豺 狼 5 蒼紫の独白

緋向子


「最低の男だぞ、あれは」
斎藤の執務室に、俺は斎藤と二人でいた。俺は時々こいつの任務に協力することがある。
今回も俺はその関係で東京に来ていた。
今、斎藤が言っている最低の男というのは克浩のことだ。
克浩が京都に来た際、抜刀斎の紹介で葵屋に滞在し、それ以来俺とあいつは関係を持って
いる。斎藤はそのことを知った上でこんなことを言っている。
「俺だけじゃない。あいつは相楽や抜刀斎まで巻き込んでいる」
あいつの少し苛立ち怒ったような顔を、俺は黙って眺めた。こいつは最低なことを口にしている
自分を恥じ、そのことで傷付いている。こいつがこんなことを俺に向かって言っているのは、俺
に対する思いやりからなのだった。こいつは根は悪い奴じゃない。
彼は俺を多分に認めているところがあって、俺自身もこいつに感化されているところがある。昔
俺が道を失い、闇雲にどうしていいかわからずうろついていたところを、斎藤が道を開く手がか
りの一端を俺に指し示してくれたのだった。俺はこいつにある種の敬意さえ払っている。
「知っている」俺は言った。相楽や斎藤のことは知らないが、俺は抜刀斎とあいつの間にある妙
な雰囲気はすでにかぎとっていた。
「一目見て、恐ろしくやっかいそうな男だと思った」
斎藤は黙って俺を見た。
「だが、お前は信じないだろうが、あいつは恐ろしく不器用にできているんだ」
俺達は黙った。斎藤が気を取り直したように、煙草に火を付ける。
「俺には、わからん」俺を見ずに、煙草の煙を吐き出すと斎藤が言った。
そしてそれから俺達は、仕事の話に戻った。そして俺と斎藤のあいだに、二度と克浩のことが
話題にあがることはなかった。

俺はそれから抜刀斎を捕まえると斎藤に聞いた話を持ち出し、そのことを話せと迫った。俺は
ただ単に事実が知りたかっただけだ。
抜刀斎はため息をつくと、相楽達との関わりを俺に話し始める。
抜刀斎は、あれで克浩が可愛いらしい。彼は、克浩を見ていると若いころの自分を思い出すと
言った。

斎藤は俺を誤解している。俺は斎藤のようなナイーブさを持たない。俺は記憶がないほどの昔
から、謀略という観念にさらされ、人間の闇の部分を当然のこととして見てきたのだ。俺はその
中で、どんな人間も何かしら闇を抱えて生きているという事を学んだ。操のような人間ですらそれ
は例外ではない。そして俺達の仕事は、その見えない闇に付け込む事でもあった。

たしかに克浩は、斎藤が言うようにとんでもない男だ。だが彼は迷い、どこへ行ってよいかわから
ずにただ闇雲に歩きまわっている猫のような存在でしかない。自分でもどうしてよいのかわからな
いんだ、あいつは。
手負いの獣のような俺と、隠れている獣に脅えているようなあいつ。あいつも俺も、どこかが修復
不可能なほど壊れてしまっている。
俺はあいつとのあいだに、安らぎさえ見いだしている。もしかしたらそれは一時的なものなのかも
しれないし、俺はこれを何かと取り違えているのかもしれない。
だが、それがどうだというのだろう?たとえかりそめだったとしても、それのどこが悪いというのだ?
明日にはだれだってどうなるかわからない。見えもしない未来のことや過ぎ去ってしまった過去
を、俺は気にとめない。
俺は自分の馬鹿さ加減から過去に本当に大切なものを失った。俺はもうそんなことは真っ平だ
った。この世には取り返しのつかないことが多すぎる。俺は余計なものに振り回されたくはない。
もしかしたら俺はただすべてを投げ出しているだけなのかもしれない。斎藤がこれを聞いたらき
っとそう言い出すことだろう。だけれど俺は俺のやりたいようにやる。俺はそういう進みかたしか、
できない。

そしてあのとき、俺は克浩に付き合って下諏訪に出かけていった。あいつの隊長の墓参りだった。
俺達はもとより口数が多い方ではない。しかしあの道中、あいつは熱に浮かれたように何かをべ
らべらと喋っていた。たわいのない話ばかりだった。そしてその中に、あいつの隊長とやらは全く
でてこない。以前から、こいつはそのことになると口をつぐんでしまう。
この旅にでる前、あいつは口を滑らせて、隊長の墓参りに行くのは今回が初めてだと言った。な
ぜ今まで行かなかったという俺の問いにあいつはしまったという顔をして黙り込んだ。
「左之と約束したんだ。彼の分も隊長の墓に参って来るって」あいつは、呟くようにそう言った。
俺達は、ただ話題を変えた。そして俺もそれ以上は詮索しなかった。
その隊長の墓が見えてくると、克浩は興奮し、錯乱し始めた。俺がそれを止めてきつく抱きしめ
ると、子供のように泣き出し始める。
泣き喚くのすらもどかしい様子のあいつは痛々しくて、哀しくて、俺はどうすればいいのだろうと
思う。
「大丈夫だ、俺が、そばにいるから。お前が望む限り、俺は、お前のそばにいる」
泣きじゃくるあいつを腕に抱きながら、俺はもしかすると本当にずっとこいつのそばにいるのかも
しれないと思う。
そのときなぜか俺の脳裏に浮かんだのは、斎藤が不覚に見せたあいつの傷付いた眼だった。

`・・・なあ、斎藤。俺達は、みんな手負いの獣なんだよ`

「愛しているよ、克浩、お前を愛している・・・」
その言葉は自然に俺の口からこぼれ落ち・・・俺はそれに呆然とした。あいつは顔を俺の胸に
押し付けたまま、子供のように泣いている。
俺はあいつの体のしっかりとした重みと体温を感じながら、なぜか自分の言葉に安堵していた。