●日本の歌シリーズ●

Japanese Songs (1979-81)
「日本の歌シリーズ」全18種から5種を選び、
作詞者・作曲者や歌自体のエピソードなどを記した。
全歌詞を記載したいが、著作権の問題があるので、
ごく一部の引用にとどめた。
拙いMIDIは私の編集です。

「浜辺の歌」
林古渓作詞・成田為三作曲


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●「荒城の月」 1898年 滝廉太郎作曲・土井晩翠作詞

●春高楼の花の宴〜:東京音楽学枚では、「中学唱歌」(1901年)の発行に際して、曲を公募した。滝廉太郎が応募した3曲「箱根八里」「荒城の月」「豊太閤」すべてが選ばれ、一曲5円で計15円を得た。大いに喜び、友人に汁粉をふるまい、母や妹らにもプレゼントを贈った。

●岡城(大分県竹田市)には滝廉太郎の銅像(朝倉文夫作)と土井晩翠の歌碑がある。また、土井晩翠にちなみ、青葉城(仙台:故郷)と鶴ヶ城(会津若松:修学旅行先!)にも歌碑がある。曲の方が先にできており、モデルはやはり岡城址であろう。マツクイムシで全滅し、現在の岡城跡には、あの「松」はない。

●1921年、テナー歌手=藤原義江は英国に演奏旅行に来た。ある日、駐英大使館の一等書記官=吉田茂(後の首相)が文化人を招いてパーティを開いた。その席上で藤原が何曲か披露したが、この曲が一番うけたという。

●滝廉太郎は、1879年(明治12)東京生まれ。13歳から4年間を竹田で4年間を過ごした。竹田小学校の後輩に朝倉文夫(彫刻家)がいる。旅順港閉鎖の広瀬武夫中佐は先輩である。高等師範付属音楽学校(東京音楽学校)を卒業。卒業後の数年間に多数の曲を創作した。1901年ドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院で作曲を学ぶが、半年後に結核を発症。帰郷して静養したが、23歳の若さで死去。

●「夕やけこやけ」 1923年 中村南紅作詞、草川信作曲

●夕焼小焼で 日が暮れて〜:中村南紅が青山師範学校に在学中、休日には実家に帰ってきたが、その際、八王子から3時間以上も歩き、そのうちに日が暮れた。これが後に「夕焼け小焼け」の詩を生んだという。中村南紅の故郷(八王子市)には歌碑や梵鐘がある。しかし、場所は特定されたものではなく、日本各地に十数個の「夕焼け小焼け」の歌碑がある!

●1923年、草川信作曲で「夕焼け小焼け」を童謡として発表。掲載された本は、関東大震災のため、売れる前に殆どが焼失した。「夕焼け小焼け」は焼け残ったわずかな本や譜面から広まったという。

●中村雨紅は、1897年(明治30年)、多摩郡恩方村(現・八王子市上恩方町)の宮尾神社の神官の子として生まれる。青山師範学校を卒業。教職のかたわら、野口雨惰に師事し、「ねんねのお里」など多くの童謡・童話を発表した。筆名は雨情の「雨」を貰ったもの。ずっと教員生活を送り、1949年に県立厚木東高校を退職する。1972年、大腸癌で死去。

●「ふるさと」 高野辰之作詞、岡野貞一作曲

●兎追いし彼の山〜:「尋常小学唱歌第六学年用」(大正3年6月発行)として作られた。高野辰之は長野県豊田村の出身で、東京で活躍していたが、故郷を愛し、よく東京と故郷を往来していた。また、岡野貞一の故郷=鳥取市にも歌碑がある。

●岡野貞一は、1878年(明治11)、鳥取県に生まれた。14歳頃から教会に通いはじめ、オルガンに親しむ。宣教師に音楽の才能を認められ、その勧めもあり、東京音楽学校に進み、1900年に卒業、のち教授となる。文部省唱歌編纂委員にも任命され、「尋常小学読本」や「尋常小学唱歌」などを編纂した。ずっと本郷に住み、42年間、毎週日曜日には本郷中央教会堂でオルガンを弾いた。

●高野作詞+岡野作曲のコンビで、「春が来た」「日の丸の旗」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」「故郷」などを作っている。

●「春の小川」 1912年 高野辰之作詞、岡野貞一作曲

1912:咲けよ咲けよと ささやく如く

1942:咲いているねと ささやきながら

1947:咲けよ咲けよと ささやきながら

●「尋常小学唱歌第四学年用」(大正元年1)として作られた。当初は歌詞が第3節まであったが、「初等料音楽(一)」(昭和17)では、一部修正され、また第3節を削除。

●小川のモデルは原宿を流れていた河骨川(こうぼねがわ)であり、高野辰之はよく養女の弘子をつれて散歩した。大正時代までは渋谷〜代々木には田園風景が広がっていた。「森の水車」も近くにあった。関東大震災後に多数の人が移住し、陸軍練兵場ができ、戦後は米軍宿舎が置かれ、東京五輪の施設ができ、河骨川は下水となった。

●高野辰之は1876年(明治9)長野県生まれ。長野師範学校を卒業し小学校教員となる。近くの真宗寺に下宿、住職の娘と大恋愛の末に結婚。後に島崎藤村が「破戒」でこの寺をモデルにし、住職を生臭坊主として描いたため、高野は怒った(1907年)。1904年、文部省の国語教科書編纂委員となり、唱歌を作詞した。1910年、東京音楽学校教授となる。日本の歌謡史や演劇史を研究。

●「夏の思い出」 江間章子作詞 中田喜直作曲

●夏がくれば思いだす はるかな尾瀬遠い空〜:1949年(昭和24)にNHK「ラジオ歌謡」で石井好子が歌った。一週間だけの放送だったが、美しく澄んだ水や、さわやかな空気にぴったりの曲として全国に広まる。また、尾瀬湿原とミズバショウが有名になり、現在は年間数十万人の観光客が訪れ騒々しくなった。

●江間章子は1913年(大正2)新潟県生れ。駿河台女学院専門科を卒業。1936年、第1詩集「春への招待」で詩壇に登場。以後、詩作・訳詩・歌曲作詞・少女小説など多彩に活動。戦争中に、ミズバショウの咲く尾瀬を訪れている。

●「赤とんぼ」 1927年 三木露風作詞 山田耕筰作曲

●夕焼け小焼けの 赤とんぼ〜:大正10年(1921年)三木露風が童話集「樫の実」に発表した詞に、昭和2年、山田耕筰が作曲した。三木が北海道のトラピスチヌ修道院に事務長として在職中の作品で、故郷の龍野と母を追想した作品である。三木・山田コンビで69曲を発表している。

●NHKが1989年に募集した「日本のうた・ふるさとのうた」に66万通通の応募があり、一位は「赤とんぼ」であった。「おわれてみたのは〜」という歌詞を、赤とんぼの立場から「追いかけられたのは〜」と解釈していた人も多い(^_^;)。

●三木露風は1889年(明治22)兵庫県龍野町に生まれる。7歳で母を亡くした。早大・慶大を中退。1905年、処女詩歌集「夏姫」を自費出版。「白き手の猟人](1913)で象徴詩を完成、北原白秋と並び称される「白露時代」を築いた。1964年、東京・三鷹の自宅付近で交通事故にあい死去。その一年後の同日に山田耕筰が死去。「赤とんぼ」は、揖保素麺・ヒガシマル醤油と並ぶ竜野の名産品である。

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