●近代洋風建築シリーズ●

Modern Western-Style Architecture (1981-83)

開国後の日本には、欧米の物品・人間そして文化が乱入してきた。
建築も例外ではなく、幕末〜明治期に、邸宅・学校・病院・銀行・
役所・教会など多数が建てられたが、純粋な洋風建築は希で、
日本の在来の技術・建材を用いての和洋折衷の建築であった。


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●旧札幌農学校演武場●

●所在:札幌市 北海道の初期明治洋風木造建築の代表で、竣工は明治11年10月。

●設計:同校の第2代教頭を務めたウィリアム=ホイーラー教授(1851〜1933)、と開拓使工業局営繕課(現在の北海道庁)の安達喜幸。なお初代教頭は「少年よ大志をいだけ」で有名なクラーク博士である。

●目的:2階は演武場(兵学訓練)・体操器械場等、1階は博物場・同作業室等であった。当初は時計台が無かったが、落成式での開拓庁長官=黒田清隆の鶴の一声で、米国に発注し、明治14年に増築された。昭和42年、札幌教育委員会が管理、永久保存とし市立郷土歴史館となっている。「時計台」と呼ばれ、札幌のシンボルでもある。しかし、現在は周囲にビルが立ち、「はりまや橋」「沖縄守礼門」と並ぶ3大がっかり名所」の1つとなった。

●旧済生館本館●

●所在:山形市 竣工は明治12年

●設計:筒井明俊(明治9年)。三島通庸の構想に基づいて設計。施工は大工棟梁の原口裕之。

●目的:県立病院「済生館」である。山形県令(知事)の三島通庸は,内務卿大久保利通の後押で辣腕を発揮し、山形に道路・学校・県庁・警察・工場などを続々と建設した。山形市の真中の旅篭町に建てられたこの病院もその一環である。その後、病院は民営となり、明治37年には山形市立病院となった。昭和42年に現在地に移築され、46年に復元完了。

●特徴:本館(正面塔屋)は木造4層の楼建築で、1階は正面及び側面前半部を吹放しのベランダとし、側面後半部からは左右に回廊が出て、16角形を成して中庭を囲む平屋の建物。2階は16角形の広間、三階は八角形の小室。

●旧岩崎家住宅●

●所在:東京都文京区 竣工は明治29年(1896年)

●設計:英人建築家ジョサイア・コンドル(1852〜1920年)。

●目的:三菱財閥2代目当主=岩崎久弥の邸宅。米国留学経験のある岩崎久弥がコンドルに設計を依頼した。完成当時は13000坪の敷地に20棟以上の建物があった。いま残るのは3棟だが、旧財閥の暮らしぶりがうかがえる。のちに財産税の一部として国に物納された。戦後の一時期、GHQに接収され、東京裁判の関係者が出入した。1952年の「鹿地亘事件」で、キャノン機関の本拠がここであることが暴露された。返還後は、最高裁判所書記官研修所として使用された(〜1970)。1961年に重文指定。

●豊平舘●

●所在:札幌市の中島公園 竣工は明治13年。

●設計:開拓使工業局の建築技術者 安達喜幸

●目的:明治初期の北海道の開拓使関係の建築はアメリカ建築の丸写しであったが、やがて日本人技術者が自力でアメリカ式建築を手掛けるようになってきた。豊平館は開拓使(現在の北海道庁)が建てた、小規模だが本格的な洋風ホテルである。竣工翌年に開館し、明治天皇が初の客である。当初の客は外国人のみで、舞踏会も開かれ、地方鹿明館ともいえる。豊平川の清流にちなみ、豊かで平和に発展する札幌の将来への祝福をこめて「豊平館」と名付けたという。のちに民間経営のホテル兼レストランとなった。1957年の北海道大博覧会を契機に、翌年、北大通から現在地に移築。1983年から3年かけて復元工事を行い、内装なども再現した。現在は市営総合結婚式場である。

●旧グラバー住宅●

●所在:長崎市 竣工は文久3年(1863年)

●設計:グラバー自身 施工は棟梁小山秀之進

●目的:イギリスの武器商人トーマス・グレーク・グラバーの住宅。幕府・討幕派の双方に武器を売って稼ぎまくり、長崎に自分の「城」を構えた。オペラ「蝶々夫人」のゆかりの場所ともいわれ、「蝶々夫人」を演じた三浦環(たまき)の像が建てられている。現存する我国最古の洋風木造住宅で、長崎港を見下ろす丘の上にたち、各部屋が三方に張り出し、丸くベランダが取り囲む。平面図でみるとクローバー型である。玄関はなく、ベランダから出入りする軽快なスタイル。

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