エルンスト・ユンガーの 『砂時計の書』 という本がある。
その中で日時計に刻まれている言葉について触れている部分がある。スイスのニヨンという街の城跡だか市庁舎の壁に日時計があり、
その文字盤には以下のような言葉が刻まれている。
Qui trop me regarde perd son temps.
(我を見つめすぎる者は時を失う)
私はこの言葉が好きで、
スクリーン・セーバーとか、ライフ・ゲームの背景とか、
要するに、何となく眺めているうちに時間が過ぎてしまうようなものには、
好んでこの言葉を使ったりしている。
何年か前、仕事でヨーロッパに行ったとき、ジュネーヴにも1週間ぐらい滞在した。
そのとき2日間、自由になる日があった。さて、
ニヨンというのは、ジュネーブから電車の各駅停車で2駅というひじょうに近い位置にある。
あの言葉の実物を見る絶好のチャンスである。しかし、行ったところで必ずその建物を見つけられる訳ではないし、
見つからなかった場合、小さい街なのであまり暇つぶしもできそうもない。
仕事の合間のたった2日間の休みを、その目的のためだけに費やすのはもったいない気がして、
結局、ニヨン行きは断念した。それでもやはり頭の隅に引っかかっていて、別の場所で別のものを見つけた。
ローザンヌのサン・メール城では、日時計に以下のような言葉が刻まれていた。
Je ne marque que les heures claires.
(私は明るい時しか、示すことをしない)
そもそも、これらは格言ではない。 いわゆるアフォリズムでさえもないかも知れない。
私が勝手に深読みしていて、native の人からすれば 単に文字通りの意味しかない、普通の文なのかも知れない。
五七五だからといって、交通標語と俳句を同一視したりはしないように。それでも、何か心に訴えるものがある。
短い文で、かつ普遍的な語彙を使っているから、いかようにも読めるという側面はあるが、
やはり、何某かの真実が含まれているのだと思う。また、どちらも取りようによってはユーモラスでさえある。
前者は、見られるための存在である日時計が、 自分が見られた瞬間、つまり自分の存在意義が確立された瞬間に、
その存在意義を付与してくれた相手に対して、
「あなたは、今、時間を無駄にしたのですよ」 と云って、自分の存在価値を否定している訳だし。後者は、そもそも日時計というのは陽が照っていないと機能しないのだから、完全な同語反復である。
それをあらためて、自分で繰り返している。
もし曇った日にこの日時計を眺めて、この言葉を目にしたなら、思わず
「云われなくてもわかっている」といいたくなるだろう。つまり、
意味ありげだが、実は文字通りの意味しかないのかも知れない。という多義性が、これらの言葉に深みを与えているのだと思う。
警句的でもあるが、冗談のようにも解釈できる。
『枕草子*砂の本』 |
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