ワッシー祐子の徒然草

徒然草目次

第49回 よしあし 2021/6/17
第48回 続々続 まりは15歳 2021/6/16
第47回 続々 まりは15歳 2021/2/12
第46回 続 まりは15歳 2021/2/12
第45回 表彰状は誰のもの 2021/1/27
第44回 まりは15歳 2021/1/27
第43回 節談説教   2019/2/6
第42回 今年はサンタが来なかった  2018/12/25
第41回 母に教えられたこと 2010/11/1
第40回 見えんけど、居る 2010/10/24
第39回 陸上競技選手権大会 2010/7/14
第38回 自由研究 2010/7/8
第37回 無理と道理 2010/6/24
第36回 平等 2010/6/23
第35回 ニューフェイス 2010/6/16
第34回 デンちゃんはなむあみだぶつ 2010/6/11
第33回 チョコレート '08/2/14
第32回 わかこの疑問 '08/1/30
第31回 かわいがって育てて '07/9/30
第30回 冬休みの宿題 '07/2/24
第29回 新品の顔!?
第28回 秋遠足
第27回 熊出没
第26回 ヘルメット
増刊号 七夕 '06/11/19
第25回 風船取りレース
第24回 '05/6/15
第23回 小学生になった娘 '05/6
第22回 父の日に '05/6
第21回 善行寺のご近所 '05/6
第20回 メロンパンB '05/3/9
第19回 メロンパンA '05/3/9
第18回 メロンパン@ '05/3/9
第17回 '05/3/7
第16回 諒がサッカーチームに入った。
第15回
第14回
第13回 ランドセル
第12回
第11回 '04/8/12
第10回 '04/8/12
第9回 '04/5/21
第8回 '04/5/18
第7回 来訪者
第6回 わかこ入園
第5回 '03/12/30
第4回 '03/12/30
第3回 '03/11/13
第2回 '03/10/21
第1回

        


第1回

 七月二十九日待ちに待った赤ちゃんが生まれました。女の子で名は和夏子と決まりました。
赤ちゃんですので小さくてかわいいのですが、腕の太いのと唇の形は私にそっくり。まちがいなく私の子です。
「私の子なんだから」と、主人に抱かせないと、
「違う、仏様の子だ」というので、
「何を言うか、あなたは名付け親、私は産みの親」と言い返しています。
 赤ちゃんは泣きます。オムツをかえ、だっこをして、おっぱいをあげていると、それ以外何もできません。ですから上の子に手が回らなくなりました。日課の歯磨き点検と絵本読みも、ままならなくなりました。点検したくても和夏子が泣きます。
 絵本を読みたくても、おっぱいをあげていると、ページがめくれません。いらいらして怒ってしまいます。
「早くしないからわかちゃんが起きる!」
「もう絵本はなし!」
と鬼のように目を吊り上げて、眉間にしわを寄せて怒っています。すると菜々子は、
「絵本読んで」と、泣いてきます。かわいいんですよ。
「もう怒ってない?」
「怒ってないよ。」
「よかった。」というので、
「ごめんね、読んであげたいけどできないんだよ。」
と冷静になるとそれが言えるのに、すぐカッとなってしまうのです。
「お母さん怒ってばっかりでイヤだねえ。」と言うと、
「ううん、おかあさんやさしいよ、おかあさんだいすき」と、二人とも言ってくれます。
抱きしめたくなるのですが、和夏子を抱いているので、できません。
ついに、菜々子に言われました。
「おかあさん、三人も子供がいて大変だねえ。」
四歳の子供のいう言葉かしらと思い、
「昨日来た人がそういってたの?」と聞くと、
「え、違うよ、言ってないよ。」と言うので、本当に菜々子がそう感じたのでしょう。
私は「そんなことないよ。」と言い、
「三人いて喜びのほうが大きいよ。」とは言えず、苦笑してしまいました。
でも本当に、諒、菜々子、和夏子の寝顔を見ると、なんとも心安らぐ気持ちになります。

 以前、諒と菜々子で 
「僕のお母さん!」 「私のお母さん!」
と取り合いになったことがありました。幸せなお母さんだなあと思いながらも、おかしくて笑ってしまいました。
「僕のお母さんだよね」 「はいはい。」
「私のお母さん。」 「はいはい、どっちものお母さんよ」 と言いました。
 「十億の人に十億の母あれど」という詩がありますが、兄弟がいたら母の数は減るだろうにと思ったものでした。でも違うということがわかりました。三人兄弟でも自分にとっての母は一人一人にあるのだと。だから私は三人に分身するのです。現実、分身するわけはないのですから、はたらきとして、「おかあさん」があるのではないかと思いました。太陽の光のように一人一人に「おかあさん」というはたらきがあたるのです。「おかあさん」と呼ばれて、「おかあさん」のはたらきをするのです。私はまだまだ「育ての親」ならぬ「育てられの親」です。
元気ですかぁ 
   楽しい青少幼年教化の連絡会(仮称)通信 2002年10月発行(季刊) 秋号より転載

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第2回

 〜〜 十月十三日、祖母の命日でした。亡くなって七年、時々思い出します。母は1歳で父親が戦死。サイパン島でギョクサイで死んだのです。 〜〜

 母をそこに連れていってあげたいと思っていた。私は母は行きたがるだろうと思っていた。ところが母は、「行かなくていいよ。そこに行っても父はいないよ。」と、きっぱり言い切った。私は少し驚き、また、母は偉いなあと思った。母の行っている事は真実だと思う。

 そういえば「皇室アルバム」などというテレビ番組は好きで、よく見ていたようだった。が、村の戦没者慰霊祭にも出ず、もちろん靖国神社など行ったことはない母である。

 いっつも馬鹿のような事ばかり言っている母の中に、こんなにもはっきりとしたものがあるのだと知った。

 祖母は、朝憲祖父亡き後、光善寺に行き、死んだら浄土で朝憲さんが「よくやった」といって待っていてくれる、と言っていた。

 三十代で亡くなった祖父と、八十四で亡くなった祖母は浄土でどのように会うのか、は謎だけれど。母の両親は、必ず浄土にて待っているのだろう。
2003年10月21日

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第3回

 去年の十月、保育園の運動会も近づいた頃でした。年長だった長男は、「ぼく、一番になれないんだ。二番にはなれるけど。」と言った。三人で走る徒競走は、必ず三位入賞です。二番でもいいじゃないか、と思いました。が、「一番になりたいけど、もう少しなんだけど、いつもKが一番なんだよ。」

 三年間、なぜか同じ三人で走ってきました。彼は一位になりたいのです。

私は 「じゃあ、朝起きて練習しようか」 と言ってみました。ところが父親は、「そんなことしなくていいんじゃない。二番になるのは偉いんだぞ。一番より二番になる方がすごいんだぞ。」と言うのです。私は驚きました。

そして、たまたま来てくれていたお義姉さんも、「二番になれるなんてすごい。一番より二番になるのはむずかしいんだよ。おばさんは二番が好きだ。」というので、全く驚いてしまいました。鷲尾家の教えだろうか、と不思議に思いました。

さて、運動会当日。彼はソワソワと 「一番になれるかな。でもKが一番だよな。」と、まだ言っていました。ところが、本番。なんとゴールのテープを切ったのは、彼でした。とてもうれしそうに 「一位だったよ」と報告してました。

ライバルのKくんは前夜熱を三十八度も出し、座薬で下げての出場だったのですけれど。

法事から帰った父親に、「ぼく一位だった。」と報告すると、
「え、ほんとか、よかったな。」と言ってくれました。
私はホッとしました。「二番でなくて残念」と言われずに。

私は小学生の頃走るのは苦手で、一位なんて夢のまた夢。ビリにならないように走るのが精一杯でした。でもビリは嫌でした。

 その頃だったか、私の父はこんな話をしてくれました。「一番になれるのは、ビリがいるからなんだ。誰もビリになる人がいなかったら、一番にはなれないでしょ。わかる?」 (一人で走っても一番とは言わないか)と、話はよくわかりました。一番を一番たらしめるには、ビリはじめ二位のみなさんですからねえ。偉いんです。けれども私は、やっぱりビリは嫌でした。朝の練習をして、ビリは他の人になってもらいました。

 今年一年生になって、五月末の運動会。徒競走でころんで四位。障害物競走では一位になり、喜んでいました。素直な成長だと思います。「一位だ。ヤッター。」

「一位だ、どうしよう」なんて、おかしいですよね。では、又。
2003年11月13日

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第4回

 三人の子供たち。まん中の菜々子がたびたび訪ねます。「お母さん、3人の中で誰がいちばん好き?」と。さて、答えに困ります。以前、やはり3人のお子さんをお持ちだったお寺の奥さんは、(すでに、ガンで亡くなられたそうですが)ひとりひとりに「あなたがいちばんよ」といって抱きしめて、子育てしたとか。

 私は兄と2人兄弟でしたし、母にそんなこと聞いたこともありませんでした。なぜ、菜々子はそんなこと聞くのでしょう。愛情不足という言葉が頭をよぎります。言葉で言うのは簡単ですが、乾いた心は満たされません。

「菜々子がいちばん好きよ」と言えば、「うそ」と返ってきます。
「じゃあお兄ちゃん」と言えば 「・・・・」 黙ります。
「3人ともみんな好きよ」と言っても、「だから、誰がいちばんなのって聞いているでしょ。」なかなか手ごわい。

 ごまかしも、本当も効かない。3人とも好きなんだけどなあ。菜々子はとってもかわいいし、楽しいし、とても助かる。頼りになる。兄が邪魔にしても大好きだし、妹にも優しい。私がイライラすると、助けてくれる、大切な子です。居なくなったら大変だと思うのです。

 兄は下の妹にメロメロです。菜々子は兄が大好き。蹴られてもついてきます。妹の和夏子はお姉ちゃんが大好き。くっついていって真似します。お姉ちゃんも困りますけど。そして3人はお母さんが大好き。そしてお母さんはボロボロ。ボロ雑巾。ただくたびれていればいいのに、私は怒り、傷つけます。もう少しすれば楽になる、と人は云います。でも、私の手に余ります。

 私は思います。3人なんて欲張ったからだ。2人でやめとけばよかったと。本気で思うのです。そうすれば片手づつ子供を抱けたのに。3人は無理。片手づつどころか、3人が3人、両手で抱いてもらいたがるのです。あぶれた子は泣きます。順番なんて聞きません。自分が一番でないといけません。

 さてどうしたらよいでしょう。しばらくほっときましょう。できることしかできないのですから。
2003年12月30日

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第5回

 今年もまた12月が来て、一年の終わりを告げようとする。そしてまたクリスマスという日も来る。この日に、子供たちにプレゼントが届く。種もしかけも大あり。

 はじめはほんの遊び心で、長男長女の枕元にミニカーとモンチッチの人形を袋に入れておいた。その反応は、長女は飛び上がり、「お母さん、サンタクロースが来たよ!本当に来たんだよ。見て!」と大喜び。あまりの喜びように、少々心が痛みました。

その次の年は筆入れに鉛筆。そしてとうとう、「お母さんが買ってきたんでしょ」と兄が言うと、妹も一緒になって、「だってバーコードがついてるもん」と。

 なんだか悲しくさびしくなりました。サンタになってだました自分。夢を見せてるつもりが、私のほうが子供に夢を見せてもらっていたのです。

 ようやく気づきました。それでも、子供の喜ぶ顔は見たいものです。そして物ではなくて、こうして3人の子に恵まれ、家族で一年過ごせたことが、何よりの幸せだとわかるでしょう。いつの日かきっと。
2003年12月30日

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第6回

わかこ入園

 次女和夏子は、一歳八ヶ月で四月から保育園に通い始めました。四月五日入園式。名前を呼ばれても母親にしがみつき離れず、壇上に上がりませんでした。長女菜々子は同じ一歳八ヶ月入園ですが、呼ばれもしないのに他の子に混じって壇上に上がっていたのを思い出します。親が離れがたいのか、子が離れがたいのか。まだオッパイにしゃぶりつき、話も出来ない我が子を、保育士さんに預ける覚悟は出来ていたつもりでした。

 入園四日目に四十度の熱を出しました。急な環境の変化のためかと心配しました。熱の後、私の方が用心深くなり、午前中で迎えに行ったりしました。別れ際泣かれると、このまま家に連れ帰りたくなりました。しかし連れ帰れば、手の掛かる子がいて、四月から予定していた整理が全く出来ません。つい「あんたのせいで、何も出来ない」と当たってしまいます。子供も、母親と一緒にいたいだろうけど、鬼婆では、迷惑なことでしょう。改めて意を決して、保育士さんに任せました。わかこもわかるのでしょう。泣きながらでもバイバイと手を振ってくれます。頼もしい限りです。

 母親(わたし)が熱で倒れました。父親の送り迎えです。今度はなな子が気を利かせて、妹と一緒に赤ちゃん組へ行き、父親にいまのうちに帰れと合図をするのだそうです。菜々子のお姉ちゃんぶり(お母さんぶり)に保育士さんもびっくりしてました。子供たちはそれぞれ成長しています。

 三人同じように育てたいけれど、一人一人違います。また、次々、兄、姉、妹となり、わたしもみんな同じようには出来ません。これからまた、親として悩むことでしょう。

わかこ語らく

わーわー=「わかこも」の意、わかこの事。両手を胸のとこで指しながら
ねえねえ=おねえちゃん   にいにい=おにいちゃん   かあかあ=おかあさん
ちち=おとうさん      じいじい=おじさん、おじいさん 
ばあば=おばちゃん、おばあちゃん
ぞう=ぞうさんのうた  にゃー=ねこ  わん=いぬ   ぼうす(い)=ぼうし
バァーバァー=手を振りながらバイバイ  パイパイ=おっぱい  っち=こっち
しぇーしぇー=せんせい  ちーちー=おしっこ、うんこ やーやー=いやだ
ふーふー=シャボン玉  ハミングでちょうちょう=ちょうちょうのうた
両手で手を丸め、指先をたたくジェスチャー=「ピアノを弾く」の意
手を広げて上に上げるジェスチャー=ありがと
顔をしかめてぺこっと頭を下げるジェスチャー=ごめん

よくこれで生活できる。おそれることなかれ。

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第7回

来訪者

 五月の連休・三日に、寺泊のいとこのお兄さんお姉さんたちが大学帰省中の忙しい中、遊びに来てくれました。突然の来訪、とても嬉しかったです。うちの子達はもっともっと喜んで、はしゃぎ回り、お兄さんお姉さんたちをクタクタにノックアウトしてしまいました。

来訪目的の一番は、わかこに自分たちを認識してもらうことだったようです。まだよく話せないわかこに自分たちの名前を覚えて、言ってもらうこと。ちあきお姉さんは以前もよく来てくれていたので「ちー」と覚えていました。こうやお兄さんを「こー」と、どうにか。なつきお兄ちゃんは「なー」とすると側からチャチャが入り「ブーブー」と声がかかると「ブーブー」とわかこが言うのです。「なーだよなー」といっても「ブーブー」というので、笑い声が飛び交います。

悪気のない幼児だからこそ、その場を和やかにするのでしょう。心洗われる思いがします。大人になると一言一言に裏があるのではないかと疑い、不安の心が起こります。まだよく話せない幼児には、言葉に裏も表もなく「そのまま」なのでしょう。それに触れるとこちらの心も軽くなります。出来るならこのまま素直に大きくなってもらいたいものです。そんな願いが和夏子の「和」の字にあるのではないでしょうか。

やっぱり親バカですよね。

わかこ語らく 追加

なーい=ない   ”泣く”=最大の抗議

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第8回

 小学校時代、夕食の時の楽しみは父親の話でした。「祐子さんは、自分を親が勝手に生んだと思う?」と聞きました。「どうしてこんな顔に生んだとか、も少し美人に生んでくれれば良かったとか。足が長い方がいいとか。だけど、もし、親の思うような子に生めるのだとしたら、もし、わたしが祐子さんを選べるなら、もちょっと美人で足がスラーっとしたのに生んだかなあ、なんてねハッハッハー」(ちょっと、まるでわたしが短足のブスみたいじゃないですか。)と、父は冗談ぽく話してくれました。

 親の責任逃れのようにも聞こえますが、もっともだとうなずきました。子供は両親を選んで、あなた達の子として生まれたいといって生まれてきたわけではない。気づいたら、この父、この母を親として生まれていた。(始まりがはっきりしないことを「無明」というと後に教わりました)子の立場からだけでなく、親の立場でも言えることなのでしょう。気づいたら、この子を子として親になっていた。子供を選べたわけではないのです。そこに、人間の思いを超えるものの存在を感じました。漠然と、しかしはっきりと。

 わたしの両親は、あの父と母だが、本当の本当の親は阿弥陀様だ(当時阿弥陀とは知らないが)と思ったのです。本堂の暗いところに立っている仏様だと感じたのです。父と母に、自分の身勝手な思いが通じないとき、「本当のお母さん」と心の中で呼んでいたのを思い出しました。

やり場のない自分をすでに包み込んでいてくれたのかもしれません。

 私もまた、子供達にとって、思いの通じない、都合の悪い母親であるでしょう。私が救われたように、今また、子供達を導いていただきたい。
2004年5月18日

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第9回

 まだ話のよくできないわかこを抱っこして、ゆっくりと、やさしく、「あのね、」と話しかける。「うん。」と返事が来る。

「わかこちゃんはね、」 「うん。」 
「おとうさんとね、おかあさんとね、お兄ちゃんとね、お姉ちゃんのね、大事な大事な、宝なんだよ。」というと、
「ウフフフフ」と笑うようだ。それがかわいいから、何度も「あのね、」といっては繰り返していた。

ある夜。オッパイを卒業すると決めた次の夜。今までオッパイで口封じされ、寝かされていたが、それもできず、わかこがグズグズいっていた。ななこも又、お母さんに抱っこしてもらいたくて、ウズウズしていた。りょうは、すでに寝ていた。

 わかこはねむく、横になるが、離れるとグズりだす。もう少し、もう少し、と思っているが、なかなか寝入ってくれない。待ちきれないななこが、「おかあさん、だっこして」と繰り返した。体を離すと、わかこは起きるだろう。背中をたたいて「こっち向いて」とななこはいう。私はわかこから離れ、「ななこちゃん、抱っこしてほしいのはわかるけど、わかこは離れると泣くから、もう少し待てない?それとも、わかこが泣いてもいいから、自分が抱っこしてもらいたいの?ほら、抱っこしてあげるよ。おいで。」といった。泣いて起き出したわかこを見て、握り拳を自分の足の所に振り下ろして、「ダメ。」というななこ。

 今までもななこは、かわいい妹 (ちょっぴり憎らしいが) のために我慢してきた。わかこがグズり、絵本が読めなくてだだをこねると、「わかこがいなければ、ゆっくり絵本が読めるから、わかこ捨ててくるね。」というと、「ダメダメ、わかこ捨てちゃダメ。いい子にするから捨てちゃダメ。」と、本気で泣きそうに訴える。本当に妹がかわいいんだと思う。それを知っているから、今回はヒステリックにならなかった。

「ななこちゃん、胸に手を当てて聞いてごらん。わかこが泣いてもいいから、ななこは抱っこしてもらいたいの?違うでしょ。」といって、泣いてるわかこを抱き、背中をトントンとたたくと、泣きやんできた。「お姉ちゃんがね、わかこちゃんを先に抱っこしてねって。お姉ちゃん、わかこちゃんが大好きなんだよ。」というと、ななこは足で布団を蹴って、こらえていた。自分も抱っこしてもらいたいのに、良い子にさせられてしまった。

 わかこが早く寝ますように、と思いながら、やさしく、ゆっくりと、「わかこちゃんはね、おとうさんと、おかあさんと、お兄ちゃんと、お姉ちゃんの、大事な大事な宝なんだよ。」とはじめた。いつもはその繰り返しなのだが、ちょっと変えてみた。「あのね、わかこちゃんはね、お母さんのね、支えなんだよ。」

 すると、すかさずななこが、「支えってなに?」と泣きそうな声で聞いてきた。「つっかえ棒」と答えた。すると又、「つっかえ棒ってなに?」と聞くので「アスパラの茎が伸びて、倒れそうになったら、倒れないように棒をつっかえて支えたでしょ。そういうの」といったら、「わかこは、つっかえ棒じゃないモン!!」と泣きそうな声でいわれてしまった。

 確かにわかこは、畑のアスパラのつっかえ棒じゃありませんよ。悪い意味で言ったのじゃないんだけどなあ。しかし、私も畑のアスパラか・・・。たとえ話には気を遣おう。

 二人とも早く寝ないかなあ。
2004年5月21日

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第10回

 6月24日、小学校で親子レクリエーションが行われた。参加してみると、役員の方々がゲームを考えていてくれた。3クラスに分かれてカードを裏返すゲーム。イス取りゲーム。ジャンケン列車。

 白熱して盛り上がったのはイス取りゲーム。人数より少ない数のイスの周りを音楽に合わせて回り、音が止まるのを合図にイスに座る。座れなかった子は終わり。座れなかったこの中に泣き出す子もいた。何とも残酷なゲーム。しかし、スリルのあるハラハラドキドキのゲームでもある。

 私は子供の頃からこのゲームは嫌であり苦手であった。つまらなかった。人を押しのけて自分が残るという素早さもなければ、勝ち残る気もなく。勝ちたかったが、体が動かなかったのかも。座れないと、それでゲームは終わり、端で見ている。

 その点、ドキドキハラハラは似ていても、必ず参加できるフルーツバスケットというゲームの方がよかった。見ていても楽しい。鬼が共通の何かを言い、当てはまる人はイスから立ち、ほかのイスに座り、残った人が鬼となるゲーム。しかしこれも苦手だった。

 子供たちは、初めてのイス取りゲームに何とか勝ち残ろうとする。イスの前で動かなかったりする子もいた。家の子も残り十人というところまで残り、健闘した。子供たちの次は親たちがゲームをした。音楽が止まり、私は隣の人と一つはさんで見合った。思わず「どうぞ」と、座を譲ってしまった。電車の座を譲るように。私ははじめから棄権してしまったのだ。息子は「お母さん一回でダメだったね」といった。次にまた、子供たちでイス取りゲームが始まった。しかし彼は参加しなかった。後に「あのね帳」を見る機会があり、そこにその時の事が記されてあった。

「お母さんが一回で負けてくやしかった」とあった。

 ゲームなのだから真剣に戦わなければいけなかったか。いや、ゲームなのだからいいじゃないかと思ってみたり。私は何ともいえない気分になった。今度イス取りゲームの時は、がんばろうかな?イス取りゲームは、私の弱点だった。
2004年8月12日

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第11回

 誕生日をひとりひとり祝うことはいつから始まったのだろうか。かぞえ年で年を数え、年をとり、大晦日をとしやの晩といい、家族みんなで一つ年をとる。家族が一年無事だった事への感謝や喜びがあった。そして神社やお寺への年始参りがある。ひとりひとりの誕生日には、祝う側と祝ってもらう側、おめでとうを言う側と言われる側とがある。今まで、みんなで祝う正月より、自分が生まれた日で一つとるのが正しい、当たり前と思っていた。私は12月生まれなので、満で年をとったと思うとすぐまた数えで年をとり、損をした気分になったものだった。

 さて、我が家は子宝に恵まれ三人の子が夏に次々と誕生日を迎える。22日ごとに三人の子は誕生日が来ることを父が気づいた。盆参が近づくにつれ、あわただしくなり、お祝いどころでなくなる。こちらが倒れないように手を抜く。回転寿司でごちそうもケーキも済ませる。実に簡単で、子供たちも喜ぶ。一石二鳥のようだ。だが不思議と、これでいいのだろうかと思えてしまう。

 ようやく年に一度みんなで年をとり、みんなで祝うのは理にかなっているし、いいなあと思えてきた。

 ところで、誕生日に付き物のケーキについて。私は誕生日には丸い手作りケーキで、切り分けて食べることにこだわった。

 私が保育園に行っていた頃は、母がケーキを焼いてくれた。そのケーキは丸くて香ばしくて、おいしかった。だが生クリームはおいしくなかった。生クリームをよけてスポンジケーキだけを食べていた。その話を夫の二番目の姉にしたら、当時の生クリームは今のほどおいしくなかったよと教えてくれた。そうだったのかもしれない。

 田舎なのでお店もなく、食べ物は作るしかなかった。母の手作りお菓子のためかどうか、甘いもの好きの私は、そのころお菓子屋さんになりたいと、将来の夢を書いた。しかし今、私の焼くケーキはおいしくないから、作らないで、と言われている。

 8月15日、終戦日。亡き祖母の誕生日。8月15日といえばお寺は忙しさの真っ盛り。祖母は、自分の誕生日は、いつも忙しくて祝ってもらえないとこぼしたことがある。私と兄が車の運転ができた頃だったから、16,7年ほど前になるだろう。夕方、棚参りに一区切りつくと、三条の大阪屋に車を走らせた。

 この季節、ケーキのウインドウにデコレーションケーキはない。切り分けたショートケーキはあったが、丸いものはない。兄は丸く、切り分けて食べることにこだわったため、いつも毎年、アップルパイだった。今ならケーキのスポンジは冷凍保存してあると知っているので、当日でも少し早めに注文すればデコレーションケーキを買うことができる。アップルパイを黙って食べてくれた祖母に、まあるいデコレーションケーキを食べさせてあげた。ろうそく80本くらい立てて。今だと90本だろうか・・・

2004年8月12日

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第12回

 2004年7月、三条・中之島で水害がありました。そして、災害が起こったとき、文明の力に預かっている私の生活が、実に危ぶまれました。そして、三人の子を持つ身として、子供を守らねばならないと考えました。9月9日の救急の日前後に、 生協の購入企画に、非常食や非常用トイレ、非常用持ち出し袋などが出ます。非常食は一人三日分を用意するのが目安。水も大切と考え、五年間保存水を買いました。というのも、いざ、避難所生活となったとき、配給されるもので足るだろうか、子供の分までわれ先に、といって、人を押しのけてまでも奪えるかと考えました。

 子供の時聞いた父の説法の中に「親というのは餓鬼道にいて、ガキになって働いて子供に食べさせている。」という言葉が耳に残っていて、親とは、子のために地獄に堕ちているのだと思っていました。が、私は子を育てながら、地獄に落ちきれずに、我が身かわいさに我が子のために物資を調達する勇気がなく、私は非常食、トイレ、水などを用意しておいたのです。

夕食時、父は通夜で留守。子供と四人、机の下にもぐっていました。二十分もしないうちに父は帰ってきて、ようやく外に出ました。いい月夜でした。車を広い境内に出し、そこで暖をとりながら一晩二晩過ごしました。幸いガス、水道は止まらず、電気も三日目に戻りました。用意していた非常食は使わずにすみ、避難所にも行かずにすみました。とても大きく揺れたので、何度も何度も揺れたので、二歳の和夏子はとても怖がりました。姉と仲良く遊んでいるなと思うと、机の下に隠れ「じしんごっこしてるの」と言ってました。しゃべり始めたばかりの和夏子が「じしんこわかったね。」と言えたのは感心もしました。「そうだね、怖かったね。」と答えました。ずいぶん学校も保育園も休みになったので、天気の良い日ばかりだったので、揺れないときはもう毎日、バトミントンをして、右のひじが痛くなったほどでした。お兄ちゃんはとても上達しましたよ。

 タイに引っ越した友達から手紙とお菓子をもらってきたとき、お兄ちゃんは喜んでいました。そしたら今度はスマトラ島沖で地震と津波。比べることなどできない一人一人の生活、いのちの重さ。

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第13回

ランドセル

今年、娘ななこが小学校に入学する。学習机やランドセルを買わなければならない。秋はやい頃、夕食の時、ななこと何色のランドセルにしようかと話になった。「緑がいい」と言った。父は「六年間使うんだから変な色にしない方がいい。」という。小学二年の兄は、「緑なんて誰もいないよ。いじめられるからやめた方がいいよ。」「赤にしとけ」と父。「せいぜいあってもピンクだよ」と兄。「ピンクはいやだ」とななこ。「緑でいいんじゃない。」と私。「緑でいじめるなんて、いじめる方がおかしいよ。」と私。「でも、緑なんていないし、目立つよ。」と兄。「逆に目立って、間違えずに済むかもしれない。」と父。「そうだね。」と兄。「でもだいたい男は黒で女は赤だよ。」と兄。「まだ早いからよく考えて決めよう」ということになった。

 しばらくたって冬。またランドセルの話になった。今度、ななこは「じゃあお兄ちゃんと同じ黒がいい。」という。「いいけど、黒は男ばっかりだよ。」と兄「ななこの好きな色にしたらいいよ」と私。私は、ななこがいじめにあえばいいとは思わないし、ただ目立てばいいとは思わない。ただ、ななこらしく生きてほしいと願っているだけだ。經、ジャスコでランドセルを買った。何とかいう赤っぽいオレンジ色に決めた。ななこがいいなら、いいよ。私は、ななこが大好きなんだから。

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第14回

この冬になって、わかこが私に「おかあさん、だいすき。」と言うようになった。そう言われて、私は「おかあさんも、わかこちゃんだいすき。」と言う。するとまた、「わかちゃん、おかあさんだいすき。」と繰り返す。

 「だいすき。」と言われて、ちょっとテレくさく思い「いいわよ、そんなお世辞言わなくても。」と言い交わしそうになった。しかし、あっ、ちがう。彼女は今、精一杯、自分の気持ちを表現しているのだから、しっかりと受け止めようと思い、「お母さんも好きよ」と言った。8歳の兄が「おかあさんすき。」と言ってきたときも、もう、ちょっと照れくさいけれど、「おかあさんも、りょうくんすきよ。」と抱きしめよう。6歳のななこが「だっこして。」と来たときも、わかこに邪魔されながら、できるかぎり抱きしめよう。もうすぐ、お母さんのだっこは、いらなくなるのだろうな、と予感するから。

 またあるとき、わかこが私に「おかあさん、だいすき。」と言ってきた。私はいつものように「おかあさんも、わかこちゃんすきよ。」と言ったら「ダメ。」と言う。「じゃあ、おかあさん、お兄ちゃんすき。」と言った。すると、また「ダメ。」と言う。「じゃあ、おかあさん、ななこお姉ちゃんだいすき。」と言った。また「ダメ。」と言う。次に「じゃあ、おかあさん、おばあちゃんだいすき。」「じゃあ、おじいちゃんだいすき。」「おじちゃんだいすき。」「おばちゃんだいすき。」「いちごだいすき。」「りんごだいすき。」と言ったけれど、全部「ダメ。」と言われ、しかたなく「おかあさん、おとうさんだいすき。」と言ったら、ようやく「いいよ。」と答えが返ってきた。お父さんとお母さんの間で子供は心を痛めているのだな、と思った。

 またあるとき、わかこがささやくように「おかあさんだいすき」と言う。そして、ささやくように、「おかあさんといっしょにいると、たのしい」と言った。2歳半の子が言う言葉に驚いて、辞書を引いてみた。三省堂の新明解国語辞典だ。

たのしい[楽しい](形)
その状態を積極的に受け入れる気持ちが強く、できることならそれを持続したい感じだ

つまり「おかあさんと、ずっといっしょにいたいよ。」ということなのだ。ちなみに「すき」を引いてみる。

すき[好き]
@理屈抜きに(相手に)心が引きつけられる様子

わかこは、まだおっぱいから離れられずにいるから、理屈抜きに、おっぱいに引きつけられているのかもしれない。
こんなに慕われている母は、毎日我が子を保育園に預けて身軽になって仕事にいそしんでいる。どこまでが仕事か、とてもあやしい。

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第15回

ななこがバレエをやめた。4年弱、続けてきた。2歳8ヶ月の時に始めたのだから。本人がやりたいと言ったのではなかった。保育園でも音楽が鳴ると、リズムを取って、踊るのが好きだったから。それより、私が外に出たかったからだと思う。

 レッスンで、ななこは私と一緒に踊りたがったが、そういうわけにはいかなかった。もし今、あの時に戻れたら、親子でできるダンス教室か何かを探しただろう。そのときは探す余裕もなかった。

 生まれたときから、どこかしっかりしていて、私は私として生まれてきたのよ、と自信に満ちているようだった。しっかり者のように見える。今でも甘えるのが下手なようだ。3人兄妹の真ん中のせいもあるかもしれない。

 10月からバレエの稽古が週2回になり、忙しくなった。もっと友達と遊びたいと言っていた。他にピアノも習っているから、週3回の習い事は保育園に行っている子にとっては、苦痛だろうと思えた。また一方で、やっとバレエらしい内容になってきて、これからなのにと思え、だましだまし1月まで続けた。

 「バレエもピアノも大きらい」と言わせてしまった。「1年生になったらバレエやめるから」「3月にやめる。」「来週からもう行かない」とうとう、バレエに行くのをやめた。バレリーナにするつもりもない。私は「いいよ。」と言った。

 ピアノは続けていた。今、4月の発表会の曲を練習している。ピアノの稽古に行ったとき、「ピアノは楽しい。死ぬまで一生続ける。」などと言っている。6歳の子の言うことかしらん。

 気の強い子に思われるけど、とても根のやさしい子なのです。たのしく弾けて、うらやましいです。夢中に弾いている姿は、全身全霊を傾けているようです。

 ピアノを自由自在に弾くように、自由自在に生きてほしい。

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第16回

諒がサッカーチームに入った。

「2月6日の夕方、何か予定ない?」と聞いてくるので、「予定なんてないよ。何なの?」というと、小学校の体育館でサッカーの練習があるから、見学に行きたいというのだった。自分から言い出したのだ。友達から時間と場所を聞いてきて。前から、やるならサッカーと言っていたが、煮え切らずにいた。親がやらせるものでもないのでほっておいたら、自分で動き出した。親にできることは、必要な道具をそろえることくらいだ。

「サッカーやってよかったよ。楽しいよ。」と、まだ始めて1ヶ月にならないが、週1回か2回の練習に積極的に参加している。力あまっているんだし、よかったよかった。

そして今、2年生なのだが、3年生になるとスキー授業が始まる。その前にスキーをしてみたいらしい。雪が降り始めると「1回スキーに連れて行ってほしい。」と言っていた。昨日、六日町みなみというスキー場へ行き、スキー教室に入れてもらった。

雪がどんどん降る中、5回リフトに乗って滑ったとのこと。ハの字(ボーゲン)だけだけど、楽しかったようだ。「また行きたい。」「もっと滑りたい。」と言っている。スキーの楽しさを味わっているようだ。

子供と夫がスキーを楽しんでる間、私は何をしていたかって?ねむったわかこをずっと抱っこしてましたよ。目が覚めたら、ソリで遊びました。ええ、わかってます。きっと、スキーを滑れないのは、家族の中で私だけになることでしょう。

私もそろそろ、楽しみを見つけていかないと、ひとりぼっちのさみしいおばあさんになりそうです。

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第17回
2005. 3. 7

去年は体調が悪く、裏の畑に何か作るのが遅くなってしまいました。それでも毎年、土合(どあい)の原さんが、耕耘機で畑を耕してくれて、上条の佐々木さんがナスと南蛮を植えてくれます。それで、ナスと南蛮は晩秋まで私たち家族を楽しませてくれます。毎年は植えもしないのに、コンポストをあけると、その中からカボチャの種が芽を出して、カボチャの蔓が畑を縦横無尽に覆い、カボチャがころころといくつもいろんな形のがなっていたのです。ところが去年は、コンポストを開けたのが6月頃だったと思うのですが、もうカボチャは芽を出さず、取っておいた種をまいたのですが、時期が遅いのと、植え方が悪かったのか、2,3個小さいのがなったばかりでした。

 裏の畑は、土合の原さんのお母さんのウメさんが、いつ頃からか、お寺の草取りに来て、遊ばせておくなら、と畑にしてくれたと聞いています。ウメさんは、息子の諒が1歳になる6月に亡くなりました。90歳だったでしょうか。カボチャが黙ってなっていたのは、ウメさんが畑に宿っているからだろうかとも思えました。

 さて、今年は何を植えましょうか。トウモロコシは、子供が喜ぶので毎年植えています。あとスイカを植えてみたり、プリンスメロンを植えてみたり、なかなかうまくいかず、取る時期もよくわからないものです。ミニトマトにキュウリ、インゲン、サツマイモ。種から育てて実った年のキュウリは、柔らかくておいしかったです。

 土をいじって、畝にしているとき、広いなあと感じる畑なのに、蔓や葉が伸びて育っていくと、足の踏み場もないほどに狭くなるのです。欲張っていっぱい植えるからでしょうね。夏場、私たちは、草畑と呼んでいます。草が一番元気で、とてもあの中に作物があるとは思えないほど、草ぼうぼうです。カラスの目もごまかせます。

 今はまだ真っ白な雪に覆われていますが、春はもうすぐそこまで来ているのでしょう。幼い頃、雪どけのさらさらというせせらぎの音を聞き、雪どけ香りに包まれ、春が来たと感じ、どきどきしたものです。長岡の地で、あの音も香りも感じることは少ないけれど、本当にあの春の到来は楽しみで、喜びでした。

 雪の下で春を待っているのは、私たちだけではないのでしょう。なんだか、うれしいですね。

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第18回
メロンパン@
2005/3/9

 長岡のダイエーの1階入口で、毎週月・火曜日の夕方、焼きたてメロンパンが販売されているのをご存じでしょうか。バレエに通っている友達のお母さんが「おいしいよ」というので、買いに行ってみることにしました。昨年の11月頃だったと思うのですが、行ってみるとメロンパンを買うお客さんが20〜30人ほども長い列を作って車のオーブンで焼き上がるのを待っていました。高校生や会社帰りの人たちに混じって並ぶのはちょっと恥ずかしかったです。

 おかしなもので、多くの人が集まっていても、知らぬ人ばかりではなんだか心細く感じるのです。でも、そのときは末娘のわかこを抱いていたので、心細さも少しはなかったです。秋も深まりを見せた木枯らしの吹く寒い中、30分も待ったでしょうか。焼きたてのメロンパンが大きなトレーの上で、いい香りを漂わせていました。ようやく手にしたメロンパンは、ほかほかで温かく、今すぐほおばりたくなりました。

 わかこは直径12pほどもあるかと思われるメロンパンをほとんど全部食べてしまったのです。ほんとにおいしかったです。

 それから、火曜日のレッスンに行けば必ず買うようになりました。5時半頃にはもう売り切れて、ないときもありましたけど。2月1日の大雪の日には、外で並ぶ人もなく、あまりの寒さのためか、3個以上買ったら「チャイ」を一杯どうぞ、とお茶のサービスがありました。5個買って「チャイ」を一杯いただきました。

 「インドのお茶ですよね」と声をかけたら、売り子のお兄さんが「そうなんですか?」と逆に問われ「日本では香辛料として、ショウガとシナモンを入れるんですよね。」というと、もう一度お兄さんが「どこのお茶なんですか?」というので「インドのお茶です」と答えた。知らずにサービスしているのもおかしかったけれど、久しぶりに口にしたチャイが、寒さのせいもあって、熱々でおいしかったです。

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第19回

メロンパンA

2005/3/9

 メロンパンを買いに並んでいると、なぜか声をかけられるのです。あるご婦人が「これ中身、何か入っているの?」と聞かれ「入ってないですけど、おいしいですよ。」というと、「そう、すごく並んでいるものね。今日はいいけど、今度買ってみようかしら。」と言って去って行かれた。

 またあるとき「すごく並んでいるけど、なに売っているの?」と聞かれ、「メロンパンです。焼きたてでおいしいですよ。」と答えた。

 まるでメロンパン屋のサクラのようだと思ってしまうほど、人に聞かれ、また「おいしいですよ」と言ってしまう。でも、本当においしいのだから、仕方がないです。このメロンパンを食べて、メロンパンに目覚め、パン屋さんに行くと、メロンパンを買って見るようになった。しかし、ダイエーで売られているメロンパンほどおいしいと思うものに、まだ出会っていない。(すでに、メロンパンはただのパンではなくなっていて、愛しい、恋しい、あの方のような存在になってしまっている。恐ろしいメロンパンの魅力。)

 またあるとき、マクドナルドでメロンパンをわかこがかじりついている様子を見て、子連れの母親の方が、「おいしそうね。」と声をかけてきたので「はい、おいしいですよ。1個150円ですけど。」と親切にも値段まで教えてしまっていた。すると「すごく並んでいるものね。今度買ってみようかしら。」と言って行ってしまった。

 私に声をかけてきた人は、その後買って食べてみたのかどうか知る由もないですが。声かけてもらって、私はとてもうれしかったです。ただ黙って並んでいても、みんなメロンパンを買う目的は一つだと思うのですが、寂しいのです。声かけてもらって、「おいしいよ」と答えられた私の心は、自然とおいしい暖かさで満たされます。一人メロンパンを食べながら、見ず知らずの人と、おいしさを分かち合えたような気持ちになっているのです。私に声かけてくれて、ありがとう。

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第20回

メロンパンB

2005/3/9

 先日、メロンパンを買いに行くと、以前ほど並んでおらず、私の前に、5〜6人の高校生の男女と、私の後ろにご婦人が一人。メロンパンの数と、前の人の数を数えながら、何個買うのかしら、私の分まであるかしら、オーブンの中身が焼けるまで待たないといけないかしら、と考えなら待っていた。

 風の寒い日でした。まだ2月ですから、仕方ありません。売っているお兄さんが、手を真っ赤にして(もう手は赤黒く、腫れているようにも見えましたが)へらでメロンパンを茶色の紙袋に1個2個と入れ、お金をレジに入れていた。

 私は「4つください」と言って、百円玉6個を渡すと、紙袋にメロンパンを2個づつ入れ、それをビニールの手提げ袋に入れてくれた。そのお兄さんが「寒いですねえ。長岡を甘く見てました。(このパン屋さん、新潟市から売りに来ているのです)」と言って、膝下までの外套の足元を見て「ちゃんとこうして(長靴を履いて)来たのだけど、ホッカイロが足りなかった」とおどけて見せた。「風が寒いですものねえ」と答えると、「でも、まだ背中にオーブンが当たっているから、まだあったかいと思うんですけど」と言っていた。こんな会話でもないと、心まで冷え冷えに凍り付いてしまいそうだった。すると、そこに一人のおじさんが来て、1個いくらか聞いてきた。

「焼きたてだから、おいしいですよ。」と私が言うと、売っているお兄さんは、「ありがとうございます。」と言った。「3日後くらいに食べるとおいしくないけど。」と私。「はい。1日後ならおいしいです。」とお兄さん。「うん、明日にはおいしい。」と私。おじさんは「3個もらおうか。」と言って、買っていった。たったこれだけのことなのに、足取り軽く帰路につく。言葉を交わすだけのことなのに、心が軽くなる魔力がある。また心が重くなることもある。言葉という字に、「葉」という漢字を当てるのはなぜだろう。太陽の光を浴びて、光合成したり、呼吸して栄養を作るように「ことば」には人の心に働く栄養があるように思えた。

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第21回

2005・6 善行寺のご近所

ここ、宮原の善行寺の隣には、先代、鷲尾惇一の弟夫婦の分家がある。その隣には、先々代、鷲尾忠孝の弟夫婦の分家がある。人呼んで鷲尾団地という。

先々代の弟は、鷲尾蟄隆(ちつりゅう)という。今はすでに亡くなっておりますが、学者で建設省に勤め、川に橋を架けていたそうです。山梨県には、鷲尾橋と名の付いた橋まであるそうです。その娘である昭子おばさんは、とても丁寧な物腰の方です。今の世に珍しい。その控えめな様子から、ザバッと切り出す洞察力は、呆気にとられます。正おじさんは、急性を丸山といったそうです。中学校の美術の先生をされていたそうです。今では、県展で無審査で出品できるほどの彫塑の腕前の持ち主です。自宅は美術館さながら。玄関に飾られた水彩画が、私は大好きです。

隣に住んでいる先代の弟は、鷲尾堯(たかし)といいます。堯おじさんは、なかなか大した人です。私より善行寺のことをよく知っていて、困ったときには頼りになる生き字引のような人です。しかし困ったことに、テレビ番組のビデオ撮りに凝っていて、テレビの前から離れようとしません。運動不足解消は、日課の善行寺通いです。これからも毎日欠かさず、顔を見せに来てもらいたいです。その連れ合いの佐智子おばさんは、美人で、気さくで、子ども好きです。我が家の3人の子は、おばさんに大変かわいがっていただいています。みんな自分の家のように上がり込んでしまっていました。お寺のことから、赤ちゃんのあやし方、病気のこと、情緒のことなど、私の悩み相談室です。

そして善行寺のご近所には、樺沢さん、佐藤さん、恩田さんと並び、皆心優しい人たちに囲まれています。

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第22回

2005・6 父の日に

私の息子の育て方について、なにかアドバイスがほしいと思い、父に「どう育てていったらいいかわからない」と問いかけたことがあります。なにか具体的な指針がほしかったのです。というのはやはり、子を育てる上で、家族の中で意見や方針が違っていたからです。また、私を育ててくれたとき、何をよりどころにしていたのか、知りたくもあったからです。私の父はこう言ったという、後ろ盾がほしかったのです。しかし、返ってきた答えは「その子に聞きなさい。」でした。「え。」と聞き返したのですが、やはり「その子に聞くことです。」という一言だけでした。呆気にとられました。突き放されたような気がしました。まだよく喋れない子に聞くというのは、どういうことなのでしょう。考えました。その子をよく見、その子の欲するところ、本当にその子にとって、今どうしてあげることが、親として大事なのか、またできるのかを知るということなのでしょうか。私の全五感を働かせ、できる限りのことをしよう。私に任されたのだから。腹を据えるしかありませんでした。親になったのだから、しっかりやりなさいという励ましと優しさとして受け止めました。
 そして、自灯明、法灯明という言葉を連想しました。一人一人違う子に、ハウツーのマニュアルで育てることはできないのだ、と改めて知ることになりました。自らを依り所として、他を依り所とせず、法を依り所として、他を依り所とせず。
その子のいのちの叫びに耳を傾けられるようにと思いました。そして、私も、本当はどうしたいのか、私にも耳を傾けるようにと思いました。

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第23回

2005・6 小学生になった娘

小学校にあがる前のことです。夜、眠りにつく前に、菜々子が「お母さん、もし、菜々子が死んでも、またお母さんの子どもで生まれてきたい。」と言ったことが何度かあります。「またお母さんが、お母さんで、お兄ちゃんがいて、菜々子がいるの。いいでしょ。わかちゃんも。」と言うのです。生まれ変わりのことなど、まして輪廻のことなど知るはずもないのに、不思議なことをいうものだなあと思いながら、「いいよ。」と応えていました。夜、目をつむって、寝るということが、死を連想させるのでしょうか。暗くて怖いのだろうし、安心が欲しいのだろうと思い、「もし、菜々子ちゃんが死んでも、また、お母さんの子どもに生まれてきてね。」と言うと、「うん、そうするね。いいでしょ。」と菜々子。「いいよ。」と私。「ぜったいね。」「うん。」そう言って、眠りについたのでした。なんてかわいいのでしょう。こんなおこりんぼ母さんの所に、また生まれてきたいなんて、と、いたく感動したものでした。
 ところが、小学一年生になった菜々子は、そんなこと言っていたなんて、遥か彼方に忘れ去り、夜は疲れて、行って見るとすでに布団の上で、安らかな眠りについていることも多くなりました。そして、たまにお風呂で二人、ゆっくり入れるときに、何を言うかと思えば、「私、お母さんの子に生まれなければ良かった。」と一言。ドキッとして「じゃあ、お母さん、出ていこうか。」と言うと、「もう遅いもん。」と、返ってきたのです。「え、何が。」と聞くと「お母さんがいなくなっても同じだよ。菜々子、お母さんに似て、足に毛が生えてるもん。」と答えが返ってきました。「あ、ごめんね。」と言いながら、少しホッとしました。少し早いがお年頃になってきたのね、と了解することができました。「死んでも、またお母さんの子に生まれてきたいって言ってたのよ、あなたは。」と心の中で言いながら、「あのね、お父さんのお母さんも、毛深かったんだって」と言い分けしながら、プールに入る前に、足をきれいにしてあげる母でした。
 この話は、年頃の菜々子にあっても、内緒にしておいてくださいね。

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第24回

2005・6・15

長男の誕生日でした。今年の誕生日は、手巻き寿司とケーキでお祝いしました。プレゼントは、8月発売のゲームを父に買ってもらうことに決めたようです。
 手巻き寿司のネタをウオロクに買いに行きました。甘エビ1パック467円。ヤリイカ1パイ98円を5ハイ。そして、いなだ1匹500円料理は上手くないけれど、家で作れば、安いし、心はこもっているし、おいしいし、と三拍子そろうじゃないですか。そして、忘れてならないのが、大葉と、かいわれと、大根。いわゆる刺身の妻。これなしで、刺身は食べられません。ところでこの「妻」の意味、知ってましたか。新明解国語辞典第四版より

つま@[妻]配偶者としての女性。女房。[雅語では夫と書き、男性をも指した]←→夫
A[料理で]刺身などのそばに添える海草・野菜など。「刺身の------」
 [他を引き立てるだけで、それ自身には価値の乏しいもののたとえ]

なるほど。刺身の妻とは、他を引き立てるだけで、それ自身には価値の乏しいものだったのか。それにしても、「妻」という字を当ててあるのはイヤな気持ちですねえ。ちなみに「夫」を引いてみましょう

夫 おっと 配偶者としての男性←→妻

とあるだけでした。子どもの頃、理由は何であったか忘れてしまいましたが、「男に生まれたかった」と言ったことを思い出しました。刺身になりたかったのですねえ、きっと。そして、また、子どもの頃、母に対して、もっと父を立てればいいのにと思っていたことも。妻のあるべき姿として、出しゃばらず、賢くあるもの、耐えるもの、と思っていたからでしょう。
 今、私は、妻であり、母であり、坊守である。しかし、それ以前に人間である。人間でありたい。人間になりたい。
 しかし、また、妻であり、母であり、坊守である以外の自分など、どこに存在するのだろうか。それは、ただ、自分の思いでしかないのではないか。心など存在し得ないのではないか、と絶望する。
 それでも悪あがきを続けるのです。
 そして、大谷専修学院の時、「かわりのきかない、ひとりの人間として生きたい」と情熱をもって語っていた中川先生の言葉を思い出しました。そして、歎異抄第十八章の「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」

どう生きればいいか迷いながら、すでに生きつづけている。私の所にも、本願が来ているのでしょうか。

そう考えた誕生日でした。

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第25回

風船取りレース

 6月の第一日曜日、小学校の運動会が行われた。曇り空で始まった運動会はお昼に はカンカン照りになっていた。午後の競技に幼児レースがある。未就学児による風船 取りレースだ。赤、白、黄、桃、だいだい、青、水色、緑、むらさき、の、色あざやかな、丸くふくらんだ風船めがけて走る。勝負は速さでは無く、何色の風船を手に入れるかだ。物のない時代ではない。風船なんてめずらしくない。しかし、運動会のこの風船はどうしても取らねばならぬ賞品だ。白くひかれた線の後ろに、母親に手を引 かれた子供たちが並ぶ。

10数人ずつで走る。「ヨーイ、ドン。」の合図で、子供だけが走り出す。わが子も走り出した。まっすぐに走らず、カーブをきった。そして、目的の桃色の風船を手にして私を探す。その顔は、満足そうだった。レース後、残った風船をもう一つもらった。やはり、桃色だった。兄、姉の運動会そっちのけで土いじりして遊ぶときも棒のついた風船を離さない。一緒に遊ぶ子も風船を離さない。そ の風船を持っていることが満足なのだ。

しかし、毎年、必ず、遊んでいるとき、ある いはお弁当を食べているとき、あるいは、帰りの自転車に乗っているとき、パンと大 きな音を立てて割れてしまう。必ずだ。だから、もう一つもらっておくのだ。今年も、うさぎを見ていたら、大きな音がして割れた。情けない顔をしたわが子がゴムの残がいと棒を持って私のところへ来た。「割れちゃったんだね。」「うん。」「もひとつあるよ。」と渡す。そして、それを持ってまた遊びだす。割れてしまった風船はもう元にもどらない。その悲しみと悔しさをのりこえる力をどうやって身につけていくのだろうか。しかし、必ず身につける。泣いて乗りきるのか。歯をくいしばるのか。何ともない振りをするのか。色とりどりの丸くふくらんだ風船。
たかだか、風船。しかし、それはとても魅力的だった。

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増刊号

七夕


今年は、七夕かざりをする気にならなかった。しかし、保育園での飾りを作らなければならない。折り紙で飾りを作った。それから、願い事を短冊に書かなければならない。
7月7日、朝ご飯の時に、末娘わかこに尋ねた。「何をお願いする?」「なににしよう。」と考えているので、「字が上手になりますようにとか。」と話していた。
丁度その時、テレビで北朝鮮のミサイル発射のニュースが流れた。それを見ていたななこが、「戦争が起きませんように。」と言った。私は、「いいよ。せんそうがおきませんように、ね。」すると、今度はわかこが、「じしんがおきませんように。」といった。「はいはい、じしんがおきませんように、わかこ、ね。」えんぴつ書きしたその字を、わかこがペンでたどった。
保育園に持って行き、竹の笹に飾った。笹は、保育園のみんなの飾りでにぎわっていた。見ると、「うさぎになりたい。」と書かれた短冊があった。
つい先日まで、わかこに「何になりたい?」と尋ねると、「うさぎになりたい。」と答えていたのを思い出し、クスリと笑った。おんなじ事を考える子がいるものだなあ。「わかちゃんがうさぎになったら、お母さんどうしよう。困っちゃうなあ。お母さんもうさぎになって、ピョンピョン追いかけなくちゃいけないなあ。」と少し困って言うと、「いいよ。」と無邪気に答えていた。
あのね、うさぎになってほしくないんだけどなあ。どうすると、「うさぎになりたい。」と思うのかなあ。それを思うと、「じしんがおきませんように。」とは、非常に現実的で、自己中心的でない願い事だと思えた。「家でも七夕飾りをしようか。」と言うと、うれしそうに「うん、わかちゃん、家でもかざりたい。」と言った。
家に帰って、七夕飾りを作った。翌日、家の七夕に飾った短冊には、「かじがおきませんように。」と「おかあさんがしにませんように。」と書いてあった。
もう、うさぎにはならないで下さいね。

平成18年11月19日掲載

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第26回

ヘルメット


 むすこが10才の誕生日に自転車を買ってもらった。26インチの黒いママチャリ。今は、普通の自転車が流行っているらしい。小学入学の時に買ってもらった24インチの変速つきのマウンテンバイクはもう小さくなってしまった。それだけ体格がよく、成長した事を喜ぶべきだろう。
 その誕生日以前の5月の連休頃、この学区内で小学生と中学生の乗る自転車と自動車の接触事故が3件ほど続いた。幸い大事に至らなかったが、小路から飛び出す自転車にはどうにもならい。
 そこで、私はヘルメットを買おうと思った。まず、自分がかぶって、子供にもかぶらせて、と思ったのです。
 ところが、それに反対する人が居ました。「自転車屋さんが儲かる。」「ヘルメットはいらない。周りにかぶっている人は誰もいない。」と言うのです。
 がっかりだよ!(スケバン恐子風)
 ヘルメットはカッコ悪いでしょうか。ヘルメットは高いでしょうか。カッコ悪くてもいいじゃないか。
 私が、京都の大谷専修学院で寮生活をしているとき、和子(わこ)ちゃんと同室になった。和子ちゃんは、「カッコ悪いから。」と言って、秋の長雨で肌寒い時、ジージャンを羽織っただけで、傘もささずに、濡ながら銭湯に歩いたのです。「あのね、カッコ悪くても、着てなさい。」と、私の格好悪いパーカーを着せました。和子ちゃんは再生不良性貧血という病気で、風邪は命取り、怪我もしてはいけない身体だったのです。カッコ悪くてもいいから、生きていてほしかった。
 現在、我が家にヘルメットはありません。 

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第27回

熊出没

 10月7日、雨の中買い物帰りの車の中、カーラジオからニュースが流れていた。「え、どうして殺すの?」と娘が叫んだ。「え?なに?」夜、雨の運転でニュースを聞いていなかった私は、聞き返した。「どうして、熊を殺すの?」と言う。ああ、夕刊に出ていた記事を思い出して、娘に説明する。
「あのね、熊は10−11月に冬眠のために食べだめするのだけど、今年はブナの花の少ないのを6月ころに花の量を見てか、わかって、人里に餌を求めてきて、危ないんだよ。」
「殺さなくてもいいじゃないか。」と娘。
その通りだと思う。子供は動物にはとてもやさしい。「食べ物をあげればいいじゃないか。」と娘。
「そうだね。でも、誰が餌をあげるの?熊は、木の実や魚や、いっぱいたべるよ。お金がかかるよ。」
「私たちが、魚を釣ってあげる。」と娘。
「そんな時間あるの?」「無理か。」と娘は一言。
 夜雨の中、自宅に車を走らせた。娘の心に生まれた哀れみの心。歎異抄第4章に、『慈悲に聖道・浄土かわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおしふびん不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきにと 云々』とある。どんなに、熊がかわいそうだと思ってみても、思うようにたすけられない。
行政が熊に餌をやればいいのか。念仏したら、熊は、殺されずに済むのか。ということではない。熊をかわいそうだと思っている私も、実は、哀れまれている熊と同じようなものだ。その私を哀れんで救おうとしてくれている。どうにもならないと苦しんでいる私を哀れんでいる。心配してくれている。ありがとう。浄土の慈悲は、私をも包んでいた。なんだかよくわからないことをこじつけているようだ。
南無阿弥陀仏は、何もしないことではない。
だから、娘よ、思うように生きなさい。

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第28回

秋遠足

10/13、晴れ、保育園の秋遠足。与板のたちばな公園(通称きょうりゅう公園)までバスに乗って行く。春の遠足は親子遠足だが、秋は園児と保育士さんと、保育参加するお母さんが数人一緒に行く。
私は、お弁当を作って持たせればよい。少しでも手作りをと思う。が、実はお弁当のおかずを買う暇がなかったので、冷凍庫のひき肉で煮込みハンバーグと、ごぼうの肉まき、さつまいも、自家製ミニトマト、きゅうりの漬け物、おにぎり。それをキティちゃんのお弁当箱につめ、はしは、去年のクリスマスプレゼントのプリキュア(キャラクター)を選び、いとこから貰った動物柄のナプキンに包んだ。
水筒はキティちゃんのストローポッパー。お姉ちゃんからのお下がりのキティちゃんのリュックにつめた。「これでいい?」と聞くと、「うん。」という返事もトーンが高く、宙に浮いているようにウキウキとしていた。足取り軽く保育園に着くと、「バイバイ。」と吸い込まれるように園に入っていった。楽しい遠足になるだろうと思っていた。
ところが、夕方、いつものようにお迎えに行き、自宅に戻ると、朝と違って元気がない。表情が曇っている。何があったのだろう。
「遠足、楽しかった?」と聞いてみる。
「たのしくなかった。」と返ってきた。
この日、2年生の姉も校外学習でお弁当を持っていった。その持ち帰ったお弁当を包んでいたナプキンを見て、「いいなあ、おねえちゃんキティちゃんで。」とつぶやく。
「え!ナプキンのこと?」と聞くが、肯定も否定もしない。また、「いいなあ、おねえちゃんばっかり。」と、「ばっかり」に、力が入る。曇り顔の訳は、お弁当を包んだナプキンだったようだ。
「これ、おばあちゃんがお姉ちゃんにくれた物なんだよ。」
「・・・・・。」
「わかちゃん、プリキュアのはし持っていったじゃん。」
「おねえちゃんばっかり。」
プリキュアのはしじゃ、ダメだったんだな。
「わかちゃん、これでいいって(動物柄のナプキン)いったじゃない。だって、キティちゃんのはおねえちゃんのなんだもん。」
「・・・・・。」
「わかちゃんも、キティちゃんのがよかったんだね。」
「うん。」
「ほかの子は、かわいいキャラクターのナプキンだったの?」
「うん。」
もう、涙が溢れている。想像できる。お弁当をだして、ひとりの子が「わたし、○○のだよ。」と、ナプキンを見せると、「わたしは、△△。」「わたしは、○○○。」と、言いだし、その輪の中に入れないでいるわかこの姿。
「あ、思い出した。わかちゃん、ラブ&ベリーのナプキン、ハンカチと間違えて買ったのがあった。ごめん、ごめん。お母さん思い出せなかった。あれ、持っていけばよかったよね。お母さん悪かったよね。ごめん、ごめん。」と、声を出して泣いているわかちゃんを抱きながら、謝った。
わたしが一緒だったら、また違っていただろう。恐るべし、キャラクターナプキンの威力。4歳の子供たちに悪気など無いだろうし、仲間はずれにする気など全く無い。些細なことが楽しかっただろう遠足を「楽しくなかった。」と言わせてしまった。落ち着きを取り戻したわかこは、「○○ちゃんは、ウサハナで、○○ちゃんは、シナモンで、」と教えてくれていた。仲間はずれの悲しい気持ちを我慢して家まで持って帰ってきて、わたしに伝えてくれた。ありがとう。涙と一緒に悲しい気持ちも流れて行ったことでしょう。
月曜日には、いつものように保育園に行きましたよ。

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第29回

新品の顔!?

わかこは、年少さんになり、新しいお友達ができました。
年長、年中さんにもかわいいと人気のN子(仮名)ちゃんです。保育園で遊ぶのにあきたらず、お家に遊びに行ったり来たりするようになりました。
そんなある日、迎えに行った車の中で、「いいなあ、N子ちゃんのおかあさん。」と、ため息混じりに羨ましそうに言いました。どこが、どういいのだろう?と思いを巡らしました。すると、「顔が新品なんだもん。」ですって。「え!?」聞き返しました。すると、真剣に「N子ちゃんのおかあさんの顔、新しくていいな。」ときました。「プッ。」と吹き出してしまいました。「新しい顔」「新品の顔」。N子ちゃんもかわいいですが、お母さんも若くてきれいなのです。
これには勝てません。惨敗です。(ごめんね、中古品で!?)

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第30回

冬休みの宿題

 冬休みの宿題に書初めがある。1,2年生は硬筆の書初めです。
2年生の課題は「友達と大きな雪だるまを作ります。」だった。
練習用の紙をコピーして、妹の和夏子もお姉ちゃんに習って書いていた。菜々子ちゃんは練習して書いているところは決して見せてくれない。
恥ずかしいと言うより、何か言われる、注意される事を警戒しているのだ。何か言われると、やる気がなくなるのだ。
そして、5枚書いたものを持ってきて、「お母さん、どれが一番いいか、選んで。」と少し得意気に言うのだった。自分なりによくできたと思ったのだろう。
ところが、私は、「んー、そうだね、これかな?やっぱり、こっちがいいかな。よく書けてるね。すごくいいよ。でも、ね、ななこちゃん、ちょっと来て。この字さ、もう少しこう書いたほうがいいよ。これは、すっごくいいけど、ここ、まがったからね。ほら、中心がずれてるよ。」と、赤鉛筆を持ってきて、一番よくできた練習の紙を赤く直していった。
私は、褒めているつもりだった。しかし、ななこちゃんはプイと隣の部屋に行ってしまった。
こちらは、直しているのに、本人が居なくなったので、呼びながら探してみた。すると、そのまた隣の部屋の布団の中にもぐって、泣いていた。
ようやく、わたしは、自分の過ちに気がついた。
ななこちゃんは、「どれがいいか、えらんで。」と言っただけで、「どこが悪いかなおして。」「もっとよくするにはどうしたらいいか。」とは、言わなかった。
それでも、まだ、「だって、もっと上手になりたいでしょ。」と言いかけてしまう。
自分の過ちを正当化しようとしている。
その言葉を飲み込んで、「ななこちゃん、ごめんね。お母さんが悪かったね。ななこちゃんは、どれがいいか選んでと言っただけで、直してとは言わなかったもんね。ごめんね。」と、「ごめんね。」を繰り返し、泣き止むまで一緒に居た。
つい、子供の為と思って余計な事をしてしまう。「がんばったね。」「ひとりで、書いたの?すごいね。」「この字が好きだな。」「ななこちゃんらしい字だね。」「1年の時と違うね。」と言えないのか。
私は、子供のころ、祖母に褒められるとゾッとした。言い過ぎだろうか、嬉しくなかった。それは、今は良くても、つぎは落ちるという不安に駆られるからだった。
その頃の通知表は、5段階評価だったから、だれかが、必ず1、2、3、をもらう。
今、4でいい子なら、3ではダメなのか。と考えてしまうから。祖母も、もうちょっとだね、と悪気なく言っただろう。
そのままの自分を受け入れてもらえば、そこから、いつでもどこでも、はじめられるだろう。

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第31回

「かわいがって育てて」

 まだ、わかこが生まれる前のこと。
義父が生きているとき、義母陽子のショートステイは3日間だったが、その間一日も休まずに義母陽子に会いに通っていた。
あんまり毎日通うので施設から利用を控えるように言われないかと不安になるほどだった。
 義父が亡くなり、義母陽子がショートステイで施設に10日泊まり家に4泊するという生活になった。そして、毎日、顔を見に行く人がいなくなった。が、時折、2歳と5歳の子供二人を連れて訪ねた。
行くと幼い子は珍しいのだろう、そこの利用者も職員も目を細めた。そこには、レクリェーションで使ったゴム風船やお手玉、ゴムボールがあり、義母陽子は孫にそれを貸してくれた。二人はそれで遊んだ。
夕食が近づくと、利用者は食堂に集まってくつろいでいた。ソファーに座ってテレビを見たり、新聞を読んだりする方、車椅子の方。そろそろ帰ろうかと、その方達の間を抜けて帰ろうとしたとき、ひとりの婦人が私に「かわいがって育てて下さいね。」と言われた。「はい、そうします。」と答えながら、違和感を覚えた。全くの見ず知らずの人に、まるで自分の子か孫を私に預けるように感じたからだ。
 折しも、世の中では、自らの子を捨てたり、虐待したり、死に至らしめる出来事があったときだった。今は、なおさらだろう。
その中で、施設に入っているその方は、何を思ったのだろう。「かわいがって育てて。」とは、仏様の言葉に違いない。子供時代を終え、親としての子育ても終え、孫の世話も終わったであろう、その人は、自分と直接関係のない、私の子供達を、「かわいがって育てて下さい。」と私に託したのだ。
きっと、自分の子のようにかわいかったのだろう。そう託された私は、時に、鬼のように自分の都合で子供達を切り刻んでいる。
だが、ここそこに、阿弥陀様がいらっしゃるので、どうにか今日に至っていると思う。
ありがたいことだ。

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第32回

わかこの疑問

 ピアノの教室に向かう車の中で、わかこが「おかあさん、聞きたいことことがあるんだけど。」と言うので、運転しながら「なーに?」と答えた。すると、「どうして人は、ケッコンして、こどもうんで、またケッコンして、こどもうんで、また、ケッコンして、こどもうんで、またケッコンしてこどもうむの?ずっとずーっとつづけるの?」と尋ねてきたのです。「うーん、なんでだろうねえ。」と返事しながら、(相手は5才の子どもである。下手に答えられない。そして、どうしてそんな疑問を持ったのか?)と不思議に思った。
 そこで聞き返してみることにした。「わかちゃんはどうしてだと思う?」すると、しばらく沈黙の後、「わかんない。」というこたえが返ってきた。ホッとした。そうだよね。わかんないよね。もう少し大きい子の質問には、案外、自分なりのこたえを持って、聞いてきたりするのだが。このくらい小さい子だと、本当に思いつきか、ひらめきなのだろう。
 それにしても恐ろしい。こんなこと聞きかれて、こうですと答えられる人はいるのだろうか。また、「こうだ。」とひとに言われて、そうだと納得できるだろうか。

 ところで、たまたま、この日の夜、兄のりょうが「どうして生きていなくちゃいけないのかなあ。」とつぶやいた。
 え!そんな疑問を持たれても、すぐにこたえられない。しかも、「死んじゃいたい。」の同意語かと、焦ってしまう。
 そこで、今日、わかこちゃんに質問されたことを話してみた。すると「あははは。」と笑うので、どうして笑うのかと思ったら、「そんなに何度も再婚してそのたびに子ども産むのかい。」と言うのです。
 あらら、解釈が違いました。「そうでなくて結婚して子どもができて、その子がまた結婚して子ども産んでということだと思うよ。」と伝えたら、「ああ、そういうことか。」と、納得。

 笑い話で茶を濁しましたが、5才の子どもでも11才の子どもでも「生きる」ということ、「生まれる」ということに問いを持つのですね。持って当然なのかも知れません。持たないわけが無いはずなのですが、実のところ、私もその問いの答えははっきり言えません。

 ただ、はっきり言えることは、りょう、ななこ、わかこ、が私を「おかあさん」と呼んでくれることが「生きる喜び」だということです。

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第33回 「チョコレート」

車のラジオから「私義理チョコはあげない主義なんです。本命のみ、あげます。」と、流れる。
するとななこが、「ぎりチョコって何?」と質問。
「えーっと、義理であげるチョコ。」
そのまんまだ。「義理って何?」
「好きであげるんじゃなくて、お世話になっているからとか、同じ会社のメンバーだから、とかであげるチョコのことだよ。」
「ふーん。そういうことか。チョコの名前じゃないんだ。」
「え!ミルクチョコ、アーモンドチョコ、ギリチョコ?」
はははは(笑)ということ?
ななこちゃんはというと、友チョコを女友達と交換、ときどき男子に。でした。
たくさんのチョコをもらっていましたよ。

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第34回 「デンちゃんはなむあみだぶつ


柴犬のまりは、7月3日で5歳。まだ若い。と言われる。
犬は、大体12、3年は、生きると言われている。
15年は、たいしたもの、になる。最近、ポメラニアンの四郎君が、15歳だったかな、5月に亡くなった。
食べ物も食べなくなり、獣医に行って、何とかという注射を打ってもらったのだそうだ。

ある日の夜、いつものように、まりが玄関で横たわっているので、「かわいい。」とくっついてなでていると、
下のわかこがきて、「まりってかわいいよね。」「まりのお父さんとお母さんは、どうしているのかな。」「寂しくないのかな。」
「まりが死んだら、また柴犬を飼うの。」といううので、「でもさ、他の柴犬を飼っても、まりとは、ちがうよね。」といったら、
「そうだよね。ちがうよね。」「まりと同じ柴犬はいないよね。」と、うなずき合っていた。

以前、飼っていたヒダリマキマイマイのデンちゃんは、大きくて、黒くて、広告紙の上に置くとシャリシャリと食べて、広告色のうんちをして、とても可愛かった。
しかし、たかがカタツムリ、また同じようなカタツムリに会えると思って高をくくっていた。下の子が生まれて、逃がしてしまった。
その後、また、カタツムリを拾ってきて、飼い始めた。ところが、なかなか、広告をシャリシャリ食べるカタツムリは居なかった。

無くしてから、その存在の大切さに気づくことがある。二つと無いいのち。
同じなのに同じでない。不可思議。だからこそ、今を大事にして生きたい。

カタツムリのデンちゃん、なむあみだぶつでした。南無阿彌陀仏。

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第35回 「ニューフェイス」

 我が家のカタツムリは、ヒダリマキマイマイが3匹、ミギマキマイマイが2匹いた。
ヒダリマキマイマイが大きくて、直径4cmくらいの殻を持つ。ミギマキマイマイは、2cm弱くらいの殻を持っている。
ヒダリマキちゃんには、サキちゃん、デンちゃん、ツムちゃんと名前がつけられている。ミギマキちゃんは、2匹ともチビちゃんだ。
個別する特徴があまり無いからだと思う。

 今月3日にカタツムリを入れておいた虫かごの土の部分に、白いいくらのような卵(いくらより小さい)を発見した。
全部で、113個。卵から孵って赤ちゃんカタツムリが出て来てくれると嬉しい。今まで、卵を産んでも、ふ化したことが無いようなのだ。
卵の割れたものが見つかるだけだった。しかし、今年は期待したい。20〜30日で生まれるらしい。
キッチンペーパーを濡らした上に置いて様子を見ている。

 さて、今朝は、珍しく早起きのわかことまりの散歩に出かけた。
昨夜からの雨で、我が家のヒダリマキマイマイを見つけた塀に、もしかしたら、またカタツムリが居るかもしれないと思い、そこを通ってみた。
すると、直径2cmくらいの縞模様のはっきりしたヒダリマキマイマイを発見。かわいい。連れて帰ってきてしまった。
ほかに居ないかと、歩いていると、違う場所の塀に殻の無いカタツムリ?「わかちゃん、ほら、殻の無いカタツムリだよ。」と言うと、「どこどこ。」と、わかこ。
「ほら、そこに3匹。」と、わたし。「あ、ほんとだ。殻の無いカタツムリは、どうすると殻ができるの。」と、おかしいなと思いながらも、
お母さんが嘘を言うはず無いと思いながら聞いてきた。「できないよ。ナメクジだよ。」と、かついでしまった。
「そうだよね、ナメクジとカタツムリって違うの?ナメクジはカタツムリにならないの?」解っていると思って言ったのだけど、解っていなかったのかな。
「ナメクジとカタツムリは別だよ。」と自信満々に答えた。

 しかし、調べてみると、カタツムリもナメクジも分類は、軟体動物門、腹足鋼、柄眼目だ。
しかし、カタツムリはアワビなどの巻貝の仲間で、ナメクジは殻の退化したカタツムリと「ナメクジ化」と呼ばれる変異したものからなるのだそうだ。

似て非なるものか、親戚ととらえるか。

 たとえば、「日本」の読み方は、「にっぽん」か「にほん」か。学校で先生が「にっぽん」が正しいと言えば、子供は、素直にそうだと覚えてしまう。
本当にそうですか?辞書で調べましたか?

 私は、知ってるつもり、解ったつもりで、解らないことだらけだと知らされた。

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第36回 「平等」


 兄弟でも、違うものだ。
真ん中の娘は、「毎日が、楽しい。」「楽しくなければ、生きている意味無い。」と言う。
やりたいことを、かたっぱしからやって、毎日忙しい。「楽」しているわけでない、むしろ、苦しい、大変なことも多いと思う。
しかし、「楽しい」と言う。

 長男は、「生きていも、意味無い。」「つまらない。」と言う。

 親から見れば、長男は、物分り良く、いい子で手がかからない。
長女は、言い出したら聞かない、手に余る。困ったことだ。しかし、だから、この子なのだと思う。


 それにしても、同じ家に住みながら、同じ親から生まれたのに、こうも言うことが違うと、いささか、不平等だと思わずに居れない。
どうしてと、考えてしまう。


 「極楽」と言うのは、苦しみの無い世界を言うのではないそうだ。
苦しみが苦しみとならない世界のことを言うのだそうだ。そうすると、今、長女の居る世界は、極楽なのだろう。
では、長男の居る世界はと言うと、生きているのに生きていない。「地獄」何地獄だろうか。

 わたしをわたしが受け入れられない。思春期なら、誰もが通る道だと思う。

 父が、話してくれたことは、子供にしてみれば、誰も生んでくれと頼んで生まれてきたのでない。
親にしてみれば、子供がほしいと思っても、こんな子が生まれるとは、思ってもいなかった。思いを超えた存在なのだ。
思いを超えて、ここにある。私の思いで無く、あなたの思いでもなく、如来の願い。如より来た願い。

 だから、尋ねる、お前は、本当はどうしたいのだ。どうなりたいのか。
人間の言葉は、難しい。言葉がその意味と逆のときもあるからだ。好きなのに嫌いと言ってみたり。
よくないのに良いと言ってみたり。本当に、ほんとうは、難しい。


 明らかなのは、本当に本当の自分に、出会いたいと思っているのだということだ。
今、ここの私。不平等だけれど、平等な世界がある。

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第37回 「無理と道理」

 「無理が通れば道理が引っ込む。」と祖母が言っていた。
祖母の意見とほかの人の意見が対立する。祖母の意見が通らない。そうすると言っていた。
祖母の意見が「道理」で、他者の意見が「無理」である。祖母はいつでも正論だった。少なくとも、本人はそう思っていた。

 しかし、どうだろうか。どちらが無理で、どちらが道理かわかるのだろうか。

人の言ったことに合点したとき、「道理で。」とうなずく。理が通ったのだ。「無理」でも通ってしまえば、道理になりはしまいか。
いや、それは道理違いだろう。それは、筋道違いだろう。屁理屈でも理は理なのか。

 普天間基地はどうだろう。沖縄に落ち着いてしまった様だが、国外、県外移設は、無理だったのだろうか。
終戦時、アメリカとの密約があったからだそうだ。道理でと、納得している。果たして、いま、納得できるだろうか。
戦後65年。無理と道理は、見分けがつきにくい。


 阿弥陀の世界には、正定聚・邪聚・不定聚とあるそうだ。
この世の中で言う法律に則して生活することを不定聚。法律を守らない生活を邪聚。
その人がその人のままで居られる、仏様の世界を正定聚。本当の道理とは、その人がその人のままで居られる世界で、
あるものがあるようにある世界で現実になるのだろうと思う。


 そんな世界に生まれたいと思いませんか。

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第38回 「自由研究」


 夏休みが近づいてきた。子ども達は、夏休みの計画を立て始める。
親も、計画しなければならない。夏休みが短くなってきたからだ。7月26日から8月25日まで。
7月24,25日が土日になるので、24日から休みになるだが。ほぼ、1ヶ月。自由研究をどうしようかと、考える。
どうもうちの子は、毎日観察するというような物は向かないようである。私に似たのだろう。


 2年の娘は、前々から「漢字の成り立ちに」について調べようと決めていた。
学校に通い始めてから、国語の時間に漢字を習うが、どうしてこういう形なのか不思議らしい。
何をどう調べるかと思い、少し話しをした。「漢字が、中国から伝わったのは知っている?」「うん、知っている。」
「じゃあ、漢字が伝わる前は、どうしていたと思う?」と聞くと、「あのね、手話で話しをしていたと思う。」と言うのです。
思いも掛けない答えに「えっ。」と聞き返してしまい、逆に驚かせた。
「ちがうの?」「いや、そうでなくて、こうかなと、想像することが大事なんだよ。そこを調べてみようよ。」


 早速、図書館に行って、漢字の成り立ちに関する本を子ども向けのところから、3冊ほど借りてきた。大人向けのところにもいろいろあった。
「発想」から、何が飛び出してくるのか。
「あたりまえ」のところで生活している私にとって、娘の「発想」に付き合えるのは、この上ない事だと感じた。
私を照らしてくれる、私のあたりまえを照らしてくれる光だった。


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第39回 「陸上競技選手権大会」

 陸上競技とは、無縁だった。足が速くないから。
運動会はどちらかと言えば、無くてもいいと思う方だった。ところが、娘はちがっていた。
運動会でも速い。保育園の運動会でも、涙が出そうなくらい感動した。小学校の運動会も、みんなが頑張っているから、とても感動する。
特に、リレーは、バトンを次々と手渡していく、足の速い子も遅い子も、手渡されていくその迫力に感動する。


 たまたま、小3の時、怪我をした子の代わりにリレーと50m走に出たのが始まりだった。
参加者の少ない大会で入賞したのだ。みんなの前で、表彰された。
どのような気持ちだったのか、私には想像しかできないが、嬉しかったのだろう。次の年、3・4年共通混合リレーで優勝大会新を出し、
メダルまでもらった。ゴールドメダルだ。そして、去年と今年と参加した。
やはり、普段から陸上をしている人にはかなわないと思った。
が、運も有って、2チームで出場したリレーは、2チームとも6位、7位に入賞した。


 今年初めて、お父さんが陸上競技場に応援というか、見に来た。
お父さんは、子どもの頃足が速かったそうだ。その姉二人も足が速かったそうだ。きっと、似たのだろう。
その夜、「陸上競技場に初めて行ってみた。」と言った。子どもの頃に陸上競技場は無かったそうだ。
「菜々子さんに連れて行ってもらったんだよ。菜々子さんがいなかったら、行くこと無かったでしょ。」と言うと、
「そうだな。」と言っていた。

思いもよらないことだらけです。

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第40回 「見えんけど、居る」


 NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が9月で終わった。
春から始まったこの物語の底に流れていたのは、主人公の布美枝が子どもの頃に、おばばから聞いた昔話に出てくる妖怪だった。
布美枝の夫、村井茂(水木しげる)も、妖怪の絵を描き続ける。次女喜子は、「妖怪の住みにくいところは人間も住みにくい。」と言っている。
また、布美枝は「見えんけど、おる。」とも言っていた。

 妖怪=人知では解明できない機会の現象又は異様な物体。ばけもの。(広辞苑 第六版)とある。

 「妖怪」を「阿弥陀仏」と置き換えると、「阿弥陀仏の住みにくいところは人間も住みにくい。」「見えないけど、いる。いらっしゃる。」

 阿弥陀仏=阿弥陀に同じ。阿弥陀=サンスクリット語のAmitabha(無量光仏)Amitayus(無量寿仏)という名の最初にあるAmitaの音写。
無量なる仏という意。西方浄土、極楽世界にあって、法を説く仏。またさとっている仏。永遠に救いを与える仏。いのちと光きわみなき仏。
過去久遠劫に世自在王仏のましました時、ある国王が無上同心を発し、王位を捨てて出家市法蔵比丘となって仏のもとで修行し、諸仏の浄土を見学し、
五劫の間考えて、特別にすぐれた願(四十八願)をお越し以来徳を積んだため、今から十劫以前にその願行が成就して阿弥陀仏となり、
この世界から十万億土を去る西方に極楽を建立し、今も説法しているといわれる。・・・・・・・(中村元著 仏教語大辞典)

 ゲゲゲの女房を見ながら、妖怪でなく、阿弥陀仏を見ていました。

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第41回 「母に教えられたこと」


 先日、お寺の会議の後、ささやかな振る舞いがあり、肉汁の味噌汁を作ってお出しした。
私の父と同じ年代の方が、味噌汁を差して、「この味噌汁一つ作るのに、色んな人の手がかかってできている。
ただ、何にもしないで口に入る物は、無いのだ。」と言っていた。若い時、食べ盛りの高校生くらいの頃、魚や肉が食事にでなくて、
「こんなの食べられない。」と文句を言ったそうだ。すると、母親が「食べ物一つ、色んな人の手がかかってできている。
一つ一ついのちを頂いているのに、食べられないなら、食べなくていい。」と言って、夕食を抜かれたそうだ。
そしたら、腹が減って腹が減って、どうしようも無くなったと言う。

 母親が、食事を抜かせてまで、自分に教えようとしたことが解って、それから食べ物に文句を言わなくなったそうだ。
食卓に上るまでの陰の手間を考えることができるのだろう。肉には、いのちがあって生きていたことを思うのだろう。
野菜にもいのちのあることを思うのだろう。食べる度に母親を思い出すのだろう。

 当たり前にしていたことが、本当にありがたいことだったと教えて頂いたのだ。

 私の父親と同じ年代で、食卓に肉や魚が無いと文句を言うなんて、裕福な家でしたかと聞くと、そうだと答えていた。
 今、食べたいものがいつでもスーパーにあり、お金を出せば、大概の物が買える。
食べられることが当たり前に思っている私は、パンがここに来るまでを思い至らず、
さんまは100円で安かったと思い、いのちを頂いているとは、思えない生活をしている。

 だからこそ、手を合わせて、「なむあみだぶつ」と私に聞かせよう。阿弥陀如来は、私に早く気付けよと語りかけてくれるだろう。
駄目な人間だと思い知らせてくれるだろう。
そして、大丈夫だと語りかけてくれるだろう。

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第42回 「今年はサンタが来なかった」

「♪今年もサンタがやってくる〜」とTVの中で、某ファーストフードのCMソングが流れている。
 今日は12月25日。昨晩遅くに雪が空から降ってきたせいか、暖冬だが朝は冷え込んだ。
我が家では、毎年、末娘の所にだけは、サンタが来ていた。  しかし、今年はクリスマスツリーも出さなかったし、サンタも来なかった。
 すると、高1の末娘が、お昼近くに塾から帰って来て、「今年はサンタが来なかったね。」と言った。
 私は、「サンタさんに何か頼んだの?」と聞いた。「ううん。」と娘。「だからだよ。」と言葉少なに答えておいた。
果たして、サンタクロースは、頼んだらプレゼントを届けてくれるのだろうか。

 最近は、サンタクロースとお手紙のやり取りもできるらしい。
 サンタクロースの由来は、ニコライというキリスト教の神父さんが、貧しい家に真夜中に金貨を投げ入れたおかげで、娘を見売りに出さずに済んだという話がもとになっているらしい。日本でいえば、これは確証の無い作り話だという事だが、大泥棒のネズミ小僧の次郎吉が、盗んだ金を貧しい家にばらまいたという話に重なると思う。クリスマスの晩にサンタクロースが子どもにプレゼントを届けてくれるというメルヘンは、個人の私利私欲を満たすための行い、行事ではないのだという事だ。

 クリスマス商戦、と言ってしまっては、由来からかなりずれているだろう。そういう点で所得税や年金制度は、ニコライや作り話のネズミ小僧の次郎吉に通じるクリスマスプレゼントの具体的な現れと思う。それでは夢がないね。
 それにしても、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれる、届けてくれるというのは、子どもを笑顔にしてくれる。メルヘン、おとぎ話の世界、なら、それもほほえましい。
 しかし、届いたことで喜んでいたのが、要求して(お願いして)もらえるとなると、成長とともに去年より高価なものをお願いするようになる。微笑んでいられなくなる。今年は、サンタに届けてもらえるようなプレゼントでは間に合わなくなったのだと思っている。
 本当に欲しいものは、仙人の指か、お陰様か。

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第43回 節談説教

 昨年、公開講座で節談説教を初めて聞いた。
説教をする先生が、情感豊かに語るので、そうなのかと頷いてしまう。感動したので、隣のおばちゃんに話そうとした。
 そしたら、「いいて、女の人を家に縛り付ける話でしょ。聞かなくてもいい。」と断られた。

「色の白いほっそりとした若い女の人が、ある偉いお坊さんが来るというので、お参りに来た。そのお坊さんにどうしても話をして、どうしたらよいかを聞きに来た。」という話なのだ。
 「嫁いできたが、すぐに、夫が病気になり、介護が必要な体になってしまった。両親も高齢で、世話をしなければいけない。私一人で3人の介護を1年、2年としてきたが、私も疲れてしまった。近所の人は、夫の妹も近くに住んでいるのだから、あなたが出て行けば、その妹が3人の面倒を見るに違いない。このままでは、私の体が持たないから、子どもも居ないし、まだ若いのだから、出て行っていいというのだが、どうしたらよいかと相談に来た。」という。
 そこで、偉い坊さんが言うのです。「奥さん、私が相談に乗るというのは、茶飲み話のように、あなたはそう思うのね、で済まされない。本当に、阿弥陀さんのお心をお聞きしたいのだと言うなら、真剣に、命がけで聞かなければいかん。その覚悟はできているのか?」と、大体こんな内容だったと思うのですが、力強く語るのです。「はい、お願いします。」と女の人が言うと、偉いお坊さんは、「あなたが居なくなったら、夫とその両親はとは縁が切れる。縁というのは切って切れるようなものではない。3人を置いて出れば、置いて出たという事があなたの中に残るだろう。その後悔を持ち続けて生きていかなければならない。辛いだろうが、阿弥陀の縁というのは、背負うものだ。背負えない縁は無い。」
 すると、女の人は「ありがとうございます。」と言って帰るのです。そして10年くらい過ぎた頃、またその偉い坊さんが来て、そこに、また相談に来た女の人が訪ねてくる。そして、夫と両親を看病して、3人とも看取ったという。そして、両親から「ありがとう。」と言われ、夫からも「よく出て行かないでくれた。」と感謝され、出て行かずに看病してよかった。と報告して、めでたし、めでたし。という話だった。


 とても解り易い。具体的な事例で、阿弥陀様のご縁に生きるとはこういう事かと思われる。

美談だなあと思う。このお話の女の人は仏さまの様だね。

だけど、現実、わたしは仏になれない。そんな私が救われる話を聞きたい。

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第44回 まりは15歳 (2021/1/27)

 昨年の夏に15歳の誕生日を迎えた。
 玄関につながれて過ごした15年間。最近のペット事情は、家族と一緒に家の中で過ごす子たちが多いようだ。
しかし、日本語を話す犬というのにお面にかかったことは無い。日本語を話す猫というのも無い。ただ、野生の猫は子猫の時しか鳴かないそうだ。人間に甘えるために「鳴く」らしい。では、犬はどうだろう。

 まりは玄関に縛られていたから、常の様子はわからない。まりは鼻で玄関の戸を開けることができる。
おいて出かける時は見送って、帰ってくると出て迎えてくれていた。体全体で喜びを表現してくれていたから、とても嬉しかった。
黒目勝ちの目は、敵にどこを見ているか覚られないようにするためだと聞いた。白内障で焦点があっていないだろう、その目で見つめられると、いとおしくなる。
勝手に喜んでくれていると思っているが、本当は、拉致監禁罪で閻魔様に罰せられるのだと思う。 

 動物が苦手な隣のおばちゃんが、「かわいいね。かわいそうだね。小さい時に親と別れてきて。でもかわいがってもらって、この犬は幸せだ。」と言ってくれた。
「ほんとにそう思う。」だから、「まり、まり、かわいいね。いい子だね。どこがかわいいかっていうと、目がかわいいでしょ、鼻がかわいいでしょ、口がかわいいでしょ、歯がかわいいでしょ、耳がかわいいでしょ、背中がかわいいでしょ、前足がかわいいでしょ、後ろ足がかわいいでしょ、尻尾がかわいいでしょ、かかとがかわいいでしょ、爪がかわいいでしょ、肉球がかわいいでしょ、お腹がかわいいでしょ、鼻の穴可愛いでしょ、耳の穴可愛いでしょ、毛がかわいいでしょ、ぜーんぶ可愛いでしょ。どうしてかわいいかっていううと、まりのお父さんとお母さんに似てるからだよ。いい子いい子って、いいこにしてるかな?元気にしてるかな?って、きっと心配してるよ。」ってなでなでしてたんだ。

 まりは昨年の10月に腫瘍がたくさん見つかった。手術はできないと判断された。あとどのくらい生きてくれるのだろう。シートン動物病院の院長先生は、「この子にとって何が一番幸かを考えて、対処療法をしていきましょう。」と仰った。
 この子にとっての幸せを考える。相手の幸せを考えるという幸せ。

 相手の幸せが自らの幸せになる。これって浄土じゃね?



第45回 表彰状は誰のもの (2021/1/27)

 昨年の夏に、うちで飼っている犬、柴犬のまりが15歳になった。
すると、動物愛護協会から「令和2年度 長寿動物飼育功労者表彰状決定のご案内」というのが飼い主宛てに届いた。しかし、
「2,000円払ってまで表彰してもらわなくていい。」とのこと。

どういうことかと思ったら、新潟県動物護協会中越支部の事業だが、一般社団法人新潟県動物愛護協会に一般会員として入会された方を対象としているとのこと。
「表彰してもらうための2,000円でなくて、動物愛護協会は色んな事業をしているんだから、その為のお金は必要だと思うよ。
それに15歳まで生きたまりに表彰してもらうんじゃないの?」
すると「払って来た。」という。
 後日、例年秋の動物フェスティバルでの表彰だというが、コロナ禍で、郵送されて来た。
 『表彰状
長寿動物名 愛犬 マリ
飼育功労者 わ○○ ○一様

あなたは動物愛護の精神をよく理解され多年にわたり愛情をもって動物の適正
飼育に努められていることは他の模範となっております よって動物フェステ
ィバルに際し表彰いたします
令和2年9月23日
新潟県動物愛護協会中越支部  河野 滋』

あれれ?表彰されているのはお父さん?



第46回 続 まりは15歳 (2021/2/12)

 まりの病気が分かって、いつ死んでもおかしくない状態と知ってから、まりを甘やかして過ごしている。
まりと一緒に過ごせることがとても嬉しいと心から思う。まりも私と居ると安心している。と思う。
どうも、「このひとは私の言いたいことが分かるようだ。」と思っているのだろう。ときどき薄目を開けて、私が居ることを確認している。

 私が何か食べているとやって来て、欲しい言ってくる。厳密にいえば「ほしい。」とは言わないが、態度で言っていると感じる。そばに来てじっと見ている。手を出してくる。歯を当ててくる。もう、健康の為に人間の食べ物を食べさせないという時期は終わった。余命を楽しく過ごすために、多少毒でもおいしいものを一緒に食べよう。そして「いい子ね。」「おいしいね。」「偉いね。」「かわいいね。」「大好き。」を連発する。うんこしても「いい子ね。」おしっこしても「えらいね。」失敗しても「いいこね。おしっこしないと死んじゃうんだよ。」噛んできても、「痛い、痛い、かわいいね。」まりの歯は鋭くないから怪我はしない。

 手術できるような状態ではなったから、手術代はかからなった。それでも注射代、薬代、エコー代、とそれなりにかかった。出費だった。保険を掛ければ保険代がかかる。お金と命を天秤に掛けそうになる。
「お金がかかる。」と口説いたら、「お金がかかっても、死んだときに、できることはしてやれたという気持ちになれる。してやれなかったという後悔が残らない。」と言ってくれた人がいる。そうか。私の安心の為に、お金は使おう。安心て、後悔しないということなのかな。

もしも、私がまりで、「医者に連れて行くとお金がかかる。」と口説かれたら、「好きで病気になったわけじゃない。好きでこの家にいるわけじゃない。」と拗ねるだろう。「お金を渋るなら、医者に行かなくていい。ほっといてくれ。(死なせてくれ。)」と思うだろう。
ところが、まったく、まりが何をしても可愛いから、親バカなのだ。まったく、かわいすぎて、どうしようもない。柴でも、同じ柴は一匹もいない。さて、今日も、まりのにおいを嗅いで安心しよう。この安心は、心が落ち着く、通じ合っているってことかな。
日本語は難しい。



第47回 続々 まりは15歳 (2021/2/12)

 まりが15歳になったという事は、私も歳をとったという事で、子ども達も成長した。
まりを「可愛い。可愛い。」という前は、子どもを「可愛い、かわいい。」と言っていた。はず。どうも私の認識と子供たちの認識には多少のずれ、いや、大きくずれがあるようだ。
 長男は母親から「怒られた記憶しかない。」そうだ。一人目だからそんなはずないと思うけど、記憶ってそんなものかもしれない。
末娘が自分の名前を覚えたばかりの頃、「○○ちゃんでしょ。」と言ったら、「ちがうよ、「おかあさんのかわいい○○ちゃん」だよ。」と言い返されて、嬉しいけど戸惑った。
私がいつも「お母さんのかわいい○○ちゃん。」と言っていたから、そのまま覚えたのだろう。私は無意識にそう言っていたのだが、「お母さんの」という言葉で決して離れない、切れない安心感を求め、子どもを束縛していたのかもしれない。

 なぜ私が「かわいい」を連呼していたのかというと、自己肯定感を持ってほしかったからだ。私が子どもの頃、「ゆう子は可愛くないから、「可愛い」と言ってくる人が居たらそれは嘘だから、騙そうとしているから、本気にしてはいけない。」と祖母や母に言われたことが頭にこびりついている。かわいいから、騙されないようにそう言ったのだろうけど、世間で言う可愛いと親の可愛いの違いなど分からず、ふてぶてしくなってしまった。 さて、末娘はどうなったかというと、小学までは自分は可愛いと思っていたそうだ。でも、世の中のかわいいと、お母さんのかわいいの意味が違うと悟ってしまい、容姿のコンプレックスに悩む普通の思春期を迎えることとなってしまった。 子育ては思うようにいかないという事です。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。めでたし、めでたし。
 
 まりですか?
まりは末娘の妹として我が家にきたが、いつの間にか私たちを追い越して先に年を取ってしまった。
末娘が小学校卒業するまで、毎朝の登校班について9年くらい通った。その間、まりは多くの子ども達に「かわいい」と言ってもらっていた。まりは素直に育ったね。楽しかったね。


第48回 続々続 まりは15歳 (2021/6/16)

 まりはまだ生きている。
今6月半ばを過ぎ、7月になれば誕生日を迎える。一日のうち寝ている時間がどんどん増えて、散歩の距離も短くなって、同じところを行ったり来たり、マーキングも同じところに2回3回とする。

まりとは、もう長い付き合いになる。こちらの住職が、子供たちを連れてペットショップに行き、黒柴と赤毛の子犬が同じゲージで売られていて、やんちゃそうな赤毛を買って連れてきたのが16年前の8月。中越地震の翌年、映画「マリと子犬の物語」が上映される前だ。

 「まりと学校行く。」と子供が言うので、毎朝の登校班に付いて行った。
次女は保育園だったのだが学校まで一緒に歩いて、帰りはおんぶしてくることもあった。まりが一緒に歩いてくれるだけで、和んだ。触りたがる子もいたが、まりは触られるのが好きではなかった。その代わりおやつをあげてもらった。

 帰ってくるとまりは玄関にリードで繋がれた。リードの届く範囲で過ごした。外か玄関の中にいるだけだった。「まり、可愛い。かわいそうだ。まりの本当のお父さんとお母さんは、まりはいい子にしているかな。まりは可愛がってもらっているかなって、思っているよ。まりはいい子だよ。まりはここに来てよかったかな。」と話しかけた。好き好んでここに来た訳でないのに、親子離れ離れにされて、売られてきて、かわいそうだ。

 きっと、たぶん、もう、まりの両親は生きていないだろう。どうか、まりも「なむあみだぶつ」と言えないけれど、なむあみだぶつの浄土に生まれさせてください。
 まりにしてあげられることは、何もないけど、まりにしてもらったことはたくさんある。だから、「まり、かわいいよ。」「まりはいい子」「まり、えらいね。」「まり、生きてるだけでかわいい。」と言い続ける。そして、まりが死んだら、泣く。「まり、お家に来てくれて、ありがとう。」
 もうしばらく生きている。


第49回 よしあし(2021/6/17)

 最近、思い出すことがある。幼少の頃の些細な出来事、なのだが。
 夕食時、台所に行くと、祖母が米のとぎ汁を洗面器に用意していて、「ゆう子ちゃん、ちょっとこっちに足入れて。」と、私の足を米のとぎ汁で洗い出す。
「そうすると色が白くなるから。色白は七難隠すって言ってね、」と言われた。毎日続かず、自然とされなくなったが、それで白くはならなかったように思う。

 私は小さい頃は色黒で、兄は色白。母からもこんな話を聞いた。「自転車の荷台に憲雄を乗せて、祐子をペダルに立たせて、自転車を引っ張っていたら、人が、「あら、下の子だけ海に行ってきたのね。」と言われて、「ええ、まあ。」と返事に困って、その場を去った。」と。

 私は当時、自分が色黒なのをちっとも困っていなかったし、むしろ学校では、日焼けの黒さをを競っていたほどだった。でも、そう言われたことは、今でもはっきりと残っている。色黒の私はダメだと。だからと言って、白くなりたいとは思わなかった。

 最近、末娘と容姿について話したとき、「色白美人っていうでしょ。色白は七難隠すって言われるくらいだから。」というと、「え、初めて聞いた。色が白いだけで?」「そうだよ。色が白いと、この難が消える。」「そうなんだ。」とやけに感心していた。

 そういえば、美白を歌う化粧品は多いけど、一時はガングロというメイクもあったし、小麦色の肌は夏に似合う時期もあった。今は紫外線にシミ、皺の原因になるし、紫外線アレルギーでかゆくなるので、なるべく日に当たらないようにしている。日陰の女になっている。
もし、祖母と母が、色白美人という「よしあし」を知らなかったら、私は私を肯定できただろうか。
また、私も、わたしという親のものさしで、子ども達を切り刻んでいないだろうか。
 そう考えさせてくれる祖母と母は、現代でいう反面教師なのだろう。



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