日本のこと、わかったかな?
先日かねてより要請のあったチーのクラスに行った。朝晩は涼しいけれど、日中は蒸し暑く、「着物で」という話に困っていた。朝のうち、小雨が降っていたこともあって、いざとなればざぶざぶ洗える浴衣で行くことにした。ノンのクラスに行ったこともあるし、そういえばガールスカウトにも行って話をしたが、今回はいつまでたっても英語の上達しない自分に腹が立って、気は重かった。6年生という学年にも一因がある。ごまかしがきかない。「宗教、慣習、家、着物、食べ物について話してください」「着物を着るデモンストレーションもあるといいなあ」「おやつがあるといいなあ」ミセス・プールや生徒たちからはいろいろと注文がついた。
宗教の話は本当に困る。一神教を信じる人にとって、「何でもござれ」みたいな日本の現状は到底理解できないのだ。仏教に神という概念はないし、神道の神々は神話のまま曖昧模糊としている。その流れの中で、日本人のほとんどはクリスマスをキリストの誕生を祝う日と知りながら楽しんでいる。「クリスマスを祝った後、31日にはお寺の鳴らす除夜の鐘を聞いて1年を振り返り、鐘が鳴りやむと神社へ初詣に繰り出す。」1週間にうちに3つの宗教を渡り歩く日本人を理解しろという方が難しかろう。
節分でもひな祭りでも疫病や災いを払うというのがそもそもの目的であるが、「今でも本当に豆で災いが防げると思っている?」とミセス・プール。「科学文明の世の中、たいていのことは科学で説明がつくようになってしまった。だから、病気も気象現象も宗教でどうにかなると考える人は滅多にいない。でも、慣習となった行事は、しないと落着かないものなのだ。」と答えると、誰かが「おもしろそうだもの。だからするのよ!」と言った。かつて宗教的に意味のあった儀式が科学の発展に伴い宗教色が薄れ、儀式のみが伝えられている。それと同様に日本人はクリスマスを捉え、おもしろそうだからとクリスマスを楽しんでしまう。このあたりのクリスチャンは神の存在はもとより、天地創造からキリストの奇跡まで、本当に信じている。これはクリスチャンとしてはごく当たり前のことなんだろうけれど、確固たる宗教的信念を持たぬ日本人とはおよそ相容れぬ思想ではあるまいか。
宗教と習慣の話に思ったより時間を取られた。着物はチーに浴衣を着せて三尺をしめておいた。で、デモンストレーションはホージーに浴衣を着せインスタントの帯を締めて見せた。これは簡単で良い。私がしめているのはインスタントではない半幅帯で、もう1本の半幅帯を伸ばして見せた。この長いヤツを2回ぐるぐる巻き、結んである、というと素直に驚くかわいい子供たち。次に試食。持っていったのはお干菓子、醤油味とえび味のおせんべい、アメ(いちごとメロンの2種)、冷やした麦茶。アメのウケがよかったのはもちろんだが、えび味のおせんべいが評判だったのは意外だ。もっとも不評だったのは麦茶。こっちの子供は甘みのない飲み物には慣れていないのだ。チョコレートパイにホィップクリームとアイスクリームを乗せ、甘いアイスティーを飲む人たちにはわかんないだろうなあ、麦茶の良さが。
子供たちが食べている間に少し話をして、1時間の予定は無事終了。みんな口々にお礼を言ってくれた。喜んでもらえたのは本当にうれしいけれど、私はすっかりくたびれてしまった。この日、洗濯物をたたみながら居眠りをしてしまったほど。あー、英語さえもう少し何とかなればなあ!!!といいながら、きっと英語のモンダイだけではないはずだと自分の教養の無さを思うのだった。