豺 狼 3

緋向子



前回、左之とあまり友好的ではない別れ方をしてから、俺は彼と顔を合わせてはいない。
当然だ。彼が二度と俺の所へ来ることはないだろう。
俺が最期に左之と顔を合わせ、そしてそれから三日後に俺は彼が訪ねてこないことにため
息をつき、一週間後には彼の不在に泣いた。彼が堪らなく恋しく、俺は夜毎、酒で孤独を
紛らわせた。だが俺は彼を訪ねては行かなかった。もしかしたら彼の方に、俺がせめて謝り
に奴を訪ねていくのを期待する気持もまだほんの少しはあったのかも知れないが、俺はそう
しなかった。
俺は自分が何をやったのか、言われなくたってわかっている。俺は酷いことをして、左之を
恐ろしく傷付けた。左之に隠れ、彼が良く知っている二人の男と床を共にした。・・・一人は
彼の天敵のような男で、もうひとりは彼の親友だった。左之が全く知らない相手ならともかく、
こんな酷いことは我ながら無いと思う。
左之が俺と彼の親友が床を共にしている現場を押さえたとき、彼は俺を殴ることさえしなかっ
た。彼は俺を抱きしめて嗚咽すると、俺をそこに残し、黙ってどこかへ去っていった。後にな
ってたまたま道で会った左之の舎弟から、その夜左之が泥酔して派手な喧嘩をやらかした
挙げ句、五人ほどいたその相手を叩きのめして半殺しにし、留置所に放り込まれたと聞いた。
次の日抜刀斎が斎藤から連絡を受けて警察署に出向き彼の身元保証人になることを申し出
たが、左之はそれを拒んだらしい。
それを聞いて、俺は自分自身に吐気がした。俺は自分の欲望に流された挙げ句、左之を傷
付け、左之と抜刀斎、そして俺達の友情さえ滅茶苦茶にしてしまった。

・・・何故、俺はあんなことをしてしまったのだろう?俺はこんなに左之を愛しているのに?

彼との友情がご破算になってしまうのはひどく悲しかったが、だがその一方でこれで良いのかも
しれないとも俺は思っていた。そう、左之のために・・・俺のこの性癖が、そう簡単に改まるとは
思えなかった。実を言うと、直すつもりがない。いや、正確に言うと、直そうという気持が湧いて
来ないんだ。どうしてかは、俺自身にもわからない。そう、あれほど左之を傷付けた後でも。・・・
そのことを考えると、胸が痛い。俺は左之から、離れていた方がいいのかも知れない。そうする
のは辛いけど、その反面、俺はそれでどこかほっとしていた。そうすれば左之を傷付けずに済
む。正直に言う。彼が傷付いた姿を見ると気持は痛むものの、罪悪感は湧いてこない。
ただ俺は何においてもこういう風だというのではなく、普段は良い人間といわないにしろ闇雲に
滅茶苦茶なことはしたりはしない。ただ何か情が絡んだことになると、俺は自分を止められなく
なる。
なぜかは分からない。わざとじゃない。でも俺の相手にとってはただのいい迷惑だ。それが分か
っていても俺はどうすることもできない。
・・・酷い奴だと、罵りたければ勝手にしてくれ。これが俺だ。俺は人間らしい感情など持っては
いないのかもしれない。でもだからこそ、俺は今まで、他人と情が絡んだ関係などつくりはしない
でやってきたのだ。
俺はこういう自分を他人に理解してもらおうとは思わない。だから俺のことはほおっておいてくれ。
俺はあんたたちみたいになれない。受け入れられようとも思わない。俺は期待しない代わりに
他人の期待にも答えない。そうやって、俺は今までやってきたのだった。

わかっている。左之について俺は言い訳する気なんかない。彼が俺を求めたとき、俺は彼を拒
むこともできた筈だったが俺はそれをしなかった。俺は自分の意思でそうした。彼が望むような
ことを自分ができないと知りながら彼を受け入れ、彼を酷い目にあわせた。取り返しのつかない
ことを俺はしてしまった。
ああ、左之。俺達はただの友人でいるべきだったんだよ。俺達が肉体的に愛し合うようになる前、
俺がそう、望んだように・・・そうすれば、俺はお前の涙を見ずに済んだだろうに。俺がお前の心
を切り裂くこともなかった。そう思いながらも俺はあのとき、お前が俺に手を伸ばしたとき、俺は
金縛りにあったようにそれから逃げることができなかった。
勝手な言い草だとは、わかっている。だけど、左之。俺はお前のためと言えど、自分を矯正する
ことなんかできそうにないんだ。
だけどこうなってさえ、お前は俺にとって、この世で一番大切な存在なんだよ、左之。愛している、
誰よりも。

そうやって、しばらく日々がすぎた頃だった。俺に仕事で京都へ行かないかという話が持ち上が
り、俺は、それに飛び付いた。暫く東京を離れ、左之から距離を置くということは、逆に俺を慰めた。

俺は出発前に必要な用事をあらかた済ませてから、神谷道場に向かった。抜刀斎に、暫く東京
を離れるということを伝えておきたかったからだ。

抜刀斎。

彼と俺の間には、欲望しかなかった。恋情さえも焼きつくしてしまいそうな、激しく、淫靡な炎だっ
た。それは溶けた飴みたいに俺の感覚にべっとりと張り付き、俺は一生、それを忘れることはな
いだろう。俺の体は、彼が触れた微かな指先の感触まで、死ぬまでその感覚を拭い去ることが
できない。これは、左之とのかかわり合いとは、全く別なものだった。
俺が彼を訪れたとき、彼は裏庭で薪割りをしていた。俺が彼の背後から近づくと、彼はすぐにそ
の気配に気が付き、振り向いた。俺を見て微笑む。
「精がでるな、抜刀斎」
「ああ、克浩。久しぶりでござるな。元気だったか?」
彼はそういって、片手で額の汗を拭った。
「なんとかやっているよ。あんたは?」
「まあ、どうにかなっている。」
俺達は静かに笑いあった。俺は彼と俺の間に横たわっている左之の存在を痛いほど感じた。そ
れは彼の頬に無惨につけられている十字傷のように、俺達の間から消え去ることはないだろう。
彼は家へ上がっていくようすすめたが、俺はあまり時間がないと行って断った。
「ちょっと挨拶に来たんだよ。仕事でしばらく京都へ行くことになったんだ」
「それは寂しくなるでござるな」
俺は押し黙ってしまった。なんか、俺は複雑な気持だった。
「おお、そうだ。京都での滞在先は決まっているでござるか?」急に思いついたように、彼が明るく
言った。
「いや、まだだけど」
「良かったら、葵屋へ行くでござる。京都で拙者達が世話になったところだ。そこにいる人達の人
柄が伝わってくるような、とても居心地の良いところでござるよ」
そう言って彼は俺のために彼らへ紹介文を書くと申し出てくれた。
「じゃあ、俺、行くよ」
そう言いながら彼は俺に少し寂しそうに微笑みながら近づくと、俺の眼を覗き込んだ。
「何故お主は、左之の大事な奴だったのだろうな」
「で、あんたは左之の親友だった」
・・・賭けてもいい。彼は俺と同じことを考えている。そうだったからこそ、あんな風に、他にない
ほど楽しかったのではなかったか?彼は俺と同類なのだと思う。俺と彼は、きっと心のどこかの
部分が似たように壊れている。俺は人と関わることを拒むことで他人を拒否し、彼は誰にでも
優しく微笑み自分を見せないことで他の連中から遠く離れている。
「世の中、うまくできてはいない」
「できすぎているよ。逆に」
俺達は黙ってお互いを見つめ会った。あいつは慈しむような、そして少し哀しさを含んだ眼で
俺を見つめる。
俺達はわかっている。こいつと俺が、心のどこか深いところで、お互いを絡め捕り、融け合うこと
はない。本当の心はどこか見えないところに隠したまま、俺達はお互いを抱きしめ、喰らいあう。
こいつと俺はどこかそういうところが似ている。このかかわり合いは恋と似てはいるが、それとは
違う。遊女との駆け引きともどこか似てはいるがそれとも違う。毒を少量含んだ蜜のようで、俺達
は少しずつ、甘さに酔いしれながらそれを啜る。それは毒を含んでいるために、香辛料を含ん
だ菓子のようで複雑で深みのある味をしている。幼い舌は、その味わいを理解することなどでき
ないだろう。だが、たくさん、喰らってはいけない。そんなことをすると、その毒におかされて死ん
でしまうかも知れない。
左之も斎藤も、それらを理解はしないだろう。だからあいつらは、俺を殴るしかなかった。そして
だから抜刀斎は、俺に対して怒りを持たなかった。
俺はわかっていて、左之にその毒を喰らわせた。あいつを追い込み、傷付けた。そうなるだろう
と、予想さえしていながら俺は彼を受け入れ、その毒を含んだ甘いものを彼に啜らせた。そして
その毒は彼を蝕み、彼をあそこまで追い込んだ。

そう、彼らは俺達を理解できない。彼らは、向こう側にいる人間だからだ。

「なあ、克浩」抜刀斎は俺を見つめながら言った。
「時々、こんなことを思うことがある。お主と二人で、何もかも捨ててこのままどこかへ逃げてしま
ったらさぞかし愉快だろう、とな。」
俺達はしばらく黙って見つめあい、抜刀斎がその緊張を崩して笑った。
「知らない土地がいいな。誰も俺達を知っているものがいないような場所にさ」俺は言った。こい
つも俺も、そんなことをしない方がいいのだと内心わかっている。抜刀斎も俺がそんなことに同
意しないだろうということをわかった上でそんなことを言っている。
「ああ、だいたいそんなことをしたら、拙者、半年もたたぬうちにお主を斬り殺してしまうだろうが」
抜刀斎はそういって、悪戯っぽく含み笑いをした。
「俺を、あんたが?」
「拙者、こうみえても嫉妬深い性格をしている」
「あんたが相手だったら、それも悪くないという気がするよ」
「だがまずお互い、東京(ここ)でやることがある。そうだろう」抜刀斎がそう言って俺はそれに頷い
た。そう、俺はやりたいことが山ほどある。これが左之からの誘いだったところで俺は首を縦に振
らないのではないか?俺には進むべき道があり、それは俺の前に真っ直ぐ開けていて自分を止
めることができない。そこの場所で俺はひどく自分が自由であるように感じる。魂が空を飛ぶ鳥
みたいに軽く、鳥瞰図のように広く彼方まで視界が開けている。俺はそれを目の前にして突き
進まずにはいられない。俺は絵が描きたいんだ。
「俺達、どちらかが女だったらよかったかもしれない。だったらきっと何に対しても自分を縛ること
無く、二人で笑いながら出ていくこともできたかもしれないのに」俺は言った。
「女も男も、本質的なところでは実はあまり変わらぬものだよ」
彼はそういって俺の手をとってそれを見つめる。
彼と会えなくなるのはきっと寂しいことあろうと、俺は思った。

俺はその足で左之の長屋に向かった。京都に行く前に、彼に一言声をかけておきたかった。俺
はせめて彼に謝っておきたかったんだ。彼の部屋の前に立ち、しばらくじっと戸を見つめると、
疲弊しきった体の中から最後の力を振り絞るようにして彼に声をかけた。
「左之。」
中はしん、としている。物音ひとつしない。俺は彼への文を用意してきていた。しばらく東京を
離れるということと、酷いことしてすまないということが書いてある文だ。彼がいなかったら、それ
を彼の部屋の戸の隙間に差し込んで帰るつもりだった。
「左之、いるんだろ?」
返事はない。俺はしばらくそうやって身動きしないで佇んだ。返事は、返ってこない。
「いろいろ、ごめんな、左之・・・」俺は、沈んだ声で呟いた。
そうやってしばらく俺はそこに微動だにせずに立ち尽くしていたが、返事が返ってくる気配はな
い。俺は目をふせると踵を返した。彼が中で息を圧し殺している気配を背中に感じながら、俺は
そこを去っていった。
途中、橋の上で、俺は彼宛の文を細かく引き裂き、川に流した。

―*―

いろいろあったが、船旅は俺を慰めてくれた。
天気の良い午後にデッキに出て船が波を切り裂く音を聞きながら潮風にあたるのは気持が良か
った。風は冷たく、陽光は暖かい。風に身を委ねながら目を閉じると、船の揺れが俺を俺の知ら
ない感覚に誘ってくれる。繰り返される波の音が、音楽みたいだ。
船の中でできることは限られているせいか、見知らぬもの同士、むやみやたらと話しかけあって
いる。他人が苦手な俺ですら、彼らのその輪の中に取り込まれた感じがする。本当のことを言う
のが面倒だった俺は、京都の友人を訪ねていくのだと適当な話をつくってその中に入っていた。
俺は寂しかったのかもしれない。左之との間に取り返しのつかない亀裂が入って以来、俺の中
に底の知れないような虚ろさが常に付きまとっていた。だがあのすべての記憶が詰まった土地
を離れ、見知らぬ人々の中に身を置いている俺は、あの思い出からすらわが身を遠ざけている
ようで、慰められる気持がしていた。

大阪で船を降り、京都に着くと俺は葵屋へ向かった。抜刀斎の言った通り、とても居心地の良い
空間だ。空間というのは、時としてそこにいる人達に強く作用される。その空間同様、俺はそこ
にいる人達が好きになった。彼らが自分の中に持っている他人への優しい感情に、俺は和まさ
れた。
そう、世の中には酷いことがみちあふれている反面、こんな優しい、穏やかな何かも確かに存
在する。俺は久しぶりにそう思った。俺はおそらく自分で思っているよりも遥かに心がすさんで
いたのだろう。俺は泣きたいような気持でそう思ったんだ。
自分がその酷いものの側にいるということに今まで俺は自分勝手に傷付き、そしてそれにどうし
てよいのかわからずただ一人で蹲っていた。でもこの場所にいると尖っていた気持が嘘みたい
に安らぐんだ。
俺は心から抜刀斎に感謝した。

夏の終りだというのに京都はひどく暑く、日差しは刺すような強烈さを持っていた。東京とは違う
暑さだ。東京のあの暑さはもっと真綿でくるまれたような、どこか圧迫するような苦しさがあるが、
京都のはもっと直截的にその暑さが体の中に差し込んでくる。その日、京都の午後の人通りの
激しい通りをひとりで歩きながら、俺は軽い眩暈を感じていた。
`暑い `
何か紅い靄が俺の頭のなかを覆っているような、妙な感じがする。
俺は立ち止まり、太陽を見上げた。眩しい光が、俺の全身を焼くように降り注ぐ。
太陽というやつは、俺に左之を思い出させる。
左之。
彼は日向みたいで、暖かくて、俺は彼といるのが好きだった。だけどそれは近づきすぎるとあま
りにも激しくて、その炎で俺を燃し尽くしてしまう。
だんだんと、頭のなかの靄がその濃さを増してくる。俺はだんだんと頭が朦朧としてきて、意識
が半分どこかへ入り込んで行きつつあった。どうかなってしまいそうだ。

暑い。なんて暑いんだ。

「おい、大丈夫か?」
俺の前に、黒い影が立っている。俺から太陽を遮り、ゆらゆらと揺れている。
これはいったいなんなのだろう?

左之。ああ、左之が見えない。どこに行ってしまったんだ、左之。

「おい!」
影が何か言っているが、俺はもう何も聞き取れない。
その後のことは良くわからない。ただ覚えているのは、誰かの力強い手が俺の体をつかんで支え
たということだけだ・・・

涼しい風が、俺の体を穏やかに撫でている。俺は目を開けようとするが、俺の体は隅々まで液
状になった鉛が入り込んでいるみたいに、重く、言うことを聞いてくれない。絶え間なく吹く風に、
俺は逆らいたくなくて体を弛緩させた。唇をうっすらと開き、徐々に、なんとか目を開いてみる。
少しぼんやりとした視界に、見なれない天井がうつる。誰かが横たわっている俺の横に座り込
み、俺を団扇で扇いでいる。俺はゆっくりと頭をそちらに向け、その相手を見た。
「気が付いたか。」
蒼紫がその団扇を扇ぐ手を止めると、正座している体をのりだし俺の額にのせてあった濡れた
手拭いをとって水の入った桶にひたし絞った。そしてそれを俺の頬にそっと触れさせる。冷た
くて、気持がいい。
「俺、倒れたのか?」
「ああ、そうだ。」
蒼紫は答えると手拭いを桶のなかにいれた。
「あんたが助けてくれたのか?例を言うよ。」
「礼にはおよばん。」
彼はそう言って、体を起こそうとした俺を手で制した。彼の手は冷たくて、触れられると気持が
良かった。
「少し横になっていろ。落ち着いたら、あとで俥で送らせる。」
「ここはいったい、どこなんだ?」
「茶屋の二階だ。お前はこの前で倒れた。」
俺は自分の着物の帯が解かれているのに気が付いた。気分が楽になるようにと、こいつがやっ
てくれたのだろうか?
俺は彼を見上げた。この暑い日に、一分も崩れた隙を見せない。まるで晩秋の日の最中にいる
ように、汗一つかかず整然とした顔を見せている。その端正な顔にいつもの愛想のない無表情
さを張り付け、俺を静かに見ている。俺は彼が相楽隊長に似ていると思い、そしてすぐさま全然
似ていないと思った。
いったい、彼のどこが隊長に似ているというんだ?似ていない。彼は隊長なんかに似ていない。
俺は隊長を懐かしく思った。隊長。俺はなぜ隊長を恨んだりしたのだろう?なぜ隊長を怖いと思
ったのだ?彼は俺をあんなに愛してくれていたのに。
俺は手を伸ばし、蒼紫の左手をとると、それを俺の頬に触れさせた。彼の手は冷たくて水の匂
いがして、俺は彼の手を好きだと思った。彼は俺がそうしたことに全く動じた様子を見せず、なん
とでもとれる表情で俺を見下ろしている。俺はつかんでいる彼の手を引いた。それに導かれて、
彼が俺の上に身をかがめる。俺は両手を彼の頭に回し、手に少し力を込めて引くと、彼の唇を
俺の上に誘導した。唇が近づき、俺はぼんやりと彼の顔を見、目を閉じた。
「俥を呼ぶ。葵屋まで送らせる。」

俺はひとりでぼんやりと車の振動に揺られながら、彼が俺の誘いを断ったことに憮然とし、少し
傷付いてさえいた。
日差しはかなり柔らかくなり、あの激しさはもうなりをひそめている。
蒼紫は俺のことをすでに葵屋へ連絡を入れていたらしく、俺が葵屋に着くと皆俺を心配そうに
労り、夕餉まで部屋で休んでいるように勧めてくれた。俺の部屋にはすでに床が敷いてあり、
操ちゃんが冷たい水を持ってきてくれた。俺は彼らのその行為に心から礼を言い、微笑んだ。
彼らの態度には商売や俺が抜刀斎の友人だという義理以外に本当に暖かな思いやりがひそ
んでいて、俺は安らかな気持になった。

夕食を部屋まで運ばせようかという申し出を俺は断った。
もうすっかり良くなった体で食事に顔を出したが、蒼紫は姿を見せなかった。家屋にいる気配
がない。誰かに聞いてみようと思ったのだが、何となくそれができなかった。
食事のあと湯を使おうと、廊下を歩いて行くと操ちゃんが縁側で涼んでいる。彼女は俺に気が
付くと俺を見て微笑んだ。俺は彼女に近づいていった。
「となりに来ていいかな?」
「どうぞ。ここの場所は、葵屋の中でもとても涼しいの。夏になると入り込んできた猫がここに陣
取るのよ。」
俺は彼女のとなりに座った。俺はこの年ごろの人間があまり好きではなく、自分から近づいてい
くということをまずしない。だけれど彼女にはその年齢特有の傲慢さ、生臭さというものがない。
この歳で、こうやって明るく笑いながら、彼女は取り返しがつかないほどの痛みを知っている者
の眼をしている。世の中には他人が想像できないものを背負っている人間がいるということをわ
かっている者の眼だった。彼女は他人になんの抵抗も持たず近寄りよく喋るが、決して一線か
ら踏み込んだ領域のことは口にしない。俺は彼女が過去にいったい何を通り抜けてきたのだろ
うと思う。
俺は彼女の側にいるのがいやではなかった。
俺は彼女と対照的な、薫さんのことを思い浮かべた。彼女はとんでもなく無防備だ。抵抗がない
のと無防備なのは似ているようで全く違う。歳は操ちゃんより上でも彼女の中身ははるかに子供
で、俺は以前なぜ抜刀斎が彼女のような女を選んだのか不思議だった。そして彼にそのことを
聞いてみたことがある。彼はこう、答えたんだ。
″薫殿は、拙者の過去などかまわないと言ったんだ。薫殿にとっての拙者は、るろうにの緋村
剣心なのだとね。・・・薫殿は、自分の言っていることを分かって言ったのではない。あれは子供
で、その言葉を、深く理解してそう言ったのではないことを拙者は知っている。だけれどそれは
拙者にとって充分だった。たとえそれらに中身が付随していなくとも、充分だったんだよ″
俺はそのとき彼がそう言ってもそのことを理解できなかった。たかが言葉一つのためにある人間
と添い遂げようと考えるなんて、馬鹿げているとさえ思ったんだ。
だけど今、俺はこう思うんだ。彼はもしかしたら自分の失われた何かの埋め合わせを、彼女とい
ることで行おうとしているんじゃないだろうか。彼女の言った言葉というのは、そのきっかけにし
かすぎないのかもしれない。

・・・そして、俺はどうなんだろう?もし人がそういうかたちで失われた何かを取り戻そうとするのだ
としたら、俺は一体どこで、どうやって、俺自身の損なわれたものを埋め合わそうとしているのだ
ろうか?

余談だけど、俺は彼に薫さんのことを聞いた後に恵さんのことを聞いてみた。彼女こそ、抜刀斎
を手放しで受け入れているように思えたからだ。彼女はいろいろなことを理解できる頭を持った
上でそうしている。なぜ恵さんではいけなかったんだ?
″恵殿は・・・拙者には過ぎた女でござる″彼はそう言って、それ以上何かを語ろうとしなかった。
それからずうっと月日がたって、抜刀斎はとうとう自分の亀裂を押さえきれずに薫さんを道連れに
していくことになる。俺はその彼に会って、涙がでなかった。悲しくなかったのではない。俺は彼
のことを聞いて以来、ずっと胸がつぶれるような思いだった。だけれど彼の顔を見て俺の胸を満
たしたのは、静かな諦念だった。悲しいのに、涙はでてこない。俺はただ、彼が愛しかった。
″大丈夫だよ″俺はそう言って彼を抱きしめた。俺は生き残ることができたけど、彼はそうする
ことができない。これが限界なんだ。
″俺、ずっと、あんたを愛してたよ″俺は言った。
″知っているよ″
″これからもずっとだよ、ずっとずっとあんたを愛してるよ″
彼は俺のその言葉に子供みたいな顔をして笑った。
そしてそのとき俺は、彼が昔言った言葉の意味を理解したのだった。これが恵さんだったら、彼
についていくなんて絶対しなかっただろう。彼女はそういう人間だからだ。彼女は自分を愛した
男に付随させるなんてことはしない。彼女は自分で自分の人生を選びとっていく女だ。自分を
抜刀斎に捧げる代わりに、ふざけないでと言って彼を引っぱたき、縛り上げてでも彼を治療し、
そして一瞬でも生き延びさせようとするだろう。たとえそれが抜刀斎を肉体的にも精神的にも
救うことはもうできないのだと分かっていても。彼女は泣きながらそれをするだろう。抜刀斎に
対しては一筋の涙も見せずに。
彼はあの二人が自分を理解することはないと知っていて、薫さんを選んだのだ。彼女は、分か
らないがゆえに抜刀斎のすべてを受け入れ、そして彼と共に行く。
恵さんは彼を憎み、軽蔑し、そしてそれでも彼を愛しているだろう。彼を罵りながらその言葉に
彼女自身も引き裂かれ、血を流しながらもがくだろう。
そして、抜刀斎はそんなことを望まない。生き残ることを放棄した彼は、敗残者でしかない。そ
の姿を恵さんにさらすことを彼は自尊心から拒んでいる。
彼は自分の限界というものを分かっていたのだろうか。だから彼は薫さんを選んだのかもしれな
い。
そして俺は、それでも彼を愛していた。いや、そうじゃない。そんなんじゃない。彼がどうなって
いようと、俺は彼という存在のすべてを受けとめたかった。あのとき、あの彼を抱きしめた瞬間、
俺は俺と彼が同じ存在であるかのように感じた。そのほかのものすべてがもう、どうでもよかった。
俺は確かに、彼の魂の奥深いところと俺自身を触れ合わせた様な気がする。俺に欠けていた
ものが、やがて来るだろう彼の死によってあの瞬間、取り戻されたのだろうか。俺自身にも分か
らない。だがそうやって俺は生き残ることになる。抜刀斎の死を糧にして、だ。
だが、それは、いまからずっと先の話だ・・・

「体はもう、打丈夫?」操ちゃんが俺に聞いた。
「ああ、すっかり良くなったよ。いろいろありがとう」
「今晩は暑くはなさそうだから、きっとぐっすりと眠れるわよ」
「だといいな」俺は彼女から視線を離した。
「ねえ、蒼紫は帰ってきていないのかな?昼間助けてもらった礼を言いたいんだけど」
「蒼紫様なら、今晩帰ってこないかもしれないわ。用事で出かけているの」彼女は、無邪気な
様子でそう言った。

結局あれから俺は、蒼紫を一度も見掛ける事なく床についた。灯りを消し、暗闇のなか夜具に
横たわり、天井を闇の色を通して見つめる。体は気だるいのに、目が冴えて眠ることができない。
なぜだかわからないが、蒼紫のことを考えると隊長のことが頭に思い浮かぶ。どうしてだろう。あ
の二人は似てなんかいない。顔立ちも体型も雰囲気も性格も、何もかもすべて違う。無理に何
かを見つけ出そうとすれば、二人とも見目良いというだけだ。そして隊長は幼かった俺にあの
ことを無理強いし・・・蒼紫は今の俺にそれを拒んだのだった。

「入って、いいか」
いきなり外から声が聞こえ、俺は驚いて身を起こした。蒼紫の声だ。
「どうぞ」
俺がそう答えると音もなく戸が開いて、彼が中に入ってくる。彼は俺のそばに座った。
「体の具合いはどうだ?」
「あ・・・大丈夫だ。もうすっかり気分がいいんだ。昼間はありがとう。皆、とてもよくしてくれたよ。」
「礼にはおよばん。抜刀斎にはお前をくれぐれもよろしくと頼まれた。」
ああ、そうか。俺は思った。おそらく彼は抜刀斎と俺のことを知っていて・・・さすがにこれには俺
も恥じ入ってしまった。蒼紫はさぞかし俺のことをだらしない奴だと思ったことだろう。
蒼紫は右手を俺の額にあてた。彼の手は少し冷たくて乾いていて、触れられるのが気持良かっ
た。
「体温も平常に戻っているみたいだな。」そう言って彼は俺の手首をとると脈をはかった。そして
そのまま俺を抱きしめ、いきなり彼のその行動に不意をつかれた俺はどうしていいかわからずに
呆然とした。彼は俺をそっと夜具の上に横たわらせ、俺を見下ろすと、片手で俺の頬をそっと
撫でた。
「俺、あんたに嫌われたかと思った。」俺は言った。
「なぜだ?」
「昼間、あんたに拒まれたから。」
「今日、どうしても片付けなければならない用事があった。今やっと終わらせて帰って来たんだ。」
「それなのに俺にああやってついていてくれたのか?」
彼はそれには答えず、俺に覆い被さると唇を塞いだ。俺はそれに答えて口を開いて彼を受け入
れ、彼の背中に手を回した。
「それにあんな状態のお前に何かしたら、お前は本当に体を壊してしまう。」彼は唇を離し、
俺の耳元でそう囁いた。
彼の手が夜着を割って俺の胸元に入ってきて、肌の上を滑るように撫でる。そうやって滑らか
に動く手はわざと敏感な個所を避けて通る。俺はそのもどかしさに呻いた。彼の夜着を俺は
掴むと、彼の胸に手を滑らす。その皮膚は傷だらけで、俺はその触れた傷に沿って肌の上
を指でなぞる。彼は動きを止めて俺を見下ろすと、体をずらし、俺の腰紐をといた。そして俺
の夜着の前を開け、俺の脚を開かせるとそのあいだに自分を割り入れさせた。そして俺の脚
の間に頭を降ろしていく。俺は目を閉じ、彼が俺を飲み込むのを待った。だが彼はそこを通り
すぎると、その下に口をつけ、舌をそこに這わせると下に向かって舌を蠢かせていく。俺は驚
きながらも快感で身動きできなかった。いくらすでに湯につかって体を清めてあるとはいえ、
そんなところを・・・
「ああ、だめだよ、そんな。」
俺はそう言ったが、彼は躊躇わずにそこへの口腔での愛撫をやめない。唇で吸い上げ、濡れ
た舌で撫で上げてくる。俺は彼がそれをやりやすいように脚を思い切り開き、呻いた。彼が俺
から離れて身をこしたとき、俺は不満の声をあげた。彼は自分の来ているものを脱ぐと、俺の
体を起こして俺から夜着を剥いだ。そして俺をうつぶせに寝かせると、俺の上に覆い被さって
くる。彼のが俺の入り口にあてられ、そこがゆっくりと押し広げられた。俺は自分から腰を浮か
し、彼を受け入れやすいようにする。彼はそうやって自分を少しずつうめてゆき、完全には入
っていない状態でゆっくりと動かし始めた。それがもどかしくて俺は自分で腰を動かそうとした
が、彼はその俺の腰を押さえ付け俺が動けないように強く固定するとその浅くつながった状態
でゆっくりとした動きを繰り返した。俺はそのもどかしさに泣きそうになる。
「離してくれよ、俺、あんたを深く受け入れたいんだ。もっと、激しくしてくれよ。」
「だめだ。」
彼はにべもなく言うと布団を丸めて俺の腹の下にひくと俺の体をそれに押し付けるように押さ
え込む。彼はそのまま完全に根本まで入りきってしまうと俺の背中に体を密着させ、俺の首筋
の髪を払うとそこへ唇を押しつけた。そして唇を俺の肌を軽く撫でながら上の方へ移動させる
と、俺の耳の縁を唇で撫で上げた。その這い寄るような快感に俺はため息をついた。
「な、頼むから押さえ付けるのはやめてくれ。俺、どうかなっちまいそうだ。」
「我慢しろ。」
そして彼は俺を押さえ込んだまま、俺をじっくりと突き上げるのをやめない。俺はそのもどかしい
快感に呻いた。
こいつ、俺を焦らしてやがる。俺は思った。朴念仁で堅物みたいな顔をして、手練の遊び人み
たいなことをしやがって。
「な、蒼紫、頼むから体を離してくれ。俺、もう我慢できない・・・」
俺が叫ぶようにして言うと、蒼紫はいきなり彼を俺から引き抜いた。俺はそれに悲鳴を上げた。
そして俺をうつぶせにさせると俺の脚を抱えあげて入ってくる。今度は彼は、焦らしたりはしな
かった。俺の脚を自分の肩にかけさせ、激しく俺を突いてくる。俺の皮膚は熱を持ち、汗ばん
だ。もう一つの方とは違う、鋭くはないけれどじっくりと絞り上げられるような快感が俺を攻め立
て、俺は目を閉じてそれに耐えた。それが頂点に達すると、俺はあいつの腕に爪を立てて呻
いた。俺は声をあげかけ、彼が俺の唇を自分ので塞いで声を殺させた。
その波が去ってしまうと、俺は体を投げ出し、その感覚に涙ぐんだ。これでいったのは初めて
だった。
そして気分が落ち着いたころ、彼が俺に手を伸ばしてきて、横向きになったまま俺を引き寄せ、
強く抱いた。俺も彼にしがみつき、そのまま眠りに落ちた。

目が覚めると、朝だった。鳥達の声が庭から聞こえてくる。寝床に俺は一人で、部屋の中には
俺以外誰もいない。俺は上半身をゆっくりと起こした。
「蒼紫」
俺は彼の名前を呟いた。俺は膝を抱え込んだ。孤独感が、俺をゆっくりと包んだ。部屋の中に
誰もいない。俺は再び横たわると体を丸めた。
そうやって寝床から起きる気になれないまま、俺はしばらくじっとしていた。なんだか、子供の
頃にこういう感情を経験したような気がする。寂寥感に俺は動けなかった。そうやって、どのくら
い過ごしただろう。
「克浩、起きているか?」
その外から襖越しにかけられた蒼紫の声に、俺は彼の名を鋭く叫んだ。
「蒼紫!」
彼は襖を開けて部屋の中に入ってくると、俺の傍に膝をついた。俺は彼にしがみついた。
「克浩?」
「なんでもない・・・ただあんたが、起きても側にいなかったから・・・」
彼は俺の頬を優しく撫でた。
「昨日の今日だ。今日は一日、床についているか?」
「いや、もう大丈夫だよ。もうすっかり気分がいいんだ」
「無理はしない方がいい。朝餉の用意ができている。今、部屋へ運ぶ」
そういって彼がでていくと、俺の気持はもうすっかり晴れていた。外から聞こえる鳥達の声さえ
違った響きを持って聞こえる。

そしてその晩、俺は蒼紫が俺の部屋にやってきてくれることを期待して待ったが、彼は姿を
現さなかった。俺は眠れないまま夜を過ごした。

それから昼間どこかで俺達が顔を合わせても、彼はそ知らぬ顔をしている。無愛想で、仏頂
面だ。俺は彼が単に気まぐれの遊びで俺に手を出したのだと思い、すべてをあきらめようと
気持を切り替えた。俺はあきらめるのと忘れるのだけは得意なんだ。そうやって他人に期待
さえしていなければ、さほど傷付かなくてすむ。始めからそうやって他人に自分の心を渡さ
なければ、いい。俺は泣くなんてごめんだ。そうだよ、自分を他人に渡したりしたら、いけな
いんだ。そうやって俺は今まで誰かに耽溺することを拒んできたのだった。

それから幾夜もたって、彼はもう俺のところへ来ることはないのだろうと思い始めたころ、彼は
夜更けに俺の部屋にやってきた。俺は気違いみたいに彼を求めた。あんな風に、俺は他人
を欲しいと思ったことがない。俺はそれが心地好くて、そして身構えた。俺が東京へ帰って
しまえば、もう、彼と会うことはないだろう。俺は一人でいるとき自分で自分を抱きしめると、
その孤独を思って、切ない気分になった。

そんなふうにして、日々が過ぎていった。
蒼紫は時々俺の部屋にやってきて、でも俺達はあまり会話をかわさなかった。俺は元から口数
が多い方ではない上に、蒼紫はそれに輪をかけて無口だ。彼は酒さえ飲まない。でも俺達は
二人で黙って夜更けまで月など眺めながら、お互いの側にいて幸せだった。いや、俺は蒼紫
が何を考えていたかなんて、知らない。だけれど少なくとも俺は、そうやって幸せだった。時々
言葉少なく何かを話しながら、もしくは黙って彼の体によりかかりながら、俺はずっとこうしてい
たいと思った。

そして俺が京都での用件をすべて終わらせ、東京へ帰る日が近づいた。俺はそのことを思う
と悲しくなった。帰ってしまったら、もう、会えない。

その東京への出立の前日の夜、彼は俺の部屋にやってきた。俺は彼の姿を見ると、彼に固く
しがみついた。そして俺は涙ぐんで彼を見つめる。
「どうした、克浩?」
「明日、俺はいなくなってしまうんだ。お別れだな」
思っていたことを口にだしてしまうと余計悲しくて、俺は涙を流した。
「東京は遠いんだ。もう、会えないかもしれない」
「お前を送っていく」
その蒼紫の言葉に、俺は硬直した。送っていく???
「俺がお前を東京へ送っていく。近頃はいろいろ物騒だそうだ。心配だから送っていく。俺も
東京で済ませたい用事もある」
俺は顔をあげて彼を見た。
「俺がそうするのは、不満か?」
「いや、驚いているんだ。もう、二度と会えなくなるのかと思っていたから」
「なぜ、そう思う?」
俺は言葉に詰った。正直なことを、言えない。あんたがただの遊びで俺に手を出したのだと、
俺が去っていったら、俺のことなど忘れてしまうのだろうとそう、思っていたから。いや、俺は
自分にそういい聞かせていたんだ。あんたに執着し始めている自分が怖くて、無くしてしまう
より、最初から持たない方がいいと・・・

道中は、これで楽しいものだった。傍から見ればどこが、と、言われるかもしれない。俺達は
口数少なく、たいていは黙って寄り添っている。だが彼にはそれを自然なものと受け止めさ
せる雰囲気があったので、俺は彼には余計な気を使わなくてすんだ。
俺は生まれて始めて、他人といて心から寛いだ。

東京につくと、彼は彼が俺のところへ滞在してくれるものと思っていた俺の期待を裏切って、
神谷道場へ身を寄せた。
そうやって俺の前にしばらく姿を見せず、俺があいつを恋しく思い始めたころふらっとその姿
を俺の前に現す。彼は俺をそうやって放って置き、彼を欲しがらせるように仕向けるのに天才
的な勘の良さを示した。あれは絶対、作為的なものが入っている。間違いない。でも俺はそう
思いながら、完全に彼の策中にはまっていた。そして俺はそれに足掻こうとはしなかった。自
分自身を押さえながら、その流れに感情をまかせた。

そのうえ、俺をさらに複雑な気分にさせたのは彼は何やら斎藤のところに出入りして何か仕事
をしているということだ。俺はなんとも言いがたい気分になり、自分の仕事をしている最中にそ
のことを思い浮かべるといらいらして子供みたいに爪を噛んだ。俺は不安だった。斎藤の奴が
彼に何かを吹き込むんじゃないかと思うと、いても立ってもいられなくなった。
本当に、俺はどうかしてしまったらしい。俺は以前、こんなことに対してせせら笑っていたので
はなかったか?俺はいつだって誰かに縛られるのも、自分を誰かに縛るのも真っ平だと思って
いたのだ。俺がどういう人間か知って俺と関わった奴が俺の元から去っていこうと、それは俺の
知ったことではなかった。
他人に執着するなど間違っている、そして他人に期待することも。それはずっと長いこと、俺の
意固地なまでに堅固で変わらぬ信条だったんだ。

そしてそんなある日、俺は神谷道場へ出かけていった。蒼紫がその日道場にいないのはわか
っていた。俺は彼の策中にはまっているとはいえ、自分を見失ったりはしていなかった。彼を
探して道場へ行くなどということは俺はしない。俺は俺に彼が会いたければ、彼の方で出向
いてこいという態度を崩したりはしなかった。俺は惨めなことをするのは真っ平だ。
以前の俺は、誰かに対して気持が過度に傾いたりすると、たいてい他の誰かに会いに行った。
そうやって満たされると、寂しさはたいてい薄らぐのが常だったからだ。だけれど俺はどういう
わけかそういうことをする気になれず、一人で寂しい夜はぼんやりとしながら酒を飲んだ。いろ
いろなことを思いながら。

こんなのは俺らしくない。全く、俺らしくない。

だけどその日、俺が神谷道場を訪ねていったのは抜刀斎と話したかったからだった。左之の
様子を聞きたかったというのもある。別に蒼紫がいることを期待していったわけじゃない。
俺が道場を訪ねると、弥彦君が剣心なら厨房で昼飯の準備をしているぜと教えてくれた。俺
は礼を言って真っ直ぐそこへ向かった。彼は丁度味噌汁の味見をしているところだった。
「ああ、月岡どの。久しぶりでござるな元気でござったか?」彼はそういってにこにこ笑う。
「元気だったよ。あんたは?」
「あいかわらずでござるよ」
「それは、よかった・・・」
俺は何となく、それから何と言っていいのかわからない。
「あんたと、ずっと話したかったんだ、抜刀斎」
俺はそういって俯いた。俺達の間に沈黙が流れる。俺はそれから顔をあげて、彼を見つめた。
俺達は目が合い、彼も俺を見つめ返した。
「月岡殿、済まぬがもう拙者をそういう風に見つめるのはやめてくれぬか?拙者の自制心にも限
りというものがあるでな」抜刀斎は少し切なそうに笑いながら俺を見つめ、優しく俺にそう言った。
俺は黙って彼を見つめた。彼はその顔を少し緩ませると、俺から視線をはずして微笑んだ。
「蒼紫は、お前のところへ通っているのでござろう」
俺は、複雑な気持でそれに頷く。
「あの男は、何に対しても真剣だ。もし拙者とお主の間に誤ったことが起ったとすればどうなる
と思う?ただの戯れなどという言い訳は聞かぬ」
俺は黙っている。何も言えない。
「あやつと拙者がまともにぶつかったらどうなる?真剣勝負の殺しあいだ。お主、そんなものが
見たいのか?」
「まさか・・・!」俺は彼がふざけているのかと思った。そもそも彼と蒼紫がぶつかり合うなんてあ
るもんか。たかだか男一人のことで?もし俺が抜刀斎と何かあって蒼紫がそれを知ったところで、
蒼紫が俺に愛想をつかし俺を捨てていくのが関の山じゃないか。だが俺のその言葉に、彼は
皮肉っぽい、俺を揶揄うような顔をした。
「もし・・・お主と拙者のあいだに何かあったとして、蒼紫がそれを知ったとしよう。そこでお主が
声を詰まらせて涙の一つも見せようものなら、あやつ、両手に抜き身を握って、問答無用で拙
者に斬り掛かってくるだろうな」
俺がやりそうなことなんて、こいつはお見通しと言うわけだ。抜刀斎は、にやにや笑いながら
俺を見ている。だが俺は口の両端をおもいっきりつり上げると、皮肉っぽく笑い返した。
「あんた、昔そういうことやったことあるだろう、抜刀斎」
彼は一瞬、呆気にとられたような顔をしたが、すぐに右手を頭の後ろに回すとあはははという
軽快な声を上げて笑い出した。・・・図星らしい。
「二人とも死んだんだ」
俺は一瞬、彼のその言葉の意味が理解できなかった。彼は笑いながら、涙を浮かべているよ
うに見えた。だけどそれは俺の目の錯覚だったのか、本当にそうだったのかはわからない。
「ひとりは即死で、もうひとりは三日間苦しみ抜いた挙げ句に死んだ。すべて俺のせいだった。
俺が殺したようなものだ。もし俺が逆の立場になるという巡り合わせでも、それは仕方のない
ことだ。因果応報だからな。だが、お前・・・」抜刀斎はそういいながら俺の頬に片手を触れさ
せた。俺は、彼の眼の奥底に深く、重い闇が渦巻いているのを見た。彼はそれを隠さず、俺
にさらけ出している。俺は呆然とした。
「お前だけは、そんな風になるな。損なったら最後、もう二度と取り返しがつかないものは、失
ったあとに後悔しても、もう、遅い。自分から蛇の穴の中へ飛込んだりするな。俺は、そうやっ
て俺自身の狂気によって引き裂かれた。お前は、そんな風には、なるな。」
俺たちは黙って見つめあった。彼は厳しい顔をして微動だにしない。どのくらいの沈黙が流
れたのかはわからない。だが彼は顔を緩め、彼には珍しい、疲れた顔で、笑った。
「やれやれ・・・詰らぬ話を、してしまったな」
俺は目を伏せた。抜刀斎をまともに見ることができない。俺は、こんなこと言うべきじゃなかっ
た。彼は俺が思いもよらない闇を抱え込んでいるんだ。俺は自分を恥じた。
「お主と蒼紫なら、お主がしっかりしている限りうまく行く。拙者が保証する。あいつは良いや
つだ。」
彼のその言葉に俺は頷いた。俺は顔を上げて彼を見る。
「俺、あんたのことが大好きだ。」
「拙者もだよ。」
その瞬間、味噌汁が吹き零れそうになって彼は慌てて蓋を開ける。
「・・・危ないとこでござった。よかったらお主もいっしょに昼を食べていかぬか?いい山菜が山
ほど手に入ったんだ」
「ありがとう。でも俺、これから他に行くところがあるんだ」
俺達は視線を合わせると笑い、俺は踵を返した。

―*―

それからどのくらい日にちがたったんだろう。俺が自分の部屋で書き物机に向かって仕事を
していると、いきなり部屋の戸が激しいいきおいで引き開けられた。俺が驚いて振り返ると、
そこに息急き切った抜刀斎が立っていた。彼は真剣な顔をしている。
「克浩、来るんだ」彼は鋭い声でそういうと、ずかずかと部屋の中へ入ってくる。
「ちょっと!・・・いったい」
「いいから来い、左之が日本を出ようとしている。あいつに会いに行くんだ。急げ、間に合わ
ないかもしれん」
俺は、じっとして動けなくなった。左之・・・彼のことを思うと胸が痛む。俺は彼から視線をそ
らして俯くと躊躇した。
「何をぐずぐずしている?!余計なことは考えるな!今あいつに会っておかなくては、もう二度と
会えないかもしれない。今会っておかなくては、一生後悔することになるぞ」
抜刀斎は部屋に上がり込むと、俺の腕を強く掴んだ。彼にはめずらしく、激しい表情をして
いる。その剣幕に俺は押された。
「わかった、行くよ」彼のその真剣な様子に俺はうろたえながらも答え、立ち上がった。彼は
俺の手を引いて走り出した。
俺は彼の背中を見ながら、ひたすら走った。抜刀斎に言われたように、頭から余計なことを
振り払おうとした。
彼が俺を案内したのは、港の埠頭だった。小舟に左之が乗っていて、修さんもいる。修さん
は抜刀斎に手を引かれた俺を見て、ちょっと複雑な顔をした。
「克浩!」左之は俺を見ると船を飛び出し、俺の方へ駆け寄ってくる。俺達は、向かい合って
お互いを見た。左之は、目を見開いて俺を見ている。恨みも、憎しみも微塵もない眼で。
「左之、お前行ってしまうんだな」
「ああ」
「達者でな、左之」
「お前もな、克浩」左之は、微かに笑った。無理に笑おうとしているように見える。そして彼
はいきなり俺の体に手を回した。俺は涙ぐみながら目を閉じる。彼の体温が俺の体に伝わ
ってきた。
そのとき、俺達は元のように友人に戻れたのだろうか?いや、もう、俺達は、二度と以前のよ
うなただの友人同士に戻ることはできない。彼が突き崩し、俺が壊した諸々のものが俺達の
間に高く積まれていて、俺は彼にそれ以上近づくことができない。でもこの瞬間だけは・・・
俺達は友人として抱擁しあっていた。たとえ一瞬でも、俺達は友情を取り戻していた。
俺は彼のこの真っ直ぐな気性が好きだった。激しく純粋で、曇りがない。おそらくは俺が一生、
持つことはないもの。
俺達はしばらくそうやって固く抱き合い、やがてどちらともなく体を離した。
「じゃあ、行くぜ、克浩」
「どこにいても、俺はお前の無事を祈っているよ、左之」
俺達は、笑った。彼に対する暖かい気持が心の底から込み上げてきて、俺を包んだ。
「一つ、頼みがある」左之が言った。
「なんだ?」
「下諏訪に・・・俺の分も、隊長の命日には参ってくれないか?」
「わかった、約束するよ」俺は頷いた。
それから左之は抜刀斎を見ると、黙って彼と対峙した。そうやって見つめ合い、二人とも笑う
と、左之は背中を見せて船に飛び乗る。
「あばよ」
彼は明るく笑いながら俺達に手を振り、船は沖へと漕ぎ出した。俺達はそれを見送った。そし
て、彼は一度も振り返らなかった。その真っ直ぐ伸ばされた背中は力と意志に満ちて、輝いて
いる。一点の曇りのない力強さ。俺は、これからどんなことが彼を待ち受けているにせよ、彼
は絶対に大丈夫だろうと思った。たとえなんであろうと、彼はそれを跳ね返せるだけの強さを
持っている。
俺は、お前が本当に好きだったよ。情ではなく、もっと、もっと深いところで。

左之、本当に行ってしまった・・・
彼が見えなくなると、抜刀斎が俺の方を向いた。
「さて、拙者は行くでござる」
「なあ、抜刀斎、ちょっと聞いていいか?」
「なんでござる?」
「あんた俺にさっき一生後悔することになるぞって、言っただろ。もしかしてあんた、昔そういう
目にあったことがあるのか?」
抜刀斎は、目を閉じると寂しそうに笑った。
「・・・お主は、本当に勘が良いでござるなあ。」
「聞かせてくれないか、良かったら」
「別に面白い、話ではないんだがな」そう言って抜刀斎は、海を見た。どこか、遠いところへ
思いを馳せているような眼をしている。
「拙者が、今のお主よりもまだ若かったころの話でござるよ。拙者、恋焦がれていた御仁がお
ってな、だがその人は拙者に見向きもせなんだ。拙者はその御仁が人斬りとしての拙者だけ
を必要としていると思い込み・・・彼が人斬りを必要としなくなったとき、拙者は流浪の旅にで
た。その人には何も知らせずにな。そして10年がたち、彼は死んだという風の便りを聞き、拙
者は彼の住んでいた東京へ舞い戻ってきた。どうしても彼の位牌に手を合わせたくてなあ。」
抜刀斎は、少し言葉を切った。
「そして久しぶりに昔の知人に再会し・・・拙者は拙者が知らなかったことを聞いた。当時拙者
に思いを懸けている相手がいてな、その御仁は、その相手に頭がどういうわけか上がらなかっ
たというんだ。そのおかげで、その御人は拙者のことを大切に思っていながら、それをずっと
表に出すことはなかったそうだ・・・そしてその御仁は、死ぬまぎわまで拙者のことを気にかけ
てくれていたということだよ。もう、十年もたっていたというのに」抜刀斎は寂しそうな眼で俺を
見た。
「なぜ、あの流浪の旅に出て行く前に、せめて別れの挨拶をしていかなかったのかと・・・後悔
したよ。どうしようもないほど。今考えれば、俺はすねていたんだろうな。振り向いてもらえなか
ったのが悔しくて、俺は怒ってさえいた。どうせ俺を利用しているだけなんだろうと、ひねくれた
考えを持った。そしてその結果がこれだ」
彼は表情を和らげ、愛しそうに俺を見つめた。
「克浩、自分が幸せになる権利など無いなどと思い込まぬことだ。幸せになることで償える何
かや、遂げられる復讐だってあるのだから」
俺はその言葉に何も言い返せなかった。それらが俺の胸を貫いたからだ。射ぬかれた様な
衝撃を俺は感じた。幸せになる権利がない?俺は心のどこかでそんなことを思いこみ、そして
自分でもそれに気がつかなかったんだろうか?俺は混乱した。彼は黙って、微かに微笑みな
がら俺を見ている。
「礼を言うよ、抜刀斎」俺は彼を見つめながらやっとの思いでそれだけ言った。彼は立ち上が
った。
「では、拙者はこれで失礼する」
そういって彼は踵を返すと去っていった。少し歩いてから止まり顔を振り向かせると、穏やかに、
笑った。
「なあ、克浩、知っているか?」
「・・・なにを?」
「拙者達は、生き延びるためにこうしたのでござるよ。何が悪いということではないんだ」彼は
言われた言葉の意味が分からずに何か言いかけた俺に答えず、首を横にふると少し寂しそ
うに微笑んだ。そして振り向かせた顔を戻すと歩き始める。彼の歩いて去っていく後ろ姿に、
束ねた赤い髪が揺れていた。
そして彼が見えなくなると、俺は座り込んだままぼんやりと海を眺める。
俺は彼が言った生き延びるということについて考えた。それ以上説明してくれないというのは、
後は自分で考えろということなのだろうか?禅問答みたいだった。俺は彼が何を言ったのか分
からず、そして俺がこのことを理解できるようになるのはずっと後になってからだ。今思えば彼
自身も、これをうまく説明できる言葉を見つけられなかったのだろうと思う。俺は明治政府を糾
弾するために新聞用の文章を大量に書き散らしているが、その俺もこのことをいくらなりとも分
かった後でうまく説明できる自信がない。

そして、もしかして、あの彼が二人の男を死なせてしまったというのは好きな相手の気を引き
たいがためだったんだろうか?

俺は、俺自身のあのろくでの無さを考えた。自分でもなんであんなことしてしまうのかよくわか
らない。俺には貞操観念もなければそのことに対する罪悪感もない。俺の親は俺をできそこ
ないと呼んだ。彼らは正しかったと言うわけだ。
でも抜刀斎は、その(ろくでもない)俺をそのまま受け入れてくれたのだった。そのどうしようの
無さもすべて引っくるめて、だ。生まれてから今まで、俺をああやって肯定してくれた人なんて、
いなかった。実の親でさえ俺に生まれてこなければ良かったのにと言っていたのに。
・・・いや、昔一人だけいた。相楽隊長。
俺は、自分が泣いているのに気が付いた。俺は笑いながら泣いていた。

`あんたが、好きだ、抜刀斎 `

彼の存在を傍に感じたくて、直接、彼と肌を触れ合わせたくて、その彼の不在に、俺は甘い
安堵感と共に泣いた。何もできないもどかしさに、胸が張り詰めたように苦しい。
彼の傍にいたいと思う。でも、そうするべきではないと、俺も彼も良くわかっている。俺達は日
常を共有するべき相手ではない。俺と彼がいっしょに暮らし、彼が俺のために味噌汁をつくる
のか? 馬鹿げている。そんなのは、本当に馬鹿げている。そんなことをすればひどい結果に
なるだろうと言うことが実践する前からわかりきっている。彼だってそんなことは望まないだろう。
このまま、甘い思い出と感情を共有し、それを壊さないまま離れて行くほうがいい。
だけれどもしこれが左之だったら、そう、あいつならたとえ壊れることがわかりきっていても突っ
走らずにはいられないだろう。俺はあいつのそういう馬鹿さ加減を、時々羨ましく思う。そうやっ
てあの京都へ行く前、お前が自分自身を俺にぶつけてきたとき・・・俺はお前をかわすことも、
お前から逃げることもができなかった。どうなるかぼんやりと俺はその結末を感じながら、お前
を受け止めるしかできなかった。

俺はそれからずっと立ち上がることができず、ぼやけた目でずっと前を見つめていた。

`自分が幸せになる権利が無いなどと思わぬことだ `

抜刀斎、俺あんたの言うことなら信じられるような気がする。そうするのが、一番の近道じゃな
いかって気がするんだ。その、幸せになるっていう奴がさ。なんだかそれって、ただの言葉に
するとふざけているように響くけど。
もっとも俺は自分でも良くわかっていない。近道と言いながらどこへ行きたいのか。でもとりあ
えず、歩いていってみようと思う。あんたがそれを俺に示してくれたんだから。世の中には、
歩いているうちに目標が見えてくることだってあるのかもしれない。少なくとも、俺が幸せそう
にしていればあんたは喜んでくれるんだろう?そういうことなんだよな、抜刀斎・・・

―*―

まだ少し、肌寒さが残っているような春先だった。その日はその暖かさと冬の名残の冷やや
かさが気持良く解け合っていて、俺は蒼紫と二人で山道を歩いていた。左之と約束した通り、
隊長の命日に彼の墓へ参るためだ。俺が墓参りに出かけると蒼紫に告げると、彼は俺につい
て行くと言った。俺は彼とどこかへ出かけるのがうれしかった。
あの左之が去っていった日以来、俺のあの救いようのない病気は憑き物が落ちたようになりを
潜めている。もしかしたら抜刀斎のおかげなのかもしれない。俺は穏やかな日々を送っていた。
蒼紫が神谷道場に滞在していたり、斎藤と組んで何かをしているのは少し複雑な気分になっ
たが、別にたいしたことじゃない。そうやって俺は幸せだった。

隊長の墓を見るのはこれが初めてだった。
それが俺の視界に入り、そうなのだとわかったとき、俺は金縛りにあったように立ち止まり、動
けなくなる。
「克浩?」
蒼紫が怪訝そうに俺を見る。
手が、震えた。何か言おうと口を開くが、喉が麻痺したように声が出ない。俺はその場に膝を
つき、座り込むと手を、地面の上で握り締めた。
「克浩、気分でも悪いのか?」
俺は彼の墓から目を離せないまま、目から涙が流れ落ちた。それが顎を伝って地面に落ちる。
昔の記憶が俺の頭のなかに広がり、俺は他に何も考えられない。俺は肩を大きく上下させな
がら息をしていて、泣き声を上げたいのに声が出てこない。蒼紫は俺の横で膝をつき、心配
そうに俺を見ている。
俺は右手で自分の履物を掴むと、ゆっくりと震える手を肩越しに後ろに引いた。手にうまく力
が入らない。そしてできるだけ力を込めて、それを墓めがけて投げつける。それは目標をほん
の少し逸れ、叢の中に落ちた。そしてもう片方の履物を手にとり、それも投げつける。今度は
すばやくそれをやった。それは墓の真ん中に当たり、地面に転がると、止まった。俺は引き
締めた唇で、震える手で、辺りを見回し、湧き出る嗚咽にふらつきながらそばに転がっていた
石を掴んだ。そしてそれを投げつけようと振りかぶった俺の手首を蒼紫が掴んでとめた。
「やめろ、克浩、もう充分だ」彼がそう叫んで俺の体に腕を回すと、俺は手から石を落とし、彼
に抱きしめられ、嗚咽をこらえながら泣いた。彼は黙って俺にまわした腕に力を入れる。
` あんたが悪いんだ `
心の中で叫びながら、俺は思った。
` あんたが悪いんだ、隊長。なんで俺にあんなことしたんだ。俺、嫌がったじゃないか。でも俺
が泣き叫んだってあんたは許してくれなくて・・・ `
俺は全身でがたがた震えていた。声を、うまく出すことができない。
俺は蒼紫の顔を真っ直ぐに見据えた。
「蒼紫、俺、今までひどいことばかりしてきたんだ。俺本当にひどい奴なんだ、最低なんだよ。」
「知っている。だから、何も言うな。だがこれ以上、自分を苦しめる必要などない。」
彼のその言葉に、俺は体を彼から離し息を止めて彼を見た。
「俺が何やってきたか、知っているっていうのか?」
俺のその言葉に、彼は黙って頷いた。
「嘘だ、何でだよ・・・知っているならなんでそんな平気な顔してそんなこと言うんだ?」
「お前が相楽や斎藤、抜刀斎との関わりのことを言っているなら俺は全部知っている」
その言葉に俺は激昂して彼につかみかかった。その俺の手首を、彼がつかんで動かなくさせた。
「そのうえでお前は俺の傍にいるのか?酷い奴だ、あの優しい態度で、お前は俺を揶揄ってい
たんだ!」俺は怒りながら叫んだ。
「違う」彼は平静に言った。
「俺はお前が昔何をしていたかなんてことは問わない。俺はそんなことには興味がない。もし
お前が言う酷いことを俺に対してやらかすなら俺は怒るさ。だがお前はそんなことはしていな
い、そうだろう?俺にはそれで充分だ」
俺は、馬鹿みたいに呆然として彼を見つめた。彼はいつもの感情を表さない顔で俺をじっと
見ている。何も言わない。
そして俺はそれから彼に子供みたいにしがみつくと、叫ぶようにして泣き始めた。

太陽の光が明るくて透明で、眩しくて俺は目を開けることができない。左之は、隊長を太陽
みたいに崇めていた。あいつにとって隊長は暖かくて地上を照らす偉大な光で・・・俺にとっ
てはその光は熱すぎて俺を焼き、痛め付ける。
左之。俺はお前を心のどこかで憎んでいたのかもしれない。お前のその手付かずさが俺は
いつも羨ましかった。

俺は目を開けて彼の顔を見た。陽の逆光で、彼の顔が良く見えない。でもそれは陽の光を
俺から遮り、あの苦しいほどの眩しさから俺を守っている。そうして彼の影のなかに入ってい
ると太陽は俺を傷付けることができず、俺は湧き出る涙と共に、自分が楽になっていくのを
感じていた。