序 独学時代がやってきた(現代は独学時代)

 大学へ行っても独学が必要

 勉強とは学校に行ってするものだという、ごく素朴な考えは、一般的に深く人々の頭にしみついている。そして、学校へいく条件に恵まれなかった人間が、学校によらずに勉強するのが独学だという考え方も、ひどくあたりまえのこととして受けとられている。おそらく、貴方も例外ではあるまい。
 だが、誤解をおそれずに直截にいうとすれば、学ぶことそのものは本来独学であり、独学でなければならないのである。独学の姿勢こそ、学ぶ姿勢であり、学校教育によるか、よらないか、直接に師を持つか、持たないかは、何等関係のないことである。
 今日、学校教育の普及は曾てみないほど充実しており、さらに今後の拡充も期待されている。事実、高校入学者の割合も七割に近いし、大学入学者の率も年々向上を続けている。だからもし、独学が学校教育によらない者の勉強だとすれば、わざわざ独学をすすめることは時代逆行であり、ナンセンスといわざるを得ないだろう。しかし、私は、学校教育制度が整備されればされるほど、本来あるべき独学の姿勢をますます喪失していっている現状、学校教育をうけることのできなかった人達は相もかわらぬ、いわれなき劣等感のとりことなってその人生をゆがめている現状に対して、知識というものへの再検討とともに、独学の必要をすすめないではいられないのである。ことに、現代という歴史の転換点にあたって、なおさら、独学の姿勢を貴方達のものにしていく必要に迫られていることを痛感するのである。
 現代が歴史の転換点にたっていることは、貴方も認めよう。だが、では一体どんな転換点なのかということになれば、おそらく、確信をもって答えることはできまい。貴方のまわりの人達も各論まちまちであろう。資本主義社会から社会主義社会への転換期だとみる者の中にも、その移行をめぐって、意見は多様であるし、社会主義社会への転換を認めない者も、技術革新に伴う体制の変質を迫られていることを否定はしない。その変質の方法をめぐる意見が、これまた多様であることはいうまでもない。

 知識の量より知識の質

 歴史の転換期とは、つまり、価値の転換を意味する。そして歴史が動くということは、新しい価値と方向を求めて動くことである。しかも、新しい価値と方向が定着していく過程には、沢山の価値と方向が生まれ、相互にかくしつが続けられ、そこに分裂と混乱が生まれ、分裂と混乱はさらに激しい相剋を生む。
 私達が歴史の転換期に参加して生きるということは、価値の混乱と激しい相剋をまともにうけとめて、そこから新しい価値と方向を創りだしていくことである。一人一人が新しい価値の創造者としての覚悟と姿勢で生きることである。だから、転換期に最も必要な能力とは、これらのことをやりぬく能力であるということがいえる。いいかえれば、この現実をがっちりうけとめて、この現実を料理できる思考力、批判力であり、展望力であり、行動力、意志力である。それらが統一された総合的能力である。
 過渡期の教育は、何よりも、こういう能力を与えることに第一義がおかれなくてはならないにもかかわらず、実際に学校で行われている学力の評価といえば、もっぱら与えられた知識の量と正確度に基準がおかれて、知識の質については、あまり問題にもされていない。それどころか時には無視され、知識の質を求めようとする態度が、マイナスの評価を受けることさえある。学校教育の中での批判力、展望力は、多くの場合、教師の求めるところ、または時の権力の求めるところと一致させられ、理解力にいたっては暗記力と同一視されるような状態である。まして、行動力、意志力の評価など、ほんのつけ足し程度のものというほかない。
 こうして培った学力や知力に、新しい価値や方向の創造を期待できるわけがない。学校教育はこれらの能力を身につけるうえで、むしろマイナスの作用をしているといってもよい。しかも、長い間、こういう評価の中に身をおいていれば、せいぜい一、二割の学校秀才、一割に満たない有名校の学生・生徒を除く大部分の人が、いつか自信を失い、劣等感のとりこになっていくしかないのも無理はない。学校は一人立ちできる人間をつくりあげようとしているようにみえて、その実、八割近い人間に、決定的なまでの無力感や劣等感をうえつけ、その将来への期待を開くかわりに、しぼませ、閉じていく作用をしている。彼等は、ファイトを失い、あきらめを身につける。皆さんがこんな被害者でなければ幸いだが……。

 やりがいある独学・生きがいある人生

 学校教育をうけなかった者には、学歴がないということで差別待遇をうけたり、いわれのない劣等感に悩むということはあるかもしれないが、能力を教師流に勝手にきめこまれて、無力感や劣等感をうえつけられなかったことは、なんといっても幸いだ。学校教育をうけなかったものの中に、ぐんぐん伸びている者、のびのびと生活している者が多いのは、妙な足カセ、手カセをはめこまれることのなかったためだともいえる。古い価値が亡び、新しい価値が生まれようとする時期には、古い価値に連った教育や教師をもたない方が、どれだけ自由で、のびのびと振舞え、発展できるかしれない。
 本来、学力知力は、人間の欲望と感覚を基調にし、その延長に確立すべきものである。自らの欲望に根ざし、その達成のために生まれた学力、知力は、それ自身強力であり、執拗である。途中で投げだすようなことはおこらない。挫折のしようがないといった方がよいかもしれない。その学力は、欲望が達成するまで働きつづけるし、達成できる学力を身につけてもいく。感覚を基調にした学力には妥協がない。とぎすまされた感覚は、矛盾や不正の存在を許すことができないから、妥協のありようがないのである。
 挫折と妥協がなく、たえず前進しつづけることをやめない学力と知力こそが、歴史を動かし、発展させることができるし、同時に、それを自分のものにした人間を人生の勝利者にもするのである。ここには、奴隷根性と敗北が生まれる余地がない。そして、自らの欲望を開発し、自らの感覚をとぎすましながら、それらを基調にしていく勉強は、他人のきめた学習コースの上をひきずりまわされていくところからは生まれない。学校に学ぼうと学ぶまいと、それに関係なく、自らのコースを自問自答しながら、歩みつづける独学によるしかないのだ。
 独学とは、自分自身を主体にして、自分自身のために、現実を確実に獲得し、征服していくことである。自分自身をふとらせていく学び方である。自分からひきはなし、もぎとろうとしても、分離できないものを身につけていく学び方である。試験のために、就職のために学ぶのではない学び方である。
 貴方が、今の不満だらけで、面白くない、いじけた状態から脱出しようと思えば、貴方がこれまでに学んできたもの、現在の貴方をささえている知識を再検討してみることである。現代という時代も、それを貴方に求めている。

 

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