●相撲絵シリーズ●

Sumo (Japanese Wrestling) (1978-79)

「相撲絵」を材料に、近世の相撲の盛隆を紹介するシリーズ。
相撲博物館所蔵の約3700点から選んで、5組(全15種)を発行。
相撲は日本の国技とされ、古くから国民に親しまれており、
江戸時代後期、相撲を題材とした多数の浮世絵が描かれた。


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●第2集より● 東西土俵入りの図(勝川春章)

●土俵上の谷風(西方・左)と小野川(略)の勇姿を描く。1789年に2人は同時に横綱免許をたまわった。この両横網の対立、さらには大関雷電などの強剛力士の出現により、江戸勧進相漢は黄金時代を迎えた。

●谷風:1750年(寛延3)、宮城郡霞目村(仙台市)に生まれる。19歳で江戸へ出て、関ノ戸(2代・伊勢ノ海)に入門。1774年に前頭筆頭、翌年に小結。その翌年には関脇に昇進し、谷風梶之助を襲名。1781年、大関に昇進。1789年(寛政1)吉田司家19代追風より、小野川とともに横綱を免許された。明石志賀之助(架空の人物)を初代横綱とすれば第4代横綱だが、吉田家免許の横綱としては谷風が第1代である。幕内44場所で、258勝14敗36分、63連勝を記録した。7場所連続無敗の記録も2回ある。身長6尺2寸5分(≒189cm)、体重43貫(約161kg)というあんこ型の巨人。容貌・人格共に温和で人望を集め、小野川との取組が評判であった。仙台伊達家のお抱え力士。1795年(寛政7)、はやり風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中に逝去(45歳)。当時、はやり風邪を「谷風」とゴロ合わせで呼んだ。多くの錦絵が残されている。

●小野川:1761年(宝暦11)、大津に生まれる。15歳で大坂相撲に入る。江戸へ行き、1781年(天明1)入幕。1782年、谷風との対戦4度目で、63連勝中の谷風を破り、以後人気を集めた。筑後久留米藩=有馬家のお抱え力士。幕内144勝13敗17分。谷風・雷電と共に江戸相撲の黄金期を築く。1789年(寛政1)谷風と共に初の横綱免許。1797年引退。身長176cm、体重116kg、勝率91.7%。久留米藩下屋敷に小野川部屋を開く。1806年(文化3)死去。45歳。

●第2集より● 陣幕と雷電取組の図(勝川春英)

●雷電:1767年(明和4)、信濃大石村(長野県小県郡東部町)に生まれる。1784年、23歳で浦風に入門。1788年、松江藩松平家のお抱え力士となり、雷電を名乗る。1790年(寛政2)江戸の本場所に西方関脇として登場し、いきなり初優勝。1795年谷風がインフルエンザで死去し、雷電は大関に昇進。1811年44歳で引退。16年間も大関にとどまっていた。幕内35場所中254勝10敗21分、連続優勝7回。身長197cm、体重169kgの巨体で、強さは横網以上といわれる。講談等では怪力・酒豪などで知られ、怪力のため、張手・鉄砲・閂の三手を封じられたという伝説がある。1825年(文政8)死去。

●陣幕:愛媛県出身。1790年(寛政2)入幕し、覚政7年大関に昇進した。

●第3集より● 当時英雄取組の図(初代国貞=三代豊国)

●阿武松と稲妻雷五郎、さらに行司木村庄之助を描いた三枚組の錦絵で、切手意匠には阿武松と行司の部分が採用された。阿武松緑之助は相撲黄金時代を築いた谷風・小野川以来、30年ぶりに誕生した横綱である。

●木村庄之助:江戸前期からの相撲行司の宗家。信濃真田家の家臣=中立羽左衛門が、寛永頃に、江戸で勧進相撲を興行した。1726年、3代目から木村庄之助を称した。当初、「行司」とは文字通り、相撲興行の主催者の一員であったが、やがて力士の取組の呼吸を合せ、審判を主宰する。木村庄之助は立行司として、行司の最高位となる。当初、行司の最高にあったのは、鎌倉時代以来の相撲故実家元で熊本藩抱えの吉田追風であった。代々の庄之助はこの吉田司家より行司としての故事作法を伝授されていた。

1767年に年寄=初代伊勢ノ海五太夫が式守家を創立。式守伊之助が出現し、江戸相撲の行司は木村・式守の二家となり、各々行司を養成した。1827年、6代目庄之助のとき、架空の先祖3人を水増したため、家伝によれば現代で27代となる。1911年、木村庄三郎が式守伊之助(10代)を襲名、2家の区別がなくなり、式守伊之助を経て木村庄之助に昇進するようになった。現在は両者とも立行司である。

●第4集より● 勧進大相撲弓取の図(二代国貞)

●勧進大相撲弓取の図は、3枚1組の錦絵で、元治2年(1865)春場所の弓取りを描いたもの。

●弓取式:平安時代、宮中の相撲節会では、東西に別れて勝負し、勝った方の係が舞楽にあわせ矢を地面に立てる「かずさし舞い」が起源らしい。元亀3年(1572)春、「近江の常楽寺での相撲大会の際、優勝者が織田信長に弓を与えられ、感激して舞ったのが最初」というのはウソ。

力士として初めて弓取りを行ったのは谷風で、上覧相撲で小野川を破った際に、弓を振った。千秋楽の「結びの一番」(最後の勝負)に勝った力士に、「大関に叶う」といって弓を授け、大関の代理力士が弓取式を行っていた。

1952年の初場所から、毎日、1日の取組後に弓取式を見せている。幕下力士が結びの一番の勝者に代わり行司から弓を受け、弓を振り回し、四股を踏む。

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