「現代学生運動論 大学とは何か

 

     <目次>

現代における学生運動の意味

学生運動の歴史
 
幕末の学生運動
 
明治大正昭和初期の学生運動
 
十五年戦争下の学生運動
 
戦後の学生運動

学問論の歴史
 
福沢諭吉の学問論
 
小野梓の学問論
 
河合栄次郎の教授と学生論
 
三木清の知識人と政治論
 
矢内原忠雄の大学改革論

学生運動の現実と理想
 
学生をとりまく現代の状況
 
新しい大学像
 
今日の学生運動
 
これからの学生運動

 

 

                 < 目 次 > 

 

 

 現代における学生運動の意味

 学生運動について考えようとすれば、私達は、まず、学問の目的と意味を問うことから始めなくてはならないと思う。それは、学生運動を、単に、学生という身分にある者がおしすすめる運動というより、学問に導かれた学生の運動でなくてならないと考えるからである。それというのも、今日、150万の学生がいながら、自分にとって学問とは何か、学生運動とは何かと、自分自身でトコトン問いつめ、明かにしようとはせず、学生という身分をせいぜい、消極的に享受するに終わっている者が多いと思われるからである。
 現代が学生運動の季節といわれながらも、依然として、運動を少数の学生の手にゆだねることになっているのは、そのためである。それがまた、民青系の学生に見られるように、日共理論の実践に終わったり、あるいは反代々木系の学生運動のように、大学の危機と学問の腐敗を鋭く大学当局と教授たちにつきつけながら、有効に、学問変革のための斗争をおしすすめることができないままに、ゲバルト活動の一面を強める結果を生んでいる。
 これは、学生運動に猛進する学生も、学生運動に全く無関心な学生も、ともにまだ、現代における学問と学生運動の意味を十二分に問いつめていないことを物語っている。更には、大学当局と教授たちが、これまで、学生運動について、学生と一緒に考えようとしなかったことを示している。教授の学問の中に、学生運動の意味と方向づけを明かにする姿勢が、殆んどなかったからである。それが、今日、大学紛争の解決を、きわめて困難にしている理由の一つである。
 では、学問の目的と意味はどこにあり、その学問に導かれた学生運動とは、一体、どういうものなのであろうか。

 学問といえば、普通、人文科学、社会科学、自然科学のことを思いおこすが、中には、更に細分化された専門科学としての哲学、文学、政治学、経済学、物理学、工学等を思いおこす人もいるかもしれない。しかし、いずれにせよ、私達がそれらの学問をやっていくのは、人間と社会と自然にかこまれた存在としての、私達の生を豊かですばらしいものにするためである。いいかえれば、人文科学によって、人間を研究し、社会科学と自然科学によって、社会と自然の研究をすることを通して、人間、社会、自然を最大限に活用するためである。学問という名で、人文科学、社会科学、自然科学を総合するのは、学問が、人間、社会、自然のトータルとしての世界を認識し、分析するものでなければならないし、その時、始めて、学問は生きた人間に役立つものとなるということでもある。
 その意味で、学問は、人間一人一人に必要なもの、役だたなくてならないものである。
 このように学問を考えると、人間の歴史は、学問をし、学問の恩恵を直接うける人間の数を徐々にふやしていく戦いのあとであったといってもいい。
 そして、その戦いを最も端的にあらわした一つの例が、明治維新である。それこそ、明治維新は、それまで学問とは無縁にあった人々が、学問をすることによって、始めて、人間の価値に目覚め、自らが政治的、社会的存在であることを発見した結果、実現したものである。彼等は、学問を通して、自分の中と外に、自らの価値を否定し抑圧するものを見出した。いうまでもなく、それは、自分の中にある奴隷根性であり、事なかれ主義の弱い心であった。更には、自分に重くのしかかる幕藩体制であり、士、農、工、商の身分制度であった。
 彼等は、学問をすることによって、自分と時代の実態を知っただけでなく、幕藩体制を変革する智慧と勇気を自らのものにしたのである。学問が彼等を変え、幕藩体制を変革したといってもいい。しかも、その過程で、彼等の生が充実し、燃焼したのである。
 これは、主として、人文科学、社会科学の効用について述べたものであるが、自然科学によって、自然の法則を究明し、人間のために、自然を活用する場合も同じである。人間は、自然科学によって、徐々に、自然からの圧力を排除し、自然の恵みを最高度に活用してきたのである。
 学問とは、要するに、学問をしようとする人々の要求に答えるものである。しかも、前進し、発展しようとする人間は常に増えつづけているから、学問もまた、それにつれて、発展しなくてならない。学問を求める人々の要求に答えなくてはならない。それは、同時に、学問が学問を求める人々を増やしていく課題をもっているということでもある。
 もしも、学問が、学問をしようとする人々を増やすということもなく、特定の人たちの独占に満足しているとしたら、また、学問をする人たちの生の充実と発展に積極的にとりくまないとしたら、その学問は、間違っているといってもよかろう。
 だからこそ、矢内原忠雄は、「学問は、人間と社会を指導する世界観でなくてならず、世界観を志向しない学問は虚偽の学問である」といい、更に、「学問には、戦斗性、行動性が不可欠で、人々を行動においやらない学問は誤謬の学問である」という意味のことを断言したのである。
 例えば、江戸時代に通用した学問の多くは、人間と社会を指導し、人々を進歩と発展にもっていこうとするものではなかった。即ち、当時の学問は、一部の者に独占されたまま、人間一人一人を目覚めさせるものでなかったし、その時代を批判して、新しい社会のヴィジョンを与えるものではなかった。せいぜい、学問をしている人々に、書物を正確に読み、理解する能力を与えるものでしかなかった。知識の量を競いあうという学問であった。
 それに対して、幕末におこった学問は、人々に、人間の価値を教え、その価値を抑圧している幕藩体制を批判する能力を与えた。その生を充実させ、発展させるような学問であった。それも、これまで学問に無縁であった人々に、そのような学問をさせたのである。
 前者は、矢内原の学問観に相反する学問であり、後者は、それに通ずる学問であった。しかし、学問とは、すべて矢内原のいった学問でなくてならないし、幕末におこった学問でなくてはならないといえるのではあるまいか。

 だが、今日、150万もの学生がいながら、幕末におこり、矢内原のいった学問を求め、学んでいるものは、誠に僅かであると思われる。殆んどの学生は、学問とは何かを根本的に問うことすら忘れてしまい、教授の与える学問を理解し、記憶することに一生懸命になっている。その姿勢からは、到底、人間と社会を真に指導するような学問は生まれない。
 大学の学問は何時頃からそのようになったのだろうか。それは、明治十三年の「集会条令」にまでさかのぼる。当時の学問は、幕末からの影響を受けて、人々に自覚を与え、時代の課題を究明するものであった。だから、教授も学生も一緒になって、その課題にとりくんだ。さらに、学問を求める人々を一人一人、庶民大衆の中に発掘することに主眼をおいた。
 その姿勢が、自然に、自由民権運動に結びつくことになったのも不思議ではない。しかし、明治政府は、自由民権運動のたかまりを抑えるために、学生が政治集会に出席したり、政治演説することを、「集会条令」で禁止したのみか、その禁を破った学生を退学にするように大学当局に求めたのである。
 その結果、教授と学生の多くは、徐々に、人間の価値を教える学問、現代の課題にとりくむ学問から遠ざかりはじめた。生きた人間の要求と疑問に直接答えようとする学問をやめて、知識のための学問、研究だけを重んずる学問に変わっていったのである。あたかも、生きた人間の課題以外のところに学問があるかのように、学問を変えていったのである。矢内原のいう、「戦斗性、行動性のない学問」「虚偽の学問」をやりはじめたのである。
 勿論、学問に、疑問と批判がなければ、学問は進歩しないと知る学者たちは、その疑問と批判を生きた人間と社会に向けないで、自分のすすめる研究の枠内にとどめるようになった。研究はどんどん進むが、現実の人間と社会は、逆に、ますます取り残されるようになったのもそのためである。
 しかし、明治十三年以後の学問がそうなったというのは、必ずしも、「集会条令」だけが理由ではない。そこには、明治以後、西洋の学問を輸入するのに熱中するあまり、横文字を縦文字に変え、それらを並べたてることで足れりとした多くの学者がおり、そして、それが学問として通用し、学者として、尊敬されたということとも無関係ではない。横文字を単に純文字に変えるところの学問は、せいぜい、その知識を正確に理解し、できるだけ多くの知識を記憶するということを目的にするようになっても不思議ではない。学問の目的が見失なわれてきたとしても当然である。しかも、それが、大学の学問の大勢を占めただけでなく、明治以後、今日まで続いた学問でもあったのである。
 そのために、教授たちの殆んどは、十五年戦争下に、国民の生活と平和をまもるために、真に、有効で、強力な意見を展開することができなかったし、学生を死地に積極的に送りだすことにもなったのである。人間のために役立ち、人間を生かさなければならない学問が、逆に、人々を暗い生活に追いこみ、はては、人々を殺したのである。
 この時、既に、教授たちの学問は破産し、学問の名にたえる学問は殆んどなかったといっていい。しかも、戦後、教授の多くは、その事実を徹底的に直視するということもなく、依然として、外国の民主主義、共産主義、実存主義などの翻訳と祖述にやっきとなり、それらの創造と発展にとりくむということは、あまりしなかった。今日、それらが空洞化したとしても無理はない。その責任の大半は、教授たちが負わねばならないものである。
 戦後の学生運動が、長い間、混乱し、低迷をつづけたのも不思議ではないが、それでいて、今日の学生運動は、大きな曙光の前にたっている。それは、明治十三年以後の学生運動が一貫して学外の政治運動であり、しかも、学外の政治勢力にリードされた実践運動にすぎなかったのに対して、今日の学生運動は、徐々にではあるが、自分にとって学問とは何か、現代における学問の意味とは何かと問い始めているからである。それは、学生運動が、学問によって、それも新しい性格と内容をもった学問によって導かれはじめたということを意味している。
 これまで、学生たちの多くは、その学問を現代に生きる人間として、そこに生じた疑問と要求を解決するという立場から始めなかった。大学も、彼等に、すぐれた理解力、記憶力を求めても、現実にとりくむ姿勢や現代に生きる苦悩は全く問題としなかった。学生もそれを重要視しなかった。学問とは、むしろ、人間の生と生活とは無関係に成立するものだと考えた。
 そういう状態の中から生まれた教授の学問が、生きた人間や現実の社会から遠ざかったのも当然である。もっと悪いことには、実際の学問が極端に細分化し、専門化する傾向を強めたことである。そのため、総体としての人間、社会、自然を統一的に把握することができなくなり、ますます、学問本来の意味と目的を見失なわせることになった。
 今日の学生たちが、現代とは如何なる時代であり、その中で自分は如何に生くべきかという質問を教授たちに投げかけても、彼等の多くが沈黙する以外にない状態である。それは、教授たちの学問が、自分の生を出発点として、その生を肥えふとらせるための学問ではなかったということである。
 しかし、今、学生たちは、学問とは自分にとって何なのか、学問とはどうあるべきかと問い始めている。自分の生を前提にして、学問を創造しなくてならないと考え始めている。今の大学制度の中で、そういう学問が創造されうるのかと問い始めている。それはそのまま、生きた人間から遊離している人文科学、社会科学、人間に役だっているようにみえて、その実、人間を支配し、隷属化しようとしている自然科学を人間のための学問にすることを意味する。人間一人一人に必要な学問を、人間一人一人に有効な学問を、今こそ、すべての人間の手にとどくように再建するということが、今日、学生たちが教授たちに、学問と大学の危機の名においてつきつけている問題意識である。その問題意識は、かつてなかった程に鋭く、また、高い理想に向かっている。それ故に、また、問題意識のままに終わる可能性をも持っている。それは、学生たちが、単に熱望し、夢みたからといって、容易に実現するものでは決してないからである。
 にもかかわらず、学生たちは、ゲバ棒を用いて、既成の学問と大学の破壊に情熱を燃やし、教授に安直な自己批判を求めている。たしかに、ゲバ棒は、大学の建物をこわし、自己批判は教授に心理的ショックを与えるであろう。しかし、そういう方法で、教授の学問を破壊できると考えたとしたら甘すぎる。また、教授の思想の変革ができると思っているとすれば、思想というものを全く理解していない。
 ゲバ棒を用い、自己批判を求めている学生の姿勢をみていると、彼等がどこまで、学問と大学の危機を感じとっているのか、思想的に受けとめているのか疑問を持たずにはいられない。学問の破壊、学問の創造ということを、もっともっとつきつめて考えてみる必要がある。
 勿論、彼等が新しい学問の創造という課題の前に焦躁する気持もよくわかる。自分たちの提出する問題を正当に受けとめることの出来ない数多くの教授を見て、怒号したくなる気持も理解できる。理解しあえる筈の仲間である学生が全くの無理解をしめせば、ゲバ棒も用いたくなろう。
 しかし、幕末の思想状況、政治状況とは、今日は違う。まがりなりにも、民主主義の時代であり、言論の自由の時代である。自分たちの主張をゲバ棒で代行させることは、幕末にかえることであり、学問そのものを否定することである。既成の学問に絶望したからこそ、新しい学問の創造を提起している筈である。そういう学問の創造に、力強くとりくむかわりに、ゲバ棒を用いるなら、自ら否定した人々と同じ怠慢をくりかえしているだけである。
 学問の危機を絶叫する学生は、自ら、学問の再建にとりくむ以外にない。それがどんなに困難な作業であっても、それをやっていく以外にない。それが、今日の学問に、教授に絶望した学生の行くべき唯一の道である。
 その意味で、今日の学生運動は、まず第一に、できるだけ多くの学生が、現代の学問に絶望し、新しい学問を創造していこうとする覚悟と姿勢を持つことが必要である。現代社会の混乱と腐敗が、それを導き、解決する学問のないところから生じたことを、学生一人一人が確認して、新しい学問を創造する以外に、その解決のないことを、鋭く感じとるように努力することである。
 第二は、長期的な展望にたって、行動を長期間にわたって指導しうるような思想を学生一人一人がつくりだすことである。学生時代の四年間の行動よりも、卒業後の行動、それも何十年間の行動がずっと比重が重いということを知ることである。そのための学習運動を、一人でも多くの学生をまきこんで展開することである。学生一人一人にとって、学生運動は不可欠であり、必然的なものであることを教える、新しい政治学、社会学、歴史学などをつくる動きをおこすことである。そういう動きは、そのまま、教授たちの学問を変えていく活動とも結びつく。
 第三は、学生たち一人一人が労働者の子であり、農民、商人、サラリーマン、医者、資本家の子であることを確認し、自らの中に、労働者、農民、商人……を発見する学習をおこすことによって、自分自身を歴史的具体的な個として確立していくようにつとめるべきである。それがそのまま、労働者、農民、商人……の中に、新しい学問を求める人々の輪をひろげることであり、新しい学問をめぐって、真の連帯が生まれる時でもある。
 すべての人間に理解でき、役立つような学問をどうして創造していくかということが、学生運動の成否をにぎっている。そして、それに成功した時こそ、今日ゆきづまっているあらゆる運動が生き生きと展開する。

 

 

                    <現代学生運動論 目次> 

 

 学生運動の歴史

 

 幕末の学生(塾生)運動

 一般に、日本の学生運動がいつ頃始まったかという場合、自由民権運動のたかまりの中で、明治十二年に慶応義塾でおこったストライキを考える者、あるいは、大正デモクラシーが盛りあがったとき、その一翼をになっておこったという者というように、必ずしも一定しないが、私は、どうしても、幕末にまでさかのぼって、それを考えないではいられない。というのは、幕末の学生(塾生)運動は、封建日本から、近代日本をつくりだした原動力であったし、不完全ながらも、明治維新という革命を日本人自身の思想と力で、招来した運動であったと思われるからである。しかも、その明治維新から、現代は僅か百年しか経ていないばかりでなく、明治維新という未完の革命の路線上に、今日の学生運動はあると考えられるからである。にもかかわらず、今日の学生運動は、幕末の学生運動の遺産を学ぼうとはしないし、それを継承し、発展させようともしない。そして、学ぶべきものは、ヨーロッパの学生運動であるという明治以来の誤りを今日も相変らず続けている。ここに、明治から今日にいたるまでの学生運動の不毛の一つの理由がある。誤解を恐れずにいえば、私は、学生運動の原型は幕末のそれにあるといいたいのである。それがまた、歴史の中で歴史を生きる現代人の歴史を学ぶ姿勢でもある。
 勿論、幕末の学校は、近代的な意味での学校ではないが、その質において、やはり、学校であり、学生であったのである。

 御承知のように、幕末という時代は、封建制度の矛盾をその内部にかかえて、苦悶していた時代であった。だから、その矛盾を全身に感じ、うけとめていた者は皆、それを解明し、新しい時代がどんな内容をもつか、どうして、それは実現できるかという疑問の前にたたされていた。その意味では、人々が学問を必要としていた時代であった。学問に、その解決を求めた時代であった。といっても、その学問は既成の学問でなく、その時代の矛盾を最も鋭くうけとめた者がつくりだす以外になかったものである。手さぐりの中で、創造していく以外になかったものである。
 この場合、中心になったのは、その課題に真正面からむきあい、それを全存在で考えぬくことの出来た若い人達、多感な学生たちであった。彼等は、自ら発見し、創造した思想の実現のために、その生命をそそぎこんだのである。明治維新が実現したのもそのためである。
 歴史がしめすように、時代をつき動かし、時代を変えていくのは、常に、若い人達の批判的知性であり、強烈な行動力であるが、そのことを最も如実にしめしたのが、幕末の学生運動だったのである。だからこそ、今日の学生運動を考える場合、それをぬきにしては考えられないのである。
 なかでも、吉田松陰の主宰した松下村塾、そこに学んだ塾生達の思想と行動は、幕末の学生運動の中心を占めたばかりでなく、今日の学生運動に、数多くのことを語りかけていると思われる。まず、そのことをあきらかにしていくことで、幕末の学生運動を明かにしてみたい。

 松下村塾という、この私塾は、その名が知られているほどには、それがどうして生まれ、松陰がどういう人間像を求めて造ったかということが知られていない。村塾は、一言でいえば、革命思想家松陰が革命思想家をつくろうとして建設したものである。それ以外のどんな意味も目的も、村塾にはなかった。勿論、ここでいう革命思想とは、単に、時代と社会を変革するということでなく、むしろ、それに先行して、自分自身を変革できる思想と、それに導かれて生まれる時代変革の思想である。そして、歴史の変革は、常に、こういう思想をつくりだした者によってつくりだされるのである。
 松陰は、それを最も深く知りぬいていた者として、彼と一緒に革命思想を模索し、それによって行動する塾生を育てようとしたのである。そして、そのためには、松下村塾をつくるしかないという判断があった。それというのも、当時の藩校や私塾の多くは、すべて、幕藩体制の中にはめこまれて、それを維持し、強化する人間をつくろうとしていたからである。人間は誰でも武士と同じ価値があると教えるばかりか、その価値を抑圧している幕藩体制についての批判を教えようとすれば、別に塾をつくる以外になかった。
 加えて、松陰は、当時の藩校や私塾の学風が、一方的に、教える者と教えられる者との関係によって成立していることに、強い疑惑をいだいた。彼の考えた教師とは、その時代の課題の前に、時には学生以上に迷い、苦しむ者でなければならなかった。いいかえれば、学生と同じように、何一つわかっていない人間であるということを自覚する者であり、その故に、激しく悩む者でなければならなかった。学生に教えうることよりも、教えられないことの方が沢山あることを知る者でなければならなかった。
 人間の疑問と要求、それも、すべての人間の疑問と要求にこたえようとする学者であれば、それは当然のことであるが、松陰は、文字どおり、そういう学者であり、教師であった。
 だから、松陰にとって、学生とは、教える対象でなく、むしろ、一緒に現代の課題を究明する仲間であり、同志であった。松下村塾は、教師と学生が一緒になって、新しい学問を創造し、その学問で自らをきたえるための相互切磋の場として誕生したという方があたっているかもしれない。
 しかも、松陰が、村塾を始めたときは、数え年二十六歳にすぎなかった。
 こうして生まれた村塾であったから、松陰自身、その時代の課題を究明しなくてならない者であったし、そこに、集まってきた青年たちも、松陰と同じように、その時代の課題を究明し一ていく者であった。教師と塾生が一体になって、その究明に没入したのもむりはない。しかも、師である松陰が既に国法を犯した罪人として禁足処分を受けており、幕藩体制の中で立身出世するという可能性が全くなくなっていた者であったから、自然、当時としては、自分の心を思う存分に伸して生きることの出来ない医者、町人、百姓、下級武士の子弟が集まった。その意味では、本当に学問の好きな青年たちが集まった。なかには、上級武士の子弟もいたが、彼等は多かれ少なかれ、幕藩体制に満足できないもの、その中での教育にあきたらないものを感じはじめていた。いうなれば、その時代からはみ出た者たちであり、はみ出て生きる勇気と覚悟のない者には、村塾の塾生となることはできなかった。
 だからこそ、入塾にあたって、松陰が入塾希望者に質問したことは、何のために学問をするかということであり、その目的のためには、どんな困難ものりきっていくという覚悟があるかどうかということであった。彼には、入塾希望者の学力、とくに、その読解力とか理解力、記憶力などは問題ではなく、塾生の条件は、学問への姿勢と意志が十分にあるかどうかに尽きていた。それは、松陰が、本当の学問とは、人間一人一人に、人間としての価値にめざめさせると同時に、その価値を否定するような社会を批判し、それに変革をもたらすようなものでなくてならないと考え、それを究明し、教えない学問は、学問の名に価する学問とは思っていなかったためである。彼にとって、学問とは、自分と社会に変革をもたらし、時々刻々に前進し、発展するものでなければならなかった。ということは、学問を志す者には、理解力や記憶力よりも、意志力や行動力が重要であり、なくてならないものだと考えていたということでもある。彼にとって、自己と社会を変革させ、発展させるものだけが学問の名に値したし、それをなし得ない、単なる、ものしりを憎悪した。しかも、そういう、ものしりがあまりにも多いというのが彼の意見でもあった。
 松陰は、塾生に、そういう学者になることを厳しく警めたし、また、そうならないために、学問をする目的をたしかめ、学問をする覚悟の有無を問いかけたのである。もしも、学問をする姿勢や意志が不十分とみた塾生があると、まず、それを是正し、強めることに最も留意するのが彼の教育であった。だから、村塾生の学問への熱気は異常なものであった。
 ことに、当時は、幕藩体制の崩解を口にしただけで、何の裁判もなく、獄門台に上る時代である。その中で、幕府の権力者も自分たちも、人間としての価値は同じであるということ、その意味で、今の体制はおかしいということを知る学問とは、そのまま、生命をかけた学問であった。生死をかけることを求められる学問であった。
 松陰とその塾生は、そのことを熟知していた。熟知していたが故に、彼等の学問への情熱は燃えるように激しいものであり、真剣そのものにならざるを得なかったのである。それが、村塾の教育を、他の塾教育と違ったものにした理由でもあった。
 しかし、松陰は、そればかりでなく、塾生の教育の根幹に、感覚と欲望の教育をおいたのである。ということは、塾生の感覚をとぎすまし、鋭くすることに、教育の目的のすべてをみ、どういう欲望をいだくかということに、知識の課題をみた。彼は、知識が単なるものしりに終らないためには、その知識が感覚と欲望に支えられ、貫かれる必要があると考え、塾生人一人の感覚が、幕藩体制を憎み、怒り、人間の価値を否定する人々とは同居できないというようになることを求めたのである。更に、塾生一人一人のいくつもある欲望の中で、新しい時代を求める欲望が最も強烈なものになることを求めたのである。塾生の感覚をみがき、欲望の方向づけをやるのが、学問の第一課題であると考えたのが松陰である。
 このように、松陰が、感覚と欲望と知識の関係で教育を考えたということは、単に、知識の増加、深化を教育の目的としないで、人間革命を、新しい人間の誕生を教育の課題としてみたということである。たしかに、革命的な思想を知識として知ることによって、革命家を装うことはできる。しかし、それは、松陰の考え、志向した革命家ではない。革命家とは、なによりもまず、自身の内部に革命をおこしたものであり、それは、その感覚と欲望に革命をおこした者のことである。こういう革命家には、前進と発展はあっても、決して、転向や裏切り、更には、停滞がない。
 松陰は、そういう革命家によってのみ、人間と社会は革命が可能であると考えた。
 だからといって、松陰が理論を軽視したということではない。先述したように、まかりまちがえば、殺されてしまう時代である。自分と時代の変革を願う者にとって、理論の未熟さからくる戦略戦術の失敗は、自分のみでなく、多くの仲間の死を意味していた。彼がつねに、塾生にむかって、時代と自分を変革しうる、すぐれた理論をもつために、どんなに学習しても、学習しすぎるということはないと厳しく言いつづけたのも、そのためである。
 松陰は、すぐれた理論を求めて、必死に研究した。そのために、現実の世界とそこに生きる人間たちを観察し、理解しようとした。それが、到底、自分一人の力でなし得ないことを知ったとき、塾生と一緒にやろうとした。すぐれた理論をつくるためには、どうしても、多くの人がなした正確な観察が基礎にならなければならないということを知っていた数少い一人であった。彼が、教師と弟子は、ともに学びあわなくてならないと強調し、ともに、学びあう姿勢のない教師は教師の資格がないといいきったのも、その体験からきたものである。それは、時代と自己の課題に、全存在でとりくんだ者のみが吐ける言葉でもある。
 こうして、教師と塾生が頼互にきたえあうことによって、厳しい要求を相互になげあうことによって、松陰を中心とした全塾生の中には、徐々に、しかも、強力に、自己の革命が進行し、時代を変革するエネルギーと智慧が旺溢していったのである。しかし、それは、決して、短時間に、容易にできることではなかった。

 安政五年(1858)、幕府は、日米通商条約に調印した。いうまでもなく、これは、米国がその武力を背景に、日本におしつけた不平等条約である。しかも、この条約を批難し、攻撃する人たちを、幕府は次々に逮捕しはじめた。松陰は蹶起して、弾圧の中心にいた老中の一人間部詮勝を暗殺する計画をたてた。既に書いたように、彼は、禁足の処分をうけていたが、もう、そんなことを守っていられないという気持である。彼は全塾生にたちあがるように要望した。しかし、その時、半数以上の塾生は、松陰の計画を暴発であるといって、自重を求めた。時機にあった行動ではないと忠告さえした。
 松陰は、「時をまつというが、徒らに、時をまっても、好機はこぬものである。今日の弾圧は、誰かが刺激しておこったものである。かくいう私もその一人である。僕がいなくては、千年まっても、このような弾圧はおこらなかったであろうし、僕がいれば、弾圧は必ず、また、おこる。……
 僕が攻撃をやめれば、敵の弾圧もゆるくなるが、再び、攻撃をかければ、敵の攻撃も激しくなってくる。敵味方の関係とはそういうものである」といいきり、賛成する塾生とともに行動をおこそうとした。おそらく、その時、彼は、自分の教育がまだまだ不徹底であり、塾生相互の切磋の足らないことを痛感したにちがいない。
 だが、松陰の計画を知った藩政府は、すぐさま彼を逮捕し、投獄してしまった。怒った塾生たちは、藩政府に、松陰投獄の理由をたずねるべく、その責任者をさがしまわった。わずか、十人足らずの塾生に、その夜の萩城下はふるえあがったのである。藩政府の責任者が、塾生の急追をのがれようと、逃げまわったことはいうまでもない。それほどに、彼等の怒りは激しかったのである。しかも、その彼等は、いずれも、今日でいうなら、中学生から高校生の年令であった。
 しかし、その塾生たちは、城下を騒がせ、政治的な発言と行動をしたという理由で、謹慎を命ぜられた。そのために、その子供の思想と行動を心配した親たちの中には、松陰との間をさこうとする者もでてきた。塾生たちの中に動揺がおこったのも無理はない。彼から去る者、彼と親との間にたって苦しむ者、いろいろである。先に書いたように、既に半数以上の塾生は、松陰の思想と行動との間に断層をつくっていたから、この時の村塾は、文字通り崩解の危機にさらされていたといっていい。しかも、それに追いうちをかけるように、幕府の弾圧の手は、いよいよ強まっていた。
 そういう情況の中で、獄中の松陰は、ひるむどころか、逆に、より激しい行動を次々に塾生たちに指示していった。しりごみする塾生に、更めて、たちあがらねばならないことを強調していった。あたかも、この情況の中にこそ、塾生を指導し、教育する最大の好機があると考えていたかのように。
 そのために、獄中の松陰と獄外の塾生とのやりとりは、火花が散るように激しく熱っぽいものとなった。勿論、松陰は、萩中から、かつてと同じことをくりかえし、強調したのではない。人間の弱さをとことん見せつけられた彼は、その弱さを克服するために、あくまで、自己と時代の変革につきすすむ人間となるために、三人一組となって、それぞれの短所をおぎないながら、その長所をより一層のばしていくような教育法を考えついて、実行に移した。三人一組による協力と団結から、すばらしい行動力を生みだそうとしたのである。
 そればかりか、これからの松陰は、塾生たちにむかって、生と死の意味について語りかけ、塾生たちが、深く考えることを求めたし、時代と自分の変革がどういうことであるか、それが自分とどうかかわりあうかを徹底的に問いつめてみる必要のあることも書きおくったのである。ことに、彼自身が、今迄とかく幕府や藩政府にとらわれて、自分の行動をがんじがらめにしていたということを発見したとき、その発見に感動して、塾生に報告した手紙は印象的である。
「藩も親も一度は捨てるぐらいの覚悟がなくては、何もできない。」
「頼むべきは、信ずべきは、唯一人の自分であって、自分以外の何者をもたのむことはできない。」
 塾生一人一人が、そういう自我を確立することを熱望したのである。そういう自我を確立したとき、始めて、時代の変革、時代の前進はできると考えたのである。だが、松陰は、それを説くだけでは不安であり、塾生を本当に信ずるというところまでいかなかった。
 塾生たちが、どんな圧力や困難をもはねのけて猛進するという確信はもてなかった。そこから、松陰の最後の決断が生まれる。彼自らが幕府権力と対決して、堂々と死んでみせるという実物教育を塾生たちにしてみようという決心である。それは、思想と実践の最も素朴であるが、また、最も重要な関係をしめすことでもあった。
 松陰は、それら一切を見事にやってのけた。あまりにも悲壮な教育であったが、それ故に、最も充実し、徹底した教育であった。師松陰を殺されてみて、塾生たちは、始めて、深く強く悟ったといっていい。松陰を抹殺した幕府権力の存在は絶対に許すことができないと誓ったのも、その時である。幕藩体制は、一人の松陰を殺すことによって、何十人の松陰をつくりだし、彼等を敵にまわすことになったのである。

 塾生たちは、その怒りと憎しみの一切をたたきつけて、学習を始めた。その学習が今迄以上の真剣味をおびたことはいうまでもない。ある塾生は、歴史を読みなおしていくことによって、それぞれの国の変革のあとを究明し、ある塾生は経済を学習することによって、国政変革の方法を追求していった。地理を学ぶことによって、日本をふくめたアジア諸国がヨーロッパやアメリカによって、侵略、もしくは、その危機にさらされていることを再確認していく者もいたし、宗教、哲学によって、人間とは如何なるもので、如何に生くべきかを考える者もいた。
 しかし、どの塾生にも共通していたことは、松陰の手紙すべてを書きうつして、それを輪読し、お互いの識見をみがき、その志を強めたことであった。その手紙をよむごとに、師の遺志を継承することを誓いあったばかりでなく、その復讐をも誓いあったことであろう。それが、塾生たちを支え、結びあわせていく核ともなった。
 こうした学習が、かつては、松陰のエピゴーネンにすぎなかった塾生の一人々々を完全に松陰から独立させることにもなったのである。一人一人、自立した塾生のまわりには、自然に、彼等の思想と行動にかかわろうとする多くの青年たちが集まり、その輪は、どんどん、ひろがっていった。勿論、その輪は、最初は、長州藩内にかぎられていたが、ついには、藩政府の中心人物長井雅楽のかかげる「航海遠略策」と鋭く対決できるほどの思想集団に発展していった。そして、長井批判を始めた一年後には、とうとう、彼を失脚させるところまで追いつめていった。その時の彼等は、せいぜい、十七、八歳から、二十二、三歳の若者にすぎなかったのであるが。 
 彼等は、その方法として、長井批判を始めるとともに、他方では、「一燈銭申し合わせ」という思想集団、行動集団をつくって、その力を背景に、連続的に、それも、忍耐強い批判をくりかえした。
 即ち、
「非常の変、不意の急があったとき、懐中無一文では、いろいろとさしつかえる。これからはますます、有志の者が入獄したり、飢渇に迫られる者がふえていく。その人達を助け、義士烈婦の顕彰にも力をつくしたいと思うが、同志中、ありあまる金をもっている者はいない。
 だから、毎月、写本をして、少しずつ貯金しておきたい。一年もたてば、塵もつもれば山となる道理で、きっと、他日の用にたつと考えられる。富貴、長者と違って、貧者の一燈だから、一燈銭と名づけよう。
 自分自身の力をつくして、努力したいと思う」という宣言の下に、青年たちを結集し、長井にくいさがったのである。彼等はいう。
「長井のいう、公武合体して開国するという航海遠略策は、好ましい意見のようにみえて、決して、そうではない。今、公武合体を主張することは、幕府をたすけ、天朝を抑えるための意見である。開国、航海にしても、いずれは、しなくてならないものであるが、今日只今は認めることはできない。とくに、ロシアが対島を占領して、自国の要塞にしているということは許せない。外国の凌辱をうけながら、その罪をたださないという状態では、とても、開国、航海などできるものではない。今、航海、航海と唱えるのは、唯幕府をたすけるだけのものである。」
 長井を批判し、攻撃することで、彼等の集団の結束が強化したことはいうまでもないが、長井を失脚させた後には、彼等の集団は、藩をこえて、日本的規模をもつものにまで発展していったのである。一人一人自立した村塾生の思想と行動は、何百、何千という青年を動かしはじめたということである。
 なお、ここで、指摘しておかねばならないことは、塾生たちが、学びながら行動し、行動しながら学んでいったということである。松陰は、くりかえし、「行動がゆきづまったときに、挫折をせまられたときに、もう一度、自分の思想を再検討し、再建をしなくてはならない。そうした後に得た思想のみが、真に、自分の行動を導けるし、時代の変革もできる。そういう思想だけが、自分自身の本当の思想である」と語っていたが、塾生たちは、その言葉を自らのものにしたということである。
 塾生たちは、失敗することを恐れなかった。しかし、深く学ぶことによって、同じ失敗を二度とくりかえさなかった。彼等の歩みと行動は、学問をすることを忘れなかったから、常に、前進し、発展しつづけた。

 塾生たちの行動が、全国的なひろがりをもつのは、外国公使館の襲撃からであった。それは、文久二年(1862)のことであったが、彼等は、それによって、日本の国論を一挙に攘夷にもってゆこうと考えたし、幕府や諸侯を窮地にたたせ、奮起せざるを得ないようになることを願った。御楯組をつくったのも、この時であった。
「今度、私達は外国人を誅戮し、首級をあげることで、攘夷の決心を固めるつもりであったが、世子定広侯が出馬して、私達だけでは心細いからということで取やめました。でも、十三日の決心だけは忘れないで、国家の御楯となる覚悟であります。
 同志、一旦連結の上は、進退出処はすべて謀り、個人の意見にしたがわない。同志で意見が違うときは、どこまでも論じあって、面従腹背はしない。
 秘密の事は、父母兄弟にもいわない。万一、召捕られて、ひどい拷問にあっても、決してその秘密を洩らさない。仲間の一人が恥辱を受けるときは、その残りの者の恥辱である。お互いに、死力をつくして、その仲間を助けて、組が不名誉になるようなことがあってはならない。
 途中で、離合集散し、志を変えないように、皆が力をあわさねばならない」というのが、御楯組の血盟書であるが、彼等は、この外国公使館襲撃によって、一挙に、藩から、直接、日本の運命にかかわるような行動に飛びだしていったのである。
 即ち、塾生の一人、久坂玄瑞は、その著「廻瀾条議」によって、長州の藩論をリードしたばかりでなく、幕府の政策に不満をもつ日本の志士の意見をリードするようになったのである。その時の彼は、数え年、わずか二十三歳。彼は、次のように主張した。
「今日の急務は、正邪の弁を明かにして、士風をおこし、それによって、通商条約を和親条約の線までひきもどすことである。勿論、西洋各国は、それを容易に承知すまいから、日本の存立にまで関係するほどの大事になろうが、国をあげて、断乎として取り組まねばならない」。
 それと同時に、彼は、全国の脱藩志士を攘夷と討幕の組織にくみこんでいこうとする運動を展開していった。
 これに対して、もう一人の塾生、高杉晋作は、討幕をなすためには、その拠点として、長州藩全体を討幕の方向にもっていくしかないと考え、その第一歩として、百姓、町人、武士を同列にした奇兵隊を組織した。当時、身分制を否定するような奇兵隊の組織は誠に大変なことであったが、彼は、それを二十五歳の若さでなしとげたばかりか、その翌年には、奇兵隊をひきいて、藩権力を手中にすることもやってのけたのである。
 勿論、玄瑞・晋作を助けて、その困難な仕事をやりとげたのは、塾生たちの力であり、行動力であった。明治維新は、松陰を中心とした塾生たちの力で実現したといってもいいすぎではなかろう。
 しかし、松陰を始め、村塾生の主だった者たちが、自分自身の革命を真剣に考え、時代の変革ということがどういうことであり、新しい時代はどういう内容をもたなくてならないかを深く究明していたのにひきかえ、後進の若い塾生たちは、切迫した情況の中にまきこまれ、自分たちの目指すものが、自己と時代の変革であるということを見失い、幕府を仆すという行動だけを重視するようになった。
 その結果、自分自身の革命を怠り、新しい時代のヴィジョンを追求することをさぼったばかりか、幕府を仆すことを、自分の立身出世とおきかえて考える者まで現われた。倒幕の過程で、玄瑞・晋作等中心人物を失ってしまった明治維新は、自然、その目的をぼやけたものにしてしまった。明治国家が国民の自由と権利を抑圧しにかかったのも、そのためであった。
 革命に参加する人たちの自己革命、とくに、革命を指導する人たちの意識革命が如何に重要であるかを、この事実は物語っている。

 

                    <現代学生運動論 目次> 

 

 明治・大正・昭和初期の学生運動

 明治の学生運動が、明治十年前後の自由民権運動の中で起ったといわれているのは、「集会条令」を起草した東京大学学長渡辺洪基の講演を慶応大学の学生が中止させたということによる。そして、大隈重信が早稲田大学を創立したのも、自由民権の思想に生きる大学生をつくるのが、その目的の一つであった。
 自由民権運動を抑圧しようとする明治政府が、当時の早稲田大学を謀叛人養成所として、教授と学生を監視し、圧迫を加えたのは、当然ともいえるが、そうなれば、学生たちは、いよいよ、政府と対抗して、自由民権運動をすすめることにもなった。その点、当時の学生運動は自由民権運動であった。
 御承知のように、自由民権運動とは、国民一人一人の自由と権利を拡大強化することを目的とした運動であり、それは、すぐれて、思想的な運動であった。だが、明治政府は、「集会条令」で、学生の人民に対する啓蒙活動を禁止し、更には、自由民権の研究会、演説会に出入りすることに反対した。これは、学生仇学問する自由を抑えたものであるといっていい。というのは、ここで、もう一度、書いておかねばならないのは、学問の第一の議題は、その時代に生きている人々の最も大きな関心は何であり、何でなければならないかを究明し、それを実現する方法を見究めることであり、明治十年前後の学問の課題は、自由民権の思想を明かにし、それを国民一人一人が学びとることにあったといっていいからである。
 その意味では、学生たちは、教授と一緒に、この「条令」廃止にたちあがる必要があったが、そういうことをしないばかりでなく、逆に、自由民権への関心をよわめ、それまで、毎夜のように行われていた研究会、討論会もだんだん少くなっていった。教授たちも、同志社大学の教授会のように、この禁を破った学生を処分するという有様で、学生たちを「条令」から積極的に守っていこうとする姿勢をあまり示さなかった。
 このことは、教授が率先して、学問から、学問本来の使命をうしなわせる片棒をかついだということであり、国民の課題を究明する以外のところに、学問研究があるという考え方をつくっていった最初の契機でもあった。
 極論すれば、学問の意味と目的を、そのはじめに、徹底的に考え、追求し、問うてみるということもなく、直に、研究の方法論、技術論に入り、その知識の正確さと量のみが学問の成果であるかの如く、そして、それが、学問の権威であるかの如く、人々を錯覚させるようになったのである。
 勿論、そういう中にあって、福沢諭吉・小野梓などのように、学問の独立や大学の独立を論ずるものもいるにはいたが、(くわしくは、次章で述べる)その声は、とても、教授や学生たちに、学問とは何か、学問の独立とは何かということについて、つきつめて考えさせるというところにまではいかなかった。ごく、少数の教授、学生たちが、学問の独立のために戦う姿勢をとったが、それは、完全に、多くの教授、学生から孤立したものであった。だから、その運動が成功するわけもなかった。
 この頃から、大学での学習法も、幕末当時におこった自学自考の学習法、教授と学生の相互切磋による学習法がだんだんと姿を消し、教授が学生に対して、一方的に、教えるという立場を確立して講義をするようにかわり、学生も、その講義を一生懸命にノートし、その内容を記憶するという方向になっていった。ここには、明治国家が一応安定し、時代そのものに、それほどの大きな矛盾をもたなくなったと同時に、先述したように、学問が西洋の学問の紹介、翻訳という面を強くしたことにも原因がある。教授自身が直接、日本の課題に対決し、主体的自主的に、それを解明していくということを志さなくてもいいということであった。学生に教える内容が、別に、もう、ちゃんとしているということであった。
 そうなれば、学生と一緒に、教授が試行錯誤したり、討論したりする必要は殆んどなくなる。教授は、学生と同じように学ぶものであり、学ばなくてはならないという考えも失われていくことになる。こうして、大学からは、学生の学問といえども、教授の指導を導きとしながらも、結局は学生自身による自己教育しかないという厳しい教育観もなくなり、教授の講義によって教育されるものだというようになったのである。学問そのものが好きで、自分自身のために学問をするのでなく、試験のために学習するという怠惰な学生、学問そのものとは縁遠い学生が多数つくられていくことになったのである。それは、学生が教授に依存し、教授の学問に隷属するようになったことを意味するともいえる。大学と大学生が中学・高校に、中学生や高校生に転落したということであろう。
 ここには、本当の意味での学問の発展、学問の創造性ということは、殆んど期待できなくなるし、実際に、日本の学会からは、自然科学の分野をのぞいて、創造的な学問は殆んど生まれなかった。そして、自然科学の分野での創造も、政府をおびやかさない枠内におしとどめられたのである。人間ときりはなされたところでの自然科学の研究の範囲に終わったのである。
 現代の課題、国民の課題に、思想的にとりくもうとした学生たちは、教授たちのそうした傾向に反発して、大学以外に研究と行動の場を求め始めた。当時の学生たちは、教授たちの学問に対して、ノオと発言し、その学問を本来あるべき学問の方向にもってゆこうとする動きをおこそうとしなかった。勿論、教授の中にも、同僚教授の学問の傾向に対して、異論をさしはさむ者は全くといっていいほどに出なかった。このように考えると、明治の初めから、日本の大学の学問はゆがんでおり、ゆがみっぱなしであったということになる。
 明治三十年代になって、東京帝国大学や早稲田大学の学生のなかで、社会学会がつくられ、明治という社会を研究の対象にしはじめたが、石川啄木が、
  ここにあつまる者は、皆青年なり
  常に世に新しきものを作り出す青年なり
  われらは老人の早く死に、しかして
  われらの遂に勝つべきを知る
  また、その議論の激しきを
  されど、誰一人
  握りしめたる拳を卓にたたきて
  V NAROD!
 と叫びいづるものなし
と書いたことから、一歩も出ることはなかった。
 社会学会に参加した学生たちは、その眼を学外の社会には向けたが、大学とその学問の現状に向けるということはなかったし、まして自分自身の内部に向けるということはなかった。そのために、社会への不満は明確にしたが、同時に、その中に生きて毒されている自分自身への不満を明確にすることはなかった。従って、自分自身の革命が必要であるということも気づかなかった。それは明治という社会の疎外者として、自己を明確に位置づけるということもないままに、疎外者として生きつづける姿勢と覚悟のないままに、卒業と同時に、社会学会的な思想と行動から遠ざかっていったということでもある。「人民のなかへ」から、更に、自分自身を人民にしていくということは、決してなかった。そういう運動が根なし草に終わるしかないのは、当然なことである。何時となく、明治時代の学生運動が消滅に近い状態においこまれたとしても無理はない。

 大正時代になって、そのデモクラシーの昂揚とともに、学生運動もまた、それにひきずられて再燃した。しかし、それも、明治の学生運動の弱点をそのままにひきつぎ、そのくりかえしから一歩も出るものではなかった。大正時代の学生は、明治の学生運動がなぜ後退し、なぜ衰弱していったかを殆んど問うてみるということもないままに、それ故に、その批判、克服をはかろうという姿勢もないままに、明治時代の学生運動を再現した。
 勿論、大正時代の学生運動は、世界的に、社会主義思想が普及したことの影響をうけて、大正という時代と社会の分析では、はるかに、秀れている面をもっていた。
 大正七年に生まれた東大新人会が、その目標に、
「我々は不合理なる今日の特権階級の社会を改造して、民衆それ自身の新しい理想の社会を創らねばならない。我々は、社会改造の世界思潮に逆行して、その運動に妨害を加えるものに対しては、徹底的にこれを撃破して進まなければならない」と書き、その綱領に、
「吾徒は世界の文化的大勢、人類解放の新機運に協調し、これが促進に努む。
 吾徒は現代日本の正当なる改造運動に従う」といっていることでも明かである。
 だが、学生運動にのりだした学生の眼は、依然として、学外にのみ向けられて、大学内に、自分の学問に向けられるということはなかった。
 翌八年には、早稲田大学に、民主同盟会が組織されたが、これも新人会と同じで、学生という身分にある者がおしすすめているというだけで、一般の社会運動と殆んどかわらず、そこには、学生がおしすすめる運動としての特色というものがみられなかった。学生という立場が、現代社会にどういう意味をもち、どういう役割をはたすべきかを、まず、始めに、問うということもなく、学外に普選促進運動がおこると、学生は無条件に、それに呼応して、早速、学生大会を開いて、気勢をあげるという有様であった。少なくとも、学問に志す者である以上、一人一人の学生が自分自身で、普選ということについて徹底的に考えて、自らの結論を導きだすべきものであり、それをして、始めて、学問に志している者といえるが、運動に参加した学生の多くは、そういう困難な作業、忍耐を必要とする学習を怠って、一挙に運動に埋没していった。
 たしかに、普選促進学生大会は、日本における最初の政治集会であったということで、劃期的なことではあったが、学外の政治活動にひきずられて開いたもので、学生一人一人の主体的要求から生まれたものには程遠かった。学生たちの学問の結論から導かれたものではなかった。
 勿論、学問には、もう終りということは決してないが、少なくとも、学生である以上、その結論が、自分の一生を支配し、それを依りどころにできるくらいのものを学問を通じて発見しなくてはならない。若気の至りであったといって、大学を卒業した後に、その結論を捨てて平気でいられるようなものは、学問を通して得たものではない。学問的結論とは、自分の一生を通じて、支持できるものであり、それ故に、学問は尊く、価値もある。
 大正の学生運動がいかに燃えさかったものであったとしても、一人一人の学生の学問を通じての主体的参加でない以上、所詮、仇花にすぎなかった。明治の学生たちが教授の学問と教育に依存していったと同じように、大正の学生たちは、学外の知識人や活動家たちに隷属していった。そこには、学生の自分自身の力による思想創造への意欲と姿勢がなかったし、いつのまにか、学生運動までも、学外の知識人、活動家にリードされるものだという考えが支配的になっていったのである。学問にとっての最大の敵が、学生の中にすみ始めたのである。そうなると、学生自身の青年らしい鋭い感覚に根ざす全く新しい問題意識、それに導かれ、支えられた学問は、殆んど期待できなくなる。日本の人文科学、社会科学があまり発展していかなかった理由の一つはそこにある。
 しかも、学生たちは、明治維新という革命が、たとえ、不完全であったにせよ、自分たちと同じ青年がなしとげたものであるということすら考えなかった。日本の革命を考え、志向する学生たちが、その歴史を忘却してしまって、革命思想といい、革命の伝統といえば、ヨーロッパにしかないと考えるほどになってしまったのである。大学の内部に、自分自身の内面に眼をそそごうとしない学生が、日本に眼を向けないで、ヨーロッパにのみ眼を向けたということは、当然といえば、当然といえるが、その学生運動は貧弱なものになるしかなかった。
 明治維新が、教えているのは、時代と社会の革命よりも、自己自身の内部世界に革命をおこすことが、数倍も困難であるということ、とくに、革命を指導する人々にとっては、決定的に必要であるということであるが、学生たちは、それを学ぼうとはしなかった。学生時代の三年間の学生運動よりも、卒業して後の数十年の運動が比較にならない程に重要であり、むしろ、三年間は、数十年の運動を支え、導く基盤をつくることにこそ主眼をおかなくてならないということを学ばなかった。そのためには、どんなに学んでも、学びすぎるということはないということを知らなかった。
 その結果が、「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した東京帝大助教授森戸辰男に対して、国家権力が、大正九年、禁個三カ月の処分をしたのに対して、学生たちは、わずかに学生大会を開いて抗議しただけで、その声は、大きなものにならなかったことに現われている。
 また、この事件に関連して、大山郁男が、
「大学の沿革は、国々によって、それぞれの相異があるが、一般的に、大学の使命というものを概括して示すならば、真理の探求ということであろう。真理を探求するためには、研究の自由ということが保証されねばならず、これなしには、真理の探求も何もあったものではない。それ故、研究の自由が何らかの障害をうけた場合、極力、その障害の排除につとめるのが、真理探求を使命としている学者の任務でなければならない」と発言したのに対して、それを深く考えようともしなかった。そればかりか、東京帝大の教授たちが、森戸助教授を見殺しにして、何の反対活動もしなかったことに、学生たちは強い不満をしめさなかった。彼等には、教授たちに、本当の学問とは何かを問いつめる姿勢さえもなかったのである。
 それは、当時の学生運動家たちの中に、「大学はブルジョアの機関だから、本来、研究の自由などありえない。研究の自由を要求することは社会主義でない」という考えをもつものがいたことと無関係ではない。学生たちは、大学を、真の学問創造の場にしようという心さえもたなかったのである。大学を学問創造の場にしないで、どこを学問の創造の場にしようとするのか。また、大学というものに、それほどはっきり絶望しながら、学生という立場を捨てない自分自身のいいかげんさ、矛盾を考えようともしなかった。学生として、これほどの怠慢もないが、彼等はそれを理解できないほどに堕落していたともいえる。
 たしかに、大正八年、森戸助教授が東京帝大を追われたということ、それに関連して、研究の自由が不可欠であるということを主張することは重要なことであるが、もっと大事で、本質的なことは、どういう学問が必要であり、そのためには、どんな姿勢で学問をしなくてならないかを、更めて再検討し、総点検することであった。森戸助教授追放事件は、学生と教授に、そのことを考えるチャンスを提供したということができる。それは、学問をもって、政府の文教政策に積極的攻勢をかけるチャンスでもあった。学問を国民全体のものにしていくチャンスでもあった。
 だが、学問観の変革のためにたちあがる動きは、学生の中からはおこらなかった。そればかりか、大正十四年に開かれた「学生社会科学連合会」第二回大会の秘密会議では、
「資本主義下における学生は、全体としてみるとき、ブルジョア的反動集団であり、決戦期においては、白き義勇軍たるべきものである。われわれの運動は、かかる集団の利益のためにたたかうものでもなく、また、集団全体を教育せんとするものではない」と、学生を規定する始末であった。
 学生という存在は、どういう学問をするかによって、反動的集団にもなり、あるいは、無産階級の味方にもなるということを考えようともしなかったし、それ故に、また、教授の学問の性格、内容が重要になってくるということを考えることもできなかった。
 これでは、大学の中に、地味に、着実に、学問観の変革を推進していこうとする学生が生まれるわけがない。極論すれば、学生たちは、学問をめぐっての、教授との最も困難で、厳しい論争をさけて、学外に、安易な狂奔を求めていったともいえる。それは、始めから、教授との論争には、かなわないとあきらめていたようなものであり、その不満とやりきれなさが、いよいよ、学外の運動に熱中させていくことにもなったのである。
 とくに、早稲田大学における軍事教練反対斗争、日本共産党の創立による日共の学生運動の指導、ソヴエトの飢饉に対する救援活動は、さらに学生運動の中に、その傾向を強めていくことになった。即ち、早稲田大学における軍事教練反対斗争には、北沢新次郎、大山郁夫、猪俣津南雄、佐野学の四教授もたちあがったが、他の教授たちは、何の発言もしなかった。この事実を前にして、誰も、教授に対して、学問の意味と目的を問いかけることをしなかった。
 大山都夫も、「大学の使命とその社会的意義」と題して、
「大学の主要構成部分は、教師と学生からなりたっている。しかるに、わが国においては、学術研究団体中の、少くともある種類のものが、ある方面の手きびしい圧迫をうけているのである。しかも、さらに、遺憾なことは、一般世人がこれをさして重大視していないことである」と発言したように、学生の学問の自由を主張したのみで、また、それに無理解なのが政府であり、一般世人であって、それについての理解をもってほしいと主張したのみで、実は、学生の学問の自由に冷いのは、教授自身であり、それを阻害しているのは、教授自身であるという批判をしていない。
 大山の批判の眼が学外にのみ向けられたように、大山に指導されていた学生たちも、いよいよ、その批判の眼を学外に向けることになったのは当然といえよう。軍事教練にしても、本当に、自己の変革、社会の変革を望んでいるとすれば、それを、拒否するだけが能ではないということも判りそうなものだと思う。軍事教練反対が成功したと言って喜び、次には、軍事教練が実施されたと言って悲しむのは、近視眼的である。
 日本共産党の学生運動への指導は、学生たちの日共への依存を決定的にし、学生たちの眼をますます、大学の現実から遠ざけることになった。それが、もっとも端的にあらわれたのが、福本和夫への盲信であり、埋没であった。彼はいう。
「マルクス主義者は自らを強く結晶するために、結合のまえに、まず、きれいに分離しなければならない」
「学生は、今日、マルクス主義的主体をたたかいとるための果敢な理論斗争が肝要である」
と。しかし、実際には、彼は、学生たちを教授や他学生との理論斗争におしやることなく、より一層、大学外におしだしていった。「革命は近い」という幻想を学生たちにいだかせ、彼等に、学問を忍耐強く追求させることをしなかった。
 学生たちが福本の思想を盲信して、行動することは、学生が学生として学問する立場を放棄することであり、奴隷になることであるということに、福本は気づかなかった。勿論、当時の日共も考えなかった。その後、学生運動は福本の思想から脱したが、日共への依存は続き、自ら考え、自ら結論を出し、その結論にもとづいて運動をすすめるということはなかった。
 ソヴエトの飢饉救援活動をきっかけとして、各地の大学に、次々にできた、「社会科学研究会」「日本学生連合会」「学生社会科学連合会」の活動者会議でも、軍国主義反対、大学自治擁護、学内の民主化、研究組織の拡大などを決議したのみで、遂に、教授の学問はどうあるべきか、自分たちの学問はどう進めるべきかについて一言も言及しなかった。学生たちは、教授に向かい、自分自身に向かって、新しい学問の創造ということをなげかけようとはしなかったのである。
 だからこそ、学生たちは、
「ギリシャの一人の文化人が人間的に生きるためには、数人の奴隷が非人間的に生きなければならなかった。私達文化人の卵が育つためにも、また数知れぬ人間の生活が踏みにじられて居る。私達に食べるもの、着るものを造ってくれる人達は、屈従的な労働の笞の下に、ひもじいすき腹を抱えて倒れかかっている。私達の本を刷り綴じてくれる人達には、それを買うことは愚か、読む力さえ与えられていない。私達の学校を建て机を拵えた人々は、その子供を小学校に送るにさえ困っている。楽しい夕、晩さんのまどい、その時に、大都市の一隅に、無数の幼年労働者が、はげしい昼間の働きに疲れはてた蒼白い顔を力なく夜学の机に並べていることを思え。
 しかも、是は、不合理のただ一つにすぎない。強いられた目かくしをはぎすてて、曇りなき、粗のままの眼を以て社会と相対する時、おお何という奇怪、何という不自然、希望は打ち砕かれ、光明は消えて、軽やかな歩みははたと行きどまる。九百九十万の生命を奪い、二千万にも及ぶ人達を傷け、そしてなお民衆を困厄と悲境のどん底につきおとした欧州の戦乱は? 獲得の前に独り北叟笑む梟は知らぬ。戦わされ、働かされ、そして、すべてを奪われたあの民衆は? 震災の混乱の裡に、罪なき三千の同胞を虐殺したあの民族的な偏見と残忍は? そして罰せられざる流言輩語の撒布者は!
 心に映るものはすべてこれ虚妄の鎖、権力の圧迫。もはやじっと黙っている時ではない。心の底から揺り動く私達の正義感は、正しい行動、正しい生活へと私達を躍らせる。しかも、行う前に先ず知らなければならぬ。誤てる知識から誘導されるものは同じく誤てる行動である。私達はまず事実を知りたい。具体的に社会事実とその法則とを知りたい。この願いに結ばれて生まれたのが私達の集りである。
 私達個人の力はよわい。しかし、私達の思想は民衆と相通じて生きる。そして今や世界にみなぎる思想の目覚め、圧迫と迫害の下に生き育った民衆の自覚の前には、権力も神も無視されるのである。私達は青年の任務の重大さを知る。それと共に青年の意気と力とを自信する。そして慎重な歩みを歩一歩と進めて行こうと思う。無為は罪悪である。享楽は利己である。デカダンは意気地なしである。宗教は阿片である。神の前に、自分の姿を見失う前に、唯美の綾を織る前に、哲学の精緻にさ迷う前に、まず現前の人間を生かしてみよう。頭の中に建築する前に、まず世の中を建て直してみよう。この道しるべとして、幾多の社会思想の研究こそが私達の目的である」というビラしか配れなかった。彼等は、そのような研究は、社会科学の中にだけあるとみて、人文科学、自然科学の中にもあるとは思いもしなかった。「哲学の精緻に迷い、唯美の綾をおる」というときの哲学と美学は、学問本来の姿を失った、ゆがんだ哲学、美学でしかないということを考えようともしなかった。それ故に、学問の改革が、哲学と美学の変革が当面の課題であることを考えなかった。
 その結果、社会事実とその法則を究明する社会科学のみに関心をもち、行動の主体としての人間の内部世界を究明する人文科学には全くといっていいほどに、関心をしめそうとしなかった。そのために、学生たちは、常に、人間からの反撃を食ってもたもたする。時には、もう一つの自分に反逆されて、挫折する。すべては、人間に無智なためである。
 更に、ビラには、圧迫と迫害の中に生きている民衆と書いているが、それでは、学生自身は圧迫と迫害には無関係であるかどうかということである。たしかに、学生は、民衆と同じような迫害の中には生きていないが、学生の当面している現実は、学問の自由が迫害され、大学教授が次々と大学から追放されるという有様である。それは、学生自身が、学問する者として迫害の中に生きているということである。それに、大山が述べているように、学生には、学問の自由、研究の自由はなかったとすれば、大変な圧迫の中にあるといっていい。圧迫と迫害の中にあるということを意識し、自覚できないということは、既に、学問をする資格に欠けているということになる。
 だが、学生たちは、そのように考えることはできなかった。自分と学問をそのように受けとめることができなかった。そこに、教授と一般学生に向かって学問の危機を訴えることができなかったばかりでなく、いよいよ、その眼を学外に向け、民衆のために、無産階級のためにといって活動をはじめ、人文科学を軽視するようになった、もう一つの理由がある。
 そして、そこから、民衆のために活動するんだという傲慢さと気負いも生じたし、はねあがりも生まれた。その結果、かえって、民衆から、冷たくみられるということがおこったのも当然であろう。
 ここで、角度をかえて、大学当局と教授の学生運動に対する態度をみてみよう。明治の初め、同志社大学で「集会条令」に反した学生を退学させたことは、既に述べたが、大正から昭和にかけては如何であったか。

 大正十四年、政府は、各大学、高専校に燃えあがった軍事教練反対運動を抑えるために、まず、京都帝国大学を捜索し、つづいて、「社会科学連合会」の幹部を逮捕した。所謂、京大事件である。
 事件がおきたとき、京大の法学部教授会、経済学部教授会は、その抗議にたちあがったが、逮捕された学生たちが「治安維持法」で起訴されると、にわかに、教授会は弱腰となり、学生に向かって、「研究はみとめるが、普及はみとめられない」とか、「外部と連絡するのは好ましくない」と言いはじめた。
 他の大学の中には、学生に対して「学連」脱退をせまるところ、更には、社会科学の研究活動をしたという理由で、学生を退学処分にするところがでてきた。教授会が積極的に学生の研究の自由を奪いはじめたということである。しかも、ここには、教授会の学問に対する考え方に、大きな欠陥があることがしめされている。即ち、学問とは、本来、人間の行動のためのものであり、その行動に内容と方向づけを与えるためになすもの、学問と行動は、車の両輪であり、行動を通じて、始めて、学問の創造と発展は生まれるものであり、学生たちが研究と行動を平行させることは、好ましいことであっても、否定すべきことではない。むしろ、行動の伴わない研究にこそ問題があるし、行動をおこそうとしない教授にこそ問題がある。勿論、学生として、研究の伴わない行動をおこすことは、断然、否定されるべきであるが、研究を許して、行動を禁止するということは、学問の何たるかを理解していない結果といえるし、同時に、研究し、行動する学生についての指導に全く自信がないという証拠でもある。
 学問は、つねに、新しい原理、原則の発見であり、創造と発展を志向するという意味で、現状破壊的なものである。革命的なものといってもよい。そのことを如実にしめしているのが、自然科学における新しい原理、原則の発見であろう。新しい原理が出現すると、かつての理論は存在できなくなる。存在が全く無意味になる。唯、人文科学、社会科学の分野では、新しい理論と古い理論が共存するし、どちらがよりすぐれているかという判断は非常にむつかしい。人文科学、社会科学の世界が混乱し、複雑多岐になるのもそのためである。人文科学、社会科学の分野における行動の意味は、自然科学の分野における実験に相当する。自然科学の発展が実験から生まれているように、人文科学、社会科学の発展のためには、もっともっと、行動を重視する必要がある。
 だが、大学の教授会は、学問の発展のために行動を重んずるどころか、逆に、行動を否定して、学問を衰弱させる方向にいったのである。しかも、それを、政府の圧力に屈してなしたのである。学生運動の中に、学問を注入するように指導し、発展することをはかるどころか、逆に、学生運動を学問そのものから遠ざかるようにしようとしたといえる。それは、教授たちが学問の本質と使命からいよいよ遠ざかっていくということでもあった。大正時代の大学は、学生よりも、教授の方にこそ、より一層、堕落が進行していたのである。

 だからこそ、昭和三年に、政府が日本共産党とそれに同調する学生たちに弾圧を加え、逮捕したのをきっかけに、東大の学生たちは、始めて、教授会、評義会に学生代表を参加させること、講座に学生の希望をいれることを要求した。その後、学生自治会協議会も、講座の改廃、充実、時間割作成について、学生の要求をいれること、文化的経済的設備の学生による管理などを決議して、学生たちの眼は、ようやく、大学と教授の学問に向けられはじめたが、その時は、もう遅すぎたともいえる。翌昭和四年、日共党員とその同調者に、再び、激しい弾圧が加えられたために、一度は大学内に眼を向けた学生たちも、そこに、絶望的な教授の姿を発見して、再び、街頭主義に走っていった。大学の再建、学問の再建というような仕事には、とても、とりくんでいられないという危機感であった。それに、学生たちの中にある英雄主義、指導者意識が結びついた。
 しかも、そういう状況の中にあって、学生たちは、相変わらず日本共産党の理論におんぶし、自分たちで学生運動の理論を究明するとか、日本の現状分析をやり、そのうえで、戦術・戦略をたてるという態度はゼロに近かった。そのために、日共が三二年テーゼなどで揺れつづけたように、学生テーゼ、新学生テーゼなどの間を揺れつづけるしかなかった。
 そればかりか、学生たちは、政府によって、思想の転向を強く迫られると、その多くが、依りどころとしていた思想を捨て、中には、かつて攻撃し、否定した思想を信奉するものまで出るという有様であった。
 その点では、学生の多くは、研究と行動を平行させたというよりは、最小の研究で、最大の行動に突っ走ったといえる。要するに、学生たちには、学問が決定的に不足していたのである。人文科学を軽視し、自分の内部世界への凝視を怠ったということである。それは、民衆のためにといって行動に走っただけで、自分自身のために、自分の学問のために、行動に出たのではなかった。
 たとえ、社会科学を学んでも、それは民衆のための学問で、自分自身のための学問であるという認識がなかったということが、彼等を転向させたのである。学生たちもまた、自分達にとって、学問とは何か、現代における学問の第一の課題は何かということについて、十分に考えていなかった。それが、彼等が学問の再建という課題を、教授達につきつけることができなかった理由でもある。
 吉田松陰もいったように、転向と挫折をせまられる地点に追いつめられた時こそ、始めて自分の学問をし、自分自身の思想を生み出すときである。学問の創造に立ちむかう姿勢は、そういうことに直面して始めて生まれる。学生にとって、学生運動の意味とは、そのことを教え、知らせることであるといっていい。

 

                    <現代学生運動論 目次> 

 

 十五年戦争下の学生運動

 昭和六年、満州の侵略を始めた日本政府は、それを遂行するためもあって、反戦運動にたちあがった学生たちを弾圧していった。しかし、彼等は、その網をかいくぐって執拗にたちなおり、運動をすすめていった。
 ところが、昭和八年に、日本共産党の最高メンバーであった三田村四郎、鍋山貞親、佐野学の転向をきっかけとして、学生の中にも、その同調者があらわれ、運動は、急速に衰えていった。その傾向は、政府の政策に批判的な教授を大学から追放することと平行していたから、その衰退は、いよいよ甚しかった。
 即ち、政府は、京大教授滝川幸辰を休職処分にしたのを皮切りに、次々と、教授・助教授を大学から放逐した。勿論、京都帝国大学の教授会と学生は、滝川教授の休職処分に反対してたちあがった。ことに、滝川教授の属する法学部の教授たちは、一斉に辞職し、助教授、講師、助手・副手たちも教授の辞職にしたがうなど、その反対運動は激しかった。東北大、九大、同志社大、立命大、関西大などの学生も、次々とその運動に声援を送った。大学自由擁護連盟が結成されたのも此の時である。
 だが、その時、京大宮本法学部長は、「学生は自重してほしい」と語り、教授と学生との共闘を拒否し、学問の自由が必要なのは、教授、助教授であるという見解を明かにした。そして、文学部の学生が、文学部教授会に蹶起を促し、法学部教授会とともに戦うように求めたにもかかわらず、文学部教授会はたちあがろうとしなかった。その点では、法学部以外の全教授会も文学部教授会と同じであった。京大教授の殆んどが、この滝川教授追放事件を学問の危機として受けとめることができなかったのである。滝川教授と同じ運命に追いつめられない自分とは、自分の学問とは、一体、何なのかと考えることすらできなかったのである。
 先に、全員、辞職を申しでるほどに、意気さかんであった法学部教授会も、その後、半数の教授は辞表を撤回し、戦う姿勢は何時のまにか崩れてしまった。これでは、反対運動が燃えあがるわけはない。
 ついで、昭和十年には、美濃部達吉博士が「天皇機関説」の故に、大学を追われ、その著書が発禁処分、もしくは、改訂を要求されるという事件がおきた。この時には、もう、学生たちは、めだった動きをおこしていない。
 昭和十二年、矢内原忠雄教授が追放されたときなど、学生たちは、せいぜい、彼のお別れ講義に涙を流すにとどまった。しかも、矢内原教授の場合は、同僚の教授の中からおこった追放であったが、学生たちは、それに反応すら示そうとしなかった。既に、彼は学生たちからも浮きあがった存在でしかなかったということであり、考えようによっては、追放は、矢内原自身が招いたものであった。
 学生の研究の自由を奪い、学問の自由を守るために教授と共斗しようとした学生たちを拒否した結果、次には、それが教授自身の身にふりかかるようになったのである。
 同僚の教授、助教授がどんな学問をしようと、また、どんな姿勢で学問をしていようと、それを相互に批判しあうということが絶対になく、学問への共同責任を果たそうとしなかったことが、終には、そういう結果を招いたともいえる。
 そのことを明かにしているのが、矢内原忠雄の次の言葉である。
「当時の経済学部教授会の内情を記すことを私は遠慮しなければならぬ。ただ、私は教授会の席上、あまりの事に同僚教授を面責面罵したことも時にあった。これら諸教授はそれをうらみに思って私を追う陰謀に加担したのであるという。とまれ、教授会の大勢は、“国家の理想”の執筆者をもって大学教授としての適格性を有せずとなすにあり、私のために弁護してくれる少数の同僚は、そのために、各自の地位を問題にせられる危険が察せられたから、私はかねての原則に従い、直に辞職の決心をした。」
 これは、彼が、学問が危機にたっており、学生から、最も学問らしい学問が奪われようとしていることを考えようとせず、学問を自分だけのものだという考えに立っていることを表わしている。
 矢内原は、自分が辞職すればすむと考えているが、彼を支持した教授たちは、彼個人を支持する以上に、彼の学問を守ろうとしているということに気づいていない。彼は、彼を支持する教授たちと一緒に、学問そのもののために、彼を追放しようとした教授たちと徹底的に論争し、戦うべきであった。それが、学問と学生に忠実なる姿勢であり、大学教授として、国民に対する責任を果たすことになる。
 まして、教授会の内情を記すことは遠慮するというに至っては、誰のための学問かを、考えていなかったのではないかといいたくなる。教授会と学問と、どちらが大事かということである。彼ほどの学者が、そうであったということは、その他の学者は、いよいよ、この戦争下に何もなし得なかったということであろう。そして、中には、進んで、自分を泥沼におとしこむことになったのである。その一例が、東大教授、河合栄次郎である。
 河合は、はじめ、政府と一緒になって、大学からマルクス主義を研究する教授、助教授を追放することに積極的であった。彼は、マルクス主義は学問でないという考えから、そうしたのであったが、それが、やがては自分の身に及ぶということを考えることが出来なかった。
 他人の学問を侵害した河合が、次に、自分の学問が侵害され、彼自身、大学から放逐されたとしても、しかたないことであったろう。
 終に、大学には、政府の政策を支持する教授か、沈黙を守ることによって、政府に同調する教授しかいなくなった。それ以外の教授の多くは、その学問を、いよいよ、生きた人間、生きた問題から遊離させて、研究という名の下に、抽象的世界に埋没させていった。
 そうなると、学生に、現代社会をみ、批判する能力を与える者はいない。人間の価値と自由を自覚するように指導する者もいない。学生運動らしいものが、大学から消えていくしかなかったのも無理はない。

 他方で、政府の戦争政策と平行して、昭和六年以後、大学に、次々と「愛国学生連盟」「学生興国連盟」「皇国学生同盟」などが結成され、これまでの学生運動をその内側から崩解させていったことも見逃がすことはできない。
 といっても、学生たちの中に、そういう動きがでてきたのは、必ずしも、政府の政策に導きだされたもののみであるとはいえない。
 鍋山貞親、佐野学たちは、転向した時、「世界革命の達成のためには、自国を犠牲にするも怖れざるは、コミューン的国際主義の極致であり、我々も、亦、実にこれを奉じていた。しかし、我々は、今、日本の優秀なる諸条件を覚醒したが故に、日本革命を何ものの犠牲にも供しない決心をした」と書いているが、日本共産党とそれに同調する学生たちは、日本の伝統と思想に対して、あまりに無智だった。そして、外国に発生した社会主義思想に無批判に依存していたから、当然、こういった態度に不満をいだく者もいた。それらの人々は、日本の伝統と思想を見直そうと主張し、その中から、日本革命を考えようという傾向が強くおこってきた。学生の中にも、それに応じようとする者が出た。
 既に、大正八年に、早大に「縦横倶楽部」、東大に「七生社」をつくったのが、運動のはじまりであったが、これらの運動が満州事変の始まる頃から、にわかに学生の間に、盛んになったのである。
 「縦横倶楽部」が、「日本国体に則って、皇道を世界に布く」とか、「世界経済連盟を組織し、人類共存共栄の実をあぐ」、「社会混沌の病根を剔抉し、これが掃蕩を期す」などの目標をかかげているように、彼等もまた、現状維持を否定し、一つの革命を志向する集団であった。学生運動の中の右翼といわれている人たちである。
 その彼等が、左翼と鋭く対立したのは、昭和三年、東大において、「新人会」と「七生社」が衝突し、多数の負傷者を出したときである。それが導火線となって、それ以後、各大学、各高校に、次々と彼等の流れを汲む運動がおこってくる。それは、五高の東光会であり、六高のすめらぎ会、七高の教天会、山口高校の申道会、高知高校の扶桑会などであった。そして、「救国学生連盟」がつくられた時には、東大、京大、東北大、九大、早大、慶大などの学生、約八百人が参加している。
 昭和八年にできた「皇国学生同盟」が「商品化的教授組織の廃絶と創造的自学制度の確立」を求めて戦ったのをみても、学生運動の左翼が退潮していく中で、前進と革命を求める学生たちは、徐々に、右翼運動の中に活路を見出していく以外になかったということもできる。その上、当時、一般学生の眼に入った学生運動といえば、彼等の動きしかなかったということもあろう。
 昭和七年におこった血盟団事件は、政界、財界の首脳を暗殺し、それによって、彼等の考える革命をねらったものであるが、それには、東大生、京大生が農村青年と一緒に参加している。続いて起った五・一五事件、二・二六事件は、学生に革命の幻想を与え、革命近しという感をいだかせた。そういう期待を学生にいだかせるほどに、当時の日本は、政治的にも経済的にも行きづまっていたし、それらの事件は徹底した一面をもっていた。
 その革命が左翼的なものであろうと、また、右翼的なものであろうと、革命への志向なしには、一歩も前進しないというのが、当時の日本であった。左翼の革命運動が崩解すれば、右翼のそれがおこるしかなかったのである。
 だが、政府は、二・二六事件のあと、全力をあげ、その運動を崩解させようとした。かつて、左翼の運動を徹底した弾圧でつぶした政府は、今度は、懐柔によって、右翼の運動を骨ぬきにしようと躍起になった。まず、懐柔できる指導者は、どんどん懐柔し、それの出来ない者は、次々に投獄し、更には殺していった。右翼学生たちの多くも、かつての左翼学生たちと同様に、外部の思想におんぶして、自分で日本の伝統と思想を究明していくということをしなかったから、指導者が懐柔されると、その運動も次第に消滅していくしかなかった。
 学生運動の歴史は、それが、左翼的なものであろうと、右翼的なものであろうと、自分自身で学問を求めず、他人に依存している限り、決して発展しないし、時代と自己に対して有効性をもてないことをはっきりしめしている。
 勿論、そういう思想状況、左右の学生運動が消滅しつつあった中で、学問とは何かと問い、学問とは生きた人間の疑問と行動に応えうるものであることを強調し、学問の質と内容を問わない学生運動、学問の創造に立ち向かおうとしない学生運動は、学生運動の名に値しないといった三木清のような学者もいた。
 三木が、昭和十三年、「昭和塾」の開設にあたって、
「塾は、講師にとっても、自分の再教育の場所である。塾生と講師とが互に腹蔵なく話合ってゆくうちに、次第に統一した共通の思想が生まれてくることが求められている。……昭和塾は最初から一定の思想的立場にたって開かれたものではない。問題は塾生自身である。塾生自身の中から一定の思想や意欲の形成されてくることが期待される」といったことでも、そのことは明かである。
 だが、三木の発言は、いたずらに、こだまするだけで、学生たちの殆んどはたちあがらなかった。それを受けとめるだけのものが、彼等にはなかったのである。これが当時の学生の思想状況であったということもできる。そこから、学生の戦争の中にのめりこんでいく姿勢が出てくる。
 昭和十八年十二月、学徒出陣にあたって、第四高等学校(今の金沢大学の前身)の学生たちは、次のような檄をとばした。
「昭和十八年十月二日、偉大なる歴史的現実は遂に我々をして銃を執らしむるに至る。何たる光栄ぞ、吾等血わき肉躍るの感なきを得ず。今飜って、戦局の様相を見るに、益々悽愴苛烈を極め、敵の反抗また侮り難きものあり、山本元帥の戦死、アッツ島の玉砕はなお吾人の耳に新しき痛恨事なり。あれを思いこれを思うとき、いまこそ学徒が決然とたち、皇国護持のため、愛国の至情を沸らせ、全国民の士気を昂揚し、皇国を無窮の安きにおかざるべからず。しかして、学徒に意気ありとせば、四高生その指導者たるにあらずして誰ぞ。……ここに征く者の決意を述べて諸兄の奮起を望む」(入営者一同)。
 こういう気持は、四高の学生に限ったことでなく、学徒出陣した学生の殆んどの姿であった。それほどに、当時の学生たちは、戦争にはまりこんでいたのである。それは、戦争そのものに、学問的にとりくむことがなかったためであり、学問の追求を忘れたためであった。
 勿論、戦争に行って死ぬということについて、あるいは、生きていて、何かをしたいという思いで、悩み、苦しむ学生がいたことも事実であるが、だからといって、戦争に思想的に対決し、この戦争をどうかしようというものではなかった。これでは、どうひいきめに考えても、生きた人間のための学問をしたということはいえまい。死にむかっての安心感を得るためにした学問は、学問としては、第二義的な学問といえるのではないか。

 だが、軍隊に入った学生たちの中には、徐々に、軍隊批判の眼を、自分の生活経験をふまえてもつようになった。軍隊の中での自分とは一体何であるかと考えるものも出てきた。彼等はいう。
「人間には、自発性をもやすべき自由なる内面生活と外的活動がなければならないということだ。自分のことは自分でする。それが人間生活の鉄則だと信ずる。軍隊生活はかかる点からこそ、個人をして消極的無傷を好む人間たらしめると思う」とか、
「暗い日が無限に続く予感のみする。その終末がもし死であったら、恐ろしい時代だ。我々はそれを切り開くべき使命を担う者なのだ。だが、今の俺には、そのようなパッションも気力もない。どうでもなれという自己喪失。そうだ、何が苦しいといって、今のような自己喪失を強制された生活、一歩動くとすぐぶつかって来るという障害、それが今の俺には耐えがたいのだ」(「ああ同期の桜」)と。
 さらには、「学問が時世をリードするというのでなくてはならない。然るに、現在では、学問が時世にリードされている。一体どうしたというのであろう」(「きけわだつみのこえ」)と現代の学問に疑問をいだく者も出てきた。
「一日に、二回位の割合でなぐられています。兵営内には、一人として人間らしい者はいません。自分も人間から遠ざかったような気がします。」
「俺の子供はもう軍人にはしない。軍人にだけは。」(「きけわだつみのこえ」)と、人間と平和にめざめてゆく学徒兵もいた。
 勿論、その声は、一にぎりの学徒兵の声であったが、やがては、その声が、軍隊を改革し、学問を改造していく動きに発展する可能性をもっていた。学徒兵は、軍隊生活というどん底の中で、始めて、学問の何たるかを知り始めたのである。それは、民衆や無産階級のためでなく、自分自身のための学問である。自分にのしかかってくる迫害と圧迫を発見し、それを除去する学問の必要を感じだしたのである。その発見こそが、学問への出発点であるといえるが、その時に、学徒兵たちは、自分自身の言葉で話し、自分自身で考える。軍隊の中では、幸に、教授の知識や書物におんぶしようがないので、どこまでも、自分自身や仲間で考えていくしかない。
 これまで、学者をふくめて、学生というものは、あまりに尨大な書物にかこまれているため、それらを読み、知ることに、心を奪われて、自分自身で考えることを怠ってきた。そのために、主体的な思考がそだちにくいという弊害があった。
 しかし、学徒兵は、軍隊の中で、わずかの書物をてがかりに、記憶した知識を反趨するしかなかった。軍隊生活の圧迫を克服していく方法を発見するしかなかった。その意味では学徒兵は、軍隊の中で、始めて、主体的思考をなし、思想的自立をかちとるチャンスに遭遇したということができる。そればかりか、学徒兵は自分を迫害の中にある者と自覚することによって、始めて、農民、商人、労働者出身の兵隊とも、真に連帯する可能性をつかんだということができる。
 しかし、戦争は、そういう考え方を学徒兵の中にひろく確立することがないままに終わってしまった。せっかく、貴重なものを、戦争と軍隊の中で学びかけながら、それが十分に結実することがないままに終わってしまった。

 

                    <現代学生運動論 目次> 

 

 戦後の学生運動

 昭和20年八月、日本が戦争に敗れたとき、獄中にいる一握りの人間を除いて、日本国民は全部といっていいほどに戦争の中にまきこまれていたから、敗戦後の日本をどのように再建するか、再建したらいいか、更には、新しい日本をどうやって創造していくかということを全く考えることができなかった。
 加えて、長い間、日本国民は絶対服従の生活にならされ、学者、知識人も批判的姿勢を喪失していたから、占領軍の提出した「平和と民主主義」を絶対的なものとうけとめ、批判は許されないと判断した。そうなると、日本の再建は、全面的に、米国の指導に依存するしかなかった。
 戦後の日本に「天皇」にかわって、与えられた「平和と民主主義」が君臨した。ここに、戦後日本の悲劇が始まり、不毛があったといえるが、当時、誰もそのことに気づかなかった。たとえ、「平和と民主主義」が好ましいものであり、理想であったとしても、それを、日本人自身の頭で検証し、その後に、とりいれるべきであった。しかし、それを誰もやろうとしなかった。
 しかも、戦後のこうした思想状況を全身でうけとめ、流され、そして、その中で躍ったのが学生たちである。軍隊に、更には、戦場に出ていた学生たちは、戦後、大学に復帰してきたが、戦争中、戦争の中に埋没していったように、戦後もまた、「平和と民主主義」を無批判にうけとめ、その中に陥没していったのである。
 先述したように、軍隊や軍需工場で、主体的に学び、考えることを始めた学生たちもいるにはいたが、彼等は、かえって、戦後の思想状況の中で、その絶望を深め、自分自身の中により深く沈潜する以外にどうしようもない人たちになっていった。世の中のかたすみで、じっと、自分と社会を凝視するしかなかった人たちである。戦前派の学者、知識人が、戦争中全く無力であった学問を、そのまま、戦後に続けてやっていたとしても、それに不信の眼を向けるのみで、声にはならなかった。無言のうちに、「もっと絶望し、もっと苦しみ、迷うところにしか、日本の真の再建はない」と絶叫する声は、誰にもきかれなかった。
 それは、戦後始まった学生運動でも同じであった。こうした痛苦にみちた学生の声は汲みあげられないままに、学生運動は突っ走った。明治、大正、昭和初期の学生運動についての反省、批判もなかった。
 学生たちは、ただただ民主化の波に狂奔した。学園の民主化と学外の民主化に熱中した。しかし、その民主化とは、せいぜい、制度面における民主化であり、人間の内部世界の民主化はあまり考えなかった。それが、戦中のファッシストが、一夜にして戦後の民主主義者になれた理由である。
 だから、昭和21年五月、「学生社会科学研究会連合会」の主催で開かれた滝川事件記念学生祭では、
「学生自治組織の確立、学園民主化の徹底」、「学生の参加による教職員適格審査の厳正実施」を決議したのにとどまった。彼等は、大学、高専校の全教授が、積極的であったか、消極的であったかの差はあるにせよ、戦争に対しては協力したという事実を考えなかった。それは、また、教授の学問する姿勢に大きくかかわるものであるということを考えることができなかった。それは、戦中に、追放された教授を大学に迎えいれ、不適格な教授を学外に追放すればすむという問題ではなかったのである。
 戦後の学問にとって最も必要なことは、大学内にある者も大学外にある者も、皆一様に、学問とは一体何であり、学問の再建はどうすれば可能かと全身で考えていくことであった。特に大切なことは、戦中に戦争勢力に敗れて学外に追放された人々が、どうすれば、再びそういうことのない学問を再建できるかと考えていくことであった。
 もし、学生たちが、そのことを考えていたら、彼等は、むしろ教授の先頭にたって、生きた人間のための学問を創造するために努力し、精進したであろう。自分達こそ、そういう学問の建設者であらねばならないという課題を自分に課したであろう。だが、学生たちは、それをしなかった。そして、徒らに不適格教授の責任を追求して、右往左往した。
 そればかりか、労働者、農民の斗争に幻惑されて「革命近し」と考え、学問の追求をおろそかにしたまま、大学外に一斉に進出を始めたのである。勿論、そこには、昭和21年、文部省が次官通達の形で「学生の政治研究や討議は認めるが、学内での政治演説や特定候補の支持活動を禁止」したことも原因している。
 こうした状況の中で、早くも昭和21年十月には、東大の末弘厳太郎教授が大学を追われようとする事件がおき、翌22年には早大の藤間生大、立教大の宮川実が追放されている。武蔵野音楽学校では、戦時中ヒットラーから文化勲章をもらった校長に反対した学生たちが、逆に処分を受けるということもおきている。
 そのために、昭和22年五月の第二回滝川事件記念学生祭では「学問の自由をまもれ」のスローガンがかかげられている。大学と学問の改革という積極的な視点は一度も出てこないうちに、もう、守勢にまわってしまうという有様である。むしろ、この時点で必要であったのは、「これまでの学問の破壊宣言」であり、「学問の自由をまもれ」でなくて「弾圧と圧迫をはねかえすような学問、人々を真に生かしうるような学問をつくれ」ということではなかったか。
 だが、そういう声は、昭和23年六月、五千人の学生を集めて開かれた「教育復興学生決起大会」や、その九月に結成された「全日本学生自治会総連合」(全学連)にも出ていない。
 一、学生生活の安定と向上、教育の機会均等
 二、学問の自由と民族文化の擁護
 三、教育機構の徹底的民主化
 四、教職員の生活権確保
 五、学生戦線の統一と拡大強化
 六、平和と民主主義の防衛
 という全学連の事業計画にあらわれているように、せいぜい、学問の自由をまもれ、平和と民主主義をまもれということでしかなかった。
 「全学連」は、その発足にあたって、「教育機構の徹底的民主化」をかかげた以上、藤間生大、宮川実が放逐されるという状況、更には「学校における学生の自治活動は、当然、教職員が責任をもって指導すべき教育上の課題である。したがって学外の横断的組織がこれに優先して、個々の学校の意志を外部より拘束するようなことは許さるべきでない」という次官通達によって、東京文理大、水戸高校、長野師範、秋田師範などが、共産党細胞の解散命令や自治会の全学連脱退要求をするという状況の中で、何を考え、何をすべきであったか。
 政府に反撃を加えるということも必要であるが、それ以上に、大学当局と教授会に、「大学の自治における学生の位置」「学問の自由における教授と学生の関係」について、徹底的に討議することを求めるべきではなかったか。
 教授を大学から追放するのは、政府に先だって教授自身であったということ、学生の研究の自由を踏みにじってきたのは、常に教授会そのものであったということ、この事実をふまえて、大学のあり方、学問のあり方を論じなければならなかったのは、戦後の大学教授の仕事であった。学生は、そのことを最も鋭く要求すべきであった。
 しかし、学生たちは、それを要求しなかった。要求できるほどに、学問もしていないし、思考力も発達していなかった。それでも、米国CIE大学教育顧問イールズが、各地の大学で、「共産主義者の学者とスト学生を追放せよ」と演説してまわったときには、それなりに学問について考えたということができる。
 イールズは、昭和24月七月、新潟大学の講演を皮切りに、全国27の大学で講演をすませ、翌昭和25年五月、東北大学での講演のときになって、始めて学生の反撃をうけた。つづいて行われた北大では、イールズは、学生たちの質問にあって、立往生するという有様であった。
 イールズの方針に従って九大当局が貝島兼三郎、山中康堆の両教授の追放を決めたことは、教授会自治というものの実態をしめしたものといえよう。
 だが、学生たちは、イールズ事件で学内に向けた眼を、それが一段落すると、直に、また学外に向けてしまった。それは、イールズ反対斗争を受けとめて、その直後に開かれた全学連臨時大会で、「一切の戦争宣伝に導く学説に反対する」と決議しながら、それを単に反対声明に終わらせたことによっても明らかである。もしも、本当に、その決議を学問の次元で問題にしようとしたとすれば、教授たちの学説を鋭く批判しなくてはならないし、そのためには、教授たちの学説をまず学び、それを越える学説を、学生自身が創造するという姿勢をもたなくてならない。それが、学問の世界における反対ということである。単に、その講義を聞くとか聞かないという問題ではない。その講義に反対しても、その学説が消滅していくものでもない。それでは、少しも問題が解決したことにならない。大事なことは、大学内に、学説をめぐっての論争をひきおこすことであり、学問する姿勢をめぐって考えてみることであった。そして、そのことは、学生たちに、真剣に学問をすることを求めることになったはずである。そうなれば、十年一日の如き講義をする教授たちの存在や、学生でありながら少しも学問をしようとしない学生の存在は、そういう雰囲気の前に、真先に消えさる以外になかったであろう。
 せっかく、大学に生きた人間のための学問を創造する機会をもつというところまでいきながら、学生たちは、それを実らせることもないままに終わらせた。彼等が、もし、そのことを深く考え、その方向に進んでいたら、教授のレッド・パージ反対にたちがった学生たちに送った東大教授出隆のメッセージには、不満をおぼえたのではなかろうか。
 出博士はいう。
「滅びゆく現実をふみこえて、もえ出る新たな現実に真理をもとめ、この新たな真理の世界を実現しようと燃え立って集まられた若い学生諸君にごあいさつを送ります。
 敗戦後、占領軍の進駐以来、日本は、平和の国、文化の国といわれた。にもかかわらず、諸君は、この日本の教育文化のために、うまない斗いをつづけてこられた。そして、今、朝鮮事変という新しい事態のうちで、学園にせまるレッド・パージに対し、団結して立ちあがろうとされている。この場合、学生諸君のみが先頭に立って斗わなければならないという事態に対して、教師たる私は、なさけなさといきどおりを感じると共に、このような困難のうちで、ひとり勇敢に斗おうとしておられる諸君に、激励の言葉を送りたい……。
 秩序は真理の秩序でなくてはならないし、新たな現実の反映でなくてはならない。諸君は今、もえ出る新たな現実の真理を求め、新しい学園の秩序を創り出すために集まっておられる。“祖国における異国”での古い現実に対する斗いは、“神”の命令に対する斗いのように烈しいのであろう。しかし、若い者は古い者に対し、生まれ出る者は、滅びゆく者に対して、あくまで、烈しく斗わねばならない。諸君の真理は一つであるから」
 このメッセージは、戦う学生たちを激励したかもしれないが、一番肝腎なものが脱けている。それは、真理を求める大学教授に向かって何もいっていないということであり、大学こそ、真理を求める拠点にしなくてはならないと学生たちに訴えていないことである。この時の出博士には、若き高杉晋作ほどの戦略眼もなかったということであろうか。長州藩を討幕の拠点とするということよりも、大学を真理を求める拠点にするということは、はるかに自明なことである。
 こうして、学生たちは、ますます、「単独講和反対」、「朝鮮、台湾からの外国軍隊の撤退、朝鮮問題を平和的に解決せよ」などの目標にのめりこんでいく。勿論、この傾向を一層強めるようになった原因がないわけではない。彼等をとりまくものは、政府の進める「単独講和」であり、「大学管理法案」の国会提出、「破壊活動防止法」の成立であった。加えて、日本共産党は、山村工作隊などの激しい活動を指導していたから、彼等が危機感を全身にうけとめたとしても無理はなかったであろう。
 その後、昭和三十年に、日本共産党の六全協での自己批判、つづいて翌年には、フルシチョフによるスターリン批判があって、日共は大きく揺れ動く。日共の指導に全面的に依存していた学生運動が、それにつれて停滞することになったのも当然である。ただ、わずかにその衰退をおしとどめたのは「教育二法」の反対斗争、「基地斗争」であった。
 しかも、こういう状態を、戦前から何度もくりかえしながら、学生運動の理論を学生自らの頭脳で創造していこうとしたことは、殆んどなかった。あまりにも貧しい学生運動の歴史であったということになるが、それが事実である。
 そういう意味で、全学連委員長武井昭夫が提出した学生運動の理論は、特記に価するし、また、特記に価するものをもっていた。彼のいうところは、「戦後の学生は、学生全体が層として、“平和と民主主義”の斗争にたちあがる可能性をもつようになった。そのことを示すのは、全学生を包括する学生自治会であり、全学連である。学生は、出身階級や経済条件をこえて、一つの層として、斗えるということを知ることが必要である。
 そうすると、学生の先進的分子を大学の外へ出して活動させるのでなく、一般学生のたたかうエネルギーをひき出し発展させることを任務としなければならないということを知るであろうし、更には、学生を蹶起させるためには、世界平和とか、民族の運命にかかわるような問題をとりあげて、それにとりくむことが必要であることを知るであろう。その時に、始めて、学生は、その正義感、その知性、その情熱をもえあがらせ、行動にたちあがる。
 学生が斗争にたちあがることも、社会的に大きな刺激をあたえ、人民大衆の戦列をふるいたたせることになる」ということにつきている。
 これによって、学生運動は、少なくとも日共の指導に全面的に依存することから脱却できたし、更には、学生たちが自分自身で自分たちをリードする思想と理論を創造する姿勢を身につけたということができる。学生運動が、始めて自立の道を辿りはじめたということである。
 だが、彼らは、その頃から、「全学連」の中での指導力を急速に失ない、「全学連」の主流は依然として日共の指導に依存するという姿勢をとる。
 しかし、昭和31年頃から、「全学連」は、再び日共の指導を排除し、学生自らの力による学生運動をすすめようという姿勢をとりだす。彼の姿勢を受けとめ、継承し、発展させようとしたということである。多くの理論雑誌も次々に生まれ、日共から異端視されていたトロッキーの研究をすすめる集団も誕生した。学生たちの理論創造への意気ごみは相当なものであった。そして、その彼等を思想的に鍛えたのは、「警職法反対斗争」であり、「安保斗争」であった。
 ことに「安保斗争」では、「全学連」は、独自に戦う全学連として変貌していった。それは、昭和34年の「国会乱入事件」であり、翌年一月の「羽田事件」である。共産党や社会党は、自分達の指導を越えて行動する「全学連」をもてあまして、強く攻撃したが、学生たちは、その批判に耳を貸さなかった。その過程で、「全学連」は二つに分裂した。
 一つは、学生運動をどこまでも自分達の思想によって導いていこうとする学生たちであり、もう一つは、その指導を日共にゆだねようという学生たちであった。しかし、日共の指導に依存しようとする学生たちが「全自連」として結束していったのに対して、自分たちの思想によって行動しようと考える学生たちは、その後、四分五裂していった。
 普通一般には、このように四分五裂した学生運動を、不毛な学生運動といい、力としての学生運動をせっかちに期待するために、統一された学生運動を求めるが、実は、学生によって進められる運動というものは、学生自身の手によって創造された思想によって運動を進めるのが、本来あるべき姿であり、思想創造ということが非常にむつかしいものである以上、また、いろいろの思想が考えられる以上、四分五裂するのは当然である。
 学生運動が四分五裂の形をとったということ自身、学生が学生自らの手で思想創造に踏み出たことを意味し、本来の姿を打出したということがいえよう。不毛どころか、逆に、創造に向かって、学生運動は入っていったということができる。いいかえれば、学生一人一人が、外部の思想と指導から解放されて、自分自身の足で歩みはじめたということができるし、同時に百年近い模索と混迷の中で、やっと、今、学生運動は、自立をはじめ、幕末の学生運動に結びついたのである。
 武井昭夫は「世界平和とか、民族の運命にかかわるような問題をとりあげるとき、全学生は、その正義感、その知性、その情熱をもえあがらせることができる」と書いたが、私は、それに先だって、今日の学問のための学問から、生きた人間のための学問を創造することに向かって、全学生の眼を集中させ、その学問から導きだされた世界平和であり、民族の運命でなくてならないと思う。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 学問論の歴史

 

 福沢諭吉の学問論

 福沢諭吉といえば、慶応大学の創始者として、また、「西洋事情」、「学問のすすめ」、「文明論の概略」の著者として、更には、「時事新報」の発行者として、非常によく知られている人であるが、彼が、それらを通して国民の中に確立しようとしたものは、新しい学問観であった。大学をつくり、書物を書き、新聞を出したのも、それ以外のものではなかった。文字通り、その一生は、日本人の古い考え方と戦い、新しい考え方を日本人の中に確立するための戦いであった。それは、日本人全部が、新しい学問によって自立することを求めたものであるといってもいい。
 福沢は、まず、「学問のすすめ」の中で、
「今、わが国に於て、彼の“ミツヅルカラッス”の地位におり、文明を首唱して国の独立を維持すべき者は、唯一種の学者のみなれども、この学者なるもの、時勢につき、眼を着すること高からざるか、あるいは、国を思うこと身を患うるが如く切ならざるか、あるいは、世の気風に酔い、只管、政府に依頼して事をなすべきものと思うか、おおむね、皆、その地位に安んぜずして、去りて、官途におもむき、些末の事務に奔走して徒らに身心を労し、その挙動笑うべきもの多しと雖も、自からこれをあまんじ、人もまたこれを怪まず。甚しきは野に遺賢なしと云うて、これをよろこぶ者あり。もとより、時勢のしからしむる所にて、その罪一個の人にあらずと雖も、国の文明のために一大災難というべし。文明を養い成すべき任にあたりたる学者にして、その精神の日に衰うるを傍観して、これを患うる者なきは、実に長大息すべきなり、また、痛哭すべきなり」と書いて、今の学者が、日のあたる所に出ることばかり考えて、独立の精神がなく、文明の発展のために努力する精神と姿勢がないことをなげく。政府の政策を推進し、あるいは、従っていくのみで、それを批判し、更に、発展させていこうとする姿勢のないことを悲しむ。
 そこから、福沢は、学問とは何か、学問は誰のためにするのかという、根本的問いを発する。学問を単に自分自身の立身出世のためにのみやることは、不十分であるばかりでなく、学問そのものの内容を歪めることになるのではないかという反省も生まれてくる。それが、新しい学問観の確立のためにとりくまなくてならなかった理由でもある。
 では、福沢の新しい学問観とはどういうものであろうか。彼が第一に、学問をする者の姿勢として求めたものは、独立の精神であるが、その独立の精神を支えるのは勇気であるといいきった。
 学問する姿勢として、独立の精神がいるということを、福沢以前の人は殆んどいわなかった。しかし、それをいったのみでなく、勇気なしには、学問は、一歩も進まないといったのである。彼は、そのことを、次のように書いている。
「時勢の世を制するや、その力急流の如く、また、大風の如し。この勢に抗して屹立するは、もとより易きにあらず。非常の勇力あるに非れば、知らずして流れ、識らずして靡き、ややもすれば、その脚を失するの恐あるべし」。(「学問のすすめ」)
 勇気がどんなに必要なことであるかは、前東大学長大河内一男が問題解決の覚悟と勇気を欠いたばかりに、その紛争をいよいよ深めていったことでも明かである。たとえ、どんなに素晴しい見識をもっていても、それを実現するには、それに対する反対意見にうちかっていく以外にない以上、勇気がどうしても必要である。大河内の例をまつまでもなく、明治以後、大学教授に勇気がないばかりに、政府の無理な要求の前に、常に屈してきたという事実が厳然として残っている。福沢は、そのことを前もって知っていたかの如く、勇気の必要を強調したのである。
 次に福沢が強調したものは、学問への志である。
「学問するには、その志を高遠にせざるべからず。飯を炊き、風呂の火をたくも学問なり。天下の事を論ずるもまた学問なり。されども、一家の世帯は易くして、天下の経済は難し。およそ、世の事物これを得易きものは貴からず。物の貴き所以は、これを得るの手段難ければなり。……
 今の学者たる者は、決して、尋常学校の教育を以て満足すべからず。その志を高遠にして、学術の真面目に達し、不羈独立以て他人に依頼せず、あるいは、同志の朋友なくば、一人にて、この日本国を維持するの気力を養い、以て世のために尽さざるべからず」。(「学問のすすめ」)
 福沢が、このように書かずにはいられなかったのは、学問をする人たちの多くが、学問は、人のために、世のためということを考えないことを知ったためである。志のない学問は理想のない学問と同じで、人のため、世のための学問が、逆に、学問をした者としない者との断層を深くしていることを見究めたからである。そんな学問なら、やらない方がいいとまで考えたのが福沢である。
 たしかに、今日、学者といわれる人は、十万といるが、その多くが、学問への志が高くないために、自分一個人の興味とその研究に埋没してしまって、学生の疑問と苦悩にこたえないばかりか、そういう問題は、私の研究課題ではないと平然といいきることをみれば、福沢の言葉がいよいよ重さをましてくる。学生の疑問にこたえることのできないような学者が、国民の疑問や課題にこたえることのできないのも当然である。
 福沢は、学者のおちいる学問の弊害を知っていた故に、学問に志の必要なこと、人のため、世のためになる学問でなくてはならないことを強調した。
 それというのも、福沢は、「飯をたくのも学問である」といったように、学問は、日本人一人一人のものであり、一人一人に役だつものでなくてならないと考えていたからである。日本人全部が学問をし、政府の権力や無理な要求から解放され、独立できなくてはならないと考えたし、同時に、日本人がヨーロッパ諸国の権威からも自立しなくてならないと考えたからである。
 福沢にとって、学問とは、国民に自立を与えるもの、与えなくてはならないものであった。学問の意味は、その他に、いろいろあったとしても、そのことが一番重要であるということであった。
 ことに、現実の社会、現実の日本が、人間を不平等におき、人間の価値と自由を拘束しているとすれば、学問がそういう状態を断ち切るためには、いよいよ志を高くもち、勇気を持つことが必要であろう。
 福沢は、学問は総ての人間のもの、学問によってこそ、一人一人が最も人間らしい精神と生活がもてるようになると説いた、日本での最初の人である。
 福沢は、学問を庶民大衆に解放し、庶民大衆も学問ができるし、学問をしなくてはならないと明言した。そのことを、もっとも、はっきり、いいあらわしているのが、「飯をたき、風呂の火をたくのも学問なり」という言葉である。
 だが、明治以後、大学というものができ、その大学でことさらに難解な言葉を使用しはじめたことにより、更には、学問とは書物を読み、西洋の学問をすることだという錯覚が、逆に、庶民大衆から学問をとりあげた。彼等に、学問は理解できないもの、庶民生活には無縁なものという思いをいだかせた。
 学問は、小学校や中学校で成績のよい者、それも抜群な者だけがするもの、という考えが浸透した。勿論、学問に志や勇気が絶対必要条件であるということなど、誰も考えようとしなかった。
 そこに、日本の学問、特に人文科学、社会科学の分野において、学問が停滞した大きな理由の一つがある。志もなく、勇気もなく、単に学校秀才であるということは、西洋の学問を翻訳し、解釈し、祖述することには、すぐれた業績をあげることが出来ようが、人のため、世のために学問を創造し、発展させるということ、更には創造した学問によって人と世を変革させるということには、欠けているものがあったといえよう。
 大切なことは、福沢のいうように「飯をたく」ということから、どのようにして、「一国の経済」を理解できるような学問をつくるかということである。そういう学問なら、庶民大衆も理解できる。理解できるだけでなく、日本の経済をどうすべきかについて、意見をもてるようになる。
 彼は、「飯をたく」も学問であるといったが、それは、その行為そのものを理解し、そこから疑問をわかせ、そのたき方に創造と発展を導きだすということである。そこには、学問の初歩があり、学問の精神と姿勢が明瞭に出ている。学問的な「飯をたく」という行為と学問的でない「飯をたく」という行為があり、前者は、そのまま、経済学に、歴史学に、社会学に発展する可能性をもっている。
 学問とは、本来、事実や事象から学び、その発展を志すものである。書物を通して学ぶというのも、それは、事実や事象の認識に到達する手段としてであって、書物を通して学んだ知識が、事実にいかないものは不十分というほかない。しかし、学者の中には、往々にして、そのことを忘れる者が多い。忘れて、それが学問だと錯覚する。そこから、人のため、世のためという学問が忘れられてくるのである。
 学問が事実の学問であり、事象の学問だということは、福沢のいう「飯をたく」も学問であるということと同じである。明治以後の学者は、西洋の学問を学びながら、ここに帰ってくるべきであった。この意味を深く理解するためにこそ、西洋の学問をやるべきであった。
 しかし、志を忘れてしまった学者に、そのことがわかるわけもなかった。こうして、学問は進めば進むほど、現実の人間から、世の中から縁遠くなっていったのである。それこそ、福沢にいわせると、総ての人間が理解できないような学問は、学問としては不十分であるということになる。
 それは、庶民大衆が、自分自身で学問をやる以外に、政府の権力や無理な要求から解放されないという考えをもつことによって、ますます強固になるといってもいい。指導者の指導や、与えられた思想によっては、与えられた自由と平等によっては、庶民大衆は、決して、本当には、その思想も、その自由と平等をも享受することはないという彼の考えである。彼は、どこまでも、庶民大衆を被指導者とみなかったし、被指導者としておかれる限り、人間としての生き方は不十分だと考えていた。
 だから、庶民大衆が理解できないような学問は、学問として不十分であったし、庶民大衆に学問を解放しようとしない学者は、その責任と義務を果たしていないということになったのである。
 こういう考えにたつから、福沢は、学問と教育、研究と教育とを二つにわける考え方をとらなかった。「学校には、学問、研究のみがあって、教授や教師がする教育というものはない」と考えた。「教育というものがあるなら、学生が自ら学問することによって、自己を教育することしかない」と考えた。「教授や教師を導きとして、自ら、学問する以外にない」と考えた。
 彼は、それを次のように書いた。
「方今、日本にて、学校を評するに、この学校の風俗はかくの如し、かの学塾の取締は云々とて、この父兄は、専ら、この風俗取締の事を心配せり。抑も風俗取締とは何等の箇条を指していうか。塾法、厳にして生徒の放盪無頼を防ぐにつき、取締の行届きたることをいうならん。これを学問所の美事と称すべきか。余輩はかえってこれを羞るなり。……学校の名誉は学科の高尚なると、その教法の巧なると、その人物の品行高くして、義論の賎しからざるとによるのみ」。(「学問のすすめ」)
 学問が高尚であれば、その学問をする学生の品行は高くなるというのが、彼の意見である。学問が高尚でないと、いくら、教授や教師が教育しようとしても、教授や教師の品性が下劣なように、学生の品性は下劣になるというのである。いうまでもなく、学問が高尚でないということは、何のための学問であり、誰のための学問かという根本的な問いを発しない学問である。何のための学問であり、誰のための学問かということを問うている学生は、品性下劣になりようがない。
 こういうわかりきったことが、今日、理解されていないばかりか、大学紛争をめぐって、研究と教育を分離させようという意見が強くなり、そういう意見は、慶応大学の教授の中にもおこっている。
 大学教授は、自分の学問が、福沢のいうところの、高尚でなくなったのが原因して、大学紛争がおこっているということを知ろうとしない。むしろ、学生たちの中にこそ、人のため、世のための学問をし、学問を庶民大衆のものにしようとしている動きがある。それは、あきらかに、福沢の学問観を継承し、発展させようとしている動きである。その意味では、福沢の学問観、教育観は、今日の大学紛争をみる上に、大変すぐれた視点を与えているということがいえよう。
 次に、福沢は、学問は、人のため、世のためという観点から、実学でなくてならないという。学問の内容をそのように規定する。それというのも、彼が、「徳川政府二百数十年の間、偶々文に志す者あるも、単に、本人の好事にいづるものにして、かつて、要用に迫られたることなし。之を要するに、日本の士族は数百年間無責任の学問したるものというも可ならん。既に、その責任なしとすれば、その学問が人事の実用をなすも為さざるも、その辺は深く意に介するに足らず、唯太平無事の日にありて、武士とは申しながら、全く無学にても不都合なりとの考えより、遊芸同様に、序ながら学問をも勉強したるのみのことなれば、その学問に目的なきもいわれなきなり。……日本国中の学者は、無責任、無目的の学問に従事して、その事いよいよ気楽なれば、その流行に従う者もいよいよ多く、また、いよいよ深くして、遂には、これに凝り固まる。……その勉むる所の学問は、西洋文明の学問にても、そのこれを学ぶの初めより学問の所用を問わず、唯西洋学問なるが故にとて、これを勉強するまでのことなれば」(「社会の形態、学者の方向」)
と書いたように、これまでの学者と学問というものを殆んど駄目であると考えたからである。彼等を批判するということは、そのまま、学問が実学であり、有用でなければならないということであった。
 福沢は、日本の学問が、古来、無目的で、無責任であったことを攻撃するとともに、そういう考え方に何の疑いもさしはさまず、それに、ずるずると従っていたことを激しく攻撃する。それは、古い考え方を踏襲して、人間と社会を発展させようとしなかった学者の態度に対する怒りでもあった。進歩と発展を志すべき学者が、逆に、退歩と停滞に力をかしてきたということを知った時に、彼は、どうしても、学問観を変革する必要があると決心したのである。
 福沢が、学問は、庶民大衆のものであり、庶民大衆のものでなければならないといったのも、庶民大衆の学問は実学となり、有用となるしかないと考えたためかもしれない。学問観の変革のためには、そうするしかないと考えたためかもしれない。
 というのは、庶民大衆は、日々、現実の課題に直面し、その中で生きるしかないものとすれば、彼等の学問は停滞しようがない。カビが生えている暇がない。次々におこってくる問題は、学問を発展させる。先に、学問は事実の学であり、事象の学であると書いたが、それが実学にもなるのである。
 現代の課題にむきあって生きている庶民大衆こそ、その課題を解決しなくては、人間として、本当に充実した人生を送ることができない。この人たちこそ、学問の必要性と重要性を最もよく知っているということができる。また、その中でこそ、最も、学問の名に価する学問が生まれるということもできる。
 にもかかわらず、学者が学問を独占している。だから、学問がゆがむことになる。福沢は、そのことを、次のようにいう。
「人生学ばざるべからずと雖も、そのこれを教うる者が……人事に不通なるは、兵学の先生が兵書を講じて、兵馬の実地を経たることなきものの如く、その教授は必ず迂濶をまぬがれず。しかるに、今のわが日本国にて、教授の業に従事する人物は、大抵、皆、かつて学問一方の教をうけて、社会の人事に当りたることなき者なるが故に、その重んずる所もまたその一方に偏して、これを重んずることいよいよ甚しく、遂には、人事に処するの方便たる学問の用を誤る」(「社会の形勢、学者の方向」)
 学者だけのする学問というものは、誤まる可能性があり、その学問は、まだ、本当の学問、人のため、世のための学問になっていないというのである。
 恐らく、福沢のいいたかったことは、学問が、学問として、人のため、世のためになる実学となるには、ぜひとも、庶民大衆が参加し、庶民大衆と交流する必要があるということではなかったかと思う。そして、それが、学問を庶民大衆全部に解放していく第一歩であると彼は考えたのである。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 小野梓の学問論

 福沢諭吉は、その一生を費やして、日本人の中に巣食う古い学問観の変革にとりくんだが、その中で、特に、学問する者の姿勢と覚悟について説きつづけた。それは、学問の内容よりも、学問する姿勢と覚悟がまともであれば、学問は当然内容のあるもの、すぐれたものになるという確信であった。そう考える福沢が、国立の大学に対抗して、私立の大学をつくったのは当然であった。彼は、政府に依存しない大学、政府の命令に従わなくてよい大学をつくりたかったのであり、庶民大衆が自立の姿勢をもって、学問にとりくめる大学をもちたかったためである。
 それというのも、国立の大学は、まず、政府に必要な人間をつくろうとしたし、その政府は、あくまで、国民を支配するものとして存立していたからである。人間のための学問、国民のための学問を考える者には、国立大学での学問は、不満を感じずにはいられなかった。国民に自立の精神を教える学問は、国立大学には育ちにくいのではないかと考えたということもあろう。
 この福沢と同じように考えたのが、小野梓である。彼は、大隈重信を助けて、早稲田大学をつくったが、その時、数え年三十一歳の青年であった。
 早稲田大学の伝統である自立と自由の精神、更には、在野精神は、この小野におうところが大きいといっていい。それは、特に大隈その人が政治家として、権力と権勢を求めて、動揺常なき存在であっただけになおさらである。しかし、小野は、わずか三十五才で病死した。五年間という年月は、早稲田大学のなかに、より自由で、より自立的な精神をうちたてるためには、決して、十分とはいえなかったのであろう。だが、小野の名前と存在は決して忘れることができない。

 小野は、学問をするには、自学の精神が最も必要であり、自学の精神のないところに、学問は生まれないし、育たないということをいいつづけた。そして、今の学者には、学生をふくめて、その精神がないともいいきった。彼の言葉によると、「方今、教育の勢を論ずれば、教育は徒らに姑息に流れて、一時をぬすみ、生徒はなお、古人を妄信して、その奴隷たるをまぬがれざるなり。即ち、先進は著作の労を憚り、後進は自学の気象なきなり」(「勤学の二急」)ということになる。
 彼は、それを更に、次のように敷衍する。「自学とは何ぞや。曰く、堆理自明なり。蓋し、他学の力を以て、理を推して、自ら心脳を教養培養し、以て、古人の未発を査出せんとはかる。これなり。
 抑も、学者に自学の気象なきは、東部アジアの通習にして、本邦にありては、儒者とともに、支那より輸入しきたり。その源、すこぶる古く、いまだ、一般に、その罪を以て、これを当今の後進のみに帰すべからざるなり。
 いやしくも、古聖先賢の言行なりと一聞せば、その得失当否を推究せず、直に、これを信ずる者は、また、その通弊なればなり。この通弊や流れて、泥古の弊習となり、二千年の久しきにわたりて、その進歩するを見ざる者は、職として、自学の気象なきによるなり」
 小野も福沢と同じように、徹底的に、これまでの学問観を批判し、攻撃した。学者たろうとする者は、まず、自学と批判の精神と姿勢を自分のものにすることが大切であることを強調した。そして、このことを考えない者は、学問する資格と能力を欠く者と極論した。しかも、昔の学者だけでなく、今日の学者、とくに、西洋の学問をする者に対しても、
「当今、泰西の学に従事する者をみるに、往々、泰西人の言論に酔酣し、全然、その奴隷となりて、自ら悟らざる者多く、その弊や儒家の泥古と一般なり。蓋し、これ、泰西の学を講ずる日尚お浅く、いまだ、以て、自学の気象を培養するに足らざるが故か。はた、儒家の弊風なお学者の脳裏に固結し、いまだ、これを溶解するあたわざるか」といわずにおれなかった。
 学者の名に価する学者は殆んどおらず、そのために、学問の名に価する学問もまた殆んどないというのが、小野の意見であった。
 政府から、その学問、その研究はよくないといわれると、すぐそれを中止し、学生の研究が好ましくないといわれるとそれを禁止する教授会。そこには、小野のいう自立の精神、自学の姿勢は全くない。
 学生たちが、学問の面で、また、学生運動の面で、教授に依存し、外部の指導者によりかかることも、小野が強く否定したところである。だが、既に書いた通りに、学生運動の歴史は、小野の否定した道を歩きつづけている。学者も学生もその多くは、自立の精神、自学の姿勢のないままに、学問をしていると自認している。
 それでいて、教授は、学生に対しては、自分の学説の信奉者であることを要求する。しかも、その学説の多くは、外国の学者の学説を少しばかり紛飾したものである。自立の精神、自学の姿勢のない教授が、学生に、奴隷的であることを求めるのは当然だが、もし、明治十年代の学生たちが、小野の意見をまともにうけ、その意味のもつ重さがわかっていれば、学生運動を学外に求めることもなく、自立と自学を欠いた教授に向かって、鋭く反省を求める方向にいったに違いない。
 単に、教授の講義をノートし、試験の時に、その記憶力、暗記力を徒らに誇るということを拒否できたに違いない。そんなものは、学問の基礎にはなっても、学問といえるものではないといいきれたはずである。
 このように考えると、当時、学生運動が衰退したということは、すぐれた知識人がいなかったからでなくて、ただ一つ、学生が自学しなかった、徹底的に学ばなかったということに尽きる。
 福沢の学問論を述べたところでも書いたが、自立の精神と自学の姿勢が学問にとって不可欠ということは、大学は学問の場であって教育の場でないということである。
 教授の学問に自立の精神と自学の姿勢がないときには、教育の効果をあげられない。学問と教育が、たとえ分離されても、学問がまともにならなければ、いよいよ、教育の成果はあがらない。
 むしろ、今日、学生よりも教授の方に、学問とは何かわかっていない者が多いということがいえよう。知識の量や研究方法については、教授は学生よりもはるかに秀でているが、一番大事な学問の意味、学問の効用について、学生ほどにも考えていない。学問の目的が何であるかを考えていない教授が多い。
 それが、学問を狂わし、駄目にすることを、小野の発言は現代に教えているのである。明治の学者は、江戸時代の学者の通弊をそのまま継承していると、彼はいったが、今日の学者も、学生も、まだ、それから脱却していない。

 次に、小野が説いたことは、
「近時、わが国、固陋の学者は、少年子弟のようやく、自立の精神を涵養し、活溌の気象が登場するをみて、大いに、これをうれい、これを以て、教育の弊なりと歎ず……。
 徳義の教育の如き、その名を以てこれを言えば、論者の所謂徳育に似たりといえども、唯似たるのみにて、智育以外、特に徳育あるにあらず。実に、わが知識を啄磨して、この邪念と競争するの力を養成せしめんと欲するに在るのみ……。
 かの徳義なる者は、論者の所謂知育の発達によって、これを得るものにあらざれば、ことごとく信をおくに足らざるを知るなり」(「教育論」)ということである。
 福沢が、このことを、学問と風俗取締りとの関係で述べていることは先述したが、小野もまた、知育と徳育の関係から究明して、知育以外に徳育というものはないといいきった。
 こういう小野の教育論は、明治以後から今日に至るまでの文部省の教育論とは真向うから対立する。文部省はつねに、知育と徳育とは別個に存在し、成立するものという考え方にたっている。明治・大正・昭和の前期を通じて、学校教育の中心をなした徳育の成果は、戦争中から戦後にかけて、日本人の行動が如何に貧しく、ひどいものであったかということで証明ずみであるが、それを既に、明治十年代に、小野は予言している。
 それにもかかわらず、戦後、また、文部省は徳育に狂奔する。そればかりか、教育の名において、大学にまで、それを拡充しようとさえしている。
 それが可能であると、文部省は、本気で考えているのであろうか。
 学生の行動は、少くとも、その学問に根ざしている。不十分な学問であるかもしれないが、彼らの考えうるかぎりのものである。ということは、学生の行動を導き、支配できるのは、知育だけであり、学問だけである。
 学生が自由に考え、自立して行動することが、教授の指導のわく外に出たということで、文部省は不満に思う。教授たちも当惑をしめす。しかし、小野ならば、そのことを、双手をあげて喜ぶであろう。喜ぶと同時に学生が自由に考え、自立して行動することに対して、教授たちの学問では指導がおよばなくなっているにもかかわらず、そのどうにもならない学問を後生大事にしている彼等に呆れるに違いない。教授たちは、学生たちにのりこえられつつあるというかもしれない。
 教授たちの当惑や、文部省の不満をみていると、あたかも、学生たちに、自立の精神、自学の姿勢をもつなといっているようにみえる。
 小野が、自立の精神と自学の姿勢をふまえて、次のようにいったことは印象的である。
「私は、本校(早稲田大学のこと)の職員で、かつ、改進党員である。
 いま、改進党員の立場からいうならば、本校の学生をことごとく私の主義にしたがわせ、みな、その旗の下に属せしめようと考えるべきである。しかし、私が本校の職員としての立場からいえば、本校の学生を誘って、改進党員に加入させるということはとるべき態度ではない。本校の目的は、学生諸君をして、速かに、真正の学問を得せしめ、早く、之を実際に応用せしめんと欲するに在る。故に、本校の学生は、真正の学問を積むことこそ目標とすべきである。諸君、もし、卒業の後、政党に加入せんと欲せば、諸君が本校で得た真正の学問によって自ら決すればよい。本校は、決して、諸君が改進党に入ると自由党に入ると、ないしは帝政党に入るとを問うて、その親疎をわかたないのである」(「東洋論策」)
 小野は、学問にとって、自立と自学がいかに重要なものかを本当に理解していた。目先の党利党略よりも、自立と自学がもっと大事であると考えた数少ない人間である。それが結果的には、自らの党のためになるばかりでなく、学問の発展のためにも、また、本人のためにもなると考えていた。その点、戦前、戦後を通じて、つねに、学生運動をその支配下におこうとしてきた日本共産党とは違う。
 学生に、自立の精神と自学の姿勢を厳しく求め、その事で学問をさせ、更には、政党を選択させるということをしていないから、学生時代こそ、日本共産党員であり、あるいは日共のシンパであっても、卒業とともに、次第に遠ざかる学生が多いのである。
 小野のいう、自立と自学の伴わない学問なんて、学問に価しないということを考えていない結果である。日共に同調し、依存しようという学生を、おいでおいでと招くのでなく、逆に、つきはなし、つきはなしていくことが必要であることを知悉していないということでもある。
 勿論、そこには、福沢、小野の学問論を継承し、発展させようとする人が殆んどいなかったということにも原因がある。
 例えば、早大教授大山郁夫が、「学問の自由をまもれ」と、学生たちに訴えつづけたことにも、それは、あらわれている。もしも、大山が先輩小野梓の学問論を正確にうけとめていたら、「学問の自由をまもれ」という受身的発言でなく、「自立の精神と自学の姿勢のない学問を大学から追放せよ」という攻撃的発言をしたであろう。それは、「学問の質をかえろ」ということであり、「小野や福沢の発言を、今こそ、早大や慶大で、自分達のものにしよう」ということを全教授、全学生に呼びかけることも出来たはずである。
 新しい学問観は、なによりもまず、早大と慶大においてこそ、普及し、全学のものにすべきであった。それが、「学問の自由をまもれ」と大山が絶唱した時点で、彼がまず、考えねばならなかったことである。そうすれば、教授も学生も、もっと多く、たちあがっていたかもしれない。福沢、小野の発言を拠点とすれば、大学内で、もっと有効に戦うこともできたかもしれない。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 河合栄次郎の教授と学生論

 十五年戦争下の日本の思想状況は、左翼思想の後退と右翼思想が進出していくという状況の中で、学者、知識人の多くを現実の問題から逃避させ、自学と自立の姿勢を一層、失わせていくことになった。しかし、一方では、自分を省み、自分の思想は何であったかという問いを更めて、自分になげかけていった時代でもあった。その代表的な学者が河合栄次郎であり、三木清である。河合や三木は、その時代状況の中でこそ、逆に、学問に、自立の精神と自学の姿勢を問いかえす好機であり、そういう学問しか、時代を本当に指導できるものにならないということを深く感じとった数少ない学者であった。
 常に、外国の学問の中に、日本の当面する課題の解決策をさがし求めるというのが、これまでの学者の一般的な傾向であったが、彼等は、もう、それでは、どうにもならないと考えた。そこから、学問のにない手である教授と学生の現状に鋭い凝視をすすめ、学問の改革、学問にとりくむ教授と学生の姿勢の変革が必要であるという結論に到達した。
 まず、河合の意見からみてみよう。

 河合は、大学教授の現状について、
「学問の教師は、学者であると共に教師でなければならないのに、今日の多くの教師は、研究者ではあるが学者ではない。研究所の研究者は、自己の好む問題や他から命ぜられた題目について、既存の学界の水準を維持し、発展させればそれでよかろう。……しかし、学者は研究者ではない。彼もまた研究者と同じく、専門学科の特定の題目を研究せねばならないが、学者たることの特徴は、学問の全体系における自己の専門の地位を明かにし、隣接した専門との連関を鮮やかに意識していることにある。それをするには、彼は学問の価値である真理を熟視して、真理に至る道程の分化を理解しなければならない。かくて、専門学科の統一とこの統一を通じて、相互の有機的連関が把握される。更に、彼は、学問を越えて、人格の陶冶における学問の意義を理解しなければならぬ。ところが、今日の学者の多くは、専門学科を知るが、学問を知らないのである」(「学生に与う」)という。
 更にあらまし次のようなこともいっている。
「資本主義という組織の中で、それを運用するために必要な部分的知識を要求され、自ら知らざるうちに、知識的部分労働者に転落し、いつか、大学は、専門科学の研究と教育をする所となり、人間と社会とに関する指導原理、いいかえれば、世界観を追求する所であるという考え方をなくしてしまった」
 河合は、今日の学者は、単に知識的部分労働者に転落した専門馬鹿にすぎなくなったというのである。学問の意味と価値を、いつも自分に問いかけながら、専門科学の研究をすることが最も必要なことでありながら、それを考えようともしなくなっているともいうのである。
 その結果、学者は、
「特殊科学が唯、慢然として併立するだけで、その間に、有機的連関が欠如していることになり、民法を研究するものは民法のみ、経済学を研究するものは経済学だけしか知らない」(「第一学生生活」)ということになっても、少しも疑問をいだかない。むしろ、そのことに誇りを感じてさえいる学者が出現していると、彼は嘆くのである。
 そういう学問が、人間と社会を全的にとらえることもなく、従って、生きた人間、生きた社会にとっては、真に有効でありえないという反省も学者におこらない。
 河合は、そういう学者の現状を悲しみ、怒った。政府と企業に使われるだけで、政府と企業をリードし、発展させることのない学問の現状をのろった。
 しかも、現実には、大学教授の詮衡において、単に、研究者の能力だけが問題となり、学者と同時に、教育者としての能力が無視されていることに、河合は、深く絶望した。しかし、彼はいわずにはいられなかった。大学教師はいかにあるべきか、学生に感化をあたえる大学教師はどういうものであるかについて。
「大学教師は、何よりも教育者でなければならない。彼は自らが苦しみ、悩んで人生を生きたものでなければならない。彼は人生を生きるが為に、学問と真理との価値を体験したものでなければならない。彼はかつての自らと同じく、人生の門出に立つ学生に、同情と愛とをいだくものでなければならない……。
 しかし、この名に価する大学教師は、今や何処に姿を隠しているのであろうか。……
 大学の教育と学問とが危機にひんする時に、晏如として拱手傍観していられる教師、学生の師表として、我が如くなれといいうる自信と矜持とを失った教師……」(「学生に与う」)
 河合の大学教授に対する告発は、苛烈であった。だが、誰も、その批判にはこたえようとしなかった。彼の言葉をうけとめて、自分の変革、自分の学問を改革しようとする者もいなかったようである。
 それはともかくとして、昭和十年代は、大学の危機を訴え、それを救う道は、大学教授の学問の変革しかないと指摘したことは忘れることができない。しかも、それは、福沢諭吉、小野梓の学問論を発展させたものとして、特記に価する。

 河合は、それと一緒に、大学教育の内容を改造するように提案した。それによって、教授の学問の内容を変革できるかもしれないという希望もあったであろう。
 彼はまず、大学教育には、「一般的教育と特殊的教育があって、前者と後者とは、対等に並列するものでもなければ、また、何れを選み、何れを捨ててよいというものでなく、一般的教育は必然不可欠の根本条件であって、これなくしては、特殊的教育も、存在の意義をもたない」(「学生に与う」)とまえおきして、
「一般的教育とは、……人間自身を形成すること、また、人間を彼自身たらしめることであり、……特殊的教育とは、一般的教育を前提として、学問、道徳、芸術等を教授することをいう……特殊的教育と一般的教育とは、枝葉と根本の関係にある」(「学生に与う」)と書いている。
 これだけでは必ずしも明かでないが、恐らく、一般的教育とは、今日の大学でいう一般教育であり、特殊的教育とは専門教育のことであろう。そして、その一般的教育とは、彼が「倫理学の講義があっても、抽象的議論に止まっている」とか、「個人と社会の連関が欠けている」とか、「我々の大学には一般的教育はおこなわれていない。実は、教育する人がいないからである」といっていることからも想像できるように、それは、自分とは何か、自分にとって現代とは何か、などを問うていく学問であろう。自分が生きることの意味を問うていく学問といってもよかろう。
 河合が、世界観としての学問を強調したことからみても、また、一般的教育が根本だといっていることからみても、むしろ、一般的教育でねらっているものは、特殊的教育としての専門学科に総合をあたえ、学問としての意味と価値をあたえようとするものであるといいきってよかろう。
 そこに、始めて、学問は、人間の学問となり、人間と学問の関係が正常になってくる。人間を支配する学問になることもなくなる。
 それは、同時に、大学教授が、これまで研究者にすぎなかったことから、学者、教育者として復活し、学生に対しても十分なる指導力を発揮できるようになることであろう。そればかりか、資本主義社会の中で、知識的部分労働者に転落していたことからもたちなおり、人間とその文明が今後どうなっていくか、どうしなければならないか、そのためには、学者としての自分はどう参加しなければならないかも考えさせるようになる。
 しかし、それは、河合の悲痛なまでの願望であり、彼が自分に語りかける叫びにすぎなかったといえよう。彼が生きた時代は、それに耳を傾ける学者がいないほどに荒廃していた。
 だからこそ、河合は、学問観の変革、大学教育の改革を、常に、学生に語りかけるという形で発表した。学生を通してしか、そういう改革は出来ないと考えたか、あるいは、学生だけに期待したか、どちらかであろう。少なくとも、彼は、学生が主体になって、学問観の変革にたちあがることを求めた。
 それ故に、河合は、
「諸君は、自己の努力によって、大学制度の欠陥を補充するの外はない。それを述べるのが私の本来の目的であり、そのためにこそ、大学制度の欠陥を指摘したのである」とか、「大学制度の欠陥は、大学の科目の中に於て、諸君に満足をあたえることが乏しい。諸君は、すべからく、その足らざるを自ら補充せねばならない。この事が諸君の大学生活の門出において、まず、念頭におかざるべからざる点である」〔「大学生活の意義」)と、くりかえして強調している。彼は、教授の学問が変わらないということを見透していたから、学生自身に、その欠陥を克服することを求めたし、その欠陥にめざめた学生の奮起を期待した。
 河合は、また、学生にむかって、
「現下の社会に要望せられるものは、人間および社会に対する指導原理を、明確に把握することである。……“我々は何であらねばならないか”これと当然に接続して“社会はいかにあらねばならないか”という問題が、諸君自身にとっては焦眉の急を要する問題たることは、一度諸君が自らに問うたならば云うを俟たない。この混沌たる社会にたって、旧来の因襲や伝統が権威を失って、あらゆる者が帰趨に迷う時に、愚者でない限り、自己および社会の動向を指導する原理を要請しない筈がない」(「大学生活の意義」)と指摘する。
 しかも、「大学には、指導原理を研究する人も設備もない。何故なれば、指導原理を云々するが如きは、科学の堕落邪道であると考えているからである」というのが現状であった。そうであれば、学生が自ら苦しみ、努力して、それを究明していく以外にない。それが、河合の結論である。こうして彼は次のようにいう。
「諸君は、少なくとも青年学生時代に、静坐瞑想して、沈潜の生活を送って欲しい。赤児の成長は、母の胎児に在る時の長さに比例する。かくて、若し、諸君にして、耳に幽微をきくの志あらば、やがて、運命の神の足音が諸君の門に近づくことを気づくであろう」
「諸君の不幸は、数限りなき受験の生活の中で、知らざるうちに、諸君の中に育てたことは、他人のあたえた課題をいかに答うべきかということのみを考えさせて、自己が自己に課題を与えて、これをとくことの慣習を忘れさせたということである。諸君は、およそ、自己の問題なるものを持たない。常に、他人の投ずる問題を追って奔命につかれている。諸君は問題を自己によって解決しようとしない。他人の教えた解答を暗誦して、手際よく自己の解答なるかの如くに装う戦術になれてきた。かくて、諸君は、一つも自己の為に、自己の足で立とうとせず、他人のために他人の足によって歩もうとする」(「現代学生に与う」)
 河合ほど、あわてて行動するな、じっくりと考え、自分で解答を見出し、それから歩みだせと強調した人はいまい。大学生活というものは、そのためにこそあるのだと、くりかえし述べた。教授にたよらず、自分自身で、一般的教育と特殊的教育をほどこしていけとも書いた。
 こういう発言をする学者が、あの十五年戦争下にいたということは、全く、驚歎に価する。不毛の時代、暗黒の時代どころか、逆に、こういう思想は、あの時代だからこそ生まれたともいえる。
 河合自身、昭和十三年には、その著書の多くが発禁処分になり、翌十四年には、大学を追われ、十九年には、裁判の心労がたたって死んでいくのである。その意味では、彼の思想は、その生存中、殆んど、実ることもなく終わったが、今日に、脈々と、流れ、生きている。今日の学生に、多くを語りかけている。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 三木清の知識人と政治論

 三木は、日本の大学教育には、
「政治教育の伝統がなく、政治教育がないために、日本の知識人には、政治に対する関心もなく、政治的知性も育っていない」とまえおきして、
「人間は社会的動物であるといわれているが、それは、もと、人間は政治的動物であるという意味である。人間はその本質的規定において、政治的動物であり、彼等の日常生活がすべて政治的意味をもっている。彼等は、積極的に政治的であるのでなければ、消極的に政治を回避しなければならぬという意味において政治的である。政治を回避することによって、我々は非政治的になりうるものでなく、政治を回避することが既に一つの政治的意味をもっている。かようにして、人間の生活は根本的に政治的であるとすれば、我々にとって最も基礎的な教養は政治的教養でなければならぬ。政治は道楽であるとか、趣味であると考える時代は、もはや去ったのである。我々にとって必要なことは、いわば、政治を日常化することである」(「知識階級と政治」)
と書く。そして、更に、
「政治的教養もしくは政治的知性においては、何等知識人らしくない者がすくなくない。かような事実の原因が……政治教育の伝統が乏しいことに存するのはいうまでもない」(「知識階級と政治」)といいきる。
 三木には、日本の政治が貧困なばかりか、衝動的な政治活動に支配されているのは、大学に政治教育がなく、知識人に政治的知性がないためとみえるのである。しかも、人間が究極に、政治的動物であるなら、どうしても、政治的知性をもつことから始めなくてならないということになる。そこにのみ、人間が人間として、最も賢く、最も充実した生が可能になろうというのである。
 三木が、大胆に知性の改造を提案したとしても不思議ではない。それを、十五年戦争下の時代に主張したのである。彼は、まず、大学で、政治学の名においてなされる講義の批判から始める。
「政治学は、日本の大学では、主として、政治制度学を出でなかったようである。明治、大正を通じて殆んど唯一の政治学者であると称せられる小野塚博士の政治学は、英米流のいわゆるガヴァーメントの学、政治制度学であり、京都帝大の政治学講座の担任者であった佐藤丑次郎氏のそれも同様である。それ以外の政治学者としては、吉野博士は政治史の専門家であったが、美濃部、上杉、佐々木等の諸博士は、いずれも、憲法、国法学の専門家であるということが注意されて好いであろう。いいかえれば、政治学は、わが国においては思想の学としての伝統をもっていない」(「知識階級と政治」)
 政治学の講義は、根本的に改造するところにきており、そのためには、政治学者自身が他の学者の協力のもとに、思想の学としての政治学、政治哲学をつくることが必要だと三木はいうのである。その時、始めて、技術の学としての政治学から、思想の学としての政治学に脱皮する。それは、人間の学としての政治学になることでもある。河合栄次郎の言葉でいうなら、特殊的教育としての政治学から、一般的教育としての政治学になることである。
 そこから、三木は、更に、これからの知性はどうあるべきか、どうあらねばならないかを究明していく。
まず、
「今日、知性の本性について考えなおす必要が生じている。そこに、知性の改造とでもいうべき問題が存在している」(「知性の改造」)とまえおきして、
「抽象化した知性は、単に批評的となった。もとより、批評的であるということは、知性に本質的な機能である。けれども、その批評が地盤を失うとき、批評は、ただ批評のための批評、批評の批評、批評一般となる。……知性の名において行われるのは、かような批評一般である。そのとき、人は合理性の名において抽象的な可能性のうちに彷徨する、かかる抽象的な可能性の立場においては、一切のものを批評することができる。これが、今日、わが国の多数のインテリゲンチャの陥っている精神的状況である。
 かような抽象化から脱却するためには、知性はまず歴史的にならなければならない。。……今日要求される知性は、歴史的知性でなければならない。しかるに、歴史的知性は行動的知性でなければならない。歴史といわるべきものは、本来行動的現実としての歴史である。知性の抽象化は行動から、歴史から遊離することによって生ずる。……
 批評的知性が創造的な知性になるためには行動と結びつかねばならない。しかるに、行動には、具体的なもの、感情的なもの、パトス的なものが必要である。……
 知性が創造的になるためには、パトスの中を潜ること、直観と結びつくこと、直観をふくむことが大切である」(「知性の改造」)
 普通、学者は、客観的、科学的であることを強調して、主観的、感情的であることを厳しく拒否する。たしかに、思考そのもの、分析そのものの過程では、客観的、科学的であることが必要であるが、思考した結果、分析した結論を駆使するのは、最も主観的であり、感情的である人間そのものであり、人間の行動を通じてである。
 だが、そのことを混同して、客観的、科学的知識にとどまって、主観的、感情的知識になることを学問の堕落と考えている学者が多い。主観的、感情的知識になるということは、人間の行動を通して、客観的科学的知識が、歴史的創造的知性に転換することであるが、学者の多くは、奇妙に、それを軽蔑する。それが、行動しない学者をつくることになったのである。
 三木は、それを、鋭く攻撃する。攻撃したのみでなく、河合と同じように、学者たちに絶望し、学生に期待するのである。

 三木は、当時の大学を次のように書いている。
「大学が学生に対して指導性を有しない一つの理由は、学生の問題に対して、大学があまりに消極的であるためである。例えば、いわゆる学生狩りについて、大学教授は意見を殆んど全く発表しなかったのである。学生の問題を内務省の手に委ねているような大学に指導性があるといえるであろうか。次に、更に大きな理由は、学生をひきずってゆくことの出来るような思想が大学にないということである」(「大学の問題」)
 昔も今も、大学教授がだらしないということではかわりがないらしい。彼の言葉は、さらにつづく。
「大学が学問の研究から遠ざかり、国策大学の位置に転落しようとした時、政府に対し、文部省に対し、大学と学問をまもるという気魄にかけた」
 そればかりか、大学教授のとなえる研究の自由は、「今日の困難な現実の問題を回避することの自由になっている」と、三木の追求は激しい。
 こういう大学教授の学問の現実をみて、学生たちが絶望したとしても不思議ではないが、実際には、殆んどの学生が絶望もしなかったということである。この二つの事実を前にして、三木は、強く、学生たちに向かって大学の改革を語った。学生自身の変革を強調した。
「大学の改革は、今日の課題である。……それは、単に、教師のみでなく、学生によっても自覚される筈であり、また、自覚されねばならないのである。自分の学ぶ学校の教育の理念を自分でも自覚している学生にして真に学生の名に価するのである。
 大学制度の改革は、何等孤立した問題ではない。それは、今日の社会における全体の改革の問題につながっており、あるいは、寧ろこの社会における改革の一般的必要が大学制度の改革をも要求しているのである」(「大学改革の理念」)
 三木は、この時、既に大学の改革は社会の改革の一部であり、それは同時に行なわねばならないと考えていた。しかも、その改革にとりくむ中で、教授の抽象的知性は創造的知性にかわり、学生は歴史的知性を自分のものにできるとみたのである。
 もしも、大学の改革と社会の変革を同時平行的に追求せず、そのための行動をおこさないならば、永遠に、創造的知性、歴史的知性は自分のものにならず、学問をする者の社会的責任と国家的義務も果たすことはできないと彼はいうのである。その意味では、大学教授と学生にとって、大学の改革は、至上命令となる。
 しかも、その時点で彼が考えたことは、
「大学の自治を主張し、要求することの出来るものは、大学の自主的改革をおしすすめるもの、おこないうるものである」(「大学改革への道」〕ということである。今日、論議になっている、大学の自治は教授会の自治であるとか、学生の自治は教授会の自治の一環であるなどということでなくて、大学の改革をすすめようとする者の自治であるといいきったことである。彼の中では、大学の発展と改革を求める学生の参加など、決まりきったことであった。参加への意識のない学生など、指導して、参加意識をもたすべきであるとまで考えていたことになる。
 いいかえれば、大学の改革を志向しないような教授には、自治を語り、要求する資格はないということである。

 三木の考えた大学改革案とは何か。
 まず、第一に、「政治教育をとりいれよ」ということである。それは、学生の衝動的な学生運動、感覚的な学生運動から、理性的な学生運動、学問に導かれ、裏づけられた運動にするために、ぜひ必要というのである。更には、日本の政治の貧困を解決するために、どうしても必要だというのである。学者の政治的無関心と無智が、政治の貧困、政治の暴走を許しているともいう。
 第二は、「大学の統一性と綜合性を実現する」ということである。
 三木はいう。
「日本の大学は綜合大学の形式を具えていても、綜合の実質は殆んど存しなかった。専門的研究はもとより必要であり、これなしには、学問の進歩はあり得ない。けれども専門的分化は、全体の連関のうちにおいて、その意味を自覚しなければならず、専門的知識は一般的教養を基礎として真に活かされ得るのである」(「大学改革の理念」〕これは、河合の主張と同じである。
 第三に、
「日本の大学には、自己の学問と思想とに忠実であるという、真理を愛し、真理に殉ずるという、ヒューマニズム、人格主義が欠けている。とくに、学生に対しては、その個性を見出して、これを発揮させるような教育、その自発的な研究を誘導し、進展させるものが足りない」(「大学改革の理念」)ことを指摘する。それをどのようにして克服していくかということを、彼は述べていないが、それが重要であり、必要であることを強調している。
 第四は、
「大学は理論の意味を理解せしめ、理論的意識を養成すべきであるにかかわらず、それをしていない。……今日の大学はもはや理論を与えるものでなく、ただ、技術を授けるものであり、そのことが、大学の唯一の意義であると云われている。…職業教育の機園に堕していると言われるのもそのためである… 技術の完成は、アカデミズムの特色であり、技術を除いてアカデミズムは考えられない。学生は大学において技術を習得しなければならぬ。しかし、技術には、実際的技術のみでなく、理論的技術もある。大学は単に実際的技術のみでなく、むしろ、理論的技術をあたえなければならぬ」(「大学とアカデミズム」)と主張する。
 このほかにも、三木は、なお、多くのことを改革すべきこととしてあげているが、大学が大学としての機能を果たすためには、最低、以上のことが必要であるといっている。必要というよりも、以上の四点が実現されないような大学は、大学という名に価しないというのである。
 だが、大学の改革と社会の変革は同時平行して行なうものであり、同時に行なわなければ改革できないと考える三木は、教授と学生の上に、政治の貧困という現実がたちはだかっているとみる。
 例えば、「最低最悪の戦争も政治の貧困のあらわれ」と判断する。だから、「現代の政治について、正しい認識を獲得しなければならない」ともいう。そして、「それに対抗しうるものは、知性だけだ」と断言する。そこから、三木の学生への忠告と希望が述べられる。
「運動の中に入ることによって、唯衝動的に動くことは、最も警戒すべきことである。事態が悪ければ悪いほど、我々はそれを冷静に認識することに努力しなければならぬ。通信機関は極度に発達した。しかるに、まさに、その今日においてほど、事実が知りがたくなったこともないのである。我々はこのことを、まず常に心にいれておかねばならぬ。現象に追随してゆく実証論が今日ほど危険になっていることも稀である。今日の実証は明日の実証によって破られるであろう。この時、我々の頼り得るものは理論である。理論に対する信頼が今も変らず、知識人の誇りでなければならぬ」。(「時局と学生」)

 三木は、無法と暴力があばれまわっている時に、そして、彼自身は、その無法と暴力に殺されるというところまでいきながら、あくまで、自らの知性に信頼し、自らの知性によりかかる態度に終始した。勿論、その無法と暴力の前に、国民をまもり、自分をまもるために、無法と暴力に対抗できる知性を考え、そういう知性を創造しようとした。その知性が創造的知性であり、政治的知性、歴史的知性をめざしたことはいうまでもないし、その知性を創造するために、大学と学問を改造しようとした。
 無法と暴力が荒れ狂うのも、それ自身に、政治的知性、歴史的知性がないからと考え、最も迂遠に見える政治教育からやりなおそうとした。三木が獄中で死んでから二十数年、依然として、日本中には、無法と暴力が荒れ狂っている。その間、大学に、彼の考えたような政治教育、思想としての政治学、人間のための政治学の教育が行なわれたということをきかない。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 矢内原忠雄の大学改革論

 矢内原が十五年戦争下、彼の書いた論文をきっかけとして、大学を追放されたことは先に述べた。そして、その時、学問が何のために、また、誰のためになされるものかを考えることもないままに、簡単に、その身をひいたことも既に述べた。
 その彼は、戦後、東京大学に復職し、後には学長となって、数多くの大学論、学問論を展開した。それは、十数年を経た今日でも通用しているばかりか、教授たちの中には、その意見を矮小化してとらえる傾向さえあり、そのことが今日の大学紛争の原因にさえなっている。
 その意味で、彼の意見を、ここで改めて見直してみることは無駄ではあるまい。

 矢内原は、学問について、
「学問研究に際し、ある真理に近づけば、必然に、研究者の思想及び感情に迫って、実行的努力に向わしめる、これを如何にコントロールするや否やは、人々の性格及び判断によるが、人々の心を動かして実行に傾かしむるだけの力がないものは、真の学問でもなく、また、学問を研究するものともいえない。学問は遊戯でもなく銭勘定でもないのだ。研究と信念と実行とは、本来きり離すことの困難なもので、殊に、在学中は研究、卒業後は実行という風に使いわけることは、余程むずかしい。それ故純真で勤勉な若い学生達が理想にもえて実行方面に携わることあるも、むしろ自然の事柄である。……社会は批評によって進歩するというが、実は批評的実行によって進むのだ。旧き革袋をいつ迄も維持せんとする程、社会に対する暴行はない」(「学問は遊戯ではない」)と、非常に明快に規定している。
 人々をゆり動かさないような学問、実行にまでいかないような学問は、学問の名に価しないし、最大の暴力、暴行は社会の進歩と発展をおしとどめようとする力であり、政治だというのである。
 それこそ、彼にとって、人々と社会を発展させようと行動にふみだす者が、始めて、学問をした者ということになるのである。
 矢内原は、更に、次のようにもいう。
「学問の対象は、世界であり、世界は具体性をもつ実在であるから、学問による世界の把握即ち真理の探求もまた、具体性をもつものでなければならない。観念的なる論理の遊戯は学問的ではないのである。もちろん、学問は論理的であることを必要とするが、学問の生命は観念の論理よりも寧ろ事実の論理にある。たとい、観念上の論理に於いては不備と矛盾とを残していても、事実の論理を正しく把握するならばそれは正しき知識であり、かかる知識の基礎の上には、何時かは観念上の論理の不備を克服して、正しき学問が樹立されるのである。これに反して、事実に対する具体的なる認識を誤る時は、いかに観念的なる論理の体系が隙間なく網羅的に出来ていても、それは、全体として虚偽の学問たらざるを得ない。。……
 学問の正当なる態度は戦斗的である。戦斗的とは遊戯的でないとの意味である。蓋し学問の対象は世界であり、世界は、国家、社会、人間等の生きたる実在の基礎たる根本的実在であるから、学問は必然に人間の生活に関するものであり、従って、おのずから実践的たらざるを得ず、実践的たることはおのずから戦斗的たることである。即ち学問は人間の住む現実の世界を如何に完成するかについての認識であり、この実践的目的を離れては学問はないのである。世界について、また、世界における人間の価値と目的とについて人々のもつ認識を世界観という。……この故に、学問は正しき世界観を得るための激しき肉薄であり、正しき世界を実現するための強烈なる戦斗である。現実の世界を完成せんとの倫理的目的なくしては、正しき学問はあり得ず、虚偽と誤謬とに対する激しき戦斗を経ずしては、正しき学問は発達しえない」。(「学問的精神と大学の使命」)
 彼のこの意見に従えば、彼を、その学問故に大学から追放しようとした教授会と徹底的に論争したはずであるが、戦争中には、そうしなかった。おそらく、追放される中で、彼は、このように、戦斗的、行動的な学問を構想するようになったといえるのであろう。
 それは、次のようにいいきっていることからも明かである。
「学問的精神に乏しき教授あらば、これを放逐せざるべからず、学問的自由を解せざる教授あらば、これを免職せざるべからず。教授が相互に切磋琢磨し、真理顕揚という共通目的のために、学問に精励し、学問的精神の澎湃として、横溢するところ、そこに、始めて大学の自由は存在する」(「学問的精神と大学の使命」)といい、さらには、「大学は社会の一部である。故に社会の波動は大学にも及び、大学は社会と共に苦悶し、社会と共に戦斗すべきものである。大学が政治の奴隷とならずして、真理の権威を擁護すべしという立場は、大学が社会の苦しみを外にして、思想の遊戯に耽るという事とは全く異なる。大学は、社会の苦しみを最も深きところにおいて苦しみ、これに対して、一時的なる間にあわせの解決でなく、永遠的意味を有する合理的解決の道をしめし、苦斗する社会の希望となり、良心となるべきものである」。(「学問的精神と大学の使命」)
 もしも矢内原が、戦争中こういう学問観に到達していたなら、大論争がまきおこったであろうし、河合、三木の所論を、あのように惨めに敗北させることもなかったし、学生たちを、もっと、学問そのものに目覚めさせたであろう。
 だが、こういう学問観を彼がもったのが戦争中追放されたためであったとしたら、そのことを問題にするのは無理である。
 しかし、戦後、矢内原が東大に復帰した後に、どれだけ、教授たちの中に、その学問観が確立するように努力したかということは、厳しく問われる必要がある。教授たちの学問観の変革のために、彼自らがいうように、一体、いかほど戦斗的であったか。
 残念ながら、そういう事実のあったことを聞かない。また、そういう事実があったら、今日の東大紛争は、その性格を全く変えていたであろう。
 その点、矢内原が、雑誌「世界文化」に発表した一連の論文は、一般の人々の東大教授への幻想と信頼をつなぎとめることになり、東大教授たちの学問が、戦争中既に破産してしまっていたという批判をもたせなかった。
 矢内原の言葉によって、東大教授たちは、その地位と権威をつなぎとめることになった。そして、彼の言葉、「虚偽と誤謬の学問」をしてきた教授たちが、何の自己批判もなく、また批判されることもないままに、そのまま、「虚偽と誤謬の学問」を続けることにもなったのである。
 その点では、矢内原は、戦争中には知らないために誤りをおかし、戦後は知っていながら誤りをおかした。そして、戦後のその誤りから、彼の意見が矮小化されて受けとめられるという悲劇もおこるのである。

 だが、他方では、矢内原が学生たちに向かって説いた言葉を読むと、彼が、どれほど、その意見を自らのものとして理解していたか、せいぜい、彼の希望的意見にすぎなかったのではないかという疑問もわいてくる。
 学生の、大学と学問に対する責任について、
「大学なる一社会をよくすることは容易ではない。それは教授の責任であり、学生の責任である。両者の共同責任である。学科の種類、講義の内容、試験の制度等、皆学生の利害に最も重大なる影響をもつ。これらを改良するは教授会の責任であるが、学生もまたこれらに関して希望を述べ、意見を提出し得るのみならず、これに関して、平生注意を払う義務があるものと私は思う。大学生には、それだけの能力がみとめられねばならない。
 教授会の議事は多数決で決せられるが、もし、その多数意見が学生の多数の意見と相反する如きことが起れば、それは学生にとって甚しき不幸であり得る。誤解を恐れずして言えば、学生は教授会の監督者たるべきである。教授会に対する最大の刺激は学生よりくるのである」(「学内社会問題」)と、一応、積極的に評価しながらも、結局、学科の種類、講義の内容、試験の制度を改良するのは教授会であり、学生は、それに対して希望を述べるだけと、全く歯切れが悪い。
 しかも、前述の言葉は、アダム・スミスが「国富論」で述べている「大学教授はしばしば社会的必要の碌々ない学科を講義する。また、その講義は往々内容不充実でおそろしくだらしがない。かくも教授の怠慢なる原因は、その地位が安全で、確定的収入が保障せられており且教授会に於て、各教授は相互的利益擁護の立場をとり、相互に極めて寛大にして、自己が義務を怠ることを許されさえすれば、他教授がその講義を怠ることにも同意をあたえんと欲するからである」という言葉を引用した後で述べているのである。アダム・スミスの言葉をまつまでもなく、矢内原自身の体験と観察によって、そのことは、先刻、承知しているはずである。
 むしろ、そういう教授たちよりも、若く、感受性の鋭い、理想に燃え、行動力に富む学生たちの中に、学問的精神は生き生きと脈うっていることを知っている。勿論、学問の入口にたったばかりの学生たちは、学問をする上に必要な分析の能力、事実を認識する能力などにおいて、教授に劣っているが、逆に、教授たちは、学問に必要な行動力や戦斗性が乏しいといえよう。
 ということは、矢内原の
「学生は意見を出し、批判することはよいが、行政の決定に加わるべきではない」(「大学共同体と学生の責任」)という教授会自治を無批判に踏襲しようという意見は誤りであり、学問が学問本来の機能を果すためには、是非とも、学生の参加が必要であるという意見が出て然るべきだ。事実の学であると強調した彼も、結局、現実にある学者と学問の現状には、眼を向けなかったということになる。
 ことに、大学というものが、
「時の政治的権力、宗教的権力に阻害されることなく、真の学問的研究の場であり、学生に学問的精神を伝達する場である」(「国会と大学」)と考えるなら、大学の自治をまもる共同責任は、学生と教授にあるはずである。教授と学生の共同責任でまもらなければ、大学の自治、研究の自由がまもれなかったというのが、これまでの大学の歴史であったはずである。
 しかも、大学から追放されるという、なまなましい体験をもつ彼が、なぜ、こういう不十分で不徹底な考えしか持てなかったのであろうか。
 それは、学問が事実の学であると知りながら、教授と学生の現実を正確に認識するということが、どんなにむつかしいことかをしめしている。彼ほどの学者でも、それを見誤るということである。
 こうして、矢内原は、大学の自治は教授会の自治であり、学生は、それに対して意見を述べるものという意見をつらぬくことになった。
 それが、後に、大内力教授の「東大パンフ」に継承され、東大紛争の一つの原因ともなったのである。しかし、矢内原が「学生は教授会の監督者たるべきであり、教授会に対する最大の刺激は学生よりくる」と記している重さを無視しては、教授会の自治は空手形に終わる。大内教授の「東大パンフ」の考えには、この文章を読んだ形跡はみられない。矢内原の考えを継承しているどころか、矮小化しているといっても過言ではあるまい。
 いずれにせよ、矢内原が「学問の対象は、生きた現実の世界であり、それを変革し、発展させるために、学問には、戦斗性、行動性が不可欠である」と強調した意味は大きい。
 この批判に耐えうる学問を、一体、今日、どれだけの大学教授がやっているといえるのであろうか。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 学生運動の現実と理想

 

 学生をとりまく現代の状況

 昭和35年の安保反対闘争を通じて、学生たちは、日本共産党、日本社会党の指導力の弱さ、とくに、未来社会についての生き生きしたヴィジョンのないことを発見した。それと対照的に、政府と自民党には、底知れないまでの自信のあることを知った。
 しかも、学者、知識人には、その使命であるといってよい新しい社会についての構想とそれの実現の方法について、大胆に提示できる者が殆んどなかった。彼等は、せいぜい「今後は、政治運動から身をひき、研究生活にかえりたい」と発言した清水幾太郎の亜流でしかなかった。
 だからこそ、戦後十五年もの間、彼が論壇で活躍することを許したのである。避難所をもち、また避難できると考える清水が、避難するところのない、常に、ぎりぎりの生活をしている庶民大衆を指導したということは全く茶番である。だが、その茶番が、どうどうと行なわれたのである。
 学生たちは、その事実に鋭いショックを受けた。それは、彼等にいやおうなく、学者とは何か、学問はいかにあるべきかを考えることを求めた。学生たち自身も、そういう清水たちに無批判に依存していたことを考えたとき、その絶望は、更に深いものになった。
 そこから、学生たちの苦悶と混乱がはじまった。共産党、社会党に不満を感じ、学者、知識人の学問に疑いをもった以上、彼等の眼が学問の場としての大学に向いたのは至極当然である。
 学生運動といえば、常に大学外の政治運動を意味してさえいた根強い風習を破って、昭和35年以後、学生たちの眼は、教授の学問を鋭く凝視しはじめたのである。自分たちの思想をつくろうとすれば、どうしても、そのことは必要であった。
 その時、学生たちの眼にうつったものは何であったろうか。

 まず、最初に考えられるのは、学生たちに非常に悪評の高い、一般教育の名の下になされている講義である。
 この一般教育の制度は、一応、アメリカの教育使節団の助言と指導から生まれたものであったが、既に、戦争中、河合栄次郎、三木清の提唱したものと少しもかわらなかったものである。
 既に述べたように、河合と三木は、細分化した専門科学が学問としての機能をとりもどすためには、生きた人間のための学問となるために、専門科学を総合し、統一する以外にないと考えた。かつては、その役割を哲学が果たしたが、今日では、その哲学も専門科学の一つになってしまっている。
 彼等は、そのために、一般的教育といい、一般的教養といったが、各専門科学を総合づけるものとして、同時にそれは、学問そのものの意味づけ、価値づけをはかるものであった。学問する姿勢は如何にあるべきか、学問と人間の関係はどうかということを追求するものであったといってもいい。
 だから、河合、三木は、くりかえし、専門科学は、一般的教養の中で生かされ、位置づけられるものと書いたのである。とくに、三木が、歴史的知性、創造的知性ということを強調したのは、各専門科学を通して学んだ知識は、すべて、その中にふくまれるものという考えがあったからである。
 しかし、大学教授の殆んどは、河合、三木の提唱を受けとめようとしなかった。受けとめようにも、彼等は、自分の学問の欠点、弱点を痛切に感じとっていなかったから、どうしようもなかった。それが、戦後、アメリカ教育使節団の助言と指導をとりいれて、一般教育の制度を実現しながら、せいぜい、一般教育とは、専門教育への予備的知識を与えること、他の専門領域への一般的知識を与えること以上には理解できなかったのである。少しばかり程度のいい教授が、専門にとらわれないで総合的知識を与えることだと理解したにすぎない。
 これでは、高校教育の延長となって、学生たちの評判が悪くなるのも無理はない。

 矢内原忠雄は、一般教育のねらっているものは「人々に必要な世界観を提供するものである」といっている。ということは、一般教育がいかに重要であり、根本であるかということである。専門教育も、究極には一般教育の中に吸収されるものと理解していたことになろう。
 このことを、東大教授で、歴史学者の堀米庸三の発言から考えてみよう。
 堀米は「中央公論」(昭和43年九月号)の座談会で、
「単に話し合いということを、大学の教師は、ある場合に、各面を弥縫するためだと考えがちなのですよ。……
 行動的でない人が多いし、学問はやれるけれども、もう一つ、徹底して考えることに得意でない、そういう場合もある」という平井啓之の発言を受けて、
「それは、近代の学問そのものに関係している事柄だ。狭い専門の領域ならば、それは、大学の教師である以上、学生に教えること以外にないわけです。ところが、そういうふうに、真剣勝負する問題(学生との対話)というのは、自分の専門にしている学問の問題ではないわけですね。それは、根本的には、人間の生き方、人間はいかに生くべきかという問題にまで触れた討論ですね」と述べている。
 東大教授の中での代表的学者堀米が、学生の生き方に対えられぬというのである。矢内原のいうところの世界観を志向しない学問をしていることに、堀米は、少しも痛みを感じていない。不思議と感じていない。
 矢内原の意見にしたがえば、学生に人間いかに生くべきかを提供しえない学問は、学問としては全く不十分ということになる。それ故に、一般教育にたえうる学問としての完成を願ったといえる。
 それにもかかわらず、二十数年後の今日、世界観を志向しない学問が、学問として通用していたのである。学生の要求、生きた人間の疑問に対えられないような学問が、学問として存在していたのである。これでは、戦争中、軍国主義的勢力のまえに屈伏しても、学生を戦場に送って殺しても、さらには、国民の悲惨な生活を見ても、自分の学問がこれでいいかという疑問がおこるわけはない。
 戦中から戦後にかけて、自分の学問を再検討し、学問の再建にとりくまなかったのも無理がない。
 であるから、堀米のような学者まで、「それは、近代の学問そのものに関係したことだ」と、あたかも他人事のように、うそぶいているのである。ことに、歴史学者として、人間の生き方を人間と社会と自然との関係の中で追求している者の発言としては、お粗末というより、退廃としかいいようのないものである。
 もしも、一般教育としての歴史学が、専門科学としての歴史学への予備的、入門的知識でなく、歴史の意味、とくに人間における歴史の意味を中心に、歴史的思考方法とは何かなどを教えるなら、高校の延長としての歴史になるわけもなく、また無味乾燥になりようがない。
 三木が、日本の大学には、思想としての政治学、哲学としての政治学がないといった言葉をかりれば、一般教育としての歴史とは、思想としての歴史学、哲学としての歴史学である。
 そして、河合が、一般的教育を教えうる教授が大学にはいないといった如くに、戦後、一般的教育の制度ができたときに、それを受持つ教授たちは、そういう学問の創造にとりかかるべきであった。しかし、実際には、少数の教授を除いて、やろうとしなかった。かつての大学予科、高専校の授業で、お茶をにごした。
 学生たちから、一般教育が総反撃を受けるのも当然である。そして、一般教育の学問がこういう有様をつづけているから、専門教育としての学問も、依然として旧態のままである。それが、今日、学生たちが、独占資本に従属化してしまった学問として攻撃しているものでもある。

 戦争中、河合栄次郎は、
「資本主義という組織の中で、学者は、それを運用するために必要な部分的知識を要求され、自ら知らざるうちに、知識的部分労働者に転落し、人間と社会に対する指導原理を追求するという考え方をなくするようになった」という意味のことを述べているが、それは、戦争中のみでなく、戦後も続いている。彼は、それを救うためには、専門科学の総合をはかり、人間と社会と自然を統一的にとらえうる学問をつくり、現代がどういう時代であり、どういう未来にむかっているかということを正確に認識する以外にないといいきった。
 学生たちが怒っているのは、河合のめざした学問の再建の方向を、今日の教授たちが歩もうとしないばかりか、進んで教授の多くが知識的部分労働者になり、その結果、独占資本に利用されているということに対してである。勿論、殆んどの教授たちは、積極的に、独占資本に奉仕しているとはいえまい。しかし、教授たちに、どういう善意があろうと、また時代をリードしたいという気持があろうと、知識的部分労働者として、専門科学に埋没しているかぎり、逆に独占資本に利用されるしかないというのが学生たちの意見である。
 今日、学問するということ、学問にたずさわるということには、これだけの厳しさが求められている。それは、福沢諭吉、小野梓が、学問する者として一番必要なものは、自立の精神であり、自学の姿勢であるといったこととも深く関係している。
 知識的部分労働者となって独占資本に利用されるということは、人間と社会をリードして、それを充実させ、さらに発展させるということとは遠いし、人間としての自立の精神、自学の姿勢を欠いている。無論、独占資本に利用される学問の中にも、人間の生の充実と発展はある。しかし、それは、一部の限られた人たちのものでしかない。学問とは、あくまで、すべての人間の生の充実をはかるものであり、それをさまたげているものを教えてくれるものでなくてならない。
 学生たちの見た教授たちの多くには、あまりにも、自立の精神がなく、自学の姿勢がない。ないために、独占資本に従属していることに対して苦痛を感じない。感じていても、それは我慢できないほどに激しくない。
 それは、平井啓之がいっている「教授たちには行動的でない人が多い」ということとも関係している。行動をおこさないから、その苦痛を感ずることも少ないし、自立の精神や自学の姿勢が欠けていることに、それほど不安を感じなくてもすむ。
 教授が学者として行動をおこそうとすれば、自立の精神はどうしても必要だし、西洋の学問や他人の思想の解釈と祖述をしているだけでは駄目だと気づく。自分の思想、そのための自学の姿勢がなくてならないことを知ろう。
「学者に批評的行動が必要であり、批評的行動にいかない学問は虚偽の学問だ」といったのは矢内原忠雄であるが、学者が自ら研究した結論にもとづいて、批評的行動をおこしたくなるのは、学者の義務、責任というよりも、むしろ人間自然の情であろう。
 批評的行動にでていかないのは、学問の内容、性格というよりも、その学問がまだ結論らしいものを生みだしていないためといえよう。そのために、学生への講義という最低の行動において、学者は多くの場合怠っている。
 学生たちは、教授たちが「私は行動をおこしたくない」とか「行動的でないから」とかいう言葉にかくれて、学者、人間としての行動について徹底的に考えようとしないことに不満をもつ。それが、無責任で、卑怯にさえ見えるのである。
 学生たちが、こういう教授たちを学者としては失格者であると見、学問を政府と独占資本に売り渡した者と見たとしても不思議ではない。それは既に学生たちに先だって、福沢、小野が、そのように考え、河合、三木、矢内原がもっと激しく批判したことと同じである。
 今日、それが、同僚の学者ではなくて、学生たちによって批判されているという違いがあるだけである。

 それに加えて、学生たちの絶望をもっと深めるようなことがおこった。それは、昭和40年十一月に発表された「大学の自治と学生の自治」と題する東京大学のパンフレットであり、それをうけて、翌昭和41年十一月に発表された国立大学協会の「学生問題に関する所見」という意見であった。
「大学の自治と学生の自治」というパンフレットの原案執筆者は、東大教授大内力で、それは、東大の公式見解として発表され、学生と教職員に配布されたものだが、このパンフが出ると、全国の大学から注文があり、三万部も増刷した。その中で、大内は「大学の管理運営の主体は教授会であり、学生の自治活動はその範囲にある」と書いた。「学生問題に関する所見」では、この東大パンフレットの精神をうけついで、「大学自治の担い手は大学の教授会にある」とまえおきして、「学生も国民の一員として、憲法の保障する思想、言論、結社などの基本権を享受し、個人として学生が政治的、社会的運動に参加し、市民としての意見を表明する自由は当然尊重さるべきである。しかし、外部の勢力と連携して、大学内に政治的紛争や党派的イデオロギーをもちこむことは、大学本来の秩序の維持を困難にするものであり、大学の自治をおびやかす事態を生じかねない」と発表した。
 この「大学の自治と学生の自治」「学生問題に関する所見」は、矢内原忠雄の思想をうけつぐものといわれるものである。たしかに、彼は「大学の自治は教授の自治であり、学生の自治はその中にふくまれる」と書いたが、同時に「教授会の自治を監視するのは学生であり、大学の自治は教授と学生の共同責任である」ともいっていたのである。
 そこには、矢内原が、政治的権力、宗教的権力から、大学の自治と独立をまもるためには、教授会の自治だけでは不十分であると理解したものが働いていたといえよう。ことに彼自身が、学問の自由をまもろうとしない教授会から追放になったという体験から、教授会は何時、学問の自由をまもろうとしないものに変わるかもしれないという危惧があった。彼は、そういう体験から、教授会の自治をつねに学生の監視下におく必要を痛感した。それは、大学の自治に、学生の参加をみとめるかどうかという制度上の問題よりも、もっと切実に、学生の自治に期待したということである。
 だが、大内は、矢内原の真意を汲みとろうとはしなかった。矢内原のような体験のない大内は、その言葉のもつ重さを理解できないままに、それを削除してしまった。これは、明かに、矢内原の思想を後退させたものである。
 大学自治に、学生の自治をどう汲みいれるかということには、なお、究明しなくてならないものがあるとしても、矢内原がいったように、教授の講義を常に生き生きとした内容のあるものにするには、学生たちの積極的批判、批判的行動が必要である。
 教授の学問が人々と社会の要求に対えうるためには、直接、その講義をきいている学生たちの意見が具体的に生きうるようにすることは、どうしても考えなくてはならない。そのことを考えようとしないで、学生の自治を無雑作に切ってしまうというところに問題がある。
 学生たちが「東大パンフレット」に、国大協路線に、深い失望を味ったのも当然である。
 しかも、国大協路線にあらわれた「学生も国民の一員として、憲法の保障する思想、言論、結社などの基本権を享受し、個人として学生が政治的、社会的運動に参加し、市民としての意見を表明する自由は、当然尊重さるべきである」という見解には、大学教育のねらっているものとは全く矛盾しているものがでている。
 戦後の大学教育は、不十分とはいいながら、一般教育として、政治学、社会学、歴史学などを採用した。ということは、それを通じて、学生に政治的知性、歴史的知性をもたせようとしたということである。それは、学生が政治的、社会的、歴史的存在であるという自覚と意識を与え、政治的、社会的、歴史的行動の何たるかを教えようとしたといえる。
 政治学、社会学、歴史学の講義を学生にするということは、学生が「市民として、政治的、社会的運動に参加して意見を述べる自由は当然尊重さるべきである」というような消極的意味でなく、逆に、国民をリードしうるような学生になってほしいという積極的意味がある。
 三木清は、「大学に政治教育がない、だから衝動的感情的活動に終始している」と書いたが、今日の大学は、政治教育の制度をとりいれながら、政治教育の何たるかを考えようとしないだけでなく、学生の政治的社会的行動を抑えようとしている。
 学生の政治的社会的行動に内容と意味を与えようと積極的にとりくむかわりに、それを排除することによって大学の秩序をまもろうとしている。大学に、秩序よりももっと重要なのは、学問する熱気と意欲であり、学問をめぐって教授と学生が、指導し指導される姿勢である。大学に必要な秩序も、学問創造のための秩序であって、それ以外のものではない。教授が学生の尊敬を得、学生に対して、もし、権威を得ようとすれば、それは、学問によるしかない。
 教授たちが、その学問と業績によってではなく、過去の慣行にしたがって、その位置をまもろうと必死になればなるほど、学生たちは、それは、学問と全く無関係であることを知り、呆れかえるだけである。

 学生たちが、次に、その眼を大学外に向けたとき、そこに発見したものは、大学内のそれと同じ性質のものであった。しかも、それは、大学の学問の内容、性格と深くかかわりあうものであった。
 その一つに例えば労働組合がある。組合幹部の特権化であり、組合がどこまで、真剣に、組合員の精神的物質的向上をはかっているかという問題である。幹部の堕落ぶりは、時々、週刊雑誌の材料になり、その貴族化が攻撃されながら、多くはその地位にあぐらをかいて安住している。資本主義社会の現状を無条件に肯定して、確たる批判の視点がなく、それ故に、組合員の精神的物質的生活を充実し発展させようというものがでてこない。
 組合幹部の仕事は、毎年きまったように行なわれる賃上げのためのスケジュール闘争を組むことぐらいに考えている者もある。賃上げをすれば、万事は、それで終りと考えている者もある。
 組合の中がそういう空気につつまれているから、組合専従となって活動するという者もだんだん少くなる。そればかりか、そういう人たちの出現を組合側が躍起になって邪魔をするという動きすらある。そのために、組合幹部になろうとする者がなく、いつのまにか、会社側に推薦された者が立侯補するという有様である。
 現在、こういう状態になっている組合は多い。しかも、このような傾向が、昭和元禄といかれる昨今、ますます強まっている。それが、マイ・ホーム主義、テレビ、レジャーなどと結びついて、いよいよ拡がっていく。
 学生たちは、卒業とともに、そのような社会の一員になるということに、強い不安をいだく。自分たちもまた、いつか、彼等のようになっていくということに恐怖を感じる。彼等の中には、自分たちがそうならないという保証をどこにも発見できないのである。彼らの焦躁感はこうして深まってゆく。
 しかも、組合幹部を思想的にリードしているのが、学者であり、自分たちの教授であると考えれば、教授に向かって、不信をぶっつけずにはいられなくなろう。教授の学問を問題にせずにはいられなくなろう。
 学生たちを怒らせるものは、それだけではない。日本の政治、経済の内側を見たとき、そこには、資本主義そのものに毒されて人間の行動すべてを金銭に換算してみるという傾向が支配的となり、美や善の価値までも、金銭で考えるという状態になっている。大学名や学問的業績が金銭ではかられるようになったことはいうまでもない。人間の生命よりも企業の発展を重視するという、資本主義のもっとも悪い面まででる。今日では、完全に、人間が金銭の奴隷になり、金銭の亡者になっている。
 それでいて、大人たちは、本気になって、これを是正しようとしない。それが、戦争という、人間にとっての最大の悪が横行するもとになる。それを許す日本の社会となる。
「戦争は政治の貧困の延長である」といったのは三木清であるが、政治学者をふくめて、学者全体の怠慢である。戦争という大悪にとりくむことは、ガンにとりくむことよりも重要である。
 今日の学者の最も大きな課題は、これととりくむことであり、それは、政治学者だけの能力で解決できることではない。経済学者は勿論、文学者、美学者、心理学者、教育学者など、すべての学者の叡智を必要としている。かつて、総合の学としての哲学を追求したカントの最大の関心事は「平和」ということであり、ヘーゲルがその全力をかたむけて究明しようとしたのは「政治」であった。
 学生たちが、日本や世界の状況を凝視したとき、最後の注目が教授たちに向いたということは、彼等の凝視がまともであり、正確であったということである。
 現代社会と人間の退廃と荒廃を救おうとすれば、学問そのものを何とかする以外にないと考えたということは非常にすじがとおっている。
 幕藩体制の危機を感じとり、それを救ったのは、幕末の二十代の青年たちであったが、今日の危機にとりくもうとするのも、同じように、若い学生たちである。学生たちは、よく、今日の危機をのりきれるであろうか。それを克服してゆける叡智と勇気を自らのものにすることができるであろうか。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 新しい大学像

 現在、大学生の数は、150万人に達し、大学数は、一千を数えるという状態であるが、今後、大学生の数は、いよいよ増加していく傾向にある。そこから、大学の大衆化ということもいわれだしたし、新しい大学像をさぐる動きは、新しい社会のヴィジョンを模索する動きの中で、ますます盛んになっている。それというのも、新しい大学像は、これからの学問の内容を規定し、その学問の内容が、新しい社会のヴィジョンを決定することにもなるからである。だから、新しい大学像をどのように考えるかということは、そのまま、今後の人間がどう生きるか、どう生きうるかという鍵をにぎっていることでもある。その意味で、新しい大学像を究明する動きが熱っぽくなるのも当然である。
 そういう時に、相変わらず、これまでの慣行に従って、大学を運営していきたいという教授たちがいるとすれば、既に、彼等は、人間と社会をリードするに足る学問の創造という課題を自ら放棄したことになる。今日の荒廃した社会、退廃した人間を直視することさえやめた学者たちである。そういう彼等には、新しい大学、新しい社会をになう能力は、もはや、全く失われたといってもいいすぎではない。
 では、新しい大学像とは何か。ここでは、主に、新しい大学像の方向を考えてみることにしたい。

 まず、大学の大衆化とはどういうことであり、それをどのように受けとめるべきか。必要なことは、学生数が多くなり、従って教授の数もふえて、学生、教授ともに、学問的能力、研究能力が落ち、これまでのような研究の水準を維持する者は少なくなってしまったということを指摘し、その対策をどうするかということではない。この認識から生れた対策が、大学院大学をつくろうということであるが、大学の大衆化とは、そういうことを意味していない。
 大学の大衆化とは、本来、学問の大衆化というべきものであって、学問を必要とし、学問を学んでいこうとする人々がふえてきたということである。学問をしていくことの出来る経済力をもつ者が増加したということである。
 勿論、学問を必要とし、学問を学んでいこうとする欲求をもつ人が増えたといっても、その多くは、せいぜい、就職の条件、世俗的出世の条件をよくしたいという考えからきているということはいえようが、いずれにせよ、学問をしたいという人がふえたことに変りはない。
 他方では、現代社会という、複雑で高度な社会が、学問をした人々を多く求め、必要としているということもあって、学問をする人々をますます増加させている。
 といっても、現在の大学生の数は、同一年令の中の十五、六%の青年でしかない。女性の場合は、たかだか、五%弱である。学問の大衆化という状況には、まだまだ遠い。それこそ、学問をすべての人間に解放し、一人一人の人間が学問の必要を感じとり、その学問によって、一人一人が、人間として価値ある生活、充実した生活をするようにならなくてはならない。
 福沢諭吉のいったように、学問することによって、政府から独立し、外国から独立できるようにならなくてはならない。だからこそ、彼は、「飯をたき、風呂の火をたくも学問なり」といって、庶民大衆に学問の必要なこと、庶民大衆の学問の方向を説いたのである。
 しかし、福沢の言葉があるにもかかわらず、学問を庶民大衆の学問として発展させる方向をとらずに、逆に、学問とは、庶民大衆に縁のないもの、庶民大衆には理解できないものというようになっていった。そして、いつのまにか、学問とは、小学校や中学校で、学校の成績が抜群な者のみがやれるものだというようにしてしまった。学問が誰にも必要なもの、誰にもできるものであるということを考えさせないようにしてしまったのである。
 今日、殆んどの人がそのことを疑おうともしない。大学の大衆化、学問の大衆化ということは、これまでのこういう常識に対する挑戦であるが、大学院大学をつくろうとする考えは、その常識をそのまま通用させようという人たちの考えである。学問をすべての人間に解放していこうとする動きに反対する動きであるといってもいい。
 今日、最も明確にさせておく必要のあることは、学問の大衆化ということであって、大学の大衆化ではないということ、そして、学問は一人一人の人間に必要であるとともに、誰でも学び、発展させることができるということである。
 学問とは、学校の成績が抜群な者のみができるのでなく、誰もがやらなくてならないもの、そういう学問として、今後、学問を建設していくことが必要である。誤解をおそれずにいえば、学校秀才には、他人の学問、とくに、西洋の学問の紹介、解釈、祖述には、適当であっても、自ら苦しみ、悩み、考えることがなければ、また、人間の中の約八割をしめる普通人の苦悩が理解できなければ、その学問は、到底、人間と社会をリードできるようなものになることはない。彼等はともすると徹底的に考えきるということがない。試行錯誤するということも少ない。これまで、彼等の学問が、あまり、人間を指導できなかったのもそのためである。
 かつて、津田梅子は、「戦争をなくするためには、政治を男性の手から、女性の手に移すしかない」といったが、今日、学問を、学校秀才の手から、普通人たちの手にとりかえすことが、学問の機能を本当にはたさせることになるといえるのかもしれない。
 その意味で、これからの大学は、学問を一部の学者のものとせず、すべての人間に解放するように努力しなくてならない。その先頭にたって、戦うものでなくてならない。

 勿論、その時、学問は、これまでのようなものと違って、庶民大衆誰でも理解し、理解するだけでなく、発展し、創造するものでなくてならない。発展し、創造してこそ、学問といえるのである。では、どのようにして、誰にでも理解でき、創造できる学問は可能なのであろうか。
 ここで、更めて、もう一度、福沢、小野が、学問するには、自立の精神と自学の姿勢がなくてならない、それのない者の学問は学問としては不十分であるといったこと、更には、河合、三木、矢内原が、学問は指導原理であり、世界観であり、それを志向しない学問は、研究ではあっても、学問とはいえないといったことを考えてみたい。
 自立の精神をもつということは、人間が人間としての独立をたもちたいということであり、誰の支配、拘束をも受けたくないということである。それが政府の支配であろうと、学者のいうことであろうと、それに、無批判的、無条件的に従いたくないということである。それは、どんな権力も権威も認めたくないということでもある。その時、人間は始めて、支配される状態から、支配されない人間となり、自分自身に、自分自身の人生に、誰からもおかされない価値と意味をあたえようと考えだしたといえる。
 その精神が、そのまま、学問を必要とするということを気づかせることになる。その自覚が、学問なしには、その目的を達することはできないということを教える。勿論、学問を通して、人間に自立の精神がなくてならないということを、いよいよ、はっきりと意識するようになるということもあるが、自立したいという要求が学問の出発点であり、この自立の精神は、人間なら誰でも持っている。また持たなくてならない最低の要求である。
 学問が誰にでも道を開いており、誰でも学ばなくてならないものだというのは、そのためである。
 次に、自学の姿勢がある。自学とは、自分自身を主体とし、出発点として、自分で学び、考えるということだ。自分で考えなければならないということである。それは、そのようにして、学び、考えたものだけが、自分自身の考え、身についた考えであり、その考えだけが自分をまもり、自分自身を充実させ、発展させることになるからだ。単に、知識として、知っただけでは、それが如何に多くても、また、その知識がどんなにすばらしいものでも、それは、生きた力をもたない。肉体化された知識だけが、その人をまもる。そのことは、かつて、庶民大衆のためにといって学んだ社会科学の知識が、当の学生は勿論、庶民大衆を裏切ったことでも明かである。清水幾太郎の尨大な知識が、清水だけでなく、庶民大衆をまもらなかったことをみてもわかることである。
 記憶した知識でなく、自学する姿勢の中で学び、考えだしたものだけが、生きた知識である。そして、こういう自学の姿勢は、誰でも持つことができる。困難なことではない。ただ、これまで、学問は、自学の姿勢から生まれるということを見落していただけである。 勿論、自学の姿勢を持ったからといって、誰もが、カント、ヘーゲルのように、マルクス、レーニンのようになれるとはいえないが、彼等が創造した学問の方向は歩むことができるし、現実にいる学者の多くが彼等のエピゴーネンとなり、単なる祖述者にしかすぎないのとは違う。そればかりか、エピゴーネンにすぎない学者の学問が、殆んど、現実に生きて作用しないのとは違って、生きてくる。
 そして、このことは、そのまま、河合、三木、矢内原のいった指導原理、世界観としての学問に結びついてくるのである。
 というのは、指導原理といい、世界観といっても、それは、結局、人間、社会、自然を貫くそれぞれの原理をふまえて、人間を指導し、人間に役立つように構想した統一的世界観のことである。人文科学、社会科学、自然科学とバラバラでは、世界そのものを全的にとらえることができず、とらえることができなければ、現代の人間がどうあるべきか、また、どうありうるかを明確にできない。そのことから、河合たちは、各専門科学を学問として総合し、統一しなければならないといったが、人間は誰でも、この世界に直面している。人間、社会、自然にとりかこまれて、生きている。
 庶民大衆が、もし学問は自学であり、その自学は、この世界の認識、人間、社会、自然の現状を認識することから出発し、それを分析することにあると知らされたなら、彼等は、すべて、自分たちが学問する過程の中にいるということを知ったであろうし、彼等の行動は、人間、社会、自然についての正確な事実認識と透徹した分析なしには、一歩も進めないということを容易に理解したであろう。
 学問の中にあるばかりか、学問とその創造なしには、自分たちの行動は駄目だということを知ったであろう。そして、金と時間が許すなら、そういう学問なら、容易にできるもの、また、しなくてならないものということを理解したであろう。
 これこそ、学問は誰にでもでき、誰もがしなくてならないものといった理由である。そして、こういう学問の前に、学者は勿論、学生も庶民大衆も一様にたっており、究明し、発展させなくてならない課題をになっているということである。
 そのことを、最も明確にいったのが吉田松陰で、「教師も学生も、ともに、現代の課題を究明しなくてならないということでは同じである」と、その弟子たちに語って、自分と一緒に、その課題にたちむかってほしいと要求した。彼にとって、自分が弟子たちよりも、少しは事実認識や分析能力がすぐれているということは問題ではなかった。この人間、社会、自然をどうするかということが明かになっていない以上、また、もし、それが明かになったとしても、どうして、それを実現するかという方法が明かになっていない以上、何もわかっていないのと同様であるという自覚である。
 それを実現するための行動にふみださない以上、その結論は、まだ、その人のものになりきっていないという考えである。
 その意味では、河合、三木、矢内原が、学問と行動を統一的にとらえたことと同じである。そして、庶民大衆というものは、すぐれた考えを持てば、その考えに即した行動を、おこさずにはいないだろう。行動をおこさないのは、大抵、その考えを他人から注入されたためである。自分自身の考えでない以上、行動をおこさないのも無理はない。

 次に、吉田松陰が、「教師と学生はともに現代の課題を究明するという共通の仕事をもっている」といったことに関連して、新しい大学においては、教育は如何にあるべきか、如何に考えるべきかを考えてみたい。
 松陰は、教師というものは、人間、社会、自然の原理の究明という点では、たしかに、学生に先行していると考えたし、その限り、教師と学生は違っているといった。しかし、その違いは、同時に、学生よりも教師自身の方に、その先行者、先達者として、人間、社会、自然の原理究明という課題が重くのしかかっているということであり、人々と社会を指導する責任と義務は、ずっと大きいということであった。
 普通、大学とは、教育と研究の場であるという。そのことには、間違いないとしても、その時の教育という言葉には、小学校、中学校、高等学校の児童、生徒を教育するのと同じ意味をもたせて使っている。そこに、大きな違いがあるということを考えようとしない。大学教育の混乱と混迷もそこから起きていることに気づかない。
 では、その違いとは何か。
 一言でいうと、小学校、中学校、高等学校の教育とは、今日までの人類の文化、人類の遺産の伝達であり、大学教育とは、それをふまえて、創造、発展させることである。創造、発展させる姿勢と方法を学生自身に自得できるように指導することであるといってもいい。
 だから、小学校から、高等学校までは、可能なかぎり、教師が教科書を通じて与える知識を、正確に、より多く把握することに主眼がおかれる。高校生における創造力といい、批判力といっても、そういう能力をもつように配慮はしても、主眼は、あくまで、より多くの知識を正確に把握することである。
 それに対して、大学では、高校までの知識をふまえて、人間、社会、自然を自分自身で直視し、分析し、認識することに主眼がおかれる。彼等自身の直視、分析、認識が、高校までに学んだ知識に訂正を求めることもあろうし、また、発展させることもあろう。そういう思考、分析、認識の過程の中で、自分自身の肉体化された知識も生まれるのである。批判力、創造力もつくのである。
 自立の精神をもつことによって、学究への意欲、姿勢がますます深まり、強くなることはいうまでもない。
 その意味では、高校時代に、自立の精神に目覚める者もあり、大学生になっても、それに目覚めない者もあって、一様にはいえない。しかし、一般的には、高校の教育と大学の教育には、こういう決定的な違いがある。高校までの教育が、主として、教師や両親からの受身的教育であるのに対して、大学のそれは、教授や書物、時代や社会の指導をうけながらも、それを媒介として、あくまで、自分が自分に対してする教育である。自己教育であるといってもいい。また、それ故に、大学の学問とは、自学であるということばを使うのである。
 大学は、教授によって教育されるものでなくて、自分が教育するものである。いいかえれば、高校までの生徒は、教師の保護下にあるが、学生は教授の保護下にはないということ、むしろ、教授からは突きはなされるものでなくてならないということである。学生は、逆に、教授を突きはなさなくてならないといってもいい。
 しかし、今日は、教授に甘え、教授によりかかる学生があまりにも多いし、教授の側も、学生を甘やかし、いつまでも、教授自身によりかからせようとしている者が多い。女子大学では、その殆んどが、そういう傾向をもっている。
 こんなところに、大学の教育が成立するわけがない。
 教授も学生も共に、指導原理を追求し、世界観を志向するものである以上、その学究生活はどんなに厳しくても、厳しすぎるということはない。
 かつて、福沢諭吉は、「教師の学問に内容がなく、人々を導いていく気魄がないと学校は乱れる」といったが、今日、大学紛争がおこっている理由は、教授に現代社会をリードする学識と気魄がないということ、新しく指導原理、新しい世界観を追求する厳しさが欠けているということである。
 教授たちに、吉田松陰のように学生の先頭にたって、現代の課題にとりくむという姿勢と覚悟がないためである。そういう姿勢をもつ教授が全教授のなかの三割から四割をしめれば、大学に紛争がおこれと願ってもおこりようがない。
 学生たちは、学ぶのに忙しく、そんな暇はないはずだ。

 最後に、今日の大学問題の焦点になっている学生の自治について考えてみたい。結論を先にいうと、大学の自治に学生の参加をどのように加えていくかということが、今、大学問題を論ずる人々の中心になっているが、それは全く、ナンセンスに近い。
 今日、既に、議会民主主義が、税金ばかり使い、しかも議員になりたい人間と議員という地位に安住する人間をつくりだし、国民を忘れた政治に血眼になるというところまで堕落してることは、少し政治に関心をもつ者なら誰でも知っている。ということは、大学の制度がどのように民主化されても、それを運営する教授と学生に、その人を得なければ、何もならないということである。
 形式的民主化など、むしろ、大学には、なくていい。そんなものの上に安住しては、かえって困る。大事なことは、大学運営の民主化などでなくて、生きた人間のための学問を創造できるようにすることであり、そういう学問は制度から生まれるのでなく、教授と学生が生みだすものだということである。世界観や指導原理を志向する学問をつくりだそうという、教授と学生の姿勢と覚悟がつくりだすものである。
 教授と学生に、その姿勢と覚悟がなくては、たとえ、制度を民主化しても、魂のない形骸と同じで、何も期待できない。ことに、今日の教授たちの多くには、生きた人間のための学問を創造しようとする熱意もなく、また、研究の自由をまもろうとする気魄もない。学生たちの多くも、学問の研究や大学自治に全く無関心で、徒らに遊びに精を出し、卒業証書をもらうことにのみ一生懸命になっている。そのために、一部の学生の激しい行動を許すという結果になっている。
 大学という社会に生きる学生でありながら、更には、政治学、社会学、歴史学などを学びながら、政治的、社会的、歴史的な意識や知識も育てることなく終わっている人たちが多いが、その政治的、社会的、歴史的意識から、自治意識が生まれてくるのである。
 学生の自治意識、そのあらわれとしての学生運動は、学生が学生であることの最低の意識であり、権利である。
 むしろ、今日の大学に必要なことは、制度の民主化でなくて、全大学生の政治的、社会的、歴史的意識をどのようにして育てるかということである。どうやって、自治意識に目覚めさせるかということである。
 吉田松陰が、学生の自治能力をたかめるために、三人一組の自治組織をつくり、その中で、それをのばしていったということも参考になろう。要するに、全学生の自治意識、自治能力から生まれる学生の自治が大事である。同時に、全学生による学生の自治の重要さ、必要さを、全教授が知るということである。
 教授会の自治ということを主張する教授たちの中に、その実、教授会の自治が教授一人一人の自治であるという認識、自覚をもたず、自治に無関心な学生たちのように、無関心な者が多い。関心はもっても、ただ単に、イエスマンに終わっている教授は非常に多い。
 教授会の自治、学生の自治といっても、それは、今日、全く空洞化している。それから如何に脱するかに、最大の課題がある。そして、それは、結局、教授と学生が、どういう学問をするかに、何のために学問をするかにかかっている。
 大学が、学生の自治意識、自治能力を教育するところであると考え、一部の学生の自治活動、学生運動を衝動的なものに走らせないように考えるなら、大学の秩序も、その観点からみる必要がある。秩序があって、その枠の中で、教育したり、活動するのでなく、むしろ、時として、既成の秩序を、破るぐらいでなくては、本当の教育訓練はできない。
 大学に秩序というものがあるとすれば、それは、無秩序の秩序とでもいえるものである。大学を高校、中学と混同することほどナンセンスなことはない。
 しかし、実際には、大学を高校、中学と混同し、学生活動、自治活動を禁止している大学は非常に多い。これは、大学教育というものを深く考えていない証拠である。

 以上、新しい大学像として、四つのことを考えたが、現実の大学は、あまりにも、これと遊離している。甚しいところは、学生に学問を教授するというよりは、利潤を追求するために、大学を経営しているところもある。
 そのために、沢山の学生を裏口入学させるし、学生に、学問のきびしさを教えようともしない。学生たちは、それをいいことにして、遊ぶことしか考えない。
 だから、学生には、自己教育の姿勢が育つわけがない。大学が駄目になっていることでは、俗に一流大学といわれるところでも同じである。そこには、全くといっていいほどに、社会と人間を導こうとする学問が、指導原理と世界観が志向されていない。そこに学ぶ、教授と学生の多くは、エゴイズムに徹し、自分だけの出世と名誉を追うことに汲々としている。自分だけの興味と関心に埋没してしまっている。学問の本質と使命はどこかに忘れられてしまっている。
 大学と学問の改革を求める動きが、もし、おこらないとしたら、その方がおかしいというのが、今日の情況である。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 今日の学生運動

 明治以後一貫して、学生運動といえば、学外の政治運動、それも、政党もしくは、政治思想家の指導によりかかるものでしかなかったのが、最近、その眼を大学内に向けるようになってきた。教授たちの学問に批判の眼を向けるようになった。それが、最近の学生運動の特色ということができよう。彼らは、ようやく、人間と社会が進歩しないのは、それを導くべき課題をになう学問そのものに欠陥があることに気づき始めた。そんな学問をすすめている教授たち、それを許している大学そのものに疑問をもち始めたのである。そこから、まず、大学の自治問題を中心とする大学斗争の火がもえあがった。
 学生たちの推しすすめる大学斗争、中でも、教授たちの学問を批判し、追求する動きは熾烈であり、執拗であった。だが、それと同じほどに、教授たちも、自らの学問観に執して、一歩も退こうとしなかった。そうなると、学生と教授は激突する以外にない。
 学生たちの、果敢で、過激な行動は、それまで、大学と学問の問題に無関心、というより無知だった学生たちの多くを考える学生に変貌させた。
 そのことを最も明かにしめすのが、成蹊大学助教授鶴見和子の次のような報告である。
「わたしは、日本の大学で教えるようになってから、まだ三年目である。去年は、教壇の上で、しゃべりながら居眠りしそうになるのをやっとがまんしていた。いくら質問しても、意見をもとめても、学生はだまりこくってなんの手ごたえもなかったからだ。ところが、今年はにわかに状況が変化した。学生数は合併のため倍以上になり、肉声はマイクによる講義に変った。にもかかわらず、わたくしは居眠りなどしているどころのさわぎではない。“先生は先程から分類ばかりやっていますが、それでは人間はバラバラにされ、人間不在になるのではありませんか”などという質問が、階段教室のどこからか、わたくしめがけて放たれる。そこで、わたしはひらき直って、その日の予定に入っていなかったことがらまでしゃべりまくる破目になる。そして、社会規範の分類などしちめんどくさくてつまらないと思っても、これをつかって、人間の思想変化と社会の構造変化の関係の分析ができるのだなどという具体例を示したりする。……人数が少なく、相互交流に主眼をおく演習では、もっと活発である。たとえば、リプセットの“政治社会学”という論文の報告をした学生は、つぎのような提案をした。演習参加者がひとりひとり、自分の経験にもとづいて“民主主義”とはなにかということを、いってみようではないかというのである。日頃、寡黙な学生もふくめて、それぞれ自分のコトバで意見をのべ、また、たたかわせあった。……
 これは、わたくしの演習の一つのクラスにかぎられた意見ではない。今年の夏休みに入ってすぐ、学生の文化会の主催で、三日間にわたって、各学部連合の自主インター・セミナーが開かれた。“日本の近代化”というテーマを学生自身がきめ、六名の教師を学内から自力でやとい、学校での学部所属とは関係なく、各自が好きなセミナーに参加して、それぞれのセミナーで、あらかじめ選択された本をめぐって、午前八時から午後九時半まで、びっしりと論じあった。このような学生の自主セミナーは、わたくしのいる大学では、今年がはじめてのことである」(「展望」昭和43年九月号)
 そればかりか、大学教授たちにも深い影響を及ぼし始めた。
 東大教授平井啓之は、
「かつて魯迅の周囲に集まった北京大学の学生たち、あるいは、李承晩を失脚させた京城の学生たち、あるいは、現に第三世界の諸国で果されつつある学生たちの動きの役割は、必ずしも自国の世相の反映ではないはずだ、彼らはいつでも自分たちの祖国の民族的宿命を、社会に先んじて、先取したのではなかったか、それに比して、わが国の戦後の学生運動は、そのような意味で社会をリードし得たことが一度でもあっただろうか。また、将来も果たしてそのような可能性をもつであろうか…高度経済成長をうたう池田内閣のもとにあって、安保以後には、もはや学生運動の季節は終ったと語られていた当時の状況をみつめながらの私の感慨は、このようなものであった。……
 しかし、この春以来の東大紛争には、それまでの私の大学教官としての経験にはなかったあたらしい要素があることを、私はある時期から感じはじめた。そのあたらしさとは、一言でいえば、問題が大学の内部にひそむ矛盾から発し、したがってその発展の方向も、その矛盾を解消するための大学民主化の形をとっている点にあった。」(「中央公論」昭和43年十一月号増刊号)と書いている。
 そして、更に、平井は、次のようにもいうのである。
「教官側が、その彼等の痛切な関心事について、それが政治とかかわりのある問題であるがゆえに、何の関心ももとうとせず、他人事として無視し、アカデミック・フリーダムの聖域に身を安んじているならば、どうして、彼らとのあいだに共同体的な関係をきずくことができようか。私は、そのような態度によって守られるアカデミック・フリーダムは、それ自体すでににせものに堕している」とまえおきして、「政治の問題をさけて通ることのないような可能性を実現しえた大学でなければならない。」
 しかし、他方で、学生自身は、逆に、彼等自身の深い泥沼におちこんでいくことにもなった。
 その第一は、新しい学問を求めて出発した行動が、いつか、その学問を求める姿勢を見失い、むしろ、新しい学問を否定するような過激な行動に陥っていったということである。少なくとも、彼等は、最初、現在の学問に対する教授たちの自己批判を求め、そこから、教授たちが再生することを求めたはずである。また、そのための大学自治についての再検討を、求めたはずである。
 だが、教授たちが、それに応ずる気配さえないと知ったとき、学生たちは、一気に過激な行動にでた。ゲバルトまで用いる挙にでた。それは、新しい学問の否定以外のなにものでもない。新しい学問に導かれた行動をおこすべきときに、学生たちは、かえって、従来の過激な政治行動に走ってしまった。
 政府の暴力を批判し、否定する学生たちが、自衛という名の下に、同じ行動にでたのである。これは、今日、政府が自衛権という名の下に、軍隊をつくっていることとかわらない。これは、新しい学問の創造に自信がない結果であるし、極論すれば、学生自身で、新しい学問を創造していこうとする意欲も姿勢もないということになる。学生自身が自分たちを信じきれない、また、信じきっていないということでもある。新しい学問を創造できると信じていないから、そのあせり、その不安から、過激な行動に走っているともいえる。
 かつて、幕末の塾生たちの多くが、新しい社会をつくるという目的を見失い、幕府を仆すことだけに熱中し、その結果、明治維新の目的を不十分に終わらせたが、今日の過激な学生たちの中にも、既成の大学を破壊することだけに、異常な情熱をもやしているとみえる者が多い。必要なことは、大学をつぶすということよりも新しい学問を創造することであり、そのために、大学を変革するということである。行動のラジカルよりも、思想のラジカルこそ、今日、最も求められているということを確認することである。
 その意味では、学生たちが、現在、教授に求めている自己批判という形式、大衆団交という形式は、新しい学問を創造しようという観点からは、非常にまずいというしかない。勿論、学生というものは、一人一人が自らを代表するものでなくてならない以上、他の学生に代表を委任するということはあってはならない。大学も、全学生と話しあいができないほどに、多くの学生を入学させるというところに問題がある。しかし、学生が数をたのみとして、自己批判を強要するということは、全く愚かしい。ことに、マイクをつきつけて、一言めには、直に自己批判を求めるというやり方は、学問とか思想というものについて、一度も深く考えたことがないところから生まれているといわざるを得ない。
 そんな形でなされた自己批判が、本当に自己批判であると考えているとしたら情ないかぎりだ。一つの考え、一つの思想というものは、長い思考の蓄積であり、その人の生活を支え、また、その人の生活が裏づけとなっているものである。自己批判とは思想変革を意味し、思想変革は、人間にとって難事業である。ことに、学者にとっては、その思想は、彼の学問研究と深く結びついている以上、容易なことではない。
 これでは、全く、戦争中、特高警察が転向しろと迫ったのとかわらない。そこには、偽装転向もおこるし、学問、思想の意味、重さを考えさせなくすることにもなっている。学生たちは、そのことを十分に考えているのであろうか。教授たちの中には、もし、学生たちの指摘が筋がとおっていると考えても、強要されて自己批判するということに抵抗を感ずる者もあるであろう。さらには、同僚の眼を、嘲笑を意識するであろう。
 これが、教授たちの多くに、大学問題を直視させない理由の一つである。学生たちは、わざわざ、教授たちを自己批判しない人間にしあげているといってもいい。教授たちをますます、その殻に、閉じこもらせることになっているとすれば、彼らの行動はまずいとしかいいようがない。

 しかし、この学生たちの行動に比して、もっと問題をはらんでいる学生たちもいる。それは、民青系といわれている人たちで、彼らは、依然として日共の指導に従い、それに依存したまま、自分たちで考えようとしない。その姿勢が、長い間、学生運動の歴史を発展させることもなく、単に、運動のくりかえしに終わらせたということを考えようとしない。
 小野梓は、「学生が、政党を選び、入党するのは、学問を相当にやった後でなければならない」といったが、日共も民青系といわれる学生たちも、そのことを考えようとしない。日共は、ただ、学生運動を支配することに一生懸命になり、学生たちは、その数をふやすことに懸命である。学生が学問をし、理論的創造にとりくむことが大事なことを少しも理解しようとしない。学生党員の最大の任務は、理論的創造にとりくむことにあるということを理解していない。そのために、日共は、学生党員を忠実な実践者として求めるということに終わる。一兵として働くことに最大の期待をかける。学生たちも、それに満足し、自分たちの課題が、革新思想の理論の創造と発展にあるということに思いいたろうとしない。
 そこから、彼らは大学斗争を民主化斗争と考え、学問観の変革斗争だと理解できず、政党の理論と指導に依存した教授たちの、学問そのものの変革をはかろうとしているのだとは考えることができない。しかも、そういう学生の数は非常に多い。学生運動が自立への道を辿るのは、まだまだ、遠いといわなくてならない。
 そればかりか、最近では、東大斗争、教育大斗争の影響をうけて、各地で、せっかちな運動をおこす学生たちも出ている。どうみても、流行を追うているとしかいいようのない大学紛争が数多くおこっている。この状態は、学生運動の自立どころか、依然として、追随と依存の状態がつづいていることを示している。ここにも、学生運動の自立がはるかに遠いことを感じずにはいられない。
 勿論、学問革命の性格のつよい東大斗争にしても、
「斗争の初期には、まだ学問、思想、研究の自由は絶対的な善であるかどうかという問題は、一部をのぞいてふれられなかった。それが全学的に問われてきたのは、九月に入ってからです。その時期に、社会状況に対する大学の対応が問題になってきた。その契機は、教官が一斉に学生に接触し、説得したことにある。その説得の過程で、じゃあ研究というものはなになのか。それにたずさわっている学者の実態はどうか。学問の細分化、丸山真男流にいえば、タコツボ化現象の中で、先生たち自身がどういう意識をもっているのかがあらわにされてきた。そして、教授会の自治といわれているものが、ほとんど形骸化してしまい、政治的な中立といういい方で、社会、国家権力に対する保身の術と化してきていることを知った」(「朝日ジャーナル」昭和43年十一月七日号)と書いているように、学問革命の性格は、斗争の過程で明かになったものである。
 また、東京教育大学の、
「我々が自らの学生生活をかけて実現しようとしているもの、それは一体何であろうか。それは、我々自身の綜合的知性、多面的価値観、創造的自治能力を形成することであり、それを不断に追求していくものとして、大学の研究と教育はなければならないということである」という斗争アピールにしても、その戦いの中で、明確にしたものである。
 しかも、東大、教育大斗争を中心になって指導したのは、大学院生であり、それ故に、また、学問斗争の性格をうちだすことができたといえる。それに反して、地方の大学でおこっている斗争は、教養部の学生を中心におこっている。専門課程にある学生たちすらまきこんでいないのが実情である。ここには、学問革命の内的必然性を、それなりに思想的に見究めた者とそうでない者との決定的な違いがある。
 高校時代、思想教育、政治教育を全く受けていなかった者ののめりこみとみていい。とくに、これまで、無智、無関心であった者ほど、一度、政治的なことに開眼すると、急進的になっていく傾向をもっている。三木清が衝動的な政治行動といったものであるが、それは、一つの挫折とともに、政治行動への新なる無関心層になっていく人たちである。
 昔も今も、学生たちの中には、徹底的に学び、考えようとする者は、相変らず少ない。そして、せっかちに行動しようとする者は多い。この傾向が改まらないかぎり、学生運動が学生の運動として自立することは遠いといわねばならない。

 

                    <現代学生運動論 目次>

 

 これからの学生運動

 今日の学生運動が、大学内に眼を向け、学問革命の方向を辿りはじめたといっても、まだまだ、それは萌芽の段階で、学生運動としての本来の意味と目的を果せるようになるのは、むしろ、これからである。
 とくに、学生運動としての本来の意味と目的という場合には、まず、学生が大学という社会に生きる者として、自分自身を自覚するかぎり、そこに必然的に生ずる行動であり、活動であるということである。権利と義務の意識から、どうしてもおこさねばならないものであるといってもいい。それこそ、極くあたりまえの運動であり、行動である。
 しかし、実際には、学生運動を特別視する傾向も強いし、学生運動をする者を異端視する雰囲気もある。この傾向と雰囲気を除去し、是正するところから、先ず、学生運動は始まらなければならない。人間が政治的、社会的、歴史的存在であるということは、そこに、政治的、社会的、歴史的行動が伴なわねばならないということだが、それが一般化する必要がある。政治的、社会的、歴史的行動、それを学生の立場に即していうと、学生運動ということになるが、それをしない者は、学生としての権利と義務を放棄したものであるという意見が支配的になる必要がある。そこから、学生運動の第一歩は始まる。それが学内の政治的、社会的運動の枠をこえて、学外の政治的、社会的運動に発展するかどうかは、大学と大学外の問題をどのように考えるかということからくることで、必ずしも重要なことではない。
 学内の政治的社会的運動におしとどめるのがよいと思えば、そのように、理論を通して、助言すればよいし、学外の政治的社会的運動が平行して必要と考えれば、そのように、助言すればよい。福沢諭吉、小野梓がいったように、「それを指導できるのは、教授の学識、見識であり、決して、禁止とか制約によって指導できるものではない」ということである。
 今日の政府や大学当局は、学生運動を理論を通して指導しようとしないで、一片の政令や通達で規制しようとしている。また、それができると思っているようである。今日の学生運動が混乱し、紛糾するのもそのためである。
 いずれにせよ、政治学、社会学、歴史学などの社会科学を学生に教授しながら、政治的、社会的、歴史的意識をひきだすということもなく、従って、学生運動を全学生の中に日常化するということもないものに終わらせている。それが、今日の社会科学の限界であり、生きた人間のための学問にはほど遠い。
 学生運動は、まず、そのような社会科学を学生のための社会科学、さらには、生きた人間一人一人に役立つような社会科学にかえていく運動にとりくまねばならない。自然を人間のために利用し、活用するための自然科学が、逆に、人間を支配し、利用していく学問になっているのを、人間のための自然科学にたてなおしていかねばならない。
 学生たちが、それを考え求めるようになれば、彼らは学生として、自立の精神と自学の姿勢をもって学問にとりくみ、必死に学ぶようになる。学ばなくてはならなくなる。もしも、本気になって、今日の学問を変えようとすれば、自ら考える学問を創造しようと努力することであるし、その時、始めて、教授たちの自己批判も地につくであろう。
 教授たちの学問は気にいらないから、それをあらためろと要求し、学生自らは、それにとりくまないなら、怠慢といわなくてならない。学生たちのなかには、教授たちを批判するということには急であっても、自分自身を批判し、自分に求めるということでは、大変甘いという面がある。学生がその姿勢を正して、自分こそ、生きた人間のための学問を創造してゆく者であるという覚悟をもつことが必要である。学生運動を、本当に力のあるもの、地についたものにするためには、学生が自立の精神をもって、学ぶしかない。自学の姿勢をもって、学問の創造にとりくむしかない。
 前中核派委員長秋山勝行の書いた「全学連は何を考えるか」は、問題意識は鋭いが、日本の現状分析をした個所は、これまでの学者のものと殆んどかわらない。学者たちの分析を踏襲したといってもいいすぎではない。そんな分析をやるということは、彼の中で、自立の精神も自学の姿勢も徹底させていない証拠である。そんなところには、新しい学問なんて、望むべくもない。
 今一度、学生たちは、学生運動とは何か、学生運動の自立とは何か、学生運動と学問の関係は何かを深く考えてみる必要がある。そして、その問題意識の前にたつことが、同時に、人文科学を見直していくということでもある。かつての学生運動が人文科学を見落し、軽視したところに、学生の集団転向をもたらしたが、その意味からも、人文科学を見直し、人文科学はどうあるべきかを考えるべきである。それというのも、人文科学の最大の課題は、自立精神の明確化、意識化ということであり、人間としての自由と価値に目覚めさせ、さらには、人間が精神的文化的存在として、精神的文化的活動を伴わなくてならないことを教えるものである。自分自身についての学問ということができる。しかし最近の人文科学は、人間を対象化し、その精神と価値を客観的に分析することにとどまって、それが人間それ自身のためのものであるということを忘れている。そのために、人文科学が人間についての知識におわって、人間そのものに生きて作用するということが殆んどない。
 こうして、人文科学も、社会科学、自然科学と同じように、生きた人間のための学問ではなくなりつつある。こうした人文科学を本来のものにする課題が学生運動にある。それは、最近の学生運動で、よくいわれる「拠点とか根拠地を作ろう……東大安田講堂を拠点にしよう」というスローガンに変えて、学生一人一人の中に拠点をつくる運動でもある。学生の中に拠点をつくるということは、現在の人文科学を変えることによって始めて成立するし、安易な転向をしないためにも、どうしてもやりとげなくてならないものである。
 社会科学、自然科学が人間のための学問になるのも、学生一人一人が、人文科学を通して、自分の中に、拠点を確立した時である。学生一人一人の中に拠点ができたとき、始めて、安田講堂も動かぬ拠点になるのである。
 また、学生が自らの中に拠点をつくろうとしたとき、学問が不可欠であるということを痛感するだろう。労働者、農民の中にも拠点をつくる運動がひろがり、労働者、農民の一人一人が、学問を本当に必要であると発見する時である。労働者、農民一人一人の手で、学問を創造しなくてならないことを発見するときである。学生たちが、その方向に歩み出さないかぎり、学問は、依然として学者の独占物であり、永遠に、人間一人一人のものになることはない。それは、人間一人一人が、決して独立することはないということでもある。

 学生たち一人一人が、新しい学問の創造に向かって行動を徹底していけば、教授たちが学問の自由は教授だけのものとか、大学自治は教授会の自治だとかはいっていられなくなろう。大学というところは、なんといっても、理論が優先し、すぐれた理論が支配するところである。
 たしかに、講座制によって、教授は、助教授以下を支配しているし、卒業論文のテーマも教授に規制されているのは事実である。だが、これまで、教授の命令や要求に従っていった学生、卒業論文のテーマまで易々と変更していった学生の方にも問題がある。そんな姿勢で学問をする学生、自分自身の内的なテーマと結びつかないような学問をする学生には大きな期待は持てない。その期待できない学生たちが、その後、教授、助教授になって、今日の学問をつくりだしたのである。
 そのことは、親にかくれて参加する激しい学生運動、覆面して、やっと参加できる過激な行動をする今日の学生の姿勢とかわらない。そこには、親を説得できる能力も自信もないし、教授と一対一で、論争する勇気もなく、学生仲間に対しては、理論斗争をやらないで、ゲバ棒を用いたがる。こういう学生たちが、何時か、教授になると、助教授、講師をしばり、学生に命令を下すものになるのである。
 自分の弱さを隠そうとする者は人を支配したがり、自分の無力を発見した者は暴力を用いたがるということで共通している。新しい学問を創造していこうとする姿勢とは、全く相反するものである。
 今日の学生運動に最も欠けているものは、学生たちの自信と勇気であり、智慧と忍耐である。そして、学生たちに自信と勇気、智慧と忍耐を与えるのは、学生たちの学習しかない。
 反日共系とか日共系とか、ノン・セクトとか体育会系とかいって、相互に、反目しあっているのでなく、今こそ、全学生が大論争をおこすときである。自らの学習をふまえて大論争をなすときである。その論争の中に、教授たちをもまきこんでいくときである。もし、大衆団交というものがあるとすれば、大論争をおしすすめるためのそれである。条件反射的な「ナンセンス」を連発したり、「自己批判せよ」とせまるのは、現状を一歩も発展させない。学生の思想を発展させることでもない。
 学生たちは、戦後二十四年間、言論のむなしさ、弱さを聞き、さらには見てきた。愚かしい意見がマス・コミに通用し、もてはやされていることも見てきた。学生たちの激しい行動は、そういう現状を否定したいという気持から起ったとも考えられる。しかし、それは、古い世代の愚行をくりかえすことでしかない。新しい学問の創造を考えるということは、力強い言論をどのようにして作るか、人間と社会を、真に進歩させうるような意見をどのようにしてつくるかということと関係しているはずである。
 それをつくりだすために、持続的に努力を払うかわりに、激しい行動に惑溺するということは、学生たちにとっては頽廃であるといっていい。
 吉田松陰のいった言葉に、
「武士の子は武士の子の立場から、百姓や町人、医者の子は、それぞれの立場から、現代になすべきことは必ずある筈だし、それを、それぞれの立場から、はっきり、把握しなくてならない」
というのがあるが、今日、学生といっても、彼らは、それぞれ、労働者の子であり、農民、商人、医者、サラリーマン、学者、資本家の子である。学生たちは、学生一般としての共通の学問をなすとともに、労働者の子として、農民、商人、医者、サラリーマン、学者、資本家の子として、学問をするということも大事である。それは、歴史的具体的な個としての学問をするということでもある。いいかえれば、労働者は現代の中で、何をなしうるか、何をなすべきかということを具体的に明らかにするということである。
 そのことは、必ずしも、親の職業を継ぐということでなく、学問を具体的実践的にできるばかりでなく、学生が労働者、農民、商人、サラリーマン、学者、資本家と連帯できるもの、連帯できないものを明確につかむことでもある。
 最近、しばしば、労働者との連帯を学生たちが求めながら、それを発見できないでいるということがいわれているが、それは、学生たちが、抽象的人間としての学生の立場からの学問に終わって、具体的人間としての学問をしないためである。労働者、農民、商人、サラリーマンとの連帯をむつかしく考えるところにこそ問題がある。学生たちは、ただ、自らの中の労働者、農民、商人、サラリーマン、医者を追求し、明かにすればよいのである。そうすれば、容易に、それとの連帯を発見できよう。
 ことに、労働者の子、農民の子、資本家の子の立場から、学習会をもち、論争を深めてゆくなら、秋山勝行のような現状分析は出そうにも出せまい。日本の政党分析でも、もっともっと、独自で個性的なものがでてくるはずである。自民党、社会党、共産党、公明党の分析にしても同じである。
 学生たちには、それが出来るはずだし、また、しなくてはならない。それをなし得たとき、卒業後、どの政党に属しようとも、その政党を発展させ、また、その政党の停滞を破るものが、常に彼等の中から、学生運動の中から出てくるのである。
 その意味では、今日、大学内であろうと、大学外であろうと、松下村塾のような学習会をつくる時である。吉田松陰は、二十六歳の時に村塾をつくった。それは、今日、松陰になれる者が無数にいるということである。
 その時こそ、塾生たちが学びながら行動し、行動しながら学んだように、実務と平行しての学習であり、行動であったように、更には、就職や学歴のためでなく、自分をふくめて同時代人のための学習であったように、今日の学生たちも、その全精力、全能力をあげて、自分と時代のために学習するようになろう。

 

               (1969年 潮文社刊) 

 

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