生物の支配者 はじめに「神」があった
教会の聖書講座も3回目になった。もっともおとうは1回さぼって?いるから2回目になる。聖書の一番最初にある「創世紀」がテキストで、「光りあれ」で知られる天地創造を詰め込まれるのだ。
いつも思うのだけれど、「神」が存在している、というのが前提となって話が進められているようだ。神様がこの世を造ったのだけど、さてどんな風に造ったのか?そう言われているみたいだ。そういえば、西洋には「無神論」なんてえのがあるけれど、これも「神がいると信じていたけれど、実は神は存在しなかったんだ」という学問なのだから、神が人の生活にいかに密着しているかがわかるだろう。
「最後に人間がすべての生物の支配者として造られた。」というところでおとうは反論した。先生と他のふたりの生徒(とはいっても一人はアメリカ生まれのアメリカ育ち、もう一人はまだよくわからないけれど英語に不自由しているとはとうてい思えない。サクラに違いない、とおとうは言っている。)は、食物連鎖の図のてっぺんを指さして「この上に人間がいる」と主張する。「生き物にはいくつものランクがあって、人間と他の動物はちがうのだ」と言うのだ。
おとうの主張は私には想像出来た。人間だって食物連鎖の中に入っている。人間は哺乳類のひとつであって、それを越えるものではない。そう主張する前にcreatureという単語でつまずいてしまった。おとうも私もcreatureとは、植物と動物双方を含んだ生物をさすと思っていた。ところが「植物は含まない」と言うんですな。ほうほう、こりゃいいことをきいたぞ、と感心しているうちに時間がきてしまった。
確かに人間は他の動物とは違う。生きるためだけではなく、殺戮し自然を破壊する。人類が現れたために幾種の生物が絶滅し、あるいは絶滅の危機に瀕しているか。もし、本当に頂点に立つものであるなら、何と恥ずべき事であろう。思い上がりも甚だしい。もっとも聖書にも人間が自分で考え、判断し、それについて責任を負う事が説かれてはいる。しかし「一寸の虫にも五分の魂」の方が心にずしっと響くのは、私が根っからの日本人の故なのか。
「ランクづけされた生物の頂点に、神の意思によって据えられた人間」という特権意識の中に「牛肉を食べるのは良いけれど、賢い鯨を捕ってはいけない」という論理がみえたような気がする。「神はpowerfulでcircleのように永遠で・・」と説明が具体的になるにつれ、違和感ばかりが募ってしまうのだった。