クリスマス‘97 その2
ある日、おとうが会社から帰った後、ツリーファームにでかけた。ブリッタニーの家のそのファームは、ガキンチョがゴルフカートで走り回ったところで、さらにその奥にもツリーが植えられている。ブリッタニーのおじいちゃんが「早く見ないと暗くなっちゃうよ。」と言った。ガキンチョは口々に「あれがいい」「これがいい」「こっちのがかっこいいよ」などと言う。そうこうしているうちに本当に暗くなってしまった。「明日出直そう」そういって、べそをかきはじめたガキンチョを連れて帰った。
翌日はあいにくミス・ケイのレッスンがあった。「カオカオが自分で選ぶの!」と言い張るヤツがいて困る。カオは宿題を全部サササッと済ませ、ミス・ケイにも自分が一番にレッスンを受けると言って、サッサと勉強部屋に入ってしまった。いつもこうだといいのに。
おとうは帰ってくるとすぐに、カオを連れてファームに出かけて行った。4000本の中からおとうが選んだのは2mをちょっと超えるほどの立派な木だった。(ブリッタニーのツリーファームにはその隣りに6000本、また別の場所にもっとたくさんの木が植えられているんだそうだ。)木は、畑に植えてあって、それを切ってもらうのよ。この時期はスーパーやグローサリーストアでだって、切ったツリーが売られている。でも、畑の中の生きた木をバッサリ切って買うのって、もったいないような、残酷なような、ちょっと後ろめたいような感じがする。切られた木は直径35cmほどの筒の中に入れられる。筒の周りにはネットが巻き付けてあって、木の枝をすぼめながらネットがかぶせられる仕組みなのだ。
木はモミの木というより松みたいだ。おとうは「なんだか店で売ってるのと違うなあ」と言った。とんでもなく松の多いサウスカロライナで祝うクリスマスだもの、いいんじゃないの?大の仲良しのブリッタニーのファームで木を買えたカオは大喜びよ。早速、K-martで25%オフで買ったクリスマスの飾りをつける。オーナメントはギターやハープなど楽器ばかり12個がセットになったものを選んだ。通信販売で木綿のテディーベアやエンジェルをおとうに事後承諾で注文したのだが、それはまだ届いていない。銀色のリボンとモールをつけて、今のところは一段落。
ツリーを「モミ君」と呼んでニコニコしていたノンは、「お正月が来たら、木を捨てる」と聞いて、泣き始めてしまった。「小さなチップにして、ほら、みんなで行ったマリオネットシアターのそばの公園にチップが敷きつめてあったでしょう?あのチップになるのよ。」何と言っても、ノンは切ない顔をしたままだった。
日曜日、教会の説教の中で牧師のクリスは礼拝堂のツリーを指して言った。「これは本物の木のツリーです。でも、もう命はない。ツリーファームで見た時は命があった。大地に根を張り、生きていたのです。私がこの木を選んだ時、この木は切られて命を失ってしまった。こんなにきれいに飾られていても、これは死んだ木なのです。」私はだんだん気持ちが沈んでしまった。クリスは続けた。「私たちも同じです。いくら外見を飾っても、しっかりと根を張って生きていなくては命がないのです。命はイエス・キリストです。イエスにつながって生きてこそ、命があると言えるのです。」まさかそのために木を切るって言うの?そのために飾り付けるわけじゃあないでしょう!?
家に帰ると、かすかに木の香りがする。キリスト教の精神の何かも知らずに、お祭りだけをしてしまう私たち日本人って、やはり変だなあ。今年はこの木の前でクリスチャンたちがどうしてクリスマスを祝うのか、考えてみよう。それが切られてしまった木への礼儀であるようにも思えるのだ。