして、私は、ますます、学生運動に遠ざかっていった。
 だが、ここでは、当時の学生運動に関係しなかった、私の理由を述べるにとどめて、次の章で、学生運動の意味とその役割、その他については、じっくりと書くことにしたい。

 

 卒論は教授に見せるためのものではない

 さて、卒論であるが、私は、「釈迦・親鸞・道元・日蓮を通してみた現代の課題」という、日本史専攻の学生としてみては、妙ちきりんといえばいえる研究テーマに取りくんだ。その研究テーマが卒論として受理されるか、また、合格点をもらえるかどうかは、一切顧慮しなかった。西洋史専攻の学生が、「フランス革命」を卒論テーマにしようとして、主任教授に拒否されて、やむなく研究テーマを変更したと聞いて、馬鹿な奴と思った。拒否されて変更するようなテーマなら、初めからやらなければよいと思ったものである。卒業論文は、少なくとも、大学三年間の集大成であるだけでなく、そこには、二十何年間の自分の歴史が、全部そそぎこまれたもの、そして、これからの長い人生の出発点になるようなもの、その研究テーマを、ひきずり、温め、発展させ、それが同時に、私の人生を導き、支えうるようなものでなくてならないと考えた。その意味で、誰からも反対されないし、反対されて変更するようなテーマは、大学生のテーマではないと当時思ったものである。私自身のために書くのが卒論である。教授のために、見せるために書くものではない。

 

 卒論で自分の生きる道を確立

 幸いに、わが家に帰れば、生活費をかせぐ必要がなく、食物だけは腹一杯食べることができた。約百日間、私は卒論にかかりきりであった。そして、出来あがったのが、前記の論文である。私はそこで、まず、釈迦という人間が、当時のインドの思想状況の中で、どのようにして、自らの思想を形成していったかを書いていった。即ち、それまで、支配的だったバラモン教が、どうして、時代の指導力を失ったのか、そういう状況の中で梵書・奥義書に導かれた哲学流派や沙門と名づけられる流派その他がどのようにして抬頭し、思想界がそのためにいかに混沌とした状態になったか、その中で釈迦がどのようにして、各思想流派から学んで、自分の思想を形成していったかを。
 親鸞のところでは、彼自身の欲望を否定も抑圧もしないで、その欲望を方向づけることに如何に努力し、生きたか。そして、これまで、五逆(父・母・祖父・祖母・君を殺すこと)と仏法をそしる者は絶対に救われないと考えられていた定説を、くつがえし、この罪が非常に重いということを知らせるため、わざわざ、そのことを特記したので、すべてのものが救われるという新解釈を出すことによって、真宗を創立し、同時に、これまでの仏教が、上層階級のものであったのを民衆の仏教にしたことを書いたのである。
 何千年とつづいた教典の解釈を自分流に読みかえて、こうする以外に、自分をふくめて民衆は救われることはないと言いきった競鸞のすさまじいばかりの自己主張と自己確認。それ故に、真宗という、日本に、独自の宗教が生まれたのである。親鸞は、民衆というものは、時として、父、母や君をも殺さねばならないような立場に追いつめられことがあると考えたのである。
 次の道元のところでは、学問をするということ、真理を求めるということが、いかに厳しく、困難なことであるか、そのためには正しい志をたてるということ、その立志とは、庶民大衆の現状をいたむ心が本当に深く、徹底していなければならぬと説く彼の言葉を紹介した。そして、庶民大衆が田畑を耕して苦労しているとき、それを避けて、寺にきて、空しく過ごす僧侶が多いのは、もっての外といった道元の考えを中心に書いていった。それこそ、道元にとっては、真理を求め、真理にたずさわる者の心がまえは、実に厳しいものでなければならなかったのである。
 日蓮が、「国は亡んでも謗法がうすくならん」とか、「国王となりて、悪人を愛し、善人を罪にあてば、必ず、その国は他国に破らる」といっていることを紹介し、現実の国家を支配する原理と、その国家をこえて国家を支配する原理、日蓮は二つの原理があるということを知りぬいていたからこそ、現実の国家権力に絶対に屈することがなかったのであるというようなことを書いた。
 三千年の歴史をこえて、釈迦が生き、学んだ姿勢は今日でも通用するし、親鸞の自己主張、道元の求道者の自覚と覚悟、日蓮の真理のとらえ方は、そのまま、現代に普及させるのが今日の課題であるというのが、私の結びであった。
 学生は勿論、学者の多くが、自分のためや自分の出世のためにのみ、学問しているのが、その時ほどおかしく思えたことはない。自分の能力と自分の金で学問をし、現在の地位をきずいたと錯覚している学者、学問の研究そのものが、いかに多くの人達の労働に支えられて進められているかを自覚できないでいる学者、私は道元を書きながら、そのことを痛切に思わないではいられなかった。そして親鸞が自分の苦しみ、悩みを、庶民大衆のそれと重ねあわせながら生きた姿、自分の信ずるところに血みどろになって行動していった日蓮の姿、それが、私の今後の生き方をしめしているように思われた。
 卒論を書きあげた満足感と、今後私が、生きていく道があきらかになった満足感、二重の満足感で胸が一杯になった。卒論をしあげるということには、そういう満足感がある。これだけは、このことに関しては、誰にむかっても、確信をもって語り、自己主張ができるという満足感である。もし、そのために、人生を誤まることがあったとしても、自分自身が精一杯に努力し、追求したものに従ったまでで、後悔はおこらない。後悔したとしても、「しまった」という程度である。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

   10 卒論にどうとりくむか

 卒論のない大学生活は大学生活といえない

 私は、卒論を書く中で、自分の思想の確立をやり、同時に、将来の生活設計をやったと書いたが、私の卒論のテーマは、日本の仏教がどのようにして、独自なものとして確立し、その後、日本の民衆の中にどのように定着し、進歩と発展の契機となったか、また、停滞と保守の力に転落したかを見究める出発点でもあった。
 だが、問題は、それだけに終わらない。仏教思想が日本古来の思想とどうかかわり、新しい外来の思想とどうかかわってきたかということが、卒業後の私の研究テーマであった。それを、私の一生のテーマとして、私自身に課したいと思った。それは、私自身が生きていくために明らかにしなければならないテーマでもあった。私は、これだけのことを明らかにして、卒業したのである。
 このように、私が私に課したことは、卒業論文にとりくもうとするほどの女子学生ならば誰もがやれるし、また、誰もがやらなくてはならないと考えている。
 ことに、女性の能力と役割りを考え、現代と現代社会にアプローチした女子学生であるならば、現代において、自分が何を為し、何が出来るかを究明する必要がある。卒業論文は、それぞれの専攻する学問から、その問題に迫るものである。その問題を究明してみることが必要である。既に、書いたように、卒論を書いていく過程の中で、確信が自信が生まれてくる。能力が生まれてくる。何をおいても、卒業論文は、卒業論文だけは書くべきである。
 卒論のかわりに、六単位とか、四単位の試験を安易にうけるという傾向が、各大学に、女子学生に流行しているが、また、各大学も卒論のかわりに、試験をうけることを、学生にすすめ、卒論の制度も全面的にやめるという傾向にある。そこには、教授が、卒論の審査をいやがる理由があるためと聞くが、卒論のない大学生活などは、大学生活とはいえない。
 大学生活は、唯一つの卒論のためにあるし、全生活は、卒論にむかって集中すべきもの、そこにはじめて、学生の創造的思索も創造的行為もある。学生の思想的自立へのチャンスもあるというものである。女子学生には、中途半端な論文しか書けないというのは、理由にならない。そんな学生に教育したのは、大学そのものである。卒論という課題の前で、徹底的に、自ら考え、自ら学ぶ学生を育てるべきである。

 

 一生のテーマになり得る卒論テーマを

 女子学生も、卒論にとりくむということで、はじめて、学問をする醍醐味と喜びを味わう。自分で沢山の書物を読み、多くの資料や統計の中で呻吟してみることで、自分で考え、自分で学ふことの必要、考える力、判断する力、分析する力がいかに、自分にわずかしかないかも知ろう。何百枚の原稿を書いてみることで、はじめて、そのことが、本当に自分にもわかるのである。そういうことは、最初で、最後になるかもしれない。とすれば、そのチャンスを逃がすべきではない。
 ある女子学生は、宮本百合子を卒論のテーマに出来ない苦悩を私に語った。自分の提出するテーマを受理して貰えないということは多いらしい。そのために、卒論をやめて、試験にかえる学生が多いということもきく。だが、私は、ここで、もう一度繰返す。卒論は、教授に見せるために、卒業試験のかわりに書くものでなく、自分自身のために書くものであるということを。
 また、折角卒論を書いても、卒論を書いたという実績が残るだけで、その卒論のテーマと自分自身がどこでどうつながるのか、全くわからないような卒論を書いている者も、かなりいる。それこそ、結婚し、家庭に入ってしまえば、そんな研究をしたことがあるのかと疑いたくなるような卒論もかなりある。自分の人生に、自分の考え方に生きてこないような卒論を書いて、ケロッとしている。
 よく、いい成績、いい卒論を書きながら、卒業後、研究をやめてしまう者が、女子学生に多いということを歎くのを耳にするが、私には、果して、いい成績だったのか、いい卒論であったのかという疑問がわく。何がいい卒論なのかを、根本的に問いなおしてみる必要がある。
 私に言わせると、それこそ、一生涯、追求しても終わらないようなテーマを選び、それについての中間報告がすばらしいのがいい卒論である。自分自身の問題と噛みあっていない研究は、何か障害があれば、必す放棄する。そんな研究は遊びである。頭脳の遊びでしかない。

 

 卒論を人生の出発点とすること

 真理を求め、真理にたずさわる者には、真理への自覚と覚悟、姿勢が基本的に必要である。真理への覚悟と姿勢を自らのものにした女子学生だけが、はじめて、いい卒論を書ける筈である。そして、そこに、本当の喜びを、満足を見出す。深い喜びを見出す。しかも、その喜びを知った者は、決して、その喜びから逃げられない。その喜びを離れて生きることはできない。
 そういう喜びを、卒論を書く中で発見し、卒論を書きおわったときに更に深く感ずる。その喜びを味わい、知った者には、停滞する人生はない。生成発展する人生があるだけである。それは発見する喜びであり、創造する喜びである。現段階をのりこえ、次の段階に到達する喜びである。永遠に青年のような心で生きる喜びである。
 卒業論文こそ、四年間の大学生活の総決算である。総決算となるような卒業論文、同時に、これからの長い人生の出発点ともなるような卒業論文を書く必要がある。経済的な理由で、二年制大学にしかいけないという者もあるが、卒論を書くだけの思考力と判断力を養わない二年制大学には、大学という名を冠すべきでないというのが私の意見である。
 勿論、二年制大学に学び、四年制大学に学ぶ者以上の収穫をもつ人も多いということは知っている。だが、二年制大学に学ぶ学生が卒業論文を書くためには、もっともっと、異質の努力が必要である。要するに、卒業論文を書いて、はじめて、その人が、大学生活を送ったといえるのである。卒論を書かないような者は、大学生とはいえない。インテリゲンチャの卵ということはできない。

 

            <女子学生の生き方 目次>

 

 

第3章 思想的自立をめざして

   1 高校と大学との違い

 知能をつける高校、考え方を確立する大学

 これまで、女子学生の生き方、考え方を私の思索と体験との関連で書いてきたが、この章では、それらをふまえて、女子学生の思想的自立ということに焦点をあてて考えてみたいと思う。
 女子高校生の多くは、その高校時代、勉強といえば、教師とか教科書の提供する知識を、ただ正確に、できるだけ沢山記憶することだと思っている。その知識をできるだけ早く、沢山記憶できる者が頭がいいと考える。そのように考えるのは、高校生ばかりでなく、親達や教師にも多い。
 自分で感じ、自分で考えることのできない多くの高校生が、まだ自立するところまでいっていない多くの高校生がそう考えるのも無理はないし、事実、小学校、中学校、高等学校の勉強には、それに近い性格の知識が求められるし、また必要でもある。とすれば、それも無理はない。
 教師から提供される知識をより多く、より正確に記憶した者が大学に、それも、所謂いい大学に入学していく。それも、しかたないことといえば、それまでだが、大学での学問は、そのような高校の勉強の延長にあるのだろうか。大学の学問も高校の勉強も同じものであろうか。
 高校生から、大学生になるということはどういうことであろうか。今、高校にもあり、大学にもある歴史というものを例にとってみよう。高校生の歴史と大学生の歴史学はどこがどのように違っているのであろうか。それとも、歴史とは暗記科目であり、歴史的事実にくわしい者が歴史的知識があるという高校時代の考え方をそのまま継承して、大学では、よりくわしい歴史学を学ぶことであると考えてよいのであろうか。
 歴史哲学のことを、いろいろ学んできた女子学生には、容易に気づくことであろうが、歴史家によって、歴史叙述は全く違っているということ、時には、歴史的事実の理解と解釈が全く正反対である場合がある。そして、高校時代、血眼になった歴史的事実の暗記ということは、正確である必要はあるが、大学で歴史を学び、歴史を理解する上に、少しも必要でないし、また、歴史的事実を知るということは歴史を学び、歴史を理解するということとは、全く関係がないのである。いいかえれば、歴史を学ぶということは、歴史的事実を新に見究めることであり、その事実をいかに理解し、解釈するかということ、しかも、その理解と解釈が多様であるということを知ることである。歴史的思考法を身につけて、現代と現代社会を究明し、理解することであるといってもよい。
 いずれにしろ、歴史的事実をめぐって、多種多様の解釈が生まれ、そのいずれかを選択するという難事業に直面させられる。ということは高校時代の歴史の勉強とは、大学における歴史の学問に、参考になるかもしれないが、同時に、全く、参考にならないものであるともいいうるのである。高校時代、歴史が好きで、歴史の成績がよかったので、大学で歴史学を専攻したという人が、往々、歴史学者として、すぐれた業績を残していないのもそのためである。すぐれた歴史学者となるということは、高校時代に歴史が好きであったということとは別問題である。

 

 批判に始まり、批判に終る大学の学問

 話が、少し横道にそれた感じだが、歴史の勉強と歴史の学問は、全く違うということでわかるように、高校の勉強には、殆んど批判というものがないのに対して、大学の学問は、徹頭徹尾、批判に始まって、批判に終る。批判するということ、疑ってみるということ、それがあるのと、ないのとでは、全く違う。だから、高校でやる勉強と大学でやる学問とは全く違うということである。勿論、高校時代、批判するという立場を導入している者はある。しかし、高校の学科の勉強に、その立場を導入している者は非常に少ない。
 大学生になるということは、今迄その被護下にあった親や教師達から独立して、自分で感じ、自分で考えながら生きるということである。好むと好まないとにかかわらず、独立した人間として、遇され、自分の意見をもつことを求められる存在である。他人から指導され、強制され、示された道をその通りに歩む人間は、大学生とはいえない。そこに、どんなに多くの思想流派があっても、そこに、どんなに多くの道があっても、それを選択し、見究めることに怠惰でなく、好きとか嫌いとかの感情で、直観的に選ぶということをしないで、あくまで、思想的に見究めて、自分の道を選び、決定していくのが大学生である。それが大学生が、大学生として生きるということである。
 要するに、大学生とは、自主的に主体的に自分で考える人である。考えることを始めた人である。高校時代にまじめに生きることを学んだ、そのまじめということさえ、大学生となったら、あらためて、その内容に、疑いと批判を提出してみる。価値があり、意味があると思っていたことにも、あらためて、問いを発してみる。
 いいかえれば、そういう根本的問い、本質的問いを自分自身に投げかけ、自分自身で徹底的に、考えてみるということ、それが、学問の出発点であり、そこではじめて、学問する姿勢を自分のものにできたということができる。高校で志向する人間と大学で志向する人間とは全く異質なもの、異質な人間をねらっているということもできる。
 たしかに、高校までは、人生の意味や価値をぎりぎりのところまで問うことをしない。もし、そういう高校生がでても、教師や親達は、そういう疑問、そういう批判を歓迎せず、かえってそれを抑えようとする。高校生も独力でそれを考えきれるほどに、思考力や判断力を養成されていない。その上に、そういう疑問とは無関係に、大学入試が待っている。大学入試は、そういう疑問にとりくむ高校生に、かえって損をするようになっている。だから、人生の意味や価値を問うことは、非常に大切であり、生きる上の根本問題であると思った高校生も、そういう環境の中で、はたと迷う。

 

 高校と大学は全く異質

 しかし、大学生になると、そういう疑問や批判をもつことが当然とされ、そういう批判をもたない大学生は、大学生として、非常に未熟であるという空気が、なんとなくある。現代の意味を、歴史の意味を、人間や民族や階級の意味を批判的に問うてみる生活、それも結局、自分自身の中にある現代であり、歴史であり、民族であり、階級であるが、徹底的に、自分を対象化してみる生活が大学生の生活である。
 そこに、大学生が、知識人になり得る道が開かれる。知識人にもなることができる。だが、誤解のないように、つけくわえておくが、大学生が、大学卒業生がそのままに知識人になるのでなく、最低、これだけを経てきた者、それが知識人になるのである。だから、大学生活を送らない高校卒業生や中学卒業生でも知識人になれるし、大学卒業生でも知識人にはなれない。唐突に、知識人という言葉がでてきたが、知識人とは、主体的に、人生や現代について根本的問いを発し、それについて考えていくことのできる人のことであって、専門的な知識をあれこれ単に集積している人ではない。
 その上で、大学生は、各自の専門に従ってそれを追求していく人である。専門の学問をいくらやっても、人生や現代の根本義を問うことをやめた者は、直に、単なる知的職人に堕する。また、そういうことを問うことなく、専門の学問を始め、それに終わっているものも知的職人にすぎない。決して、知識人にはなれないし、知識人の列に加わることもない。
 このようにみてくると、意外に、大学教授、助教授といわれている人に、知的職人が多いということもわかろう。だが、ここでは、そのことを問題にしていない。そういう教授、助教授が多いところに、今の学生の中にも、人生を現代を根本的に問いつづける学生が少なくなったこと、そのために、高校の勉強と大学の学問を同一視する者が多くなったことを述べたいだけである。高校の勉強と大学の学問が異質だということ、時には、正反対であるということ、そして、高校で、頭がよかったということ、成績が悪かったということを前提にして、持っている優越感や劣等感は、大学では、殆んど通用しないということも、同時に、ここでは、知ってもらいたいのである。
 高校の成績のよしあしで、やむなく、世間的にいわれている、良い大学、悪い大学に入学することになるが、学問とは、そういうことに無関係に成立し、無関係にできるものであるということも理解してほしい。
 大学とは、今迄の小学校、中学校、高等学校で支配していた価値をくずし、新しい価値を創り始めるところである。新しい人生が新たに開かれるところである。これまでの常識や迷妄から、とき放たれて、自分自身の本当の人生を始めるところである。そういう人生を逞しく、強く、創りだすところである。
 大学とは、そういう機会、新しい人生を始める機会を、大学生全体にあたえるところである、私は、その意味で、大学というものを讃美し、できるだけ多くの者が入学できる大学の数があるということを讃美する。まだまだ、大学生は少ないというのは、そのためである。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

   2 教養・学問・仕事

 教養・学問・仕事は別個に考えられない

 大学というものの性格を以上のように書いていくと、自ずと、大学での教養、学問、仕事をどのように考えているのか、また、大学に、教養を求めてとか、学問や職業を求めて入学したという設問が、いかに愚劣であり、間違っているとさえいえることに、気づくことであろう。
 たしかに、日本には、明治以来、学問と教養と仕事を別々に考える傾向があった。とくに、学問と教養との分離は甚しい。明治以前は、学問の未発達のせいもあったが、学問の主流は実学であり、学問と教養は統一的にとらえられていた。「論語読みの論語知らず」ということが全く軽蔑され、行動や実践にでてこないような、行動や実践にまで出ていかないような学問は誤っているとさえいわれたものである。知行合一の立場にたって学問をした中江藤樹、大塩平八郎、西郷隆盛が高く評価されたのもそのためである。勿論、学問が実践に結びつかない人達が多かったために、彼等が高く評価されたという見解もでてくるかもしれないが。
 しかし、学問の主流はどこまでも、知識と行動を統一的にとらえようとする立場であり、学問とは別に、教養というものが考えられることはなかった。学問と教養は、別々のものでなかつた。一つのものとして考えられたのである。しかし、明治以後、いつのまにか、学問と別に、教養があるかのように考えられ、別々のものと見られるようになった。そして、時に、教養という言葉が、学問への入門的知識であり、啓蒙的知識であると考えられ、学問よりは一歩低いものという意味で使用されるようになった。
 大学当局や大学教授、そして、大学生自身が、今日、一般教養と呼び、一般教養と考えている教養とは、多くの場合、こういう考え、もしくはこういう考えに近いものである。では、何故、こういう考え方が大学や大学生に定着したのであろうか。

 

 一般教養に疑いをもつこと

 新学制が出発したとき、文部省は、大学設置基準に従って、二年間、あるいは、一年間、一般教養として、人文科学、社会科学、自然科学の中から、三科目、あるいは二科目を択んで講義するように定めた。たとえ、それが、人生と社会と自然に対する総合的理解と知識を学生自身にあたえようということが意図されていたとしても、それまでの大学卒業生に、そういう理解と知識が欠けていたことに対する反省から生まれていたとしても、それをうけとる大学側、大学教授には、殆んど、そういう自覚と痛苦がなかった。だから、一般教養とは何か、いかにして可能なのかという問いは、大学の中に、大学教授の中に、殆んどおこらないままに、旧制高等学校や専門学校、大学の予科の各教科の教授が、そのままに、一般教養という名の下に、従来の教科をバラバラに教える教授として横すべりした。女子専門学校の教授が、そのまま居すわったのである。そこに、大学生から、全く不評な一般教養の講義が生まれ、大学生も、その講義を一般教養とみとめる風習が、いつの間にかできあがってしまったのである。
 そのことを疑ってみるという、大学生としての姿勢もないままに、その姿勢をおこすこともないままに、ただ多くの大学生は、不満を述べているにすぎない。
 勿論、すべての大学が、大学教授が、一般教養に手を拱いていたわけではない。お茶の水大学のように、一般教養の中に、総合コースを設けて、例えば、現代社会における人間と自由というような主題を、人文科学、社会科学、自然科学の各分野から追求しているところもある。ここには、学問より一歩低い教養という考えは、少しもない。むしろ、諸科学を総合する学問としての教養が考えられているといってよかろう。
 また、帝塚山大学のように、「広い視野に立った上での、諸科学の境界領域の研究、あるいは、そのような研究を理解し、活用しうる教養」と、教養を解釈し、そういう教養をもつ人間を育成しようとして、独自のカリキュラムを設けている大学もある。即ち、東洋、西洋の古典思潮を理解させると共に、近代の社会と文化、日本の社会と文化、国際関係と国際理解の知識を、系統的に豊富にあたえようとする。女子大学のうち、教養学部があるのは本学だけと豪語するだけあって、なかなか意欲的である。お茶大や帝塚山大の方向は十分に評価してもよいと思う。
 しかし、私には、なお疑問が残るのである。教養を諸科学の総合と考え、学問と併存するものというだけでは、どうしても納得できないものが残るのである。教養と学問との関係を正しく考えてはいるが、そこには、肝心なものが抜けてはいないかということである。それは、人生について、現代について、人間や民族や階級について、根本的な批判、本質的な疑問を、まず、自分自身に課するというものがないということである。
「現代社会における人間と自由」という中で、「近代の社会と文化」という中で、そういう問いをなしていくということが考えられているかもしれないが、私は、そのことを明白にうちだしていく必要があると考えるのである。高校の勉強と大学の学問は、本質的に違うということを考えてみる学科目、研究テーマこそ、最も必要であり、不可避だと考えるのである。高校生活と大学生活をはっきり区別するもの、違うということを意識させる学科目や研究テーマが必要である。

 

 学問を実学としてつかませるものが教養

 このようにいえば、教養は単に諸科学の総合というだけでは足らないことに気づくであろう。即ち、今日いわれている専門的な学問を学ぶだけでは、知的職人になるのがおちで、教養として学んだときに、はじめて、知的職人から知識人になる道を歩むことができるのである。結局、教養とは、現代に生きる人間としての自覚を、存在意義をつかませるもの、学問を実学として自分自身につかませるもの、いいかえれば、単なる知識でなく、主体的な思考として、その人自身を支配し、統轄できるものを持つようになることである。それが、教養というものである。歴史学に対して、歴史哲学の位置にあるものが、学問に対して、教養がしめる位置である。
 学問の前提になり、学問の結論になるのが教養である。それが学問と教養の関係である。ということは、大学生が、大学の一般教養とは何かと問うてみるところに、学問の出発があり、教養のあるべき姿もわかってこようというものである。
 ことに教養ということを、何かについての知識をもつことだと考えるほど、お粗末なことはない。しかも、そういう考えが、意外に、多方面に、通用しているということは、その点では、現代は、江戸時代にも劣っているということになる。
 大学における一般教養としての哲学が歴史学が政治学が社会学がどういうものであるべきかについては、拙著「女子大学」に述べたから、ここでは、それには触れない。
 教養と学問との関係があきらかになれば、当然、仕事との関係もあきらかになろう。大学とは、就職の条件をよくするために入学するところでなく、教養と学問に即して、自分の仕事を明かにするところである。仕事は、学問と教養を必要とし、学問と教養を媒介としないでいい仕事は、どこにもない。人間の仕事は教養と学問の中で、はじめて、明らかにされ、確立されるものである。また、教養と学問の中で明らかにされた仕事こそ、本当に、すばらしいということもいえる。このことについては、また「職業」のところで書くとして、教養と学問と仕事は、どこまでも統一的につかむべきもの、つかまねばならないもの、そういうことを、ここでは強調しておきたい。それは、思想的自立のためにも、ぜひ、必要な考えであり、視点でもある。教養と学問と仕事をばらばらに考えるところには、初めから思想的自立は成立しないということを知っておく必要がある。

 

              <女子学生の生き方 目次>

 

   3 学生運動の中から

 学生運動は真理追求の場

 女子学生となった人達は、高校教育を疑い、一般教養を疑い、社会の常識を疑い、自分自身でたしかめ、自分自身で創り出した真理と価値を求めようとしたとき、はじめて、名実ともに大学生となる。そういう生活を始めたとき、彼女達の生活は、生き生きと、充実したものとなり、躍動し始める。彼女達の前途は、あらゆる可能性にみちている。どんな世界でも、自由自在に夢想し、どんな世界でも実現できると思う。
 彼女達は、天女のように、純粋に、美しく、しかも、激しく、新しい世界、新しい未来を思う。若いが故に、それだけの純粋性があり、情熱があり、エネルギーに満ちている。新しい価値を欲する故に、社会の常識に妥協することもなく、一途に自分で夢想し、自分で考えた世界の実現を考える。不正を憎み、悪を怒る心は、すさまじくさえある。それが、単に純粋である青年と、自分の真理、自分の思想を追求する女子学生との決定的な違いである。自分の真理や思想をもたぬ者は、青年の時、一時的に怒り、憎むにおわるが、女子学生の怒りと憎しみは、真理と思想に裏うちされた全人間的怒りと憎しみである。その長い生涯を通じての怒りと憎しみである。そこに真理を求め、思想する人達の本当のこわさがある。不気味さがある。
 こういう生活、こういう生き方を女子学生はどこから始めるのであろうか。それは、学生運動であるといってよいだろう。現代に生きる人間として、自覚的に、自分自身をとらえたものには、政治的人間、社会的人間、歴史的人間の諸要素をもつのが自分自身であると考えたものには、自分を政治的人間、社会的人間、歴史的人間として生かそうと考えるのは当然であり、政治的人間、社会的人間、歴史的人間として生きることを要求されている学生運動に参加するのは自然である。
 さらに、政治学や社会学、法学、歴史学は、女子学生に、政治的人間、社会的人間、歴史的人間であることを理論的に、自覚させるであろう。学生運動こそ、政治学や社会学、歴史学を本当に学生自身にわからせ、理解させる、身につかせるものであることを知るであろう。実験と検証の場であるともいえる。それこそ、学生運動の中でこそ、政治学や社会学、歴史学、経済学、法学、美学が必要であること、それが、大学生の学生運動であり、大人達の政治運動や社会運動、大衆運動と違うということも知るであろう。
 学生運動には、インテリジェンスが旺溢していることによって、常に、新しいアイデアと新しい形があるものである。それがなくなったときは、単に、学生という集団の政治運動に堕したときである。その意味で、私は、学生運動を、たえず、現代社会の停滞をのりこえて、新しいもの、真理を求めて行動するもの、行動するものでなくてはならないと考えている。そして自らの歩む道、自らの行動する道がわからず、模索している学生を除く、全ての学生が、学生運動に参加すべきものと考えている。参加しない者は、政治的、社会的、歴史的人間としての権利と義務を放棄している者である。大学生として、自分の真理、自分の思想を追求していない者ということになろう。現在の学生運動が参加できるようなものでない、偏向しているということは、理由にならない。参加できる学生運動にすればよいのである。そのことを、政治学や社会学は、女子学生に教えた筈である。なによりも、学生運動は政治的訓練を女子学生に提供してくれる筈である。
 教養と学問と仕事を統一的に把握することの困難さとその必要を、学生運動ほどに教えてくれるものはないといってもいい。学生運動は、女子学生に対して、以上のような意味と役割りを、もっている。

 

 学生運動なしに学生の自覚は生まれない

 しかし、女子学生の中には、お粗末な政治学や社会学、歴史学の講義を聞いて、学生運動が、学生の自治運動が、学生にとって必要だと考えきらない者がいるのも事実である。学生運動を禁止する大学さえもある現状である。学生の中に、政治的、社会的、歴史的人間となるために、学生運動が不可避であることを理解しないものがあっても不思議ではない。だが、私は繰返して書く。「学生運動が必要でないと考え、学生運動に参加しないことは、人間として生きることを放棄したものであると」
 だから、京都女子大学の学生のように、現在、自治会の結成を、学生の自覚、学生の社会的責任ということと結びつけて、精力的にとりくんでいるものもある。学生達は自治会の結成の過程に、学生が女性としても人間としても社会人としても自覚することを求めている。大学当局は、そういう動きに対して、「一部の学生だけが騒いでいるだけで、全学生が自治会を求めていない」と答えているそうであるが、大学教育にたずさわる者は、「もし、その要求が全学生のものでないなら、なぜ出てこないのか、私達の大学教育にどこか欠陥がないかと考えてみるのが普通なのに、一部のものだけが騒いでいる」といって禁止の方向にむかう。
 こういう妙ちきりんな大学が大学として存在しているということは信じられないほどだが、それは、京都女子大学ばかりではない。この他にも、女子学生を中学生ぐらいに扱っている女子大学は多い。神戸女学院大学学生自治会も、現在、自治権を確立するために戦っている。そこまでいかない学生自治会や、大学当局の指導で運営されている自治会は非常に多い。そういう状態の中で、どうして、自立した人間、主体的思考の出来る人間が育つといえようか。こういう大学は、こういう自治会は、名は大学でも、高校、中学と少しも変らない。
 既に書いたように、大学生は試行錯誤をくりかえす。誤りや危険をくりかえす。自立した人間、主体的思考を身につけた人間となるためには、それはやむを得ないことである。どうしても、一度は通過しなければならぬ関門でさえある。といっても、現実の大学当局は、そういうことを認めまいとする。自分の学生が成長するよりも、大学の形式的な秩序が大事であるらしい。

 

 能力の開発・思想の確立にも重大なポイント

 が、いずれにしても、女子学生は、学生自治会に参加し、大学の改革、向上に取りくむべきである。学生仲間が人間的に自覚することを求め、学生自治会を全学生のものにするために取りくむべきである。模索している学生、迷いながら研究している学生を除く、全学生のものとするために。そして、日本民族の運命を左右するような政治的問題に遭遇したなら、学生運動を政治運動に発展させて、全学生を一丸とする運動にとりくむべきである。といっても、学生運動が政治運動にならなければならないような政治的事件は、一人の学生が、大学に在学する四年間に一度あるかなしかであろうが。
 女子学生が学生運動に参加する。それは人間としての確立を求める運動であり、自治権確立の運動であり、一般教養の充実を要求する運動、たりない講座設置の運動、マス・プロ教育の反対、学生会館の運営に関する運動等々である。時として、安保反対の政治運動になる場合もあろう。だが、私は、安保闘争でも、全ての女子学生をまきこまなかったということで非常に不満である。女子学生の全部を、政治的開限のきっかけにできなかった安保反対の学生運動に不満である。
 学生運動が学生の政治教育、社会教育の場であることを考えないで、あまりに、安保反対にのめりこんでしまったのでないかという不満である。学生運動のこの一面を忘れたとき、学生運動は、単なる政治運動、大衆運動に堕し、本来あるべき学習運動、思想運動の性格を失う。政治的開眼をした学生達を学生運動から、ソッポをむかせる。
 しかし、それはそれとして、女子学生が、そのエネルギーの全て、その情熱の限り、その知能の極限を投入して運動に参加することは、非常にすばらしいことである。そこから、女子学生にいろいろの可能性が開花し始める。未知の力、隠されていた能力を発見することにもなる。人間変革がはじまる。新しい世界、新しい考えの発見もある。
 たとえ、当面するその運動は失敗したとしても、歴史哲学を学んだ女子学生は、連続と発展が人生であることを知っているから、その道をつきすすむことをやめはしない。そのとき、もう一度、ふりかえって、自己と現代をとらえなおそうとする。自分自身になりきろうとする生活をはじめる。自己と現代を本当に発展させ、変革できる思想の追求にむかって、大勇猛心をふるいおこす筈である。
 そのとき、こういう学生は、自分の道、自分を模索する者となり、学生運動に参加しなくなるかもしれないが、卒業までに、ぜひとも、それだけの思想は見究めておかねばならない。確立しておかねばならないと、学習と研究にうちこむであろう。そうして、大学を卒業してからの長い人生の間、地道に、着実に、その思想に従って、活動し、実践する人になるであろう。
 学生時代だけの線香花火的な学生運動でなく、学生運動に、長い人生の活動と行動の基礎をおこうと考える人は、学生運動をこのように考える。学生運動こそ、女子学生に、その思想的自立のきっかけと、思想的自立への道を着実に、忍耐強く歩ませるものである。

 

             <女子学生の生き方 目次> 

 

   4 自立的思想とは何か

 思想とは人間そのもののこと

 高校の勉強と大学の学問、教養と学問と仕事、学生運動と書いていくなかで、思想的自立のきっかけとは何か、思想的自立の拠点となるものは何かということが明かになってきたと思う。繰返していうが、それは、現代に絶望しながら、執拗に現代の課題にとりくむ自分自身であるということである。そして、自立的思想とは、現代の課題にとりくむ自分自身の思想、自分自身に根ざした自分自身の思想ということになる。自分の中に集積した知識でなく、暗記し、記憶した思想でなく、主体的思考が生みだしていく思想そのものである。そういう思想は、その人そのもの、自分自身でさえあると極論できる思想である。
 その時、人間はどういう困難の中にあっても、どういう困難にぶつかっても、絶望するほどにいためつけられても、その問題から、その課題から決して逃避しない。かえって、ますます現代の課題や問題に意欲的になり、情熱的になる。なぜならば、そういう自立的思想を身につけたものには、その思想を生きるということが、その人の人生を生きるということでもあるからである。その思想を放棄するところには、その人の生すらない。自立的思想をもつということは、そういうことである。しかも、生成発展する現代の中に生きて、それに対決して生きる人間の自立的思想は、当然、生成発展しなければならない。
 では、それはどのようにして可能であろうか。現在の大学をみると、どこでも講義が沢山ある。週・30時間程度の受講は、どの女子学生でもやっている。これでは、到底、思う存分に読み、思う存分に考える余裕はでてこない。主体的思考は、何んといっても、持てあますほどの、ありあまった時間の中から生まれるものである。自発的思考は、そういう条件の中から、はじめて生まれ、身についてくる。単位や試験、出席表か卒業証書に規制せられてやる勉強(学問ではない)は、どこまでも、半独立人、半自立人としての高校生の勉強であり、勤勉や行動であって、決して、独立入、自立人になるための大学生の学問や勤勉ではない。
 独立人や自立人をめざさない大学生に、自立的思想が生まれる筈はない。自立的思想が根づく筈はない。自立的思想を求めるものは、まず、独立人、自立人を志す者である。独立人、自立人にむかっての歩みをおこすことが必要である。独立人、自立人とは、外部の強制や規制によって行動をおこす人ではなく、自分自身の内発的要求に基いて行動をおこす人のことである。強制や規制がなくとも、行動をおこせる人間、行動せずにはいられぬ人間である。即ち、試験がなくとも、また、単位に無関係に、学習をする人間である。大学には、研究テーマをもち、問題意識をもった高校生をこそ入学させるべきだと述べたのは、そのためである。
 問題意識や研究テーマをもたない大学生を多数収容する大学は、まず、初めに、学生を独立人、自立人を志向する人間に育てるべく教育活動をおこす必要がある。そのためには、試験や単位、出席等から、学生を一切解放し、学生の自発性が生まれ、自分の行動を自分自身で律するような人間になるのを徹底的に待つべきである。自発的、内発的に学問したくなる意志が芽生えるまで、待つべきである。唯、学生に有効な刺激をくりかえし、与えることである。学ぼうという意志がおこるまで、刺激をくりかえすことである。どういう刺激が有効かは大学自体で考えたらいい。そのことは、学生自身の側からいうと、学問がしたくなるまで、徹底的に学業をさぼるということでもある。
 大学が、学生を知的職人でなく、知識人を養成しようということを痛切に考えているなら、こういう思いきった対策もできよう。そして、一年、二年、おくれても、それをとりかえすことは容易であると、大学当局は考えるであろう。しかも、そういう学生は知的職人の道でなく、知識人の道を歩んでいく。結局、大学は知的職人を養成するのか、知識人を養成するのかという、大学の本質の問題になるが。
 ある女子大学の寮監は、「大学で一生懸命勉強すれば、寮にかえってまで、それほどやる必要はありません」と学生にむかっていうそうである。こういう寮監の感覚では、到底、独立人や自立人のことも、学問のことも、理解することはできない。
 女子学生が、講義に要求ばかりして、不満を述べている態度も気にかかる。たしかに、現代の学生は、多額の授業料や入学金を払って大学に学んでいる。とすれば、講義の充実を要望したくもなろう。欠講はもったいないという気にもなろう。だが、独立人、自立人への道を歩もうとする学生に、そういうことがいえようか。
 ここに、一つの講義があるとすると、その講義をきく学生も、いろいろある。その講義に満足する者、満足しない者といろいろ出るのは当然である。講義をきく全学生に肯定されるような講義は滅多にないものである。しかも、比較的に評判のよい講義すら、聴講しない学生はいるものである。その学生には、あまり魅力を感じないのである。だから、一人の学生に、満足できない講義がいくつかあるのはやむを得ない。すべての講義に満足しようとすることが、無理なのである。

 

 徹頭徹尾自分で考えぬく

 女子学生にきくと、どの学生も、いくつかの講義には、十分満足している。それなら、それでいいではないかと言いたくなる。満足のいく講義、興味のある講義だけをきいて、余力はすベて、読みたいものを読み、考えたいことを徹底的に考えればよい。ききたくない講義があってこそ、自分の時間をもって、十分に考えることができる。自立的思想を身につけることができるのである。
 もし、どの講義も、本当にすばらしいものであったら、自分の時間がないばかりか、そのすばらしい講義すらも、聴き、記憶するに終わるしかない。その講義の内容を自分のものとするために、咀嚼し、理解する余力はないし、まして、その内容をより深く理解するために、関連する書物をいろいろ読んでみるということはできない。
 勿論、どの学生にも不満をもたれながら、必修であるために、聴講する義務のある講義も中には、あるかもしれない。それについては後にふれる。要するに、女子学生が、どの講義にも満足しようとすることは、大学生らしい生活を拒否する姿勢であるということである。大学生の学究生活とは、教授から与えられるものでなく、徹頭徹尾自分自身で、自分に求め、自分で考える生活であるからである。教授から与えられたものだけを知るということは、大学生の生活ではない。私は、今の大学生をみていると、そのことが非常に気にかかる。
 また、その故に、自分に求める気もおこっていない学生、ききたくない学生を、単位とか、出席をとることで、強引に出席をうながすという愚を思わずにはいられない。半独立人、半自立人を多数養っている大学当局の無神経ぶり、無知ぶりを思わずにはいられない。そうでもしなければ、学生は遊んでばかりいる、卒業もできないと答える者があるかもしれないが、そういう学生に、もし、無理に何かを与えたとしても、そこに、一体何の意味と価値があるのかと反問するにとどめたい。そんな大学は、即刻、大学という名前を返上し、高等学校の専攻科、別科になればいいのである。
 大学生でありながら、学問することの厳しさを知らず、また、わからない者には、大学生の名を与えることを拒否すべきである。
 このように、独立人、自立人への道を歩むことは困難だし、独立人、自立人を育てる教育は厳しい。だが、女子学生は大学生であるということで、その困難の道を避けてはならない。それが、自立的思想をもつ第一歩である。

 

 奴隷の思想を持たず、思想の奴隷にもならない

 さて、自立的思想とは、自分自身の思想で誰かの思想でないということ、誰かの思想を自分の思想であるかの如く錯覚、あるいは、装ったりする思想でないことは明らかになったが、自立的思想をもった人というのは、どういう人をいうのであろうか。
 一言でいうなら、現代に、現代社会に流されないで、思想的に対決しながら生きていくことのできる人のことである。私には、関心や興味はないといって、現代の課題や現代の思想から逃げて生きるところには、奴隷の人生はあっても、思想的自立はない。人間が人間として、現代人として生きるということは、現代の課題と思想にむきあって生きるということである。
 奴隷の人生でなく、現代人として、独立人、自立人の道を歩もうとすれば、現代の課題と思想にむきあう以外にない。むきあって、いろいろの思想流派の中から、どの思想がより正しいかを見究め、その思想によって、現代の課題にとりくむことである。勿論、その時に、その選んだ思想を固定化し、その思想の奴隷にならないようにすることは、いうまでもない。例えば、一年生のときは、共産主義を支持したが、二年生になると社会主義を支持し、三年生では資本主義を支持したということにならないため、一年生のときに、共産主義も社会主義・資本主義も、可能なかぎり研究し、その中から、いずれかを選ぶということが必要である。私は、大学一年生や二年生が、とくに、高校時代、大学受験しか考えなかったような学生が、一年生や二年生で、共産主義を信ずるとか、資本主義に反対するというのを信じない。学問的検討を加えることもなく、感覚的に、あるいは常識的に、何々を支持するというほど、学生らしくないことはない。だからこそ、共産主義を支持していた学生が、卒業して数年もたつと、資本主義については全く知らなかったといって、資本主義の支持者に、平気でなるのである。
 勿論、今ある共産主義や社会主義、資本主義などのどれにも満足できない学生もあるかもしれない。その時は、当然、自ら、新しい思想、新しい主義の創造にむかっていけばよいのである。それが、若い学究徒というものである。
 しかも、私は、今、共産主義、社会主義、資本主義だけ限って書いたが、現実の主義、思想となると、種々に変形し、非常に複雑である。加えて、今日に生命をもっている思想となると、キリスト教、仏教、実存主義、プラグマティズムというように、いろいろあるし、それらが相互にからみあって、益々、複雑である。
 だが、思想的自立を、本当に、主観的でなく客観的にも達成するためには、そういう主義、思想から独立し、自立することが必要である。知らなかったではすまされない。知らないものがあるかぎり、本当には、自立はできない。
 そのために、女子学生は、現代を、現代社会を理解するために、多くの書物を読み、多くのことを考える必要があると書いたのである。どんなに時間がかかっても、どんなに年月を要しても、焦ることなく、急ぐことなく、今日の諸思想、諸主義を理解し、それを征服することが必要なのである。その時、はじめて、思想的自立が、自分のものになるのである。二度と奴隷になることもなく、自分が自分の主人となって、生きていけるのである。
 盲信や食わずぎらいの姿勢からは、無知者の自信と自立があるだけである。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   5 思考方法をもつということ

 一人の思想家の思想を生きてみること

 現代の諸思想と諸主義を征服するとは、現代の諸思想、諸主義を見究めて、一つの思想、主義をえらび、その思想、主義と自分自身が一体になることであると書いたが、一つの思想、主義と一体になり、思想、主義そのものになるということは、その思想や主義についての知識を豊富にもつということではない。まして、その思想や主義の体系を信じて、それを奉ずることではない。思想、主義そのものになるということは、その思想、その主義のもつ思考方法を自分のものにすることである。その時、はじめて、思想、主義のもつ生命は生きたものとなり、その思想、主義は生成発展する。
 思想や主義とは、本来そういうものである。そして、思想のもつ思考方法を継承する時、その思想は無限に発展するが、その思想体系を継承する時には、固定化し、時代への有効性も失う。思考方法を自分のものにするとは、現在ある自分の思考方法とその思想がもつ思考方法とを対決させることによって、徐々に、自分の思考方法を実らせ、ふくらましていくということである。その時、自分の思考方法にあくまで執し、その思考方法を発展させることが大事であって、自分の思考方法を捨てて、その思想の思考方法を取るということは、決してやってはならない。
 一つの思想からの転向とか挫折は、自分の思考方法でなく、他人の思考方法を自分のものであるかの如く錯覚した者におこるのである。それは、また、思想的に自立する道ではない。時間をかけて、思耐強く、持続的に、考えただけ、納得しただけ、自分の思考方法を変革していくのである。しかも、納得したといっても、自分の思考方法が、直ちに変革できるというものではない。
 だからこそ、思想的に成長することはむずかしいし、日常の世界の思考方法と、学問の世界の思考方法の二つをもって、ケロリとしている学者が多いのもそのためである。
 女子学生が、その思考方法を変革し、豊かにし、思想的自立への道にすすむためには、思想家に私淑するのが一番よいと思われる。私も、思想家の何人かに私淑し、その思考方法と自分の思考方法とを対決させることによって、思想的自立への道を、今日まで歩んできた。親鸞・道元がそうであり、金子大栄、長田新、竹内好がそうであり、大学卒業後は、サルトル、毛沢東など、多くの人の思考方法と対決してきた。
 既に、名前をあげた宮本百合子、野上弥生子、高群逸枝、ボーヴォワール、パール・バック、アグネス・スメドレーでもよいし、大学や女子大学を創設した人々でもよい。その人達の思考方法を通じて、自分の思考方法を鍛えるのである。その人についての知識をもつのでなく、その人の思考方法との対決の中で自分の思考方法をきたえていくのである。それが、知的職人でなく、知識人になる道である。本当の教養人とは、そういう人である。
 一人の思想家の思考方法を学んだあとに、次の思想家の思考方法と対決する。それを、三人、四人とやっているうちに、その思考方法は、強靱になる。現代や現代社会をとらえられるほどに強力となる。勿論、一人の思想家に対決するということは、その人の全著作を読むだけでなく、その人について書かれたものを全て読んでいくことである。だが、もっと大事なことは、決定的に必要なことは、その人が読んだ書物の主なものを読むということであり、彼や彼女が生きた如くに、生きてみるということである。その時代にどのように生き、どのように学んだかを具体的に、且、明白につかみ、そのように生きてみることが必要である。

 

 知識をぶつけるのでなく考え方をぶつけあう

 一人の思想家を誰にするかということでは、ゼミを通じて発見するのもよい。大学におけるゼミの意味は、教授を信頼する、信頼しないの別なく、非常に大きい。女子学生は、貪欲に、教授から吸収しなければならない。すぐれた教授は、学生の思考方法を徹底的に鍛えてくれる。その意味では、教授が、自分の思考方法を対決させる思想家そのものであったら、女子学生の学生生活は本当に豊かなものになる。
 経済学者都留重人氏は、「私は、ハーヴァードに転校してまもなく、このタウシグ教授のゼミナール的講義に列席して、単語をまだよく聞きとれないままに、小さな教室ではあったが、最前列の中央あたりに陣どって、教授の言葉を一言一句ききもらすまいとしていた。ある日、教室にはいってきて、いつもの椅子に腰をおろした教授は、いきなり、その精力的な腕を私の方に向けて言われたものである。
 “収益テイゲンの法則というのがあるが、それが現実に存在するということを、われわれはどうして知るか”と。これは、青天のヘキレキであった。
 “収益テイゲンの法則とは何か”とか、“リカードのいう、テイゲンの法則とはどんなことか”といわれるなら、答えようもあったが“その実存をどうして知るか”と問われて、私はまごついた。
 今は、もう記憶していないが、私は頭を走馬燈のように走らせながら、何か単位要素である労働の意味を明らかにすることから答えはじめたように思う。すると、教授はそれを全部いわせないで、私の答の中のあいまいなところを鋭くつきながら、質問の矢を、すぐ次の人にもっていく。
 こうして、数人の学生に、次から次へと、問題を乗りうつらせてゆくあいだに、教授が最初に提起した問題の幅と深さと、結局は、その意味とが、おのずから、私たち自身の集中された思考をつうじて、私たちの頭の中にしみこんでいくようにされるのである。
 こうした講義が、毎週一時間ずつ三回あったが、このタウシグ・ゼミナールこそ、一旦教室にはいったが最後、教授が席をたって行かれるまでは、ノートをとる暇もないほどに集約された訓練の時間であった。私たちは、これを神聖なる恐怖の時間と呼んだものである」(アメリカ・遊学記)
と書いているが、ゼミこそは、教授と学生の論争の場であり、戦いの場である。学生の思考が、思考方法がこなみじんにされるときでもある。
 そこから、学生の思想は、思考方法は育っていくのである。誰も奪うことの出来ない思想が、思考方法が生まれていくのである。

 

              <女子学生の生き方 目次>

 

 

第4章 未来を創る思想

   1 欲望と感覚に根ざした思想

 確かな自己主張は欲望に根ざした思想から

 女子学生の多くは、自分で何かを考え、何かを思っても、周囲の眼や声が気になって、なかなか、自己主張ができない。一歩ふみだしても、その眼や声の前に、一瞬たじろぐ。その時彼女たちは、「私は意志が弱いのだ」とか、「将来の自分の幸福に不安で」とかいって、行動にふみださない自分自身を合理化する。そして、自分の思想の再検討を始めようともしないで、「理くつは、そうかもしれないが、現実は違う」という社会常識の中に逃げこんでしまう。
 そこから、中村省吾氏が、西南女学院大学の学生742名に対し、「貴女は正しいと思えば、世のしきたりに反しても、それを貫いた方がよいと思うか」という質問をしたとき、

   貫くのがよい        20%
   あまり無理をしない方がよい 60%
   しきたりに従った方がよい  10%
   わからない         10%

 というような調査結果もでるのだろう。60%の学生が正しいと思っても、あまり無理をしない方がいいと考えていることは、推定すれば、彼女たちには、正しいと考えていることに、それほどに自信がないか、正しいと考えても、それを貫く自信がないかのどちらかである。まさか、大学生になって、正しいことが、社会にたいしてもつ意味を知らぬわけもあるまい。しかも、20%もの女子学生がしきたりに従った方がいいとか、わからないと答えている。ということは、中学生以下、小学生以下の知能、感覚の持主が20%いるということになる。こういう学生は論外として、女子大生の中に、こんなに多数の者が、結果的には、現状に流される生活姿勢を身につけているのかと思うと、ゾッとする。しかし、そう答えた西南女学院大学の学生も84%は、自分の見解ぐらいはもちたいと考えるのである。ということは、あまり無理をしない方がいいと答えた学生も、その多くは、正しいと考えることに自信がなく、それを貫くことに自信がないということである。無理をしない方がいいのでなく、無理ができないと考えた方がいいということにもなる。
 要するに、女子学生は、そのもつ思想なり、知識が強靭に働かないのである。たとえ、自分自身と一体になっている思想や思考方法があっても、実際には、強く、有効に働かないのである。それは、なぜか。そのことを深く考えてみる必要があるように思われる。
 私は、先に、親鸞や道元・日蓮を研究したことを書いてきたが、その親鸞たちは、自分の欲望を抑圧し、否定することなく、その欲望を肯定し、好ましい方向にむけたということを述べてきた。普通、常識では、仏教は、欲望を抑圧し、否定する教えであると考えられているが、親鸞や日蓮は違っていた。欲望を抑圧し、否定するなんてとんでもないことであった。動物的本能的である欲望、その故に強く、激しい欲望、その欲望を人間の欲望、いいかえれば、磨かれ、鍛えられた欲望に変革し、その欲望で貫ぬかれたからこそ、親鸞の強い立場、日蓮の弾圧に屈しない立場が生まれたのである。欲望と思想、欲望と知識を統一的にとらえたからこそ、天上天下唯我独尊といいうる道元の立場が生まれたのである。
 これは、現代の私達に、ともすれば、思想が衰弱しがちな日本の現状に、何かを教えているのでなかろうか。学生時代、日本の社会を一人で背負っていると見えるほどに、熱情的に夢と理想を語っていた女子学生、そのために挺身していた女子学生が、卒業まじかになると、卒業して、三、四年たつと、ウソのように、そのことを忘れてしまう。そのことから遠ざかってケロリとしている。また、弱気をはく女子学生もいる。
 親鸞や道元、日達は、そういう女子学生に、現実にきりこめるほどに、強く、激しい思想はどうしたらつかめるかを教えているのではなかろうか。

 

 欲望は知識の親である

 「欲望と知識」の関係については、「独学のすすめ」(大和書房)で書いているので、ここでは、それと違った形で、最少限、必要なことを書いていきたい。
 人間のなまの欲望が強靭なことは誰でも知っている。その欲望のために、泥棒や人殺しをやり、法律や秩序をおかすことは、私達が日常みるところである。それほどに強いのが欲望である。そのために、欲望を罪悪視して、否定する傾向もおこったのである。
 だが、他方には、欲望が衰弱したときには、生活意欲まで衰弱することを知って、人間には欲望はなくてならぬという考えもある。そこに、仏教そのものにおいて、欲望について全く相反する意見、否定と肯定の二つの意見がでてきたのである。むかしから、人間は、その欲望の処理になやんできたということもできる。
 たしかに、欲望は、なまのままでは手におえない。だが、それが、人間の欲望であるかぎり、そこに、知識が判断が作用し、好ましい欲望、好ましくない欲望、満たすべき欲望と抑える方がよい欲望というふうに制御が働く。が、なんといっても、欲望は、充足を求めて行動をおこす。充足されるまで、欲望は働きつづけ、行動をおこす。また、充足を求める気持が強く働くために、このために必要な知識を十分に身につける。欲望を達成するために、必死になって研究する、学問する。欲望と結びついた行動は、非常に強靭で逞しい。一寸のことでは、絶対に中止しない行動である。
 食欲を例にとってみよう。それが人間の食欲であるとき、偶然に食べたおいしい物から、そこに、いつも食べたい。もっとおいしい物を食べたいという欲望にもとづく判断がおこってくる。両親や兄弟ばかりでなく、みんなに食べさせたいという希望もわいてくる。こうして人間の食欲と知識は結びついて、無限に発展していく。その過程で、それを阻むものに出あうと、その充足を求めて、それを排除しようとする。また、そのために、可能なかぎりの知識を動員していく。このように、欲望と知識が結びついたとき、人間の知識、人間の思想は強くなるということがいえる。
 だからといって、人間の欲望は誰でも強いとはいえない。知識欲に強弱があるように、欲望にも強弱がある。先述したように、欲望を罪悪視する者には、欲望を解放することはできまい。弱い体質者の欲望も強くはあるまい。そのために、偏見をうちやぶり、体質を改善して、強い欲望が活発に働くようにこころがける必要もある。

 

 欲望に方向づけをする感覚

 それに、人間は、感覚という、欲望を制御し、方向づける最大の武器さえもっている。勿論、その感覚にしても、なまのままの感覚ではあまり役にたたない。人によって、鋭い感覚もあるし、にぶい感覚もある。美しいものを美しいと感ずる感覚もあれば、不正や汚職を見てもなんとも感じないような感覚もある。美しいものを美しいと感ずる感覚の持主は、汚職ときいただけで、吐き気をもよおすに違いないし、自由の感覚を身につけた者は、不自由はがまんがならない。平等の感覚を身につけた者は、不平等は許すことができない。
 このように、鋭く、とぎすまされた感覚で、欲望の方向づけをやるのである。というのは、欲望は、感覚のよろこばない方向、許さない方向に、充足を求めていかない性格をもっているのである。民俗学者、柳田国男が、その研究を、その感覚から出発させた意味も理解できるであろう。欲望と感覚に根ざした思想や知識が、いかに強力であるかもわかったであろう。その感覚をいかに鋭く磨くかということについては、拙著「独学のすすめ」にゆずりたい。
 今一つ、その思想を貫く上で、自信がないという女子学生にむかって、いいたい。
 思想をつらぬく上で、意志と気力と胆力がいかに重要で、不可欠かということを誰よりも、強調したのは、江戸末期の教育者、吉田松陰である。彼は、「胆力が衰えたときには、識見までくもる」とまでいった。そして、思想の学習と平行して、意志と気力と胆力の養成に力点をおいたし、時には、思想の学習以上に、そのことを重んじた。意志と気力と胆力がなければ、宝の持ちぐされになると考えたのである。しかも、松陰は、その意志と気力と胆力は養成できるもの、つくられるものとみたのである。
 松陰がそう考え、そういう教育に全精魂をうちこんだから、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江九一たちの教え子は、幕府権力という、不可能に近いまでの壁にきりこんでいったのである。そして、その権力を仆そうと考えた青年たちの推進力になったのである。
 自信がないという女子学生は、親鸞や日蓮に、また、松陰に学んで、欲望や感覚に根ざした知識、意志や気力や胆力に支えられた知識を学ぶべきであろう。

 

             <女子学生の生き方 目次> 

 

   2 大学の改革にむかって

 学問は行動をリードできるものでなければならない

 欲望と感覚に根ざした思想、意志と気力と胆力に支えられた思想というとき、私は、行動する思想、行動をリードできる思想ということを考えて述べてきた。いいかえれば、江戸時代まで、日本の学問の主流であった、行動と理論は一致しなければならないという考えを、どのようにして、再び、日本人のものにするかを考えていたのである。もう一つ、つっこんだ言い方をするなら、現代の課題にきりこんで、現代を変革できる行動をリードできる思想ということになる。が、その場合、主となるのは、行動であって、思想は従ということである。行動こそ、人間の基盤であり、思想は、その行動を導き、支えるということで、はじめて、意味と価値を与えられるということである。思想の内容、性格が問われるのも、その思想に導かれる行動が問題になるからである。だから、行動をリードできないような思想、行動にふみきらせないような思想は、思想の名に価しないということもできる。
 勿論、青年である女子学生は行動する。旺盛なエネルギーと激しい情熱をもつ女子学生は、時に、欲望のおもむくままに、感覚の命ずるままに、行動しようとする。行動することを恐れない。だが、その時に、必要なのは、思想に導かれた行動をすることである。どんな場合、どんな時にも思想にリードされた行動をおこすことである。
 では、女子学生は、何にむかって行動をおこすのか。現代にきりこむ思想を培っていくのか。女子学生が、まず、学問と教養、思想を確立するために行動をおこすことはいうまでもない。それは、自分の現状に対する挑戦であり、自分の現在に対する変革である。これまでに、いろいろと述べてきたのも、全て、そのための生き方、学び方である。だが、問題は次の段階にきたのである。即ち、自己変革をとげた女子学生、自己変革にとりくむ女子学生は、現代を変革する行動、現代を発展させる行動、それを導くことのできる思想に直面することになるのである。
 その時に、女子学生の前に現われ、立ちふさがるのは、女子学生自身が生きている大学という社会である。当然、女子学生がとりくむ現代は、大学の現状であり、現代社会は、大学という社会である。大学の改革と発展にきりこむことが、女子学生の第一歩といえる。
 普通、日本人は、ともすると、自分のおかれた小現実、自分の生きる小現実の変革、向上にとりくまないで、一足とびに、日本とか、世界とかを考えたがる。そして、日本や世界の変革、向上にとりくんでいると錯覚している場合が多い。たしかに、小現実の問題を解決するためには、日本の問題を、日本の問題を解決するためには、世界の問題を解決しないでは、解決できない場合が多い。
 だが、日本の問題は、そういう小現実の集合であり、小現実の問題の解決が、日本の問題の解決になることを考えない場合が多い。とくに、学生運動家には、そういうタイプが多い。そこから、「私は学生の政治運動を否定するものではない。しかし、それと理想的な学問の場を作ることと無関係だと思ったことはない。平気で30分おくれてくる教授、相いつぐ休講、公用の多い試験をしない教授はもてる。学生はそのような先生を親切だと感謝している。大学生の質的低下、マス・プロ大学の悲劇、政治家さん、われわれと手を結んで解決してゆかねばならない問題が、こんなにあることをお忘れなく」という、早稲田大学の野沢裕子さんの意見もでてくるのである。(朝日新聞所収)

 

 大学の改革は身近かな問題から出発

 学生運動に興味をしめさないという女子学生も、学内問題には、殆んどの学生が関心をもっている。だが、多くの場合、学生運動のリーダーは、学内問題よりも政治問題を優先させるべきだと考える一にぎりの学生で占められている。学内問題を重視するように見える学生運動家も、せいぜい、学生を学生運動にまきこむ戦術として考えている場合が多い。学内問題が重要であり、学生運動の第一歩はここにしかないという認識がない。多くの学生は、そのことを敏感に感じとり、学生運動にソッポをむく。
 しかし、模索し、混迷している学生を除いて、大学における学生運動は、学生の学んだ思想の実験の場であり、検証の場である。大学の改革にとりくむ思想と能力を自分のものにするように訓練するということ、それが、大学における実習であり、実験である筈である。女子学生でありながら、当然、人間としてもつべき政治意識、社会意識、歴史意識を追求しない学生に、どのようにして、それらの意識をもたせるか。そして、大学に山積している問題を、どのようにして、全学生のものとして、解決にとりくむか。それこそ、学生運動の中心課題である筈である。
 学生運動家たちは、教養や学問を求めて大学に入ってきた仲間達を見捨て、大学の外に、仲間を求めようとする。大学当局に改善を求めないで、日本政府に改革をせまる。こういう学生運動家に同調する学生も、自分達の大学の問題を、日本の問題にすりかえる。自分の思想と能力を過信し、一足とびの行動をした、その結果、多くの学生は挫折し、簡単に現代の問題に無気力になり、無関心となっていく。
 大事なことは、自分の思想がとらえた問題から、それに取りくんでみるということである。その場合、大学の現状にとりくむということは、最も、変革しやすい、改善しやすいものにとりくむということである。しかも、大学当局は、学生に理解をしめそうとする基本姿勢をもち、日本政府ほどに頑迷固陋ではない。学生も仲間になりやすい。こういう好条件の中で、問題解決にとりくむということは、学生に自信と能力をあたえるということでも、大変恵まれている。勿論、そういう中でも、大学の問題を適確にとらえて、問題解決の方策に適切なものがなければ成功しない。自らの思想は常に再検討と深化を迫られる。
 大切なことは、基礎をがっちりと固めて、大学の改革から進んで、日本と世界の改革にとりくめばよいのである。卒業してからこそ、本格的にとりくめばよいのである。暇と情熱にまかせて、現代の問題にヒステリックにとりくむ学生が、学生運動に多数参加しているかぎり、学生運動は、日本の現状に、世界の現状に、生産的であることはできない。

 

 一人びとりが改革案をねってみることが必要

 では、大学の改革にどうとりくむか。勿論その大学の改革案は、大学当局と教授と学生で検討し、練りあげていくものであるが、現状は、大学当局は、大学の改革にあまり熱意をしめさず、教授も自分の研究におわれている。自然、大学の改革は、学生の手にゆだねられる。学生自治会が、その中心になってゆかざるを得ない。
 先日、共立女子大学の学生自治会に招かれて話をした時に、私は次のように語った。「学長の鳩山さんは、政治家である夫とともに長く生きてきた人。ということは、政治を肌で感じ、女性が政治的にめざめることの必要を痛感した人ということもできる。その鳩山さんが、長く学長をしている本大学に、文学部や、家政学部しかなくて、政治学部とか政経学部がないというのは全くおかしい。
 文学部や家政学部に学ぶ皆さんに、そういう希望がないということは、一応いえようが、大学に入学し、学問をしている間に、それの必要を痛感した者も幾人かはいる筈である。そういう希望が学生の意見として、学長に伝わっていないのではないか。
『週刊新潮』の記者として、三度ほど、おめにかかったことがあるが、鳩山さんは、むしろ、話のわかる部類の人である。学生が、学問できる環境をつくるために、いろんな希望を学長に述べることは非常に必要である。勿論、経済的な裏づけの必要なこと故、直ちに、改革、改善できないかもしれないが、留意することはできる。
 今必要なのは、全学生で、大学の改革案をねってみることではあるまいか。そのために全学生から、改革案の基礎資料をとる。講義にしても、一つ一つの講義について、全学生のくわしい評価と希望を書いてもらう。そこから、全学生に不評な講義の一掃をはかる。勿論、教授の弁明も聞く必要があるし、教授自身の希望、要望をきくことも大切である。
 どんなに時間とエネルギーをかけて調査しても、調査しすぎたということはないのではないか。学生の実態調査、意識調査はあるが、学生の理想的学生生活、理想的大学案についての調査があまりにないのではなかろうか」
 私が、共立女子大の学生の前で述べたことは不十分である。が、ここで、それ以上、述べようとは思わない。ここより先は、女子学生自身考えるところ、考えねばならぬところである。その考えに従って、試行錯誤しながら、大学の問題を、大学のあり方を考えることである。追求する行動をおこすことである。学内問題には関心があるという殆んどの学生と一緒に考えていくことである。そして、その中で、女子学生の問題意識を発展させ、それにとりくむ姿勢を確立していくのである。より広く、より深く。
 女子学生全てを大学生として目覚めさせるということ、そして、女子学生が教養と学問を、思想を追求しはじめるということ、それが、理想の大学の姿ではなかろうか。

 

             <女子学生の生き方 目次>

 

   3 現実にきりこむ行動と思想

 家庭という小現実の問題にとりくむことから

 女子学生がとりくむ小現実として、大学を考え、大学の改革にとりくむ女子学生のことを述べてきたが、彼女たちのとりくむ小現実は、他に無いのであろうか。大学より小さい小現実はもう無いのであろうか。私はそのことを考えてみる必要があると思う。
 というのは、ここに、雀部猛夫氏の神戸女学院大学生に対する、一見、奇妙な調査結果があるからである。それによると、

   よい家庭をつくるために積極的に努力   11・8%
   少し努力している             24・5%
   努力していない              19・7%
   無解答                  43・9%

   よい社会活動をするために積極的に努力   4・1%
   少し努力している             17・3%
   努力していない              25・2%
   無解答                  53・4%

   すぐれた人間形成をするために      23・8%
   少し努力している             29・3%
   努力していない              12・7%
   無解答                  34・2%

 という数字がでている。学問と教養を分離して考える傾向のある今日の女子学生、行動と理論を分離して考えたがる今日の女子学生から、こういう調査結果がでるのも無理はないが、この事実からわかることは、自分と家庭と社会(大学・日本をふくむ)が統一的に把握されていないということである。女子学生の中で、バラバラにとらえられているということである。
 その結果が、大学の改革にとりくんでも、家庭の問題は全く省みないとか、政治問題にとりくんでも、家庭の問題は、あまりとりくまないとかいうことがおこってくるのである。大学の改革や政治問題にとりくむ第一歩は家庭の問題であり、家庭も大学も日本も、それぞれの問題を統一的に把握する必要があるという認識がない。
 そのために、「彼女たちは、連日デモ(安保反対闘争)に出かけたり、新聞報道に目をひからせたりして、日々もりあがってゆく大衆闘争の中に生きた。そして、6・19のあとの砂をかむような空白感を味わった。
 あれほどの危機感を必然的と感じ、大衆の一員として生きた学生が数限りなくいた。しかし、この挫折感は、おおよそ、すべての学生たちをおおってしまって、彼女等のその後の生活は不能かつ無思想だった。積極的に、状況からの打開点をみつけることもしなくなり、いや、しないムードの中に埋没してしまったのかもしれない」(津田塾学生新聞・昭和三十九年四月○○号」
 と書かねばならない破目におちいるのである。

 

 家庭の問題こそ現代改革の源泉

 もし、女子学生自身、変革と改善の第一歩は家庭にあると考えて、父や母とのコミュニケイションに積極的にとりくんでいれば、安保反対闘争に敗れ、傷ついた心を、家庭でこそ休めることができた筈である。大仰に、挫折感や無力感をふりまわせば、父や母に笑われ、たしなめられただろうし、再び、元気になれば、改めて、もう一度、現代の課題に肉薄せよと激励されたであろう。
 そうすれば、お茶の水女子大学の各務陽子さんが、
「私達に必要なことは、はっきりと自らのよって立つところの歴史的基盤をみつめ、彼ら以上に不毛な自らの世代に、自らの手で終止符をうつべく、秘やかに準備し、敢然と決断する以外にない。
 いたずらなよりかかりや他者志向は糾弾されなければならない」(お茶の水大学新聞)
 と書いたように、孤独の世界に沈潜して、困難な思想創造の道をすすむことを余儀なくされたときも、自殺することなく、その問題にとりくめるのである。家庭をそういう方向にむけておくのも、着実に小現実の問題に取りくむ女子学生の心がまえである。
 家庭のあり方如何で、家庭は、現代の改革にとりくむ行動の源泉となるものである。その上、女子学生の多くは、大学を卒業すると、その家庭にかえってゆく。とすれば、家庭の問題にとりくむことは、益々大切になってくる。
 家庭にかえっていく女子学生が多いと書いたが、それは、故郷に帰ることを意味する。自然、就職も故郷でする者が多い。ということは、家庭の問題にとりくみ、大学の問題にとりくんだ女子学生が卒業とともに、とりくむのは、地方の問題であるということでもある。
 その時に、思いだすのは、慶応義塾大学の創設者福沢諭吉の言葉である。
「ここに、憂うべき困難事は、学業を終えた者が、一朝、国に帰りて、その郷里に用いられざる一事なり。かねて、その父兄の心には、多年東京に遊学せしめたることなれば、帰郷の上は、その立ち働き、実に衆人に超絶するならんと思い居る処に、突然、帰来して相面談すれば、そのいう所、空漠雲をつかむが如く、その働きを見れば、誠に鈍にして、店頭の子におよばず、その読む所の書籍また奇怪にして、その心において感服せざるなり。……
 一度、東京の地を踏んで、大東京の学問を学び得たる学生輩は、また従前の人物にあらず。その行為、思想全く一変すべしといえども、その父兄は即ち従前の父兄にして、四年前、郷を辞する時に職得たる父兄の談論は、四年後郷に帰るとき、依然として一点の変更なく、その思想、その行為一として旧観を改めず、千年一様桃原の春に異ならず。したがって、その事を計画するも、同一の筆法になり。然るに、右の学生達は全く此に相反し、昔日の古風悉く、その気に叶わず。父兄の束縛その心を困しめ、父兄は責むるに従前の人物を以てし、当人は自処するに、今日の人物を以てす。……
 思うに、かくの如く、学生がその失敗を招く所以は、平生、知識をみがくの必要を知りて、嘗て、徳望を養うの必要をさとらず、まくべき種子のみを求めて、これを下すの地面を工夫せざるの罪に相違あるべからず。凡そ、何事にても、事をなすには、学問、才力まことに要用なりといえども、人の信頼を得ること、また最も必要なり。……
 されば、学生は、その学をみがくと同時に、その地を作るの術を工夫せざるべからず。此をなす方法は、甚だ容易にして、少しもむつかしきことならず。唯遊学中、つとめて、家の父兄、あるいは、郷土の知己朋友に書信を送るのことにて足るべし。……
 その書信を読んで、その心に感ずること深ければ、その人を信頼し、その人の徳望は冥々の中に、すでに養成しありて、一朝帰郷の暁には、事の業地をつくるに足るべし。……
 父兄、朋友は皆、文明の新思想に改良せらる。その報道すべきは、何事にしても可なり。読んだ書籍のこと、そのほか、何事にても、気のついたことは、一切洩す所なく、報道するも可である」
 女子学生が、郷里にかえって、何かをなす場合、学生時代から、こういうことをしておれば、非常にやりやすいであろう。サークルで、商業のあり方、農漁業の展望等について、本格的に研究するなら、故郷に出す手紙の内容は一層充実してこよう。
 福沢の言葉は、はじめて就職した者にも、あてはまるのではないか。大抵、就職して一年もたつと、学生時代の夢や希望をなくし、現実に流され、現実に埋没してくる。就職した先輩にむかって、手紙を書くということ、そして、コミュニケイションをつくっておくということは、自分自身が、就職したとき、現実に流されないためにも必要なことである。
 現代の日本の問題にとりくみ、その変革への行動をおこすということは、女子学生が学生時代に、とりくんで解決できるほどに簡単なことではない。むしろ、卒業してから後に、本格的に、それを持続的にとりくむことが必要である。必要なことは、学生時代に、夢や理想を語り、それにむかって行動をおこすことでなく、卒業後、長い人生の間、ずっと、その夢と理想をいだきつづけ、それにむかって、死の瞬間まで行動をつづけることである。

 

            <女子学生の生き方 目次> 

 

 

第5章 女性と職業と社会

   1 仕事と職業

 仕事と職業は別個のもの

 女子学生が、現代社会の中で、何をしたいか、何ができるか、何が価値あり、意義があるかを、教養と学問を統一的に追求する中で究明することが必要と書いてきたが、そのことは、同時に、教養と学問と仕事を統一的に把握することで、その何かが仕事といえるものである。
 何をしたいかということは、どういう仕事をしたいかということであり、教養と学問の中で掴んだ何かをするということは、その学生にとって、人生を生きるということでもある。だから、その何かを離れて、その学生の人生はないということもできる。
 仕事とは、本来、そういうものであり、そういう過程の中で追求すべきものである。だが、人間必ずしも、そうして掴んだ仕事を職業として、生活することはできない。その仕事をすることで生活費をかせぐことはできない。むしろ、そういう仕事を職業にできるものは少いということがいえる。
 職業とは、明らかに、生活費を生みだすものである。だから、自分のしたい仕事を職業にできる者は幸福といえよう。それが現実の社会である。そこから、自分がしたい仕事を、職業の余暇を利用して、やるということもおこってくる。
 しかし、現に、人間社会を維持するために、やりたくなくても、やらなくてはならない仕事は沢山あるし、誰かが、それをやらなくてはならない。そのためには、労働時間の短縮とか、高い労賃とか、いろいろの対策が考えられている。
 でも、今ここで、その問題を論じようとしてはいない。問題なのは、自分のしたいと思う仕事、やらねばならないと思う仕事が、必ずしも職業になりにくいということである。現代社会は、やりたい仕事を職業にしたいという希望をふみにじっていることである。自分のしたい仕事をやりたいという希望が、必ずしも強固でないのをいいことにして、その願いをふみにじっていることである。
 それは、やむを得ないことかもしれない。とすれば、自分のやりたい仕事への欲求を強める以外にはない。教養と学問と仕事を統一的にとらえることによって、仕事をすることが、その人生を生きるというふうにとらえるしかない。その仕事をあくまで、追求し、その仕事を職業にするために、三年でも五年でも努力するということが必要である。その仕事を職業にするために忍耐も必要である。
 教養と学問と仕事を統一的に把握した者には、それができる筈である。

 

 自分の仕事を達成するために職業を転々

 男性と女性の違いはあるかもしれないが、仕事を求めて、職業や職場を転々とした私の体験について、簡単に書いてみよう。
 私が大学を卒業したのは、昭和二十四年。大学に残って研究に専念してみないかという言葉には、私も未練はあったが、その言葉も、学校教育の犠牲になっている生徒を何とかしたいという私の年来の気持を抑えることはできなかった。それに、敗戦国日本の再建は、教育を正す以外にないという私の確信が、学校教育にとりくもうとする私の心を更に強固にした。これが、当時、私がとらえていた仕事の内容であり、その仕事にとりくむために、中学部を併設する私立高校の一教師という職業を、私は選んだ。私立高校につとめたというのも、感情にめざめる時期の少年は、中学・高校と一貫した教育をなすべきで、戦後の教育のように、中学・高校を切り離すべきでないという教育観に基づくものであった。
 私は、そこで、芸術を中心にした学習カリキュラムを作り、新しい人間教育にとりかかった。だが、私は、まもなく、典型的に、学校教育の犠牲になっている数多くの生徒がいるという事実にぶつかった。それは、戦後の学校制度の変革にともなってどこにもおこったことで、公立高校に入学できなくて、私立高校に入学した生徒たち、新設の公立中学の教師と設備が整わぬことから、私立中学に殺倒した学校秀才たち、それが同じ学園に同居したことから、必然的におきた問題である。
 教師という者、とくに、私立学校の教師には、学校秀才に対して、奇妙に、コンプレックスをもっている者が多い。それは、形を変えて、学校秀才を非常に可愛がるということにもなる。私のつとめた学園の教師たちもその例外ではなかった。その結果、学校秀才でない上級生のクラスは事毎に冷遇され、反対に、下級生たちは優遇された。中には、あからさまに、上級生を相手にするなと下級生にいう教師までいた。こういうことが下級生に影響せぬわけはない。下級性は上級生を馬鹿にし、上級生は、もってゆき場のない不満を、わずかに、授業をサボることで教師に抵抗した。教師に軽視される上級生は、いよいよ、教師に見捨てられた。
 これが、私の当面した現実である。この問題に、精力的にとりくんだことはいうまでもない。どのように取組み、どのように成果をあげていったかということは、ここで述べる必要はあるまい。ただ、芸術を中心としたカリキュラムを押し進めてゆく中で、この問題に多角的、多面的に取り組んだということは書いておきたい。
 今一つ、私は、こういう教育と平行して、英才のための塾を開いた。英才が学校秀才でないことは、この本を読んできたものには、直ちに理解できよう。その塾で、私がやろうとしたことは、学校の枠をこえて、行動する思想の持主、意志と気力と胆力に支えられた思想の持主を育てようとしたことである。勿論、月謝は一切不要、必要な経費は、全部、協力会費から出た。建物は、市から提供されたものであった。そこで、どんな教育をしたかということも、この本の主題ではないから書かない。
 しかし、こういう教育にとりくんでいる中に、いつか、私は危険な教師という烙印をおされて、学校をやめ、塾も閉鎖する以外にないというところにきた。だが、私がやろうとする仕事、やらねばならないと考える仕事は、職業を失ったことでなくなるものでもない。学校教育の枠内で、学校教育を正すということはできない。学校教育を正すという行動は社会教育、政治教育という国民教育の中で、はじめてとりくむことができるということが、三年足らずの生活と行動から得た、新しい結論であった。
 私は、職を求めて、東京にでた。私の仕事を達成するに相応しい職を求めて。勿論、その時の私は、国民教育の中で、学校教育に取組もうという結論に到達していたから、求める職業は、新聞記者か、編集員に変わっていた。こうして、新聞記者から、編集者、編集記者と、職業を転々とする生活が始まったのは、その時からである。勿論、私の仕事を達成するための職業を求めてである。
 その間、先輩や友人の忠告で、もう少し、好ましい職場がみつかるまで待てといわれて、職業につくことを見合わしたことも、一度ならずあった。友人の助力で、生活したことはいうまでもない。職がみつかるまで、部屋代を払わなくてよいという条件で、友人の知人の家を世話してもらったこともある。
 結婚して後は、妻が友人に変わった。妻はもっと断乎と、仕事に相応しい職業につくことを主張した。勿論、その場合、妻が職業についた。こうして、私は、七度も職業と職場を変えた。我ながら、よく生きてきたもんだと思うこともあるが、すべては妻と友人に支えられてきた。私といえば、唯一つ、私の仕事を精一杯に追ってきたということがあるだけである。だが、そのことがいかに、必要であり、重要であるかを痛感する。妻も友人も、仕事に生き、仕事を追求する私であったからこそ、助けてくれたのだと思う。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

   2 学生アルバイトと職業観

 家庭教師という職業の矛盾

 仕事と職業の関係は理解できたと思うが、学生アルバイトという角度から、この問題をもう少し考えてみよう。
 学生アルバイトという場合、なんといっても、家庭教師が圧倒的に多い。その家庭教師であるが、学生は、ともすると、安直に家庭教師を始める。頼む側も、学生であるということだけで頼み、それを誰も不審に思わない。中には、受験戦争をいかり、受験競争は、児童生徒をゆがめる、自分もその犠牲者だといいながら、自分が家庭教師になる矛盾に気づこうとしない。
 気づいても、安直に金の入る仕事はやめられないのかもしれない。自分がやらなければ、誰かがするだけだとわりきっているのかもしれない。
 だが、ここには、学問と教養と仕事を統一的にとらえようとする姿勢は全くないし、職業というものに対する厳しい認識が全くない。学生が、仕事と職業を安直に考える姿勢は、ここに出発しているということもいえる。要するに、学生は、アルバイトを、いとも簡単にやる。おかしいと考えないのである。
 教師になるために、学生は、相当数の単位を修得するように定められている。教育学や教育技術について、いろいろ学ぶように定められている。現行のそれが、必要な学習であるか、好ましい学習になっているかどうかは、別として、教師が、教育について、徹底的に学び、考え、意見をもつことは当然である。その上で、良心的な教師は、教育活動に従っているとみてよい。だが、学生は、それについての意見も確立しないままに、アルバイトとして、教育活動に従事していることになる。また、教育活動はできると考えていることになる。
 そのことは、良心的な教師の教育活動を阻害しているかもしれないし、教師という職業を軽視していることにもなる。そして、何よりも、教職をとるために学習している教育学や教育技術を全く馬鹿にしているということである。真剣に学習していないことになる。
 これでは、職業としての教師という仕事を重要視するものは、全く、でてこない。安直にとりくむアルバイト、そこから、知らず知らずのうちに、仕事を職業を軽視する態度がでてくる。もし、家庭教師という仕事が、一人一人の子供の精神と思想の形成に重要なかかわりを持つということを考えれば、簡単に、その仕事にたずさわることはできない筈である。まして、試験のための勉強しか考えない教育がいかにゆがんでいるか、そして自分自身、その被害者であったことを考えれば、なおさら、安直に、そういうアルバイトはできない筈である。

 

 アルバイトは職業観をゆがめる

 文部省自身、教師になる資格のことをやかましくいいながら、アルバイト的家庭教師や学習塾をのばなしにしているということも、どうかしている。が、いずれにしろ、学生の家庭教師というアルバイトほど、妙ちきりんなものはない。これほど、学生の仕事観、職業観を堕落させているものはない。
 恐ろしいとしかいいようがない、といっても、今日の女子学生は、戦前、女子専門学校を卒業した女子学生のうち、一、二割しか就職しなかったのにくらべて、六割以上も就職しているという事実は、女子学生が、人間として、社会人として目覚めた者がいかに増加したかを意味する。卒業していく学生数も比較にならないほどに多い。不充分な仕事観、職業観をもちながらも、女子学生の目覚め方には、戦前と戦後で、著しい相違がある。まず、そのことを確認した上で、女子学生の仕事観、職業観がいかに、ゆがんでいるかをもう少し、書いていきたい。
 安易なアルバイトで、その仕事観、職業観がゆがめられるということは書いたが、実際にはどのようにゆがんでいるのであろうか。
 大学を卒業して、平均三年ぐらいしか勤めないということは、女子学生が、仕事や職業をどのように考えているかということを、端的にあらわしている。彼女達には、結婚するまでの、子供が生まれるまでの腰かけとして、職業を考えている者が多い。たしかに、彼女達をとりまく雇用条件は悪い。社会は女子学生を歓迎しないし、結婚すれば仕事をやめて、自分につくしてくれることを求める旦那族が多い。家にいてくれることを欲する子供もいる。これでは、職業についた女性も、落ちついて仕事にとりくめないであろう。まして、職業を結婚するまでと考えているような女性には、仕事のエキスパートになれるわけがない。
 たとえば、ここに、新聞記者とか、編集者という職業がある。その職業をマスターするためには、少なくとも三年の経験が必要であり、七、八年ではじめてベテラン記者、ベテラン編集者になれるといわれている。とすれば、平均三年でやめていく女子学生は、やっと、一人前になりかけたときにやめていくということになる。それまでは、あきらかに、投資である。最近、日本でも、入社して、四、五年たった社員をスカウトしろということが言われ出したし、現に、徐々ながら、スカウトされ始めてきた。
 数十万の支度金を出し、月給を、三割から五割増しにしても、結構、その方がとくだというのである。現にイギリスでは、三年間の経験がない者は、新聞記者や編集者のユニオンに参加できないという。三年間の経験がない者は、まだ、新聞記者、編集者ではないというのである。日本の多くの女性は、一人前になるまえに、殆んど、やめていく。
 これでは、女性の職場は、ひろがるどころか、狭められていくしかあるまい。
 ある女子学生は、「職業に女性はつくべきでない」と考えているような教授の講義をきくのは堪えられないと私に語ったが、ある女子大学について調査したところ、35名の教授、助教授、専任講師のうち、24名が解答をよせ、そのうち、21名が、就職した方がいいと答え、1名が就職しない方がいいと答え、2名は、どちらとも答えられないといっている。11名の意見は不明であるが、そういう調査に積極的でないばかりか、女子学生の就職に、強い関心を払っていないと考えてもよかろう。
 だが、さすがは、女子大学だけあって、女性の職業に理解をもつ人が多い。ただ、気にかかることは、現代日本の社会機構は、女性が働くのに合理的になっていないから、合理的になってから働くべきだというのが、底流として、支配的であったことである。合理的にするために、女性が先頭にたって活動する必要があるということが、この女子大学の教師達には認識されていない。それでは、受動的な女子学生しか育つまい。生きるとは、何かをすることであり、女子学生が何かをするということは、学問と教養と仕事を統一的、主体的につかんで、仕事をするということであるが、このような女子大学からは、仕事に積極的にとりくむ女子学生は生まれにくいということがいえるであろう。

 

 仕事と職業を混同する女子学生の現状

 であるからこそ、女子学生の現状は、仕事と職業を混同し、その職業も結婚するまで、子供を生むまでと考える者が多いのである。勿論、妻となり、子供を生み、育てることを、自分の仕事と考えるなら、それもよかろう。
 だが、それだけでは、女子学生が、人間として、政治的、社会的、歴史的人間として、現代社会に、精一杯に生きるということにはならないことは、容易に、気のつくことであろう。
 女子学生が、その仕事観、その職業観を是正して、自分が、現代社会で本当にしたいことを、せずにはいられないことを、仕事と考え、その仕事をやりとげるために職業につくのだという考えを持つことが望まれる。それが第一歩である。その場合、その仕事をなしとげるために、職業につかなくてよいなら、それはそれでいいが。
 卒業後、すぐに、職業につけないとか、職業についていたが、退職をすすめられてやめなければならなくなったとかいうとき、女子学生は、女性は、少しもヒステリックになることはない。むしろ、そういうとき、早急に、仕事や職業を断念することこそが、結婚に逃避することこそが問題である。そういう程度にしか、仕事を職業をうけとめるしかできなかった女子学生の態度こそ問題であろう。
 本当に、仕事を学問と教養の中で確立していたなら、逃避することは勿論、仕事を離れて生きるということは絶対にできない筈である。あくまでも、障害をのりこえて、その仕事をしようとしつづけるに違いない。その仕事にくいさがるに違いない。反対や邪魔ぐらいで、放棄できるわけがない。仕事を放棄するということは、自分自身を放棄することになるからである。
 勿論、女子学生の就職を拒絶し、働く女性を家庭にかえそうとする社会の傾向には、ヒステリックになるのではなく、大いに怒り、その非をならすことは必要である。早稲田大学の女子学生は、「女子学生の会」をつくって、この問題に真正面から、しかし、地味に、とりくんでいる。

 

                <女子学生の生き方 目次> 

 

   3 職業を開拓する女子学生の会

 女性が職業につくためには闘いの姿勢が必要

 女子学生の会がとりくんでいる問題は、女子学生の職業意識の確立と女性の職業の開拓との二つにつきよう。
 彼女達の先輩、野田邦子さんは、女子学生の会機関誌「女子学生」に、その怒りを次のように書いている。
「貸金の格差は男性と、三千円から、ひどい場合、五千円も違っています。それを、一人では、不当だとしても口にすら出せないのです。しかも、結婚、共働きの問題と、すぐに自分の問題として考えざるを得ないのです。
 何故なら、女性の場合、結婚後退職を原則とするという社内規定を認めさせられている現実ですから。一番頭にきたのは、公募が少いということより、ないに等しいということです。……
 こうした現実の困難のまえに、人間としての女性の生き方を真剣に考えながら、その意欲を失っていく人たちも出てくるのは、あながち、責められないと思います。それを、一方的に、女性の意識の問題としてのみ、問われるのは、私達に対する不当な圧迫だといわざるを得ません」と。
 しかし、ここには、働く女性に対する社会の不当だけが書かれて、女性に対する根本的反省がないのが気にかかる。野田さんにいわせると、私の意見こそ、女性の意識の問題として問うもので、私達に対する不当な圧迫にくみしているといわれそうだが、私は、野田さんが、社会の不当を攻撃するのはいいが、それだけに終っているのに、強い不満をいだく。
 その点で、同じ機関誌にのった秋永一枝さんの意見には、心から共鳴をする。
「就職して、いかにバカバカしい仕事をしている男性が多いことか。社会に還元するどころか、マイナスが多いのにくらべれば、健康な子どもを生んで、教養ある次代を育てる方が、よっぽど、気がきいているというものだ。
 就職して、同一労働、同一賃金を主張するなら、女は男以上に働かなくては駄目だ。男なら、アイツは駄目とやられてすむが、女だと、女はだからこまるということになる。……
 女は家庭にかえれという現状では、よほどの覚悟が必要だと思う。そういう覚悟のない人は、臨時雇になっても、ブーブーいわないか、あるいは、勤めないことだ。
 仕事をするということは、もはや、経済だけの問題ではなく、そこに、生きがいを感じることだ」
 秋永さんがいうように、職業につく女性には、これだけの覚悟がいる。職業につき、すぐれた仕事をするということ自身、社会の不合理に挑戦し、現代社会の変革にとりくむことである。受動的な姿勢では、職業にとりくめないのが、女性のおかれた現代の条件である。何かする、何か仕事するというところには、ただ、単に、何かをするという姿勢でなく、戦う姿勢、戦いとる姿勢というものが、基本的に必要である。
 男性の場合、どんな職業を選ぶかという問題はあっても、職業につくということはきまりきっている。生活費をかせぐために、妻子を養うために。そこには、人間として、歴史的、社会的人間として何をするかという、仕事への明確な意識もないままに、仕事でなくて、生活費のための職業につくということが多い。だから、男性の職業観は、往々、平凡で、常識的なものが多い。
 女性の場合、ことに、女子学生の場合は、違ってくる。野田さんや秋永さんの職業観がまともに問われるのも、そのためである。女子学生は、それこそ、仕事をもち、職業につくために、考え、解決しておかねばならないことが一杯ある。早稲田大学の女子学生が、職業意識の確立ということを強調するのも、そのためである。

 

 忍耐と努力が必要であることを知っている女子学生

 野田さん、秋永さんの意見に対して、在学中の女子学生はどういう意見をもつのであろうか。「私達は、現代の世の中に生まれ、さまざまなゆがみを見たからには、それをなおしてゆきたいと思います。家庭にいる母親達も、現在は、保育所づくりや物価、教育問題に手をつないで立ちあがり、大きな役割を果たしています。
 しかし、職業を持って働く人々が一番大きな力をもっていると思います。私達が職業につくとは、働く人々の隊列に入って、この世の中を変えていく、大きな力になれることです。私が働くということは、自分一人の趣味や利益のためにだけあるのではないということです」
「長い歴史の中で、そのように躾けられてきた女性自身の心の中から、又、それをいいことにしてきた男性の心の中から、その差別意識をとりのぞくのは、意識的な、強い努力が必要と思われます。
 大学を出てから、社会で自分の希望する職業について、すばらしい生涯を送ろうとして、私達女性は、一つ一つの壁につきあたって、あきらめてしまうのではなくて、それをはねのけて、力強く生きたいという願いを一人一人が持っているのだと思います。
 女性の真の解放の一つの基礎ともなれたら、本当にすばらしいことではないかと思います」
 こういう意見を吐く女子学生は、本当にすばらしいと思う。ここには、働く女性のおかれた現実に対する厳しい認識があり、戦う姿勢だけでなく、努力と忍耐が必要であることを知っている。問題は、唯、どこまで、この意見が、女子学生自身の主体的意見になっているかということである。学生によくある観念的な意見、頭脳から、巧妙にひねくり出した意見でなく、学問と教養を追求していく中から、自然に生まれてきた意見であるかどうかということである。
 社会の不当とは、決して、同居できないという人権感覚、平等感覚に支えられている意見であるかどうか、さらに、その意見を貫くために、意志と気力と胆力に支えられる必要があると考えているかどうかということである。
 しかも、この意見を、三、四人の考える女子学生の意見でなく、全女子学生のものにするために、どういう対策がなされているかということを問わねばならない。

 

 男性の寄生虫から脱皮しようとする動き

 しかし、いずれにしろ、こういう意見をもつ女子学生が中心となって、女子学生の会が生まれ、活動を開始したことは、本当に喜ぶべきことである。このような女子学生が増え、働く女性の中に入って、その意識を徐々に変えていくなら、男性も安閑としていることはできまい。汚職や、権力の独占という、男性の身勝手な行いも、徐々になくなっていくであろう。このような女子学生は、必ず、働く女性としても、能力のある女性となるに違いない。
 また、このような女子学生は、単に、大学の入試に、男性以上の成績をあげたとか、公務員試験に、男性以上の成績をしめしたという理由で、女性の能力は、男性の能力以上だというような近視眼的な意見をもつこともあるまい。現代社会が必要とし、現代社会に通用する能力とは、試験に合格する学力以上に、意見が問題になるし、学力といっても、記憶力よりも、思考力、判断力、分析力の方が重視される。しかも、能力という場合、行動力とか、忍耐力とか、企画力とか、管理能力とかいわれるものが、より重視される。結局、能力とは、人間の社会的能力で、それは、人間の総合力のことである。そういう能力は、実践と訓練の中から、より多く、生まれてくるもので、職業について、三年や四年で、結婚に逃避していく女性には期待できない。
 試験に強いということも、一つの能力であるが、それは、人間の総合力の一部でしかない。少し、試験に弱くて、総合力にまさっている、まさる可能性のある能力を、社会が重視するのも無理はない。そういう意味では、女性の場合、能力というとき、先輩女性の能力も加味されているということである。男子学生の場合、同学の卒業生の能力が大きく加算されるように。
 それ故に、女子学生の会は、女子学生の中に職業意識を確立させようと、真剣にとりくむのである。職業の開拓以上に、職業意識の確立を重視するのも、そのためである。
 そうして、はじめて、女性は、仕事にとりくむ姿勢が確立し、能力も生れて、男性の寄生虫的存在から脱して、仕事や職業の面でも、男性と対等になれるのである。男性を助けながら、男性に助けられる女性にもなるのである。その時、女性は、社会の変革に、歴史の創造に参加するのである。男性そのものに、すばらしい影響をもつ女性ともなるのである。女性が、男性から、尊敬と信頼を獲得できるのは、その時である。
 女性は、男性に対して、愛情と尊敬をいだくように、女性も、男性から、愛情と尊敬をうける必要がある。現状は、愛情はうけても尊敬はうけていないのでないか。尊敬される女性とは、仕事を職業を立派にやりとげている人のことではなかろうか。

 

               <女子学生の生き方 目次> 

 

   4 結婚は職業に優先するか

 結婚に逃避した女性に真の家庭づくりはできない

 秋永さんが言うように、男性の中には、馬鹿々々しい仕事にたずさわっている者も多い。すべての男性が、やり甲斐のある仕事についているとはかぎらない。サラリーがいいわけでもないし、昇進できるコースを歩んでいるわけでもない。だが、男性は、特別に資産でもないかぎり、そこから逃避することはできない。
 また、もし、資産があったとしても、男性ということで、仕事を職業をもつことを求められる。そこから、自然に、男性には、義務感や責任感が生まれ、社会能力もつくということになる。忍耐強く努力することによって、自分の能力を開発し、社会的に認めさせるということもできてくる。
 それに反して、女性の場合は、気にいらなければさっさと職を捨てる。待遇が悪ければ、すぐに、やめていく。そこには、忍耐も努力もない。結婚に逃避できるからである。女性は、普通、結婚は職業に優先していると考え、女性の幸福は結婚にしかないと考えているからである。でも、果して、結婚は職業に優先しているのであろうか。結婚にしか幸福はないのであろうか。
 たしかに、男性の中には、仕事が面白くなくても、妻子を養うために、一度得た職業にしがみつき、待遇に不満があっても、唯がまんすることで、いつか、無気力になり、だらだらと生きている者もある。そういう男性よりも、その職業がだめであると見究めたら、その職業をさっさと見限ることの出来る女性は幸福だといえる。しかし、結婚に逃避でなく、新しい職業を求めて、やめていく場合、待機する場合に限ってである。
 これまでに、述べてきたように、仕事を職業をもつ女性、仕事を主体的に把握した女性が、はじめて、現代に生きる女性であり、現代社会に思想的に生きる知識人的女性である。結婚を職業に優先させる女性は、女子学生でもないし、まして、女性インテリでもない。というのは、女性が妻となり、子供を生むということは、女であれば誰でもできるだけでなく、動物にもできることである。大変かもしれないが、特別なことではない。女性が、母親として、子供を育てるということは、その子供を、人間として、政治的、社会的、歴史的人間に育てることである。その場合、人間として、政治的、社会的、歴史的人間として生きることをやめた女性、努力しなかった女性、人間としては、政治的、社会的、歴史的人間としては失格であった女性が、その子供をそういう人間に育てることは殆んど不可能であるとさえいえよう。自ら、そういう人間として生きようと努力した者だけが、子供をそういう人間としても育てることができるのである。
 勿論、妻となり、母親となること、そしてそこでの妻として、母親としての仕事が、自分自身の仕事であると思想的に見究めた人は、それなりにいい。だが、その場合、そのような女性は、結婚は職業に優先するとは考えない。主婦業が職業であるかどうかは、早急に結論は出せないが、そういう女性は、結婚と職業を別々に考え、結婚を職業に優先させない。そして、家庭そのものに、政治的要素、社会的要素、歴史的要素のあることを認めて、閉じられた家庭でなく、開かれた家庭にするように、家庭づくりに取り組むであろう。
 安保闘争などに敗れた女子学生が、休息し、元気を回復できるような家庭、子供を本当の意味で力づけ、現代に生きる姿勢をあたえ得るような家庭づくりである。それは決して、仕事や職業を途中で放棄し、結婚に逃避した女性には作れない家庭である。結婚を職業に優先させた女性には、無縁の家庭である。

 

 互いに良き理解者、協力者、指導者という夫婦関係を

 だが、ここでは、妻の仕事、母の仕事を思想的に自分自身の仕事と見究めた人達のことを語るのが中心ではない。夫につかえるということ、自分の子供を育てるということ以外に、自分自身の仕事を見出した女子学生の進路について語りたいのである。結婚を職業に優先させない女子学生の進路について語りたいのである。職業を、むしろ結婚以上に価値をおく女子学生、といっても結婚を軽視する女子学生ではない。
 だから、仕事をするために、結婚を考えないと力む女性の進路について語ろうとはしていないということもいっておかねばならない。往々にして、女子学生の中には、こういう結論を自分に課している者もあるが、そういうことは、全くナンセンスである。それは、全く、ものの考え方がコチコチで、若いときには、とくに、弾力的な思考が求められ、また、できるのに、老人のような思考しかしていない。こういう考え方をする者は、他の問題についても、同じく、コチコチに考えているであろう。そういう女性には、あまり期待できない。
 では、仕事に生き、職業をもつ女性はどういう結婚をすべきか。どのように、結婚を考えるべきか。
 ここに、お茶の水女子大学、津田塾大学、東京女子大学、日本女子大学、実践女子大学の学生を対象に、学生問題研究所が調査した結果がある。それによると、

   結婚は恋愛を前提とする         37・7%
   親が択んだ人と一定期間交際してきめたい 29・1%
   まだわからない             24・8%
   仕事をしたいから、結婚は考えない     3・5%
   親にまかせる               0・4%
   その他                  4・5%

 結婚は恋愛を前提とする者というのが、37%しかいないというには、全く驚くほかはない。結婚が両性の愛情と信頼と尊敬による結合であり、結婚は、それ以外にないと考える者が、女子学生でありながら、37%しかいないという事実。だが、それ以上に、仕事をもちつづけたいという女性が、37%の中の幾%かと考えると、ぞっとする。
 というのは、仕事を持ちつづけようとする女性というものは、結婚前に、それこそ、恋愛中に、男性との間で、自分自身の仕事について、徹底的に話しあっておく必要がある。それほどに、話しあっておいても、男性は旦那になると、わがままになり、妻の仕事に協力しないばかりか、仕事や職業をやめることを求める。まして、仕事や職業につくことは、生活費をかせぐことでしかないと考えている男性の多くは、仕事と職業の関係のわかっていない男性は、経済の安定とともに、妻に仕事や職業をやめるように求めるものである。
 仕事を学問と教養の中でつかんだ女性は、当然に教養と学問と仕事を統一的に把握した男性を撰ぶ。そういう男性しか、旦那にできない筈である。恋愛が前提になることはいうまでもない。だが、仕事をする男性と女性、仕事をしたい男性と女性の結婚になると非常にむつかしい。愛情とか、人柄だとか、容貌とか、地位とか、財産とかということだけでなしに、相互に、人間として、政治的、社会的、歴史的人間として生きる姿勢と覚悟をどこまで理解し、認めあい、信頼できるかということが重要になってくる。ニーチェがいったように、「墓場まで話しあって、あきがこないか、新鮮な魅力を、つねに話題の中に発見できるという自信があるか」ということになる。
 結局、夫と妻の対話の成立、それが結婚といえるが、ニーチェは、そのことをいったのである。世の中には、対話が成立しなくなった夫婦が夫婦として、結構つづいているが、仕事をもつ夫、仕事をもつ妻は、誰よりも先に、その対話の相手を、妻に、夫に求める。また求めることができる。結婚するということは、仕事をもつ男性と女性にとって、仕事を能率的にやりたいと考えている男性と女性にとって、最も身近かなところに、指導者、協力者、理解者をもつということである。しかも、深い愛情を根底においた指導者であり、協力者理解者である。
 指導者、協力者、理解者であるからこそ、結婚したといってもいいのである。そういう関係にある夫と妻が、二人三脚となって、一つの生活単位、政治単位、経済単位をつくって行動するのが、夫婦というものである。
 たしかに、女性が仕事をつづけることは困難である。あらゆる所に、あらゆる形で、それを阻もうとするものがある。しかも、その壁は厚い。だが、仕事をもち、仕事をしていこうとする女性は、その不合理を全身で肌に感ずる。それ故に、また、全身で怒り、全身で、その不合理を排除しようという心も湧いてくる。
 そういうとき、働く女性の仲間も気強いであろうが、夫を、その指導者、協力者、理解者として発見することほど心強いことはあるまい。夫を協力者、理解者としたとき、思いきった行動も、時には思いきった要求もできるのである。
 妻がやり甲斐を見出せぬ仕事に悶々としておらずにすむのも、不当な待遇に、ただ、だまっておらずにすむのも、夫と妻が、お互に仕事をもち、職業をもち、生活費をかせぐからである。いいかえれば、共働きのよさである。反対に、妻の立場から、夫を激励し、夫に思いきった行動をさせることもできる。人間が本当に強くなれるのは、そういう仲間がいるときである。夫や妻が、男性として、女性として、本当に強くなれるのも、夫を妻を仲間とした時である。
 既に、私自身が、妻の援助と理解で、職業を転々と変えたことを書いた。そればかりか、自分の能力を養うために、妻のおさんどんを手伝いながら、浪人して、学問した時期もある。夫婦には、それができるし、それをやらなくては、意味がない。私には、そのように思われるのである。一定の財産をもたない男と女が、自らの思想と節操を維持するには、これしかない。
 仕事をする女性、仕事をつづけたい女性は、その仕事をすばらしくするために、結婚する。それは、結婚を仕事の手段とするという意味でなしに、仕事と結婚を統一的に把握するということである。結婚を職業に優先するとか、仕事のために、結婚しないとか考えないことである。仕事を本気でする女性は生き生きしている。それ故に、みんな、独自の美しさをもっている。そういう女性を男性が放置するわけはない。男性に縁がうすくなるのではないかと不安がる必要はない。縁遠くなるのは、仕事をいいかげんにしている女性である。
 つまらない妻の生活、充実感のない妻の生活を、三、四年長くしたからといって、幸福ではない。女性として、人間として、充実した生活をどれだけ送るかということに、問題はある。でも、今日のように、六割の女子学生が、妻となり、母となるための学問というか、家政学を専攻している現状では、仕事より結婚をという女性は、なかなか、なくなるまいが。

 

                <女子学生の生き方 目次> 

 

   5 主婦業は職業になりうるか

 家庭は夫婦で運営し、家事は分担すればよいもの

 女性が妻となり、家庭をもつということはどういうことであろうか。勿論、夫となる男性と一緒に家庭をつくるということであり、夫とその責任を分担し、義務を分担するということである。
 その場合、古い世代の女性たちは、何時、誰から、教えられ、押しつけられたということなしに、家庭の責任者の位置におしあげられてきた。そのために、始終、家庭のことが気にかかる。今夜のおかずは、主人の洗濯物はと、外で、仕事をしているときは、忘れていても、その仕事から解放されたとたんに、頭の中を占めてくる。
 古い女性は、それから解放されることがない。しかし、現代の女性には、そういう責任をその身一つにうけとめるということはないかもしれないが、それから、完全に解放されているということはないであろう。
 それに反して、夫は、家庭のことを手伝っても、あくまで、手伝うという立場以上にはゆかない。家庭の仕事に直面するまでは、家庭から解放されている。その点で、妻である女性は、まことに、損な立場におかれているといえる。重ったるい意識にしばられているということになる。妻の家庭の仕事に理解を示している夫でも、理解するにとどまって、ともすると、夫の座にあぐらをかきたがる。そして、そのような意識におしつぶされない妻に対しては、奇妙に、その夫は不満をいだくのである。そういう気持は、現代の新しい男性にも、夫にも、いくらかあるようである。
 だが、家庭は、気楽に、夫婦で運営し、建設するもの、家政学なんて学問は、女性よりも、男性にむしろ、必要のものといえないこともない。仕事をもつ女性、仕事に生きる女性には、家庭の責任を分担する男性がとくに必要である。それに、結婚するまでの男性は、母親と同居している者を除いて、皆、独立し、自分のことは自分でやっている。しかも、そういう男性が圧倒的に多いのである。結婚し、男性が夫になったからといって、急に、かしづいてくれる妻を求めるということは、一寸、おかしい。
 女性も、母親と同居している者を除いて、妻になって、特別に、家庭の仕事が増えるわけではない。日常的にやっていたことを繰返すだけである。それこそ、増えた仕事の量だけは、旦那にやってもらえばいいのである。
 農家や商家に嫁にいった女性は、大抵、農業や商業を手任う。主婦業に専念しているわけではなくて、同時にやっている。勿論、農家や商家の旦那は、できるだけ、妻の仕事を手伝う。それは、当然のことでもあるし、当然のこととして、やっている。結構、こなしている。
 また、実際に、家庭の仕事に、女性が全知能と全エネルギーを投入するまでの仕事はないものであるといってもよい。投入していると考えたら、投入しなければならぬと考えたら、女性にとって、これほど、悲惨で、悲劇はない。そういう女性には進歩もないし、発展もない。愚かな妻がいるだけである。進歩も発展もないから、夫との対話も成立しなくなる。夫から取り残される妻の座があるだけである。子供から馬鹿にされる妻の座があるだけである。
 対話が成立しなくても、保てるような妻の座があるだけである。妻という名は、あっても、そこには、人間が欠落している。政治的、社会的、歴史的人間はいない。果して、こんなものが、夫婦と呼べるのであろうか。
 それに、どんな夫にも、妻が人間として、現代に生き、現代社会の中で、何とかしようとするのを放棄させる権利はない。それを妻に求める夫は、妻に、生ける屍になれというようなものである。勿論、夫の仕事の理解者協力者に、自分自身を変貌させていくということはあろう。そして、そこに、生き甲斐を見出すということはあろう。しかし、それは、妻の仕事を、無自覚に、無意識にやるということではない。動物的にやることではない。それは、先に、一寸書いたように、妻の仕事、母の仕事を、思想的に見究めて、自分の仕事にした者である。世の中に多くみられるような、妻の座に安住し、妻の生活を日常的にくりかえすことではない。
 むしろ、こういう妻の生活、妻の座にあぐらをかいた生活は、人間的独立や思想的自立を失って、男性の寄生虫的存在と堕した生活で、自分で独立して働くバーのホステスよりもずっと、程度がわるいといえる。

 

 旦那業が職業でないように主婦業も職業ではない

 一番ケ瀬康子さんは、日本社会事業大学の女子卒業生は、同窓同学の男性を結婚の相手に択ぶことが多いと書いているが、(弘文堂刊「大学の庭」)彼女たちは、社会事業を前進させるために、悪戦苦闘している男性を、自らも、そう生きている故に、もっとも深く理解し、尊敬できる。そこから、信頼も生まれ、愛情もわいて、結婚するのであろう。彼女達は社会事業にとりくむ男性を夫として、同伴者として択ぶのである。そして、自分の仕事を発展させるのである。そうして、撰ばれた夫が、妻の仕事をいやがるわけがない。妻に仕事を放棄することを求めるわけがない。妻の仕事に、できるだけ、協力するだけである。こういう夫婦が、実際にふえていることも事実であるし、夫婦とは、本来、そういうものである。
 それに、主婦業は、どう考えても職業ではない。妻の仕事を、思想的意識的にとりくんで、自分自身の仕事にしたからといって、それは、職業にはならない。旦那業が職業でないように、主婦の仕事は、妻に附随した仕事ではあっても、職業ではない、勿論、将来、主婦業がみとめられて、二万、三万の月給が夫の雇傭主から、支払われるようになれば別だが、今は、どこまでも、子供と同列の扶養者でしかないのが、妻というものである。扶養者でしかないという事実を、もっと、女性は、妻は考えてみるべきではないか。
 妻の仕事は、社会的にも職業とは認められるほどに、価値があると評価されていない。現に、独身の男性と結婚した男性を比較した場合に、結婚した男性の方が優秀である。能力があるという証拠はないのである。それがない以上、雇傭者は、妻に月給を払うわけがない。扶養者以上に、妻というものを認めないのも無理はない。
 こういう言い方に、怒りをもつ女性もあるかもしれないが、妻の仕事が、職業となるために、独身の男性に対して、結婚した男性は有能であるという証拠を出さなくてはならないと思う。それが、ともすると、結婚した男性の方が、独身の男性よりも、能率が落ちるという場合が多いように思われる。これでは、妻の役割を、高く評価し、職業と認めることはできまい。適当の年令になったから、結婚し、せいぜい、落ちついてきたというにすぎないというのが、世の中の評価でしかない。
 旦那業が職業でないように、主婦業は職業でないし、家庭の仕事は、旦那と主婦が分担すればいいのである。妻が、家庭の仕事に力むこともないし、夫も、家庭の仕事から逃避しなければいいのである。要するに、家庭の仕事は簡単なのである。十七、八才の少女の知識と能力で、結構、できる仕事でしかない。インテリ女性が、全知能と全エネルギーを注入しなければならない仕事ではないのである。
 あまり有能でない男性に変わって、有能な女性が職業に職場に、どんどん進出すれば、生産性もあがるし、怠けている男性を刺激することにもなる。職業として評価されないような家庭の仕事にいつまでも、後生大事にとりくんでいることの方がよほどおかしいといえる。

 

            <女子学生の生き方 目次> 

 

   6 母親と職業

 職業をもつ女性の半数は母親

 だが、女性は、子供を生むときに、もう一度、試煉の前にたたされる。仕事と職業に生きようとする女性にとって、子供を生み、子供を育てるという仕事は大変な問題であり、如何に理解があり、協力しようとする夫にも、妊娠と育児は、分担することができない。せいぜい理解をしめし、妊娠と育児以外のことを協力するだけに終わる。
 ボーヴォワールが、「母性を放棄しなければ、男性と対等には、仕事はできない」というようなことをいったのは、そのためである。だから、女性は、いつ子供を生むか、何人子供を生むかということを、真剣に考えないではいられない。自然、子供ができるまで、職業につくという者が、女子学生に多いのであろう。
 現在、働く女性870万のうち、約300万人の女性が、結婚しているが、その中の何人が子供をもっているか、何人が子供を持ちながら働いているかということは、非常に興味深いが、残念ながら、その数字はわからない。ただ、労働省の調査では、昭和四十年に、妊娠・出産による退職者は、妊産婦の49・3%と報告されているから、二人に一人は、職業をつづけるために、頑張っていることになる。そして、昭和四十年に出産し、引きつづいて、働いている女性の28・8%が、育児時間を請求している。それも、一日二回30分が44・2%、一日二回30分以上が55・3%となっている。女性は、仕事に生き、職業のために、本当に、努力しているということがいえる。
 だから、産前・産後の休暇が六週間というのも、果して、適当かどうかという問題もある。中小企業の多い日本の企業のなかで、育児時間の問題を含めて、どう解決するかは、今後の課題である。しかし、二人に一人は、働きつづけるということは、経済的理由があったにせよ、すばらしいことである。勿論、母親が働きつづけるために、保育所がいるとか、いろいろのことが考えられて、その対策にとりくむ必要がある。
 その場合、女性は、保育所のないこと、育児時間を請求できないことを理由に、不満や愚痴を述べる。日本の国が遅れていることを歎く。たしかに、それは事実であり、不満であるのは当然であるが、女性の職業のところでも書いたように、ともすると、合理化された状況を享受しようとするにとどまって、合理化するために行動しようという姿勢がない。保育所の建設や育児時間の請求にむかって、行動をおこすということが少ない。生きるということは、何かをなすことであり、何かにむかって行動をおこすことであるという認識がない。享受することだけを知って、創造する行為のない人生は、いかに無味乾燥で、つまらないものか、よどんだものかという認識がない。女性は、設備のないことや、制度の不完全さ、不合理さを歎くより、その問題にとりくむことで、自分自身のやり甲斐、生甲斐を見出すべきである。勿論、設備がなく、不合理であるのがいいなどといっているのではない。外国の進んだ施設にしても、その国の女性が闘いとったものである。
 現代のいろいろの課題にとりくみ、その解決にむかって行動をおこすのが、人間であり、人間の生であるというだけである。
 そういう意味で、子供をもつことによって退職をすすめられるということを、ヒステリックに怒り、悲しむこともない。夫との別居を求められたからといって、あまり悲壮がることはない。
 同じ職場で、同じ職業をつづけるために、あくまで闘うこともよいであろう。それに、独立した人間として、仕事をもつ以上、別居することもある期間やむを得ない。子供のためにといって、別居している夫婦も多い今日である。だが、他の女性に、その職場を、その職業をゆずることも考えていいことである。私のように、同じ職場に、長く勤めるということに、能率の面からも、その人自身の人生からも、あまり、好ましいことではないと考えているものには、なおさらである。
 職場や職業を変わるということは、現在の日本では容易でないし、働く条件も悪くなるのが普通である。だからといって、その聴場や職業を独占することもあるまい。その職場をさっさとやめて、二、三年、育児に専念するのもよいし、夫と別居したくなければ、夫の任地にいって、新しい職場をさがせばよい。それができるのが、ともに仕事をもつ夫婦である。
 いかなる人も、いかなる障害も、仕事を持ちたい、仕事に生きたいという意志や気持をなくすることはできない。仕事をもちたい、仕事に生きたいという気持が強烈であれば、長い間、その気持をいだきつづけるならば、必ず、仕事はもてるものである。職業はみつかるものである。

 

 仕事をもつ母親は子供の誇り

 学問と教養の中で仕事を見出し、結婚と仕事を、統一的に把握して、結婚にふみきったならば、悲壮がることも、怒ることもない。ちょっぴり、不安になり、不満になることはあっても、騒ぎたてることはない。職場を失うことに問題があるのでなく、仕事をあくまでつづけるということにこそ、一番重要な問題があるのである。
 私の友人達の多くは、その妻の妊娠、育児を分担することはできないが、可能なかぎり、妻に協力した。ある友人は、朝、保育所に子供をつれていくことから、夜、子供のおむつを取りかえることを、すべてやった。少し、大きくなって、小便にいくようになれば、彼が、子供のお供をする。こうして、二人の子供を立派に育てているし、彼自身その仕事を、立派にやっている。彼にしてみれば、女性が母親であると同時に、自分が父親であり、子供に対する責任と義務は、妊娠と育児を除いて、すべて、同じようにあるという認識である。
 ある友人の妻は、保育所がないために、自分を含めて、多くの女性が、子供を安心して産めないということから、保育所を建設するという目標をたてていた。そして、30歳をすぎると、好条件の職場をやめて、退職金その他を基金に、小さな保育所をひらき、同時に、自分も二人の子供をもち、現在立派に保育所を経営している。教員をしている人、洋裁をしている人と、私と同年輩の友人の奥さんは、大抵、仕事をもっている。子供も育てている。しかも、その旦那達は、皆仕事の上の能力者になっている。子供も立派に育っている。
「少年期」の中に、一郎として登場している波多野里望氏は、「自分には、仕事をもたぬ母親なんて考えることはできない」と、かつて、私に語ったことがあるが、里望氏自身も、仕事をもつ女性を妻にした。だが、仕事をもつ女性、仕事に生きる女性を母親として、少年時代をすごすということは、子供にとっても大変なことであろう。とくに、家庭で、母親が待っているような友達の多い中で、待っている母親がいないということは、大変つらいことである。母親の側からみれば、鍵っ子の問題として、常に、心配がついて廻ろう。
 しかし、学校から帰ってきた子供を、温かく迎かえることができないのは、なにも、都会の鍵っ子ばかりではない。同じ次元で論ずることはできないかもしれないが、農村の多くの子供達は母親に迎えられない。それでも、農村の子供は、母親を求めて、畑にいくこともなく、友達同士と遊びまわる。勿論、農村には、都会のような誘惑もないし、都会の子供のように、母親との間をせきとめられているということはない。だが、農村の子供は母親というものは、そういうものだと考えて、母親に、都会の子供ほどに依存しない。
 それに、仕事にとりくむ母親の姿勢、それに協力する父親の姿勢が、まともであれば、子供は滅多に、横道にそれないものであるばかりか、かえって、独立の精神を身につける。自分のことは、自分で処理できる能力をつける。もしどうしても不安だというなら離職すればよい。三年、五年の期間を、次に仕事をするための準備期間として、そのための能力と識見をつけるのもいいのではないか。
 何かのエキスパートになるために、三年、五年研鑽することは必要だし、それは非常にいいことだといえる。そのぐらいの忍耐と努力ができない者には、とても、何かをするということはできない。十年間、そのために、準備してもいいのではないか。妻として、母親としての生活体験をふまえて、改めて、三年、五年と学問すれば、すばらしい能力が、すばらしい識見が身につくであろう。
 例えば、こういう女教師が、もっともっと、増えてもいいのではないか。そうすれば、子供にとって何が必要か、必要な能力は何かということに、もっと確信をもち、見識をもった女教師がふえていく。試験の結果や成績に血眼になっている教育ママの不見識を、自信をもって、打破できるような女教師がふえるであろう。

 

 仕事に立派な女性が母親としても立派になれる

 こうして、母親が仕事をもち、仕事に生き、仕事を愛するという姿勢は、その子供達に、仕事を愛し、仕事を大事にする姿勢、仕事に意欲的にとりくむ姿勢をあたえることになる。仕事をもち、仕事に生きる母親の生き方が、社会の変革に、歴史の進歩に参加するということを子供達にしらせる。また、母親に協力するということで、子供自身に、その喜びと悲しみを分けもたせるということも必要であろう。
 それが、その子供に対して、母親が、母親としても、立派であるということである。
 今日、「妻の天職は家庭にある」といって、女性を、妻の位置に、母親の位置にしばりつけようとしているが、そういう人達は、女性が子供の母親として、本当に優秀で、有能であると本気に考えているのであろうか。現在、小学校、中学校の教師の三分の一は女性であるが、どちらかというと、男性教師に劣ると考えられている。子供達自身にも不評である。ということは、子供達の教育はいかにむつかしく、能力や知性が必要かということである。女性教師には社会性がないといって、喜ばれない場合もある。
 教師として、男性におとるとみられる女性が、母親として、すばらしい人になれるのであり天職であると、手放しで言えるのであろうか。なるほど、男性は母親にはなれないし、母親にこまやかな愛情があるかもしれない。しかし、それだけでは、子供を教育する母親としては、不十分である。誰でも母親になれる。しかし、すぐれた母親になることはむずかしい。
 むずかしいことを、女性自身よく知っているのであろうか。女性を家庭にかえそうとする男性自身、よく考えているのであろうか。女性が、人間として、政治的、社会的、歴史的人間として目覚めないかぎり、母親になれても、すぐれた母親になることはできない。そのことを、女性も男性も、とくに、安直に母親になっている女性自身、深く考えてみる必要があるのではないか。
 とすれば、女子学生自身、すぐれた母親になるためにも、仕事や職業のなかで、人間として鍛えられる必要のあることを痛感するのではあるまいか。

 

              <女子学生の生き方 目次> 

 

 

第6章 結び

 

 以上、私は、教養と学問と仕事と結婚は統一的に把握しなければならないし、また、どうすれば、統一的に把握しうるかを述べてきた。しかも、その統一的に把握したものが、女子学生の生活そのものとなり、そのものを貫くためには、欲望と感覚に根ざし、意志と気力と胆力に支えられる必要があることを書いてきた。おそらく、これは、今日の女子学生の常識を打ち破り、こういう生き方、考え方をするためには、女子学生自身の根本的変革が不可避であることを、いやおうなく思い知らされたであろう。
 しかし、その道を歩みはじめることは、女子学生が、学究徒としての女子学生に徹しようとするかぎりは、誰にも容易であり、愉快なことであることも理解されたであろう。困難ではあるが、すばらしい人生を自分自身のものとし、生き生きした、充実した人生を送ることができることを知ったと思う。
 世の中の大人達は、ともすると、戦前の教授と学生は、相互に信頼し、密着していた、深いきずなで結ばれていたという。そして、今日の学生は違うという。しかし、私は、そこに、大人達のごまかしと無責任とを感ずる。今日の学生の多くが、教授、助教授をなぜ信頼できなくなったかに対する根本的反省が少しもない。
 学生達は、意識的にせよ、無意識にせよ、戦前、戦中、戦後を指導した大人達、とくに、その中心的役割を果たしてきた教授、助教授の知識に、人柄に、根本的疑惑を感じているのである。教授、助教授が奉ずる学問・思想、その価値観、意味観に、絶望に近いものを感じているのである。
 戦前、戦中、戦後の時代を、本当の意味で、また、今日の学生が認めうるほどに、リードしきれなかったことに対する根本的懐疑がある。だからとて、学生に、知性を再建する方途が容易にわかるわけはないし、希望が簡単にもてるわけもない。まともに、その課題に取組もうとする学生が、苦呻し、模索しているのも無理はない。教授や助教授を信頼できないのも無理はない。
 戦前の教授と学生のように、例外的な学生を除いては、同じ価値観、同じ意味観の中に住んで、教授と学生が密月時代を送っていたのとは違う。今日の教授と学生が結びつけないということは、教授と学生の問題であると同時に、ひろく、大人達と青年達の問題であり、大人達が、その責任をわけもたなくてはならないものである。それほどに、価値観は複雑であり、分裂しているのである。私が、ごまかしと無責任と書いたのは、こういう理由である。
 現在、教授、助教授が、学生の信頼を回復し、学生に対する指導力をもつためには、教授、助教授が、自分の学問・思想について、根本的な検討を加え、どうすれば、時代に対する有効性、指導性をとりもどせるか、どうすれば、現代にきりこめるような知識に、知識そのものを変質することができるか、その全存在をかけて、とりくまなくてはならない。
 女子学生の問題に即していうなら、「女子学生亡国論」や「女子大学無用論」を、徹底的に論駁し、女子学生そのものを、興国に結びつけるように、変革できる講義をなしうるときである。女子学生の現実にきりこめるような知識を、教授、助教授がもつように努力するときである。
 そういう反省を、常になしつづけるとき、その教授、助教授は、はじめて、知的職人でなく、知識人であり、学生への信頼と指導力を回復できるのである。すでに、教授、助教授のうちに、そういう反省、検討を開始したもの、初めから、そういう立場にたって、学問をしているものはいる。しかし、そうでない教授、助教授も、また多いのである。彼等の間では、学問とは、単に、技術の学であり、精緻であるかもしれないが、単に、頭脳の中に集積された知識でしかない。人間の学問として、人間の行動と実践を導き支える知識という認識がない。人間の幸、不幸に直接に結びつく行動と実践に深くかかわる知識という認識がない。
 それというのも、教授、助教授の多くが、大学の中か、せいぜい、マス・コミの中に生き、一部の学生を除いて、現実の中から、問題意識をつかみ、それを研究し、それを現実にかえそうとしないからである。現実の中に生きる教授、助教授でありながら、現実から学び、現実の問題に取り組もうとしないからである。
 教授や助教授の多くは、単に、学校秀才であったということで、偶々、そうなったにすぎない。だから、自然、彼等の研究テーマは、専門書の中から発見し、その研究の結果を専門書にかえしていくということを繰返している。だから、教授や助教授の研究テーマは、女子学生をとりまく、種々の問題と、なかなか交わることがない。それが、現代に生きる女子学生にとって、いかに重要であり、その存在にかかわるような問題であっても、教授や助教授の関心とは、多くの場合、無縁なのである。
 その意味で、教授、助教授は、現代に生きる人間として、誰よりも、人間復権をする必要がある。その時に、彼等の専攻する学問も、生命をふきかえし、はじめて、学生への指導力を回復することができる。教授、助教授といえども、知識の復権にとりくむということでは、学生と同列にあるということがいえる。
 教授や助教授が学生よりも、知識を多く集積しているというだけでは、今日の思想状況の中では、もはや、指導者にはなれない。こういう教授、助教授のもとで、学生が学問することに意欲をわかさないのも無理はない。まして、今日のように、数百という大学ができ、百万をこす大学生がいれば、大学に学問をする厳しさがうすれるのも無理はない。といっても、男女の学生をふくめて、同一年令人口の20%強、女子学生では10%にしかならない。
 それだけの女子学生が、本当の学問ができないというのはおかしい。それは、人間そのものを、人間の能力そのものを信頼していないということである。
「女子学生亡国論」や「女子大無用論」が生まれたということは、考えようによっては、いいことである。但し、そういう意見に、女子学生全体が結束して、そうでない事実を事実として証明しようとする動きがでたときである。女子学生の中には、まともに学び、考え、生きようとする者も多いが、反対に、女子学生亡国論を自ら肯定する人、肯定するような生き方、考え方をしている人も少くない。というのは、名古屋女子大学の学生が、全国10の短期大学生を対象に調査したところ、
   そう言われるのも一理ある 26・1%
   何も感じない       10・2%
   学生の自覚が必要      7・8%
   同感            3・2%
と、半数近くが、女子学生亡国論をなんらかの形で、認めているという結果がでている。
 こういう現状を打破し、学問と教養と仕事と結婚を統一的に把握できるような学生生活を全学生のものとすることは、非常に困難であろう。「女子学生亡国論」をけしからんと怒る女子学生も、ゆがんだ教養や誤った学問に一生懸命になっているのが多いという現実である。ますます、その道は困難である。
 だが、私は、繰返していう。その困難な課題にたちむかうところに、おびただしいエネルギーも激しい情熱もでて、その人生は、生き生きしたもの、充実したものになるということを。生甲斐もあり、愉快な人生が始まるということを。人間の生とは、本来そういうものである。

 

 だが、考えてみると、私は、これまで、女子学生に則して、女子学生の理想的生き方ばかりを論じてきた。しかし、私は、女子学生の生き方を窮屈に考えようとは思わないし、型にはめようと思わない。
 女子学生が運動し、旅行し、遊びに血道をあげることに、少しも反対しない。もっともっと、運動に、旅行に、その情熱を投入すればよいとすら考えている。ただ、女子学生のうちに、女子学生の間でないと、運動も旅行も遊びは出来ないとせっかちに考えるのは反対である。勿論、学問も、その中に入る。運動や旅行や遊びも勿論、学問は、大学生の間にしかできないものでなく、一生涯、できるものであり、一生涯しなくてはならないものである。
 伸び伸びと、人間の欲望通りに、一生涯、遊び、旅行し、学問したらいいのである。それが、必要なのである。大きく成長するためには、死の瞬間まで充実した、生き生きした人生を歩むためには、それが必要なのである。先述した通りに、欲望のままに、強く激しい欲望のままに、運動し、旅行し、遊び、学問することである。そういう欲望を抑圧し、否定することなく、そういう欲望を思う存分、開発させることである。そして、人間の可能性の極限に向かって生きてみることである。
 戦後の女性は、かなりに、人間の可能性に、女性の可能性に挑みかけたと思われるが、最近は、殆んど、そういう姿勢がなくなった。此の頃、若い娘が、可能性をためしてみたいということを、よくいっているが、可能性をためすということは、いわれるように簡単なことではない。せいぜい、何かの冒険をするときに、可能性という言葉を使っているにすぎない。
 基礎もできていない若い女性に、能力をぎりぎりの所まで開発していない若い女性に、可能性をためすという言葉は、使えない筈である。女性は、それこそ、もっともっと、逞しく、聡明になる必要がある。女子学生は、女性の先頭にたって、逞しく、聡明になる必要がある。全女性をひきいていく必要がある。
 その意味で、大学生活をエンジョイしたいという女子学生に、私は大賛成である。拍手を送りたい。しかし、それが、大学生時代だけでなくて、職業についてからも、妻になり、母親になってからも、そういう気持、そういう姿勢で生きて貰いたいのである。そういう気持、そういう姿勢で生き抜くために、それだけの逞しさ、それをやりとげることの出来る逞しい教養、鋭い学問が必要である。
 大学生活をエンジョイし、人生をエンジョイするといっても、野獣としてエンジョイするのでなく、人間として、女性として、エンジョイするのである。それこそ人間として女性としてエンジョイするのであるが、野獣のような逞しさが必要である。野獣のように逞しくなければ、到底、エンジョイするという姿勢を貫くことはできない。
 此の本が出る頃には、女子学生の数も、吃度、三十五、六万になっていよう。だが、決して、私は、その数が多いとは思わない。大学というところは、高校とは、根本的に異なって、人間とは何か、知識とは何か、学問、教養、仕事とは何かを、それこそ、野獣のような激しい情熱とおびただしいエネルギーで、根本的に問うてみるところである。現代とは、戦争とは、と根本的な問いを自分自身にむかって、全身、全力でたたきつけてみるところである。そこから、大学生としての第一歩が始まるし、資本の奴隷と化し、資本から疎外されている人間復権の第一歩も始まる。
 大学とは、それを考えぬくところであり、大学は、それができるところである。また、それを考えぬくことができないような者は、大学生ではない。それができないような大学生は、名は大学生であっても、実質的には、大学生とはいえない。
 教養と学問と仕事と結婚を統一的に把握しようとするところに、変革の第一歩がある。それは、自分の現状を変革するプログラムを確立するものということでもある。そして、現代を、現代社会を変革し、現代の常識を発展させるプログラムと自分の現状を変革するプログラムが、相互に深くかかわり、重なりあったとき、主観的にも、客観的にも、自立人、独立人の道を、大きく、ふみだすのである。大学は、そういう機会を、大学に学ぶ者に、一様に提供する。そういう意味で、大学には、どんなに多くの青年が学んでもよいし、また、学ばなくてはならないと思う。
 今日の学生には、資本の奴隷と化し、資本のために疎外されている大人達を救う責任がある。奴隷化への道をつき進んでいる青年達を救う義務がある。それが学問の今日的意味と課題である。女子学生は、その栄光への道の前にたたされている。

 

             (1967年 大和書房刊) 

 

            <女子学生の生き方 目次>

 

 

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