1.なれそめ 〜高校時代〜 初めてのアルバイト

[我が青春のマクドナルド Index]


1985年のことである。前時代的な高校の部活に馴染めずに、いわゆる帰宅部生活が長い間続いていたが、高校も2年生になるといろいろと遊びも覚え、親からもらう小遣いだけではなかなか辛くなってきた。何かアルバイトでもせねば・・・ということで生まれて初めてのバイトはマクドナルドではなくて、ゴルフ練習場の玉拾い。これは夜9時に営業が終了してからカートなどを使って打ちっぱなしにされたゴルフボールを拾うもの。玉拾いだけでなく、営業終了後のアルバイトの仕事には
・打席の清掃、整備
・ボール洗浄機回りの仕事
・カートの入らない場所のボールの拾い出し
・カートでのボール拾い
があり、仕事が長い順番に上から担当になっていた。つまり新入りはカートを押してボールを拾うことから始めるわけだ。

他に夕方〜閉店までのカウンターの補助業務の仕事もあり、これは時給500円だったが他のバイトの人との兼ね合いもあり、毎日出来るものではなかった。夕方から夜の仕事だったので同じオーナーが経営するレストランの賄いが食える(これが結構旨い)という特典はあったが、自宅の人間には格段うれしいものではない。

この練習場だけのバイトでは月3万円程度の収入が限度。飲みに行ったり(なぜ高校生が飲みに行っていたかは不明・・・)CDを買ったり、当時は洋楽が好きだったので来日アーティストのコンサートのチケットを買ったりすると、すぐになくなってしまう。

なので掛け持ちでもう一つバイトをしようと思い付き、「アルバイトニュース」やフロムAで仕事を探した。いろいろと研究しているうちに、マクドナルドでは早朝6時ごろからバイトできることに気がつき、バイト先をマクドナルドに絞り、あとはどこのマックで働くかを決めることだけだった。

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自宅周辺には246用賀店や二子玉川店や等々力店があり、夏休み前だったので軒並みクルーの募集をしていた。

私の高校は一応アルバイト禁止。形骸化した校則ではあったが、運悪く先生に見つかってしまうとバイトは辞めなくてはいけなくなってしまうので、人がよく入る駅前店舗と学校周辺のお店はやめようと考えた。

ある週のフロムAに「アメリカ村にマクドナルド誕生!」という触れ込みでクルー募集の広告が出ていた。当時は東名用賀インター入り口付近はデニーズやYesterday、Preston Woodなどのレストランが並び「アメリカ村」と呼ばれていた。ここの環8から東名へ曲がる角のところにマクドナルドが出来ることになっていた。

この「アメリカ村」は大阪ミナミにある「アメリカ村」を模したものなのかは不明。ただ、現在ではこの用賀インター周辺を「アメリカ村」と呼ぶ習慣はないようだ。

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学校が試験休みに入って、すぐに応募の電話をかける。まだお店がないので仮事務所が二子玉川店内にあった。電話をしたあと、履歴書を持って面接に。面接をしてくれたのは当時1stAsstだった片岡淳MGR。

面接の結果は夜に電話するとのことだった。夜になり「採用」の返事をもらい、オリエンテーションに来るように言われ、数日後、同じ二子玉川店事務所に出向く。ここで1stインがトレーニング店舗の246用賀店に決まった。「ようこそマクドナルドへ」というビデオを見た後、ユニフォームと白帽(トレーニーハット)をもらった。当時のクルーユニフォームはネクタイなしタイプでポロシャツのような形態でした。ただ、素材は化学繊維のあまりよくないやつで、汗の吸収も悪く、熱に弱い(融ける)ものでした。ズボンもベルトなし。なので更衣は簡単、男子クルーなら30秒もあれば着替えられました。

1stインの当日、お店は既に営業していたので多分朝7〜8時INだったのだろう。お店のMGRに事務所への入り方を聞いて事務所に。着替えを済ませ白帽をかぶって厨房へ。手の洗い方などを教えてもらった後、まずはケーキのトレーニング。ディスペンサーを使ってケーキを焼くわけだが、最初のうちは失敗したものの、難しい作業ではない。2時間ほどでポジションを任されるようになり、同じ白帽の人にトレーニングしたほどであった。だんだんとケーキをターンする度に快感を覚えるようになる。これなら何とかやっていけそうだ。

同じ白帽(この人は246用賀の白帽)の人が何やら怒鳴られている。が、そこにトレーナーらしき人がやってきて「何でそんなに怒るんだ、お前も最初は白帽だっただろう」と一喝。この言葉はこの後も忘れることがなかった。

クルートレーニングをしていると中には物覚えの悪いクルーがいる。イライラしてくるものだ。その時にはこの言葉を思い出すことで根気よく教えることが出来た。逆に初めての仕事に挑戦するときに、思うようにいかなくてもこの言葉を思い出して、ねばり強くやり遂げることも出来る。最初から出来る人なんていないんだ。

その日はブレックファーストが終了する11時でUPした。

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2ndインからは二子玉川店でオープンのトレーニング。この時トレーニングしてくれたのが当時の店長やMMGRというのが厳しい人で、怒鳴られながら泣きそうになってオープンしていたのを覚えている。ちなみに当時のBFメニューは、ケーキ、スクランブル、エッグマフィンにフィレオフィッシュにハッシュポテト、パイ。いや、パイはなかったかもしれない。今に比べると品目ははるかに少なかった。

何とか他店舗トレーニング中に白帽がとれ、クルーハットをもらった。この時の感動は未だに忘れてはいない。

GOを数日後に控えた日、まだ工事中に店舗に男子クルーが数人呼ばれ、何かの作業をしたのを覚えている。思ったよりも店舗の建物が大きいなあ、と感じた。駐車場にはちょっとした異臭が。聞けば、浄化槽が出来たばかりでバクテリアが繁殖しておらず、そのせいで臭うのだそうだ。この臭いは数週間するとなくなっていた。

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GO当日はオープンシフトだった。7時オープンだったので多分5時半INだったであろう。店長を初め、偉そうな人たちが数人いた。社員達は緊張しているが、クルーはヘルプも含めそんなに緊迫感はない。オープン作業は順調に進んだ。6時55分、「オープンするぞ、いいか?」と店長。「大丈夫です」とみんなが叫び、1985年8月14日、用賀インター店はGOを迎えた。

500号店というメモリアル店舗であったためGO当初はヘルプのMGR、クルーでごった返していた。どのクルーが自店舗クルーなのかも見分けが付かないほどだ。ただ、当時はお店によってクルーユニフォームの色が異なっていたりしたので、246用賀のクルーは青、自店舗は赤と複数の制服のクルーが厨房にいるという光景が見られた。

GO後1ヶ月もたつとクルーのスキルも向上し、他店舗ヘルプもいなくなった。SW-Tも数名が任命された。

私は夏休み中はずっとオープンクルー。この夏休みは高校の秋の学園祭で公開するする映画の助監督をやっていたこともあり、朝はマック、昼から夕方に撮影、夜は練習場というハードなスケジュールであった。そんなこともあり、通常メニューのトレーニングを受けたのは夏休みが終わった9月に入ってからだった。チェンジオーバーまではやっていたので、まったく出来ないわけではなかったのでトレーニングはスムーズに進んだのを覚えている。

当時のクルーやMGRトレーニングはスパルタ、体育会式である。「ばかやろう!」とか「使えねえな、ったくよお」という言葉はもとより、手や足が出てくるMGRも珍しくはなかった。グリルトレーニング中にターンがうまくいかず、グリルにミートのカスが散乱してしまったときに「何だ、これ、きったねえなあ、ああ?」と怖い目で睨まれて怒られたり、オーダーの入れ方の悪いPCは蹴られたり、とこうゆうことは日常茶飯事であった。

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学園祭で上映した自主作成映画「レジスタンス」は「外苑大賞」という学園祭の企画の中で最高の賞をとった。一般来校者の投票による結果で2位との差は2票、3位とも3票差程度の接戦だった。後夜祭でその結果が発表され、助監督だった私は生まれて初めて胴上げされた。バイト、映画作成とかなりきつい夏であったが、この大賞獲得で報われた気がした。また、クラスが一つになってやり遂げた、という達成感はこの上ないものであった。

「酒も飲んでないのに、みんな酔っぱらったように朝まで話し続けた。そう、僕たちは勝利に酔っていたのだ」
とあるサッカーマンガに出てくる台詞である。後夜祭終了後、教室に戻って先生に「もう帰れ!」と言われても僕たちは苦労話を語ったりみんなで写真を撮ったりした。生まれて初めて友達と勝利に酔った夜かもしれない。

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練習場とのバイト掛け持ちは続いた。練習場が定休日の水曜日以外は20時にUPし玉拾いに向かう日々が続いた。そんなわけでスケジュール貢献度は高くなかったが、ある日、この掛け持ちの非効率さに気がつき、練習場のバイトは辞めることにした。かなり従業員の方やレッスンプロの人には可愛がって頂いていたのでちょっと心残りではあった。おそらく秋も深まった時のことであったと思う。

練習場のバイトを始めたのも、高校の友達にゴルフをやらないか、と誘われたからである。玉拾いは閉店後に行うが、打席が空いていればボールは打ち放題なのである。なので暇なときは閉店の1時間前くらいに行って練習をした。時々レッスンプロが指導してくれるので、最後の方はドライバーでまっすぐ飛ぶようになったのを覚えている。暑い日はジュースも出してくれたし、金銭面を除いた待遇的には良いものだったのだが・・・。

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GO当初からいるクルーのスキルは非常に高かった。店長が非常に厳しい人だったということもあるが、モラル、オペレーションスキルともかなりのレベルであったと思う。私もターンレイの面白さを覚えて休日ピークをこなした。ミスをすると厳しく叱責されることが多い。自分がされるのもいやだが、他人がされているのを見ているのもいやなものである。そんなせいか分からないが、他のポジションのフォローや、スキルの足りないクルーへのフォローなどは自然に、かつかなり高いレベルで行われていたと思う。まさに厨房内はオペレーションチームのチームワークで稼働していたことになる。

何故かカウンターもやらされた。前述の通り、万が一学校の先生が来店した場合はまずいのであるが、この時はそんなことはまったく考えなかった。練習場のカウンター業務をやっていたせいか、接客には抵抗はなかった。ただ、サンデーをうまく作れるようになるまでには時間がかかった。

カウンターに男子クルーを入れると刺激になるようで、女子クルーも活性化する。特に普段威張っている男子クルーをトレーニングでカウンターに入れると女子クルー達が寄ってたかってからかったりする。男子クルーも慣れない仕事のため普段の威勢はない。このようなローテーションはかなり効果的だ。

正月を乗り切り、春になりお店は軌道にのっていた。クルーパフォーマンスの際には、3年生になったら受験勉強専念のため退職する、と明言していたため、Tr候補になることはなかった。

当時はプロモーションなども頻繁には行われず、スクラッチカードやグッズプレゼント程度のプロモーションが年に数回行われる程度であった。特に「ホップステップマクドナルド」カードのプロモーションは好評。クイズ形式のスクラッチカードで、最高商品はナゲットの9個入り。問題も図書館に行って百科事典などを調べれば、たいてい正解を選ぶことが出来た。

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最初の卒業生を送り出した3月、店長が交代した。

本当は3月末で私も退職するはずだったが、なんだかんだと慰留され、結局GWまで働いて退職した。あとから気がついたのだが、実は休職扱いになっていたのである。

おおげさなラストインセレモニーもなく、クルーノートにちょっとメッセージを残しただけでお店を後にした。多分、またこの店で働くことになるのではないか、そんな予感がしていたからかもしれない。



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