ロ
病
鬱
銃と太鼓と太鼓と銃で、
フラー!フラー!
あなたは私を殺したも同然
 なんでまた、一体斎藤×月岡か?
 このカップリングのサイトは現在二つしかありません。その一つは、うちであります。
御覧の皆さんは、至極当然の疑問を抱いていらっしゃる事だろうと思います。
 ここではなぜ斎藤×月岡で、他のカップリングではないのか、斎×月における美点
や作者のゆがんだ愛などを、独善的視点において解説したいと思います。事によると、
斎×左や斎×剣の方には多少不都合な記述もあるやも知れませんが、よしそう感じ
ようと、胸におさめておける方のみ前へお進み下さい。
 感性の違いは仕方のないことです。
 本来蛇足であるのかもしれませんが、「なぜ斎×左でないの?」「斎×剣なら分かる
けど…との数々の問いをぶつけられ、すりへらしてきた身ですので、参考までに。愛だ
けを支えに、胸を張ってばかりもいられないこともあるのです(笑)。
        「孤島の鬼」という乱歩の最高傑作があります。詳しくは申せませんが、
      悪夢より、凄絶な片恋をえがいて切ない話であります。
      「道夫は最後の息を引き取るまぎわまで、父の名も、母の名も呼ばず、ただ
      あなた様のお手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候」
 この結びの文章で、叶わぬ恋こそが至上である、と刷り込まれてしまった。その後、
るろ剣を知り、斎藤に惚れて理想のかたち、サディスティックな片恋をやらせてみたく
なったわけです。惚れたはれたの仕儀じゃない、表立ってはコミュニケーションすら成
立してない殺伐系やおいというのを。

 この場合、斎×剣や斎×左ではうまくない。なにより剣心や左之助のキャラクターに、
それを許さないものがあります。おびえる剣心もイヤだし、(震える花のように…笑)虐待
される左之助なんて似合いません。彼らが輝くシチュエーションは他にある。
 「一方的に〜される」という姿勢がそもかなしい。しかし、ここに世にも「かわいそう」な
境遇がぴったりはまって、似つかわしい死にかけの文鳥みたいなキャラが登場するので
す。それが月岡であります。
 絶対そう、というのではなく、私にとってそうであればよろしいので。左之助と月岡、二
人は赤報隊時代ツートップであったと思う。一方は陽として、一方は陰として。それなら
ば、月岡のファンがいるとしたら、それはただの子供への愛情ではありえない、昏い肉
欲のそれではないか。左之助の場合と違い、その執着は嗜虐の色を帯びるのではない
だろうか。
 真正のサディストにとり、猫にカツブシ的存在ではあるまいか。だからこそ、そうでない
大多数の隊士からはうとまれてきたのだし、本人もわけがわからず、悁介な性格をつよ
めてきたのだと思う。そしてサディストは、正確に獲物の匂いをかぎつける。
 壺屋丹波において、斎×月の根拠は以上の理由によります。ひと目ぼれでもなんでも
ありゃしません。おそばの好きな、多分に殺人淫楽の気のある二重生活者のサディスト
が、狩る獲物は日なたを歩く人間であるはずがない。極上の、日陰者でなくてはならぬ
のであります。
 恋愛でもはじめようというのなら、話は別ですが。
説
序
論
岡
月
×
藤
斎
り
祈
の
へ
症
好
嗜
人
殺
 斎藤のリビドーは、だいぶ人を斬ることとごっちゃになっている。斬り合いこそが快楽
であり、実際のセックスは、ただの肉体の貧しい一機能に限定された満足に過ぎない
というわけです。その意味では、精神主義の人といってよろしかろう。 
 斬り合いという、最高の悦楽にアドレナリンぶっ飛んだあとで、何とか日常へ回帰する
ためのスプリングボード、それが斎藤にとってのセックスではないか。あくまでも、うちの
場合であり、月岡との場合でありますが。前述の、剣心や左之助ではうまくないのはこ

こでして、彼らではどうしてもこの柵をこえてしまう。情事以上の、恋愛やそれすら越え
た人間的なつながりにまで発展してしまう恐れがあります。彼らの向日性ゆえに。

 基本的に剣心はタナトス志向ではありますが、少なくも人とのかかわりを持とうとする、
(あるいはそのふりができる)点において、内向性とは申せません。左之助しかり。道は
違えど、「その時を生きている」「生きようとしている」姿勢は強さ以上に、斎藤の敬意を
払うところであろうと思うのです。それは愛への移行をうながす。
 道具と人ではない、人と人になってしまうのです。それでは困る。ワタクシ、愛は要りま
せんのです(笑)。恋だけで結構でございます。その恋すら、存在を許せない切なさに身
を焼く痛み、その果ての甘さこそ身上でございます。一抹でよろしいのです。
 かすかな、あるかなきかのそれであればこそ。快楽漸減の法則を、私は信じておりま
す。そのための斎藤と月岡の組み合わせであるのです。敬意も、相互理解もゼロのとこ
ろからはじめて、一体どこまでゆけるのか。
 いずれにしろ、一ミリの前進あるいは後退も、かすかなゆえに、そこらの修羅場をしのぐ
ようでありたい。

 「私は斎藤×月岡をやる。そして甘々ではない。」と宣言してしまった感のある前述で
すが、ここで甘々礼賛をひとつ。
 私だって甘々は好きです。できれば甘さにむせび、おぼれて喉が痛くなるまで食らっ
てみたい。私とて一個の女子ですから、甘々に身を投じる誘惑に時折抗しきれない。
 甘さにも、種類があります。それならば月岡に猫耳猫シッポを生やし、斎藤をただの
猫好きバカオヤジ(変態入り)にして、臆面もなく可愛がるさまを書けば気が済むのでしょ
うか。
 断じて否。断じて否であります。(ここら辺、声涙ともに下るような調子で)
 そのニーズを否定はしないが、私個人で言うと、そのような斎藤の姿に慙愧の念を禁じ
得ない。「おいたわしや…」であります。私の愛する甘々は別にある。そして、それを愛す
るがゆえに、それが簡単に手に入るということに我慢できない、という事実もまたあるの
です。因果な性分だとは思う。
 つまりは、ゴーモンかゴーカンが読みたいんだと、お察し下さい。屈辱と痛み、傷つけら
れるものの悲哀が時に、やるせなく甘くなる。そんなまちがいが、千も万もの逢引の夜に、
一度だけでもあったなら。
 それは一度ゆえの許された甘さであります。
礼
賛
々
甘
物
獲
な
雅
優
覧
笑
遊
嬉
戻
る
へ
亭
猫
黒
 迫害されてなんぼのキャラ、津南。
 テレビの動物もので、肉食獣の捕食シーンを見ましたが、チーターか何かがインパラ
をくわえて首を振った。ひとひねりで、インパラは地面に叩きつけられた。その瞬間の、
翻弄されるインパラの肢。なすすべもなく宙に舞ったほそい四肢。
 あまりにもかなしく、どうしようもない無力の象徴、振りまわされ、人形じみて見えた
それが、妙に目に焼きついたが、あとでエロティックだったなと思った。
 アフリカの自然を見て、萌えてりゃあ世話はないんですが(笑)このことは私にとって
おそらく重要なモチーフです。無力な獲物と、無力さゆえに、座して圧倒的な力を誘い
こむつよさ。一方的な受難というのは、貴種めいたイメージを喚起する、ということも忘
れてはなりません。ここらへんを追及すると、リスカや拒食症につながっていってしまう
ので多くは言いませんが、まあとにかく、無力なさまが私は好き。というか萌える。

 ですからプライドの高いキャラが、奇禍にあい、イヤイヤ無力にさせられる、というシ
チュエーションが数あるやおい道の中でも一番ぴったりくるね。それも、暴力によって
身体的に、なんぞというのは甘い。相手が視界に入るだけで、正常な判断をうしない、
あるいは全身棒をのんだように固くなり、顔色をうしない、目の焦点はどこかへいって
しまう、というようでなくてはならぬ。動物でいうと「耳ねちゃってる」状態。セクシーなの
は魂への侵食です。身体へのそれよりも。よって、当サイトでは、「ヘビに睨まれたカエ
ル」様をもって受のありようの最上となすものであります。
 …だから、月岡受なんですが…こういう剣心やこういう左之助って…私はイヤ…。
者
難
受
的
対
絶
ム
ズ
イ
デ
サ
的
書
科
教
 怯える様良し。
 しかし、あくまでそれは隠しとおされねばなりません。怯える自分への苛立ち、焦り、
あるいは怯えをつきぬけた虚無とあきらめ、すてばちさ、は相手に見抜かれていようと
も、切れそうな最後の一本の糸の意地、それだけは死守しなくてはなりません。
 ましてや、めざめてしまっては絶対にならない。「してして君」であってはならないので
す。まあ想像もつきませんが…ここだけの話、「してして君」とはサディストの性向に少
しでも訴えるものがあるのでしょうか?解りません。好みはそれぞれでしょうが…。

 ワタクシの考える理想的調教とは、(素人なりに)まず素材はまっさらのノンケ、精神
的打擲を中心にすることを考えて、体育会系より文系を選びます。ひそかにおのれの
力弱さにコンプレックスを抱き、それゆえ感受性のほうは異様に研ぎ澄まされていれば
なお良し。神経質で、気分のとがりがちな癇性の、愛嬌や明るさなんぞと大衆じみたも
のはいりません。プライドばかりが高ければなお結構。
 そして、すこしでも受が調教に応える兆候(韻踏んでら)をみせようものなら、ただちに
飽きて、情容赦なく投げ捨てなくてはなりません。そこまでが調教なのです。家へ帰るま
でが遠足であるように、捨てるまでが調教なのです。さすがに話が終わってしまうので、
そこまではやりませんが、Sのココロで考えると、ヨロコブ獲物なんてくそおもしろくもな
いんじゃないでしょうか。それは獲物がわの快楽に奉仕しているに過ぎないのですから。
あくまでも、怯えと怒りの入り混じった目で見られ、それを踏みにじる快感、獲物を崖っ
ぷちへむけて追いつめ、だんだんに手元の罠をしぼってゆく心地よさ。獲物は獲物です。
それ以上のものであってはならない。

 そのためにある程度、力量や立場に高低があることも必要です。差ではなく、高低が。
同じ剣を取る立場であってみれば、ようするに力をもってたたかう同士であるならば、力
の差はあっても、立場に高低はない。津南はたたかわない人種です。
 気性が強くとも、それは死んだ時間を守るための意地であり、自己の内部へ、虚無とあ
きらめを固めるためのうつわであり、けっして外へむけて、なにかをたたかいとる種類の
力ではないのです。内務省の爆破だって、あれは自分の内でだけたたかっていたにすぎ
ない。(だからやりたくないです、あの設定では…かっこわるいんだもん…)
 斎藤の気性を考えれば、それが同じ男にすら見えないのは仕方がないでしょう。いきお
い相手の人間性など尊重するわけがない。喰っていい対象にしか見えないと思う。
 上で述べた切れそうな最後の一本の糸、それに指を掛けて、切ろうか切るまいか、いつ
切るか、思案するのもまた愉しかりけり、というところです。

 技術を持ったテロリスト。それも火薬関係のみ。戦闘能力はなし。基本的に素人。
 原作での津南の設定に、あえて当サイトでは触れずに来ました。テロリズムが青臭
い、それも原作者の描き方によってますます格好悪さが強調され…というのは置いと
いて、はたして彼の絶望を表すのに、爆弾によるテロという形が適当でありやなしや。
 つらつら考うるに、ここでのテロというのはいわゆる子供の癇癪であります。相手の巨
きさに正面切って戦うこともならず、さりとて内から巧妙な白蟻のように組織を崩すほど
の頭もない。
 しかしそれ以前に、癇癪、怒りという形が、真実彼にふさわしいものでありましょうか。
 唯一心を寄せていた(と思われる)存在を殺され、だから憎む、直線的に恨みを募らせ,
まっすぐ見込みのない破壊めざしてただ進んでゆく、というのではいかにも弱すぎる。な
ぜなら、あの時隊長とともに死んだのは世界であるからです。壊れたのは時間と、子供
にとっての世界そのものであったからです。政府を憎んで、行動に出るといった形では
絶望がたりない。感情をつのらせる、ということは充分前向きなのです。
 むしろテロなどの、積極果敢な方法ではありえない。世界に対する絶望は、拒食症な
どの緩慢な自殺や無差別殺人によってであるべきです。このうち殺人は、それでもなお、
世界とのコミュニケーションを回復したいと願う絶望的な方法でのあがき、といえますの
で、とりあえずは外す。のこりはいわゆる「ゆるやかな自殺」です。
 すべてがどうでもよく―――楽しいことも悲しいことも、すでに自分にとっては終わって
しまっている。明日はこない。時の経つこと、そのものが生への肯定であるからです。政
府も維新志士のなれの果ても、自分が過去より離れて自分の足で立つことも、すべて
意味をなくしてしまわなければならぬ。世界が壊れるとはそういうことです。そのためか
一見平穏な日常が訪れさえする。
 ですから日常においても、情動は死んでいなくてはならぬ。よし周囲へ感情が動くに
せよ、それが同情や共感や、その他のプラスの感情であるにせよ、何かに対する怒り
の感情だけは二度とありません。それが一番向けられてしかるべき、十年前の事件の
時に完膚なきまでに潰されているのですから。何かに怒り、憤る、ということ自体にす
でに絶望しているのですから。こまごました小さな苛立ちや嫌悪はあるかも知れぬ。し
かし何ものかに怒り、それを変えようと望む心―――人をして行動を起こさしめる大い
なる感情までは高まらない。
 それを掘り起こし、生き返らせるには、一度完全に殺さなくてはなりません。ショック
療法でそこまで追い込み、たとえ凌辱という手段をとるにせよ、津南の顔を掴んで世界
へ向かせ、他者の存在に気づかせる、それは意識しようとしまいと、はからずも斎藤の
役目なのです。
テ
ル