第六章 若い時の独学は老後を保証

 みじめな老後

 三十数年通いなれた会社を停年退職し、退職金をもらって家に引きこもって、ガックリとふけてしまったという人は多い。経済的な理由から、再就職のため、つてを求めてかけまわり、従来より悪い条件で、しかも、またもう一回コツコツと働かねばならない人も、それに劣らず多い。彼等の老後は、若い時からずっと維持してきた生活の枠の延長の中にしか見出せないようだ。やりたくても、何もやれなかった現在の社会、ちっとも有難くも嬉しくもなかった今日の社会を、保守的な生き方によってさらに温存するために、残りの人生を捧げようとしているのだ。これほど惨めな姿、愚かな生き方があるだろうか。一方では、同年令、いやもっと年かさの人々が、国政を預かり、一企業、産業界を牛耳って、夜昼もないほどに旺盛な意欲で動きまわっているというのに……。
 長年勤めあげた会社からは放り出され、手塩にかけて育てた子供は独立していく。自分はもう、社会からも、家族からも必要とされていないのだという自覚は、最も老人を悲しませ、老いこませて、老醜という言葉を呈されるような姿をさらけ出すことになるのだ。しかし、この時、ガックリと来たその時こそ、自分を生かし、自分を生きることこそ、自分自身の生き方であり、自分を必要としているのは、ほかならぬ自分自身であることを知る最後のチャンスでもある。しかしこれがどんなに困難なことか、どんなに気力の要ることかは想像できるだろう。彼にとっては、人生における土壇場でもあるのだから。多くの老人達は、この最後のチャンスをものにすることができずに終る。それは、自分の生命を十分に生きることのなかった、自分に忠実に生きようとしなかった人間の、最後の敗北ともいえよう。
 他人が学校にいくから、それにつれられて自分も進学する。卒業すれはブラブラもしていられないから就職する。結婚適令期だということで、なんとなく結婚する。当然のように子供が生まれる。妻と子のために、唯真一文字に働き、気がついてみたら、停年になっていた人は非常に多い。しかし、そこまでにも、何度かは、自分の内的要求にもとづいて、自分で選択し、行動するチャンスはあったはずである。それを見送って、ついに独立した人間としての生きる姿勢をもたなかったための帰結だともいえる。
 こういう言い方は酷だとしても、結局、自分を救うものは自分でしかないし、救ってくれるのをまっていたら、永遠に救われることがないままに終るほかはないのだ。
 貴方はこんな老人の姿を身近に見ることはないだろうか。周囲の何も彼にも不満だらけで、しかも自分では何一つやれない年寄り。昔の自慢話か、愚痴以外には話題のない老人。孫や子どもと、まともな話し相手にすらなれないじいさん、ばあさん。こんな、お荷物のような年寄りの日を迎えるか、若い人々の先に立って行動し、若々しい情熱で、常に若い者のよき助言者、理解者であり、愛され尊敬され、親しまれる年寄りになるかは、若い時代を、成年期を、どう生きるかにかかっている。老いても衰えない、みずみずしい感覚、たくましく、しかも新鮮な欲望、激しい情熱に支えられた生命力、深い思考力と強烈な行動力、それらを維持し続け、発展させ続けるために、そういうすばらしい老後の日を迎えるためにも、貴方は今日只今、行動をおこし、学習をはじめなければならない。

 老人に接触せよ

 やりたいことを思いっきりやることもできないで人生の終着駅に近づきつつある老人の中には、欲求不満が積み重なっている。周囲のことに不平や愚痴をならべている老人も、実は、今の世の中に対して限りない怒りと不満を持っている。もはや取りかえすことのできない不毛な人生の大半、その責任の一半は自分にあるとしても、それはまた為政者や指導者のせいでもある。口に出しては云わなくても、またはっきり意識はしなくても、老人達はそのことを薄々感付いている。みじめな老後を迎える怒りと口惜しさに火をつければ、彼等は立ち上がるだろう。自分の子どもや孫たちに、同じ悲しみを味わせないために、そして、彼等自身に生きるためにも、立ち上がらずにはいられないだろう。彼等は、政治に参加する切実な要求を、自分自身のうちに秘めているのだから。
 気の毒な老人達に火をともし、もう一度、人生をやり直させ、生き甲斐を与えていけるのは、ほかならぬ若い貴方達である。貴方達が老人達とガッチリ手を組めば、それはお互いにとって、すばらしいプラスでもある。老人には何といっても長い生活経験がある。単調な奴隷的環境のなかでは、生かして使うことのできなかった、さまざまな体験を、貴方達の学習の姿勢、行動方向のなかに置くと、豊富で深い分析力、判断力とすることができる。お互いに役だち、お互いを支える関係が生まれてくるのだ。その中で老人は、これまでにない深い理解を示し、強い協力を示す存在と変わってくるだろう。老人には老人の特権がある。時には激しくつっかかりもしようが、若い者には無いやんわりとした応答で、若い者を守る立場に、自ら進んでつくことができる。思いきった行動に出るにも、遠慮気がねは、あまり要らない。
 自分を主張することもなく、ただ生きてきた人生の空しさを、トコトンまで感じた老人は、若い貴方達の最良の理解者となる条件を備えている。老人の口惜しさ空しさに、心の底から共感できる時こそ、老人達を貴方達の学習や行動に捲きこみ、共同戦線をはれる時でもあるのだ。「百万だらの愚痴を開くのは真平だ」と逃げ腰にならずに、老人の相手となり、老人の不満や怒りに筋道をつけ、彼等を立ち直らせる為の協力者となることが大切だ。老人は、わびしい老後の生活という、そのことだけでも、貴方に考えさせる材料を提供するはずだし、彼の人生を一緒にたどることによっても、さらに多くのことを学ばせてもくれるに違いない。人間観察、事件の裏話、分析などについても、種々のヒントを与えてくれるであろう。

 

あとがき

 私は世にいう独学者ではない。何故なら、私は、一通りの学校教育のコースを通りぬけているからである。だが、私は中学生のなかばから、学校教育と平行線を辿ることによって独学者に等しい学習生活を送り、独学の姿勢がいかに大事であるかを知らされたのである。だからこそ、学校教育の現状へ挑戦せずにはいられないのである。私は学校教育の現状に限りない不満を持ち、激しく抗議するけれども、学校教育を否定はしない。むしろ学校教育の重大さを意識し、その是正を渇望すればこそ、独学の姿勢を提唱しているのである。
 私は、この本を書いているうちに、私の学校教育への怒りと不信がどんなに根深いものであるかを更めて発見して驚かざるを得なかった。考えてみれば、この怒りと不信が強かったればこそ、中学を途中で放りだすこともなく、逆に大学まで進み、具に学校教育の長所、短所を此の眼でたしかめ、卒業してからは、ずっと「政治と教育」の問題を追求する私にもなったのである。

 

            <独学のすすめ 目次>