●戦後50年メモリアル●

50 Post-War Memorable Years (1996-97)

1945年8月15日、日本は戦争に負けてしまった。そして1995年、
郵政省は、敗戦後の50年を振り返って、切手の題材としたい
重大なイベントや人物・世相などをアンケート形式で募った。
その結果に基づいて、5組の切手(全15種)が発行された。


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●第1集● 国家的トピックス

●日本国憲法施行:大日本帝国憲法(明治憲法)にかわって、1946-11-03公布、1947-05-03施行された。主権在民・平和主義・権尊重の3原則をうたい、戦後日本の民主主義の規範となってきた。切手図案(略)は、憲法発布に際し、国会議事堂前で小旗を打ち振る国民の姿。

●サンフランシスコ講和条約締結:連合国と日本の間で、第二次世界大戦を正式に終了させる講和条約である。日本が独立国として国際社会に復帰するための対日講和会議には、吉田茂首相ら6名が日本側全権委員として参加した。1951-09-08に世界49ヶ国が調印、翌1952-04-28日に「サンフランシスコ平和条約」が発効した。切手図案は、サンフランシスコ市オペラハウスで、日本側全権委員が調印している写真

●沖縄復帰:沖縄は、講和条約後も米国の施政権下にあった。沖縄の日本への復帰運動が、昭和30年代半ばごろから活発化し、ようやく1972-05-15に、沖縄は復帰した。切手図案(略)は、沖縄復帰の三大記念事業の一つであった「沖縄国際海洋博覧会」の開会式での、沖縄の古典舞踊の写真。しかし、米軍基地はまだそこにある。

●第2集● 感動と発見のイベント

●東京オリンピック:第19回オリンピック大会は、アジア初の五輪大会であり、1964-10-10から15日間、各種の競技が行われた。諸外国の選手団や観客を迎えるに当たり、高速道路・地下鉄・モノレールといった交通機関やホテル等の宿泊施設の整備が図られ、日本はオリンピック景気に沸いた。切手意匠は、開会式で聖火台で点火する選手。

●日本万国博覧会:アジア初の万国博で、1970-03-14〜09-13の半年間、大阪吹田の千里丘陵で開催された。企業と77の国が参加し、工業製品・産物等を出品・展示した。切手意匠は、会場に建設された「太陽の塔」と立ち並ぶ参加国の旗。岡本太郎は、テーマ館のチーフ・プロデューサーとなり、自らも「太陽の塔」を設計した。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であったが、「おれはテーマに反対だ、人類は進歩なんかしていない。会場はモダニズムに溢れかえるだろうから、太古からそこに生えていたような、周囲と調和しないものを突きつけた」らしい。万博のシンボルタワーは別にあったのに、その独特な形態から「太陽の塔」が実質的なシンボルになり、当初は解体予定であったが永久保存となった。

●第5集● (1)石原裕次郎

映画・TV俳優、歌手。1934年(昭和9)、神戸市に生れる。慶大中退。1956年(昭和31)慶大在学中に、兄・石原慎太郎の小説を映画化した『太陽の季節』でデビュー。若者風俗「太陽族」の流行語とともに一躍有名になる。また「狂った果実」に主演。

1957年の映画『嵐を呼ぶ男』の大ヒットで、日活のドル箱スターとなった。映画主演と主題歌とのセットで、新時代のヒーローとして若者達の圧倒的な支持を得た。「銀座の恋の物語」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜も有難う」など次々にヒット曲を出す。以後、青春映画やアクション映画などを中心に活躍した。

1963年、石原プロを設立。石原軍団と呼ばれる俳優達を輩出した。とくに、1972年より製作・出演した、刑事物のTVドラマ「太陽にほえろ」は好評で、長寿番組であった。

1987年(昭和62)、大動脈瘤により死去。52歳。小樽市には石原裕次郎記念館がある。

●「銀座の恋の物語」大高ひさを作詞、鏑木創作曲。

●第5集● (2)美空ひばり

歌手・女優。1937年(昭和12)、横浜市に生れる。本名は加藤和枝。幼い頃から芸能好きの父の影響でモノマネを始めた。1946年(昭和21)9歳で初舞台を踏んだ。1949年に映画『のど自慢狂時代』に出演。同年コロムビアに入社し、「河童ブギ」でレコードでもデビュー。『悲しき口笛』に出演。

1952年、「リンゴ追分」が大ヒット。映画・舞台で活躍、「天才少女」の評判をとる。以降も数々のヒットを続け、「歌謡界の女王」として確固たる地位を築いていった。1965年、「柔」で日本レコード大賞。

1989年(平成1)肝臓病で死去。国民栄誉賞を追贈された。レコード総売上4000万枚。京都市の嵐山には美空ひばり記念館がある。

●「柔」関沢進一作詞、古賀政男作曲。

●第5集● (3)手塚治虫

漫画家・アニメ制作者。1928年(昭和3)豊中市に生れる。本名は治。中学時代から漫画を描く。阪大医学部入学。1946年(昭和21)『毎日小学生新聞』の4コマ漫画「マアチャンの日記帳」でデビュー。当初は赤本漫画作家として活躍、のち雑誌漫画に転じる。1947年、映画の技法を取入れた臨場感あふれる作品「新宝島」が大ベストセラーとなり、戦後ストーリー漫画の先駆けとなった。そして漫画を芸術に高めていった。

1952年、雑誌「少年」に「鉄腕アトム」を連載。以後、「ジャングル大帝」(1950〜)、「リボンの騎士」(1953〜)、「火の鳥」(1967〜)など、少女漫画・SF・医学・歴史など多彩なジャンルで数々の名作を生み出した。1958年に医学博士となる。学業のかたわら流行作家となっていった。看護婦に漫画の仕上げを手伝わせたなど、数々のエピソートがある。

1962年に虫プロダクションを設立。その後、「鉄腕アトム」など多数の作品をTVアニメ化。またアニメ映画も制作し、アニメーションの世界にも大きな足跡を残した。

1989年(平成1)胃癌で死去。60歳。宝塚市には、宝塚ファミリーランドに接して手塚治虫記念館がある。

●「鉄腕アトム」のテーマ 谷川俊太郎作詞、高井達雄作曲。

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