足跡紹介 『大地』(1)(藤園塾発行の雑誌)

 

 雑誌「大地」は、第一巻 第一号(1950.12.1)、第二巻 第一号(1951.2.1)、第二巻 第二号(1951.7.1)の三冊が発行された。ここでは第一巻 第一号から主に、池田諭の書いた文章を紹介する。彼の思想の原点がここにある。

 

    第一巻 第一号〜

   <目次>

 「藤園塾の目的」

 「塾生の心得」

 「檄=人間募集=」

 「世紀の胎動…創刊に寄せて…」 池田眞昂(池田諭)

 「世界黎明の道」 池田眞昂

 

               < 目 次 >

 

     <藤園塾の目的>

一、無限に現代に到達し得る最高智一切智を求めて真摯且つ謙虚に一切人一切物を自己の師として絶えざる自己批判と自己否定を媒介として、死の一瞬まで主体的探究を念々に進めて行く人となりたい。
一、自己と家庭と、職場と郷土と祖国と世界と宇宙を一如的に把握し、心と言葉、日常性と思想性を日常的任務の実践の中に統一的に把握し体得する人となりたい。
一、美しき伝統に育まれ歴史の生命を呼吸しながら無限の発展性、将来性、飛躍性を包蔵する歴史の進展の中に棹して更に新しき歴史と伝統の創造者となりたい。
一、独自無双の個性の自覚的成長が同時に一切人一切物を包含して、それに所を与える様な人、更にはその様な生活の中に生きがいと生きる喜びを味わい得る様な人、換言すれば大慈悲心の人となりたい。

 

     <塾生の心得>

一、塾生の立つ所、そこに煌々たる正義の光あらしめよ。
一、塾生の歩む所、そこに駘蕩たる和風を生ぜしめよ。
一、塾生の坐る所、そこに真摯なる研究と発剌たる創意工夫あらしめよ。
一、塾生の語る所、そこに公正なる判断と建設的なる計画を生ましめよ。
一、塾生の動く所、そこに強力にして慣久的なる実践あらしめよ。
一、塾生の生きる所、そこに語らず叫ばざる自然の指導あらしめよ。

 

     <檄=人間募集=>

 諸君!! 開き給え!諸君の両眼を!そして混沌とせる、現代世相を正視し給え。諸君の両眼に映じる現代世相…それは、あまりにも不合理であり、ご都合的であり、刹那的であり自滅的ではないか?あの悲惨な第二次世界大戦が、我々に与えてくれたものは、何であったろう?それは諸君一人一人が、具に経験し忘れ得ないものであろう。しかも、今や第三次世界大戦は、明日をも測り知ることのできない、炸烈一歩手前まで迫っている。
 しかし、諸君!! 我々青年の為すべきことは、単にかかる目前の戦争防止にのみあるのではない。十年先、二十年先、更には数世紀先の全人類の幸福を見透して、それを実現さす為に全力を傾注すべきである。我々人間の上に、真の幸福をもたらすものは何であろうか?神・仏でも組織・機構でもない。それらは、ただ幸福への一契機にすぎない。「人間」…これこそ、幸福の招来者であり、源動力であるといえよう。しかし、現代にはあまりにも、そのような「人間」が居ないのだ。真の「人間」を生みだすものは、一体何であろうか?
 教育!! …しかるに、その現状は如何?
 諸君!! 学生である前に先ず人間であることを自覚しようではないか。人間への追求を忘れた学生は人間とはいえない。また、我々学生はあくまで現代に生きてはならない。将来の見透しの下に、将来の日本を、世界を救いうる人間になることこそ、我々この地球上に生存する者の最大の義務なのである。
 人間にして、人間に非ざる人間ほど、不幸なことはあるまい。しかし、現代人の多く、否大部分の人間は非人間なのである。我々青年が、真の人間たらんとするには、幾多の難関が横たわつている。しかも、余りにも大きな難関が。・・・幸いにも、我々は、それ等の難関を克服して行くだけの人間としての勇気を持つているはずだ。今こそ、それ等を総出して、この難関を克服して行く時である。            
 人間であり、また人間たらんとする諸君!! 諸君の睡眠時間を毎日五分まで縮小して思考したまえ。これらの事が、是か非か、を…。人間として、人間の道を探求する人を、阻止する権利を持つ人は、この地球上に何人といえども存在し得ないはずである。即ち、我々が人間の道を探求する事は、自由の道なのである。しかし、実際には、自由ではないのが実状である事を肯定せざるを得ない。そこに初めて、団結の力を必要とする事は当然といえよう。その団結は、あくまで人間個人が集合して成立した団結であると言う事を否定したならば、もはや何の意味もないただ単なる動物の集団と化して、そこにはすでに人間としての何ら価値を見い出す事のできないものとなるであろう。
 人間たらん事を欲求する諸君!! 来れ!我ら人間たらんとする者の集いに・・・。それは不完全ながらも諸君と意見、思想こそ異れ、一つの「人間」という目標の下で、人間教育をモットーとする、一人の教師を中心に、終日自己錬磨する学生の集いである。     
 常に、自己批判する我々は、諸君の批判を受ける事こそ、前進の第一歩であると固く信じている。

 

                <大地(1)目次>

 

 

     「世紀の胎動…創刊に寄せて…」                                                 

                          池田眞昂(池田諭)

 この地球上に、未だ偉大な事業をする余地がある。驚嘆すベき物が、成就しなくてはならない。私は、未だ大胆な努力をするだけの元気を感じている。  …ファースト…

  偉大な事業を、なすべき余地があると言う。それは、現代にもあるのであろうか。あるとすれば、その偉大な事業は、何であるかを考える必要がある。
 驚嘆すべき物が成就しなくてはならないと言う。それは現代にも通用するのであろうか。通用するとすれば驚嘆すべきものは何であるかを予想する必要がある。私達は幸か不幸か、どうみてもこれらを考え、予想する必要のある様な時代と世の中に住んでいる。現代の世界はあまりにも問題が充満しており、しかもそれらを如何に解決するがよいかを示すすぐれた指導理論は現代の所、未だ生れていない。(単なるスローガンは別として)現代の諸思想諸理論を色々の立場より、超克発展させんとする営みは世界各地で、試みられつつあるが、まだまだという所である。過去より現代に至るまで、色々の理想が掲げられ、その実現に努力してきたが、現状はどうであろうか?人間は過去において、多くの愚行をなしてきたばかりでなく、更に性こりなく何度もそれを繰り返し「前者の轍をふむなかれ」ということをよくよく知つている現代人がなおも、その愚行をなさんとしている。私達現代人は人類の足跡をみつめることによって、もつと賢く、もつと幸福になつてよいのではないか。なるほど人智の発達は素晴らしいものがあったかもしれない。しかし人間を滅ぼし、苦しめ、悩ませる様な愚行が依然として続けられている。では、その愚行の由来は、どこにあるのであろうか。それは人間と世の中に対する無智から来る所の独りよがりや、狂信盲信に、あるいは偏狭固陋な一方的的判断や無理解にあるといえよう。私達現代人は、従来一般に見られる様な、自らの思想や立場のみをいたずらに高しとする事なく、全ての人達が、幸福にならない限り、いかなる人の幸福もおぴやかされている事実を熟知して、相互に愚な共滅をもたらす様な態度を超克すべきである。過去の理想の多くは実現の可能性のない幻想が多い。私達現代人は、今あらためて、これらの理想にも耳を傾けながらまず人類歴史の跡をよく見つめて、現在の人間と世の中、しかも全べての人間と世の中を残りくまなく検討し、その上に立って、彼等全べての人を現代に生かす道を究明し、さらにそこより理想社会を設定し直す必要がある。実現の道が示めされない様な理想や、一部の人達が、自分勝手に、自分達に都合よく作り上げる理想は、視野の狭い幼稚な人々のものである。本当に自分を愛し生かす事のできない人達のものである。少くとも現代人の中に過去の一切の遍見を脱して、全ての人間と世の中の現段階を前提にして、総合的全体的に実現の可能性ある最上の社会と、その実現の道を、現代の諸学を総動員して検討する人々の一群が出現する必要がある。世紀の大転換に立って、これを指導する理論の生れていないほど悲劇悲惨なことはあるまい。私は、この現代の苦悶、全人類の呻き声を全身にひしひしと感じている。世界の学者を結集して、現代最高智の研究所を設立する事を提唱したい。しかし研究のみでは無力である。そこにこの研究所に併設して、次々と創造される現代の諸問題解決の叡智を体得してゆく教育が、このまた新しい教育理念に基ずいて強力に実践されなくてはならない。その時初めて世界の黎明が展開されて行く。全人類のためのいかなる人をも除外しない所の全人類救済運動が、この地球上にもう生まれてもよいのであるまいか。     
 今春毎日新聞の第一面を飾つた、ニーバーや、ラッセルの二十世紀後半の課題は、何もめずらしいことでなく、私ごとき若輩ですらすでに昨年六月に地方新聞に掲載したのである。(ただしその時青年の大言壮語、誇大妄想狂といわれたが)
 しかし問題は、その実現にある。実現の可能性あるかないかにある。私はまず第一歩として、新しい構想に基づく、人間教育を実施しようと計画して、各方面に訴えて、ようやくこの四月に出発する事ができた。この教育についての詳細は私の小論「世界黎明の道」「現代超克の道」「人間形成の道」を御覧になっていただいてここでは英国教育の先端を行く、サンマーヒルの教育と仏国教育の中心をなす、エコール・ノルマンの教育の両特色を生かしたものと御想像いただいてよいとのみ記しておく。私は、この教育を通して、青少年教育に新しい分野をきりひらくと共に、それを普遍化して行くために、教員研修所と教育研究所(現代最高智研究の一環となる)の設立を考え、それの実現に努力している。従来の教育が本当に個人と全人類を幸福にすることに最大の注意と努力をはらってきたかと問うとき、否と答える外はない。
 個人の一生の幸福は、青少年期教育の如何で、特別の性格破産者以外は困難ではない。それについては私の小論「人間形成の道」「歴史の待望する学校」を御覧になっていただきたい。 私は、全日本人のみでなく、全世界の人々に向つて叫びたい。
 「今こそ、全人類のための、全人類救済運動をそれを痛感する人達の手で老若男女を問わず、国籍の如何にとらわれず、個々のイデオロギーの対立を離れておこすべきである」と。
 無名の一青年の空想的言辞としないで、真に全人類が生きる喜びと、生き甲斐を感じる事のできる様な世界の出現を念じる人達は、この提唱に応じて立ち上がっていただきたい。これこそ現代における偉大な事業であり、驚嘆すべき物であるまいか。
 現在塾生は十余名、後援者は数十名、塾の顧問は教育研究所の城戸幡太郎、児童教育研究所の霜田静志、日仏文化協会の小松清、煙仲間運動の下村湖人、高志文化会の渡辺求、高知女子大学の岡本重雄、民主主義教育協会の新島繁、広島大学の荘司雅子の諸先生という小さい営みかもしれない。しかし、かつて何人も若く未熟で無名でなかったものはない。その為す事は最初全て微々たるものである。
 皆様の御協力御後援を願ってやみません。
 全人類の救済の悲願に生きる者の決起を望みます。 

 

                  <大地(1)目次>

 

 

     「世界黎明の道」 

                 池田眞昂

   一、序

 学徒出陣以来、敗戦のその日まで、片時も離すことなく、私と行を共にした一巻の書物がありました。それは戦敗れた祖国の焦土の中に決然と起こって、ペスタロッチ精紳に基く教育立国を絶叫した哲人フィヒテの「独逸国民に告ぐ」であります。出陣中悲しい予感に戦きながらも自己の無力の前に、何等為す術もなく、ただ祈ることしかできなかつた当時の私は、輸送船を待つ門司の郊外であるいは兵舎の一隅で、この一巻に読みふけりながら、祖国の将来に思いをはせたのであります。しかし現実に戦敗れた祖国に遭遇した時、予期した事ながら、私のより所の全ては、ついえさってゆき、この書物も再び手に取る勇気さへありませんでした。
 その後四ケ年、ニコライ、ハルトマンの                              「今日の人間は全てのいわゆる権威と称されたものに全く失望してしまっている。神学、哲学、理性、道徳、政治、経済、国家、民族、世界.人類等…過去において人間の存在に意義と価値をあたえてきたと称する全ての概念や理念は、あまりにも無力なものであつたことを我々は完全に知りつくしてしまった。今日我々の人間の存在に意義と価値を与え得る唯一の権威は個人自らの個人としての人間存在そのものの中に求められねばならない。人間はひとりひとり絶対の個人として、その無限の宇宙の中に独り置かれ、独り漂うと知るとき、ただ個人自らの苦悩と思索と体験を通してのみ、個人自らの人間としての存在に絶対の意義と価値をあたえてゆくことができるだらう、という文字通りの生活を辿り、ようやく起きあがることのできた時には、祖国と世界はかつて以上の危機に直面しているのを発見したのであります。
 祖国と世界は今や再び私の生命の延長として躍動を始め、私の中に苦悶しています。その苦悶と対決し、その苦悶の解決に進む以外に私のゆく道はない様であります。今の私の偽らぬ気持ちは、かつての様に自己と祖国と世界の前に無力でありたくないと言うことであります。
 フィヒテは再び私の中によみがえったのであります。彼が、教育を通して、人間と祖国の再建を念じた様に、私もまた教育を通して人間と祖国と世界の黎明を念じさらに彼を超えて、その道を進んでゆこうと考えています。彼の論文が祖国復興の原動力となった様に、私の論文とそれにもとずいて歩む道が、世界黎明を創造するものである様に希求しながら、その実現のためにこの筆を取ったのであります。
 世界黎明の道は果して如何でしょうか?
 また可能でしようか?
 ただ最初にお断りしておきたいのは、紙数の関係で説明を簡略にしたために理解しにくい事であります。御判読をお傾い致します。 

   ニ、本論

  (1)歴史を通してみたる人間と世の中

 「哲学者は世界を様々に解釈しただけだ。しかし肝要な問題はそれを変革することにある」と、カールマルクスは言っています。なるほど変革することは大切でありますが、その変革は解釈を前提にして始めて生まれることを忘れることはできません。またその変革を真に大いならしめようとすれば、大いなる解釈が先決の問題となります。解釈が解釈に終わっているのは、その解釈の不充分なる証拠であり、変革が変革のためのそれに終わって、より大なる変革の道を進まないなら、それは解釈の不充分によります。この様に考えるとき、解釈と変革は不離一体のものであり、解釈なしに変革は考へられません。先に大いなる解釈変革といったのは、両者ともに人間それ自身を前提として、人間そのものの本性に基づく作用である所に人間を人間に即して、より大きく、より広く、より深く生かす所のものを言わんとしているのであります。
 では、人間を人間に則してより大きく、より広く、より深く生かすとはいかなる意味であり、またいかにして可能でありましょうか? 
 ここにおいて、人間のあるがままの観察と具体的現実的な生きた人間の存在する世の中のあるがままの観察が必要となるのであります。
 歴史的に人間一般を観察すをとき、人間とは自己満足を永遠に追い求めているものであると規定できるものではありますまいか。もちろんその満足の内容は人によりて、あるいは時代と環境によりて相違しましょう。しかし人間は強弱、意識、無意識の差はありましても、常に何かを要求なから、満足と不満との両極点の間を生きてゆくものの様であります。この要求は何かを志向することによって具体化し、何かを志向することを契機として、生き生きとした活躍を始めます。その志向はありとあらゆるものに向って生じ通ずることを示しています。ただ、現実にはその人の能力、環境、時代、運命によりて広狭、深浅、大小の差が生する様であります。その対象となるものを考えてみますと、宇宙に存在するありとあらゆるものは、実在、幻想の如何に拘わらず、人間の思惟に入る限りのものは全て包含されています。単純なもの複雑なもの、色々ありますが、結局人は単純なものから出発して複雑なものへ低きから高きへ、浅きものから深きものへ、狭きものから、広きものへと青年期の分裂を通して、満足と不満の間を交互に転々としながら、その人の欲する限りの、その人の能力の許す限りの世界を自己のものとして、単一の統一した世界を生み出してゆく様であります。換言すれば人間は一切のものを志向する傾向性と一切のものを志向し得る可能性をもつています。
 対象が単純であるときは簡単でありますが、広く深く大きくなるにつれて、複雑となり、不可解を示し、われらの前に幾多の問題、疑問となって、提出されてきます。人間の苦悩は疑問より出発し、疑問は知より、知は要求より始まります。 
 しかも人間は要求を否是し得ないどころか、かえって要求において生存し、知を求めます。逆もどりのできないにんげんは求知の道を進む外なく、その点自ら苦悩を求める宿命をになうものであるといえましょう。しかし人間は.この要求を実現してゆく過程そのものに、生々とした人生が、生き甲斐、生きる喜びが内感されるのであります。
 ここに私達はその前途が如何でありましても、叙上の如き人間の本性に基いて、生き、前進してゆく以外にありません。人間はただひとすじに自己の道を邁進して、要求の実現に生き甲斐と生きる喜びを発見するのが賢明でありましょう。始め人間は本能的に漠然と求めることより出発し、知を通して次第に、より善きもの、より真なるもの、より美なるものを求めて、進み、意識化されて、行詰りのない限り、それらの内容を見究めつつ限りなく、至善、至美、至真(普通に精神的価値として、特定のものに対して考えられている真善美でなく、存在するものゝ全てに対して、人間を主体にして考え得るものを言う)なるものに向かって生きてゆきます。しかし多数の人達は大抵途中で、善悪、虚実、美醜、正不正、貧富等の問題や・自己の解決の能力の限界で行詰り、自己の要求の満たされない所から来る不平、悲哀、絶望に陥ります。彼等はそこで前進深化をやめ、夢と希望を捨ててただ生きさえすればよいということを目標として生き始め、それらに対して、逃避的消極的解決をなし生きてゆきます。いわゆる「あきらめ」であります。この様にして、人間は一方には一切のものを志向し得る可能性をもつと共に他方、自己の可能の限り対象にとどまることも、また一切のものを忘却の淵に投げ込むこともできるのであります。ここに強きものと同様に弱きものも生きてゆける可能性が開かれていると言えましょう。この様に考えますと、私達が普通一般に簡単に悲しみ、不平を言い、絶望し勝ちな色々な疑問、不可解について、もう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。
 即ち私達が不平を言ひ、悲しみ、絶望している所のものこそ、私達の生を支え、私達を生かし、私達をより大きな満足、歓喜に導いてくれるものであるとさえ極論できるのであります。
 現実の苦悩と矛盾にのみ心奪われて、それらの存在する意味、それらのはたしている役割りを考えないで、それを否定し、憎悪し、ただ漠然と夢の様な神の国や浄土を求め勝ちであります。果してそれは神の国、浄土として、讃美し望ましいものでありましょうか。なるほど現実の世界と対比する時は望ましいものであるかも知れませんが、それが単独に成立した時、如何でありましょうか。その様な世界は全く無味乾燥で単調そのものであると共に、それらのなくなることは人間の成長歓喜への契機をなくすることにもなります。それは生きた世界でなく死んだ世界寂滅の世界であります。人間は矛盾を悲しみ悪と醜と偽と貧のせかいを憎み、それらのない世界、単一の世界を欲します。悪や醜や偽や貧の消滅により、同時に善や美や真や富の消滅した世界に住んで果して人間はそれで満足し静止しているでしょうか?
 もちろんそれを欲する人もありましょうが世の中の多くの強く逞しく生きる人達(普通人間は例外を除いて始めは全てその要求を強くもっています。ただ障害に直面してそれを超克できなかった人達が、弱くもろい人となります。しかも弱くもろい中になお依然として、強く逞しいものを憧れ求めるものであります)はそれに反抗するでありましょう。より多くの人達が生々とした活動的、行動的世界、弾力性ある世界を求めています。(調査の結果)人間は一方において合理的なものを求めると共に他方非合理的なものを求めています。あるいは単純なものと同時に複雑を、統一と同時に分裂を求めます。安易なものを求めながらも他方至難なものに憧れています。彼等は分裂し常に自己自身への反逆を繰り返しながら、一歩一歩と統一の道を進みます。自己を制約し、固定化するもの、常住なものに反抗しつゝ、しかも常住なものに憧れているのであります。
 人間が人間であることをやめない限り、人間は前進することを止めないでしょうし、その故に如何なるものも固定する限り見捨てられてゆくでしょう。人間はその可能の限り、より大いなるもの、より深いもの、より広いものを追求してゆき、それに反抗する如何なるものも彼等の反逆を受けなければなりません。世の中は人間を形成する多くの要素をもっているとしても、人間そのものを固定化も圧縮もできません。固定化と圧縮を始めると直に反逆し超克を始めます。そこに先述の単一の世界が如何なるものとなるか明かでありましょう。人間史は停滞、固定への反逆史、人間解放、自由獲得の歴史でありました。歴史は常に停滞、固定に対し反逆する人達、自由獲得に猛進する人達により創造し形成されて来たのであります。しかし反逆し、超克できない人達、死んだ寂滅の世界を求める人達も多数います。それは現実に、世の中のもつ問題の力の余りにも大きく、その前に崩れ去るのであります。しかもその中になお依然として、反逆と超克を憧憬しながら。
 ここに敗れたものは人生の落伍者となり、ここを超克したものはここを契機として、偉大な世界が開かれます。世の中はそれ自身無色でありますが、現実には神であると同時に悪魔として人間に作用致します。
 現実の世界のままではほんの小数のものが偉大な世界に足をふみいれ、より多くの人達が苦悩に終わることは否定できない事実であります。しかも彼等は弱いまゝに生き生きとした弾力性のある世界を望んでいます。
 ではいかなる世界が好ましいのでしょうか。
 だからとてすでに述べた様に固定化された世界も単一の世界も望ましいものではなかったのであります。こゝにおいて私達はもう一度、人間と世の中について考察しなおす必要があるのではないでしょうか。一番始めに、人間を人間に即して、より大きく、より広く、より深く生かすとは如何なる意味であり、如何にして可能かの問題を提出したのも、従来の人間と世の中の観察が一面的一方的であり、その解釈が不充分であり、そのために人間の生かし方、世の中への対策も一面的一方的となり不充分となっており、そこに人間を最大限に生かす道を発見せんとしたに外ならないのです。以上述べた所では人間と世の中への再考を必要とする説明としては不充分だったと思います。仏教とマルキシズムに具体的にふれますと、それは一段と明瞭になりますが、それは他の時に譲ります。 
 こゝでは以上の説明の不充分を補う意味であくまで、いままでの人間観、世間観に総合的最後的批判を加えて、あらためて人類の到達できる最上の世界の内容とそれに至る道を究明する必要ありと強調しておきたいのであります。

   (2)人類の到達できる最上の世界  

 以上において人間を人間に即して、より大きく、より深く、より広く生かそうとすれば、私達はもう一度出発点に立って、あるがまゝの人間と世の中の総合的最後的解釈を下すことより始めなくてはならないことが考えられたのであります。現実の悲惨に心奪われての小児的空な夢は依然として夢であり、また複雑至難の前に消極的逃避的となって求める単一の世界、固定化した世界もはかないものであることが知られました。今世の中を成立せしめている根本契機そのものをみるとき、相対立するものゝ上に存在していると共に一切の事物事象もまた相対的であります。(説明省略)
 この相対性が矛盾や疑問を生み、一方には不安や絶望や悲哀、他方には発展と新鮮と活力の母体となっているのであります。
 それは歴史的に諸現象をみてもまた人間の諸問題の解決の跡をみても明らかな様に、絶対的なものも絶対的解決も発見できません。解決それ自身の中にすでに他の問題を包含し、そこに悲哀と発展の相異なる二つの源泉を見い出すので あります。これはその解決が、その問題の範囲内に終わりしかも他との関連なしに存在する如何なる問題もない所に当然の結果であり、そこに少なくとも従来は総合的全体的解決(絶対的解決)が人間にとって不可能であったことを示しています。またこの故に私達は永遠に課題の前にたつこともできるのであります。しかしこの様に相対的一時的解決しかできないことは、人間のあくまで絶対的永遠的なものを求める心に悲哀を与えると共に、またこの故に発展と活力を与えています。私達が世の中を成立せしめている根本契機を考察するとき、これ以上のものを予想できましょうか。
 私はかつてこの問題と対決してきましたが考察すればする程ますます人間と世の中をも含めての宇宙造化の至妙さに驚嘆したのであります。(説明省略)
 こゝにおいて、この宇宙そのものに限りない愛着、現実に対する限りない懐しみを感じ宇宙に存在する、ありとあらゆるものに存在の意味と価値を見出し、少くとも私には、これ以上のすばらしい宇宙成立の根本契機を想像できませんでした。
 しかし想像発見できないと言うことは、世の中が今のままでよいとか、もう何もしなくてよいとの意味でなく、世の中の現象的諸問題の前には依然として悲しみ、悩み、苦しみの生活がつづけられるのであります。ただこの事を見透したものには、いたずらに世の中そのものに絶望し呪咀する愚はなくなり、逞しい現実の肯定に立って、如何なる現象的問題とも対決することができる様になります。要するに私達は世の中の性格を知り、私達のなし得る可能性の道をたどりながら私達の要求を最大限に満足させる方向に歩むことは賢明と言えましょう。
 即ち私達は永遠に相対的なものゝ前に立って、いたずらに絶対的解決に憧れることなく、常に逞しく、相対的なものを味い、生かし、超克し創造してゆく力と態度を身に体得しなくてはなりません。すでに述べた様にこの世に存在するものは、それ自身無色であり、神でも悪魔でもないのであります。神か悪魔になるかは人間その人にあります。
 普通に善悪といっているものも、絶対的に区別し得るものはなく、程度の問題であり、一度び主観的な自己自身の問題になると、悪と言われているものが善に転じ、善と言はれているものが悪に転じる可能性は多いのであります。私達は普通悪といわれているものによって、生き、と言われているものによって亡びてゆく事実にしばしば遭遇いたします。私達を生かす所の如何なる固定したものも存在しない様に、私達を亡す、如何なる固定したものも存在しないのであります。また自己のためによいと思っていた事が悪い結果に終わり、あるいは自己にとって、悪いと思っていた事が逆によかったり、なかなか断定を下せません。当然私達はこの前に迷うでありましょう。全ての人にとつて同一の作用を、個人にとって永久に同一の作用をするものはないのであります。(勿論これは全人としての人間を前提において考えているのであります〕
 しかしこれが世の中の性格であり、しかも人間はこれによって支えられ、導かれているものであり、ここを如何ともすることのできないものであることを知る者は、世の中に存在して生きる限り、永久に、外なるものにひきづり廻されて、自己の世界、独立の世界は生れないことを知りましょう。もし私達が独立人、自由人を欲する限りは、自己自身の中に、それにうちかつ能力を育成する以外にはないでしょう。そのために彼がなお人間としての自主独立の感覚を持ち、それを求める限りは、彼自身の中に、世の中を超克する力を養おうとするでしょう。世の中の一切を味い生かし、超克し創造する力を体得することは至難かもしれませんが、そこにのみ独立人、自由人の世界が開かれているのであり、また既に述べた様に、その力に基いて生きてゆく所に、人間として至深の満足と歓喜があるのであります。この力を得たものが始めて永遠に自己を生かし、如何なる運命環境にも、うちかつことのできる真の独立人、自由人となるのであります。(一切を味い生かし、超克し創造する力の体認は理論によって可能でなく、ただ各人が自分自身の思索と生活を通して体認する以外ありません。ただその様な力を得るための、より効果的な思索と生活はあります。それについては別に筆を取ります)しかし既に述べたようにこの事は人間の悩み、苦しみ、悲しみを忘却し消滅させることを意味しないで、かえって逆に、一切のものへの総合的全体的観察を通して一切のものを自己の延長、関連として、さらには自己そのものゝ問題として、今まで気づき感じなかったことまで感じる様になり、この様な探求を通していよいよますます知性、情操が磨かれて、真善美への憧憬と欲求は激しくなり、しかもそれが熾烈になればなるほど、その解決の困難の前に一段と悩み、苦しみ、悲しみは増してゆきましょう。人間はその内面的成長とともに、その志向は深化し拡大し自己の中にその可能の限り隣人を郷土を祖国を世界を包含し、それらの真善美ならんことを求めてゆくのであります。人間に忘却、感覚のまひのない限り、全ての人の救われない永遠に問題の残っている現実において、その悩み、苦しみ、悲しみの喪失するはずもなく、もしあるとすれば、彼の生きながらの逃避と死滅を示すものでありましょう。以上は主として外なる世界を対象として考えましたが、人間そのものゝ内なる心の作用を考えてみましてもその悩み苦しみ悲しみは、大きく解決しがたいものであります。即ち人間それ自身におこる精紳の分裂統一の問題、人間が人間として生きる限り、背負い直面しなくてならない、生老病死、愛するものに分れたりあるいは失うこと等より起る悩み苦しみ悲しみがそれであります。もちろん厳密に内外の区別はできませんが、要するに人間の悩み、苦しみ、悲しみは生きることに出発します。悩み、苦しみ悲しみのなくなる様な世界は訪れるはずもなく、またその故に楽しみ、喜び、満足が私達の前に成立するのであります。私達が人間である限り、世の中が世の中をやめない限り、宗教によつて、哲学によって、芸術によって、科学によって、社会科学によって、その悩み、苦しみ、悲しみを解決せんといたしましても、ごまかしのない限り、決して最後的解決は生れません。死の瞬間までそれと対決して生きてゆく以外にありません。
 如何なる人も世の中の外に生きられませんし、宇宙の理法の外にあることはできません。こゝにおいて私達人間は人間の本性に則して、その本性の最大限に満足する様に生きる外ありません。では、人間がその本性に則して、その好みに従って最大限に生きるとは如何なることでありましょうか?既に考えた様にその好みの内容、求むる内容は変化してゆきます。しかもその内容は常に、より深く、より大きく、より広くなることを求めてゆき、それも究極には至上至高のものを志向してゆくのであります。しかし問題はこの至上至高のものが不明瞭であれ、究明しがたく、また人々によって異ることであります。ただ至上至高のものが、一切のものを対象とし、一切のものを最大隈に生かす所のものであることは否定できません。何故なれば、実際において、それが可能であるか否かは別として、人間は一切のものを志向し、しかも宇宙の一切のものは相互に関連している所に一切を対象とし抱合する様な総合的全体的解決が望ましいし、また一切の人々が自己の救はれることを求めている所に、一部の人を除外する限り、必ずそこにより、崩解してまいりましょうから。非常に抽象的表現かもしれませんが、人間は普通単純から複雑へ、小さきものから大きなものへ、低きものから高きものへ、浅きものから深きものへ、狭きものより広きものへ、常に至上至高のものを求めて一歩一歩と前進してゆくものであり、その道程に解決し創造してゆくことを通して、生き甲斐と生きる喜びを見出すのであります。
 人間は全て強弱、意識、無意識の差はありましても、その様に生きんことを求めています。そこで全ての人々をその様に生きさせる世界が最上のものと言えましょう。しかも今までに見てきた様に世界の変革は現象的問題の相対的解決のみ可能である所に、現象的問題の解決を人間能力の可能の限り、より大きく、より深く、より大きくなす様な生き方を最上とし、それを可能とする世界が理想と考えられましょう。この様にして人間は相対的世界を超克してゆく力を養うと共に、他方より広く、より大きくより深く、解決できる様な智慧を身につけることが必要であります。この智恵には個人におけるものと、時代におけるものとの二つが考えられましょう。こゝにおいて自己と同時に世界を現代において最大限に生かす智恵が求められてきます。
 以上述べてきた人達は明らかに独立人、自由人であり彼等は深浅、広狭、大小の差はありましてもそれぞれの好みに応じて、それぞれの力に応じて、自己の問題をとらえ、自己の世界を創造してゆくことでありましょう。しかし今までに時々ふれた様に世の中にはこの複雑至難な世界の前に、叙上の様に生きれないものが多数います。問題はこの人達の事であり、この人達は如何にして彼等自身を最大限に生かしてゆくのでありましょうか。私は諸学問と諸生活を通して、あらゆる角度より、人間と世の中を究明観察して人間が世の中に生きてゆくために、一番大切なもの一番の寳、最小限にして最大限に必要不可決のものは何んであるかを検討した結果、それは生きを力であり、一切のものを味い生かしてゆく力であり、しかもその力は接間接の相違はありましても、人間以外の如何なるものも最後的に与え得ないことを知ったのであります。人間に生命を注入することのできるのはただ人間のみであります。先述の独立自立できない人達は、その所を得るために、他の何人かによってこの様な力を注入されることが必要となります。しかも与えられた世界において、与えられた自由と平等を享受して生きようとする人達が世の中の多数を占めています。自ら創造し超克し解決せんと欲しながら現実には、その様に生きれない人達が多数を占めています。こゝにおいて彼等のためにまづ、独立自由人となるための導きを与え人、あるいはそのより所となる人の出現が考えられると共に、他方かゝる人達の最も住み易い、生き易い世界が作られること、そのための智恵と、それにもとづいて生きてゆく人の出現が考えられます。
 かくて人間の到達し得る最上の世界として、一切の人がそれぞれ自己に則して人間としての生き甲斐と生きる喜びを味うことのできる様な世界を予想いたすのであります。如何なる弱き者にも、未熟の者にも生々として生きてゆける様な世界を予想いたします。しかし現実には普通一般人には如何に生き難い世の中であることでしょう。以上において、人類の到達し得る最上の世界として、
 第一に全ての人が独立人、自由人となれる様な方法手段をなしている世界。
 第二にそうなり切れない人達のために、各社会に生きる力と一切のものを味い生かしてゆく力を把握させる能力のある人達、あるいは彼等の希望となり、より所となる様な人達の住む世界。
 第三には常に歴史的現実の課題とその解決、あるいは未来の方向を示すに足る現代の最高智を究明している研究所とそれにもとづいて行為する人間を養成している世界、それによって、如何なる人も生きれる様な住み易い世界が常に形成されている様な世界が考えられるのであります。                                                

   (3)最上の世界実現の道  

     (イ)師範教育の改革 

 全ての人がまず生きる力と一切を味い生かしてゆく力を体得することについては、まず教育が考えられます。全ての人が一応教育の道程を踏み、しかもその教育が第二の性格の形成時期であり、最も危機と波瀾に富む時代のものであると共に教育者は各社会に存在していることを考えるとき、もし万一、教育を通して全ての人がその様な力を体得する機会を提供され、できなかった場合も将来なおその様な機会に恵まれているといたしますと、どんなにすばらしく、望ましい事でありましょうか。
 この様な力を持った教育家が多数いるか、またこの様な仕事が教育家の課題であるか否かと申しますと、なかなか難しいことゝ思いますが、現在の被教育者の状態や、一般人の教育家への批評を考えたときその様な人は少く、また単なる学者と異る教育家が人間そのものを育てる課題を持っていると言っても過言ではないのでありますまいか。もちろん被教育者の状態と一般人の教育家批評だけを見て教育家の攻撃はできません。この様な状態を導くに至った原因として政治、社会、家庭などが考えられますから。しかし教育家は知識を教授すると共にその知識を生かし活用することを体得さすペきでありましょうし、その授けた知識に生命を注入して知恵になるまで、たかめた時、始めてその教育は全きものであると言えましょう。教育家は単に学校時代の教師に終わらないで、その人の一生を支え導くに足るだけの生命力ある生き方を体得させること、また固定した知識を教授するに終わらないで学ぶ力、創造する力、生み出す力、超克してゆく力を体得させることが最も緊要の事と言えましょう。こゝで教師論を述べようとは思いませんが、教育家の課題が以上の全てでないと致しましても、少くともその主要の位置を占めること、あるいはその様な教育家が現在少いことは何人も否定しないと思います。
 もしこの様な教育家が多数存在すると致しますと、その人達に教を乞ふ青少年は如何に幸福であり、如何にすばらしい人生を送る人が多くなることでしょう。彼等は青少年時代の危機を悩み、苦しみ、悶えながら送るとしましても、この様な教育家に導かれて、如何に希望と充実に満された生活を一歩一歩と送りながらその危横を超克し人生を逞しく強固に、その究極の目標に向って生きてゆく力を体得することでしょう。現在その様な教育家が少いと致しますと、まづ教育家養成の学校が批判の対象となりましょうし、また教育界に何故その様な人を欠いたまゝに終っているかゞ究明されなくてはならないでしょう。こゝでは師範教育の改革といふ題目の下に筆を取りながら、しかも、これら究明批判にもとづく師範教育の改革案や教育界改造案について述べようと思わない。それは私自身現在直接に手を下して行う仕事でもなく、また単なる意見には、それほどの価値を発見しない所に、こゝにはただそれらの改革は政治面と組織面と思想面の三部門にわたりその人を得なければ、如何ともしがたく、しかもその事は日本の現状ではほとんど不可能に近いことを述ペておきます。
 普仏戦争に敗れた当時のプロシヤにおける教育尊重の精神は敗戦後の日本において見出すことは不可能であります。それは単に戦後のみでなく戦前においても真の教育精神は見出し得ないのであります。なるほど教育の必要は強調されていますが、それは常に、ある何ものかに奉仕し、手段としての教育であり、独立した教育を発見することはできないのであります。
 また戦後の教育強調も単なる強調に終り、真にそれを痛感している者は政治的経済的に無力の人達の様であります。あるいは戦後教組を背景として決起した代議士の中に今なお教育独立、教育改革のために努力している人が幾人いましょうか。その現状を悲しんでいるのは単に私一人ではあるまいと思います。最も残念なことは教育界がその教育家に裏切られ、その教え子達によって無視されている事実であります。
 現在教育家を志願する人達、あるいは教育家養成の学校を志願する学生の状況に深い関心と注目を払っている人達の心中は如何でしょうか?世の中の人々は一体どんな気持で、その可愛いゝ子供を学校に委ねているのでしょうか。教育改革は政治、組織、思想の三部門にわたると述べましたが、その思想面は不完全ながらも一応の見解は生れています。問題は政治、組織の面であり、そのためには教育的大政治家の出現が先決問題であり、現在その様な人物が養成されつゝあるかと言うことであります。この様な人物の出現によって、始めて教育が改革され先述の如き教育家が次々と養成される基礎を作ることになりましょう。以上は教育家に一応最上の世界を背負う使命を与えて考えたものであり、必ずしも教育家と固定したものではありません。しかし教育家を前提にして考えますと教育的大政治家の養成が先決問題となるのであります。

     (ロ)人材教育の実施      、

 師範教育、教育界の大改革は教育的大政治家の出現を先決と致しましたが、かゝる役割を果たす人物を要求しているのは単に教育界のみでありしょうか。教育界に教育的大政治家を求める様な結論が出たのは、一応、最上の世界の第一第二の条件を具体化しようとする所より生れたのでありますが、既に考えた様に、独立人自由人になれる人は全ての人でないどころか、逆に少数の人であり、ほとんど多数の人達が、与えられた世界に与えられたまゝに与えられた自由と平等を享受して生きるのであります。しかもなおかすかに独立、自由、平等に憧れながら現実には最も住み易い、生き易い世界に生きてゆこうと考えているのであります。現実の世の中の諸問題は日々至難複雑を加え、普通一般人には余りにも、生き難い世の中であります。そこにほとんどの人達が他人の創造し、超克し、開拓してくれた後に生きてゆくのであります。自己に現実の至難の問題を創造し超克し、開拓してゆく力のない者は、誰かにその生きてゆく道を指示し導いてもらうかあるいは開拓してくれることを求めます。  
 現代の様に世界は一つの世界となって動き、それぞれの問題は相互に深い関連を以て錯綜し、全く見透しのきゝにくい、しかも各界共に行詰って、悲惨と不安(経済的窮乏、道徳的堕落より生ずる悲惨、世の中不安定自己の立場の喪失、この世界の対立、科学の発達より生する不安)の前に苦悶している多数の人達のいる時代に、全ての人達がその求める生活のできる様な世の中を形成してくれる人間の出現を求めることはますます切となります。この様な各界の行詰り、大きくは世界の行詰りは、先述の様な独立自由人にも依然として解決不可能の問題である所に、ますますこの様な人物の出現は痛感されます。現代人には主体的に自分で解決してゆこうとする人達は増加していますが、各界の行詰りを開拓する見直しと能力は普通人のよくする所でありません。大衆はその人を得て始めて、生きる道を見出すのであります。
 現代が如何なる時代であり、如何なる問題をもつかは今更に説くまでもありません。しかもそれを開拓し解決してくれる人物の欠如の声は各界同様の声であります。即ち最上の世界の第三の条件として、史的現実の課題を解決するに足る人物の育成を考えるのであります。その人物の具備すべき条件としての智恵は次の所でふれましょう。
 以下私の考えている人物教育の方法について述べてみましょう。まず全国の青少年を対象として、彼等の自由に出入りできる塾を建設します。しかし別断区別すると言うのではありませんが、ここにおいて特に歓迎されますのは大体次の型の青少年であります。第一には、学校教育より、はみ出る様な真に優秀な魂の持主である青少年であります。真の優秀児が学校教育より、はみでることは、学校教育に探い観察をした者は誰でも肯定する所でその事は学校教育の弊害、罪と言うよりも普通人を対象とする教育である所に、やむを得ないのであります。そこで学校教育に満足できない様に異常に成長した青少年がともすれば、その異常な性格、能力を発見助長される変わりに、反って、抑圧されることのあるのを防ぎ、ますます健やかに自己の能力の可能の限り、発展させんために来ていただきたいのであります。第二には人生に真摯なために反って絶望し、生きてゆくことに疲れ、生命力を喪失した青少年で深い理解と温い愛情と静かな休養を必要としている人達であります。青少年が人間と世の中を真摯に直視すればするほど、苦悩と悲哀に陥り、絶望するものであります。それは青少年の感覚が純粋で、ごまかしのないためと、人間と世の中が苦悩と悲哀を感じさせる様な不充分不完全に満ちたものであるからであります。しかもその時最も深い理解と温い愛情が必要であるのに、逆にその様な青少年こそ、理解と愛情に縁遠く、時として愚とされ狂とされ、あるいは簡単にかたづけられたり、異端視されることもあります。そこに孤独に悩み愛情と理解に飢え、その弱い者は墜落の中に一時的瞬間的忘我を求めてゆきあるいは自殺に飛込むものもあります。それは一人生きることの難きを示しており、この様な人に理解と愛情さえ訪れれば、砂漠の中の旅行者がオアシスに遭遇したのと同じでありましょう。この様に生きてゆく生命力を喪失した青少年は、ここにおいて新生命を注入するために来ていただきたいのであります。第三は、自分にふさわしい師と友を持たないために、思いきった生活のできない人は、師と友を求めて来ていただきたいのであります。青少年にとって師友に恵まれると恵まれないのとは、その人の生活と成長に関係するものは余りにも大きなものと言えます。
 ある者はふさわしい道場を、ある者は静かな休息を、ある者は師友を求めて、自由に出入していただきたいのであります。ここには特定の固定した目標も方針も規則もありません。ただ塾としての団体生活を営む所に最小限の規則があるだけであります。彼等はただ全ての人、全ての事物事象を自己の師とし友として、絶えざる自己批判と自己否史を行いながら主体的探求をつゞけるのであります。彼等は全く自律人としての生活に終止し、そこから彼等自身で独立人自由人を育てあげていくのでもります。換言すれば、彼等の歩み方はあたかも、自己の歩む道に真理と法則をうちたてた、天才聖人の歩み方と軌を一にするものであります。ここにおいて私の最も重視していますのは塾の雰囲気であり、雰囲気こそ一切にまさる良師良友であります。即ち惰夫にはその眠りをさまさせ、空理空論を弄ぶ者には脚下照願を感得させ、偏狭固ろうの者には広く豊かな視野と広量を教え、意志薄弱の者にはその恐しさを体得させ、利己的迷盲に終始している者には、その未熟を教える等塾生全ての心を感奮興起させただただ各人の可能の限りの最高智と、それを体得する方向に血みどろの精進探求に導く雰囲気こそ最上の師でありましょう。塾生はその雰囲気から終始刺激されるのみであり、ただ自覚的内感に始まり、自覚的内感に終って、そこには無理がないのであります。彼等はそこにおいて、自己のあるだけの生活をそのまま生きてゆくのであります。 
 私の最大の課題はこの様な雰囲気を限りなく深く豊かに育てることであり、自己形成の契機となる様なものはあらゆる方面より実施しなくてはならないでしょう。この様な教育法を危み、不安だと言われる人が多いのですが塾生はまづ生きる力と一切を味い生かしてゆく力を体認することを第一歩とし、しかる後にをの能力の最大限を生きてゆこうとする生活態度を身につけてゆく所に、決して空想的でも危険でもないのであります。こヽにおいては野心家や空想家を育成せんとしているのでなく、ただ各人のもつ力を最大限に育て、それにもとづいて、それぞれに応じて現代世界の黎明となる様な人間を育てようとしているのであります。換言すれば彼等は人間として現代に到達できる最高智を念念に探求しながら、現実には自己を出発点とし現実に基盤をおく所の生き方を一歩一歩と自己の能力の限り進むのであります。その理想は如何に高遠で、夢の如くでありましても現実に出発し、それに通ずる道と通じさせる能力を持っている者にとっては夢であると言えないでしょうし、反対に如何に小さい夢でも、それに通じる道と通じさせる能力を持たない者にとっては夢となりましょう。先に師友を求める者は出入りをしていただきたいと述べたのでありますが、その師友は雰囲気以外にあるのでしょうか?しかも私は人間に生命を注入し、最後的解決を与へるのはただ人間であると申しました。ではどこに?私もいろいろの道をたどり、青少年に対する理解と愛情はありますが、それには限度がありますし、またそれほどに私を認めてはいません。本塾の塾生が最高智を求めその体認にすゝみ、しかも集合智でなく、生命ある統一智を体認するためには、少くともその方向に進みつゝある先輩諸士に直接当ることは不可欠のことであります。先輩諸士に直接指導をうけることによって、また各方面、各角度より厳しく批判され、たたかれることによって、始めは彼等は迷い、苦しみ、動揺し分裂を繰返すことでありましょうが、その間に自然に独立、自立の精神と共に諸先輩をふみだんとして、彼等を超克して、一歩一歩とより大きな自己を育ててゆくことでありましょう。
 偉大な人物はただ偉大な人物によってのみ育成されるものであり、特に現代世界の行詰りを打開する様な人物の育成には、完膚なきまでに否定し、強打する様な機会と人物が最も大切であります。こゝにおいて真の達識の人物を招聘し塾にとまりこんで親しく塾生に接していただく様な対策それも同一方向の人物でなく、あらゆる人物を招聘し、従来の偏狭固ろうの塾教育をさけたいのであります。なるほど従来の教育はその成果も早く、実践力ある人間を養成した様でありますが、それは独立人、自由人を育成せんとしたのでなく極端に言へば、奴隷人を非主体的な頑固者を作ったのであります。塾長の道具でしかありませんでした。本塾においては、個人と同時に祖国人を世界人を育成しようとしているのであります。こゝにおいて本塾は特定の人物を養成しようとしないと言った言葉も肯定していただけましょう。要するに人間として、真摯に生きる道を体得せんとする青少年の道場であり、自己にふさわしい師に遭遇する機会に恵まれていることは否定できません。よき友を得ることについては申すまでもありません。その地方であるいはその学校で、よき道友、心友に恵まれなかった人達は必ず、すばらしい成長と歓喜の源泉である友をこゝにおいて発見していただきたいのであります。孤独に悩み、理解と愛情を求め、休息を必要としている青少年はここにおいて理解と愛情を発見し、生きる希望と勇気を身につけていただきたいのであります。こゝは世の中の冷い無理解を防ぐ所の壁にもなり、その人達と同じ様に悩み苦しんだ人達の集合場として新入者に理解と愛情を惜しみなく捧げるでありましょう。そこにおいては誰にも邪魔されをい静慮を楽しむこともできます。しかしこれらと平行して、本塾の特色はあくまで現代の黎明人を育成することであり、師友も理解も愛情も休息もこの前提をなすのであります。しかも現代の黎明人は現代の最高智の裏づけなしに成立するものでなく、そこに本塾においては現代の最高智に至る必要な最小限の書物をあらゆる方面にわたり準備しなくてはなりません。 
 現代塾生の志向する最高の人物とは  
一、無限に現代に到達し得る最高智一切智を求めて真摯かつ謙虚に一切人一切物を自己の師として絶えざる自己批判と自己否定を媒介として、死の一瞬まで主体的探求を念念に進めてゆく人となりたい。   
一、自己と家庭と職場と郷土と祖国と世界と宇宙を一如的に把握し、心と言葉、日常性と思想性を日常的任務の実践の中に統一的に把握し体得する人となりたい。
一、美しき伝統に育まれ、歴史の生命を呼吸しながら、無限の発展性将来性、飛躍性を包蔵する歴史の進展の中に棹して、更に新しき歴史と伝統の創造者となりたい。
一、独自無双の個性の自覚的成長が同時に一切人一切物を包含して、それに所を与える様な人さらにはその様な生活の中に生き甲斐と生きる喜びを味い得る様な人換言すれば大慈悲心の人となりたい。
であります。 
 これは抽象的で具体的実践智とはほど遠いものである所に一般の非難がありましょうが、これは人間として、人間一般に通ずる根本的学び方、生き方の基盤を示したものであり、この上に各人の性格と能力に応じて、それぞれの具体的実践智を体得してほしいのであります。この目標は人間を固定も制約もしないし、全ての人がこの枠内でそれぞれの能力に応じて生きていると言えるのではないでしょうか。

   (ハ)最高智への道  

 すでに述べた所において大体に最高智が何を意味し如何なる役割をもっているかは明かになっていると思います。最高智の出現によって現代の行許りも打開され、未来の方向も指示され、生き生きと無限に発展してゆく世界もまた自己と同じく全体を最大限に生かしてゆくことも可能となりましょう。
 要するに最高智とは、一切のものを前提はおいて、一切のものの本性に則して、それを最大限に生かしてゆく智恵を意味するのであります。一切を前提にするのは、人間の志向が一切のものに向わんことを求めると共に一切のものの所を得た様なすばらしい状態を憧れており、また実際においても全体が所を得ない限り、必ずそこより崩解して、個が単独に救われるはずはないからであります。一切のものの本性に則するのは、本性に則さないで与えられ、置かれたものは必す崩れ壊れますし、また邪魔や重荷になり、無用な愚なことをなすことになるからであります。もちろん以上の様な智恵が実際に可能でないといたしましても、念念にその可能の限り、それに肉迫し、現在のものはなお不完全不充分であることを知っているのは、自己と世の中を真に知った姿と言えるのではないでしょうか。最高智を考えますとき、私には常は釈迦が思い出されます。彼は現代の様な思想的混迷の中に生き、当時の諸思想を真摯にかつ謙虚に追究体得して、宇宙の理法、全人類を救う教法、換言すれば一切人一切物を前提とし、それらの一切を救うために、彼は全ての物、全ての人に教を乞い、全ての思想をうけいれて、決して一つの立場を固執することもなく、また一部の人達のことだけを一方的に考えることもなく、常に宇宙的全体的観点に立って、一切の人一切の物を最大限に生かす道を探求したとの事であります。現代においては諸学を前提としての最高智の究明は至難中の至難と思います。今は既にこの世の人でありませんがその精神はなお脈々と生きつづけていますウエルズの言葉が私達に呼びかけます。  
 「何はともあれ、大急ぎを要するのは知脳の大々的復活である。今の世界の色々の実際の知識よりも国家とか政治とか経済とか言う様な人間の作った組織よりも知脳の復活が先に進むことが肝要だ。政治とか経済とか心理とか教育と言う様な人間と人間を規定する科学は、まだほんの幼年期にすぎない。これらの科学を総合的に発展させ総合的に活用する工夫が何としても必要である」と。現在この言葉にたえる様な智恵があるでしょうか。もしこの様な最高智が出現すれば、二十世紀後半の直面する諸問題はもちろん、人類史が一貫して対決してきた問題の解決の道を示すでしょう。  

        三、結び

 以上簡単に述べてきた所のものは、果たして客観的に如何ほどの価値あるものかは存じません。ただ今日までに私の到達した、ささやかな結論であり、序に述べた様に、自己と祖国と世界の前に、かつての様に無力でありたくない一念が「人材教育」の実現に突入することになりました。始め最高智への専心的肉迫を考えましたが、経済的理由のためにできず、現在は可能の範囲内において、その道を進みながら、寧ろその様な道を開く人となりたいと考え、第二の道に進むことになりました。しかも同時に最高智の道を可能とするこきにおいて。
 現在当地の中、高校生の一部と共にこの道に進みながら焦土の当地において、部屋を求めて半か年余、今なお発見できないことを悲しみます。しかも戦後のどん底の危機と死から、私を救い、常に希望と光明を私に点じ、私を今日あらしめた人もこの仕事へ進んで協力をして下さろうとし、当市においても、在住一ケ年の若輩の私を積極的に支持してくれる幾十人かの人もあります。各方面各地方からの高校生のこれに応ずるものは幾十人も出る態勢にありながら、何ともできないので困っています。 
 もしこの教育に次代を生み出す意味と価値があると御賛成下さいましたら、いくら少額でもよいですから御援助していただけないでしょうか?
 それとも貸していただけないでしょうか?
 この大業を私にやらせていただけないでしょうか?
 よろしくお願いいたします。                        

                      昭和二十五年三月十日

 

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