新しい風土

 

 雑誌『新しい風土』は、1954年7月から1956年5月までの間に17号が発行された。池田諭は『人間変革の思想』のなかで、『新しい風土』について「その目標は、事大主義を排して、日本の庶民大衆が自立性と自発性をもつこと、地方の現実を重んじ、そこから出発する態度を養うこと、民衆自身を変え、民衆を動かす理論をつくることの三つであった。」と書いている。『新しい風土』は、雑誌を媒介にした、民衆一人一人の生活に根ざした実践的思想をつくる運動であったと言えよう。
 ここでは、そのおおよその流れをつかむために重要と思われる所を、選択して掲載した。

 

「新しい風土」目次

創刊号
   私の一日(特集)
    織物工の一日・深夜に働く・ニコヨンの一日・非常勤という勤務
    時々刻々・古文書整理の一日
   近江綿糸争議現地ルポ 対立する第一組合と第二組合
   武者小路実篤の堤唱する新しき村を訪ねて
   映写室・読書室 あとがき

九月号
   なにをなすべきか
   デフレと私達の暮し(特集)
     少なくなった小包・月給遅配のこのごろ・おそれずにあわてずに
   ルポルタージュ 婦人職業協会を訪ねて 村の図書館を訪ねる
   私の一日
    サラリーマンの主婦・私の一日・女事務員の一日
   映写室・読書室・詩

十月号
   私の一日
    夜明け前の一刻・人の足もとで・私の一日・漁業労働者の一日
   デフレと私達の暮らし
    デフレ下の町工場・きょうこのごろ
   ルポルタージュ 喜ばれるニコヨン金庫 鶴見一般労組を訪ねて
           ニコヨンの人達の託児所 みんなの力、保育園
   私の立場から
   近江絹糸の人達の手紙
   映写室・読書室・詩

十一月号 
   巻頭言
   私の家(特集)
    チエの小屋・私の家・家と親類・嫁と姑・家庭の美と醜
    お父さんのいない家・働く母と子
   ルポルタージュ 家事労働者の集い希交会を訪ねて
           静岡県生活研究会訪問記
   国際情勢 EDCとSEATO
   座談会 私の一日をめぐって
   人物小伝 エスペラントの父、ザメンホフ
   その後の近江綿糸
   職業婦人協会のなげた波紋
   映写室・読書室・詩 私の立場から 自由投稿・友達通信

十二月号
   巻頭言
   特集 封建性について
    私の職場で・農村青年の立場・その他
   ルポ 東京証券の争議
   国際情勢 日本が当面する二つの道

一月号
   巻頭言
   特集 一九五五年を迎えて
   ◎回顧と展望
    世界の平和勢力・労働運動の展望・教員という職場の展望等
   ◎私のやりたいこと、私にできること 
    私の職場とお茶くみ・私の喜びを分ちあいたい・多くの友達と話しあいたい
   アンケート 私達の生活と政治

二月号
   意識が高いということ
   特集 サークルについて
    職場と町の歌うサークル・闘いの中から生れた職場のサークル・
    農夫の学習サ−クル・農村の読書サークル・その他
   ルポ 二つのサークル◎農村青年の活動・生活改善に集まる主婦達
   世界の民衆 ドイツとアメリカの選挙
   アンケート おとみさんについて

三月号 
   私達の課題は一つである
   特集 選挙と私たち 
    私の一票はこのように使いたい・総選挙を見つめる世界の眼・
    総選挙とその後に来るもの・民主党の考える日本の独立
   ルポ 町の政治にとりくむ主婦たち
   座談会 選挙にあらわれた封建性
   アンケート 私達にはどんな自由があるか
   崩れ去った戦前の政党政治
   外国資本に支配される石油産業

四月号
   地方と中央
   特集 地方選挙
    地方議会は私達にどんな役割を果しているか・
    衆議員選の経験を地方選挙にどう生かすか・フランスの地方選挙の情況・
    窮乏をつげる地方財政
   各地の足音 静岡県婦人団体の動き
   座談会 私達がぷつかっている問題
   私たちのサークル(千葉県多古町社研)

五月号
   つくられるものからつくるものヘ
   特集 職業と私達のくらしの結びつき
    就職難時代・私の職業生活・職業と身分・ドイツ人の職業観・
    大学卒業生の就職状況・私達はどうやって勉強したらよいか
   私達の組合つくり(総理府恩給局臨時職員)
   サークルの問題点 草笛サークル  あとがき

六・七月号
   新しい風土は何を求めてうまれたか
   私達をむすぴつけるものとへだてるもの
   特集 サークル誌について
    サークル員との関係・その会計・原稿をどうやって集めるか・
    サークル誌のくふう・サークル誌一覧
   特集 帰郷学生運動
    農村と都会をむすぶもの・働く者と学生のむすびつき・学生の帰郷運動とは

八月号
   原水爆と日本人
   特集 原爆をめぐる十年
    死の街をさまよう・原水爆と世界の民衆・原水爆をめぐる十年(年譜)
    平和をもとめる歌声・水爆の威力(解説)
   アンケート 歌声によって私達はどう変ったか
   原水爆反対署名運動は今後どうしていったらよいか他

九月号
   話しあいにおける妥協と一致
   特集 お互の間のみぞを埋めるために
    なかまの間にできたみぞ・みぞをつくる優越感と劣等感・
    父と娘のみぞをこうやって埋めた・私達を結びつける共通の基盤・その他
   ルポ 農村と都会をむすぶ五色のつどい
   アンケート どうやってよりよい話合いをしていくか
   世界の民衆との交流 中国からの手紙
   人生記録雑誌をどうみるか
   サークルとサークル誌一覧

十一月号
   新しい風土を出し続けるために
   特集 その後どうかわったか
    その後物語 飛行場が美しい水田に(開拓村)
          貧しさから脱け出せぬ農民(農地改革)
   ルポ 内灘村のその後を探る
   アンケート 私はどうかわったか
   「にわとり」から「あひる」への道
   国民の主体性は確立されるか

十六号
   三年目を迎え
   特集 くらしのなかから「しかたがない」をなくそう
    今日の不安を・ 三年かかって・ 本当に「しかたがない」のか・
    「しかたがない」という言葉・ 中国にメイファーズという言葉はなくなった 
   座談会 読書と生活

十七号
   歌ごえと話しあい
   特集 話しあいをどう進めるか
    話しあいのサークル「ともしび会」 話しあいのもつ力の限界について
    仲間以前の人たちとの話しあいについて
   座談会 話しあいをどう進めるか
   新しい風土を育てる会発足

   

  

     創刊号〜「あとがき」

 私達の生活の中の問題を具体的に解決し、おたがいを結びつけるものを発見していくために、私達が私達の声を、たとえどんな小さな声であろうとも、とりあげ、考え、解決への実践に進むために、その方策の一つとして雑誌を創りたいという望みを持ちだしたのは、もうだいぶまえのことであった。国中に散らばっている、そのような灯が一つに集まっていくためには、雑誌という形式が、それも、従来の商業雑誌とは異なって、多くの、広い年齢層と階層の人々が参加してつくる、そういう全く新しい形の雑誌がよいのではないか、というのが私達の結論であった。東京及び東京近郊の種々な職業につく人々は、会合を通じて、地方の人々は手紙を通して、いろいろと意見を出しあい、話し合いを重ねた。
 そして今日、私達の希望した雑誌が漸く誕生した。四号(活版印刷)を、多くの人々の参加を得て全国誌とする為の、準備号としてつくられた故もあるが、できあがったものはあまりにも幼稚で情無くなる。一寸投げ出したい感じ。表現は相変わらずむつかしい上に、問題のとらえ方が抽象的で、スローガン的なにおいが強い。中には地についた建設的な生活の上に、すぐれた理解力と構成力とをもった人がありながら、その力が十分に生かされなかったことを含めて、これが私達の結集された力の段階を示したものであるという事実をしっかりとつかむことを忘れないようにしたい。
 そして大多数の庶民の段階から出発した本誌は、私達庶民の総てが、それぞれの好む形と立場から、建設的に参加し、共同してつくっていく雑誌である。だから、特定のイデオロギーや団体というわくをはずした、強いて云えば、生活をよくしていこうとする人々によって育てられていくものである。   

 

     9月号〜「なにをなすべきか」

 新しい風土は、同じような社会的立場に立ち、利害を一つにしている私達庶民大衆が、ともすれば互にいがみあい、おとしいれあってしまう暮らしの中から、進んでお互を結びつけるものを見出して結びつき、それぞれの環境を少しでもよくしたり、わからないこと困っていることを解決したりする具体的な方法を、協力してみきわめ、互にしらせあうために生まれた私達庶民大衆がつくる総合雑誌です。いわゆる右の立場に立つ人々も、左の立場に立つ人々も、そのどちらにもくみしない人々も、暮らしをよくしていこうという気特にかわりはないはずです。じっくりと、めいめいの暮らしをみつめることから出発して、何が私達の暮らしを暗くしているか、どうすれば、それを明るくすることができるかを率直に追求しその解決に前進しようではありませんか。    

                     「新しい風土」目次  

 

     11月号〜「巻頭言」

 戦後の日本はゆきすぎていた 
こうした声は最近眼にみえて大きくひろがっている。そして此の声に和するかのように憲法や民法、労働法の改正に始まって、社会科改訂に至るまで、あらゆる方面にその動きが生れ、或は既にその形をはっきりとったものさえある。
 こうした声や動きに対して、他方では「このおしよせる逆コースはやりきれない。戦後私達が得たものでも、まだまだ不完全きわまるのに、こんなところで逆にゆかれるのはたまらない」という声がきこえる。そして其の声は心なしか暗い。
 どちらにもその主張には論拠があろう。私はここでどちらの説が正しいか、又より適切かを究明しようとしているのではない。唯私は私達仲間の中に、この相対立している二つの説をそれぞれ支持しているものがあることを認める。その中で、前者の立場に立った私達のある仲間は「何を云うのだ。戦後、『今迄のものは皆間違っていた、正しいのはこれだ』と叫んで、今頃になって、これがまたゆき過ぎだとか、間違っていたとか勝手にそちらでさわいでいる。私達は一度もそんなものを認めたことはない」と云っているかと思うと、反対の仲間は「逆コース、とんでもない。私達が欲し、掴んだものを取りあげようなんて、できるものじゃない。取りあげることができるのは、追随者や迎合者のものだけなんだ。私達の歩みは、新聞やラジオでさわぎたてたりする程、はでではないが、一歩一歩前向きに進んでいる。これをとめうるものは何もないんだ」と云っている。残念だが、私達は私達の意見を率直に語り発表し、交換するものをもたなかった。それが終に私達を誤解させ、あたかも私達を根なし草の如く、あちらこちらに迷って、勝手になるものだと思わせた。最も残念に思うのは、同じような社会的立湯におかれている私達の仲間達が、二つにわれて、それぞれの政治・社会勢力に結びつき、お互を抑えている結果、私達仲間全部を苦しめている人達を喜ばせていることだ。お互が自分を正しいと思っている。
 更にもっと多くの私達の仲間が、「どうしたらよいのか」「何が正しいのか」わからなくて迷っている。心の中では自分の生活にあきたらないで、なんとかと思いながらも、誰も相手にしてくれない。学ぼうと思っても、変にこむずかしくてとっつきにくい。結局は私達が気安く親しめ、私達の意見を発表し、交換し、私達を結びつけようとする雑誌がなかったからだ。新しい風土は、こうした私達の要求の中から生れた雑誌である。   

                     「新しい風土」目次 

 

     12月号〜「巻頭言」  

 私は、よくこんな事を考えます。「私は、もしかしたらスケートの天才か、音楽の大天才だったかもしれない。でも、残念なことに、その恵まれた才分を見つけ出されもせず、その才分を伸ばす教育も受けることはできなかった。」と。誰でもが、その才能を十分に発揮できるような適切な教育を受けたり、学問をする機会に恵まれてきたならば、こんな事を思うわけもありません。勉強をしたかった。でも、やる機会がなかったという人はあまりにも多く、まして、自分の才能を見出さずに空しく埋れていった人々の数ははかることもできないでしょう。そして、お前は無力だ、未熟だと世間からレッテルを貼られ、自分も亦それを疑ってもみなかったのがこれまでの実情でした。
 私達は無力だ、私達は駄目だ。いわゆる指導者の側に立つ人達から、常に見下され、教えられる人間でしかなかった私達。しかし、機会を得て、或は経済的に恵まれて学問をし、指導する立場に立った人達に追いつく為、いや、私達自身を駄目ではなくする為に、私達は、どれほどの努力をし適切な処置をとってきたでしょう。
 政治的、経済的に支配する人々を認め、自分たちを支配されるものとして認めていることから起る私達の不自由さ、不平等は、そのままの形で思想的、精神的に指導する人々を認め、自分達を指導されるものとして認めていることから生れる私達の不自由、不平等にあてはまるようです。政治的経済的に支配者を認める状態は過渡的であり、そうでない状態が正常であるとして、正常な社会にする為に努力している人々は数多くいます。しかし、思想的、精紳的にはじめから指導するものとされるものの区別を判然とさせている状態については、無意識のうちに、それをそのまま認めている人達が多くて、それを、そうでなくさせる為の動きは、ほとんどなされていません。しかし、本当に自由、平等の社会にするには、その二つの動きが、車の両輪のように平行して進められなければならないのではないでしょうか。
 「新しい風土」は私達を政治的、経済的には勿論思想的、精神的にも対等にするために、それに役だつように創りはじめた雑誌なのです。  
 

                     「新しい風土」目次 

 

      新年号〜「私達の立場」

 全国の皆さん、明けましてお目出度うございます。新しい年を迎えて、今年こそはと楽しい期待に胸おどらせておられることと思います。それに伴って私達の思想や行動とともに歩む「新しい風土」もまた輝やく希望と堅い決意の中で第二年目を迎えました。皆さんとともに今一度私達の立場をみつめなおしてみたいと思います。そこで本誌の企画以来、昨日までに全国の皆さんからよせられた意見をまとめて報告致します。
^ 本誌の内容を私達庶民大衆の最大多数に焦点をあわせ、そこから皆で教えあい、助けあって、思想的にも行動的にも発展してゆくものでありたい。その際せっかちに効果をあせって頭でっかちの人間をつくらないようにしたい。 
_ 私達の周囲のどんな人も平和と幸福を念じており、どんな人も思想的精神的に独立した人間になれるという確信を、私達皆がもつのに役立つものにしたい。あらゆる人間への信頼と親しみを私達の人間性の基盤にしたい。
` 私達の社会の主体は私達働く者であり、新しい社会をつくる主体も私達であることを、私達が確信でき、それだけの能力をもつのに役立つものにしたい。
a 以上の三点を通じて、とくに本誌は私達庶民大衆の考え方、感じ方、生き方を変えてゆくのに役立つものにしたい。その点、本誌は私達が学習し合う雑誌であり、従来のような知識の分配を期待するものは失望するかもしれない。実践的にはより高度の内容を期したい。 
b これらを達成するのに、すぐれて具体的、行動的であり、平明でしかも親しめるものでありたい。とくに、どんな人でも気安く参加し、発表できるものでありたい。
c 本誌は思想的、行動的にも私達庶民大衆以上でもければ、以下でもなく、私達の力〈参加しているもの)の再現であることをはっきりとつかみたい。

                     「新しい風土」目次 

 

     5月号〜「つくられるものからつくるものへ」

 私達庶民大衆が、これまで読んできた雑誌は、すべて、私達に読ませようとして、つくられたものでした。たとえ、それが、、私達庶民大衆の声を取り上げ、それで誌面を埋めていたとしても、やはり私達に読ませるために、他の人達の手によってつくられたものだったのです。ある物はそれによって、庶民大衆を教育し、自分達の後に続かせようと試み、ある物は、それによって、庶民大衆に対する愛情と信頼を示し、庶民大衆の行くべき道を示そうとしました。残念なことに、それらの物は如何に善意に満ち、信念に貫かれていようとも、結局、高い所から差しのべられた、救いの手でしかなかったのです、つまり、庶民大衆の為につくられたものであって、庶民大衆が主体となり庶民大衆自らがつくったものではあり得なかったのです。
 けれども、今、私達は、庶民大衆が、自らの立場にどっしりと根を下した時にこそ、庶民大衆についての、最も好ましい方向を見究めることができるのだと、確信をもって云えます。そうして、その為に、今こそ、庶民大衆の手によって、庶民大衆の雑誌をつくること、私達の雑誌をつくることが必要なのだということを痛感します。私達が私達自身の立場に立つ時には、必ずすぐれた力を発揮すること、真の方向を見出せるという確信のもとに、みんなが本当の力をみがき、発揮して、私達の雑誌をつくっていくことを切望しています。
 つくられた物を与えられて読むのとちがって、自らの手で、新しい物をつくり上げていくというのは、全く大変な事です。けれども、新しい道を築いていくには、必ず困難が伴うものだと思います。そして、それを突きぬけてこそ、本当に新しい道は切り拓かれるのです。みなで書き、読み、考えて実践の手がかりとする、ということは私達の雑誌を、真に私達の物としてつくり上げていく為には、どうしても必要な事なのです。つくられるものからつくるものへ、それは亦、雑誌だけではなく、広く文化学術の面においても云えることだと思います。

                     「新しい風土」目次 

 

     5月号〜「あとがき」

 何千年にもわたって、政治的には支配され、経済的にはしぼりとられ、思想的には従属させられてきた私達民衆がそうした状態から解放されて、自分達の幸福と喜びを自由にできるようになるためには、どうしても私達の思想と生活を私達が中心になって、自分達の力で自主的に創造しなければならないということを思いしって、昨年七月、文字通り日本ではじめての民衆自身による民衆のための民衆雑誌「新しい風土」が生まれました。
 当時三二頁プリント五00部の「風土」が今では十号を数え、活版五六頁四000部にまで発展しました。そして六月号では六四頁六000部への実現にむかって努力しています。しかし、当然最初に予想していた、読みごたえがない、つっこみが足らないとの批評、それに伴う経営の困難から、私達は何度か、そうしたものを職業的執筆家の論文で補おうかという誘惑におちいりました。でもそれこそ、私達民衆を永遠に奴隷の位置におくことを自ら認めることであり、それをのりきるためにこそとられた私達の立場である以上、それがどんなにむつかしいことでもじっと歯をくいしばって取り組む以外になかったのです。
 私達はお互に激励しあって、私達のどんなささやかな意見や実践でも、今迄の傍観的な態度から積極的な参加へと変えることによって、私達の未熟と取りくんできました。…

 

     6・7月号〜「新しい風土は何を求めて生まれたか」 

 新しい風土は、平和で幸福なくらしを願う、総ての人々のものです。労働者も農民も漁民も学生も学者も、そして家庭の主婦も、政治的、経済的に同じような立場に立たされている、総ての人々の雑誌です。
 ともすれば、互いにおとしいれあったり、いがみあったりしてしまう私達みんなが、どうしたら手をとりあっていけるか。みんなをとりまいている家庭を、職場を、部落を、少しでも住みよくしていくにはどうすればよいか。そのほか、わからないこと、困っていることを解決する具体的な方法を、協力して見究めるための研究の場です。
 一つの体験を多くの人々の経験とし、一人の研究を多くの頭で検討し、各々が今までより一歩でも前進するためのみんなのものです。そしてまた、思想的には常にひきずられ、よりかかってきた私たちが、私たちの思想を追求し、思想的に独立するための、おたがいの研究や意見を実らせる場でもあるのです。

                     「新しい風土」目次 

 

     8月号〜「原水爆と日本人」

 私達日本人が忘れようとしても忘れられない日、世界ではじめての原子爆弾が投下された八月六日がまためぐってこようとしています。
 私達は原子力時代という新しい世紀の扉を開いたその日に、原子兵器による悲劇の真只中に立たされました。原子兵器の被害者としての日本人の苦しみ多い十年間を今静かに振り返ってみるとき、それを又、世界全体の動きの中で考えてみるとき、深い感慨を覚えずにはいられません。
 はじめ、私達日本人の一人一人は、原子兵器の惨害について、脅威について、あまり多くを知りませんでした。むしろ知り得なかったといってよいと思います。それは被占領下の日本の社会として、或いは当然であったかも知れないけれども、もし、云わせてもらえるならば、これを知り得ず、知らせ得なかった事自体について、大層遺憾に思います。それは国民一人一人が戦後如何に虚脱状態にあり、自信を失い、自ら思い考え行動するという事をなし得なかったかという事になるでありましょう。このような中で、私達はサンフランシスコ条約によって不完全ながら独立を認められる日を迎えました。そして原子爆弾の惨害についての、各種の出版物が刊行され、写真が公表されて、はじめて日本の受けた被害の有様を、同胞が受けた苦しみの深さを知り得たのでした。しかし、五年の歳月をへだてたその時には、被害を受けた直後に比べて、やはり、感覚の上では遠い日という気持がないとはいえませんでした。こんな頃に行われたストックホルム・アピールの署名運動は、協力したものにとっても、やはり、ギリギリの切実感を持ち得ず、数多くの署名はとりながら、全国民的なひろがりを持ち得ることができずに終りました。
 一九五四年三月、私達は、原子兵器によっての、新しい脅威を感ぜずにはいられない事件に突き当りました。ビキニで行われた水爆実験による被害でした。死の灰を浴びた第五福龍丸乗組員の原子病、原子マグロとよばれる放射能を含んだマグロの水揚げ、さらには放射能を含む雨、また、放射能を含む野菜の出現。これらは、私達日本人の誰も彼もが一人のこらず原水爆の被害を受けねばならぬ所に押しやられた、大事件でした。私達は、もう原水爆を思い出として、或は遠く離れた所に起った、ある事件としておくわけにはいきませんでした。自分達自身の問題として考え行動せざるを得ない事になったのでした。原水爆反対署名運動が、杉並の婦人の間から起って、全国に拡がり、二千数百万を算える署名を得た事、それがウィーン・アピール採択の、大きなきっかけとなり、世界の歴史を動かす一翼となった事は、国民一人一人の平和をもとめる意欲の結集として、見逃すことはできないと思います。
 しかし、一方には濃縮ウラン貸与のうけいれ方が識者の間で大きな疑問を持たれながらも、そのまま押し切られてしまったような事件と思い起こすと、原子兵器によって受けた惨害が有効に生かされた、国民全体の原子力に対する結論というものがまだ生れていないことを、感じずにはいられません。万一、原水爆禁止署名をした二千万余の人々に真の原子力そのものに対する認識があり、日本としてどうしなければならないかという強い決意があったならば、こういう一方的なことに終始しなかったのではないでしょうか。その意味で八月六日からはじまる原水爆禁止世界会議が、全国民の世界に問うものとして成功するように願うと共に、歌声運動や署名運動その他のあらゆる平和運動が、原爆の被害を受けた、世界で只一つの国の国民として、文字通り全国民的なひろがりを持つ様に努力したいと思います。そしてその運動が全体として、少しでも質を高め、未だ原爆への恐怖を知らぬ全世界の人々に対する、有効な警告となり、全世界の人々を原爆の惨害に陥し入れぬ様、強いくさぴになることを願わずにはいられません。

                     「新しい風土」目次 

 

     9月号〜「私達を結びつける共通の基盤=人間の信頼のために=
                                池田諭 」

 このごろといっては語弊があるかもしれないが、最近話し合い其の他いろいろの方法で、お互いの間の溝を積極的にうずめて結びつこうとする動きが非常にたかまっている。本誌は創刊以来、あらゆる角度から、この問題と取り組んできたが、とくに今月号では特集として、皆で此を考えてみた。現実の動きの中で、果してそれが可能であるか、そしてそれを可能にする具体的方策は何か等については、本誌にのせられた仲間の意見にゆずって、ここでは、お互いの溝をうずめる前提になるもの、それも主義、主張をこえて結びつくための前提になるもの、とくに其の中の人間的な根拠について考えてみた。
 ことに原爆・水爆の恐しさを身をもって知らされた私達日本人は今も猶依然としてその恐怖にさらされており、それに加えて複雑な国際、国内の動きの中で、政治的にも経済的にぐんぐん追いつめられて、その存在は一層危くなっている。平和で自由な生活をそれも自らの手でつくろうとすれば、どうしても国民的な規模で、皆が手を結びあって、それを可能にする力をつくる以外にない。
 そうなれば、お互の仲間の間での、より発展した結びつきを実現するだけでなく、私達は当然、現在、主義・主張を異にしている人達の中にも積極的に飛びこんで、唯単に一時的な方便としての妥協的な結びつきでなく、お互の前進発展を通して、本当のしっかりした結びつきをしなくてはならなくなっている。既にこのことは相当に強調されていながらも、その割に発展せず、主義・主張を同じくする者の間においてすら、すっきりとしない、不明瞭なものを残しているようだ。まして主義・主張を異にしている人達の間では、お互を結びつける積極的行動は全くといっていいはど不十分で、方便として相手側に妥協したものが感じられ、なかには利用というものまでが、感じとられて、その結びつきをもろいものにし、時には逆の結果をもたらしている場合すらある。
 もし、私達が主義・主張をこえて結びつかなければならないとするなら亦現実に結びつけるとするなら、結びつく本質的な何かの基整がある筈だし、それが、単に可能としてでなく必然的なものとしてある筈だし、だからそれがはっきりつかまれ、確信されない限り、そうした動きへの積極的な意欲や絶えざる努力も生まないだろうし、実際にすばらしい結びつきもできまい。それがはっきりつかまれる時、私達の心を満足させるぴったりした結びつきとなり、温い、同じ仲間であるという、たとえ意見を異にしても根底において仲間であり、一つなんだという実感が、それも変ることのない実感が生まれてくる。これは、現実の人間の個々の姿をこえて人間そのものへの信頼であり、これが、国民的なものから更に全人類的なつながりを可能にする一つの要素でもある。勿論ある段階において一つの目的のために一時的に結びつくことはできるし、それはそれとして非常に重要な意義をもっているが、それがどんなにもろく、時にはその途中で悲惨な結果すらもたらすことを忘れることはできない。だから私達はどうしても、人間として真に結びつきうるものを、言いかえれば、主義・主張をこえて人間を一つに結びつかせる基盤をはっきりとつかまねばならない。もし、そうしたものがないなら、私達人間の結びつきは新たなる形で提出されなくてなるまいが。
 次にその主なものの三、四をあげてみよう。
 其の一つは人間は常に何かにむかってより深い満足を求めて進んでいるということだ。
 其の二つは人間のあらゆる行動は自己保存の心で支えられ、導かれているということである。
 其の三つは何人も自分を愛しているということ、しかも現実には自らを愛そうとつとめながら、反対に自分をみじめにしていることだ。
 最後は、どんな人もそれぞれに各自の問題を、それも永遠に解決のない問題を背負っているということだ。
 この第一の発見は私に自分と人間一般に対する強い希望をもたせ、第二の発見ではどんな人をも平等にみさせるようになったし、そして第三の事実が自分も例外でないということを思いしらされたとき、人間に対する限りない愛着をもたざるを得なかった。そしてこの愛着は第四の発見によって一段と深まり、しかも夫々の人が背負っている問題が深い関連をもつということにおいて、連帯感を感じ、そうしたものの前に仲間なんだということを感じとった。
 勿論、第一の、その何かも、満足の内容も自己保存のあらわれ方も、それぞれに全く違うし、それも単一なあらわれ方をしないで、じぐざぐを辿り、時としてというより、多くの場合に常識的にみてさえ、だきしたいようなものを追求したり、それに情熱を示すところからややもすると人間に対する不信や疑惑、時には絶望におそわれ、また、自分を愛することや背負っている問題が現実には相対立し、お互いに決して相いれないような状態を示していることから、私達は全く相対立し、相いれない人間としてきめこんでしまう傾向が強い。
 しかし、こうしたことも私達の自己教育によって、いくらでも好ましいものになり得るし、お互を阻み、相対立させるものも、私達の観察と研究がすすんでゆきさえすれば、お互の共通の問題というだけでなく、共通の敵であるという性格までがあきらかになるし、誰でも観察や研究によって、それをあきらかにしうるものだということを発見したとき、強弱のある自己保存の心や、深浅のある愛情を強めたり、深めたりすることができることをつかんだとき(私はこれらのことを具体的教育の中でつかんだ)私の人間への信頼と連帯感は更に深まった。
 しかも私のこうした四つの認識から生まれた人間への信頼と連帯感は、誰でもが考え肯定するであろうはじめの四つの認識に関連した次のことによって、お互いが主義主張の一致をする前に、既に結びついており、結びつかざるを得ない必然性をもっているということ、言いかえれば同じ仲間だということの確信を更に動かしがたいものにした。
 即ち、どんな人も、私と同じように生きぬこうとしていること、それもどんなにしても生きぬこうとしていること、そして何人もこの要求を絶滅させることはできないということ。しかもその要求、どんな不当な抑圧や強い圧迫の前にも、強くなっても弱まらないこと、このことはすべての人が一応の解決を(その内容については別の機会にゆずる)得ない限り、どんな人の今の幸福とか特権も危機にさらされており、崩壊の可能性をもっている。だから、私達はどうしてもお互に結びつき、皆の解決を求めて、どんな努力をもつづけなくてはならなくなる。それが結局自分のためなんだし、また、たとえ、皆の解決を求めて、すぐれた動機や、好ましい心で行動したとしても(そうしたところに自分を育てあげたということにおいてすばらしいことであり、賞賛に価することであったとしても)結局は自分のためにするという認識、このことは皆の解決を求めて他の人に働きかけるにしても、自然おしつけがましかったり、うぬぼれたり、妙な恩つけがましいことはできなくなって、本当にお互の共通の問題として一緒に考え、実践してゆかざるを得なくなろう。
 そして、たとえ、現実に、主義や主張が異なっても、それぞれの背負っている問題の解決のために生まれたものであり、各人それぞれに精一杯取りくみ、掴んだ主義・主張(たとえ客観的にみてそれが精一杯にみえなくてもその人にとっては精一杯であるということの認識は大切である)であるということが理解されれば、お互の主義・主張に対して温い態度をとるだけでなく、十分な尊敬をもって理解しお互の主義、主張の超克なり、発展なりを実現してゆこうと取組むようになろう。
 以上みてきたように私達人間には人間として結びつく共通の地盤が可能性においてと同時に必然性においてあるということがいえると思う。唯このことを単なる知識としてでなく、実践的なものとして、本当に自分のものにするにはどうしたらよいかということは、次の新しい問題となろう。 

                     「新しい風土」目次 

 

     11月号〜「国民の主体性は確立されるか=戦後十年の歩み=
                               池田諭 」

 

   茫然自失の終戦直後の運動

 太平洋戦争は、一部の人達はともかくとして、私達日本民族のエネルギーの殆んどを注ぎ込んだ戦争であった。それもひたすらに戦争の正しさを信じての…。だから、史上はじめての占領という事態の中に放りこまれた上に、それが全く誤っていたのだといわれたとき、私達国民は、文字通り茫然自失したのだった。これは、その後の物資の極度の欠乏と、それに対する政府の無力が相俟って、いよいよその度合を底知れないものにしていった。
 こうした中で、おくればせながらも、私達国民が当面している問題に真向うから取り組み、私達国民に、先ず自覚と方向を与えたのは日本共産党であった。そしてその後の日共を中心とした大衆の動きは、人民政府を生みだすのではないかと思われるほどの、広範で強烈なもりあがりを見せていった。
 また、一方では、あるいは前記の動きに結びつき、あるいは全く別個の形をとりつつ、国じゅうのすみずみにまでわたって一斉に文化運動がくりひろげられていったのだった。

   運動そのものに内在する問題点 

 しかし、これらの動きは、それぞれの動きそのものの中に、すでに決定的に近い問題をもっていた。つまり、私達日本人の物の考え方の中に根深く巣食っている観念性や追随性(それは、私達自身が簡単に解決することができないほど、歴史的につくられてきたものだ)である。かいつまんでいえば、江戸の中期以後、だんだん盛んになり、ついには明治維新を生みだす原動力となったほど、実践的な学問である陽明学が、国民的なひろがりをもたないうちに、明治の時代となって、長くドイツ観念論の影響下におかれたということである。学問の客観性という名のもとに、日本における現実の日常的な問題と自分との対決の中で、実践的にとりくもうとする態度が軽視され、時には全く無視されて、一般的な原則の追究、解説に終わり、たとえ他の国での具体的な実践問題をとりあつかうにしても、単なる事実の紹介(それだけでも重要なことではあるが)に終わるという傾向を持ち統けてきた。そこからは当然、公式論や機械論が生まれ、また物知り万能の態度がでてくることとなった。このような態度から、現実の日常的問題の核心にぴったりふれて、それを変革発展させる理論が生まれるわけはなく、勿論、実践が生まれるはずもない。これらのことは、日本人の中に、古くから強く流れている権威主義や、偶像崇拝に支えられてますます横行した。
 戦後当初の政治運動、労働運動の公式主義や機械主義、現実から遊離した文化運動の物知り万能的な傾向等は、明らかに、その問題を露呈した。

   問題点を露呈した疎開人の文化運動  

 中でも、この限界をいち早くばくろし、消滅していったのは、いわゆる文化人と自認する帰郷者、疎開者によっておこされた文化運動であった。学校で、あるいは書物で頭につめこんだ、足のない知識を、機械的に人々の前にひけらかした、この文化運動は、自分達のたっている現実に焦点をあわせて、直接的な形で、着実に追究するという態度ではなかった。貧しさから、そうしたものに接する機会をもたないで、心の底に強い憧れをもっていた人達は、衝動的といってよいほど強く、とぴついていった。ことに、今まで何も知らされず、経済的にも、社会的にも学ぶチャンスに恵まれなかった女性達は、古い学問の弊害を受けていないだけに新鮮で健康だった。そしてその変り方も目ざましかった。
 しかし、時がたつにつれて、この文化運動の中にもられている暇人的、遊び的性格が、次第に人々の間に気づかれていった。そうなると、この、自分達の暮しとは全く縁のない、知識の切り売りは、前ほど重要なものではなくなってきた。それは、人々をとりまく経済的制約と相俟って、文化人の態度に対する反発や批判となり、運動への不参加となってあらわれることによって二、三年の間に、この種の文化運勤のほとんどが消えてなくなる有様であった。
 勿論、こうした中で、いち早く自分達のもっている誤謬や限界を知り、現実との対決の中でつくりかえていく方向に努力をはじめ、かすかながら、新しい芽を育てていった人達もある。そして、これらの人たち達の業績は、少しずつ深く、土壌の中に強い根をはりめぐらしていったのであった。

   国民自身のものでなかった政治運動、労働運動

 政治運動も、労働運動も、また決して例外ではなかった。機械論公式論に導かれた運動は、種々の誤りをおかしながらも、当時の極度の生活の窮乏と、政府の無為無策が要因となって、運動をもりあがらせていた。より多く直観的、衝動的なものであり、依然として日本人の中に巣食っている権威主義によって支えられていたのが、この頃の運動の実態であった。国民自身が、自覚の上で、主体的にとりくんだわけのものでもなく、たやすく主体性をもてるわけのものでもなかった。むしろその反対の方向を向いていたといってよかろう。
 組合運動の面でいえば、組合員の組合ではなく、組合幹部のための組合という事は、おおうべくもない姿であった。先述の文化運動にしても、その中心人物と、周囲の人達との関係に同じ形が見られる。 
 こうした誤謬から生れた弱さ、もろさは、レッドパージの際に、いかんなく発揮された。しかも、全体としてはその傾向が解決されるどころか、いよいよ反対の方向をとり、血のメーデーとよばれる、あの決定的段階まで、その状態をつづけていったのであった。
 パージ後、幹部を失って、火の消えたようだった組合も、今迄の組合の在り方が批判されはじめ、組合員の組合をつくる方向にむかって、徐々に運動が進められた。組合員の積極的な参加が、各自の自覚の中で、それは底流の域を出はしなかったが生まれはじめていた。

    第三勢力的存在の人々

 戦後矢継早におこった、これらの動きにほとんど無関心な態度をとり、その日、その日の暮しに追われていた人々が、国民の大多数を占めていたのは誤りない事実である。しかし、それらのいずれにも属しない少数の一群がいたこともまた事実であった。当時十代から二十代に属し、当時の学者、思想家からの指導の中で、戦争中、まがりなりにも太平洋戦争を理論的に究明し、そのたしかめられた理想に向かって、自分の全存在をかけて、意識的に、と同時に実践的にとりくんでいた人達であった。自分達が寄り所としていた物が誤っていたばかりでなく、そうした結果をもたらした学問のしかたもまた誤っていたのだと知ったとき、また、それを導いた学者、評論家達のその後の無責任で非学問的な態度、更には理由はあるにしても、現実の闘いに敗れて沈黙をしていた人々の得意ぶりに接したとき、人間に対する嫌悪、不信の念はたかまらざるを得なかった。自分を含めての人間への、いやしがたい不信。青年達の打撃は大きかった。絶望と虚無の中にはたきこまれた人々は、種々の思想に対しても、決して、それを全面的に認め、支持するということはできなかった。たとえ理論的には正しいと認めながらも、なお、何かが残った。まして、それにもとづいた実践ということになると、その感じは一層ひどかった。人間を信じようとしながら信じられず、思想に対して率直になりたいと念じながら、なれない自分をもてあまして、苦しみもがいた。
 多くの自殺者を出し、デカダン的色彩を帯びた虚無主義者もまたたくさん出した。
 こうした中で、この人々の心の中に根強く残っていた、旧来の権威に対する絶対感が、きれいに消えうせてしまった。絶対的権威というものがなくなったのである。これは近代的な意味での自我確立への可能性をもたらしたことであり、日本史上にも、はじめてといってよいことであった。(戦国時代といえども朝廷に対する権威の絶対感は、決して消滅しなかった)もはや、この人々にとってはいかなる思想も、それ自体が権威として受けいれられたり肯定されることはあり得ない。いいかえれば、その思想の中に盲目的に自分を没入させたり、自分でよりかかったりすることはできなかった。
 しかし、こうした人達の中に徐々にではあったが、失った人間と歴史への信頼、それも観念的な信頼でなく、実践を媒介として発展し、変革していく人間と歴史を貫く原則、それを可能にする実践の法則をつかむことから生れる信頼がめばえはじめ、そのために各種の思想が日常的な自分の生き方の中で追究されていった。
 そこからは、前述のような公式主義や機械主義の方向は生れないし、現実の具体的問題から遊離して、観念的知識をふりまわすこともなく、徹頭徹尾、それがどんな些細なことであろうと、初歩的なことであろうと、現実にぶつかっている自分の問題から出発し、それの解明、解決のための究明であった。問題やそれとのとりくみ方とき方の究明であった。この態度から、一般的な原則論がはじめて現実のとりくみの中で生かされ、更に発展もされたし、そして問顕そのものが持つひろがりと深さから、自分の問題を解決しようとしたとき、それがそのまま私達みなの問題であり、更に国民全体の問題であるという風につかまれていった。

   新しくうまれた動きの中から

 従来の公式的で画一的な労動運動や物知り的文化運動が種々の無理を繰り返しているあいだに、底流のようにおこってきた新しい動きは、何時か都市にも、農村にも散在していたこの第三勢力的な人々と交流をはじめる中でその動きをいよいよかためていった。曾ては総てに無関心の様子を示していたそれらの人々は、新しい動きとの交流をきっかけとして、だんだんと実践面にも参加していった。
 それは進歩的といわれる学者の評論家が相変わらず、抽象的な一般論や原則論をのべるに終わって国民が日常の生活の中でぶつかっている問題を具体的にどう解決したらよいかを明瞭に示し得ない中でぐんぐん成長し確立していった。
 それまでいろいろな運動から外され、弧立していた人達に新しい波が及んでいったのも、この動きによるものであった。それは、めいめいの生活をじっくりと見つめなおし、それを考え、書き、綴って自分達の力でたしかなものをつかみ、伸びてゆこうとする生活記録の動きだった。文字通りささやかな形のものではあったが、既製の有名人、知識人にたよらず、自らの力で立ちあがろうとしている、若い人達の共鳴を得て、しっかりとした根をそれぞれの生活の中におろしていった。雑誌「葦」はその中で大きく実を結んだものの一つであった。
 しかし、その「葦」が文芸的な傾向を強くしてくると、自分の生き方と真向うから取りくむものとして新しく生まれた雑誌「人生手帖」により多くの人が参加していった。これは、現実の中での自分の生き方を明かにしようという欲求をどんなに強くもっているかを示すものであろう。そのことは、その後のこの人達の動きの中にはっきりあらわれている。即ち書くことの中で、お互の結びつきをはかり、結びついた中で、お互の問題を実践的に取りくもうとしていった。そして、自分達だけの力ではどうにもならないことをしったとき、より広い結びつきをつくり、理論的究明をともに行った。
 こうした動きは、労働運動の中でも、一番たちおくらされていた紡績の女子労働者から、女中と呼ばれて相当の進歩的良心的な人達からさえ省みられもしなかった家事労働者にまで汲んでいった。また封建的経済的桎梏のために奴隷に近い様な生活に耐えていた主婦達の中にも…。
  このような動きを育て、国民的なひろがりへの地盤をつくったのは、講和問題、メーデー事件、破防法、再軍備、原水爆問題、基地問題等、好むと好まないとにかかわらず、国民をその渦中にまきこまないではおかなかった問題が次々とおこっていったことであった。それらは私達国民全部をゆさぶるほどのひろがりと深さをもって私達をつかんだ。ゆすぶられ大きくゆすぶられる中で、私達国民は、私達をとりまく動きそのものについて、自分で考え、自分の生き方をはっきりとつかむことを迫られたのである。とくにこの中で生活を守る運動、子供を守る運動、郷土を守る運動が曾ってない多くの人達の共感と協力を得て、非常な力強さをもって進んでいった。もはやそこには今迄の様なひきまわされたりよりかかったりしたものは次第になくなり、国民がはっきりと自覚しそれを自らうけとめて立つことによって運動の主体となっていった。
 サークルは各所に生まれ、歌声運動もそれを各所にひろめる大きな役割を果した。労働者、農民の学習雑誌である「学習の友」や、知識人と一般民衆を結びつける雑誌として「思想の科学」も生まれた。後者は民衆の発展は勿論知識人の変革をもたらすのでないかと各方面の注目と期待を浴びたが、参加した知識人の現実にとりくむ態度の不十分と、それにもとずく自己変革のたちおくれとともに他方では一般民衆の中から脱出して知識人側に変わりたいという人達がともすると中心になる傾向があって、私達の前から消えていった。
 「学園評論」や「文学の友」も大きく変わっていった。
 私達のささやかな難誌「風土」もこうした風潮の中で誕生した。労働者、農民、主婦、学生、知識人が日本人としてそれぞれにぶつかっている日常的な問題と自ら実践的理論的に取りくむ中で、お互を結びつけることを目標として…。

   今後に残されたもの

 このようにみてくると、しっかりと足が地についた国民のすばらしい動きが、非常に広範に展開されているように見える。たしかにそうした動きは事実だし、それが逞しく成長し、発展し、普及していることも事実である。だからこの動きを決して過小評価するのではないが、一度私達が私達の職場や部落の実態にめをむけると、そこには様々な問題がからまりあい、原因となりあっている有様が私達の心を打たずにはおかない。
 「風土」における「話合い」の特集は、多くの人達がそれを認めながら、その反面、話合の成立しない人達の間ではどうするかの点は殆んど究明されなかった。この点こそもっとも大事であると言う人達がとっても多かったように、このような動きが国民全体のものとして展開するためにはまだまだ私達が解決しなくてはならないものが数多くある。しかも、このような動きの中にも、まだまだ解決されきってないものが多くある。とくに考え方の観念性や抽象性は容易に解決できるものでもなく、また新しい形の観念性や抽象性とすりかえられるおそれもある。
 ことに私達の意識の底にしみこんでいる権威主義や奴隷性からの脱皮はなお更むつかしいし、日常の生活の中でぶつかっている自分の問題を具体的にどう解決したらよいかを明瞭につかむことはとってもむつかしい。しかもそれが原則論に支えられているためには…。
 例えば多くのサークルがぶつかっている問題に、現実の社会の中で、それぞれのサークル員が生活している現実を、歴史の流れにそうて変革していく主体としての、新しい具体的な人間像を明確化することは大変だし、それが明かにならない限りサークル活動の中で自分を変革することはできないという問題がある。どの一つをとりあげてみても大変な問題である。
 このむつかしさの前に、私達のぶつかっている問題を指摘するにとどまって、それに対する結論を出せないことを(厳密には結論はおろか問題のとらえ方もまだまだ十分ではない)強く批判というよりも否定することによって私達国民が初めて自らの力で、自分の問題とじっくりと取りくむようになった態度を中途半端で終わらせようとする意企すら最近のジャーナリズムに感じられる。
 結論! 誰もそれを望んでいる。しかし誰がその結論を出せるのであろうか。結論のないことを非難し、自らは結論を出していると思っている知識人達の結論は果して具体的な問題と取りくんでいる人達に、実際に手をつけてやれる具体的方法を示しているのであろうか。勿論このことは決して単独でがむしゃらにやることをいっているのでもなければ、こうした批判を下している知識人達との交流の重要性を認めないのでもない。自分については勿論相手の実情も考えない無理な意見について考えてもみないし、何よりもこうした意見の前に、せっかく新しく出発した人達が自分達の執ような努力をやめて、再び他人のあやしげな結論にひきずられ、それによりかかってゆくようになることを恐れる。
 私達はこの歩みがどんなにむつかしくとも、私達が本当に自らの支配者となって、自分達の幸福で平和な生活を行使できるところまでゆかなくてはならない。
 もしも、平和で幸福な生活を欲するなら。
 もしも、奴隷の境涯に甘んじられないなら。

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     16号〜「三年目を迎えて=分室について=」

「新しい風土」も今年で第三年目を迎えました。本誌の第一の特色である編集分室も、はじめは、その担当者ですら、なかなかその意義がつかめず、その具体的活動では、なおさらはっきりとしたものが出せないでいました。こうした中での、お互いの模索と研究の中で少しずつ解明され、実際の活動に移りつつあるのが現在の状態です。
 このようなわけですから、第三者から非常にまとはずれの批評も受けてきましたし、現在でも未だ、編集分室の役割がよくわからないという声を耳にします。分室の意義と役割は、新しい風土そのもののなりたちとも深く結びついています。新しい風土の目ざしているところを達成させるために、分室は重大な役割をもっています。そこで、今ここに、改めて分室とは、どんな目的をもってつくられたものか、どんな仕事をするためのものかということについて説明しておきたいと思います。
 改めて云うまでもないことですが、新しい風土は、現実の生活の中から問題を拾い上げ、研究していく中で、私達庶民大衆がその生き方を追求し、実践していくための手がかりをつかみお互いを連絡し、結びつける役割をになっている雑誌です。
 ところが、具体的な生活は、一人一人、めいめいでちがいます。町や村によってもちがいます。北の村と南の都市でも雪国でも、みんなちがっています。そのばらばらに、ちがってみえる各々の生活の中から、どうやって、みんなに共通する問題を拾い上げるかということは、大層むずかしいことです。けれども私達みんなが手をつなぐためには是非とも必要なことでした。従来の雑誌ですと、これは中心と云われている東京で、適当に推察して問題を提供し、解明してゆきます。上から、これこれだ、ときめつけていくわけです。けれど、それが、私達みんなには、どうもピッタリしませんでした。本当に自分達のにおいのする生活の中にひそんでいる問題、そしてみんなに共通な問題を拾い上げていくためには、中央にじっとしているだけではだめです。編集分室というのは、それぞれの土地にあって、一番重要な問題をとりあげ、それを検討し、全国的な問題としておしひろげ、研究、解明するための機関なのです。あくまでも編集分室なのです。いろいろな便宜の上から、東京に編集室が置かれていますが、この編集室の主な仕事は、まとめ役なのです。各分室が、どれだけ、その土地の問題に深く頭をつっこみ、どれだけ具体的な、生きた問題をとりあげるかということが、どれだけ新しい風土を生きた、具体的な問題の出ている、私達に身近な雑誌にするかということなのです。勿論その書き手は、各分室に所属し、又はその問題に関心を持っている、その土地の人でなければならない筈です。そのような仕事をくりかえし、又その得た所を自らの行動の上に反映させていくことによって、各分室に、各地に、新しい書き手が育っていく事も期待されることの一つです。 分室は、ただその仕事だけをするわけではありません。その地方、その地方の仲間達の相談相手、連絡、話しあいの場としても、実践活動の一ブロックとしても有効でしょう。また、各分室との横の連絡のためにも、大きな役割をになうことと思います。新しい風土の目ざす仕事のすべては、完全な分室活動の発展によって達成されるといってもよいほどです。
 今年こそは、新しい風土の本来の形での発展のために是非とも分室の拡充と強化に、全力あげてとりくみたいと思っています。
 そして今年五月には、大阪で、初めて関西地方の分室会譲を招集し、八月には東京で全国の分室会議を、十一月には、山口で中国地方の分室会議を、それぞれ招集する計画をたて、既にそれにむかって行動をおこしています。この三つの会議では、分室の在り方が原則的に追求されるだけでなく、各地区のそれぞれの条件の中で、分室がいかにあるべきか、いかにあり得るかが追求されるでしょう。そして、これに参加している人々の力がより効果的に発揮されるよう結集され、前進することでしょう。さらに新しい人達にどう参加してもらうかについての適切な方法をも、つかむことができると期待しています。

                     「新しい風土」目次 

 

     17号〜「新しい風土を育てる会」発足

「新しい風土」を毎月きちんと出してほしい、この運動を立ち消えにせぬよう、何とか続けて下さい、というようなお便りが、全国のお友達から毎日のように編集室に届きます。それらのお便りを見る度に胸を刺されるように苦しいのです。けれども、経済的な悪条件の中から、生れ、育ってきた新しい風土は、なかなか皆さまの御希望に応えることができずに今日まで来ました。
 本当に一生けんめいにやっているのに、だからこそ、よけいに苦しいだろうに、何とかしなくては、何とかして本来の目的に沿って育てていかなくてはならないのではないか、という多くの方々の御志が生かされて、「新しい風土」を中心とする動きを守り、育てていくための「新しい風土を育てる会」が生れました。…
  「新しい風土を育てる会」の趣旨
 すべての大衆が、それぞれ思想を持つこと、思想を大衆のものとすること、同時に大衆との結びつきの中で知識人の自己改造を目指すこと、いいかえれば、日本人すべての中に根強くはぴこっている事大主義、権威主義、又は事物に対する観念的な見方、つかみ方をとりはらうことを目指して、雑誌「新しい風土」が創刊されたのは一昨年夏のことでした。
 この「新しい風土」を中心とした動きは日本人のみんなが、本当に生きがいのある生活を送るためには、私自身どうしたらよいか、何ができるかということへの手がかりを得るに必要なものであり、適切なものでもあります。ことに、全国各地の編集分室を中心に、その地方特有の問題ととりくみ、これを整理し、みんなのものとしての誌面を構成していくなかで、自分達や、その住む社会をつくりかえていこうとするやり方は、従来の中央から地方へ、既製のものを流していた方法や単なる雑誌づくりの態度を打ち破った、画期的な編集システムであります。
 しかし、高いものを目指すだけ、新し試みをはじめればはじめるだけ、それを達成することは困難であり、多くの人々に理解されることも、すこぶる難しいことのようです。
 発刊以来二年になろうとしながら、経済的な確立も得られず、月刊を維持することも危ぶまれている現状です。すぐれて良心的なもの、というよりは、大衆の真の欲求に応えるものは必ず育つ、今の日本人の段階をのりこえるためにはどうしても必要だという信念に支えられながらも、僅かの人のポケットマネーのみではじめたこの仕事を育てるためには、まだいくばくかの注ぎ水が必要のようです。
 私達は「新しい風土」の目指すものに対して賛意を示すとともに、何とかして「新しい風土」を中心とした動きを、もっと立派に育てあげるために、僅かながらの力ぞえをしたいと思います。心ある多くの方々の御賛同を得て、この仕事を達成させたいと思います。
   一九五六年三月

   

                           「新しい風土」目次

 

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