平成十一年九月

● 穴主が今月読んだ本は

です。

今月のおすすめ本は『出雲国風土記』としました。


『出雲国風土記 全訳注』

和銅6年(713)5月2日にある官命が諸国に下った。それは、郡興名に好字を付けよ、郡内の物産の品目リストを作成せよ、地名の由来、老人の伝える古い伝説などを書き記して提出せよ、というものだった。こうして、数十ヶ国の風土記ができあがった。しかし、現存するのはわずかに五ヶ国しかない。そのうち、出雲国風土記は唯一完全に残っている。しかし、それも原本は存在せず写本しかない。
その「出雲国風土記」を原文、訳、注、解説にわけて書かれたのが本書である。本来の原文は漢文であるが、本書では書き下し文で書かれている。本当の原文である漢文も後ろにすべて収録してある。これ一冊で原文から現代語訳まですべて理解できる構成になっている。
「出雲国風土記」は「総記」に始まり、「各郡」、「巻末記」で終わる。「各郡」は出雲国すべての郡毎に章分けされ、各郡は「郡総記」、「郷」、「寺・社」、「山野」、「「河川・池」などほぼ同じ章立てがされている。
他国の風土記は大和朝廷から派遣された国司が編纂しているのに対して、この「出雲国風土記」は出雲の国造自らが編纂している。ここに出雲の国の特殊性が現れている。まだ、出雲が大和朝廷に対して力を持っていた時代であったと言ってもいいかもしれない。
出雲という国は「古事記」や「日本書紀」にも頻繁に現れる。しかし、その神話は「出雲国風土記」に現されるものとはかなり違っている。「古事記」「日本書紀」が大和朝廷から見た見方であるのに対して、「出雲国風土記」は出雲人が自ら自分の土地について書いたものであるという見方は確かなようだ。
1000年以上前に書かれたこの本に現れる地名が現在もかなりそのまま残っている。出雲という地方の貴重さはそういう所にもあり、八百万(やおよろず)の神が集まる出雲の神秘性をより強めている。


『くま野乃宮 熊野大社』

先日、出雲に行ったときに熊野大社で購入した。 表紙にはかつて熊野大社が広大な敷地を持っていた頃に描かれた熊野大社とその周辺を俯瞰した図が使われている。
今の熊野大社は普通の神社よりは大きい社殿がたてられているものの、境内はこじんまりとした感じでさほど大きな神社という印象はないが、これを見ると、かつては大きな神社だったことがわかる。社殿は二重の石垣に囲まれ、その外側を敷地を取り囲む垣根が作られている。鳥居は二つあり、一つは社殿正面と垣根の境目の位置、もう一つは垣根の外側に松並木が、社殿を正面に見て右にずれた位置に社殿と先ほどの鳥居を結んだ線と平行して並び、その松並木の終わった位置に建てられている。外側の鳥居のからは参拝を終えた貴人であろうか、1つのかごを含んだ50人程の人の行列が描かれている。
この当時の熊野大社が焼失するのは天文11年(1542)、大内氏と尼子氏の戦いにおいてである。
更に時代を遡る。
今、出雲地方で最も大きい神社は出雲大社(杵築大社)だが、かつての熊野大社はそれを凌ぐほどの大きさを誇っていた。熊野大社は「出雲の国一の宮」であった。一の宮とは平安初期から中世にかけて分類されていた社格の一種である。これは朝廷が指定したものではなく、諸国において特に由緒のある神社、信仰の厚い神社が公認されたものである。それが一の宮の座を出雲大社に譲り渡すのは、出雲の支配階級であった出雲氏の力が、大和朝廷の支配力が強くなるに連れて、弱体化していったためである。その力は大化の改新を得て、延暦17年(798)の「国造郡領兼帯の禁」という令が出たあたりかららしい。これにより、出雲氏は政治的な力を失い神事に専念するようになり、 出雲国庁のあった意宇平野から西側の出雲大社の近辺に移っていったため、意宇平野に程近い熊野大社は徐々にその力を弱めていった。
鑽火祭(さんかさい)という祭りがある。これは10月15日に行われる。出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する神聖な火を起こすために使う燧臼(ひきりうす)と燧杵を受け取るために熊野大社を訪れる。そのとき、亀太夫神事が行われる。亀太夫は熊野大社の中で最も低い位の神職である。その亀太夫が出雲大社の宮司が持ってきた神餅について、色が黒いとか去年より小さいとか形が悪いなどと何かと難癖を付けるというものである。この神事を見てもかつて熊野大社が出雲大社よりも格が上であることを物語っている。
この本にはこのように歴史や年中行事などが書かれてる。 熊野大社自身が発行する書物であり、貴重な本である。