有頂天関係

健康・ナイロン100℃について

(1997年ごろ記述)


関連情報


紹介

稀代の天才(? )ケラリーノ・サンドロヴィッチが脚本と演出をし、数多くの性格俳優たちが強烈な劇を繰り広げている。それが(劇団)健康であり、現在のナイロン100℃である。

たいていの場合、ストーリーは分断されていて、合間に無関係と思える寸劇が挟まり、一見すると進行が把握できないように思われる。しかし、その実態は出鱈目ではなく、各各が複線になっていたり(ギャグだけのための伏線もあるが…)、複数のストーリーが同時進行していたり…と、大変繊細に仕組まれている。特に、ケラの書く本では一人複数役は当たり前なのだが、それを使った伏線はりなどはまさに芸術的だ。

それをこなす役者さんもすごい。手塚とおる、犬山犬子、まつおあきら、みのすけ、の4人が僕の好きな役者さんだ。(残念なことに、1998年現在のナイロン100℃には、手塚さんとまつおさんがいないらしい。どうしよう。)

といっても、有頂天の歌と同じく、ケラは「一通りだけの意味」を提供するなんて当たり前のことはしない。だから、一見すれば意味がない作品かもしれない。しかし、私にとっては常に明確に「私のための意味」がある。とどのつまり、アレにどれだけ意味を付けられるかが重要で、見る人の才能と趣味によって作品は左右されるのだろう。

といっても、僕は名古屋在住だった、健康の劇の本物は2本しか見ていない。


僕が最も気に入っている点は、「派手な舞台装置がない」「派手な衣装がない」点だ。“ストーリーは演技で見せる。観客は演技で魅了する。それが劇だろう。”と思ったのかどうかは知らないが、だからこそ「ちょっとした衣装の変化で役柄が大きく変わる」といった大胆なイメージ操作が可能になる。(音楽もそうなのだが、僕は原理主義者なのかもしれない)


感想録


ウチハソバヤジャナイ

1997年の名古屋大学大学祭において、当大学の演劇サークル「劇団新生」が、健康の事実上の最終公演題目「ウチハソバヤジャナイ」を公演しましたた。これを見て書き留めた「私が見たウチハソバヤジャナイ」を公開します。まったく個人的に書き留めたもので、台本を書き写したのではないのだから、特に著作権には触れないはずです。

この作品を「コンピュータウイルス戦争」云々と評価している人を見たけど、そんなことはどうでもいい! 僕にとってこの作品の最も大事な点は、タイトルどおり「ウチハソバヤジャナイ」なのだ。ウチハソバヤジャナイのに、知らないうちにソバヤに追いやられてしまった。しかも、こともあろうに、「ウチハソバヤダ」と言ってしまった。他人によって壊されていく日常に、自分で最後の一撃を加えてしまったという最悪の事態。

この瞬間に、僕は不覚にも涙ぐんでしまった。人の生涯とは、かくもはかなく壊れてしまうものなのか!


完全に余談ではありますが、劇団新生の方の演技のなかなかよろしいものでした。大学のサークルといっても、馬鹿にしたものではないのですね。いままで考え違いをしておりました。申し訳ございません。

とくに、高野役、アルジャーノン役、マチルダ役の方の喋りは申し分なかったと思います。ただ、マチルダの「バカ」演技はちょっと切れがいまいちかな、と。ニセモノをやっていた女の子、大変かわいいです。「こまかいことはわかりませーん」と「もうたべられないよぅ」に惚れました。またこの系統の役をやるときにはぜひご連絡ください、必ず見に行きます。ただし、ヤエモン役の方、せりふが甘いです。あれでは劇の流れが悪くなります。もう少し言葉を聞き取り易く発音するようお願いします。

と、勝手な劇評を書いてみました。こんなことは、本人たちに直接伝わるようにするべきであって、こんなふうにWWWに置いておくものではありませんね。反省。でも置いとこう。


ちなみに、戯曲(ペヨトル工房、1800円)を手に入れた。自分が書き留めた筋と比べると、登場人物の名前などいくつかの思い違いを発見。が、間違いはそのままにしておこう。

さて、やはりこのようなスピードとタイミングが命の劇のばあい、戯曲だけで内容をつかむのは難しい。それなりに読めない事はないが、やはり舞台を見た劇団新生の公演のほうが何倍かおもしろいと感じてしまうのは致し方ないだろう。しかし、オープニングの使いかたは劇団新生のオリジナルの方がおもしろい事は確かではないだろうか。また、「けっこう→結婚」は新生オリジナルだろうか? 


テクノベイビー−アルジャーノン第2の冒険−

(1999年12月26日記載)

ナイロンの18th Session。1999年12月17日から29日、下北沢本多劇場。秋山きつね氏のCGと、ヨシタケシンスケ氏の立体が使われている。

余談:ヨシタケ氏の作品のイラストは、ヨシタケシンスケ氏のWebでほとんど見られる。でも、これを自費出版したものを商品として売っている。1000円。すんごく内容はいい。けど、ほぼWebで見れちゃうから、普通ならお金を出す気はしない。でも逆に、この人柄の良さに打たれて、お金を出したくなるから不思議だ^-^)

私は12月24日クリスマスイブに観劇した。感想と私家版書き止め戯曲を追って公開する予定。

さきに雑感を。

「面白かった。見るべきだ。」

だが、「こなれすぎ」な感じもある。あれだけデタラメなのに、すでに長いことケラを見ている人間からしてみれば、「うーん、ケラ王道」と感じてしまうのだ。いいことなのか悪いことなのかは別として。僕的にはいいことなんだけど。


カラフルメリィでオハヨ-いつもの軽い致命傷の朝-

ケラの父が入院中に作った作品。結果として、父の死にささげる作品になってしまった。既に三回公演している。

これは名古屋ではやっていないので、戯曲を読んだだけだが、どーんと「個人的解釈解説」を書こうと思います。実際に見たのではわからないことでも、戯曲を落ちついて読むとわかる、ってことはあるんじゃないかな。


ここでは「私戯曲:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(1989)pp242。JICC出版、東京:ISBN4-88063-540-5」を紹介しよう。前半は、ケラの父が入院してから亡くなるまでの間のケラの日記。後半はこの劇の戯曲。おまけとして健康の役者詳解が載っている。

この日記は泣ける。ケラの生活が少し覗けるとともに、父への愛情がにじみ出ていて悲しくなる。特に、父の命日のラストの言葉は痛烈で、僕の心に深く突き刺さっている。引用しよう。

“でも、僕はもう病院を信じない。看護婦を信じない、日本の医療制度を信じない。迷惑そうにあくび混じりで「大丈夫です」といったあの看護婦の言葉を忘れない。”

その後に読む戯曲は、全体に悲しみと狂気の漂う壮絶な作品におもえるのでした。


愛と死

愛と死は、いままで知っている映画/マンガ/小説/TVドラマなどストーリーものの作品の中で、私が最も感動した作品です。その「複雑さ」と「一見意味なさげ」と「広がる解釈」は、まさに類を見ないものでした。

3時間にわたる長い劇で、半分もネタを思い出せなかったのですが、大体のストーリを書き留めてみました。ご利用ください。

記憶が定かではないが、1991年の公演。


吉田神経クリニックの場合

1998年5月9日に中野のザ・ポケットにて観劇。ナイロン100℃サイドセッション#6。別役実「受付」とモンティ・パイソンをリミックスした作品。

「サイドセッション」といういいわけが付いているが、そのとおり、内容がちと薄いような気がする。部分部分にはおもしろいのだが、それらが連携したり複合したりして全体的な何かを醸し出すまでの「ケラの真骨頂」には達していないような気がする。(ケラはよく「笑わせるだけで何が悪い」といいますが、それはラブコメなどへの反感です。僕もその気持ちはわかります。でも、「愛と死」や「ソバヤ」は感動するくらいに笑えたのです。別に、笑いの奥に社会批判があったとか哲学があったとか、そういうことじゃありません。ただ、笑いがすばらしいのです。笑いの仕掛けが複雑で高度で感動的なのです。ケラには常にそこまで作って欲しい!)

事実、どうも新人公演っぽい側面がある。まあ、そんなものかなあ。

なお、手塚がいないのは、やはりつらいような気がする。登場する「キヌガサ」はまさに手塚にぴったりなのだ(もっとも、この役をやった小林高鹿さんもなかなかよい感じだったが)。それから、大倉孝二という性格俳優というか怪優がいるのだが、この作品の中では、作品のバランスを崩してしまっていた。一人だけ強すぎる。神戸浩はあれだけ壊れていてもバランスがいい作品を作るのに、それとくらべると、実力不足なのかな? 


スマナイ。

モンティパイソンの[ホーリーグレイル]を中核にした作品。名古屋に来た最初の作品。戯曲出版済み。[バカ歩き]など、多数のパイソンネタを含む。

サイコーにくだらなく、サイコーに複雑な演出で、サイコーに笑える。

プチ天変地異

これはJICCから出ているビデオで見た。小粒な作品。

出鱈目的

これはアポロンからでているCD。私戯曲では「ぎりぎりまで台本が真っ白」であった様が書かれているが、実際内容は薄いと思う。音楽も、いくつかは大変薄い。

それでも、いくつかのネタは大好きだ。






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