太陽の使者 鉄人28号 〜 SS 〜
れ き し
次のかなを漢字にしなさい。
1.れきしのっけから手がとまってしまい、ええと、と云って隣の敷島博士を見る。博士はなにも云わず、ぼくからとりあげた鉛筆をノートのすみに走らせた。
『歴止』
「どこか、へんだね」
のんびりと博士が云う。
「ああ。えっと……、ここが違います」
「そう」
ふたつめの漢字にバツをつけて、博士はその上に“史”と書いた。
「このはじめの字には経験という意味があって、経歴、履歴といえば、経験してきた仕事や学業を指す。この後ろの字はフミヒトと読めば大和朝廷で記録をつかさどった役職の名だ。歴史とは、年号と時の権力者の変遷だけを指すものではなく、人々が集い、地を耕し、芸術を磨いたいとなみや、様々な物事が、時間とともに移り変わった足跡を記録したものすべてをいうんだよ」
必死で博士の言葉を追いながら、やっぱり驚いてしまう。博士は物知りだなあって。
あんまり学校に行けない時期が続いて、博士がぼくの家庭教師を引き受けると云いだしたときには、勉強は好きじゃないから正直、嫌だなぁと思った。博士が先生じゃサボれそうもないし、それに、むずかしい話をされて、ぜんぜん理解できずに博士をがっかりさせてしまうだろうという不安もあった。
だけど意外なことに、博士の教え方はとても面白かった。脱線ばかりする話も、なんだかわくわく聞いてるうちに、いつのまにか勉強になっていたりして。勉強の時間が楽しいなんて、はじめて思った。
「ただやみくもに漢字を書いておぼえても、すぐに忘れてしまうだろう。細かく意味を調べていくと、自然に頭に入ってくるよ」
「そんなものですか」
そうかなぁ。おぼえるだけで大変なのに。……とぼくの考えたことがまるでわかったみたいに、博士がおかしそうな顔で立ちあがる。
「おいで」
博士が窓を開けた。冷たい風が吹き込んでくる。わけがわからず隣に立つと、頭のうえに博士の手がのせられた。
「人間の脳はね、感情が大きく揺り動かされて見たり聞いたりしたものだけを、長く忘れない場所に記憶するんだよ。興味のないことをいやいやくり返しても、一時的な場所にしか書き込まれず、しばらくすると忘れてしまう。脳はそういうふうにできているんだ。ほら、正太郎くんは、鉄人に関することなら、なんでもすぐおぼえてしまうだろう」
「それは……」
「それにきみは、はじめて行った街や、はじめて会った人のことを、とても詳しく話してくれるじゃないか。たぶんきみは勉強がつまらないと思っているから忘れてしまうだけなんだ。つまり、まずは興味を持てる手がかりをみつけること。そのコツさえつかめば、知るということが、きっと楽しくなるよ」
そんなふうになれるんだろうか。だいぶ不安に思いながら、とりあえずうなずいてみせる。またぼくの気持ちを読んだように少し困った顔で、博士は窓の外を見てしばらく黙っていた。じっと動かない視線の先には、ただ庭があるだけだ。
「正太郎くん」
博士が、ぼくの背中を抱いて、窓の中央に立たせる。
「あの樹を見てごらん」
指さされなくても、丘の上には1本の桜しかない。葉っぱがぜんぶ落ちてしまって、冬は淋しそうだ。
「あのしだれ桜の幹の直径は、30センチくらいかな。正太郎くん。あの桜が大地に芽吹いたのは何年くらい前だろうね」
裏山の樹とくらべたら細いほうだけど、ぼくが小さいころから、あそこにああして立っていたような気はする。
「20年……、くらいですか?」
「およそ樹齢100年。わたしの倍は生きている」
「へえ」
100年なんて、ぜんぜん実感がわかないや。
「だからあの樹は、きみのお父さんがここに住むずっと前から、あそこにあったわけだ。それに……、わたしがここへ来るようになってから、春にはあそこで、金田博士と月あかりで花見酒をかわした。そういう歴史を知っている樹なんだよ」
「お父さん、と?」
「そう。きみのお父さんは、あの桜が咲くのを毎年とても楽しみにしていた」
「そうなんですか……」
敷島博士が、お父さんの話しをするのは珍しい。名前をきくこともあまりなかったから、博士とお父さんがお酒を飲むような仲だったという話に、ちょっとびっくりした。
あの桜を、お父さんもながめていた。いままで気にもとまらなかった1本の樹が、なんだか急にとても大切なものに思えてくる。
「鉄人なら、あの樹を倒すのは簡単だろう」
「……はい?」
またびっくりして、博士を見あげる。
「いまのきみがまだ、鉄人を操作するだけで手一杯なのはわかる。鉄人の巨大な力を調整することがどれだけ難しいかも、よくわかっている」
話の行方がわからなくて、ただ博士をみつめる。
「これは、きみにもっと余裕ができたとき、そのときでいいんだがね。そう。鉄人が倒してしまう1本の樹にも、長い歴史があるということを、その想い出を大切にしているひとがいるかもしれないということを、きみが頭の隅において操作できるようになったら、鉄人の可能性はもっと大きく広がると思うんだよ」
いろいろな場面が浮かんで、ひや汗がでてくる。
鉄人が樹をなぎ倒すなんてことは、それこそしょっちゅうあったし、そもそも余裕もなにも、ぼくは出動でもなんでもない、ただの練習で、平気で……。
「正太郎くん?」
「すみません。……ぼく、裏山の樹を、練習で折りました。もう何本も……」
博士が笑いだす。
「それは、きみが必要だと思うなら、かまわないんだよ。鉄人の相手になるようなものといったら、ここには森しかないからね」
うなだれたぼくの前髪をそっとかきあげて、博士が視線をあわせる。
「叱っているわけじゃないんだ。ほとんどの現場では、そんなことにかまってはいられないだろう。ただ、なにを優先するべきなのか、きみには自分で判断できるようになってほしいと思っている」
「……そんなことが、ぼくにできるでしょうか」
なんだか途方にくれてしまって、弱々しい声がでた。博士がやさしく笑う。
「できると思ったから、わたしはきみに鉄人をまかせたんだよ。もちろん、急にあれこれ考えていたらかえって危険だ。これから鉄人と一緒に経験するいろいろな場面ですこしずつ学んでいけばいい。だが、それと同時に、普段から、まわりにある小さなものに心をとめる時間を作ったり、たくさん本を読み、いろいろな歴史や考え方を知って欲しい。そういうものが、きみ自身をきっと強くしてくれるし、力だけに頼らない鉄人の操作につながっていくだろう。勉強は、そうした手がかりをみつけるためのひとつの手段だ。漢字を忘れても、そう困りはしない。わからなければ調べればいい。わたしがきみに学んで欲しいのは、もっと別のものなんだよ」
なんとなくだけど、やっと博士の云いたいことがわかって、うなずく。
博士が嬉しそうに笑った。
「さあ。では勉強を続けるとしようか」
窓を閉めたまま手をとめて、また丘の上をみつめている博士を、ぼくはそっとのぞきこんだ。
「あの……、はかせ」
「え? なんだい」
ためらう気持ちを押して、まっすぐ博士を見あげる。
「春になったら、あそこでお花見、しませんか?」
敷島博士は、驚いたような顔をした。
博士はあの樹に近づかないようにしていたのかもしれない。ぼくがおぼえているかぎりの記憶を捜してみて、そんなふうに思ったから。もしかして、お父さんが死んでから、ずっと。
博士はやっぱり困ったように、しばらく黙っていた。
「……そうだね」
やっとそう云うと、博士はなんだか泣きだしそうな瞳で、微笑った。
「そうだね。そう、しようか」
「それに、もっと聞かせてください。お父さんのこと」
博士は、お父さんのことをあまり話したくないみたいだった。なにか理由があるんだろうと思ってはいたけど、確信したら云わずにはいられなかった。
「ああ。……そうだね」
博士がひとつ、息をつく。
「きみのお父さんは、とても素晴らしいひとだった。ロボット工学だけでなく、わたしは、たくさんのことを金田博士から教わった」
しばらく目を閉じてから、ぼくを見た博士は、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
「そういったことを、そろそろ、きみに伝えていく時期なのかもしれないね。……すこしずつ、そんな話もするとしよう。だが、まずはその宿題を終わらせないと、夕飯が食べられなくなってしまうよ」
「あ、そうだった」
とたんにげんなりすると、博士がにっこり笑ってぼくの肩をたたく。
「さあ、がんばろう」
すごすごと机に戻る。この1枚で今日は終わりだけど、まだ1問目だ。
だけど、もう夕飯に遅れる覚悟を決めて、ぼくはなんだか新鮮な気持ちで鉛筆を握り、ゆっくりと、味わうように書いてみた。歴史
「あの桜の下で、はやく、きみと酒を酌み交わす日がくるといいねぇ」
ふいに博士がぽつりと云った。
「それは、まだまだ先ですよ」
おかしくなって、くすくす笑ってしまう。博士はゆったり微笑んだ。
「ほんとうに、待ち遠しいよ」
満開の桜の樹の下で……。
桜は、まだ見事に咲いているだろうか。
そのころ、鉄人はどうしているだろう。
きっとぼくは、この日をなつかしく思いだして、遠いむかしの博士とお父さんみたいに、いろいろな話をして。
……ぼくは、どんな大人になっているだろう。
まだ小5のぼくには幻のようにおぼろげな想像しかできなくて、そもそも自分がどんな大人になりたいかさえ、よくわからない。
でも、ただ、なんだかとても嬉しい気分で、ぼくは、鉛筆を握りなおした。いつか、満開の桜の樹の下で。
(おわり)
正太郎くんが、お父さんの死の真相を知るのは、まだもうすこし先のお話。
“歴史”は4年でならう漢字です。がんばれ正太郎くん! (笑)2004.10.22 UP / 2015.01.05 少々改訂