クリスマス礼拝
キリスト教ではクリスマスに一番近い日曜日にイブの礼拝とは別にクリスマス礼拝を行う。その日を含め、4週間をアドベント(待降節)と呼んで、クリスマスに備える。
大きな教会では、コンサートを開いたり、本格的なページェントが催される。おとうはつい最近まで「キリスト」をイエスのラストネームだと思っていたけれど、「キリスト」は救世主という意味なのである。キリスト教では三位一体というちょっとややこしい考え方をする。神とイエス・キリスト、そして精霊が本質は一緒なのだという。ある人はこれを水にたとえた。水は温度を下げると凍って固体になり、どんどん上げていくと気体になる。ところがどんな形になっても、H2Oなのだ。
その神と同質で、形が違うだけのイエス・キリストが、この世では貧しい大工の息子として、馬小屋で生まれたと、聖書は記している。聖書はまた、母マリアは許婚者であったヨセフではなく、精霊によってイエスを身ごもったとしている。つまり、遺伝的にはヨセフと何ら血縁関係にないイエスなのだが、聖書にはヨセフが旧約聖書に登場してきた王や「イスラエルの父」と呼ばれるアブラハム、さらにさかのぼって、アダム、さらには神に至ると紹介される。私にはマリアの系図を載せた方が理にかなっていると思えるのだけれど、当時の父系社会は今からじゃどうにもできない。
神がキリストとして私達人間のために、人間としてこの世にやってきた。そして結果として、イエスは十字架上で殺される。キリスト教ではこの死を2000年近く前の過去のものとしてではなく、「自分の」罪のためにイエスが死んだのだと考える。キリストの死によって、人間と神との和解が成立し、自分が救われるのである。そういう意味で、イエスが生まれたことを祝うのだ。
今年は紀元1997年で、紀元はもちろんイエスの生まれた年を0としているはずである。ところが実際にイエスがいつ生まれたのかはわからない。12月25日というのも、冬至の祭りがいつしかイエスの誕生日とされたそうである。
私達の通う教会では今年、礼拝の説教の前に日曜学校の子供たちがページェントを披露した。クリスマス礼拝の21日はミーのクラスだった。ミーはそこでイエスの母マリアになったのよ。小さな教会とはいえ、信者の子供ではないミーをマリアにするなんて、本当にオープンな教会だ。もっとも、聖書に書かれたイエスの系図(マタイ伝)には、女性の名前が4つ出てくる。(一つは前夫の名前だけよ!)父系社会においては例外といえるだろうけれど、それらの女性はすべてイスラエルの出身ではない。これはユダヤ教がイスラエル民族だけの宗教にとどまっていたのにたいして、すべての民族に門戸を開いたキリスト教の教義の伏線といえる。だから、あえてミーをマリアにしたのは、クリスマスを世界中の人と共有したいという大いなる考えからかもしれない。(それともただ単に深刻な人材不足なのかな?)
ミーは赤ん坊の人形を抱いて、となりには頭ひとつ大きなヨセフ役の男の子。世界中探してもこんなかわいいマリアはそう見つかるもんじゃない!と本気で考えたひとときであった。親ばかで結構、コケコッコー!