3.ちょっと浮気〜浪人時代〜 他のお店のGOに

[我が青春のマクドナルド Index]


1987年3月、高校を無事卒業することが出来た。卒業は出来たが進路は決まっていなかった。大学受験には失敗したのである。3年生になってバイトを辞めるまではまともに勉強してこなかったし、そのツケがまわってきたのであろう。ある程度は予想していたことであったので、特に落ち込んだりすることはなかった。

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私の通った高校は1年から2年に進級するときはクラス替えがないが、3年生になるとクラス編成は本格的に受験を意識したものになる。私は理系クラスを選択した。文型科目に興味が持てなかった、という消極的な理由ではあったが、小学生の頃から何故か周りにも「あなたは理数系」と言われ続けていたことも影響があるかもしれない。理数系に進むための勉強などしたこともない私にとって3年生になってからの授業では非常に驚いた。全然ついていけないのである。物理など初めてきく単語の連続。でも「習ったはず」なのだそうだ。

まわりに追いつくためにかなり真面目に勉強に励んだ。幸いと言っては何だが、私にとっては新たに学ぶことも多く学習は苦痛にならなかった。そんな甲斐があって、受験直前には実力テストでも学年上位に食い込むことが出来た。
これで受験もなんとかなると思った。ただ、明確にどこの大学に行きたいというのがなかった。卒業生が多く進学する大学のなかから適当に選ぶ、という感じだった。
先生も親も期待した。先生は某国立大学を受験しろという。そんな大学はまったく眼中になかったので、面食らった。が、さして行きたい大学があるわけではなく、成り行きで願書を提出した。

当時は国公立大学は「共通一次試験」なるもの(現在のセンター試験)があるが、この年に限ってこの試験の前に国公立大学には願書を提出することになっていた。で、一次試験の成績によって第一段階選抜「足切り」が行われる仕組みになっていた。
共通一次試験、これが私にとっての最初の本番の試験であった。前日は眠れないほど緊張した。そんな状態だったせいもあり、試験には失敗した。目標をはるかに下回る全国平均をやや上回る程度の点数しか取れなかった。その後の私立の入試にも尽く失敗し、選択肢なしで浪人が決定した。

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浪人が確定した受験生には春休みはない。来年に向けての春季講習が始まるのだ。

1年もの間、根つめて受験勉強など出来ないことは分かっていた。そもそも目標とする大学すら明確でない。ここは少し頭を冷やす、というか気分転換が必要だと感じた。
そこでしばらくの間、バイトを再開することにした。また自動車学校にも通うことにした。予備校に通いながらである。
何故か用賀インター店には戻る気はしなかった。浪人生として戻ることが恥ずかしかったのかもしれないが今となっては覚えていない。

求人雑誌を買い求め職を探す。すると「青山にマクドナルドがオープン」という触れ込みでクルーの募集広告があった。マクドナルド青山店が近々グランド・オープンするのだ。気が付くと、懲りずにまたGO店舗でやってみることに決めていた。

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用賀インターGOの時と同じく、青山店はまだ店舗がなく、渋谷店の事務所で面接をした。面接の時、履歴書を忘れた。忘れたというより、全く持ってくる気すらなかった。「普通、もってくるよね」面接を担当したMGRに言われた。何故、履歴書を書く気すら起きなかったのだろう。おそらく「面接で落ちることはない」とたかをくくっていたのだろう。面接を受けながら、本来は採用になってから記入するマクドナルドのクルー専用の履歴書(店舗で保管しておくもの)を記入した。用賀インターの経験者であることも告げた。

後で分かったことだが、経験者だからと行って優遇されるわけではない。むしろ経験者を嫌う店長や前の店舗の退職理由を調べて、場合によっては不採用になったりすることも多いようだ。

青山店の隣の表参道店には、用賀インターで1stだった片岡さんが店長として勤務していた。私が青山にいるという話は既に伝わっていたらしく、お店に遊びに行くと「お前、青山でなくうちに来ればよかったのに」と言ってくれた。冗談だったかもしれないが私の顔を覚えていてくれただけでも嬉しかった。この片岡さんとはこの先も長くお付き合いすることになるとは、この時は思いもしなかった。

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移籍したわけではないので、青山店ではトレーニーからの最出発である。
マックの仕事というのは1年やそこらで忘れるような仕事ではい。なのでファーストインから特に教えられるでもなく一通りのオペレーションは出来た。ファーストインの日に白帽(トレーニーハット)から普通のクルーハットに変わってしまった。ただこのファーストインがDシフトだったのか、朝だったのかは全く覚えていない。
GO前のトレーニング店舗に行くことはなく、オープニング当日もインしなかった。そのくらい思い入れがなかったのだろうか。

私の弟は当時の原宿竹下通り口店でクルーをやっていたのだが、この青山店のGO店長がそこから移動してきた店長だった。名字が珍しいこともあってすぐに私が兄貴だとわかったようだ。そのせいか割と私のことを買ってくれており、仕事はやりやすかった。まあ、用賀インター当時にオープンを経験していたのと、大型店ならではで、営業中にグリルをつぶしたり、2台稼働しているうちの1台のシェイクマシンを日中に分解したりということを経験していたおかげで、クローズワークのシェイクマシンの分解清掃もほぼトレーニングなしで出来たし、グリルのクローズも出来た。こんな点が気に入られたのだろう。しかし私と弟、特に弟とこの宇部店長との出会いは、この先の弟の人生において大きな意味を持つものになったのだ。

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この青山店は都心のインストア。用賀インターとはかなり営業形態が異なる。
営業時間は朝7時から22時まで。私の住む所からは電車通勤が基本となるが、オープンには何とか間に合う。が、一応、浪人の身であるため、予備校に行く前の時間のシフトは遠慮させてもらった。自然と夕方〜クローズがスケジュールの基本となる。ただ、終電を気にしなくてはいけない。私の場合、渋谷24時15分が最終なので23時半のクローズ終了予定時間ぴったりにはアップしないと家に帰れないのだ。だが、GO直後というのはクローズクルーも慣れていない。やっぱり時間通りに終わらないことも多く、何度かは洗い物が積まれたシンクを残して帰ったりしたものだ。これとて、決してシンクが遅かったわけでなく、プレクロが進まなかったり、閉店間際まで混み合ったりしたからなのだ。

また、今でこそメジャーになったが、当時としてはハシリの「ダイヤルM」のサービスも行っていた。回りに住宅が少ない替わりにオフィスが多く、平日の夕方〜夜は残業前の軽食としてかなりの需要が見込めたからだ。ただ、当時はこのノウハウがあまりなく、かなりお客様に迷惑をかけたのではないかと思う。ダイヤルMのシステムは以下の通りだった。
・電話にてお客様の注文を受ける。住所・電話番号を確認する。
・商品を取りそろえる
・この間にお客様の所在地を地図にて確認する。
・おつりを用意する。1万円用のおつりを準備すれば全て場合に対応できる。
・おつりと領収書と商品を持って徒歩でお届けに向かう。
・お客様に商品を渡し、代金を頂き、領収書を渡す。
・帰ってくる。
・安全を考え、お届けは男子クルーが行う。
問題なのは「徒歩で」というところだ。ダイヤルMの告知は店内やチラシで行ったようだが、配達範囲を明示していなかったようだ。

ある時、私にダイヤルM配達の指示が出た。地図で住所を確認すると、表参道よりも更に遠いオフィスビルであった。歩いたら20分くらいかかりそうな距離だ。電話を受けたMGRは土地勘がなかったようなので仕方がない。商品を持って私はテクテクと目的地に向かう。

この時は寒い時期ではなかったため、上着などの準備はなく、昔のあの工場服のようなデザインのユニフォームを来て町中を歩くのはなかなか恥ずかしいものだ。

何とか20分で到着。結構大量オーダーなので、商品によっては出来てから30分は経過しているものもあるはず。特にポテトが入ったバッグを持つとこれが既に冷たい。コーラの氷も溶けている気配がする。それでも代金を頂いて「ありがとうございました」とさわやかに言い残して帰ってくる。・・・やはり良心が痛むものだ。多分このお客様は2度とダイヤルMでは注文しないだろう。

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5月くらいまでは予備校半分、マック半分くらいの生活だった。
5月も半ばを過ぎると、春の模擬試験の結果が返ってきたりして、先行きを不安感が覆うようになる。考えてみれば、この大学に行って何をしようとか、この学部でこうゆうことをしよう、とか考えてことがなかった。受験勉強で精いっぱいだったのだ。
このまま流されてはいけない・・・。きっと同じ事を繰り返すだけ。そう考えてからはお店にスケジュールを出すのをやめていた。6月からはインしなくなっていった。お店からも電話はかかってこなかった。浪人生ということを考慮してくれたのであろうか、それとも単に他のクルーで充足しただけなのであろうか。いずれにせよ、わずか3ヶ月足らずの浪人生マック生活であった。

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拠り所のない生活というのは辛いものだ。予備校など行っても行かなくてもいいわけだし、第一「予備校生」という肩書きは世間一般では「無職」でしかない。どこまで自分を追い込んで立てた目標を達成出来るか、浪人生の戦う相手は大学の試験でも他の受験生でもない、自分なのである。

私の通う予備校の英語の某先生は変わっていて、春の授業ではテキストの内容はそこそこに殺伐とした心になりがちな生徒達に対して情緒的な内容の教育をしてくれた。
一番印象に残っている授業がある。先生は教壇に立つと、今日は絵本を使った授業をすると宣言し、絵本の朗読を始めた。今でこそ有名になったが、当時はあまり知られていなかった「百万回生きた猫」であった。生徒達は真剣に先生の話を聴いた。
話しの内容は割愛するが「何万回生きたって、本当に幸せに生きなかったら、意味がない」というのが言いたいところだと思う。

この授業の後、私はふと我に返った。今までは受験のための勉強しかしていなかったからじゃないか。だから先が見えなかったんだ。大学に入ったらコンピュータを勉強しよう、中学生の頃からそう考えていたじゃないか。
第一志望は、中学生のころから感心があった早稲田大学理工学部電子通信学科にした。やっと、今自分のやっていることの目的が見えたような気がした。

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翌2月、私立大学の受験にはまたも尽く失敗した。心の中を満たしていく不安。直前の模試の結果からは当然受かるであろう学校すら補欠合格の通知もない。1年間がんばった苦労は徒労に終わるのか・・・言い知れぬ挫折感で勉強も手に付かない。遊びにも行けない。

「挫折」「敗北」・・・。死にたいとは思わなかったが、自分のやり方は間違っていたのか、と悔しい思いでいっぱいだった。悲壮感が漂っていたのだろう、家族が相当気を使っているのが分かる。親父は「2浪しても構わない」と言ってくれた。それよりなによりこの生活をあと1年続けることは耐えられそうになかった。

最後の私大、早稲田大学の合格発表の日。発表を見に言った親父から電話が鳴った。
「あった、あったぞ!」
「!」
電話口で声にならない声を私はあげたそうだ。この時の安堵感、開放感、喜びは今でも忘れない。

我が母校早稲田大学。実は現役当時は締め切りを間違えて願書の提出が間に合わなかった大学なのだ。つまり初めて受験する大学なのである。逆にK大学には付属高校、現役、浪人と願書を3回出し続けたのにふられまくっている。きっとこの大学との出会いは運命なのだ。

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入学式まではまだ1ヶ月弱ある。
さて、バイトでも探すか。そうだ、受験が終わったら戻ると約束した場所があったっけ。懐かしい仲間がまだいるかもしれない。ちょっと顔だしてみようか・・・。


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