タマザキクサフジ

山田野 案山子


 毎週水曜日花を観て歩く会があり、水曜会と称している。10数年前某文化教室終了後、受講者の有志で作った会だが、私は欠席がちの劣等生だった。ちょうどこの頃、原松次先生の『北海道植物図鑑』上巻と中巻が発刊された。素人集団にとってこの図鑑は、近似種の見分けのポイントが平明に書かれていて、掲載数の点と併せて平地のものはまず大丈夫という頼もしい存在だった。
 ところが84年秋、勉強家のEさんが中央区伏見の自宅付近で、ピンクの愛らしい花をみつけて図鑑を索いたが突きとめられず、当時室蘭にお住まいだった原先生に写真を添えてお尋ねしたところ、たちどころにお返事をくださったそうだ。ヨーロッパ原産の帰化植物で、マメ科のタマザキクサフジといい、タマザキのサの音は濁るのが正しいことが書かれていたという。(翌85年4月に出された下巻には載っている)その後しばらくして先生はEさんのお宅を訪れ、タマザキクサフジをご覧になった。Eさんは、十勝で初めて見た時はゲンゲかと思わず駆け寄ったという先生を、内地の人なんだなと感じ入ったそうだ。ゲンゲは神奈川県で生まれ育った先生の望郷の花にちがいない。程なくEさんの所へ、突然の訪問で失礼しました。春には札幌へ家移りするので仲間に入れてほしい旨のお便りがあった。85年5月硬石山をかわきりに約10年間札幌とその近郊、時には泊まりがけで道東道南と随分多くの植物を見せていただいた。
 先生は北海道植物友の会をはじめ、いくつもの会の案内をされるようになった。ある時、『札幌の植物』の調査と他の会の下見を兼ねて張碓へ行った。トイレに入った先生がなかなか出てこられないのでドアを叩くと、大丈夫ですよ、先に行っててくださいと声があり、ゴソゴソと気配がする。後で入った私はハッとした。中はピカピカになっていたのだ。今度案内する人達のためだとおっしゃる。観察会が終わって帰るときにも先生はトイレに入る。次に利用する誰ともわからぬ人のために清掃されていたのだ。
 目が多ければ見つかるものも多いですよと、オジサンオバサングループ(植物友の会は若い美男美女ばかり?)を案内され、同じ質問を何度してもその都度丁寧に教えてくださった。常に礼を重んじるジェントルマンであり、あくまで謙虚な先生であったが、こと植物に関しては天性ともいうべき臭覚が働き、柵も立て札も目に入らないかのように長い脚でどんどん進んで行き、獲物を射止められた。頭には日本手拭、七つ道具入りのリュックサックを背に長靴姿の先生は、更に充実した『北海道植物図鑑』を世に出すべく着々と準備を進めていたが、95年11月4日、果たさぬまま逝ってしまわれた。
 晩秋の寒い日だったが、Eさんは伏見のタマザキクサフジを花束にして先生の棺に納めてくれた。野の花は悉く霜枯れた季節にもかかわらず、タマザキクサフジは健気にも鮮やかな色を保っていた。
 天国で先生は写真に撮ったりルーペでのぞいてニッコリしていらっしゃるだろう。そう、そちらには見たこともない美しい花やおもしろい植物がたくさんあって、手拭いの捩り鉢巻きに長靴で、調査に大忙しなのではないでしょうか。もう暫く待っていてください。そのうち長靴の子分たちがボツボツと参りますから。身内でも恋人でもないけれど、時々先生にこんな語りかけをしている。先生は多くの人々の心の中に生き続けていらっしゃるのだろう。
 先生の魂の永久に安からんことを・・・・・。

ボタニカ12号

北海道植物友の会