●文化人シリーズ●

Famous Persons (1949-52)

文学・美術・芸能など芸術の各分野、また社会科学・自然科学の学問の諸分野で活躍し、日本の文化の発展に寄与した人物を描くシリーズである。


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●野口英世● 細菌学者。

1876年:(明治9)福島県翁島村(猪苗代町)に生れる。アル中の貧農=佐代助、母シカの長男。幼名は清作(せいさく)。
1896年:(明治29)上京、医術開業前期試験に合格。高山歯科学院の用務員となる。
1897年:済生学舎に入る。医術開業後期試験に合格。
1898年:大日本私立衛生会伝染病研究所(所長=北里柴三郎)の助手に採用され、細菌学の道に入る。
1899年:アメリカの細菌学者フレクスナーが来日、その通訳を務めたことを機に渡米を決意。横浜港検疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事。
1900年:渡米し、ペンシルベニア大学にフレクスナーを訪ねる。彼の厚意で助手となる。蛇毒研究の大家ミッチェルを紹介され、蛇毒の研究をはじめる。
1904年:新設のロックフェラー研究所に入所。
1909年:蛇毒に関する多彩な研究を行い『蛇毒』を出版。
1911年:梅毒スピロヘータの純培養に成功。
1913年:進行麻痺・脊髄癆が梅毒によることを解明。
1915年:15年ぶりに帰国、歓迎を受ける。
1928年:(昭和3)ガーナのアクラで黄熱の研究中、感染して死亡。研究への情熱は凄かったが、女郎買いと借金も凄まじかった。

●福沢諭吉● 啓蒙家、慶応義塾の創立者。一万円紙幣の肖像。

1834年(天保5):大坂の中津藩蔵屋敷で、藩士の次男として生まれる。2歳で父が死に、一家は中津(大分県中津市)に帰る。母の手一つで育てられた。
1854年:(安政1)長崎で蘭学を学ぶ。翌年(21歳)適塾に入門(のち塾長)。
1858年:藩命により、江戸の中津藩屋敷に蘭学塾を開く(慶応義塾の基盤)。
1859年:横浜で蘭語の無力を痛感し、英学に転ずる。
1860年:(万延1)艦長の従僕として咸臨丸で渡米。帰国後は幕府の外国方に雇われ、外交文書を翻訳。
1862年:(文久2)幕府遣欧使節団に随行し、探索方として渡欧。
1864年:(元治1)幕臣となる。幕府の外国奉行翻訳方に出仕。
1866年:(慶応2)洋行経験をもとに『西洋事情』初編を刊行し、売れる。
1868年:(明治1)塾を芝に移し「慶応義塾」と名づける。以後、ここを本拠地にして、教育と著作を中心に、多彩な啓蒙活動を展開。
1871年:塾を三田に移す。
1872年:『学問のすゝめ』初編を刊行。偽版も含め20万部以上も売れた。
1873年:(明治6)洋学者たちが結集した明六社に参加。
1875年:『文明論之概略』を刊行。東京府会議員(1878)。東京学士会院初代会長(1879)。
1882年:新聞『時事新報』を創刊。以後同紙に、「脱亜論」(1885)などの論説を発表。
1901年(明治34)脳溢血で死去。

●夏目漱石● 明治の文豪。1000円紙幣の肖像

1867年:(慶応3)江戸牛込(新宿区牛込)の町方名主の家に、五男三女の末子として生まれる。本名は夏目金之助。肉親の愛に恵まれなかったことが、漱石の性格形成に影響し、愛とエゴイズムの種々相を描く作品群を生む一因となる。
1890年:(明治23)帝国大学文科大学(東大文学部)英文学科に入学。
1893年:卒業。一時は大学院に籍を置く。東京高等師範学校講師、松山中学(1895〜96)、第五高等学校教授となる。
1896年:鏡子と結婚。
1900年:(明治33)文部省留学生として、英語研究のため英国に留学を命じられる。留学中から胃の不調に悩む。独力で英文学の本質を究めようと苦闘。
1903年:帰国。帝大で英文学を教え、講義をまとめた『文学論』(1907)と『文学評論』(1909)は、日本人初の英文学研究として評価されるが、異国文学の研究の困難・不安を感じていた。教師生活を嫌悪し、妻との不和、金銭トラブルなどストレスが重なり、学生時代からの神経衰弱が悪化した。
1905年:処女作『吾輩は猫である』を発表。
1906年:松山中学校での体験を基に『坊つちやん』を生む。『草枕』
1907年:朝日新聞社に入社。『虞美人草』が入社第一作。
1908年:『三四郎』『夢十夜』
1909年:『それから』
1910年:『門』。胃潰瘍で入院。療養中の修善寺温泉で危篤状態となる。
1912年:『彼岸過迄』『行人』
1915年:『こゝろ』『道草』
1916年:(大正5)『明暗』を書き始める。胃潰瘍の悪化で死去。享年50歳。

●樋口一葉●  明治期の小説家、歌人。

1872年:東京で生まれる。本名は奈津。なつ、夏子とも記す。父は東京府庁の役人で、同時に金融・不動産業も営み、裕福であった。
1886年:中島歌子の「萩の舎」(はぎのや)に入門。一葉の作品は古今調で、4000首を超える。
1889年:父の死で、一家は本郷の菊坂に移り、一葉は母と妹を支えることになる。
1891年:東京朝日新聞の小説記者=半井桃水(なからいとうすい)に入門する。
1892年:処女作「闇桜」を『武蔵野』に発表。また「たま襷」「別れ霜」を執筆。桃水との仲が醜聞となる。
1893年:平田禿木・上田敏らに招かれ、『文学界』に「雪の日」を寄稿。彼らは西欧文学に明るく、ロマン的で若々しい情熱をもち、一葉を刺激した。7月、吉原遊廓の近く下谷竜泉寺町に荒物・駄菓子屋を開く。生活の苦しさの体験と下町の子供達の観察が、のちに『たけくらべ』を生む。
1894年:本郷丸山福山町に転居。作風は近代的になってゆく。貧困のなかで、12月に「大つごもり」を発表。
1895年:1月から『たけくらべ』を連載。没するまでの1年間に『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』などを発表した。いずれも、明治に生きる女性の悲しみを描いた名作である。
1896年:(明治29)結核で死去。24歳。

●森鴎外● 明治-大正期の陸軍軍医・小説家・評論家。

1862年:(文久2)津和野に生れる。代々津和野藩主の御典医の家柄で、本名は森林太郎。
1881年:東大医学部を卒業。陸軍軍医となる。
1884年:(明治17)陸軍軍医として、3年間ドイツに留学。コッホらに学ぶ。文学・美術にも親しんだ。
1888年:帰国し、軍医学校の教官となる。彼の後を追ってドイツから女性(『舞姫』のモデル)が来日した。彼女を説得して帰国させた半年後に登志子と結婚するが、1年半で離別。
1889年:職務のかたわら、医事・文学の両面でジャーナリズム活動を開始した。
1890〜91年:『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のドイツ3部作を発表。詩や小説の翻訳などでも名を高めた。
1899年:第十二師団軍医部長として小倉に左遷。
1902年(明治35):荒木しげと再婚。第一師団軍医部長として帰京。『即興詩人』を翻訳。
1904年:日露戦争に第二軍軍医部長として出征。
1907年:45歳で陸軍省医務局長(陸軍軍医総監)に就任。「スバル」を創刊。『ヰタ-セクスアリス』『青年』『雁』など現代小説を次々と発表 
1912年:明治天皇崩御と、乃木将軍夫妻の殉死を触発され、『興津弥五右衛門の遺書』を書き、以後、歴史小説に転じた。
1916年:陸軍省を退官。『渋江抽斎』『山椒大夫』『高瀬舟』など。
1919年:帝国美術院初代院長に就任。
1922年:死去。享年60歳。

●新渡戸稲造●  教育者・農政学者。
1862年:(文久2)盛岡藩士=新渡戸常訓の子として盛岡に生まれる。
1881年:(明治14)札幌農学校卒業。在学中に洗礼を受け、キリスト者となる。
1883年:東京大学に入学するが、翌年退学して米国留学。留学中、札幌農学校助教授に任ぜられる。さらに農政学研究のためドイツに留学。
1891年:帰国し、札幌農学校教授となる。
1901年:(明治34)台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。
1906年:第一高等学校校長(7年間在職)。
1909年:東京帝国大学教授として植民政策を講義。
1918年:(大正7)東京女子大学の初代総長。
1920年:国際連盟事務次長(〜1926)。
1929年:太平洋問題調査会理事長(〜1933)。「太平洋の橋たらん」の信念で、国際理解と世界平和のために活躍した。
1933年:(昭和8)カナダでの太平洋会議に出席後、病気となり、現地で死去。
農政学・植民政策論の先駆者であり、最初の農学博士。理想主義・人格主義の思想家であり、優れた指導者として、学生達を思想・人格面で感化。また著作は、多くの青年男女に影響を与えた。
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