表紙の言葉


 
人がもし、したいことをし、
言いたいことを言って生活してゆけるものなら、
それは贅沢な生活といえるだろう。
この時期、対局中の棋士たちを見ていると、
その贅沢な生活をしている人たちのように思える。

…………

こんな場面に居合わせると、前述した、棋士は贅沢な生活を送っている、
という観察は誤っているようにも思えてくる。
ただし、一流の棋士たらんと欲すれば、の話だけれども。

河口俊彦
『決断の一手』 より

アクセスカウンタ
9000〜9999

     

  • かつて『将棋マガジン』が発刊されたとき「対局日誌」というコーナーがずいぶん話題になった。
    それはこれまでの感戦記と完全に一線を画するもので、プロの視点から書かれており、
    充分に抑制された表現でありながら、対局の様子がいきいきと伝わってくる、
    まさに名文と呼ぶにふさわしいものだった。
    内部の者には違いないが、これほどの文章を書く「川口篤」とはいったい何者なのか、ずいぶん詮索された。
    著者が河口5段(当時)であることが知られるようになるまで、結構間があったように覚えている。

  • 自分は、といえば、云いたいことも云っているし、やりたいこともやっている。
    とりあえず、贅沢な生活といってよいのだろう。
    ただし、その時間があまりにも短いので、贅沢とは感じられない。

    ('98/03/31)

 
技術者型が弱いのは、科学的方法に忠実すぎるからじゃないんです。
原因はその清潔さにあるんですよ。
つまり、寝わざをかけてくる相手以上に、その術策は知り抜いているが、
おなじ手で報復するのは誇りが許さないんです。

A.E.ヴァン・ヴォクト
『宇宙船ビーグル号』 より

アクセスカウンタ
8000〜8999

     

  • SFは瀕死の状態にある、とよく云われる。
    私見では、パンクロックとダンスミュージックの登場がプログレとロック全体を絶滅状態に追い込んだのと同じように、サイバーパンクとトンデモ系がSFを絶滅させたのだ、と思っている。

  • ベスト10の投票では十年一日のように、海外では 『夏への扉』 『幼年期の終わり』、日本では 『百億の昼と千億の夜』 『果しなき流れの果てに』 という作品名が繰り返される。 もちろん、これらの作品は確かに優れている。ジャンル自体が衰退しても、これらの作品自体は古典として間違いなく残るはずである。しかしいつまでたっても同じ作品が人気の上位に居座り続ける現状というのは、やはりそのジャンルの停滞を雄弁に物語っている。
    こういったSFの古典の中でも『宇宙船ビーグル号』はその先見性において群を抜いており、永遠に現代性を保ち続けると思われる。

  • まず、主人公エリオット・グローヴナーが携わる「情報総合学(Nexialism)」という学問。専門に特化し過ぎてしまった学問の諸分野の橋渡しを行い、知識・技術の再構成を行うだけでなく、現在直面している問題の解決を図る、という役割。これは、現在、システムエンジニアが日々行っている仕事そのものである。
    また随所に出てくる自動計測機とその分析装置の描写。時々刻々と計測されるデータを、基本的には自動的に、場合によっては人間のその場の判断により、処理していく機械群。これは、コンピュータ制御によるロボット観測機以外の何ものでもない。この作品が書かれた当時は、コンピュータはまだ公のものではなかったはずであり、一方サイバネティクス理論が登場した時代だった。この、当時発表されたばかりの理論がもたらすであろう成果を、これ程的確なイメージで捉えていたというのは、正に驚異である。

  • さらに上記以上に現代的なもの、それは宇宙船の中の人間関係である。
    複数のグループから構成される組織内の、利害関係の対立と微妙な権力抗争。 特に、問題が発生するたびに開催される会議の中での心理戦。
    私が数年前に参加していたあるプロジェクトでも、毎週そのような会議を開いていた。 それは10ぐらいのタスクから成り、毎回、部長が5名、課長が10数名、主任が単なる下っ端として10数名参加するという、かなり大規模な会議だった。 その会議において、私は担当するタスクの責任者として、主に単独で参加することが多かった。 居並ぶ歴々を前に自分の意見を述べるとき、私は自分がエリオット・グローヴナーになったような気がしていた。主人公は31歳、当時私は33歳。その歳の近さも、自分を主人公と同一視させる factor の一つだった。

  • 作品中に数十名登場する科学者の書き分けも秀逸である。特に、一般には「理系」という枠で一括りにされる科学者を、ちゃんと理学部系か工学部系かという観点で、明確に分けている。
    例えば、日本人歴史学者刈田の循環史観を聞いて、無条件には受け入られないが、その洞察にはかなり深いものが含まれている、と冷静に評価するあたりの主人公の心理は、俗に「文学部哲学課数学教室」と呼ばれる数学者の心理パターンそのものである。
    また、冒頭に引用した、自分の限界を知っていて、その気になれば打破できるにもかかわらず、あえて敗北に甘んじるという ambivalent な行動パターンも、工学系のものではない。

  • 最後に原文を引用しておこう。

    It's not their devotion to the scientific method that defeats the technologists.
    It's their integrity. The average trained man often understands the tactics
    that are used against him better than the person who uses them,
    but he cannot bring himself to retaliate in kind without feeling tarnished.

    ('98/03/01)

 
何もいらない。
今の私に必要なのは思い出だけだ。
それは持っている。

星 新一
『鍵』
より

アクセスカウンタ
7000〜7999

     

  • 昨年暮れ、12月30日に亡くなった星新一氏の作品。新潮文庫 『妄想銀行』収録。

  • ある男が道端で鍵を拾う。
    男は、その異国風のデザインにどこか惹かれるものを感じる。

    男は、その鍵に合う錠前を探しはじめる。
    近所の建物は手当たり次第、博物館もまわり、旅行先でもひたすら試す。
    しかし、なかなか合う錠前は見つからない。

    男も歳をとり、疲れ、そしてあせり始める。
    このまま、何の鍵かもわからずに死んでしまうのではないか、という不安。

    ついに男は決心し、その鍵に合う錠前を作らせて、
    自分の部屋のドアに取り付ける。その、鍵を廻す感触。
    望んでいた結末とは異なるが、男は満足する。

    その夜、ドアから幸福の女神が現れる。
    そして男に、若返りと不老不死以外なら、なんでも望みをかなえる、と告げる。
    男は少し考え、そして、冒頭のセリフを述べる。

  • 中学〜高校時代は、氏の作品を読みまくった。
    その中でも特に好きな作品のひとつ。
    氏の最期の言葉というのは特に伝わっていないが、
    私は、この言葉こそ氏の最期の言葉に相応しい、と思っている。

    ('98/01/28)

 
 でもフィネガンは口をつぐんだままだった。

彼は顔が変われば人は人を区別できなく
なることの不思議さを考えていた。

R・A・ラファティ
『悪魔は死んだ』  より

アクセスカウンタ
6000〜6999

     

  • 先日、ベルギーのブリュッセルよりクリスマスカードが届いた。
    封筒にも中味にも差し出し人の名前はない。
    「家族と共にこちらに来て9ケ月になります」と書いてある。

    • ベルギーに住んでいる知り合いはいない。
      海外転勤の可能性がありそうな知り合いもいるが、誰かは特定できない。

    • 今の私の住所を知っているということは、つい最近まで手紙のやりとりがあったことになる。
      筆跡から特定できるか?

    これだけの情報では、誰なのか特定できなかった。

  • さらにその翌日、FORM 投稿のメールが届いた。
    しかも、差し出し人は、私の E-mail address になっている。

    • 誰かが私の名前でメールを出したのか?
      基本的にこれはないはず。

    • 勤め先から自宅に情報を送りたいときに、
      FDにコピーするのがめんどくさいのでメールで送ることがある。

      このとき、アドレスを入れるのさえめんどくさかったので、自分のページの投稿欄を利用し、
      かつ、その配送が遅延を起こしたのか?
      しかし、それも心当たりはない。

    こちらの方は、メールの中に答えがあった。
    (投稿者が、まちがって差し出し人のところに、宛先の E-mail address を入れていたため。)

  • 「ラファティの他にラファティ無し」
    とまで云われる程、毎回独自の世界を創りあげているR・A・ラファティの作品の中では、
    比較的とっつきやすい部類に入る。
    古本屋等で見かけたら、迷わず入手。
    『イースターワインに到着』に先に手を出さないこと(こちらは上級者向け)。

    ('97/12/24)

 
まるで毎日がパーティーだった。

私たちは忘れていた訳じゃない。
忘れようとしていた訳じゃない。
ただ、もう少し時間が欲しかった。
夕暮れにいつまでも遊び続ける子供たちのように。

しかし、宵闇は確実にやってくるのだ……

『機動戦艦ナデシコ』
第21話 いつか走った「草原」
 より

アクセスカウンタ
5000〜5999

     

  • 原作21話のオープニングのナレーション。

    • 錯綜する時間の流れ
    • 究極の兵器「相転移砲」
    • ナノマシンにより形成された補助脳と、コミュニケにより連結された集団意識を
      一つの存在としてハッキングするという、「世界の合言葉は森」+「ソラリス」ネタ

    等、シリーズ中でも最も凝りに凝った展開を見せる一話。
    しかもこれらは、ある人の過去を明らかにするというシリーズ中最大のテーマの前には、
    単なる飾りに過ぎない。

  • しかし、原作とは別に、今、この言葉だけを目にした瞬間、各人の心に去来するものがあると思う。
    実は、それこそは登場人物たちが陥った心理状態と、全く同じものである。
    具体的に何を指摘されている訳でもないのにもかかわらず、まさしく、あることを指摘されている、
    と思えてくるような、ある感覚。

    全ては時間の不可逆性に由来する。
    これこそが、人間の苦悩の原点であり、人類が営んできたあらゆる知的探求の試みは、
    これの克服を目指してきたといっても過言ではない。
    おそらく永遠に解決されることのない、究極の難問。

    そして、それこそが、実はこの作品のメインテーマである。

  • ……というと、ものすごく深淵なテーマを扱った作品と思われるかもしれないが、そんなことはない。
    ただ、ラスト1話前、通常のSFアニメなら、せいぜいアインシュタイン止まりのところを、
    ファインマンを担ぎ出してきたのには、まいった。

    ('97/11/13)

 
E pur si muove !

Galileo Galilei

アクセスカウンタ
4000〜4999

     

  • 意味については、説明不要であろう。

  • この言葉の成立について考えてみるとおもしろい。
    まず、この言葉は、表面的には、
    「いくら説得されようとも、自分の主義主張なら自分の意志で曲げることもできるが、
     自分が知ってしまった事実、目の前に厳然と存在する事実については、
     私には、否定のしようがない。」
    という風に読まれている。
    経験的自然観から、実証的・科学的自然観へのパラダイムシフトとして。

  • しかし、ここで Galileo が得た事実とは、観測の結果得られた仮説であり、
    直接、地球が公転しているところを見た訳ではない。
    惑星の動きを、より簡明に説明できる視座、として選択しただけであり、
    少なくとも「目の前に厳然と存在する事実」として選択したのではない。

  • ならば、最初の言葉はデカルトの方法序説と同じコンテクストで解釈されるべきである。
    すなわち、
    私はありとあらゆることを疑ったが、全てを疑い得たとしても、この一点、
    太陽が動いているのではなく、地球が動いている
    という私が辿り着いた仮説を、疑うことが出来ない。
    従って、これをまず、全ての思考の立脚点とすべきである。
    と。

  • このように考えると、宗教裁判を受けた理由がよくわかる。
    単なる新事実の発見であれば、反対者はただ単にそれを否定すればよい。
    嘘つきのレッテルを貼ってしまえば、話は終わりである。

    しかし、Galileo が提示したのは、先天的知識に対する否定、
    先天的知識を無批判に受け入れることの拒否、である。
    教会側にとって、こんな危険な思想はない。

  • Galileo が住んでいた家、というのが Firenze に残っている。
    観光コースからは少し離れているが、Ponte Vecchio や Duomo を望む、
    あの美しい街の中でも、とりわけ眺めのいい部屋で、
    その考えは突然訪れて、一度気付いてしまったが最後、
    もう完全に以前の自分ではなくなってしまったのか。

    ('97/10/08)

 
stat rosa pristina nomine  きのうの薔薇はただその名のみ
nomina nuda tenemus  むなしきその名をわれらは持つ

Johan Huizinga (ホイジンガ)
"Herfsttij der Middeleeuwen (中世の秋)"
 より

アクセスカウンタ
3000〜3999
     
  • 上の著作も読んだことがあるが、この言葉については覚えていなかった。
    この言葉を知ったのは、ウンベルト・エコ『薔薇の名前』である。

  • "Il nome della rosa"というイタリア語の原題と、このラテン語の引用と、
    何よりも、随所に散りばめられた膨大な引用・メタファ故に、当時、数多くの解説書が出版された。

  • しかし、どの本でも触れられていなかったことを、ここで指摘しておきたい。
    欧米文学に親しむ者で(というか欧米文化圏に住む一般の人(知識人とは限らない)なら)、
    「薔薇」の「名前」と聴いて思い出すのは、上記ホイジンガの「中世の秋」ではなく、
    シェークスピア『ロミオとジュリエット』の中のジュリエットのセリフ、
    What's in a name ? ...(以下、よく覚えていない)
    「名前が何だというの? 薔薇は「バラ」という名前でなくても、その香しさに変わりはない」

    のはずである。
    小説或いは映画のラストで、アドゥソが述壊するのは、まさにこの想い、
    名も無き薔薇である少女に対する想い、である。
    これぐらい明確で直接的な呼応は、他に考えられない。

  • 何故、誰もこのことに言及しなかったのか理解に苦しむ。
    あまりにも目の前に有り過ぎて、ちょうどコンタクトレンズが見えないように、
    視野に入らなかったとしか思えない。

    ('97/09/03)

 
Oft in the stilly night  静けき夜の降りふし
Ere slumber's chain has bound me  未だ眠りの鎖に捕らわれぬ内に
  Fond Memory brings the light  好ましき想いの運び来たるは
Of other days around me ……  去りにし日々の光 ……

Thomas Moore "The Light of Other Days" より

アクセスカウンタ
2000〜2999

     

  • この詩は、アイルランドの詩人トマス・ムーア(1779〜1852)によるものだが、
    私がこの詩を知ったのは、創元推理文庫のジュディス・メリル編『年刊SF傑作選7』に収録されている、
    ボブ・ショウ『去りにし日々の光』によってである。

  • この作品の中で、SF史上最も美しい発明と云われている「スローガラス」が登場する。
    これは光をひじょうに時間をかけて通すガラスであり、一応その技術的な理由付けも説明されている。
    しかし、重要なのはそんなことではなくその応用方法である。

    例えば、どこかの森の中の泉の前に、1年間スローガラスを据え付けて置くとしよう。
    朝、木漏れ日が水面にあたって反射するところから、夜の月の光まで、
    或いは嵐の夜の森のざわめき、小動物が水を飲みに来る光景、
    等がそっくりそのまま1年分記録される。

    そのスローガラスをアパートの壁に飾る。そうすると、その灰色の壁が、大自然への窓に一変する。
    そもそも窓から眺める光景というのは、まさに眺めるために存在しているのであり、
    直接触って、その実在を確かめる、という必要は無い。
    すなわちスローガラスが提供する1年分の風景は、まさにその景色を所有しているに等しいものである。

    という訳で、主人公は、

    「私はこの魅力的な素材を科学的に説明する術を持たない。
     ただ、どんな説明よりも、次の詩がスローガラスの魅力を雄弁に語っているように思える。」
    ということで、冒頭の詩を紹介する。

    ちなみに1年経つと、再び、スローガラスの後の灰色の壁が姿を表す。
    また、スローガラスは逆方向にも作用する。すなわち、1年間の部屋の中の様子が、ガラスの反対側に写しだされる。
    これは、この短編のラストにやってくる、ある悲劇への伏線となっている。

  • この魅力的な詩を、ぜひとも原文で味わってみたいと思っていた。
    かつてハワイに半年ほど滞在(留学)していたとき、原地の古本屋で、ふとこのことを思い出し、
    『年刊SF傑作選7』の原著を探したら、なんとあった
    しかしあいにく金の持ち合わせがなかったので、10分ほど立ち読みして、この詩を暗記した。
    店を出たあと、近くの文房具屋に入ってノートとボールペンを買い、忘れないうちに書き下した。

  • その思い出も、スローガラスを通した風景のように、だんだん薄れつつある。

    ('97/07/28)

 
「君は知るまい
 俺が一人でフラスコの前にいる時  どれだけ神に近づいているか。
 どれだけ他の誰も知らない真理をつかんでいるか……!!」

 諸星大二郎『肉色の誕生』より

アクセスカウンタ
1000〜1999

     

  • 1974年週刊漫画アクション3月21号初出。
    以前は『アダムの肋骨』という短編集の中に収録されていた。
    今では『海竜祭の夜 ― 妖怪ハンター ―』に収録されている。

  • 新しい生命の造出を目指した神永が主人公に語った言葉。

  • 『数学者の密室』に掲載する内容を考えていて、 たまに「解決できた」と勘違いすることがある。
    「こんな歴史的難問を自分が解決できるはずがない」と自分に云い聞かせて2、3日考えると、
    たいてい論理の穴が見つかり「早まって公表しなくてよかった」と安心する。
    しかしそれまでの2、3日間は、ほとんどこの状態に近い。

  • このセリフの後の言葉
    「まあそんな目で見るな。別に狂っているわけじゃない」

    ('97/06/09)

 
「コーヒー ……、8割がた、私が飲んでるかな ――」

 芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』より

アクセスカウンタ
1〜999

     

  • 1995年アフタヌーン3月号初出。サブタイトル『午前2/2』

    アフタヌーンKC『ヨコハマ買い出し紀行』1 収録。

  • 静かに流れていく、静かな時間。
    『魚貝の図鑑』(All New !) を眺めながら、 その日2杯目のコーヒーを口にした初瀬野アルファのセリフ。

  • 初期の頃(カウンタにして50以下)は、 本当に8割方(というのも控えめで、95%ぐらい)
    自分でコーヒーを飲み干していた。その述懐としてこの言葉を選んだが、 とりあえずまわりのことは気にせず、
    自分の好きなことをやっていきたい、といった気持ちも含まれている。

  • 「お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。
     のちに夕凪の時代とよばれる、てろてろの時間の物語。」
     〜 ドラマCDはオススメ。

  • 一応貨幣経済が成り立っているようだが、個としての自由な生活が保証されていて、
    収入の心配などしなくてもよい。
    他者との接触はあっても、それは全て友人との間にのみ限定され、
    人間関係のわずらわしさからは、完全に解放されている。
    そんな、気楽な理想的な世界。それは、アタゴオルにも通じる。
    できることなら、いつまででもひたっていたい。

    ('97/06/09)


表紙 『枕草子*砂の本』 『表紙の言葉』
(アクセス数 10000〜19999)

E-mail : kc2h-msm@asahi-net.or.jp
三島 久典